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2018/10/21

和漢三才圖會第四十二 原禽類 土燕(つちつばめ)・石燕(いしつばめ) (多種を同定候補とし、最終的にアナツバメ類とショウドウツバメに比定した)

 

Tutitubame

つちつはめ 石燕

土燕

 

本綱石燕在乳石石洞中形似蝙蝠口方食石乳汁冬月

采之堪食餘月止可治病其肉【甘暖】爲補益藥【非石部之石燕】

 

 

つちつばめ 石燕〔(いしつばめ)〕

土燕

 

「本綱」、石燕、乳石〔の〕石洞〔の〕中に在り。形、蝙蝠(かはもり)に似て、口、方(けた)に〔して〕石乳〔(せきにゆう)〕の汁を食ふ。冬の月、之れを采〔(と)り〕て食ふに堪へたり。餘月は、止(たゞ)、病を治すべし。其の肉【甘、暖。】、補益の藥と爲す【「石部」の「石燕〔(いしつばめ)〕」に非ず】。

[やぶちゃん注:どうせ、南方熊楠の英文論文「燕石考」(The Origin Of The Swallow-Stone Myth,c.1899-1903:明治三十三年~同三十六年執筆。ロンドン留学時代末期に構想が立てられ、熊野那智時代に補筆・完成されたもので、学術雑誌『Nature』及び『Notes and Queries』の二誌に寄稿したものの、不掲載に終ったが、南方の英文論文の一つの頂点を成す名論文である)で知られた、謎と神秘の妖しげな〈パワー・ストーン〉「燕石」(その代表的正体の一つは、動物界真正後生動物亜界冠輪動物上門腕足動物門 Brachiopoda の嘴殻亜門嘴殻綱スピリファー目 Spiriferida の貝状の腕足類の化石や二枚貝の化石である。グーグル画像検索「Spiriferidaをご覧あれ。全く知らない方はその形状で納得が行かれるであろう)辺りだろう、などと思った方も多かろうが(私も当初はそう思った)、それは最後に美事に時珍と良安双方によって否定されているのである。「本草綱目」はもとより、「和漢三才図会」の巻第六十一に「石燕(いしつばめ)」として、しっかり図入りで示されてある方が、「それ」、モノホンの「石の燕」なのだ。

 私は「和漢三才図会」の「石部」全部を電子化する積りは、今のところ、ない(しかし、あり得ないと思っていた動物の部分の完全電子化は恐らく、来年には終われそうだ。今、しゃかりきになって「禽部」をやっている中・長期的な一つの理由は、そこにある。短期的には? 私の公開を順に読んでゆけば――「今に判るよ、権藤さん。」――(黒澤明「天国と地獄」の山崎努演ずる竹内銀次郎の声で)。さればこそ、この際、ここで「本草綱目」も含めて、「石燕」をやらかしちまうのも、これ、一興だ。以下に示す。まず「本草綱目」の「金石之四」の「石燕」(セキエン)。下線部はそちらで時珍が附言した、鳥の「石燕」の言及部である。但し、最後の膨大な量の「附方」(各病態に対する処方箋羅列)は電子化しても私にはさっぱり判らぬので略した。

   *

石燕【「唐本草」。】

集解李勣曰、石燕出零陵。恭曰、永州祁陽縣西北一十里有土岡上、掘深丈餘取之。形似蚶而小、堅重如石也。俗云、因雷雨則自石穴中出、隨雨飛隋者、妄也。頌曰、祁陽縣江畔沙灘上有之、或云、生洞中、凝僵似石者佳、采無時。宗奭曰、石燕如蜆蛤之狀、色如土、堅重如石。既無羽翼、焉能飛出。其言近妄。時珍曰、石燕有二、一種是此、乃石類也。狀類燕而有文、圓大者爲雄、長小者爲雌。一種是鍾乳穴中石燕、似蝙蝠者、食乳汁能飛、乃禽類也、見禽部禽石燕食乳、食之補助、與鍾乳同功、故方書助陽藥多用之。俗人不知、往往用此石爲助陽藥、刋于方冊、誤矣。

氣味甘、涼、無毒。

主治淋疾、煮汁飮之。婦人難産、兩手各把一枚、立驗【「唐本」。】。療眼目障、瞖諸般淋瀝、久患消渇、臟腑頻瀉、腸風痔、瘻年久不瘥、靣色虛黃、飮食無味、婦人月水湛濁、赤白帶下多年者、每日磨汁飮之。一枚用三日、以此爲準。亦可爲末、水飛過、每日服半錢至一錢、米飮服。至一月、諸疾悉平【時珍。】

發明時珍曰、石燕性凉、乃利竅行濕熱之物。宋人修本草、以食鍾乳、禽石燕、混收入此石燕下。故世俗誤傳此石能助陽、不知其正相反也。

   *

以下、「和漢三才図会」の「石燕」。やはり、下線部は「禽部」の「石燕(いしつばめ)」への言及部。

   *

Sekibuisitubame

いしつばめ

石燕

 

シッヱン

 

本綱石燕永州祁陽縣有之狀如蜆蛤之状色如土堅重

如石圓大者爲雄長小者爲雌此乃石類也

一種生鍾乳穴中石燕狀似蝙蝠而食乳汁能飛乃禽類

 也見禽部

五雜組云雲陵石燕相傳能飛飛卽風雨然石質無能飛

[やぶちゃん注:「雲陵」は祁陽県にある「零陵」の誤字なので訓読では訂した。]

之理爲烈日所暴忽有驟雨過石卽衝起徃徃墜地蓋寒

熱相激而迸落非眞能飛也

石燕【甘涼】 治淋病【煮汁飮之】婦人難産兩手各把一枚立驗

又治拳毛倒睫石燕【雌雄各一】磨水點𣘻眼先以鑷子摘去

拳毛乃點藥後以黃連水洗之

按阿波讃岐有石蛤其狀恰似蛤而閉口如土堅重如

 石俗傳云弘法大師所符也蓋此石燕之類兒女不知

 其本設奇説耳相州足柄山又有此類

 奧州米澤有山名甲蠃山其山小石多形如甲蠃子而

 黃白色帶微赤甲蠃【和名豆比俗云豆不】似海螺小貝也

 

 

いしつばめ

石燕

 

シッヱン

 

「本綱」、石燕、永州]祁陽〔(きよう)〕縣[やぶちゃん注:現在の湖南省国永州市祁陽県。ここ(グーグル・マップ・データ)。]之れ有り。狀〔(かたち)〕、蜆〔(しじみ)〕・蛤〔(はまぐり)〕の状のごとく、色、土のごとく、堅重にして石のごとし。圓く大なる者を雄と爲し、長く小さき者を雌と爲す。此れ、乃〔(すなは)〕ち、石類なり。

一種は、鍾乳穴〔の〕中に生ずる石燕あり。狀、蝙蝠に似て、乳汁〔(ちじる)〕を食ふ。能く飛ぶといふ。乃ち、禽類なり。「禽部」を見たり。

「五雜組」[やぶちゃん注:明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。]に云はく、『零陵に石燕あり。相ひ傳ふ、「能く飛ぶ。飛ぶときは、卽ち、風雨あり』と。然れども、石質にして、能く飛ぶの理〔(り)〕、無し。烈日の爲に暴(さら)されて、忽ち、驟雨(ゆふだち)の過ぐること有〔りて〕、石、卽ち衝〔(た)ち〕起り、徃徃〔にして〕地に墜つ〔るあり〕。蓋し、寒熱、相ひ激(さへぎ)りて[やぶちゃん注:せめぎ合って。]、迸〔(ほとばし)り〕落〔つるにして〕、眞〔(しん)〕に能く飛ぶに非ず。

石燕【甘、涼、】 淋病を治す。【汁に煮、之れを飮む。】婦人の難産、兩の手に各〔(おのおの)〕一枚を把〔(にぎ)〕れば、立ところに驗〔あり〕。又、拳---睫(さかさまつげ)治す。石燕【雌雄各一つ。】、水に磨(す)り、眼に點-𣘻〔(てんさ)〕す[やぶちゃん注:点眼する。]。先づ、鑷子(けぬき)を以つて拳-毛〔(さかげ)〕を摘(つ)み去(さ)り、乃〔(の)ち〕、藥を點じ、後、黃連水〔(わうれんすい)〕を以つて之れを洗ふ。[やぶちゃん注:「クラシエ」公式サイト内の「漢方 抑肝散加芍薬黄連錠」の成分解説に、ブクリョウ・カンゾウ・サイコ・センキュウ・ソウジュツ・チョウトウコウ・トウキ・シャクヤク・オウレンから抽出したとあり、これら或いは幾つかを溶かしたものと思われる。因みに服用による対応症としては、『神経のたかぶりが強く、怒りやすい、イライラなどがあるものの次の諸症』とし、『神経症、不眠症、小児夜泣き、小児疳症(神経過敏)、歯ぎしり、更年期障害、血の道症』『(月経、妊娠、出産、産後、更年期など女性のホルモンの変動に伴って現れる精神不安やいらだちなどの精神神経症状および身体症状)』を挙げてある。]

按ずるに、阿波・讃岐に石蛤〔(いしはまぐり)〕有り。其の狀、恰〔(あたか)〕も蛤に似て、口を閉〔(ふさ)〕げば土のごとく、堅重にして石のごとし。俗に傳へて云はく、『弘法大師、符〔(ふ)〕する所なり』[やぶちゃん注:弘法大師がとある謂われあって蛤に呪文をかけてこうなったものだ。]となり。蓋し、此れ、石燕の類〔(たぐひ)なり〕。兒女、其の本〔(ほん)〕[やぶちゃん注:貝の化石化したものという実際の真相。]を知らずして、奇説を設くるのみ。相州足柄山、又、此の類〔ひ〕有り。

[やぶちゃん注:ここに紹介されてある弘法大師が蛤に呪術をかけて石と化したとするそれは、私の「諸國里人談卷之五 石蛤」の本文及び注を参照されたい。]

奧州米澤に山有り、「甲蠃山(つぶやま)」と名づく。其の山、小石、多く、形、甲蠃子〔(つぶ)〕のごとくにして黃白色、微赤を帶ぶ。甲蠃〔(カウラ)〕【和名、「豆比〔(つび)〕」、俗に「豆不〔(つぶ)〕」と云ふ。】、海-螺(ばい)に似たる小貝なり。

[やぶちゃん注:「甲蠃山」不詳。「つぶやま」という呼称は現在では廃れているかと思われる。現在の米沢市内だけに限っても、主だったピークは数多くあり、それらを一々検証することは私には出来ない。「栂峰」辺りは発音は近いかと思うが、ただの感触に過ぎぬ。地元の方の御教授を乞うものである。貝類フリークの私としては、判らぬのはかなり気持ちが悪いのである。

   *

 話をこの鳥の「石燕」に戻す。

 さても、今回も前項「ツバメ」でコシアカツバメの存在を教えて下さった、CEC公式サイト内の「徒然野鳥記」の「ツバメ」が力となった。そこで筆者は『日本に渡ってくるツバメの仲間は』、ツバメ属ツバメ Hirundo rustica『以外に、コシアカツバメ(漢名 胡燕)』(Hirundo daurica)、『イワツバメ(漢名 石燕)、ショウドウツバメ(漢名 土燕)』、『そして』、『沖縄諸島にだけ生息するリュウキュウツバメ』(Hirundo tahitica:本種についてはウィキの「リュウキュウツバメ」を見られたい)がいる、と記しておられるからである。

 まず、イワツバメ、漢名「石燕」から見よう。和名漢字表記は「岩燕」である。この種は、

ツバメ亜科 Delichon 属イワツバメ Delichon urbica

であるが、以下に見るように、本邦に飛来するのは、

イワツバメ亜種イワツバメ Delichon urbica dasypus

ウィキの「イワツバメ」によれば、分布はアフリカ大陸・ユーラシア大陸・インドネシア・日本・フィリピンで、『夏季にアフリカ大陸北部やユーラシア大陸で繁殖し、冬季になると』、『アフリカ大陸やインド北部、東南アジアへ南下し』、『越冬する。中華人民共和国南部などでは周年』、『生息する。日本には』、『亜種イワツバメが』、『繁殖のために九州以北に飛来(夏鳥)するが、西日本では渡来地は局地的である。温暖な地域では越冬することもある』。全長十三~十五センチメートル。『尾羽はアルファベットの「V」字状』(無論、燕尾状の、である)を呈する。『嘴の色彩は黒い。趾は白い羽毛で覆われる』。亜種イワツバメ Delichon urbica dasypusは、全長十三センチメートルで、『体形は細い。尾羽の切りこみが浅い。上面は光沢のある黒褐色、下面が汚白色の羽毛で覆われる。腰が白い羽毛で覆われる』。他に亜種シベリアイワツバメ Delichon urbica lagopoda がおり、こちらはやや大きく全長十五センチメートルで、『体形は太い。尾羽の切りこみが深い。上面は光沢のある暗青色、下面が白い羽毛で覆われる。背中後部、腰、尾羽基部の上面(上尾筒)が白い羽毛で覆われる』。但し。『亜種イワツバメを独立種とする説もあり、その場合には種』Delichon urbica『の和名はニシイワツバメになる』。『平地から山地にかけて』棲息し、『動物食で、昆虫を食べる。群れで飛行しながら』、『口を大きく開けて獲物を捕食する』。『海岸や山地の岩場に泥と枯れ草を使って』、『上部に穴の空いた球状の巣を作り、日本では』四~八月に、一回に三~四個の『卵を産む。岩場に営巣することが和名の由来。集団で営巣する』。『昔から山間部の旅館や山小屋などに営巣する例は知られていたが、第二次世界大戦後はコンクリート製の大規模な建造物が増加するとともに、本種もそれらに営巣するようになった。近年は市街地付近の橋桁やコンクリート製の建物の軒下などに集団営巣する例が増えており、本種の分布の拡大につながっている』とある。

 次に、ショウドウツバメ、漢名「土燕」を見る。和名の漢字は表記まさに「小洞燕」である。

ツバメ亜科 Riparia 属ショウドウツバメ Riparia riparia

ウィキの「ショウドウツバメ」から引く。分布はアフリカ大陸・北アメリカ大陸・南アメリカ大陸・ユーラシア大陸・アイルランド・キューバ・ジャマイカ・シンガポール・スリランカ・ドミニカ共和国・日本・ハイチ・マダガスカル・マレーシアと、『ツバメと並び』、『ツバメ科内では最も広い分布域(渡り)を持つ。夏季は北アメリカ大陸北部やユーラシア大陸北部で繁殖し、冬季(北半球)はアフリカ大陸や南アメリカ大陸、ユーラシア大陸南部で越冬する。日本には夏季に北海道、本州(東北地方以北)に繁殖のため』、『夏鳥として飛来するが、その他の地域では渡りの途中で飛来する旅鳥である』。全長十三センチメートル、体重九~十五グラム。『背面の羽衣は暗褐色、腹面の羽衣は白い。尾羽は短い。胸部に暗褐色の横帯が入る』。『幼鳥は体上面の羽毛の外縁(羽縁)が淡褐色で鱗状に見える』。『海岸や川辺の草原、農耕地などに生息する。渡りの際は大規模な群れを形成し、夜間はアシ原などで休む』。『食性は動物食で、主に昆虫(ハエやカゲロウ)を食べる。飛翔しながら口を大きく開けて獲物を捕食する』。『集団で営巣』し、『河川や湖の岸辺や海岸の砂泥質の崖に雌雄共に』五~十日をかけて』、直径五~十センチメートル、長さ二十センチメートルから一メートルほどの『穴を掘って集団で繁殖する』『(この小さな巣穴を掘る習性から小洞燕の和名がついた)。過去に使用していた巣穴には崩落や寄生虫がいる可能性があるため、通常は繁殖ごとに新しく穴を掘る。日本では』五『月に渡来し』、五月下旬から七月上旬にかけて、四~五個の『卵を産む。雌雄共に抱卵し、抱卵期間は』十二~十六日で、『雛は孵化してから約』十九『日で巣立つ。生後』一『年で性成熟する』。『河川改修等により営巣場所が減少している。そのため』、『工事現場や採掘場等で営巣することがある』とある。

 さて、まず同定比定するには、

「本草綱目」の鳥類とする「石燕」

と、

良安が本邦にも棲息すると考えた(そうは言っていないが、本邦にはいないとは言っていないし、そうした本邦に棲息しないことがはっきりしており、良安の想像の外にあるような、則ち、近縁種を想起出来ぬような種で「本草綱目」に載るもの(ゴマンといる)は良安は多く始めから採用していない)と仮定した場合の「石燕」

の二つを厳然と分けて考える必要がある。まず、前者であるが、これは、時珍の「集解」記載が貧困である。これは私は時珍が本種を見たことがないことを意味しているように思えてならないのである(他の項でも「本草綱目」ではしばしば見られることである)。しかして内容も鐘「乳石〔の〕石」のぶら下がった鍾乳「洞〔の〕中に」棲んでいて、「形」は「蝙蝠」(こうもり)「に似て」いて」、「口」ときた日にゃ、尖っておらず「方(けた)」=四角であって、その異様な嘴を以って鍾乳「石」から滴り落ちる「乳」「の汁」のみを吸って生きている、なんていう鳥がいようはずがないわけだ。しかしいるからこそ、「冬の」間はこれを捕獲し、食用に当てるのには、まあ何とか食える。但し、他の時期は捕えても、食べることはせず、漢方薬として「補益」(体内の諸作用の不足を補い、益を与えること)に用いるばかりである、というんだから、確かにいるのだ。だとすれば、

イワツバメ Delichon urbica

ショウドウツバメ Riparia riparia

のどっちでもよかろうかいと思うのだが、彼らはこんなツバメらしからぬコウモリみたような恰好なんぞ、してないわけだ。そこで考えたのだ。こりゃ、別にツバメ類である必要性はちっともない、ということだ。そうしてピンとくるのは(大方の方の頭には既にピンときているだろう)、高級広東料理の定番「燕巣」(ツバメのスープ)の「ツバメ」だ。あれは、燕じゃないのは御存じだろう、「ツバメ」を名に含むが、全然、縁遠い「穴燕」類(アナツバメ族 Collocaliiniで、中でもその巣が高級品として珍重されるのは、

鳥綱アマツバメ目アマツバメ科アナツバメ族 Aerodramus 属ジャワアナツバメ Aerodramus fuciphaga 及びオオアナツバメ Aerodramus maxima

である。ウィキの「アナツバメ」によれば(下線太字やぶちゃん)、アナツバメ類は、全長十~十五センチメートルで、『南アジア・東南アジア・熱帯太平洋、オーストラリア北部の海岸や島に分布する。最大の生息地は、ボルネオの大鍾乳洞群地帯』である(中国にはまずいないことが判る)。『岸壁に開いた洞穴内に集団で営巣する。他のアマツバメ科の鳥同様、羽毛など空中で得られるの浮遊物を飛翔しながら集めて巣材とし、これを唾液腺から分泌される粘着質の分泌物で固めた巣を作る。この点が類縁の遠いツバメが泥を地表で採取して巣財にするのと』、『大きく異なる』。この内、上記のジャワアナツバメとオオアナツバメの二種の『巣は空中から集めた巣材をわずかしか使わず、ほとんど全てが唾液腺の分泌物でできており、中華料理の高級食材である燕の巣として利用される』とある。また、『Aerodramusに属する種は、真っ暗な洞穴内でエコロケーション』(echolocation:反響定位:音の反響を受け止め、それによって周囲の状況を知ること。コウモリは超音波であるが、この場合は鳥の可聴域を利用している)『をする。鳥類でエコロケーションをするのは、アナツバメとアブラヨタカ』(ヨタカ目アブラヨタカ科 Steatornis 属アブラヨタカ Steatornis caripensis『だけである』ともあって、バッキバキの洞窟・鍾乳洞順応で、エコロケーションまでやっちまうなんざ、まさに「蝙蝠に似て」にバッチグーじゃねえか! しかも、彼らの嘴はずんぐりとして短いものが多く、まさに「方」なんだっつーの!

 かくして、私は「本草綱目」の「石燕」「土燕」は「穴燕」類(アナツバメ族 Collocaliini)であると比定するものである。

 では、良安の考えたそれは何か? これは本邦での分布から見ると、良安が見そうなのは、

イワツバメ Delichon urbica

だけれど、穴はコンパクトだけれど、その習性から見るなら、

ショウドウツバメ Riparia riparia

の方が、遙かにしっくりくる。「小洞」だし、巣穴はまさに「土」の穴で「土燕」だもの! 大方の御叱正を俟つものではある。

2018/10/20

和漢三才圖會第四十二 原禽類 燕(つばめ) (ツバメ)

Tubakurame

つばくらめ   乙鳥 玄鳥

つばめ     鷙鳥 鷾鴯

        游波 天女

【鷙同】

      【和名豆波久良安

ヱン      俗云豆波久良

        又云豆婆女】

 

本綱燕大如雀而身長口豐頷布翅岐尾背飛向宿其

鳴自呼曰乙營巢避戊巳日春社日來秋社日去其來也

啣泥巢於屋宇之下其去也伏氣蟄於窟穴之中或謂其

渡海者謬談也【和俗亦燕謂徃來於常盤國者皆非】燕巢有艾則不居凡狐

貉皮毛見燕則毛脱鷹鷂食燕則死蛟龍嗜燕【物理使然】

越燕 紫胸輕小者【此常之燕】

胡燕 斑黑而聲大者其作窠長能容二匹絹者令人家

 富也按胡燕【和名阿萬止里】俗云深山燕也

白燕 京房云人見白燕主生貴女故燕名天女

燕肉【酸平】 有毒損人神氣不可食如食燕人不可入水蛟

 龍好燕故爲所吞矣祈禱家用燕召龍亦一理也

                    爲家

 夫木きさらきのなかはに成と知かほに早くも來けるつはくらめかな

按燕玄衣白頸赤黃頷春來秋去與雁鳬爲表裏其飛

 翔也甚捷直翻仰亦能飛所他鳥不能故鷹鷂不敢敵

 往來于人家求窠處人覺之束藁徑三四寸許如盤豫

 作巢形縋於家内棟下而與之則燕喜營巢凡一營巢

 之家歳歳不忘失而來其窠固密不可言用泥和髮毛

 或稈心宛如堊塗其智勝于巧婦鳥矣雌雄交代啣餌

 來哺之其雛稍長則出巢端可落而不落潜視之有髮

 毛繫雛脚又經日至當飛去時則母鳥斷所繫毛亦奇

 也既飛去後復皆來頡頏廻旋如謝禮狀而去

 有一窠無故雛皆死於是見其口中有麥禾松刺等蓋

 此母鳥死後母鳥所爲也徃徃見如此者

 有蛇吞燕雛復來將吞而却蛇堕巢下腹裂斃閲之有

 一縫針倒鋒樹巢口燕之智堪恠而其針獲於何處乎

 

 

つばくらめ   乙鳥〔(いつてう)〕 玄鳥

つばめ     鷙鳥〔(してう)〕

        鷾鴯〔(いじ)〕

        游波 天女

【鷙も同じ。】

      【和名、「豆波久良安」。

ヱン      俗に「豆波久良」と云ひ、

        又、「豆婆女」とも云ふ。】

 

「本綱」、燕は、大いさ、雀のごとくにして、身、長く、(はさ)める口、豐かなる頷〔(あご)〕、布〔(し)〕く翅〔(つば)〕さ、岐〔(また)〕の尾、背(あふのけ)に飛びて、向宿〔(かうしゆく)〕す。其の鳴くこと、自〔(みづか)〕ら呼びて「乙(イツ)」と曰ふ。巢を營(つく)るや、戊巳(つちのえみ)の日を避く。春の社〔(しや)〕の日に來りて、秋の社の日に去(い)ぬる。其れ、來〔(きた)〕ることや、泥を啣(ふく)んで屋宇の下に巢(すく)ふ。其れ、去るや、氣を伏して、窟穴〔(いはあな)〕の中に蟄(すごも)る。或いは、『其れ、海を渡る』と謂ふは謬-談(あやまり)なり【和俗も亦、『燕、常盤國〔(とこよのくに)〕を徃來する』と謂ふも、皆、非なり。】。燕の巢に、艾〔(よもぎ)〕有れば、則ち、居らず。凡そ狐・貉(むじな)の皮の毛、燕を見るときは、則ち、毛、脱〔(だつ)〕す。鷹・鷂〔(はいたか)〕、燕を食へば、則ち、死す。蛟龍〔(こうりよう)〕は燕を嗜(す)く【物の理、然(しか)らしむるなり。】。

越燕 紫の胸、輕く小なる者【此れ、常〔(つね)〕の燕。】。

胡燕(みやまつばめ) 斑〔(まだ)〕ら、黑くして、聲、大なる者。其の窠〔(す)〕を作る〔や〕長〔くして〕、能く二匹の絹を容(い)るゝ。人家をして富ましむるなり。按ずるに、「胡燕」【和名、「阿萬止里〔(あまどり)〕」。】は、俗に云ふ「深山燕」なり。

白燕 京房が云ふ、『人、白き燕を見るときは、貴女を生ずることを主〔(つかさど)〕る。故に、燕を「天女」と名づく』〔と〕。

燕の肉【酸、平。】 毒、有り、人の神氣を損ず。食ふべからず。如〔(も)〕し、燕を食ひたる人は、水に入るべからず。蛟龍、燕を好(す)く故、爲めに吞まれる〔なればなり〕。祈禱家に燕を用ひて龍を召す〔は〕亦、一理〔ある〕なり。

 「夫木」

                   爲家

 きさらぎのなかばに成ると知りがほに早くも來けるつばくらめかな

按ずるに、燕は、玄き衣、白き頸(くぢすぢ)、赤黃の頷(をとがひ)〔にして〕、春、來り、秋、去(い)ぬる。雁〔(がん)〕・鳬(かも)と表裏爲〔(た)〕り。其の飛び翔(かけ)るや、甚だ捷(はや)く、直〔(ただち)〕に翻(かへ)り、仰(あをむ)きても亦、能く飛ぶ。他鳥の能はざる所なり。故に、鷹・鷂、敢へて敵せず。人家に往來して、窠(すづく)る處を求む。人、之れを覺(さと)り、藁を束(つか)ね、徑〔(わた)〕り三、四寸許り、盤(さら)のごとくにして、豫(あらかじ)め、巢の形(なり)に作り、家内の棟の下に縋(つりさ)げて、之れを與〔(あた)〕ふ。則ち、燕、喜んで、巢を營(つく)える。凡そ、一たび、巢を營るの家は、歳歳〔(としどし)〕、忘失せずして、來たる。其の窠の固く密なること、言ふべからず。泥を用ひて髮の毛或いは稈-心(〔わら〕しべ)を和〔(ま)〕ぜ、宛(さなが)ら、堊塗(しつくい)のごとし。其の智、巧婦鳥(みそさゞい)に勝れり。雌雄、交代(かはるがはる)、餌を啣(ふく)み、來たりて之れを哺(〔は〕ぐく)むる。其の雛、稍〔(やや)〕長ずれば、則ち、巢の端に出でて、落つべくして、而〔も〕、落ちず。潜〔(ひそか)〕に之れを視るに、髮毛、有り、雛の脚を繫ぐ。又、日を經て、當に飛び去るべき時に至れば、則ち、母鳥、繫ぐ所の毛を斷つ。亦た、奇なり。既に飛び去りて後、復(ま)た、皆、來りて、頡(とびあが)り、頏(とびさが))り、廻-旋(めぐ)りて謝禮する狀〔(かたち)〕のごとくにして去る。

一つの窠、故〔(ゆゑ)〕無くして、雛、皆、死す有り。是〔(ここ)〕於いて、其の口の中を見るに、麥の禾(のぎ)・松の刺(はり)等、有り。蓋し、此れ、母鳥、死して、後の母鳥の所-爲(しわざ)なり。徃徃〔(わうわう)〕、此くのごとくなる者を見る、と云云〔(うんぬん)〕。

 蛇、有り、燕の雛を吞む。復た來りて、將に吞まんとして、却つて、蛇、巢の下に堕ち、腹、裂けて斃〔(し)〕す。之れを閲〔(けみ)す〕るに、一〔(いつ)〕の縫針(ものぬひばり)、有り。鋒(さき)を倒〔(さかさ)〕にして、巢の口に樹(た)つ。燕が智、恠〔(あや)〕しむに堪へたり。而も、其の針、何〔(いづく)〕の處より獲〔(え)〕たるや。

[やぶちゃん注:スズメ目ツバメ科ツバメ属ツバメ Hirundo rustica。古名「つばくらめ」「つばくろ」は、「土食(つちく)み」からとも、「光沢のある照り輝く黒い鳥」を意味する「土喰黒女(つばくらめ)」(「つば」が「光沢のあること」、「クラ」が「黒」、「め」が「すずめ」「かもめ」などの「群れる鳥」を指す接尾語)ともするようだが、よく判らぬ。漢字の「燕」はツバメの飛翔する様を象った象形文字である。以下、ウィキの「スズメ」より引く。『北半球の広い範囲で繁殖する。日本では沖縄県でも繁殖する。日本で繁殖するツバメの主な越冬地は台湾、フィリピン、ボルネオ島北部、マレー半島、ジャワ島などである』。全長は約十七センチメートル、翼開長は約三十二センチメートル。『背は光沢のある藍黒色で、喉と額が赤い。腹は白く、胸に黒い横帯がある。尾は長く切れ込みの深い二股形』を呈する。『翼が大きく、飛行に適した細長い体型である。脚は短く歩行には不向きで、巣材の泥を求めるとき以外は地面に降りることはめったにない』。『鳴管が発達しており、繁殖期になると』、オスは「チュビチュビチュビチュルルルル」と『比較的大きなさえずり声で鳴く。日本語ではその生態を反映して「土食て虫食て口渋い」などと聞きなしされる。さえずりは日中よりも早朝から午前中にかけて耳にする機会が多い』。『飛翔する昆虫などを空中で捕食する。また、水面上を飛行しながら』、『水を飲む』。『一部、日本国内で越冬する個体があり、しばしば「越冬ツバメ」と呼ばれる。特に中日本から西日本各地で越冬し、そのような場合、多くは集団で民家内や軒下などで就塒(しゅうじ)する。日本で越冬している個体が日本で繁殖したものであるのか、それともシベリアなど』、『日本より北方で夏に繁殖したものであるのかはよく分かっていない』。『泥と枯草を唾液で固めて巣を造る。ほとんど人工物に造巣し、民家の軒先など人が住む環境と同じ場所で繁殖する傾向が顕著である。これは、天敵であるカラスなどが近寄りにくいからだと考えられている』。『民家に巣を作る鳥は他にスズメ等がいるが、あえて人間が多い場所に見えるように作る点で』、『他の鳥と大きな差異が見られる』。『巣は通常は新しく作るが、古い巣を修復して使用することもある。産卵期は』四~七月頃で、一腹卵数は三~七。『主にメスが抱卵する。抱卵日数は』十三~十七日で、『その後の巣内での育雛日数は』二十~二十四日。一『回目の繁殖の巣立ち率は概ね』五十%『程度と推定される』。一『回目繁殖に成功したつがいあるいは失敗したつがいのうち、詳細は不明であるが、相当数のつがいがその後』二『回目』、或いは、『やり直しの繁殖をする。雛(ヒナ)を育てている間に親鳥のうちどちらか一方が何らかの理由で欠けると、つがい外のツバメがやってきて育てているヒナを巣から落して殺してしまう行動が観察されている』バードリサーチのツバメかんさつ全国ネットワークのブログ「ツバメブログ2」の「6. ツバメの子殺し」に詳しい。そこには後から孵化した巣に来た別の若いツバメが雛を皆殺しにするショッキングな動画へのリンクがある。自然界ではハヌマンラングールのにも見られる、それほどレアなことではないが、実際に見ると私でも昨今の児童虐待がオーバー・ラップしてしまい、鬱々となった。視認はくれぐれも自己責任で)。『一方で、つがいの内メスが欠けた場合なのかどこからともなく複数の他のツバメが集まり、その中から選ばれたように一羽ツバメが新たなつがい相手となって、子育てを継続するさまも観察されている』。『巣立ちを終えたヒナと親鳥は』、『河川敷や溜池(ためいけ)の葦原(よしはら)などに集まり、数千羽から数万羽の集団ねぐらを形成する。小規模ではあるが、繁殖前や繁殖に参加していない成鳥も集団ねぐらを形成する』。『日本においては、水稲栽培において穀物を食べず害虫を食べてくれる益鳥として古くから大切にされ、ツバメを殺したり巣や雛に悪戯をする事を慣習的に禁じ、農村部を中心に大切に扱われてきた。江戸時代にはツバメの糞は雑草の駆除に役立つと考えられていた。「人が住む環境に営巣する」という習性から、地方によっては、人の出入りの多い家、商家の参考となり、商売繁盛の印ともなっている。また、ツバメの巣のある家は安全であるという言い伝えもあり、巣立っていった後の巣を大切に残しておくことも多い』とある。荒俣宏「世界博物大図鑑」の第四巻「鳥類」(一九八七年平凡社刊)の「ツバメ」によれば(ピリオド・コンマを句読点亥代えた)、英語の「swallow」はドイツ語のツバメを表わす「Rauchshwalbe」の「shwalbe」『シュワルベと同語源で、この鳥を指す古英語 swalwe による』とあり、『スカンディナビアの伝説によると、ツバメはキリスト臨終のさいに、〈Swala! Swala!(慰めよ! 慰めよ!)〉と叫びながら、十字架の周囲を飛びまわった。そこでこの鳥に swalow(慰めの鳥の意)の名がついたという』とある。

「鷙鳥〔(してう)〕」前記の荒俣氏の「世界博物大図鑑」の「ツバメ」によれば、『鷙鳥(しちょう)は荒々しい鳥を示すが、これは』本文にあるように、『タカがこの鳥を食べると死ぬとか、クマタカ』(タカ科クマタカ属クマタカ Nisaetus nipalensis。因みに日本はクマタカの最北の分布域で、北海道から九州に留鳥として棲息し、森林生態系の頂点に位置して「森の王者」とも呼ばれる)『を制するといわれたことによる』とある。

「游波」同じく荒俣氏のそこに『波を立て』、『雨を祈るとされた能力』をツバメが持つと信じられたことによるとある。後で出る通り、和名にも「あまどり」があるが、これも「天鳥」(荒俣氏は『天に棲む鳥という説もある』とされる)というよりも、『この鳥が鳴きながら飛ぶと』、『雨が降ることから雨を占う鳥と解するのが有力である』とある。

(はさ)める口」物を挟むのに都合よく出来た嘴。

「布〔(し)〕く翅〔(つば)〕さ」布を綺麗に敷き延ばしたような翼。

「向宿〔(かうしゆく)〕す」自分の塒(ねぐら)へ向かって、スマートに素早く飛び帰って行く。

「戊巳(つちのえみ)の日を避く」「本草綱目」の記載なので如何とも謂い難いが、巳は五行の「土」であることと彼らが土を捏ねた泥で営巣することと何か関係があるかも知れない。次の「社日」との関連からも「土」地神や産「土」神(うぶすな)との連関性が感じられもする。さらに、この日は弁才天の縁日とされるが、弁財天の使者は「蛇」であるから、これは大いに忌む可能性があるやも知れぬ。

「春の社〔(しや)〕の日」ウィキの「社日」によれば、社日(しゃにち)は雑節の一つで産土神(うぶすな:生まれた土地の守護神)を祀る日で、春と秋にあり、それぞれかく呼ぶ。起原は古代中国に由来し、「社」は「土地神」の意である。春分又は秋分に最も近い「戊(つちのえ)の日」が社日となる。但し、戊と戊の、丁度、中間に春分日・秋分日が来る場合(つまり、春分日・秋分日が癸(みずのと)の日となる場合)は、春分・秋分の瞬間が午前中ならば、前の戊の日、午後ならば、後の戊の日とする。またこのような場合は、前の戊の日とする決め方もあるという。『この日は産土神に参拝し、春には五穀の種を供えて豊作を祈願し、秋にはその年の収獲に感謝する。また、春の社日に酒を呑むと耳が良くなるという風習があり、これを治聾酒(じろうしゅ)という。島根県安来市社日町などが地名として残っている』とある。則ち、春のそれは立春後の第五番目の戊(つちのえ)の日となる。今年二〇一八年は三月十七日であった。

「秋の社の日」立秋後の第五番目の戊(つちのえ)の日。今年二〇一八年は九月二十三日であった。

「屋宇」屋根。

「氣を伏して」活動の生気を抑制して。

「其れ、海を渡る」残念ながら、正しいのです、時珍先生。

「常盤國〔(とこよのくに)〕」「常世の国。東洋文庫版は同義の『ときわのくに』とルビ。

「燕の巢に、艾〔(よもぎ)〕有れば、則ち、居らず」ヨモギの薬効成分(葉や枝先を乾燥したものを生薬で「艾葉(ガイヨウ)」と称する。味は苦・辛で、性は温。葉には精油が含まれ、その主成分はシネオール(cineol)・ツヨン(α-thujone)など。主に女性の不正出血・月経過多・痔の出血・皮下出血などに効能があるとされる。一方、外用として灸に用いられえう「もぐさ」はヨモギの葉の裏の綿毛を集めたもので、成分は蠟分・トリコサノール(tricosanol)・カプリン酸(capric acid)・パルミチン酸(palmitic acid)・ステアリン酸(stearic acid)などの脂肪酸の混合物が知られる。ここは「武田薬報web」のこちらの記載を参照した)を燕が嫌うんでしょうが、しかし、誰が置くんすか? 時珍先生?

「貉(むじな)」「本草綱目」の記載であるから、哺乳綱食肉目イヌ型亜目クマ下目イタチ小目イタチ上科イタチ科アナグマ属アジアアナグマMeles leucurus。本邦でも「貉(むじな)」は概ねアナグマを指が、本邦産種は固有種ニホンアナグマ Meles anakuma となる。中国の狐や貉が燕を視認してしまうと、忽ち前身の毛が脱毛するというのには、何らかの理由があったはずだが、不詳。識者の御教授を乞う。知られた出典としては、唐の段成式(八〇三年~八六三年)の撰になる「酉陽雑爼」(八六〇年頃成立)の「続集」の第十六巻「広動植之一」に、

   *

燕、凡狐白貉鼠之類、燕見之則毛脱。或言燕蟄於水(一曰「月」)底。舊説燕不入室、是井之虛也。取桐爲男女各一、投井中、燕必來。胸班黑、聲大、名胡燕。其巢有容匹素練者。

   *

である。これを見るに、強力な呪力を持つ鳥と考えられていたことが判る。以下の鷹(現行ではタカ目タカ科 Accipitridae に属する鳥の内でも比較的小さめのものを指す通称)・鷂(はいたか:タカ目タカ科ハイタカ属ハイタカ Accipiter nisus。ハイタカは「鷹」に含まれる)の必死のケースも同じ。

「蛟龍〔(こうりよう)〕」中国の想像上の龍のプレ形態で、未だ竜にならない蛟(みずち)を指す。水中に潜み、時を得て、雲や雨に遇うことで、天上に昇って龍になるとされる。

「物の理、然(しか)らしむるなり」万物の道理のしからしむるところである、って、どこが、どう? 時珍先生?

「胡燕(みやまつばめ)」良安が『和名、「阿萬止里〔(あまどり)〕』と言っているから、普通のツバメの個体変異であろうと最初は思った(実は後の本文の『俗に云ふ「深山燕」なり』は「本草綱目」にはないので、どうもここは割注を誤ったもので、これも良安の附言のようである)のだが、CEC公式サイトの「徒然野鳥記の「ツバメ」でちゃんと別種として存在することが判った。これはツバメ属コシアカツバメ(腰赤燕)Hirundo daurica である。ウィキの「コシアカツバメより引く。アフリカ大陸中部・ユーラシア大陸・スリランカ・日本・フィリピンに分布し、夏季にヨーロッパ南部・中央アジア・ウスリー『などで繁殖し、冬季になると』、『東南アジアやインド』。『中華人民共和国南部へ南下し』、『越冬する』。『日本では』、『夏季に』、『繁殖のため』に『九州以北(主に本州中部以西)に飛来する(夏鳥)』。『日本国内の繁殖地は北へ拡大傾向にあ』り、『四国や九州で越冬する個体もいる』。全長は十七~二十センチメートル、翼開長は三十三センチメートル。『最外側尾羽が非常に長い(燕尾型)』。『上面は光沢がある黒い羽毛で被われる』。『腰は赤褐色』『やオレンジ色』『で、和名の由来になっている』。『下面は羽軸に沿って黒褐色の斑紋(軸斑)が入る白や淡褐色を帯びた白い羽毛で被われ、縦縞が入っているように見える』。『下腹は赤褐色』『や淡いオレンジ色、尾羽下面の基部を被う羽毛(下尾筒)は黒い』。『嘴は黒い』。『後肢の色彩は褐色』。『幼鳥は尾羽が短く、上面の羽毛の外縁が淡色』。十一もの亜種に分かれるとある。『市街地』『や農耕地などに生息する』。『繁殖地ではねぐらを作らず、繁殖後も渡りの時期まで巣をねぐらとして用いる』。『食性は動物食で、主に昆虫を食べる』。『集団営巣する傾向がある』。『崖や民家の軒下、橋桁などに土と枯れ草で固めた出入り口が細長い徳利や壺状の巣を作る』。『このため』、『トックリツバメと呼ばれている地方もある』。『日本では』五~八月に四~五個の『卵を産む』。『抱卵期間は』十四~二十日で、『雛は孵化してから』二十三~二十五『日で巣立つ』とある。

「二匹の絹を容(い)るゝ」「匹」は日本の「疋」の元で、古代中国に於いて使われた長さの単位。一匹は約九・四メートル。ちょっと大き過ぎや、しませんか? 時珍先生?(ここれは「本草綱目」の「集解」に出るのである)

「白燕」不詳。ツバメのアルビノであろう。

「京房」東洋文庫では訳本文に『京房(易占)』とし、巻末の書名注に「京房(けいぼう)易占」として『『隋書』経籍志にある『周易』か。十二巻。漢の京房撰。易学の解説書。京房には『京房易伝』三巻があるが、現存のものは『漢書』五行志に数多く引用される『京房易伝』とは文が一致しないといわれる』とある。

「貴女を生ずることを主〔(つかさど)〕る」世に貴女が生まれることを予兆する。

「人の神氣」ヒトの精神力と採っておく。

「夫木」「爲家」「きさらぎのなかばに成ると知りがほに早くも來けるつばくらめかな」定家の次男藤原為家(建久九(一一九八)年~建治元(一二七五)年)の一首であるが、「夫木和歌抄」を所持しないので校訂出来ない。濁点や送り仮名は東洋文庫版を参考にした。

「堊塗(しつくい)」漆喰。消石灰に海藻のフノリやツノマタなどの粘着性物質と、麻糸などの繊維を加え、水でよく練り合わせたもの。砂や粘土を加えることもある。壁や天井などを塗る。但し、「しつくい」は「石灰」の唐音であり、「漆喰」は当て字である。

「巧婦鳥(みそさゞい)」スズメ目ミソサザイ科ミソサザイ属ミソサザイ Troglodytes troglodytes前項を見よ。

「髮毛、有り、雛の脚を繫ぐ。又、日を經て、當に飛び去るべき時に至れば、則ち、母鳥、繫ぐ所の毛を斷つ」一応、調べたが、このような巧みな習性はない。実際に雛はしばしば落下する。

「既に飛び去りて後、復(ま)た、皆、來りて、頡(とびあが)り、頏(とびさが))り、廻-旋(めぐ)りて謝禮する狀〔(かたち)〕のごとくにして去る」良安先生? 何だか、この「燕」の項、とても楽しそう書いてません? いえいえ! 最後の蛇退治といい、すこぶる民俗学的叙述で、トッテもいいです!!!

「一つの窠、故〔(ゆゑ)〕無くして、雛、皆、死す有り。是〔(ここ)〕於いて、其の口の中を見るに、麥の禾(のぎ)・松の刺(はり)等、有り。蓋し、此れ、母鳥死して、後の母鳥の所-爲(しわざ)なり」古典の好きな継子いじめ譚であるが、継母というのは誤りであるものの、後釜のが殺害する(動画を見たが、突き殺した上で引きずり出して落としている)ことは、既に引用の中間部に示した。]

和漢三才圖會第四十二 原禽類 巧婦鳥(みそさざい) (ミソサザイ)

Misosazai

みそさゝい      鷦鷯 女匠

たくみどり      桃蟲【詩經】 蒙鳩

ささき        黃脰雀 襪雀

巧婦鳥

           【和名太久美止里又云佐佐木】

キヤウフウニヤ

 

本綱生蒿木間居藩籬上狀似黃雀而小灰色有斑聲如

吹噓其喙如利錐取茅葦毛毳爲巢大如雞卵而繫之以

麻髮至爲精密懸於樹上或一房二房故曰巢林不過一

枝毎食不過數粒小人畜馴教其作戲也

按鷦鷯形狀如上説而脚黑微赤其窠以髮繫之以麻

 之精密如刺襪然故有襪雀巧婦等之名而和名抄

 鷦鷯【佐佐木】巧婦鳥【太久美止里】如爲二物者非也【今俗云美曽佐佐伊】

 仁德天皇諱號大鷦鷯【降誕日此鳥以入於宮殿】和州洞籠川山中

 多出雛城州岩間攝州有馬亦有之今人家養之形極

 小而聲大也性畏寒難育

肉【甘溫】 炙食甚美令人聽明

巢 燒灰酒服治膈噎神驗

 

 

みそさゞい      鷦鷯〔(せうれう)〕

たくみどり      女匠

さざき        桃蟲【「詩經」。】

           蒙鳩

           黃脰雀〔(かうとうじやく)〕

           襪雀〔(ばつじやく)〕

巧婦鳥

           【和名、「太久美止里」、

            又、「佐佐木」と云ふ。】

キヤウフウニヤ

 

「本綱」、『蒿木〔(こうぼく)〕の間に生じ、藩-籬(まがき)の上に居〔(きよ)〕す。狀、黃雀(あくち〔すずめ〕)に似て小さし。灰色にして斑有り。聲、吹-噓〔(くちぶえ)〕のごとく、其の喙〔(くちばし)〕、利き錐(きり)のごとく、茅(かや)・葦(よし)の毛-毳〔(にこげ)〕を取りて巢を爲〔(つく)〕る。巢、大いさ、雞卵のごとくにして、之れを繫(つな)ぐに、麻〔(を)〕・髮を以つてし、至つて精密と爲〔(つく)〕り、樹の上に懸く。或いは、「一房・二房〔なれば〕、故に林に巢〔つくれども〕一枝に過ぎず」と曰ふ。毎〔(つね)〕は食〔ひても〕、數粒に過ぎず。小人、畜(か)ひ馴(な)れて、其の戲〔(ぎ)〕をして作〔(な)〕さしむるなり』〔と〕。

按ずるに、鷦鷯、形狀、上説のごとくにして、脚、黑く、微赤。其の窠、髮を以つて之れを繫(つな)ぎ、麻(を)を以つて之れを〔(ぬ)ふ〕。精密なりこと、襪(たび)を刺(さ)すがごとく、然り。故、「襪雀」「巧婦」等の名、有り。而るに「和名抄」に「鷦鷯(さゞき)」【「佐佐木」。】「巧婦鳥(たくみどり)」【「太久美止里」。】二物と爲〔(す)〕るがごときは、非なり【今、俗に「美曽佐佐伊」と云ふ。】。仁德天皇の諱〔いみな)〕を「大鷦鷯(〔おほ〕さざき)と號(がう)す【降誕の日、此の鳥、宮殿に入るを以つてなり。】。和州洞籠(どろう)川の山中に、多く、雛を出だす。城州の岩間・攝州の有馬にも亦、之れ有り。今、人家に之れを養ふ。形、極めて小さくして、聲、大なり。性、寒を畏れて、育(そだ)て難し。

肉【甘、溫。】 炙り食ふ。甚だ美〔なり〕。人をして聽明ならしむ。

巢 灰に燒き、酒にて服す。膈噎〔(かくいつ)〕を治す〔こと〕、神驗あり。

[やぶちゃん注:スズメ目ミソサザイ科ミソサザイ属ミソサザイ Troglodytes troglodytes。現行、本邦でも「鷦鷯」と漢字表記する。ウィキの「ミソサザイ」によれば(下線太字やぶちゃん)、ヨーロッパ・アフリカ北部・西アジア・中央アジアからロシア極東部・東南アジア北部・中国・台湾・朝鮮半島・日本・北アメリカ西部及び東部で『繁殖し、北方で繁殖した個体は冬季南方へ渡る』。『日本では留鳥として、大隅諸島以北に周年』、『生息している。亜高山帯〜高山帯で繁殖するとされているが、亜高山帯には属さない宮崎県の御池野鳥の森では繁殖期にも観察されており、繁殖していると思われる』。『繁殖期の一部の個体は、秋〜春先にかけては低山帯や平地に降りて越冬する(漂鳥)』。全長は約十一センチメートル、翼開長でも約十六センチメートルで、体重も七~十三グラムしかない。和名は『溝(谷側)の些細』な『鳥が訛ってミソサザイと呼ばれるようになったとする説がある』。『全身は茶褐色で、体の上面と翼に黒褐色の横斑が、体の下面には黒色と白色の波状横斑がある』(雌雄同色)。『体つきは丸みを帯びており、尾は短い。よく短い尾羽を上に立てた姿勢をとる』。『日本の野鳥の中でも、キクイタダキ』(スズメ目キクイタダキ科 Regulidae キクイタダキ属キクイタダキ Regulus regulus)『と共に最小種のひとつ』で、『常に短い尾羽を立てて、上下左右に小刻みに震わせている。属名、種小名troglodytesは「岩の割れ目に住むもの」を意味する』。『茂った薄暗い森林の中に生息し、特に渓流の近辺に多い』。『単独か番いで生活し、群れを形成することはない。繁殖期以外は単独で生活する』。『早春の』二『月くらいから囀り始める習性があり、平地や里山などでも』二『月頃に』、『その美しい囀りを耳にすることができる。小さな体の割には声が大きく、高音の大変に良く響く声で「チリリリリ」とさえずる』引用で音声が聴ける。私は彼の囀りが好きだ)。また、『地鳴きで「チャッチャッ」とも鳴く』。『同じような地鳴きをするものにウグイス』(スズメ目ウグイス科 Cettiidae ウグイス属ウグイス Horornis diphone)『がいるが、ウグイスの地鳴きと比べ』、『明らかに金属的な鋭い声で「ジジッ」と聞こえる』。『ミソサザイの地鳴きを聞いたことがある人なら、聞き間違えることはないほどの相違点がある。秋〜早春、場所によっては両種が同じ環境で生活しているため、初めて聞く人にとって、両種の特定には注意が必要である』。『食性は動物食で、昆虫、クモ類を食べる』。『繁殖期は』五~八月で、四個から六個の『卵を産む。抱卵日数は』十四~十五日で、十六~十七日『で雛は巣立つ。一夫多妻制』『でオスは営巣のみを行い、抱卵、育雛はメスが行う』。『ミソサザイは、森の中のがけ地や大木の根元などにコケ類や獣毛等を使って壷型の巣を作るが』、『他の鳥と異なり、オスは自分の縄張りの中の』二『個以上の巣を作り、移動しながら』、『さえずってメスを誘う』。但し、『オスが作るのは巣の外側のみで』、『実際の繁殖に使用されるものは、作られた巣の内の』一『個のみであり、巣の内側はオスとつがいになったメスが完成させる』。『また、巣自体にも特徴があり、通常の壷巣は出入口が』一『つのみであるが、ミソサザイの巣は、入口と出口の双方がそれぞれ反対側に設計されている。抱卵・育雛中の親鳥が外敵から襲われると、中にいる親鳥は』、『入り口とは反対側の出口から脱出するといわれている』とある。『日本では古くから知られている鳥で、古事記・日本書紀にも登場する』。『なお、古くは「ササキ」であったが』、『時代が下』ると、『「サザキ」または「ササギ」「ミソササギ」等と言った。冬の季語とされている』。『江戸時代の俳人小林一茶が』文化元(一八〇四)年に詠んだ句に、

 みそさゞいちつというても日の暮(くる)る(「文化句帖」)

 みそさゞちゝといふても日が暮る(「文政版一茶発句集」)

 みそさゞちゝといふても日は暮る(「版本題叢」)

がある(「文化句帖」の「いう」はママ。ここは岩波文庫「小林一茶句集」を参考に独自に異形句をも表記をした)。また、宝永七(一七一〇)年の『蘇生堂主人による鳥の飼育書』である「喚子鳥」』(よぶこどり)『にもミソサザイの描写があるされている』。『西欧各国の民間伝承においてはしばしば「鳥の王」とされ』、『各国語における呼称も君主や王の意を含んだ単語が用いられる。グリム童話の』「みそさざいと熊」では『「鳥の王さま」と呼ばれていた』。『また、ヨーロッパコマドリ』(スズメ目ヒタキ科(ツグミ科とも)ヨーロッパコマドリ属ヨーロッパコマドリ Erithacus rubecula)『と対になって現れることも多い。かつては、ヨーロッパコマドリがオス、ミソサザイがメスだと考えられており、「神の雄鳥」「神の雌鳥」として伝承中では夫婦とされていた。また、イギリスではヨーロッパコマドリが新年の魂を、ミソサザイが旧年の魂を宿しているとして、クリスマスや翌』十二月二十六日の「聖ステファノの日」(St. Stephen's DayFeast of Saint Stephen:キリスト教で最初の殉教者(protomartyr)とされる彼聖ステファノを記念するもの)『に「ミソサザイ狩り」が行われていた』。『森の王に立候補したミソサザイが、森の王者イノシシの耳の中に飛び込んで、見事にイノシシを倒したものの、だれも小さなミソサザイを森の王とは認めなかったという寓話が有名である』。『また、ミソサザイはアイヌの伝承の中にも登場する。人間を食い殺すクマを退治するために、ツルやワシも尻込みする中でミソサザイが先陣を切ってクマの耳に飛び込んで攻撃をし、その姿に励まされた他の鳥たちも後に続く。最終的には』アイヌの英雄神サマイクルも『参戦して荒クマを倒すという内容のもので、この伝承の中では小さいけれども立派な働きをしたと、サマイクルによってミソサザイが讃えられている』とある。

「蒿木〔(こうぼく)〕」東洋文庫版はこれに『あれくさ』とルビする。確かに「木」を高い意味に採ればもしゃもしゃに荒れて生え茂った叢の意となろうが、そもそもは「蒿」は「高く茂った草」の意であるから、これはやはり文字通り、「高く茂った草の茂みや林」の意であろう。以下の叙述やミソサザイの習性からもそう採るべきと私は思う。

「藩-籬(まがき)」人工的に作った垣根・囲い。「藩」にはその意味がある。

「黃雀」「黃雀(あくち〔すずめ〕)」読みは先行する「雀」に良安が振った者に従った。そこで注したように、これは特定の雀種を指すのではないと思われる。「あくち」とは、雀に限らず、鳥の雛の嘴の付け根の黄色い部分を指す(「日葡辞書」に掲載。語源説は「粟口」「開口」「赤口」等。開いた口中は赤く見えるから、孰れも腑には落ちる)から、ここは雀(或いはその近縁種)の雛の意であろう。

「吹-噓〔(くちぶえ)〕」中国で詩を、口を尖らして口笛を吹くように、声を長く引いて詠むことを「嘯」(音「セウ(ショウ)」「長嘯」と呼び、それを本邦では「嘯(うそぶ)く」と訓ずることは周知の通りだが、まさに中国語のそれも、まさにこう別表記出来るというのは、私には意外であった。今日の勉強の一つとなった。

「毛-毳〔(にこげ)〕」現行では専ら、鳥獣や人や乳児の柔らかい産毛(うぶげ)を指すが、広義に柔らかな毛をも指す。

「麻〔(を)〕・髮」後の「髮」はミソサザイの実際の棲息域を考えれば、「人の髪の毛」と限定するものではなく、「獣の毛髪」と考えるべきであろうから、「麻」も人工的に製した繊維のそれではなく、アサの茎の皮の植物繊維を突き出したものと採るべきかと思う。

「一房・二房〔なれば〕、故に林に巢〔つくれども〕一枝に過ぎず」注冒頭の引用後半の下線太字部を読むに、彼らが林の中で巣を使用しない他巣を含め複数作ることから考えると、実際の巣(或いはその他の未使用の巣をも含めた)を中心としたテリトリーを広範に持っている可能性が考えられ、さすれば、この「本草綱目」の謂いは、実は至極当たっているのではないかと思った。

「毎〔(つね)〕は食〔ひても〕、數粒に過ぎず」引用の通り、ミソサザイの『食性は動物食で、昆虫、クモ類を食べる』とあるから、単品の穀類を食べないのは当たり前である。

「小人、畜(か)ひ馴(な)れて、其の戲〔(ぎ)〕をして作〔(な)〕さしむるなり」子どもが駕籠で飼い馴らして、芸を覚えさせて遊んだりする。

「襪(たび)を刺(さ)す」「襪」は和訓で「しとうず」と読み、絹や錦の二枚の足形の布を縫い合わせて作られた靴下である。足袋のような底や「こはぜ」はなく、上方につけた二本の紐で結び合わせる。奈良から平安時代の礼服(らいふく)・朝服などに各種の沓(くつ)とともに用いられた。中国唐代の「襪(べつ)」が伝わり、これを「シタクツ」と呼んだが、それが「シタグツ」(下沓)の音便で「シタウズ」から「シトウズ」となった。「和名類聚鈔」には『襪 和名「之太久豆」。足衣也』とある(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。但し、ここは良安の謂いで「たび」とルビしているのだから、「足袋を縫い製する」の意でよい。

『「和名抄」に「鷦鷯(さゞき)」【「佐佐木」。】「巧婦鳥(たくみどり)」【「太久美止里」。】二物と爲〔(す)〕る』「和名類聚鈔」の「巻十八 羽族部第二十八 羽族名第二百三十一」に続けて、

    *

巧婦 兼名苑注云巧婦【和名太久美止里】好割葦皮食中虫故亦名蘆虎

鷦鷯 文選鷦鷯賦云鷦鷯【焦遼二音和名佐々木】小鳥也生於蒿萊之間長於藩籬之下

    *

とある。

「仁德天皇の諱〔いみな)〕を「大鷦鷯(〔おほ〕さざき)と號(がう)す【降誕の日、此の鳥、宮殿に入るを以つてなり。】」「日本書紀」の仁德天皇元(三一三)年正月の条に、

   *

元年春正月丁丑朔己卯。大鷦鷯尊卽天皇位。尊皇后曰皇太后。都難波。是謂高津宮。卽宮垣・室屋弗堊色也。桶・梁・柱・楹弗藻飾也。茅茨之蓋弗割齊也。此不以私曲之故、留耕績之時者也。』初天皇生日。木菟入于産殿。明旦、譽田天皇喚大臣武内宿禰。語之曰。是何瑞也。大臣對言。吉祥也。復當昨日、臣妻産時。鷦鷯入于産屋。是亦異焉。爰天皇曰。今朕之子與大臣之子、同日共産。竝有瑞。是天之表焉。以爲、取其鳥名。各相易名子。爲後葉之契也。則取鷦鷯名。以名太子。曰大鷦鷯皇子。取木菟名號大臣之子。曰木菟宿禰。是平群臣之始祖也。是年也。太歳癸酉。

   *

とある。IKUOサイト「自然フォトエッセイ」の「ミソサザイ」でこの命名を考察されておられる。写真やミソサザイの解説も素敵だ。必見。

「和州洞籠(どろう)川」現在の奈良県吉野郡天川村洞川(どろがわ)。(グーグル・マップ・データ)。大峯山・山上ヶ岳・女人大峯・稲村ヶ岳の登山口で、標高約八百二十メートルの高地の冷涼な山里。

「城州の岩間」現在の京都府福知山市岩間。(グーグル・マップ・データ)。由良川右岸の丘陵地。

「膈噎〔(かくいつ)〕」漢方では「噎」は「食物が喉を下りにくい症状」を指し、「膈」は「飲食物を嚥下出来ないこと」「一度は喉を通っても後で再び嘔吐する症状」を指す。精神的な嚥下不能から喉の炎症、アカラシア(achalasia:食道アカラシア。食道の機能障害の一種で、食道噴門部の開閉障害若しくは食道蠕動運動の障害或いはその両方によって飲食物の食道通過が困難となる疾患)や咽頭ポリープによるもの、更には食道狭窄症や逆流性食道炎、重いものでは咽頭癌・食道癌や噴門部癌や胃癌も含まれると思われる。]

和漢三才圖會第四十二 原禽類 野鵐(のじこ) (ノジコ)

Nojiko

のじこ  草雀

野鵐

    【俗云乃之古

     蓋野鵐和訓

     下畧而

     通用乎】

 

△按野鵐似青鵐而小頭青黄色淡而鮮明翅全似青鵐

 而有黄赤與黑縱斑觜黃白脚細而淡赤黃色性安靜

 

 

のじこ  草雀

野鵐

    【俗に「乃之古」と云ふ。

     蓋し、「野鵐〔(のしとと)〕」の

     和訓を下畧して通用せるか。】

 

△按ずるに、野鵐は青鵐〔(あをじ)〕に似て小さく、頭、青黄色にて、淡くして鮮明なり。翅は全く青鵐(あをじ)に似て、黄赤と黑との縱斑有り。觜、黃白〔きじろ)〕く、脚、細くして淡赤黃色。性、安靜なり。

[やぶちゃん注:ノジコ Emberiza sulphurata。和名の漢字表記は「野路子」「野地子」「野鵐」で、現在の中国語の漢名は「硫黃鵐」「野鵐」「繡眼鵐」。ウィキの「ノジコによれば(太字下線やぶちゃん)、分布は中華人民共和国南東部・台湾・日本・フィリピン北部で、『夏季に本州北部で繁殖(夏鳥)し、冬季になると』、『中華人民共和国南東部、フィリピン北部へ南下し』、『越冬する』。日本の『本州西部以南では越冬する個体もいる』。『日本のみで繁殖する』。全長十三・五~十五センチメートル、翼開長は二十一センチメートル。『体上面には暗褐色、体側面には褐色』『や灰緑色の縦縞が入る』。『尾羽の色彩は黒褐色で、外側から』二『枚ずつの尾羽には白い斑紋が入る』。『中央尾羽の色彩は淡赤褐色で、羽軸に沿って黒褐色の斑紋(軸斑)が入る』。『翼の色彩は黒褐色で、羽毛の外縁(羽縁)は淡褐色。中雨覆や大雨覆の先端には白い斑紋が入り、静止時には』二『本の白い筋模様(翼帯)に見える』。『眼の上下に白い輪模様(アイリング)がある』。『嘴の色彩は青みがかった灰色』。『後肢の色彩は淡黄褐色』。『オスは頭部や体上面は黄緑色や灰緑色の羽毛で被われ』、『下面は黄色い羽毛で被われ』ている。『眼先は黒い』。『メスは頭部や体上面が淡褐色、下面が淡黄色の羽毛で被われ、眼先は淡褐色』。『アオジと非常に良く似ており、素人では見分けが困難である』。『繁殖期には標高』四百~千五百メートルにある、『開けた森林に生息する』。『食性は雑食で、昆虫、種子などを食べる』。『夏季は樹上で主に昆虫を、冬季は地表で主に種子を採食する』。『草の根元や地表から』二メートル『以下の高さにある低木の樹上に植物の茎や枯れ葉などを組み合わせたお椀状の巣を作り』、五~七月に、一回に二~五個(標準は四個)の『卵を産む』。『雌雄交代で抱卵し』、『抱卵期間は約』十四『日。雛は孵化してから』七~八『日で巣立つ』。『分布が限定的で』、『生息数も少ないと考えられて』おり、現在は絶滅危惧II類(VU)指定である。

「野鵐〔(のしとと)〕」の読みは蒿雀(あをじ)(アオジ)の私の「鵐〔(しとと)〕」の注を参照されたい。]

2018/10/19

和漢三才圖會第四十二 原禽類 蒿雀(あをじ) (アオジ)

Aoji

 

あをじ  青鵐【俗稱】

蒿雀

     【俗云阿乎之】

ハアウツヨッ

 

本綱蒿雀似雀青黑色在蒿間塞外彌多食之美於諸雀

草雀 三才圖會云似蒿雀身微綠色謂之草雀

【蒿者草之高者也郭璞曰春時各

 有種名至秌老成皆通呼爲蒿矣】

按蒿雀似鵐而帶青黃色故俗呼曰青鵐【阿乎之止止畧曰阿乎之】

 常棲山中秋冬出原野蒿篁間大如鵐及雀而頭青黃

 有縱紫斑眉頰稍黃白色上嘴眼邊眞黑胸脇淡黃有

 黑斑翅有黃赤與黑縱斑紋腹淡黃脚脛赤指爪淡白

 性急聲亦短小【鵐見下林禽】

[やぶちゃん注:「」=「馬」+「喿」。]

肉【甘溫】 燒存性能止血有神効又能解毒治食傷

 

 

あをじ  青鵐〔(せいふ)〕【俗稱。】

蒿雀

     【俗に「阿乎之」と云ふ。】

ハアウツヨッ

 

「本綱」、蒿雀は雀に似て、青黑色。蒿間(くさむら)に在〔(あ)〕り、塞の外(そと)には彌(いよいよ)多し。之を食ふに諸雀よりも美なり。

草雀 「三才圖會」に云はく、『蒿雀に似て、身、微〔(すこ)〕し綠色。之れを「草雀」と謂ふ』〔と〕。

【「蒿〔(カウ)〕」とは、草の高き者なり。郭璞〔(かくはく)〕が曰はく、『春の時は、各〔(おのおの)〕種名有〔るも〕、秌〔(あき)〕に至りて老成〔せば〕、皆、通〔じて〕呼びて「蒿」と爲す』〔と〕。】

按ずるに、蒿雀は鵐〔(しとと)〕に似て、青黃色を帶ぶ。故に、俗、呼んで「青鵐〔(あをじ)〕」と曰ふ【「阿乎之止止〔(あをのしとど)〕」、畧して「阿乎之」と曰ふ。】。常に山中に棲み、秋冬、原野の蒿篁〔(くさむら)〕の間に出づ。大いさ、鵐及び雀のごとくにして、頭、青黃〔に〕縱の紫斑有り。眉・頰、稍〔(やや)〕黃白色。上嘴(うはくちばし)・眼の邊り、眞黑。胸・脇、淡黃〔に〕黑斑有り。翅、黃赤と黑との縱斑の紋、有り。腹、淡黃。脚・脛、赤く、指・爪、淡白。性、急-(さはがし)く、聲も亦、短く小さし【「鵐」は「林禽」下を見よ。[やぶちゃん注::「」=「馬」+「喿」。最後の割注は「下」の位置が不審で、ここに限り、勝手な訓読を行った。]】

肉【甘、溫。】 燒きて、性を存〔(そん)〕ぜし〔は〕、能く血を止む〔るに〕神効有り。又、能く毒を解し、食傷を治す。

[やぶちゃん注:本邦で普通に見かけるのは、スズメ目スズメ亜目ホオジロ科ホオジロ属アオジ亜種アオジ Emberiza podocephala personata。漢字表記は「青鵐」「蒿鵐」「蒿雀」。中文サイトでは漢名を「灰頭鳥」とし、異名として「黑臉鵐」「青頭雀」「蓬鵐」「青頭鬼兒」等がある。「ウィキの「アオジ」によれば、インド北部・中華人民共和国・台湾・朝鮮民主主義人民共和国・日本・ネパール・ブータン・ロシア南東部に分布し、夏季に中華人民共和国・ロシア南東部・朝鮮半島北部で『繁殖し、冬季になると』、中華人民共和国南部・台湾・『インドシナ半島などへ南下し』、『越冬する。日本では亜種アオジが北海道や本州中部以北で繁殖し、中部以西で越冬する。また』、『少数ながら』、『基亜種』シベリアアオジEmberiza spodocephala spodocepha『が越冬(冬鳥)や渡りの途中(旅鳥)のため、主に本州の日本海側や九州に飛来する』。全長十四~十六・五センチメートル。体重十六~二十五グラム。『上面は褐色の羽毛で覆われ、黒い縦縞が入る。中央部』二『枚の尾羽は赤褐色。外側の左右』五『枚ずつは黒褐色で、最も外側の左右』二『枚ずつは白い』。『上嘴は暗褐色、下嘴の色彩は淡褐色。後肢の色彩は淡褐色』。『オスは眼先や喉が黒い』。本邦の亜種アオジは『下面が黄色い羽毛で覆われ、喉が黄色い。オスの成鳥は頭部は緑がかった暗灰色で覆われ、目と嘴の周りが黒い』。『和名のアオは緑も含めた古い意味での青の意でオスの色彩に由来する』。『青色の鳥類の和名にはオオルリ、ルリビタキなどのように瑠璃色が用いられている』。『漢字表記の「蒿」はヨモギの意。メスの成鳥は緑褐色の羽毛で覆われ、上面が緑褐色の羽毛で覆われる。色合いなどはノジコ』(ホオジロ属ノジコ Emberiza sulphurata。次に独立項「野鵐」として出る)『に似ており、素人では見分けが困難である』。基亜種のシベリアアオジEmberiza spodocephala spodocepha は、『下面が淡黄色の羽毛で覆われる。オスの成鳥は頭部と胸部が暗灰色の羽毛で覆われる。メスの成鳥は灰褐色の羽毛で覆われ、上面が灰色がかった緑褐色の羽毛で覆われる』。『開けた森林や林縁に生息する。非繁殖期には藪地などにも生息する。非繁殖期には群れを形成することもあるが、単独でいることが多い。用心深い性質で、草むらの中などに身を潜める』。『植物の種子や昆虫類を食べる。地上で採食する』。『地表や低木の樹上に植物の茎や葉を組み合わせたお椀状の巣を作り』、五~七月に一回に三~五個の『卵を産む。抱卵期間は』十四~十五日で、『雌が抱卵し、雛は孵化してから』十二~十三日で『巣立つ』。『雄は繁殖期に縄張りをもち、高木の上などの高所でさえずる』とある。私はアオジの鳴き声が好きだ。toriotomo氏のYou Tube の「アオジ゙のさえずり」の動画をリンクさせておく。

「蒿間(くさむら)」『「蒿」とは、草の高き者なり』とするのでそれでよいと思うが、「蒿」は別に狭義にキク目キク科キク亜科ヨモギ属ヨモギ変種ヨモギ Artemisia indica var. maximowiczii をも指す。因みに同種は現代中国語では「魁蒿」と漢名する。但し、後注下線太字部も参照。

「塞の外」国境の外。特に中国では「万里の長城」の北側を指し、本種が北方系種であることを考えると腑に落ちる。

「草雀」「蒿雀に似て、身、微〔(すこ)〕し綠色」ではお手上げ。上記のウィキの引用で判る通り、素人にはノジコ Emberiza sulphurata との見分けさえ困難であるとする。しかも述べた通り、次に「野鵐」として出る以上、これをノジコに同定比定するのは気が引け、寧ろ、基亜種シベリアアオジ Emberiza spodocephala spodocepha とする方がよかろうか、などと思案していたところが、次項の異名をふと見れば、「草雀」とある。良安先生、どういう料簡?

「郭璞が曰はく……」以下は「爾雅注疏」(全十一巻。西晋・東晋の学者郭璞(二七六年~三二四年)が注し、北宋の刑昺(けいへい)の疏(注に附けた更なる注釈のこと)に「爾雅」(漢代に成立した中国最古の字書。著者不詳)の注釈書。非常に優れたもので、後世、注疏の手本とされた)の巻八「釋草第十三」からの引用。中文ウィキソースで確認出来る。なお、同書の他の部分を「蒿」を検索して戴くと判るが、「蓬、蒿也」とする「説文」を引きつつも、「蒿」をヨモギに限定するのは誤りであり、丈の高い草を指すといった注がなされいるようだ。確かに「通〔じて〕呼びて「蒿」と爲す」はそれに相応しい。

「鵐〔(しとと)〕」「しとと」「しとど」はホオジロ属Emberiza のうち、本邦で普通にみられる幾種かに、限定的に古くからつけられた一般的な地方名。「シトト」或いは「シトド」と称する鳥について、「日本鳥学会」が定めた和名に当てはめてみると、「ホオジロ」(Emberiza cioides)・「アオジ」・「クロジ」(Emberiza variabilis)・「カシラダカ」(Emberiza rustica)が該当する。「シトド」と発音するケースは東北地方に多く、そのほかの地方では「シトト」が多い。次いで「アオジ」・「クロジ」「ノジコ」など、肉眼での野外識別が困難な個体を総称して「アオシトド」あるいは「アオシトト」とよぶ地方があり、「ホオジロ」を「アカシトト」、「クロジ」を「クロシトト」、「ミヤマホオジロ」(Emberiza elegans)を「ヤマシトト」と呼ぶ地方もあると、小学館「日本大百科全書」にあった。良安は「蒿雀」とこの「鵐」を別種としているのは、古い悪しき博物学の分類嗜好癖によるものである。

「性を存〔(そん)〕ぜし〔は〕」慎重に炙り焼いて、本来の蒿雀の肉の持つ漢方成分を破壊しないようにすれば、の意。]

古今百物語評判卷之四 第二 河太郞附丁初が物語の事

 

Gawatarou

  第二 河太郞(がはたらう)丁初(ていしよ)が物語の事

一人のいはく、「河太郞とはいかなるものを申(まうし)候哉(や)。某(それがし)が女房の在所、江州野州河(やすがは)の近所にて候が、その河邊(かはべ)に、子供の水をよぎ[やぶちゃん注:ママ。]して居申(ゐまうし)候内(うち)に、折々はみえ申さぬ事御座候を、河太郞のしはざのやうに申しならはし侍る。自らも、おぼれてながれ候はんと存候が、いかなるやらむ」と問(とひ)ければ、先生、評していはく、「河太郞も河瀨(かはをそ)の劫(こう)を經たるなるべし。河獺は正月に天を祭る事七十二候の一つにして、よく、魚をとる獸(けだもの)なり。狀(かたち)、ちいさき狗(いのこ)のごとく、四足(しそく)、みぢかく、毛色は、うす靑ぐろく、はだへは、蝙蝠(かうふり[やぶちゃん注:本巻は「早稲田大学図書館古典総合データベース」にある二種では欠損していて、原典を確認出来ないので、国文学研究資料館公式サイト内電子資料館」古今百物語評判」(お茶大学図書館本)当該頁を視認したが、確かにこうなっている。])のごとしと云へり。此物、變化(へんげ)せしこと、もろこしにもあり。丁初と云(いひ)し者、長塘湖(ちやうとうこ)の堤(つゝみ)を行(ゆき)しに、後(うしろ)より、しきりによぶ聲のおそろしく、身の毛よだちければ、あやしくかへり見るに、容顏(ようがん)たへなる女房、二八(にはち)[やぶちゃん注:十六歳。]あまりにして、靑ききる物を着て、靑き絹がさを、きたり。『いかさまにも變化の物ならん』と、足ばやに逃去(にげさ)りて、猶も、かへり見れば、彼(かの)女房、沼のなかにとび入(いり)て、大きなる河獺となれり。さて、絹がさや、きる物とみしは、蓮(はす)の葉にして、やぶれ散りたると、「太平廣記」にのせたり。これ、獺(をそ)のばけにしためしなれば、太郞も其一門なるべし。太郞といふは河邊に長(ちやう)じたる稱にこそ」と評せられき。

[やぶちゃん注:「河太郎」=河童も、私はかなりのフリークであるので、諸記事は雌河童にキスされた河童の嘴のように腐るほどある。私の電子化した怪奇談記事で最も古い(私の記事で、である)ものでは、「耳囊 卷之一 河童の事」で(「耳囊」には面白い(前のリンクのそれは残念ながら平凡)河童の話がわんさか載る)、変わり種では老女河童みたような報告である「谷の響 一の卷 四 河媼」(「谷の響(ひびき)」も河童関連が多い)、「怪奇大作戦」じゃないが、水棲人間ばりの「譚海 卷之二 下總國利根川水中に住居せし男の事」、水死体の凄絶リアリズムの「北越奇談 巻之一 河伯」などがある。纏まったものでは、「柴田宵曲 妖異博物館」のそれがよい。柴田も河童フリークで、特異的に実に同書で四章を河童に裂いている。「河童の力」「河童の藥」「河童の執念」「海の河童」で、これを通読すれば、まずは君も即席の河童研究家にはなれよう。他にも私は、芥川龍之介の「河童」のオリジナル・マニアック注釈芥川龍之介「河童」決定稿自筆原稿の電子化本文版火野葦平の単行豪華本「河童曼陀羅」の全電子化注など、数え上げれば、枚挙に暇がない。

「江州野州河(やすがは)」滋賀県を流れる一級河川野洲川。琵琶湖南端に南東方向から流れ込む。琵琶湖へ流入する河川の中では最長の長さを持ち、さても「近江太郎」の通称を持つ。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「自らも」問うている話者自身。

「河瀨(かはをそ)」哺乳綱食肉目イタチ科カワウソ亜科カワウソ属ユーラシアカワウソ亜種ニホンカワウソ Lutra lutra nippon 及び北海道産亜種Lutra lutra whileleyi。前者は昭和二九(一九五四)年頃までに絶滅(推定)後者も、昭和三〇(一九五五)年の捕獲を最後に絶滅(推定)した。河童が「河瀨の劫を經たる」ものが成った(獺を妖獣とする認識自体が古くからあり、棲息域の親和性の強さから、事実、獺変じて河童となるとする伝承は多い)のだとすれば、カワウソをヒトが絶滅させたことが明白な今、河童は、もう、いない。というより、河童を滅ぼしたのもヒトであるということだ。

「河獺は正月に天を祭る事七十二候の一つ」太陽の運行を元にした「二十四節気」(中国の戦国時代に季節のずれる太陰暦とは無関係に、季節を春夏秋冬の四等区分する暦のようなものとして考案された区分手法の一つ。太陽が移動する天球上の道である「黄道(こうどう)」を二十四等分したものである。黄道を「夏至」と「冬至」の「二至」で二等分し、さらに「春分」と「秋分」の「二分」で四等分し、それぞれの中間に「立春」・「立夏」・「立秋」。「立冬」の「四立(しりゅう)」を挟んで「八節」とすると、一節は四十五日となり、これを十五日ずつの三等分にすることで「二十四節気」とした)を、さらに約五日ずつで三等分して時候を表したものを「七十二候」と呼び、それをまた、五日ずつで分けて、「初侯」・「次候」・「末候」としたが、さて、「二十四節気」の第二である「雨水(うすい)」(陽気は地上に発して、雪から雨に変わり、根雪が溶け始めるが原義(実際には未だ積雪の只中であるが、『この時節から寒さも峠を越え、衰退し始める』とする解説が参考にしたウィキの「雨水」にはある。形式上の春の兆しのプレ・ポイントで、古くから農耕の準備を始める目安とされてきた)は正月中(通常は旧暦一月の内。現行では二月十九日頃)に始まり、期間としては次の節気である「啓蟄」前日までに当たる。その「雨水」の「初候」は同ウィキによれば、『土脉潤起(つちのしょう うるおい おこる):雨が降って土が湿り気を含む(日本)』とあり、その下に、古来、中国では『獺祭魚(かわうそ うおを まつる):獺が捕らえた魚を並べて食べる』とされたことを指す。所謂、「獺祭(だっさい)」で、これは寧ろ、人農耕開始の予祝行事として祖霊や神を祀って物を並べ供える様子を、獺が捕らえた魚を川岸に並べて祭りをしている見えたことに逆比喩(多くの解説はその逆を言っているのはヒトより永く生き、ヒトに滅ぼされた獺に対し、頗る失礼であると私は真面目に思うのである)した節気象徴の名である。

「狗(いのこ)」元隣は先行でもこのルビをこの漢字にしていて、厄介だ。「狗」なら「犬」、「いのこ」な「猪」。まあ、ここは獺の大きさと牙がないことから、犬或いは「い」ぬ「のこ」の意で採っておく。

「蝙蝠(かうふり)」「かはほり」「かうほり」が普通。近世初期以前には「こうぶり」とも呼んだようである。本邦で、最も一般的に我々に馴染みのそれは、

脊索動物門脊椎動物亜門哺乳綱獣亜綱真獣下綱ローラシア獣上目翼手(コウモリ)目小翼手亜(コウモリ)亜目ヒナコウモリ上科ヒナコウモリ科 Vespertilioninae 亜科 Pipistrellini 族アブラコウモリ属 Pipistrellus 亜属アブラコウモリ Pipistrellus abramus

である。何故なら、日本に棲息する中では唯一の住家性、人の家屋のみを棲み家とするコウモリだからである。私は実際には小学校を卒業して富山の高岡市伏木に移り住んで初めて、夕暮れとともに飛び交うコウモリを初めて見た。それが、彼らであった。

「丁初と云(いひ)し者……」「太平廣記」(小説集。宋の李昉 (りぼう) らの編。全五〇〇巻。九七八年成立)の巻第四百六十八の「水族五」の「丁初」に、

   *

呉郡無錫有上湖大陂、陂吏丁初、天每大雨、輒循堤防。春盛雨、初出行塘、日暮間、顧後有小婦人、上下靑衣、戴靑傘。追後呼、「初掾待我。」初時悵然、意欲留伺之、復疑本不見此、今忽有婦人冒陰雨行、恐必鬼物。初便疾行、顧見婦人、追之亦速。初因急走、去之轉遠。顧視婦人、乃自投陂中、汜然作聲、衣蓋飛散。視是大蒼獺、衣傘皆荷葉也。此獺化爲人形、數媚年少者也。【出「搜神記」。】

   *

とあるが、これはそこにある通り、東晋(三一七年~四二〇年)の干宝が著した志怪小説集「捜神記」の第十八巻が原典である。丁初は「陂吏」とあるから、堤防を管理する下役人で、「天每大雨、輒循堤防」とある通り、物見遊山で歩いていたのではなく、大雨の際の巡視をしていたのである。

「長塘湖」元隣はこれを湖の固有名のように使用しているが、原文の「上湖大陂」は無錫(むしゃく:現在の江蘇省無錫市)にあった上湖(位置や現在の名称(現存すれば)は不明)という湖の大きな「陂」=「塘」=堤(つつみ)の意である。

「絹がさ」「絹傘」。

「太郞といふは河邊に長(ちやう)じたる稱にこそ」太郎が長男の称であることに掛け、年を経たことを暗示させ、さらに彼らが川辺水中での生活に「長じ」ていた、抜きん出ていたことを添えるものであろう。]

2018/10/18

和漢三才圖會第四十二 原禽類 突厥雀 (サケイ)

Tadori

たとり  鳩 

突厥雀

     【和名多止利】

 

テッキユッツヨッ

 

本綱突厥雀生北方沙漠池大如鴿形似雌雉鼠脚無後

距岐尾羣飛飛則雌前雄後隨其行止此鳥從北來則大

唐當有賊莊周云此鳥愛其子忘其母

按切韻云小鳥似雉蓋突厥者韃靼之名彼地之鳥

 乎然和名抄既載和名則昔有之乎不知

 

 

たどり  鳩〔(たつきゆう)〕

 雉〔(こうち)〕

突厥雀

     【和名、「多止利」。】

 

テッキユッツヨッ

 

「本綱」、突厥雀は北方沙漠の池に生ず。大いさ、鴿〔(はと)〕のごとく、形、雌の雉〔(きじ)〕に似て、鼠〔(ねづみ)〕の脚、後〔(うしろ)の〕距〔(けづめ)〕、無し。岐なる尾。羣飛す。飛ぶときは、則ち、雌は前、雄は後。其の行-止(ふるま)に隨ふ。此の鳥、北より來るときは、則ち、大唐、當に、賊、有るべし〔と〕。莊周、云はく、「此の鳥、其の子を愛して、其の母を忘る」と。

按ずるに、「切韻」に云はく、『は小鳥にして、雉に似たり』〔と〕。蓋し、突厥(とつけつ)とは韃靼〔(だつたん)〕の名なり。彼の地の鳥か。然れども、「和名抄」に既に和名を載するときは、則ち、昔〔(むか)〕し、之れ、有りつるや、知らず。

[やぶちゃん注:中文ウィキを調べると、サケイ(沙鶏)目サケイ科サケイ属サケイ Syrrhaptes paradoxus(漢名「毛腿沙鶏」)の俗名に「沙鶏」「突厥雀」「寇雉」とある。ウィキの「サケイ」によれば、『中国北部から、モンゴル、中央アジアのカスピ海東岸までの内陸に生息する』。『通常は渡りをしないが、個体数が増えたときは』、『遠方まで飛ぶことがあり』、一九〇六年には『ヨーロッパに大群が訪れた。日本では迷鳥で』、十『例ほどの観察記録がある』。全長約三十八センチメートルで、『体は太り気味で』、『足が短い。翼は長く、先がとがっている。顔は澄褐色、体はやや灰色がかっている』。昭和四五(一九七〇)年に『南三陸町で保護され、その数日後に死亡した個体の標本を志津川愛鳥会親交会が所蔵していた。この標本は、山階鳥類研究所への寄贈が決まり』、二〇一一年四月『以降に移動させる予定だったが、東日本大震災で失われた』とある……津波に流された砂漠好きのの沙鷄よ……お前は今、一体……どこを渡っているのだい……

「池」東洋文庫版現代語訳では『地』とあるが、原典及び別版本で「池」とした。

『莊周、云はく、「此の鳥、其の子を愛して、其の母を忘る」と』

「切韻」隋の韻書。全五巻。六〇一年成立。反切(はんせつ:ある漢字の字音を示すのに、別の漢字二字の音を以ってする方法。上の字の頭子音(声母)と下の字の頭子音を除いた部分(韻母)とを合わせて一音を構成するもの。例えば、「東」の子音は「徳紅切」で「徳」の声母[t]と「紅」の韻母[]とによって[toŋ]とする類)によって漢字の音を表わし、百九十三韻を「平声(ひょうしょう)」・「上声(じょうしょう)」・「去声(きょしょう)」。「入声(にっしょう)」の四声に分類した書。陸法言・劉臻(りゅうしん)・顔之推・盧思道・魏彦淵・李若・蕭該・辛徳源・薛道衡(せつどうこう)の九人が、古今各地の韻書について議論した結果を、陸法言が系統的に整理した。原本は早く失われたが、敦煌から一部が発見されている。唐代、他の韻書を圧倒して、詩の押韻の基準に用いられ、その後、王仁昫(おうじんく)の「刊謬補欠切韻」、孫愐(そんめん)の「唐韻」等により増補し、北宋の陳彭年の「広韻」によって集大成された。これらは〈切韻系韻書〉と呼ばれ、中上古の中国語の体系や音韻を推定するための貴重な資料とされる(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。ここに出るように、辞書としての役割も持つ。

「蓋し」そもそもが。

「突厥(とつけつ)とは韃靼〔(だつたん)〕の名なり」「突厥」は、六世紀中頃から八世紀中頃まで、モンゴル・中央アジアを支配したチュルク族阿史那(あしな)氏の建てた遊牧国家。もとは柔然(じゅうぜん:四~六世紀、モンゴル高原に栄えたモンゴル系遊牧民族及びその国家。族長の社崘(しゃろん)が君主の称号である「可汗」を名乗った五世紀前半が最盛期。北魏と対立し、五五五年に、この突厥に滅ぼされた)の支配下にあったが、阿史那氏に土門(伊利可汗)が出るに及んで、強大となり、鉄勒諸部を従え、柔然から独立した。第三代の木杆可汗(もくかんかがん)に至って、柔然を滅ぼし,契丹・キルギスを破り、また西方ではエフタルをも破った。突厥の国家は中央部を大カガンが支配するほか、多くの小カガンが分立していたが、五八三年、西部を支配した西面可汗達頭は大カガンから独立、突厥は東西に分裂した。東突厥は暫くは強勢を誇ったが、その支配下にあった鉄勒諸部の反乱を受け、六三〇年に唐に帰属して一時消滅し、西突厥も、七世紀末に内紛で滅んだ。東突厥は七世紀末に阿史那骨咄禄(あしなこっとつろく)が出て、復興、自らイルテリシュ・カガンと称した。以後、数代にわたってモンゴルを支配したが、内紛を生じ、七四四年に鉄勒の一部であるウイグルに滅ぼされた(ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。一方、「韃靼」は、本来は、モンゴリア東部に居住したモンゴル系の遊牧部族タタールを指した中国側の呼称である。タタールは十一~十二世紀に於いて、モンゴリアでは最も有力な集団の一つであり、また、モンゴル族の中でも多数を占めていたという。このため、宋人はタタールを「韃靼」と呼んだが、それは拡大してモンゴリア全体を指す呼称としても用いられた。十二世紀末から十三世紀初めに、モンゴルにチンギス・ハーンが出現、モンゴル帝国が出現するに及んで、タタール集団の力は衰えた。従って、厳密には「突厥」はイコール「韃靼」であるわけではない

『「和名抄」に既に和名を載する』不審。私が調べた限りでは、「和名類聚鈔」に「突厥雀」や単独の種名として「多止利」は載らない。

「昔〔(むか)〕し、之れ、有りつるや、知らず」「昔からこの鳥は本邦に(「和名類聚鈔」が載せる以上は、そう理解するのがまずは自然)いた(と考えられていた)のであろうか。よく判らない」の意。]

和漢三才圖會第四十二 原禽類 紅雀 (ベニスズメ)

Benisuzume

べにすゝめ

 

紅雀

 

紅雀狀小於雀全身嘴脚皆紅而頭頸與腹畧黑翅羽亦

黑而有白點尾亦深黑其聲清而幽艷近世自外國來畜

之以爲奇而難育雌雄於樊中爲孕生卵亦一異也

白雀 本綱云有白雀緯書以爲瑞應所感

日本紀孝德天皇時白雀見田庄又自大唐使者持

 三足烏來又於麻山獲白雉獻之皆休祥也仍年號改

 爲白雉元年蓋白雀今不爲奇珍然純白者稀也柹白

 斑者間有之而畜之不時眩暈卒倒焉如人之癲癇然

 蓋白雀乃病乎

 墨客揮犀云雀出殼未羽時以蜜和飯飼之爲白雀

 

 

べにすゞめ

 

紅雀

 

紅雀、狀、雀より小さし。全身・嘴・脚、皆、紅にして、頭、頸と腹と、畧ぼ黑く、翅羽も亦、黑くして、白點、有り。尾も亦、深き黑。其の聲、清くして幽艷〔なり〕。近世、外國より來りて、之れを畜〔(か)〕ひ、以つて奇と爲す。而れども、育ち難〔(にく)〕し。雌雄、樊〔(かご)の〕中に於いて孕〔(はら)み〕を爲して、卵を生むも亦、一異なり。

白雀 「本綱」に云はく、『白雀、有り。緯書(いしよ)に「以つて瑞應を感ずる所なり」と爲す』と。

按ずるに、「日本紀」に、孝德天皇の時、白雀、田庄に見る。又、大唐より、使者、三足の烏〔(からす)〕を持ちて來れり。又、麻山〔(をのやま)〕に於いて白雉〔(しろきじ)〕を獲りて、之れを獻ずれば、皆、休祥(よきさが)なり。仍(より)て年號を改め、「白雉元年」と爲す。蓋し、白雀、今、奇珍と爲(せ)ず。然れども、純白なる者、稀なり。柹〔(かき)〕・白斑〔(まだら)〕の者、間(まゝ)、之れ、有り。而れども、之れを畜(か)ふに不時〔(ふじ)〕に、眩暈(げんうん)卒倒す。人の癲癇〔(てんかん)〕のごとく、然り。蓋し、白雀は、乃〔(すなは)〕ち、病ひか。

 「墨客揮犀〔(ぼつかくきさい)〕」に云はく、『雀、殼(から)を出でて、未だ、羽〔(はね)〕あらざる時、蜜を以つて飯〔(めし)〕に和〔(あへ)〕て之れを飼へば、白雀と爲る』〔と〕。

[やぶちゃん注:残念なことに、私は見たことがないが、かなり鮮やかな紅色と独特の斑模様を有する(これ。ウィキの「ベニスズメ」のもの)、スズメ目カエデチョウ科ベニスズメ属ベニスズメ Amandava amandava である。ウィキの「ベニスズメ」によれば、『広大な範囲に分布する汎存種で、北アフリカから中東を経てインド、中国南部を含む東南アジア全域にまで及んでいる』。『日本ではかご抜けした個体が野生化したものが定着している。日本以外にイベリア半島、フィリピン、ブルネイ、フィジー、プエルトリコ、およびハワイ諸島に移入され』、『定着している』とある。『メジロより一回り小さい。おそらく日本で流通している』、洋鳥としてのフィンチ(finch)類(外国産ベニスズメ・キンカチョウなどの小鳥類の総称)『のなかで最小と思われる』。『雌雄で体色が異なり、オスの生殖羽は頭部と胸腹面が鮮やかな鮮紅色で、背中から翼にかけては暗赤色。翼と尾は暗褐色で、体側から翼にかけて円形の白い点紋がある。ただし』、『このオスの生殖羽の鮮やかな赤い色彩は、飼育下においては年月を経る毎に黒化する傾向がある。繁殖期のオスは複雑な美しい声でよくさえずる』。『若鳥とメスは背面が暗褐色、胸腹面はクリーム色に近く、腰から上尾筒にかけて紅色がさす。雌雄ともに目からクチバシにかけて黒線がよぎり、クチバシは暗赤色、脚は黄紅色である』。『非繁殖期のオスは特徴的な鮮紅色が色褪せ』、『くすんだ感じになるので、販売されている個体には人工的に赤い着色を施したものが』、『時おり』、『見られる。オスだけでなく、メスや若鳥にも紅や緑といった無関係な人工着色を施すこともある』。『原産地では草原や水田が主な住みかであるが、日本で野生化したものは』、『主に河川敷のアシ原を』棲み家と『する留鳥である。原産地では雨季が繁殖期だが、飼育下においてはエサが足りていれば』、『いつでも繁殖する』。『日本において野生化した個体は、春から秋にかけ』て、『ススキやチガヤといった丈の高い草に営巣し』、『繁殖する。成鳥は単子葉植物の種子を主食とするが、繁殖期には昆虫を捕らえてヒナに与える。また冬には大群を形成する』。姿や鳴き声が美しいことから、十八世紀(一七〇一年は元禄十四年、一八〇〇年は寛政十二年)から、輸入されて飼われてきたとある。『日本で野外における繁殖が確認されたのは高度経済成長がはじまった』一九六〇年『頃からで』、一九七〇年代から一九八〇年代『頃には日本各地で繁殖が確認されたが、近年は激減したようである』。『野生では熱帯にしか分布しないが、寒さに対しても強いので』、『飼いやすい鳥である。なお』、『飼育下での繁殖が難しいのと、原産地で穀物害鳥として駆除されていることもあり、鳥インフルエンザで鳥類の生体輸入が原則禁止される以前は、日本で流通している個体はほぼ全て野生個体を捕獲したものであった』。『エサはブンチョウ、ジュウシマツに用いる四種混合でもよいが、アワ以外はあまり食べないので、アワをかなり多めに入れるとよい』。『つがいで飼うと』、『頻繁に産卵するが、抱卵期にメスが非常に神経質になり』、『オスを追い立てるので、狭いかごでの』巣引き(累代飼育のこと)は、『まず間違いなく』、『失敗する。ジュウシマツを仮親とする方法も』、『ヒナの口が小さすぎて』、『給餌がうまくゆかず』、『無理で、ケージでの巣引きも』、『育雛期にはヒナの小さな口に合う昆虫といった生餌や、強いすり餌を必要とするため』、『エサの選択に神経を使う。アワなどの背の高いイネ科植物を植えた屋外の禽舎の中で飼育するのが、自ら植物を利用して巣づくりをし、生餌も禽舎の中で自然発生したものを利用できるので、繁殖環境としては最も望ましい。いずれにしても』、『巣引きが難しい鳥である』。『かつては多くの個体が大量かつ安価に輸入・流通していたが、鳥インフルエンザの影響を受け東南アジアからの野鳥の輸入が途絶えたため、他のアジアンフィンチ同様』、『現在』、『ほとんど見ることができない。ヨーロッパでは飼い鳥として累代飼育もされているが、ヨーロッパの多くの国からも鳥の生体輸入が禁止されているため、近年』、『ペットショップなどで稀に売り出されるのは生体輸入が禁止されていないスペインもしくはベルギーで累代飼育された個体にほぼ限られており、価格も』『高級フィンチすら超える高価な飼い鳥になっている』とある。

「雌雄、樊〔(かご)の〕中に於いて孕〔(はら)み〕を爲して、卵を生むも亦、一異なり」当時、あらゆる鳥籠で飼育をした鳥好きの趣味人は、実は類題飼育を試みる者が殆どいなかったことを物語る感想と言える。

「白雀」ここに入れるべきではあるまい。スズメ目スズメ科スズメ属スズメ Passer montanus(本邦のそれは亜種スズメPasser montanus saturatus)やスズメ属ニュウナイスズメ Passer rutilans、或いは、スズメに似た形・色・大きさ及び生態を持った小鳥類のアルビノ(albino)である。動物学上は、メラニン (melanin:体表に存在する黒褐色又は黒色の色素で、哺乳類・鳥類・節足動物ではクチクラ層の内部に浸潤している)の生合成に関わる遺伝情報の欠損により、先天的にメラニンが欠乏する遺伝子疾患がある個体を指す。良安の最後の「蓋し、白雀は、乃〔(すなは)〕ち、病ひか」は正しいわけであるが、って言うか! 良安はここから後半全部を、本邦に於ける鳥類のアルビノ個体の解説に変質させてしまっている! これは、掟破りでっショウ! 先生!

「緯書」中国古代の聖賢の教えを述べた儒教経典である「四書」・「五経」・「十三経」(「易経」・「書経」・「詩経」/「礼記」「周礼」・「儀礼」/「春秋左氏伝」・「春秋公羊伝」・「春秋穀梁伝」/「論語」・「孝経」・「爾雅」・「孟子」)を経書(けいしょ)と呼ぶのに対するもので、本来は経書を説明するために作られた解釈書類を指すのであるが、その内容は経書の内容に附会させた、かなり怪しげな吉凶禍福や未来に対する予言の類いが頗る多い。前漢末から流行し、「易経」「書経」「詩経」「礼記」「春秋」「楽記」「孝経」に各一緯があり、それらを合せて「七緯」と称するものの、現在に伝わるものは、総て、完本ではない。

「瑞應を感ずる所なり」吉兆であることを現わす目出度い証しである。

『「日本紀」に、孝德天皇の時、白雀、田庄に見る……』先行する原禽類 白雉(しらきじ)の本文及び私の注を参照。白雉元(六五〇)年(事実は大化六(六五〇)年)二月の条(但し、改元は大化六年二月十五日(ユリウス暦六五〇年三月二十二日)である)に(下線太字やぶちゃん)、

   *

二月庚午朔戊寅。穴戸國司草壁連醜經、献白雉曰。國造首之同族贄。正月九日、於麻山獲焉。於是問諸百済君。百濟君曰。後漢明帝永平十一年。白雉在所見焉、云云。又問沙門等。沙門對曰。耳所未聞。目所未覩。宜赦天下、使悦民心。道登法師曰。昔高麗欲營伽藍。無地不覽。便於一所白鹿徐行。遂於此地營造伽藍。名白鹿薗寺。住持佛法。又白雀見于一寺田庄。國人僉曰。休祥。

   *

と出る。「田庄」(でんしょう)は荘園の異名。

「大唐より、使者、三足の烏〔(からす)〕を持ちて來れり」上の引用に続いて、

   *

又遣大唐使者。持死三足烏來。國人亦曰。休祥。斯等雖微。尚謂祥物。況復白雉。

   *

とある。

「麻山」東洋文庫版割注に『山口県美彌郡か』とある。現在の山口県美祢市附近。(グーグル・マップ・データ)。

「休祥(よきさが)」「休」には「良い」の意がある。「さが」は「性(さが)」と同源で、良い兆し。吉兆の意である。

「不時に」思いがけないさま。

「眩暈(げんうん)」めまい。

「墨客揮犀〔(ぼつかくきさい)〕」宋の彭乗撰になる詩話や遺聞を載せたもの。全十巻。巻二に、

   *

雀有色純白者有。尾白者搆巢人家多爲祥瑞、余曾見賃藥老人育白雀數枚、問何從得之、荅云雀方出殻未羽時以蜜和飯飼之乃然。

   *

とある。]

古今百物語評判卷之四 第一 攝州稻野小笹附呉隱之が事

 

 百物語評判卷之四

 

  第一 攝州稻野小笹(いなのおざゝ)呉隱之が事

某(それがし)たづね侍るは、「攝州伊丹(いたみ)と神崎(かんざき)とのあはいの、いなのと申す處に、方(はう)四、五間[やぶちゃん注:約七~九メートル四方。]なる笹原あり。是れ、和歌に詠ぜし『いなのさゝ原』の名殘(なごり)なるよしにて、其所の者、まうせしは、『たとへば、誰(たれ)にてものあれ、その竹をきりとる者候へば、たちまち、狂氣になりし事、數をしらず。其故、たゞ今は、其まはりに堀をほりをきて[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]、人のよらぬやうにいたし置きつ。「これ、『いでそよ』の歌、名歌なる故にや」と、人々、申しき』と、かたり侍る。此事、先年、有馬へ湯治仕りし時、うけ給はり候(さふらふ)て、今に不審に存じ候ふが、いかなる事にて候ふや」と問(とひ)ければ、先生のいへらく、「それがしも過(すぎ)にし比(ころ)、其所を通りしに、皆人、さやうに申(まうし)き。樣子をくはしく尋(たづぬ)れば、此地、むかし、『いなの寺(でら)』と申(まうす)古跡のよしにて候へば、伊丹はことに近き比まで、荒木一亂(いちらん)の刻(きざ)、戰場となりし故、何とぞ、其さくの邊(へん)に剛(がうきやう)なる侍の墓など候ゆへ、その氣、殘りて、不思議をなし候が、又、其邊に歸る狐など、住(すま)ゐして、かく、人をおそふなるべし。又は、何事もなき事なるを、古跡なれば、その竹をたやさじとて、かしこき人の申(まうし)をきしを、愚(おろか)なる土民などの折りたる時、かたへより、皆人、寄會(よりあひ)て、『汝、かのさゝをおりたるや、すは、狂氣ならん』などいはむ時に、もとより、おろかなる心ゆへ、自(おのづか)ら、其詞(ことば)にひかされて、血あがり、氣くるふ事、あるべし。たゞしき人の、いらで叶はぬときに折りとらんに、何の子細か候ふべき。もろこしにも、是に似たる事のあり。荊州(けいしう)に貪泉(たんせん[やぶちゃん注:ママ。「貪」には「タン」の音もある。])といふ水あり。此水をのめば、必ず、人毎(ごと)に、むさぼる心出來(いでき)て、慾心、ふかふなるよし、いひしかば、呉隱之といふ賢人、こゝろみに吞みしに、いよいよ心淸かりけり、とみえたり。『いなのお笹』もさる事にや侍らん」と評せられき。

[やぶちゃん注:「攝州伊丹稻野小笹」山本俊夫氏のブログ「我が町伊丹.jp」の「27 猪名野笹原」(地図有り)によれば、現在の伊丹市東有岡五丁目にある「東洋リノリューム株式会社」敷地内附近に比定される「猪名野笹原(いなののささはら)」である。山本氏が「説明プレート」を電子化されておられるので、以下に引用させて戴く(一部の表記の誤りとしか思えない部分については、bittercup氏のサイト「摂津名所図会」のこちら(後に出す「摂津名所図会」の「いなのさゝはら」の絵図のトリミング彩色画像もある)で電子化されている本文と校合して訂し、一部の行空けを省略、最後のクレジット以下は上に引き上げて示した)。

   《引用開始》

猪名野笹原旧蹟

 

   有馬山 ゐなの笹原風吹けば

    いでそよ人を忘れやはする

        小倉百人一首 大貳三位

 

   しなが鳥 猪名野を来れば有馬山

    夕霧たちぬ 宿りはなくて

        万葉集 巻七

 

万葉の時代からこの地一帯は猪名野と呼ばれ、笹の原野が拡がり、風にそよぐ笹原の風情は古くから旅人の詩情をかもしていたとみえ、数多くの古歌が残されています。

その後、荒涼とした笹の原野が次第に開墾されていく中で、一画の笹原が残され、人びとに猪名の笹原の旧蹟として伝えられてきたようで、正保二年(西暦1645年)頃の摂津国絵図の中にこの地が「いなの小笹」と記され、寛政十年(西暦1798年)頃の摂津名所図会には「猪名笹原」とあります。(図の左半分に小さく示されています)

今この庭にある笹は、学名ネザサと呼ばれ、植物学者室井 綽氏の御説により往時の笹を偲ぶよすがとして弊社が植付けたものです。

左側に植えられた笹は学名オカメザサと呼ばれるものです。有馬山の歌の笹をオカメザサとする学者もおられますので、御参考のため、併せて植えることにいたしました。

ところで、当地には明治二十四年から大正八年まで、綿糸に稲わら繊維を用い経糸に綿糸を用いた平敷織物である由多加織の工場がありましたが、現在ではこれを継承進展した東洋リノリューム株式会社が操業いたしております。

敷地の中には猪名の笹原に祭られていたお社を継承したといわれる笹原稲荷や(黄)金塚があり、弊社によって保存されています。

 平成元年121日 創業70周年記念日 造園

        東洋リノリューム株式会社

   《引用終了》

・本文でも「『いでそよ』の歌」と指し、ここで最初に掲げられている一首は「小倉百人一首」の五十八番歌で、出典は「後拾遺和歌集」巻十二 恋」(七〇九番)。

   かれがれになる男(をとこ)の、

   「おぼつかなく」などいひたるに

   よめる

 有馬山猪名(ゐな)の笹原風吹けばいでそよ人を忘れやはする

作者大貳三位(だいにのさんみ)は紫式部と藤原宣孝(婚姻後三年で死去)の娘である藤原賢子(かたいこ 長保元(九九九)年頃~永保二(一〇八二)年頃)。

・二首目は「万葉集」巻第七の「攝津((つのくに)にして作れる歌」(よみびと知らず)の冒頭の一首、

 しなが鳥猪名野を來れば有馬山夕霧たちぬ宿(やどり)はなくて

「しなが鳥」はカイツブリ目カイツブリ科カイツブリ属カイツブリ Tachybaptus ruficollis の古名かとされる。雌雄連れる相愛の鳥とされた。

・「摂津名所図会」「猪名笹原」は(国立国会図書館デジタルコレクションの当該頁画像)。電子化しておく。

   *

猪名笹原 昆陽寺(こやでら)の東、田圃(でんぽ)の中にあり。此(この)小篠[やぶちゃん注:「篠」はママ。後も同じ。](をざゝ)を每歳正月元旦に、開山行基像開扉(かいひ)の用具とす。或人曰く、此篠(をざゝ)はむかし佐藤繼信(つぐのぶ)箆竹(のだけ)をこゝに立て置きしが、枝葉(しえふ)繁茂すとなり。此人の苗孫(べうそん)今に昆陽村にあり。

   *

ここに出る「佐藤繼信」(保元三(一一五八)年~文治元(一一八五)年)は義経の忠臣として知られる武士。陸奥湯の荘司元治の子で、狐忠信の伝承で知られる彼の兄。源義経が藤原秀衡のもとにいた頃から弟忠信とともに義経に仕え、鎌田盛政・光政とともに「四天王」と称された。「屋島の戦い」で義経を庇って、平教経の矢面(やおもて)に立ち、討死にした。「箆竹(のだけ)」は「矢竹」、タケ亜科ヤダケ属ヤダケ Pseudosasa japonica のこと。茎の節と節との間が長いことから、古くから良質の矢柄として利用された。

 但し、先行する別項に「猪名笹原」の項もあり(電子化する)、

   *

猪名笹原(いなのさゝはら) 伊丹の南、街道の東に、方三間許の篠原あり。舊蹟の印に遺せしものならん。猪名野笹原、猪名野の惣號なり。

   *

とあり(ここ(同前))、絵図も附す()。位置的には、この後者の方がより現在位置にはしっくりくる。位置的には昆陽寺の東ではあるが、「摂津名所図会」の筆者が確信犯で別々に挙げている以上は、二つあると考えねばならぬ。結界とされる神聖性からは前者であるが、現行の比定地との関係と古跡として指示されてあるという点では、圧倒的に後者の方が自然である。

・「メザサ」は単子葉植物綱タケ亜科メダケ属アズマネザサ変種ネザサ Pleioblastus chino var. viridis。植物学的にはKatou氏のサイト「三河の植物観察」の「ネザサ」に詳しい。

・「オカメザサ」はタケ亜科オカメザサ属オカメザサ Shibataea kumasacaウィキの「オカメザサ」によれば、『日本原産であるが、野生種の発見は難しい。各地で栽培されている』とある。写真は、よしゆき氏のサイト「松江の花図鑑」の「オカメザサ」がよい。

「呉隱之」(?~四一三年)は東晋(三一七年~四二〇年)の名臣。永一直人氏の中国史愛好サイト「枕流亭」の「中国史人物事典」のこちらによれば、『字は処黙。濮陽郡鄄城の人。容姿が美しく、談論をよくし、文史に通じ、清廉で孝行なことで名声があった。韓康伯に引き立てられて、輔国功曹に任ぜられ、参征虜軍事に転じた。桓温に賞されて晋陵太守に累進し、中書侍郎・御史中丞・著作郎に上った。元興元』(四〇二)年、『広州刺史に任ぜられた。赴任途中に貪泉を過ぎ、そこで水を飲み、詩を賦して志を明らかにした。それが「酌貪泉賦詩」である。州にあってもますます清廉で、時弊を改めるのに力を尽くした』。同三年には、『盧循が広州を攻めたが、百日にわたって守り通した。城が破れて捕らえられたが、のちに釈放された。京師にもどって、度支尚書となり、中領軍に進んだ』とある。

「神崎」位置的に見て、伊丹の南東四キロ半ほどの位置にある現在の兵庫県尼崎市神崎町附近であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「いなの寺(でら)」「摂津名所図会」のこちら(同じく国立国会図書館デジタルコレクションの画像)に(視認電子化)、

   *

猪名寺(ゐなでら) 猪名寺村にあり。法園寺(ほふをんじ)といふ。古(いにしへ)は伽藍巍々たり。今(いま)古礎(こそ)あり。其中に方一間(けん)餘(あまり)の石あり。土人云ふ、大塔の礎(いしづゑ)なりとぞ。

 本尊藥師佛 行基の作。座像。長(たけ)二尺。初(はじめ)法道仙人大化年中に開創し、其後(そのゝち)行基こゝに止住(しぜう)して、諸堂莊麗たり。天正の荒木が兵火に罹(かゝ)りて灰燼(くわいじん)となり。今(いま)小堂一宇に天王祠(てんわうのほこら)あり。これを生土神(うぶすな)とす。

   *

ここに出る「法道」は本邦に伝わる伝説上の仙人僧天竺(インド)に生まれたが、紫雲にのって唐・百済を経て、日本に渡来し、播磨の法華山に棲んで、「法華経」を読誦し、密教の灌頂を修し、十一面観音信仰を伝え、孝徳天皇の病気を治したとされる。また、「飛鉢(ひばち)の法」を駆使して供物を集めたことから「空鉢(からはち)仙人」とも呼ばれた。さても、この寺、現在、真言宗猪名野山法園寺として、兵庫県尼崎市猪名寺にある。ウィキの「法園寺(尼崎市猪名寺)」によれば、『本尊は秘仏・薬師如来像で、平安時代後期の作』。『寺伝によると』、大化元(六四五)年、『インドの僧・法道が開創』、天平一三(七四一)年に『行基が中興し、孝徳天皇が七堂伽藍三廊四門を建立し』、『寺領八百八町を下賜したと伝えられる』。元亨元(一三二一)年の「元弘の乱」では『兵火に遭い、寺領・伽藍を失うも』、『再興』した。しかし、天正六(一五七七)年の『荒木村重と織田信長の戦いで』『完全に焼失した。その後、本尊が池から発見され』、宝暦七(一七五六)年、『小堂を再興、翌年』、本堂が建立されているとあるから、「摂津名所図会」のなんとなく侘しいそれは、これであることが判る。その後、明治六(一八七三)年、『無住のため』、『廃寺とな』ったが、明治十一年、『檀家の努力で再興された』とある。なお、『上記の寺伝や』「摂陽群談」によれば、『北隣にあったとされる大寺院・猪名寺と同一であったと思われる記述も見られる』ともある。

「荒木一亂(いちらん)の刻(きざ)み」「刻み」は「折り」。荒木村重(天文四(一五三〇五)年~天正一四(一五八六)年:利休七哲の一人で摂津伊丹(有岡)城主。池田氏から三好氏に属し、天正元(一五七三)年に織田信長に仕えた。同二年に伊丹城を乗取り、四方の諸城に一族を配して摂津一円を治めた。しかし、同六年、突如、信長に叛き、攻められ、翌年、居城を逃れて毛利氏を頼った。後、剃髪して道薫・道董を号し、豊臣秀吉に茶人として仕えて、おぞましくも命脈を保った)が信長に謀反を起こしたことに端を発する、「有岡城の戦い」。天正六(一五七八)年七月から翌天正七年十月十九日まで続いた籠城戦。城に残った荒木一族と重臣や家臣の妻子他、実に約六百七十名が凄惨に処刑されたことでも知られる。

「其邊に歸る狐」やや不自然。「人をおそふ」とあるから、「その辺り」を永(なが)の棲み家として「帰る」、年経る妖「狐」、の意で採っておく。

「たやさじ」「やさじ」。先の「摂津名所図会」の「猪名笹原」に「此小篠(をざゝ)を每歳正月元旦に、開山行基像開扉(かいひ)の用具とす」とあるのには、これは、よく適合する解釈である。

「いらで叶はぬときに」「要(い)らで」は」「叶はぬ時に」で、無くては済まされぬ、どうしても必要な折りに。

「何の子細か候ふべき」反語。何の差し障りなど、あろうはずが、ない。

「荊州(けいしう)に貪泉(たんせん[やぶちゃん注:ママ。])といふ水あり。……」「晉書」巻九十の「良吏傳」の「呉隱之傳」に、

   *

廣州包帶山海、珍異所出、一篋之寶、可資數世、然多瘴疫、人情憚焉。唯貧窶不能自立者、求補長史、故前後刺史皆多黷貨。朝廷欲革嶺南之弊、隆安中、以隱之爲龍驤將軍、廣州刺史、假節、領平越中郎將。未至州二十里、地名石門、有水曰貪泉、飮者懷無厭之欲。隱之既至、語其親人曰、「不見可欲、使心不亂。越嶺喪淸、吾知之矣。」。乃至泉所、酌而飮之、因賦詩曰、「古人云此水、一歃懷千金。試使夷齊飮、終當不易心。」。及在州、淸操踰厲、常食不過菜及乾魚而已、帷帳器服皆付外庫、時人頗謂其矯、然亦終始不易。帳下人進魚、每剔去骨存肉、隱之覺其用意、罰而黜焉。元興初、詔曰、「夫孝行篤於閨門、淸節厲乎風霜、實立人之所難、而君子之美致也。龍驤將軍、廣州刺史呉隱之孝友過人、祿均九族、菲己潔素、儉愈魚飧。夫處可欲之地、而能不改其操、饗惟錯之富、而家人不易其服、革奢務嗇、南域改觀、朕有嘉焉。可進號前將軍、賜錢五十萬、穀千斛。」。

   *

とあり、他の中文サイトの異なる書物のそれを調べても、皆、「廣州」であるから、「荊州」は元隣の誤認であろう。全文は気が重いので、太字部分だけを力技で訓読してみる。

   *

 未だ州に至らざること、二十里、地、ありて、「石門」と名づく。水、有りて、「貪泉(たんせん)」と曰ふ。飮む者は無厭(むえん)[やぶちゃん注:飽きることがない。]の欲(よく)を懷くとす。隱之、既に至りて、其の親しき人[やぶちゃん注:同行の付き人であろう。]に語りて曰はく、「欲せんとすべきものを見ざれば、心をして亂らざらしめん。『嶺を越さば、淸を喪ふ』とは、吾も之を知れり。」と。乃(すなは)ち、泉所に至り、酌みて之れを飮み、因りて、詩を賦して曰はく、

 古人云ふ 『此の水

 一(ひと)たび歃(すす)らば 千金を懷(いだ)く』と

 試みに 夷(い)・齊(せい)に飮ましむるとも

 終(つゐ)に當(まさ)に 心(こころ)易(か)はらざるべし

と。

   *

「夷・齊」は言わずもがな、「史記」列伝の巻頭を飾る、殷末の孤竹国の王子にして高名な礼節の隠者兄弟、伯夷(はくい)・叔斉(しゅくせい)のこと。]

古今百物語評判卷之三 第八 徒然草猫またよやの事附觀教法印の事 / 古今百物語評判卷之三~了

 

  第八 「徒然草」『猫またよや』の事觀教(くわんげう)法印の事

かたへの人の云はく、「『徒然草』に『ねこまた』といふ物あるよし、しるされたり。其外、此比(このごろ)にいたり、『彼(かし)こにもばけたり』『爰(ここ)にもおそろしき事ありし』など、風説、おほし。猫の化(ばく)る事の候ふやらん、不審(いぶかし)」と云ひければ、先生、いへらく、「古(いにしへ)は『ねこまた』と云へり。『ねこ』と云へるは、下を略し、『こま』と云へるは、上を略したるなるべし。『ねこまた』とは其(その)經(へ)あがりたる名なり。陰獸にして、虎と類せり。其故に『手飼(てがひ)のとら』などゝも云(いへ)り。唐土(もろこし)にても、猫のばけて、其主人を殺せし事、多くしるせり。其(その)むまれつきを見るに、智あるにもあらず、德あるにもあらず、其さま、膝にふし、はだへに馴れ、身を人にまかすか、と思へば、よぶ時は心よく來らず、繩(つな[やぶちゃん注:ルビはママ。])を以て引(ひく)時は、必ず、しりぞく。あながち、人にさかふとにもあらざめれど、自ら、ひがみ疑ふ心あり。女の性(しやう)に似たり。宜(むべ)なる哉(かな)、化(ばけ)て老女と成(なり)て人をたぶらかすと云(いへ)る事、猶、其肉の能(のう)は狸(たぬき)と通用せり。瞳の、十二時にかはりて、大小あるも、氣味わろし。況や、身の後(のち)だに皮(かは)の聲(こゑ)すらも、雅樂(たゞしきがく)をみだる調子あり。心すべき物にこそ。其うへ、常の猫にてさへ、鼠をとらしめむ爲に畜(か)ひをけども[やぶちゃん注:ママ。]、又、鼠より、さまたげある事、多し。たゞ飼はざらんにはしかじ。且、又、「著聞集」に、觀教法印、嵯峨の山庄(さんしやう)にて、から猫を飼ひしに、よく、玉(たま)を取りければ、祕藏の守刀(まもりがたな)を取出(とりいだし)て玉にとらせけるに、件(くだん)の刀をくはへて、何地(いづち)やらん、逃げ失せぬ。人々、尋求(たづねもとむ)れども、行きがた、知られずなりにき。此れ、『猫魔の變化(へんげ)なり』と、人々、沙汰し侍り、としるせり。兎角、怖しき物にこそ」。

[やぶちゃん注:『「徒然草」『猫またよや』の事』知られ過ぎた「徒然草」の第八十九段。

   *

 「奧山に、猫またといふものありて、人を食(くら)ふなる。」

と、人の言ひけるに、

「山ならねども、これらにも、猫の經(へ)あがりて、猫またになりて、人とる事はあなるものを。」

と言ふ者ありけるを、何(なに)阿彌陀佛とかや、連歌しける法師の、行願寺(ぎやうぐわんじ)の邊(へん)にありけるが、聞きて、

『ひとり步かん身は、心すべきことにこそ。』

と思ひけるころしも、ある所にて、夜(よ)ふくるまで連歌して、ただひとり、歸りけるに、小川(こがは)の端(はた)にて、音に聞きし猫また、あやまたず、足許へ、ふと寄り來て、やがて[やぶちゃん注:いきなり。]、かきつくままに、頸(くび)のほどを、食はんとす。膽心(きもこころ)も失せて、防がんとするに、力もなく、足も立たず、小川へ轉び入りて、

「助けよや、猫また、よやよや[やぶちゃん注:感動詞。強く呼びかける際に発する語。「おおい! おおい!」]。」

と叫べば、家々より、松どもともして、走り寄りて見れば、このわたりに見知れる僧なり。

「かは如何に。」

とて、川の中より抱(いだ)き起したれば、連歌の賭物(かけもの)取りて、扇・小箱など、懷に持ちたりけるも、水に入りぬ。希有(けう)にして助かりたるさまにて、はふはふ[やぶちゃん注:這うようにして。]、家に入りにけり。

 飼ひける犬の、暗けれど主(ぬし)を知りて、飛び付きたりけるとぞ。

   *

因みに、私はこれを中学二年の国語の授業で読まされたのを覚えている。その時、この糞擬似怪談を書いて悦に入っている兼好という男は、つくづくつまらぬ男だな、と思ったことを思い出す。私は第七段の「あだし野の露」の絶対無常観の辛気臭い表明(しかし兼好はそんなこと微塵も信じていなかったことは請け合う)や、百三十七段の「花は盛りに」の「大路みたるこそ、祭見たるにてはあれ」に例外的にシンパシーを持った以外には、糞知れ顔のそれを、笑ったことも、感心したこともない。寧ろ、同じ頃に、手にした芥川龍之介の「侏儒の言葉」の中に、

   *

       つれづれ草

 わたしは度たびかう言はれてゐる。――「つれづれ草などは定めしお好きでしせう?」しかし不幸にも「つれづれ草」などは未嘗愛讀したことはない。正直な所を白狀すれば「つれづれ草」の名高いのもわたしには殆ど不可解である。中學程度の教科書に便利であることは認めるにもしろ。

   *

を読んで、快哉を叫んだものだった。当時の私は既にフロイトの「精神分析学入門」や「夢判断」を耽読しており、こうしたあまりに単純な心理錯誤は、既にして、退屈の極みだったのである。

「猫又」については藤原定家の日記「明月記」の天福元(一二三三)年八月二日の条にも以下のように出る(国立国会図書館デジタルコレクションの「明月記」(版本)の画像のここを視認して起した)。

   *

夜前、自南京方來使者小童云、當時南都云猫跨獸出來、一夜噉七八人、死者多、或又打殺件獸、目如猫、其體如犬長云々。

(夜前、南京の方より、使者の小童、來たりて云ふ、「當時、南都に、猫跨(ねこまた)と云ふ獸(けもの)出で來て、一夜に、七、八人を噉(くら)ひ、死する者、多し、或るは又、件(くだん)の獸を打ち殺すに、目は猫のごとく、其の體は犬の長(たけ)のごとし」と云々。)

   *

「『ねこ』と云へるは、下を略し、『こま』と云へるは、上を略したるなるべし」源順の「和名類聚鈔」には「猫(ネコマ)」「祢古萬」とし、ネコの古名として掲げる。「こま」は小学館「日本国語大辞典」に、猫の『古名「ねこま」の略』とし、さらに、『猫の愛称としても用いられた』とする。また、千葉県の方言として『飼い猫につける』通用『名』ともある。ウィキの「猫又」も引いておこう。『猫又、猫股(ねこまた)は、日本の民間伝承や古典の怪談、随筆などにあるネコの妖怪。大別して山の中にいる獣といわれるものと、人家で飼われているネコが年老いて化けるといわれるものの』二種がある。『中国では』、『日本より古く』、隋代には『「猫鬼(びょうき)」「金花猫」といった怪猫の話が伝えられていたが、日本においては』先に示した定家の「明月記」の記事『が、猫又が文献上に登場した初出とされており、猫又は山中の獣として語られていた』。但し、以上の「明月記」の猫又の形態は、果たして猫の『化け物かどうかを疑問視する声もあり』、『人間が「猫跨病」という病気に苦しんだという』記述も別にあることから、『狂犬病にかかった獣がその実体との解釈もある』という。『江戸時代の怪談集である「宿直草」や「曽呂利物語」でも、『猫又は山奥に潜んでいるものとされ、深山で人間に化けて現れた猫又の話があり』(私の「宿直草卷四 第一 ねこまたといふ事」を参照。後者は、その私の注で先行する類話として指示した「曾呂里物語」の巻三の五「ねこまたの事」である)、『民間伝承においても山間部の猫又の話は多い』。『山中の猫又は後世の文献になるほど大型化する傾向にあり』、貞享二(一六八五)年の「新著聞集」で『紀伊国山中で捕えられた猫又はイノシシほどの大きさとあり』、安永四(一七七五)年の「倭訓栞(わくんのしおり)」では、『猫又の鳴き声が山中に響き渡ったと記述されていることから、ライオンやヒョウほどの大きさだったと見られている』文化六(一八〇九)年の「寓意草」で『犬をくわえていたという猫又は』全長九尺五寸(約二・八メートル)とする。『越中国』『で猫又が人々を食い殺したといわれる猫又山、会津』『で猫又が人間に化けて人をたぶらかしたという猫魔ヶ岳のように、猫又伝説がそのまま山の名となっている場合もある』。『猫又山については民間伝承のみならず、実際に山中に大きなネコが住みついていて人間を襲ったものとも見られている』。『江戸時代以降には、人家で飼われているネコが年老いて猫又に化けるという考えが一般化し、前述のように山にいる猫又は、そうした老いたネコが家から山に移り住んだものとも解釈されるようになった。そのために、ネコを長い年月にわたって飼うものではないという俗信も、日本各地に生まれるようになった』。『江戸中期の有職家・伊勢貞丈による』「安斎随筆」には『「数歳のネコは尾が二股になり、猫またという妖怪となる」という記述が見られる。また』、『江戸中期の学者である新井白石も「老いたネコは『猫股』となって人を惑わす」と述べており、老いたネコが猫又となることは常識的に考えられ、江戸当時の瓦版などでも』、『こうしたネコの怪異が報じられていた』。『一般に、猫又の「又」は尾が二又に分かれていることが語源といわれるが、民俗学的な観点からこれを疑問視し、ネコが年を重ねて化けることから、重複の意味である「また」と見る説や、前述のようにかつて山中の獣と考えられていたことから、サルのように山中の木々の間を自在に行き来するとの意味で、サルを意味する「爰(また)」を語源とする説もある』。『老いたネコの背の皮が剥けて後ろに垂れ下がり、尾が増えたり』、『分かれているように見えることが由来との説もある』。『ネコはその眼光や不思議な習性により、古来から魔性のものと考えられ、葬儀の場で死者をよみがえらせたり、ネコを殺すと』七『代までたたられるなどと恐れられており、そうした俗信が背景となって』、『猫又の伝説が生まれたものと考えられている』。『また、ネコと死者にまつわる俗信は、肉食性のネコが腐臭を嗅ぎわける能力に長け、死体に近づく習性があったためと考えられており、こうした俗信がもとで、死者の亡骸を奪う妖怪・火車と猫又が同一視されることもある』。『また、日本のネコの妖怪として知られているものに化け猫があるが、猫又もネコが化けた妖怪に違いないため、猫又と化け猫はしばしば混同される』。『江戸時代には図鑑様式の妖怪絵巻が多く制作されており、猫又はそれらの絵巻でしばしば妖怪画の題材になっている』。元文二(一七三七)年刊の「百怪図巻」など『では、人間女性の身なりをした猫又が三味線を奏でている姿が描かれているが、江戸時代当時は三味線の素材に雌のネコの皮が多く用いられていたため、猫又は三味線を奏でて同族を哀れむ歌を歌っている』、『もしくは一種の皮肉などと解釈されている』。『芸者の服装をしているのは、かつて芸者がネコと呼ばれたことと関連しているとの見方もある』。また、安永五(一七七六)年刊の鳥山石燕の「画図百鬼夜行」では(リンク先に画像有り)、『向かって左に障子から顔を出したネコ、向かって右には頭に手ぬぐいを乗せて縁側に手をついたネコ、中央には同じく手ぬぐいをかぶって』二『本脚で立ったネコが描かれており、それぞれ、普通のネコ、年季がたりないために』二『本脚で立つことが困難なネコ、さらに年を経て完全に』二『本脚で立つことのできたネコとして、普通のネコが年とともに猫又へ変化していく過程を描いたとものとも見られている』とある。

「『ねこまた』とは其(その)經(へ)あがりたる名なり」猫が年経て、妖獣となったとするものの名。

「唐土(もろこし)にても、猫のばけて、其主人を殺せし事、多くしるせり」確かにあると思うし、読んだ記憶あるが、即座にこれと示せない。思い出したら、追記する。まんず、私の「柴田宵曲 妖異博物館 ものいふ猫」でもお茶濁しにリンクさせておこう。やや不満ながら、清初の文人褚人穫(ちょじんかく)の随筆「堅瓠集(けんこしゅう)」に載る、それぞれ男に雌のそれが、女に雄のそれが憑いた場合は助からぬとある、浙江省金華(ハムで有名なあそこ)地方の妖猫怪「金華貓(きんかびょう)」は一つ、候補か。

   *

 金華貓精

聽、金華貓、畜之三年後、每於中宵、蹲踞屋土、伸口對月、吸其精華。久而成怪、入深山幽谷、朝伏匿、暮出魅人、逢婦則變美男、逢男則變美女。每至人家、先溺於水中[やぶちゃん注:小便をし。]、人飮之、則莫見其形。凡遇怪者、來時如人、日久成疾。夜以靑衣覆被土、遲明視之、若有毛、必潛約獵徒。牽數大至家捕貓、剝皮炙肉。以食病者方愈。若男病而獲雄、女病而獲雌、則不治矣。府庠張廣文有女、年十八、殊色也。爲怪所侵、發盡落、後捕雄貓始瘳。

   *

Masahiro Aibaraサイト「幻想世界神話辞典に最後の部分を除いて、訳が載る。

「其肉の能(のう)は狸(たぬき)と通用せり」薬餌としての漢方の公的なそれはよく判らぬが、ウィキの「猫食文化」によれば、『中国の両広(広東省および広西チワン族自治区)とベトナム北部では、冬にネコの肉を食べると身体が温まると考える人々がおり、特に高齢者の間で』猫食は『多い』。『中国では年に』四百『万匹の猫が食べられており、猫の消費は増加傾向にある』。『食べられる部位は胃腸とモモ肉で、後者は肉団子にして汁物に入れる。頭部と残りの身は捨てる。広東料理にはヘビを竜、ネコを虎、鶏を鳳凰に見立てた龍虎鳳(中国語版)という料理があり、強壮効果があると信じられている』。『現地の動物保護に詳しい弁護士によると、中国国内の猫肉取引は禁じられており』、二〇〇七『年の法律でも「国内で通常食されない食物」の取引には特別な許可が必要としている』が、『華南の飯店で出される猫肉は主に、許可を得たブローカーが安徽省や江蘇省から仕入れたものである』とある。但し、『中国ではペットとしてのネコの飼育が増えるにつれ、猫食文化への風当たりが強まり、抗議行動も起こるようになって』おり、『犬食や猫食に対する抗議運動』も増えているという。『日本では幕末までネコが食されることもあった』。『沖縄県では肋膜炎、気管支炎、肺病、痔に効果があるとされ、汁物仕立てにしたマヤーのウシルなどが食べられていた』。『朝鮮では、茹で肉から』、『神経痛や関節炎に効く強壮剤がつくられた』。『ベトナムではネコ肉を「幸運を呼ぶ」として提供する食堂があり、中国などからの密輸が増えている』とある。

「瞳の、十二時にかはりて、大小ある」サイト「子猫の部屋」の「猫の文化」の「猫の都市伝説」にある「猫の目を見れば時間がわかる」が、出典確認から検証まで完璧に行っておられ、必見要保存! 原拠は唐の段成式(八〇三年~八六三年)の撰になる「酉陽雑爼」(八六〇年頃成立)の「続集」の第八巻「支動」の以下。

   *

貓、目睛旦暮圓、及午豎斂如糸延。其鼻端常冷、唯夏至一日暖。其毛不容蚤虱。黑者暗中逆循其毛、卽若火星。俗言貓洗面過耳則客至。楚州謝陽出貓有褐花者。靈武有紅叱撥及靑驄色者。貓一名蒙貴、一名烏員。平陵城、古譚國也、城中有一貓、常帶金鎖、有錢飛若蛺蝶、士人往往見之。

(貓(ねこ)、目晴(もくせい)、旦(あさあ)けと暮れは圓(まろ)く、午(ひる)に及びて、堅く斂(おさ)まりて、糸を延ばすがごとし。其の鼻の端は常に冷え、唯だ夏至一日のみ暖かし。其の毛、蚤・虱(しらみ)を容(い)れず。黑きは、暗中、其の毛を逆さに循(な)づれば、卽ち、火の星のごとし。俗に言ふ、「貓、面(かほ)を洗ひて耳を過ぐれば、則ち、客、至る」と。楚州謝陽、褐花(かくわ)の有る猫、出づ。霊武に紅叱撥(こうしつはつ)及び靑驄(せいそう)の色の者、有り。貓、一名、「蒙貴(まうき)」、一名、「烏員(ういん)」。平陵城は古への譚國(たんこく)たり。城中、一貓(びやう)有り、常に金の鎖を帶び、錢(ぜに)有りて、蛺蝶(きようてふ)のごとく飛ぶ。士人、往往、之れを見たり。

   *

・「目晴」眼晴。眸。

・「黑きは」黑き貓は。

・「火の星のごとし」火花のようなものを発する。静電気か?

・「楚州謝陽」現在の江蘇省淮安(わいあん)。

・「褐花」「紅叱撥」「靑驄」よく判らぬが、毛の色とそこに現れた模様或いは特異な形態を含んだ一種の異種総称名のように思われる。

・「霊武」現在の寧夏回族自治区霊武県の西北に相当。

・「平陵城は」春秋時代の斉(せい)の邑(ゆう)。古城は現在の山東省歴城県の東にある。

・「譚」周代の国名。春秋時代に斉に滅ぼされた。

・「蛺蝶」立羽蝶(現行分類では鱗翅(チョウ)目アゲハチョウ上科タテハチョウ科 Nymphalidae)この猫、背に羽を持っていて飛ぶように見えたのであろう。先の引用にも、背の皮が剥けて後ろに垂れ下がるケースが出たが、私も、背部に奇形があり、まさペガサスの翼のようになった個体の動画を見たことはある。

「皮(かは)の聲(こゑ)」言わずもがな、三味線の皮となって、あの俗なる音を出すこと。

『「著聞集」に、觀教法印、嵯峨の山庄(さんしやう)にて、から猫を飼ひしに……」「老媼茶話巻之弐 猫魔怪」の私の注で電子化しているので、そちらを見られたい。なお、私の電子化したものの中の妖猫譚は枚挙に暇がない。他にも比較的長い話柄では「想山著聞奇集 卷の五 猫俣、老婆に化居たる事」等がある。しかし、猫の報恩譚もあり、私はそちらの方が好きだ。特にお薦めは、「耳囊 卷之九 猫忠死の事」の私の真正現代語大阪弁訳版である。未読の方は、是非、どうぞ! 関西弁ネイティヴの教え子の校閲も経たものである。]

2018/10/17

和漢三才圖會第四十二 原禽類 雀 (スズメ・ニュウナイスズメ)

Suzume

すゝめ   瓦雀 賓雀

      嘉賓

【音】

      【和名須須女】

ツヨッ

 

本綱雀小鳥羽毛斑褐頷觜皆黑頭如顆蒜目如擘椒尾

短而長二寸許故字從小隹隹【音錐短尾】爪距黃白色躍而不

步栖宿簷瓦之間馴近階除之際如賓客然故曰瓦雀賓

雀其視驚瞿其目夜盲其卵有斑其性最淫八九月群飛

田間體肥背有脂如披綿性味皆同可以炙食老而斑

者呼爲麻雀【末太良雀】小而黃口者爲黃雀【安久知雀】九月雀入大

水爲蛤雀不入水國多淫泆【若家雀則未常變化也】南海有黃雀魚

常以六月化爲黃雀十月入海爲魚則所謂雀化蛤者蓋

此類

肉【甘溫】正月以前十月以後宜食之【服白朮人忌之不可合李食之】

白丁香【苦溫微毒】雀屎也其屎底坐尖在上是雄兩頭圓者

 是雌屎臘月來得修治以可入藥【男子用雌屎女人用雄屎

 今試白丁香以屎形辨雌雄者未精

 凡雀起而屎則上尖居而屎則平圓】

  夫木ねやの上に雀の聲そすたくなる出立ちかたに夜やなりぬらん

按三才圖會云雀目昏盲故有人至昏不見物者謂之

 雀瞀凡雀貪食易捕老者狡黠難取性不能巢穿屋居

 之故謂之瓦雀

饒奈雀【正字名義未詳】 形小於雀也二分其頭背赤柹色腹白

 觜脚灰色其雌者頭背黄灰色腹嘴脚皆雄與同

 

 

すゞめ   瓦雀〔(ぐわじやく)〕

      賓雀〔(ひんじやく)〕

      嘉賓〔かひん)〕

【音、[やぶちゃん注:欠字。]】

      【和名、「須須女」。】

ツヨッ

 

「本綱」、雀は小鳥にして、羽毛、斑〔(まだら)〕にして褐。頷〔(あご)〕・觜、皆、黑し。頭は顆蒜〔(くわさん)〕のごとく、目〔は〕擘椒〔(はくしやう)〕のごとく、尾、短くして、長さ二寸許り。故に、字、「小隹」に從ふ。「隹」【音、「錐〔(スイ)〕」。短き尾なり。】。爪距〔(けづめ)〕、黃白色。躍りて步せず。宿の簷(のき)の瓦の間に栖み、階除〔(かいじよ)〕の際に馴れ近づき、賓客のごとく、然る故に「瓦雀」「賓雀」と曰ふ。其れ、視〔るに〕、驚瞿〔(きやうく)〕し、其の目、夜〔(よ)〕る、盲(みへ[やぶちゃん注:ママ。])ず。其の卵、斑、有り。其の性、最も淫なり。八、九月、田間に群飛す。體、して肥へ[やぶちゃん注:ママ。]、背に、脂〔(あぶら)〕有ること、綿を披〔(ひろ)ぐる〕がごとし。性・味、皆、同じ。以つて炙り食ふべし。老いて斑の者を呼んで「麻雀(まだら〔すずめ〕)」と爲す【「末太良雀」。】小にして黃なる口の者、「黃雀(あくち〔すずめ〕)」と爲す【「安久知雀」。】。九月、雀、大水に入りて蛤〔(はまぐり)〕と爲〔(な)〕る。雀、水に入らざれば、國に、淫泆〔(いんいつ)〕、多し【家雀のごときは、則ち、未だ常に變化せざるなり。】。南海に「黃雀魚」有りて、常に六月を以つて化して「黃雀」と爲る。十月、海に入りて、魚を爲るときは、則と、所謂〔(いはゆ)〕る、雀、蛤に化する者、蓋し、此の類なり。

肉【甘、溫。】正月以前、十月以後、之れ、食ふべし【白朮〔(びやくじゆつ)〕を服する人、之れを忌む。李〔(すもも)〕を合せて之を食ふべからず。】。

白丁香〔(はくていかう)〕【苦、溫。微毒。】雀の屎〔(くそ)〕なり。其の屎〔の〕底、坐〔(すわ)〕り、尖〔(とがり)〕は上に在り。是れ、雄なり。兩頭、圓き者、是れ、雌の屎なり。臘月に來たり得て、修治して、以つて藥に入るべし。【男子には雌の屎を用ひて、女人には雄の屎を用ふ。今、試みに、白丁香、屎の形を以つて雌雄を辨ずとは、未だ精〔(くは)し〕からず。凡そ、雀、起ちて屎すれば、則ち、上、尖る。居〔(すは)り〕て屎すれば、則ち、平圓〔なれば〕なり。】。

 「夫木」

   ねやの上に雀の聲ぞすだくなる

      出で立ちがたに夜やなりぬらん

ずるに、「三才圖會」に云はく、『雀の目、昏〔(ゆふぐれ)〕には盲(め)しいる。故に、有人、昏に至りて者を見ざる者、有り、之れを「雀瞀(とりめ)」と謂ふ。凡そ、雀、食を貪り、捕へ易し。老(ひね)たる者は、狡-黠(こざか)しくして取り難し。性、巢(すづく)ること、能はず。屋を穿ちて、之れに居〔(を)〕る。故に之れを「瓦雀」と謂ふ。

饒奈雀(にようない〔すずめ〕[やぶちゃん注:ママ。歴史的仮名遣は正しくは「ねうないすずめ」。])【正字・名義、未だ詳かならず。】 形、雀より小さし。二分ばかり。其の頭・背は赤柹色、腹、白く、觜・脚、灰色。其の雌なる者は、頭・背、黄灰色、腹・嘴・脚、皆、雄と同じ。

[やぶちゃん注:スズメ目スズメ科スズメ属スズメ Passer montanus(本邦のそれは亜種スズメPasser montanus saturatus)。余りに身近な鳥なので、引用はウィキの「スズメ」の分布域ににのみ留める。生態等、詳しくはリンク先を。『西はポルトガルから東は日本までユーラシア大陸の広い範囲に分布する』。但し、『北はあまり寒い地方にはおらず、北緯で言えば』六十『数度が北限である。またインドにはほとんどいない。ボルネオ島、スマトラ島、ジャワ島などの熱帯または亜熱帯の地域にも分布域がある』とある。荒俣宏「世界博物大図鑑」の第四巻「鳥類」(一九八七年平凡社刊)の「スズメ」の項によれば(コンマを読点に代えた)、属名 Passer(パスセル)は『小さな鳥一般を示し、ひいてはスズメそのものを指すようになった』とあり、『スズメという和名は、もとススミ(須々美)と』称し、それは、その『習性が〈おどり、すすみ行く〉ので、そうよばれたという(《日本釈名》)』(「日本釈名」江戸中期の語源辞書。貝原益軒著で元禄一二(一六九九)年成立(刊行は翌年)。後漢の劉熙の「釈名」に倣い、和語を二十三項目に分類して五十音順に配列し、語源を解説したもの)。また、『別の説に、スズメとは〈ササ(小さい)〉、またメはカモメやツバクラメ(ツバメ)と同じく鳥を示す古俗のよび方で、小さな鳥このことだという(《東雅》)』とある(「東雅」は江戸中期の語学書。新井白石著で享保二(一七一七)年成立。中国古代の字書「爾雅」に倣って、国語の名詞を十五の部門に分けて語源的解釈を施したもの)。

「顆蒜〔(くわさん)〕」東洋文庫版現代語訳では『つぶにんにく』とある。お馴染みの、単子葉植物綱キジカクシ目ヒガンバナ科ネギ亜科ネギ属ニンニク Allium sativum の根茎である。

「擘椒〔(はくしやう)〕」不詳。東洋文庫版現代語訳では『はくしょう』とルビするのみ。「擘」は「裂く」の意であるから、前の「顆蒜」に徴するならば、双子葉植物綱ムクロジ目ミカン科サンショウ属サンショウ Zanthoxylum piperitum の実を裂いて出した山椒の種子のことではあるまいか。

「尾、短くして、長さ二寸許り。故に、字、「小隹」に從ふ。「隹」【音、「錐〔(スイ)〕」。短き尾なり。】」「小」=「少」で、「隹」は割注にある通り、原義は「尾の短い鳥の総称」である。

「階除〔(かいじよ)〕」階段。庭から屋敷に上るそれ。

「驚瞿〔(きやうく)〕」驚いたよう様子を見せること。「瞿」には「驚く」の意の他に「懼れる」の意もあるが、ここは人懐っこい性格を考えて、かく採っておく。

「其の卵、斑、有り」スズメの卵は全体が暗い灰白色で、紫褐色・灰色・黒褐色の斑がある。ウィキの「スズメ」の卵の画像をリンクさせておく。

して肥へ」驚くほどまるまると太って。

「性・味、皆、同じ」東洋文庫版訳では『どこにいるのも』と添えてある。

「麻雀(まだら〔すずめ〕)」原義は「斑点模様のある小鳥」の総称となるが、現代中国語ではまさにスズメを指す。中文ウィキの「麻雀」(種としてのスズメのページ)を見られたい。なお、遊戯としての麻雀は中国語でもそう言いはするが、「麻將」の方が主流のようである(私はマージャンは全く知らないのでこれ以上、脱線する気にはならない。悪しからず)。

「黃雀(あくち〔すずめ〕)」「あくち」とは、雀に限らず、鳥の雛の嘴の付け根の黄色い部分を指す(「日葡辞書」に掲載)。語源説は「粟口」「開口」「赤口」等。開いた口中は赤く見えるから、孰れも腑には落ちる。

「雀、大水に入りて蛤〔(はまぐり)〕と爲〔(な)〕る」最も知られた化生説である。中国の本草書由来かと思うと、どうもさにあらずで、「日本書紀」の齊明天皇四(六五八)年の条に、

   *

出雲國言。於北海濱魚死而積。厚三尺許。其大如鮐。雀喙針鱗。鱗長數寸。俗曰。雀入於海化而爲魚。名曰雀魚。

(出雲國より言へらく、北海の浜に、魚、死して積めり。厚さ、三尺許り。其の大いさ、鮐(ふぐ)のごとくにして、雀の啄(くち)・針の鱗(いろこ)あり。鱗の長さ、数寸。俗の曰へらく、「雀、海に入りて、化して魚と爲る。名づけて『雀魚』と曰ふ」と。

   *

とあり、以下に「或本云。至庚申年七月。百濟遣使奏言。大唐・新羅幷力伐我。既以義慈王・王后・太子爲虜而去。由是國家以兵士甲卒陣西北畔。繕修城柵斷塞山川之兆也」と続いて、この二年後の夏、唐・新羅の連合軍が新羅(百済)を攻め、百済王義慈や皇后・皇太子を捕虜として拉し去るという(これを以って百済は滅亡した)事件が起き、そのため、斉明天皇は本邦の西北(北九州)に軍兵を布陣して、城柵を築き、城塞を建造したが、この二年前の異魚出現をその凶兆と解釈していることが判る。これは「蛤」ではなく「魚」であるが、当代にあっては海産生物は一緒くたであり、蛤の貝殻の紋様は頗る雀のそれに似るし、蛤は縄文の古えから食物とされたから、これが一種の中国と日本の平行進化的産物であるとしても、不自然ではない。なお、良安の蛤の記載は、私の「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部 寺島良安」の「はまぐり 文蛤」を参照されたい。

「淫泆〔(いんいつ)〕」怠けて遊興にふけること。また、男女関係が猥(みだ)らなこと。

「家雀のごときは、則ち、未だ常に變化せざるなり」これは「本草綱目」の時珍の補説。「私が普通に見かける人家に巣を作るような雀は、未だ嘗て、全く、そのように変化した個体を見たことはない」と見解を述べているのである。いいね! 時珍先生! フィールド・ワークが大事です!

「黃雀魚」林昇漢氏の中文サイト「世界魚類圖鑑」の同種のページによって、現在、中国名「黃雀鯛」の俗名として現存し、当該種は条鰭綱棘鰭上目スズキ目ベラ亜目スズメダイ科スズメダイ亜科ソラスズメダイ属ネッタイスズメダイ Pomacentrus moluccensis であることが判明した。無論、時珍が指しているそれが、本種である可能性はかなり低い気はするが、一応、掲げておく(それでも正直、これって文字通り、黄色系のスズメダイ科 Pomacentridae の仲間のような気は確かにするわ)。WEB魚図鑑」の当該種のページによれば、『体色は一様に黄色で鮮やか。幼魚も成魚とほぼ同じ色彩だが、黄色みはさらに強い。体長』五センチメートルほどの『小型種』で、琉球列島及び西部太平洋の水深一~十四メートルの『珊瑚礁にすむ』。『珊瑚礁域のごく浅所に見られる普通種』で、『枝状サンゴをすみかとし、その周辺に小さな群れで、もしくは他のスズメダイの群れに混ざ』って棲息する。『鮮やかな黄色が美しく観賞魚として知られるが』、『性格が強く注意が必要』とある。まあ、単色ながら、派手で一目見れば忘れないスズメダイではある。以下の部分、「本草綱目」の「雀」の「集解」では、こうなっている。

   *

「臨海異物志」云、『南海有黃雀魚、常以六月化爲黄雀、十月入海爲魚則所謂雀化蛤』者、蓋此類。若家雀則未常變化也。[やぶちゃん注:最後の一文が先の注の部分。]

   *

「臨海異物志」は「臨海水土異物志」で三国時代の呉の武将。沈瑩(しんえい ?~二八〇年)の撰になる博物学的地誌。

「白朮」(びゃくじゅつ)はキク目キク科オケラ属オケラ Atractylodes japonica の根茎。健胃・利尿効果がある。

「白丁香」しっかり、漢方薬として現在も使われている。

「其の屎〔の〕底、坐〔(すわ)〕り、尖〔(とがり)〕は上に在り」これは糞の底の部分が地面に対してべったりと軟化して附着しており、上部が尖った形になっている雀の糞で、それがの糞だというのである。反対に孰れの末端もころんとして丸く、タブレット状になた糞は雌だというのである。

「臘月」陰暦十二月の異称。

「來たり得て」なってから採取し。

「修治」漢方医学に於いて、動植物・鉱物の天然薬材料に対し、医薬品としての価値を高め、臨床応用に合致するよう行なう加工作業過程のこと。

「今、試みに、白丁香、屎の形を以つて雌雄を辨ずとは、未だ精〔(くは)し〕からず。凡そ、雀、起ちて屎すれば、則ち、上、尖る。居〔(すは)り〕て屎すれば、則ち、平圓〔なれば〕なり」この部分は「本草綱目」にはない。或いは良安が補填したものか。すこぶる穏当な見解で、「以上は、今、仮に、「白丁香」の糞の形状を以ってそのひり出した個体が雀の雌であるのか、雌であるのかを弁別する、というのであるが、どうもそれに就いては、私は明確に区別することは出来ないのである。そもそもが、雌雄に限らず、雀が後肢で立って糞をすれば、それは、上が尖った形になる。しかし、雀が後肢を立てずにしゃがんで糞をすれば、そのくそは地面に則して平たく、丸い円筒状のものとなるからである」というのである。

「夫木」「ねやの上に雀の聲ぞすだくなる出で立ちがたに夜やなりぬらん」これは平安中期の歌人曽禰好忠(そねのよしただ 生没年不詳)の一首で、幸いにして妻の所持する明治書院の「私家集大成 第一巻 中古」で調べることが出来たのだが、表記に大きな誤りがある。これは「好忠集」の天理図書館蔵本では、

   三月中

 ねやのうへにすゝめのこゑそすたくなる

    出たちかたに子やなりるらん

で、整序すると、

 閨の上に雀の聲ぞすだくなる出で立ちがたに子やなりぬらむ

で、「寝所の上で、雀らの囀りが、いや盛(さか)になってきたぞ。そうか、子雀らが巣立ちする時期になったのだろうなあ」といった意味であろう。

「雀瞀(とりめ)」鳥目。夜盲症(「瞀」には「目が眩(くら)む」の意がある)。遺伝性の先天性夜盲症と、後天性のビタミンAの欠乏による夜盲症(暗部の視覚を担当する成分はロドプシンであるが、ロドプシンはビタミンAと補体から成る)、及び、難病指定されている網膜色素変性症の初期症状としてある。

「狡-黠(こざか)しく」この「狡黠」は「ずるく悪賢いこと」の意の「狡猾」と同じい(但し、歴史的仮名遣では「狡黠」は「かうかつ」であるのに対し、「狡猾」は「かうくかつ」となる)。「小賢しく」。

「饒奈雀(にようない〔すずめ〕)」通常のスズメが市街地で見かけることが多いのに対して、林や森を主な棲息地とし、頬に黒い斑点を持たない、スズメ目スズメ科スズメ属ニュウナイスズメ Passer rutilans。この種の存在を知らない方もいると思われるので、ウィキのニュウナイスズメから引いておく。『民家近くに生息するスズメとは対照的に、林や森などを好む。黄雀(こうじゃく、おうじゃく、きすずめ)ともいう』。全長約十四センチメートルでスズメと有意な差はない。『雄はスズメに似ているが』、『頬に黒点がなく、頭部と背面はスズメよりもあざやかな栗色をしている。雌は薄茶色で、太い黄土色の眉斑が目立つ。『北はロシア、東は日本、南はインド、西はアフガニスタンまで、東アジア、東南アジア、南アジア、中央アジアに広く分布する』。『日本では主に北海道の平地の林や本州中部以北の山地で』五月から七月に『かけて繁殖し、関東地方以南の暖地で越冬する』。『繁殖期以外はニュウナイスズメ単独種で群れをつくるが、少数の場合はスズメの群れに混じる』。『台湾やヒマラヤの山奥にあるスズメが進出していない村落では、スズメに代わって人家に営巣していることがある』。『本種の和名の由来については以下の三説が有名である』。『スズメに見られる頬の黒斑を欠くことから、ほくろの古名であるにふ(斑)が無い雀、ということで斑無雀』とするもの。『新嘗雀(にいなめすずめ)がなまったものであるとする柳田國男の説』。『平安時代に陸奥守として東北地方に左遷され、現地で恨みを抱いたまま死去した貴族、藤原実方が本種に転生して宮中に入り込み、納税された米を食い荒らしたという伝説があ』り、『宮中(内廷)に入る雀、ということで入内雀』というものである。『後ろの二説にも関連するが、長い間』、『本種は晩夏から初秋にかけて田に大群で押し寄せ、イネの未熟果を食い荒らす大害鳥と信じられていた。目にする機会が少ないにもかかわらず、鳥獣保護法でスズメと共に狩猟鳥に指定されているのはそれゆえである』とある。なお、ウィキの「スズメには、『夏から秋にかけては稲に対する食害も起こす。しかし、農村地帯で繁殖するスズメは、稲にとっての害虫も食べるため、コメ農家にとっては総合的に益鳥の面が大きいともされる』。『一方』、『ニュウナイスズメ』『は、繁殖期には森林または北方で繁殖し、夏の終わりから秋にかけて農村地帯に現れる。益鳥としての働きをしないので』、『害鳥としての面が強いといわれている。この稲を食害するニュウナイスズメとスズメが、スズメとして一緒にくくられることで、スズメが必要以上に害鳥扱いされた可能性もある(ただし、理由はわかっていないが、ニュウナイスズメが大規模に農村地帯に出現することは現在ではほとんどなくなった)』とあるから、現時点ではもう、スズメもニュウナイスズメも、稲を啄む害鳥というのは冤罪ということになることは言い添えておこう。]

古今百物語評判卷之三 第七 叡山中堂油盜人と云ばけ物附靑鷺の事

 

  第七 叡山中堂油盜人(あぶらぬすびと)と云(いふ)ばけ物靑鷺の事

Aburanusubito

 

[やぶちゃん注:本条は挿絵を含め、既に本話の梗概を中で紹介した『柴田宵曲 妖異博物館 「怪火」』の注で電子化してあるが、今回は底本が異なり、零から総てやり直し、挿絵も改めて清拭した。

 比「叡山」の「中堂」は天台宗開祖最澄が延暦七(七八八)年に創建し、自ら刻んだ薬師如来像が安置されている。ここは、初期原型の最澄創建になる三堂(薬師堂・文殊堂・経蔵)の中心に位置したことから、薬師堂を「中堂」と呼ぶようになったが、この三堂が後に一つの伽藍に纏められたため、「中堂」という伽藍名が残ったものとされる。比叡山延暦寺の中心であることから「根本中堂」と称し、比叡山では「東塔」という名の公域区域の中心的建築物である。元亀二(一五七一)年に織田信長の焼き打ちで灰燼に帰したが、後、徳川家光が慈眼大師天海の進言を受け、八年をかけて寛永一九(一六四一)年に現在の姿に再建した。創建以来、千二百年、不断に灯もり続ける「不滅の法灯」は、焼き打ち前に分灯されていた火が移され、僧侶が毎日、油を足し、現在も輝き続けている。

 「靑鷺」博物学的上のそれは私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 蒼鷺(アオサギ)」、及び『森立之立案・服部雪斎画「華鳥譜」より「あをさぎ」』を見られたい。最後に本条の類話を示すために、再注する。

 「坂本兩社權現」これは本来、狭義には、現在の滋賀県大津市坂本にある日吉大社(通称「山王権現」)の身体山である牛尾山(八王子山)山頂にある牛尾宮と三宮を指すものと思われる。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「日吉大社」によれば、文献では、「古事記」に「大山咋神(おほやまくひのかみ)、亦の名を山末之大主神(やますゑのおほぬしのかみ)。此の神は近淡海國(たかつあふみのくに)の日枝の山に坐(ま)し」と『あるのが初見だが、これは、日吉大社の東本宮の祭神・大山咋神について記したものである』。『日枝の山(ひえのやま)とは後の比叡山のことである。日吉大社は、崇神天皇』七『年に日枝山の山頂から現在の地に移されたという』。『また、日吉大社の東本宮は、本来、牛尾山(八王子山)山頂の磐座を挟んだ』二『社(牛尾神社・三宮神社)のうち、牛尾神社の里宮として、崇神天皇』七『年に創祀されたものとも伝えられている。なお、三宮神社に対する里宮は樹下神社である』とある。『最澄が比叡山上に延暦寺を建立し、比叡山の地主神である当社を、天台宗・延暦寺の守護神として崇敬し』、『中国の天台宗の本山である天台山国清寺で祀られていた山王元弼真君にならって山王権現と呼ばれるようになった。延暦寺では、山王権現に対する信仰と天台宗の教えを結びつけて山王神道を説いた。中世に比叡山の僧兵が強訴のために担ぎ出した』神輿は『日吉大社のものである。天台宗が全国に広がる過程で、日吉社も全国に勧請・創建され、現代の天台教学が成立するまでに、与えた影響は大きいとされる』。『織田信長の比叡山焼き討ちにより、日吉大社も灰燼に帰した。現在』の『建造物は安土桃山時代以降』、天正十四(一五八六)年から『再建されたものである。信長の死後、豊臣秀吉と徳川家康は山王信仰が篤く、特に秀吉は、当社の復興に尽力した』。『これは、秀吉の幼名を「日吉丸」といい、あだ名が「猿」であることから』(山王権現は猿を神使とする)、『当社を特別な神社と考えたためである』とある。]

 

かたへの人の云(いはく)、「坂本兩社權現の某坊(それがしばう)と云(いへ)る人の物語に、そのかみ、叡山全盛のみぎり、中堂の油料とて壹萬石ばかり知行ありしを、東近江の住人、此油料を司りて、家、富(とみ)けるに、其後(そののち)、世かはり、時移りて、此知行、退轉[やぶちゃん注:ここは「次第に衰えること」及び「中断すること」の両意であろう。]せしかば、此東近江の住人、世にほい[やぶちゃん注:「本意」。]なき事に思ひ、明けくれ、嘆きかなしみしが、終(つゐ)に此事を思ひ死(じに)にして死(しに)にけり。其後、夜每に、此者の在所より、ひかり物、出(い)でて、中堂の方へ來(たり

て、彼(かの)油火のかたへ行(ゆく)とみえしが、其さますさまじかりし故、あながち、油を盜むにもあらざれど、皆人、『油盜人』と名付たり。はやりお[やぶちゃん注:ママ。「逸り男」。]の若者共、是を聞(きき)て、『如何樣にも其者の執心、油にはなれざる故、今に來(きた)るなるべし。しとめて見ばや』とて、弓矢・鐵砲をもちて、飛來(とびきた)る火の玉を待(まち)かけたり。あんのごとく、其時節になりて、黑雲一叢(くろくもひとむら)、出づる、と見えし。その中に彼(かの)光り物、あり。『すはや』といふ内に、其若者共の上へ來りしかば、何れも、『あつ』といふばかりにて、弓矢も更に手につかず。中にも、たしか成(なる)者ありて、見とめしかば、怒れる坊主の首、火熖を吹きて來たれる姿、ありありと見えたり。是、百年ばかり以前の事[やぶちゃん注:元隣の没年は寛文一二(一六七二)年であるから、ここを起点限界とすれば、百年前は元亀三(一五七二)年よりも前となる。信長の比叡山焼打はまさに元亀二(一五七一)年であるから、この直前と見ると、何やらん、怨霊めいて面白いではないか。話者もその確信犯で「百年前」と言っているように思われる。]にてさぶらひしが、その後はに來(きたり)て、只今も、雨の夜などには、其光物、折々、出申(いでまうし)候を、湖水邊(へん)の在所の者は、坂本の者にかぎらず、何れも見申候。此事、かくあるべきにや」と問(とひ)ければ、先生、答(こたへ)ていはく、「人の怨靈の來(きた)る事、何かの事に附(つけ)て申ごとく、邂逅にはあるべき道理にて侍る故、其『油盜人』も有(ある)まじきにあらず。しかしながら、年經て消(きゆ)る道理は、『うぶめ』の下(した)にて、くはしく申せし通(とほり)なり。其(その)死ぬる人の精魂(せいこん)の多少によりて、亡魂の殘れるにも遠近(ゑんきん)のたがひ、あるべし。また、只今にいたりて、其物に似たりし光り物有(ある)は、疑ふらくは靑鷺なるべし。其仔細は江州高島の郡(こほり)などに、別して、あるよしを申侍る。靑鷺の年を經しは、よる、飛ぶときは、必ず、其羽、ひかり候故、目のひかりと相(あひ)應じ、くちばし、とがりて、すさまじく見ゆる事、度々なり、と申しき。されば、其ひかり物も、今に至りて見ゆるは、靑鷺にや侍らん」。

[やぶちゃん注:「年經て消(きゆ)る道理は、『うぶめ』の下(した)にて、くはしく申せし通(とほり)なり」卷之二 第五 うぶめの事幽靈の事」で、彼は「其氣のとゞこほりて、或は形をなし、又は聲を生(しやうず)る物を『幽靈』といふなれど、猶、此『ゆうれい』も、程ふるに及(および)て、其とゞこほりたる氣の散ずるに隨(したがひ)て消(きえ)うするなり。又、哲人名僧などの教化(けうけ)によりて消えうするは、もとより、妖は德にかたざる道理なれば、其の教化によりて、其氣、忽(たちまち)に散ずればなるべし」と述べている。

「江州高島の郡」ほぼ現在の滋賀県高島市(琵琶湖北西岸)に相当する地区。ここ(グーグル・マップ・データ)。

 さて鷺類、特に五位鷺(博物学的には私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鵁鶄(ごいさぎ)」を参照されたい)と怪異は実は親和性が強い(私には彼らは時に隠者か哲人の後ろ姿にさえ見えるのであるが)。但し、それは寧ろ、元隣の言うような擬似的発光現象に絡む擬似怪談として記されているものが優位に多い。五位鷺の典型例は「諸國百物語卷之五 十七 靏のうぐめのばけ物の事(私の電子化注)や「耳囊 卷之七 幽靈を煮て食し事(私の電子化訳注)であろう。青鷺らしきものでは、私の推定であるが、「谷の響 一の卷 五 怪獸」(私の電子化注)がある。実は「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鵁鶄(ごいさぎ)」で私は「夜、飛ぶときは、則ち、光、有り、火のごとし」とある本文に以下のような引用注を附した。

   *

 これはサギの鳥体が夜間に青白く発光するもので、江戸時代から妖怪或いは怪異現象として「青鷺火(あおさぎび)」「五位の火(ごいのひ)」などと呼ばれている。ウィキの「青鷺火」より引く。『「青鷺」とあるが、これはアオサギではなく』、『ゴイサギを指すとされる』。『江戸時代の妖怪画集として知られる鳥山石燕』の「今昔畫圖續百鬼」や「繪本百物語」などにも『取り上げられ、江戸時代にはかなり有名な怪談であったことがわかる。また江戸後期の戯作者』桜川慈悲功作・歌川豊国画の「變化物春遊(ばけものはるあそび)」(寛政五(一七九三)年刊)にも、大和国で『光る青鷺を見たという話がある。それによると、化け柳と呼ばれる柳の大木に毎晩のように青い火が見えて人々が恐れており、ある雨の晩』、一『人の男が「雨の夜なら火は燃えないだろう」と近づいたところ、木全体が青く光り出し、男が恐怖のあまり気を失ったとあり、この怪光現象がアオサギの仕業とされている』(原典の当該箇所を国立国会図書館デジタルコレクションのここの画像で視認出来る)。『新潟県佐渡島新穂村(現・佐渡市)の伝説では、根本寺の梅の木に毎晩のように龍燈(龍神が灯すといわれる怪火)が飛来しており、ある者が弓矢で射たところ、正体はサギであったという』。『ゴイサギやカモ、キジなどの山鳥は夜飛ぶときに羽が光るという伝承があり、目撃例も少なくない。郷土研究家』更科公護の論文「光る鳥・人魂・火柱」(『茨城の民俗』昭和五六(一九八一)年十二月)にも、昭和三(一九二八)年頃に『茨城県でゴイサギが青白く光って見えた話など』、『青鷺火のように青白く光るアオサギ、ゴイサギの多くの目撃談が述べられている』。『サギは火の玉になるともいう』。『火のついた木の枝を加えて飛ぶ、口から火を吐くという説もあり、多摩川の水面に火を吐きかけるゴイサギを見たという目撃談もある』。『また一方でゴイサギは狐狸や化け猫のように、歳を経ると化けるという伝承もある。これはゴイサギが夜行性であり、大声で鳴き散らしながら夜空を飛ぶ様子が、人に不気味な印象をもたらしたためという説がある。老いたゴイサギは胸に鱗ができ、黄色い粉を吹くようになり、秋頃になると青白い光を放ちつつ、曇り空を飛ぶともいう』。『科学的には水辺に生息する発光性のバクテリアが鳥の体に付着し、夜間月光に光って見えるものという説が有力と見られる。また、ゴイサギの胸元に生えている白い毛が、夜目には光って見えたとの説もある』とある。

   *

私は自身の複数の経験から、発光細菌やバクテリア説は退けたい(そういう派手に発光する陸上や空中での現象(海上・海中では発光クラゲ・クシクラゲ類・夜光虫・ウミホタル・ホタルイカ等で多数見たが)を私は六十一年の生涯の中で一度も経験したことがないからである)。胸元の白い毛の錯覚説を強く支持するものである。

2018/10/16

和漢三才圖會第四十二 原禽類 鴿(いへばと) (カワラバト)

 

Ihebato

 

いへはと   鵓鴿 飛奴

鴿【音閤】

       【和名以倍八止】

コツ

 

本綱鴿處處人家畜之名品雖多大要毛羽不過靑白皁

綠鵲斑數色眼有大小黃赤綠色而已惟白鴿入藥

肉【鹹平】解諸藥毒凡鳥皆雄乘雌此獨雌乘雄其性最淫

 而易合故名鴿鶉者其聲也張九齡以鴿傳書目爲飛

 奴其屎皆左盤故名之左盤龍用治諸瘡【野鴿屎最良】

  友雀我かいへはとの陰しめて竹を諍ふ夕暮の聲

△按鴿有數品頸短而有小冠胸隆脹脚脛亦短今家家

 畜之頸有斑文者名暹羅鴿頭背灰黑色腹灰白有鷹

 彪者名朝鮮鴿背上有金紗者名金鴿有黑白柹三色

 鮮明美者最珍也並觜短眼金色爲上品價貴争養之

 【暹羅朝鮮二種は小於常鴿】皆能馴雞犬相伴屋上構棲局局開窓

 而出入各居匹偶拒不入他鴿可謂貞節者矣其生卵

 也先生一雄卵隔一兩日出一雌子【共是匹偶】二十日而孚

 毎日從午至酉雄鴿伏之從酉迄午雌鴿伏之十日許

 止羽翅未備而不能自求食母亦觜甚短不能哺之故

 人嚙碎蕪菁子以竹箆開雛觜令食之如此經二三日

 乃自開口受餌人安餌於舌頭哺之大抵兩月一産毎

 二卵也上品者一歳不過二産四卵而多難伏育是不

 惟鴿草木亦人所重者子稀諺所謂椑柹之核多可笑

 矣凡鴿終夜鳴聲如曰偶偶

野鴿【一名堂鴿】 與家鴿同類異種也多灰色無冠爲異能飛

 舞常棲堂社寺樓故俗呼曰堂鴿畜鴿之家亦必畜堂

 鴿如鴿去不歸則使堂鴿若干飛舞誘歸之也堂鴿肉

 味甘有泥氣人不食之

 

 

いへばと   鵓鴿〔(ぼつこふ)〕

       飛奴〔(ひぬ)〕

鴿【音、「閤〔コフ〕」】

       【和名、「以倍八止〔(いへばと)〕」。】

コツ

 

「本綱」、鴿は、處處、人家に之れを畜〔(か)〕ふ。名品多しと雖も、大要、毛羽、靑・白・皁〔(くろ)〕・綠・鵲斑〔(せきはん)〕の數色に過ぎず。眼、大小〔と〕、黃・赤・綠色、有るのみ。惟だ白鴿〔(しろばと)〕〔のみ〕藥に入る。

肉【鹹、平。】諸藥〔の〕毒を解す。凡そ、鳥、皆、雄(をどり)、雌に乘る。此れ、獨り、雌、雄に乘る。其の性、最も淫にして合し易し。故に「鴿」と名づく。「鶉(ボツ)」とは其の聲なり。張九齡、鴿を以つて書を傳〔(つた)〕ふ。目(なづ)けて「飛奴」と爲す。其の屎〔(くそ)〕、皆、左に盤〔(くね)〕る。故に之れを「左盤龍」と名づく。用ひて諸瘡を治す【野鴿の屎、最も良し。】。

  友雀我がいへばとの陰しめて竹を諍(あらそ)ふ夕暮の聲

△按ずるに、鴿、數品〔(すひん)〕有り。頸、短くして、小さき冠(さか)有り。胸、隆(たか)く脹〔(ふく)〕れ、脚の脛も亦、短し。今、家家、之れを畜ふ。頸に斑文有る者を「暹羅鴿(シヤム〔ばと〕」と名づく。頭・背、灰黑色〔にして〕、腹、灰白〔にて〕鷹彪〔(たかのふ)〕有る者を「朝鮮鴿」と名づく。背の上に金紗〔(きんしや)〕有る者を「金鴿〔(きんばと)〕」と名づく。黑・白・柹〔(かき)〕の三色有り。鮮明に美なる者、最も珍なり。並びに、觜〔(くちばし)〕、短く、眼、金色なるを、上品と爲し、價〔(あたひ)〕、貴〔(たか)〕く、争いて[やぶちゃん注:漢字表記も送り仮名もママ。]之れを養ふ。【「暹羅」・「朝鮮」の二種は常の鴿より小さし。】。皆、能く馴(な)れて、雞〔(にはとり)〕・犬と相ひ伴なふ。屋の上〔に〕棲〔(すみか)〕を構へ、局局〔(つぼつぼ)〕、窓を開きて、出入りす。各々、匹-偶(めをと)と居〔(を)〕ること、拒(こば)みて、他の鴿を入れざるは、貞節なる者なりと謂ひつべし。其の卵を生むことや、先づ、一〔つの〕雄卵を生みて、一兩日を隔てて一〔つの〕雌〔の〕子[やぶちゃん注:卵。]を出だす【共に是れ、匹偶〔(めをと)〕なり。】。二十日にして孚(かへ)る。毎日、午〔(うま)〕より酉に至るまで、雄鴿、之れを伏〔(ふく)〕し、酉より午迄、雌鴿、之れを伏す。十日許〔(ばかり)〕にして止〔(や)〕む。羽翅、未だ備はらして自〔(みづか)〕ら求-食(あさ)ること能はず、母も亦、觜、甚だ短くして之れに哺(〔は〕ぐゝ)むること能はず。故に、人、蕪菁子(なたね)を嚙み碎きて、竹箆〔(たけべら)〕を以つて、雛の觜を開きて、之れを食はしむ。此くのごとくなること、二、三日を經て、乃〔(すなは)〕ち、自〔(みづか〕ら口を開き、餌を受く。人、餌を舌頭に安〔(やす)んじ〕、之れを哺める。大抵、兩月に一産、毎二卵なり。上品なる者、一歳に二産、四卵に過ぎず。而〔(しか)〕も、多くは伏育〔(ふくいく)〕し難し。是れ、惟だ鴿のみならず、草木も亦、人、重ずる所の者は、子、稀なり。諺に所謂〔(いはゆ)〕る、「椑柹(しぶがき)の核〔(たね)〕多し」と。笑ふべし。凡そ、鴿、終夜鳴く。聲、「偶偶〔(ぐうぐう)〕」と曰ふがごとし。

野鴿〔(のばと)〕【一名、「堂鴿〔(だうばと)〕」。】 家鴿と同類異種なり。多くは灰色、冠〔(さか)〕無きを異と爲す。能く飛び、舞ふ。常に堂社・寺樓に棲む。故に俗に呼んで、「堂鴿」と曰ふ。鴿を畜ふの家、亦、必ず、堂鴿を畜ふ。如〔(も)〕し、鴿、去つて歸らざれば、則ち、堂鴿をして、若干(そこばく)、飛び舞はして、之れを誘ひ歸らしむなり。堂鴿の肉味、甘〔なれど〕泥〔の〕氣〔(かざ)〕有り、人、之れを食はず。

[やぶちゃん注:「いへばと」は「家鴿(家鳩)」であるが、これは我々が最も目にする機会の多い、正式種名はハト目ハト科カワラバト属カワラバト Colombo livia var domestica である。ウィキの「カワラバト」によれば、本種を『指し示す言葉として、室町時代から「たうばと(塔鳩)」、これに加え、安土桃山時代には「だうばと(堂鳩)」が使われている。「ドバト(土鳩)」という語が登場するのは江戸時代である。日本語のカワラバト・家鳩・塔鳩・堂鳩・土鳩・ドバトという言葉の間の線引きは曖昧である。「ドバト害防除に関する基礎的研究」(山階鳥類研究所)は、 広義の「ドバト」はカワラバト』『の飼養品種の総称であるとしている』。『また、「家禽化された」カワラバトのうち「再野生化」した個体(feral pigeon)を狭義のドバトとする場合もある』。なお、「日本鳥類目録 改訂第七版」(Check-list of Japanese birds. 2012・日本鳥学会目録編集委員会編・日本鳥学会二〇一二年刊)に於ける『表記は「カワラバト(ドバト)」である』。本種は本来は『ヨーロッパ、中央アジア、北アフリカなどの乾燥地帯に生息する鳥だったが、人に馴れやすいため』、『家禽化され、食用や伝令用として利用されたほか、愛玩用の品種も多数作られた。カワラバトは』、『日本ではかつて狩猟対象だったが、伝書鳩を撃ってしまう危険性がある等の理由から、本種はその対象から外された経緯がある(飼鳥を射殺すると動物愛護法に触れる)。なお、日本でカワラバトの次によく見かけるキジバト』(ハト科キジバト属キジバト Streptopelia orientalis。異名を「ヤマバト」(山鳩)とも呼ぶ。最後に問題にする)『は現在でも狩猟対象である』。『ユーラシア大陸、ヨーロッパを中心に留鳥として世界的に広く分布』し、『日本では』『全土で普通に見ることができる。しかし、日本の在来種ではないと考えられている。日本にいつ渡来したかは定かではないが、一説には飛鳥時代、残存する記録では平安時代に「いへばと(鴿)」の語が見られ、「やまばと(鳩)」』(現在のキジバト)『とは区別されていた。従って、今から』一千年以上前には、『すでに身近に存在していたものと考えられる』。『長らく』、『人間と関わってきた本種は、人間にとても密接した鳥』と言える。『主翼と尾翼は全て、副翼は毎年一枚が翼端へ向かって、一枚ずつ順番に抜け替わる。このため、年齢は副翼を見ると推定できる。羽色は栗・栗ゴマ・灰・灰ゴマ・黒・黒ゴマ・白・白黒・モザイク・グリズル・バイオレット・ブラチナ・赤・緑・黄色・橙など多彩である。栗二引き』(「二引き」とは翼に二本の線のあるものを指し、それが栗色のものである。こちらの画像のが典型)『と呼ばれる色彩パターンがカワラバトの祖先の一般的な羽装であると考えられている』。『また、首周辺の羽に構造色を持ち、角度により緑あるいは紫に変わるように見える』。『一方、キジバトは羽のウロコ模様が特徴的であり、本種との識別は容易である』。『基本的に草食性であるが、昆虫なども食べることがある』。『種子・穀物・果実・漿果等植物性のものが主食である』。通常は二『個の卵を産む』。『孵化までは』十六~二十日『で、育雛期間は』二十八~二十五日『程度』。『他の鳩類と同じく親鳥は蛋白質に富んだピジョンミルクと呼ばれるミルク状の乳を口移しに雛に与える』。『親鳥は育雛をしている最中に次の産卵をすることもあり、時に育雛と抱卵を同時期に行う』。『このため』、『年間』五、六回の『繁殖が可能である』(言わずもがなであるが、本条の解釈で、良安がまことしやかに詳述している多くのトンデモ生態部分は総て誤りである。あまりに馬鹿馬鹿しいのでそれは各個注は示さない)。『この繁殖能力の高さと、天敵である猛禽類の減少が個体数増加の原因となっていたが、近年ではワシントン条約による絶滅危惧種として厚く保護された猛禽類が、カラスほどではないにせよ』、『都市部でも目撃されており、カワラバトを含め』、彼らの餌となる野鳥の捕食圧が高まっているという意見もあるらしい。『因果関係が完全に証明された訳ではないが、猛禽類は黒いカラスを襲わないため、カワラバトも黒い個体が多く生き残った結果だという。野生種のカワラバトは本来、岸壁の割れ目などの高い場所に営巣していた鳥なので』、『その習性から市街地においてはマンション等の人工建造物が営巣場所となることもあり、糞害が問題になることがある』。『カワラバトは体内時計や太陽コンパス・目の瞬膜の偏光作用などを使って、方向判定と位置測定を行っていると考えられている。この他に』、『地磁気を鋭敏に感知できる生体磁石の能力も持っているといわれており、研究対象になっている。ある研究によれば、嘴の皮膚内に磁鉄鉱を含む微粒子が局在しており、これが磁場の変化を感知する上で重要な役割を果たしている可能性があるという』。『カワラバトから長年にわたり』、『品種改良された伝書鳩を使って行われる鳩レースでは』、『分速や帰還率が評価されるが、これらは天候のほか太陽風や黒点活動、磁気嵐の影響を受けるといわれる』。『訓練されたカワラバトは、初めて見る絵の上手い下手を判別したり、クラシック音楽と現代音楽を聞き分けることでも知られている。このため』、『認知科学の実験に応用されることがある』。『鳥類には嗅覚が殆どない、又は、あっても重要性は低いと』、一九五〇年代頃までは『考えられてきた。しかし、近年、さまざまな科学的実験によって、通説は覆りつつある。中でもカワラバトの場合、地磁気と視覚と嗅覚が複合的に神経連動されている点がクローズアップされている。カワラバトは、上記の磁気データにあわせ視覚的データ、そして、嗅覚のデータを脳で統合し、あたかもひとつの感覚として感じとり、飛行した地形図として記憶している可能性が高いことが明らかになりつつある』。『カワラバトは通信手段として先史時代から家禽化されてきたと考えられ』、紀元前三千年頃の『エジプトでも伝書鳩を利用していた記録が残っている。これ以外に肉や卵を食料にするため、中東などでは崖のくぼみなどに住み着く性質を利用し、内部がうつろで壁に数か所』の『穴がある搭のようなものを作り、そこに鳩を集め』た『ことがあり、古代ユダヤではヘロデ王がこれを建設させたので、こうした鳩を「ヘロデの鳩」とミシュナー』(フリーム或いはタナイームと呼ばれたユダヤ教指導者(ラビ)群のトーラー(旧約聖書の「モーセ五書」に関する註解書群)『の中で呼んでいた』。『また、その帰巣性の高さから』、『軍隊での通信手段としても盛んに用いられてきた。イギリス軍は第一次世界大戦で約』十『万羽、第二次世界大戦に至っては』五十『万羽以上もの』、『軍用鳩を用いた。戦闘で大火傷を負いながらも友軍に辿り着き、勲章を授けられたものさえ存在した』。日本に『カワラバトが渡来したのは今から』千五百『年程前(飛鳥時代)であったと考えられる。カワラバトは』、『古来より』、『八百万神のお使い神と神社で尊ばれ、殺生はご法度、同じく仏閣でも古から魚・鳥等を野に放すことである放生会やエサやりが生類を哀れむ功徳とされ、その対象として長年』、『保護され』、『親しまれてきた。「鳩に三枝の礼あり(仔鳩が親の恩を感じ』、『三つ下の枝に止まる故事より、礼儀を重んじることの重要性)」「鳩に豆鉄砲=鳩が豆鉄砲を食ったよう(突然の出来事に呆気にとられる様子)」「鳩を憎み豆を作らぬ(些細なことに拘って肝心なことが疎かになる愚かしさや弊害)」等、昔からの諺でもお馴染みである』。天明三(一七八三)年には、『大阪の相場師・相模屋又市が投機目的のため』、『米相場の情報伝達にカワラバトを利用したとされ、処罰されたという記録が残って』おり、『また、ほぼ同時期の』(文化二 (一八〇五)年跋)の小野蘭山述の「本草綱目啓蒙」の中に、『カワラバトの帰巣性について』、

   *

鴿は主人の家をよく覺へ[やぶちゃん注:ママ。]をる者ゆへ[やぶちゃん注:ママ。]遠方に行くと雖ども放つ寸(とき)は必(かならず)その家に還る故に、張九齡「以ㇾ鴿傳ㇾ書」ことを釋名[やぶちゃん注:「本草綱目」の項内小目。]の下に載す。

   *

『の記述が見られる』(以上は私が国立国会図書館デジタルコレクションの当該箇所の画像を視認してカタカナを平仮名に直して示したものである)。『幕末に神奈川に滞在したアメリカの』女性宣教師マーガレット・テイト・キンニア・バラ(Margaret Tate Kinnear Ballagh:来日宣教師ジェームス・ハミルトン・バラ(James Hamilton Ballagh)の妻)は『著書「古き日本の瞥見」』(Glimpses of Old Japan, 1861-1866.)の中で、文久二(一八六二)年『の手紙に』、『神奈川の寺にはカワラバトが多く住んでおり、寺の外だけでなく』、『寺の中にまで住んでいることを記載している。さらにカワラバトに与えるための餌を紙袋に入れて売る売店があることも記載している。このことから、江戸時代には既に庶民がハトに餌をやる慣習があったことがわかる』。『明治時代以降、カワラバトから長年にわたって品種改良された伝書鳩が欧米より輸入され、新聞社などで利用された。また軍部でも日清戦争や日露戦争、第一次世界大戦から本格的に伝書鳩の研究を開始し、第二次世界大戦では多くの伝書鳩が使われた』。『戦後復興期には、伝書鳩を使った鳩レースを行うための協会が設立された』。『高度成長時代には伝書鳩の飼育が若年層を中心としてブームとなった』。昭和三九(一九六四)年に『開催された東京オリンピックの開会式では、セレモニーの一部として伝書鳩達の空に舞い上がる姿が華々しくカラーテレビ中継され、前年開通した衛星中継により世界中に配信された』。昭和四四(一九六九)年に『ピークを迎える飼鳩ブームの火付け役となった出来事と伝えられている』。『しかし』、一九七〇年代も『後半になると』、『ブームは収束し、伝書鳩の飼育数は減少に転じた。以降、漸減傾向が続いている』。『カワラバトはその他にも、海難犠牲者を発見させる訓練などが行われている』。『歴史的建造物の汚損などが深刻な問題になることがある。尿(糞の白い部分)は、金属の腐食を促進させる作用がある。またカビの一種であるクリプトコッカス・ネオホルマンス』(菌界担子菌門異型担子菌綱シロキクラゲ目シロキクラゲ科クリプトコッカス属クリプトコッカス・ネオホルマンス Cryptococcus neoformans)『が堆積した糞の中で繁殖し、HIV感染者や臓器移植手術のため免疫抑制剤の投与によって免疫力の落ちた人間が吸い込むと』、クリプトコッカス症』日和見感染症(通常であれば、当該個体の免疫力によって増殖が抑えられている病原性の低い常在細菌が、免疫抑制状態の中で異常に増殖し、その結果として病気を引き起こすもの)の一つ。百万人当たり年間二~九人の患者発生率で致命率は約十二%。アメリカ合衆国では発症患者の八十五%がHIV感染者である。病原体を吸い込み、肺で感染することが多いが、不顕性感染(感染が成立していながら、臨床的に確認し得る症状を示さない感染様態のこと。本人が発症しなかったとしても、感染源として気づかぬうちに病原体を他個体に拡げてしまう虞れがある、所謂「キャリア」である)の場合もある。鼻汁の排泄に始まり、鼻孔に肉芽腫が出来たり、病原体が肺から移動して髄膜炎や脳炎を惹き起こす。クリプトコッカス性髄膜炎の症状は頭痛・発熱・無気力・昏睡・人格変容・記憶障害等である)『にかかる症例が報告されている』。『カワラバトは人に馴れやすく、群れで繁殖する鳥である。このため』、『古くから公園などで鳩に餌を与えることが当たり前のように行われている。繁殖能力が高い鳩は栄養状態に恵まれると』、『年に幾度も繁殖を繰り返し』、『増加し続ける。このため、近年では鳩に餌を与えることを防止するよう呼びかけている地域もあり、荒川区など』、『一部自治体では条例で禁止している』とある。

「以倍八止」「倍」は音では「ベ」であるが、通用で「へ」にも当てる。

「鵲斑」カササギ(スズメ目カラス科カササギ属カササギ Pica pica)に見られるような色紋。カササギの羽毛の色は腹と背中に近い羽(肩羽)と、翼を広げた際に見える羽先が白い。後は概ね、頭から腿までは烏羽(からすば)色であるが、羽や尾羽の先には光沢があり、黒というよりも青或いは緑に見えることが多いから、こうした視覚上の見かけのグラデーションを指して言っているのであろう。

「張九齡」(六七三年~七四〇年)盛唐の詩人で政治家。玄宗の宰相となって、安禄山の「狼子野心」を見抜き、「誅を下して後患をて」と玄宗に諫言したことでも知られるが、悪名高い李林甫や楊国忠らと対立して荊州(湖北省)に左遷された。官を辞した後は故郷に帰り、閑適の世界に生きた。詩の復古運動に尽くしたことでも知られ、文集に「曲江集」がある。以下の「照鏡見白髮」は唐詩の定番の名品。

   照鏡見白髮

 宿昔靑雲志

 蹉跎白髮年

 誰知明鏡裏

 形影自相憐

    鏡に照らして白髪を見る

  宿昔 靑雲の志

  蹉跎(さた)たり 白髮の年

  誰(たれ)か知らん 明鏡の裏(うち)

  形影 自ら相ひ憐まんとは

彼と鳩の話は、五代の王仁裕撰の「開元天寶遺事」の巻一に、

   *

張九齡少年時家養群鴿、每與親知書信往來、只以書系鴿足上、依所寄之處飛往投之。九齡目之爲「飛奴」。時人無不愛説。

   *

と出る。

「友雀我がいへばとの陰しめて竹を諍(あらそ)ふ夕暮の聲」「友雀」は仲良く群れになって遊んでいるかのように見える雀たちのこと。「我がいへばとの陰しめて」がよく判らぬが、これはまさに我が家で飼っている家鳩が縄張りを占めている、その蔭の方の竹林の中で、という謂いであろうか。作者も不詳である。

「冠(さか)」とさか。良安がこう言っているのは、上嘴の付け根を覆う肉質の白い楕円体に盛り上がって見える、鼻孔を覆っている「鼻瘤(はなこぶ/びりゅう)」或いは「蠟膜(ろうまく)」と呼ばれる部分のことである。

「暹羅鴿(シヤム〔ばと〕」サイト「孤島国JAPAN」の「日本の基底文化を考える」の中の「鳥崇拝時代のノスタルジー42-鳩は鬱々-の記載に、『鹿子鳩(斑鳩鳩, 真珠鳩/暹羅鳩/咬𠺕吧鳩)カノコバト』とあった。ハト科キジバト属カノコバト Streptopelia chinensis である。ウィキの「カノコバト」によれば、『インド、スリランカから中国南部と東南アジアまでの南アジアに生息する。北アメリカやオーストラリア、ニュージーランドなどにも移入種として生息している。オーストラリアには』一八六〇『年代に導入され、在来種のハトに替わり広がった』とある。

「朝鮮鴿」不詳。なお、「百人」氏のサイト「おやじ小屋から」の『郷土の方言「鳥」編 (高橋八十八著「わたしの落穂拾い集」<第4集>より)』という頁に、奥越後松代(現在の新潟県十日町市)に住む高橋氏の記載からとして、『【ブッポウソウ】生家の裏山のブナ林で初夏の候となるとチョウセンバトがやってきて、いくつがいが巣をかけ「グェケーッケッケケケケ」と鳴きながら翔び交わす。外国から来る意の朝鮮鳩であるが、隣の山平地区では翼の下面に紋があるので、この鳥をモンツキ(紋付)といっている』とあった。これは、所謂、姿の「仏法僧」である、ブッポウソウ目ブッポウソウ科 Eurystomus 属ブッポウソウ Eurystomus orientalis なのであるが、「頭・背、灰黑色〔にして〕、腹、灰白〔にて〕鷹彪〔(たかのふ)〕有る者」ではないし、凡そブッポウソウはカワラバトとは似ても似つかぬから違う。識者の御教授を乞う。

「金鴿〔(きんばと)〕」ハト科 Chalcophaps 属キンバト Chalcophaps indicaウィキの「キンバトによれば、『種小名indicaは「インドの」の意』。棲息地は『インド、インドネシア、オーストラリア(クリスマス島、ノーフォーク島含む)、カンボジア、シンガポール、スリランカ、タイ、中華人民共和国、台湾、ネパール、バヌアツ、パプアニューギニア、バングラデシュ、フィリピン、ブータン、ブルネイ、ベトナム、マレーシア、ミャンマー、ラオス』。『日本では、宮古島以南の南西諸島に留鳥として分布する。他の地域での観察記録はほとんどない』。但し、日本の八重山列島の固有亜種として、キンバト Chalcophaps indica yamashinai が棲息する。全長二十五センチメートルとカワラバトより小さく、『頭部から背面にかけては青味がかった灰色、背面と雨覆は光沢のある緑色、腹面は褐色の羽毛で覆われる』。『嘴や後肢は赤い』。『オスは額から眼上部の羽毛が白いが、メスは灰色』とある。

「局局〔(つぼつぼ)〕」私の当て読み。それぞれの割り当てられた巣。

「匹-偶(めをと)」夫婦。

「居〔(を)〕ること」「にて」ぐらいの送り仮名を追加で附すべきか。

「貞節なる者なりと謂ひつべし」良安はハト好きだったのではあるまいか。「本草綱目」の「其の性、最も淫」というのには我慢ならなかったからこそ、かく記したような気がしてならない。

「共に是れ、匹偶〔(めをと)〕なり」それでは兄妹の近親交雑で瞬く間に子孫が出来なくなるような気がしますが? 良安先生?

「午」午前十二時。

「酉」午後六時。

「午」翌日の正午のこと。抱卵時間割り当てはは六時間、は十八時間ということになる。但し、こんな役割分担は、多分、ない。総てであろう。

「蕪菁子(なたね)」狭義に「なたね」と言ったら、「菜種」で、アブラナ目アブラナ科アブラナ属ラパ rapa 変種アブラナ Brassica rapa var. nippo-oleifera の菜種油を採る種子だが,

通常、「蕪菁子」(音「ブセイシ」)と書いたら、漢方でカブ(ラパ rapa 変種カブ(アジア系)Brassica rapa var. glabra)の塊根と種子のことである。

「野鴿〔(のばと)〕【一名、「堂鴿〔(だうばと)〕」。】」「家鴿と同類異種なり」冒頭引用で見る通り、これが現行の「ドバト」なら(次注参照)異種ではなく、全くの同種である。なお、私は現行の「ドバト(土鳩)」という語を無批判に使っていたが、室町期の「塔鳩(たうばと)」(=当時の口語推定発音「ばと」)、安土桃山時代の「堂鳩(だうばと)」(=当時の口語推定発音「ばと」)の後、全く先行する呼称と無関係、江戸時代になって「土鳩(どばと)」という呼称が出現したと考える方が不自然で、私は「土」を当てるのは後附けに過ぎず、これは先行する「とうばと」「どうばと」が短縮化したものと採るべきではないかと考えている。

「冠〔(さか)〕無きを異と爲す」どうも変だ。先に言った鼻瘤が、カワラバト=ドバトのように白く盛り上がったりせず、至って目立たないというのは、実は、

ハト科キジバト属キジバト Streptopelia orientalis

の特徴であるからだ。しかし、「鴿を畜ふの家、亦、必ず、堂鴿を畜ふ。如〔(も)〕し、鴿、去つて歸らざれば、則ち、堂鴿をして、若干(そこばく)、飛び舞はして、之れを誘ひ歸らしむなり」というのはどうだろう? こんな習性がカワラバトとキジバトの間に成立するとは思われないのだか?]

古今百物語評判卷之三 第六 山姥の事附一休物語幷狂歌の事

 

  第六 山姥(やまむば)の事一休物語狂歌の事

又、問(とふ)ていはく、「世に、山姥(やまうば)といふ物ありて、人をとるよし、又は、人の女房にばけたる物語なども候ふ、實(まこと)の女ににて候ふや、不審(いぶかし)さよ」と云(いひ)けるに、先生、評していはく、「山姥といふは深山幽谷の鬼魅(きみ)の精たるべし。此世界あれば、此人あり。此水あれば、此魚、生ず。其氣のあつまる所にては鬼魅の精靈、あるまじきにあらず。併しながら、其(その)姥(うば)といへるは、『龍田姫(たつたびめ)』・『山姫(やまひめ)』などの日本の云ひならはしなるべし。其名に付きて、しづはたのたくみにかゝずらひ、苧(を)うみ、絲(いと)つむぐやうに、謠(うたひ)の曲舞(くせまひ)にも諷(うた)ふなるべし。さて又、此曲舞を、一休和尚、作り給へる時、『佛あれば、衆生あり、衆生あれば、山姥もあり』と作りて、此間(このあひだ)の詞(ことば)を如何(いかゞ)とおもへる時、螺河(にながは)新右衞門、來たりて、『「柳(やなぎ)は綠、花は紅(くれなゐ)の色々」と候はゞ、あとさき、相應して侍らむと付けられし、と申(まうし)ならはせり。又、過ぎし頃、某(それがし)、『ばけ物』を題にして、『戀(こひ)』の狂歌、讀みしに、『山姥』をよみしは、

 とち程(ほど)な泪(なみだ)を袖にとゞめかね

     聲をあけ路(ろ)の山にふしぬる

 春さればこなたのことや忘るらん

     花をたづねて山めぐりして」

[やぶちゃん注:「山姥」の標題の「やまむば」と本文の「やまうば」(本文は総てこれ)のルビの相違は原典のママ。妖怪「山姥」については、「老媼茶話巻之五 山姥の髢(カモジ)」の本文及び私の注を参照されたい。

「此世界あれば、此人あり。此水あれば、此魚、生ず。其氣のあつまる所にては鬼魅の精靈、あるまじきにあらず」化生説である。

「龍田姫」ウィキの「竜田姫」を引く。『日本の秋の神。立田姫と表記されることもある。別称・龍田比売神。竜田山の神霊で元々は風神。秋の季語』。『五行説では西は秋に通じ、平城京の西に位置する竜田山(現在の奈良県生駒郡三郷町の西方)の神霊が秋の女神としての神格を持ったもの。龍田比古龍田比売神社』(たつたひこたつたひめじんじゃ:奈良県生駒郡斑鳩町(いかるがちょう)龍田にある龍田神社の旧正式名。ここ(グーグル・マップ・データ)。「延喜式神名帳」にもこの社名で記載されており、小社に列している。しかし、後に龍田大社(奈良県生駒郡三郷町立野南)から天御柱命・國御柱命の二神を勧請したため、本来の祭神は忘れられてしまった。現在は天御柱命・國御柱命を主祭神とし、龍田比古神・龍田比女神を配祀している)『に祭られる龍田比古神が夫神であり、鮮やかな緋色や黄金の秋の草木の錦を纏った妙齢の女性として想像される』。「竜」が「裁つ」に『音が似ているため裁縫の神としても信仰される。また』、『竜田山を彩る紅葉の美しさから、紅葉を赤く染める女神として染色が得意ともされた』。「源氏物語」の「帚木(ははきぎ)」の、知られた「雨夜の品定め」の場面には左馬頭のかつての妻が染色が巧みであったことを龍田姫になぞらえている。当時、染めものが得意であることは』、『良き妻の条件の最たるものだった』。『春を司る佐保山の佐保姫と東西・春秋の一対の女神として知られ、他にも夏を司る「筒姫」、冬を司る「宇津田姫」(白姫・黒姫とされることも)が四季それぞれに配される』とある。

「山姫」原初的には山の守り神たる女神を指したが、後に山中の妖怪に変質し、人の血を吸って死に至らしめるなどの言い伝えが、全国各地に広く残っている。以前は先の「龍田姫」と同じであったに相違ないが、零落するに従って「山女(やまおんな)」「山母(やまはは)」「山女郎(やまじょろう)」「山姥(やまうば/やまんば)」果ては「鬼婆(おにばば)」などへと変容するとともに、若くて抜けるような白い肌を持った美女から、醜悪な老婆へと変じて蔑称となってゆくのは実に皮肉で憐れを誘う。「谷の響 一の卷 三 山婦(やまおみな)」の本文及び私の注、及び私の「宿直草卷三 第五 山姫の事」も参照されたい。

「しづはたのたくみにかゝずらひ」「賤機の巧み」であろうか。機織りは女性の専業であるから女の意に転じ、賤しい女の巧みな誘惑に心を惹かれ。無論、文学的情緒的比喩としてである。

「苧(を)うみ」「苧を績(う)む」「苧」は「そ」とも読む。麻(あさ)や苧(からむし)の繊維を長く縒(よ)り合わせて糸にすることを指す。

「謠(うたひ)の曲舞(くせまひ)」ウィキの「曲舞」によれば、『中世に端を発する日本の踊り芸能のひとつで、南北朝時代から室町時代にかけて流行した。単に「舞」と称することもあり、「久世舞」「九世舞」などとも表記する』。『幸若舞の母体になった舞である』。その『起源は不詳であるが』、十五世紀末から十六世紀『初頭にかけて成立したとみられる』「七十一番職人歌合」には『白拍子と対にして描かれており、両者の服装や囃子などの共通点から、平安時代末期に成立した白拍子舞に源流を求める見解がある』。『曲舞は、ストーリーをともなう物語に韻律を付して、節と伴奏をともなう歌舞であり、踊り手には稚児と男があった』。稚児舞は『水干、大口、立烏帽子の服装、男舞は水干にかわって直垂を着用して、扇を手にもつスタイルを基本とした』。『また、男装した女性による女曲舞もあった』。謡曲の「山姥(やまんば)」や「百万」(ひゃくまん:観阿弥原作・世阿弥改作になる狂女物の代表作。実在の鎌倉時代の女舞い手百万をモデルとする主人公「百万」の芸が披露されるとともに、失った子を探す母の母性が描かれる。前の「山姥」は、ツレとして曲舞の名女舞い手芸名「百万山姥」が登場し、本作との親和性が強い)は『古来の曲舞の様相を現代に伝えるとの評がある』『一方、室町時代の中期以降は、特にその一流派であ』った『幸若というスタイルで継承されてゆくこととなった』とある。謡曲の「山姥」は世阿弥作で、都の曲舞の名手の遊女が山で迷い、山姥に助けられ、山姥は境涯を語り、山巡りの舞を見せて消える。詳しくはサイト「the能.com」の「山姥」及び次注のリンク先を見られたい。

「此曲舞を、一休和尚、作り給へる時」「銕仙会」公式サイトの「能楽事典」の「山姥」の中野顕正氏の解説によれば、『本作のクライマックスとなってい』る『場面では、〈仏法と世俗〉〈悟りと煩悩〉〈仏と人間〉といったこの世のあらゆる存在が、本来は二項対立的に存在するものではなく、ひとつの真理の異なる現れ方に過ぎないのだと述べられており、その中で「人間も山姥も、本来は同じ存在なのだ」と主張されています。こうした「邪正一如」という仏法の理を、禅の言葉などを多用しながら綴っているところに、本作の特色はあるといえましょう』。『現在では、本作の作者が世阿弥であることは資料上から明らかとなっていますが、かつては、このような難解な作品を書いたのはきっと僧侶に違いないと考えられていた時期もあり、本作は室町時代の有名な禅僧・一休宗純の作だと考えられていました。一休の死後にその事績をまとめた『一休和尚年譜』では、本作や《江口》は一休の作であるとされ、以前はこうした理解がなされていたのでした。それほど、本作では深遠な禅の理法が説かれ、輪廻を逃れ得ぬ鬼女の身でありながらこの世の真理をきわめた存在として、本作のシテは描かれていたといえましょう』とあり、この元隣の言っている意味が判然とする。謡曲「山姥」の上記のクライマックス・シークエンスで、元隣の引く「佛あれば、衆生あり、衆生あれば、山姥もあり」という詞章の出るのは以下(新潮日本古典集成「謡曲集 下」(伊藤正義校注・一九八八年刊)を参考にし、漢字を恣意的に正字化した。太字下線は本条のために私が施したもの)。

   *

【クリ】

シテ〽「それ山といつぱ 塵泥より起こつて 天雲掛かる千丈の峰

地謠〽「海は苔の露より滴(しただ)りて 波濤を疊む萬水たり

【サシ】

シテ〽「一洞(いつとう)空しき谷の聲 梢に響く山彦の

地謠〽「無聲音(むしやうをん)を聞く便りとなり 聲に響かぬ谷もがなと 望みしもげにかくやらん

シテ〽「殊にわが住む山家(さんか)の景色 山高うして海近く 谷深うして水遠し

地謠〽「前には海水瀼々(じやうじやう)として 月(つき)眞如の光を揭げ 後(うしろ)には嶺松(れいしよう)巍々(ぎぎ)として風(かぜ)常樂の夢を破る

シテ〽「刑鞭(けいべん)蒲(かま)朽ちて螢空しく去る

地謠〽「諫鼓(かんこ)苔深うして 鳥驚かずとも言ひつべし

【クセ】

地謠〽「遠近(をちこい)の たづきも知らぬ山中(やまなか)に おぼつかなくも呼子鳥の 聲凄き折々に 拔木丁々(とうとう)として 山さらにかすかなり 法性(ほつしやう)峯聳えては 上求(じやうぐ)菩提を現はし 無明(むみやう)谷(たに)深き粧ひは 下化(げけ)衆生を表(ひやう)して金輪際に及べり そもそも山姥は 生所(しやうじよ)も知らず宿(やど)もなし ただ雲水(くもみづ)を便りにて 至らぬ山の奧もなし

シテ〽「しかれば人間にあらずとて

地謠〽「隔つる雲の身を變へ 假に自性(じしやう)を變化(へんげ)して 一念化生(けしやう)の鬼女となつて 目前に來れども 邪正一如(じやしやういちによ)と見る時は 色卽是空そのままに 佛法あれば世法(せはう)あり 煩惱あれば菩提あり 佛(ほとけ)あれば衆生あり 衆生あれば山姥もあり 柳は綠 花は紅(くれなゐ)の色々

地謠〽「さて人間に遊ぶこと ある時は山賤(やまがつ)の 樵路(せうろ)に通ふ花の蔭 休む重荷に肩を貸し 月もろともに山を出で 里まで送る折りもあり またある時は織姫の 五百機(いをはた)立つる窓に入つて 枝の鶯絲繰り 紡績(ほうせき)の宿に身を置き 人を助くる業(わざ)をのみ 賤(しづ)のめに見えぬ 鬼とや人の言ふらん

シテ〽「世を空蟬の唐衣(からころも)

地謠〽「拂はぬ袖に置く霜は 夜寒(よさむ)の月に埋(うづ)もれ 打ちすさむ人の間にも 千聲萬聲(せんせいばんせい)の 砧(きぬた)に聲のしで打つは ただ山姥が業なれや 都に歸りて世語りにせさせ給へと 思ふはなほも妄執か ただうち捨てよ何事も よしあしびきの山姥が 山𢌞りするぞ苦しき

シテ〽「あしびきの

地謠〽「山𢌞り

   *

「此間(このあひだ)の詞(ことば)を如何(いかゞ)とおもへる」この詞章の意味するものは如何なる意味かと考えていた。

「螺河(にながは)新右衞門」不詳。元隣の友人の俳諧師かと思ったが、ウィキの「蜷川氏」を見たところ、『室町幕府において、政所執事を世襲した伊勢氏の家臣であり、親直から数えて』三『代目の蜷川親当(後の智蘊)の頃より政所代を世襲することとなった。室町時代末期、主君である将軍足利義輝を失った蜷川親世は零落し、出羽国村山郡で没した。嫡子蜷川親長を始めとする一族の多くは、土佐国の長宗我部元親のもとへ落ちのびた(元親室石谷氏が親長の従兄弟。石谷氏は、明智光秀重臣の斎藤利三の妹)』。『また、蜷川氏は丹波国船井郡を所領としていたことと、伊勢貞興が明智光秀の家臣にとなったこともあり、蜷川貞栄・蜷川貞房父子等の一族が光秀に仕えた。山崎の戦いで明智氏が滅亡した後は、元親のもとへ落ちのびた一族もおり、丹波で暮らし続けた一族もいる』。『長宗我部氏滅亡後、親長は徳川家康の御伽衆として仕えた。その後蜷川氏は旗本として続き、明治維新に至る』とし、さらに『蜷川氏の当主は代々』、『新右衛門と名乗っている』とある。更に『蜷川新右衛門といえば、テレビアニメ』「一休さん」(一九七五年~一九八二年)に『足利義満の側近で寺社奉行の武士蜷川新右エ門が登場するが、モデルとなった』蜷川親当(ちかとも ?~文安五(一四四八)年:出家後に智蘊(ちうん)と称した。室町中期の元幕府官僚で連歌師)『が仕えたのは足利義教であり、そもそも室町幕府に寺社奉行はなく、実際のところ一休宗純と師弟関係があったのも』、『親当が出家して智蘊と名乗ってからのことであり、ほとんど架空の人物である。ただ、親当の嫡子蜷川親元が記した』「親元日記」や、一休の「狂雲集」には『蜷川親当(智蘊)と一休の交流(禅問答など)が綴られており、これをスタッフがアニメ制作の参考にしたのではないかとみられる』とある。ウィキの「智蘊」によれば、『法名は五峰』とあり、『室町幕府の政所代を世襲する蜷川氏の出身で、蜷川親俊の次子。子に親元、岩松明純室がいる。一休宗純との親交により広く知られる』。『応安(およそ』一三七〇『年代前半)の頃まで越中国太田庄にあった。足利義教の政所公役を務めたが、義教の死後出家、智蘊と号した。和歌を正徹に学ぶ。正徹の』「正徹物語」下巻の『「清巌茶話」は彼の聞書きとされている』。『連歌では』、永享五(一四三三)年の『「永享五年北野社一日一万句連歌」を初出として、多くの連歌会に参加。宗砌と共に連歌中興の祖と呼ばれた。連歌集に』「親当句集」、他にも「竹林抄」や「新撰菟玖波集」に『入集している。宗祇が選んだ連歌七賢の一人』とある。無論、元隣が当時の蜷川氏当主と親しかったのかも知れないが、或いは、この部分、元隣の創作の可能性もあるのではないか、と感じた。則ち、彼の元にやってきたのは、実在する「螺河(にながは)新右衞門」ではなく、二百数十年前の蜷川新右衛門親当(智蘊)の霊という設定であり、彼が歌合せ風に詠んだとして掲げる二首の狂歌は、実は元隣の作ではないか、という疑いである。大方の御叱正を俟つ。

「柳(やなぎ)は綠、花は紅(くれなゐ)の色々」前掲の謡曲「山姥」の詞章の引用(太字下線部)。新潮日本古典集成「謡曲集 下」の注の指示する謡曲「芭蕉」の「柳は綠 花は紅と知ることも ただそのままの色香の 草木(さうもく)も成佛の國土ぞ」という詞章の頭注に、『〈柳は緑、花は紅」に、それぞれあるがままの姿が仏の体だと知ってみれば、それはとりもなおさず』、『色香を保つ草木のままで成仏している仏国土なのだ〉。「柳緑花紅真面目」は蘇東坡の詩と伝えられているが』、『元拠不詳。元来』、『禅語らしいが「世間相常住」の例証として流布し、天台本覚論』(平安後期に始まり、中世に盛行した天台宗の現実や欲望を肯定的に捉える理論。本覚の解釈を拡大して、現実の世界や人間の心がそのまま真理であり、本覚そのものの姿であると説き、煩悩と菩提を同一のものとし、修行を軽視する傾向をもつ。ここは三省堂「大辞林」に拠った)の『中にも説かれる』とある。

「あとさき、相應して侍らむと付けられし」謡曲「山姥」の当該箇所、「邪正一如と見る時は 色卽是空そのままに 佛法あれば世法あり 煩惱あれば菩提あり」に続けて「佛あれば衆生あり 衆生あれば山姥もあり」とした後に、「柳は綠 花は紅(くれなゐ)の色々」と、論理的に相応しく、詞章を繫げたことを指す。

「とち程(ほど)な泪(なみだ)を袖にとゞめかね聲をあけ路(ろ)の山にふしぬる」底本は「あげ路」とする。「ろ」の読みは原典に拠った。「とちほどの」は「栃程の淚」で、栃の実ぐらいの、大粒の涙(これは子供っぽい無垢さ、山姥の中の少女(姫)性を含ませるか)の意。「あけ路(ろ)」はまず、底本の「あげ路」で「上げ路」、山へ登る道で、それに己が宿命に声を「あげろ」(上げていること)を掛けるか。或いは「あけろ」で「明け路」、一夜泣き叫ぶうちに「朝明けを迎える山路」にやっと僅かな眠りを持つ、の謂いか? よく判らぬ。識者の御教授を乞う。

「春さればこなたのことや忘るらん花をたづねて山めぐりして」「されば」は「来れば」の意。単品ではどうということはないつまらぬ一首だが、左の悲壮な一首と合わせ読むと、なにか胸を撃つものがある。この歌は何かの元歌がありそうだが、和歌嫌いの私には判らぬ。同じく識者の御教授を乞うものである。]

2018/10/15

古今百物語評判卷之三 第五 貧乏神幷韓退之送窮の文、范文正公物語の事

 

  第五 貧乏神韓退之送窮の文(ぶん)、范文正公物語の事

Binbougami

[やぶちゃん注:入れ子の会話文が多いので、特異的に改行・字下げ及びその他の記号を施して読み易くしてみた。]

 ある人の云(いはく)、

――去(さる)物語たりに云へるは、河西(かはにし)あたりの、きはめてまづしき者、何事も『左(ひだり)ずまふ』をとるがごとく、くる年も侘しく、明くる年も心にかなはねば、

「とやせん、かくやらむ。」

と、身のをき所さへ案じくらす折ふし、何かは知らず、肩の上より、五寸ばかり成(なる)物、落ちたり。

 取りあげ見れば、人形(ひとかたち)にて、目・鼻・口・舌も、そろひたり。

 彼(かの)貧者、おどろきて、

「汝、何者なれば、我が肩より落ちたる。」

と云へば、答(こたへ)て云く、

「我、世に、いはゆる、貧乏神にて、日頃、こなたの身に住(すま)ゐせし者なり。」

と云へば、貧者、よろこび、妻子を呼(よび)て云ふやう、

「扨々、嬉しきこと哉(かな)。此日比(このひごろ)、此者、我につきまとへばこそ、汝等にも、からき目を見せつれ、向後(けうかう[やぶちゃん注:原典のママ。正しくは「きやうこう」。])よりは、手前もなをり、物每(ものごと)、潤澤なるべし。打ち殺しても捨(すつ)べきなれども、いぬると云へば、其まゝにてたすけやるべし。」

と云へるに、貧乏神、わらつていふやう、

「御悦(おんよろこび)は御尤(ごもつとも)なれども、我、そなたの身をはなるゝに非ず。こなたの身のうへ、頂(いたゞき)より、足のつまさき迄、ひしと、諸方の貧乏神、つきまとひたるうへに、此比(このごろ)、また、新しき神どもの、遠方よりつどひ來たりし故、おり所なく誤(あやまり)て落ち侍る。」

といへば、彼者、興さめて、あきれはてたり、と申す事の候が、若(もし)、此神候哉(や)、左(さ)候はゞ、萬(よろづ)のばけ物よりもおそろしき者にて御座候。――

 

と問(とひ)ければ、先生、評していはく、

 

――此神を『窮鬼(きうき)』[やぶちゃん注:貧乏神。]と名附たり。

 夫(それ)、人の貧富は、天命の禀受(ひんじゆ)[やぶちゃん注:授かり受けること。]の、あつき・薄きによれば、聖賢君子の、德義正しく、智慮ふかしといへども、如何ともする事、なし。孔子・顏淵・曽參(そしん)・原憲(げんけん)の類(るい)、あげてかぞふべからず。

 然るを、愚なる者は(しい)て貧(まづしき)を去り、富を求めむとして、其身をくだし、名をはづかしめ、後には刑戮(けいりく)[やぶちゃん注:刑罰に処すること。死刑に処すること。]に落ちゐる[やぶちゃん注:ママ。]たぐひ、此れ、天命を知らずして、幸(さひはひ)を願ふがゆへ成(なる)べし。

 常體(つねてい)の者は、天命の説も、ことむつかしければ、佛家(ぶつけ)に、いはゆる、三世(さんぜ)の説を立てゝ、過去の宿業(しゆくごふ)と云へるも、害あるにあらず。

 かく、天運によるなれば、神(かみ)有(あり)て司(つかさどれ)るにもあらざめれど、唐の韓退之と申せし大儒も、正月・晦日(つごもり)に酒肉をのせて、文章一篇をつくり、舟にて『窮鬼』を送り給ひしかど、一生が間、不仕合(ふしあはせ)のみ、打續(うちつづき)候故、宋の陳簡齋(ちんかんさい)といふ詩人の詩にも、「韓愈推ㇾ窮窮不去 樂天待ㇾ富富不ㇾ來」(韓愈 窮を推せども窮去らず  樂天 富みを待てども 富み來らず)と作りしとかや。

 又、宋の范文正公と云(いへ)るは、宋朝一人の人品(じんひん)にて、學問才藝は更にもいはじ、好むで、人に施し給ふ。後に饒州(ぜうしう)の守護職に成(なり)給ひて、家、富み、門、榮(さかえ)たり。

 然(しかる)に、其友に、きはめてまづしき浪人ありて、渡世のたつきなかりければ、范文正公と舊友なるによつて、

『合力(かうりよく)に預らばや。』

と思ひて、遙々、饒州にいたりて、此事を嘆きしかば、文正公、もとより、人に物ををしまぬ心なれば、大守たりといへども、一錢のたくはへ、なし。

 折節、六月の頃なれば、文正公、仰せけるは、

「當夏(とうなつ)の税(みつぎもの)に麥を數萬石(すうまんごく)おさめしを、せがれ某(それがし)をして、慰みがてら、奉行にそへて、賣りに遣したり。此者、歸らば、此金をあたふべし。」

とて、待(まち)給ふに、子息、歸りて申さるゝは、

「むぎをそれぞれに賣(うら)せける所に、古鄕(ふるさと)を通りしかば、親類どもの、まづしく候ふ者に、のこらず、あたへて歸り候ふ。」

と申されし故、文正公も、彼の友だちも、力をおとしぬ。

 さて、其後(のち)、文正公、仰出(おほせいで)らるゝは、

「此州に晉(しん)の王義之の石碑あり。是を石ずりにうつ時は、壹枚を黃金(わうごん)一斤(いつきん)には賣れ、やすかるべし。されども、平人(へいにん)の是をうつ事、あたはず。我、幸(さひはひ)、守護なれば、心易し。」

とて、則(すなはち)、其石摺り百枚をうち給ふべき紙硯(かみすゞり)をとゝのへ給ひ、

「既に、いついつの日、打ち給ふべき。」

とて、其(その)近邊に仰付けられ、既に明日はその所へ文正公も諸共(もろとも)に出で給ふべきと定(さだま)りたる今夜、俄に、土民ども、來たりて申(まうす)やう、

「今夕、俄に夕立して、雷(いかづち)、その石碑へ落(おち)候が、雨晴れて後、見候へば、石碑、微塵にくだけ、いづちへ飛びしやらん、行(ゆき)がたを存ぜず。」

と申(まうし)けり。

 その友、とかうすべきやうもなくて、手をむなしくして、かへり侍りぬ。

 誠にけつかう[やぶちゃん注:ママ。「結構」。]なる文正公を友達にもち、かく念比(ねんごろ)に預(あづか)れども、其數(すう)のきはまりには、是非にも及ばぬ事ならずや。東坡(とうば)が「一夕雷轟饒州碑」(一夕(いつせき) 雷(らい) 轟かす 饒州の碑)と作りしは、此事なり。――

とかたられき。

[やぶちゃん注:「河西(かはにし)」よく判らぬ。辞書では、京都市の西洞院川又は堀川の西、下京二条通り以南の一帯。元禄期(一六八八年~一七〇四年)に職人・小商人が多く住んでいたとし、別に京の賀茂川の西の遊所。陰間茶屋が並んでいた、とはある。

「左(ひだり)ずまふ」「左相撲」であろうが、不詳。「左前」と同じなら、「運が傾くこと・経済的に苦しくなること」で腑には落ちる。

「顏淵」孔子第一の高弟顔回の字(あざな)子淵からの呼称。

「曾參」孔子の弟子曾子の諱(いみな)。

「原憲」孔子の門人で才能があった七十子の一人に数えられる弟子。

「三世(さんぜ)」前世・現世・後世(ごぜ)。

「韓退之」中唐の詩人で唐宋八大家の一人、文学者・政治家でもあった韓愈(七六八年~八二四年)の字(あざな)。才気煥発であったが、監察御史の時、京兆尹(いん)李実を弾劾し、却って連州陽山県(広東省)令に左遷され、後に中央に復帰し、刑部侍郎となったが、憲宗が仏舎利を宮中に迎えたことに反対したため、再び、潮州(広東省)刺史に左遷された。後に憲宗が死去して穆宗(ぼくそう)が即位すると、再び召され、国子祭酒から兵部侍郎・吏部侍郎を歴任するなど、政治家としては波乱に満ちた生涯であった。

「文章一篇をつくり、舟にて『窮鬼』を送り給ひし」八一一年、韓愈四十四歳の折り、正月に作った「送窮文」(窮を送る文)を指す。「結柳作車、縛草爲船」(柳を結びて車と作(な)し、草を縛りて船と爲し」て、窮鬼を送り出す祀り(貧乏神送りの儀式。唐・宋以来、年越し前に広く行われていた年中行事の一つ)を述べたもの。この文で彼は行事に託して「窮鬼」と自分との架空の対話を述べている。「紀頌之の中国詩文研究のサイト」の「韓愈の生涯」の「第五章 中央朝廷へ復帰」の「送窮」がよい。梗概を彼が陥れられた冤罪を含め、解説と評を交えて語られており、原文も後に示されてある。

「陳簡齋」(一〇九一年~一一三九年)は南宋初期の詩人で政治家の陳与義の号。開徳府教授から太学博士・符寶郎となるが、左遷されたりした。しかし、一一三八年には参知政事となり、大いに朝廷の綱紀を粛正した。詩に優れた。人格的にも非常に厳格で、濫りに笑わなかったという。

「韓愈推ㇾ窮窮不去 樂天待ㇾ富富不ㇾ來」陳与義の以下の詩の冒頭二句であるが、「韓愈」は「退之」の誤り。本名を詠み込むのは礼を失している。訓読は歯が立たないのでやめる。悪しからず。

   寄若拙弟兼呈二十家叔

 退之送窮窮不去

 樂天待富富不來

 政須靑山映白髮

 顧著皂蓋爭黃埃

 何如父子共一壑

 龐家活計良不惡

 阿奴況自不碌碌

 白鷗之盟可同諾

 三間瓦屋亦易求

 著子東頭我西頭

 中間共作老萊戲

 世上樂複有此不

 問夢膏肓應已瘳

 歸來歸來無久留

 竹林步兵非俗流

 爲道此意思同遊

「范文正公」北宋の政治家范仲淹(はんちゅうえん 九八九年~一〇五二年)の諡(おくりな)。欧陽脩の推薦によって枢密副使・参知政事となった。彼は君子の正道を論じて十策に及ぶ施政改革を訴えた。散文にも優れ、著名な「岳陽楼記」の中の「天下を以つて己が任となし、天下の憂いに先んじて憂へ、天下の楽しみに後(おく)れて樂しむ」という「先憂後楽」(後楽園の由来)、儒学を人格形成の実学に高めた人物として知られる(主にウィキの「范仲淹」に拠る)。

「饒州(ぜうしう)」(現代仮名遣「じょうしゅう」)は江西省に嘗て設置されていた州。現在の上饒(じょうじょう)市鄱陽(はよう)県一帯。ここ(グーグル・マップ・データ)。仁宗の親政の時、范仲淹は中央で採用されて吏部員外郎となったが、宰相の呂夷簡に抗論して、饒州に左遷されている(後に欧陽脩の推輓により中央に復帰)。

「古鄕(ふるさと)」范仲淹は蘇州呉県(江蘇省蘇州市)の出身。

「王義之」東晋の政治家で書家として「書聖」と謳われる王羲之(三〇三年~三六一年)。

「石ずりにうつ」石摺りに叩いて拓本として採ること。

「一斤」宋代のそれは五百九十六・八二グラム。

「やすかるべし」それで生活を安んずることが出来よう。

「念比(ねんごろ)に預(あづか)れども」非常な好意に預かったにも拘わらず。

「其數(すう)のきはまり」その浪人の貧として生まれつきの宿命として規定されたその限り。

『東坡(とうば)が「一夕雷轟饒州碑」(一夕(いつせき) 雷(らい) 轟かす 饒州の碑)と作りし』中文サイトを判らぬながら、いろいろ調べて見たが、蘇軾の「窮措大」(「貧乏学者」の意)という詩の一句らしいところまでしか判らなかった。また、以上の後半部の王義之の碑に纏わるこの不幸譚は、例えば、宋の恵洪(えこう)の詩話集「冷齋夜話」という書に、

   *

範文正守鄱陽。有書生獻詩甚工。文正延禮之。書生自言、平生未嘗得飽。天下之至寒餓者。無出其右。時盛習歐陽率更字。薦福寺碑墨本直千錢。文正爲具紙墨打千本。使售于京師。紙墨已具。一夕雷撃碎其碑。故時人語曰、有客打碑來薦福。無人騎鶴上揚州。東坡作窮措大詩、有一夕雷轟薦福碑句。

   *

と載る。また……いろいろ検索しているうちに、『薦福寺碑  僧人大雅又集王羲之行書刻成之「興福寺碑」』というページを見つけましたが、これがそれかどうかは、もう疲れました、勘弁して下さい、悪しからず。

古今百物語評判卷之三 第四 錢神の事附省陌の事

 

  第四 錢神(ぜにがみ)の事省陌(せいはく)の事

かたへより、問(とふ)て云(いはく)、「世に錢神といふものありて、たぞかれ時に薄雲のやうなる物の氣、一村(ひとむら)[やぶちゃん注:一塊り。]、其聲をなして、人家(ひとのいへ)の軒だけを、ざゝめきわたれり。見る人、刀をぬきて切りとむれば、錢多くこぼれ落つる、と云へり。然れども、誰(たれ)得たりといふ者を聞かず候。あるべきものにや」と問(とひ)ければ、先生、答(こたへ)ていはく、「是れ、世界の錢の精、空中に靡(たなび)く物なりけらし。何にても、其物、あつまれば、其精、必ず、生ず。陽の精は日となり、陰の精は月と也(なり)、金石(きんせき)の精は星となれば、錢、もと、人爲(じんゐ)にいづる物なれども、その集(あつま)るに及(および)ては、其精、なきにしもあらじ」。又、問て云く、「『子母錢(しぼせん)』と申すもの御座候よし。如何成(なる)事にて候ふや」。云く、「是れ、仙術のひとつにして、昔より申(まうし)ならはし侍る。其法は『靑蚨(せいふ)』といふ蟬と似たる蟲の、かいこのごとくなる子を、草村(くさむら)に生じをけるを、とれば、其母、必(かならず)、たづね來れるを、とりて、母の血をしぼり、八十一の錢にぬり、子の血をも、又、八十一の錢にぬりて、その一方の錢を以て市(いち)に出(いで)て物を買へば、子母(しぼ)の契り、淺からぬ故に、其錢、飛歸(とびかへ)るゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、常に、へる事、なしといへり。『子母錢成(なつて)豈患ㇾ貧(あにひんをうれへんや)』と唐の人の作りしも此事に侍る。されど、我朝にては誰(たれ)心見(こころみ)しとも聞(きき)侍らず。そも錢の起りは、外(そと)の圓(まる)きは天になぞらへ、内の方(けた)なるは、地にかたどりて、もろこしにては女媧氏(ぢよかし)の、世に、作り出(いだ)せり。本朝にては聖武皇帝の時に鑄初(ゐはじめ)けるとかや。其文(もん)は『開基』・『太平』・『萬年勝寶』・『元寶通寶』など也。猶、後にはもろこしにても、年號を加へて、其名とせり。開元・淸和(せいわ)の類(るい)、是れなり。むかしより、新しき錢出(いで)來ては、古きはすたりし時もあり、又、新舊ともに用ひらるゝ政(まつりごと)も、あり。皆、其時のよろしきに隨(したがへ)り。猶、此銅錢どのは、いかなる心よしやらん、智のあるも、をろかなる[やぶちゃん注:ママ。]も、ちかづかまほしく思へり。され共、類(たぐひ)[やぶちゃん注:ここは「るい」の方が判りがいい。]を思ふ物にて、其多き所には、まねかざれども、集(あつま)り、すくなき所には、たまたま至れども、一夜(いちや)の宿(やど)をも、かる事なし。就ㇾ中(なかんづく)和漢ともに私(わたくし)に鑄る事は、つよき禁制なり。金錢・銀錢は名高き物なれど、私にも鑄るならはしも侍るは、何事ぞや。銅錢は通用の寶(たから)にして、金銀は私の寶なればならん。それ、人の富饒(ふねう)・貧乏は天命のなせる分(ぶん)也。縱逸(ほしいまま)に通寶を鑄ば、誰(たれ)か貧しからん。もし、人の力(ちから)をもつて、貧富を自在にせば、人、よく天に勝(かて)るなり。豈(あに)よく天に勝たむや。又、錢の數(かず)を九十六文にせし事、いづれの時より定(さだまれ)りとも覺束なし。唐土(もろこし)にても、時と所により、九十文、或は、八十文、五十七文なるもあり。これを『省陌』と云ふよし、明の楊升庵(やうしようあん)が「丹鉛總錄」に見えたり」。

[やぶちゃん注:「錢神」という妖怪・怪異は私は他に聴いたことがない。ウィキに「金霊」があり、そこでは「金霊」「金玉」が挙げられ、「かねだま」或いは「かなだま」と読むとあるものの、『金霊と金玉は似て非なるものだが、訪れた家を栄えさせるという共通点があり、金玉が金霊の名で伝承されていることもある』とする。私はこれらと、この「銭神」なるものは、ルーツは同じであろうが、属性や様態に致命的な変質が起こって、肝心の部分(善人限定・家業繁栄・幸運招来等々)が、皆、抜け落ちてしまい、出来(しゅったい)の謂れも脱落し、それこそ、神から零落して妖怪に堕してしまったもののように思われる。まず、「金霊」であるが、『鳥山石燕による江戸時代の妖怪画集』「今昔画図続百鬼」(安永八(一七七九)年刊)に『よれば、善行に努める家に金霊が現れ、土蔵が大判小判であふれる様子が描かれている。石燕は同書の解説文で、以下のように述べている』(所持する刊本の原典画像で以下は補正した。返り点「二」はないが、挿入し、句読点・鍵括弧を打った。リンク先に原画像もある)。

   *

 金靈(かねだま)

金(かね)だまは金氣(きんき)也。唐詩に「不ㇾ貪夜識金銀氣(むさぼらずして よる きんぎんのきをしる)」といへり。又、「論語」にも「冨貴在ㇾ天(ふうきてんにあり)」と見えたり。人、善事(ぜんじ)を成せば、天より福をあたふる事、必然の理(り)也。

   *

以下、私が独自に示す。この「不貪夜識金銀氣」は「唐詩選」にある杜甫の七律「題張氏隱居」の五句目である。

  題張氏隠居

 春山無伴獨相求

 伐木丁丁山更幽

 澗道餘寒歷冰雪

 石門斜日到林丘

 不貪夜識金銀氣

 遠害朝看麋鹿遊

 乘興杳然迷出處

 對君疑是泛虛舟

    張氏の隱居に題す

  春山 伴(とも)無く 獨り相ひ求む

  伐木 丁丁(ちようちよう) 山 更に幽なり

  澗道(かんだう)の餘寒 冰雪(ひようせつ)を歴(へ)

  石門の斜日(しやじつ) 林丘に到る

  貪らずして 夜(よ) 金銀の氣を識り

  害に遠ざかつて 朝(あした)に麋鹿(びろく)の遊ぶを看る

  興に乘じては 杳然(ようぜん)として出處に迷ひ

  君(きみ)に對し 疑ふらくは 是れ 虛舟を泛(うか)べしかと

最終句は、「荘子」の「山木篇」の「方舟而濟於河、有虛船、來觸舟、雖有惼心之人不怒」(舟を方(なら)べて河を濟(わた)るに、虛船有り、來たりて舟に觸るれど、惼心(へんしん)の人有りと雖も怒らず:舟で川を渡ろうとした折り、人の乗っていない舟が流れ来たってその人の舟に衝突したとしても、どんなに短気な人であっても腹の立てようはない。)という話に基づき、張氏の無心さを譬えている(以下、引用に戻る)。

『からの引用で、無欲な者こそ埋蔵されている金銀の上に立ち昇る気を見分けることができるとの意味である。また』(以下、私が補填した)「冨貴在天」は「論語」の「顔淵第十二」の「司馬牛憂曰、人皆有兄弟、我獨亡。子夏曰、商聞之矣、死生有命、冨貴在天。君子敬而無失、與人恭有禮、四海之内、皆兄弟也。君子何患乎無兄弟也。」(司馬牛、憂へて曰はく、「人は皆、兄弟(けいてい)有り、我に獨り亡(な)し。子夏、曰はく、「商(しよう)、之れを聞く。死生(しせい)、命(めい)有り。冨貴(ふうき)、天に在り。君子、敬して失ふ無く、人と與(まぢ)はるに恭(うやうや)しくして禮有らば、四海の内、皆、兄弟なり。君子、何ぞ兄弟無きを患へんや。:「商」は子夏の名。)『からの引用で、富貴は天の定めだと述べられている。これらのことから』、『石燕の金霊の絵は、実際に金霊というものが家に現れるのではなく、無欲善行の者に福が訪れることを象徴したものとされている』。『同時期にはいくつかの草双紙にも金霊が描かれている例があるが、いずれも金銭が空を飛ぶ姿で描かれている』。享和三(一八〇三)年の『山東京伝による草双紙』「怪談摸摸夢字彙(かいだんももんじい)」では『「金玉(かねだま)」の名で記載されており、正直者のもとに飛び込み、欲に溺れると去るものとされている』。『昭和以降の妖怪関連の文献では、漫画家・水木しげるらにより、金霊が訪れた家は栄え、金霊が去って行くと家も滅び去るものとも解釈されている。また水木は、自身も幼い頃に実際に金霊を目にしたと語っており、それによれば金霊の姿は、轟音とともに空を飛ぶ巨大な茶色い十円硬貨のような姿だったという』。『東京都青梅市のある民家では、実際に人家に金霊が現れたという目撃例がある。家の裏の林の中に薄ぼんやりと現れるもので、家の者には恐れられているが、その家でも見れば』、『幸運になれるといわれている』(以下に本書の本条の梗概が紹介されているが、略す)。以下、「金玉」の項。『その名の通り』、『玉のような物または怪火で、これを手にした者の家は栄えるという』。『東京都足立区では轟音と共に家へ落ちてくるといい』、『千葉県印旛郡川上町(八街市)では、黄色い光の玉となって飛んで来たと伝えられている』。『静岡県沼津地方では、夜道を歩いていると』、『手毬ほどの赤い光の玉となって足元に転がって来るといい、家へ持ち帰って床の間に置くと、一代で大金持ちになれるという。ただし』、『金玉はそのままの姿で保存しなければならず、加工したり』、『傷つけたりすると、家は滅びてしまう』。滝沢馬琴編の都市伝説集「兎園小説」では、文政八(一八二五)年の『房州(現・千葉県)での逸話が語られている。それによれば、丈助という農民が早朝から農作業に取り掛かろうとしていたところ、雷鳴のような音と共に赤々と光り輝く卵のようなものが落ちて来た。丈助はそれを家を持ち帰り、秘蔵の宝としたという』。そこでは、『では「金玉」ではなく「金霊」の名が用いられているため、金霊を語る際にこの房州での逸話が引き合いに出されることがあるが、妖怪研究家・村上健司はこれを、金霊ではなく』、『金玉の方を語った話だと述べている』また、『同じく妖怪研究家の多田克己は、この空から落ちてきたという物体を、赤々と光っていたとのことから、隕鉄(金属質の隕石)と推測している』。『東京都町田市のある家では、文化・文政時代に落ちてきたといわれる「カネダマ」が平成以降においても祀られているが、これも同様に隕石と考えられている』とある。最後の部分は「兎園小説第七集」の、文政八(一八二五)年乙酉七月一日の「兎園会」での「文寶堂」(薬種商。詳細事蹟不詳)の報告の一つである「金靈(かねだま)幷(ならびに)鰹舟(かつをぶね)の事」(読みは推定)であり、私は既に「柴田宵曲 妖異博物館 異玉」で原文を電子化しているので見られたい。

「子母錢(しぼせん)」ここにある通り、青蚨(せいふ)というセミに似た虫(以下に注する)の母と子の血を、それぞれ、別の銭に塗ると、一方を使った際、残った他方を慕って飛んで帰って来るとある故事(以下に原典を示す)であるが、そこから、世に回り回って流通するところの普通の「銭(ぜに)の異名」となった。また、別に「子銭(利息)と母銭(元金)」の意もあるので注意されたい。さて、故事の元は干宝の「捜神記」の「巻十三」に載る以下である。

   *

南方有蟲、名「𧑒𧍪(とんぐ)」、一名「𧍡蠋(そくしよく)」、又名「靑蚨」。形似蟬而稍大、味辛美、可食。生子必依草葉、大如蠶子、取其子、母卽飛來、不以遠近、雖潛取其子、母必知處。以母血塗錢八十一文、以子血塗錢八十一文、每市物。或先用母錢、或先用子錢、皆復飛歸。輪轉無已。故「淮南子」術以之還錢、名曰、「青蚨。」。

   *

「靑蚨(せいふ)」私は既に「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 青蚨」の注で、迂遠な考証をし、その結果として、これは蟬の類ではなく、所謂、俗に呼んでいる広義の「蜉蝣(かげろう)」類であろうと推定比定した。広義のそれとは、真正の「カゲロウ」類である、

有翅亜綱旧翅下綱 Ephemeropteroidea 上目蜉蝣(カゲロウ)目 Ephemeroptera の仲間

に、その成虫の形状に非常によく似ている、真正でない「蜉蝣」である、

有翅昆虫亜綱内翅上目脈翅(アミメカゲロウ)目脈翅亜(アミメカゲロウ)亜目クサカゲロウ科 Chrysopidae に属するクサカゲロウ類

及び、

脈翅(アミメカゲロウ)目ウスバカゲロウ上科ウスバカゲロウ科 Myrmeleontidae に属するウスバカゲロウ類

を加えたものである(この「カゲロウ」の真正・非真正の問題は私はさんざんいろいろなところで注してきたので、ここでは繰り返さない。未読の方は、最も最近にその決定版として注した、「生物學講話 丘淺次郎 第十九章 個體の死(4) 三 壽 命」の私の冒頭注『「かげろふ」の幼蟲は二年もかかつて水中で生長する』以下をお読み戴きたい)。しかも、この拡大比定は、実は、まさにここで書かれてある草の中に産みつけられる「靑蚨」の卵と「錢神」の親和性が強いように思われる点でも都合がいいように思われるのである。「捜神記」でも「靑蚨」は卵を草の中に産むとあり、「和漢三才図会」の中でも「多く蒲(がま)の葉の上に集まる。春、子を蒲の上に生ず。八つ・八つ、行〔(れつ)〕を爲し、或いは九つ・九つ、行を爲す」(これは実は真正カゲロウでは説明がつかない)の部分が、クサカゲロウの卵である、見るからに目を引くところの不思議な形の「優曇華(うどんげ)の華」で説明をつけることが可能だからである。そうして、どうだろう? 「優曇華の華」の先端の楕円円筒体の卵はそれこそ私は銭っぽく見えないだろうか? そうだ! これは

フレーザーの謂う類感呪術なのではあるまいか?

「かいこのごとくなる子」カゲロウ類のそれは、まあ、蠶のようだと言えば、そうも見えなくはないが……ちとムズい気もする。

『「子母錢成豈患貧」と唐の人の作りし』晩唐の詩人許渾(きょこん 七九一年~八五四年?)

の七律「贈王山人」の一節。後の訓読は私の暴虎馮河の力技で訓じた。

   *

   贈王山人

 貰酒攜琴訪我頻

 始知城市有閑人

 君臣藥在寧憂病

 子母錢成豈患貧

 年長每勞推甲子

 夜寒初共守庚申

 近來聞燒丹處

 玉洞桃花萬樹春

 (  王山人に贈る

  酒を貰(か)り 琴を携へ 我れを訪ふこと 頻りなり

  始めて知る 城郭にも閑人有るを

  君臣の藥 在らば 寧(いか)んぞ病ひを憂へん

  子母の錢 成りて 豈(あ)に貧を患はん

  年(とし)長(た)けて 每(つね)に甲子(かつし)を推(お)すに勞(らう)し

  夜(よ)寒くして 初めて共に庚申(かうしん)を守る

  近來 聞説(きくなら)く 燒丹(しやうたん)の處

  玉洞 桃花 萬樹の春)

   *

なお、この詩は「和漢朗詠集」巻下に、頸聯が「年長けては每に勞(いたは)しく甲子を推す 夜寒うしては初めて共に庚申(かうじん)を守る」と訓じて引かれて(原詩句古点)、菅原道真が「己酉年終冬日少 庚申夜半曉光遲 菅」として「己酉(きいう)年(とし)終(を)へて冬の日少なし 庚申の夜(よ)半ばにして曉(あかつき)の光(ひかり)遲し」(古点)と訓じて、庚申の夜の所懐を詠じている。

「我朝にては誰(たれ)心見(こころみ)しとも聞(きき)侍らず」青蚨の術が目的語。

「女媧氏」古代中国神話の女神。天地を補修し、人類を創造した造物主とされる。「淮南子(えなんじ)」によれば、太古に天を支えていた四本の柱が折れると、大地はずたずたに裂け、至る所に大火災が発生し、洪水が大地を覆い、さらに猛獣や怪鳥が横行して、人々を苦しめたという。そこで女媧は、五色に輝く石を溶かして天の欠けた部分に流し込み、これを補い、大亀の足を切り取って天と地を支え直したので、地上には再び平安が甦ったとする。一方、後漢末の「風俗通義」では、女媧が人間を創造したという物語が見え、それによれば、彼女は初め、黄土を人の形に捏ね上げて、人間を丁寧に一人ずつ、創っていたが、作業に骨が折れ過ぎ、休む暇もないのに業(ごう)を煮やし、遂に繩を泥中に浸してそれを引き上げ、その際に繩から飛び散った泥の滴(しずく)が、総て、人間に成ったとする。こうした創造神としての伝承はやがて変化し、女は三皇の一人となったり、また、男性神でる伏羲(ふっき)と夫婦とも考えられるようになった。しかし、上半身は人間だが、下半身が蛇形に描かれた伏羲と女媧が、互いの尾を絡み合わせて並んでいる姿が石などに残されており、寧ろ、こうした蛇身の姿こそ、本来の女媧に近いものと思われる(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。女媧は錬金的創造を行っており、手に「規(コンパス)」を持つ姿で描かれることから、金を最初に作ったというのも、頷ける気はする。

「聖武皇帝の時に鑄初(ゐはじめ)けるとかや」聖武天皇(大宝元(七〇一)年~天平勝宝八(七五六)年/在位:神亀元(七二四)年~天平勝宝元(七四九)年)。和同開珎(わどうかいちん、わどうかいほう)であるが、日本で最初の流通貨幣と言われる和同開珎(わどうかいちん/わどうかいほう)は和銅元(七〇八)年に鋳造・発行されたもので、これは、聖武の二代前の女帝元明天皇が慶雲五年一月十一日(七〇八年二月七日)に武蔵国秩父(黒谷)より銅(和銅)が献じられたことから、元号を和銅に改元し、和同開珎を鋳造させたというのが正しいウィキの「和同開珎」によれば(下線太字やぶちゃん)、直径二十四ミリメートル『前後の円形で、中央には一辺が約』七ミリメートル『の正方形の穴が開いている円形方孔の形式である。表面には、時計回りに和同開珎と表記されている。裏は無紋である。形式は』、六二一年に『発行された唐の開元通宝を模したもので、書体も同じである。律令政府が定めた通貨単位である』一『文として通用した。当初は』一『文で米』二キログラム『が買えたと言われ、また新成人』一『日分の労働力に相当したとされる』。『現在の埼玉県秩父市黒谷にある和銅遺跡から、和銅(にきあかがね、純度が高く精錬を必要としない自然銅)が産出した事を記念して、「和銅」に改元するとともに、和同開珎が作られたとされる。ただし、銅の産出が祥瑞とされた事例はこの時のみであり、和同開珎発行はその数年前から計画されており、和銅発見は貨幣発行の口実に過ぎなかったとする考え方もある』。『唐に倣』う『目的もあった』。七〇八年五月には『銀銭が発行され』、七『月には銅銭の鋳造が始まり』、八『月に発行されたことが』「続日本紀」に『記されている。銀銭が先行して発行した背景には当時私鋳の無文銀銭が都で用いられていたのに対応して』、『私鋳の無文銀銭を公鋳の和同開珎の銀銭に切り替える措置が必要であったからと言われている。しかし、銀銭は翌年』八『月に廃止された。和同開珎には、厚手で稚拙な「古和同」と、薄手で精密な「新和同」があり、新和同は銅銭しか見つかっていないことから、銀銭廃止後に発行されたと考えられる。古和同は、和同開珎の初期のものとする説と、和同開珎を正式に発行する前の私鋳銭または試作品であるとする説がある。古和同と新和同は成分が異なり、古和同はほぼ純銅である。また両者は書体も異なる。古和同はあまり流通せず、出土数も限られているが、新和同は大量に流通し、出土数も多い』。『当時の日本は』、『まだ』、『米や布を基準とした物々交換の段階であり、和同開珎は、貨幣としては畿内とその周辺を除いて』、『あまり流通しなかったとされる。また、銅鉱一つ発見されただけで元号を改めるほどの国家的事件と捉えられていた当時において』、『大量の銅原料を確保する事は困難であり、流通量もそれほど多くなかったとの見方もある。更に地方財政(国衙財政)が一貫して穎稲を基本として組まれている』『ことから、律令国家は農本思想の観点から通貨の流通を都と畿内に限定して』、『地方に流れた通貨は中央へ回収させる方針であったとする説もある』。『それでも地方では、富と権力を象徴する宝物として使われた。発見地は全国各地に及んでおり、渤海の遺跡など、海外からも和同開珎が発見されている』。『発行はしたものの、通貨というものになじみのない当時の人々の間で』は『なかなか流通しなかったため、政府は流通を促進するため』、『税を貨幣で納めさせたり、地方から税を納めに来た旅人に旅費としてお金を渡すなど』、『様々な手を打ち』、和銅四(七一一)年には『蓄銭叙位令が発布された』。『これは、従六位以下のものが十貫(』一『万枚)以上蓄銭した場合には位を』一『階、二十貫以上の場合には』二『階』、『進めるというものである。しかし、流通促進と蓄銭奨励は矛盾しており、蓄銭叙位令は銭の死蔵を招いたため』、延暦一九(八〇〇)年にはこの法令は廃止されている。『政府が定めた価値が地金の価値に比べて非常に高かったため、発行当初から、民間で勝手に発行された私鋳銭の横行や貨幣価値の下落が起きた。これに対し』、『律令政府は、蓄銭叙位令発布と同時に私鋳銭鋳造を厳罰に定め、首謀者は死罪、従犯者は没官、家族は流罪とした。しかし、私鋳銭は大量に出回り、貨幣価値も下落していった』。天平宝字四(七六〇)年には『万年通宝が発行され、和同開珎』十『枚と万年通宝』一『枚の価値が同じものと定められた。しかし、形も重量もほぼ同じ銭貨を極端に異なる価値として位置づけたため、借金の返済時などの混乱が続いた。神功開宝発行の後』、宝亀一〇(七七九)年に『和同開珎、万年通宝、神功開宝の』三『銭は、同一価を持つものとされ、以後』、『通貨として混用された』。『その後』、延暦一五(七九六)年に四年後をめどに』、『和同開珎、万年通宝、神功開宝の』三『銭の流通を停止する詔が出された』『ものの、実際に停止できたのは』大同二(八〇七)年の『ことであり、それも翌年には取り消された』。また、延暦十五年の『詔では全ての貨幣を隆平永宝に統一する方針が出され、そのための材料として回収された』三『銭が鋳潰された。和同開珎が流通から姿を消したのは』九『世紀半ば』『と推定されている』。『「わどうかいほう」と読む説が主流であるが、「わどうかいちん」と読む説が一部にある』。『「ほう」と読む説は、「珎」は「寳」の異体字であり、「天平勝寳四年」を「天平勝珎四年」と表記している事例のほか』、「東大寺献物帳」には『「寳」の意で「珎」を用いている事例があることや、「寳」は「貨幣」の意であることによる。そもそも和同開珎は』六二一年に初鋳されて三百年以上に『わたり』、『唐および周辺諸国で広く流通した開元通寳を模倣しており、和同開珎の「開珎」は開元通寳を略したものと推察されること、引き続き鋳造された萬年通寳をはじめ、皇朝十二銭、その後流通した宋銭、元銭、明銭および江戸時代の銅銭の全てが「寳」であることなどを根拠にしている』。『「ちん」と読む説は、「珎」は「珍」の異体字であり』、『「国家珍寳」を「国家珎寳」と表記していると考えられる事例があること、などを根拠にしている』。また、『上下右左に「和開同珎」という読み順の可能性を指摘する説もある』。他にも、『「和同」とは官民が互いに納得して取引が出来るように願いを込めた名称であるとする説もある』。『和同開珎以前に存在した貨幣として、無文銀銭と富本銭が知られて』おり、一九九九年には、『奈良県明日香村から大量の富本銭が発見され、最古の貨幣は和同開珎という定説が覆る、教科書が書き換えられるなどと大きく報道された。しかし、これらは広い範囲には流通しなかったと考えられ、また、通貨として流通したかということ自体に疑問も投げかけられている。現在のところ、和同開珎は、確実に広範囲に貨幣として流通した日本最古の貨幣であるとされている』とある。

「文(もん)」以下の列挙からこれは一文銭ではなく、広義の貨幣の意。

「開基」天平宝字四(七六〇)年に初めて試鋳された日本最初の金貨である開基勝宝のことウィキの「開基勝宝」によれば(下線太字やぶちゃん)、『太政大臣である恵美押勝(藤原仲麻呂)』(慶雲三(七〇六)年~天平宝字八(七六四)年)『の命により鋳造されたが、鋳造数は極少数であり、質量のばらつきが大きな貴金属貨幣であることから』、『計数貨幣としては不適格であり、流通目的ではなく』、『萬年通寳』百『枚で金貨一枚と価格設定することにより、銅銭の価値を高める狙いがあったとする説がある』。『円形に方孔が開き、文字「開基勝寳」は吉備真備の筆と伝わる』が、現存するものは三十二枚しかない、とある。

「太平」前の開基通宝と同時に発行された銀銭太平元宝。ウィキの「太平元宝」によれば、発光に際して『出された詔には』、『同時に発行された貨幣との交換比率が示され、大平元宝』十『枚で開基勝宝(金銭)』一『枚分』、『また、大平元宝』一『枚は万年通宝(銅貨)』十『枚分に当てると定められた。これらの貨幣の発行権は前年に太政大臣に任ぜられた藤原仲麻呂(恵美押勝)に専制的に与えられた』。しかし、『大平元宝が発掘調査で見つかった事例は報告されておらず、大正時代には某家』から、昭和三(一九二八)年に『唐招提寺で宝蔵から発見され伝わる』二『品が現存していた』(三『品が伝存するとする説もある』)。『現在はその』二『品の拓本が伝わるのみで、現品は行方不明となっている。しかし』、『拓本によれば』、何れも、「続日本紀」に『記された「大平元寳」ではなく「太平元寳」と表記されており、贋物説さえ囁かれていた』。『一方で』、『「大平」は「太平」と同じく天下太平を表す吉語であり、淳仁天皇の治世が太平であることを願ったものともされる』。『現存が僅少である、また確認されていないということは』、『当時一般流通がなかったものと推定され、新規発行の万年通宝』一『枚を従来の和同開珎』十『枚分と』、『高額に設定するために、銀貨の』十分の一『に相当する価値の高いものであることを示す目的の見せ金であったとする説もある』。また、『和同開珎』百『枚分の価値に相当することから』、『私鋳銭が現れることは必至であり、このことによる貨幣経済の混乱を避けるため、大平元宝を流通に投じることはなかったとする説もある』。『現存していない理由として、奈良国立博物館列品室長の吉澤悟は、淳仁天皇や藤原仲麻呂の事績を打ち消したい称徳天皇が回収させて銀壺(現在は正倉院宝物)に鋳直させ、東大寺に奉納したとの説を』二〇一七年に『唱えた』とある。なお、「太平通寶」というのが存在するが、これは太平興国元(九七六)年、北宋の第二代皇帝太宗の時代に鋳造された銅銭で、銭貨が不足していた日本に輸出され、渡来銭としても利用されたもので、和銭ではない

「萬年勝寶」天平宝字四(七六〇)年に鋳造・発行された銭貨。ウィキの「万年通宝」によれば(下線太字やぶちゃん)、直径二十四~二十五ミリメートル『前後の円形で、中央には正方形の孔が開いている。銭文(貨幣に記された文字)は、時計回りに回読で萬年通寳と表記されている。裏は無紋である。量目(重量)』三グラムから四グラム『程度の青銅鋳造貨』。先に引用した通り、和銅元(七〇八)年以来、五十年以上、『通用していた和同開珎に替わる通貨として発行されたが、万年通宝』一『枚に対し』、『和同開珎』十『枚の交換比率が設定されたため、貨幣流通が混乱した。不評のためか』、『わずか』五『年で鋳造は中止された。また、万年通宝発行が藤原仲麻呂(恵美押勝)が推進した政策であり、恵美押勝の乱で仲麻呂が反逆者として殺されたことも中止の原因であったと考えられている』。この時、『同時に金銭開基勝宝、銀銭太平元宝も同時に発行された。その交換比率は金銭』一枚に対して、銀銭十枚、銀銭一枚に対し、万年通宝十枚で『あったが、これらの発行は流通させることを目的としていなかったといわれる。銀銭に至っては現存しない』とある。

「元寶通寶」これもおかしい。唐代以降の中国の通貨の用例に「元宝」・「通宝」の両方の例があり、本邦の発行通貨にはない。これは前に示した「太平元宝」と「万年通宝」を混同した誤りではあるまいか。私は貨幣には疎いので誤りがあるかも知れない。

「開元」開元通宝。唐代において六二一年に初鋳され、唐代のみならず、五代十国時代まで約三百年に亙って流通した貨幣。但し、これが創られたのは武徳四年(唐の高祖李淵の治世に行われた年号で唐朝最初の年号)で、開元は後の玄宗の治世の前半で七一三年から七四一年であるウィキの「開元通宝」によれば、唐代の開元二六(七三八)年に『出版された』「唐六典」には、「武德中、悉く五銖(しゆ)を除き、再(あら)ためて開通元寳を鑄る」と『記述しており』、『一方で』、『詔勅文としては』「旧唐書」の中に「仍令天下置鑪之処並鑄開元通寳錢」と『記述している。唐代には「開元」という元号が存在するが、これは約』百『年後のことであり、これ以降に開元通寳と呼ばれるようになったという説も捨てきれない』とある。

「淸和」不詳。中国の元号には「淸和」はない。或いは、北宋の第八代皇帝徽宗(きそう)が大観五年に政和と改元して政和元(一一一一)年に銭文を「政和通寶」として銭を鋳造している(「政和重寶」銭も発行している)から、それを誤ったものか。

「此銅錢どの」人が惹きつけられることに洒落て、人称の尊敬語を附したものか。

「心よし」「心由」も考えたが、前の擬人化を考えると、「心良し」で「気立てがよいこと」の意であろうか。

「錢の數(かず)を九十六文にせし事、いづれの時より定(さだまれ)りとも覺束なし」個人サイト「雑木林」の「96文=100文」には、江戸時代、一文銭九十六枚は百文として使えたとあり、『この数え方を「九六銭」、「省銭」、「省百」などと呼』び、その起源は、六『世紀頃の中国にさかのぼる』らしい。中国では「百文」相当を七十枚・八十枚・九十枚など、『いろいろな数え方があったのに対して、江戸時代の日本ではだいたいが』九十六『枚で共通してい』るとある。『なぜこのような数え方になったのかについての定説は』ないとされつつも、百『文分を数えて、藁の紐に通す手間賃として』、四『文を差し引いた』とする説、『金貨の単位は』一両=四分=十六朱という四進法であったが、十六で『割り切れる』九十六『の方が何かと便利』であったからという説、百『文で仕入れて』、十『文ずつ』十『人に売ると、それだけで』四『文の儲けになる』からという説を掲げておられる。

「省陌」短陌とも呼んだ。ウィキの「短陌」によれば、『近代以前の東アジア地域で行われてきた商慣習で』、百『枚以下の一定枚数によって構成された銅銭の束(陌)を銅銭』百枚(=〇・一貫)と『同一の価値として扱う事。中国で発生した慣習とされ、日本で行われていた九六銭(くろくせん)と呼ばれる慣習もその』一『つである』。『短陌の慣例の由来については不明な点もあるが、少なくとも前漢の時代には存在しなかった。これは紀元前』一七五『年に書かれた賈誼の上奏文によれば、当時四銖半両(四銖銭の半両銭)』百『銭の重さが』一斤十六銖(=四百銖)が『基準とされ、それより軽い場合には』、『それに何枚か足して』一斤十六銖分『にしてそれを』百『銭分としたこと、反対に』、『それよりも重い場合には』百『枚に満たないことを理由に通用しなかったことが書かれていることによる』(「漢書」『食貨志)。これは裏を返せば、銭』百『枚分の重量があっても、実際の枚数がともなわなければ通用しなかったことを示しており、銭』百『枚以下を』百『枚として通用させる短陌の慣例は』、『まだ存在しなかったことを示している』。『東晋の葛洪によって書かれた』「抱朴子」(三一七年完成)には、『「人の長銭を取り、人に短陌を還す」の言葉があり(内篇』六『微旨)、この時期に既に短陌の慣行があったことが知られる。梁の時代に経済的混乱から』、『短陌が問題視されたことが知られている。この当時、国の東側では銭』八十『枚を』一『陌として「東銭」と称し、西側では銭』七十『枚を』一『陌として「西銭」と称し、首都の建康でも銭』九十『枚を』一『陌として「長銭」と称した。このため、大同元』(五四六)年『には、短陌を禁じる詔が出されたが』、『効果はなく、梁朝末期には銭』三十五『枚を』一『陌とするようになったという』(「隋書」『食貨志)。この習慣は梁と対立関係にあった北周にも伝わり、甄鸞』(けんらん)『が著した数学書』「五曹算経」には『短陌に関する問題が登場している』。『唐代以後、中国王朝が発行する銅銭は高い信用価値をもって通用されて』、『日本をはじめとする周辺諸国においても』、『自国通貨に代わって用いられるようになった』。『だが』、『中国の銅の生産能力は決して高いとは言えない上に、経済の急速な発展から』、『銅銭の需要が銅銭発行量を上回るペースで高まったために、結果的には市中に流通する銅銭が慢性的に不足すると言う銭荒現象が生じるようになった』。『そのため、銅銭の実際の価値が公定の価格以上に上昇して経済的に大きな影響を与えるようになった。そのため、唐代末期以後に銅銭の穴に紐をとおして纏めた束(陌)一差しに一定枚数があれば』、『それをもって』、百『枚と見なすという短陌の慣習が形成されるようになった。これは、実質上の通貨の切り上げになると同時に』、『銅銭を多く取り扱う大商人に有利な制度として定着した。これに対して、短陌を用いずに銅銭』百『枚をもって支払うことを』、『中国では「足銭」、日本では「長銭(丁銭・調銭)」・「調陌」と呼ぶ』。『短陌そのものの規制もしくは公定のレートを定める動きは唐の時代から存在したが、五代十国の一つである後漢の宰相であった王章は、乾祐年間に』七十七『枚をもって銅銭』百『枚として見なす事を公的に定めた』『きまりが定着し、宋以後の王朝でも採用された。「省陌」の異名は特に公定のレートもしくは』、『それに基づく陌に対して用いられることが多い。なお、王章の時には民間より政府への納入は』八十『枚をもって』百『枚としてみなしており、納税時の短陌を政府に有利にする方法が用いられていたが、北宋の太平興国』二(九七七)年に『至って』、『この仕組みが廃止されて』七十七『枚に統一された』。『だが、公式なレートによって短陌のレートを統一することは出来ず、民間では更に少ない枚数での短陌が行われ、政府にとっては民間よりも高い陌の価値を利用した物資調達における有利さを得たに過ぎなかった。民間では』、『更に少ない枚数での短陌レートが設けられていた。孟元老の』「東京夢華録」巻三の『「都市銭陌」においては、官用』七十七『・街市使用』七十五『・魚肉菜』七十二『・金銀』七十四『など、官が使うレートと民間のレートが異なり、更に業種によっては』、『それらとも異なる業界独自のレートが存在したことが記されている』。『短陌が社会に定着すると、陌及び陌』十『束分で構成される「貫」と文(銅銭』一『枚)は同じ貨幣を用いながら、別の体系を有する貨幣単位として機能するようになり、陌を構成する実際の枚数が多少異なっていても公定のレートである省陌から大きく離れたものでなければ、同一単位の陌(』百『枚相当)として認められる慣例も生じた』。『短陌は銅銭不足であった当時の経済状況に合わせた慣習であり、銅銭の輸送の不便さを軽減する上では歓迎された。だが、銅銭を多く保有して多額の取引を行う大商人には』、『実質上の資産価値の増大に繋がる一方、短陌を外してしまうと』、『銅銭本来の公定価値に戻ってしまう(宋代の公定価値を元にすると、短陌を外した銅銭を全て合わせても』七十七『枚分の価値しか有しないために』、二十三『枚分の損となる)ために、日常生活において小額の取引がほとんどである庶民にとっては大変不利な制度でもあった。更に明・清においては』、『悪質な銭を用いた取引に対する良質な銭の使用レートを指す例も現れた』。『なお、近年においては、調銭(』百『枚単位)が本来の通貨流通のあり方であることを前提とした通説を批判して、日常生活や取引の場面において銀や商品の相場との関係などを理由として』、百『枚以下の枚数(』九十六『枚や』七十七『枚など)で束を作った方が使い勝手が良かった場合もあり』、百『枚以下の銭束は』、『その枚数分が必要であった(銭』八十『枚分が相場であった商品を買うために』八十『枚の銭束を作ることが広く行われていた)ケースも含まれている可能性もあるとして、短陌はそれ程広くは行われてはいなかったのではないかとする説も出されている』。以下、「日本」の項(下線太字やぶちゃん)。『日本においては、鎌倉時代後期から室町時代にかけて銅銭』九十七『枚をもって』百『枚とみなす商慣習があったと言われている。その頃には差額の』三『枚分は目銭(めぜに)と称し、長銭(』百『枚)揃っているものを加目銭(かもくせん)・目足(めたり)、省陌(』九十七『枚)のものを目引(めびき)と称した。江戸時代に銅銭』九十六枚(=九十六文)の束をもって銭百文と『見なした慣習も短陌の一つと見なされるが、その慣習は戦国時代初期の』永正二(一五〇五)年の『室町幕府による撰銭令の中において、(銅銭』九十六『枚を』百『文とすることを前提として)』百文の三分の一を三十二文として『換算する規定が見られ』るとある。また、『江戸時代初期の数学書である』「塵劫記」第十四「銭売買の事」にも、九十六枚を百文として『計算する問題が提示されている。こうした慣行を九六銭または省銭とも呼び、これに対して』、銅銭百『枚を』百『文とするものを調銭(長銭・丁銭)と称した』九十七『銭が』九十六『銭になった理由については、江戸時代の』「地方落穂集」が『示した計算上の便宜を図る(』九十六『枚であれば』、三・四・六・八などで『割り切れる)とする説が有力である。また、これとは別に独自の短陌を設けている地方があり、周防・長門・土佐では』八十『枚、伊予では』七十五『枚をもって』百『文とみなす慣習があった。明治維新後の』明治五(一八七二)年、『大蔵省は貨幣の計数貨幣化を推し進めるため、九六銭などの短陌・省陌の慣習を禁止した』とある。

『明の楊升庵(やうしようあん)が「丹鉛總錄」』明代の文人学者楊慎(一四八八年~一五五九年)。升庵は号。一五一一年に進士に及第して翰林修撰となったが、後に世宗嘉靖帝が即位した際、その亡父の処遇について、帝に反対したために怒りを買い、平民として雲南永昌衛に流され、約三十五年間、配所で過して没した。若き日より、神童と称えられ、詩文をよくし、博学であった。雲南にあって奔放な生活を送りながら、多くの著述を残し、その研究は詩曲・小説を含め、多方面に亙るが、特に雲南に関する見聞・研究は貴重な資料とされる(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。「丹鉛總錄」は一五五四年の序がある彼の代表作の一つで、諸対象を考証した一種の博物学書と思われる。]

2018/10/14

和漢三才圖會第四十二 原禽類 白頭翁(セグロセキレイ) (セキレイ)

Sekirei

はくとうをう

 せぐろせきれい 脊黒鶺鴒

白頭翁

 

ペツテ◦ウフヲン

 

三才圖會云白頭翁形似鶺鴒其飛似燕頡頏頭上有

白毛身蒼色宋魏野有白頭翁

△按有脊黑鶺鴒者頭腹白而背黑有原野池沼水禽

 鶺鴒屬也疑所謂白頭翁是乎

 

 

はくとうをう   

 せぐろせきれい 脊黒鶺鴒(セグロセキレイ)

白頭翁

 

ペツテウフヲン

 

「三才圖會」に云はく、『白頭翁は、形、鶺鴒に似て、其の飛ぶこと、燕の頡頏(とびあがりとびさがる)に似る。頭の上、白毛有り。身、蒼色。宋・魏〔の〕野に、白頭翁、有り』〔と〕。

△按ずるに、脊黑鶺鴒(せぐろ〔せきれい〕)といふ有り。頭・腹、白くして、背、黑く、原野・池沼に有り。乃〔(すなは)〕ち、水禽〔の〕鶺鴒の屬のなり。疑ふらくは、所謂、白頭翁、是れか。

[やぶちゃん注:良安は珍しくちょっと困った感じで記しているが、本邦種として知られる、

スズメ目セキレイ科セキレイ属タイリクハクセキレイ亜種ハクセキレイ Motacilla alba lugens(北海道及び東日本中心)

同亜種ホオジロハクセキレイ Motacilla alba leucopsis(西日本)

セキレイ属セグロセキレイ Motacilla grandis

セキレイ属キセキレイ Motacilla cinerea(九州以北)

の二種はぱっと見では似ているから、寧ろ、ここで一緒くたにして記載しているのも無理はないと言えそうだ(そうでなくても、「本草綱目」や「三才図会」記載の鳥類は日本に棲息しないものも多いし、これから後に出るように、実在しない架空の鳥さえも含まれているのであるからして、良安の同定比定の苦労は我々の想像を絶するものがあるのである)。亡き三女のアリスが大好きだった(決して脅かさなかったが、見つけると、いつも静かに後を追った)ハクセキレイから(
ウィキの「ハクセキレイを引く)。『世界中に広く分布するタイリクハクセキレイ(学名 Motacilla alba)の一亜種』。『英名では、タイリクハクセキレイ各亜種を総称して』White Wagtail『と呼ばれるとともに、特に』本邦のハクセキレイ『を指す際には』Japanese (Kamchatka) Pied Wagtail』或いは『Black-backed Wagtail』『と呼ばれる』(後で出すセグロセキレイは、単に Japanese Wagtail)。『ロシア沿海地方・ハバロフスク地方の沿岸部、カムチャツカ半島、千島列島、樺太、日本列島(北海道、本州)および中国東北部に分布する留鳥または漂鳥。冬場の積雪地でも観察される』。『日本では、かつては北海道や東北地方など北部でのみ』、『繁殖が観察されていたが』、二十『世紀後半より』、『繁殖地を関東・中部などへと拡げ、現在は東日本では普通種になっている』(うちの裏山にもゴマンといる)。『また、西日本ではタイリクハクセキレイに容姿が似る』、『ホオジロハクセキレイ』『も観察される』。体長二十一センチメートルほどで、『ムクドリよりやや小さめで細身。他のタイリクハクセキレイ亜種より』も『大型になる』。『頭から肩、背にかけてが黒色または灰色、腹部は白色だが胸部が黒くなるのが特徴的である。顔は白く、黒い過眼線が入る。セグロセキレイと類似するが、本種は眼下部が白いことで判別できる』。『セグロセキレイやキセキレイと同様、尾羽を上下に振る姿が特徴的である』。『主に水辺に棲むが、水辺が近くにある場所ならば』、『畑や市街地などでもよく観察される』。『河川の下流域など比較的低地を好む傾向があり、セグロセキレイやキセキレイとは、夏場は概ね棲み分けている』。『冬場は単独で、夏場は番いで縄張り分散する。縄張り意識が強く、特に冬場は同種のほか、セグロセキレイ、キセキレイと生活圏が競合する場合があり、その際には追いかけ回して縄張り争いをする様子もよく観察される』。『食性は雑食で、一旦高いところに留まって採食に適した場所を探し、水辺や畑などに降りて歩きながら』、『水中や岩陰、土中などに潜む昆虫類やクモ、ミミズなどを主に捕えて食べる。ただし』、『本種は都市部などの乾燥した環境にも適応しており、分布域の広がった近年ではパン屑などの人間のこぼした食べ物を食べる様子も観察されている。また郊外の工場などで小型の蛾を捕食することもある。壁面に留まっている蛾をホバリングして捕まえる』。『寒冷地では年』一『回、暖地では年』二『回繁殖する。地上で羽を広げて求愛ダンスを行う。地上の窪みや人家の隙間などに、枯れ草や植物の根を使って皿状の巣を作り、日本では』五~七月に一腹四~五個の『卵を産む。抱卵期間は』十二~十五日で、『主に雌が抱卵する。雛は』十三~十六日で『巣立ちする。巣立ち後も親鳥と行動を共にし』、三、四羽『程度の集団で行動することもある』。『足を交互に出して素早く歩く。人間のそばにも比較的近く(』三メートル『程度の距離)まで寄ってくる。歩行者を振り返りながら』、『斜めに歩く。夜は近隣の森などにねぐらを取るが、市街地では建築物などに取る様子も観察される。秋になると』、『照明近くの街路樹に集団を作ることがある』。『地鳴きは「チュチン、チュチン」、飛翔時は「チチッ、チチチッ」と鳴く。巣立ち後の幼鳥は独り言或いはつぶやきともとれる長めの鳴き方をすることがある。ごく希であるが』、『成鳥が縄張宣伝で長め(』三『秒程度)の鳴き方をすることがあり、とても美しい声である』。

 次に、ウィキの「セグロセキレイ」を引く。『主に水辺に棲む』。体長は二十~二十二センチメートル、翼開長約三十センチメートル、体重二十六~三十五グラムで、『ハクセキレイと同大』。『頭から肩、背にかけてが濃い黒色で、腹部が白色で胸部は黒色。ハクセキレイと見分けがつきにくい場合があるが、本種は眼から頬・肩・背にかけて黒い部分がつながるところで判別できる』(リンク先に比較画像有り)『またハクセキレイやキセキレイと同様に尾羽を上下に振る姿が特徴的である。雌雄ほぼ同色だが、雌は背中が雄に比べると灰色みがかっている。幼鳥は頭から背中まで灰色である。ただし、ハクセキレイの様々な亜種に似ている部分白化個体の観察例もあるので』、『ハクセキレイとの識別には注意を要する。本種の地鳴き、「ジュジュッ、ジュジュッ」に対し、ハクセキレイでは、「チュチュッ、チュチュッ」と聞こえるので、声による識別は可能である』。『日本(北海道、本州、四国、九州)では普通に見られる留鳥または漂鳥。積雪地でも越冬する場合が多い』。『日本の固有種として扱われることが多いが、ロシア沿海地方沿岸部、朝鮮半島、台湾、中国北部沿岸部など日本周辺地域での観察記録もあり、まれに繁殖の記録もある。韓国では西海岸地域を除く河川で留鳥(局地的)に生息しているとの報告もある』。『水辺に住むが、水辺が近くにある場所ならば』、『畑や市街地などでも観察される。好む地形はハクセキレイに近いが、比較的河川の中流域などを好む傾向がある。瀬戸内海の大きな河川の少ない地域では、海岸沿いの堤防・波消しブロック上、干潟・砂浜で見られることも多い。ハクセキレイやキセキレイとは』、『概ね』、『棲み分けている。 ただし』、『最近では主にハクセキレイの分布拡大により』、『生息地が重なるようになって』きている。『一年を通し、単独または番いで縄張り分散する。縄張り意識がとても強く、同種のほかハクセキレイ、キセキレイと生活圏が競合する場合には』、『追いかけ回して縄張り争いをする様子がよく観察される。なお、他のセキレイと競合した場合に本種が強い傾向がある』。『食性は雑食で、採食方法などもハクセキレイに似るが、本種は水辺の環境に依存しており、畑など乾いた場所での採食行動はあまり見られない。夜は近隣の森などに塒を取る』。繁殖は通常は年一回であるが、二回の場合も『ある。川岸の植物や岩の下、崖地の陰などに枯草などを用いて椀状の巣を作り』、三~七月に四~六卵を『産む。抱卵期間は』十一~十三日で、『主に雌が抱卵する。雛は』十四『日ほどで巣立つ』。『飛翔時に鳴き、地鳴きは「ジュビッ、ジュビッ」などでハクセキレイに似るが』、『濁るところで判別できる。 さえずりも同様に少々濁って聞こえる』。『本種はタイリクハクセキレイ』『の近縁種であるものの、かつては地理的に分離された日本(北海道、本州、四国、九州)の固有種であったと考えられている』『近年、ハクセキレイ』『およびホオジロハクセキレイ』『が日本へと分布を拡げる反面、本種の分布域はハクセキレイに押されるように縮小しているとの指摘がされていた。それを受けて日本野鳥の会が 』一九八〇『年に全国調査を行い、その傾向が明確に記録されている』。『一方、本種も少数ではあるが』、『朝鮮半島・台湾・中国へと渡りをするものが観察されており(それらの地域では冬鳥)、また』、『ロシア沿海地方などでは繁殖も観察されている。そのため』、『飛翔能力などが劣るとは考えられていないが、本種は水辺の環境に強く依存しており、川原で過ごす時間がハクセキレイより明らかに長い(ハクセキレイは畑などでも採食し、市街地の建築物などにも塒を取る様子がよく観察される)ことなどから、都市化が進む環境に適応できずに』、『勢力を狭めているものと考えられている』。『なお、ハクセキレイと本種は近縁種であるが、今のところ』、『概ね』、『交雑することなく』、『棲み分けていると考えられている。また、本種の生息適地においてはハクセキレイよりも本種の方が強い傾向にあるが、離島などにおいてはハクセキレイの侵入により本種が姿を消した地域があるとも指摘されている』とある。

 荒俣宏「世界博物大図鑑」の第四巻「鳥類」(一九八七年平凡社刊)の「セキレイ」によれば、属名「モタキラ」(Motacilla)は造語で「小さな動くもの」を意味したが、ローマの学者がこれを「尾が動くもの」と誤って説明して以来、誤解されて wagtail(「尾振り」)などの名称が生じてしまい、それだけでなく、属名末尾の指小接尾辞に過ぎなかった「-cilla」も「尾」の意味として通用するようになってしまったという驚くべきことが記されてある。しかし本邦は或いは確信犯の罪作りで、「日本書紀」にある通り、伊耶那岐・伊耶那美が「みとのまぐあひ」の仕方を知らなかったのを、セキレイが飛んできて尾を上下するのを見て知ったという異伝を載せるのだから、驚くべきは寧ろ、身内にか。]

古今百物語評判卷之三 第三 天狗の沙汰附淺間嶽求聞持の事

 

  第三 天狗の沙汰淺間嶽(あさまだけ)求聞持(ぐもんじ)の事

 

Tengu

 

[やぶちゃん注:戸惑う人もあろうかと思うので、最初に注しておくと、この通称「朝熊山」、正式名「淺間が嶽」とは、三重県伊勢市(山頂は同市朝熊町(あさまちょう))・鳥羽市にある「朝熊ヶ岳(あさまがたけ)」である(ここ(グーグル・マップ・データ))。山頂の少し南東に臨済宗勝峰山(しょうほうざん)兜率院(とそついん)金剛證寺(こんごうしょうじ)があり、この寺を「朝熊山」と呼ぶ場合もある。この山はこの地方の最高峰であり、古くから山岳信仰の対象となっていた。ウィキの「金剛證寺」によれば、創建は六『世紀半ば、欽明天皇が僧・暁台に命じて明星堂を建てたのが初めといわれているが、定かでない。平安時代の』天長二(八二五)年に『空海が真言密教道場として当寺を中興したと伝えられている。なお』、『鳥羽市河内町丸山』『の庫蔵寺(真言宗御室派)は、空海が当寺の奥の院として建立したという。金剛證寺はその後』、『衰退したが』、南北朝期の末年に当たる明徳三(一三九二)年に、『鎌倉建長寺』五『世の仏地禅師東岳文昱(とうがくぶんいく)が再興に尽力した。これにより』『東岳文昱』(ぶんいく)『を開山第一世とし、真言宗から臨済宗に改宗』、『禅宗寺院となった』。『室町時代には神仏習合から伊勢神宮の丑寅(北東)に位置する当寺が「伊勢神宮の鬼門を守る寺」として伊勢信仰と結びつき、「伊勢へ参らば朝熊を駆けよ、朝熊駆けねば片参り」とされ、伊勢・志摩最大の寺となった』。「関ヶ原の戦い」から『敗走したのちに答志島(現・鳥羽市)で自刃した九鬼嘉隆のゆかりの寺であり、嘉隆にまつわる所蔵品がいくつかある。嘉隆の三男有慶は嘉隆の菩提を弔い』、『金剛證寺に出家し、金剛證寺第』十二『世となった』。『江戸時代には徳川幕府が伊勢神宮と絡んで重視し、援助した』とある。]

 

一人の云(いはく)、「天狗といふ物は、今の世に、誰(たれ)か、さだかに、其形を見たるといふ者なけれども、いにしへより、其すがたを繪にも書(かき)、又、おそろしき物語ども、多く御座候うへ、就中(なかんづく)近き頃、たしかにおそろしき事の御座候(さふらふ)は、伊勢山田に檜垣氏某(ひがきうぢそれがし)、たしかに物語いたされ候は、周防(すはう)の國、智遁(ちとん)といふ出家、淺間が嶽に來りて、『求聞持(ぐもんぢ)の法を行ひたき』よし、望みけるに、『此所は魔所なるゆへ、其法、成就しがたき』よし、申し候へ共、『たつて』と望みて、其法を修しけるに、三七日(みなぬか)[やぶちゃん注:二十一日目。]にあたる比(ころ)、俄に大風吹き來(きた)ると見えしが、彼(かの)求聞持くりたる僧[やぶちゃん注:「繰りたる」で順に呪法の文句を続けていた、の意味であろう。]、いづかたへ行きしやらん、見えざりければ、『今にはじめぬ事[やぶちゃん注:謂いとしては逆接であろう。「今に始まったことではないが、忽然と消失してしまったのは、のニュアンスであろう。]、不思議の至り』と思ふ所に、兩月(りやうげつ)[やぶちゃん注:二た月。]ばかりありて、周防より、『彼(かの)僧、いついつの比、忽然として來りしが、今に人心(ひとごこ)ちなき』と申しこせしに、其日ざし[やぶちゃん注:「日指(ひざ)し」で、伝えられたところのその月日の意である。]、伊勢にてうせし日と同(おなじ)日なり。幾百里の道を、一日(いちにち)が内に送りしも、おそろし。又、其古鄕(こきやう)の寺へとゞけたるも、あやし。此事、更にうきたる[やぶちゃん注:「憂きたる」。超自然で気持ちが悪い。]事に、あらず。其外、爰元(こゝもと)にても[やぶちゃん注:話者の住む辺りでも、の謂いであろう。]、礫打(つぶてうち)し事、度々あり。いかなる術を得しものに候哉(や)、兎角、心得がたく侍る」といへば、先生、云へらく、「天狗といふ名はもろこしには見えず。『(くはん)』と云ふ獸(けもの)の異名に『天狗』と侍れど、此類(たぐひ)にあらず。又、星の名に『天狗星(てんぐせい)』といふ、ほし、「史記 天官書(てんぐはんしよ)」・「天文志」等に見え候へども、いかなる星とも、はかりがたし。只、『魅魅(ちみ)』といひ、『魔の障碍(しやうげ)』などいふ、皆、爰許(こゝもと)に申す天狗の事なるべし。是れ、皆、深山幽谷にすむ魑魅の類(るい)なり。國々所々にあり。尤(もつとも)、多年多力なる物にして、其ふしぎをなす事、狐に百倍せり。木を折り、岩をまろばし、風雨を自在にし、大小の身を現(あらは)せり。順[やぶちゃん注:源順(みなもとのしたごう)。]が「和名抄」には、『あまのくつね』と和訓して、獸(けもの)の部に入れり。おもふに、此もの、天竺・唐土(もろこし)の魔の類(たぐひ)と一所にもあらざめれど、所々の山谷(やまたに)の氣より生ずる所のものなるべし。其かたちをさだかに見ざるは、此もの、もとより、變化(へんげ)の物なればなるべし。世俗に『太郞坊』『次郞坊』など云ひて、山伏のやうに云(いひ)なせるは、其住む所、愛宕(あたご)・ひえの山・鞍馬などいひて、出家の住(すむ)所なればなるべし。『日に三ねつの苦しみありて熱丸(ねつぐはん)を服(ふく)する』といふは、人間とても怒れる氣につれて、瞋恚(しんい)[やぶちゃん注:原典は『しんるい』であるが、訂した。「しんに」でもよい。怒り・憎しみ・怨みなどの憎悪の感情。]のほむらをもやせば、熱丸をのむにひとしければ、其いかれる心を、たとへて、いふなるべし。さて、此妖怪、かならず、人倫遠き所にあるは、是れ、純陰の處より生ずるなれば、人家など多くつゞきて、たゞしき氣のあつまる處には、其術も、うすらぐ心にや侍らん。されば、淺間の嶽のふしぎも、さもありなんかし。又、『天狗礫』と云ふ事、多くは、狸のしわざなるよし、古き文(ふみ)に見えたり。狸を殺し、煮(に)えくらひて[やぶちゃん注:ママ。]、こらしめ詈(のゝしり)などすれば、其事、をのづから[やぶちゃん注:ママ。]、やむよし、「著聞集」に見えたり。孔子の説には怪力亂神はもとよりあらざる所なれば、かやうの類(たぐひ)に似たる沙汰も候はねど、たゞ人道をおさむれば、其怪しき事も、おのづから、消えうするにこそ侍れ」と語られき。

[やぶちゃん注:「智遁」不詳。

「求聞持(ぐもんぢ)の法」虚空蔵求聞法。密教で虚空蔵菩薩を本尊として行うもので、記憶力増進のための修法として知られる。

(くはん)」「本草綱目」の「獣部 獣類」に「」として出る。

【「食物」。

釋名音歡。天狗。時珍曰、又作貆。亦狀其肥鈍之貎。蜀人呼爲天狗。

集解汪頴曰、狗處處山野有之、穴土而居。形如家狗、而脚短、食果實。有數種相似。其肉味甚甘美、皮可爲裘。時珍曰、貒猪也、也、二種相似而畧、殊狗似小狗而肥、尖喙矮足、短尾深毛、褐色。皮可爲裘領。亦食蟲蟻爪果。又遼東女直地面有海皮、可供衣裘、亦此類也。

氣味甘、酸、平、無毒。

主治補中益氣、宜人【汪頴。】小兒疳瘦、殺蛔蟲、宜噉之【蘇頌。】。功與貒同【時珍。】。

   *

とあり、確かに異名を「天狗」とするが、これはどう見ても実在する動物で、調べて見りゃ、現代中国語では、哺乳綱食肉目イヌ型亜目クマ下目イタチ小目イタチ上科イタチ科アナグマ属ヨーロッパアナグマ Meles meles に種同定されていた。

天狗星(てんぐせい)」音を立てて落下したり、地上に落ちて燃えたりする、大きな流星のこと。

「史記 天官書(てんぐはんしよ)」「史記」の中の「天官書」(てんかんしょ)。司馬遷が書いた当時の星の運行や雲気について詳細に書き記されているが、「天人相関説」に則り、星座を官階に比して「天官」とし、北極を中心とした「中官」と、「二十八宿」を七宿ずつに分けて東・西・南・北の四官に区分した星座群として記録されてあるが、そこに、

   *

天狗、狀如大奔星、有聲、其下止地、類狗。所墮及、望之如火光炎炎沖天。其下圜如數頃田處、上兌者則有黃色、千里破軍殺將。

   *

とある。天狗星の形は大きな流星のよう、激しい音がし、地上に落ちると、それは丁度、犬のようなものに見える。落下する際に観察すると、強烈に耀く火の光が(後の描写からは火柱のようである)めらめらと燃え上って、中天を突き抜くようである。その流星が流れ落ちた下方の地は、丸く数頃(漢代であるので三万三千坪ほどか)の耕作地の表面はまっ黄色になり(熱で焼けることか)、その一帯の千里に於いては、戦敗や将軍が殺される、という意味か。

「天文志」特に「漢書」と「晋書」にある「天文志」のことであろうか。

「『魅魅(ちみ)』といひ、『魔の障碍(しやうげ)』などいふ、皆、爰許(こゝもと)に申す天狗の事なるべし」これで、上手くジョイントしないのを誤魔化したつもりですか、元隣先生?

『順が「和名抄」には、『あまのくつね』と和訓して、獸(けもの)の部に入れり』同書の獣の部(巻十八「毛群」)を懸命に探して見たが、遂に出てこない。識者の御教授を乞う。

「日に三ねつの苦しみありて熱丸(ねつぐはん)を服(ふく)する」面白いね! 天狗には宿命的な持病があって、毎日服用しなきゃいけなっかった! 「三熱」というのは、一般には仏教で竜蛇などが受けるとされる三つの苦悩で、「熱風・熱砂に身を焼かれること」・「悪風が吹きすさんで住居・衣服を奪われること」「金翅鳥(こんじちょう)に食われることであるが、薬を服用する以上は、内憂で「熱丸」とあるからには、やっぱり最初の熱病だろうなぁ。

『「著聞集」に見えたり』巻第十七の「三條前右大臣實親の白川亭に、古狸、飛礫を打つ事」を指す。

   *

 三條の前(さき)の右の大臣(おとど)の白川[やぶちゃん注:鴨川の東一帯の広い範囲を指す呼称。後の叙述からロケーションは現在の東山区五軒町(ちょう)附近である。(グーグル・マップ・データ)。]の亭に、いづこよりともなくて、飛礫をうちけること、たびたびになりにける、人々、あやしみ、おどろけども、なにのしはざといふことを、知らず。次第にうちはやりて、一日一夜に、二盥(たらひ)ばかりなど、うちけり。蔀(しとみ)・遣(やりど)をうちとをせども、その跡、なし。さりけれども、人にあたる事はなかりけり。

「このことを、いかにしてとゞむべき。」

と、人々、さまざまに議すれども、しいだしたる事もなきに、或る田舍侍の申しけるは、

「此事、とゞめん、いとやすきことなり。殿原(とのばら)、面々に、狸を、あつめたまへ。

又、酒を用意せよ。」

といひければ、このぬしは田舍だちのものなれば、『さだめてやうありてこそいふらめ』と思ひて、おのおの、いふがごとくに、まうけてけり。

 その時、この男、侍の[やぶちゃん注:侍の詰所の。]たたみを、北の對(たい)の東の庭にしきて、火をおびたゝしくをこして、そこにて、この狸を、さまざま、調じて、おのおの、よく食ひてけり。さけのみ、のゝしりて、いふやう、

「いかでか、おのれほどのやつめは、大臣家をば、かたじけなく打まいらせけるぞ。かゝるしれ事する物ども、かやうにためすぞ[やぶちゃん注:味見してやるぞ!]。」

と、よくよくねぎかけて[やぶちゃん注:「ねぎかく」は「祈ぎ懸く」で、原義は「神仏に祈願をかける」であるが、ここは叱責・脅迫を闡明することを指す。]、その北は勝菩提院なれば、そのふる築地(ついぢ)のうへへ、骨、なげあげなどして、よく、のみくひてけり。

「今は、よも別(べち)のこと、候はじ。」

といひけるにあはせて、そののち、ながく、つぶてうつこと、なかりけり。

 これ、さらにうけることにあらず[やぶちゃん注:根も葉もないいい加減な作り話なのではなく。]、近きふしぎなり。うたがひなき、たぬきのしわざ、なりけり。

   *

「孔子の説には怪力亂神はもとよりあらざる所なれば」「論語」の「述而第七」に出る、君子たる者の在り方の一つ。

   *

子不語怪力亂神。

(「子は怪・力(りき)・亂(らん)・神(しん)を語らず。」と。)

「怪」怪奇・怪異なこと。「力」腕に恃んだ暴力的な武勇。暴虎馮河。「亂」背徳行為。道を乱す無秩序な様態を指す。「神」鬼神や魑魅魍魎に関わること。しかし、孔子がわざわざこれを言わなければならなかったほどに、中国人は、古えより、怪奇談が大好きな証しと言える。]

和漢三才圖會第四十二 原禽類 鷚(ひばり) (ヒバリ)

Hibari_2

 

ひばり 告天子 噪天

    叫天子 天鸙

【音溜】

    雲雀

    【和名比波里】

 

三才圖會云告天子似鶉而小褐色海上叢草中多有之

黎明時遇天晴霽則且飛且鳴直上雲端其聲連綿不已

常熟縣志云噪天麥熟時有之亦名告天子

郭璞云鷚【一名天鸙】大如鷃雀色似鶉好高飛作聲

△按和名抄云雲雀似雀而大【和名比波里】或用鶬鶊字【鶬鶊者鸎

 之異名也】爲鷚之訓者非也

 鷚有數種大抵似雀而大頭背黧色黑斑不鮮明眼傍

 頷白胸腹灰色脚脛細長爪亦長有距故瘦人譬鷚也

 飛翔鳴時起頭毛其聲圓亮而連綿不休晴日高飛戾

 天舞鳴倦則飛下入叢草中夏月伏卵於麥圃中頡頏

 而直不下于棲先下數十步外而疾步入常宿故能避

 網擌六七月易毛改舊俗呼稱練雲雀至冬鳥肥羽老

 脛弱故捕之者多其味甘脆骨軟而脚共可食以具上

 饌甚賞之或畜樊籠但脛掌細弱易折故籠中盛砂布

 艾以備之好黍食

田雲雀【一名伊乃比】狀類雲雀稍小在田澤流水間鳴聲飛

 舞共稍劣其距亦短頭背翅皆灰色帶黑胸前白黃有

 黑斑尾白與黑襍

鬼雲雀 是乃鷚中之大者頡頏鳴囀勝於常雲雀然難

 多獲之 夫木 春深き夕日の邊の下風に鳴きて上る夕ひはりかな 慈鎭

 

 

ひばり 告天子 噪天〔(さうてん)〕

    叫天子 天鸙〔(てんやく)〕

【音。「溜(リウ)」。】

    雲雀

    【和名、「比波里」】

 

「三才圖會」に云はく、告天子は鶉〔(うづら)〕に似て小さく、褐色。海上・叢草の中に多く之れ有り。黎明の時、天の晴霽〔(せいせい)〕に遇へば、則ち、且つ、飛び、且つ、鳴き、直ちに雲端に上がる。其の聲、連綿〔として〕已まず。』〔と〕。「常熟縣志」に云はく、『噪-天(ひばり)、麥、熟する時、之れ有り。亦、告天子と名づく』〔と〕。

郭璞が云はく、『鷚【一名、「天鸙」。】大いさ、鷃-雀(かやくき)のごとく、色、鶉に似て、好く高く飛び、聲を作〔(な)〕す。』〔と。〕

△按ずるに、「和名抄」に云はく、『雲雀は雀に似て大なり【和名、「比波里」。】。』〔と〕。或いは「鶬鶊」の字を用ふ【「鶬鶊」は「鸎〔(うぐひす)〕」の異名なり。】。鷚(ひばり)の訓を爲〔(な)〕すは、非なり。

鷚、數種有り。大抵、雀に似て大なりと。頭・背の黧(くろき[やぶちゃん注:「黒黄」の意。])色。黑斑、鮮明(あざや)かならず。眼の傍〔(かたはら)〕・頷〔(あご)〕、白く、胸・腹、灰色。脚・脛、細長く、爪も亦、長くして、距(けづめ)有り。故に瘦(や)せたる人を鷚に譬(たと)ふなり。飛び翔(か)けり〔て〕鳴く時、頭〔(かしら)〕の毛を起つ。其の聲、圓亮〔(ゑんりやう)〕にして連綿〔として〕休(や)まず。晴れたる日、高く飛びて天に戾(いた)り[やぶちゃん注:思うに「至」の誤りであろう。]、舞ひ鳴きす。倦(くたび)れては、則ち、飛び下りて、叢草(くさむら)の中に入る。夏月、卵を麥圃(むぎばたけ)の中に伏〔(ぶく)〕す。頡頏(とびあがりとびさが)りして、直ぐに〔は〕棲(すみか)に下らず。先す、數十步の外に下りて、疾(と)く步み、常宿に入る。故に能く網・擌(はご)を避く。六、七月、毛を易(か)へて、舊きを改む。俗、呼んで「練(ねり)雲雀」と稱す。冬に至り、鳥、肥へ[やぶちゃん注:ママ。]、羽、老いて、脛(あしのくき)、弱し。故に之れを捕ふる者、多し。其の味、甘く脆く、骨、軟〔(やはら)か〕にして、脚、共に食ふべし。以つて上饌に具〔(そな)〕へて甚だ之れを賞す。或いは、樊-籠〔(かご)〕に畜〔(か)〕ふ。但し、脛・掌、細弱〔にして〕折(くじ)け易し。故に籠中に砂を盛り、艾〔(よもぎ)〕を布〔(し)〕きて以つて之れに備ふ。黍〔(きび)〕を好(すき)て、食ふ。

田雲雀〔(たひばり)〕【一名、「伊乃比〔(いのひ)〕」。】狀、雲雀に類して稍〔(やや)〕小さく、田・澤・流水の間に在り、鳴き聲・飛〔び〕舞〔ふこと〕、共に稍〔(やや)〕劣れり。其の距〔(けづめ)〕も亦、短し。頭・背・翅、皆、灰色〔に〕黑を帶〔(たい)〕す。胸の前、白黃にして、黑斑、有り。尾は白と黑と襍(まじ)れる。

鬼雲雀〔(おにひばり)〕 是、乃ち[やぶちゃん注:送り仮名は「イ」であるが、私には読めないので「(すなは)ち」に読み変えた。]鷚の中の大なる者。頡頏(とびあがりとびさが)り、鳴き囀(さへづ)ること、常の雲雀より勝れり。然れども、多く之れを獲るは難し。

「夫木」[やぶちゃん注:以下の歌はママ。後注参照。]

 春深き夕日の邊〔(のべ)〕の下風に鳴きて上〔(あが)〕る夕ひばりかな 慈鎭

 

[やぶちゃん注:スズメ目スズメ亜目ヒバリ科ヒバリ属ヒバリ Alauda arvensis であるが、本邦には亜種ヒバリAlauda arvensis japonica が周年生息(留鳥)し(北部個体群や積雪地帯に分布する個体群は、冬季になると、南下する)、他に亜種カラフトチュウヒバリ Alauda arvensis lonnbergi や亜種オオヒバリ Alauda arvensis pekinensis が冬季に越冬のために本州以南へ飛来(冬鳥)もする。属名 Alauda(アラウダ)は、荒俣宏「世界博物大図鑑」の第四巻「鳥類」(一九八七年平凡社刊)の「ヒバリ」によれば、ラテン語でヒバリを指すが、『ケルト語では〈偉大な歌姫〉を意味する』とある。以下、参照したウィキの「ヒバリ」を引く。『春を告げる鳥として』、古えより、『洋の東西を問わず』、『親しまれている。『古来から人の目に触れる機会が多い種であるため多くの地方名がある。主なものは、告天子(こうてんし、こくてんし、ひばり)』、『叫天子(きょうてんし)、天雀(てんじゃく)、姫雛鳥(ひめひなどり)、噪天(そうてん)、日晴鳥(ひばり)』『など』。分布は『アフリカ大陸北部、ユーラシア大陸、イギリス、日本』。全長は約十七センチメートル、翼開長は約三十二センチメートルで、『後頭の羽毛は伸長(冠羽)する』。『上面の羽衣は褐色で、羽軸に黒褐色の斑紋(軸斑)が入る』。『下面の羽衣は白く、側頸から胸部にかけて黒褐色の縦縞が入る』。『胸部から体側面にかけての羽衣は褐色』、『外側尾羽の色彩は白い』。『初列風切は長く突出』し、『次列風切後端が白い』。『嘴は黄褐色で、先端が黒い』。『後肢はピンクがかった褐色』。『卵の殻は灰白色で、灰色や暗褐色の斑点が入る』。『オスは頭部の冠羽をよく立てるが、メスはオスほどは立てない』。『草原や河原、農耕地などに生息する』。『種小名 arvensis は「野原の、農耕地の」の意』。『しかしながら』、『近年』、『大雪山の標高』二千『メートル付近の高山帯をはじめ、北海道、本州の山岳地帯でも生息が確認されている』。『食性は植物食傾向の強い雑食で、主に種子を食べるが昆虫、クモなども食べる』。『地表を徘徊しながら』、『採食を行う』。『上空を長時間停空飛翔したり』、『草や石の上などに止まりながら囀る』。『繁殖期が始まると』、『オスが囀りながら』、『高く上がって行く「揚げ雲雀」と呼ばれる縄張り宣言の行動は古くから親しまれている』。『和名は晴れた日(日晴り』(ひばり)『)に囀ることに由来する説や、囀りの音に由来する説もある』。『地表(主に草の根元)に窪みを掘り植物の葉や根を組み合わせたお椀状の巣をメスが作り』、一回に三~五個の卵を産む』。『抱卵期間は』十一~十二日で、『雛は孵化してから』九~十日で『巣立つ』。『繁殖期にはつがいで生活し、非繁殖期には小さな群れで生活する』。大伴家持は「万葉集」で(巻第十九の掉尾。四二九二番)、

   二十五日に、作れる歌一首、

 うらうらに照れる春日に雲雀上がり情(こころ)悲しも獨りし思へば

   春日遲々として、鶬鶊(ひばり)、

   正(まさ)に鳴く。悽惆(せいちう)

   の意(こころ)は歌にあらずは

   撥(はら)ひ難し。よりて、こ

   の歌を作り、式(も)もちて、

   締(むすぼ)れし緒(こころ)を

   展(の)ぶ。

と詠い、また、松尾芭蕉が(貞享四(一六八七)年の作)、

   草菴を訪(とひ)ける比(ころ)

 永き日も囀(さへづり)たらぬひばり哉(かな)

(別本、

   雲雀ふたつ

 永き日を囀りたらぬひばりかな

とする。私は断然、「も」の前者を支持する。この累加の係助詞の作用によって、本句がまさに家持の心情を遠くしかもダイレクトに響かせていることが判るからである

と詠み、他にも『与謝蕪村などの句で、のどかな日本の田園風景の春の風物詩として多数詠われており』、『春の季語ともなっている。囀りを日本語に置き換えた表現(聞きなし)として「日一分、日一分、利取る、利取る、月二朱、月二朱」というものがあり、この聞きなしと』、『飛翔しながら囀る生態から』、『太陽に金貸しをしているという民話もある』。『春季に縄張りを主張するために鳴き声を挙げることから』、『春の風物詩とされることもあ』る。本邦では、『飼い慣らしたヒバリを放ち、そのさえずりと高さを競わせる「揚げ雲雀」と呼ばれる遊びがあった』が、『現在は鳥獣の保護及び狩猟の適正化に関する法律によりヒバリの愛玩目的の飼育は認められていない』。『近年、世界的に減少傾向にあり』、『ヨーロッパでは春播き小麦から秋播き小麦への転換で草丈が高くなることによる生息適地の減少や年間繁殖回数の減少、また』、『農耕の大規模化にともなう環境の均質化が原因として考えられている』。『東京では、畑地面積が大きく減少しており、畑地の小面積化も進んで』おり、『作付け作物もヒバリにとっての生息適地となる麦から野菜へと変化しており、このような畑地の減少と質的な変化が』、『ヒバリの減少に大きく影響していると考えられている』とある。私はヒバリの鳴き声が好きだ。飛び立つ際にまず、「ビルッ」と鳴き、上空に至って「ピーチュル、ピーチュル」などと、長く複雑に囀り続ける。「ヒバリの鳴き声 Alauda arvensis 雲雀」(於・蒲郡)と、解説がよい、Gaiapress Channel 氏の「ヒバリ」をリンク(孰れもYou Tubeさせておく。そうして、私は思い出す……自死した原民喜が、その最期に、最後に愛した女性祖田祐子さん(当時は丸の内の貿易会社に勤める英文タイピストであった)に宛てて送った遺書である(底本は所持する青土社「原民喜全集Ⅲ」(一九七八年刊)に拠った)。

   *

 祐子さま

 とうとう僕は雲雀になつて消えて行きます 僕は消えてしまひますが あなたはいつまでも お元気で生きて行つて下さい

 この僕の荒凉とした人生の晩年に あなたのやうな美しい優しいひとと知りあひになれたことは奇蹟のやうでした

 あなたとご一緒にすごした時間はほんとに懐しく清らかな素晴らしい時間でした

 あなたにはまだまだ娯しいことが一ぱいやつて来るでせう いつも美しく元気で立派に生きてゐて下さい

 あなたを祝福する心で一杯のまま お別れ致します

 お母さんにもよろしくお伝へ下さい

   *

この遺書には詩篇「悲歌」が同封された。ここに添える。

   *

 

  悲 歌

 

濠端の柳にはや緑さしぐみ

雨靄につつまれて頰笑む空の下

 

水ははつきりと たたずまひ

私のなかに悲歌をもとめる

 

すべての別離がさりげなく とりかはされ

すべての悲痛がさりげなく ぬぐはれ

祝福がまだ ほのぼのと向に見えてゐるやうに

 

私は歩み去らう 今こそ消え去つて行きたいのだ

透明のなかに 永遠のかなたに

 

   *

この雲雀は、自死(昭和二六(一九五一)年三月十三日午後十一時三十一分、吉祥寺・荻窪間の鉄路に身を横たえて自殺した)の前年の早春、遠藤周作と祐子さんの従妹とハイキングに行った多摩川でボートで遊んだ日の思い出に基づくものである。私の偏愛する、遠藤の至高にして痛恨の原民喜の追懐「原民喜」(『新潮』昭和三九(一九六四)年五月)に(青土社「原民喜全集 別巻」(一九七九年刊)に拠った)、

   *

 ぼくはね、ヒバリです。とその時、彼は急に言った。ヒバリになっていつか空に行きますと呟いた。

   *

とあるのである……

 

「三才圖會」は「鳥獣二巻」のここ(国立国会図書館デジタルコレクションの当該原刊行版本の頁画像)。標題は「鷚」ではなく「告天子」で、目次及び本文では「告天」となっている。御覧の通り、先にも言った通り、厳密な転写引用でないことが判る。試みに並べてみる。

   *   *

 告天子

告天褐色似鶉而小海上叢草中多有之黎明時遇天晴霽則且飛且鳴直上雲端其聲連綿不已一云叫天子(原「三才図会」)

   *

告天子似鶉而小褐色海上叢草中多有之黎明時遇天晴霽則且飛且鳴直上雲端其聲連綿不已(良安の「和漢三才図会」の引用)

   *   *

冒頭の生息域と形態を逆転させているのは、本書が名にし負わず、「三才図会」よりも遙かに主参考として引用している「本草綱目」の引用表示(これも実はものによっては甚だしい抜粋で、順列変更甚だしく、時には原本に書かれている重要な箇所を恣意的に除去しもいる。但し、「本草綱目」自体に、時に相反する内容の併置引用等があるので、良安の恣意的作業の謂いは実はかなり酌めるものがある。今まで取り立てて述べていないので、ここで明らかにしておく)に合わせたものであり、「一(い)つに「叫天子」と云ふ」がカットされているのは、標題下の異名列挙で既に示してあるからである。

「常熟縣志」東洋文庫版の書名注に『十三巻。明の鄧韍(とうふつ)撰。江蘇省常熱県の県志』とある。常熱県は現在の江蘇省蘇州市常熟市。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「鷃-雀(かやくき)」本邦産種としては、スズメ目スズメ小目スズメ亜目スズメ上科イワヒバリ科カヤクグリ(茅潜・萱潜)属カヤクグリ Prunella rubida を指す。前項「鷃(かやくき)(カヤクグリ)」参照。

「鸎〔(うぐひす)〕」「鶯」に同じい。スズメ目ウグイス科ウグイス属ウグイス Horornis diphone

「鷚(ひばり)の訓を爲〔(な)〕すは、非なり」良安先生、無風流なことを仰しゃる。じゃあ、なんて訓ずればよろしいか?!?

「距(けづめ)」「蹴爪」。

「圓亮」良安はしばしば用いる。東洋文庫版では『まろやかではっきりして』いることとする。

「舞ひ鳴きす」飛び交いながら鳴く。

「擌(はご)」「はが」「はか」とも読み、「黐」とも漢字表記することから判る通り、竹や木の枝に鳥黐(とりもち)をつけて、囮(おと)りを置いておいて小鳥を捕える罠。

「練(ねり)雲雀」「練る」は生絹(きぎぬ)を灰汁(あく)などで煮て、しなやかに上質のものにすることを指す(転じて「さらによいものにするために手を加えること」の意ともなった)から、これは腑に落ちる謂いである。

「樊-籠〔(かご)〕」既出既注。「樊」(音「ハン」)には「籠・鳥籠」の意がある。

「艾〔(よもぎ)〕」キク目キク科キク亜科ヨモギ属ヨモギ変種ヨモギ Artemisia indica var. maximowiczii

「田雲雀〔(たひばり)〕」スズメ目スズメ亜目スズメ上科セキレイ科タヒバリ属タヒバリ Anthus spinoletta。鳴き声と飛翔時の様子が似ているが、ヒバリとは相対的には縁遠い種である。ユーラシア大陸東部の亜寒帯地方やサハリン・千島列島・アラスカ・北アメリカのツンドラ地帯等で繁殖し、冬季は北アメリカ南部・朝鮮半島・日本(本州以南。北海道では春秋の渡りの時期に通過する旅鳥)に渡って越冬する。胸から腹に斑模様があり、全長は十六センチメートルほどで、スズメより細身である。積雪が少ない地域の河川や農耕地に飛来し、「ピッピィー」「チッチチー」などと細い声で鳴く。異名「伊乃比〔(いのひ)〕」については、サイト「馬見丘陵公園の野鳥」の「タヒバリスズメ目セキレイ科田雲雀に、『江戸時代前期から「タヒバリ」「イヌヒバリ」の名で知られている。異名』は『「タトリ」「イヌヒ」「イノヒ」「ミゾヒバリ」』とある。「イヌ」は「犬」だろうか?

「鬼雲雀〔(おにひばり)〕」不詳。識者の御教授を乞う。

「夫木」「春深き夕日の邊〔(のべ)〕の下風に鳴きて上〔(あが)〕る夕ひばりかな 慈鎭」これは引用に重大な誤りがある。東洋文庫版でも訂されてあるが、今回、吉岡生夫氏のブログ「狂歌徒然草」の「夫木和歌抄の森を歩く(第7回)」で、幸いにして「夫木和歌抄」から掲載歌形を別に確認出来た(前項で述べた通り、私は同歌集を所持せず、唯一の頼みの綱の何時も表記確認に用いている日文研の「和歌データベース」が休止中、しかもそのデータを迂闊にも保存していなかったという不運続きがあった)。これは、「夫木和歌抄」の一八四九番歌で、

   六百番歌合(うたあはせ)、ひばり

 春深き野邊(のべ)の霞(かすみ)の下風にふかれてあがる夕ひばりかな   慈鎭

慈鎮(和尚)は諡号で、歴史書「愚管抄」の作者として知られる、平安末から鎌倉初期の天台僧慈円(久寿二(一一五五)年~嘉禄元(一二二五)年:摂政関白藤原忠通の子で、摂政関白九条兼実は同母兄天台座主就任は四度に亙った)のことである。吉岡氏は、『上句「霞の下風」は霞の下を吹く風、地上近くの風に乗って』、『霞の中に消えていく』、『夕雲雀』、且つ、『揚雲雀ということになる。ア段の音が要所で交響するせいか、伸びやかな印象を受ける』と鑑賞されておられるあの「雲雀揚がる」の雰囲気を、春の大気の実際のリアルな状態を添えて美事に表わすとともに、音韻上での響きも雲雀の囀りを字背に感じさせて非常によく、和歌嫌いの私でも(実は大の雲雀好きなので)、これはいい歌だと思う。]

2018/10/13

和漢三才圖會第四十二 原禽類 鷃(かやくき) (カヤクグリ)

Kayakuki

かやくき  鴽【音如】

 【音寧】

      鵪【音】

【音晏】

      【和名加夜久木】

 

アン

 

本綱鷃者鶉之屬而候鳥也常晨鳴如雞趨民收麥行者

以爲候形狀與鶉相似俱黑色但無斑者爲鷃也三月田

鼠化爲鴽八月鴽化爲田鼠故無斑而夏有冬無焉鶉則

始由蝦蟇海魚所化終卽自卵生故有斑而四時常有焉

鶉與鴽爲兩物明矣

「夫木」置く霜に枯も果てなてかやくきのいかて尾花の末に鳴くらん經家

 

 

かやくき  鴽〔(じよ)〕【音、「如」。】

 〔(でい)〕【音、「寧〔(デイ)〕」。】

      鵪【音[やぶちゃん注:欠字。]】

【音、「晏〔(アン)〕」。】

      【和名、「加夜久木」。】

 

アン

 

「本綱」、鷃は鶉〔(うづら)〕の屬にして、候鳥なり。常に晨(あし)たに鳴きて、雞〔(にはとり)〕のごとし。民を趨〔(うなが)して〕、麥を收〔めし〕む。行く者、以つて候と爲す。形狀、鶉と相ひ似たり。俱に黑色、但し、斑〔(まだ)〕ら無き者、鷃と爲すなり。三月に、田鼠〔(うごろもち)〕、化して鴽(かやくき)と爲〔(な)〕り、八月に、鴽、化して田鼠と爲る。故に、斑、無くして、夏は有り、冬は無し。鶉は則ち、始め、蝦蟇〔(がま)〕・海魚の化する所に由〔(より)〕て、終〔(つゐ)〕に、卽ち、自〔(みづか)〕ら卵生す。故に、斑、有りて、四時、常に有り。鶉と鴽と、兩物〔(りやうぶつ)〕爲〔(た)〕ること明〔(あきら)〕けし。

「夫木」

 置く霜に枯れも果てなでかやくきの

   いかで尾花の末に鳴くらん 經家

 

[やぶちゃん注:本邦産種は、スズメ目スズメ小目スズメ亜目スズメ上科イワヒバリ科カヤクグリ(茅潜・萱潜)属カヤクグリ Prunella rubida。但し、本文は「本草綱目」の引用であるから、中国には産しないそれではなく、近縁種であるカヤクグリ属のイワヒバリ Prunella collaris・ヤマヒバリ Prunella montanella・ウスヤマヒバリ Prunella fulvescens・シロハライワヒバリ Prunella koslowi・クリイロイワヒバリ Prunella immaculata 等であろうかと推測する。ウィキの「カヤクグリ」によれば、『日本(北海道、本州中部以北、四国、九州)、ロシア(南千島)に分布する』。『漂鳥で』、『夏季に四国の剣山や本州中部以北、南千島などで繁殖し、冬季になると低地』『や本州、四国、九州の暖地へ南下して越冬する』。『九州では冬鳥』。全長は約十四センチメートル、翼開長は約二十一センチメートルで、『スズメほどの大きさ』であり、体重は十五~二十三グラム。『目立つ模様』はなく、『色彩は地味』である。『雌雄同色で、頭部の羽衣は暗褐色』、『体上面の羽衣は赤褐色で、暗褐色の縦縞が入る』。『胸と腹は灰褐色で』、『体側面から尾羽基部の下面(下尾筒)にかけての褐色の縦縞が入る』。『頬の辺りに薄い黄褐色の斑点模様がある』。『風切羽は暗褐色で外縁は茶色っぽい』。『大雨覆』(おおあまおおい:部位は越智伸二氏のサイト「Nature Photo Galleryの「鳥類各部の名称」を参照されたい)『と中雨覆先端に黄色の斑がある』。『尾羽は暗褐色』。『虹彩は茶褐色』で『眼の周囲に小さな白斑がある』。『嘴は細く黒色』、『足は橙褐色』。『亜高山帯から高山帯にかけてのウラジロナナカマド、ハイマツなどの林や岩場に生息する』。『林の中にいることが多く』、同属の『イワヒバリほどは岩場にで出てこない』。『繁殖期にはハイマツの枝上』『などの明るい場所に出てきてさえずったり、採食をする』。『冬季には平地から低山地の林、灌木林、山間部の沢沿いの藪、集落の庭の藪、林縁などの標高の低い場所へ移動し』、『単独もしくは数羽からなる小規模な群れを形成し』、『ひっそりと生活する』。『繁殖期には「チリチリチリ」や「チーチーリリリ」』『とさえずり、地鳴きは「ツリリリ」』『で、ヤマヒバリの鳴き声に似ている』。『食性は雑食で、灌木を縫うように移動しながら』、『小型の昆虫、幼虫類、クモ、草や木の種子などを食べる』。『夏季は昆虫、冬季は種子を主に食べる。樹上でも地上』『でも採食を行う』。『繁殖期になると』、『オスとメスそれぞれ数羽からなる小規模な群れを形成し、オスとメスともに複数とかかわり』、『繁殖する』。『一妻二夫で繁殖するとも考えられている』。『形成した群れでは』、『オス間に順位があると見られている』。『メスがオオシラビソ』・『キャラボク』・『ダケカンバ』・『ハイマツ』『などの高さ』一メートル『ほどの樹上に』、『枯草や苔などを組み合わせた』、『お椀状の巣を作る』。『メスが猫背になって尾羽を水平に伸ばし、細かく振動させてオスに対して求愛行動をする』。六~九月に一日一個ずつ、一腹二~四『個の卵を早朝に産む』。『巣によっては』、『同じ群れのオスが巣で抱卵中のメスに給餌を行う』。『和名は冬季に藪地(カヤ』・『ススキなどの総称)に潜むように生活し、なかなか姿を見せず』、『藪の下を潜ることに由来する』。『藪の中を好み』、『体色がミソサザイ』(スズメ小目キバシリ上科ミソサザイ科ミソサザイ属ミソサザイ Troglodytes troglodytes)『に似ていることから』、『江戸時代には、「おおみそさざい」、「やまさざい」と呼ばれていた』。『「しばもぐり」、「ちゃやどり」の異名をもつ』。『和名は夏の季語』である。属名のPrunella 「プルネラ」は「褐色の」の意で、種小名rubida も「赤い・赤みがかった」の意で全体が色由来である。

「鷃は鶉〔(うづら)〕の屬」誤り。前項の鶉はキジ目キジ科ウズラ属ウズラ Coturnix japonica で全く縁の遠い別種である。

「候鳥」時節を限って出現する鳥。季節により住地を変える渡り鳥のこと。

「行く者、以つて候と爲す」当該の渡りの時期に南北に旅する者に、時節の推移を自ずと知らせるから。

「三月に、田鼠〔(うごろもち)〕、化して鴽(かやくき)と爲〔(な)〕り、八月に、鴽、化して田鼠と爲る」「田鼠」の読みは前項に従った。脊索動物門脊椎動物亜門哺乳綱トガリネズミ形目モグラ科 Talpidae のモグラ類のこと。またしてもトンデモ化生説であるが、既に前項の鶉に、「蝦蟇〔(がま)〕、爪を得て、鶉と爲る。又、南海に、黃魚といふもの有り、九月、變じて鶉と爲り、而れども、盡くは爾(しか)らず。蓋し、始め、化に成りて、終〔(つゐ)〕に卵を以つて生ず。故に、四時、常に、之れ、有り。鴽(かやくき)は、則ち、始め、田鼠(うごろもち)、化して、終に復た、鼠と爲る。故に、夏は有りて、冬は無し」と出て来てしまっているので、読んでいる我々もだんだん馴れっ子になって無批判になりがちなのがキョワい。しかもここでは、「故に、斑、無くして、夏は有り、冬は無し。鶉は則ち、始め、蝦蟇〔(がま)〕・海魚の化する所に由〔(より)〕て、終〔(つゐ)〕に、卽ち、自〔(みづか)〕ら卵生す。故に、斑、有りて、四時、常に有り。鶉と鴽と、兩物〔(りやうぶつ)〕爲〔(た)〕ること明〔(あきら)〕けし」と続けることで、出現時期の差を、ライフ・サイクルが、「鶉」=「鴽(かやくき)」は化生しか出来ないから、冬はいない、更に斑紋の有無がその識別は容易とすることで、両者は別個な種である、とやらかされると、ゲーデルの不確定性原理ではないが、この化生肯定世界の閉じられた系の中では、「御説御尤も」と頷いてしまいそうになるではないか。

「置く霜に枯れも果てなでかやくきのいかで尾花の末に鳴くらん 經家」「夫木」何時も表記確認に用いている日文研の「和歌データベース」が休止中で確認がとれない(私は「夫木和歌抄」を所持しない)。悪しからず。しかも藤原経家なる人物は二人(藤原経家(久安五(一一四九)年~承元三(一二〇九)年:藤原重家の子。正三位・非参議)と、右近中将経家(生没年不詳:藤原基家の子))おり(これは「夫木和歌抄の森を歩く」という連載をされておられる吉岡生夫氏のブログ「狂歌徒然草」の、ブログ内検索で判明した)、「夫木和歌抄」にはその孰れもの歌が採られているため、私にはこの一首の作者がどちらであるかさえ、判らぬのである。重ねて悪しからず。]

古今百物語評判卷之三 第二 道陸神の發明の事

 

  第二 道陸神(だうろくじん)の發明の事

先生の云へらく、「世人(よのひと)の、いはゆる『道陸神』と申すは、『道祖神』とも、又は『祖道』とも云(いへ)り。旅路のつゝがなからん事を祈る神なり。「左傳」に祖(そ)すと云るも、此神を祭り侍る。和歌には『ちふりの神』など、よめり。「袖中抄(しうちゆうせう)」に云(いふ)『みちぶりの神』と云る心なり。貫之が歌に、『わたつみのちぶりの神にたむけするぬさのおひかぜやまずもふかなん』と讀めり。隱岐の國『知夫利(ちぶり)の崎(さき)』といふ所に、『わたつみの宮』といふ神おはしますと云り。「古今」の序に『逢坂山(あふさかやま)に手向(たむけ)を祈る』と侍るも此事なり。もろこしには、黃帝の子累祖(るいそ)と云へる人、遠遊(ゑんいう)を好みて、道に死(しに)給ひしを、後の世に、まつりて、行路神(かうろじん)とせり。かく云(いへ)ばとて、あながち、黃帝の子を、我朝にも祭るとにはあらざるべけれど、和漢ともに、其わざの通ずるなるべし。然るを、今の世に、田舍も京も女童部(をんなわらんべ)の云ひならはし侍るは、道路に捨てたる石佛(いしぼとけ)、さまざまの妖怪をなし、人を欺(あざむ)き、世を驚(おどろか)すと云り。つらつら、案ずるに、中昔(なかむかし)のころ、なき人のしるしの石をたつとては、必(かならず)、佛體をきざみて、其下に亡者の法名をしるせり。今の、石塔每に名號をゑりつくるがごとし。その法名などは星霜ふるに隨(したがひ)て、石とても消えうせ侍るに、佛體計(ばかり)は、鼻、かけ、唇、かけながら、のこりけるを、聞傳(ききつた)ふるばかりの末々(すゑずゑ)も、はかなくなりうせて、道に捨(すて)られ、岐(ちまた)にはふらかされて、何れの人のしるしとも、覺束なし。たゞ石佛(いしぼとけ)とのみ、みな人、おもへり。思ふに、佛は拔苦與樂(ばつくよらく)の本願、六波羅密(ろくはらみつ)の行體(げうたい[やぶちゃん注:原典のルビ。])なり。菩薩常不經(ぼさつじやうふきやう)の法身(ほうしん)を具し給へば、まして、佛體におゐて[やぶちゃん注:ママ。]、人に捨てられ、世に用られずとて、かゝる災(わざはひ)をなし給ふべきや。其妖をなせる物は、石佛(いしぼとけ)には、あらず。其とぶらはるべき子孫も、なき亡者の亡念によりて、天地の間に流轉せる亡魂、時に乘じ、氣につれて、或は瘧(おこり)の鬼(おに)となり、又は疫(えやみ)の神(かみ)ともなりて、人をなやまし侍るなるべし。それゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、世に瘧-疾(おこり)疫癘(えきれい)はやり侍る時は、道端に捨(すて)られたる石塔を、繩もてしばり、或は牛馬の枯骨(かれぼね)を門のにかけて、其惡鬼をおどし侍るまじなひあり」。或人の云(いは)く、「その、佛をしばりて病(やまひ)のいゆる事、如何」。云く、「是れ、佛をしばるにあらず、其石塔に屬する所の亡魂をいましめこらすなり」。云く、「しからば、卽(すなはち)、其石塔にきざまれたる亡魂、其病者(やむひと)を知りて、なやませるにや」。云く、「さにあらず。天地(てんち)の間(あひだ)、多く、善惡の二氣なり。それゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、爰(こゝ)の惡鬼をしりぞくれば、彼(かしこ)の惡鬼も退(しりぞ)くなり。是、一佛を供養すれば、三世諸佛の本懷にかなふと云る心なり」。又、云(いはく)、「瘧(おこり)は、もと、脾胃の虛より生ずる所なり。其故に諸病と、かはり、おこれるにも、其時、必(かならず)、定(さだま)り侍るは、脾胃は五行の配當に『土(つち)』にして、五常の『信』にあたり侍れば、其おこれる時節のたがはぬも『信』なり。勿論、其病(やまひ)をうくる所は脾胃なり。病は件(くだん)の、惡氣の世上(せじやう)の邪氣にくみして、人をなやまし侍るなり。さればにや、諸病とかはり、此二病(ふたつのやまひ)は醫書にも、まじなひ侍るなり。又、云く、「しばれるほどなる石佛(いしぼとけ)ならば、いえて後(のち)も、其繩をゆるし、また、香花をそなへ、供養する事、如何」。云く、「われに災(わざはひ)をなせば、邪氣なり。そも又、退(しりぞけ)る時は、邪氣にあらず。兼ては又、我が願ふ所に應ずる物、などかは、手向のなかるべき。其上、佛體に寓(ぐう)する邪氣なれば、にくみはつべき、いはれなし」。又、云(いはく)、「既(すでに)其理(ことわり)は聞(きき)き。其理を知りたる人の、まじなひて、いゆるは、勿論なり。其理をしらざる人も、まじなへば、いゆる事、如何」。云く、「萬(よろづ)のまじなひ事、其理を知りたる人のみ、せるにあらず、たゞ其傳(つた)へと信仰とによりて、其しるしは侍るなり。その功は作者にあり、其德は無窮にのこれる物なるべし」。

[やぶちゃん注:まず、小学館「日本大百科全書」の「道祖神」より引く。「道祖神」「塞(さえ)の神」・「塞の大神(さえのおおかみ)」・「賽(さい)の神」・「衢(ちまた)の神」」・「岐(くなど)の神」・「道(みち)の神」・「道六神(どうろくじん)」(道に通ずる「陸」(くが・おか)が原型であろう。別に「陸」には「六」の意味があり、その方が庶民の認識が容易である)「祖道」(これには同様の予祝の意味を含んだ「旅の餞(はなむけ)の宴」の意もある)などと呼ばれたりし、猿田彦命や伊弉諾・伊弉冉尊などにも付会されて伝承されていることもある。『境の神、道の神とされているが、防塞(ぼうさい)、除災、縁結び、夫婦和合などの神ともされている。一集落あるいは一地域において』、道祖神・塞の神・道陸神などを『別々の神として祀』『っている所もあり、地域性が濃い。、村境、分かれ道、辻(つじ)などに祀られているが、神社に祀られていることもある』(下線太字やぶちゃん。以下同じ。後の「古今和歌集仮名序」の「逢坂山」は峠に当たる。但し、明治以後の合祀により強制移動で庚申塔などと一緒に集積されただけのものも多いので注意が必要)。『神体は石であることが多く、自然石や丸石、陰陽石などのほか、神名や神像を刻んだものもある。中部地方を中心にして男女二体の神像を刻んだものがあり、これは、山梨県を中心にした丸石、伊豆地方の単体丸彫りの像とともに、道祖神碑の代表的なものである。また、藁(わら)でつくった巨大な人形や、木でつくった人形を神体とする所もある。これらは』、『地域や集落の境に置いて、外からやってくる疫病、悪霊など災いをなすものを遮ろうとするものである。古典などにもしばしば登場し、平安時代に京都の辻に祀られたのは男女二体の木の人形であった。神像を祀っていなくても、旅人や通行人はや村境などでは幣(ぬさ)を手向けたり、柴(しば)を折って供えたりする風習も古くからあった。境は地理的なものだけではなく、この世とあの世の境界とも考えられ、地蔵信仰とも結び付いている』。『道祖神の祭りは、集落や小地域ごとに日待ち』(旧暦一・五・九月の十五日又は農事の暇な日に、組織された特定集団である「講」の構成員が「頭屋(とうや)」(当屋とも書く。祭礼や講で行事を主宰する人やその家)に集まり、斎戒して神を祀り、徹宵して日の出を待つ行事。「待ち」とは、本来、神の傍に伺候して夜明しすることを意味し、類似した月の出を待つ「月待」や十干十二支の特定の日に物忌する「庚申講」・「甲子(きのえね)講」などを総称して「待ちごと」と称する)『や講などで行われることもあるが、小(こ)正月の火祭りと習合し、子供組によって祭られることが多い。また、信越地方では』、『家ごとに木で小さな人形を一対つくり、神棚に祀ったあと』、『道祖神碑の前に送ったり、火祭りに』して『燃したりする所もある。このほか』、二月八日或いは十二月十五日に『藁馬を曳(ひ)いてお参りに行く所もある。これらの祭りには、厄神の去来とその防御、道祖神の去来など、祭りの由来についての説話が伝えられていることがある。また』、『中部地方や九州地方などで、祭祀』『の起源を近親相姦』『と結び付けて語る所もある』。

 次にウィキの「道祖神」を、なるべくダブらぬように部分的に引く(リンク先には多彩な道祖神現存像の写真有り)。『道祖神は、厄災の侵入防止や子孫繁栄等を祈願するために村の守り神として主に道の辻に祀られている民間信仰の石仏であると考えられており、自然石・五輪塔もしくは石碑・石像等の形状である。中国では紀元前から祀られていた道の神「道祖」と、日本古来の邪悪をさえぎる「みちの神」が融合したものといわれる』。『全国的に広い分布をしているが、出雲神話の故郷である島根県には少ない。甲信越地方や関東地方に多く、中世まで遡り』、『本小松石の産業が盛んな神奈川県真鶴町や、とりわけ道祖神が多いとされる安曇野市では、文字碑と双体像に大別され、庚申塔・二十三夜塔とともに祀られている場合が多い』。『各地で様々な呼び名が存在』し、上記以外にも、「障(さい/さえ)の神」「幸の神(さい/さえのかみ)」「手向(たむ)けの神」などがあり、『秋田県湯沢市付近では仁王さん(におうさん)の名で呼ばれる』。『道祖神の起源は不明であるが』、「平安遺文」に収録されている八世紀半ばの『文書には』、『地名・姓としての「道祖」が見られ』、「続日本紀」(菅野真道らが平安初期の延暦一六(七九七)年に完成させた)の文武天皇天平勝宝八(七五六)年の条には』、『人名としての「道祖王」が見られる』。『神名としての初見史料は』、平安中期の承平年間(九三一年~九三八年)に源順(みなもとのしたごう)によって編纂された辞書「和名類聚抄」で、『「道祖」という言葉が出て』『おり、そこでは「さへのかみ(塞の神)」という音があてられ、外部からの侵入者を防ぐ神であると考えられている』。また、長久年間(一〇四〇年~一〇四四年)に比叡山横川中堂首楞厳院(しゅりょうごんいん)の鎮源の著した「大日本国法華験記」には、『「紀伊国美奈倍道祖神」(訓は不詳)の説話が記されていおり』、平安末に成立した「今昔物語集」にも、『同じ内容の説話が記され、「サイノカミ」と読ませている』。十三世紀前半に成った「宇治拾遺物語」に至って、「道祖神」が「だうそじん」と訓じられている。『後に松尾芭蕉の』「奥の細道」の『序文で書かれることで有名になる。しかし、芭蕉自身は道祖神のルーツには、何ら興味を示してはいない』(「道岨神のまねきにあひて取もの手につかず」(芭蕉真筆本)。私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅0 草の戸も住替る代ぞひなの家 芭蕉』より)。『道祖神が数多く作られるようになったのは』十八『世紀から』十九『世紀で、新田開発や水路整備が活発に行われていた時期である』。『神奈川県真鶴町では特産の本小松石を江戸に運ぶために』、『村の男性たちが海にくり出しており、皆が』海路の安全の『祈りをこめて道祖神が作られている』。『初期は百太夫』(ももだゆう/ひゃくだゆう:傀儡師や遊女が信仰する神で、特に西日本各地の神社の末社として祀られる。一般に男神とされ、多数の木像を刻んで祀る。広く道祖神や疱瘡除けの神としても信仰された)『信仰や陰陽石信仰となり、民間信仰の神である岐の神と習合した』。また、『岐の神と同神とされる猿田彦神と習合したり』、『猿田彦神および彼の妻といわれる天宇受売命と男女一対の形で習合したりもし、神仏混合で、地蔵信仰とも習合したりしている。集落から村外へ出ていく人の安全を願ったり、悪疫の進入を防ぎ、村人を守る神として信仰されてきたが、五穀豊穣のほか、夫婦和合・子孫繁栄・縁結びなど「性の神」としても信仰を集めた』。『また、ときに風邪の神、足の神などとして子供を守る役割をしてきたことから、道祖神のお祭りは、どの地域でも子供が中心となってきた』。『道祖神はまた、集落と神域(常世や黄泉の国)を分かち、過って迷い込まない、禍を招き入れないための結界とされている』。『道祖神は様々な役割を持った神であり、決まった形はない。材質は石で作られたものが多いが、石で作られたものであっても自然石や加工されたもの、玉石など形状は様々である』。『像の種類も、男神と女神の祝事像や、握手・抱擁・接吻などが描写された像などの双体像、酒気の像、男根石、文字碑など個性的でバラエティに富む』。『双体道祖神は一組の人像を並列させた道祖神』『の呼称』。『双体道祖神は中部・関東地方の長野県・山梨県・群馬県・静岡県・神奈川県に多く分布し、東北地方においても見られる』。『山間部において濃密に分布する一方で』、『平野・海浜地域では希薄になり、地域的な流行も存在することが指摘される』。『伊藤堅吉は』昭和三六(一九六一)年の時点で全国に約三千基を報告しており』、『紀年銘が確認される中で最古の像は』、『江戸時代初期のものとしている』。『道祖神は日本各地に残されており、なかでも長野県や群馬県で多く見られ、特に長野県の安曇野は道祖神が多い土地でよく知られている』。『長野県安曇野市には約』四百『体の石像道祖神があり、市町村単位での数が日本一である。同じく長野県松本市でも旧農村部に約』三百七十『体の石像道祖神があるが、対して』、『旧城下は木像道祖神が中心であった。ほか、長野県辰野町沢底地区には日本最古のものとされる道祖神がある(異説あり)。奈良県明日香村にある飛鳥の石造物(石人像)は飛鳥時代の石造物であるが、道祖神とも呼ばれており、国の重要文化財となっている』(t-katsuhiko氏のサイト「飛鳥の石造物」のこちらのアルバムで飛鳥資料館蔵の現物が見られる)。『道祖神を祭神としている神社としては、愛知県名古屋市にある洲崎神社が挙げられる。小正月の道祖神祭礼には、かつて甲斐国(現在の山梨県に相当)で行われていた甲府道祖神祭礼や、現在も行われている神奈川県真鶴町(道祖神 (真鶴町))、長野県野沢温泉村の道祖神祭り(国の重要無形民俗文化財に指定されている日本三大火祭りのひとつ)などがある』とある。

『「左傳」に祖(そ)すと云る』「春秋左氏伝」の昭公七(紀元前五三五)年の、「三月、公如楚」(公、楚に如く)の注部。

   *

公將往。夢襄公祖。祖、祭道神。梓愼曰、君不果行。襄公之適楚也、夢周公祖而行。今襄公實祖。君其不行。子服惠伯曰、行。先君未嘗適楚。故周公祖以道之。襄公適楚矣。而祖以道君。不行何之。【杜注。祖、祭道神。】。

(公、將に往かんとす。夢みらく、『[やぶちゃん注:先王の。]襄公、祖(そ)す』と。祖は、道神を祭るなり。梓愼(ししん)曰く、「君、行くことを果たさじ。襄公の楚に適(ゆ)きしや、『周公、祖す』と夢みて、行きぬ。今、襄公、實(じつ)に祖す。君、其れ、行かざらん。」と。子服惠伯、曰く、「行かん。先君は未だ嘗つて楚に適かず。故に、周公、祖して以つて之れを道(みちび)きぬ。襄公は楚に適けり。而れば、祖して以つて君を道く。行かずして何に之(ゆ)かん。」と。【杜注:「祖」は「道神を祭る」なり。】)

「杜」は三国末期から西晋の政治家・将軍で学者であった杜預(とよ/どよ 二二二年~二八四年)。「春秋左氏伝」は杜家の家学で、これは彼自らが施したもの。

「ちふりの神」「道觸の神」。「ちぶりのかみ」とも。陸路・海路の旅の安全を守る神。知られた和歌での古い用例は後に出る「土佐日記」のものであるようだ。後の「みちぶりの神」も同じい。因みに、「日本国語大辞典」で「みちぶり」を引くと、「みちゆきぶり」(道行触・道行振)の略とし、赤染衛門集から、

 みちふりのたより計(ばかり)はまともせんとけては見えじ雪の下草

の歌を示すので、「みちゆきぶり」を引くと、『①道で行き会うこと。道中でのすれちがい』として、「万葉集」の巻第十一に載る一首(二六〇五番)、

 玉桙(たまほこ)の道行きぶりに思はぬに妹を相見て戀ふる頃かも

を例示する(この一首は、男女が道で行き逢ってすれ違っただけで思はぬ片思いの恋に落ちてしまうことを指している)。これは物理的な交差ではなく、魂の接触(或いは「魂振(たまふ)り」的運動)を意味し、異界である異国や旅路の逢魔が時のそれに於いては、すれ違うものは人とは限らず、神霊や魑魅魍魎であることを考えれば、既にしてこの「みちゆきぶり」の語には民俗的な神概念が起原に存在すると考えてよいように私には思われる。

「袖中抄」(しゅうちゅうしょう)は歌学書。全二十巻。顕昭(大治五(一一三〇)年頃~承元三 (一二〇九)年頃:平安末から鎌倉初期の歌人で歌学者。藤原顕輔の養子。義兄清輔とともに六条家歌学を大成した)著で、文治年間(一一八五年~一一九〇年)頃の成立。「万葉集」から「堀河百首」辺りまでの歌集・歌合(うたあわせ)から約三百の難解な歌語を抄出して解釈したもの。同書の「十九」に、

 行く今日も歸らん時も玉鉾(たまぼこ)のちぶりの神を祈れとぞ思ふ

と出る、と「日本国語大辞典」の「ちぶりのかみ【道触神】」の用例に出る。新潮日本古典集成の「土佐日記 貫之集」(木村正中校注)の注に、「袖中抄」に、

   *

「ちふりの神」とは、「みちふりの神」といふにや、海路のもよめり。

   *

とあると記す。

「貫之が歌」「わたつみのちぶりの神にたむけするぬさのおひかぜやまずもふかなん」「土佐日記」の以下(事実に即せば、承平四(九三四)年の二月二十六日となる)。

   *

廿六日。まことにやあらむ、「海賊追ふ」といへば、夜(よ)なかばかりより、船をいだして漕ぎくる途(みち)に、手向けする所あり。楫取りして、幣(ぬさ)たいまつらする[やぶちゃん注:「奉らする」のイ音便。これはくだけた口調で、軽い気持ちで水主(かこ)に奉幣させたことを指す。]に、幣の東(ひむがし)へちれば、楫取りの申し奉ることは[やぶちゃん注:主人公の気持ちとは正反対の水主の厳粛な気持ちを表わす。]、

「この幣の散るかたに、御船(みふね)速かに漕がしめ給へ。」

と申して奉る。

 これを聞きて、ある女(め)の童(わらは)のよめる、

  わたつみのちふりの神に手向けする

    幣の追風(おひかぜ)やまず吹かなむ

とぞ詠める。

 この間(あひだ)に、風のよければ、楫取り、いたく誇りて、船に帆上げなど、喜ぶ。その音を聞きて、童も媼(おうな)も『いつしか』[やぶちゃん注:早く早く。]とし思へばにやあらむ、いたく喜ぶ。

 このなかに、『淡路の專女(たうめ)』[やぶちゃん注:淡路の老女の意。]といふ人のよめる歌、

  追風の吹きぬる時はゆく船の

    帆手(ほて)うちてこそうれしかりけれ

とぞ。

 天氣(ていけ)のことにつけて、祈る。

   *

「隱岐の國『知夫利(ちぶり)の崎(さき)』「わたつみの宮」島根県隠岐郡知夫村(ちぶむら)島津島にある渡津神社。ここ(グーグル・マップ・データ)。個人ブログ「Islander's diary~離島ライフ~」の「知夫里島ジオツアー 後書き」に、「土佐日記」の前掲歌を示された上で、先の「袖中抄」に、

   *

岐の國にて知夫利崎といふに、「わたすの宮」といふ神おはすなり。舟いだすとて其神に奉幣してわたすを祈るとぞ

   *

という歌があるとされ、

   《引用開始》[やぶちゃん注:改行部を繋げさせて貰った。]

『ちぶりの神』とは漢字で書くと『道触神』。全国で広く信仰されている、旅の安全を守る道祖神です。知夫里島は隠岐諸島の中で一番本土に近い島。本土から来た船にとっては、隠岐の国の玄関口であり、反対に、隠岐からは本土への出発点であったところ。ここ渡津海岸に航海の無事を祈って『道触神』が祀られるのも当然です。そしてその神様の名がそのまま知夫里島の名前になったとしてもなんの不思議もありません。新潟にも『道触神』が由来ではないかと考えられている地名があるそうです。神島という名前の島もあるし、なんだか神様に囲まれてるというか、神様だらけ(言葉が悪いけど)の場所に住んでる気分になります[やぶちゃん注:以下略。]

   《引用終了》

『「古今」の序に『逢坂山に手向(たむけ)を祈る』と侍る』「古今和歌集仮名序」の後半部に出る一節。岩波の新日本古典文学大系を基礎底本として、一部に手を加え、漢字を正字化して示す。

   *

 かゝるに、今、皇(すべらぎ)の天(あめ)の下(した)知ろしめすこと、四つの時、九囘(こゝのかへり)になむ、成りぬる。遍(あまね)き御慈(おほむうつくし)みの浪、八州の外(ほか)まで流れ、廣き御惠みのかげ、筑波山の麓よりも繁くおはしまして、萬(よろづ)の政(まつりごと)を聞(きこ)し召す暇(いとま)、もろもろの事を捨給はぬ餘りに、古(いにしへ)の事をも忘れじ、古(ふ)りにしことをも興(こ)し給ふとて、今も見そなはし、後の世にも傳はれとて、延喜五年[やぶちゃん注:九〇五年。]四月十八日に、大内記紀友則・御書所預(ごしよのところのあづかり)紀貫之・前甲斐少目宮(さきのかひのさうくわん)凡河内躬恒(おふしかふちのみつね)・右衛門府生(うゑもんのふのさう)壬生忠岑(みぶのただみね)らに仰せられて、「万葉集」に入らぬ古き歌、自(みづか)らのをも、奉らしめ給ひてなむ。

 それが中(なか)に、梅(むめ)を插頭(かざ)すより始めて、郭公(ほとゝぎす)を聞き、紅葉(もみぢ)を折り、雪を見るにいたるまで、又、鶴・龜に付けて、君を思ひ、人をも祝ひ、秋萩・夏草を見て、妻を戀ひ、逢坂山(あふさかやま)に至りて、手向けを祈り、或(ある)は、春(はる)・夏・秋・冬にも入らぬ、種々(くさぐさ)の歌をなむ、選ばせ給ひける。統(す)べて、千歌(うた)二十卷(はたまき)、名付けて「古今和歌集」 と言ふ。

   *

「黃帝の子累祖(るいそ)」平凡社「世界大百科事典」の道祖神には、「漢書」「十三王伝」の臨江王栄の伝において、顔師古は、後人が黄帝の子累祖を行神に当てたと注してある。しかし、中文サイトでは圧倒的に黄帝の子ではなく、妻とする。個人ブログらしき「プロメテウス」の「祖:古代中国神話中で絹を発明した黄帝の正妃」によれば、祖(れいそは、別名を「累祖」とも称し、『古代中国の神話中に出てくる女性です。西陵氏の娘で、黄帝軒轅の妃でした。祖は養蚕を発明したことから、祖は養蚕の始祖と言われています』。『祖は黄帝との間に玄』(げんごう)と『昌意の二子を儲けています。玄の子は蟜極と言い、蟜極の子は五帝の一人である帝嚳です。一方の昌意は蜀山氏の娘を娶り、高陽を生み高陽は帝位を継承し』、『五帝の一人の帝顓頊として即位しました』。『司馬遷の史記の五帝本紀には』「黄帝は軒轅の丘に住み、西陵の娘を娶り祖となした。祖は黄帝の正妃で二人の子を産み、その後は両者とも、天下を治めた。その一人を玄と言い、青陽と為し、青陽に降り、江水に住んだ。二人目は昌意と言い、降って若水に住んだ。」『とあります』。祖については、「山海経」の「海内経」にも『記載が見られ』、「黄帝の妻である雷祖(祖とも。)は昌意を生んだ。昌意は自ら天に上り降り、若水に到り住み、韓流を生んだ。韓流は長い頭を持っており、小さな耳、人面で豚の長い口、麒麟の体、ぐるりと丸い二本の足、子豚の蹄で淖子族の阿女を妻として娶り帝顓頊を生んだ」と『あります』。『神話中では祖は養蚕と絹による縫製の創造者となっています。北周以降には』「先蚕」、所謂、『蚕神として祀られるようになりました。祖が絹糸を創り出す物語が以下のように伝わっています』とあって、以下に詳しい養蚕神伝承が記されてあるので、リンク先を見られたい。顔師古の謂いからみても、玄昌意の二氏のこととも思えない。私のネット探求はここまでである。

「遠遊」故郷を離れて遊学すること、或いは、単に遠出の旅。

「妖怪」怪異。

「たつ」「建つ」。

「必(かならず)、佛體をきざみて、其下に亡者の法名をしるせり」これはおかしい。江戸前期の元隣の言う「中昔」とは鎌倉・室町時代であろうが、当時のそれは圧倒的に供養塔であって、下に遺骸や骨が埋まっているわけではなく、また必ずしも法名は刻まれていないない。元隣が「はふらかされて、何れの人のしるしとも、覺束なし。たゞ石佛(いしぼとけ)とのみ、みな人、おもへり」と言っているのは、知ったかぶりの大間違いの感じが強い。彼は総ての名もない廃石仏が総て墓標だと暗に脅しているのである。

「岐(ちまた)」分かれ道。分岐する道は村落の辺縁に存在し、民俗社会では複数の外界からの気が流れ来たって、ぶつかり、澱む場所であって、イコール、異界への通路と見做された。さればこそ、そこに墓や異界に去ったはずの死者の霊を供養するものとして供養塔が置かれたと考えられ、これは或いは荒ぶるかも知れぬそうした御霊(ごりょう)を、そこに祀り置くことによって、村落への外部からの邪気の侵入を防防禦機構としても機能した。そうしたものとして、道祖神以下の集合信仰を捉えることが出来ると私は考えている。

「拔苦與樂」仏・菩薩が、その慈悲を以って、衆生の苦を取り除き、楽を与えること。

「六波羅密の行體」仏教に於ける六つの修行様態。布施(見返りを求めずに施しを行うこと)・持戒(身を慎んで傲(おご)りの心を持たぬこと)・忍辱(にんにく:広い心で苦難に耐えること)・精進(純粋な心を以って努力を惜しまないこと)・禅定(ぜんじょう:精神を鍛えて真の平常心を持つこと)・智慧(正法(しょうぼう)を見極める力を持つこと)。

「菩薩常不經の法身」不詳。これは思うに、法華経に登場する菩薩である「常不輕菩薩」(じょうふきょうぼさつ)を指す誤りではなかろうか? ウィキの「常不軽菩薩」によれば、「法華経」の「常不軽菩薩品」に『説かれる菩薩で、釈尊の前世の姿であったとされる』。『釈尊の前世、むかし』、『威音王如来という同じ名前をもつ』二『万億の仏が次々と出世された。その最初の威音王仏が入滅した後の像法の世で、増上慢の比丘など四衆(僧俗男女)が多い中に』、『この常不軽菩薩が出現したとされる。常不軽菩薩は出家・在家を問わず』、「我深く汝等(なんだち)を敬ふ。敢へて輕慢(きやうまん)せず。所以は何(いか)ん、汝等、皆、菩薩の道(だう)を行(ぎやう)じて、當(まさ)に作佛することを得べしと。」『と礼拝したが、四衆は悪口罵詈(あっくめり)し、杖や枝、瓦石をもって彼を迫害した』。『常不軽菩薩は臨終が迫った時、虚空の中において、威音王仏が先に説いた法華経の』二十『千万億の偈を聞き、六根の清浄を得て』、二『万億那由他』(なゆた)『という永い寿命を得て、広く人のために』「法華経」を『説いた。これを聞いた増上慢の四衆たちは、その所説を聞き、みな信じ伏し』、『随従した。常不軽菩薩は命終して、同名である』二『千億の日月燈明如来という仏に値遇し、また同名である』二『千億の雲自在燈王如来という仏にも値遇し』、「法華経」を『説き続け、諸々の善根を植え、さらにまた』、『千万億の仏に遇い』、さらに「法華経」を『説いて功徳を成就し』、『最終的に彼も仏と作(な)ることができたという』。『常不軽菩薩は自身が誹謗され』、『迫害されても、他人を迫害するどころか、仏法に対する怨敵などと誹謗し返さなかった。この精神や言動は、宗派を問わず』、『教理を越えて、仏教徒としての原理的な行動・言動の規範としてよく紹介引用される』とある。ここで元隣が紹介するに最も相応しい菩薩の法身(仏陀の究極の本体。仏陀の姿を三種に分類した三身(さんしん:後の二つは「報身(ほうじん:単なる永遠の真理でも、無常の人格でもなく、真理を悟った力を持った人格的な仏身を指す)・応身(おうじん:衆生救済のために真理により現世に多様な姿を仮に現した仏身を指す)の内の一つで、「仏陀は真理そのものである」として、真理を本体の仏陀の身体とする捉え方を指す)と私は思う

「かゝる災(わざはひ)をなし給ふべきや」反語。

「瘧(おこり)の鬼(おに)」「瘧」は狭義にはマラリアを指す。重篤な熱病の疫鬼(えきき)。

「疫(えやみ)の神(かみ)」流行り病いの邪神。

「瘧-疾(おこり)疫癘(えきれい)」同前二つの総称。

「いましめこらすなり」「縛(いまし)め懲らす」。

「三世諸佛」こう言った場合の「三世」(さんぜ)は時間軸のそれ。過去・現在・未来の各世(せい)。

「脾胃」漢方では広く胃腸・消化器系を指す語。

「虛」「脾胃」の虚証は消化器系の働きが著しく低下した下痢などの症状を指す。

「おこれる」瘧が発症すること。

「脾胃は五行の配當に『土(つち)』にして」五行説に於いて「五臓」は「肝」に「木」を、

「心包(しんぼう:心)」の「火」を、「脾胃」に「土」を、「肺」に「金」を、「腎」に「水」をそれぞれ配する。

「五常の『信』」五常は五徳で儒教で説く五つの徳目。五行説では「仁」に「木」を、「礼」に「火」を、「信」に「土」を、「義」に「金」を、「智」に「水」をそれぞれ配する。

「其おこれる時節のたがはぬも『信』なり」判ったような判らぬ謂いである。他の臓器の疾病でも発生時期が極めて限定的なものはゴマンとある。

「此二病」瘧と流行り病い。

「まじなひ侍るなり」「封じるためのそれに特化した呪文があるのである。」。これもまた、判ったような判らぬ謂いである。他の臓器に発生する病気に就いて呪文染みた記載は李時珍「本草綱目」の「附方」にはゴマンとありますがね、元隣センセ?

「寓(ぐう)する」仮にそこにとり憑いていただけの。

「にくみはつべきいはれなし」「憎み果つべき謂はれ、無し」。憎み通すような理由は全く以って、ない。

「作者」呪(まじな)いを最初に考案作成した人物。]

2018/10/12

和漢三才圖會第四十二 原禽類 鶉 (ウズラ)

Uzura

うつら   【鶉之子】

      羅鶉【鶉卵初生】

      早秋【至秌初者】

      白唐【中秋已後者】

【音純】

      【和名宇豆良】

トヲン

 

本綱鶉大如雞雛頭細而無尾毛有斑點甚肥雄者足高

雌者足𤰞性畏寒在田野夜則羣飛晝則草伏人能以

聲呼取之畜令闘搏其性淳不越橫草竄伏淺草無常居

而有常匹隨地而安其行遇小草卽旋避之亦可謂醇矣

蝦蟇得爪爲鶉又南海有黃魚九月變爲鶉而盡不爾蓋

始化成終以卵生故四時常有之鴽則始田鼠化終復爲

鼠故夏有冬無

肉【甘平】炙食甚美【四月以前未堪食】和小豆生姜煑食治小兒疳

 痢大人皷脹【合菌子食發痔或云忌山椒】

 新古今住みなれし我か古鄕は此頃や淺茅か原に鶉なくらん

△按鶉處處原野多有之甲州信州下野最多畿内之産

 亦勝矣色有黃赤而黑白斑彪如有珍彪者人甚賞之

 其聲如曰知地快【今如此聲者希有而不好】有數品【帳吉古吉幾利快幾比快勅快

 等聲皆不佳】嘩嘩快爲上【聲轉而永引大圓亮爲珍】毎早旦日午夕暮鳴

 凡春二三月始鳴至芒種止聲六月又更發聲至中秋

 止聲人養之其籠最美麗而此與鶯相並弄之其雌者

 小足卑不囀【呼曰阿以布】如雄鶉未發聲則置雌籠於側則

 發聲

 

 

うづら   〔(ぶん)〕【鶉の子。】

      羅鶉〔(らじゆん)〕【鶉の

      卵〔の〕初生。】

      早秋【秌〔(あき)〕初め

      に至〔れる〕者。】

      白唐【中秋已後の者。】

【音、「純」。】

      【和名「宇豆良」。】

トヲン

 

「本綱」、鶉、大いさ、雞〔(にはとり)〕の雛のごとく、頭、細くして、尾、無し。毛に斑點有り。甚だ肥たり。雄は、足、高く、雌は、足、𤰞(ひき)し。其の性〔(しやう)〕、寒を畏る。田野に在り。夜、則ち、羣飛し、晝は、則ち、草に伏す。人、能く聲を以つて呼びて之れを取る。畜〔(か)ひ〕て闘〔ひ〕搏〔(う)た〕せしむ。其の性、淳(すなを[やぶちゃん注:ママ。])にして、橫〔(よこた)ふ〕草を越へず。淺〔き〕草に竄(かく)れ伏す。常〔なる〕居〔(きよ)は〕無くして、常に匹〔(つれそひ)〕と有り。地に隨ひて安ず。其の行(ゆく)とき、小〔さき〕草に遇へば、卽ち、旋〔(や)〕や、之を避くる。亦た、醇(すなほ)と謂ひつべし。蝦蟇〔(がま)〕、爪を得て、鶉と爲る。又、南海に、黃魚といふもの有り、九月、變じて鶉と爲り、而れども、盡くは爾(しか)らず。蓋し、始め、化に成りて、終〔(つゐ)〕に卵を以つて生ず。故に、四時、常に、之れ、有り。鴽(かやくき)は、則ち、始め、田鼠(うごろもち)、化して、終に復た、鼠と爲る。故に、夏は有りて、冬は無し。

肉【甘、平。】。炙り食ふ。甚だ美なり【四月以前は未だ食ふに堪へず。】。小豆・生姜に和(あゑ)て、煑〔(に)〕、食ふ。小兒の疳痢・大人の皷脹〔(こちやう)〕を治す【菌子〔(きのこ)〕と合せて食へば、痔を發す。或いは云ふ、山椒を忌むと。】

「新古今」

 住みなれし我が古鄕は此頃や淺茅が原に鶉なくらん

△按ずるに、鶉は處處の原野に多く之れ有り。甲州・信州・下野、最も多し。畿内の産、亦た、勝れり。色、黃赤にして黑白の斑彪(まだらふ)有り。如(も)し、珍〔しき〕彪〔(ふ)〕の者有れば、人、甚だ之れを賞す。其の聲、「知地快〔(ちちくわい)〕」と曰ふがごとし【今、此くのごとき聲なる者、希に有り。好まれず。】。數品〔(すひん)〕、有り【「帳吉古〔(ちやうきつこ)〕」・「吉幾利快〔(ききりくわい)〕」・「幾比快〔(きひくわい)〕」・「勅快(ちよくくわい)」等の聲へ[やぶちゃん注:ママ。]、皆、佳からざるなり。】「嘩嘩快〔(くはくはくわい)〕」を上と爲す【聲、轉(ころば)せて、永く引き、大〔いに〕圓〔(まどか)にして〕亮〔(りやう)なる〕を珍と爲す。】毎〔(まい)〕早-旦(あさ)・日-午(ひる)・夕暮に鳴く。凡そ、春、二、三月、始めて鳴き、芒種〔(ぼうしゆ)〕に至りて聲を止む。六月、又、更に聲を發し、中秋に至りて聲を止む。人、之れを養ふ。其の籠〔(かご)〕は、最も美麗にして、此れと鶯と、相ひ並べて之れを弄〔(もてあそ)〕ぶ。其の雌は小さく、足、卑(ひく)く、囀(さへづら)ざる[やぶちゃん注:ママ。]【呼びて「阿以布〔(あいふ)〕」と曰ふ。】。如〔(も)〕し、雄の鶉、未だ、聲を發せずば、則ち、雌の籠を側〔(そば)〕に置くときは、則ち、聲を發す。

 

[やぶちゃん注:キジ目キジ科ウズラ属ウズラ Coturnix japonicaウィキの「ウズラ」を引く(下線太字やぶちゃん)。インド北東部・タイ王国・大韓民国・中華人民共和国・朝鮮民主主義人民共和国・日本・ブータン・ベトナム。ミャンマー・モンゴル国・ラオス・ロシア東部に分布するが、『日本(主に本州中部以北)、モンゴル、朝鮮半島、シベリア南部、中華人民共和国北東部などで繁殖し、冬季になると』、『日本(本州中部以南)、中華人民共和国南部、東南アジアなどへ南下し越冬する』。『日本国内の標識調査の例では』、『北海道・青森県で繁殖した個体は主に関東地方・東海地方・紀伊半島・四国などの太平洋岸で越冬し、九州で越冬する個体は主に朝鮮半島で繁殖した個体とされる(朝鮮半島で繁殖して四国・山陽地方・東海地方へ飛来する個体もいる)』。全長は約二十センチメートルで、翼長九・一~十・四センチメートル』、『上面の羽衣は淡褐色』。『繁殖期のオスは顔や喉』及び『体側面の羽衣が赤褐色』で、『希に全体が白色羽毛で散在的に野性型羽毛をもつ個体が生じるが、劣性遺伝により発現するとされている』。『以前は旧ウズラCoturnix coturnix(現ヨーロッパウズラ)の亜種とされていたが、独立種として分割された』。『低地にある草原・農耕地などに生息』し、『秋季から冬季にかけて』、五~五十『羽の小規模から中規模の群れを形成することもある』。『和名は「蹲る(うずくまる)」「埋る(うずる)」のウズに接尾語「ら」を付け加えたものとする説がある』。『種子、昆虫などを食べる』。『配偶様式は一夫一妻だが』、『一夫多妻の例もある』。『繁殖期は』五~九月で、『植物の根元や地面の窪みに枯れ草を敷いた巣を作る』。七~十二『個の卵を産むが』、十八個の『卵を産んだ例もある』。『抱卵期間は』十六~二十一日で、『メスのみが抱卵する』。『雛は孵化してから』二十『日で飛翔できるようになり』、一~二ヶ月で『独立』し、『生後』一『年以内に成熟する』。『孵化後』六『週令で産卵を開始する』。『卵には通常』、『黒い斑点があるが、希に白色の卵も産む』。『雌の平均寿命は』通常は二『年に満たない』。『卵殼表面には褐色のまだら模様があるが、これは卵を外敵から守るカモフラージュの効果がある。模様は』、『卵を作る器官に由来し、個体差があるものの』、『個体ごとに決まった模様がつくため』、一『羽のメスが産む卵は同じ様な模様をしている』。『この模様の元となる色素は産卵開始時刻の約』三『時間前から分泌が始まり、子宮壁の伸縮、卵の回転に伴い』、『卵殼表面に拡がり』、『斑紋を形成するとする研究がある』。『古くから歌に詠まれ』、「古事記」「万葉集」「千載和歌集」などにも、『本種のことを詠んだ歌がある』。『食用とされることもある。日本では平安時代に本種の調理法について記した書物がある』。『明治時代中期から採卵用の飼養が本格的に進められるようになり』、昭和一六(一九四一)年には飼養数は約』二百万羽に『達した』。『当時は』、『本種の卵が』、『肺病や心臓病の薬になると信じられ』て『珍重されたが、販売経路が限られることや』、『原価が高いことから下火となった』。『第二次世界大戦により』、『本種の飼養は壊滅的な状況に陥ったものの』、昭和四〇(一九六五)年には飼養数が再び』、約二百万羽にまで『増加した』。一九七〇年代『以降は主に愛知県(日本の飼養数のうち約』六十五%『を占める)』、『なかでも豊橋市を中心に養殖がおこなわれている』。昭和五九(一九八四)年に約八百五十万羽と『ピークを迎えたが』、平成二一(二〇〇九)年に『豊橋市でトリインフルエンザが確認されたことにより』、約百六十万羽が『殺処分された』。『調理法として水炊き、焼き鳥、肉団子などがあり、雑煮の出汁に用いられることもある』。生後六十日ほどで『成熟し、オスは精肉用、メスは採卵用となる』。法的制限内に於いて『狩猟の対象とされたこともあったが、平成二五(二〇一三)年に『狩猟鳥獣』『から除外されたことにより、日本で本種を狩猟することは違法となった』。『日本では草地開発や河川敷の樹林化・レクリーエション利用などにより』『生息数は減少して』おり、「環境省レッドリスト」では絶滅危惧 VU)に指定されている。『ペットとして飼育されることもある。日本では室町時代には籠を用いて本種を飼育されていたとされ』、「言繼卿記」(ときつぐきょうき:戦国期の公家山科言継の日記。大永七(一五二七)年から天正四(一五七六)年の凡そ五十年に渡るもの。但し、散逸部分も少なくない。有職故実や芸能及び戦国期の政治情勢などを知る上で貴重な史料とされる)に記載がある。『江戸時代には武士の間で鳴き声を競い合う「鶉合わせ」が行われ、慶長』(一五九六年~一六一五年)『から寛永』(一六二四年~一六四五年:慶長との間には元和(げんな)が挟まる)『をピークに大正時代まで行われた』。『一方で』、『鳴き声を日本語に置き換えた表現(聞きなし)として「御吉兆」などがあり、珍重されることもあった』。『小型で飼育スペースを取らないこと、世代交代が早い事から実験動物として用いられることもある』。なお、『近親交配による退行が発現しやすく』、三『世代で系統の維持が困難になり』、五『世代を経ると』、『次の世代の作出が困難になったとする研究がある』とある。鳴き声の動画を複数聴いたが、売られている卵を孵化させた、ゲージの中の、ノイロっているような殺伐とした哀れなそれが多く、視聴しているだけで甚だ憂鬱になってしまったので、ダウン・ロード再生方式であるが、自然にいるウズラの声を採った、「サントリー世界愛鳥基金」公式サイト内のウズラをリンクさせておくに留める。自然のウズラのそれは、なんと、長閑なことであろう……古歌にも詠まれた自然の中の鶉の祝祭の声を失った日本人は、一体、どこへ行こうというのだろう……

「初生」生れたての幼鳥。

「秌」「龝」=「秋」の異体字。

𤰞(ひき)し」低い。短い。

「闘〔ひ〕搏〔た〕せしむ」闘鶏のように鶉同志を羽を搏(打)たさせて闘わせることを指す。

「淳(すなを)にして、橫〔(よこた)ふ〕草を越へず」中国文学の載道派的叙述で、廉直にして素直なればこそ、横向きに靡き曲がった草をよしとしないというのであろう。

「匹〔(つれそひ)〕」愛する配偶者。これも「淳」の正統なる属性である。

「地に隨ひて安ず」どのような場所であっても、自身らに相応しい場所を探し出して、そこで安静に生活する。これも前に続いて「淳」なる品格なればこそである。

「小〔さき〕草に遇へば、卽ち、旋〔(や)〕や、之を避くる。亦た、醇(すなほ)と謂ひつべし」未だ懸命に生え初めたばかりの小さな野草に逢うと、直ちに立ち止まって、そこを避けて少し迂回して踏まずに行く、これもまた前と同じく「素直」な品性によるものと讃えるべきべきものである、というのである。

「蝦蟇〔(がま)〕、爪を得て鶉と爲る。又、南海に、黃魚といふもの有り、九月、變じて鶉と爲り」トンデモ化生説である。これは李時珍の「本草綱目」の「鶉」の「集解」の「崔禹錫食經」からの引用(蝦蟇の件)と「交州記」からの引用(黄魚)の叙述であるが、わざわざ良安がこれを引いたのは、残念ながら、良安自身もそうしたトンデモ化生(以下の本文にある通り(「蓋し、始め、化に成りて、終〔(つゐ)〕に卵を以つて生ず」)、突如としてある生物が無性的に出現し、後に雌雄が生じて卵を生むとするのである。これは本「和漢三才圖會」の「蟲類」の部等で(例えば「蝨」(シラミ))、既に何度も良安が自身の言葉で主張している例があるのである)が実際にある、と考えていたからなのである(今まであまり指摘していないが、「本草綱目」の引用は、原典のかなり恣意的な抜粋であり、表記の一部も書き換えられてある。特に次の注で述べるが、この引用には時珍が全く書いていないことがこの後に出るのである。但し、全然、別種のところで類似したことを時珍が書いている可能性はあり、それを援用した可能性は、無論、あるなお、荒俣宏「世界博物大図鑑」の第四巻「鳥類」(一九八七年平凡社刊)の「ウズラ」の項を見ると、『中国の民俗では』、『古来ウズラはガマの化身だとみなされ』、『〈万畢術〉には〈蝦蟇(がま)が瓜(くわ)を食うと鶉になる〉とある』とある。この「万畢術」とは前漢の文帝期から武帝期にかけて生きた淮南王劉安が全国から学者や方士たちを招致して製作した著作の一つと伝えられる「淮南萬畢術」で、これは宋の李昉らの撰になる「太平御覽」の「巻第九百二十四」の「羽族部十一」の「鶉」の条に、

   *

莊子曰田化爲鶉。淮南萬畢術曰蝦蟇得瓜平時爲鶉【注云取瓜去辨置生蝦蟇其中敎鶉以血塗瓜堅塞之埋東垣北角深三尺其平日發出之矣爲鶉矣】。

   *

と出るのを発見出来た。はてさて?――本文の「蝦蟇得爪爲鶉」の「爪」(つめ)と――この「蝦蟇得瓜平時爲鶉」の「瓜」(カ/うり)と――ヤバくね? 因みに、荒俣氏はこの後、江戸時代の趣味の鶉飼いのフリーキーな様子が、喜多村信節(のぶよ)の「嬉遊笑覽」(文政一三 (一八三〇)年刊)の「鶉合(うづらあはせ)」から引かれ(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの同書の画像の当該頁。左の最後から次頁まで)、間に本「和漢三才圖會」最終部(「其の籠〔(かご)〕は、最も美麗にして、此れと鶯と、相ひ並べて之れを弄〔(もてあそ)〕ぶ。其の雌は小さく、足、卑(ひく)く、囀(さへづら)ざる【呼びて「阿以布〔(あいふ)〕」と曰ふ。】。如〔(も)〕し、雄の鶉、未だ、聲を發せずば、則ち、雌の籠を側〔(そば)〕に置くときは、則ち、聲を發す」)を挟んで、「飼鳥必用」(「鳥賞案子」の別名。享和二(一八〇二)年序)には「巾着鶉(きんちゃくうずら)」と称して、鶉を袋に入れて腰にぶら下げて持ち歩き、座敷で袋から取り出して鳴かせるという可哀想な飼い方も記されてあるとある。また、「奥州波奈志」(私の好きな女流国学者只野真葛(ただのまくず 宝暦一三(一七六三)年~文政八(一八二五)年)の晩年の優れた伝説物語集)から、『伊達政宗が京にのぼったとき』、『小鳥屋のウズラを気にいって』、『値ぶみしたところ』が、五十『両をふっかけられた』。そこで、

 立よりてきけば鶉の音(ね)はたかし

  さてもよくにはふけるものかな

『とよむと』、『小鳥屋は』、流石に『恥じて』、『その鳥を進呈したという話がみえ』、当時流行した鶉飼いに便乗した『ウズラ商がかなり強気な商売をしていたこともうかがえ』ると記しておられる。

「而れども、盡くは爾(しか)らず」この一文は少なくとも「本草綱目」の「鶉」の中には書かれていない。寧ろ、その「發明」の条では、時珍は「按鶉乃蛙化氣性相同蛙與蝦蟇」とそうした化生のサイクルを積極的に肯定しているのである。則ち、ここは時珍の言葉ではなく、良安の化生説に対する限定的疑義(見解)がさりげなく挟み込まれてあるのだと私は思うのである。

「故に、四時、常に、之れ、有り」化生説の擬似論理的説明である。こうした偉そうな謂いは、周年生活環(ライフ・サイクル)を人間にしか擬え得ない、人間第一主義の悲しさを今となっては感じるものである。

「鴽(かやくき)」東洋文庫版は『ふなしうずら』と訳ルビしてある。既出であるが、再掲しておくと、フナシウズラは現行では「鶕」で、鳥綱チドリ目ミフウズラ(三斑鶉)科ミフウズラ属ミフウズラ Turnix suscitator の旧名(各タクソンを見れば判る通り、本ウズラとは全く縁遠い種であるので注意されたい)。中国南部から台湾・東南アジア・インドに分布し、本邦には南西諸島に留鳥として分布するのみである。されば、ここで良安が「かやくき」と和名表記したそれは、種としてのフナシウズラではないと言える。「かやくき」は調べてみると、「鷃」の漢字を当ててあり、これはウズラとは無関係な(この漢字を「うずら」と読ませているケースはあるが)、

スズメ目スズメ亜目イワヒバリ科カヤクグリ属カヤクグリ Prunella rubida

の異名であることが、小学館「日本国語大辞典」で判明した。実は次の項が「鷃(かやくき)」なのであった(但し、そこには『鷃者鶉之屬』(「本草綱目」引用)とはある)。

「田鼠(うごろもち)」脊索動物門脊椎動物亜門哺乳綱トガリネズミ形目モグラ科 Talpidae のモグラ類のこと。

「鼠」これは恐らく「復た」とあるから、「田鼠」の「田」の脱字であろう(化生説の両奉方向サイクルである)。東洋文庫版も本文に『(田)鼠』としてある。

「疳痢」「疳」とは漢方医学で「脾疳(ひかん)」で、乳児の腹部膨満や異常食欲などを称したから、そうした乳幼児のそれを原因とするとされた、下痢症状を指すものと思われる。

「皷脹〔(こちやう)〕」東洋文庫版割注に『腸内発行がはげしく』、『腹部が膨張する病』とある。病的な腹部膨満である。

「新古今」和歌集の以下の歌は、「巻之十七」の「雑歌中」の大僧正行尊(天喜三(一〇五五)年~長承四(一一三五)年:平安後期の天台僧で歌人。平等院大僧正。平安中期の公卿で三条天皇の第一皇子敦明(あつあきら)親王の子源基平の子。近江園城寺(おんじょうじ:=三井寺)で出家し、各地を行脚した。祈禱に優れ、鳥羽天皇の護持僧となり、園城寺長吏・四天王寺別当・天台座主を歴任した)の一首(一六八〇番歌)、

   三井寺燒けてのち、住み侍りける房を

   思ひやりてよめる

 住みなれし我がふる里はこのごろや淺茅(あさぢ)が原(はら)にうづら鳴くらん

「三井寺燒けてのち」保安二(一一二一)年閏五月、三井寺僧徒による延暦寺修行僧の殺害を発端に、山徒が三井寺の塔堂を焼き、三井寺は廃墟と化した。「淺茅が原」丈の低い茅(ちがや:単子葉類植物綱イネ目イネ科チガヤ属チガヤ Imperata cylindrica:初夏に細長い円柱形の穂を出し、葉よりも高く伸び上がってほぼ真っ直ぐに立つ。分枝はなく、真っ白の綿毛に包まれてよく目立ち、「茅花(つばな)」と呼ぶ)の茂る野原。「鶉」はこの頃には既に秋の淋しい野良を象徴する鳴き声として定着していた。

「數品〔(すひん)〕、有り」以下の割注(総てオノマトペイア。目出度い意味を連想させるような漢字を選んで組み合わせていることが判る)で判る通り、鳴き声に数種がある、の意。

「聲、轉(ころば)せて、永く引き、大〔いに〕圓〔(まどか)にして〕亮〔(りやう)なる〕を珍と爲す」東洋文庫版訳では、『声は転(ころが)って永く引き、大へんまろやかで明快なのを珍重する』とある。

「芒種」二十四節気の第九。五月節で旧暦の四月後半から五月前半。陽暦では六月六日頃。「芒」(のぎ:イネ科植物の果実を包む穎(えい)にある棘状突起)を持った植物の「種」を播く頃の意で、西日本の梅雨入りの頃に当たる。]

和漢三才圖會第四十二 原禽類 竹雞 (コジュケイ)

Tikukei

ちくけい 山菌子

     雞頭鶻

     泥滑滑

竹雞

 

チョッキイ

 

本綱多居竹林狀如小雞無尾形比鷓鴣差小褐色多斑

赤文其性好啼見其儔必闘捕者以媒誘其闘因而網之

諺云家有竹雞啼白蟻化爲泥蓋好食蟻也其肉味美如

菌又能食半夏苗

杉雞 常居杉樹下頭上有長黃毛冠頰正青色如埀縷

亦食之味如竹雞閩越之地有之

 

 

ちくけい 山菌子〔(さんきんし)〕

     雞頭鶻〔(けいとうこつ)〕

     泥滑滑〔(でいこつこつ)〕

竹雞

 

チョッキイ

 

「本綱」、多く竹林に居〔(を)〕り。狀、小〔さき〕雞〔(にはとり)〕のごとく、尾、無し。形、鷓鴣〔(しやこ)〕に比すと、差〔(やや)〕小なり。褐色、斑〔の〕赤文、多し。其の性〔(しやう)〕、好んで啼く。其の儔(とも)を見ては、必ず、闘ふ。捕ふる者、媒(をとり)を以つて其の闘ひを誘ひ、因りて之れを網〔(あみ)〕す。諺〔(ことわざ)〕に云はく、「家竹雞の啼くこと有れば、白蟻〔(しろあり)〕、化して泥と爲る」〔と〕。蓋し、好んで蟻(あり)を食へる〔なれば〕なり。其の肉味、美なること、菌〔(きのこ)〕のごとし。又、能く、半夏〔(はんげ)〕の苗を食ふ。

杉雞〔(さんけい)〕 常に杉の樹の下に居〔(を)〕る。頭の上(〔う〕へ)に、長き黃なる毛冠、有り。頰、正青色。埀〔(た)るる〕縷〔(いと)〕のごとし。亦、之れを食ふ。味、竹雞のごとし。閩越〔(びんえつ)〕の地、之れ、有り。

 

[やぶちゃん注:これは叙述全体と、信頼出来る中文サイトの鳥類記事の同定比定から見ても、

キジ目キジ科コジュケイ属コジュケイ(小綬鶏)Bambusicola thoracicus thoracicus

(中国南部原産。日本(北陸地方以北を除く本州・四国・九州)に移入されて定着)、及び、

コジュケイ属タイワンコジュケイ(テッケイ:竹鶏)Bambusicola thoracicus sonorivox

(台湾原産。日本には当初、神戸市周辺に移入されて定着)である。同種中文ウィキによれば、この二種は「灰胸竹鶏」と漢字表記し、俗に「華南竹鷓鴣」「泥滑滑」「山菌子」「竹鷓鴣」「普通竹鶏」の別称を今も持つことが判る。現行では、少なくとも本邦ではタイワンコジュケイの方に狭義に「竹鶏」の漢名が与えられているようであるが、これは寧ろ誤った和名漢名であるように私には思われる

 コジュケイは国南部原産であるが、北陸地方以北を除く本州・四国・九州に移入して定着し、私の家の裏山にもさわにいて、私の大好きな鳴き声「チョットコイ、チョットコイ」で知られるあの子らである。属名 Bambusicola(バンブシコラ)は「竹林に住むもの」、thoracicus(トラキクス)は「胸に特徴ある」の意。英名も Formosan Bamboo-PartridgeFormosan は「台湾の」(但し、語源はポルトガル語の「美しい」)、知られた「バンブー」は元 bambu でマレー語、「パートリッジ」は鷓鴣(しゃこ:キジ科 Phasianidaeの鳥の一群の総称で、キジとウズラの中間の体形を持つものの俗称であって分類学上の区分ではない)を指し、ギリシャ語 peldoix(ペルディクス)由来)で「美しい竹鷓鴣」である。ウィキの「コジュケイ」によれば、本邦には『ペットとして移入され』、『狩猟用に基亜種が』大正八(一九一九)年に『東京都や神奈川県で(』大正四(一九一五)年『には既に脱走していたとされる』)『放鳥された』とある。全長は二十七センチメートル』、『和名はジュケイ』(キジ科ジュケイ属ジュケイ Tragopan caboti)『に似ているが、より小型であることに由来する』。『額から眼上部にかけて灰色の眉状の筋模様(眉斑)が入る』。『背に暗褐色や灰色の虫食い状の斑紋が入る』。『下面の羽衣は黄褐色で、胸部に赤褐色の斑紋が入る』。『尾羽は濃赤褐色』。『虹彩は灰褐色』で、『嘴は黒』く、『後肢は暗灰黄色』。コジュケイは『前頸から胸部にかけての羽衣は灰色』を呈し、『喉から頬、頸部側面の羽衣が赤褐色』で、『背の羽衣が暗黄色』であるのに対し、タイワンコジュケイの方は、『顔から前頸にかけての羽衣は灰色』を呈し、『喉の羽衣が赤褐色』で『背の羽衣が赤褐色』と微妙に異なる。『基亜種は標高』一千メートル以下、亜種テッケイは標高』三百~千二百『メートルの草原、森林、竹林、農耕地などに生息する』。『秋季から翌年の春季にかけて』、『小規模な群れを形成する』。『身体に似合わぬ大きな声で鳴き、それが「チョットコイ、チョットコイ」と聞こえることから、「警官鳥」と俗称されることがあった』。『食性は雑食で、種子、果実、昆虫、クモなどを食べる』。『年に』二『回繁殖』し、四~六月、『地面の窪みに枯れ草を敷いた巣に』、七~八『個の卵を産む』。『メスのみが抱卵し、抱卵期間は』十七~十九日で、『雛は孵化直後に巣立つ』。『雌雄共に育雛を行う』。『生後』一『年で成熟する』とある。

「菌〔(きのこ)〕」茸。

「半夏〔(はんげ)〕」ここでは、コルク層を除いた塊茎を生薬で「半夏」と呼ぶ、単子葉植物綱オモダカ目サトイモ科ハンゲ属カラスビシャク(烏柄杓)Pinellia ternata ととっておく。ウィキの「カラスビシャク」によれば、『鎮吐作用のあるアラバンを主体とする多糖体を多く含んでおり、半夏湯(はんげとう)、半夏瀉心湯(はんげしゃしんとう)などの漢方方剤に配合される。他にホモゲンチジン酸を含む。またサポニンを多量に含んでいるため、痰きりやコレステロールの吸収抑制効果がある。またかつては、つわりの生薬としても用られていた』。但し、『乾燥させず生の状態では』有毒劇物である『シュウ酸カルシウムを含んでおり』、『食用は不可能』とある。他に、真正和名が「半夏生」の双子葉植物綱コショウ目ドクダミ科ハンゲショウ属ハンゲショウ Saururus chinensis があるが、本文は「本草綱目」の記載であるからこれではない。なお、本邦産のそれは毒にも薬にもならない。

「杉雞」確かに中国の諸書に出る名ではあるが、不詳。杉林をテリトリーとし、頭の上に長い黄色の毛冠を有し、頬が鮮やかな青色を呈していて、そこはあたかも美しい青糸を垂らしたように見え、食用とし味は「竹雞」に同じく、「閩越」(現在の福建省)産の鳥、というのだから、これはもう特徴的なのだが? 識者の御教授を乞うものである。]

2018/10/11

和漢三才圖會第四十二 原禽類 英雞 (ウンナンコジュケイ)

Eikei

ゑいけい

英雞

 

インキイ

 

本綱英雞出澤州有石英處常食碎石英狀如雞而雉尾

體熱無毛腹下毛赤飛翔不遠腹中有石英肉甘温人食

之取石英之功也今人以石英不飼之取卵食終不及此

 

 

ゑいけい

英雞

 

インキイ

 

「本綱」、英雞、澤州に出づ。石英、有る處〔にありて〕常に碎〔ける〕石英を食ふ。狀、雞〔(にはとり)〕のごとくして、雉の尾。體、熱〔く〕して、毛、無し。腹の下の毛、赤くして、飛〔び〕翔(かけ)ること、遠からず。腹の中に、石英、有り。肉、甘・温なり。人、之れを食ひて、石英の功を取るなり。今の人、石英を以つて之れを飼はず、卵を取りて食ふ。終(つゐ)に此れに及ばず。

[やぶちゃん注:いろいろ調べてみるに、これは、

キジ目キジ科キジ亜科コジュケイ属ウンナンコジュケイ Bambusicola fytchii

に同定比定してよいように思われる。雲南省からミャンマー・タイ・ラオス周辺の標高の高い地域に棲息する。参照した個人ブログ鳥好きFPのつれづれ日記2の「【北Thai#29】ウンナンコジュケイ(Mountain Bamboo Partridgeの写真がよい。この写真を見ると、「腹の下の毛、赤くして」というのを「頸部から胸の上部の毛」と読み変えると腑に落ち、全体に亙る非常にセンスのいい斑紋は、遠くから見ると、非常に滑らかに感じられ、しかもその色が灰色のグラデーションも持つため、或いは「毛、無し」という錯覚も生じておかしくないようにも思われる。「熱〔く〕して」という意味がよく判らぬが、或いはこの全体の色模様を以って「火」を連想したものかも知れない。しかも鉱石である石英の粉砕片粒を摂餌する(と信じられた)という点からは、私は陰陽五行説の相剋の「火剋金(かこくごん)」(「火」は「金」属を熔かす)のセオリーをも連想されたのである。

「澤州」現在の山西省晋城(しんじょう)市一帯。

「人、之れを食ひて、石英の功を取るなり」人はこの英雞を食用にすることで、その英雞が食した石英の持つ漢方としての効能をも採り入れることが出来るというわけである、の意。

「此れに及ばず」主食である石英を食べていたかつての英雞の本体を食べる効果には、到底及ばない。]

古今百物語評判卷之三  第一 參州加茂郡長興寺門前の松童子にばけたる事

 

百物語評判卷之三

 

 

  第一 參州加茂郡(かものごほり)長興寺門前の松童子にばけたる事

 

Doujimatu

 

[やぶちゃん注:漢詩は前後を空け、完全な分かち書きとし(原典は二段組)、後に訓読文を附した。]

かたへの人のいはく、「某(それがし)、生國は三河にて御座候(さふらふ)が、國元にてふしぎなる事侍りしは、加茂郡に長興寺と申す寺あり、門前に、むかしより、松二本、御座候ふが、龍のかたちにつくりなしをき[やぶちゃん注:ママ。]候ふ故、人みな、此松を『二龍(じりやう)松』とも申し候ふ。此松、大木にて、いづれの時より植(うゑ)をきしともさだかならず。あるとき、其寺へ、童子二人、來たりて云ふやう、『われは此邊(このあたり)の者にて候が、少し樣子[やぶちゃん注:わけ。]の侍れば、硯をかし給へ』といふ。則(すなはち)、硯に料紙をそへて出(いだ)し奉れば、一首の絶句をかきつけたり。

 

 客路三川風露秋

 袈裟一角事勝遊

 二龍松樹千年寺

 古殿苔深僧白頭

  客路(かくろ)三川(さんせん) 風露(ふうろ)の秋

  袈裟(けさ)一角(いつかく) 勝遊(しやうゆう)を事(こと)とす

  二龍松樹(じりやうしやうじゅ) 千年の寺

  古殿 苔(こけ)深くして 僧 白頭(はくとう)

 

此詩をかき置(おき)て歸りければ、寺僧、あやしみて、其ゆくさきを見るに、彼の門前の松の木陰に行(ゆく)と見えて、跡かたなくなりければ、皆人、『松の精の、童子となりたる』と申し侍るは、さも候ふやらん」と問(とひ)ければ、先生、評していはく、「此事、既に『こだまの事』[やぶちゃん注:古今百物語評判卷之一 第五 こだま彭侯と云ふ獸狄仁傑の事を指す。]に付きて、其ためしをかたりき。猶も、非情の有情(うじやう)は化(か)する事は、化生(けしやう)と申しならはして、目前に、まゝある事なり。朽ちたる木の蝶となり、くされる草の螢に變ずる事、何れも見給ふ通りなり。殊更、松は衆木の長(をさ)にて、年久しき物なるゆへ、君子の德に比(たぐ)らべて[やぶちゃん注原典のルビ。]候ふ。其童子になりけんも、さも、あらんかし。既に童子となりたるうへは、寺のほとりに住むものなれば、詩をつくるべからざるにはあらず。古き桐の木の人に變じ來たりしを、智通と云(いひ)し出家のたいらげし事、もろこしの書にも見えたり」。

[やぶちゃん注:「參州加茂郡(かものごほり)長興寺」現在の愛知県豊田市長興寺にある臨済宗集雲山長興寺。(グーグル・マップ・データ)。

「客路」旅路。人間の短い生涯が辿る永い時間の「流れ」を象徴するか。

「三川」は濃尾平野を流れる木曽川・長良川・揖斐川の三つの川を指すか。二本の松は龍の形をしているから、川とは親和性が強く、「風」と雨「露」も龍の守備属性である。

「袈裟一角」不詳。「角」の龍との親和性で思ったのは袈裟の様態の一つである「僧綱領(そうごうえり)」で、僧綱の位にある僧が衣の襟(えり)を折り返さずに、背部の後ろで立てたままにし、頭を隠すように着るそれで、あれなら、角のようには見える。孰れにしても、この漢詩はこの寺への永代祝祭の言祝ぎの献詩と感じられる。

「古き桐の木の人に變じ來たりしを、智通と云(いひ)し出家のたいらげし事」これは晩唐の学者段成式(八〇三年~八六三年)の撰になる、荒唐無稽な怪異記事を集録した「酉陽雑爼」(八六〇年頃成立)の「續集」巻一の「支諾皋(しだくこう)上」の以下。

   *

臨瀨(一作湍)西北有寺、寺僧智通、常持「法華經」入禪。每晏坐、必求寒林靜境、殆非人所至。經數年、忽夜有人環其院呼智通、至曉聲方息。歷三夜、聲侵、智通不耐、應曰、「汝呼我何事。可人來言也。」。有物長六尺餘、皂衣靑面、張目巨吻、見僧初亦合手。智通熟視良久、謂曰、「爾寒乎。就是向火。」。物亦就坐、智通但念經。至五更、物爲火所醉、因閉目開口、據爐而鼾。智通睹之、乃以香匙舉灰火置其口中。物大呼起走、至閫若蹶聲。其寺背山、智通及明視蹶處、得木皮一片。登山尋之、數里、見大靑桐、樹稍已童矣、其下凹根若新缺然。僧以木皮附之、合無蹤隙。其半有薪者創成一蹬、深六寸餘、蓋魅之口、灰火滿其中、火猶熒熒。智通以焚之、其怪自

   *

老媼茶話 酉陽雜俎曰(樹怪)がよく原文を訓読している。また、柴田宵曲 續妖異博物館 「樹怪」ではよく現代語訳している(孰れのリンク先も私の電子化注)。なお、岡本綺堂も訳編「支那怪奇小説集」の中で「怪物の口」として訳出している。ここでは、同書の昭和一〇(一九三五)年サイレン社刊の正字版を、国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認底本として電子化して示す。新字の怪談集なんて、それだけで、怖くなくなる。但し、読みは振れるもののにみ限った。

   *

 

   ◇怪物の口◇

 

 臨湍寺(りんたんじ)の僧智通は常に法華經をたすさへてゐた。彼は人跡稀なる寒林(かんりん)に小院をかまへて、一心に經文讀誦(どくじゆ)を怠らなかつた。

 ある年、夜半にその院をめぐつて、彼の名を呼ぶ者があつた。

『智通、智通。』

 内ではなんの返事もしないと、外では夜(よ)のあけるまで呼びつゞけてゐた。かういふ事が三晚も止まないばかりか、その聲が院内までひゞき渡るので、智通も堪へられなくなつて答へた。

『どうも騷々しいな。用があるなら遠慮なしに這入(はい)つてくれ。』

 やがて這入つて來た物がある。身のたけ六尺ばかりで、黑い衣(きもの)をきて、靑い面(かほ)をしてゐた。彼は大きい目をみはつて、大きい息をついてゐる。要するに、一種の怪物である。而も彼は僧にむかつて先づ尋常に合掌した。

『おまえは寒いか。』と、智通は訊いた。『寒ければ、この火にあたれ。』

 怪物は無言で火にあたつていゐた。智通はそのまゝにして、法華經を讀みつゞけてゐると、夜も五更(かう)[やぶちゃん注:現在の午前三時から午前五時、又は、午前四時から午前六時頃。]に至る頃、怪物は火に醉つたとみえて、大きい目を閉じ、大きい口をあいて、爐(ろ)に倚(よ)りかゝつて高鼾(たかいびき)で寢入つてしまつた。智通はそれを觀て、香(かう)を掬(すく)ふ匙(さじ)を把(と)つて、爐の火と灰を怪物の口へ浚(さら)ひ込むと、かれは驚き叫んで飛び起きて、門の外へ駈け出したが、物につまずき倒れるやうな音がきこえて、それぎり鎭まつた。

 夜(よ)があけてから、智通が表へ出てみると、彼がゆうべ倒れたらしい所に一片の木の皮が落ちてゐた。寺のうしろは山であるので、彼はその山へ登つてゆくと、數里[やぶちゃん注:唐代の一里は五百五十九・八メートル。六掛けだと、三キロ半弱。]の奧に大きな靑桐の木があつた。梢(こずゑ)は已に枯れかゝつて、その根の窪(くぼみ)に新しく缺けたらしい所があるので、試みに彼(か)の木の皮をあてゝみると、恰(あたか)も貼付(はりつ)けたやうに合つた。又その根の半分枯れたところに洞(うつろ)があつて、深さ六七寸、それが怪物の口であらう。ゆうべの灰と火がまだ消えもせずに殘つてゐた。

 智通はその木を焚(やい)てしまつた。

   *]

古今百物語評判卷之二 第七 雪隱のばけ物附唐の李赤が事 / 古今百物語評判卷之二~了

 

  第七 雪隱(せつゐん)のばけ物唐(とう)の李赤(りせき)が事

一人のいはく、「世に『雪隱のばけ物』といふものゝあるよしをいひ、又、あら神(がみ)なるよしをも云へり。其たゝりにあへる者、歸るさに、ころべる時は、病(やまひ)の品(しな)、瘟疫(はやりやまひ)の樣にて、日(ひ)あらずして、身まかるとかや。此事、いかなる神にか、覺束なく侍る」と申(まうせ)しかば、先生のいへらく、「其神にあへる時は、其まゝ、帶をとき、歸るがまじなひなるよしを申傳(まうしつた)へたれども、さだかならず。又、唐(もろこし)にも厠(かはや)の神を『紫姑神(しこしん)』といへりとかや。むかし、壽陽の李景といふ人、萊陽(らいやう)の何麗卿(かけいけい)と云(いへ)る女をむかへて、思ひものとせしかば、本妻、深くねたみて、正月十五日に厠の中にて殺せしに、彼(か)の何麗卿、たゝりをなせしかば、其後、正月每にまつりて、厠の神と、いはひし事あれども、これらを眞體(しんたい)なりとも、いふべからず。又、佛家(ぶつけ)には烏瑟沙磨明王(うづさまめうわう)といふを雪隱の神なりと云(いへ)り。猶、此明王にも、火熖(くはゑん)ありて、惡魔をはらひ、塵垢(ぢんこ)を淸め給ふ功德(くどく)ましましけるとぞ。伽藍のかずにかぞふるには、前に此明王をゑがきて、つねに香花(かうげ)をそなへをきて、法師たる者、厠に行(ゆく)時は禮をなし、咒(じゆ)を唱へて、そこにて三衣(さんえ)をぬぎける法なりとかや。されども、今の世の人、たまたまあへるばけものは、其不淨の氣のつもれる所の、れい[やぶちゃん注:「靈」。「すだま」。下等な精霊、魑魅魍魎の意。]、たるべし。猶、柳子厚(りうしこう)が書(かけ)る李赤が傳には、『唐(とう)の代(よ)に李赤といふ者あり。「李白の詩作におとらず」とて、自(みづから)、名をつきたるとかや。然(しか)るに、李赤、其友だちとつれだちて、田舍へ下りしに、さきのひと屋にて、其友にいふやう、「我、去(さる)方へ、むこいりをいたさむとて、既に、けいやく[やぶちゃん注:「契約」。]、仕りしまゝ、此狀(じやう)を古鄕(ふるさと)へ送り給はれ」といふ。其友、云ふやう、「其方(そのはう)は古鄕に妻子あり。何事をの給ふぞ」といへども、「はや、今宵、其かたへ、おもむく」といひて、いづ地(ち)へやらん、行(ゆき)て、見えざりければ、其友だち、あやしみて尋(たづね)けるに、厠の中へいりて、其壺(つぼ)の中(うち)へ、首をさし入れたり。おどろき、つれて歸りて、「汝(なんぢ)、厠の鬼(おに)に犯(おかさ)れたり」と云へば、李赤、申すやう、「しうとの方へ行て、大かた、ちかづきに成(なり)たるに、何しに、つれてもどり給ふぞや」と云(いふ)。其友、うれへて、巫覡(かんなぎ)を呼びて、さまざま、はらへなどさせて、番(ばん)の者、きびしく附置(つけおき)たるに、夜更(よふけ)がたになりて、番のもの、少し、おこたりぬる隙(ひま)に、又、李赤、見えざりければ、「すはや」と尋ぬるに、今度は、身をなかば、糞穢(ふんゑ)の中におとしめたり。其友、漸々(やうやう)につれて歸り、湯などあびせければ、李赤、云(いふ)やう、「親類どもと、のこらず盃(さかづき)をしておりし所を、情なくも引きはなち給ひし物哉(ものかな)」とて淚ぐみたり。「是れ、只事にあらず」とて、其友、夜の明(あく)るをまたずして、「所をかへん」とて、人、數多(あまた)まもらせて、夜中より出でて、二、三十里、打(うち)こえて、さきの宿にとまりたり。『いかにも爰にてはよもや』と思ひて、氣を附(つけ)ざりしかば、李赤、終(つゐ)に厠の中(うち)に落入(おちいり)て、むなしくなりたり』と、しるせり。是、をろかなる[やぶちゃん注:ママ]。者の、わざはひを幸(さひはひ)と心得て、其身をほろぼすたとへにて、實(じつ)に此事ありとも覺(おぼえ)ね共、其類(るい)を以てかたりつ」と申されき。

[やぶちゃん注:これを以って「古今百物語評判卷之二」は終わっている。

「瘟疫」音「ウンエキ」で、熱を発する流行(はや)り病のこと。「瘟」は「疫」と同義で「えやみ」で悪性の流行病を指す。

「紫姑神」文字からお判りの通り、厠の女神。予言や幸運を授けるとして、古代の聖王である帝嚳(こく)の娘ともされるが、一般にはここに記されたような別説が伝わる。則天武后の垂拱(すいきょう)年間(六八五年~六八八年)のこと、山東省生まれの何媚(かび)、字(あざな)を麗卿(れいきょう)という絶世の美少女を、山西省寿陽県の県知事が見初めて、その側妾(そくしょう)としたが、その溺愛振りに嫉妬した本妻の曹氏が主人の留守中の、正月十五日、厠の中で彼女を殺害してしまった。玉皇大帝(ぎょくこうたいてい:道教に於ける事実上の最高神)はそれを憐れみ、厠の神としたという。中国では既に五世紀頃、正月十五日の元宵節に紫姑神を迎え、農作・養蚕その他の事柄を占う習慣が行われていたという(以上は主に所持する実吉達郎著「中国妖怪人物事典」(一九九六年講談社刊)及び平凡社「世界大百科事典」に拠った)。これとは別に中国では、便所で死んだ者は便所に地縛された幽霊となるが、誰かを便所の中でとり殺すことが出来れば、その霊は浮かばれるとも考えられていた。

「眞體」雪隠(せっちん)の化け物のルーツ。

「烏瑟沙磨明王」密教に於ける明王の一尊で、「烏樞沙摩明王」(「烏樞瑟摩」「烏芻沙摩」「烏瑟娑摩」「烏樞沙摩」等とも表記される)。ウィキの「烏枢沙摩明王によれば、『真言宗・天台宗・禅宗・日蓮宗などの諸宗派で信仰される。台密では五大明王の一尊である。日蓮宗では「烏芻沙摩明王」の表記を用い、火神・厠の神として信仰される』。「大威力烏樞瑟摩明王經」等の『密教経典(金剛乗経典)に説かれる』。『人間界と仏の世界を隔てる天界の「火生三昧」(かしょうざんまい)と呼ばれる炎の世界に住し、人間界の煩悩が仏の世界へ波及しないよう』、『聖なる炎によって』、『煩悩や欲望を焼き尽くす反面、仏の教えを素直に信じない民衆を』、『何としても救わんとする慈悲の怒りを以て』、『人々を目覚めさせようとする明王の一尊であり、天台宗に伝承される密教(台密)においては、明王の中でも特に中心的役割を果たす五大明王の一尊に数えられる』。『烏枢沙摩明王は古代インド神話において元の名を「ウッチュシュマ」、或いは「アグニ」と呼ばれた炎の神であり、「この世の一切の汚れを焼き尽くす」功徳を持ち、仏教に包括された後も「烈火で不浄を清浄と化す」神力を持つことから、心の浄化はもとより』、『日々の生活のあらゆる現実的な不浄を清める功徳があるとする、幅広い解釈によってあらゆる層の人々に信仰されてきた火の仏である。意訳から「不浄潔金剛」や「火頭金剛」とも呼ばれた』。『不浄を浄化するとして、密教や禅宗等の寺院では便所に祀られることが多い』。『また、この明王は胎内にいる女児を男児に変化させる力を持っていると言われ、男児を求めた戦国時代の武将に広く信仰されてきた』。『静岡県伊豆市の明徳寺などでは、烏枢沙摩明王が下半身の病に霊験あらたかであるとの信仰がある』(この寺は近くの温泉宿「嵯峨沢館」に嘗てよく泊まった関係上、何度かお参りしたことがある)。「穢跡金剛霊要門」(「えしゃくこんごうりょうようもん」と読むか)」では、『釈尊が涅槃に入ろうとした時、諸大衆諸天鬼神が集まり』、『悲嘆している中、蠡髻梵王』(「れいけつぼんおう」と読んでおく)『のみが天女との遊びにふけっていた。そこで大衆が神仙を使って彼を呼んだが、慢心を起こした蠡髻梵王は汚物で城壁を作っていたので近づくことが出来なかった。そこで釈尊は神力を使って不壞金剛』(ふえこんごう)『を出現させた。金剛は汚物をたちまちに大地と変えて蠡髻梵王を引き連れてきた。そこで大衆は大力士と讃えた』。『烏枢沙摩明王は彫像や絵巻などに残る姿が一面六臂であったり』、『三面八臂であるなど、他の明王に比べて表現にばらつきがあるが、主に右足を大きく上げて片足で立った姿であることが多い(または蓮華の台に半跏趺坐で座る姿も有名)。髪は火炎の勢いによって大きく逆立ち、憤怒相で全ての不浄を焼き尽くす功徳を表している。また複数ある手には輪宝や弓矢などをそれぞれ把持した姿で表現されることが多い』とある。

「伽藍のかずにかぞふるには」烏瑟沙磨明王を正式に祀った場所として称するためには。

「三衣」「さんね」とも読む。本来はインドの比丘が身に纏った三種の僧衣で、僧伽梨衣(そうぎゃりえ:九条から二十五条までの布で製した)・大衣(だいえ=鬱多羅僧衣(うったらそうえ):七条の袈裟で上衣とする)・安陀会(あんだえ:五条の下衣)のことを指すが、ここは単に僧衣のことであろう。

「柳子厚(りうしこう)が書(かけ)る李赤が傳」「柳子厚」はかの中唐の優れた文学者で政治家の柳宗元(七七三年~八一九年)の字(あざな)。以下は、彼の書いた唐代伝奇として知られる「李赤傳」。

   *

 李赤、江湖浪人也。嘗曰、「吾善爲歌詩、詩類李白。」、故自號曰李赤。

 遊宣州、州人館之。其友與俱遊者有姻焉。間累日、乃從之館。赤方與婦人言、其友戲之。赤曰、

「是媒我也、吾將娶乎是。」

友大駭、曰、

「足下妻固無恙、太夫人在堂、安得有是。豈狂易病惑耶。」

取絳雪[やぶちゃん注:「こうせつ」は反魂丹のような薬の名。]餌之、赤不肯。

 有間、婦人至、又與赤言。卽取巾經其脰、赤兩手助之、舌盡出。其友號而救之、婦人解其巾走去。赤怒曰、

「法無道、吾將從吾妻、汝何爲者。」

 赤乃就牖間爲書、輾而圓封之。又爲書、博而封之。訖、如廁久、其友從之、見赤軒廁抱甕、詭笑而倒視、勢且下入。乃倒曳得之。又大怒曰、

「吾已升堂面吾妻。吾妻之容、世固無有、堂宇之飾、宏大富麗、椒蘭之氣、油然而起。顧視汝之世猶溷廁也。而吾妻之居、與帝居鈞天・淸都[やぶちゃん注:孰れも天帝の都の名。]無以異、若何苦余至此哉。」

然後其友知赤之所遭、乃廁鬼也。

 聚僕謀曰、

「亟[やぶちゃん注:「すみやかに」。]去是廁。」

遂行宿三十里。夜、赤又如廁久、從之、且復入矣。持出、洗其汙、眾環之以至旦。

 去抵他縣、縣之吏方宴、赤拜揖跪起無異者。酒行、友未及言、飲已而顧赤、則已去矣。走從之、赤入廁、舉其床捍門、門堅不可入、其友叫且言之。衆發牆以入、赤之面陷不潔者半矣。又出洗之。

 縣之吏更召巫師善咒術者守赤、赤自若也。

 夜半、守者怠、皆睡。及覺、更呼而求之、見其足於廁外、赤死久矣、獨得屍歸其家。

 取其所封書讀之、蓋與其母妻訣、其言辭猶人也。

 柳先生曰、「李赤之傳不誣矣。是其病心而爲是耶。抑故有廁鬼也。赤之名聞江湖間、其始爲士、無以異於人也。一惑於怪、而所爲若是、乃反以世爲溷、溷爲帝居淸都、其屬意明白。今世皆知笑赤之惑也。及至是非取與向背決不爲赤者、幾何人耶。反修而身、無以欲利好惡遷其神而不返、則幸耳、又何暇赤之笑哉。

   *

最後の部分、流石に私の愛する名詩人なればこそ、柳宗元は李赤の状態をほぼ精神病と判断していることが判る。幻覚性の激しい統合失調症か、脳梅毒による進行性麻痺かも知れぬ。

「巫覡(かんなぎ)」音「フゲキ」。ここは男の祈禱師。

「はらへ」「祓」。

「すはや」感動詞。「あっ!」。

「二、三十里」唐代の一里は五百五十九・八メートルしかないので、十二~十六キロメートル八百メートル弱。但し、原文は「三十里」。

「實(じつ)に此事ありとも覺ね共」元隣さんよ! 柳先生は「李赤之傳不誣矣」(李赤のこの伝に嘘はなかろう)と仰しゃってるんだぜ?! あんたこそが、「私の詩は李白の詩に似ている」と嘯いた李赤の同類にして不遜だろうが!

古今百物語評判卷之二 第六 垢ねぶりの事

 

  第六 垢ねぶりの事

一人のいはく、「『垢ねぶり』といふ物は、ふるき風呂屋にすむばけものゝよし、申せり。尤(もつとも)、あれたる屋敷などにはあるべく聞え候へども、其名の心得がたく侍る」といへば、先生、いへらく、「此名、尤なる義なるべし。凡(およそ)一切の物、其生ずる所の物をくらふ事、たとへば、魚の、水より生じて水をはみ、しらみの、けがれより生じて其けがれをくらふがごとし。されば『垢ねぶり』も、其塵垢(ぢんこ)の氣のつもれる所より化生(けしやう)し、出づる物なる故に、あかをねぶりて身命(しんみやう)をつぐ、必然の理(ことわり)たるべし」と答へられき。

[やぶちゃん注:「垢ねぶり」「垢舐(ねぶ)り」は、かなりメジャーな妖怪(無論、その功労者は水木しげる氏である)「垢嘗(あかなめ)」のこと。ウィキの「垢嘗によれば、安永五(一七七六)年刊の鳥山石燕の妖怪画集「画図百鬼夜行」(本「古今百物語評判」は貞享三(一六八六)年刊であるから、九十年後のもの)等に出、『風呂桶や風呂にたまった垢を嘗め喰うとされる』。『古典の妖怪画の画図では、足に鉤爪を持つ』、『ざんぎり頭の童子が、風呂場のそばで長い舌を出した姿で描かれている』(リンク先に石燕のそれと、江戸末期の歌川芳員の「百種怪談妖物雙六」の「底闇谷の垢嘗」の二種の画像と、境港市の商店街の「水木しげるロード」に設置されている「あかなめ」のブロンズ像の写真が有る)。『解説文が一切ないため、どのような妖怪を意図して描かれたものかは推測の域を出ないが』、本書「古今百物語評判」には『「垢ねぶり」という妖怪の記述があり、垢嘗はこの垢ねぶりを描いたものと推測されて』おり(以下、本条の梗概訳)、『垢ねぶりとは古い風呂屋に棲む化物であり、荒れた屋敷などに潜んでいるといわれる。当時の科学知識によれば、魚が水から生まれて水を口にし、シラミが汚れから生じてその汚れを食べるように、あらゆる生物はそれが生じた場所にあるものを食べることから、垢ねぶりは塵や垢の気が集まった場所から変化して生まれたものであり、垢を嘗めて生きるものとされている』。『昭和・平成以降の妖怪関連の書籍では、垢嘗もこの垢ねぶりと同様に解釈されている。その解釈によれば、垢嘗は古びた風呂屋や荒れた屋敷に棲む妖怪であり』、『人が寝静まった夜に侵入して』、『風呂場や風呂桶などに付着した垢を長い舌で嘗めるとされる』。『垢を嘗める以外には何もしないが、当時の人々は妖怪が現れるだけでも気持ち悪く感じるので、垢嘗が風呂場に来ないよう、普段から風呂場や風呂桶をきれいに洗い、垢をためないように心がけていたという』。『垢嘗の正体を見た者はいないが、名前の「垢(あか)」からの連想で赤い顔』、『または』、『全身が赤いともいわれる』。『また、「垢」には心の穢れや煩悩、余分なものという意味もあることから、風呂を清潔にしておくというだけではなく、穢れを身に溜めこんではいけないという教訓も含まれているとの説もある』とある。

 本条で元隣は、またしてもトンデモ化生説をぶち上げている。まず、彼の「凡(およそ)一切の物、其生ずる所の物をくらふ事、たとへば、魚の、水より生じて水をはみ」という部分で、この前の部分を好意的に、卵生の魚類が、その生れ出た水中に於いて水(に含まれたプランクトンや雑魚)を食い、と正当に解釈することも可能であるが、魚類は卵生でありながら、彼はこれを「化生」(魚の大元は何もない水中に突如出現する)と認識していることが見てとれ、それは併置された虱(しらみ)が、「けがれより生じて其けがれをくらふ」としている点で、好意的解釈は無化されてしまう。魚類が化生ではなく、雌雄が存在して生ずるところの卵生であるという認識は当時としても、かなり当たり前(但し、鰻が山芋から化生したりするというような化生認識はあった。しかし、元隣先生は、恐らく、それらを否定するのではるまいかとも思われる)のことである。ただ、卵生であるという見かけ上の認識がありながら、それでも「けがれ」(穢れ)から突如、化生するのが虱だというトンデモ認識は、実は、かの「和漢三才図会」(正徳二(一七一二)年頃の完成。本「古今百物語評判」から二十六年後)を書いた博物学者で医師の寺島良安にさえあったことは事実である。詳しくは私の和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 蝨(シラミの項)を見られたいが、そこで良安は『虱、始め、氣化に由りて生じ、後には乃ち、卵を遺し、蟣(きささ)を出だす』とあるからである。「蟣」は、「和名類聚抄」に出る、古語としての「虱の卵」のことである。則ち、良安はまず、何もない、汚れた場所に於いて、「氣化に由りて」(気が変ずることによって)、まず、突如、虱の親が「生じ」、而して後には、おもむろに卵を産むのだ、だから「化生」だと考えているのである。]

古今百物語評判卷之二 第五 うぶめの事附幽靈の事

 

  第五 うぶめの事幽靈の事

 

Ubume

 

[やぶちゃん注:これもやや長いので、特異的に改行や字下げを施して読み易くし、注も本文中或いは当該段落末に添えた。個人的に「うぶめ」には強いシンパシーを感じるので、かなり念入りに「叢書江戸文庫」の画像を清拭して掲げた。]

 又、問(とふ)ていはく、

「世にかたり傳ふる『うぶめ』と申す物こそ、心得候はね。其物がたりに云へるは、産(さん)のうへにて、身まかりたりし女、其執心、此ものとなれり。其かたち、腰より下は血にそみて、其聲をば、『れうれうとなく』と申しならはせり。人、死して後、他の物に變じて來(きた)る道理(だうり)候はゞ、地獄の事も疑はしく存ぜられ候。如何に候ふやらん。」

[やぶちゃん注:「うぶめ」怪談集の定番で、私の電子化注でも既に多くの例が出来している。本文もさることながら、私の注としては、「宿直草卷五 第一 うぶめの事」及び『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 橋姫(3) 産女(うぶめ)の二本を挙げておけば、ここに改めて注する必要はないと存ずる。そちらを参照されたいが、総論的「うぶめ」伝承について、一応、小学館「日本大百科全書」から引いておく。ここに述べられている通り、『産死した産婦の霊の妖怪』化したものと思われているもので、『身重のまま死んだ産婦を分身せずに埋めると産女で現れるとも伝える。道の辻』『などに現れ』、『通行人に赤子を預ける。赤子は徐々に重くなるが』、『耐えていると、帰ってきた産女は礼に大力や財宝を授けて去る、という伝説。死んだ産婦の墓から生まれる「子育て幽霊」も産女が飴』『で育てた昔話』や、また、『海難者の亡霊やさすらう磯女(いそおんな)をウグメ、ウブメとよぶ地方もあるが、妖怪譚』『の内容は類似している。「取付く引付く」系の財宝発見の昔話「うばりよん」は外出中の男に化け物が「負(ば)れたかったら負(ば)れろ」というと』、『背が急に重くなり、それを耐えて帰宅すると』、『いっぱいの黄金であったという筋で、趣向は同じである。山形県の伝説で、宿直に登城中の武士が妖女に赤子を預けられ重さに耐えていると、帰ってきた女が実は山中の氏神で礼に大力を授けられたという類もある。いずれも胆力ある者が試練を通過して長者などの好結果を得る型で』、「今昔物語集」の巻第二十七の「賴光郎等平季武値産女語第四十三」(賴光(よりみつ)の郎等(らうどう)平季武(すゑたけ)、産女(うぶめ)に値(あ)ひし語(こと)第四十三)は、源頼光『四天王の卜部季武(うらべすえたけ)が産女に遭遇する説話だが、この場合は』、『返さなかった赤子が木の葉と化している。同じような伝説は各地にあって、無縁仏の供養や母子神信仰につながってもてはやされた文芸であろう』とある。]

と云へば、先生のいへらく、

「迚(とて)もの事に、かたり侍らん。まづ、『うぶめ』と申すは、もろこしにも『姑獲鳥(こかくてう)』又は『夜行遊女(やかうゆうぢよ)』など云(いへ)り。「玄中記」には、『此鳥、鬼神の類(るい)なり。毛を着(き)て、飛鳥(ひてう)となり、毛をぬぎて、女人(によにん)となれり。是、産婦の死して後(のち)、なる所なり。此故に、ふたつの乳(ち)あり。このみて、人の子をとりて、己(おのれ)が子となせり。凡そ、小兒の衣類など、夜は外にをく[やぶちゃん注:ママ。]べからず。此鳥、來(きたり)て、血を付(つけ)て、しるしとしぬれば、其兒、驚癇(きやうかん)をやめり。荊州に多くあり』といへり。又、「本草」の説には、『此鳥に雄なし。七、八月の頃、夜出でて人を害すと云へり。

[やぶちゃん注:「迚(とて)もの事に」「この際だから、まず、序でのこととして、一つ」の意。

「玄中記」西晋(二六五年~三一六年)の郭璞(かくはく)の著わした博物誌であるが、散佚。諸書の引用を纏めた「中國哲學書電子化計劃」の「玄中記」に、

   *

姑獲鳥夜飛晝藏、蓋鬼神類。衣毛爲飛鳥、毛爲女人。二句北錄引在豫章男子句上一名天帝少女、一名夜行游女、御覽引作名曰帝少女、一名夜游、今依北錄引補一名鉤星、御覽一引作釣星、一名隱飛。鳥無子、喜取人子養之、以爲子。今時小兒之衣不欲夜露者、爲此物愛以血點其衣爲志、卽取小兒也。今時至此已上荊楚時記注引、作有小兒之家卽以血點其衣。爲志御覽引、作人養小兒不可露其衣此鳥度卽取兒也。經史証類本草十九引、作今時人小兒衣不欲夜露者爲此也。今依北錄引補故世人名爲鬼鳥、荊楚時記注引有此句、荊州爲多。昔豫章男子、見田中有六七女人、不知是鳥、匍匐往,先得其毛衣、取藏之、卽往就諸鳥。諸鳥各去就毛衣、衣之飛去。一鳥獨不得去、男子取以爲婦。生三女。其母後使女問父、知衣在積稻下、得之、衣而飛去。後以衣迎三女、三女兒得衣亦飛去。今謂之鬼車。

   *

とある。なお、後半部の本邦の羽衣伝説に酷似した部分は、後の東晋の干宝が著した志怪小説集「捜神記」の巻十四にも、

   *

豫章新縣男子、見田中有六七女、皆衣毛衣、不知是鳥。匍匐往得其一女所解毛衣、取藏之、卽往就諸鳥。諸鳥各飛去、一鳥獨不得去。男子取以爲婦。生三女。其母後使女問父、知衣在積稻下得之、衣而飛去、後復以迎三女、女亦得飛去。

   *

とほぼ同文が出る。

「驚癇」癲癇(てんかん)。

「荊州」現在の湖北省一帯に置かれた州。

「本草」明の李時珍の本草書のチャンピオン、「本草綱目」。その「禽之四」に、

   *

姑獲鳥【「拾遺」。】

釋名乳母鳥【「中記」】。夜行遊女【同。】。天帝少女【同。】。無辜鳥【同。】。隠飛。【「玄中記」】、鬼鳥【「拾遺」】。譩譆【「杜預左傳注」】。鉤星【「時記」時珍曰、昔人言此鳥産婦所化、陰慝爲妖、故有諸名。】。

集解藏器曰、姑獲能收人魂魄。「中記」云、姑獲鳥、鬼神類也。衣毛爲飛鳥、毛爲女人。云是産婦死後化作、故胸前有兩乳、喜取人子養爲己子。凡有小兒家、不可夜露衣物。此鳥夜飛、以血之爲誌。兒輒病驚癇及疳疾、謂之無辜疳也。州多有之。亦謂之鬼鳥。「周禮」庭氏『以救日之弓、救月之矢、射矢鳥』、即此也。時珍曰、此鳥純雌無雄、七八月夜飛、害人尤毒。

   *

とあるのを指す。]

 本朝にては、いつ、出(いづ)るといふ事も侍らねど、かく申(まうし)ならはし、又、もろこしの文にも、くはしく書きつけたるうへは、思(お)もふに、此物なきにあらじ。其はじめ、産婦の死(しせ)しからだより、此もの、ふと、生じて、後には、其類(るい)を以て生(しやうず)るなるべし。もと、生(しやうず)る所の氣、産婦なれば、鳥となりても、其わざをなせるにこそ侍れ。或は、くされる魚鳥(うをとり)より、蟲のわき出(いで)、又は、馬の尾の蜂になり申(まうす)類(たぐひ)、眼前に、其物より、他の物、わき出(いづ)れば、産婦のかばねより、此鳥、わき申(まうす)まじとも申(まうし)がたし。是れ、形(かたち)より、形を生ずれば、さもあるべし。地獄の沙汰とは、なぞらへがたし。氣化(きくわ)・形化(けいくわ)の名義は、おのおの、かねて知り給へばかたるにおよばず。」

[やぶちゃん注:おやおや! 玄隣先生、やらかしちゃいましたね、理窟のつかない存在は化生(けしょう)説(四生(ししょう)の一つ。母胎や卵などからでなく、論理的因果関係なしに忽然として生まれるもの。天界・地獄・中有の衆生の類)ですかい?! まずかないですか? そいつは専ら、先生の大嫌いな仏教の発生説ですぜ?!

「氣化・形化」陰陽五行説の、それぞれの気と形態の見かけ上の変容の意か。北宋の周敦頤(しゅうとんい 一〇一七年~一〇七三年)が一〇七〇年に著した、陰陽を表わす図を儒教の解釈によって説いた「太極圖説(たいきょくずせつ)」に基づき、朱熹が著わした「太極圖」では、『乾男坤女、氣化する者を以て言ふ也。各(おのおの)其の性を一にして、男女一太極なり』とか、『萬物化生、形化する者を以つて言ふなり。各其の性を一にして、萬物一太極なり』といったキャプションがある。]

 又、問ふていはく、

「然らば、凡(およそ)人間のこんぱく[やぶちゃん注:魂魄。]は此(この)形、死(しし)候へば、とかく消(きえ)うせ候(さふらふ)物と仰せせらるゝぞならば、或は戰場の跡などに、人のなきさけぶ聲のきこへ[やぶちゃん注:ママ。]候ふ事など、たゞしき書物にもみえ、又、「左傳」[やぶちゃん注:「春秋左氏傳」。]にも、彭生(ほうせい)と申(まうす)者の幽靈、きたりて、死(しした)る後に、怨(うらみ)をむくひし事など、書(かき)のせし由、承りおよび候。是れは儒書にて候ふが、其説、おぼつかなく候ふ。」

[やぶちゃん注:「春秋左氏傳」の「莊公八年」(紀元前六八六年)の条に出る以下。

   *

冬十二月、齊侯游于姑棼、遂田于貝丘。見大豕、從者曰、「公子彭生也。」。公怒曰、「彭生敢見。」。射之、豕人立而啼。公懼、墜于車、傷足喪屨。

(冬十二月、齊侯(せいこう)、姑棼(こふん)に游び、遂(つい)で貝丘(ばいきう)に田(か)りし、大豕(たいし)[やぶちゃん注:大きな豚。]を見る。從者曰く、「公子彭生なり。」と。公、怒りて曰く、「彭生敢へて見(まみ)えんや。」と、之れを射る。豕(ゐのこ)、人のごとく立ちて啼く。公、懼(おそ)れて、車より隊(お)ち、足を傷(やぶ)り、屨(くつ)を喪へり。)

   *

ウィキの「襄公(斉)によれば、紀元前六九四年一月、斉侯襄公は魯の桓公と会合し、桓公夫妻が斉にやって来た。実は襄公は以前に魯の桓公夫人(自分の異母妹・文姜)と私通したことがあったが、今回もまた密通し、桓公にそれを知られてしまう。そこで襄公は同年四月に再び魯の桓公と酒を飲み、彼が酔っている隙に乗じて、自身の公子彭生に命じて彼を殺害した。これを魯の国人が責めてきたが、襄公は実行犯であった彭生に総ての責任を押しつけ、彭生を処刑して陳謝した(襄公はこの後もたびたび文姜との密通をし続けている)という事実を亡き彭生は「怨」とするのである)。因みに、「左氏傳」では上記の後に襄公がこの後に王宮に戻り、従者に履いていた靴を出すように命ずるも見つからず、従者が激しく鞭打たれて、たまらず、王宮を逃げ出んとしたところ、門のところで、襄公の冷遇に切れた襄公の従弟である公孫無知らのクーデターと出逢い、カメラが換わって、その公孫無知らが王宮に侵入、隠れていた襄公が弑されるカタストロフ・シーンへと雪崩込んでいるのが、なんとも、早回しで、「怨」の力を感じさせて興味深い。]

といへば、先生、いへらく、

「生死有無(しやうじうむ)の論は、出類(しゆつるい)[やぶちゃん注:出類抜萃。人に抜きんでて才能が優れていること。]の見識ある人ならでは、かたりも聞かせがたく侍る。すべて世の中の事に、『常(つね)』と『變(へん)』と御座候(ござさふらふ)が、人、死(しし)てたましゐのちりうするといふは『常』なり。萬古(ばんこ)、かくのごとし。其氣の殘りて、彰生がごとくなるは『變』なり。萬分の一なり。『變』とは、常(つね)にあらずしてたまたまある、をいふ。たとへば、[やぶちゃん注:「たとへば」は底本にナシ。原典で補った。]人の氣、おとろえ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、形、つかれて、病死する人は、火の、おのづからきえて、其灰にも、あたゝかなる氣のなきがごとし。或は、うらみ死(じに)にしぬるか、又は、劍戟(けんげき)のうへにて死(しす)る者は、其氣も形もおとろえざるに、俄にしするなれば、いまだ、もゆる火に水をかけてきやせる[やぶちゃん注:ママ。「消えさする」。]時は、其あたゝかなる氣、しばしは、のこるが如し。されば、其人の、がうきやう[やぶちゃん注:「」。]なる次第によりて、其氣の、のこる事も、淺深厚薄(せんしんこうはく)あるべし。」

 又、問ていはく、

「其氣の殘る事は承りつ。其氣の、のこりて、形の生(しやう)ずる事は、いかんぞや。」

 云く、

「天地(てんち)の間(あひだ)に生(しやうず)る物は、みな、氣よりおこれり。氣のとゞこほるによつて、形を生ず。たとへば、煙のすゝになるがごとし。煙にてみたる時は、かたちなく、手にもとられずといへども、其(それ)、つもりてすゝになりたる時は、手にとらるゝなり。是、氣は質の始(はじめ)なる所なり。

 されば、其氣のとゞこほりて、或は形をなし、又は聲(こゑ)を生(しやうず)る物を『幽靈』といふなれど、猶、此『ゆうれい』も、程(ほど)ふるに及(および)て、其とゞこほりたる氣の散ずるに隨(したがひ)て消(きえ)うするなり。又、哲人名僧などの教化(けうけ)によりて消えうするは、もとより、妖は德にかたざる道理なれば、其の教化によりて、其氣、忽(たちまち)に散ずればなるべし。

 されば、中昔(なかむかし)、平將軍(へいしやうぐん)まさかどと云ひし逆臣、俵藤太(たはらとうだ)に討れて、其くびをあぎとにかけられしかども、三年にあまるまで、此首、死せずして、眼をひらき、とこしなへにいかれる姿をあらはせしに、往來の人、

『將かどは米かみよりぞきられける俵藤太がはかり事にて』

とよみければ、一首の狂歌に鬱憤を散じ、眼をとぢ、形をしぼめて、髑髏(どくろ)となり侍る、など申し傳へけるも此理(ことわり)にや。

[やぶちゃん注:「くびをあぎとにかけられ」所謂、後の獄門首として曝されることを指すが、どうもこの表現は重語で躓く。「首を掛ける」と「顎門・顎・鰓」=『「あぎと」を掛ける』は同じだからである(「あぎ」は「あご」で、「と」は「所・門」で「区分された箇所」という部分を指すものであろう)。

「將かどは米かみよりぞきられける俵藤太がはかり事にて」これは「太平記」巻第十六の「日本朝敵の事」の一節に出るのが知られている。

   *

朱雀院(しゆじやくゐん)の御宇承平五年[やぶちゃん注:九三五年。]に、將門と言ひける者、東國に下つて、相馬郡(さうまのこほり)に都を立て、百官を召し仕うて、みづから「平親王(へいしんわう)」と號す。官軍、舉(こぞ)つてこれを討たんとせしかども、その身、皆、鐡身(てつしん)にて、矢石(しせき)にも傷(やぶ)られず、剣戟にも痛まざりしかば、諸卿、僉議(せんぎ)あつて、にはかに鐡(くろがね)の四天を鋳(い)奉つて、比叡山に安置し、四天合行(してんがふぎやう)の法を行はせらる、ゆゑに、天より白羽の矢一筋降つて、将門が眉間(みけん)に立ちければ、遂に俵藤太秀郷(たはらとうだひでさと)に首を取られてけり。その首、獄門に懸けて曝すに、三月(みつき)まで色変ぜず、眼(まなこ)をも塞(ふさ)がず、常に牙(きば)を嚙みて、

「斬られし我が五體、いづれの所にか有るらん、ここに來たれ、首繼(つ)いで、今一軍(ひといくさ)せん。」

と、夜な夜な、呼ばはりける間(あひだ)、聞く人、これを恐れずといふ事、なし。時に、道過(みちす)ぐる人、これを聞きて、

  將門は米かみよりぞ斬られける俵藤太が謀(はかりごと)にて

と詠みたりければ、この首、からからと笑ひけるが、眼(まなこ)、たちまちに塞がつて、その尸(かばね)、遂に枯れにけり。

   *

「四天合行の法」四天王合行法。密教で四天王を本尊として同一の壇で行う修法。災厄を祓い、福徳を招き、国土安穏を祈る。なお、この戯れ歌はそれ以前の「平治物語」にも載り、そこでは藤六という歌詠みが詠み掛けたとされてある。この戯れ歌はそれ以前の「平治物語」にも載り、そこでは藤六という歌詠みが詠み掛けたとされている。一首は、

 將門は顳顬(こめかみ)よりぞ斬られける俵藤太が謀り事にて

で、「こめかみ」が「顳顬」(耳と目の間にある、物を嚙むと動く部分)と「米」の掛詞となっていて、「俵」と、恐らくは「はかり」(年貢米の計量)が「米」の縁語として洒落になるようになっているものと私は思う。]

 畢竟、聖賢神佛の靈(たま)の、今にのこりて、罰利生(ばつりしやう)の正しきは、是れ、よき『幽靈』なり。然し、世の常の人は生きています時だに、よろしき事はまれにして、さがなき事のみ、おほき身なれば、せめてはわすれて、かへして、其執(しう)をとゞめざらぬには、しかざるべきわざにこそ。」

 

2018/10/10

古今百物語評判卷之二 第四 箱根の地獄幷富士の山三尊來迎の事

 

  第四 箱根の地獄富士の山三尊來迎の事

 

Hakoneraigou

 

[やぶちゃん注:やや長いので、特異的に改行や字下げを施して読み易くし、注も当該段落末に添えた。]

 又、問(とふ)ていはく、

「はこね山には地ごく有(ある)よし、申(まうし)ならはし侍りて、人のよみがへりたる者などの物がたりにも、まことしき事あり。其うへ、そのよみがへりたる人の身などに紫色なる所など出來候ふを、訶責[やぶちゃん注:「呵責」。]にあひし跡なりと申は、結城(ゆふき)入道がいにしへも思ひ出でられて、實(げ)にも、らしく、聞え侍り。又、富士の山へのぼりたる人は、朝日にかゞやきて三尊來迎(さんぞんらいがう)の姿、おがまれ給ふ事、諸人の申し侍るは、何(なに)の道理ぞや。」

[やぶちゃん注:「結城入道がいにしへ」鎌倉後期から南北朝初期の武将で白河結城氏第二代当主結城宗広(文永三(一二六六)年~延元三/暦応元(一三三九)年)の伝承。ウィキの「結城宗広」によれば、『当初は鎌倉幕府の忠実な家臣として陸奥国南部方面の政務を任された』。元弘元(一三三一)年九月の「元弘の乱」に『際して、北条高時の命によって畿内へ派遣された討伐軍に「結城上野入道」の名があるが』、『これを宗広に比定』する学者がいる。しかし、元弘三/正慶二(一三三三)年、『後醍醐天皇から討幕の綸旨を受けると後醍醐天皇側に寝返って、新田義貞と共に 鎌倉に攻め入り、幕府を滅ぼした』。『その功績により、後醍醐天皇から厚い信任を受けて』、『北畠顕家が多賀城に入ると、諸郡奉行に任じられて共に奥州方面の統治を任された』。建武三(一三三六)年、足利尊氏が京都に攻め入り』、『一時』、『支配下に置くと、顕家と共に軍を率いて足利軍を攻め、朝廷軍の京都奪還で大功を挙げた』。同年三月には『後醍醐天皇に謁見し』、『宝刀鬼丸を授けられ』ている。『九州に逃れた尊氏が再起を果たして東上して来ると、顕家と共に足利軍と懸命に戦ったが』延元三/暦応元(一三三八)年に『顕家が高師直と戦って敗死したため』、『軍は壊滅し、宗広は命からがら後醍醐天皇がいる吉野へと逃れた。その後、宗広は南朝方再起のために、義良親王を奉じ』、『伊勢より北畠親房・伊達行朝・中村経長等と共に海路から奥州へ向かおうとしたが、海上で遭難して伊勢国安濃津で立往生し、間もなく同地で発病して病死した』。『津市には遭難した海岸に結城神社が有り、梅祭りで有名である』「太平記」巻二十の掉尾「結城入道地獄に堕つる事」では、『宗広の死に関して、常に死人の首を見ないと気持ちが晴れないと言って、僧尼男女を問わず』、毎日、二、三人の『首を切って』、『わざわざ目の前に縣けせるほど、生来』、『暴虐な人物で狼藉が多かったため、その報いを受けて塗炭の苦しみを味わい』、『地獄に堕ちるという凄惨な描写をしている。宮城県多賀城市の多賀城神社に祀られている』。『宗広は南朝に最後まで忠実な武将であったが、その息子・親朝が北朝に通じて親房を攻めるという皮肉な事態が発生する事になった。なお、家督は当初親朝が分家していたため』、『親朝の子・顕朝を後継者としていたが、宗広の死後に顕朝が白河結城氏の家督と所領を父に献じたために親朝が継承している』とある。「太平記」のそれは面白いであるが、やや長い。santalab氏のブログ「Santa Lab's Blogの『「太平記」結城入道堕地獄事(その1)』から九回に分けて原文と現代語訳が載るので、そちらを参照されたい。

 先生、いへらく、

「是れ、又、人の氣の前に見る幻容(げんよう)なるべし。くはしく、論じ侍らん。かく申とて、我、ゆめゆめ、佛道をそしるにあらず。各々、御存(ごぞんじ)のごとく、佛・菩薩をも、うやまひ侍れども、根元佛道の本意(ほに)は別に佛身をたつるにあらず。たゞ是れ、自性(じしゃう)の正覺(しやうがく)を本有(ほんう)の佛心とみたて侍る事、佛道第一の眼目にて御座候ふ。されば、其佛道に似て、『つゐへの侍る[やぶちゃん注:ママ。「潰(つひ)え」であろう。]』と、愚(おろか)なる人のまよひて、賣僧(まいす)にたぶらかさるゝをうれへ侍るのみ。

[やぶちゃん注:「自性」あらゆる存在そのものが、本来、備えている真の性質。真如法性(しんにょほっしょう)。本性。

「正覺」「無上正等覚・三藐三菩提(さんみゃくさんぼだい)」の略。正しい仏の悟りのこと。

「本有」連声(れんじょう)で「ほんぬ」とも読む。本来的な存在。初めから有ること。]

 それ、地獄の事は鬼の事に付(つき)ても、あらあら、申し侍れども、又、かたり申さん。

 彼(か)の佛家(ぶつけ)に、ときをき[やぶちゃん注:ママ。]給ひし地ごくの沙汰は、是れ、愚(おろかなる)人の奸惡(かんあく)をなして、『何とぞ、上(かみ)の刑罰をまぬがれん』として、恥(はづ)る事なき者の爲に、しばらく、まうけて教へをたつるのみ。いかでか、人、死し、かたち、つゐえて[やぶちゃん注:ママ。]後、更にくるしみをうくる事、あらんや。しからば、我朝にいふ所の箱根山、および越中のしら山・たて山、皆、硫黃(ゆわう)のせいより、さまざまわき出(いづ)るを申しならはしたるにて侍るべし。

[やぶちゃん注:「越中のしら山・たて山」言いがおかしい。「しら山」は越前の白山である。もろこしにも、かく名付たる所あり。「一統志」「湖廣總志」などにみえたり。

「硫黃(ゆわう)」前条「第三 有馬山地ごく谷・ざたう谷の事」で既出既注。硫黄(いおう)の古名。

「一統志」「大明一統志」。明の英宗の勅撰地理書(但し、先行する景泰帝の命じた一四五六年完成の「寰宇通志」の改訂版)。一四六一年に完成。全九十巻。最終の二巻は「外夷」(朝鮮国・女直・日本国・琉球国他)に当てられているが、説明は沿革・風俗・山川・土産のみで、簡略である。

「湖廣總志」「萬歷湖廣總志」明の徐學謨撰になる湖南省の地誌。全九十八巻。一五九一年成立。]

 さある處に、我朝に、人のよみがへりたる後(のち)、或は、『はこねへゆきし』、又は』『それぞれの責めをうけし』など、まざまざ申事有(ある)は、是れ、日比(ひごろ)に『かく有べき』と思ひきはめたる氣の、前(さき)の病氣をうけて、既に半ばも死(しに)いれども、よみがへる者なれば、其本心は、しなざるにより、晝、おもひし事を、夢に見る理(ことわ)りなれば、此病氣の中に、すゞろ事(ごと)どもを、日比に思ひしごとくにみるを、かく申すなり。

[やぶちゃん注:「すゞろ事」これといった根拠や理由のないこと。ここは他愛もないさまざまな地獄の説。]

 さて、また、紫色などのつきしは、ねつ氣などのさかんにして、とゞこほりて、色の變りしなり。『はやくさ』などにて相果(あひはて)る小兒を見れば、皆、むらさき色なり。是れ、たゞ積(つもれる)毒のあらはるゝにて、さらに訶責の跡にあらず。

[やぶちゃん注:「はやくさ」「早瘡」で、母体感染した小児性梅毒のことかと思われる。]

 其うへ、司馬溫公の發明にも、人の蘇生して後、地ごくへ行き、閻魔王殿にあひしなどいふも、佛法わたりて後に、哲人、かく申せり。是、まよひ故なり。

[やぶちゃん注:「司馬溫公」北宋代の儒学者で歴史家・政治家としても知られる司馬光(一〇一九年~一〇八六年)のこと。彼は温国公の爵位を贈られており、それによって「司馬温公」「司馬文正公」と呼ばれることが多い。例の、子どもの頃、大きな水瓶に落ちた友人を、躊躇なく瓶に石をぶち当てて破って助けた話で知られる人物である(それを私は小学二年生の時、学校の道徳の授業で音読させられたのを何故か未だによく覚えている)。

「發明」物事の意味や道理を明らかにすることを目的として書かれた書という一般名詞であろが、以下の話は何に出るのか、よく判らぬ。識者の御教授を乞う。]

 もし、『實(じつ)にある事ぞ』ならば、いかんぞ、佛法わたらざるさきに、いくたりも、蘇生の者侍れども、一人も、かやうの事あらざるやと申給(まうしたまひ)し事、千載不易の論なればこそ、文公「小學」にものせ給ひけり。

[やぶちゃん注:御説、御尤も!

『文公「小學」』初学者のために南宋の大儒、朱熹(一一三〇年~一二〇〇年:謚は文公)が編纂した宋代の修身・作法書。全六巻。一一八七年成立。]

 或は、したしき親・なれたる妻などの死(しし)て、物每(ものごと)、かなしき折から、出家などのわたりて、そこそこを通りしに、『其死人(しびと)より、かたみをおくり給(たまひ)し』などいひて、死人(しにん)に着せやりたる着物の袖・つまなどを持ち來たる事、多し。是れ、皆、手だてある事のやうに覺え侍る。何れも、さしもの學者たちなれば、大かたは推察し給ふべし。

[やぶちゃん注:最後の一文は、集って元隣に問い、話を聴いている諸人を指すか。しかし、「さしもの學者たち」とし、尊敬語まで用いているのは不審である。かといって、朱熹に代表される学者たちと採るには文脈上は困難である。]

 さて、富士の山三尊來迎の事は、朝日の光にて、雲の色あひ、其かたちに似たるを、日の光のまぶきまぎれに、其如く思ふなるべし。程子、石佛(いしぼとけ)の光をとゞめ給

ふ事、思ひあはせ給ふべし。

 むかし、和國の山川は、其國の神をまつりけれども、中むかし、いつの時よりならん、名ある大山(たいさん)・大川(たいせん)、ことごとく佛者の爲に領せられし事にこそ侍れ。」

[やぶちゃん注:元隣が大の仏教嫌いの神道復古派であることが、如実に伝わってくる。]

譚海 卷之三 靈社號の事

 

靈社號の事

○凡(およそ)人も卒去して神に祭る時は、其の靈社と稱し、その人歸依の神の番屋に祭る事也。靈社號は吉田殿より免許ある事也、宮號は敕許の外ならぬ事也といへり。

[やぶちゃん注:「吉田家」前条吉田家神代文字の私の引用注を参照されたい。]

譚海 卷之三 吉田家神代文字

 

吉田家神代文字

○吉田家に神代の文字といふ物を藏む。是は日向國霧島ケ嶽の絶頂の谷中に天の瓊矛(あめのぬぼこ)と云(いふ)物有(あり)て、夫(それ)に鏤刻(るこく)し有(ある)所の文字也といへり。一とせ其國の惠比須の宮の神主遠遊を好み、霧島ケ嶽にのぼりたるに、言傳ふる所の瓊矛なるもの谷中に有。全く華物(からもの[やぶちゃん注:私の勝手な当て読み。])の華表の如き物にして、ゑり付ある所の花文古筆めづらしきもの也。それにしるし付(つき)て有(ある)文字を摺寫(すりうつ)し、上京致し吉田殿へ持參し、引合見(ひきあはせみ)たき由願(ねがひ)けると人のかたりぬ。

[やぶちゃん注:「吉田家」卜部(うらべ)氏の流れを汲む公家。ウィキの「吉田家より引く。『京都室町小路にあった自宅の敷地を足利義満に譲った事で知られる家祖・吉田兼煕は、吉田神社の社務である事に因んで家名を「吉田」とした。この兼煕は神祇大副や侍従を務め、卜部氏として始めて公卿に昇った』。五代『兼倶は唯一神道を創始、既存の伊勢神宮系の神職と激しく対立しながら、後土御門天皇を信者に得て』、『勢力を拡大し』、『「神祇管領長上」という新称号を自称した。以後神祇伯の白川家を駆逐して全国の神社に対する支配を広げていった』。九代兼見(かねみ)に至って、『織田信長の推挙により』、『堂上家の家格を獲得した。近衛前久に家礼として仕え、明智光秀と深い親交のあった兼見の日記』「兼見卿記」は『織豊政権期の研究に必須の一級史料となっている。神職における吉田家の優位は江戸時代になって』、寛文五(一六六五)年の『諸社禰宜神主法度で確定』し、『歴代当主は神祇管領長上を称し、正二位神祇大副を極位極官とした。江戸時代の家禄は』七百六十『石。明治維新後は良義が子爵に叙せられた。分家として、江戸時代初期に萩原家が出ている』とある。白河家の私の白川伯王家の引用注も参照されたい。

「天の瓊矛」元来は日本神話に登場する聖具「あめのぬぼこ」で、「古事記」では「天沼矛」、「日本書紀」では「天之瓊矛」或いは「天瓊戈」と表記されており、「古事記」によれば、伊邪那岐・伊邪那美の二柱の神が別天津神(ことあまつかみ:天地開闢時に出現した五柱の神)らに、漂っていた大地の完成を命ぜられ、この「天沼矛」を与えられた。伊邪那岐・伊邪那美は、天浮橋(あめのうきはし)に立ち、この矛を渾沌とした大地に突き刺して掻き混ぜたところ、その矛から滴り落ちたものが積もって「淤能碁呂島(おのごろじま)」となったとする(二神はこの島で「みとのまぐはひ」(交合)をして大八島と神々を生む。総てが判り易いフロイト的性的象徴であることは言うまでもない)。「日本書紀」本文には、「瓊」は「玉」のこと」とする注釈があり、そこでは「天之瓊矛」は「玉で飾られた矛」の意となる。但し、笨条のそれは、「日向國霧島ケ嶽の絶頂」に立つそれとあり、これは「天逆鉾(あめのさかほこ)」のことである。ウィキの「天逆鉾によれば、『日本の中世神話に登場する矛で』、『一般的に記紀に登場する天沼矛の別名とされているが、その位置付けや性質は異なっている。中世神話上では、金剛宝杵(こんごうほうしょ)、天魔反戈(あまのまがえしのほこ)ともいう。宮崎県・鹿児島県境の高千穂峰山頂部(宮崎県西諸県郡高原町)に突き立てられているものが有名である』。これは前に注した「天沼矛」「天之瓊矛」が、『中世に到』って、『仏教の影響のもと』に『様々な解釈が生み出され』、その性質が変容したものである。仏教及び修験道の立場から書かれた神道書「大和葛城宝山記」(巻末に天平一七(七四五)年のクレジットと「興福寺の仁宗が之を記し傳ふ」と書かれているが、実際には鎌倉後期の真言系の僧によって書かれたとするのが通説)によると、『天沼矛を天地開闢の際に発生した霊物であり』、『大梵天王を化生したとし、独鈷杵と見なされ』、『魔を打ち返す働きを持つとして別名を天魔反戈』(あまのまがえしのほこ)『というとされている。更に天孫降臨した邇邇芸命』(ににぎのみこと:「日本書紀」では瓊瓊杵尊)『を瓊(宝石)で飾られた杵(金剛杵)の神と解し、「杵」を武器に地上平定する天杵尊』(あめのき(せ)のみこと)、別名、杵独王(きどくお