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2018/09/04

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(54) 忠義の宗教(Ⅱ)

 

 命令に依つて自らを殺す事――忠義なさむらひの夢にも疑はなかつた一つの義務――も同じく十分に一般から認められてゐた尚ほ一つの義務、則ち君主のために自分の小兒や妻や家を犧牲にすると云ふ事に比べれば、遙かに容易な事と考へられたらしい。然るに日本の有名な悲劇には、大名の家臣や一族のものが爲したかかる犧牲に關する事件――【註】主君の子供を救ふために自分の子供を殺した男や女――に關したものが多い。且つ多くは封建の歷史に根據を有つたこれ等の、劇的作物には、事實が誇張されてゐることだらうと考へるべき理由は一つもない。勿諭、これ等の事件は劇の場面に適するやうに、仕組みをかへ、擴大されては居る。併し昔の社會を示した、大體の光景は、過去の現實より寧ろ陰慘でないのである。人々は今尚ほ此の種の悲劇を好む、そしてそれ等の戲曲文學に就いての外國の批評家は、流血の所だけを指摘し、それを血腥い場面む好む國民の性質として――この人種が本來もつて居る殘忍性の證據として――これを解釋するのを常とする。併し私の考へる所では、この昔の悲劇を好むと云ふ事は、寧ろ外國の批評家が何時も努めて無視せんとする所のもの――この人民の深い宗教的性向――の證據なのである。これ等の芝居は尚ほ喜ばれてゐる――それはその芝居の恐ろしさの爲めでなく、その道德的教訓の爲めである――犧牲と勇氣との義務、則ち忠義の宗教の表現の爲めである。それ等の芝居は則ち最高の理想に對する封建社會の犧牲殉難の精神を表はして居るのである。一一

 

註 その適例として東京の長谷川に依つて出版された見事な繪入の戲曲『寺小屋』の飜譯を見よ。

[やぶちゃん注:「東京の長谷川」これは小泉八雲も深く関わった「ちりめん本」の発行者である長谷川武次郎(嘉永六(一八五三)年~昭和一三(一九三八)年:出版社名は「長谷川弘文社」)のこと。彼は明治三一(一八九八)年から、小泉八雲の五冊の怪奇的な日本昔噺(Japanese Fairy Tale)を「ちりめん本」のシリーズとして刊行している(“The boy who drew cats”(「猫を描いた少年」:一八九八年刊)・“The goblin spider”(「化け蜘蛛」:一八九九年刊)・“The old woman who lost her dumpling”(「団子をなくしたお婆さん」:一九〇二年)・“Chin Chin Kobakama”(「ちんちん小袴 」:一九〇三年刊)・“The Fountain of Youth”(「若返りの泉」:大正一一(一九二二)年刊(これは小泉八雲没(明治三七(一九〇四)年九月二十六日))後))。

「戲曲『寺小屋』」は「菅原伝授手習鑑」の「寺子屋の段」のことを指している。御存じない方はウィキの「菅原伝授手習鑑」を見られたい。これは、日本大学大学院総合社会情報研究科の大塚奈奈絵氏の論文「木版挿絵本のインパクト―1900 年パリ万博に出品された「寺子屋」―」PDF)によれば、これは一九〇〇 年(明治三十三年)のパリ万国博覧会出品用のフランス語版の一点である“L'école de village: Terakoya: drame historique en un acte”で、

   《引用開始》[やぶちゃん注:注記号を省略した。]

 L'école de village: Terakoya: drame historique en un acte は、表紙等を除くと 23 丁程(46 ページ)の袋綴じ(四つ目綴じ)の和装本で明治 33 年(19001月に出版された。3 ページの序文に続いて、劇場の幕が開く様子と美しい花々に彩られた「寺子屋」の題字をはさんで、カール・フローレンツが竹田出雲の『菅原伝授手習鑑』の「寺子屋」の段をフランス語に翻訳した 31 ページの本文があり、その後にはページ付けを変えた 9 ページの歌舞伎の紹介がある。佐藤マサ子によれば、フローレンツは、明治 32 年(18995 月に歌舞伎「寺子屋」の翻訳を東京の会合で朗読し、好評を得たとされているので、フローレンツは「寺子屋」をまずドイツ語に翻訳し、その後、フランス語に翻訳したものと推察される。

フランス語版「寺子屋」は、表紙は板紙で金の題字、銀色の流水模様に「寺子屋」の主人公の松王を象徴する松を配した図柄で、書袋には、幕間の芝居小屋の客席を描いた美しい絵が使われている豪華本であった。

   《引用終了》

なお、英文サイトであるが、これはScenes du Theatre Japonais, L'Ecole de Village.(Terakoya) Drame Historique en un Acte, Traduction du Dr. Karl Florenz,Professeur a L'Universite Imperiale de Tokyoで、詳細に解説されており、その原画像をも見ることが出来、同じサイトのTakejiro Hasegawa/Kobunsha Publications"Chirimen-bon" (Crepe Paper Books)And Plain Paper Booksには「ちりめん本」の驚くべき子細な書誌データも完備している。孰れも必見である。]

 

 この封建社會を通じて、忠義に關するこの同じ精神は、いろいろな形で表白されて居た。さむらひがその領主に對する如く、弟子はその親方に對して、番頭はその店の主人に對してと云ふ風にである。到る處に信任があつた。何故なら到る處に、主人と召使の間の相互の義務といふ同じ感情があつたからである。いづれの商賣も何れの職業も忠義の宗教を有つてゐた――則ち、一方では、必要の場合絶對的の服從と犧牲とを要求し、他の一方では、親切と扶助とを要求した。而して死者の支配がすべてのものの上にあつたのである。

 

 親或は君主を殺害したものに復讐をするといふ社會上の責任は、この親又は君主のために死ぬといふ義務と同樣に、その起原の古いものであつた。確定した社會がまだ出來なかつた時代に於てさへ、この義務の存して居たことは認められる。日本最古の年代記には、復讐の義務の例が澤山にある。儒教はより以上にこの義務を確認した――則ち人にその君主、親、若しくは兄弟を殺した者と』『同じ天の下に』生きて居る事を禁じ、且つ近親若しくはその他の關係の等級を定め、その等級の内にあるものに取つては、復讐の義務が避くべからざる事とされて居たのであつた。儒教は早くから日本の支配階級の道德となり、最近に至る迄さうであつた事は記憶して置くべき處である。儒教の全組織は祖先禮拜の上に立てられ、殆ど孝道の教への擴大完成に他ならぬものであつた事は、私のすでに他の條下で述べた處である。それ故この教へは日本の道德の實際と完全に一致したものである。日本に武權が發達した[やぶちゃん注:ママ。]につれて、復讐に關する支那の法典は遍く認められるやうになり、後世に至つては法律上からも慣習上からも支持されるやうになつた。家康自身もそれを支持した――仇討をしようとする者は、先づ屆書を書いて地方の刑事法廷にそれを差し出して置くといふ事だけを條件として。この事に關する個條の原文は興味あるものである――

 

主父之怨冦は爲ㇾ報酬之共不ㇾ可ㇾ戴ㇾ天聖賢も許ㇾ之有此讎者は記決斷所帳面年月可ㇾ令ㇾ遂其志然共重敵討は堅可ㇾ禁止之但帳外之族は狼藉同然刑宥可依其品

 

註 若しくは僞善的狼族 hypocritical wolves といふ――詳しく言へば、正當な復讐といふ口實を以て自分の罪惡を免れんと欲する野獸の如き殺害人の意。(この飜譯はラウダア氏の手になるもの)

[やぶちゃん注:ここは原文では無論、英文に訳されてある。

   *

 “In respect to avenging injury done to master or father, it is acknowledged by the Wise and Virtuous [Conucius] that you and the injurer cannot live together under the canopy of heaven. A person harbouring such vengeance shall give notice in writing to the criminal court ; and although no check or hindrance may be offered to the carrying out of his design within the period allowed for that purpose, it is forbidden that the chastisement of an enemy be attended with riot. Fellows who neglect to give notice of their intended revenge are like wolves of pretext:1 their punishment or pardon should depend upon the circumstances of the case.”

   *

 1 Or “hypocritical wolves,”— that is to say, brutal murderers seeking to excuse their crime on the pretext of justifiable vengeance.  (The translation b by Lowder. )

   *

Conucius」(コンフューシャス)はかの「孔子」のこと(「孔夫子」のラテン語名由来)。「Lowder」(訳文の「ラウダア氏」)は不詳。識者の御教授を乞う。

 ところが、私の探し方が悪いのか、家康の発行した文書とする以上の原文を確認することが出来ない(識者の御教授を乞うものである)。されば、自然流で書き下すが、それに際しては、恒文社版(一九七六年刊)の平井呈一氏の訳(平井氏はここを現代語で本文に繰り込んでおられ、その後に訳者注で以上の原文を示しておられる。但し、そこでは「冦」は「寇」となっており、後半の返り点にも異同があり、氏の現代語訳、則ち、原文(ラウダーの訳)には一部、私は首をひねらざるを得ない箇所がある)を参考にさせて戴いた。また、最後の個所は「可ㇾ依其品事」とㇾ点を補って読んだ。大方の御叱正を俟つ。

   *

主・父の怨冦(をんこう)は、之れに酬・報爲(た)るもの、共に天を戴くべからざるは、聖賢も之れを許せり。此の讎(あだ)有る者は、決斷、所帳面を記し、年月を究(きは)め、其の志(こころざし)を遂げしむべし。然れども、重敵討(かさねかたきうち)は之れを堅く禁止すべし。但し、帳外の族は、狼藉同然なれば、刑宥(けいいう)は其の品に依るべき事。

   *

・「怨冦」は怨みを持つことと、仇を討たんとすること、の意であろう。

・「酬・報爲(た)るもの」とは平井氏の訳では『復讐されるものもするものも』とあり、腑に落ちる。

・「決斷」は副詞的に「(意志決定を)はっきりと」の意で採った。

・「所帳面」は所定、則ち、主君或いは町奉行所(他国に渡る場合に必要)へ提出する、決められた仇討認可申請の規定文書。

・「年月を究(きは)め」「究め」は「きめ」かも知れぬ。平井氏の訳では『その目的のために許可された期限』とある。

・「重敵討(かさねかたきうち)は之れを堅く禁止すべし」平井氏のこの前後の訳は、『ただ敵を懲らしめるために暴動擾乱をもってすることは堅く禁ずる』である。どうもこれは小泉八雲が「重敵討」の意味を誤認しているように思われてならない。「重敵討」というのは、敵討を果たした者に対し、討たれた側の関係者がさらに復讐をすることである。

・「帳外の族」主君の仇討赦免状や町奉行所の許諾を得て敵討帳に記載された者以外の無許可の仇討の実行者。

・「刑宥(けいいう)」通常の殺人罪扱いで処罰するか、情状酌量するか、ということであろう。

・「其の品に依るべき事」ケース・バイ・ケースで柔軟に対応すること、という意味であろう。以上の注の参考にしたウィキの「仇討によれば、『仇討ちは、中世の武士階級の台頭以来、その血族意識から起こった風俗として広く見られるようになり、江戸幕府によって法制化されるに至って』、『その形式が完成された。その範囲は、父母や兄等尊属の親族が殺害された場合に限られ、卑属(妻子や弟・妹を含む)に対するものは基本的に認められない。また、家臣が主君のために行うなど、血縁関係のない者について行われることは少なかった』。『江戸時代において殺人事件の加害者は、原則として公的権力(幕府・藩)が処罰することとなっていた。しかし、加害者が行方不明になり、公的権力が加害者を処罰できない場合には、公的権力が被害者の関係者に、加害者の処罰を委ねる形式をとることで、仇討ちが認められた』。『武士身分の場合は主君の免状を受け、他国へわたる場合には奉行所への届出が必要で、町奉行所の敵討帳に記載され、謄本を受け取る。無許可の敵討の例もあったが、現地の役人が調査し、敵討であると認められなければ殺人として罰せられた。また、敵討を果たした者に対して、討たれた側の関係者がさらに復讐をする重敵討は禁止されていた(但し、以下の私が下線を引いた部分には「要出典」要請がかけられている)。『敵討の許可が行われたのは基本的に武士階級のみであったが、それ以外の身分でも敵討を行う者はまま見られ、上記のような手続きを踏まなかった武士階級の敵討同様、孝子の所業として大目に見られ、場合によっては賞賛されることが多かった。又武家の当主が殺害された場合、その嫡子が相手を敵討ちしなければ、家名の継承が許されないとする慣習も広く見られた』。『なお、敵討は決闘であるため、敵とされる側にも』、『これを迎え撃つ正当防衛が認められており、敵側が仇討ち側を殺害した場合は「返り討ち」と呼ばれる』『近親者を殺されてその復讐をする例は、南イタリアを始めとして、世界各地で見られるが、江戸時代の敵討は、喧嘩両成敗を補完する方法として法制化されていたことと、主眼は復讐ではなく』、『武士の意地・面目であるとされていた点に特徴がある』とある。]

 

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