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2018/10/25

古今百物語評判卷之四 第六 鬼門附周の武王往亡日に門出の事

 

  第六 鬼門周の武王往亡日(わうまうび)に門出(かどいで)の事

かたへより、問(とふ)ていはく、「世に鬼門だたりと申(まうし)候ひて、大樣(おほやう)の[やぶちゃん注:大方の。]人、忌(いみ)恐れ侍るが、邂逅(たまさか)にわすれても、おかし候へば、かならず、わざはひにあふ事多く御座候(さふらへ)ば、なにと、丑寅(うしとら)の方は人間のいむべき方にて候哉(や)、覺束なく候ふ」と問ければ、先生、答(こた)ていはく、「鬼門と云(いふ)事は東方朔(とうばうさく)が「神異經(しんいきやう)」に、『東方、度朔(どさく)の山に、大なる桃の木あり。其下(もと)に神あり、其名を神荼(しんと)・鬱壘(うつるい)と云(いひ)て、もろもろの惡鬼の人に害をなす物を、つかさどり給へり。故(かるがゆへ)に其山の方を鬼門といふ』と見えたり。かくはいへども、是、まさしき聖賢の書に出(いづ)るにもあらず、其うへ、その書にも鬼門をいむといふ事、みえ侍らず。元より、我が朝のならはしに、丑寅の方を、專ら、いむ事、何れの御時より、はじまれりとも、さだかならず。さて又、道理を以ておすに、東北の方をいむべき義、おぼつかなし。若(も)し、方角をもつていはゞ、乾(いぬゐ)の方はいみぬべし。その子細は、是れ、純陰の方にて、陽氣の、まさに(たえ)んとする處、萬物の既に死する地にて、尤も不吉の方角なり。是を忌まずして、丑とらの方を忌む事、いかなるいはれ共(とも)覺束なし。されども、今の世は、いみならはし侍れば、我、かしこげに『鬼門に害なし』といはむも、時にしたがふ、中庸の心に背(そむ)けり。大かたは、よけて然るべし。されども、たとひ、鬼門へむきても、善事をなさば、よかるべく、辰巳(たつみ)へ向ひても、惡事をなさば、あしかるべし。猶、鬼門にかぎらず、軍家(ぐんけ)にもてはやしはべる日取(ひどり)・時取(ときどり)のよしあしも、かくのごとし。惡日(あくにち)たりとも善をなせば、ゆくさき、目出度(めでたく)、善日たりとも惡をなさば、後々(のちのち)、わざはひ、あるべし。又、其家々にて用ひ來たれる吉例の日もある事に候。むかし、周の武王と申(まうす)聖人、天下の爲に殷の紂王(ちうわう)と申(まうす)惡人を討(うち)給ふに、其(その)首途(かどで)の日、往亡(わうまう)の日なりければ、群臣、いさめけるやう、『けふは、わうまう日とて、往きて亡ぶる日なれば、曆家(れきか)に、ふかく、いみ候ふ。さ候はゞ、御出陣、無用』のよし申上(まうしあげ)けるを、太公望、きかずしていはく、『往亡ならば、是、「ゆきてほろぼす」心にて、一段、めでたき日なり』とて、終に其日、陣だちして、尤(もつとも)紂王を討(うち)ほろぼし、周の世、八百年、治(おさま)りけり。此故に武王は往亡日をもて、さかへ、紂王は往亡日をもて、ほろびたり。同日にして、吉凶、かくのごとくなれば、名將の歌に、「時と日はみかたよければ敵もよしたゞ簡要は方角を知れ」とよみ給へるもおもひあはせられ、其人によりて、その日によらざる事、あきらけし。各(おのおの)、手前をつゝしみ給ふべきなり」。

[やぶちゃん注:「鬼門だたり」「鬼門祟り」。ウィキの「鬼門」を引く。鬼門とは、『北東(艮=うしとら:丑と寅の間)の方位のことである。陰陽道では、鬼が出入りする方角であるとして、万事に忌むべき方角としている。他の方位神とは異なり、鬼門は常に艮の方角にある。鬼門とは反対の、南西(坤、ひつじさる)の方角を裏鬼門(うらきもん)と言い、この方角も鬼門同様、忌み嫌われる。南東(巽』(たつみ)『)を「風門」、北東(艮』(うしとら)『)を「鬼門」とした』。『陰陽道においては、北と西は陰、東と南は陽とされ、北東と南西は陰陽の境になるので、不安定になると説明される』。『中国から伝わったものとされるが、家相や鬼門に関しては諸説あるが、出典がなく』、『不整合なものばかりが一人歩きしている』。『鬼門思想は中国から伝来した考え方であることに間違いはないが、日本の鬼門思想は中国から伝わった思想とは大きく違った思想になっている。なぜなら』、『風水に鬼門思想はなく、日本独自の陰陽道の中で出来上がった日本独特の思想であると考えるべき』だからである。『現代でも、人々は、縁起を担ぎ、家の北東、鬼門の方角に魔よけの意味をもつ、「柊」や「南天」、「万年青」を植えたり、鬼門から水回りや玄関を避けて家作りしたりと、根強い鬼門を恐れる思想がある』。『十二支で鬼門(丑寅)とは反対の方角が未申であることから、猿の像を鬼門避けとして祀ったりしたといわれている。代表的な例が、京都御所であるが、京都御所の北東角には軒下に木彫りの猿が鎮座し、鬼門に対抗し(猿ヶ辻)といわれ、築地塀がその方位だけ凹んでおり、「猿ヶ辻」と称されてきた説がある』(リンク先に写真有り)。『現在でも、家の中央から見て』、『鬼門にあたる方角には、玄関、便所、風呂、台所などの水を扱う場所を置くことを忌む風習が全国に強く残っている。また、南西の方位を裏鬼門として、鬼門同様、水まわりや玄関を嫌う風習も根強く残っている。これは、京都御所の築地塀が鬼門、北東方位を凹ませてあることから、御所が鬼門を恐れ避けている、鬼門を除けていると考えられ、それから鬼門を避ける鬼門除けの手法とされてきた』。『また、都市計画においては、平城京では鬼門の方向に東大寺が、裏鬼門の方向に植槻八幡宮が、平安京では大内裏から鬼門の方向に比叡山延暦寺が、裏鬼門の方向に石清水八幡宮が、鎌倉では幕府から鬼門の方向に荏柄天神社が、裏鬼門の方角に夷堂が、江戸では江戸城から鬼門の方向に東叡山寛永寺が、裏鬼門の方向に三縁山広度院増上寺が置かれたといわれている』(以下、続くが、同じことをだらだら述べているだけなので省略する)。

「邂逅(たまさか)にわすれても、おかし候へば」「偶(たま)さかに忘れても、犯し候へば」。

「東方朔(とうばうさく)」(通常は「とうはうさく(とうほうさく)」 紀元前一五四年頃~紀元前九三年頃)は前漢の文学者。滑稽と弁舌で武帝に侍した、日本で言う「御伽衆(おとぎしゅう)」的人物。梲(うだつ)の上がらぬ彼を嘲笑した人々に答えて「答客難」(客の難に答ふ)を書いた。同文は「水清ければ魚棲まず」の故事の原典として知られる(「水至淸則無魚。人至察則無徒。冕而前旒、所以蔽明。黈纊充耳、所以塞聰」(水、至つて淸ければ、則ち、魚、無し。人、至つて察(さつ)なれば、則ち、徒(と)[やぶちゃん注:仲間。]無し。冕(べん)して旒(りう)を前にするは[やぶちゃん注:冕(かんむり)を被ってその前後に玉飾を流れるように垂らすのは。]、明(めい)を蔽ふ所以なり。黈纊(とうかう)[やぶちゃん注:耳当て。]して耳を充すは、聡(そう)を塞ぐ所以なり)。また、彼は、自分は山林に世を避けるのではなく、朝廷にあって隠遁しているのだ、と主張したが、この「朝隠(ちよういん)」の思想は六朝人の関心を集め、例えば、彼の生き方を讃える後の西晋の政治家で文学者の夏侯湛(かこうたん 二四三年 二九一年)の「東方朔画賛」には王羲之の書が残ることで有名である。また、漢代の時点で既に彼に纏わる神仙伝説が発展しており、太白星の精で長寿を得たとされるほか、トリック・スターとして孫悟空の天宮を閙(さわ)がすといった物語のもとになる伝説も彼に付随する(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「神異經(しんいきやう)」東方朔の作とされる幻想的地誌。同種のバイブル的存在である「山海経(せんがいきょう)」の体裁と内容に倣っている。但し、以下の「東方(とうばう)、度朔(どさく)の山に、大なる桃の木あり。其下(もと)に神あり、其名を神荼鬱壘(しんとうつるい)と云(いひ)て、もろもろの惡鬼の人に害をなす物を、つかさどり給へり。故(かるがゆへ)に其山の方を鬼門といふ」というのは「神異経」に見られない。調べて見ると、「山海経」の佚文のようである。幾つかに引用があるが。例えば「太平御覧」の「果部四」の「桃」では、

   *

漢舊儀曰、「山海經」稱、東海擲晷度朔山、山上有大桃,屈蟠三千里。東北間、百鬼所出入也。上有二神人、一曰神荼、二曰郁壘、主領萬鬼。惡害之鬼、執以葦索、以食虎。黃帝乃立大桃人於門

   *

とある。これは「東海中にある度朔山には三千里[やぶちゃん注:当時の一里は四百メートル強であるから、約千二百キロメートル。]に亙って蟠(わだかま)る桃の大樹があり,その枝の東北の部分に隙間があり、そこをありとある魑魅魍魎が出入口する(これが文字通り「鬼門」ということになる)。その門には神荼(しんと)と鬱塁(うつるい)という二神があって、そこを通行するあらゆる鬼を監督し、悪害を成す鬼がいれば、捕えて葦の繩で縛りつけて、そのまま虎に食わせた。黄帝は、ために(鬼を制御するためにか)この鬼門の戸口にこの大いなる桃の木で製した人形を立て掛けた」といった意味であろうか。

と見えたり。かくはいへども、是、まさしき聖賢の書に出(いづ)るにもあらず、其うへ、「我が朝のならはしに、丑寅の方を、專ら、いむ事、何れの御時より、はじまれりとも、さだかならず」事実、今も決定的な原拠は判っていない。ただ言えることは、日本の「鬼」が虎のパンツと牛の角を持っているのは、如何にもな鬼門=「丑寅」=牛と虎という馬鹿げた垂直的思考の産物であり、それは恐らく、遅くとも平安の初期には私は形成されていたと考えている。

「乾(いぬゐ)」「是れ、純陰の方にて、陽氣の、まさに(たえ)んとする處」北西。陰陽説では北も西も陰だからであろう。何だかな~って感じ。

「よけて然るべし」「避(よ)けてしかるべし」。中庸とか言うてからに、結局、長いものには巻かれろでっしゃろ? 元隣先生?

「辰巳(たつみ)」巽。南西。多く火の神や竈神(かまどがみ)の荒神(こうじん)及び産土神を祀る方位とされはするから、方位としちゃあ、よかろうかい。

「日取(ひどり)・時取(ときどり)」何らかの事を行うに際して、それを行うに適した時日を占うこと。戦国武将どころか、あの「こゝろ」の学生の「私」だって、やってるぜ!

   *

 私は殆ど父の凡ても知り盡してゐた。もし父を離れるとすれば、情合の上に親子の心殘りがある丈であつた。先生の多くはまだ私に解つてゐなかつた。話すと約束された其人の過去もまだ聞く機會を得ずにゐた。要するに先生は私にとつて薄暗かつた。私は是非とも其處を通り越して、明るい所迄行かなければ氣が濟まなかつた。先生と關係のえるのは私にとつて大いな苦痛であつた。私は母に日を見て貰つて、東京へ立つ日取を極めた。

   *

(引用は私の真正シンクロ公開の『東京朝日新聞』大正3(1914)年6月5日(金曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第四十四回より)。

「周の武王と申(まうす)聖人……」「孫子」の注釈書とか、やはり兵法書である「李衞公問対」(唐末から宋代にかけて李靖(りせい)の事績を知る者の手で編纂されたと推定される)等に盛んに載るが、元隣がもとにしたのが何であったかは、今、現在、調べ得なかった。一時間ばかりも無駄にしてちょっと悔しいので、向後も調査し、判り次第、追記する。

「往亡(わうまう)の日」軍を進めたり、遠出をすることを忌むとする。現代の暦注を見ても移転や婚礼なども凶とある。

「時と日はみかたよければ敵もよしたゞ簡要は方角を知れ」言わずもがな、「みかた」は「味方」。「名將」とあるが、作者不詳。識者の御教授を乞う。

「手前をつゝしみ給ふべきなり」「方位や占いなんぞに要らぬ心配をするより、まず何よりも自分自身の身を不断に慎まれ、誠実であられることこそがあるべきもので御座ろうぞ」。御説御尤も!]

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