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2018/10/31

和漢三才圖會第四十三 林禽類 練鵲(をながどり) (サンジャク)

Onagadori

をなかとり

      【俗云尾長鳥】

練鵲

 

レンツヤツ

 

本綱練鵲似鴝鵒而小黑褐色其尾鵒長白毛如練帶者

是也禽經云冠鳥性勇纓鳥性樂帶鳥性仁所謂帶鳥者

此練鵲之類也俗呼爲拖白練

肉【甘溫】主治益氣治風疾

△按練鵲大如鳩狀似山鵲而項黑如黑帽胸柹灰色

 背青碧尾長其中二尾最長一尺許端白成圓環形甚

 美嘴脛灰黑色將雨時羣飛其聲短其飛也不遠也關

 東山中多有之畿内曾不見之俗呼名尾長鳥

 

 

をながどり

      【俗に「尾長鳥」と云ふ。】

練鵲

 

レンツヤツ

 

「本綱」、練鵲、鴝鵒〔(くよく)〕に似て、小さくして、黑褐色なり。其の尾、〔鴝〕鵒〔より〕長く、白毛〔にして〕練〔れる〕帶のごとき者、是れなり。「禽經」に云はく、『冠鳥は、性、勇なり。纓鳥〔(えいてう)〕は、性、樂なり。帶鳥〔(たいてう)〕は、性、仁なり』〔と〕。所謂〔(いはゆる)〕帶鳥とは、此の練鵲の類なり。俗に呼びて、「拖白練〔(たはくれん)〕」と爲す。

肉【甘、溫。】主治、氣を益し、風疾を治す。

△按ずるに、練鵲、大いさ、鳩のごとく、狀、山鵲に似て、項〔(うなぢ)〕、純黑〔にして〕黑き帽のごとし。胸、柹灰色。背、青碧。尾、長く、其の中〔の〕二尾、最も長く、一尺許り。端〔(はし)〕に白く、圓環形を成し、甚だ美し。嘴・脛、灰黑色。將に雨〔(あめふ)〕らんとする時、羣飛す。其の聲、短し。其の飛ぶや、遠からざるなり。關東〔の〕山中、多く之れ有り。畿内に〔ては〕曾て之れを見ず。俗、呼んで「尾長鳥」と名づく。

[やぶちゃん注:さんざん、調べあぐねて、辿り着いたのが、高い高い山の梢であった。この「本草綱目」の記載するそれ(無論、こんな鳳凰みたような鳥は、関東どころか、日本にはいません!)は恐らく、

スズメ目カラス科サンジャク(山鵲)属サンジャク Urocissa erythrorhyncha

か、その近縁種であろうという結論にたどり着いた。ウィキの「サンジャク」によれば、分布域は中国・ベトナム・西ヒマラヤ地方で、全長七十センチメートルほどであるが、その体長の『大半は弾力のある長い尾羽で占められている。頭部は黒、体の上部と翼は金属光沢のある青、腹部と下尾筒は白い羽毛で包まれ、頭頂部に特徴的な白い斑紋がある。嘴と足は鮮やかな赤』で、『標高』二千百『メートルまでの山地の森林地帯に棲息』し、『通常は木の上で生活するが、採食は地上で行う事が多い。雑食性で昆虫やカタツムリ等の小動物、果実、他種の鳥の卵や雛などを食べる。高い木の枝に枯葉や小枝などを集めてカップ型の巣を作り、産卵・育雛する』とある。何より、画像を御覧あれ。中文ウィキ同種ページ蓝鹊(「紅嘴藍鵲」)の方の写真がよいかも。いや! 学名グーグル画像検索リンクさせておく。確かに。鵲(かささぎ)っぽくて、ド派手で、ありえへん二尾やがね!!

「鴝鵒〔(くよく)〕」良安先生の困ったちゃんが続くのだ。「本草綱目」の記載であり、これはスズメ目ムクドリ科ハッカチョウ属ハッカチョウ Acridotheres cristatellus を指すと考えねばならない。その経緯は鸜鵒(くろつぐみ) (ハッカチョウとクロツグミの混同)の私の注を見られたい。あ~あ、向後はこのメンドクサイ注は出来れば附したくないな!

「禽經」既出既注。春秋時代の師曠(しこ)の撰になるとされる鳥獣事典であるが、偽書と推定されている。全七巻。

「冠鳥」不詳。

「纓鳥」不詳。

「「拖白練〔(たはくれん)〕」「白練」真っ白な練絹のような白色を指し、「拖」は「ずるずると重い物を引きずる」の意であるから、賦には落ちる。

「風疾」漢方で中風・リウマチ・痛風などのこと。

「按ずるに、練鵲、大いさ、鳩のごとく……」この一条に二時間余りを費やしてしまった。私は良安が何をこの「練鵲」と誤認しているのかは判らぬ。記載はしかし、サンジャクにクリソツだ。山にも結構登ってきたが、私はこんな鳥が我が関東にいるのを見たことも聴いたことも、ない。これだよ、と同定される方がおられれば、御教授願いたい。]

和漢三才圖會第四十三 林禽類 𪃹(しなひ) (アカハラ・マミチャジナイ)

Sakahara

しなひ  正未詳

     一名赤腹

𪃹【鶺同】

    【俗云志奈比】

 

△按𪃹者百舌鳥之屬形大亦相似而背灰蒼色腹赤其

 聲短能羣飛故多易捕於其來處撒餌張罟或以囮取

 之炙食味美

 

 

しなひ  正しきは未だ詳らかならず。

     一名、「赤腹(あかはら)」。

𪃹【鶺も同じ。】

    【俗に「志奈比」と云ふ。】

 

△按ずるに、𪃹は、百舌鳥〔(つぐみ)〕の屬。形・大いさも亦、相ひ似て、背、灰蒼色。腹、赤。其の聲、短く、能く羣れ飛ぶ。故に多〔くは〕捕へ易し。其の來たる處に於いて、餌を撒き、罟(あみ)を張り、或いは囮(をとり)を以つて之れを取る。炙りて食〔へば〕、味、美なり。

[やぶちゃん注:スズメ目スズメ亜目ツグミ科ツグミ属アカハラ Turdus chrysolaus、及びよく似ている近縁種の、ツグミ属マミチャジナイ Turdus obscurus

であろう。ウィキの「マミチャジナイ」によれば、マミチャジナイは「眉茶鶇(眉茶鶫)」「眉茶𪃹」と漢字表記するとある。一方、ウィキの「アカハラ」によれば、アカハラは『古くは、茶鶫(チャジナイ)と呼ばれていた』とありこの二つの記載をカップリングすると、「𪃹」は「ジナイ」であり、それは「アカハラ(赤腹)」を指す語であると読める。しかし、「アカハラ」は腹部がオレンジ色を呈し、その体色は以下に見る通り、仲間の「マミチャジナイ」もよく似ているのであり、現代の分類学でも同じツグミ属である。しかも「鶫」は広く、古くは「しなひ」「しない」と呼ばれていたから、「赤いシナイ」「眉の茶のシナイ」でもあったのであるから、まずこの二種としてよかろう(既にツグミは前項に出ているからでもある)。但し、私は「アカハラ」は知っていたが、「マミチャジナイ」という種名は今日只今、初めて、知った。

 先にウィキの「アカハラ」から引く。全長は二十三・五~二十四センチメートルで、、『胸部から腹部側面にかけてオレンジ色の羽毛で覆われ、和名の由来になっている。腹部中央部から尾羽基部の下面(下尾筒)にかけて』、『白い羽毛で覆われる。頭部は暗褐色の羽毛で覆われ、顔や喉は黒ずむ』。『上嘴の色彩は黒く、下嘴の色彩は黄色みを帯びたオレンジ色。後肢の色彩は黄色みを帯びたオレンジ色』。『メスは喉が白い個体が多い』。『平地から山地にかけての森林に生息』し、『食性は動物食傾向の強い雑食で、主に昆虫類を食べるが』、『果実も食べる』。『山地の森林(北海道や東北地方では平地でも)に巣を作り卵を産む』。本邦には二亜種、

アカハラTurdus chrysolaus chrysolaus(中国南部・台湾・日本・フィリピン北部)

『夏季に日本で繁殖し、冬季になると中華人民共和国南部や日本、フィリピン北部へ南下し越冬する。日本では繁殖のため本州中部以北に飛来(夏鳥)し、冬季になると本州中部以西で越冬(冬鳥)する』。『上面が暗い緑褐色の羽毛で覆われる』。

オオアカハラ Turdus chrysolaus orii(日本、ロシア(サハリン及び千島列島))

『夏季に千島列島で繁殖し、冬季になると日本へ南下し越冬する』。『上面が濃い緑褐色の羽毛で覆われ、頭部や喉の黒みが強い。嘴は太くて長い』。

がいる。

 次にウィキの「マミチャジナイ」を引く。インド・インドネシア・タイ・中華人民共和国(香港含む)・台湾・日本・バングラデシュ・フィリピン・ベトナム・マレーシア・ミャンマー・ラオス・ロシア東部に分布。『夏季に中華人民共和国北東部やロシア東部で繁殖し、冬季になると東南アジアへ南下し』、『越冬する。日本では主に渡りの途中に飛来する(旅鳥)が、少数が冬季に西日本や南西諸島で越冬(冬鳥)する』。全長は二十一・五センチメートル、翼開長は三十七センチメートル。『背面や翼は褐色、胸部から体側面にかけてはオレンジ色、腹部は白い羽毛で覆われ』、『眼上部にある眉状の斑紋(眉斑)は白い』。『オスの頭部は灰褐色の羽毛で覆われ、メスは頭部に灰色味が少なく、喉は白く』、『暗色の縦縞が入る』。『森林に生息』し、『食性は雑食で、昆虫類や多足類、陸棲の貝類、果実(イチイ、クサギ、ナナカマド、ハゼノキ、ミズキ等)等を食べる』とある。

「鶺に同じ」これは正直、書いて貰いたくなかった。「鶺」は通常、「鶺鴒」セキレイ類を指すからである。本邦の種等は、第四十一 水禽類 鶺鴒(せきれひ/にはくなぶり) (セキレイ)第四十二 原禽類 白頭翁(せぐろせきれい) (セキレイ)の私の注を見られたい。こういうことをしなくてはならなくなるから、書いて欲しくなかったんよ! 良安先生!

「罟(あみ)」目の細かい網を指すものと思われる。所謂、カスミ網である。]

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 贈物にそへて

 

  贈物にそへて

 

兵隊どもの列の中には、

性分のわるいものが居たので、

たぶん標的の圖星をはづした。

銃殺された男が、

夢のなかで息をふきかへしたときに、

空にはさみしいなみだがながれてゐた。

『これはさういふ種類の煙草です』

 

[やぶちゃん注:本詩集で初めて発表された詩篇。]

 

Sininntoatoninokorerumono

 

[やぶちゃん注:田中恭吉の「死人とあとにのこれるもの」。生誕百二十年記念として和歌山県立近代美術館で催された「田中恭吉展」「出品目録」PDF)によれば、大正三(一九一四)年十二月の作で『インク・鉛筆、紙』とある。右ページ(百ページ)に「贈物にそへて」の最終行「『これはさういふ種類の煙草です』」一行だけが印刷されていて、左ページに短い上記の右辺を下にした形で配置されている。しかし、それは原画の正立像を九十度右に回転させて貼り込んだもので、この絵は本を左に九十度回転させて鑑賞しなければならないのである。この絵の長辺は絵の枠が正直線でないため、このままの大きさで貼り込むには最低でも横幅が十二・二センチメートルが必要である。ところが、本詩集の本文部分の用紙の横幅は約十三・五センチメートルしかなく、しかも綴目による視認の阻害を考えると、使用可能な幅は最大十二・五センチメートル以下であり、とてもこの絵を正立像で鑑賞に耐え得るように貼り込む(実際には貼り込まれたもので、挿絵には本詩集巻頭部分の挿画目次でページ数が割り当てられているものの、その数字は実際には、差し込みした前のページのノンブルである)ことは出来ない。無論、以上で私は、当該の絵を正立させて示してある(原本の絵の中の「地」は実際にはクリーム色を呈しているが、今回はシャープさを最優先とし(私の粗末な機器とソフトではカラーでとり込むと、全体がソフトになってぼけた感じになってしまうことが判ったためである)、モノクロームで画素数を上げてとり込んでみた)。

 

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 春の實體

 

  春の實體

 

かずかぎりもしれぬ蟲けらの卵にて、

春がみつちりとふくれてしまつた、

げにげに眺めみわたせば、

どこもかしこもこの類の卵にてぎつちりだ。

櫻のはなをみてあれば、

櫻のはなにもこの卵いちめんに透いてみえ、

やなぎの枝にも、もちろんなり、

たとへば蛾蝶のごときものさへ、

そのうすき羽は卵にてかたちづくられ、

それがあのやうに、ぴかぴかぴかぴか光るのだ。

ああ、瞳(め)にもみえざる、

このかすかな卵のかたちは楕圓形にして、

それがいたるところに押しあひへしあひ、

空氣中いつぱいにひろがり、

ふくらみきつたごむまりのよに固くなつてゐるのだ、

よくよく指のさきでつついてみたまへ、

春といふものの實體がおよそこのへんにある。

 

[やぶちゃん注:太字「ごむまり」は底本では傍点「ヽ」。その下の「よに」はママであり、筑摩書房全集の校訂本文でも「よに」である。「月に吠える」再版(大正一一(一九二二)年アルス刊)でも「よに」で、「萩原朔太郎詩集」(昭和三(一九二八)年第一書房刊)で「やうに」となっているだけである。萩原朔太郎は詩・文を問わず、文中に口語の短縮表現(「なつてゐる」ではなくて、「なつてる」のような。以下の初出形の終りから三行目の末尾を見よ)を好んで用いる傾向がある。ここも、「ように」ではなく、「よに」なのである。なお、初出によって、上掲の四行目の「類」は「るゐ」と読んでいることが判る。

 初出は『卓上噴水』大正四(一九一五)年五月発行に載った。以下に初出形を示す(三箇所の太字は同前)。

   *

 

  春の實體

 

かずかぎりもしれぬ蟲けらの卵にて

春がみつちりとふくれてしまつた

げにげに眺めみわたせば

どこもかしこもこのるいの卵にてぎつちりだ

さくらのはなをみてあれば

櫻の花にもこの卵いちめんにすいてみえ

やなぎの枝にももちろんなり

たとへば蛾蝶のごときものさへ

そのうすき羽は卵にてかたちづくられ

それがあのやうにぴかぴかぴかぴか光るのだ

ああ 眼にもみえざる

このかすかな卵のかたちは楕圓形にして

それがいたるところに押しあひへしあひ

空氣中いつぱいになり

ふくらみきつたごむまりのよに固くなつてるのだ

よくよく指のさきでつついてみたまへ

春といふものの實體がおよそこのへんにある。

 

   *

ルビ「るい」の表記はママ。]

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 くさつた蛤

 

  くさつた蛤

 

半身は砂のなかにうもれてゐて、

それで居てべろべろ舌を出して居る。

この軟體動物のあたまの上には、

砂利や潮(しほ)みづが、ざら、ざら、ざら、ざら流れてゐる、

ながれてゐる、

ああ夢のやうにしづかにもながれてゐる。

 

ながれてゆく砂と砂との隙間から、

蛤はまた舌べろをちらちらと赤くもえいづる、

この蛤は非常に憔悴(やつ)れてゐるのである。

みればぐにやぐにやした内臟がくさりかかつて居るらしい、

それゆゑ哀しげな晚かたになると、

靑ざめた海岸に坐つてゐて、

ちら、ちら、ちら、ちらとくさつた息をするのですよ。

 

[やぶちゃん注:底本は面白い。四行目の四つの読点が例のような奇妙な間の抜けた字空けがなく、寧ろ、タイトに詰めに詰めて、それぞれの下の「ざら」の濁点に、それこそくっかんばかりなっているのである。ところが、最終行の「ちら」の下の読点は、いつも通り、阿呆みたような空隙を三箇所総てが持っているのである。この奇体な組版は、結局、四行目の位置が九十三ページ最終行(左ページ)に当たり、例の調子で読点をやらかすと、四行目が二行に渡らざるを得なくなり、そのはみ出た分が、見返しの次の九十四ページの頭に送られて詩篇としてのリズムが著しく阻害される(と朔太郎が考えた)からであろうと推理出来る。本篇は本詩集が初出でもあり、朔太郎はかなり気を使った、ということであろう。]

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 陽春

 

  陽  春

 

ああ、春は遠くからけぶつて來る、

ぽつくりふくらんだ柳の芽のしたに、

やさしいくちびるをさしよせ、

をとめのくちづけを吸ひこみたさに、

春は遠くからごむ輪のくるまにのつて來る。

ぼんやりした景色のなかで、

白いくるまやさんの足はいそげども、

ゆくゆく車輪がさかさにまわり、

しだいに梶棒が地面をはなれ出し、

おまけにお客さまの腰がへんにふらふらとして、

これではとてもあぶなさうなと、

とんでもない時に春がまつしろの欠伸をする。

 

[やぶちゃん注:「さかさにまわり」の「まわり」はママ。太字ごむ」と「へん」は底本では傍点「ヽ」。初出は『ARS』大正四(一九一五)年五月号。初出は、一行目の「ああ」の後の読点がなしで「春は」以下に連続すること、その下の「けぶって來る」の「來る」が「くる」であること、「をとめ」が「おとめ」、「遠く」が「とほく」、その下の「のつて來る」の「來る」が「くる」、「景色」が「けしき」、「はなれ出し」が「はなれだし」である以外は変わらない。それにしても、正字統一主義を貫いている筑摩書房版校訂本文の「欠伸」のままなのは面白いねえ、そうさ、多くの作家は「あくび」として書く場合に「缺伸」と書かずに、「欠伸」と書くんだけどねえ、それじゃ正字統一鉄則に逆らうだろうにねえ、面白いねえ。]

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 麥畑の一隅にて

 

  麥畑の一隅にて

 

まつ正直の心をもつて、

わたくしどもは話がしたい、

信仰からきたるものは、

すべて幽靈のかたちで視える、

かつてわたくしが視たところのものを、

はつきりと汝にもきかせたい、

およそこの類のものは、

さかんに裝束せる、

光れる、

おほいなるかくしどころをもつた神の半身であつた。

 

[やぶちゃん注:本詩集で発表されたもの。「類」は韻律からは私は「たぐひ」と読みたい。]

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 貝

 

  

 

つめたきもの生れ、

その齒はみづにながれ、

その手はみづにながれ、

潮さし行方もしらにながるるものを、

淺瀨をふみてわが呼ばへば、

貝は遠音にこたふ。

 

[やぶちゃん注:初出は『卓上噴水』大正四(一九一五)年五月発行に掲載。初出形は、は以下。

   *

 

  

 

つめたきものうまれ

その手は水にながれ

齒はながれ

潮(しほ)さし行方もしらにながるるものを

淺瀨をふみてわがよべば、

貝は遠音(とほね)にこたふ。

 

   *]

 

Ketai

 

[やぶちゃん注:前掲の「貝」末尾の二行が見開きの八十八ページ(右)、その左に田中恭吉の強烈な(と私は感じる)一枚「懈怠」が配されてある。生誕百二十年記念として和歌山県立近代美術館で催された「田中恭吉展」「出品目録」PDF)よれば、この元画は「シリーズ「心原幽趣I」の「XII 懈怠」で、大正四(一九一五)年二月二十六日の作(インク・彩色、紙)とある。既に挿絵目次で既注であるが、再掲すると、「けたい」或いは「けだい」と読み、原義は仏道修行に励まぬこと、怠り怠けることを指す。]

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 猫

 

  

 

まつくろけの猫が二疋、

なやましいよるの家根のうへで、

ぴんとたてた尻尾のさきから、

糸のやうなみかづきがかすんでゐる。

『おわあ、 こんばんは』

『おわあ、 こんばんは』

『おぎやあ、 おぎやあ、 おぎやあ』

『おわああ、 ここの家の主人は病氣です』

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。朔太郎の有名な猫語詩。ここだけ、特異的に底本の奇妙な特性(詩篇本文内の文末でない読点は、有意に打った字の右手に接近し、その後は前後に比して一字分の空白があるように版組されている。これは朔太郎の確信犯なのだろうが、これを再現しようとすると、ブラウザ上では、ひどく奇異な印象を与え、そこで躓いてしまう(少なくとも私は躓く)ので今までは無視してきた)を再現してみた。その理由は、読者がそこで立ち止まり、そこに同時に猫の鳴き声が余韻として長く残るのをこれで示したかったからである。初出は『ARS』大正四(一九一五)年五月号。初出形を以下に示す。

   *

 

  

       ――光るものは屍臘の手――

 

まつくろけの猫が二疋、

ぴんとたてた尻尾のさきから、

いとのやうな三ケ月がかすんで居る。

『おわあ、こんばんは』

『おわあ、こんばんは』

『おぎやあ、おぎやあ、おぎやあ』

『おわああ、ここの家の主人は病氣です』

          ――一五、四、一〇――

   *

太字「いと」は傍点「ヽ」。添辞の「屍臘」は「屍蠟」の誤記か誤植であろう。屍蠟(しろう)は死体が蠟状に変化したもの。死体が長時間、水中又は湿気の多い土中に置かれ、空気との接触が絶たれると、体内の脂肪が蠟化し、長く原形を保つ。そうした遺体現象を指す。]

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 ありあけ

 

  ありあけ

 

ながい疾患のいたみから、

その顏はくもの巢だらけとなり、

腰からしたは影のやうに消えてしまひ、

腰からうへには籔が生え、

手が腐れ、

身體(しんたい)いちめんがじつにめちやくちやなり、

ああ、けふも月が出で、

有明の月が空に出で、

そのぼんぼりのやうなうすらあかりで、

畸形の白犬が吠えてゐる。

しののめちかく、

さみしい道路の方で吠える犬だよ。

 

[やぶちゃん注:これもしい月夜」に続いて、本詩集名の由来する一篇。或いは、こちらの詩集の方が具体なヴィジュアル性の高さから、「月に吠える」のイメージとしては相応しいように思われる。因みに、私は「月に吠える」というと、何故か、後のジョアン・ミロJoan Miro)の一九二六年の作品「Dog Barking at the Moon」を思い出すのを常としている((英文サイト))。私は凄愴たる絵より、朔太郎が生きていたら(彼は昭和一七(一九四二)年五月十一日に急性肺炎で亡くなっている)、きっと気に入ったに違いないとさえ思っている作品である。初出は『ARS』(創刊号)大正四(一九一五)年四月号。初出形を以下に示す。

   *

 

  ありあけ

 

ながい疾患のいたみから、

その顏は蜘蛛の巢だらけとなり、

腰から下は影のやうに消えてしまひ、

腰から上には竹が生え、

手が腐れ、

しんたいいちめんがぢつにめちやくちやなり。

ああ、けふも月が出で、

有明の月が空に出で、

そのぼんぼりのやうなうすあかりで、

畸形の白犬が吠えて居る。

しののめちかく、

さむしい道路の方で吠える犬だよ。

 

   *

「ぢつに」はママ。個人的には断然! 「籔」より「竹」だ!

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 およぐひと

 

  およぐひと

 

およぐひとのからだはななめにのびる、

二本の手はながくそろへてひきのばされる、

およぐひとの心臟(こころ)はくらげのやうにすきとほる、

およぐひとの瞳(め)はつりがねのひびきをききつつ、

およぐひとのたましひは水(みづ)のうへの月(つき)をみる。

 

[やぶちゃん注:初出は山村暮鳥個人誌『LEPRISME』(第二号)大正五(一九一六)年五月号(誌名については、先行する椅子」の私の注を参照されたい)。初出形は以下。

   *

 

  およぐひと(泳ぎの感覺の象徴)

 

およぐひとのからだはななめにのびる、

二本の手はながくそろへてひきのばされる、

およぐひとの胴體はくらげのやうに透きとほる、

およぐひとのこころはつりがねのひびきをききつつ

およぐひとのたましひは月をみる。

 

   *

四行目末尾の読点なしはママ。]

古今百物語評判卷之五 第三 殺生の論附伏犧・神農、梁の武帝の事

 

  第三 殺生(せつしやう)の論伏犧(ふつき)・神農、梁の武帝の事

[やぶちゃん注:少し長いので、特異的に改行字下げを施し、注も途中の適当な位置に入れ込んだ。]

 ある人の云(いふ)、

「好(このみ)て殺生をなせし者は、怨靈、來たりて、仇(あだ)をなし、又は、其子孫にむくふ事、世に、物がたり、多し。此故に、佛家(ぶつけ)には五戒の第一とし、儒者には遠庖厨(庖厨(はうちう)を遠(さ)く)とやらむ申すよし、承り候ふ。されども、先祖のまつりに犧(いけにへ)をさき、饗應(あるじまうけ)に生類(しやうるゐ)を殺す事、これ又、聖賢の掟(おきて)なり。本朝には魚鳥(うをとり)を服(ぶく)すれども、四足をいむ事、昔より然(しか)り。此説、いかゞ。」

[やぶちゃん注:「五戒」在家信者が守らなければならない基本的な五つの戒めで「不殺生」・「不偸盗(ふちゅうとう)」・「不邪淫」・「不妄語」・「不飲酒(ふおんじゅ)」。

「遠庖厨」「孟子」の「梁惠王章句上」に基づく。話し相手である斉の宣王が、嘗て生贄に連れて行かれる牛を見て、憐憫の情を起こし、助けて、羊に代えるようにせたところ、人民はそれを王が高価な牛を惜しんで吝嗇(けち)ったのだと思い込んでいると語り、

   *

曰、無傷也。是乃仁術也。見牛未見羊也。君子之於禽獸也、見其生、不忍見其死、聞其聲、不忍食其肉。是以君子遠庖廚也。

(曰く、傷(いた)むことなかれ。是れ、乃(すなわ)ち、仁術なり。牛を見て、未だ羊を見ざればなり。君子の禽獸に於けるや、其の生けるを見ては、其の死するを見るに忍びず、其の聲を聞きては、其の肉を食ふに忍びず。是(こ)れを以つて、君子は庖厨を遠ざくるなり。)

   *

「傷(いた)むこと」とは「愚かな民の見当違いな評価を気にすること」を指す。以上はの結論は、則ち、生贄や食用に供する動物を殺戮し、その断末魔の声が響き、血の匂いに満ちた台所には君子は決して近づいてならない、というのである。現行の「男子厨房に入らず」の謂いはこれを誤用したものである。

「服(ぶく)す」原本は「ふく」。厳密には魚鳥も動物であり、獣の仲間であるという認識は古くからあった(魚と鳥が四足でない、或いは四足に見えないことは四足獣と差別化して食用に供するには甚だ都合はよかったことは事実)ので、それら(四足獣も含む)を食する場合に薬としていやいや食べる、「藥喰(くすりぐひ)」と称したから、「服用する」の意の「服(ぶく)す」は、殺生・肉食(にくじき)嗜好を隠蔽するには格好の動詞となった。]

と問ひければ、先生、答(こたへ)て云(いふ)、

「是、むづかしき論なるを、とひ給へり。先(まづ)、佛家には、平等利益(りやく)をたつとぶ故に、人の親を見る事、わが親におなじく、蚤(のみ)蝨(しらみ)を見る事、人を見るにひとし。此故に、つよく殺生戒をたてゝ、一つの蟲をも殺さず。其(それ)、ひとつの蟲を殺す事、猶、我が親をころすにひとし、とおもへり。されば、落穗をひろひ、麻を着て、三衣一鉢(さんえいつぱつ)のまうけだに、かつかつなるを、本分(ほんぶん)の事とす。是れも又、たうとからずや。猶、六道流轉を立てゝ、人間より畜生になり、畜生より人間に生ず。されば、一疋の魚鳥を見るとても、是れ、何ぞ過去生(くはこしやう)のわが親なる事も、知るべからず。現在にても、おくれさきだつ親類の中、何(いづ)れか畜生に生れたらむも、心得がたし。況や、おなじ人におゐては、猶、其因緣を知るべからず。是れを以て、釋氏の教(をしへ)は、もつぱら、殺生戒をおもんず。行基の歌に「鳥べ野にあらそふ犬の聲きけば父かとぞ思ふ母かとぞおもふ」と詠まれしも此心なり。

[やぶちゃん注:「三衣」「さんね」とも読む。本来はインドの比丘が身に纏った三種の僧衣で、僧伽梨衣(そうぎゃりえ:九条から二十五条までの布で製した)・大衣(だいえ=鬱多羅僧衣(うったらそうえ):七条の袈裟で上衣とする)・安陀会(あんだえ:五条の下衣)のことを指すが、ここは単に身をただ包むに足る粗末な僧衣のこと。

『行基の歌に「鳥べ野にあらそふ犬の聲きけば父かとぞ思ふ母かとぞおもふ」と詠まれし』この歌形は知らぬ。知られたそれは、「玉葉和歌集」(鎌倉末期の正和元(一三一二)年頃に成立した勅撰和歌集。全二十巻。伏見院の命により京極為兼が撰した)の巻第十九の「釈教」に載る、行基(天智七(六六八)年~天平二一(七四九)年)作の遠い昔の一首(二六二七番)、

   山鳥のなくを聞きて              行基菩薩

 山鳥のほろほろとなく鳴く山鳥の聲聞けば父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ

の伝承変形異形か。しかし、古えの風葬(古えは墳墓を作るのは特別な階級の人間だけであった)・鳥葬地(一説には死者を木に吊るしてその肉を鳥に喰らわせる鳥葬が行われていたともされる)であった「鳥辺野」で、投げられたり、ぶら下がった人肉を喰らうのを争う「犬」の吠え声の方が、これ、遙かに凄絶で、私好みではある。

 儒家の説には、天を父とし、地を母として、其見識の大きなる事、釋氏にかはらねども、その中に『本末(もとすゑ)』の差別あり。『本末』といふは、先(まづ)、我親は天下の至つて年比(ねんごろ)なる物なれば、『本』とす。それにつぎて兄弟、又、其次は親類・眷屬、其つぎは朋友、その次は知らぬ世界の人、其次は禽獸草木(とりけものくさき)なり。是れを『末』とす。されば、天下を以ても、我が親一人にかへ申さず。此心を本末といふ。此故に、其親へねんごろなる心をおしてひろめて、兄弟・親類・朋友にほどこし、其あまれる處を他人へ及ぼし、又、其餘れる心を禽獸(とりけだもの)に至らしむ。かく差別あるゆへに、禽獸までは、その仁心(じんしん)、おなじごとくにはいたらねど、猶、其(それ)殺すに、禮義を立てゝ、天子國君も、故(ゆゑ)なければ、牛をころさず、其(その)孕めるにあたつては、ちいさき[やぶちゃん注:原典のママ。]鳥獸(とりけだもの)をも害せず。また、數罟不ㇾ入洿池(數罟(さくこ)洿池(をち)に入れず)といへば、ちいさき目の網をもつて魚の子までを取盡(とりつく)す事をきらひ、草木(くさき)も春夏の長ずるにあたつては折りとらず、葉落ちて後(のち)、杣(そま)を山林にいるゝ、と云へり。是れ、禽獸草木(きんじうさうもく)へおよべる愛心(あいしん)なり。

[やぶちゃん注:「天下を以ても、我が親一人にかへ申さず」世界全体を以ってしても、自身の親一人の存在に、それをとって代えるなどということは到底出来ぬことにて御座る。

「數罟不ㇾ入洿池」「孟子」の「梁恵王上」に基づく。

   *

數罟不入洿池、魚鼈不可勝食也。

(數罟(さくこ)、洿池(をち)に入(い)ざれば、魚鼈(ぎよべつ)勝(あ)げて食(くら)ふべからざるなり。)

   *

「細かな目の網を以ってして、水の溜まった浅い小さな沼や池の生き物を徹底的に漁(と)ることをしなければ、子魚や小さな鼈(すっぽん)は残され、未来に於いてもそこの生き物が尽きることはない」の意である。なお、これについては、魚類学者真道(しんどう)重明先生の『再び、「数罟不入夸池」について』という大変、興味深い論考がある。実は、真道先生は四、五年前、私のサイトでの栗本丹洲の「栗氏千蟲譜」の電子化注を、お褒め戴くと同時に激励して下さった稀有の恩人であられる。]

 それ、天地開闢(てんちかいびやく)のはじめ、人は萬物(ばんもつ[やぶちゃん注:原典のルビ。])の靈なれば、禽獸(とりけだもの)より、はるかの後(のち)に生ず。既に生じては、衣服なき事、あたはず。此故に禽獸(きんじう)の血をすひ、肉をくらひ、其皮を着るといへど、猶、その力のき物ありて、人の害をなせしを、其時の君、これを制する事を教へ給ふ聖人を伏犧と云ふ。「伏」とは「たいらぐる心」、「犧」といふは「鳥獸」といふ心なり。其後(そののち)、人民、おほくなりて、禽獸(きんじう)、たらざりしに至りて、始めて、五穀を食らふ事を教へ給ふ聖人を神農氏といふ。是れ、たゞ其時節のよろしきによれるのみ、何ぞ、其心にかはりあらんや。されば、蛛(くも)は蠅(はい[やぶちゃん注:原典のルビ。])をとり、雀は蛛をとり、鳶(とび)は雀をとり、鵰(たか)は鳶をとり、犬の小さきを制し、きが弱きにかつは、天地自然の勢(いきほひ)なれば、人倫の物をとる事も、なを[やぶちゃん注:ママ。]、かくのごとしといへど、既に其(その)殺すに禮儀を立(たつ)るは、人の萬物の靈なるゆへ、彼の親をしたしみ、人をおもむずる[やぶちゃん注:ママ。]心を、おしひろめたるのみ、是れ、周公・孔子の道なり。

[やぶちゃん注:「伏犧」「伏羲」が一般的だが、かくも書き、「庖犧」「虙戯」などとも書く。小学館「日本大百科全書」より引く。『古代の伝説上の帝王。華胥(かしょ)氏の娘が雷沢(らいたく)の中に残されていた巨人の足跡を踏んで懐妊し、生まれたのが伏羲であるという』。『三皇五帝の』一『人に数えられる』。「列子」では、『伏羲は人頭蛇身とされ、漢代の画像石には蛇身の伏羲と女媧(じょか)が尾を交えている姿がみられる。易の八卦』『を考案したり、網を発明して民に狩猟や漁労の方法を教え、さらに獲物を生(なま)のままでなく』、『火を使って料理することも教えたといい、庖犧の名はこれを表していると思われる。そのほか』、『結婚の制度を創始するなど、さまざまな事物の発明や諸制度を創設したといわれるが、これらは諸文物の起源を好んで聖天子の功績に帰そうとする中国古伝承の現れであって、史実とはいえない。民間では、伏羲と女が結婚して人類の祖となったという伝承が語られているが、むしろこのような伏羲が本来のおもかげをとどめているものと考えられる』。

「神農氏」同じく「日本大百科全書」より引く。『古代の伝説上の帝王。神農の名前が最初に文献に現れるのは』、「孟子」で『あり、これには、戦国時代、許行という神農の教えを奉じる人物が、民も君主もともに農耕に従事すべきであると主張したという話が載っている。許行が信奉した神農がいかなる存在であったかは明らかではないが、漢代になると、神秘的な予言の書である』「緯書(いしょ)」などに、『しばしば』、『神農のことが記されるようになる。それによれば、神農は体は人間だが頭は牛、あるいは竜という奇怪な姿をしており、民に農業や養蚕を教えたり、市場(いちば)を設けて商業を教えるほか、さまざまな草を試食して医薬の方法を教え、五絃』『の琴を発明したとされる。こうした業績から三皇の一人に数えられることもあるが、神農に関する具体的な記述は古い文献にみえないため、神農の伝説には後代の知識人が付け加えた部分が多いと考えられている』。

「鵰(わし)」タカ目(新顎上目タカ目
Accipitriformes)の内で大形で強力な鳥の総通称。

「周公」(生没年未詳)周の政治家。文王の子。名は旦。兄の武王を助けて殷を滅ぼし(紀元前十二世紀末)、武王の死後、幼少の成王を助けて王族の反乱を鎮圧。また、洛邑(洛陽)を建設するなど周王室の基礎を固めた。礼楽・制度を定めたといわれる。儒家の尊崇する聖人の一人。]

 故(かるがゆへ)に、むかし、梁の武帝といふ天子、ふかく佛法を信じ、殺生戒をたもちて物を殺さず、宗廟の牲(いけにへ)を蠟(らふ)にて作り、織物にさへ生(いけ)るものをおらしめず。其(それ)たつときに、鳥獸をきりて、殺生戒をばやぶるに似たればなり。かくは有(あり)しかど、遠き敵國と戰(たゝかひ)て、數多(あまた)の群兵(ぐんひやう)をころして、大(だい)を輕んじ給ふを、儒家より笑ひしが、後(のち)果して、國、みだれて、臺城(たいじやう)に餓死(うゑじに)し給へり。

[やぶちゃん注:「梁の武帝」蕭衍(しょうえん 四六四年~五四九年)南朝梁の初代皇帝(在位:五〇二年~五四九年)。武帝は諡(おくりな)。斉を滅ぼして建国。治世中、六朝を通じて最も貴族文化が栄えたが、晩年、仏教に傾倒し、財政を破綻させた。ウィキの「蕭衍」によれば、五四八年、『東魏の武将侯景が梁に帰順を申し出てきた。武帝はそれを東魏に対抗する好機と判断し、臣下の反対を押し切って、侯景に援軍を送り』、『河南王に封じた。しかし、東魏と彭城(現在の江蘇省徐州市)で戦った梁軍は大敗し、侯景軍も渦陽(現在の安徽省蒙城県)で敗れてしま』った。『その後、武帝は侯景に軍を保持したまま』、『梁に投降することを許可するが、やがて侯景は梁の諸王の連帯の乱れに乗じて叛乱を起こし(侯景の乱)、都城の建康を包囲した』。『当時』、『建康の外城を守っていたのは、東宮学士庾信率いる文武』三千『人だったが、鉄面をつけた侯景軍が迫ってくると』、『瞬く間に四散してしまい、浮橋を落とすことにも失敗した。侯景軍は宣陽門から、宗室の臨賀王蕭正徳の手引きの下、ほとんど無血で外城の中へと入ってきた。武帝たちは内城に篭り、侯景たちは彼らを包囲しつつ、占拠した東宮でとらえた宮女たち数百人を将兵に分かち与えて、祝宴を始めた。怒った皇太子蕭綱は兵を派遣して東宮を焼いてしまい、こうして南朝数百年で積み上げられた建康の歴史的建造物も、その蔵書も多くが焼けてしまった』。『内城攻略戦は、梁将羊侃の健闘により数ヶ月にわたって一進一退の様を呈し、侯景が木驢を数百体作り城を攻めると、羊侃は葦に油を注いで放火してそれらを焼いてしまう有様だった。業を煮やした侯景は、宮城の東西に土山を築くため、建康の住民を平民から王侯まで貴賎の別なく駆り立てて、倒れる者は土山の中に埋められた。しかし、山は完成を見ぬうちに豪雨が降り、崩壊した』。『そこで侯景は、今度は奴隷解放令を出し、宮中の奴で降る者はみな良民にすると宣言した。早速』、武帝のお気に入りの政治家朱异(しゅい:低い身分の出身であった)の『家の入墨奴隷が反乱軍に降ると、侯景は儀同の官位を与えた。これに感激した奴は馬に乗り』、『錦を着て城中に』向かって『「朱异は』五十『年も仕官してやっと中領軍になれただけだが、私が侯王(侯景)さまに仕えたら早くも儀同になったぞ!」』と『叫んだという』。三日の『うちに侯景軍の兵力は激増し、一方で内城の防御軍は櫛の歯の抜けるように脱走は相次ぎ、ついに』五四九年三月、『内城を統率していた羊侃』(ようがん)『が死ぬと、いよいよ戦況は最終局面を見せた。内城の兵士や立てこもった男女も、体が腫れて呼吸も困難となり、「爛汁、堀に満つる」有様だった。こうした中、侯景は玄武湖の水を堀に注いで水攻めを開始、ついに城は陥落した』。『引き立てられた武帝は、侯景と次のような問答を交わした』(以下、改行を会話の省略した)。『「江を渡る時、何人いたのか?」「千人です」「では、建康を囲んだ時は?」「』十『万人です」「今は何人なのだ?」「率土のうち、己の有にあらざるはありません」『そのまま、武帝は黙ってうなだれた』。『侯景に幽閉された武帝は、食事も満足に与えられなかった。憂憤のうちに病気になり、蜜を求めたが与えられず、失意のうちに死んだ』とある。後の『北宋の司馬光は』その「資治通鑑」の「梁紀」の論賛で、『次のように評している』。『梁の高祖(武帝)が終わりを全うしなかったのはもっともだ。自らの粗食(菜食)を盛徳とし、君主としての道が既に備わって、これ以上』、『加えるものがなく、群臣の諫言はどれも聞くに値しないとした』。『名は辱しめられ、身は危うく、国は覆り(滅び)、宗廟の祀りは絶え、長く後世に憫笑(哀れだとさげすみ笑われ)された。哀しいことだ』とある。

「臺城(たいじやう)」六朝期に宮城を「臺所」と呼んだ。]

 さはいへど、ゆめゆめ、物をころせるがよきといふにはあらず。上(かみ)にまうせしごとくなり。其外、物の命をすくひて壽命を得、官位を得し類(たぐひ)、あげてかぞふべからず。さて又、我が日の本に四足をいむ事は、本朝人皇のはじめ、既に天地の風氣(ふうき)、ひらけて、五穀もみちみちけるにより、はじめより、四足の類を服(ぶく)するに及ばず。食事のたれるは、我が國の風俗なるべし。中頃まで、孔子の奠(まつり)[やぶちゃん注:「奠」は「神仏に物を供えて祭る」の意。]に狗彘(こうてい)[やぶちゃん注:犬や豚。]を用ひしかども、ある人の夢に、孔子、告(つげ)てのたまはく、『我、此國にまつられては、天照大神(てんしやうだいじん)と同座なる故、猪鹿(ちよろく)の類(たぐひ)、目にあたりて、惡(あし)し。國に入りては國にしたがふが我が心なれば、向後(きやうこう)、用ゆる事、なかれ』と御告(おつげ)ありしゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、それより用ひずといふ事、「著聞集」にも見えたり。思ふに、狗彘の類(るゐ)は既に魚鳥(うをとり)とはちがひて、人の類にちかき物なれば、殺さゞる風俗、たれか惡(あし)しといはむや。我が國を君子國(くんしこく)といふも、むべなるかな。さて、其(その)禮義もなく殺生を好めるものは、天地(てんち)の心、元(もと)、物を生ずる事を好み給ふにそむけば、何ぞ報(むくひ)もなからざらむ。もし、鷹かい[やぶちゃん注:ママ。「飼ひ」。]獵師などのなさで叶はぬものなり共、面々の遠慮あるべき事にこそはべれ」とかたられき。

[やぶちゃん注:『「著聞集」にも見えたり』「古今著聞集」の「巻第一 神祇」にある、「或人の夢に依りて、大學寮の廟供に猪鹿を供へざる事」(別本では前半を「孔子の夢の告に依り、」とある)。

   *

 大學寮の廟供(べうぐ)には、昔、猪(ゐのしし)・鹿(かのしし)をもそなへけるを、或る人の夢に尼父(ぢほ)[やぶちゃん注:孔子。字の仲尼と尊称。]ののたまはく、「本國にてはすすめしかども、この朝に來りし後は、大神宮、來臨して禮を同じくす。穢食(ゑしよく)、供(きやう)すべからず」とありけるによりて、後には供せずなりにけるとなん。

   *

「大學寮」は式部省(現在の人事院相当)直轄下の官僚育成機関。官僚候補生である学生(がくしょう)に対する教育と試験及び儒教に於ける重要儀式である釈奠(せきてん/しゃくてん/さくてん:孔子及び儒教に於ける先哲を先師先聖として祀る儀式)を執行した。「新潮日本古典集成」(西尾光一・小林保治校注/昭和五八(一九八三)年刊)の同書の注に、平安後期の宇治左大臣藤原頼長の日記「台記(たいき)」の久安二(一一四六)年四月一日の条に、『「大神宮つねに来臨す。肉を供ふるなかれ」との文宣王(孔子)の夢告によって獣肉の供えは廃された、という本話と類似する記事が見える』とある。]

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 ばくてりやの世界

 

  ばくてりやの世界

 

ばくてりやの足、

ばくてりやの口、

ばくてりやの耳、

ばくてりやの鼻、

 

ばくてりやがおよいでゐる。

 

あるものは人物の胎内に、

あるものは貝るゐの内臟に、

あるものは玉葱の球心に、

あるものは風景の中心に。

 

ばくてりやがおよいでゐる。

 

ばくてりやの手は左右十文字に生え、

手のつまさきが根のやうにわかれ、

そこからするどい爪が生え、

毛細血管の類はべたいちめんにひろがつてゐる。

 

ばくてりやがおよいでゐる。

 

ばくてりやが生活するところには、

病人の皮膚をすかすやうに、

べにいろの光線がうすくさしこんで、

その部分だけほんのりとしてみえ、

じつに、じつに、かなしみたえがたく見える。

 

ばくてりやがおよいでゐる。

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」、「たえがたく」はママ(以下の初出も同じ)。この重度の強迫神経症か統合失調症の幻視のような関係妄想的展開が、こたえられぬほどに青年期の私の心臓を撲(う)った。朔太郎の病原性は私の惨めな青春のトラウマ(心傷)から秘かに侵入し、感染し、その落魄れた魂を致命的に冒した。そのマゾヒスティクな精神の傷みは密やかな至高の麻薬であった。

 初出は『卓上噴水』大正四(一九一五)年五月。殆んど変化はないが、初出形を以下に示す。

   *

 

  ばくてりやの世界

 

ばくてりやの足

ばくてりやの口

ばくてりやの耳

ばくてりやの鼻

 

ばくてりやがおよいで居る

 

あるものは人物の胎内に

あるものは貝るいの内臟に

あるものは玉葱の球心に

あるものは風景の中間に

 

ばくてりやがおよいで居る

 

ばくてりやの手は左右十文字に生え

手のつまさきが根のやうにわかれ

そこからするどい爪が生え

毛細血管の類はべたいちめんにひろがつて居る

 

ばくてりやがおよいで居る

 

ばくてりやが生活するところには

病人の皮膚をすかすやうに

べにいろの光線がうすくさしこんで

その部分だけほんのりとして見え

じつにじつにかなしみたえがたく見える。

 

ばくてりやがおよいでゐる。

 

   *

「貝るい」はママ。]

 

Minomus1

Minomus2

 

[やぶちゃん注:前の「春夜」の終りの二連が右ページで、その左ページに、私の好きな、田中恭吉の以下の仮題(恐らくは萩原朔太郎による)「こもるみのむし」の絵がある。生誕百二十年記念として和歌山県立近代美術館で催された「田中恭吉展」「出品目録」PDF)よれば、大正四(一九一五)年二月から三月頃の作で(インク・紙)とある。カラーで取り込んだものは補正していないものであるが、右上のハレーションが気になるので、エッジが粗くなるが、モノクロームに変換したものを後に掲げた。]

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 春夜

 

  春  夜

 

淺利のやうなもの、

蛤のやうなもの、

みぢんこのやうなもの、

それら生物の身體は砂にうもれ、

どこからともなく、

絹いとのやうな手が無數に生え、

手のほそい毛が浪のまにまにうごいてゐる。

あはれこの生あたたかい春の夜に、

そよそよと潮みづながれ、

生物の上にみづながれ、

貝るゐの舌も、ちらちらとしてもえ哀しげなるに、

とほく渚の方を見わたせば、

ぬれた渚路には、

腰から下のない病人の列があるいてゐる、

ふらりふらりと步いてゐる。

ああ、それら人間の髮の毛にも、

春の夜のかすみいちめんにふかくかけ、

よせくる、よせくる、

このしろき浪の列はさざなみです。

 

[やぶちゃん注:「淺利」はママ(現行「浅蜊」と表記し、全集も例の強制補正でそうなってしまっているが、アサリ(斧足綱マルスダレガイ目マルスダレガイ科アサリ属アサリ Ruditapes philippinarum)の和名は「浅」い場所に棲息すること、「さり」は砂「利」(さり・じゃり)で砂のことを指すことに由来するから、「淺利」を誤字として書き換えるのは私にはいただけない)。幼年期より海産無脊椎動物に異様に興味を持ち続け、小学五年で小泉八雲の怪談・奇談にのめり込んだ私が、中学時代に萩原朔太郎に致命的に惹きつけられてしまうことになったのは、まさにこの一篇によってであった。初出は『ARS』(創刊号)大正四(一九一五)年四月号。殆んど変化はないが、初出形を以下に示す。

   *

 

  春夜

 

淺利のやうなもの、

蛤のやうなもの、

みぢんこのやうなもの、

それら生物の身體は砂にうもれ、

どこからともなく、

絹糸のやうな手が無數に生え、

手のほそい毛が浪のまにまにうごいて居る、

あはれこの生あたたかい春の夜に、

そよそよと潮みづながれ、

生物の上にみづながれ、

貝類の舌もちらちらとしてもえ哀しげなるに、

遠く渚の方を見わたせば、

ぬれた渚路には、

腰から下のない病人の列があるいて居る、

ふらりふらりと步いて居る、

ああ、それら人間の髮の毛にも、

春の夜のかすみいちめんにふかくかけ、

よせくる、よせくる、

この白き浪の列はさざなみです。

 

   *]

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 椅子

 

  椅  子

 

椅子の下にねむれるひとは、

おほひなる家(いへ)をつくれるひとの子供らか。

 

[やぶちゃん注:「おほひなる」はママ。初出は山村暮鳥個人誌『LEPRISME』(第二号)大正五(一九一六)年五月号(雑誌名は表記はネット上で調べると信頼の措けそうなページや学術論文でさえも、中黒がなかったり、「Le Prisme」だったり、「LE PRISM」だったりと、ひどい有様なので、雑誌原物の画像を確認しようと思ったのだが、画像検索「山村暮鳥 LE PRISME」で上ってくるのは私のブログの私の少年期の写真(!)だったりして、お手上げ(この嘘のような本当は、私が昨年、このブログで「山村暮鳥全詩」(完遂)を手掛けた結果である)。筑摩書房版脚注のそれを採用した)。閑話休題。初出形は以下。

   *

 

  椅子(静物よりきたる感覺の象徴)

 

椅子のかげにねむれるひとは

おほひなる家をつくれる人の子供らか。

 

   *

「おほひなる」はママ。]

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 内部に居る人が畸形な病人に見える理由

 

 

 

く さ つ た 蛤

 

 

 

  なやましき春夜の感覺とその疾患

 

[やぶちゃん注:パート標題「くさつた蛤」(左ページ)の見返し裏の掲辞。]

 

 

 

  内部に居る人が畸形な

  病人に見える理由

 

わたしは窓かけのれいすのかげに立つて居ります、

それがわたくしの顏をうすぼんやりと見せる理由です。

わたしは手に遠めがねをもつて居ります、

それでわたくしは、ずつと遠いところを見て居ります、

につける製の犬だの羊だの、

あたまのはげた子供たちの步いてゐる林をみて居ります、

それらがわたくしの瞳(め)を、いくらかかすんでみせる理由です。

わたしはけさきやべつの皿を喰べすぎました、

そのうへこの窓硝子は非常に粗製です、

それがわたくしの顏をこんなに甚だしく歪んで見せる理由です。

じつさいのところを言へば、

わたくしは健康すぎるぐらひなものです、

それだのに、なんだつて君は、そこで私をみつめてゐる。

なんだつてそんなに薄氣味わるく笑つてゐる。

おお、もちろん、わたくしの腰から下ならば、

そのへんがはつきりしないといふのならば、

いくらか馬鹿げた疑問であるが、

もちろん、つまり、この靑白い窓の壁にそうて、

家の内部に立つてゐるわけです。

 

[やぶちゃん注:標題の途中改行はママ。本標題は底本詩集中、最も長い題で事実上、版組の一行には入りきらない。但し、改行の結果として、詩篇本文の二行目のみが掲げられ(左ページ)、読ませるには、右ページの掲辞と相俟って、次の袋を切って読みたくなる欲求を惹起させる、非常に効果的な版組とはなっている(そこまで計算したとは思えぬが)。改行は太字は傍点「ヽ」。標題の「畸形な」の「な」に限っては「奈」の崩し字体。「ぐらひ」はママ。「につける」は金属のニッケル(nickel:元素記号 Ni)。初出は『ARS』大正四(一九一五)年六月号(第一巻第三号)。有意に異なる初出形は、既に内部に居る人が病氣に見える理由 萩原朔太郎(「内部に居る人が畸形な病人に見える理由」初出形)で電子化済みであるのでそちらを参照されたいが、その初出の最終行は、「もちろん、この高い窓の内側にある理由(わけ)です。」となっており、少なくとも、この初出形では、最後まで読んだ読者はフィード・バックして、標題のそれを含め、総ての詩篇内の「理由」を「わけ」と訓じて再鑑賞することを詩人は望んでいるように理解する(少なくとも私はそうである)と思われる。但し、本「月に吠える」版の決定稿はそうした強制力は持たないから、やはりここでは普通に「りゆう」でよいのであろう。]

 

Gakou3

 

[やぶちゃん注:「内部に居る人が畸形な病人に見える理由」の「なんだつてそんなに薄氣味わるく笑つてゐる。」以下の六行が右ページで、その左に以上の田中恭吉の画稿より採った絵が掲げられる。これも同じく薬包紙に描かれたものと推定される。]




2018/10/30

和漢三才圖會第四十三 林禽類 百舌鳥(つぐみ) (ツグミ)

Tugumi

 

つくみ      反舌 𪆰

         舎羅【梵書】

百舌鳥

 鶫【音東】 馬鳥

        【和名豆久見】

ヘツシヱツニヤウ

 

本綱百舌鳥居樹孔窟穴中狀如鴝鵒而小身畧長灰黑

色微有斑喙亦尖黑行則頭俯好食蚯引立春後則鳴

囀不已夏至後則無聲十月後則藏蟄人或畜之冬月則

死此鳥陰鳥也能反舌囀又如百鳥聲故名百舌反舌周

書月令芒種後十日反舌無聲謂之陰息

按百舌鳥【俗云眞豆久見】狀如鸜鵒灰黑色京師毎除夜炙

 食之爲祝例矣倭名抄用鶫字又一名馬鳥【字義未詳】然其

 馬鳥又誤今稱鳥馬

 

 

つぐみ      反舌

 𪆰〔(かつかつ)〕

         舎羅【梵書。】

百舌鳥

 鶫【音、「東」。】

         馬鳥〔(まてう)〕

        【和名、「豆久見」。】

ヘツシヱツニヤウ

 

「本綱」、百舌鳥、樹〔の〕孔・窟穴の中に居〔(を)〕り。狀、鴝鵒〔(くよく)〕のごとくして小さく、身、畧(ほゞ)長く、灰黑色。微かに斑有り。喙も亦、尖り、黑し。行くときは、則ち、頭を俯す。好んで蚯引(みゝず)を食ふ。立春の後、則ち、鳴き囀り〔て〕已まず。夏至の後、則ち、聲、無し。十月の後、則ち、藏蟄〔(あなごもり)〕す。人、或いは之れを畜ふ。冬月には則ち、死す。此の鳥、陰鳥なり。能く、舌を反〔(かへ)〕して囀る。又、百鳥の聲のごとし。故に「百舌〔ひやくぜつ〕」「反舌」と名づく。「周書」の「月令〔(がつりやう)〕」に『芒種の後、十日、反舌、聲、無し。之れを「陰息」と謂ふ』〔と〕。

按ずるに、百舌鳥【俗に「眞豆久見〔(まつぐみ)〕」と云ふ。】の狀〔(かたち)〕、鸜鵒〔(くろつぐみ)〕のごとく、灰黑色。京師、毎除夜に之れを炙り食ひ、祝例と爲す。「倭名抄」、「鶫」の字を用ふ。又、一名「馬鳥」【字義、未だ詳かならず。】。然れども、其の「馬鳥」を又、誤りて、今、鳥馬(ちやうま[やぶちゃん注:ママ。])と稱す。

[やぶちゃん注:スズメ目ツグミ科ツグミ属ツグミ Turdus eunomus 及びハチジョウツグミ Turdus naumanniウィキの「ツグミ」によれば、中華人民共和国南部・台湾・日本・ミャンマー北部・ロシア東部に分布し、『夏季にシベリア中部や南部で繁殖し、冬季になると中華人民共和国南部などへ南下し』、『越冬する』。本邦には『冬季に越冬のため』、『飛来(冬鳥)する』。『和名は冬季に飛来した際に聞こえた鳴き声が』、『夏季になると聞こえなくなる(口をつぐんでいると考えられた)ことに由来するという説がある』。全長二十四 センチメートル、翼開長三十九センチメートル。『色彩の個体変異が大きく、ハチジョウツグミとの中間型もいる』。『嘴の色彩は黒く、下嘴基部は黄色』。『後肢の色彩はピンクがかった褐色』。『頭頂から後頸の羽衣は黒褐色、背の羽衣は褐色』。『喉から胸部は淡黄色、胸部から腹部の羽衣は羽毛の外縁(羽縁)が白い黒や黒褐色』。『尾羽の色彩は褐色や黒褐色』。『翼の色彩は黒褐色で、羽縁は赤褐色』。『雌雄ほぼ同色である』。『平地から山地にかけての森林、草原、農耕地などに生息する』。『越冬地では』、『まず山地の森林に群れて生息し、その後に平地へ移動し分散する』。『鳴き声(地鳴き)が和名の由来になったとする説(この場合』、「ミ」は『「鳥」や「群れ」を指す』「メ」が『なまったとされる。)もある』。『食性は雑食で、昆虫、果実などを食べる』。『農耕地や河原などの開けた地表で採食を行う』。一方、ハチジョウツグミは『夏季にシベリア北部で繁殖し、冬季になると中華人民共和国北部へ南下し越冬する』。『日本では冬季に越冬のため』、『少数が飛来(冬鳥)する』。『和名は八丈島で捕獲されたことに由来する』。『上面の羽衣は緑褐色や灰褐色、黒褐色』。『下面の羽衣は赤褐色や赤みを帯びたオレンジ色で、胸部から腹部は羽縁が淡褐色』。『尾羽の色彩は赤褐色や赤みを帯びたオレンジ色で』、『中央尾羽の色彩は黒い』とある。

「鴝鵒〔(くよく)〕」大変、困るのであるが、「鸜鵒(くろつぐみ)(ハッカチョウとクロツグミの混同)」で見たように良安は「ハッカチョウ」と「クロツグミ」を混同している。しかも更にさらに困ったことに、良安はこれ以前に「原禽類 吐綬雞(とじゆけい)(ジュケイ類)」その他で、「鴝鵒」を「ヒヨドリ」(スズメ目ヒヨドリ科ヒヨドリ属ヒヨドリ Hypsipetes amaurotis)とも誤認してしまうという致命的なミスを犯してしまっているのである。これは「本草綱目」の記載であり、これはヒヨドリでもクロツグミでもなく、スズメ目ムクドリ科ハッカチョウ属ハッカチョウ Acridotheres cristatellus を指すと考えねばならないのである。

「十月の後」十月過ぎて。

「舌を反〔(かへ)〕して囀る」これは、鳴き声よりも、彼らが地上で摂餌する際、そり返るように胸を張って立ち止まる様子からの、それではないか? そもそも、どうも「百鳥の聲のごとし」『故に「百舌〔ひやくぜつ〕」』というのは納得が行かない。そんな物真似の天才ではない。寧ろ、他の鳥の真似を非常に器用によくするのは、私にとっての真正の「百舌」=スズメ目スズメ亜目モズ科モズ属モズ Lanius bucephalus である。時に、序でにフライングして言ってしまうと、良安が命名の由来は解らないとしている、ツグミの異名である「馬鳥」(まちょう)というのは、まさにこの独特の目立つ摂餌行動、両足を揃えて数歩ピョンピョンと歩いては、立ち止まり、胸をそらしては、静止するという独特のポーズ(実際には索餌と同時に外敵に対する周囲への警戒監視行動である)が、地面を跳ねるように見えることかから、かくついたと考えられる。

「周書」これは「礼記」の良安の誤りであろう。

「鸜鵒〔(くろつぐみ)〕」ここは良安の謂いで、叙述から見て、混同している内の、真正のスズメ目ツグミ科ツグミ属クロツグミ Turdus cardis であると断定してよい。]

古今百物語評判卷之五 第二 蜘蛛の沙汰幷王守乙が事

 

  第二 蜘蛛の沙汰王守乙(わうしゆいつ)が事

 

Kumo

 

[やぶちゃん注:以下、底本では総て「蟲」であるが、原典を見ると、総て「虫」であるので、今回はそれに従った。途中の漢字の「へん」を表わす部分が「蟲篇」では如何にも無理があるからである。]

 

一人のいはく、「そのかみ、源氏相傳の名劔(めいけん)に『蛛切(くもきり)』と申(まうす)、御座候ふよし、「太平記」にしるせり。さしも賴光の名將にて、土蛛(つちぐも)ほどの物におそはれ給ふべきは心得がたく侍る」と問(とひ)ければ、先生、評していはく、「此事、さもあるべし。蜘蛛はちいさき虫なれども、智のおそろしき物なりとて、文字にも「虫」篇(むしへん)に「知」の字をかき、又、網にふれたる物を誅(ころ)する[やぶちゃん注:ルビは原典のママ。]義ある故に、「蛛」の字を書(かけ)り。是、「誅」の字をかたどる心なり。それ、春の蝶の、園をたづねて、花をすひ、秋の蟬の、林をもとめて、露をなむるも、皆、智のなすところなるに、何とて蜘(くも)のみ、智ある名には立ちけるぞや。まことに一寸の虫に五分の魂なきも侍らねど、花をすひ、露をなむるは、たゞ身のうへの事のみなり。それ、蜘は、もろもろのむしの心をはかりて、事なきに網をまうけ、懸らんものを己(おのれ)が餌(えば)にせんと、たくめる事、惡智のなせる處なり。此心を長じもてゆきたる大蛛(おほぐも)は、人をも害するたくみ、ありつべし。此故に、もろこしの人も、にくめるにや。王守乙といへる人は、蜘の網をみる每(ごと)に、杖もて、破り侍り。人、その故を問(とひ)けるに、「天地の間(あひだ)、飛びかけるたぐひ、みな、身を動して、口腹のたすけとせるに、たゞ蜘のみ、さがなきたくみをなして、物の命をそこなひて、身を養ひけるをにくみて、かく、やぶる」とぞ云へりとかや」。

[やぶちゃん注:「源氏相傳の名劔(めいけん)に『蛛切(くもきり)』と申(まうす)、御座候ふよし、「太平記」にしるせり」源家の伝家の宝刀のそれについては、所謂、「剣巻」と呼ばれる特異な軍記物の附録のようなものに載る。「平家物語」の幾つかの伝本や「源平盛衰記」に附帯するものが知られているが立国会図書館デジタルコレクション奈良絵本平家物語剣之巻の解題に、『源氏重代の名剣の由来を述べたもので』、「平家物語」の『屋代本、百二十句本に付されており、覚一本などの諸本にある「剣巻」とは、内容が異なる』とし、この「剣巻」は『江戸時代には』「太平記」の『版本にも付載されたので、「太平記剣巻」とも呼ばれる』とある。生憎、私は「剣巻」を含む、それらの軍記物の活字本を所持しないのだが、今回、国立国会図書館デジタルコレクションので通読し、また、絵本太平記も併読したところ、頼光絡みの部分は基本的にほぼ同一の内容であることが判った。ウィキの「髭切によれば、大元は平安時代の清和源氏六孫王源経基の嫡男であった武官貴族源満仲(延喜一二(九一二)年~長徳三(九九七)年)が、天下守護のために「髭切」と「膝丸」の二腰の剣を作らせた内の、「膝丸」がそれ(「源平盛衰記」にはともに二尺七寸(一メートル三センチ弱)の太刀とされている)。ゴースト・バスターのチャンピオン源頼光(天暦二(九四八)年~治安元(一〇二一)年)の手に伝えられ、大山蜘蛛(この伝承を元にした謡曲「土蜘蛛」によってその名で大ブレイクした)退治したことから、名を「膝丸」から「蜘蛛切」と改名したと伝える。

「土蛛(つちぐも)ほどの物におそはれ給ふべきは心得がたく侍る」「平家物語」の「剣巻」では、化蜘蛛に最後に襲われた際、生憎、頼光は瘧病(わらわやみ:マラリア)を患っていたから、それに乗じて来襲したのであって、この質問者へはその事実を語るべきところであろう、元隣は医師でもあるのだから。しかもしっかり頼光は一刀の下に決定的な傷手を与えているのだから。

「蜘蛛はちいさき虫なれども、智のおそろしき物なりとて、文字にも「虫」篇(むしへん)に「知」の字をかき、又、網にふれたる物を誅(ころ)する義ある故に、「蛛」の字を書(かけ)り。是、「誅」の字をかたどる心なり」漢字の成立史(特に対象とそれから受けた印象と漢字音の強い関連性)から見て、この「ご隠居」元隣の解説に、思わず「熊さん」「八さん」になりそうになるが、彼の解字は概ね、マッカな嘘である可能性が頗る高い。元隣の言っているようにもっともらしく「誅」を説明している記載も見かけるが、この「朱」は「動かない」の原義で、「蛛」はシンプルに「巣を張って殆んど動かずに生きている生き物」というのが正しいようである。因みに、本文にある通り、「蜘」だけでもクモを指す。

「事なきに」何の苦労もせずに。

「餌(えば)」「餌食(えばみ)」の転訛した語。

「王守乙」不詳。出典も未詳。お手上げ。]

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 蛙の死

 

  蛙 の 死

 

蛙が殺された、

子供がまるくなつて手をあげた、

みんないつしよに、

かはゆらしい、

血だらけの手をあげた、

月が出た、

丘の上に人が立つてゐる。

帽子の下に顏がある。

            幼年思慕篇

 

[やぶちゃん注:「悲しい月夜」パートの掉尾に置かれている。私が最も偏愛する一篇。ここには恐るべき「永遠の少年」(puer eternus:プエル・エテルヌス)のトラウマが隠されている。私はずっと昔から、この一篇をイメージ・ショート・フィルムに撮りたい欲求を抑えきれない。初出は『詩歌』大正四(一九一五)年六月号。特に大きな変化はない(但し、「幼年思慕篇」の附記はない)が、以下に示す。

   *

 

  蛙の死

 

蛙が殺された、

子供がまるくなつて手をあげた、

みんないつしよに、

可愛いらしい、

血だらけの手をあげた。

月が出た、

丘の上に人が立つて居た、

帽子の下に顏がある。

 

   *

個人的には映像的なシナリオとして読む時、初出は「血だらけの手をあげた。」の句点に軍配を挙げるが、共時的コントラプンクト(対位法)のモンタージュとしては「丘の上に人が立つてゐる。」の現在進行形がよい。例えば、モノクロで、

 

●蛙の断末魔(サウンド・エフェクト。オフで)

○殺された蛙。(フェイド・イン。ロング・ショットからゆっくりズーム・イン)【1ショット】

○丸くなって、手を挙げる子供たち。(上からフル・ショットで子どもたちが全方向からイン)【1ショット】

○みんな、一緒になって挙げる「かはゆらしい」、「血だらけの」手、手、手(カット・バック)【5ショットほどでよろしく】

○月の出。【1ショット】

○丘の上に立っている人。(ロング・ショット)【1ショット】

○夜の空。(ゆっくりティルト・ダウンして)帽子、そして帽子の庇、そして、その下の奥の翳に開く、両眼。【1ショット】

 

といった感じだ。]

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 干からびた犯罪

 

  干からびた犯罪

 

どこから犯人は逃走した?

ああ、いく年もいく年もまへから、

ここに倒れた椅子がある、

ここに兇器がある、

ここに屍体がある、

ここに血がある、

そうして靑ざめた五月の高窓にも、

おもひにしづんだ探偵のくらい顏と、

さびしい女の髮の毛とがふるへて居る。

 

[やぶちゃん注:「屍体」及び「そうして」はママ。私の偏愛する一篇。初出は『詩歌』大正四(一九一五)年六月号。「ああ、」の読点がなく字空け、「いく年もいく年も」が「何年も何年も」、「死体」が「死體」、「おもひにしづんだ探偵のくらい顏と、」が「想(おもひ)にしづんだ探偵のくらい顏と、」となっている以外は変更はない(「そうして」は初出でも同じである)。]

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 酒精中毒者の死

 

  酒精中毒者の死

 

あふむきに死んでゐる酒精中毒者(よつぱらひ)の、

まつしろい腹のへんから、

えたいのわからぬものが流れてゐる、

透明な靑い血醬と、

ゆがんだ多角形の心臟と、

腐つたはらわたと、

らうまちすの爛れた手くびと、

ぐにやぐにやした臟物と、

そこらいちめん、

地べたはぴかぴか光つてゐる、

草はするどくとがつてゐる、

すべてがらぢうむのやうに光つてゐる。

こんなさびしい風景の中にうきあがつて、

白つぽけた殺人者の顏が、

草のやうにびらびら笑つてゐる。

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。「血醬」はママ。「血漿」が正しい。私の偏愛する一篇。初出は『詩歌』大正四(一九一五)年六月号であるが、標題は「酒精中害者の死體」である。細かな部分の表記上の複数の異同以外は変わらないが、初出形全体と、その後の「月の吠える」再版(大正一一(一九二二)年三月アルス刊)以降の変遷について、酒精中害者の死體 萩原朔太郎(「酒精中毒者の死」初出形 附同詩形全変遷復元)で少しマニアックに電子化しているので参照されたい。

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 危險な散步

 

  危險な散步

 

春になつて、

おれは新らしい靴のうらにごむをつけた、

どんな粗製の步道をあるいても、

あのいやらしい音がしないやうに、

それにおれはどつさり壞れものをかかへこんでる、

それがなによりけんのんだ。

さあ、そろそろ步きはじめた、

みんなそつとしてくれ、

そつとしてくれ、

おれは心配で心配でたまらない、

たとへどんなことがあつても、

おれの歪んだ足つきだけは見ないでおくれ。

おれはぜつたいぜつめいだ、

おれは病氣の風船のりみたいに、

いつも憔悴した方角で、

ふらふらふらふらあるいてゐるのだ。

 

[やぶちゃん注:太字「ごむ」は底本では傍点「ヽ」。初出は『詩歌』大正四(一九一五)年六月号。「それにおれはどつさり壞れものをかかへこんでる、」が「それにおれはどつさり壞(こは)れものをかかへこんでゐる、」となっており、「そろそろ步きはじめた」が「そろそろ步きはぢめた」、「おれは心配で心配でたまらない、」は「じつさいおれは心配で心配でたまらない、」、「おれは病氣の風船のりみたいに、」は「だから病氣の風船乘りみたいに、」、「あるいて」が「步いて」となっている。]

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 死

 

  

 

みつめる土地(つち)の底から、

奇妙きてれつの手がでる、足がでる、

くびがでしやばる、

諸君、

こいつはいつたい、

なんといふ鷲鳥だい。

みつめる土地(つち)の底から、

馬鹿づらをして、

手がでる、

足がでる、

くびがでしやばる。

 

[やぶちゃん注:初出は『詩歌』大正三(一九一四)年十一月号。七行目の「土地」にルビがない以外は、全く同じである。]

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 悲しい月夜

 

  悲しい月夜

 

ぬすつと犬めが、

くさつた波止場の月に吠えてゐる。

たましひが耳をすますと、

陰氣くさい聲をして、

黃いろい娘たちが合唱してゐる、

合唱してゐる、

波止場のくらい石垣で。

 

いつも、

なぜおれはこれなんだ、

犬よ、

靑白いふしあはせの犬よ。

 

[やぶちゃん注:詩集の題名由来の一篇であり、救い難い強烈な孤独感が表白されている。初出は『地上巡禮』大正三(一九一四)年十二月号。「くさつた波止場の月に吠えてゐる。」が「くさつた波止場の月に吠江て居る。」(「江」はその崩し字)、二箇所の「合唱」は孰れも「合唄」と表記し、「おれ」は「俺」、「ふしあわせ」は「不仕合せ」となっている以外は、変更はない。]

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 かなしい遠景


悲 し い 月 夜

 

 

Kanasikitukiyo

 

[やぶちゃん注:パート標題(左ページ。その右ページは前の「焦心」の末尾)。その次の次の左ページに、以上の田中恭吉の画稿から採ったこのペン画が現われる(少しだけハイライトを加えて補正した)。やはり前と同じく、赤い肺結核であった恭吉自身の飲んだ後の薬包紙に描いたものと思われる。左右にはローマ字が記されてあるが、上手く判読出来ない。左手は上から「わがみの」「まくろき」「ま*aoの」「ひらめき」、右手は上から「そこーより」(?)「かげひき」「はてまで」「のぼれ」、か? 右下はローマ数字らしいが、「MCCⅩⅤ」か? これだと「19115」で、或いは「一九一一年五月」とすれば、明治四十四年五月となるが、恭吉の肺結核発症は大正二(一九一三)年で薬包紙使用と齟齬することになる。判読がお出来になられた方は、是非、お教え願いたい。

 

 

 

  かなしい遠景

 

かなしい薄暮になれば、

勞働者にて東京市中が滿員なり、

それらの憔悴した帽子のかげが、

市街(まち)中いちめんにひろがり、

あつちの市區でも、こつちの市區でも、

堅い地面を堀つくりかへす、

堀り出して見るならば、

煤ぐろい嗅煙草の銀紙だ。

重さ五匁ほどもある、

にほひ菫のひからびきつた根つ株だ。

それも本所深川あたりの遠方からはじめ、

おひおひ市中いつたいにおよぼしてくる。

なやましい薄暮のかげで、

しなびきつた心臟がしやべるを光らしてゐる。

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。二箇所の「堀」はママ。既に述べた通り、朔太郎の書き癖である。無論、「掘」が正しい。この一篇、プロレタリア詩の中に作者名を伏せて潜ませれば、誰もがそれらしい無名の労働者の詩だ、とその象徴詩の巧妙な罠に気づかずに納得してしまうのではなかろうか?

「五匁」(ごもんめ)は一八・七五グラム。

「にほひ菫」種としては、双子葉植物綱スミレ目スミレ科スミレ属ニオイスミレ Viola odorata。西アジアからヨーロッパ・北アフリカの広い範囲に分布し、バラ・ラヴェンダーと並ぶ香水の原料花として古くから栽培されている。草丈は一〇~一五センチメートル、茎は匍匐して葉は根生、他のスミレ類と同じくハート形。花は露地植えでは四月から五月にかけて咲き、左右相称の五弁花で菫色又はヴァイオレット・カラーと呼ばれる明るい藍色が基本であるが、薄紫・白・淡いピンクなどもあって八重咲きもある。パンジーやヴィオラに比べると花も小さく、花付きも悪いが、室内に置くと一輪咲いているだけで部屋中が馥郁たる香りに包まれるほどの強い香りがある(以上はウィキの「ニオイスミレ」に拠った)。但し、ここは「にほひ菫」という可憐な呼称が喚起する、幻想植物と採るべきところであろう。

 初出は『詩歌』大正四(一九一五)年一月号であるが、標題が異なり、単に「遠景」とする。「かなしい」が「哀しい」、「それらの憔悴した帽子のかげが、」は「それらの憔悴した紫色の顏が、」で、「市街(まち)」は「巷街(まち)」、「ひろがり」は「ひろごり」、「あつち」と「こつち」には傍点「ヽ」が附され、「ひからびきつた」は「干(ひ)からびきつた」で同行末「根つ株だ。」は「根つ株だ、」と読点になっている。また、最後の二行は大きく改変され、

   *

東京市中いちめんにおよんで、

空腹の勞働者がしやべるを光らす。

   *

となっている。初出全形は既に遠景 萩原朔太郎(「かなしい遠景」初出)で電子化しているので参照されたい。]

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 焦心

 

  焦 心

 

霜ふりてすこしつめたき朝を、

手に雲雀料理をささげつつ步みゆく少女あり、

そのとき並木にもたれ、

白粉もてぬられたる女のほそき指と指との𨻶間(すきま)をよくよく窺ひ、

このうまき雲雀料理をば盜み喰べんと欲して、

しきりにも焦心し、

あるひとのごときはあまりに焦心し、まつたく合掌せるにおよべり。

 

[やぶちゃん注:太字「あるひと」は底本ではの傍点「ヽ」。「雲雀料理」パートの掉尾の詩篇である。初出は『地上巡禮』大正四(一九一五)年一月号。四行目

「白粉もてぬられたる女のほそき指と指との𨻶間(すきま)をよくよく窺ひ、」

「化粧せる女の白き指と皿との𨻶間(すきま)をよくよく窺ひ、」

と大きく異なる。「このうまき」が「この」、「およべり」が「及べり」となっている。

 因みに、筑摩版全集校訂本文では正字統一方針に従い、「並木」を勝手に「竝木」にしてしまっている。こんな暴挙はあってはならない。萩原朔太郎は一度としてここを「竝木」とは書かなかったのであるのに、である。

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 天景

 

  天  景

 

しづかにきしれ四輪馬車、

ほのかに海はあかるみて、

麥は遠きにながれたり、

しづかにきしれ四輪馬車。

光る魚鳥の天景を、

また窓靑き建築を、

しづかにきしれ四輪馬車。

 

[やぶちゃん注:韻律から「四輪馬車」は「しりんばしや(しりんばしゃ)」、「魚鳥」は「ぎよてう(ぎょちょう)」と読みたい。初出は『地上巡禮』大正三(一九一四)年一一月号。「麥は遠きにながれたり、」の読点が句点で、次の四行目「しづかにきしれ四輪馬車。」の句点が読点である以外は変更はない。リフレインと計算された韻律が軋るサウンド・エフェクトに合わせて、風景がカット・バック風にモンタージュされる、すこぶる音楽的にして映像的な優れた、一読で暗記させられてしまう魔術的短詩である。]

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 掌上の種

 

  掌上の種

 

われは手のうへに土(つち)を盛り、

土(つち)のうへに種をまく、

いま白きぢようろもて土に水をそそぎしに、

水はせんせんとふりそそぎ、

土(つち)のつめたさはたなごころの上にぞしむ。

ああ、とほく五月の窓をおしひらきて、

われは手を日光のほとりにさしのべしが、

さわやかなる風景の中にしあれば、

皮膚はかぐはしくぬくもりきたり、

手のうへの種はいとほしげにも呼吸(いき)づけり。

 

[やぶちゃん注:太字「ぢようろ」は底本では傍点「ヽ」。本詩集刊行までの未発表詩。]

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 雲雀料理

 

  雲雀料理

 

ささげまつるゆふべの愛餐、

燭に魚臘のうれひを薰じ、

いとしがりみどりの窓をひらきなむ。

あはれあれみ空をみれば、

さつきはるばると流るるものを、

手にわれ雲雀の皿をささげ、

いとしがり君がひだりにすすみなむ。

 

[やぶちゃん注:パート標題と同題の詩篇。「魚臘」はママであるが、筑摩版全集では編者によって誤字と断ぜられて、強制補正で「魚蠟」とされている(ここは正しい補正であるが、以前にも本カテゴリで文句を言ったが、この強制補正を校訂本文に問答無用で行うというのは、私は如何なものかと考えている。解説を含め、前漢字が正字表記という優れた全集なだけに、ちょっと残念な点である)。「魚臘」では中国語で魚の干物であるが、「魚蠟」(ぎよらふ(ぎょろう))なら、魚油から作った蠟で、粗悪な蠟燭などに用いたそれで腑に落ちる。点ずるとかなりの生臭さが漂う。

 初出は『地上巡禮』大正三(一九一四)年十一月号。「ゆふべ」が「夕べ」、「薰」に「くん」のルビ、「ひらきなむ」が「開きなむ」、「流るる」が「ながゝる」、「ささげ」が「捧げ」である他は、変更はない。]

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 盆景

 

  盆  景

 

春夏すぎて手は琥珀、

瞳(め)は水盤にぬれ、

石はらんすゐ、

いちいちに愁ひをくんず、

みよ山水のふかまに、

ほそき瀧ながれ、

瀧ながれ、

ひややかに魚介はしづむ。

 

[やぶちゃん注:「らんすゐ」については、私は以前にこのブログで、「盆景 萩原朔太郎 /……誰か馬鹿な僕の疑問に答えてくれ……」と本篇を掲げて、意味を問うたものであった(そこに書いたが私は盆景が大好きで、小学生の頃、亡き祖母と一緒に何度も作った。盆景の経験のある少年(元)というのは今では化石だろう)。すると、即座に古い教え子が反応して呉れた。それは『「らんすゐ」追跡1』で記してある。その後、怠け症の浮気男である私は、追跡をしていない(私のスランガステインは惨過ぎる)。そこで少し検索して見た。山本掌氏のブログ『「月球儀」&「芭蕉座」』の「萩原朔太郎「盆景」 <盆景>、ご存知でしょうか?」に、盆景の隆派「神泉流」の創始者で、日本盆景協会(ブログには百年前に創立とあり、山本氏の記事は二〇一六年のものだから、単純に引き算すると、大正五(一九一六)年。これは本詩集刊行の前年には当たる。但し、本詩篇の創作年月日は後に示す通り、大正三年八月十日である)を創設した小山潭水(明治一一(一八七八)年~昭和二一(一九四六)年)で、その『創設した方を、「たんすい」ならぬ「らんすい」といったものか』。『朔太郎、かなり朔太郎流に漢字をかえたりしていることもあるので』。『あるいは詩作品なので、名前を替えたのかも』という、かなりマニアックな仮説をお立てになっておられるのを見つけ、また、で、中国人が、本詩篇中国語訳簡体字)てお(以下の引用は注記号をカットし、題名のポイントを上げた)、

   《引用開始》

  盆景

春夏后双手化琥珀,

眼瞳在水中濡湿,

染上翠,

一切都浸透着愁意,

看啊那山水的深

涓涓瀑布流下,

瀑布流下,

贝类沉没在寒溪。

   《引用終了》

とあるのを発見した(「」は「過」、「」は「為」、「」は「盤」、「」は「頭」、「」は「嵐」、「」は「處」(処)、「」は「魚」、「贝类」は「貝類」の簡体字で、「」は「沈」の異体字である)。この方は「らんすゐ」を私が当初、検討した「嵐翠」と採っておられる(注があり、そこには『翠,指山中绿色的气。』とある)。「嵐翠」の歴史的仮名遣は「らんすい」であるが、萩原朔太郎はかなり歴史的仮名遣を間違って使用しており、中には確信犯で表記を変えているケースもしばしば見かけるから、それは実はあまり問題ではない。ここまで私は、どうも、この中国語訳をされた方の説、「嵐翠」に従いたい気になってきてはいる。大方の御叱正を俟つものではある。

 本詩篇の初出は、『地上巡禮』大正三(一九一四)年九月号。「いちいちに愁ひをくんず、」が「いちいちに愁ひをかんず、」で大きな改変である他は、「ひややかに」が「ひやゝかに」の表記違いである。但し、詩篇の後に下インデントで『――一九一四、八、一〇――』のクレジットがある。

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 殺人事件

 

  殺人事件

 

とほい空でぴすとるが鳴る。

またぴすとるが鳴る。

ああ私の探偵は玻璃の衣裝をきて、

こひびとの窓からしのびこむ、

床は晶玉、

ゆびとゆびとのあひだから、

まつさをの血がながれてゐる、

かなしい女の屍體のうへで、

つめたいきりぎりすが鳴いてゐる。

 

しもつき上旬(はじめ)のある朝、

探偵は玻璃の衣裝をきて、

街の十字巷路(よつつぢ)を曲つた。

十字巷路に秋のふんすゐ。

はやひとり探偵はうれひをかんず。

 

みよ、遠いさびしい大理石の步道を、

曲者(くせもの)はいつさんにすべつてゆく。

 

[やぶちゃん注:「よつつぢ」はママ。正しい歴史的仮名遣は「よつつじ」。「晶玉」は「しやうぎよく(しょうぎょく)」で大理石などの美しい石。初出は『地上巡禮』大正三(一九一四)年九月号。「こひびと」が「戀びと」、「床」に「ゆか」とルビ、「しもつき上旬(はじめ)のある朝、」が「九月上旬(はじめ)のある朝、」であるのが大きな改変で、「十字巷路に秋のふんすゐ。」の方にも「よつつぢ」(ママ)のルビがあり、さらに「ふんすゐ」の後の句点は読点、「はやひとり探偵はうれひをかんず。」は「はやひとり、探偵はうれひを感ず。」と読点と漢字表記の違いがあり、「遠いさびしい」も「遠い寂しい」、「すべつてゆく」も「すべつて行く」となっている。この一篇は松本清張にどっぷりはまっていた中学時代に読んで、カット・バックとクロース・アップを多用し、サウンド・エフェクトも美事な、サスペンス映画のワン・シーン(例えば後のキャロル・リード(Carol Reed監督の「第三の男」(The Third Man・一九四九年製作・イギリス映画)を見るようなそれに、一気に惹かれたのを思い出す。私は当時から好きな詩を書き写す手帖を持っていたが、確かにこれをそこに綴ったのを懐かしく思い出す。九月上旬から十一月上旬に変えることで、シークエンスの冷感がいや増しにされて効果的なのではあるが、ただ、その結果として前段の「きりぎりす」が鳴いているのが、ありえないミス・シーンとなってしまっている(九月上旬なら問題ない)のが惜しまれる。]

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 苗

 

  

 

苗は靑空に光り、

子供は土地(つち)を掘る。

 

生えざる苗をもとめむとして、

あかるき鉢の底より、

われは白き指をさしぬけり。

 

Naenoato

 

[やぶちゃん注:見返しで二ページに分離しており、見開き右ページに「あかるき鉢の底より、」/「われは白き指をさしぬけり。」の二行があり、その左ページに田中恭吉の画稿から採ったこの鮮烈なペン画が現われる。赤い薬包紙(肺結核であった恭吉自身の飲んだ後のそれである)に赤インクで描かれたものである。これはサイト「文学マラソン」の「薬包紙に描かれた画(詩と画のコラボレーション)による情報である。そこには、『田中は萩原朔太郎』『からの依頼で『月に吠える』の装丁・挿画を引き受けます。得意の版画は体力的に厳しくなっており』(恭吉は大正二(一九一三)年頃に発症しており、療養のために郷里和歌山に帰っていた)『ペン画にすること、詩のイメージにこだわらない「わがままな画」で良いことを条件に引き受けました。切羽詰まった中でペンを運んだと思われ、赤い薬包紙に赤インクで描かれたものも』三『点含まれます。それらが彼の遺作となりました』。『田中が朔太郎にあてた手紙の一節に』は、

『私の肉体の分解が遠くないといふ予覚が私の手を着実に働かせて呉れました。兄の詩集の上梓されるころ私の影がどこにあるかと思ふさへ微笑されるのです。』

『とあります。自分の心情にぴったりの表現の場を得て、病いの中にあっても、心躍り、夢中になっているのが分かります。しかし、その言葉(「私の影がどこにあるか」)通り、『月に吠える』が上梓された』大正六年二月十五日(朔太郎三十歳)『には、田中はもうこの世にいなかった。死から』一年と三ヶ月『ほど経とうとしていました』。『『月に吠える』では、朔太郎の病的なまでに研ぎすまされた言葉の合間に、田中の画が姿を現します。「わがままな画」なので、詩を説明したような画ではありません。画が詩の添え物ではなく、画も詩と対等に存在し、相乗効果を生んでいるようです』とある。初版を読む者の見た目で示すために、右ページも含めて取り込んだ。地はもっと白いが、赤の色調の変質を考え、敢えて補正は行っていない。なお、本篇に限っては詩篇の初出はない。本詩集刊行までは全くの未発表の詩であったと考えられる。]

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 山居

 

  山 居

 

八月は祈禱、

魚鳥遠くに消え去り、

桔梗いろおとろへ、

しだいにおとろへ、

わが心いたくおとろへ、

悲しみ樹蔭をいでず、

手に聖書は銀となる。

 

[やぶちゃん注:初出は『詩歌』大正三(一九一四)年九月号。初出では「悲しみ」が「哀しみ」である。「悲しみ樹蔭をいでず、」が「悲しみ樹蔭をいです、」であるが、これはただの誤植。但し、詩篇後に下インデントで『――一九一四、八 吾妻山中にて――』と記す。]

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 雲雀料理(序詩)・感傷の手



 雲 雀 料 理

 




[やぶちゃん注:パート標題。左ページ。その裏に以下。活字は詩篇より有意にポイント落ちである。囲み線がブラウザ上では上手く引けないので、画像で示し、文章を改めてベタで後に示した。太字「ふおうく」は画像の通り、底本では傍点「ヽ」。]

 

Hibariryouri

 

五月の朝の新綠と薰風は私の生活を貴族にする。

したたる空色の窓の下で、私の愛する女と共に純

銀のふおうくを動かしたい。私の生活にもいつか

は一度、あの空に光る、雲雀料理の愛の皿を盜ん

で喰べたい。

 

 

 

  感傷の手

 

わが性のせんちめんたる、

あまたある手をかなしむ、

手はつねに頭上にをどり、

また胸にひかりさびしみしが、

しだいに夏おとろへ、

かへれば燕はや巢を立ち、

おほ麥はつめたくひやさる。

ああ、都をわすれ、

われすでに胡弓を彈かず、

手ははがねとなり、

いんさんとして土地を掘る、

いぢらしき感傷の手は土地を掘る。

 

[やぶちゃん注:初出は『詩歌』大正三(一九一四)年九月号。「をどり」が「跳り」、「しだいに」が「しだに」(これは脱字であろう)、「おほ麥」が「大麥(おほむぎ)」、「ああ、都をわすれ、」が「ああ都を忘れ、」、「われすでに胡弓を彈かず、」の読点がなく、二箇所の「掘る」が「堀る」(これは長年の電子化から朔太郎の癖と思う)である以外は変更はない。但し、詩篇末に下インデントで『――一九一四、八、三――』のクレジットがある。「かへれば」は多層的で、畳み掛けた表現で燕は「歸れば」(帰ってしまったので)――雰囲気としての動作としての「返れば」(ふと気になって振り返って見れば)――帰らぬ季節・時制の変化を示す「變れば」(様変わってしまって)等の響きを持たせているように私は感ずる。言わずもがなであるが、「はがね」は「鋼」、「いんさん」は「陰慘」である。「せんちめんたる」その他も含め、こうした意識的なひらがな表記は漢語の硬直したそれを軟体動物の蠢きのように変化させる朔太郎の内在律、錬金術的手法とも言える。]

2018/10/29

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 卵

 

  

 

いと高き梢にありて、

ちいさなる卵ら光り、

あふげば小鳥の巢は光り、

いまはや罪びとの祈るときなる。

 

Huyunoyuube

[やぶちゃん注:この詩篇は右(二十四ページ)にあり、その左に、田中恭吉「冬の夕」「夕は「ゆふべ」と読むか)が配されてある。大正三(一九一四)年の作。紙にインク・鉛筆。取り込み時に黄変したので、補正を加えてあるが、原版よりも見易い感じには仕上がっている。詩篇の初出は『地上巡禮』大正四(一九一五)年一月号。「ちひさなる」が「ちいさなる」、「あふげば」が「あほげば」、「罪びと」が「つみびと」で、最終行末は句点ではなく、読点となっている以外には変更はない。但し、これにも
詩の最後で改行して下方に『――淨罪詩扁――』(「扁」は「篇」の誤植であろう)と記すのは注目する必要があろう。なお、本詩篇を以って「竹とその哀傷」パートは終わっている。]

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 天上縊死

 

  天上縊死

 

遠夜に光る松の實に、

懴悔の淚したたりて、

遠夜の空にしも白ろき、

天上の松に首をかけ。

天上の松を戀ふるより、

祈れるさまに吊されぬ。

 

[やぶちゃん注:初出は『詩歌』大正四(一九一五)年一月号。「遠夜」に「とおよ」のルビ、「懴悔」が「懺悔」、「白き」が「しろき」、「吊されぬ」が「つるされぬ」で変更はない。但し、これにも詩の最後で改行して下方に『――淨罪詩扁――』(「扁」は「篇」の誤植であろう)と記すのは注目する必要があろう。]

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 冬

 

  

 

つみとがのしるし天にあらはれ、

ふりつむ雪のうへにあらはれ、

木木の梢にかがやきいで、

ま冬をこえて光るがに、

おかせる罪のしるしよもに現はれぬ。

 

みよや眠れる、

くらき土壤にいきものは、

懴悔の家をぞ建てそめし。

 

[やぶちゃん注:初出は『地上巡禮』大正四(一九一五)年三月号であるが、題名が「貘」と異なり、詩篇時代も大幅な改変がななされている。既に「貘 萩原朔太郎(「冬」初出形)で電子化しているが、再掲する。

   *

 

  

 

あきらかなるもの現れぬ、

つみとがのしるし天にあらはれ、

懺悔のひとの肩にあらはれ、

齒に現はれ、

骨に現はれ、

木木の梢に現はれ出で、

眞冬をこえて凍るがに、

犯せる罪のしるしよもにあらはれぬ。

           ――淨罪詩扁――

   *

「扁」は「篇」の誤植であろう。]

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 笛

 

  

 

あふげば高き松が枝に琴かけ鳴らす、

をゆびに紅をさしぐみて、

ふくめる琴をかきならす、

ああ かき鳴らすひとづま琴の音にもつれぶき、

いみじき笛は天にあり。

けふの霜夜の空に冴え冴え、

松の梢を光らして、

かなしむものの一念に、

懴悔の姿をあらはしぬ。

 

いみじき笛は天にあり。

 

[やぶちゃん注:四行目の末尾の意味がよく私には判らぬ。「縺れ吹き」か。初出は『地上巡禮』大正四(一九一五)年一月号。「あふげば」が「あほげば」、「をゆび」が「おゆび」、「ものの」が「ものゝ」、「懴悔」が「懺悔」であるだけで変更はない。但し、これにも詩の最後で改行して下方に『――淨罪詩扁――』(「扁」は「篇」の誤植であろう)と記すのは注目する必要があろう。]

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 龜

 

  

 

林あり、

沼あり、

蒼天あり、

ひとの手にはおもみを感じ

しづかに純金の龜ねむる、

この光る、

寂しき自然のいたみにたへ、

ひとの心靈(こゝろ)まさぐりしづむ、

龜は蒼天のふかみにしづむ。

 

[やぶちゃん注:「ひとの手にはおもみを感じ」の後に読点がないのはママ。初出には読点があり、全集も読点を打つが、「月に吠える」の再版でも「蝶を夢む」でも読点はないから、私は従わない。初出は『地上巡禮』大正四(一九一五)年一月号であるが、最後に『――十二月作――』のクレジットが入る。「ねむる」が「眠る」、「いたみ」が「傷(いた)み」、「耐へ」が「耐え」(「え」は「江」の崩し字)、ルビの「こゝろ」が「こころ」であるだけで、変更はない。]

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 すえたる菊

 

  すえたる菊

 

その菊は醋え、

その菊はいたみしたたる、

あはれあれ霜つきはじめ、

わがぷらちなの手ほしなへ、

するどく指をとがらして、

菊をつまむとねがふより、

その菊ばつむことなかれとて、

かがやく天の一方に、

菊は病み、

饐(す)えたる菊はいたみたる。

 

[やぶちゃん注:初出は『詩歌』大正四(一九一五)年一月号。「いたみしたたる」が「傷みしたゝる」(「傷」にはルビはない)、「ぷらちな」に傍点「ヽ」、「つまむ」が「摘まむ」、「つむ」が「摘む」、「かがやく」が「かゞやく」、最終行が「なやめる菊は傷(いた)みたる」となっている他、一篇目の「竹」と同じく、詩の最後で改行して下方に『――淨罪詩篇――』と記すのは注目する必要があろう。これによって、前の二篇目の「竹」に接いだような無題の奇妙な詩篇が、前(「竹」第一篇を含む)と後ろから響き合うように配置されているのだとも言えよう。]

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 竹 (同題異篇)

 

  

 

光る地面に竹が生え、

靑竹が生え、

地下には竹の根が生え、

根がしだいにほそらみ、

根の先より纎毛が生え、

かすかにけぶる纎毛が生え、

かすかにふるえ。

 

かたき地面に竹が生え、

地上にするどく竹が生え、

まつしぐらに竹が生え、

凍れる節節りんりんと、

靑空のもとに竹が生え、

竹、竹、竹が生え。

 

[やぶちゃん注:初出は、『詩歌』大正四(一九一五)年二月号。竹 萩原朔太郎(「月に吠える」の「竹」別ヴァージョン+「竹」二篇初出形)でも電子化してあるが、かなり激しい改稿がなされているので、併置して示す。

   *

 

  

 

新光あらはれ、

新光ひろごり。

 

光る地面に竹が生え、

靑竹が生え、

地下には竹の根が生え、

根がしだいにほそらみ、

根の先より纎毛が生え、

かすかにけぶる纎毛が生え、

かすかにふるゑ。

 

かたき地面に竹が生え、

地上にするどく竹が生え、

まつしぐらに竹が生え、

凍れる節節(ふしぶし)りんりんと、

靑空のもとに竹が生え、

竹、竹、竹が生え。

 

祈らば祈らば空に生え、

罪びとの肩に竹が生え。

          ――大正四年元旦――

   *]

 

Takenoato

 

    みよすべての罪はしるされたり、

    されどすべては我にあらざりき、

    まことにわれに現はれしは、

    かげなき靑き炎の幻影のみ、

    雪の上に消えさる哀傷の幽靈のみ、

    
 ああかかる日のせつなる懴悔をも何かせむ、

    すべては靑きほのほの幻影のみ。

 

[やぶちゃん注:この詩篇は標題がない。目次にも示されていないから、この詩篇は二篇の「竹」の後に附した詩篇として読まれるようにはセットされている(右ページに上記の「竹」の終りの二行があり、絵と詩篇が右ページに文字のポイントを本篇詩篇より有意に小さくして載っている)。全集にも初出・異同等の資料が全く附帯しないから、本詩集刊行時に新たに創作して附したものなのであろう。また、本篇に限っては詩篇の初出はない。本詩集刊行までは全くの未発表の詩であったと考えられる。或いは、本詩集刊行に際し、前後の詩篇に合わせて新たに創作された可能性もあるか。さらに、この詩篇の上にある、モノクロームの奇妙な以上の絵は、私は漠然と無批判に田中恭吉のものと思い込んでいたが、挿絵の目次にも示されていないし、全集の解題にある田中と恩地の絵の枚数にも含まれていない。さすれば、この奇体な抽象画のようなものは、彼らの絵ではないことになり、そうなると、萩原朔太郎の手すさびのデッサンということなのだろうか? この絵について何か御存じの方はお教え願いたい。

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 竹

 

  

 

ますぐなるもの地面に生え、

するどき靑きもの地面に生え、

凍れる冬をつらぬきて、

そのみどり葉光る朝の空路に、

なみだたれ、

なみだをたれ、

いまはや懺悔をはれる肩の上より、

けぶれる竹の根はひろごり、

するどき靑きもの地面に生え。

 

[やぶちゃん注:初出は『詩歌』大正四(一九一五)年二月号。二箇所の「なみだ」が「なんだ」(「なみだ」(「淚」)の「なむだ」→「なんだ」の音変化で、古くからある)、「懺悔をはれる」が「懺悔を終れる」となっている以外は詩篇自体の異同はないが、詩の最後で改行して下方に『――淨罪詩篇――』と記すのは注目する必要があろう。私の竹 萩原朔太郎(「月に吠える」の「竹」別ヴァージョン+「竹」二篇初出形)で電子化してあるので参照されたい。]

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 草の莖

 

  草の莖

 

冬のさむさに、

ほそき毛をもてつつまれし、

草の莖をみよや、

あをらみ莖はさみしげなれども、

いちめんにうすき毛をもてつつまれし、

草の莖をみよや。

 

雪もよひする空のかなたに、

草の莖はもえいづる。

 

[やぶちゃん注:初出は『遍路』大正四(一九一五)年二月。表記違い(二行目の「つつまれし」が「包まれし」、三行目の「みよや」が「見よや」、「あをらみ」が「靑らみ」、「さみしげ」が「さびしげ」、「いづる」が「出づる」であるのと、各行末の読点が無いだけで、後は同じ。]

萩原朔太郎詩集「月に吠える」ヴァーチャル正規表現版始動 序(北原白秋・萩原朔太郎)目次その他 地面の底の病氣の顏

 萩原朔太郎詩集「月に吠える」ヴァーチャル正規表現版を始動する。

 使用底本は所持する昭和五八(一九八三)年刊の日本近代文学館刊行・名著復刻全集編集委員会編・ほるぷ発売の「名著復刻 詩歌文学館 紫陽花セット」内の内のアンカット装のそれ(大正六(一九一七)年二月十五日感情詩社・白日社出版部発行)を実際にカットしながら用い、田中恭吉及び恩地幸四郎(二人ともパブリック・ドメイン)の挿絵も総て掲げる。底本の復刻版セットは、私が教員になって四年目の冬、出版の年のボーナスで買ったものであった。もう幾らだったか忘れたが、恐らく、私が人生で最初に買った、最も高額な書籍(セット)であったと記憶する。購入した理由は、私の卒業論文であった尾崎放哉の句集「大空(たいくう)」(初版現存物は極めて少なく、私が訪ねた彼の属していた『層雲』社にもなかったし、彼の研究者でさえも所持していない方が多い)が含まれていた(同書画像は私の同書初版本を底本とした尾崎放哉「入庵雜記」に掲げてある)からであるが、それだけでは値段的に躊躇されたのを、この「月に吠える」もあったことが後押しをしてくれたものであったことを覚えている。

 詩篇本文の加工用データとしては、鹿児島県立短期大学文学科准教授竹本寛秋氏が公開しておられる、「萩原朔太郎『月に吠える』(大正六年二月)テキストデータ」を使用させて戴いた(失礼乍ら、かなり誤植が認められる)。ここに謝意を表する。

 字体は勿論であるが(但し、新字相当の表記も有意に認められる)、ポイントや字間も可能な限り類似させたが、後者は完全な再現はしていない。例えば、標題は概ね詩篇本文の活字の一字から一時半下げ分ぐらいであるが、一定しないし、本文の活字の組み方自体が普通よりやや間が空いているため、一律、二字下げに統一した。また、詩篇本文内の文末でない読点は、有意に打った字の右手に接近し、その後は前後に比して一字分の空白があるように版組されている。これは朔太郎の確信犯なのだろうが、これを再現しようとすると、ブラウザ上では、ひどく奇異な印象を与え、そこで躓いてしまう(少なくとも私はそうである)ので、これはある特別な箇所を除いて無視し、再現していない。ルビは当該字の後に丸括弧で示した。字体も主要部が明朝であること、数箇所でゴシックが用いられていることを考慮して、基本を明朝とした。私の注に出る英語は私の趣味でローマン体を使用した。

 書誌情報及び校合資料として、昭和五〇(一九七五)年筑摩書房刊「萩原朔太郎全集」第一巻を使用した。

 文中段落末或いは詩篇末に、ごく禁欲的に注を附した。

 それにしても、最初から馬鹿正直にカットしつつ、詩篇本文に到達するのに(二十六帖)これだけ時間のかかる詩集も、まず、珍しい。【二〇一八年十月二十九日 藪野直史】【二〇一八年十一月一日 藪野直史・追記:実は、この迂遠な冒頭は、本詩集の底本が、「月に吠える」の初版本でも特殊な製版を施したものであることに拠ることが、作業中に判明した。「愛憐」の私の注をフライングして参照されたい。】

 

Yorunohana

 

Kabase_2

[やぶちゃん注:カバー表紙と背。裏は無地なのでカットした。絵は田中恭吉の「夜の花」。生誕百二十年記念として和歌山県立近代美術館で催された「田中恭吉展」「出品目録」PDF)を見たが、「夜の花」という出品作はない。「闇の花」(回覧雑誌『密室』三・大正二(一九一三)年五月作(インク・彩色、紙))というのが気になるが、別物かも知れない。]

 

Hontaihyousise

 

[やぶちゃん注:本体表紙と背。裏は無地なのでカットした。絵は恩地幸四郎の「われひらく」。]

 

Tobira

 

 月に吠える  詩 集

 

[やぶちゃん注:扉。]

 

Syousaihyousi

 

[やぶちゃん注:扉の次の次のページ。以下に書記方向を逆転させて電子化する。崩し字の「え」は「江」で示した。ポイントは総て同じとした。

 なお、共同出版となっている「感情詩社」と「白日社」であるが、「感情詩社」は室生犀星(朔太郎三つ歳下)と萩原朔太郎の二人が中心となって運営した出版社で、「白日社」の方は歌人の前田夕暮(朔太郎より三つ歳下。北原白秋と懇意で、彼の雑誌『詩歌』には本詩集の詩篇が多く初出する)が主宰した出版社であった。

 
    
詩   集

 月 に 吠 江 る

 

     萩原朔太郎著

    ――――――――

     
北原白秋序

     
室生犀星跋

 

       故田中恭吉挿

       恩地幸四郎挿

   ――――――――

     發  兌

   感情詩社・白日社

 

Hikari

 

[やぶちゃん注:田中恭吉の版画(左ページ)。後の挿画の目次には「稿より」とあるが、調べてみると、「光」という作品名である。ある記載に大正四(一九一五)年作で大きさは14×8.5とあったが、生誕百二十年記念として和歌山県立近代美術館で催された「田中恭吉展」「出品目録」PDF)を見る限りでは、そのクレジットは原型(インク・鉛筆と紙)のものであって、これは彼の死後、本詩集のため、大正六(一九一七)年頃に、彫師(恐らくは「挿畵目次」の後に名が示されてある山岸主計氏)によって原画からに木版に彫られ、それを摺師(これも同じく名が示される小池鐡太郎氏)が摺った校合摺(きょうごうずり:本来は本邦の錦絵に於いては、輪郭だけ彫られた版木が摺師に渡され、摺師は必要な枚数(色数)の墨摺りをして再び絵師に戻すが、この墨摺りしたものを「校合摺」という。絵師は一枚づつ色指定をし(これを「色差し」と称し、必要個所を朱で塗り潰し、指定色を書き込むが、この場合は、作者の田中は既にいないから、彫師がそれを行ったものか。ここについては、サイト「錦絵」の「錦絵の制作技法(1を参考にした)の一品らしい。なお、取り込んだ画像が暗いので、有意にハイライトをかけた(実際、光を照らすと、字の金色が目立つからである)。実際には周囲は濃紺である。]

 

[やぶちゃん注:以下、独立左ページ。]

 

 從兄 萩原榮次氏に捧げる

 

[やぶちゃん注:以下、北原白秋の序。左ページから。]

 

 

 萩原君。

 何と云つても私は君を愛する。さうして室生君を。それは何と云つても素直な優しい愛だ。いつまでもそれは永續するもので、いつでも同じ温かさを保つてゆかれる愛だ。此の三人の生命を通じ、縱(よ)しそこにそれぞれ天禀の相違はあつても、何と云つてもおのづからひとつ流の交感がある。私は君達を思ふ時、いつでも同じ泉の底から更に新らしく湧き出してくる水の(すず)しさを感ずる。限りなき親しさと驚きの眼を以て私は君達のよろこびとかなしみとを理會する。さうして以心傳心に同じ哀憐の情が三人の上に益々深められてゆくのを感ずる。それは互の胸の奧底に直接に互の手を觸れ得るたつた一つの尊いものである。

[やぶちゃん注:「天禀」「てんぴん」或いは「てんりん」。天から授かった資質。生まれつき備わっている優れた才能。天賦。]

 

 私は君をよく知つてゐる。さうして室生君を。さうして君達の詩とその詩の生ひたちとをよく知つてゐる。『朱欒』のむかしから親しく君達は私に君達の心を開いて呉れた。いい意味に於て其後もわれわれの心の交流は常住新鮮であつた。恐らく今後に於ても。それは廻り澄む三つの獨樂が今や將に相觸れむとする刹那の靜謐である。そこには限の知られぬをののきがある。無論三つの生命は確實に三つの据りを保つてゐなければならぬ。然るのちにそれぞれ澄みきるのである。微妙な接吻がそののちに來(く)る。同じ單純と誠實とを以て。而も互の動悸を聽きわけるほどの澄徹さを以て。幸に君達の生命も玲瓏乎としてゐる。

[やぶちゃん注:「朱欒」「ザムボア」と読む。文芸雑誌。東雲堂書店発行。明治四四(一九一一)年十一月から大正二(一九一三)年五月まで十九冊を発刊した。北原白秋編集で後期浪漫派の活躍の場となった。大正七(一九一八)年一月発刊の改題誌『ザムボア』は同年九月で廃刊した。

「据り」「ゐすはり」或いは「すはり」。後者であろう。

「玲瓏乎」「れいろうこ」。「玲瓏」は玉などが透き通るように美しいさま。また、玉のように輝くさま。或いは、玉などの触れ合って美しく鳴るさま。また、音声の澄んで響くさまを言う。「乎」は状態を表わす漢語に附けて語調をめる助字。]

 

 室生君と同じく君も亦生れた詩人の一人である事は誰も否むわけにはゆくまい。私は信ずる。さうして君の異常な神經と感情の所有者である事も。譬へばそれは憂欝な香水に深く涵した剃刀である。而もその豫覺は常に來る可き悲劇に向つて顫へてゐる。然しそれは恐らく凶惡自身の爲に使用されると云ふよりも、凶惡に對する自衛、若くは自分自身に向けらるる懺悔の刄となる種類のものである。何故なれば、君の感情は恐怖の一刹那に於て、正(まさ)しく君の肋骨の一本一本をも數へ得るほどのさを持つてゐるからだ。

 然しこの剃刀は幾分君の好奇な趣味性に匂づけられてゐる事もほんとうである。時には安らかにそれで以て君は君の薄い髯を當(あた)る。

[やぶちゃん注:「生れた詩人」以って生まれた詩人。

「涵した」「ひたした」。

「ほんとう」ママ。]

 

 淸純な凄さ、それは君の詩を讀むものの誰しも認め得る特色であらう。然しそれは室生君の云ふ通り、ポオやボオドレエルの凄さとは違ふ。君は寂しい、君は正直で、淸楚で、透明で、もつと細かにぴちぴち動く。少くとも彼等の望的な暗さや頽廢した幻覺の魔睡は無い。宛然凉しい水銀の鏡に映る剃刀の閃めきである。その鏡に映るものは眞實である。そして其處には玻璃製の上品な市街や靑空やが映る。さうして恐る可き殺人事件が突如として映つたり、素敵に氣の利いた探偵が走つたりする。

[やぶちゃん注:以下の三行空けはママ。次のパートの頭を次ページに送るためかとも推定されるが、後の方の書き方からの感じでは、原稿自体がそうなっている可能性が高い。]

 

 

 

 君の氣稟は又譬へば地面に直角に立つ一本の竹である。その細い幹は鮮かな靑綠で、その葉は華奢(きやしや)でこまかに動く。たつた一本の竹、竹は天を直觀する。而も此竹の感情は凡てその根に沈潜して行くのである。根の根の細(こま)かな纖毛のその岐(わか)れの殆ど有るか無きかの毛の尖(さき)のイルミネエシヨン、それがセンチメンタリズムの極致とすれば、その毛の突端にかぢりついて泣く男、それは病氣の朔太郞である。それは君も認めてゐる。

[やぶちゃん注:「細(こま)かな」底本は「細(まか)かな」とルビするが、誤植と断じ、特異的に筑摩版全集で訂した。]

 

「詩は神祕でも象徵でも何でも無い。詩はただ病める魂の所有者と孤獨者との寂しい慰めである。」と君は云ふ。まことに君が一本の竹は水面にうつる己が影を神秘とし象徵として不思議がる以前に、ほんとうの竹、ほんとうの自分自身を切に痛感するであらう。鮮純なリズムの歔欷(すすりなき)がそこから來る。さうしてその葉その根の尖(さき)まで光り出す。

[やぶちゃん注:二箇所の「ほんとう」はママ。以下も同じ。以下の三行空けはママ。]

 

 

 

 君の靈魂は私の知つてゐる限りまさしく蒼い顏をしてゐた。殆ど病み暮らしてばかりゐるやうに見えた。然しそれは眞珠貝の生身(なまみ)が一顆小砂に擦(す)られる痛さである。痛みが突きつめれば突きつめるほど小砂は眞珠になるりそれがほんとうの生身(なまみ)であり、生身から滴(したた)らす粘液がほんとうの苦しみからにじみ出たものである事は、君の詩が證明してゐる。

 

 外面的に見た君も極めて瘦せて尖つてゐる。さうしてその四肢(てあし)が常に角に動く、まさしく竹の感覺である。而も突如として電流體の感情が頭から足の爪先まで震はす時、君はぴよんぴよん跳ねる。さうでない時の君はいつも眼から淚がこぼれ落ちさうで、何かに縋りつきたい風である。

 潔癖で我儘なお坊つちやんで(この點は私とよく似てゐる)その癖寂しがりの、いつも白い神經を露はに顫へさしてゐる人だ。それは電流の來ぬ前の電球の硝子の中の顫へてやまぬ竹の線である。

[やぶちゃん注:エジソンが商品化した当時の白熱電球のフィラメントは京都産の竹で出来ていた。]

 

 君の電流體の感情はあらゆる液體を固體に凝結せずんばやまない。竹の葉の水氣が集つて一滴の露となり、腐れた酒の蒸氣が冷(つめ)たいランビキの玻璃に透明な酒精の雫を形づくる迄のそれ自身の洗練はかりそめのものではない。君のセンチメンタリズムの信條はまさしく木炭が金剛石になるまでの永い永い時の長さを、一瞬の間に縮める、この凝念のさであらう。摩詞不思議なる此の眞言の秘密はただ詩人のみが知る。

[やぶちゃん注:「ランビキ」ポルトガル語「alambique」から。「蘭引」とも書く。江戸時代、酒類などの蒸留に用いた器具で、陶器製の深鍋に溶液を入れ、蓋に水を入れてのせ、下から加熱すると、生じる蒸気が蓋の裏面で冷やされて露となり、側面の口から流れ出るもの。但し、ここはその精製された酒を受けるガラス製の容器を指している。

 以下、三行空けはママ(底本では改ページで行空け)。]

 

 月に吠える、それは正しく君の悲しい心である。冬になつて私のところの白い小犬もいよいよ吠える。晝のうちは空に一羽の雀が啼いても吠える。夜はなほさらきらきらと霜が下りる。霜の下りる聲まで嗅ぎ知つて吠える。天を仰ぎ、眞實に地面(ぢべた)に生きてゐるものは悲しい。

 

 ぴようぴようと吠える。何かがぴようぴようと吠える。聽いてゐてさへも身の痺れるやうな寂しい遣瀨ない聲、その聲が今夜も向うの竹林を透してきこえる。降り注ぐものは新鮮な竹の葉に雪のごとく結晶し、君を思へば蒼白い月天がいつもその上にかかる。

[やぶちゃん注:冒頭の「ぴ」は底本では右に転倒している。誤植であるので訂した。

 以下、三行空けはママ。]

 

 

 

 萩原君。

 何と云つても私は君を愛する。さうして室生君を。君は私より二つ年下で、室生君は君より又二つ年下である。私は私より少しでも年若く、私より更に新らしく生れて來た一つの相似た靈魂の爲めに祝福し、更に甚深な肉親の交歡に醉ふ。

 又更に君と室生君との藝術上の熱愛を思ふと淚が流れる。君の歡びは室生君の歡びである。さうして又私の歡びである。

 この機會を利用して、私は更に君に讃嘆の辭を贈る。

  大正六年一月十日

            葛飾の紫烟草舍にて

             北 原 白 秋

[やぶちゃん注:「紫烟草舍」は底本では「紫畑草舍」となっている。白秋は大正五年の夏から約一年間、当時、旧東京府南葛飾郡小岩(現在は江戸川区)にあった離れ屋で創作をしていたが、それに号したのが「紫烟草舍」であった。誤植と断じ、筑摩書房版全集で特異的に訂した。]

 

[やぶちゃん注:以下、萩原朔太郎自身の序。白秋の序の終りが右で、その左ページから。]

 

 

  

 

 詩の表現の目的は單に情調のための情調を表現することではない。幻覺のための幻覺を描くことでもない。同時にまたある種の思想を宣傳演繹することのためでもない。詩の本來の目的は寧ろそれらの者を通じて、人心の内部に顫動する所の感情そのものの本質を凝視し、かつ感情をさかんに流露させることである。

 

 詩とは感情の神經を摑んだものである。生きて働く心理學である。

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「●」。以下、同じ。]

 

 すべてのよい敍情詩には、理窟や言葉で明することの出來ない一種の一感が伴ふ。これを詩のにほひといふ。(人によつては氣韻とか氣禀とかいふ)にほひは詩の主眼とする陶醉的氣分の要素である。順つてこのにほひの稀薄な詩は韻文としての價値のすくないものであつて、言はば香味を缺いた酒のやうなものである。かういふ酒を私は好まない。

 詩の表現は素樸なれ、詩のにほひは芳純でありたい。

[やぶちゃん注:「氣禀」「きりん」。原義は、生まれつき持っている気質。

「要素である。順つて」底本では、句点がない。脱記号と断じ、全集によって補った。]

 

 私の詩の讀者にのぞむ所は、詩の表面に表はれた槪念や「ことがら」ではなくして、内部の核心である感情そのものに感觸してもらひたいことである。私の心の「かなしみ」「よろこび」「さびしみ」「おそれ」その他言葉や文章では言ひ現はしがたい複雜した特種の感情を、私は自分の詩のリズムによつて表現する。併しリズムは明ではない。リズムは以心傳心である。そのリズムを無言で感知することの出來る人とのみ、私は手をとつて語り合ふことができる。

 

 『どういふわけでうれしい?』といふ質問に對して人は容易にその理由を明することができる。けれども『どういふ工合にうれしい?』といふ問に對しては何人(びと)もたやすくその心理を明することはできない。

 思ふに人間の感情といふものは、極めて單純であつて、同時に極めて複雜したものである。極めて普遍性のものであつて、同時に極めて個性的な特異なものである。

 どんな場合にも、人が自己の感情を完全に表現しようと思つたら、それは容易のわざではない。この場合には言葉は何の役にもたたない。そこには音樂と詩があるばかりである。

[やぶちゃん注:「どういふ工合にうれしい?」の疑問符は底本にはないが、前や後との照応性からも、脱記号と考えるべきで、特異的に全集で補った。]

 

 私はときどき不幸な狂水病者のことを考へる。

 あの病氣にかかつた人間は非常に水を恐れるといふことだ。コツプに盛つた一杯の水が息するほど恐ろしいといふやうなことは、どんなにしても我々には想像のおよばないことである。

 『どういふわけで水が恐ろしい?』『どういふ工合に水が恐ろしい?』これらの心理は、我我にとつては只々不可思義千萬のものといふの外はない。けれどもあの患者にとつてはそれが何よりも眞實な事實なのである。そして此の場合に若しその患者自身が‥‥‥何等かの必要に迫まられて‥‥‥‥この苦しい實感を傍人に向つて明しやうと試みるならば(それはずゐぶん有りさうに思はれることだ。もし傍人がこの病氣について特種の智識をもたなかつた場合には彼に對してどんな慘酷な惡戯が行はれないとも限らない。こんな場合を考へると私は戰慄せずには居られない。)患者自身はどんな手段をとるべきであらう。恐らくはどのやうな言葉の明を以てしても、この奇異な感情を表現することは出來ないであらう。

 けれども、若し彼に詩人としての才能があつたら、もちろん彼は詩を作るにちがひない。詩は人間の言葉で明することの出來ないものまでも明する。詩は言葉以上の言葉である。

[やぶちゃん注:八点リーダはママ。底本ではもっと詰っている。]

 

 狂水病者の例は極めて特異の例である。けれどもまた同時に極めてありふれた例でもある。

 人間は一人一人にちがつた肉體と、ちがつた神經とをもつて居る。我のかなしみは彼のかなしみではない。彼のよろこびは我のよろこびではない。

 人は一人一人ではいつも永久に永久に恐ろしい孤獨である。

 原始以來、神は幾億萬人といふ人間を造つた。けれども全く同じ顏の人間を、决して二人とは造りはしなかつた。人はだれでも單位で生れて、永久に單位で死ななければならない。

 とはいへ、我々は决してぽつねんと切りはなされた宇宙の單位ではない。

 我々の顏は、我々の皮膚は、一人一人にみんな異つて居る。けれども、實際は一人一人にみんな同一のところをもつて居るのである、この共通を人間同志の間に發見するとき、人類間の『道德』と『愛』とが生れるのである。この共通を人類と植物との間に發見するとき、自然間の『道德』と『愛』とが生れるのである。そして我々はもはや永久に孤獨ではない。

[やぶちゃん注:「同一のところをもつて居るのである、」の末尾の読点はママ。全集版では句点となっている。]

 

 私のこの肉體とこの感情とは、もちろん世界中で私一人しか所有して居ない。またそれを完全に理解してゐる人も私一人しかない。これは極めて極めて特異な性質をもつたものである。けれども、それはまた同時に、世界の何ぴとにも共通なものでなければならない。この特異にして共通なる個々の感情の焦點に、詩歌のほんとの『よろこび』と『秘密性』とが存在するのだ。この道理をはなれて、私は自ら詩を作る意義を知らない。

 

 詩は一瞬間に於ける靈智の産物である。ふだんにもつてゐる所のある種の感情が、電流體の如きものに觸れて始めてリズムを發見する。この電流體は詩人にとつては奇蹟である。詩は豫期して作らるべき者ではない。

[やぶちゃん注:「ふだん」は次段の謂いから推すと、「不斷」ではなく、「普段」であろう。]

 

 以前、私は詩といふものを神秘のやうに考へて居た。ある靈妙な宇宙の聖靈と人間の叡智との交靈作用のやうにも考へて居た。或はまた不可思議な自然の謎を解くための鍵のやうにも思つて居た。併し今から思ふと、それは笑ふべき迷信であつた。

 詩とは、決してそんな奇怪な鬼のやうなものではなく、實は却つて我々とは親しみ易い兄妹や愛人のやうなものである。

 私どもは時々、不具な子供のやうないぢらしい心で、部屋の暗い片隅にすすり泣きをする。そういふ時、ぴつたりと肩により添ひながら、ふるへる自分の心臟の上に、やさしい手をおいてくれる乙女がある。その看護婦の乙女が詩である。

 私は詩を思ふと、烈しい人間のなやみとそのよろこびとをかんずる。

 詩は神秘でも象徵でも鬼でもない。詩はただ、病める魂の所有者と孤獨者との寂しいなぐさめである。

 詩を思ふとき、私は人情のいぢらしさに自然と淚ぐましくなる。

[やぶちゃん注:「そういふ」はママ。正しい歴史的仮名遣は「さういふ」。]

 

 過去は私にとつて苦しい思ひ出である。過去は焦燥と無爲と惱める心肉との不吉な惡夢であつた。

 月に吠える犬は、自分の影に怪しみ恐れて吠えるのである。疾患する犬の心に、月は靑白い幽靈のやうな不吉の謎である。犬は遠吠えをする。

 私は私自身の陰欝な影を、月夜の地上に釘づけにしてしまひたい。影が、永久に私のあとを追つて來ないやうに。

 

               萩原朔太郞

[やぶちゃん注:この最後は底本十二ページであるが、十一ページ末(左)が最終段落の「私は私自身の陰欝な影を、月夜の地上に釘づけにしてしまひたい。」で終わり、改ページとなって右ページ行頭から「影が、永久に私のあとを追つて來ないやうに。」となっているため、この「影が、永久に私のあとを追つて來ないやうに。」が単独行のように錯覚される。

 以下、「詩集例言」。以上の左ページから。箇条の二行目以降は総て二字下げであるが、ブラウザでの不具合を考え、ここは無視した。]

 

 詩 集 例 言

 

一、過去三年以來の創作九十餘篇中より叙情詩五十五篇、及び長篇詩篇二篇を選びてこの集に納む。集中の詩篇は主として「地上巡禮」「詩歌」「アルス」「卓上噴水」「感情」及び一、二の地方雜誌に揭載した者の中から拔粹した。その他、機會がなくて創作當時發表することの出來なかつたもの數篇を加へた。詩稿はこの集に納めるについて槪ね推稿を加へた。

[やぶちゃん注:全集の解題によれば、実際には本初版では叙情詩五十三篇、「竹とその哀傷」中の無題一篇、及び、長篇詩二篇である。『初版の形が決定する前の現存する校正刷りを見ると「晝」(『蝶を夢む』に「野景」と改題され収錄)「夜景」の二篇が収められているので、』この叙情詩五十五篇というのは『詩集原案によった篇數と思われる』とあり、割愛した二篇を引くのを朔太郎自身が失念していたものと思われる。ここで、彼がカットした二篇を全集から復元しておく。後者の「夜景」は恐らく大正四(一九一五)年三月の『卓上噴水』に発表したそれと思われる。

   *

 

 野景

 

弓なりにしなつた竿の先で

小魚がいつぴき ぴちぴちはねてゐる

おやぢは得意で有頂天だが

あいにく世間がしづまりかへつて

遠い牧場では

牛がよそつぽをむいてゐる。

 

   *

 

 夜景

 

高い家根の上で猫が寢てゐる

猫の尻尾から月が顏を出し

月が靑白い眼鏡をかけて見てゐる

だが泥棒はそれを知らないから

近所の家根へひよつこりとび出し

なにかまつくろの衣裝をきこんで

煙突の窓から忍びこもうとするところ。

 

   *

「夜景」最終行の「こもう」は発表誌のママ。]

一、詩篇の排列順序は必ずしも正確な創作年順を追つては居ない。けれども大體に於ては舊稿からはじめて新作に終つて居る。卽ち「竹とその哀傷」「雲雀料理」最も古く、「悲しい月夜」之に次ぎ、「くさつた蛤」「さびしい情慾」等は大低同年代の作である。而して「見知らぬ犬」と「長詩一篇」とは比較的最近の作に屬す。

一、極めて初期の作で「ザムボア」「創作」等に發表した小曲風のもの、及び「異端」「水甕」「アララギ」「風景」等に發表した二、三の作は此の集では割愛することにした。詩風の關係から詩集の感じの統一を保つためである。

すべて初期に屬する詩篇は作者にとつてはなづかしいものである。それらは機會をみて別の集にまとめることにする。

[やぶちゃん注:「なづかしい」はママ。]

一、この詩集の裝幀に就いては、以前著者から田中恭吉氏にお願ひして氏の意匠を煩はしたのである。所が不幸にして此の仕事が完成しない中に田中氏は病死してしまつた。そこで改めて恩地孝氏にたのんで著者のために田中氏の遺志を次いでもらふことにしたのである。恩地氏は田中氏とは生前無一の親友であつたのみならず、その藝術上の信念を共にすることに於て田中氏とは唯一の知己であつたからである。(尚、本集の插については卷末の附錄「插畵附言」を參照してもらひたい。)

[やぶちゃん注:版画家としてよく知られる田中恭吉(明治二五(一八九二)年~大正四(一九一五)年十月二十三日)は和歌山県和歌山市出身。肺結核のため、本詩集刊行の二年前、二十三歳で夭折した。

恩地孝四郎(おんち こうしろう 明治二四(一八九一)年~昭和三〇(一九五五)年)は東京府南豊島郡淀橋町出身の版画家・装幀家・写真家・詩人。ウィキの「恩地孝四郎」によれば、『創作版画の先駆者のひとりであり、日本の抽象絵画の創始者とされている』とある。]

一、詩集出版に關して恩地孝氏と前田夕暮氏とには色々な方面から一方ならぬ迷惑をかけて居る。二兄の深甚なる好意に對しては深く感謝の意を表する次第である。

一、集中二、三の舊作は目下の著者の藝術的信念や思想の上から見て飽き足らないものである。併しそれらの詩篇も過去の道程の記念として貴重なものであるので特に採篇したのである。

 

Soranisakueterunohana

 

[やぶちゃん注:中扉(と後の挿画の目次では呼んでいる)。左ページ(右は「詩集例言」の末尾)。田中恭吉「空にさくエーテルの花」。取り込んだ際に地が黄変してしまったので、補正をかけてあるが、この方が原版に近い。但し、生誕百二十年記念として和歌山県立近代美術館で催された「田中恭吉展」「出品目録」PDF)を見ると、正確な題名は「そらに咲くエテルの花」で、大正四(一九一五)年作(インク、紙)とある。]

 

   詩 集  月に吠える

 

[やぶちゃん注:左ページ。ゴシック体の「詩集」は右から左に横書。「月に吠える」はその間の下部に縦書。]

 

[やぶちゃん注:以下、目次であるが、リーダとページ数はカットした。各詩篇題がパート標題より大きいが、無視して同ポイントで示した。]

 

目  次

 

竹とその哀傷

 地面の底の病氣の顔

 草の莖

 竹

 竹

 すえたる菊

 龜

 笛

 冬

 天上縊死

 卵

雲雀料理

 感傷の手

 山居

 苗

 殺人事件

 盆景

 雲雀料理

 掌上の種

 天景

 焦心

悲しい月夜

 かなしい遠景

 悲しい月夜

 死

 危險な散步

 酒精中毒者の死

 干からびた犯罪

 蛙の死

くさつた蛤

 内部に居る人が畸形な病人に見える理由

 椅子

 春夜

 ばくてりやの世界

 およぐひと

 ありあけ

 猫

 貝

 麥畑の一隅にて

 陽春

 くさつた蛤

 春の實體

 贈物にそへて

さびしい情慾

 愛憐

 戀に戀する人

 五月の貴公子

 白い月

 肖像

 さびしい人格

見知らぬ犬

 見しらぬ犬

 靑樹の梢をあふぎて

 蛙よ

 山に登る

 海水旅舘

 孤獨

 白い共同椅子

 田舍を恐る

長 詩 二 篇

 雲雀の巢

 笛

 

[やぶちゃん注:以下、挿絵の目次。見開き二ページ。先の目次同様、リーダと二箇所を除いてページ数はカットした。]

 

挿  目 次

    田中恭吉遺作十一種

1稿より        口 絵

2空にさくエーテルの花  中 扉

 3冬の夕

 4稿より Ⅰ

 5塙より Ⅱ

 6塙より Ⅲ

 7こもるみのむし(假に題して)

 8懈怠

 9死人とあとにのこれるもの

10悔恨

11夜の花         包紙として

   恩地孝四郎版三種及圖一種

 1抒情(よろこびあふれ)

 2抒情(よろこびすみ)     附錄の 一

 3抒情(ひとりすめば)     附錄の一六

 4われひらく       表紙に用ひて

[やぶちゃん注:「2空にさくエーテルの花」の「空」は底本では「室」。誤植と断じ、全集改題によって特異的に訂した。

「懈怠」「けたい」或いは「けだい」と読み、原義は
仏道修行に励まぬこと、怠り怠けることを指す。

「包紙」カバーのこと。]

 

亞 鉛 凸 版   近松製版所

コロタイプ 版   岸本 勢助

同  印  刷   藤本 義郎

木     版   山口 主計

手     摺   小池鐡太郎

機 械 印 刷   五 彩 閣

 

[やぶちゃん注:以上、右ページ(字間は底本のままではない)。以下、やっと本文が始まる。以下のパート標題「竹とその哀傷」はこの左ページ。]
 



 

 竹 と そ の 哀 傷

 

[やぶちゃん注:以下、次の次の左ページから始まる。]

 

  地面の底の病氣

  の顏

 

地面の底に顏があらはれ、

さみしい病人の顏があらはれ。

 

地面の底のくらやみに、

うらうら草の莖が萠えそめ、

鼠の巢が萠えそめ、

巢にこんがらかつてゐる、

かずしれぬ髮の毛がふるえ出し、

冬至のころの、

さびしい病氣の地面から、

ほそい靑竹の根が生えそめ、

生えそめ、

それがじつにあはれふかくみえ、

けぶれるごとくに視え、

じつに、じつに、あはれふかげに視え。

 

地面の底のくらやみに、

さみしい病人の顏があらはれ。

 

[やぶちゃん注:初期形の初出は『地上巡禮』大正四(一九一五)年三月号であるが、そこでは題名が驚天動地の自身の名を入れた「白い朔太郎の病氣の顏」である。改作したため、幾つかの異同がある。私の「白い朔太郎の病氣の顏 萩原朔太郎(「地面の底の病氣の顏」初出形)を見られたい。第一連のみが、本文三ページ(左ページ)に独立して、一読、どきっとする。確信犯の版組である。標題の改行も空白が左に無駄に広がらないようにすることを狙ったものであろうかとも思われる。]

2018/10/28

帰還

アリス……もう、帰ろう――



殺し屋たちへ

私はナチスのユダヤ人殲滅を憎悪する。同時に、イスラエルの暴虐によるパレスチナの民の「殺戮」を全く以って同じだと考える、そういう「人種」である。 政治思想など、下らぬ「最下劣」である――

和漢三才圖會第四十三 林禽類 鸜鵒(くろつぐみ) (ハッカチョウとクロツグミの混同)

Kurotugumi

くろつぐみ 鴝鵒  八哥

 哵哵鳥 寒

鸜鵒【渠欲】

      【俗云黒

       豆久見】

キユイ ヨッ

 

本綱鸜鵒巢於鵲巢樹穴及人家屋脊中身首俱黑兩翼

下各有白其舌如人舌剪剔能作人言五月五日去其

舌尖則能語聲尤清越也嫩則口黃也老則口白頭上有

幘者有無幘者好浴水其睛瞿瞿然故名鸜鵒天寒欲雪

則羣飛如告故名寒皐皐者告也又可使取火也

其目睛和人乳中研滴目中令人目明能見烟霄外之物

肉【甘平】主治五痔止血【炙食或爲散】又治老嗽【臘月臘日以作羮或炙食】

三才圖會云五月鸜鵒子毛羽新成取養之以教其語俗

謂之花鴝

按鸜鵒大如伯勞其頭背正黑色胸腹白而有黑斑脛

 黑觜黑其吻黃色能囀人畜之樊中賞之其雌者臆腹

 之斑色不鮮翮黑其裏柹色

眉白鸜鵒 形狀同鸜鵒而眉白者

 

 

くろつぐみ 鴝鵒〔(くよく)〕

      八哥〔(はつか)〕

 哵哵鳥〔(ははてう)〕

      寒〔(かんこう)〕

鸜鵒【〔音、〕「渠」「欲」。】

      【俗に「黒豆久見」と云ふ。】

キユイ ヨッ

 

「本綱」、鸜鵒は鵲〔(かささぎ)〕の巢、樹〔の〕穴、及び、人〔の〕家屋の脊〔(せ)〕の中に巢〔(すく)〕ふ。身・首、俱に黑。兩翼の下、各々、白有り。其の舌、人の舌のごとく、剪剔〔(せんてき)〕して能く人〔の〕言〔(ことば)〕を作〔(な)〕す。五月五日、其の舌の尖〔(とが)〕りを去るときは、則ち、語を能くす。聲、尤も清越なり。嫩〔(わか)〕きときは、則ち、口、黃なり。老するときは、則ち、口、白し。頭の上に幘〔(さく)〕有る者あり、幘無き者〔も〕有り。好く水に浴す。其の睛(ひとみ)、瞿瞿然〔(くくぜん)〕たり。故に「鸜鵒〔(くよく)〕」と名づく。天、寒くして、雪〔(ゆきふ)らんと〕欲〔(す)〕るときは、則ち、羣飛して、告ぐるがごとし。故に「寒皐」と名づく。「皐」とは「告ぐる」なり。又、「火を取らしむべし」〔と〕なり。

其の目-睛〔(ひとみ)〕を人の乳の中に和して、研〔(と)ぎ〕て目の中に滴〔(したた)らせ〕て、人をして、目を明〔(あきら)か〕にして、能く烟霄〔(えんせう)〕の外〔そと〕の物を見せしむ。

肉【甘、平。】主〔(つかさどる)に〕、五痔を治し、血を止む【炙り食ひ、或いは散と爲す。】。又、老嗽〔(らうさう)〕を治す【臘月臘日、以つて、羮〔(あつもの)〕に作し、或いは、炙り食ふ。】。

「三才圖會」に云はく、『五月、鸜鵒の子、毛羽、新たに成〔れるを〕取り、之れを養ひ、以つて、其の語を教ふ。俗、之れを「花鴝〔(くわく)〕」と謂ふ』〔と〕。

按ずるに、鸜鵒は大いさ、伯勞〔(もず)〕のごとく、其の頭・背、正黑色。胸・腹、白くして黑斑有り。脛、黑。觜、黑。其の吻、黃色。能く囀る。人、之れを樊〔(かご)の〕中に畜〔(か)〕ひ、之れを賞す。其の雌は、臆・腹の斑色、鮮かならず。翮〔(はねくき)〕、黑。其の裏、柹色。

眉白鸜鵒〔(まゆじろくろつぐみ)〕 形狀、鸜鵒に同〔じう〕して、眉、白き者なり。

[やぶちゃん注:「くろつぐみ」とするが、ここは二種の鳥を混同してしまっている。一つは真正の、

スズメ目ツグミ科ツグミ属クロツグミ Turdus cardis

であるが、異名として挙げる「八哥〔(はつか)〕」は面倒なことに、本邦でも「くろつぐみ」の異名を持つ、

スズメ目ムクドリ科ハッカチョウ属ハッカチョウ Acridotheres cristatellus

である。しかも主標題の「鸜鵒」はもとより、異名として並ぶ「鴝鵒〔(くよく)〕」「八哥〔(はつか)〕」「哵哵鳥〔(ははてう)〕」「寒〔(かんこう)〕」の総てが、現行でもハッカチョウの異名なのである。

 ともかくも、概ね、「本草綱目」「三才図会」の記載は後者のハッカチョウのものであり、良安の記載は「胸・腹、白くして黑斑有り」という特徴から、私は真正の前者のクロツグミを言っているものと読む。

 まず、ウィキの「クロツグミより引く(太字下線は良安の評言と一致する箇所である)。『夏に』、『主に日本の本州中部以北や中国の長江中流域などで繁殖し、冬には中国南部まで渡って越冬する。西日本では越冬する個体もいる』。体長は二十二センチメートル『ほどでツグミ』(ツグミ属ツグミ Turdus eunomus)より、『すこし小さい。日本で記録されたツグミ属の中では、最も小さい種類の一つである。 オスは全身が黒く、腹側は白地に黒の斑点が目立つクチバシとアイリング(目のまわり)は黄色。メスは全身が褐色で、胸から脇腹にかけてが』、『白地に黒の斑点があり、腹は白』。『オスメスともヨーロッパに生息するクロウタドリ』(ツグミ属クロウタドリ Turdus merula)『に少し似るが、クロウタドリは全身の羽毛が一様に黒か褐色である点等で大いに異なる。更に、クロウタドリは日本』には『通常』、『渡来しない迷鳥である』。『主に山地や丘陵地の森林に生息し、繁殖するが、平野にある森林にも生息する。繁殖期は番いで生活し、縄張りを持つ。渡りの時期には小さな群れを作り、市街地の公園で観察されることもある』。『食性は主に動物食で、林の地面をはね歩きながら、昆虫やミミズなどを捕食する』。『繁殖については、木の枝の上に、コケ類や枯れ枝、土を使って椀状の巣を作り』、五~七月に三、四『卵を産む。抱卵日数は』十二~十四日ほどで『雛は巣立つ。雛の世話はオスとメスが共同で行う』。『オスは繁殖期には大きい声で独特の囀りを行う。さえずりは複雑で、さまざまな鳥の声を自分の歌に取り入れることもよくする。日本の夏鳥で最も魅力的なさえずりを聴かせる鳥のひとつといえる。地鳴きは「キョキョキョ」など』、とある。「クロツグミ(1)さえずり」「野鳥 動画図鑑」(You Tube)をリンクしておく。

 次に、ウィキの「ハッカチョウ」を引く(太字下線は「本草綱目」との一致点)。原産地は、中国大陸南部、および、インドシナ半島。国別で言えば、中華人民共和国中部地域および南部地域、台湾、ベトナム、ラオス、ミャンマーに分布する』。『日本では外来種である。 観察された地域は、東京』・神奈川・大阪・兵庫・福島・栃木・愛知・大阪・京都・和歌山・香川・鹿児島・先島諸島で、神奈川や『兵庫などでは繁殖の記録もある』。『なお、沖縄県与那国島・鹿児島県など南日本での観察記録は、台湾などから飛来した迷鳥(すなわち自然渡来)の可能性もある』。『カナダでは、移入されたものが外来種として繁殖し、問題となっている』。全長は約二十六~二十七センチメートルで、『ムクドリ』(スズメ目ムクドリ科ムクドリ属ムクドリSturnus cineraceus)ほどの大きさがある。『全身の色は黒い。翼には大きな白い斑点があり、飛翔する際によく目立つ。下尾筒(かびとう)』『の羽縁と尾羽の先端が白い。突き出した冠羽が頭部前方を飾っているのが特徴的である(これが本文の「幘〔(さく)〕」である)』『の色は橙色、肢は暗黄色。この翼の斑点と、頭部の飾り羽によって識別は容易』。『食性は雑食で、植物の種子等のほか、タニシなど陸棲貝類、ケラなど地中棲の昆虫、甲虫類とその幼虫、イナゴ等のバッタ類である。ムクドリと同様の群れを作る例もある』。『鳴き声は、澄んだ声でさまざまな音をだす。ものまねもする習性がある』。『人によく懐き、飼い鳥とされる。人語などを真似るということでも親しまれている』。『マレーシアやシンガポールなどの都市部ではハトやすずめ以上に街中でよく見かける鳥であり、ホーカーセンター(東南アジアの屋台街)での食事中でも人をまったく怖がる様子もなく、近づいてきては食べ残しを漁っている』。『中国では、人によく懐き、人語を真似るということで親しまれている。花鳥図などの題材にもされる。また、羽毛と内臓を取り除いた八哥鳥は漢方薬として利用される』。『日本では八哥鳥を飼うとする習慣は、江戸時代に広まった。江戸初期において古九谷の陶工は八哥鳥の図柄を磁器に焼き付け、絵師・伊藤若冲は』、『その手になる』「鹿苑寺大書院障壁画」(宝暦九(一七五九)年、若冲四十四歳の時の作品)の一枚である「芭蕉叭々鳥図」に『八哥鳥を描いている』(「鹿苑寺大書院 芭蕉叭々鳥図襖絵」の一部で相国寺公式サイトのこちらのサムネイルの左の上から二番目がそれである)。『標準和名は「ハッカチョウ」、その漢字表記は「八哥鳥」』で、『異称に、「叭叭鳥(あるいは、叭々鳥)」および「哥哥鳥』『」とそれらの読み「ハハチョウ」、「鸜鵒』『および「鴝鵒』『」とそれらの読み「クヨク」、「小九官鳥』『」とその読み「ショウキュウカンチョウ」がある』(ムクドリ科キュウカンチョウ属キュウカンチョウ Gracula religiosa に姿や習性が似るが、同科ではあるが、属違いの全くの別種であるので注意されたい)。『主要原産地の一つである中国』『では、八哥の仲間(八哥属)の代表的一種としてのその名「八哥」のほかにも、「瞭哥(簡体字』『(以下同様)』『:了哥)」「鸜鵒』『(鸜)」「寒皋」「鴝鵒』『(鸲鹆)」「駕鴒(驾鸰)」「鳳頭八哥(凤头八哥)」「中國鳳頭八哥(中国凤头八哥)」、および、台湾亜種』『に固有の「加令」に、古称の「秦吉瞭(秦吉了)」といった、数多くの名で呼ばれている』。『英語名 crested myna の語義は「crest (意:鶏冠などの頭飾り。ここでは、冠羽)」の myna (すなわち、ムクドリの仲間』『(ムクドリ科Sturnidae)』で、『「冠羽を具えた椋鳥」の意である、とある。

 一つ気になるのは、上記の引用にある通り、日本ではハッカチョウを飼う習慣が江戸時代に広まったという点で、良安の意識の中には「八哥」という異名から、真正のクロツグミ以外の別種としてのクロツグミ=ハッカチョウがいたことを彼が認識していなかったというのは、やや気になるのである。「和漢三才図会」の完成は正徳二(一七一二)年頃であり、伊藤若冲の「鹿苑寺大書院障壁画」は宝暦九(一七五九)年の作品である(芭蕉の植わった庭を飛んでいるのは、襖絵だからであろう考えるにしても、襖絵に描くほどに、当時、京で賞翫されていた飼い鳥であったということであり、四十七年前の良安が全く知らないというのは、やや不自然かも知れぬと私は思うのである。

」の音は「ハツ・ハチ」であるが、「日文研」内の「近世期絵入百科事典データベース(試作版)」の「訓蒙図彙(きんもうずい)」(中村惕斎(てきさい)著寛文六(一六六六)年成立)所載のこちらの「鸜鵒(くよく)」の画像に記された『哵哵鳥(ははてう)也』のルビに基づいた。東洋文庫訳は『はつはつちょう』と振るが、従わない。上記の「ハッカチョウ」にも「ハハチョウ」とあるからである。

「鵲〔(かささぎ)〕」スズメ目カラス科カササギ属カササギ Pica pica

「脊〔(せ)〕」屋根。棟。

「剪剔〔(せんてき)〕」切り除くこと。「舌切り雀」じゃあるまいし。でも、かく書かれている以上(厳密には時珍ではなく、「集解」中の唐の本草学者陳蔵器の引用)、実際にやったんだろうなぁ、可哀想に。

「清越」音声が清らかでよく響き通ること。

「嫩〔(わか)〕き」「若き」。

「幘〔(さく)〕」中国で、髻(もとどり)を覆い隠し、髪を包むのに附けた巾(きれ)。頭巾。

「瞿瞿然〔(くくぜん)〕」「瞿然」は「目をぎょっとさせて驚くさま」であるが、ここは眼がクリクリとしているさまを指す。

『「火を取らしむべし」〔と〕なり』「雪が降って寒くなるから暖房のための火の準備をせよ!」とも告げているのである。

「研〔(と)ぎ〕て」磨って。

「烟霄〔(えんせう)〕の外〔そと〕」霞んでいる景色の向う側。

「五痔」一説に「切(きれ)痔」・「疣(いぼ)痔」・「鶏冠(とさか)痔(張り疣痔)」・「蓮(はす)痔(痔瘻(じろう))」・「脱痔」とするが、どうもこれは近代の話っぽい。

「散と爲す」粉末にして散薬とする。

「老嗽〔(らうさう)〕」老人性の気管支炎や肺炎による咳か。

「臘月臘日」陰暦十二月八日の異名。China Internet Information Center公式サイト古代からの風習に、『臘は合の意味で、新旧がつなぎあわされる時として、天地、神霊、祖先をいっしょにした「合祭」、古代に「臘祭」と称された行事をする。また、臘は猟の意味で、子孫たちが野獣を捕って、うやうやしく先祖に供えた、原始社会の祖先崇拝の遺風であるという説もある』『古代の臘日について、梁宗懍の』「荊楚歳時記」に『このような記事がある。「十二月八日を臘日といい、『臘鼓を鳴らせば、春草生ず』という諺あり。村人はみな細い腰鼓を打ち、武者の帽子をつけ、金剛力士に化装して疫を払う」。古人は臘日(またはその前日)に、金剛または力士などの神霊に化装し、踊りながら臘鼓を打ち鳴らせば、災いを除き邪を払えると思っていた』とある。なお、本邦でもこの日に年末の大事な追儺の儀式である「大儺(たいな)」を行った。

「伯勞〔(もず)〕」私の好きな、スズメ目スズメ亜目モズ科モズ属モズ Lanius bucephalus。先行する「鵙(もず)(モズ)を参照。

眉白鸜鵒」不詳。

古今百物語評判卷之五 第一 痘の神・疫病の神附※1※2乙(きんじゆおつ)」の字の事

 

百物語評判卷之五

 

  第一 痘(いも)の神・疫病(やくびやう)の神2乙(きんじゆおつ)」の字(じ)の事

[やぶちゃん注:「1」=「竹」(かんむり)+(下部)「斬」。「2」=「竹」(かんむり)」+(下部)「厂」+(内部)「斯」。]

 

Housousin

 

ある人、問(とふ)て云(いふ)、「痘の神・疫病の神と申(まうす)ものこそ、まざまざある物に候哉(や)。又、たゞ病氣のうへのみなるを、かく申(まうし)ならはせるや」と問(とひ)ければ、先生、答へて云はく、「痘の神・疫病の神、ともに、あるべし。痘瘡(いもがさ)は、いにしへは、なし。戰國の頃より發(おこ)りたるよし、醫書にみえたり。元、人の、胎内にやどりしときは、母のふる血を吞(のみ)て此身命(しんみやう)を長ず。其(その)とゞこほりし惡血(あくけつ)の毒、後々の時の氣にいざなはれて發(はつ)して痘瘡となれり。されば、其根ざしは胎毒(たいどく)なれども、其いざなふ物は時の氣なり。そのあつまれる處、則ち、鬼神あり。是れ、痘の神なりけらし。それにより、世俗にしたがひて送りやりたるも、輕くなる理(ことわり)、なきにあらず。又、疫病の神と云(いへ)るは、もろこしの書には、上古の惡王子(あくわうじ)のたましゐ、此神になれりとかや云ひ傳ふれど、其靈(たましひ)の、今の世まで、さながら[やぶちゃん注:そのまま。]生き通して、我が日の本にわたれる事も、あるまじ。おもふに、疫病のはやる時は、多くは飢饉の後(のち)なれば、其道路にうへ死(じに)せるやからの、生(しやう)あるときだに、一飯もわけらるべき方(かた)[やぶちゃん注:手立て。]なければ、まして、死後にまつらるべきしたしみもなき亡魂どもの、あつまりて、人に[やぶちゃん注:ママ。]おそふが故に、その執(しう)に乘じていふ空言(そらごと)、おほくは、衣食(えじき)の事のみなり。又、兵亂(ひやうらん)の後(のち)にも行はるゝは、其戰場にて果(はて)し魂魄の疫鬼(えやみのおに)となれるなるべし。其(その)うけたる人の強弱にしたがひて、生死(しやうじ)の品(しな)もかはるにや。かくはあれど、孔子も鄕人(きやうひと)の儺(おにやらひ)をいみ給はねば、其惡鬼をさくるやうに、まじなひて、名香をたき、雄黃(をわう[やぶちゃん注:原典のママ。])をかぎ、又、神符(しんふ)など書附(かきつけ)たるも、よろし。近比(ちかごろ)、家々に「2乙(きんじゆつおつ)」といふ字をはりしは、「群談採餘(ぐうだんさいよ)」僧(そう)の部に出でたる故事なり。元の末つかた、天下に疫氣(えきき)はやりし時、浙江(せつこう)といふ渡しのあなたなる在所は、いまだ、其(その)類(るい)なし。ある時、老僧一人來り、其わたしの船頭をよびて云(いひ)けるは、『たゞ今、此所を、黃なる裝束したる者五人きたりて、「渡らん」といはゞ、必ず、わたすべからず。此五人はたゞ今、天下にはやる疫鬼(えきき)なり。もし(しい)て「渡らん」と云はゞ、此文字を見せよ』とて、老僧は行きがたしれずなりにけり。船頭、あやしき事に思ひけるに、あんのごとく、五人の者、來たりて、『舟に乘せよ』といふ。船頭、うけがはざりければ、五人の者、大きにいかつて、船頭を打擲(ちやうちやく)せんとする。『すはや』と思ひて、彼(かの)文字のかきたるをみせければ、五人の者、見るとひとしく、跡(あと)をも見ずして、逃げたり。船頭、『さては。疫神にまぎれなし』とおもひ、急に追(おつ[やぶちゃん注:原典のルビ。])かければ、五人の者の、背(せなか)にちいさき籠(かご)をおひたるが、捨(すて)て逃(にげ)たり。船頭、今は間(あい)もへだゝれば、是非なく、其かごをとり、歸りて、ひらき見れば、ちいさき棺桶、三百づゝを入れたり。驚き、在所に歸りて、始めおはりを語りて、彼(かの)文字を家々におしける、となん。此文字なかりせば、その棺のかずほど、人を殺さむ爲(ため)なるべし、といふ事、みえたり。今の「2乙」はそれを用ひたるなり」と語られき。

[やぶちゃん注:今までもそうだが、本条の原本のルビは歴史的仮名遣の誤りが特にひどい。今まで通り、勝手に私が訂しており、それについての注はしていない。本篇は元隣の話の五人の疱瘡神の話が私は知らなかったので面白く読めた。

「痘」疱瘡(ほうそう)。天然痘。「耳囊 卷之三 高利を借すもの殘忍なる事」の私の「疱瘡」の注を参照されたい。序でに、ここに関連させて、「耳囊 卷之四 疱瘡神狆に恐れし事」「耳囊 卷之五 痘瘡神といふ僞説の事」「耳囊 卷之七 痘瘡の神なきとも難申事」等も読まれると面白かろう。

「痘瘡(いもがさ)は、いにしへは、なし。戰國の頃より發(おこ)りたる」前者は正しいが、後者は誤りウィキの「天然痘によれば、『日本には元々』は『存在せず、中国・朝鮮半島からの渡来人の移動が活発になった』六世紀半ば(古墳時代末期)に『最初のエピデミックが見られたと考えられている。折しも新羅から弥勒菩薩像が送られ、敏達天皇』(びだつ 宣化天皇三(五三八)年?~敏達天皇一四(五八五)年?)『が仏教の普及を認めた時期と重なったため、日本古来の神をないがしろにした神罰という見方が広がり、仏教を支持していた蘇我氏の影響力が低下するなどの影響が見られた』。「日本書紀」には(敏達天皇十四(五八五)年三月丙戌三十日の条。オリジナルに示す)、

   *

發瘡死者充盈於國。其患瘡者言。身如被燒被打被摧。啼泣而死。老少竊相謂曰。是燒佛像之罪矣。

(瘡(かさ)發(い)でて死(みまか)る者、國に充ち盈(み)ちたり。其の瘡を患はむ者、言はく、「身、燒かれ、打たれ、摧(くだ)かるるがごとし」と。啼き泣きつつ死ぬる。老いも少きも竊(ひそ)かに相ひ謂ひて曰く、「是れ、佛像を燒く罪か」と)。

『とあり、瘡を発し、激しい苦痛と高熱を伴うという意味で、天然痘の初めての記録と考えられる(麻疹などの説もある)』五八五年の『敏達天皇の崩御も天然痘の可能性が指摘されている』とある。

「醫書にみえたり」言わずもがなかも知れぬが、筆者山岡元隣は医師であることをお忘れなく。

「人の、胎内にやどりしときは、母のふる血を吞(のみ)て此身命(しんみやう)を長ず。其(その)とゞこほりし惡血(あくけつ)の毒、後々の時の氣にいざなはれて發(はつ)して痘瘡となれり」誤りであるが、胎児性の先天性感染性疾患と見做している。しかし、これは漏れなく総ての人間に当て嵌まる現象ということになり、元隣はその天然痘の病原を含んだ悪血胎毒を出生後に持っていても、「時の氣」(ある条件と体調の一致)に遭遇しなければ発症しない、則ち、そうした健常者、「キャリア」もいる、と考えていることになる。

「送りやりたるも」痘の疫神を追儺(ついな)することによっても。

「輕くなる」病状が軽くて済む。

「疫病の神と云(いへ)るは、もろこしの書には、上古の惡王子(あくわうじ)のたましゐ、此神になれりとかや云ひ傳ふ」出典不詳。識者の御教授を乞う。なお、ウィキの「瘟鬼には(下線太字やぶちゃん)、『瘟鬼(おんき)は、中国に伝わる鬼神あるいは妖怪。疫病、疱瘡を引き起こすなどして人間を苦しめるとされる』。『瘟部神(おんぶしん)、瘟司(おんし)、瘟疫神(おんえきしん)とも言う』。『疫病や伝染病をひとびとにもたらして苦しめるという存在である。季節ごとにこれらを迎えたり送ったりして病害が大きなものにならぬよう祈りをささげる行事などが民間に広く伝承されていた』。『また、天の神々がふとどきな行いをかさねている人間たちに対して罰を下すために瘟鬼などを向かわせるという伝承も古くは存在しており、天界にはそのための瘟神・瘟鬼たちが詰めている瘟部(おんぶ)という場所があるとも伝えられていた』。『瘟鬼たちは五人組で行動をとることが多いと言い伝えられており、それを五瘟(ごおん)または五瘟使者(ごおんししゃ)などと称した。家畜に起こる伝染病に対しての祈願との関係で五瘟鬼それぞれに馬・牛・鶏・羊・兎など別々の禽獣の頭を持つ鬼神の図が描かれたりすることもある。縁起の悪い文字を忌み吉字をもって記載をする地域では「瘟」の字を忌んで「福」とし、これを五福大神、五福使者などと表記することもある(台湾などで見られる)』とある。また、ウィキの「五瘟使者によれば、『五瘟使者(ごおんししゃ)は、中国に伝わる疫病をつかさどる神、鬼神。五方瘟神(ごほうおんしん)、五瘟大王(ごおんだいおう)、五福使者(ごふくししゃ)、五福大帝(ごふくたいてい)などとも言う』。『天界に存在する瘟部(おんぶ)に属するとされ、人々に流行病などをもたらしたりするとされた。「瘟」の字が縁起の悪い文字であるということから「福」という文字を用い、台湾などでは五福と表記することもある』。『五人の神によって構成されており、それぞれ』、東(春)を張元伯(東方青瘟)が、南(夏)を劉元達(南方赤瘟)が、西(秋)を趙公明(西方白瘟)が、北(冬)を鐘仕貴(北方黒瘟)が、中央を史文業(中央黄瘟)が『支配するとされる』。『支配下に五毒将軍(ごどくしょうぐん)が存在する』。中国の『南北朝時代』(北魏が華北を統一した四三九年から始まり、隋が中国を再び統一する五八九年までの中国の南北に王朝が並立していた時期)の『天師道』(「五斗米道(ごとべいどう)」に同じ。通説では後漢末に張陵(張道陵とも)が蜀(四川省)の成都近郊の鶴鳴山(或いは鵠鳴山とも。現在の大邑県)で起こした道教教団。二代目の張衡の死後、蜀では巴郡巫県の人である張脩(張修)の鬼道教団が活発化した、益州牧劉焉の命で、三代目の張魯とともに漢中太守蘇固を攻め滅ぼしたが、後に張魯が張脩を殺害してそれを乗っ取り、漢中で勢力を固めた。ここはウィキの「五斗米道に拠った)『の書で鬼神のことについて記してある』「女青鬼律」の中にも、『張元伯・劉元達・趙公明・鐘仕貴・史文業は疫病に関する鬼たちを領している鬼主(五方鬼主)であると記されている』とある。実はウィキの「瘟鬼が典拠の一つとしている、澤田瑞穂氏の「修訂 地獄変」(一九九一年平河出版社刊)は所持しているのだが、今は書庫の底に沈んで見出せない。或いは、それでここに、よりよい注を附すことが出来るかも知れない。発掘し次第、追記する。

「空言(そらごと)」病人の譫言。

「生死(しやうじ)の品(しな)」回復や悪化といった病態。

「孔子も鄕人(きやうひと)の儺(おにやらひ)をいみ給はねば」「論語」の「郷党篇」の「十之十」に、

   *

鄕人飮酒、杖者出、斯出矣。鄕人儺、朝服而立於阼階。

(鄕人(きやうひと)と酒を飮むに、杖者(ぢやうしや)出づれば斯(ここ)に出づ。鄕人の儺(だ)には、朝服して阼階(そかい)に立つ。)

   *

意味は、「故郷の村人と酒を飲み交わした時には、六十以上の年長者が退出されたなら、同時に退席する。故郷の村人が村の厄払いの追儺の式を成す時には、礼服を着て、客を迎えるべき東の階段に立ってそれを待つ。」の意。

「雄黃(をわう)」本邦では、毒性の強い硫化鉱物である雄黄(ゆうおう:orpiment)のことを指す。硫化砒素(arsenic sulfide:三硫化二砒素:As2S3)の塊りである。色調は黄色・褐黄色で、樹脂状の光沢を有する。但し、中国では同じ硫化鉱物で、同じく有毒な鶏冠石(realgar:四硫化四砒素:As4S4)を指し、対象が微妙に異なる(以上は製薬会社他の信頼出来る記載を複数確認した)。中国には、焼酎に少量の雄黄を入れた酒「雄黄酒」があり、解毒薬や厄払いのために端午の節句に飲んだり、室内に撒いたり、指にそれを附けて子どもの額に「王」の字を書いたりする(最後の習俗については、「人民中国」公式サイト内の丘桓興氏の「祭りの歳時記」の「端午節」に拠った)。

 

2乙(きんじゆつおつ)」(「1」=「竹」(かんむり)+(下部)「斬」。「2」=「竹」(かんむり)」+(下部)「厂」+(内部)「斯」)「」の二字は恐らく造字と思われるが、不詳。そうした疱瘡除けの呪符を家の門口に貼る習慣が、本書が出版された寛文一二(一六七二)年以前にあったということは確認出来なかった。ただ、平成二〇(二〇〇八)年三弥井書店刊の三弥井民俗選書の大島建彦著「疫神と福神」の目次(リンク先は同書店公式サイト内の同書の広告)内に『「キシ乙」という呪符』とあり、ここを読めば、有効な注が附せそうであるが、私は所持しない。但し、太刀川論文『百物語評判』の意義長野県短期大学紀要一九七八十二発行)所収)PDF)に、この箇所について、本書の最後に附される「跋」の中で、本作の一部の実例が語り手の山岡元隣の死後のことであり、これは本作を整理・補筆をして貞享三(一六八六)年に板行した元隣の息子山岡元恕が、内容自体をも加筆しているのではないか、という読者の一人の疑問を提示しているのであるが、『これは例えば、「近頃家々に2乙といふ字を張りし」以下は『群談採余』の故事をひくところであるが、この2乙の守り札が天和貞享のころ』(元隣は寛文一二(一六七二)年没で、天和(てんな:一六八一年~一六八四年。寛文・延宝の次)『のことである確証が俟たれる』とあるから、この事実はメジャーに知られたものではないようだ。

「はりし」「貼りし」。門口に疱瘡除けの呪符を貼ったのである。

「群談採餘」明の倪綰(げいわん)撰。全十巻。一五九二年刊。よく判らぬが、邦人記事の抄録訳などを見ると、志怪が多く含まれているようである。原本には当たれなかった。原典を見たい気がする。

「さくる」「避くる」。

「元の末つかた」元(大元)が事実上、滅ぶのは一三六八年(本邦は南北朝期の正平二二/貞治六年)。

「浙江」これは本来は現在の浙江省を流れる銭塘江(せんとうこう)の旧称で、現行では杭州市市街の南を通り、東で東シナ海にそそぐ部分を銭塘江と呼ぶ(杭州市街を経た南上流で富春江となる)ので、舞台は杭州市街の南端辺りかも知れない。附近(グーグル・マップ・データ)。

「老僧」この人物の正体が知りたくなる。

「すはや」感動詞。「あっ!」。]

2018/10/27

古今百物語評判卷之四 第十一 黃石公が事 / 古今百物語評判卷之四~了

 

  第十一 黃石公が事

ある人のいはく、「なべて、人の存(ぞんじ)候、張良に一卷の書を授(さずけ)し老翁は、其(その)おきなの言葉に、『われ、黃石の精(せい)なり』と申されきと。さ候へば、石も劫(こう)を經ては、ばけ候やらん、いぶかしさよ」と云(いひ)ければ、先生、答(こたへ)ていはく、「是れは、石のばけたるにあらず。彼(かの)黃石公と申せし人は、其比(そのころ)、軍法(ぐうはう)の名人にて張良の師匠なる人なれば、則ち、智謀を用ゐたるなり。其故は、『我、世をのがれし者なるが、此書をたしなみをきたり[やぶちゃん注:ママ。]。汝に授けむ』など云はゞ、人の淺(あさ)まに[やぶちゃん注:「浅はかなに・軽薄に・いいかげんに」。]おもはむ事を思ひ、かくあやしくいひて、世の信仰をおこさしめむが爲なり。張長も其心をさとりて、後(のち)に黃石をまつりしなり。かやうの事、軍法におゐて、まゝある事なり」と語られき。

[やぶちゃん注:「張良」(?~紀元前一六八年)は漢の高祖の功臣。家柄は、代々、韓の宰相であった。韓が秦に滅ぼされると、その仇を報じようとして、巡幸中の始皇帝を博浪沙(河南省陽武県の南)で襲撃するも失敗し、秦の追捕を逃れて、下邳(かひ)(江蘇省邳県の南)に隠れた。この時、ここに出る不思議な黄石老人から、周の軍師として知られた太公望呂尚(りょしょう)の兵法書を授かったとされる。陳勝・呉広の挙兵に呼応して蜂起し、劉邦(後の高祖)に従って、その軍師となった。秦軍を破って関中に入り、秦都咸陽を陥落させ、かの「鴻門の会」では劉邦を危地から救い、さらに項羽を追撃し、自害へと追いやるまで、彼は常に劉邦の帷幕にあって奇謀をめぐらし、漢を勝利に導いた名臣であった。懐かしいね、漢文の授業が。ウィキの「張良の「下邳時代の逸話」も引いておこう。『ある日、張良が橋の袂を通りかかると、汚い服を着た老人が自分の靴を橋の下に放り投げ、張良に向かって「小僧、取って来い」と言いつけた。張良は頭に来て殴りつけようかと思ったが、相手が老人なので我慢して靴を取って来た。すると老人は足を突き出して「履かせろ」と言う。張良は「この爺さんに最後まで付き合おう」と考え、跪いて老人に靴を履かせた。老人は笑って去って行ったが、その後で戻ってきて「お前に教えることがある』。五『日後の朝にここに来い」と言った』。五『日後の朝、日が出てから張良が約束の場所に行くと、既に老人が来ていた。老人は「目上の人間と約束して遅れてくるとは何事だ」と言い「また』五『日後に来い」と言い残して去った』。五『日後、張良は日の出の前に家を出たが、既に老人は来ていた。老人は再び「』五『日後に来い」と言い残して去って行った。次の』五『日後、張良は夜中から約束の場所で待った。しばらくして老人がやって来た。老人は満足気に「おう、わしより先に来たのう。こうでなくてはならん。その謙虚さこそが大切なのだ」と言い、張良に太公望の兵法書を渡して「これを読めば王者の師となれる』。十三『年後にお前は山の麓で黄色い石を見るだろう。それがわしである」と言い残して消え去ったという』。『後年、張良はこの予言通り黄石に出会い、これを持ち帰って家宝とし、張良の死後には一緒に墓に入れられたという』。『この「黄石公」との話は伝説であろうが、張良が誰か師匠に就いて兵法を学んだということは考えられる』。『また、この下邳での逃亡生活の時に、項羽の叔父項伯が人を殺して逃げ込んできたので、これを匿まっている』。]

古今百物語評判卷之四 第十 雨師・風伯の事附殷の湯王・唐の太宗の事

 

  第十 雨師(うし)・風伯(ふうはく)の事殷の湯王・唐の太宗の事

一人の云(いはく)、「いろいろの事を思ひめぐらし候中に、雨・風ほど、不思議なる事、侍らず。雨の宮・風の宮など、神道にもあがめ候へば、神有(あり)て其事を司り給ふにや。又、唐土(もろこし)には雨師・風伯など申(まうす)よしを承り候。雨乞などいたして、其しるしの御座候も心得がたく存じ候ふまゝ、くはしく物語を承りたく侍る」と問(とひ)ければ、先生、答へて云ふ、「地の陰氣は、のぼりて、雲となり、陽氣は、くだりて、雨となれば、元より、陰陽のなす所にして、外につかさどる鬼神も有べきにあらず。されど、雲、行(ゆき)、雨、ほどこして、萬物のめぐみをうくるよりいへば、報恩の爲とて、唐土にも山川(さんせん)社稜(しやしよく)の祭(まつり)、國々に侍る。かくあるうへは、我が朝にも雨風の宮ある事、勿論の義なり。元より、風は天地の埃氣(あいき)と云(いひ)て、陰陽の氣の、動き發するところにて、形(かたち)有(ある)物に、あらず。東風(こち)の、氷をとき、水をぬるめ、花を開き、物をかはかすは、陽氣の所爲(しわざ)なれども、北風の、霜を結び、水を氷らし、葉をおとし、物をしめらすは、陰氣のなす處なり。かくてぞ、四季により、風の吹(ふき)やうも、ことなるべし。此雨風の神を、おそろしき形に刻み、袋など持たせたるは、神鳴の繪に太鼓を書(かけ)るごとく、それぞれの似合敷(しき)かたに、かたどれるなるべし。さて又、日でりに雨を乞(こひ)て其しるしある事は、さまざまの理(ことわり)侍る中(なか)に、一天下の旱(ひでり)ならば、天子の祈りに叶ひ、一國の旱には國主の求(もとめ)に應じ、一鄕(ひとさと)の日(ひ)でりには、其里の長(をさ)の願ひにかなふべし。其(その)銘々の司れる外(ほか)へは及ぶべからず。是れ、當然の理(ことわり)なり。猶も、自らなす事、覺束なき時は、身のけがれず、心のいさぎよき僧・覡(かんなぎ)を請じて、祈らしめたる例(ためし)多し。されども、自(みづか)ら祈れるにこそ、深き感應は侍らん。むかし、殷の湯王と申す聖人の御代に大旱(おほひでり)ありしに、湯王、自(みづか)ら庭に出で給ひ、其身を牲(いけにへ)として、身のあやまちを責(せめ)給ひしかば、こと葉(ば)の下に、忽ち、大雨ふりし、と云(いふ)事、「帝王世紀」に見えたり。又、唐の太宗といふ賢王の御代に、蝗(いなむし)といふ物、天下にみちみちて、民の害をなしければ、太宗のたまはく、『是れ、朕が政(まつりごと)のあしきにより、天より、わざはひをくだし給ひ、天下の蒼-生(たみ)をくるしむる事、其(それ)、いはれなし。もし、天、朕をあはれみ給はゞ、此蟲、東海へ去るべし。さなくば、朕を、害せよ』とて、其蝗をとりて吞(のみ)給ひしかば、その蟲、東海へ飛去(とびさ)りて、太宗にたゝりもなく、打繼(うちつづ)き豐年にして、斗米三錢(とべいさんせん)の(と)ざゝぬ御代になりける事、「貞觀政要(ぢやうぐわんせいえう)」に見えたり。是、その君(きみ)の、眞實に民をあはれみ給ふ心の感應なり。又、其外、一國一城の主(ぬし)の、德義ふかき故に、旱に雨を得、洪水に害なく、虎の、鄕を去り、いなむしの死(しに)し類(たぐひ)、あげてかぞふべからず。これ、世界のうちに、人より貴(たつと[やぶちゃん注:ママ。])きはなく、人の内にて、心より上なるは、なければ、其心に感ずるところ、さまざまのしるしありて、天人一理(てんじにちり)の妙(めう)なる事、儒學の極意なり」とかたられき。

[やぶちゃん注:「雨師(うし)風伯(ふうはく)」中国神話に於ける雨の神である雨師萍翳(へいえい)と風の神風伯飛廉(ひれん)。軒轅(けんえん:後の黄帝)と蚩尤(しゆう)が涿鹿(たくろく)で戦った際、雨師と風伯は蚩尤側につき、軒轅を甚だ困らせたとされる。個人ブログ「プロメテウス黄帝を苦しめた中国神話最凶の風神、雨神コンビ、風伯と雨師に詳しいが、それによれば、『この窮地を救ったのが』、『黄帝側についたキョンシーの祖先とも言われる旱魃という日照りの女神で』あった。『しかし、雨を止めるのは一筋縄ではいかなかったようで、雨師の降らせている雨を止めたはいいが加減ができなかったのか』、『戦後』、『長期にわたって涿鹿一体に雨が降らなくなり』、『乾燥した大地となってしま』ったとある。

「殷の湯王」殷王朝初代の王。紀元前十八世紀頃の人。「史記」によれば、始祖契 (せつ) から第十四世に当たるとし、甲骨文では「唐」又は「大乙」などと呼ばれる。文献では「天乙」或いは「成湯」とする。周囲の諸侯を協力させ、遂に夏を倒して殷を開いたとされる。古文献は、多く、明哲なる聖王として、その徳を讃えている。

「唐の太宗」(五九八年~六四九年/在位:六二六年~六四九年)は唐の第二代皇帝。諱は李世民。初代皇帝李淵(高祖)の第二子。隋末動乱の最中、太原方面の防衛を命ぜられた父に従って同地に赴き、李淵の側近や部下らとともに、父を促して挙兵に踏み切らせた、立国の功績は絶大。ウィキの「太宗(唐)によれば、六二六年のクーデター「玄武門の変」で、『皇太子李建成を打倒して皇帝に即位、群雄勢力を平定して天下を統一した』。『優れた政治力を見せ、広い人材登用で官制を整えるなど諸制度を整えて唐朝の基盤を確立し、貞観の治と呼ばれる太平の世を築いた。対外的には、東突厥を撃破して西北の遊牧民の首長から天可汗の称号を贈られた』。『騎兵戦術を使った武力において卓越し、文治にも力を入れるなど』、『文武の徳を備え、中国史上有数の名君の一人と称えられる』。

「雨の宮・風の宮」現行、雨宮神社・雨之宮神社は各地にあり、風宮(かぜのみや)は三重県伊勢市豊川町にある外宮(豊受大神宮)の境内別宮として知られ、春日大社や、やはり各地に風宮神社風宮神社がある。

「覡(かんなぎ)」既出既注。古くは「かむなき」。「神(かむ)和(なぎ)」の意とされる。ここは「神降ろし」をする呪術者(シャーマン)の男性を指す(「巫覡(ふげき)」と言った場合、「巫」が「巫女」で女の、「覡」が男のシャーマンを指す)。

「帝王世紀」晋の学者皇甫謐(こう ほいつ 二一五年~二八二年)が編纂した歴史書。三皇から漢・魏に至る帝王の事跡を記録したもので、原本は十巻あったとされるが、散逸し残っておらず、引用によって片鱗を偲ぶのみである。元隣が元にした引用が何であったは調べ得なかった。判り次第、追記する。

「唐の太宗といふ賢王の御代に、蝗(いなむし)といふ物、天下にみちみちて……」ウィキ中国蝗災史に、『中国では昔から、蝗災(蝗害)、水災(水害)、旱災(旱魃)が3大災害の扱いを受けている』。『そもそも』「蝗」『の字は』、『農作物を襲う蝗の惨害をどう防ぐか、救うかに「皇」帝の命がかかっているというので』、『虫へんに皇と書くとする説がある』『ほどで、政治と蝗害は密接に関わってきた』「貞観政要」(唐の呉兢(ごきょう)の撰になる、唐の太宗と家臣たちとの政治上の議論を集大成して分類した書。全十巻。七二〇年以降に成立。治道の規範書として歴代皇帝の必読書とされ、日本でも広く読まれた)巻第八の「務農第三十」にある、『唐の太宗が蝗を飲み込んで蝗害を止めたという伝説にも、その関係性が表れている』とある。

「斗米三錢(とべいさんせん)の(と)ざゝぬ御代」太宗の御代には、一斗(当時の一斗は五・九リットル)の米が僅か銀三銭という安さで、貧困のために民が去って家が閉ざされることなく、家はいつも開かれて栄えていたという、彼の仁政を讃える謂いであろう。

貴(たつと)き」私は「貴し」を「たふとし(とうとし)」と読み、「尊し」を「たつとし」と読むと、小さな頃から刷り込まれきた人間である。]

和漢三才圖會第四十三 林禽類 鷑鳩(ぎうく) (謎の鳥「くろもず」(?))

 

Ryuukyuu

 

ぎうく     鵧鷑 駕犁

        載勝 烏臼

【音及九】

        鐡鸚鵡

        搾油郎

キッキウ

[やぶちゃん注:「鵧鷑」の「」は原典では「並」の左右の六・七画目が鈎(かぎ)状に四・五画に接した字であるが、これが表記出来ないこと、及び、東洋文庫訳やネット上の辞書類でこの鳥を示すのに「鵧鷑」が用いられていることから、これに代えた。]

 

本綱鳩狀小于烏能逐鳥其大如燕而黑色長尾有岐

頭上戴勝所巢之處其類不得再巢必相闘不已三月五

更輙鳴農人以爲候其聲曰架架格格至曙乃止故呼爲

搾油郞又能啄鷹鶻鳥鵲乃隼屬也

按此未知何鳥蓋搾油郞者油造家之搾郎也毎自五

更打槌其所業和漢不異

 

 

ぎうく     鵧鷑〔(へいりふ)〕

        駕犁〔(がり)〕

        載勝〔(たいしよう)〕

        烏臼〔(うきゆう)〕

【音及九】

        鐡鸚鵡〔(てつあうむ)〕

        搾油郎〔(さくゆらう)〕

キッキウ

 

「本綱」、鳩、狀、烏〔(からす)〕より小にして、能く鳥を逐ふ。其の大いさ、燕のごとくして、黑色。長き尾〔に〕、岐、有り。頭の上に「勝〔(しよう)〕」を戴す。巢〔(す)せ〕しむ處、其の類、再び、巢を得ず。必じ、相ひ闘ひて、已まず。三月〔の〕五更、輙〔(すなは)〕ち、鳴く。農人、以つて候と爲す。其の聲、「架架格格(キヤキヤ〔カクカク〕)」と曰ふ〔がごとし〕。曙に至りて、乃〔(すなは)〕ち、止む。故に呼んで、「搾油郞」と爲す。又、能く鷹・鶻鳥〔(はやぶさ)〕・鵲〔(かささぎ)〕を啄〔(ついば)〕む。乃ち、隼〔(はやぶさ)〕の屬なり。

按ずるに、此れ、未だ何鳥といふことを知らず。蓋し、「搾油郞」とは油造家(あぶらや)の搾-郎(しぼり〔て〕)なり。毎〔(つね)に〕、五更より槌〔(つち)〕を打つ。其の所-業(しわざ)〔は〕、和漢、異ならず。

[やぶちゃん注:読みの「ぎうく(現代仮名遣いは「ぎゅうく」か。東洋文庫訳はそうなっているのだ)」は頗る不審。この熟語を音読みするなら、「リウキユウ(リュウキュウ)」であるし、中国語音「lì jiū」(リィー・ヂ(ォ)ウ)を写したものか? いやいや、そんあことはどうでもいいのだ。ともかくも、遂に、良安が丸投げする、全く種不明の鳥が出現したのだ。諸異名でも中文サイトを調べてみたが、現在の種に同定比定した記事にぶつからない。

 しかし、捜しているうちに、清代の類書(百科事典)で、中国史上最大の巻数一万巻から成る、康熙帝が陳夢雷らに命じて作らせた「欽定古今図書集成」(一七二五年完成)の「博物彙編」の「禽蟲典」第四十九巻に載る、本種を描いた「鵧鷑圖」のパブリック・ドメインの画像をWikimedia Commonsのこちらで発見した。特殊な画像ファイルであったため、複数回のファイル変換とサイズ変更を行ったが、なかなかにいい絵なので、特にここに掲げることとする。

 

Gyuuku

 

 清代にかくもちゃんと描けるからには、今も実在する鳥と考えてよかろう(こんだけ他種にも強い鳥だとしたら、そう短時間に絶滅したとは思われないし、この鳥が人間にとって薬用・食用・装飾用等の何らかの強い需要を持っていて個体数が激減したり、絶滅してしまったとするなら、寧ろ、ネット上にその記載が複数登場しておかしくない。ということは、今もいるんだ。

 しかし、灯台下暗しで、試しに所持する大修館書店「大漢和辭典」の「」を引いたところが、そこには『鳩(きゅうきゅう)はくろもず』とあったのである。

 しかし、これ、「クロモズ」という種は、いないのである。

 それでも、ネット画像で調べてゆくと、モズ科 Urolestes 属シロクロオナガモズ Urolestes melanoleucus という種は、全身が黒く、尾が長くて二岐となっている点ではピッタシカンカンだ! と小躍りしたところが、残念なことに、この種はアフリカのサバンナ地帯にしか分布せず、中国にはいないのだ(英文ウィキの当該種の「Magpie shrikeと、その画像を見られたい)。

 「隼〔(はやぶさ)〕の屬」(ハヤブサ目 Falconiformes ハヤブサ科 Falconidae ハヤブサ亜科 Falconinae ハヤブサ属ハヤブサ Falco peregrinus)なんて言っているから(確かに強いもんな)、私の見当違いの、全然違う科の鳥なのかしらん?

 なんだか、今、鳩のとまっている樹の下まで来た感じがするんですけど!

 中国に棲息する、黒いモズの仲間で、この記載に合う種を御存じの方は、御教授願いたい。【18:15/追記】本日公開後、いつもお世話になっているT氏より、これではないかという指摘を戴いた。中文サイト「自然系圖鑑」の「台灣鳥類全圖鑑」の「大卷尾」で、そこには、『卷尾科 Dicruridae』『卷尾屬』で、学名は『Dicrurus macrocercus』とし、『鳴声は、『平時叫聲為粗啞的「呷啾、呷啾」,繁殖期鳴唱稍具旋律,夾雜若干破嗓的「呷啾」聲』とあり、別名を『黑卷尾、烏秋、卷尾、烏鶖(台語)』とし、古名に『鳩、鵧鷑』と出、『宋詞』に『批鵊鳥、批頰、祝鳩、烏臼鳥、鴉舅』とあるとある。また、体長は三十センチメートル、食性は節足動物(昆虫類らしい)とし、棲息地は樹林園・農園・開闊地(障害物も起伏もほとんどない野原)とあり、台湾では『留鳥』とする。単独で小さな群れを作り、飛翔能力や滞空能力は高く、素早く、飛行する空域は非常に低く、飛行中に停止して小さな角度で方向を変更することができると言ったようなことが書いてある(原文は『飛行:飛行能力強,速度快,飛行路徑呈很淺的坡浪狀,馭空能力很好,飛行中能急停及以小角度變換方向。』)リンク先の分布地図を見ると、南アジア及び東アジアで中国の南東部をカバーしていることが判る。幸い、邦文のウィキ「オウチュウ(烏秋)[やぶちゃん注:「チュウ」はママ。現代中国語烏」は「ウー)、qiū」(チ(ォ)ウである。]」に当該種の記載があり(これもT氏より御教授を受けた)、スズメ目オウチュウ科オウチュウ属オウチュウ Dicrurus macrocercus で、全長約二十八センチメートルで、『成鳥は全身が青みがかった黒色で、羽には光沢がある。尾は長く、先端が逆Y字に割れており、野外で本種を識別する際の特徴となっている。嘴と足も黒い』。『中国東部から台湾、東南アジア、インドに分布する。中国に生息する個体は、冬期には南方へ渡る』。『日本では数少ない旅鳥として、主に春に記録される。日本海の島部や南西諸島では比較的よく観察される』。『開けた森や田畑、市街地に生息する。浅く波を描くように』、『ふわふわと飛びながら、昆虫類を捕食する。「ジーッ」、「ジェー」など、やや濁った声で鳴く』とある。同ウィキには六つの亜種が挙げられており、その中で、

Dicrurus macrocercus cathoecus(中部・東部・南部中国からミャンマー東部・タイ北部・インドネシア北部)

Dicrurus macrocercus harterti(台湾)

の二種が、中国に分布していることが判った。古名と、その特徴的な二岐の尾、体色の黒さから、まず、「本草綱目」記載の「鳩」はこれと見て、間違いないように思われる。何時もながら、T氏に謝意を表するものである。同ウィキの画像は使用許諾画像であるので、貼付する。

 

Black_drongo_dicrurus_macrocercus_i

 

「勝〔(しよう)〕」婦人の髪飾り。華勝。

「巢〔(す)せ〕しむ處、其の類、再び、巢を得ず」ある鳩の個体が営巣したところには、同じ鳩の類は、営巣することは出来ない。

「五更」現在の広汎な夜明けの時間帯である、午前三時頃から五時頃。

「候」ここは田畑に入って本格的に行う農事の開始期を指している。

「「架架格格(キヤキヤ〔カクカク〕)」ピンインで「jià jià gē gē」(ヂィア・ヂィア・グゥー(ァ)・グゥー(ァ)」。これは意味よりも、同時間に鳴く鶏鳴と同じようなものなのかもしれない。

「搾油郞」「油造家(あぶらや)の搾-郎(しぼり〔て〕)」所謂、油を菜種などを叩き潰して採取する職人のこと。KAWASHIMA-YA公式サイト平出油屋さんの菜種油伝統が息づく日本の手仕事に製造過程が詳しく示されてある(動画も有り)。その圧搾過程を全くの人為でするとすれば、夜鍋仕事であることは想像に難くない。

「鷹」現行では、タカ目タカ科 Accipitridae に属する鳥の内でも比較的小さめのものを指す通称である。

「鶻鳥」先に示したハヤブサの異名。

「鵲」スズメ目カラス科カササギ属カササギ Pica pica

「五更より槌〔(つち)〕を打つ。其の所-業(しわざ)〔は〕、和漢、異ならず」珍しくどうでもいいこと言ってお茶濁し。良安先生、流石に全然判らんというのが、気が引けたのかも知れんなぁ。]

和漢三才圖會第四十三 林禽類 鵙(もず) (モズ)

Mozu

もず    伯勞 伯鷯

      伯趙 博勞

      鴂【音决】

【音臭】

     【和名毛受】

チウ 【兼名苑又用鷭字

    日本紀用百舌鳥未詳】

 

本綱鵙大如鳩黑色其飛也鬷斂足竦翅也以四月鳴其

鳴曰苦苦俗以爲婦被其姑苦死所化故又名姑惡人多

惡之或云尹吉甫信后妻之讒殺子伯奇后化爲此鳥故

其所鳴之家以爲凶【此二説共傳會之言】禮記五月鵙始鳴詩豳風

七月鳴鵙之義不合以四月爲準

小兒病取鵙毛帶之卽愈小兒語遲者鵙所踏樹枝鞭

之卽速語【病一名繼病母有娠乃兒病如瘧痢他日相

繼腹大或瘥或發他人有娠相近亦煩】

 万葉春されは鵙の草莖見えすとも我はみやらん君かあたりを

按鵙形似鳩而小頭背至尾黃褐色及眼觜顔容似小

 鷂眼邊黑眼上白條引頰觜黑而末曲頰臆白腹黃赤

 有黑橫彪翮白羽黑脛掌黑爪利而毎摯小鳥食之人

 畜之代鷹作遊獵耳其聲高喧如言奇異夏月鳴冬止

 其肉味似雀其氣臊常人不食之鵙皮硬而毛難脱三

 才圖會云鵙飛不能翺翔竦翅上下而已食肉不食穀

 鵙善制蛇【鳴卽蛇結】或曰金得鵙之血則昏【淮南子云伯勞血塗金人不敢

 取蓋於今世難甚信用】

 

 

もず    伯勞 伯鷯〔(はくれう)〕

      伯趙 博勞

      鴂【音、「决〔(ケツ)〕」。】

【音、「臭」。】

     【和名、「毛受」。】

チウ 【「兼名苑」に、又、「鷭」の字を用ひ、

  「日本紀」に「百舌鳥」を用ふ。未だ

    詳らかならず。】

 

「本綱」、鵙、大いさ、鳩のごとく、黑色。其の飛ぶや、足を鬷-斂〔(あはせちぢ)めて〕、翅を竦(そばだ)つ。四月を以つて鳴き、其の鳴くこと、「苦苦(クウクウ)」と曰ふ。俗、以爲〔(おもへら)〕く、婦、其の姑〔(しうとめ)〕の苦を被〔(かふむ)りて〕死して化する所〔と〕。故に又、「姑惡」と名づく。人、多く、之れを惡〔(にく)〕む。或いは云はく、『尹吉甫〔(いんきつぽ)〕、后妻〔(ごさい)〕の讒〔(ざん)〕を信じ、子の伯奇を殺し、后〔(のち)〕、化して此の鳥と爲る〔と〕。故に、其れ、鳴く所の家、以つて凶と爲す』〔と〕【此の二説、共に傳會〔(いひつたへ)〕の言なり。】「禮記」、『五月に、鵙、始めて鳴く』〔と〕。「詩」の「豳風〔(ひんぷう)〕」に『七月鳴鵙〔七月 鵙 鳴き〕』の義〔あれども〕、合はず。四月を以つてと爲す。

小兒〔の〕「病(をとみしけ)」〔は〕、鵙の毛を取り、之れを帶〔ぶれば〕卽ち愈ゆ。小兒〔の〕語〔の〕遲〔き〕者〔は〕、鵙〔の〕踏〔める〕所の樹枝にて、之れを鞭〔(むちう)たば〕、卽ち速く語る【「病」、一名、「繼病〔(つぎのやまひ)〕」、母、娠〔(はらみ)〕有れば、乃〔(すなは)ち〕、兒、病〔みて〕、「瘧痢〔(ぎやくり)〕」のごとし。他日、相ひ繼ぎて、腹、大〔きく〕、或いは瘥〔(い)へ〕、或いは發〔(はつ)〕す。他人〔の〕娠〔(はらみ)〕有るにも、相ひ近〔づく〕も亦、煩ふ。】。

 「万葉」

   春されば鵙の草莖見えずとも

      我はみやらん君があたりを

按ずるに、鵙、形、鳩に似て小さく、頭・背〔より〕尾に至〔るまで〕黃褐色、及び、眼・觜・顔の容〔(かたち)〕、小さき鷂〔(はいたか)〕に似る。眼の邊り、黑く、眼上の白條〔は〕頰〔まで〕引く。觜、黑くして、末〔は〕曲る。頰・臆〔(むね)〕、白。腹、黃赤〔にして〕黑〔き〕橫〔の〕彪〔(とらふ)〕有り。翮〔(はねくき)〕は白く、羽は黑し。脛・掌、黑。爪、利にして毎〔(つね)〕に小鳥を摯〔(と)〕り、之れを食ふ。人、之れを畜〔(か)〕ひ、鷹の代〔はりとして〕遊獵を作〔(な)〕すのみ。其の聲、高く喧〔(かまびす)〕し。「奇異〔(キイ)〕」と言ふがごとし。夏月、鳴きて、冬、止む。其の肉味、雀に似〔るも〕、其の氣〔かざ〕、臊〔(なまぐさ)く〕、常の人〔は〕之れを食はず。鵙の皮〔は〕硬くして、毛、脱け難〔(にく)〕し。「三才圖會」に云はく、『鵙、飛〔ぶも〕翺翔〔(かうしやう)たる〕能はず、翅を竦〔(そばだ)てて〕上下するのみ。肉を食ふ』〔と〕。穀を食はず。鵙、善く蛇を制す【鳴かば、卽ち、蛇、結〔(けつ)〕す。】。或いは曰はく、『金〔(きん)〕、鵙の血を得ば、則ち昏〔(くら)〕し【「淮南子〔(えなんじ)〕」に云はく、『伯勞の血、金に塗らば、人、敢へて取らず』〔と〕。蓋し、今の世、甚だ、信用し難し。】。

[やぶちゃん注:私の好きな、スズメ目スズメ亜目モズ科モズ属モズ Lanius bucephalus。本邦ではほかに、アカモズ Lanius cristatus superciliosus(環境省レッドリストで絶滅危惧種(EN)指定)・シマアカモズ Lanius cristatus lucionensis・オオモズ Lanius excubitor・チゴモズ Lanius tigrinus(同前絶滅寸前種(CR)指定)が見られる。以下、ウィキの「モズ」から引く。『日本、中国東部から南部、朝鮮半島、ロシア南東部(樺太南部含む)に分布している』。『模式標本』亜種モズ(Lanius bucephalus bucephalus)『の産地(模式産地)は日本。日本の北海道、本州、四国、九州に分布している』。『中国東部や朝鮮半島、ウスリー南部、樺太で繁殖し、冬季になると』、『中国南部へ南下し』、『越冬する』。『日本では基亜種が周年生息(留鳥)するが、北部に分布する個体群や山地に生息する個体群は秋季になると南下したり』、『標高の低い場所へ移動し越冬する』。『南西諸島では渡りの途中に飛来(旅鳥)するか、冬季に越冬のため』、『飛来(冬鳥)する』。全長十九~二十センチメートル。『眼上部に入る眉状の筋模様(眉斑)、喉や頬は淡褐色』。『尾羽の色彩は黒褐色』。『翼の色彩も黒褐色で、雨覆や次列風切、三列風切の外縁(羽縁)は淡褐色』。『夏季は摩耗により頭頂から後頸が灰色の羽毛で被われる(夏羽)』。『オスは頭頂から後頸がオレンジ色の羽毛で被われる』。『体上面の羽衣が青灰色、体側面の羽衣はオレンジ色、体下面の羽衣は淡褐色』。『また』、『初列風切羽基部に白い斑紋が入る』。『嘴の基部から眼を通り後頭部へ続く筋状の斑紋(過眼線)は黒い』。『メスは頭頂から後頸が褐色の羽毛で被われる』。『体上面の羽衣は褐色、体下面の羽衣は淡褐色の羽毛で被われ』、『下面には褐色や黒褐色の横縞が入る』。『過眼線』(嘴の基部から眼の前後を通る線状模様)『は褐色や黒褐色』。『開けた森林や林縁、河畔林、農耕地などに生息』し、『食性は動物食で、昆虫』や甲殻類等の節足動物、『両生類、小型爬虫類、小型の鳥類、小型哺乳類などを食べる』。『樹上などの高所から』、『地表の獲物を探して襲いかかり、再び樹上に戻り』、『捕えた獲物を食べる』。『様々な鳥(百の鳥)の鳴き声を真似た、複雑な囀りを行うことが』、『和名の由来(も=百)』。二~八月に、『樹上や茂みの中などに』、『木の枝などを組み合わせた皿状の巣を雌雄で作り』、四~六『個の卵を産む』。『年に』二『回繁殖することもある。カッコウに托卵されることもある』。『メスのみが抱卵し、抱卵期間は』十四~十六『日。雛は孵化してから約』十四『日で巣立つ』。特異な習性である「はやにえ」の項。『速贄と書く。モズは捕らえた獲物を木の枝等に突き刺したり、木の枝股に挟む行為を行う。秋に初めての獲物を生け贄として奉げたという言い伝えから「モズのはやにえ(早贄)」といわれた』。『稀に串刺しにされたばかりで生きて動いているものも見つかる。はやにえは本種のみならず、モズ類』(Laniidae)『がおこなう行動である』。『秋に最も頻繁に行われるが、何のために行われるかは、よく分かっていない。ワシやタカとは違いモズの足の力は弱く、獲物を掴んで食べる事ができない。そのため小枝や棘をフォークのように獲物を固定する手段として使用しているためではないかといわれている』。『また、空腹、満腹に関係なくモズは獲物を見つけると本能的に捕える習性があり、獲物を捕らえればとりあえずは突き刺し、空腹ならばそのまま食べ、満腹ならば残すという説もある』。『はやにえにしたものを後でやってきて食べることがあるため、冬の食料確保が目的とも考えられるが、そのまま放置することが多く、はやにえが後になって食べられることは割合少ない。また、はやにえが他の鳥に食べられてしまうこともある。近年の説では、モズの体が小さいために、一度獲物を固定した上で引きちぎって食べているのだが、その最中に敵が近づいてきた等で獲物をそのままにしてしまったのがはやにえである、というものもあるが、餌付けされたモズがわざわざ餌をはやにえにしに行くことが確認されているため、本能に基づいた行動であるという見解が一般的である』。『はやにえの位置は冬季の積雪量を占うことができるという風説もある。冬の食糧確保という点から、本能的に積雪量を感知しはやにえを雪に隠れない位置に造る、よって位置が低ければその冬は積雪量が少ない、とされるが、はやにえ自体の理由は不明である』。『秋から』十一『月頃にかけて「高鳴き」と呼ばれる』、『激しい鳴き声を出して』、『縄張り争いをする。縄張りを確保した個体は縄張りで単独で越冬する。

 なお、「早贄(はやにえ)」については、私自身、何度も串刺しの百足・蛙・蜥蜴・山椒魚・井守等を何度も現認(富山県高岡市伏木矢田新町奥の二上山麓内)した経験から、非常に興味を持っている。私の電子化では、「生物學講話 丘淺次郎 三 餌を作るもの~(1)」がよく、具体例では、まさに富山のケースである「譚海 卷之一 越中國もず巣をかくるをもて雪を占(うらなふ)事」、青森のケースの「谷の響 一の卷 十三 自串」も「はやにえ」に関連した面白い記事と思うので紹介しておく。

「鵙【音、「臭」。】」不審。この音表示は日本語のそれを示すのであるから、これではおかしい。「鵙」の音は呉音で「キヤク(キャク)」、漢音で「クヱキ(ケキ)」、慣用音でも「ゲキ」であるのに対し、「臭」は呉音で「ク・シユ(シュ)」、漢音で「キウ(キュウ)・シウ(シュウ)」で一致を見ないからである。現代中国語でも、「鵙」は二声でピンイン「」・ウェード式「chü」であるのに対し、「臭」は四声でピンイン「chòu」・ウェード式「ch'ou」であって、カタカナ音写をしてみても、前者は「ヂィー」、後者は「チォゥ」で、やはり異なるからである。因みに、旧来の中国の韻字から見ても、共通性はない。

「兼名苑」唐の釈遠年撰とされる字書体の語彙集であるが。現在は亡失して伝わらない。「本草和名」・「和名類聚鈔」・「類聚名義抄」に多く引用されてある。

「鷭」これは現行、本邦では、ツル目クイナ科 Gallinula 属バン Gallinula chloropus に当てられてしまっている

「日本紀、「百舌鳥」を用ふ」「日本書紀」では、「仁德天皇四三年九月庚子朔」(三五五年)・「仁德天皇六七年十月丁酉」・「仁德天皇八七年十月己丑」・「履中天皇六年十月壬子」(四〇五年)・「大化二年三月辛巳」(六四六年)・「白雉五年十月壬子」(六五四年)に、地名・人名を含めて計七箇所、「百舌鳥」で出現する。

「鬷-斂〔(あはせちぢ)めて〕」音は「ソウレン」で、「鬷」は「集まる・蝟集する」、「斂」は同じく「集める」であるが「縮めて纏めるの意もある。訓は東洋文庫のこの部分の訳を参考に添えた。

「苦苦(クウクウ)」これは「苦」中国語の音。ピンイン「」(カタカナ音写「クゥー」)である。

「以爲〔(おもへら)〕く」思っていることには。言い伝えらて、そう考えられていることには。

「姑〔(しうとめ)〕の苦」義母の虐(いじ)め。

『故に又、「姑惡」と名づく。人、多く、之れを惡〔(にく)〕む』夫の母を怨んでの変化(へんげ)であり、孝の道義に反するからであろう。

「尹吉甫」周の宣王(紀元前八二八年~紀元前七八二年)の臣下で、中国北方及び西北方にいた異民族である玁狁(けんいん)を征伐したことで知られ、「詩経」の「大雅」中の幾つかの詩の作者としても知られる。ウィキの「尹吉甫」によれば、『尹吉甫の子の伯奇(はくき)が、継母の嘘によって家を追いだされた説話は多くの書物に引かれており、書物によってさまざまに話が変形している』。「風俗通義」の「正失篇」に『よれば、曽子が妻を失ったとき、「尹吉甫のように賢い人に伯奇のような孝行な子があっても(後妻のために)家を追放されることがある」と言って、再婚しなかったという』。また、劉向(りゅうきょう)の「説苑(ぜいえん)」の佚文(「漢書」の「馮奉世(ふうほうせい)伝」の「顔師古注」及び「後漢書」の「黄瓊(こうけい)伝」の「章懐太子注」に引かれている)に『よると、伯奇は前妻との子で、後妻との子に伯封がいた。後妻は伯封に後をつがせようとして、わざと衣の中に蜂を入れ、伯奇がそれを取ろうとする様子を見せて、伯奇が自分に欲情していると夫に思わせた。夫はそれを信じ』、『伯奇を追放したという』。但し、「説苑」では、『伯奇を尹吉甫の子ではなく』、『王子としている』。「水経注」の引く揚雄「琴清英」に『よると、尹吉甫の子の伯奇は継母の讒言によって追放された後、長江に身を投げた。伯奇は夢の中で水中の仙人に良薬をもらい、この薬で親を養いたいと思って』、『歎きの歌を歌った。船人は』、『その歌をまねた。吉甫は舟人の歌が伯奇のものに似ていると思って』、『琴で「子安之操」という曲を弾いた』とし、蔡邕(さいよう)は「琴操」の「履霜操」で、『この曲を』、『追い出された伯奇が作ったものとし、宣王がこの曲をきいて』、『孝子の歌詞であるといったため、尹吉甫はあやまちに気づ』き、『後妻を射殺したする』とある。また、『曹植「令禽悪鳥論」では、尹吉甫は伯奇を殺したことを後悔していたが、ある日』、『尹吉甫は伯労(モズ)が鳴くのを聞いて伯奇が伯労に生まれかわったと思って、後妻を射殺したと言う』ともある。

「禮記」「五月に、鵙、始めて鳴く」「礼記」「月令(がつりょう)」に、

   *

小暑至、螳蜋生。鵙始鳴、反舌無聲。

 (小暑、至れば、螳蜋(たうらう)生じ、鵙、始めて鳴き、反舌(うぐひす)、聲、無し)

   *

とある。「螳蜋」は「蟷螂」でカマキリのこと。

「詩」「豳風〔(ひんぷう)〕」「詩経」の「国風」の最後にある「豳風」は、ここまでの「国風」の詩が各地方の民謡を載せているのとは異なる。豳というのはは周王朝発祥の地であり、中でも、ここで示されている「七月」の詩篇は、周公旦(古伝では「豳風」は殆んどが周公旦の作とする)が先祖の代(西周が鎬京(こうけい)に都する、紀元前千百年頃前の周の草創期)の農事を偲んで詠じたものとされ、後代に於いては太平の世の農村の祝祭歌とされてきた。「七月」の第三連に(訓読は昭和三三(一九五八)年岩波書店刊の吉川幸次郎注「中國詩人選集 二 詩經國風 下」を参考にした。但し、私の趣味で従っていない部分もある)、

   *

 七月流火

 八月萑葦

 蠶月條桑

 取彼斧

 以伐遠揚

 猗彼女桑

 七月鳴鵙

 八月載績

 載玄載黃

 我朱孔陽

 爲公子裳

 (七月 流(くだ)る火あり

  八月 萑(よし)と葦(あし)とあり

  蠶(かひこ)の月 桑の條(えだ)

  彼(か)の斧と(ておの)とを取り

  以つて遠く揚がれるを伐(き)り

  彼の女 桑を猗(しご)けり

  七月 鳴く鵙(もず)

  八月 載(すなは)ち績(つむ)ぐ

  載ち玄(くろ)く 載ち黃なり

  我が朱は孔(はなは)だ陽(あざや)かにして

  公子の裳(も)と爲(な)す

   *

とある。全篇の訓読と注raccoon21jpのブログ」こちらを一つリンクさせておく。

『七月鳴鵙〔七月 鵙 鳴き〕』の義〔あれども〕、合はず。四月を以つてと爲す。

「小兒〔の〕病(をとみしけ)」これは所謂、「おとみづはり(おとみづわり)」「おとづわり」のことである(他に「おとむじり」「おとまけ」等)。小学館「日本国語大辞典」によれば、「弟見悪阻」で、『小児の病の名。乳児のある母が、次の子をみごもって、つわりを起したために、その乳児が乳離れ』させられた結果、その子に起る病気を言う(やや原記載に不満があるので、最後の個所を個人的に書き変えた)。別に、同辞典の「おとみ」(弟見)の条を見ると、『(弟を見るの意から)乳のみ児のいるうちに次の子を妊娠すること』とし、後の方言の項で『乳離れしない子が母親の懐妊によって陥る栄養不良』(採集地は青森県・宮城県・秋田県・飛彈・高知県)とし、他に「おとみまけ」(宮城県・新潟県)を、「おとみよわり」(飛彈)、「おとみわずらい」(富山)と記す。国語学者佐藤貴裕氏のサイト「ことばへの窓」内の「理由なく消える語」(『月刊日本語学』一九九九年九月号所収)で徹底的に考証されている。必読! しかし、何故、この症状が「鵙の毛を取り、之れを帶〔ぶれば〕卽ち愈ゆ」かは判らぬ。良安は後で「鵙の皮〔は〕硬くして、毛、脱け難〔(にく)〕し」と言っていることと関係するのかも知れぬが、判らぬ。私が考えたのは、先の伝承の伯奇(義兄)・伯封(義弟)との類感呪術の可能性であった。潔白なのに実の父から追放され、入水して死んだとなれば、その毛一本でも、弟を思わぬ兄の病いの戒めとなろうからである。

「小兒〔の〕語〔の〕遲〔き〕者〔は〕」言語遅滞。

「鵙〔の〕踏〔める〕所の樹枝にて、之れを鞭〔(むちう)たば〕、卽ち速く語る」これも明らかな類感呪術だが、最早、私の乏しい想像を超えている。何方か、お教え願いたい。

「瘧痢〔(ぎやくり)〕」「瘧」は間歇性熱性疾患で、概ねマラリアを指し、ここはそれに伴う激しい下痢症状をいう。

「他日、相ひ繼ぎて」激しい止瀉が治まった後、あい次いで。

「腹、大〔きく〕、或いは瘥〔(い)へ〕、或いは發〔(はつ)〕す」突如、腹部が膨満膨張する症状が現われたり、或いは病気がそのまま治ったり、或いはまた同じように激しい熱性下痢症状を再発したりする。

「他人〔の〕娠〔(はらみ)〕有るにも、相ひ近〔づく〕も亦、煩ふ」驚天動地、母が弟を妊娠していなくても、全くの他人で近くに妊娠した婦人がある場合でも、この病気を発症する、というのである。これは最早、類感・共感呪術の域を越えて、フロイト的な精神分析の領域という気がしてくる。

「万葉」「春されば鵙の草莖見えずとも我はみやらん君があたりを」「万葉集」巻第十の「春の相聞」歌群の中の一首(一八九七番)であるが、「草莖」は「草潛」の誤り

   *

    鳥に寄せたる

 春されば百舌鳥の草潛(くさぐ)き見えずともわれは見やらむ君の邊(あたり)をば

   *

「春されば」春が来ると。「百舌鳥の草潛き」「草ぐき」は動詞「草ぐく」の連用形で「草の中にくぐもれる・くぐり抜ける」というモズが草藪に潜り込んで身を隠して見えなくなること。以下の「見えず」を導く序詞である。

「翺翔〔(かうしやう)〕」鳥が空高く飛ぶこと。

「鳴かば、卽ち、蛇、結〔(けつ)〕す」鵙が鳴くだけで、蛇は忽ち、蜷局(とぐろ)を巻いて(=「結」)怖気(おじけ)て身を守ろうとする。

「金〔(きん)〕、鵙の血を得ば、則ち昏〔(くら)〕し」金にモズの血を塗り付けると、忽ちのうちに黄金の輝きを全く失ってしまう、というのである。

「淮南子〔(えなんじ)〕」前漢の武帝の頃に淮南(わいなん)王であった劉安(高祖の孫)が学者達を集めて編纂させた一種の百科全書的性格を備えた道家をメインに据えた哲学書(日本では昔からの読み慣わしとして呉音で「えなんじ」と読むが、そう読まねばならない理由は、実は、ない)。捜し方が悪いのか、「淮南子」の現行の本文には見出せないのだが、「欽定續通志」の巻一百七十九の一節に、

   *

伯勞、一名伯鷯、一名博勞、一名伯趙、一名鶪、一名鴂。形似鴝鵒。鴝鵒、喙黃、伯勞、喙黑。「月令」、『候時之鳥』。「左傳」云、『伯趙氏司至以夏至鳴冬至止。故以名主二至之官』。「淮南子」云、『伯勞之血、塗金、人不敢取』。

   *

と、確かにあるのを見つけた。]

2018/10/26

和漢三才圖會第四十三 林禽類 鳹(ひめ・しめ) (シメ)

Sime

ひめ      倭名抄云

今云しめ    鳹【比米】白喙鳥

        鵑【志米】小青雀

【音黔】

 

按鳹狀似桑而稍小頭淺黃赤肩背灰白翼黒中挾

[やぶちゃん注:「」=(上)「戸」+(下)「鳥」。]

 白羽腹灰白觜大短而灰白眼下頤下正黒脛掌微黃

 常棲山林鳴聲似山雀而大春月囀出數品聲畜之食

 雜穀肉味有油臭氣不佳爲囮捕桑蓋鳹【本名比米俗誤

 曰志米】 鴲【和名抄所謂志米是也】小青雀也未詳形狀

 

 

ひめ 音は賢    「倭名抄」に云はく、

今、「しめ」と云ふ。 『鳹【「比米」。】、白き

           喙〔(くちばし)〕の鳥。

           鵑【「志米」。】、小〔さ

           き〕青雀』〔と〕。

【音、「黔〔(キン)〕」。】

 

按ずるに、鳹、狀、桑(まめまはし)に似て、稍〔(やや)〕小さく、頭、淺黃赤。肩・背、灰白。翼、黒〔の〕中に白羽を挾む。腹、灰白。觜、大きく短くして灰白。眼の下・頤〔(あご)〕の下、正黒。脛・掌、微黃。常に山林に棲む。鳴き聲、山雀〔(やまがら)〕似て大〔なり〕。春月、囀〔るに〕、數品〔(すひん)〕の聲を出だす。之れを畜〔(か)ふに〕、雜穀を食ふ。肉味、油臭〔き〕氣〔(かざ)〕有〔りて〕佳ならず。囮(をとり)と爲して桑〔(まめまはし)〕を捕れり。蓋し、鳹【本名、「比米」。俗、誤りて「志米」と曰ふ。】・鴲【「和名抄」の謂ふ所の「志米」〔とは〕是れなり。】、小さき青雀なりと〔いへども〕、未だ形狀を詳らかにせず。[やぶちゃん注:「」=(上)「戸」+(下)「鳥」。]

[やぶちゃん注:スズメ目スズメ亜目スズメ小目スズメ上科アトリ科 Carduelinae亜科シメ属シメ Coccothraustes coccothraustes「本草綱目」にないことから、標題部分の表記が今までにないものとなっている。しかし以下に示す通り。シメは分布から見ても中国にも棲息し、分布域も中国東部・北部をカバーしていて(ウィキの分布域地図を参照)、中文ウィキの「嘴雀」にも中国での異名として「鴲」「腊嘴雀」「老西子」「鉄嘴蜡子」等がある。最後の「鉄嘴蜡子」は前項桑鳲(まめどり・まめうまし・いかるが)(イカル)」の「鐵嘴鳥」の注で本種を有力な候補とした経緯があり、或いはそれが、本種なのではあるまいかとも思うのである(但し、「本草綱目」にはそれらしい鳥名が見当たらないのだけれも)。まずシメの分布から。「ブリタニカ国際大百科事典」によれば、『繁殖地はヨーロッパから東アジア』・『カムチャツカ半島に及ぶ。ヨーロッパや中央アジア』・『アムール川流域周辺では留鳥だが』、『ほかの繁殖地では夏鳥』で、『越冬には地中海地方や東アジア中部』・『南部へ渡る。繁殖するのは山地の森林だが』、『冬には公園や人家付近の高木によく飛来し』、『地上でも採食する。木の実』・『新芽などを主食とするが』、『夏季には昆虫類も多く食べる。日本には』十『月に冬鳥として渡来するものが多いが』、『北海道と本州北部の一部で繁殖もしている』とある。次にウィキの「シメ」を引く。『蝋嘴鳥(ろうしょうちょう)という異称がある。「シー」と聞こえる鳴き声と、鳥を意味する接尾語である「メ」が和名の由来となっている』。『全長約』十八センチメートルで、『スズメより大きく、ヒバリほどの大きさである』。『雄の成鳥は、頭の上部と耳羽が茶褐色、頸の後ろは灰色。嘴は鉛色、円錐で太く大きい。冬羽になると』、『肌色になる。風切羽は青黒色、背中は暗褐色、尾も暗褐色で、外側尾羽に白斑がある。目からくちばしの周りや』、『のどにかけて黒色で、胸以下の体下面は淡い茶褐色』。『雌は雄より全体的に色が淡く、風切羽の一部が灰色』。『コイカル』(アトリ科イカル属コイカル Eophona migratoria)『の雌と似ているが、コイカルのほうがずっと細身で尾も長い』。『平地から山地の落葉広葉樹林や雑木林に生息する。また、市街地の公園、人家の庭でも見ることができる』。『ムクノキ、エノキ、カエデなどの種子を主食とする。果肉の部分は摂取せず、太い嘴で硬い種子を割って中身を食べる』。『地鳴きは「チチッ」「ツイリリーッツー」。他のアトリ科の鳥と比べると鋭い声である』とある。

『「倭名抄」に云はく……』巻十八の「羽族部第二十八 羽族名第二百三十一」に、続けて、

   *

鳹 「陸詞切韻」云、『鳹』【音「黔」。又、音「琴」。「漢語抄」云『比米』。】、白喙鳥也。

鴲 「孫愐切韻」云、『鴲』【音「脂」。「漢語抄」云、『之女』】、小青雀也。

   *

と出る。

「桑(まめまはし)」前項のスズメ目アトリ科イカル属イカル Eophona personata

「山雀〔(やまがら)〕」スズメ目スズメ亜目シジュウカラ科シジュウカラ属ヤマガラ Parus varius。この三十五項後に出る。

「小さき青雀なりと〔いへども〕、未だ形狀を詳らかにせず」珍しく良安は実際に本種を観察したことがないと述べている。]

和漢三才圖會第四十三 林禽類 桑鳲(まめどり・まめうまし・いかるが) (イカル)

Ikaru

まめどり   竊脂 青雀

まめうまし  蠟觜雀

いかるか

 

サンプウ

[やぶちゃん注:「」=(上)「戸」+(下)「鳥」。]

 

本綱桑山林有之大如鴝鵒蒼色有黃斑點好食粟稻

其觜喙微曲而厚壯光瑩或淺黃淺白或淺青淺黑或淺

玄淺丹其類有九種皆以喙色別之非謂毛色也今俗多

畜其雛教作戯舞

三才圖會云蠟觜鳥似雀而大嘴如黃蠟色故名能歌舞

聽人曲調則以嘴啣紙糊瞼子搬演法戯移腔換套必按

音節又有一種鐵嘴鳥

                  宣高

 著聞集いかるかよ豆うましとは誰もさそひしりこきとは何を鳴くらん 

按桑狀小於鳩項黑腹背灰青色羽末黑有白斑嘴

 微曲而厚淺黃白色尾短好食豆粟故名豆甘美【俗以爲豆

 迥】常鳴春月能囀【如言比志利古木利】倭名抄鵤【伊加流加】斑鳩【同共誤也】

 

 

まめどり   竊脂〔(せつし)〕 青雀

まめうまし  蠟觜雀〔(らうしじやく)〕

いかるが

 

サンプウ

[やぶちゃん注:「」=(上)「戸」+(下)「鳥」。]

 

「本綱」、桑、山林に、之れ、有り。大いさ、鴝鵒(ひよどり)のごとし。蒼色にして黃斑點有り。好みて粟・稻を食ふ。其の觜-喙〔(くちばし)〕、微〔かに〕曲〔(きよく)〕にして、厚〔く〕壯〔(つよ)〕し。光瑩〔(くわうえい)あり〕。或いは淺黃・淺白、或いは淺青・淺黑、或いは淺玄〔(ぐろ)〕・淺丹〔(に)〕。其の類、九種有り、皆、喙の色を以つてす。之れを別かつに、毛色を謂ふには非ざるなり。今、俗、多く其の雛を畜〔(か)〕ひて、戯〔れの〕舞〔ひ〕を作〔(な)す〕を教ふ。

「三才圖會」に云はく、『蠟觜鳥は雀に似て大〔なり〕。嘴、黃蠟〔(わうらう)〕の色のごとし。故に名づく。能く歌舞す。人の曲調を聽くときは、則ち、嘴を以つて、紙を啣〔(ふく)〕み、瞼-子〔(ひとみ)〕を糊〔(のり)〕して、演法を搬〔(うつ)〕す。戯〔れに〕腔〔を〕移〔して〕套〔(たう)〕を換〔ふるも〕、必ず、音節を按ず。又、一種、有り、「鐵嘴鳥」〔といふ〕』〔と。〕

[やぶちゃん注:「三才図会」の後半部は訓点が殆んどない。悪意を以って言うと、良安は読めなかったのではないかとも思われる。訓読は全く私の力技に過ぎないので、ご注意あれ。]

 「〔古今〕著聞集」        定高

   いかるがよ豆うましとは誰〔(たれ)〕もさぞ

      ひじりこきとは何を鳴くらん 

按ずるに、桑、狀、鳩より小さく、項〔(うなじ)〕、黑。腹・背、灰青色。羽の末〔は〕黑〔くして〕白斑有り。嘴、微かに曲りて厚く、淺黃〔(あさぎ)の〕白色。尾、短し。好みて豆・粟を食ふ。故に「豆甘美(〔まめ〕うまし)」と名づく【俗に以つて爲「豆迥〔(まめまはし)〕」と爲す。】常に鳴く。春月、能く囀る【「比志利古木利〔(ひじりこきり)〕」と言ふがごとし。】。「倭名抄」に『鵤【伊加流加〔(いかるが)〕。】・斑鳩【同。】』〔とあれど〕、共に誤りなり。

[やぶちゃん注:最後の部分は「和名類聚鈔」を確認、最後の割注の「同」の後の部分は良安の評言が紛れ込んでいる。これは誤りではなく、原典を見ると、次の項との兼ね合いで字が詰まって空きがなくなってしまったことから、ここに押し込んだものと推定される。そういう訳で、注の外に出した。]

[やぶちゃん注:スズメ目アトリ科イカル属イカル Eophona personata。漢字表記では、現行、「鵤」「桑鳲」(「鳲」(音「シ」)はカッコウ科 Cuculidae 或いはカッコウ属 Cuculus のカッコウ類を広範に指す漢字で、本文の「」と類似する。この「」は中文サイトでも発見出来ないので、或いは良安の「尸」の転写ミスも考えられる)。ウィキの「イカル」を引く。『木の実を嘴(くちばし)で廻したり』、『転がしたりするため』、『古くは「マメマワシ」や「マメコロガシ」、木の実を好んで食べるため』、『「まめうまし」、「豆割り」などと呼ばれた。イカルという名の由来は奈良県の斑鳩とも鳴き声が「イカルコキー」と聞こえるからとも言われるが、定かではない。また』、『「イカルガ(斑鳩)」と呼ばれることもあるが』、『厳密には「斑鳩」の文字を使うのは誤用であり、「鵤」は角のように丈夫な嘴を持つ事に由来する』(太字下線やぶちゃん)。『ロシア東部の沿海州方面と日本で繁殖し、北方の個体は冬季に中国南部に渡り』、『越冬する』。『日本では北海道、本州、四国、九州の山林で繁殖するが』、『北日本の個体は』、『冬季は本州以南の暖地に移動する』。『全長は約』二十三センチメートル。『太くて大きい黄色い嘴を持つ。額から頭頂、顔前部、風切羽の一部が光沢のある濃い紺色で体の上面と』、『腹は灰褐色で下腹から下尾筒は白い。初列風切羽に白斑がある。雌雄同色である』。『主に樹上で生活するが、非繁殖期には地上で採食している姿もよく見かける。木の実や草の種子を採食する。時には、昆虫類も食べている』。『繁殖期はつがいで生活するが』、『巣の周囲の狭い範囲しか縄張りとせず、数つがいが隣接してコロニー状に営巣することが多い。木の枝の上に、枯れ枝や草の蔓を組み合わせて椀状の巣を作る。産卵期は』五~七月で、三、四個の『卵を産む。抱卵期間は約』十四『日。雛は孵化してから』十四『日程で巣立つ』。『非繁殖期は数羽から数十羽の群れを形成して生活する』、『波状に上下に揺れるように飛翔する』。『各地に様々な聞きなしが伝わ』り、例えば、『比志利古木利(ひしりこきり)』・『月日星(つきひほし)』とある。なお、後者のそれから、本種は「三光鳥」とも呼ばれるが、正式和名をそう持つ全くの別種のスズメ目カササギヒタキ科サンコウチョウ属サンコウチョウ Terpsiphone atrocaudata がいるので、注意が必要である。

「竊脂〔(せつし)〕」「蠟觜雀〔(らうしじやく)〕」はその嘴の色が標準的には太く大きな黄色を呈することから、「蝋(ろう/あぶら)を竊(ぬす)む」鳥、「三才図会」にあるように、「黃蠟〔(わうらう)〕の色の」よう、則ち、「蝋燭に用いる黄蝋の色の嘴を持った雀」というのであろう。

「いかるが」地名として奈良県生駒郡斑鳩町が知られるが、この「いかるが」という名の由来は定かではない。一説にはこの地に本種が群をなしていたため、また、聖徳太子が法隆寺の建立地を探していた際、このイカルの群れが集って空に舞い上がり、仏法興隆の聖地と指し示したとする伝承もある。他にも伊香留我伊香志男命(いかるがいかしおのみこと:不詳。この斑鳩の地の古い産土神(うぶすながみ)か)が、この地の神として祀られていたからとする説もある。

「鴝鵒(ひよどり)」ここでは良安は、スズメ目ヒヨドリ科ヒヨドリ属ヒヨドリ Hypsipetes amaurotisのつもりで、このルビを振っているようだが、これは「本草綱目」の記載で、これはヒヨドリではなく、スズメ目ムクドリ科ハッカチョウ(八哥鳥)属ハッカチョウ Acridotheres cristatellus を指すと考えねばならない。

「壯〔(つよ)〕し」東洋文庫版ルビに従った。

「光瑩〔(くわうえい)〕」滑らかで光沢があり、それが光り輝くこと。

「淺黑、或いは淺玄〔(ぐろ)〕」後者の「玄」は真黒ではなく、赤又は黄を含む黒色を指す。

「紙を啣〔(ふく)〕み」目的不明。

「糊〔(のり)〕して」閉じて。

「演法を搬〔(うつ)〕す」人の演奏した曲調をそのまま真似する。

「戯〔れに〕」飼っている人が主語。

「腔」中国の劇音楽の曲調に「腔調(こうちょう)」があるが、それを指すか?

「套」東洋文庫注に『曲の数調が連なったもの』とある。

「音節を按ず」人の演奏している、その音節にピッタリと合わせる。

「鐵嘴鳥」中文サイトのこちらに、『鐵嘴(行鳥)』とし、『Greater Sandplover』(英名)、『Charadrius leschenaultii』とある。しかしこれは、チドリ目チドリ科チドリ属オオメダイチドリ Charadrius leschenaultii で、本種とは縁遠い。しかし、次の独立項の、スズメ目スズメ亜目スズメ小目スズメ上科アトリ科 Carduelinae亜科シメ属シメ Coccothraustes coccothraustes 中文ウィキの「嘴雀を見ると、異名に「鉄嘴蜡子」があり、このシメはイカルに似ている。しかも「蜡」とは「蠟を塗る」の意なのだ。或いはこれではないか?

「〔古今〕著聞集」「定高」「いかるがよ豆うましとは誰〔(たれ)〕もさぞひじりこきとは何を鳴くらん」「宣高」と誤判読している(宣高などという人物は「古今著聞集」に登場しない。東洋文庫の訳者が原典にさえ当たって確認していないことが判る)。これは鎌倉中期に伊賀守橘成季によって編された説話集「古今著聞集」の「巻第二十二 魚虫禽獣」の「二條中納言定高、斑鳩を壬生(みぶの)家隆に贈るとて詠歌の事」に載る一首である。以下が原文全文。

   *

 二條中納言定高卿、斑鳩を家隆卿のもとへをくるとて、よみ侍ける、

  斑鳩よまめうましとはたれもさぞひじりうきとは何をなくらん

   *

「二条定高」(建久元(一一九〇)年~暦仁元(一二三八)年)は鎌倉前期の公卿。藤原北家勧修寺流九条家。参議九条光長の子。官位は正二位・権大納言、按察使。二条東洞院に邸宅を有していたため、「二条」と称された。参照したウィキの「二条定高」によれば、『葉室宗行から従四位下を譲られる程、親しかったが、承久の乱においては定高は兄・長房と共に後鳥羽上皇の挙兵に反対する立場に回り、宗行と運命を分けた。九条道家から信頼が厚く、特に承久の乱後にはその政治顧問の最上位を占めて』、『平経高らと道家を支えた。特に承久の乱での経緯から鎌倉幕府からは好意的に見られ、関東申次であった道家の下で実際の幕府との交渉を行っていたのは全て定高であったとされている。また、斎宮であった後鳥羽上皇の皇女・煕子』(きし)『内親王を深草の別邸で引き取ったことでも知られている』とある。新潮日本古典集成(西尾光一・小林保治校注)の「古今著聞集 下」の頭注訳に、『斑鳩よ、お前が「まめうまし」と啼くのは、豆がうまいということだと誰もそう考えているが、「ひじりうき」と啼くのは聖僧がつらいということなのか、どうしてそのように啼くのか』とある。「壬生家隆」は藤原定家と並び称された歌人藤原家隆(保元三(一一五八)年~嘉禎三(一二三七)年)。従二位・宮内卿で「壬生二位」と号した。権中納言藤原光隆の次男。「新古今和歌集」の撰者の一人で、小倉百人一首では従二位家隆として「風そよぐ楢の小川の夕暮は御禊ぞ夏のしるしなりける」が載る。家集は「壬二(みに)集」。「古今著聞集」のこの前の二条も彼と鳥絡みの贈答の記事で、家隆が無類の鳥好きであったことが判る。

『「倭名抄」に『鵤【伊加流加〔(いかるが)〕。】・斑鳩【同。】』〔とあれど〕、共に誤りなり』「和名類聚鈔」の巻十八の「羽族部第二十八 羽族名第二百三十一」には、

   *

鵤 崔禹錫「食經」云、『鵤』【胡岳反。和名「伊加流加」。】、貌似鴿而白喙者也。「兼名苑注」云、『斑鳩』【和名、上同。見「日本紀私記」。】、觜大尾短者也。

   *

とある。]

古今百物語評判卷之四 第九 舟幽靈附丹波の姥が火、津國仁光坊事

 

  第九 舟幽靈(ふなゆうれい)丹波の姥(うば)が火(び)、津國(つのくに)仁光坊(にくわうばう)事

 

Hunayuurei

 

或る人、とふて云(いふ)、「西國又は北國にても、海上の風あらく、浪はげしき折からは、必ず、波のうへに、火の見え、又は、人形(ひとかたち)などのあらはれ侍るをば、『舟幽靈』と申(まうし)ならはせり。舟をさ[やぶちゃん注:「舟長」。]どもの云(いへ)るは、『とわたる船[やぶちゃん注:「渡る船」であろう。「」は海流の複雑な難所たる瀬戸と読む。]、破損せし時、海中におぼれし人の魂魄の殘りしなり』と申し侍るは、秦(はだ[やぶちゃん注:原典のママ。])の武文(たけぶん)が怨靈、幷びに、越中の守護名越(なごや[やぶちゃん注:原典のママ。])遠江守、同修理亮、兵庫助などが妄執の事、おもひ出でられて、まことしく候が、さに侍らん」と問(とひ)ければ、先生、答へていはく、「其(その)海原に見え候ふ火は、水中の陰火とて、一通り[やぶちゃん注:普通に。]、ある物なり。是(これ)、高き山のいたゞきに、水、有(ある)がごとく、水中にも、火、あるなり。さはいへど、其(その)おぼれ死せし人のたましゐも、いかにも、火と見え、形もあらはれ侍るべし。其形は、底のみくづとなりて朽ちはて侍れど、その氣の殘りし處、現れまじきにあらず。彼(かの)武文・名越などにもかぎらず、だんの浦などのごとく、一度に大勢相果(あひはて)たるは、猶、その怨靈も、のこるべし。丹波のほうづ河[やぶちゃん注:桂川の中流域を呼ぶ保津川のこと。現行は「ほづ」と読む。]に『姥が火』とてあり。是れも、其所の者、申(まうし)ならはせしは、そのかみ、龜山[やぶちゃん注:現在の京都府亀岡市。ここ(グーグル・マップ・データ)。]のほとりに兒(ちご)かい[やぶちゃん注:ママ。]姥のさぶらひしが、あまたの人の子を、『肝(きも)煎(い)る』とて、其生(うみ)の親のかたよりは、金銀をとりて、おのれが物とし、其子[やぶちゃん注:の生き肝をを採った後の遺骸は。]は此河へながせしとかや。其みぎり、いまだ世も治まらざる比(ころ)なれば、さして其掟(おきて)[やぶちゃん注:処罰。]にもあはざりしが、天命のおそろしさは、洪水の出(いで)たる時、彼(かの)姥、おぼれてあがき死(じ)にしけるが、其より後(のち)、今に、ほうづ河に、夜每に火の丸(まる)がせ[やぶちゃん注:火の玉。]、見え候を、『姥が火』とかや申しならはせりと云(いへ)り。是、其捨てられし小兒の亡魂、または、其姥がくるしみの火の、靈たるべし。又、津の國『仁光坊の火』と云(いへ)るは、是は先年、攝州芥河(あくたがは)[やぶちゃん注:現在、主に大阪府高槻市を流れる淀川の支流。ここ(リンク先はサイト「川の名前を調べる地図」の地図)。]のあたりに、何がしとかや云(いふ)代官あり。それへ往來する眞言僧に仁光坊といひて、美僧ありしに、代官の女房、ふかく心をかけ、さまざま、くどきけれども、彼の僧、同心せず。女房、おもひけるは、『かく同心せぬうへからは、我れ、不義なることの、かへり聞こえむ[やぶちゃん注:却って訴え出るかも知れぬ。]もはかりがたし。然るうへは此僧を讒言(ざんげん)して、なき者にせん』と思ひ、「仁光坊、われに心をかけ、いろいろ、不義・空事、申(まうし)かけたり」と告げれば、其代官、はなはだ立腹して、とかくの沙汰に及ばず、彼の僧を斬罪におこなふ。其時、仁光坊、大きにうらみ、「此事は、かやうかやうの事奉るを、實否(じつふ[やぶちゃん注:原典のルビ。])のせんさくもなく、かく、うきめを見するからは、忽ち、おもひ知らせん」とて、目をいからし、齒をくひしばりて死にけるが、終(つゐ)に其一類、のこりなく取り殺して後(のち)、今に至るまで、其僧のからだを埋(うづ)みし處の山ぎはより、火の丸(まろ)がせ、出(いで)候が、其火の中(うち)に法師の首、ありありと見ゆる、と云へり。かやうの事、つねに十人なみに[やぶちゃん注:普通に。]ある事には侍らねども、たまたまは、ある道理にして、もろこしの書にも、おりおり、見え侍る」とかたられき。

[やぶちゃん注:原典は「国文学研究資料館」公式サイト内の「電子資料館」の「古今百物語評判」(お茶の水大学図書館蔵本)の当該条を確認した。本話は問答形式の構造に変化はないが、短い文章の中に「舟幽霊」・「姥が火」・「仁光坊の火」の三つの知られた怪火の語りが無駄なく圧縮されていて、元隣の薀蓄もさして気にならず、本「古今百物語評判」の中では、所謂、「百物語怪談集中の三話早回し的回」となって、図らずも、上手く、正統な怪談噺しとして出来上がっていると言える。但し、例示されたものはかなりメジャーなものばかりで、それらを単独で語った諸怪談のホラー性には足元にも及んではいない。まず、「舟幽霊」は私の記事にもゴマンとあるが、特にお薦めなのは、「北越奇談 巻之四 怪談 其七(舟幽霊)」(以下総て私の電子化注記事)で、話柄のリアリズムと、添えられたかの葛飾北斎の絵のホラー度が群を抜いて優れているものである。三つ目の「仁光坊の火」は「宿直草卷五 第三 仁光坊と云ふ火の事」が事件の詳細を文学的に仔細に語って強烈である。「姥が火」は同名の怪異が他にもある(例えば「諸國里人談卷之三 姥火」を見られたい)。怪火の総纏め的な「柴田宵曲 妖異博物館 怪火」も参考になる。「柳田國男 うつぼ舟の話 一」の冒頭部分は短いが、民俗学的科学的視点から怪火について言及しているので一読の価値はあろう。

「秦(はだ)の武文(たけぶん)」生年未詳。元徳三(一三三一)年の「元弘の乱」の際、摂津国兵庫の海で死を賭して主君尊良(たかなが)親王(延慶三(一三一〇)年?~延元二/建武四(一三三七)年):後醍醐天皇の皇子。斯波高経率いる北朝方との金ヶ崎の戦いで新田義貞の子義顕とともに戦ったが、力尽きて義顕とともに自害した)の妻を守って入水したとされる忠臣秦武文(はたのたけぶん)。「はだ」と濁る読みもある。なお、彼は死後、ヘイケガニやカブトガニに変じたとする伝承があり、「平家蟹」には「武文蟹」の異名もある。私の『毛利梅園「梅園介譜」鬼蟹(ヘイケガニ)を見られたい。

「越中の守護名越(なごや[やぶちゃん注:原典のママ。])遠江守」北条(名越)時有(?~正慶二/元弘三(一三三三)年)。ウィキの「北条時有」によれば、『従五位下左近将監、遠江守、越中守護』。『父は北条公時の子である公貞』(別に左近将監宣房の息ともいう)。『子に時兼。弟に有公、貞昭』。正応三(一二九〇)年、『越中国守護所として放生津城を築城する。正慶二/元弘三年に『隠岐から脱出し』、『鎌倉幕府打倒を掲げて後醍醐天皇が挙兵した際、時有は前年に射水郡二塚へ流罪となり』、『気多社へ幽閉されている後醍醐の皇子・恒性皇子が、出羽や越後の反幕府勢力に擁立され』、『北陸道から上洛を目指しているという噂を聞きつけた』第十四代執権『北条高時から、皇子の殺害を命ぜられる。時有は名越貞持に皇子や近臣であった勧修寺家重・近衛宗康・日野直通らを暗殺させた』。『同年、新田義貞や足利高氏らの奮闘で反幕府勢力が各地で優勢となり』、『六波羅探題が陥落すると、越後や出羽の反幕府勢力が越中へ押し寄せ、また、井上俊清を初めとする北陸の在地武士も次々と寝返り、時有ら幕府方は追い込まれていく。二塚城での防戦を諦めた時有は弟の有公、甥の貞持と共に放生津城へ撤退するも、脱走する兵が相次いだ』。『放生津城の周りは、一万余騎に囲まれ』、『進退が行き詰った。時有は、妻子らを舟に乗せ奈呉の浦(現射水市)で入水させた。それを見届けた後、城に火を放ち』、『自刃している。一連の様子は、後に』「太平記」に『記されている』とある。因みに、彼は歌人としても知られた。以下、「太平記」巻第十一の「越中守護自害の事付けたり怨靈の事」を引く(参考底本には新潮日本古典集成を用いたが、恣意的に漢字を正字化し、一部の表記や読みを私が弄っている)。元隣がこの三名を引くのは、この末尾の怪異(太字部)に拠る

   *

 越中の守護名越(なごや)遠江守時有・舍弟修理亮(しゆりのすけ)有公(ありとも)・甥の兵庫助(ひやうごのすけ)貞持三人は、出羽・越後の宮方(みやかた)、北陸道(ほくろくだう)を經て、京都へ攻め上るべしと聞えしかば、道にてこれを支へんとて、越中の二塚(ふたつづか)と云ふ所に陣を取つて、近國の勢どもをぞ相催(あひもよほ)しける。かかるところに、六波羅、すでに攻め落されて後(のち)、東國にも軍(いくさ)起つて、すでに鎌倉へ寄せけるなんど、樣々に聞えければ、催促に從ひて、ただ今まで馳せ集まりつる能登・越中の兵(つはもの)ども、放生津(はうじやうづ)に引き退いて、かへつて守護の陣へ押し寄せんとぞ企てける。これを見て、今まで身に代はり、命に代はらんと、義を存じ、忠を致しつる郞從も、時の間(ま)に落ち失せて、あまつさへ敵軍に加はり、朝(あした)に來たり、暮れに往きて、交はりを結び、情けを深うせし朋友も、忽ちに心變じて、かへつて害心をさしはさむ。今は、殘り留まりたる者とては、三族に遁(のが)れざる一家の輩(ともがら)、重恩をかうむりし譜代の侍、わづかに七十九人なり。

 五月十七日の午の刻に、敵、すでに一萬餘騎にて寄すると聞こへしかば、

「われ等、この小勢(せうせい)にて合戰をすとも、何ほどの事をかし出だすべき。なまじひなる軍(いくさ)して、言ふ甲斐無く敵の手に懸かり、縲紲(るゐせつ)[やぶちゃん注:罪人を黒い繩で縛ること。]の恥に及ばん事、後代(こうたい)までの嘲(あざけ)りたるべし。」

とて、敵の近付かぬ前(さき)に女性(によしよう)・をさなき人々をば舟に乘せて、沖に沈め、わが身は城の内にて自害をせんとぞ出で立ちける。

 遠江の守の女房は、偕老の契りを結んで、今年二十一年になれば、恩愛の懷(ふところ)の内に、二人の男子(なんし)をそだてたり。兄は九つ、弟(おとと)は七つにぞ成りける。

 修理亮有公(ありとも)が女房は、相馴(あひな)れて、すでに三年に餘りけるが、ただならぬ身[やぶちゃん注:身重の身。妊娠していた。]に成つて、早(はや)月頃[やぶちゃん注:数ヶ月。]過ぎにけり。

 兵庫助貞持が女房は、この四五日前(さき)に、京より迎へたりける上﨟女房にてぞありける。その昔、紅顏・翠黛(すゐたい)の世に類ひ無き有樣、ほのかに見初めし珠簾(たまだれ)の隙(ひま)もあらば、と心に懸けて、三年餘り戀ひ慕ひしが、とかく手立てを𢌞らして、盜み出だしてぞ迎へたりける。語ひ得て、わづかに昨日今日のほどなれば、逢ふに替はらんと歎き來(こ)し命も、今は惜しまれける。戀ひ悲しみし月日は、天(あま)の羽衣撫で盡くすらんほどよりも長く、相見て後の直路(ただち)は[やぶちゃん注:結ばれて後の時の経過は。]、春の夜の夢よりも、なほ短し。忽ちにこの悲しみに逢ひける契りのほどこそ哀れなれ。末の露、本(もと)の雫(しづく)、おくれ先立つ道をこそ、悲しきものと聞きつるに、浪の上、煙(けぶり)の底に、沈み焦がれん別れの憂さ、こはそもいかがすべきと、互ひに名殘(なごり)を惜をしみつつ、伏しまろびてぞ泣かれける。

 さるほどに、敵の早(はや)寄せ來るやらん、

「馬煙(うまけぶり)の東西に揚げて見へ候ふ。」

と騷げば、女房・をさなき人々は、泣く泣く、皆、舟に取り乘つて、遙かの沖に漕ぎ出だす。恨めしの追風や、しばしもやまで行く人を、浪路(なみぢ)遙かに吹き送る。情けなの引潮や、立ちも歸らで、漕ぐ舟を、浦より外(ほか)に誘ふらん。かの松浦佐用媛(まつらさよひめ)が、玉嶋山(たましまやま)に領布(ひれ)振りて、沖行く舟を招きしも、今の哀れに知られたり。水手(すゐしゆ)、櫓をかいて、舟を浪間に差し留めたれば、一人(いちにん)の女房は二人の子を左右の脇に抱き、二人の女房は手に手を取組んで、同じく身をぞ投げたりける。紅(くれなゐ)の衣(きぬ)、赤き袴(はかま)の、しばらく浪に漂ひしは、吉野・立田(たつた)の河水に、落花・紅葉(こうえふ)の散亂たる如くに見えけるが、寄せ來る浪に紛(まぎ)れて、次第に沈むを見果てて後(のち)、城に殘り留まりたる人々、上下七十九人、同時に腹を搔き切つて、兵火(へいくわ)の底にぞ燒け死にける。

 その幽魂・亡靈、なほも、この地に留まつて、夫婦執着(しふぢやく)の妄念を遺しけるにや、この頃、越後より上る舟人(ふなうど)、この浦を過ぎけるに、にはかに、風、向ひ、波、荒かりけるあひだ、碇(いかり)を下(おろ)して沖に舟を留(と)めたるに、夜更け、浪、靜まつて、松濤(しようたう)の風、蘆花(ろくわ)の月、旅泊の體(てい)、よろづ、心すごき折節、遙かの沖に女の聲して、泣き悲しむ音しけり。これを怪しと聞きゐたるところに、また渚(なぎさ)の方に男の聲して、

「その舟、ここへ寄せてたべ。」

と、聲々にぞ呼ばはりける。

 舟人止む事を得ずして、舟を渚に寄せたれば、いと淸げなる男、三人、

「あの沖まで便船申さん。」

とて、屋形(やかた)にぞ乘りたりける。

 舟人、これを乘せて、沖つ鹽合(しほあひ)に舟を差し留めたれば、この三人の男、舟より下(お)りて、漫々たる浪の上にぞ、立つたりける。

 暫くあれば、年、十六、七、二十ばかりなる女房の、色々の衣(きぬ)に、赤き袴、踏みくくみたるが、三人、浪の底より浮び出でて、その事となく、泣きしほれたる樣なり。

 男、よにむつましげなる氣色(けしき)にて、相互(あひたが)ひに寄り近付かんとするところに、猛火(みやうくわ)、にはかに燃え出でて、炎、男女の中を隔てければ、三人の女房は、妹背(いもせ)の山の中々に、思ひ焦がれたる體(てい)にて、浪の底に沈みぬ。

 男は、また、泣く泣く、浪の上を泳ぎ歸つて、二塚の方へぞ步み行きける。

 あまりの不思議さに、舟人(ふなうど)、この男の袖をひかへて、

「さるにても、たれ人(びと)にて御渡り候ふやらん」

と問ひたりければ、男、答へて云はく、

「我らは名越遠江守。」

「同じき修理亮。」

「竝びに兵庫助。」

と各々、名乘つて、搔き消すやうに、失せにけり。

 天竺(てんぢく)の術婆伽(じゆつばが)は后(きさき)を戀して、思ひの炎に身を焦がし、わが朝(てう)の宇治の橋姫は、夫を慕ひて、片敷く袖を波に浸(ひた)す。これ、皆、上古(しやうこ)の不思議、舊記に載するところなり。まのあたりかかる事の、現(うつつ)に見へたりける、妄念のほどこそ、罪、深けれ。

   *

以上を掲げたことで、この私の記事は相応の怪談と成った。「太平記」に感謝する。

「同修理亮」「兵庫助」上掲の「太平記」本文冒頭には時有の弟・甥とあるが、新潮日本古典集成山下宏明氏の頭注によれば、二人とも『系図の類には見えない』とあり、不詳である。]

三女アリス一周忌

 
Alice  

    塚も動け我が泣く聲は秋の風   芭蕉

 
 

2018/10/25

古今百物語評判卷之四 第八 西寺町墓の燃えし事

 

     第八 西寺町(にしてらまち)墓の燃えし事

一人の云(いは)く、「近き比(ころ)、西寺町のある寺に、切腹せし人を葬りしが、夜每に其墓より、火、もえ出(いで)候故、はじめは、小僧・同宿などの見たるのみにて、さだかにもなく候處に、後(のち)には、住持、きゝつけ、世にあやしき事におもひ、さまざま、經文などかきて弔ひけれども、其しるしなかりしに、此比は燃えず候ふよしを申し候ふが、其墓のもゆる程なる罪人にて、いろいろのとぶらひをうけても消えざるに、おのれと[やぶちゃん注:自然と。]靜まりたるも、あやしく存ぜられ候ふ。とかく此理(ことわり)、くはしく承らばや」と云ひければ、先生、答へていはく、「是(これ)、不思議る事に侍らず。其(その)埋(うづ)みしからだ、切腹せし人なれば、血、こぼれ出(い)でて、其血より、もえ出づる火なり。是を『燐火(りんくは)』と申し侍る。よる、見え候は、例の陰火なれば、なるべし。人の血のみにかぎらず、牛馬などを殺せし野原なども、其血のかたまり殘たる處は、かならず、もゆる物なり。さて、其(それ)靜りしは、彼(かの)血も久しくなれば、血の氣(き)つきて、土となる故、おのれと、やむ理なり。さるにより、其血の氣、つきざるうちは、其僧の教化を得ても、止み申さず。あやしき事に侍らず。元より、水火は天地陰陽の精氣にて、分(ぶん)[やぶちゃん注:性質。属性。]のたゞしき物なれば、其(その)有(ある)べき處にあたりては、あらずといふなく、なかるまじき所にあたりては有(ある)事なし。されども、鬼神幽冥の道理なれば、人、悉く其(その)理をわきまふるに及ばず。其(それ)、珍しきに附きて、或は、ばけ物と名附(なづけ)、不思議と云(いへ)り。世界に不思議なし、世界、皆、ふしぎなり」と評せられき。

[やぶちゃん注:俄か禅坊主みたようなこと言ってやがら……

「西寺町」京都府京都市左京区正往寺町にある西寺町通附近であろうか。ここ(グーグル・マップ・データ)。地図を見て戴けば判る通り、東西に寺が林立する。

「同宿」その寺で住持について修行している僧ら。

「住持、きゝつけ、世にあやしき事におもひ、さまざま、經文などかきて弔ひけれども、其しるしなかりし」とあるのだから、住持自身も、噂を聴いただけでなく、その怪火を現認したのである。]

古今百物語評判卷之四 第七 雪女の事幷雪の説

 

  第七 雪女の事雪の説

 

Yukionnna

 

某(それがし)いへらく、「此比(このごろ)、おほく、俳諧の發句に雪女と申(まうす)事、見え申(まうし)候ふが、いかゞ、此ものあるべき物に候ふや」と問(とひ)ければ、先生のいはく、「雪女といふ事、やまと・もろこしのふるき書にも見えず、又、俳諧などにするにも、かやうの事はたしかに見たるやうには、いたさぬが其法にて侍る。しかしながら、物、おほくつもれば、かならず、其中に生類(しやうるい)を生じ侍るなり。水ふかければ、魚を生じ、林茂れば、鳥を生ずるがごとし。されば、越路(こしぢ)の雪などには、此物、出でむも、はかりがたし。是れを雪女と云へるは、雪も陰の類、女も陰の類なればなるべし」。又、問(とふ)ていはく、「雪は元、雨にて侍るに、白きはいかなる道理にて候哉(や)。殊に霜とおなじ類(るい)にて候哉(や)」と問ければ、「いかにも。霜・雪ともに同じ類にて、皆、雨露(あめつゆ)のむすばうれたるなり[やぶちゃん注:ママ。「むすばうれ」はラ行下二段動詞「むすぼほる」(結ぼほる)で、「むすぼれる」に同じく、水気が凝集・凝固・氷結するの意。]。雪は『六出(ろくすい[やぶちゃん注:「叢書江戸文庫」のルビ。以下も同じ。雪の結晶の事六家系の稜を有することを指す。])』と云ひて、かならず、六(むつ)かど、侍る。霜は『三出(すい)』といひて、三つ、かどあり。是(これ)、雪は純陰の物なれば、老陰(らういん)の數(かず)、六なる故、かならず、六出あり。霜は、其(それ)、雪になかばせる物なれば、三出(みつかど[やぶちゃん注:同前。])なること、勿論の道理なり。さて、雨露(うろ[やぶちゃん注:同前。])のむすぼほりて、白くなる理(ことわり)は、凡そ、世界の物のかたまる事、皆、五行に配當して、金氣(きんき)のつかさどる處なり。金(かね)の色は、もつとも五色(ごしき)も候へども、白きが、則(すなはち)、西方(さいはう)のたゞしき色なり。此故に雨露(うろ)も、こりかたまりては、かならず、金(かね)の色をあらはして、白くなり侍る。況んや、大空(おほそら)は金氣淸明(きんきせいめい)の氣のつかさどるなれば、雨露(あめつゆ)のうちに、其色をふくみて、こりかたまりて降るものなるをや」。又、問(とふ)、「しからば、堅くこれる[やぶちゃん注:「凝(こ)れる」。]物は、皆、白くなり候哉」曰(いはく)、「大かた、しろく侍る。生類の骨は白く、草木(くさき)の根は白く、潮(うしほ)を煮かたむれば、しろく、土のかたまれる砂は、しろく侍らずや」と語られき。

[やぶちゃん注:これはちょっと、注をつけるのも阿呆臭い。私の電子化した中には雪女の良い怪談もさわにあるが、それをここにリンクするのも忌まわしい気がするのでやめる。]

 

古今百物語評判卷之四 第六 鬼門附周の武王往亡日に門出の事

 

  第六 鬼門周の武王往亡日(わうまうび)に門出(かどいで)の事

かたへより、問(とふ)ていはく、「世に鬼門だたりと申(まうし)候ひて、大樣(おほやう)の[やぶちゃん注:大方の。]人、忌(いみ)恐れ侍るが、邂逅(たまさか)にわすれても、おかし候へば、かならず、わざはひにあふ事多く御座候(さふらへ)ば、なにと、丑寅(うしとら)の方は人間のいむべき方にて候哉(や)、覺束なく候ふ」と問ければ、先生、答(こた)ていはく、「鬼門と云(いふ)事は東方朔(とうばうさく)が「神異經(しんいきやう)」に、『東方、度朔(どさく)の山に、大なる桃の木あり。其下(もと)に神あり、其名を神荼(しんと)・鬱壘(うつるい)と云(いひ)て、もろもろの惡鬼の人に害をなす物を、つかさどり給へり。故(かるがゆへ)に其山の方を鬼門といふ』と見えたり。かくはいへども、是、まさしき聖賢の書に出(いづ)るにもあらず、其うへ、その書にも鬼門をいむといふ事、みえ侍らず。元より、我が朝のならはしに、丑寅の方を、專ら、いむ事、何れの御時より、はじまれりとも、さだかならず。さて又、道理を以ておすに、東北の方をいむべき義、おぼつかなし。若(も)し、方角をもつていはゞ、乾(いぬゐ)の方はいみぬべし。その子細は、是れ、純陰の方にて、陽氣の、まさに(たえ)んとする處、萬物の既に死する地にて、尤も不吉の方角なり。是を忌まずして、丑とらの方を忌む事、いかなるいはれ共(とも)覺束なし。されども、今の世は、いみならはし侍れば、我、かしこげに『鬼門に害なし』といはむも、時にしたがふ、中庸の心に背(そむ)けり。大かたは、よけて然るべし。されども、たとひ、鬼門へむきても、善事をなさば、よかるべく、辰巳(たつみ)へ向ひても、惡事をなさば、あしかるべし。猶、鬼門にかぎらず、軍家(ぐんけ)にもてはやしはべる日取(ひどり)・時取(ときどり)のよしあしも、かくのごとし。惡日(あくにち)たりとも善をなせば、ゆくさき、目出度(めでたく)、善日たりとも惡をなさば、後々(のちのち)、わざはひ、あるべし。又、其家々にて用ひ來たれる吉例の日もある事に候。むかし、周の武王と申(まうす)聖人、天下の爲に殷の紂王(ちうわう)と申(まうす)惡人を討(うち)給ふに、其(その)首途(かどで)の日、往亡(わうまう)の日なりければ、群臣、いさめけるやう、『けふは、わうまう日とて、往きて亡ぶる日なれば、曆家(れきか)に、ふかく、いみ候ふ。さ候はゞ、御出陣、無用』のよし申上(まうしあげ)けるを、太公望、きかずしていはく、『往亡ならば、是、「ゆきてほろぼす」心にて、一段、めでたき日なり』とて、終に其日、陣だちして、尤(もつとも)紂王を討(うち)ほろぼし、周の世、八百年、治(おさま)りけり。此故に武王は往亡日をもて、さかへ、紂王は往亡日をもて、ほろびたり。同日にして、吉凶、かくのごとくなれば、名將の歌に、「時と日はみかたよければ敵もよしたゞ簡要は方角を知れ」とよみ給へるもおもひあはせられ、其人によりて、その日によらざる事、あきらけし。各(おのおの)、手前をつゝしみ給ふべきなり」。

[やぶちゃん注:「鬼門だたり」「鬼門祟り」。ウィキの「鬼門」を引く。鬼門とは、『北東(艮=うしとら:丑と寅の間)の方位のことである。陰陽道では、鬼が出入りする方角であるとして、万事に忌むべき方角としている。他の方位神とは異なり、鬼門は常に艮の方角にある。鬼門とは反対の、南西(坤、ひつじさる)の方角を裏鬼門(うらきもん)と言い、この方角も鬼門同様、忌み嫌われる。南東(巽』(たつみ)『)を「風門」、北東(艮』(うしとら)『)を「鬼門」とした』。『陰陽道においては、北と西は陰、東と南は陽とされ、北東と南西は陰陽の境になるので、不安定になると説明される』。『中国から伝わったものとされるが、家相や鬼門に関しては諸説あるが、出典がなく』、『不整合なものばかりが一人歩きしている』。『鬼門思想は中国から伝来した考え方であることに間違いはないが、日本の鬼門思想は中国から伝わった思想とは大きく違った思想になっている。なぜなら』、『風水に鬼門思想はなく、日本独自の陰陽道の中で出来上がった日本独特の思想であると考えるべき』だからである。『現代でも、人々は、縁起を担ぎ、家の北東、鬼門の方角に魔よけの意味をもつ、「柊」や「南天」、「万年青」を植えたり、鬼門から水回りや玄関を避けて家作りしたりと、根強い鬼門を恐れる思想がある』。『十二支で鬼門(丑寅)とは反対の方角が未申であることから、猿の像を鬼門避けとして祀ったりしたといわれている。代表的な例が、京都御所であるが、京都御所の北東角には軒下に木彫りの猿が鎮座し、鬼門に対抗し(猿ヶ辻)といわれ、築地塀がその方位だけ凹んでおり、「猿ヶ辻」と称されてきた説がある』(リンク先に写真有り)。『現在でも、家の中央から見て』、『鬼門にあたる方角には、玄関、便所、風呂、台所などの水を扱う場所を置くことを忌む風習が全国に強く残っている。また、南西の方位を裏鬼門として、鬼門同様、水まわりや玄関を嫌う風習も根強く残っている。これは、京都御所の築地塀が鬼門、北東方位を凹ませてあることから、御所が鬼門を恐れ避けている、鬼門を除けていると考えられ、それから鬼門を避ける鬼門除けの手法とされてきた』。『また、都市計画においては、平城京では鬼門の方向に東大寺が、裏鬼門の方向に植槻八幡宮が、平安京では大内裏から鬼門の方向に比叡山延暦寺が、裏鬼門の方向に石清水八幡宮が、鎌倉では幕府から鬼門の方向に荏柄天神社が、裏鬼門の方角に夷堂が、江戸では江戸城から鬼門の方向に東叡山寛永寺が、裏鬼門の方向に三縁山広度院増上寺が置かれたといわれている』(以下、続くが、同じことをだらだら述べているだけなので省略する)。

「邂逅(たまさか)にわすれても、おかし候へば」「偶(たま)さかに忘れても、犯し候へば」。

「東方朔(とうばうさく)」(通常は「とうはうさく(とうほうさく)」 紀元前一五四年頃~紀元前九三年頃)は前漢の文学者。滑稽と弁舌で武帝に侍した、日本で言う「御伽衆(おとぎしゅう)」的人物。梲(うだつ)の上がらぬ彼を嘲笑した人々に答えて「答客難」(客の難に答ふ)を書いた。同文は「水清ければ魚棲まず」の故事の原典として知られる(「水至淸則無魚。人至察則無徒。冕而前旒、所以蔽明。黈纊充耳、所以塞聰」(水、至つて淸ければ、則ち、魚、無し。人、至つて察(さつ)なれば、則ち、徒(と)[やぶちゃん注:仲間。]無し。冕(べん)して旒(りう)を前にするは[やぶちゃん注:冕(かんむり)を被ってその前後に玉飾を流れるように垂らすのは。]、明(めい)を蔽ふ所以なり。黈纊(とうかう)[やぶちゃん注:耳当て。]して耳を充すは、聡(そう)を塞ぐ所以なり)。また、彼は、自分は山林に世を避けるのではなく、朝廷にあって隠遁しているのだ、と主張したが、この「朝隠(ちよういん)」の思想は六朝人の関心を集め、例えば、彼の生き方を讃える後の西晋の政治家で文学者の夏侯湛(かこうたん 二四三年 二九一年)の「東方朔画賛」には王羲之の書が残ることで有名である。また、漢代の時点で既に彼に纏わる神仙伝説が発展しており、太白星の精で長寿を得たとされるほか、トリック・スターとして孫悟空の天宮を閙(さわ)がすといった物語のもとになる伝説も彼に付随する(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「神異經(しんいきやう)」東方朔の作とされる幻想的地誌。同種のバイブル的存在である「山海経(せんがいきょう)」の体裁と内容に倣っている。但し、以下の「東方(とうばう)、度朔(どさく)の山に、大なる桃の木あり。其下(もと)に神あり、其名を神荼鬱壘(しんとうつるい)と云(いひ)て、もろもろの惡鬼の人に害をなす物を、つかさどり給へり。故(かるがゆへ)に其山の方を鬼門といふ」というのは「神異経」に見られない。調べて見ると、「山海経」の佚文のようである。幾つかに引用があるが。例えば「太平御覧」の「果部四」の「桃」では、

   *

漢舊儀曰、「山海經」稱、東海擲晷度朔山、山上有大桃,屈蟠三千里。東北間、百鬼所出入也。上有二神人、一曰神荼、二曰郁壘、主領萬鬼。惡害之鬼、執以葦索、以食虎。黃帝乃立大桃人於門

   *

とある。これは「東海中にある度朔山には三千里[やぶちゃん注:当時の一里は四百メートル強であるから、約千二百キロメートル。]に亙って蟠(わだかま)る桃の大樹があり,その枝の東北の部分に隙間があり、そこをありとある魑魅魍魎が出入口する(これが文字通り「鬼門」ということになる)。その門には神荼(しんと)と鬱塁(うつるい)という二神があって、そこを通行するあらゆる鬼を監督し、悪害を成す鬼がいれば、捕えて葦の繩で縛りつけて、そのまま虎に食わせた。黄帝は、ために(鬼を制御するためにか)この鬼門の戸口にこの大いなる桃の木で製した人形を立て掛けた」といった意味であろうか。

と見えたり。かくはいへども、是、まさしき聖賢の書に出(いづ)るにもあらず、其うへ、「我が朝のならはしに、丑寅の方を、專ら、いむ事、何れの御時より、はじまれりとも、さだかならず」事実、今も決定的な原拠は判っていない。ただ言えることは、日本の「鬼」が虎のパンツと牛の角を持っているのは、如何にもな鬼門=「丑寅」=牛と虎という馬鹿げた垂直的思考の産物であり、それは恐らく、遅くとも平安の初期には私は形成されていたと考えている。

「乾(いぬゐ)」「是れ、純陰の方にて、陽氣の、まさに(たえ)んとする處」北西。陰陽説では北も西も陰だからであろう。何だかな~って感じ。

「よけて然るべし」「避(よ)けてしかるべし」。中庸とか言うてからに、結局、長いものには巻かれろでっしゃろ? 元隣先生?

「辰巳(たつみ)」巽。南西。多く火の神や竈神(かまどがみ)の荒神(こうじん)及び産土神を祀る方位とされはするから、方位としちゃあ、よかろうかい。

「日取(ひどり)・時取(ときどり)」何らかの事を行うに際して、それを行うに適した時日を占うこと。戦国武将どころか、あの「こゝろ」の学生の「私」だって、やってるぜ!

   *

 私は殆ど父の凡ても知り盡してゐた。もし父を離れるとすれば、情合の上に親子の心殘りがある丈であつた。先生の多くはまだ私に解つてゐなかつた。話すと約束された其人の過去もまだ聞く機會を得ずにゐた。要するに先生は私にとつて薄暗かつた。私は是非とも其處を通り越して、明るい所迄行かなければ氣が濟まなかつた。先生と關係のえるのは私にとつて大いな苦痛であつた。私は母に日を見て貰つて、東京へ立つ日取を極めた。

   *

(引用は私の真正シンクロ公開の『東京朝日新聞』大正3(1914)年6月5日(金曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第四十四回より)。

「周の武王と申(まうす)聖人……」「孫子」の注釈書とか、やはり兵法書である「李衞公問対」(唐末から宋代にかけて李靖(りせい)の事績を知る者の手で編纂されたと推定される)等に盛んに載るが、元隣がもとにしたのが何であったかは、今、現在、調べ得なかった。一時間ばかりも無駄にしてちょっと悔しいので、向後も調査し、判り次第、追記する。

「往亡(わうまう)の日」軍を進めたり、遠出をすることを忌むとする。現代の暦注を見ても移転や婚礼なども凶とある。

「時と日はみかたよければ敵もよしたゞ簡要は方角を知れ」言わずもがな、「みかた」は「味方」。「名將」とあるが、作者不詳。識者の御教授を乞う。

「手前をつゝしみ給ふべきなり」「方位や占いなんぞに要らぬ心配をするより、まず何よりも自分自身の身を不断に慎まれ、誠実であられることこそがあるべきもので御座ろうぞ」。御説御尤も!]

和漢三才圖會第四十三 林禽類 鳲鳩(ふふどり・つつどり) (カッコウ)

Kakkou

ふふとり 布穀 獲穀

つつとり 郭公 

鳲鳩

     【和名布

      布止利】

スウキウ

 

本綱鳲鳩狀大如鳩而帶黃色啼鳴相呼而不相集不能

爲巢多居樹穴及空鵲巢中哺子朝自上下暮自下上也

二月穀雨后始鳴夏至后乃止其聲俗如呼阿公阿

麥挿禾脱却破袴之類布穀獲穀共因其鳴時可爲農候

故名之耳其脚脛骨令人夫妻相愛五月五日收帶之各

一男左女右云置水中自能相隨也禽經云仲春鷹化爲

鳩仲秋鳩復化爲鷹故鳩之目猶如鷹之目【所謂鷹者鷂鳩者卽鳲鳩】

三才圖會云鳲鳩牝牡飛鳴以翼相拂其聲曰家家撒穀

或家家脱袴或家家斵磨

按布穀鳥石州藝州多有之二月至五月有聲其鳴也

 如言豆豆豆豆田家此鳥鳴卽下雜穀種江東亦種豆

 【稱末女末木止利】俗以郭公爲杜鵑者甚謬也

肉【甘溫】安神定志

 

 

ふふどり 布穀 獲穀

つつどり 郭公〔(かつこう)〕

 〔(かつきく)〕

鳲鳩

     【和名、「布布止利」。】

スウキウ

 

「本綱」、鳲鳩、狀〔(かたち)〕・大いさ、鳩のごとくして黃色を帶ぶ。啼鳴〔(ていめい)して〕相ひ呼びて、而〔れども〕相ひ集〔(つど)〕はず。巢を爲〔(つく)〕ること能はず、多く樹の穴及び空〔(から)なる〕鵲〔(かささぎ)〕の巢の中に居て、子を哺〔(はぐく)〕む。朝、上より下〔(くだ)〕り、暮れには下より上る。二月、穀雨の后〔(のち)〕、始めて鳴き、夏至の后〔(のち)〕、乃〔(すなは)ち〕、止む。其の聲、俗に「阿公(アコン/ぢい[やぶちゃん注:後者は左ルビ。原典はカタカナ。次も同じ。])」・「阿(アボウ/ばゞ)」・「割麥(カツモツ)」・「挿禾(ツアツホウ)」「脱却(トツキヤツ)」・「破袴(ホウクワア)」の類〔ひと〕呼ぶ。「布穀」「獲穀」共に其の鳴く時に因つて農候を爲すべき故に、之れを名づくのみ。其の脚・脛〔の〕骨、人の夫妻をして相愛たらしむ。五月五日、收めて、之れを帶し、各々一つ〔づつ〕、男は左、女は右〔と〕。云はく、『水中に置〔かば〕、自〔(おのづか)ら〕能く相ひ隨ふなり』〔と〕。「禽經〔(きんけい)〕」に云はく、『仲春、鷹、化して鳩と爲り、仲秋、鳩、復た化して鷹と爲る。故に鳩の目、猶ほ、鷹の目のごとし』〔と〕【所謂、鷹とは鷂〔(はいたか)〕、鳩とは、卽ち、鳲鳩〔なり〕。】。

「三才圖會」に云はく、『鳲鳩、牝牡〔(めすおす)〕、飛びて鳴き、翼を以つて相ひ拂ふ。其の聲、「家家撒穀(キヤアキヤアサツコツ)」、或いは「家家脱袴(キヤアキヤアトツクワア)」、或いは「家家斵磨(キヤアキヤアリウモヲヽ)」と曰ふ』〔と〕。

[やぶちゃん注:中国語音のルビは原典では複数字のセットを「ヽ」一点で省略しているが、そこの部分は正字で示した。]

按ずるに、布穀鳥は石州・藝州に多く之れ有り。二月より五月に至り、聲、有り。其の鳴くや。「豆豆豆豆〔(つつ、つつ)〕」と言ふがごとし。田家〔(のうか)〕、此の鳥の鳴きて、卽ち、雜穀の種を下〔(おろ)〕す。江東も亦、豆を種(う)ふ。【「末女末木止利〔(まめまきどり)〕」と稱す。】俗に郭公を以つて杜鵑〔(ほととぎす)〕と爲すは、甚だ、謬〔(あやま)〕れり。

肉【甘、溫。】神を安〔んじて〕志〔(こころ)〕を定む。

[やぶちゃん注:カッコウ目カッコウ科カッコウ属カッコウ Cuculus canorusウィキの「カッコウ」より引く。『ユーラシア大陸とアフリカで広く繁殖する。日本には夏鳥として』五『月ごろ飛来する』。『森林や草原に生息する。日本では主に山地に生息するが、寒冷地の場合平地にも生息する。和名はオスの鳴き声に由来し、他言語においてもオスの鳴き声が名前の由来になっていることが多い。属名Cuculusも本種の鳴き声に由来する。種小名canorusは「響く、音楽的」の意。本種だけではなくCuculus属は体温保持能力が低く、外気温や運動の有無によって体温が大きく変動する(測定例:日変動』摂氏二十九度から三十度『)ことが知られている』。『食性は動物食で昆虫類を始めとする節足動物等を食べる。主に毛虫を食べるとされる』。『本種は「托卵」を行う種として有名である。本種はオオヨシキリ』(スズメ目スズメ亜目ヨシキリ科ヨシキリ属オオヨシキリ Acrocephalus arundinaceus)。『ホオジロ』(スズメ目ホオジロ科ホオジロ属ホオジロ亜種ホオジロ Emberiza cioides ciopsis:本邦及びサハリン・千島列島に分布)、『モズ』(スズメ亜目モズ科モズ属モズ Lanius bucephalus)『等の巣に托卵する。近年ではオナガ』(スズメ目カラス科オナガ属オナガ Cyanopica cyana)『に対しても托卵を行うことが確認されている。托卵の際には巣の中にあった卵をひとつ持ち去って数を合わせる。本種のヒナは短期間(』十~十二『日程度)で孵化し、巣の持ち主のヒナより早く生まれることが多い。先に生まれた本種のヒナは巣の持ち主の卵やヒナを巣の外に放り出してしまい、自分だけを育てさせる。 ただし、托卵のタイミングが遅いと、先に孵化した巣の持ち主のヒナが重すぎて押し出せず、一緒に育つ場合もある』。『ある個体が巣に卵を産みつけた後、別の個体が同じ巣に卵を産むことがある』。二『つの卵がほぼ同時にかえった場合』、二『羽のヒナが落とし合いをする。敗れたほうには当然』、『死が待っている』。『また』、『本種の卵を見破って排除する鳥もいる。それに対抗し、カッコウもその鳥の卵に模様を似せるなど見破られないようにするための能力を発達させており、これは片利片害共進化の典型である』。『カッコウがなぜ托卵をするのかというのは未だ完全には解明されていない。が、他種に托卵(種間托卵)する鳥は体温変動が大きい傾向があるため、体温変動の少ない他種に抱卵してもらった方が繁殖に有利になりやすいのではないかという説が有力である』。『ちなみに同種の巣に卵を預ける種内托卵は、鳥類では多くの分類群で認められる行動である』。『さびれたさまのことを「閑古鳥が鳴く」というが、この閑古鳥とはカッコウのことである。古来、日本人はカッコウの鳴き声に物寂しさを感じていたようであり、松尾芭蕉の句にも』「うき我をさびしがらせよかんこどり」(元禄四(一六九一)年四十七歳の時、幻住庵での改作と思われる。元は元禄二年九月六日の「伊勢の國長島大智院に信宿ス」の前書を持つ「うきわれをさびしがらせよ秋の寺」である。因みに、これは「奥の細道」の掉尾「蛤のふたみにわかれ行(ゆく)秋ぞ」と同日に詠まれたものである。リンク先は私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 掉尾 蛤のふたみへわかれ行く秋ぞ』)『というものがある』とある。

 さて、托卵であるが、ポート・ブログ・サイト「Noticeの「騙されるのには理由がある」及び、その冒頭のリンク記事が新しい学説が紹介されていて最適である(国立科学博物館研究官濱尾章二氏の講演の梗概のようである)。そこでは、大方の人々が疑問に思うことが語られてある。以下、長い引用になるが、お許し戴くと、それは『托卵をさせられてしまう宿主側にはメリット』がないのに、『なぜ托卵を受け入れてしまうのか』、また、『能動的に托卵鳥の卵や雛を拒絶する進化は起こらなかったのかという疑問で』ある。濱尾氏は、『この疑問に対して、幾つかの仮説が考えられてい』るとして、まず、以下の二説が示される。

仮説evolutionary lag hypothesis

『托卵の歴史が短く、宿主側の対抗手段がまだ進化していない。タイムラグが生じているという仮説』。

仮説evolutionary equilibrium hypothesis

『ホストが自分の卵を間違って捨ててしまうなど対抗手段にはコストがかかる。そのコストのバランスで完全には拒絶できないという仮説』。

である(以下、それぞれ仮説を補足する例の部分はリンク先を見られたい)。しかし、仮説については、『数十年単位で対抗手段が獲得できるのであれば、その形質を永遠に獲得するような進化がなぜ起こらないのかという疑問』が残り、また、仮説については、托卵される側の代表種の一つであるウグイス(スズメ目ウグイス科ウグイス属ウグイス Horornis diphone)の方でも『ウグイスなりのコストに見合った対抗戦略を持っているという説もあり』、『それは時間的エスケープ説といわれる説で、ウグイスの繁殖期は』三~七『月と、ホトトギスの』五月末~六『月という繁殖期に比べて長いことが分かって』おり、『つまり春先に一度繁殖してしまえば』、二『回目の繁殖で托卵されてもコストは比較的低いという事になり』、『またそれだけではなく、ウグイスの巣にホトトギスが近づくと激しくさえずり、ホトトギスを攻撃し』、『実験データではホトトギスに対して盛んに鳴くウグイスのメスは托卵されにくいという結果が出ている』という。『つまりウグイスもコストを計りながら対抗しているという事にな』るという事実があることである。そこに、近年、『新しい仮説が唱えられるようになって』、それが名も怖ろしげな、

仮説マフィア仮説

というのだそうである。それは、

   《箇条書部引用開始》

・托卵鳥は托卵後、托卵した巣の観察を続けている。

・托卵を拒絶した巣は捕食する。

・托卵を受け入れた巣はそのままにする。

・宿主は捕食されると困るので、托卵を受け入れるようになる。

   《箇条書部引用終了》

『このように非常に暴力的な托卵鳥の行動が、托卵という進化のバイアスとなったというのが「マフィア仮説」で』あるが、但し、残念ながら、『この仮説のデータとなる宿主と托卵鳥の関係は、日本のウグイスやオオヨシキリ』(スズメ目スズメ亜目ヨシキリ科ヨシキリ属オオヨシキリ Acrocephalus arundinaceus)『などの宿主とホトトギスやカッコウなどの托卵鳥との関係には当てはまらないそうで』、『それはこのデータとなった托卵の生態が、日本の托卵鳥のように宿主の卵や雛を排除するのではなく、宿主の卵と一緒に育つという生態を持つ鳥のデータだからだ』という。『しかしながら、進化の道筋としては非常に面白い考察で』、『この「マフィア仮説」が最初に論文としてまとまったのは』一九九五年の『スペインの研究グループによるもので』、研究対象試料種群は『ユーラシア大陸に広く分布し、日本にも吸収の一部で繁殖するカササギとそのカササギに托卵するマダラカンムリカッコウ』(カッコウ科カッコウ属マダラカンムリカッコウ Clamator glandarius)『の観察によって得られたデータによる論文で』あるとある。『それによれば、托卵を排除すれば他の雛や卵(托卵鳥は宿主の雛を排除しない)が何者かに捕食されると』し、『研究によれば』、『托卵を排除したカササギ雛の捕食率は』九『割にもおよび、托卵排除の巣の捕食率』二『割、托卵されていない巣の捕食率』二『割というデータから見ても、托卵を拒絶した場合』、『非常に際立って捕食されてしまうという結果になってい』る。但し、『この研究ではマダラカンムリカッコウが捕食したというデータは揃』わなかった。しかし、それでも、『托卵を受容した親鳥があまり捕食されないだけでなく、托卵をしてない巣が』二『割でも襲われるという結果からは、もしマダラカンムリカッコウが犯人ならば、雛を捕食し』、『親鳥に再び産卵を促すことが出来れば、托卵のチャンスが生じるというマダラカンムリカッコウのメリットが生じることにな』るのである(それを『farming戦略』と称するらしい)。さらに、『托卵された巣から托卵を取り除くという実験が行われ』たが、『その結果、人為的に托卵を排除したカササギでは、実に二十九例中、二十例で『捕食が行われ、托卵を排除しなかった巣に比べて捕食率に大きな差が出』た、『つまり』、『托卵を取り除くと捕食される確立が高まる』ことが明らかとなった。『マダラカンムリカッコウが、托卵を拒否したカササギに報復のように捕食行動を起こす、即ち』、『マフィア仮説が成立するためには、そのマダラカンムリカッコウの托卵を受け入れる方のカササギにもメリットがなければ習性として獲得され』ない。『一方的に托卵され続けるだけでは絶滅してしま』うからである。『つまり』、『托卵を受け入れる宿主も、托卵を受容するほうが得でなければならない』理由があるということになる。これに『ついてもデータが取られ』、『托卵を受容した場合、巣を放棄した』場合、『托卵を排除した場合の』三『つのケースについての』、『年間に巣立つ雛の数』を計測した。『それによれば、托卵を受容した場合は』年率〇・四、『巣を放棄した場合』で同じく年率〇・四、『托卵を排除した場合は』年率〇・三『という結果で』、これは『托卵を排除した場合は托卵鳥』(かどうかは不明であるが)『に襲われるので巣立つ雛の数は減』るものの、『巣を放棄した場合でも』、『再び巣を作らなければならないというコストを考えれば、托卵を受容したほうがメリットが生じることにな』るのである。

   《以下、「まとめ」部分の箇条書引用開始》

・托卵を宿主側が拒否しないことについて、托卵をする托卵鳥にくらべて宿主側の対抗手段が進化していない、つまりタイムラグが生じているという仮説(タイムラグ仮説)と、宿主がコストとのバランスで受容せざるを得ないのではないかという仮説(進化平衡仮説)がある。

・托卵鳥が托卵を拒絶すれば捕食してしまい、宿主は托卵を受け入れざるを得なくなるという「マフィア仮説」が考えられている。

・スペインのグループの研究では、托卵を拒否した場合、巣が捕食される確率が非常に高い(托卵鳥によって捕食されているかは不明)。

・托卵をしてない巣も襲うことで、托卵鳥が托卵をする機会を増やしているとも考えられる。

・宿主側も、捕食されるよりは托卵を受容したほうがメリットを生じるため、托卵を受容している。

   《「まとめ」部分の箇条書引用終了》

以下、『上記の仮説の弱点を補う研究が、つい昨年』(二〇〇七年)、『論文としてまとめられ』たとあって、研究梗概が続くが、試料種がカッコウやホトトギスとは異なるので)托卵鳥がコウウチョウ(香雨鳥:スズメ目ムクドリモドキ科 Molothrus 属コウウチョウ Molothrus ater)、被托卵鳥がオウゴンアメリカムシクイ(スズメ目アメリカムシクイ科 Protonotaria 属オウゴンアメリカムシクイ Protonotaria citrea))、省略し、その研究結果から引き出された『コウウチョウとムシクイでマフィア仮説の検証』結果のみを以下に示す。

   《引用開始》[やぶちゃん注:一部、句読点を変更・打点した。]

・卵消失は托卵鳥によって起こされる。

・托卵を拒否すると捕食されやすい。

・托卵を受容した宿主は拒否した宿主より多くの雛を残す。(←マフィア仮説の核!)

   《引用終了》

『この実験結果から』、

・捕食者は托卵鳥であるコウウチョウであること。

・托卵を拒否すると、托卵鳥であるコウウチョウに捕食される。

・宿主であるムシクイは托卵を受容したほうが、自分の子孫を多く残すことが出来る。

・コウウチョウは托卵を拒否した宿主の巣を捕食することで、托卵の受容を新たに促すことが可能になる。

という事実が明らかになり、以上を纏めると、

   《「後半のまとめ」箇条書部分引用開始》

・宿主の卵や雛の消失は、托卵鳥の捕食によって引き起こされる。

・托卵を排除した場合は、托卵鳥による捕食率が上がる。

・宿主は托卵を受容したほうが、托卵鳥による捕食を免れるために、子孫を多く残すことが出来る。つまりその習性が受け継がれていく。(宿主の需要行動の進化)

・托卵鳥は、托卵を拒否した巣、あるいは托卵していない巣を捕食することで、新規の托卵の機会を増加させる。(托卵鳥の報復行動の進化)

   《「後半のまとめ」箇条書部分引用終了》

という総括が示されてある。最後に行われた質疑応答も示されてあり、やはり非常に重要なポイントを指摘しているので引くと、

〈質問〉『なぜ自種と似ていない托卵鳥の卵・雛を拒絶しないのか?』

〈回答〉『卵は似ているのでなかなか見分けられないのが一点。また親は刷り込みによって「雛」というものを学習するので、もし最初の繁殖のときに托卵されたなら、刷り込みに寄って「雛」が拒絶できない』。

〈質問〉『托卵の進化プロセスは?』

〈回答〉『種内托卵が進化したものではないかと考えられている。同じ種の鳥に托卵するというケースは多く見られる』。

〈質問〉『宿主の排卵のタイミングと托卵鳥の排卵のタイミングが上手く合う理由は?』

〈回答〉『托卵鳥は常に宿主の巣を観察してるらしい。観察しているうちにホルモンバランスが変化し、タイミングよく卵を生むことが出来るのではないか』。

 以上、非常に興味深く読まさせて戴いたが、被托卵鳥が托卵を拒否した場合に、それを襲うのが確かに托卵鳥であるかどうかという点が本邦のケースでは、未だグレーなのは残念であるものの、一つの大きな有り得る可能性として、この「マフィア仮説」は極めて興味深い仮説であると言える。

 私は十年以上前に、被托卵鳥側が、実はそろそろ種全体として「私たちは騙されているのではないかしら?」と気づき始めており、その証拠に、被托卵鳥側の卵が托卵された卵の殻が明確に区別がつくような色と模様に変化し始めているという専門の研究者の話をテレビの番組で視聴し、托卵システムの進化については非常な興味を持ち続けてきた。

 また、実は三年前に、この「マフィア仮説」と同じ内容を耳にしており、その時は、托卵した後、有意な時間に亙って托卵鳥が被托卵鳥の行動を監視し続けるという点に疑問を持ったのだが、教え子から、そういう研究結果があると指摘されてもいたのである(その時に教え子が示して呉れたのは、信州大学教育学部教授中村浩志カッコウとオナガの闘い托卵に見る進化(「アットホーム株式会社」公式サイト内)であった。これも非常に面白いので必読である)。托卵のシステムと進化は、まだまだ目が離せない、面白さを持っている。

「鵲〔(かささぎ)〕」スズメ目カラス科カササギ属カササギ Pica pica。樹高八メートル以上の高木に、木の枝や藁などを用いて直径六十センチから一メートルもの球状の巣を作り、金属製のハンガーや針金をも素材にすることで知られる。日本では北海道・新潟県・長野県・福岡県・佐賀県・長崎県・熊本県で繁殖が記録されており、秋田県・山形県・神奈川県・福井県・兵庫県・鳥取県・島根県・宮崎県・鹿児島県、島嶼部では佐渡島・対馬で生息が確認されている(ここはウィキの「カササギ」に拠った)。カッコウはカササギにも托卵する(後述)。

「穀雨」二十四節気の第六で。通常は旧暦三月内。太陽暦では四月二十日頃。ウィキの「穀雨」によれば、『田畑の準備が整い、それに合わせて春の雨の降る』頃、『穀物の成長を助ける雨』の時期の意。「暦便覧」(太玄斎著の暦の解説書。天明七(一七八七)年刊)には『「春雨降りて百穀を生化すればなり」と記されている』とある。

「夏至」二十四節気の第十。旧暦五月内。現在は六月二十一日頃。

「阿公(アコン/ぢい)」「ぢい」は「爺」。以下、現代中国語のピンインとカタカナ音写を示す。「ā gōng」(アー・ゴォン)。

「阿(アボウ/ばゞ)」「ばば」は「婆」。「」は「婆」の異体字であるので、「阿婆」で示すと、「ā pó」(アー・ポォー)。

「割麥(カツモツ)」「gē mài」(グゥー(ァ)・マァィ)。「麦の鞘を割って種を出せ」か。

「挿禾(ツアツホウ)」「chā hé」(チァー・フゥー(ァ))。「穀物を地に挿せ」か。

「脱却(トツキヤツ)」「tuō què」(トゥオ・チュエ)。「穀物の皮殻から、種子よ! 抜け出よ!」か。

「破袴(ホウクワア)」「pò kù」(ポォー・クゥー)。「穀物の『はかま』(皮殻)を、種子よ! 破って芽を出せ!」か。

「農候」各種の大切な農事を行う時期。

「其の脚・脛〔の〕骨、人の夫妻をして相愛たらしむ。……」以下の話はこの「本草綱目」の記載以外には私は知らない。呪術の「五月五日」の限定規定等、他に記されたものがあれば、御教授願いたい。類感呪術なのだろうが、肝心のカッコウの雌雄の睦まじさを知らぬ(後の「三才図会」の「翼を以つて相ひ拂ふ」というのもちっとも仲良くなさそうだし、そもそも托卵自体が母性すらも感じさせず、厭な感じじゃけ)ので不審。

「禽經〔(きんけい)〕」既出既注であるが、再掲しておく。春秋時代の師曠(しこ)の撰になるとされる鳥獣事典であるが、偽書と推定されている。全七巻。

「仲春」陰暦二月。

「鷂〔(はいたか)〕」タカ目タカ科ハイタカ属ハイタカ Accipiter nisus

「家家撒穀(キヤアキヤアサツコツ)」先と同じく示す。「jiā jiā sā gǔ」(ヂィア・ヂィア・サァー・グゥー)。「さても! どの家も、穀物の種を撒け!」か。

「家家脱袴(キヤアキヤアトツクワア)」「jiā jiā tuō kù」(ヂィア・ヂィア・トゥオ・クゥー)。

「家家斵磨(キヤアキヤアリウモヲヽ)」「jiā jiā zhuó mó」(ヂィア・ヂィア・ヂゥオ・モォー)。「斵」(音「タク」)は「𣂪」「斲」と同字で、「斧などの大きく重い刃物で切る、又は、削る」の意であるから、「穀類の束を截り、そこから種子を磨り出せ!」と言う意味か。

「石州」「石見國」。

「藝州」「安藝國」。

「豆豆豆豆〔(つつ、つつ)〕」原典を見ると、二字目の「豆」の右手下に微かな小さな横棒が見えるように思われるので、読みでは、かく空けてみた。

「田家〔(のうか)〕」東洋文庫訳のルビを採用した。

「雜穀の種を下〔(おろ)〕す」「下す」は、鼠などに食われぬよう、高いところの保存して置いたものを取り出す、或いは、それを地面に蒔くの意であろう。

「江東」隅田川より東の意と採っておく。千葉は現在、落花生(マメ目マメ科マメ亜科ツルサイカチ連ラッカセイ属ラッカセイ Arachis hypogaea)の名産地であるが、ウィキの「ラッカセイ」によれば、『南米原産で東アジアを経由して、江戸時代に日本に持ち込まれたと言われている』。『日本には東アジア経由で』宝永三(一七〇六)『年にラッカセイが伝来し、「南京豆」と呼ばれた。ただし、現在の日本での栽培種はこの南京豆ではなく、明治維新以降に導入された品種である』とあり、「和漢三才図会」は正徳二 (一七一二) 年の成立で、この時、千葉で落花生栽培が盛んになっていたとは到底、思われないから、「江東」は単に江戸の東の江戸の穀類の需要を支える農村地帯を指し、「豆」は広義の穀類の種を言っているものと思う。

「俗に郭公を以つて杜鵑〔(ほととぎす)〕と爲すは、甚だ、謬〔(あやま)〕れり」言わず緒がなであるが、「杜鵑」はカッコウと同じ、カッコウ属で、種としては異なり、Cuculus poliocephalus である。但し、どちらも同じ初夏(五月頃)に本邦に渡って来ること、ホトトギスも托卵することなどの共通点は多い。しかし、同志社女子大学公式サイト内大学日本語日本文学科教授吉海(かい)直人ほととぎす」をめぐってにある通り、江戸よりも以前の人々の多くは両者を混同・誤認などはしていないのである(そもそもが、カッコウが江戸以前の都会人には馴染みのない鳥であることを考えれば、これは寧ろ、当たり前なのである)。以下、引用すると、『古典の世界では、「かっこう」と「ほととぎす」の混同など生じていません。少なくとも平安時代において、「かっこう」は文学に全く登場していないからです。要するに現代では「郭公」に二つの読み(意味)がありますが、古典では「ほととぎす」という読みしかなかったのです。というよりも、「ほととぎす」という鳥にはなんと二十を超す異名が存在します。それは「時鳥」「霍公鳥」「蜀魂」「無常鳥」「杜宇」「しでの田長」「早苗鳥」「田鵑」「勧農鳥」「夕影鳥」「黄昏鳥」「菖蒲鳥」「橘鳥」「卯月鳥」「妹背鳥」「うなゐ鳥」「魂迎鳥」「沓手鳥」「不如帰」「杜鵑」「子規」等です』とあり、また、ホトトギスは『中国の故事に由来するものは「死・魂・悲しみ」のイメージをひきずっているとされています。「しでの田長」は本来身分の低い「賎(しづ)の田長」だったようですが、それが「死出」に変化したことで、「田植え」のみならず冥界と往来するイメージまで付与されました』ともある。本条はホトトギスの項(「杜鵑」はここからまだ十一項後)ではないが、吉海先生のそれは判り易くまた、知的にも面白いので、特にリンクと引用をさせて戴いた。

「神を安〔んじて〕志〔(こころ)〕を定む」精神を安定させ、気持ちをしっかりとさせる。]

和漢三才圖會第四十三 林禽類 青䳡(やまばと) (アオバト)

Yamabato

 

やまばと  黃褐侯

【音錐】

      【俗云也

       末波止】

ツイン シユイ

 

本綱青鶴狀如鳩有白鳩綠鳩其聲如小兒吹竽今夏

月出一種糠鳩微帶紅色小而成群掌禹錫所謂青

化斑隹恐卽此也好食桑椹及半夏苗

按青居山林而不移村里故俗呼曰山鳩狀如斑鳩

 而項背深綠目前觜後至臆黃色臆有綠斑毛腹白有

 綠文羽尾黑啄蒼脛掌紅其聲如言比宇比宇宛然似

 小兒吹竽

 本朝天子有稱山鳩色御衣綠黃而象此鳩乎

 

 

やまばと  黃褐侯〔(くわうかつこう)〕

【音、「錐〔(スイ)〕」。】

      【俗に「也末波止」と云ふ。】

ツイン シユイ

 

「本綱」、青鶴、狀、鳩のごとく、白鳩・綠鳩、有り。其の聲、小兒の吹く竽(ふへ[やぶちゃん注:ママ。])のごとし。今、夏月、一種「糠鳩(こばと)」を出だす。微〔(かすか)〕に紅色を帶ぶ。小にして群れを成す。掌禹錫が所謂、「青」〔は〕、秋、「斑隹〔(はんすい)〕」に化すといふ。恐くは、卽ち、此れなり。好んで桑の椹〔(み)〕及び半夏〔(はんげ)〕の苗を食ふ。

按ずるに、青〔は〕山林に居りて村里〔には〕移らず。故に、俗に呼んで「山鳩」と曰ふ。狀、斑鳩〔(はと)〕のごとくして項〔うなじ〕・背、深綠。目の前〔と〕觜の後〔ろより〕臆〔むね〕に至る〔まで〕黃色。臆に綠斑〔の〕毛有り。腹、白〔く〕綠文有り。羽・尾、黑。啄〔(くちばし)〕、蒼。脛・掌、紅なり。其の聲、「比宇比宇〔(ひうひう)〕」と言ふがごとし。宛-然(さながら)小兒の吹く竽〔(ふえ)〕に似たり。

 本朝の天子、「山鳩色」と稱へる御衣〔(ぎよい)〕有り。綠黃にして此の鳩を象(かたど)るか。

[やぶちゃん注:ハト科アオバト属アオバト Sphenurus sieboldii平塚市・大磯町をフィールドに持つアマチュア・バードウォッチングのグループサイト「こまたん」の「アオバトの形態」によれば、漢字名は「緑鳩」。『中国南東部・台湾・ベトナム北部に分布』し、『日本では留鳥、漂鳥として北海道から九州で繁殖し、北部のものは冬に南へ移動する。北海道では夏鳥、薩摩諸島、南西諸島では冬鳥』。『丘陵地から山地の林に生息し、群で行動することが多い。初夏から秋にかけて海岸に群をなして海水を飲みに来る習性があり、北海道小樽市張碓や神奈川県大磯、静岡県浜名湖などが有名な渡来地』。『記録は大隅諸島・伊豆諸島・小笠原諸島からもある』。『雌雄』、『ほぼ同色。成鳥雄では額と喉から胸は黄色ないし緑黄色。頭頂から背は緑灰色。中・小雨覆は赤紫で、大雨覆は緑褐色。腹からの体下面は淡い黄白色で、下尾筒は長く幅広い黒褐色の軸斑がある。成鳥雌は全体に雄より淡色で』、『中・小雨覆に赤紫色はない。嘴は柔らかく』、『青灰色。足はピンク。虹彩は外側が赤、内側が青』。『幼鳥は大雨覆の先端と次列風切の先端に淡黄色の部分が目立ち』、二『本の白い帯に見える。初期の頃は成鳥に比べて体全体が小さく』、『次列風切羽部分の翼の幅が狭く、嘴は青灰色ではなく、肉色である。飛んでいるとき尾羽は短く見える。雄の幼鳥は雨覆の赤紫の部分が』二~三『本の帯または』、『まだら模様に見える』。巣は『潅木・低木の小枝に薄っぺらい座(platform)を作』り、『白い』二『つの卵を抱く』。『繁殖期に』は『オーアオーアーーオーアオー』『などと鳴』き、『この他、早口でつぶやくように』『ポーポッポッポッポ』……『と鳴く』とある。

「其の聲、小兒の吹く竽(ふへ)のごとし」「竽」(ふえ)は「竿」ではない(たけかんむり)の下は「干」ではなく「于」である)ので注意。「笛」ではあるが、厳密には「竽(ウ)」と称する中国古代の管楽器を指す。形状は大きな「笙(しょう)」の笛といった感じで、音が低い。竹管全二十二本・十一本ずつの二列配置。戦国時代から宋まで使われたが、その後は使われなくなり、日本にも奈良時代に伝来したものの、平安時代には既に使われなくなった(ここはウィキの「楽器)に拠った)。さて、先に引用した「こまたん」の終りにも鳴き声が音写されてあるが、You Tube caabj209氏の「アオバトの鳴き声を聴いてみると、う~ん、投稿者の『近所のお年寄りの方は不吉な鳴き声と考えています』という言い添えが、残念ながら、腑に落ちる感じがした。

「糠鳩(こばと)」固有の種名ではない。先の本第四十二の巻頭の「林禽類 斑鳩(はと) (シラコバト・ジュズカケバト)」の標題部の下部にある割注に『其子曰鳩役鳩糠鳩』(其の子、鳩〔(ふきゆう)〕」「役鳩」「糠鳩〔(こうきゆう)〕」「卽皐〔(そくこう)〕」「辟皐〔(へきこう)〕」と曰ふとあったのを思い出されたい。なんのことはない、「子鳩」、アオバトの子の意である。

「掌禹錫」(しょううしゃく 九九二年~一〇六八年)宋代の官人で本草学者。官は尚書工部侍郞。「嘉祐補註本草」(別称「補註神農本草」)二十卷を撰した。ここに見るように、彼の諸記載はこの「本草綱目」にもしばしば引かれている。

「斑隹〔(はんすい)〕」時珍はこれが「糠鳩(こばと)」、アオバトの子を指しているというのである。因みに、実は良安は引いていないが、先の斑鳩」の「本草綱目」の「集解」の冒頭にも、時珍の引用で『禹錫曰、斑鳩、是處有之春分化爲黃褐侯、秋分化爲斑黃褐侯靑也』と同類のことを言っている。これはしかし、親が産んだ子の出現のニュアンスでは最早なく、事実は変化(メタモルフォーゼ)するの謂いとしか読めない点は注意しておく必要がある。

「椹〔(み)〕」この単漢字で「桑の実」の意がある。

「半夏〔(はんげ)〕」既出既注であるが、再掲しておく。ここでは、コルク層を除いた塊茎を生薬で「半夏」と呼ぶ、単子葉植物綱オモダカ目サトイモ科ハンゲ属カラスビシャク(烏柄杓)Pinellia ternata ととっておく。ウィキの「カラスビシャク」によれば、『鎮吐作用のあるアラバンを主体とする多糖体を多く含んでおり、半夏湯(はんげとう)、半夏瀉心湯(はんげしゃしんとう)などの漢方方剤に配合される。他にホモゲンチジン酸を含む。またサポニンを多量に含んでいるため、痰きりやコレステロールの吸収抑制効果がある。またかつては、つわりの生薬としても用られていた』。但し、『乾燥させず生の状態では』有毒劇物である『シュウ酸カルシウムを含んでおり』、『食用は不可能』とある。なお、真正和名が「半夏生」の双子葉植物綱コショウ目ドクダミ科ハンゲショウ属ハンゲショウ Saururus chinensis があるが、この記載は「本草綱目」なのでこれではない。

『俗に呼んで「山鳩」と曰ふ』現行では「山鳩」(ヤマバト)はキジバト属キジバト Streptopelia orientalis の異名であるので注意。

『「山鳩色」と稱へる御衣〔(ぎよい)〕』サイト「伝統色のいろはの「山鳩色で色を確認されたい。そこによれば、『山鳩の羽のような灰みの強い鈍い黄緑色のことです。山鳩とは青鳩のことで、色名はその羽の色に由来しています。「麹塵」や「青白橡」は同じ色であり、禁色(きんじき)における「青」をあらわす一般の使用が禁じられた色でした』。『ちなみに、天皇が平常着用された袍(ほう)の色で、「山鳩色の袍」または「麹塵の袍」「青白橡の袍」と呼ばれていたようです』とある。そこにも少し引かれているが、「平家物語」巻第十一の「先帝御入水(ごじゆすゐ)」での、安徳天皇の入水時の着衣である。一読、忘れ難いシークエンスであるので引いておく。底本はばらばらになるまで読んだ講談社文庫高橋貞一校注(昭和四七(一九七二)年刊)に拠ったが、漢字を恣意的に正字化し、一部の歴史的仮名遣の誤りを訂した。

   *

主上(しゆしやう)、あはれなる御有樣にて、

「抑(そもそも)尼前(あまぜ)、われをばいづちへ具して行かんとはするぞ。」

と仰せければ、二位殿、幼(いとけな)き君に向ひ參らせ、淚をはらはらと流いて、

「君は未だ知(しろ)し召され候(さぶら)はずや。先世(せんぜ)の十善戒行(かいぎやう)の御力(おんちから)によつて、今(いま)萬乘(ばんじよう)の主(あるじ)とは生れさせ給へども、惡緣に引かれて、御運、既に盡きさせ候ひ給ひぬ。先づ、東(ひんがし)に向はせ給ひて、伊勢大神宮に御暇(おんいとま)申させおはしまし、その後(のち)、西に向かはせ給ひて、西方淨土の來迎(らいかう)に預(あづか)らんと誓(ちか)はせおはしまして、御(おん)念佛候べし。この國は粟散邊土(ぞくさんへんど)[やぶちゃん注:小さな辺鄙な国。]と申して、ものうき境(さかひ)にて候。あの波の下にこそ、極樂淨土とて目出度き都の候。それへ具し參らせ候ふぞ。」

と、樣々に慰め參らせしかば、山鳩色の御衣(ぎよい)に、鬢(びんづら)結(ゆ)はせ給ひて、御淚(おんなみだ)におぼれ、小(ちひ)さう美しき御手(おんて)を合(あは)せ、先づ、東(ひんがし)に向はせ給ひて、伊勢大神宮・正八幡宮(しやうはちまんぐう)に、御暇申させおはしまし、その後(のち)、西に向はせ給ひて、御念佛ありしかば、二位殿、やがて抱き參らせて、

「波の底にも、都の候(さぶらふ)ぞ。」

と慰め參らせて、千尋(ちひろ)の底にぞ沈み給ふ。

 悲しき哉かな 、無常の春の風、忽ちに花の御姿をちらし、いたましきかな、分段(ぶんだん)の荒き波、玉體(ぎよくたい)を沈め奉る。殿(てん)をば「長生(ちやうせい)」と名づけて、長き住家(すみか)と定め、門をば「不老」と號して老いせぬ關(とざし)とは書きたれども、未だ十歳(じつさい)の内にして、底の水屑(みくづ)とならせ給ふ。十善(じふぜん)帝位の御果報、申すもなかなか愚かなり。雲上(うんしやう)の龍(りよう)降(くだ)つて海底(かいてい)の魚(うを)となり給ふ。大梵高臺(だいぼんかうだい)の閣の上、釋提喜見(しやくだいきけん)の宮(みや)の内(うち)[やぶちゃん注:大梵天王の居ます宮殿と帝釈天の居ます喜見城。宮城の比喩。]、古(いにしへ)は槐門棘路(くわいもんきよくろ)[やぶちゃん注:大臣・公卿。]の間(あひだ)に九族(きうぞく)[やぶちゃん注:一家一門。]を靡(なび)かし、今は船の中(うち)、浪の下に、御身を一時(いつし)に亡(ほろ)ぼし給ふこそ悲しけれ。

   *]

2018/10/24

和漢三才圖會第四十三 林禽類 孔雀鳩(くじやくばと) (クジャクバト)

Kujyakubato

くじやくはと

 

孔雀鳩

 

△按孔雀鳩形色似斑鳩尾異凡鳩尾皆十二此鳩尾有

 二十四雌雄交則共立其尾而如摺扇亦如立孔雀尾

 故俗名孔雀鳩近年自中華來畜之樊中生子以爲珍

 

 

くじやくばと

 

孔雀鳩

 

△按ずるに、孔雀鳩、形・色、斑-鳩〔(はと)〕に似て、尾、異なり。凡そ、鳩の尾、皆、十二〔なるに〕、此の鳩は、尾、二十四有り。雌雄交はるときは、則ち、共に其の尾を立てて、摺扇〔(せんす)〕のごとし。亦、孔雀の尾を立つるがごとし。故に、俗に「孔雀鳩」と名づく。近年、中華より來たる。之れを樊〔(かご)の〕中に畜ひ、子を生〔ませ〕、以つて珍と爲す。

[やぶちゃん注:複数回既出のハト目ハト科カワラバト属カワラバト Colombo livia var domesticaの一品種。サイト「動物」によれば、『カワラバトを品種改良して作』り『出された観賞用のハトで』、五『世紀以上前にインドで誕生したと』される。『通常のハトよりも尾羽の枚数が』二倍から三倍『ほど多く、その羽根を広げるとクジャクのような』感じに『なるため「クジャクバト」と名付けられ』たとある。所謂、「ファンテイル」=「fantail」で、幅広の扇(ファン)形をした尾を持つあれだ。「進化論講話 丘淺次郎 藪野直史附注 第三章 人の飼養する動植物の變異(3) 二 鳩の變種」の挿絵を見られれば、「ああ、あれか」と合点されるはずである。実際、白色の個体が多く、しばしば見かけるのであるが、私は何故か生理的に嫌いな鳩である。あの白い広げた尾羽に私は逆に異様な不潔感というか、卑猥な印象を感じてしまうのである。恐らくは、私自身を精神分析すれば、深層に驚くべき理由が何かありそうな気はするのだが。或いは、まさにここに書かれているような交尾シーンを幼少期に動物園かどこかで見てしまったトラウマなのかも知れぬ(しかし、それでは精神分析にはならぬ。何かの代償的な性的体験があってこそフロイト的である)。というわけで、これ以上、注する気にはなれぬ。悪しからず。]

和漢三才圖會第四十三 林禽類 斑鳩(はと) (シラコバト・ジュズカケバト)

 

和漢三才圖會卷第四十三

      攝陽 城醫法橋寺島良安【尚順】編

  林禽頬

Sirakobato

はと   錦鳩 斑隹

     鵓鳩 祝鳩

斑鳩

     【其子曰

      役鳩 糠鳩

パンキウ  卽皐 辟皐】

 

本綱斑鳩狀小而灰色及大而斑如梨花點者並不善鳴

【今云壤鳩雉鳩之類】惟項下斑如連珠者聲大能鳴可以作媒引鳩

【今云八幡鳩數珠懸】鳩性孝而拙於爲巢纔架數莖往往墮卵天

將雨卽逐其雌霽則呼而反之故曰鷦鷯巧而巢危鳩拙

而安或云雄呼晴雌呼雨

肉【甘平】主治明目助陰陽久病虛損補氣令人不噎

按斑鳩有數種俗云壤鳩八幡鳩南京鳩

壤鳩【豆知久礼波止】 鳩類中之最大者常棲山林而不近人家

 頭背灰黑色而有赤斑彪相交如錦胸腹柹赤色觜蒼

 脚淡赤尾本灰色末黑其聲短其味美九州之産最佳

 食以爲藥者是也

八幡鳩【止之與里古伊】 形小於壤鳩遍身柹白色頂下有蒼黑

 輪似懸數珠於頸者觜黑脚脛淡赤其尾本灰白末黑

 色常棲山林四時鳴秋月最甚其聲高亮如言老來也

 畜之極難馴經年亦放籠則再不還來其肉不美城州

 八幡山最多俗以爲神使好事者書八字彷彿鳩之雌

 雄八幡生土人誤食之則唇脹腫悶亂矣蓋此神與人

 相感令然者乎

南京鳩 項背紫青斑而頸有黑紋眼邊微紅頰臆青胸

 腹紫紅羽黑尾碧白嘴脚蒼近世來於中華甚賞玩之

 新六帖入日さす山下陰の村しはに鳩鳴かはす秋の夕暮 爲家

 

 

はと   錦鳩 斑隹〔(はんすい)〕

     鵓鳩〔(ぼつきゆう)〕 祝鳩

斑鳩

     【其の子、「鳩〔(ふきゆう)〕」

      「役鳩」「糠鳩〔(こうきゆう)〕」

      「卽皐〔(そくこう)〕」

パンキウ  「辟皐〔(へきこう)〕」と曰ふ。】

 

「本綱」、斑鳩、狀、小にして、灰色、及び大にして、斑〔(まだら)〕、梨花の點のごとき者は、並びに善く鳴かず。【今、云ふ、「壤鳩〔(つちくればと)〕」・「雉鳩〔(きじばと)〕」の類。】惟だ、項〔(うなじ)〕の下、斑にして連珠のごとき者〔は〕、聲、大にして能く鳴く。以つて媒(をとり)と作〔(な)〕して、鳩を引く【今、云ふ、「八幡鳩〔(はちまんばと)〕」・「數珠懸〔(じゆずかけ)〕」。】鳩の性、孝〔(すなほ)〕にして巢を爲〔(つく)〕るに拙〔まず)〕し。纔かに數莖を架〔(か)〕して、往往、卵を墮〔(おと)す〕。天、將に雨〔(あめふ)らんとせば〕、卽ち、其の雌を逐ふ。霽〔(は)る〕るときは、則ち、呼びて之れを反〔(かへ)〕す。故に曰ふ、『鷦鷯(みそさゞい)は巧みにして、而〔しかれど〕も、巢、危〔(あやふ)く〕、鳩は拙にして、而〔しかれど〕も安し』、或いは云ふ、『雄は晴〔(はれ)〕を呼び、雌は雨を呼ぶ』〔と〕。

肉【甘、平。】主治、目を明にし、陰陽を助け、久〔しき〕病〔による〕虛損、氣を補ひ、人をして噎〔(つかへ)〕ざらしむ。

按ずるに、斑鳩に數種有り、俗に云ふ、「壤鳩」・「八幡鳩」・「南京鳩」。

壤鳩【「豆知久礼波止〔(つちくればと)〕」。】 鳩類中の最大の者。常に山林に棲み、人家に近づかず。頭・背、灰黑色に赤斑の彪(ふ)有り。相ひ交りて、錦のごとし。胸・腹、柹赤色。觜、蒼。脚、淡赤。尾の本〔は〕灰色〔にして〕末〔は〕黑。其の聲、短し。其の味、美〔(よ)し〕。九州の産、最も佳なり。食ひて、以つて藥と爲〔(な)〕すは、是れなり。

八幡鳩【「止之與里古伊〔(としよりこい)〕」。】 形、壤鳩より小さく、遍身、柹白色。頂の下、蒼黑の輪、有りて、數珠を頸に懸くる者に似たり。觜、黑。脚・脛、淡赤。其の尾、本は灰白〔にして〕末〔は〕黑色。常に山林に棲み、四時、鳴く。秋月、最も甚〔しく〕、其の聲、高亮〔にして〕「老來(としよりこい)」と言ふがごときなり。之れを畜〔ふも〕、極めて馴れ難く、年を經ても亦、籠〔より〕放〔てば〕、則ち、再〔びは〕還り來らず。其の肉、美〔(よ)〕からず。城州八幡山〔(やはたやま)〕に最も多く、俗に以つて神使と爲す。好事の者、八の字を書きて鳩の雌雄に彷-彿(さもに)たり。八幡〔が〕生土(うぶすな)の人、誤りて之れを食ふときは、則ち、唇、脹腫し、悶亂す。蓋し、此れ、神と人と相ひ感じて然らしむる者か。

南京鳩 項・背、紫青斑にして、頸に黑紋有り。眼の邊り、微紅。頰・臆〔むね〕、青。胸・腹、紫紅。羽、黑。尾、碧白。嘴・脚、蒼し。近世、中華より來〔れるものにして〕、甚だ之れを賞玩す。

 「新六帖」

   入日さす山下陰の村しばに

      鳩鳴いかはす秋の夕暮 爲家

[やぶちゃん注:既に「原禽類 鴿(いへばと)」が出ていて、そこでは当該種を馴染みのハト目ハト科カワラバト属カワラバト Colombo livia var domestica として同定してしまっており(キジバト属キジバト Streptopelia orientalis も同定候補の一つとして出してしまっている)、また、「斑鳩」という標題種名(これは「いかるが」で、スズメ目アトリ科イカル属イカル Eophona personata の異名の一つとされることがあるが、完全な誤用で、イカルの漢字表記は「鵤」桑鳲」中国語名「黑頭蜡嘴雀」「桑鳲」「黃嘴雀」である)にも戸惑ったのだが、結論から言うと、後注するように、キジバトも混在しているものの、ここで言っている種は、基本、

ハト目ハト科キジバト属シラコバト Streptopelia decaocto

キジバト属ジュズカケバト Streptopelia risoria

と思われる。後者はシラコバト(白子鳩)の飼養品種となったものとされ、そのジュズカケバトの白変種で、ギンバト(銀鳩)と呼ばれるものも存在する。ウィキの「シラコバト」によれば、『シラバト、ノバトなどとも呼ばれ』、全長は約三十三センチメートルで、『雌雄同色。全身が灰褐色で、背と尾は褐色みが増す』。『ユーラシア大陸や北アフリカ』に主に分布し、『日本に生息する個体は江戸時代に移入されたものが野生化したといわれるが、もともと生息していたという説もある。生息区域は、関東地方北東部(千葉県北部、茨城県南西部、埼玉県東部)である。一時期は埼玉県東部(越谷市)にまで狭められ』、昭和三一(一九五六)年一には『種として国の天然記念物に指定された。その成果もあり、最近は群馬県南部でも生息が確認された。これとは別に、山口県萩市の見島では朝鮮半島から飛来したと考えられる個体の観察記録が残る』とある。なお、現代中国語では「斑鳩」、俗に「灰鴿子」と呼ばれる。

 一方、ウィキの「ジュズカケバト」を見ると、『中央アフリカ原産のバライロシラコバト Streptopelia roseogrisea が原種とされる』。全長は二十五~三十センチメートルで、『全体的に淡い灰褐色』を呈し、『後頸部に半月状の黒輪がある』。『風切羽は黒褐色』、『嘴は暗褐色』。『シラコバトによく似ている』『が、背や翼の褐色がシラコバトよりも薄い。白変種をギンバト(銀鳩)といい』、『全身』、『白色で嘴と脚が紅色』である。『古くから世界中で飼育されて』おり、『一部の地域では野生化しており』、『アメリカのロサンゼルス、タンパ』(Tampa:フロリダ州中部のメキシコ湾側のタンパ湾奥部に位置する保養都市。ここ(グーグル・マップ・データ))『マイアミでは大群となっている』とある。

「壤鳩〔(つちくればと)〕」これは「土塊鳩」で「土鳩」、ドバトであり、ドバトはイコール、カワラバト属カワラバト Colombo livia var domestica であることは、既に「原禽類 鴿(いへばと)」で考証したので繰り返さない(私はそこで示した通り、「土鳩」は元は「堂鳩(鴿)」(どうばと)の約であろうと考えている)。

「雉鳩〔(きじばと)〕」キジバト属キジバト Streptopelia orientalis

「項〔(うなじ)〕の下、斑にして連珠のごとき者」「數珠懸〔(じゆずかけ)〕」キジバト属ジュズカケバト Streptopelia risoria

「八幡鳩〔(はちまんばと)〕」「八幡鳩【「止之與里古伊〔(としよりこい)〕」。】」良安は別種として項立てしているが、個人ブログ「ながらの森(野鳥)」の「シラコバト(白子鳩 )」に、昭和七(一九三二)年『冨山房発刊「大言海」では「シラコバト」は記載されておりませんが、その代わり「ジュズカケバト(數珠掛鳩)」が有ります。その説明(2P899)は「ずずかけばと同ジ」とされ『山ニ多シ、形鳩ヨリ稍小サクシテ、羽ノ色、數十品アリ、皆、頸ニ白キ斑アリ、聲高クシテ、淸ム。又、八幡鳩、斑鳩』となっています』あり、黒田長禮(ながみち)著「旅と鳥」(一九五九年法政大学出版刊)で、『著者が興味を深い記事として』『紹介してい』るとして、小野蘭山の「重修本草綱目啓蒙」(享和三(一八〇三)刊。蘭山の「本草綱目」についての口授「本草紀聞」を孫と門人が整理したもの)の「三十三林禽乃部」『には、『斑鳩は市へは稀に来る。山村には此鳥多く、その形状鴿(ドバト)に同じくして微小ク皆頸項に黒は斑文あり、数珠を掛けたる将(オサ)に似ている。鳴く声「年寄り来い」と云うが如し、京にて鳩「キジバト」を「トシヨリコイ」と云う。同名なり。然れども其声に小異あり。鳩は声濁りて「トシヨリコイ、トシヨリコイ」と鳴く。九州にて「与惣次コイコイ」と鳴くと聞いて、他与惣三バトと呼ぶ。奥州にては「テテイポウポウ・テテイポウポウ」と鳴くと聞える、皆後「コイコイ」重ね鳴く、斑鳩は声高く清みて、「年寄り来い」とのみ鳴、「来い来い」と重ねず』と文献を用いて異名・別名を紹介してくれています。この文中に出てくる斑鳩は、異名として「数珠掛鳩(じゅずかけばと)、斑鳩(じゅづばと)、八幡鳩、及び年寄来い」と名付けについて詳細に解説しています』と記しておられ、本「八幡鳩」「としよりこい」はジュズカケバトの異名であることが判る。

孝〔(すなほ)〕」東洋文庫訳のルビを採った。「」は「」「愨」とも書き、中国語の文語で「真面目である・誠実である」の意である。

「纔かに數莖を架〔(か)〕して」僅か数本の草木の枝葉を掛け渡して(しか巣を作らぬから)。

「鷦鷯(みそさゞい)は巧みにして、而〔しかれど〕も、巢、危〔(あやふ)く〕、鳩は拙にして、而〔しかれど〕も安し」「鷦鷯(みそさゞい)」はスズメ目ミソサザイ科ミソサザイ属ミソサザイ Troglodytes troglodytes を指す(既に注したが、ウィキの「ミソサザイ」によれば、ミソサザイは森の中の崖地や大木の根元などに、苔類や獣毛等を使って壷型の巣を作るが、他の鳥と異なり、オスは自分の縄張りの中の二個以上の巣を作り、移動しながらさえずってメスを誘い、オスが作るのは巣の外側のみで実際の繁殖に使用されるものは、作られた巣の内の一個のみで、巣の内側はオスとつがいになったメスが完成させる。また、巣自体にも特徴があり、通常の壷巣は出入口が一つのみであるが、ミソサザイの巣は、入口と出口の双方がそれぞれ反対側に設計されおり、抱卵・育雛中の親鳥が外敵から襲われると、中にいる親鳥は入り口とは反対側の出口から脱出するといわれている。これは昔の人が見ても良く出来た巣だと思うであろう)。これについて、東洋文庫は以下のような注を附す。『『詩経』(國風、召南、鵠巣)に、鵲』(かささぎ:スズメ目カラス科カササギ属カササギ Pica pica:樹高八メートル以上の高木に、木の枝や藁などを用いて直径六十センチから一メートルもの球状の巣を作り金属製のハンガーや針金をも素材にすることで知られる)『は巣をつくるのが巧く、鳩は巣をつくるのが下手なので、鳩は鵲の知らぬ間に、鵲の巢に入り込む、とある。つまり鳩は他鳥の立派な巢にぬくぬくと入り込むので安全というのであろうか』。はて? そうだろうか? ふと私は不審に思った。何故かと言うと、前の「天、將に雨〔(あめふ)らんとせば〕、卽ち、其の雌を逐ふ。霽〔(は)る〕るときは、則ち、呼びて之れを反〔(かへ)〕す」のは何故だろう? と私は考えたからだ。これは、実は、巣がお粗末で雨を防げないから、雌を別なところへ避難させるのではないか? 晴れたら、戻っておいでと(その場合、しかし「雄は晴〔(はれ)〕を呼び、雌は雨を呼ぶ」というのは、雌が浮気性だからかしらん?)。そこでさらに考えた。精巧で完璧な巣は実は雨に弱くないか? 完全防水の巣の底は水が浸透せず、水浸しになってしまうか、或いは雨水を含んで重くなって膨張し、営巣場所から巣丸ごと落下してしまう危険が出てくるのではないか? 却って隙間だらけの鳩の巣は、水が抜けて、安全なのではなかろうか? 私の勝手な夢想である。

「噎〔(つかへ)〕ざらしむ」「噎」は音「イツ」で、咽喉が詰まったり、咽(むせ)んだり、閊(つか)えたりすることを指す。

「四時」一年中。

「高亮」高くはっきりしていること。東洋文庫訳による。

『「老來(としよりこい)」と言ふがごときなり』You Tube Birdlover.jpシラコバトのカワイイ鳴き声を聴いていると、不思議にそう聴こえてくる!

「城州八幡山〔(やはたやま)〕」現在の京都府八幡(やわた)市八幡高坊(やわたたかぼう)にある鳩ヶ峰の別名(男山とも呼ぶ)。標高百四十三メートル。山上に石清水八幡宮がある。(グーグル・マップ・データ)。

「好事の者、八の字を書きて鳩の雌雄に彷-彿(さもに)たり」八幡宮の額にはよくある。例えば、鶴岡八幡宮の「八幡宮寺額」(私の鎌倉攬勝考卷之二(幕文政一二(一八二九)年植田孟縉(うえだもうしん)著)より)。

Hatimannguuji

「八幡〔が〕生土(うぶすな)の人」その八幡宮の氏子。

「神と人と相ひ感じて然らしむる者か」わざわざ勿体附けて事大主義的な謂い方せんでもええんとちゃう? 良安先生? ただ普通に神罰が下ったんやて。

「南京鳩」小学館「日本国語大辞典」には『イエバトの一品種。羽色はジュズカケバトに似て、さらに小形のもの』とある。イエバトはカワラバト Colombo livia var domestica のこと。記載から見ると、かなり派手なんだが? よく判らぬ。識者の御教授を乞う。

臆」と「胸」がどう違うのか、よく判らぬ。叙述から見ると、「頰」の後に続けているから胸の上部を「臆」と言っているように私には思われるのだが。識者の御教授を乞う。

「新六帖」鎌倉中期に成った類題和歌集「新撰六帖題和歌集」(全六巻)。藤原家良・藤原為家(定家の次男)・藤原知家・藤原信実・藤原光俊の五人が、仁治四・寛元(一二四三)年頃から翌年頃にかけて詠んだ和歌二千六百三十五首が収められてある。奇矯。特異な歌風を特徴とする(ここは東洋文庫版書名注に拠った)。当該和歌集は所持しないので校訂不能。]

古今百物語評判卷之四 第五 鵼の事附弓に聖人の遺法ある事

 

  第五 鵼(ぬえ)の事弓に聖人の遺法ある事


Nue


又いはく、「鵼といふ物は深山(みやま)幽谷(ふかきたに)にすめる化鳥(けてう)なり。源三位賴政、あし手は虎のごとき獸(けだもの)のとび來たりしを射て、後(のち)、また、誠(まこと)の鵼を射し事、「平家物語」に見えたり。又、廣有(ひろあり)が怪鳥を射し事、「太平記」にあり。「徒然草」に鵺(ぬえ)のなく時、招魂の法を行ふ事、眞言宗の書にみえたるよしを云へり。いかさまにも妖怪をなすものならし。かやうのあやしきたぐひ、多(おほく)は蟇目(ひきめ)のおとに恐れ、又、しとむるも、かならず、弓箭(ゆみや)のわざなるは、古老の説に、凡そ、もろもろの器(うつはもの)は、聖人の手より始まるとは申せども、大やうは、其形、變じ、さまかはりて、觚(こ)も觚ならずのたぐひなるに、この弓ばかり、猶、いにしへの制法にたがはず、聖人の作爲(さくゐ)のまゝなる故、鵼にかぎらず、狐狸豺狼(こりさいらう)のるいまで、此音(おと)を恐るゝと見えたり」と申されき。

[やぶちゃん注:「平家物語」の「源三位(げんさんみ)賴政」の鵺(ぬえ)退治については、既に「柴田宵曲 續妖異博物館 化鳥退治」の私の注で原典を電子化し、詳細な注も附してあるのでそちらを見られたい。但し、そこでも注意を喚起したが、「平家物語」で語られる妖怪は、あくまで「鵺の声で鳴く」「得体の知れないもの」であって、名前はついていなかったことは知っておく必要がある(但し、百二十句本(平仮名本)「平家物語」のみに「五海女(ごかいじょ)」という不思議な名が記されてはある)。則ち、実在する鳥としての「ぬえ」(鳴き声から不吉な鳥とはされていたが、スズメ目ツグミ科トラツグミ属トラツグミ Zoothera dauma とするのが定説である。nagagutsukun2氏のYou Tube の音声)ではない、ハイブリッドのキマイラ的実体妖獣の名としての「鵼・鵺」は、この頼政が退治した時点では未だつけられていなかったということである。

『廣有(ひろあり)が怪鳥を射し事、「太平記」にあり』「太平記」巻第十二の「廣有、怪鳥を射る事」。以下に全文を示す(参考底本は新潮日本古典集成版。但し、漢字を恣意的に正字化した)。

   *

 元弘三年[やぶちゃん注:一三三三年。同年五月二十一日に鎌倉幕府は滅亡している。]七月に改元あつて建武に移さる。これは後漢の光武、王莽(わうまう)が亂を治めて再び漢の世を繼がれし佳例なりとて、漢朝の年號を模(うつ)されけるとかや。今年、天下に疫癘(えきれい)あつて、病死する者、はなはだ多し。これのみならず、その秋の頃より、紫宸殿の上に怪鳥(けてう)出で來たつて、「いつまで、いつまで」とぞ鳴きける。その聲、雲に響き、眠りを驚かす。聞く人、皆、忌み恐れずといふ事無し。すなはち、諸卿、相議(あひぎ)していはく、「異國の昔、堯(げう)の代に、九つの日、出でたりしを、羿(げい)といひける者、承つて、八(やつ)つの日を射落せり。我が朝のいにしへ、堀川(ほりかはの)院の御在位の時、變化(へんげ)の物あつて、君を惱ましたてまつりしをば、前(さきの)陸奧守義家、承つて、殿上の下口(したぐち)に候(こう)し、三度(さんど)、弦音(つるおと)を鳴らしてこれを鎭(しづ)む。また、近衞(このゑの)院の御在位の時、鵺(ぬえ)といふ鳥の雲中に翔(かけ)つて鳴きしをば、源三位(げんざんみ)賴政卿(きやう)、勅をかうむつて、射落したりし例あれば、源氏の中(なか)に誰(たれ)か射候ふべき者ある」と尋られけれども、射はづしたらば、生涯の恥辱と思ひけるにや、われ承らんと申す者、無かりけり。

「さらば、上北面(じやうほくめん)・諸庭(しよてい)の侍(さぶらひ)どもの中(ちゆう)にたれかさりぬべき者ある」と御尋ねありけるに、「二條(にでうの)關白左大臣殿の召し仕はれ候ふ隱岐(おきの)次郞左衞門廣有と申す者こそ、その器(き)に堪へたる者にて候へ」と申されければ、「やがてこれを召せ」とて、廣有をぞ召されける。廣有、勅定を承つて、「鈴の間」[やぶちゃん注:清涼殿の南の「天上の間」のこと。ここには蔵人が小舎人を呼び寄せるのに使用する鈴の繩が引き込まれていたことから呼称であろう。]の邊に候ひけるが、げにも、この鳥、蚊の睫(まつげ)に巢食ふなる蟭螟(せうめい)[やぶちゃん注:蚊の睫毛に巣を作り、そこで子を生むという想像上の微細な虫の名。私の「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蚊(か) 附 蚊母鳥(ヨタカ?)」を参照されたい。]の如く小さくて、矢も及ばず、虛空の外に翔(かけ)り飛ばば、叶ふまじ。目に見ゆる程の鳥にて、矢懸かりならんずるに[やぶちゃん注:矢の届く範囲内にいるのであれば。]、何事ありとも射外はづすまじき物をと思ひければ、一義も申さず、畏つて領掌(りやうじやう)す。すなはち、下人に持たせたる弓と矢とをとり寄せて、孫廂(まごひさし)の陰に立ち隱れて、この鳥の有樣を伺ひ見るに、八月十七夜の月、殊に晴れわたつて、虛空、淸明たるに、大内山(おほうちやま)[やぶちゃん注:内裏の異名。]の上に黑雲(くろくも)一群(ひとむら)懸かつて、鳥鳴くこと、しきりなり。鳴く時、口より火炎を吐くかと覺えて、聲の内より、いなびかりして、その光、御簾(ぎよれん)の内へ散徹(さんてつ)す。廣有、この鳥の在所(ありか)をよくよく見おほせて、弓押し張り、弦(つる)くひしめして[やぶちゃん注:「喰ひ濕めして」。口に含んで唾で湿らせて伸びを良くさせ。]、流鏑矢(かぶらや)を差し番(つが)ひて立ち向へば、主上は南殿に出御成つて叡覽あり。關白殿下・左右(さう)の大將・大中納言・八座(はちざ)[やぶちゃん注:参議の異名。]・七辨[やぶちゃん注:太政官所属の弁官。実務級高官。]・八省輔(はつしやうふ)[やぶちゃん注:太政官に所属した八つの中央官庁の輔(すけ)。次官。]・諸家(しよけ)の侍、堂上(たうしやう)堂下(たうか)に袖を連ね、文武百官これを見て、『いかがあらんずらん』と固唾(かたづ)を呑うで手を拳(にぎ)る。廣有、すでに立ち向つて、弓を引かんとしけるが、いささか思案する樣(やう)ありげにて、流鏑(かぶら)にすげたる[やぶちゃん注:附けておいた。]雁股(かりまた)を拔いて打ち捨て、二人(ににん)張りに十二束(つか)二伏(ふたつぶせ)[やぶちゃん注:拳(こぶし)十二握りの幅に指三本の幅を加えた長さの矢。]、きりきりと引き絞りて、左右(さう)無く[やぶちゃん注:直ぐには。]これを放さず、鳥の鳴く聲を待ちたりける。この鳥、例より飛び下(さが)り、紫宸殿の上に二十丈許りが程に[やぶちゃん注:約六十メートル六十センチ上空。]鳴きけるところを聞きすまして、弦音(つるおと)高く「ひやう」ど放つ。鏑(かぶら)、紫宸殿の上を鳴り響かし、雲の間(ま)に手答へして、何とは知らず、大盤石(だいばんじやく)の落ちかかるが如く聞えて、仁壽殿(じじゆでん)の軒の上より、ふたへに[やぶちゃん注:二重に折れ曲がって。]竹臺(たけのだい)[やぶちゃん注:竹の囲いの意であるが、ここは仁寿殿の西、清涼殿との間に南北にある呉竹(北)か河竹(南)のそれである。]の前へぞ落ちたりける。堂上堂下一同に、「あ、射たり、あ、射たり」と感ずる聲、半時(はんじ)[やぶちゃん注:一時間。]許りののめいて[やぶちゃん注:騒ぎ立てて。]、しばしは言ひやまざけり。衞士(ゑじ)の司(つかさ)に松明(たいまつ)を高く捕らせてこれを御覽ずるに、頭(かしら)は人の如くして、身は蛇(じや)の形なり。嘴(くちばし)の先、曲つて、齒鋸の如く生(お)ひ違(ちが)ふ。兩の足に長きけづめあつて、利(と)きこと、劍(けん)の如し。羽先(はさき)を延べてこれを見れば、長さ、一丈六尺なり[やぶちゃん注:約四メートル八五センチメートル。]。

「さても廣有射ける時、にはかに雁俣を拔いて捨てつるは何ぞ」と御尋ねありければ、廣有、かしこまつて、「この鳥、御殿の上にあたつて鳴き候ひつるあひだ、つかまつて候はんずる矢の落ち候はん時、宮殿の上に立ち候はんずるがいまいましさに[やぶちゃん注:不都合かと存じ。]、雁俣をば拔いて捨てつるにて候ふ」と申しければ、主上、いよいよ叡感あつて、その夜、やがて、廣有を五位に成され、次の日、因幡國(いなばのくに)に大庄(だいしやう)二箇所、賜はりてんげり。弓矢取りの面目(めんぼく)、後代までの名譽なり。

   

『「徒然草」に鵺(ぬえ)のなく時、招魂の法を行ふ事、眞言宗の書にみえたるよしを云へり』「徒然草」第二百十段。

   *

「喚子鳥(よぶこどり)は春のものなり」とばかり言ひて、いかなる鳥とも定(さだ)かに記せるものなし。或る眞言書(しんごんしよ)の中(うち)に、喚子鳥鳴く時、招魂の法をば行ふ次第あり。これは鵺(ぬえ)なり。万葉の長歌(ながうた)に、「霞立つ長き春日の」などつづけたり。ぬえ鳥もよぶこ鳥のことざまに通いて聞ゆ。

   *

・「いかなる鳥とも定(さだ)かに記せるものなし」「春のものなり」ならホトトギス(カッコウ目カッコウ科カッコウ属ホトトギス Cuculus poliocephalus)であるが、それならそうと書くであろう。これを真正の「郭公」(カッコウ目カッコウ科カッコウ属カッコウ Cuculus canorus)とする説などもある。

・「招魂の法」死者の魂を呼ぶ密教の修法らしいが、兼好の言う「眞言書」が不明であるのでよく判らぬ。

・「ぬえ鳥もよぶこ鳥のことざまに通いて聞ゆ」とは「以上の歌を読んでみるに、これでは「鵺」も「喚子鳥」も同じ鳥を指している様子に聞こえる」の意。

・「万葉集」の長歌(ちょうか)とは、巻一の「雜歌(ざふか)」の一首(五番。六番の反歌と附帯する評語も添える)、

   *   *

   讚岐國安益郡(あやのこおり)に

   幸(いでま)しし時に、

   軍王(いくさのおおきみ)の、

   山を見て作れる歌

 霞立つ 長き春日の 暮れにける わづきも知らず 村肝(むらきも)の 心を痛み 鵺子鳥(ぬえこどり) うらなけ居(を)れば 玉襷(たまだすき) 懸けのよろしく 遠つ神 わご大王(おほきみ)の 行幸(いでまし)の 山越す風の 獨り居る わが衣手(ころもで)に 朝夕(あさよひ)に 返らひぬれば 大夫(ますらを)と 思へるわれも 草枕 旅にしあれば 思ひ遣る たづきを知らに 網(あみ)の浦の 海處女(あまをとめ)らが 燒く鹽の 思ひそ燒くる わが下ごころ

    反歌

 山越しの風を時じみ寢(ね)る夜(よ)おちず家なる妹(いも)を懸けて偲(しの)ひつ

右、「日本書紀」を檢(かむが)ふるに、讚岐國に幸(いでま)すこと無し。また、軍王も未だ詳らかならず。但し、山上憶良大夫(まへつかさ)が「類聚歌林(るいじゆかりん)」に曰はく、「紀[やぶちゃん注:原文は「記」であるが、以下は「日本書紀」なので恣意的に訂した。]に曰はく、『天皇[やぶちゃん注:舒明天皇。]十一年己亥(きがい)冬十二月己巳(きし)の朔(つきたち)壬午(じんご)、伊豫の溫-湯(ゆ)[やぶちゃん注:現在の道後温泉。]の宮に幸(いでま)』といへり。一書(あるふみ)に云はく、『是の時、宮の前に二つの樹木、在ろ。この二つの樹に斑鳩(いかるが)・比米(ひめ)の二つの鳥、さはに集まれり。時に勅(みことのり)して、多く稻穗を掛けてこれを養ひたまふ。すなはち、作れる歌』といへり」といへり。けだし、ここより便(すなは)ち幸ししか。

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以下、講談社文庫中西進氏の注を一部参考にして語注を附す。

・「讃岐國安益郡」現在の香川県綾歌郡の東部。その北の現在の高松市国分寺町に国府があった。

・「軍王」伝不詳。

・「わづきも知らず」何となく。

・「村肝(むらきも)の」「心」の枕詞。

・「鵺子鳥(ぬえこどり)」「うらなく」(自然に泣けてしまう)の形容であって、鵺子鳥が実際に鳴いているのではない。

・「玉襷(たまだすき)」「懸け」の枕詞。

・「懸けのよろしく」優しいことでも言いかけるように、口にするのも立派な。「遠つ神 わご大王(おほきみ)の」への尊称的形容であろう。

・「たづきを知らに」憂いを消す術(すべ)もなく。

・「網(あみ)の浦」香川県坂出市の海岸。

・「下ごころ」心の底。

・「時じみ」定まった時がないことで、常時の意。絶え間なく。

・「おちず」欠かさず。

・「斑鳩(いかるが)」スズメ亜目スズメ小目スズメ上科スズメ目アトリ科イカル属イカル Eophona personata

・「比米(ひめ)」アトリ科 Carduelinae 亜科 シメ属シメ Coccothraustes coccothraustes

   

「いかさまにも」どうみても。確かに。

「ならし」連語(断定の助動詞「なり」の未然形に推量の助動詞「らし」の付いた「なるらし」の転)で、近世文語では、本来の推量の意味が薄まり、断定を和らげた表現として用いる。「であるようである」。

「蟇目(ひきめ)」弓を用いた呪術。「蟇目」とは朴(ほお)又は桐製の大形の鏑(かぶら)矢。犬追物(いぬおうもの)・笠懸けなどに於いて射る対象を傷つけないようにするために用いた矢の先が鈍体となったものを指す。矢先の本体には数個の穴が開けられてあって、射た際にこの穴から空気が入って音を発するところから、妖魔を退散させるとも考えられた。呼称は、射た際に音を響かせることに由来する「響目(ひびきめ)」の略とも、鏑の穴の形が蟇の目に似ているからともいう。私の「耳囊 卷之三 未熟の射藝に狐の落し事」及び同じ「耳囊」の「卷之九 剛勇伏狐祟事」や「卷之十 狐蟇目を恐るゝ事」の本文や私の注をも参照されたい。

「もろもろの器(うつはもの)」諸器具。諸道具。

「聖人」古えの聖王や創造神を指すか。因みに、本邦の古神道では弓は天照大神・武甕槌神(たけみかづちのかみ)・経津主神(ふつぬしのかみ)が創造のルーツに挙げられるようである。

「大やうは」殆んどの物は。

「觚(こ)」古代中国に於いて儀式に用いられた大型の酒器。細い筒形の胴に朝顔状に開いた口縁と足とが附く。

「豺(さい)」山犬。凶暴な野犬。]

古今百物語評判卷之四 第四 梟の事附賈誼鵩鳥の賦の事

 

  第四 梟(ふくろ)の事賈誼(かぎ)鵩鳥(ふくてう)の賦(ふ)の事

先生、いへらく、「梟と申(まうす)も木兎(みゝづく)と同類にして、晝は目見えず、洞(ほら)にかくれ、木のまたにゐて、獵師とてもたやすく見る事なく、よるは眼(まなこ)の光(ひかり)、明鏡のごとくにして、木によりては、鳥をうかゞひ、池におりては蛙(かはづ)をつかみ、宅(いへ)に入りては、鼠をとれり。世の風説に、『何がしの屋の棟より、いつの頃、火の玉とびし』などいぶかりあへるも、此鳥の眼のひかりならし。猶、年長(としたけ)たる梟は其眼のひかりに映じて、滿身ともに光侍れば、彼(か)の靑鷺のごとくさながら、光り物のやうに見え侍るとかや。されども、かゝる妖怪ある家は、いつしか、ほろび、主(ぬし)、ゆるは何事ぞや。それ、梟は怪鳥(けてう)の最上にして、其德、さがなき物なり。かくてぞ、漢の賈誼と云(いへ)し人も、鵩(ふく)といふ鳥のとび來(きたり)て、座のすみにとゞまれるを見て、長沙(ちやうしや)の住居(すまひ)、いとものあぢきなくおもひて、占ひし詞(ことば)にも、『野鳥入ㇾ室主人將ㇾ去(野鳥 室(しつ)に入り/主人 將に去らんとす)』と見えけるに、「鵩鳥の賦」をつくりて、程なく、身まかりけるとなん。蓋(けだし)鵩鳥も梟の一類なり。おもふに、すべて、妖孽(ようげつ)[やぶちゃん注:妖しい災い。又は、不吉なことが起こる前兆を指す。妖怪や魔物及び災禍の意味もある。]ある故に、其家、ほろぶるにあらず。此家、ほろぶるが故に妖孽あるなるべし。猶、かやうの時にこそ、物の機(き)を知る君子は誠(まこと)をつくし、禮をまもりて、上(かみ)、天地(てんち)をあふぎ、下(しも)、人心(じんしん)を和(やはら)ぐれば、妖は德にかたずして、あやしみもやぶれ侍るとぞ。其ためし、あげてかぞふべからず。又、梟といふ物は、至りて不孝なる鳥にて、生まれて六十日なる時は、かならず、其母を喰(くら)ふ。故に、文字にも「鳥」の首を「木」にかけたる形容をもつて作れり。人のくびを獄門にかけしを「梟首(けうしゆ)」といふも其心(そのこころ)なり。されば、もろこしには、五月五日に此鳥をあつものにして、群臣に給ひて不孝をこらしめ給ふとかや。ありがたかりける政(まつりごと)なり」と語られき。

[やぶちゃん注:「梟」フクロウ目フクロウ科フクロウ属フクロウ Strix uralensis

「鵩鳥」フクロウとする邦人の記載が多いが、これは厳密にはミミズク(次注参照)を指す。「鵩」の(へん)は「服」。「鵬」の字とお間違えなきよう。

「木兎」フクロウ科 Strigidae に属する種の内、羽角(うかく:俗に「耳」と呼んでいる部分)がある種の総称。古名は「ツク」「ズク」。羽角は哺乳類の耳(耳介)のように突出した羽毛であって、「耳」とは呼ばれるが、ミミズクに限らず、鳥類に耳介は存在しない。この羽角の機能は現在でもよく判っていない。最も有力な説は、枝などに見立てて木に擬態する装置だとするもので、他にはこれを立てる事によって、後ろからの音を拾い易くしている(実際のミミズク類の耳は顔の横附近の羽毛の中に開孔している)とする説もあるらしい。

「靑鷺」ペリカン目サギ科サギ亜科アオサギ属亜アオサギ亜種アオサギ Ardea cinerea jouyi「古今百物語評判卷之三 第七 叡山中堂油盜人と云ばけ物靑鷺の事」の注でも示したが、博物学的上のそれは、私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 蒼鷺(アオサギ)」、及び