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« 大和本草卷之十三 魚之上 アユモドキ | トップページ | 小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(56) ジェジュイト敎徒の禍(Ⅰ) »

2018/09/06

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(55) 忠義の宗教(Ⅲ) / 忠義の宗教~了

 

 兩親でも近親の者でも、君主でも師匠でも、そのために何人かが復仇[やぶちゃん注:「ふくきう(ふっきゅう)」。仇討に同じい。]してやるべきであつた。隨分多數の有名な小説や戲曲は、婦人に依つて爲された復讐の題目扱つてゐる。そして又実際被害者の家族の中に、その義務を果たすべき男子の無かつた場合には、婦人や又は子供迄もが、復仇者となつた例は往々あつた事である。弟子もその主人のために復讐をした、又刎頸の友人同志も、互ひのために復讐してやらなければならなかつた。

 何故に復讐の義務が肉身の親族の範圍に限られてゐなかつたかと云ふ事は、勿論、その社會の特殊な組織から説明され得るのである。吾々の既に見た如く、その族長的家族は一種の宗教的團體である。家族の結び目は自然の愛情から出た結び目でなく、祭祀に依る結び目であつたといふ事は、既に言つた處である。又一家の組合(小社會)に對する關係、組合の氏族に對する關係、竝びに氏族の部族に對する關係は、同樣に宗教的關係であつた事も既に述べた處である。この必然な結果として、古い復讐の慣習は、血緣責任であると共に、家族、組合及び部族の祭祀から生ずる責任に依つて定められ、更に支那道德の移入、武權狀態の發展と共に、義務としての復讐の思想は、廣い範圍に及んだのである。養子や義兄弟と雖も、その責任の點では實子や血緣の兄弟と同じであつた。又師匠はその弟子に對して、父と子との關係に立つてゐた。自分の實の親を打つ事は、死に値する罪であつた。その師匠を打つ事も、法律の前では、同じ罪とされてゐた。この師匠が父としての尊敬を受くる資格に就いての思想は、支那傳來のものであつた。則ち孝道の義務を『精神上の父』へ擴大したものである。この他にもかかる擴大があつた、そして日本にせよ支那にせよ、すべてこれ等の事の起原は、等しく祖先禮拜にまで溯られるのである。

 さて、日本の古い風俗を取扱つたいづれの書物でも、未だ正當に主張せられた事のないのは、敵討(かたきうち)[やぶちゃん注:これはルビではなく、本文で傍点「ヽ」付き。]は本來宗教的意義を有つてゐると云ふ事である。古い社會に於て成立して居た仇討のあらゆる慣習が、宗教に起原して居るといふ事は、勿論、よく知られてゐる。併し日本の仇討に對しては、その宗教上の性質を、現時に至る迄變はる事なく保持してゐたと云ふ事實の點に於て、それが特殊な興味をもつて居るのである。かたきうちは眞に死者への一種の慰安贖罪の行爲であるが、それは仇討が果たされた場合の儀式――敵の首を慰安贖罪の供物としで、仇を討つて貰つた人の墓の上に置く事――に依つて證明される。この儀式の中の感動を與へる特徵の一つは、以前に行はれた事であるが、仇討をして貰つた人の亡靈に向つて爲される報告であつた。時にはそれは只だ口づから話しかけられるだけであつたが、また時にはそれが文筆を以て書かれ、その文書が墓の上に殘された事もあつた。

 吾が讀者で、ミツトフオド氏の非常に面白い『舊日本の話』や、その『四十七士』の實話の飜譯を知らない人は恐らく無いであらう。併し果たして多くの人々は、吉良上野之介の斷られた首を洗ふ事の意義、又は故藩主のために復讐する機會を長い間待ち覗つて居た勇敢なる人々が、彼に捧げた報告の意義を認めて居るか、どうか、私は疑ひを抱いて居るものである。この報告、それを私はミツトフオド氏の譯文から引用するが、この報告は淺野侯の墓前に供へられたものである。それは泉岳寺と云ふ寺に今尚ほ保存されてゐる――

[やぶちゃん注:以下の引用(古文原文)は今までの引用と異なり、本文同ポイントで、全体が三字下げである。一部に読点がない箇所があるが、有意味なものとは見做されない(平井氏もやはり同じ原文表示であるが、総て当該部が読点)ので読点とした。但し、戸川氏は読点の後に一字分の字空けを行っており、それはそれで読み易くしたものと判断されるので、それは再現した。そうなっていない箇所は逆に字空けを挿入した。]

 

 元祿十五壬午の年十二月十五日、 只今面々名謁申す通、 大石内藏助を始て御足輕寺坂吉右衞門迄、 都合四十七人進死臣等、 謹奉ㇾ告亡君之尊靈、 去年三月十四日尊君刄傷吉良上野介殿之御事、私共不ㇾ奉ㇾ存其仔細、 然所尊君者御生害、 上野介殿は御存命、御公裁之上は、 我等共如ㇾ斯之企非尊君之御心、 而却而御怒り奉恐入候得共、 我等共に君之食ㇾ祿申、 共に天不ㇾ戴之義難默止、 共に不ㇾ可ㇾ蹈ㇾ地之文無ㇾ恥ㇾ不ㇾ可ㇾ申、 然故纓請て可ㇾ被ㇾ下之無ㇾ主、 晝夜感泣仕候上無御座、 縱恥を抱へ空相果候とも、 於泉下可二申上詞無ㇾ之候、 同前可ㇾ奉ㇾ繼御意趣奉ㇾ存候より以來、 今日を相待申事一日三秋之思に御座候、 四十七人之輩赴ㇾ雨蹈ㇾ雪、一日二日漸一食仕候、老衰之者病身のもの數々近ㇾ死申候へども、蟷螂賴ㇾ臂之笑を相招き、 彌々尊君之御恥辱を相遺可ㇾ申かと奉ㇾ存候ヘ共、 不ㇾ止ㇾ止昨夜半申合、 上野介殿御宅え推參仕、 則上野介殿御供申し、 是迄參上仕候、 此小脇指は先年尊君御祕藏、 我等に被下置候、 唯今返獻仕侯、 御墓の下尊靈於ㇾ有ㇾ之者、 再御手を被ㇾ下遂給御鬱憤、 右之段、 四十七人の者共一同に謹而申上候敬白、

[やぶちゃん注:平井呈一氏もこれと全く同じ原文を注で載せておられるのであるが、私の調べ方が悪いのか、この泉岳寺に残っているとする当該の文書と完全に一致するものは、所持する赤穂義士関連の江戸随筆やネット上の史料に見当たらない。されば、またしても全くの自己流で書き下すしかない。字空けは詰めた。

   *

 元祿十五壬午(みづのえうま)の年十二月十五日[やぶちゃん注:グレゴリオ暦一七〇三年一月三十日。]、只今、面々、名謁(みやうえつ[やぶちゃん注:戦場で互いに名乗りあうこと。名対面(なだいめん)。])申す通り、大石内藏助を始めて、御足輕寺坂吉右衞門まで、都合、四十七人、進死(しんじ)の[やぶちゃん注:進んで命を主君に捧げ奉るところの。]臣等(ら)、謹んで亡君の尊靈に告げ奉る。去年(こぞ)三月十四日[やぶちゃん注:一七〇一年四月二十一日。]、尊君、吉良上野介殿へ刄傷(にんじやう)の御事、私共、其の仔細は存じ奉らず、然る所、尊君は御生害(ごしやうがい)、上野介殿は御存命と、御公裁(ごこうさい)の上は、我等共(ども)、斯くのごときの企(くはだ)て、尊君の御心に非ずして、却つて御怒り、恐れ入り奉り候得(さふらえ)ども、我等、共(とも)に君の祿を食(は)み申し、「共に天を戴(いただ)かざる」の義、默止し難く、「共に地を蹈(ふ)むべからず」の文(ぶん)、恥を無くして申すべからず。然るが故に、纓(えい)を請うて下さるべきの主(しゆ)無く[やぶちゃん注:漢の武帝の時、南越討伐派遣を命ぜられた若き将軍終軍が出陣の閲兵式に於いて武帝に帝王の冠の纓(紐)を請うた故事に基づく。]、晝夜、感泣、仕(つかまつ)り候ふ上は御座(ござ)無く、縱(たと)ひ恥を抱(かか)へ空しく相ひ果て候ふとも、泉下[やぶちゃん注:黄泉。あの世。]に於いて申し上ぐべき詞(ことば)、之れ無く候ふ。同前[やぶちゃん注:同様に。]、御意趣を繼ぎ奉るべく存じ奉り候ふより以來、今日を相ひ待ち申す事、一日三秋の思ひに御座候ふ。四十七人の輩(やから)、雨に赴(ゆ)き、雪を蹈(ふ)み、一日・二日に漸(やうやう)一食を仕り候ふ。老衰の者・病身のもの、數々、死に近しとは申し候へども[やぶちゃん注:討ち死にの決心は十全にありまするが、の意で採る。]、蟷螂、臂(ひぢ)に賴るの笑(わらひ)を相ひ招き、彌々(いよいよ)尊君の御恥辱を相ひ遺(のこ)し申すべきかと存じ奉り候ヘども、止まれず、昨夜半、申し合はせ、上野介殿御宅え[やぶちゃん注:「へ」。]推參仕(つかまつ)り、則ち、上野介殿[やぶちゃん注:討ち取ってその首を。]、御供(おんとも)申し、是れ迄、參上仕り候ふ。此の小脇指は、先年、尊君が御祕藏、我等に下し置かれ候ふ、唯今、返獻(へんけん)仕り侯ふ。御墓の下、尊靈、之れ、有らせらる於いては、再び、御手を下され、御鬱憤、遂(と)げ給へ。右の段、四十七人の者共一同に謹んで申し上げ候ふ。敬白。

   *

訓読の致命的部分あらば、御教授方、御願奉る。]

 

 これで見ると、淺野侯は恰も眼前に居るかの如く話しかけられてゐるのが解るであらう。敵の首は綺麗に洗はれたもので、それは生きた上長の行ふ首實驗の時の規則に依つたものである。その首は墓前に九寸五分の劔、則ち短刀と共に供へられる、その短刀はもと淺野侯が幕府の命今で切腹(はらきり)[やぶちゃん注:これはルビではなく、本文で傍点「ヽ」付き。以下も同じ。]をした時用ひられたものであり、又その後大石内藏之助が吉良上野之介の首を切る時に用ひたものなのである、――そして淺野侯の靈はその武器を取つて、その首を打ち、その亡靈の怒りの苦痛を永久に晴らさせようと云ふのである。それから全部が切腹(はらきり)を宣告され、四十七人の家臣は死を以てその主君に從ひ、その墓前に葬られるのである。【註】一同の墓前には、憧憬する參詣人の供へる香の煙が二百年間も、每日たえないのである。

 

註 四十七士の墓に參詣人が名札を置いて行くといふ風が長く行はれて居た。私が最近に泉岳寺に參詣した時には、墓の周圍の地面は參詣人の名札で白くなつて居た。

 

 この忠義に關する物語を充分に呑み込むには、日本に住み、古い日本の生活の眞の精神を感じ得るやうにならなければならない、併しそれに關するミツトフオド氏の飜譯や、信賴し得る文藝の譯文を讀む人は、誰れでも感動せずには居られない事を告白するであらう。この報告文は特に感動を與へる――その中に表はれて居る情誼[やぶちゃん注:「じやうぎ(じょうぎ)」。真心の籠った誠実な他者との交情。]や信義のために、又現世以外に及ぶ義務の感のために感動を與へられる。復讐と云ふ事が如何に近代の我が倫理に依つて非難されるに相違ないとしても、君主のための復讐に關する日本の古い物語には尊い方面がある、そしてそれ等の物語は、普通の復讐とは關係のない、あるものの表現――報恩、克己、死に面するの勇氣、及び目に見えざるものに就いての信仰の發露――に依つて吾々の胸を衝つ[やぶちゃん注:「うつ」。]のである。而してこれは、勿論、吾々が、意識して居るにせよ、意識しないにせよ、その宗教的な性質に動かされたと云ふ事である。單なる個人的復讐――何か一個人の被害に對する執念深い意趣返し――は吾々の道德的感情を傷つける、則ち吾々はかくの如き復讐心を燃やす情緖は、單に野獸的なもの――人間が下等な動物生活の方向を共有して居る事を示すもの――であると考へるやうに訓へられて來た。併し死せる主人に對する報恩や義務の感情から爲す所の殺人の物語には、吾々の高い道德的共鳴に――吾々の非利己心、曲げられぬ眞心、變はらぬ情誼に就いての力及び美の感覺に――訴へしめ得る事情があると云つて宜いのである。而して四十七士の物語はこの種の一つである……。

 

 併し覺えて置かなければならぬ事がある、殉死(じゆんし)切腹(はらきり)敵討(かたきうち)[やぶちゃん注:以上の三つはルビではなく、本文で傍点「ヽ」付き。以下の最後までの間にある四箇所も同じ。]といふこの三つの恐ろしい慣習のうちに、その最高の表現を得て居る舊日本の忠義の宗教は、その範圍が狹いといふ事である。それは社會の組織そのものによつて制限せられてゐたのである。國民は、そのいろいろな集團を一貫して、到る處、性質を同じうする所の義務の觀念によつて支配されてゐたのではあるが、各個人のその義務の範圍は、その人の屬してゐる氏族團體以外には及ばなかつたのである。自分の主君のためならば、家臣たるものは、いつでも死ぬだけの心がけはしてゐた。、併しその者は、自分が特に將軍の旗下に屬してゐるのでない限り、幕府に對しても、同樣に自分を犧牲にしなければならぬとは感じて居なかつたのである。その祖國、その國、その世界は、僅にその主君の領地内に限られてゐたのである。その領地の外では、その者は一個の漂泊者であり得たのであつた――則ち主君のない武士(さむらひ)を浪人(らうにん)則ち『浪の人』といつた。かくの如き狀態に於ては、國王や國を愛する氣持ちと一致するところの大きな忠義の念、――これが則ち昔のせまい意味に於てでなく、近代的な意味に於ける愛國心であるが――は十分に發展する事は出來なかつた。何か共通的な危機、何か全民族に對する危險、――例へば蒙古人の企圖した日本征服の如き――が一時的に眞の愛國的感情を喚起し得た事はあらう、併しさうでない限り、此の威情はあまり發展の機會をもつては居なかつた。伊勢の祭祀はなるほど、氏族若しくは部族禮拜と異つた國民の宗教を表はしたものであつた、併し何人もその第一の義務は、自分の領主に對してである事を信ずるやうに教へられてゐたのである。人はよく二人の主人に仕へる事は出來ない、しかも封建政府は實際少しでもさういふ方に向ふ傾向を抑壓したのであつた。領主なるものは全く個人の心身を領有して居たので、領主に對する義務の外に、國民に對する義務の觀念の如きは、家臣たる者の心の中に明らかに示される時もなければ機會も無かつたのである。例へば、普通の武士(さむらひ)に取つて、天皇の命今は法律ではなかつた、則ち試士は自分の大名の法律以外に何等の法律をも認めては居なかつたのである。大名に至つては、彼は事情によつて天皇の命令に從つても從はなくてもよかつたのである。則ちその直接の上長は將軍であつた。そして大名は神として天津大君と、人間としての天津大君との間に、巧みな區別を設けざるを得なかつたのである。武權の究極の集中以前には、天皇のために自分を犧牲にした領主の例も多くあつた、併し天皇の意志に反して、領主が公然謀叛を起こした場合の方が遙かに多かつた。德川の治下にあつては、天皇の命令に從ふか、抵抗しようかといふ問題は、將軍の態度一つに掛かつてゐた。そして如何なる大名も京都の宮廷に服從し、江の宮廷に不順を示すやうな危險をおかすものは一人も居なかつた。少くとも幕府が崩壞するまではさうであつた。家光の一時代には、大名の江への途上、皇居に近づく事を嚴禁されてゐた、――天皇の命令に應ずる場合に於てさへも。その上又彼等は御門(みかど)に直訴する事を禁じられてゐた。幕府の政策は、京都の宮廷と大名との間の直接の交涉を全く妨げるにあつた。此の政策は二百年の間陰謀を防いだ、併しそれは愛國心の發展をも妨げたのである。

[やぶちゃん注:「浪の人」確かに原文は“wave-man”ではあるが、ここはせめて「波に漂う人」「流浪(放浪)の男」と訳したいところである。]

 而してこの理由こそ、日本が遂に西歐侵入の意ひ[やぶちゃん注:「おもひ」。]もかけなかつた危機に直面した時、大名制度の廢止が尤も重要な事と感じられた所以なのである。絶大の危機は、社會の諸單位が統一的行動をなし得る一つの調和せる大衆に融合すべき事、――氏族及び部族的集團は永久に解體さるるべき事、――あらゆる權威は直に國民的宗教の代表者に集中すべき事――天津大君に服從する義務が、直に又永久に、地方の領主への服從なる封建的義務に取つて代はるべき事、――等を要求したのである。戰爭の一千年間に依つて作られて來たこの忠義の宗教は、容易に放擲される事は出來ないものであつた、則ち適當にこれを利用すれば、それは計量すべからざるほどな價値ある國家の重寶となるであらう――一人の賢明な人が、一個の賢明なる目的に、これを向けたならば、奇蹟をも演出し得る道德力たり得るのである。維新もそれを破滅せしむる事は出來なかつた、併しそれは方向を變へ形を變へる事は出來た。それ故、それは高い目的に向けられ、――大いなる必要に向つて擴大されて――それは信任と義務の新しい國民的感情となつた、則ち近代的なる愛國の感となつたのである。三十年間に、いかなる驚異をそれが果たしたか、世界は今やそれを認めざるを得ない、なほそれ以上如何なる事を果たし得るか、それは今後を待つて知るべきである。少くとも只一事は確である――則ち日本の將來は、昔を通じて死者の古い宗教から發展し來たつた、此の新しい忠義の宗教の支持の上に據らなければならないといふ事である。

 

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