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2018/10/07

古今百物語評判卷之一 第七 大神、四國にある事

 

  第七 大神(いぬがみ)、四國にある事

先生、かたりて云(いふ)、「四國に『犬神』といふ物あり。此犬神を家に受領(じゆりやう)したる人を『犬神持ち』と云(いひ)て、今の世にも、まゝある事なり。たとはゞ、此『犬神持ち』、友達などの處へ行きかゝりける折から、その友の家に美食珍酒など侍るを見る事ありて、其物につゆばかりも、とかく心うつり侍る時は、其友、かならず、寒熱の煩(わづらひ)をなして、そゞろ事(ごと)には、彼(かの)思ひし飮食(いんしよく)の事など、いひ詈(のゝし)れり。然(しか)る處に、病者(びやうじや)の家人(けにん)、彼(かの)『犬神持ち』たる人に、『かく』と云(いひ)しらするか、又は、隔心(きやくしん[やぶちゃん注:原典のルビのママ。])なる中(なか)にて、いひ出(いだ)す事もなりがたければ、覡(かんなぎ)・山伏など、呼(よび)て、祓(はら)へさせる時、其病(やまひ)、いゆるとかや云へり。かゝるうるさき事なれば、其『犬神持ち』の家とは、かねて、遠ざかり、婚姻(こんゐん/よめいり[やぶちゃん注:原典のルビのママで、前者は右、後者は左に振られてある。])などは曾て結ぶ事、なし。其故、身もさがなき事にして、あきはて、悲しめども、先祖より傳はり來たれる邪神なれば、せんかたなく、身をうらみ、かなしめりとかや。其始(はじめ)をかたり傳ふるを聞(きけ)ば、ひとつの犬を柱につなぎ、其繩をすこしゆるめて、器(うつはもの)に食物(くひもの)をもり、其犬の口をさきの、既にとゞかんとする處に置(おき)て、うへ殺しにして、其靈(たましひ)をまつり納めて、なす事なり、と云へり。もろこしの蠱毒(こどく)の類(たぐひ)なり。倂(しかしながら)、今の世には、適(たまたま)『犬神持ち』たる人も、いかにしてか、此神のこと、かたへも行(ゆか)む事を願へば、まして、今更、なす者、あるべからず。是、名字(みやうじ)をもしらず、無佛世界(むぶつせかい)の時の事なるべし。猶、此『犬神』、王城の人につく事、あらず、と云へり。さは云(いへ)ど、都の方にも『犬神持ち』たる人、多し。萬(よろづ)に付(つけ)て、もてなすべき人の、我をもてなさぬを腹立(はらたて)て、心にかけ、詞(ことば)に云出(いひいだ)す處、是、則(すなはち)『いぬがみ』なり。もるべき酒を、もらぬも、人にあらず、もらずとて、とやかく思ふは畜類(ちくるい)たり。又、もてなされて、其情(なさけ)をしらぬは、木石(ぼくせき)たり。すべて、飮食の上に心を盡(つく)す人は、皆、『犬神』の性(しやう)たるべし」。

[やぶちゃん注:「犬神」ウィキの「犬神」より引く。『狐憑き、狐持ちなどとともに、西日本に最も広く分布する犬霊の憑き物(つきもの)。近年まで、大分県東部、島根県、四国の北東部から高知県一帯において』、『なお根強く見られ、キツネの生息していない四国を犬神の本場であると考える説もある。また、犬神信仰の形跡は、島根県西部から山口県、九州全域、さらに薩南諸島より遠く沖縄県にかけてまで存在している。宮崎県、熊本県球磨郡、屋久島ではなまって「インガメ」』、『種子島では「イリガミ」とも呼ばれる』。『漢字では「狗神」とも表記される』。『犬神の憑依現象は、平安時代にはすでにその呪術に対する禁止令が発行された蠱術(こじゅつ:蠱道、蠱毒とも。特定の動物の霊を使役する呪詛で、非常に恐れられた)が民間に流布したものと考えられ、飢餓状態の犬の首を打ちおとし、さらにそれを辻道に埋め、人々が頭上を往来することで』、『怨念の増した霊を呪物として使う方法が知られる』。『また、犬を頭部のみを出して生き埋めにし、または支柱につなぎ、その前に食物を見せて置き、餓死しようとするときに』、『その頸を切ると、頭部は飛んで』、『食物に食いつき、これを焼いて』、『骨とし、器に入れて祀る。すると』、『永久にその人に憑き、願望を成就させる。獰猛な数匹の犬を戦い合わせ、勝ち残った』一『匹に魚を与え、その犬の頭を切り落とし、残った魚を食べるという方法もある』。『大分県速見郡山香町(現・杵築市)では、実際に巫女がこのようにして犬の首を切り、腐った首に群がった蛆を乾燥させ、これを犬神と称して売った』、『という霊感商法まがいの事例があり、しかもこれをありがたがって買う者もいたという』。『しかし、犬神の容姿は、若干大きめのネズミほどの大きさで斑』(ふ/まだら)『があり、尻尾の先端が分かれ、モグラの一種であるため』、『目が見えず、一列になって行動すると伝えられている。これは、犬というより』、『管狐やオサキを思わせ、純粋に蠱道』(「蠱毒」に同じい。華南の少数民族の間で受け継がれている動物を使う呪術。ウィキの「蠱毒にある通り、『ヘビ、ムカデ、ゲジ、カエルなどの百虫を同じ容器で飼育し、互いに共食いさせ、勝ち残ったものが神霊となるためこれを祀る。この毒を採取して飲食物に混ぜ、人に害を加えたり、思い通りに福を得たり、富貴を図ったりする。人がこの毒に当たると』、『一定期間のうちにその人は大抵死ぬ』『とされる』もの)『の呪法』(「捜神記」の巻十二にある「犬蠱」のようなもの)『を踏襲した伝承というわけではないと考えられる。むしろ』、『狐霊信仰を中心とする呪詛の亜流が伝承の中核を成していると考えられる。また』、『容姿はハツカネズミに似て、口は縦に裂けて先端が尖っているともいい、大分県ではジネズミ(トガリネズミの一種、モグラの近縁種)に似ているといい』、『大分の速見郡豊岡町では白黒まだらのイタチのようという』。『前述の山口の相島では犬神鼠(いぬがみねずみ)ともいい、長い口を持つハツカネズミのようで、一家に』七十五『匹の群れをなしているという』。『徳島県三好郡祖谷山』(いやだに)『では』、『犬神の類を「スイカズラ」といい、ネズミよりも少し大きなもので、囲炉裏で暖をとっていることがあるという』。『国学者・岡熊臣の書』「塵埃」では、体長一尺一寸(三十三・三センチメートル)の『コウモリに似た姿とある』。『また、浅井了意の「御伽婢子」に登場する土佐国の犬神は』、『米粒ほどの大きさをしており、黒や白、斑模様の体色をした姿で伝えられている』。『犬神の発祥には諸説あり、源頼政が討った鵺の死体が』四『つに裂けて』、『各地に飛び散って犬神になった』『とも、弘法大師が猪除けに描いた犬の絵から生まれたともいう』。『源翁心昭が殺生石の祟りを鎮めるために石を割った際、上野国(現・群馬県)に飛来した破片がオサキになり、四国に飛び散った破片が犬神になったという伝説もある』。『犬神は、犬神持ちの家の納戸の箪笥、床の下、水甕(みずがめ)の中に飼われている』、『と説明される。他の憑き物と同じく、喜怒哀楽の激しい情緒不安定な人間に憑きやすい。これに憑かれると、胸の痛み、足や手の痛みを訴え、急に肩をゆすったり、犬のように吠えたりすると言われる。人間の耳から体内の内臓に侵入し、憑かれた者は嫉妬深い性格になるともいう』。『徳島県では、犬神に憑かれた者は恐ろしく大食になり、死ぬと体に犬の歯型が付いているという』。『人間だけでなく』、『牛馬にも、さらには無生物にも憑き、鋸に憑くと』、『使い物にならなくなるともいう』。『犬神の憑きやすい家筋、犬神筋の由来は、これらの蠱術を扱った術者、山伏、祈祷者、巫蠱らの血筋が地域に伝承されたものである。多くの場合、漂泊の民であった民間呪術を行う者が、畏敬と信頼を得ると同時に』、『被差別民として扱われていたことを示している。というのも、犬神は、その子孫にも世代を追って離れることがなく、一般の村人は、犬神筋といわれる家系との通婚を忌み、交際も嫌うのが普通である。四国地方では、婚姻の際に家筋が調べられ、犬神の有無を確かめるのが習しとされ、これは同和問題と結びついて問題になる場合も少なく』ない。『愛媛県周桑郡小松町(現・西条市)の伝承では、犬神持ちの家では家族の人数だけ』、『犬神がおり、家族が増えるたびに』、『犬神の数も増えるという。これらの犬神は家族の考えを読み取って、欲しい物があるときなどには』、『すぐに犬神が家を出て行って憑くとされる』。『しかし』、『必ずしも従順ではなく、犬神持ちの家族の者を噛み殺すこともあったという』。『犬神による病気を患った場合には』、『医者の療治で治ることはなく、呪術者に犬神を落としてもらう必要があるという。種子島では「犬神連れ(いぬがみつれ)」といって、犬神持ちとされる家の者が』、『ほかの家の者に犬神を憑かせた場合、もしくは憑かせたと疑われた場合、それが事実かどうかにかかわらず、食べ物などを持って』、『相手の家へ犬神を引き取りに行ったり、憑いた者が治癒するまで』、『郊外の山小屋に隠棲することがあり、その子孫が後にも山中の一軒家に住み続けているという』。『犬神持ちの家は富み栄えるとされている。一方で、狐霊のように祭られることによる恩恵を家に持ち込むことをせず、祟神として忌諱される場合もある』とある。以上を読むと、『管狐やオサキを思わせ』るというのは、その通りで、全くの同根のものとしか私には思われない。犬神のまがまがしい製造法や呪(のろ)い染みた部分は、寧ろ、中国の強力な呪術である蠱毒のおぞましい焼き直しに過ぎず、また、それを援用したに違いない土佐国物部村(現在の高知県香美市)に伝承された独自の陰陽道・民間信仰として知られ、一部にブラック・マジックの要素を持つ「いさなぎ流」の影響等が強く窺えるように私には思われる。またそれは、概ねそれは家の「持ち」と表現される点で、クダギツネのような何か懐にさえ入るような感じのまさに小獣のようであり、それは例えば、「御伽百物語卷之二 龜嶋七郞が奇病」で「病人の裾より、狸の大きさなる獸の、毛色は火の如く赤きが、眼(まなこ)の光(ひかり)、日月(じつげつ)のごとくにて、這ひ出でたり」とあるそれに似ている(私はそれをまさにクダギツネと推定した)。また、その分布域に『島根県』が含まれるが、小泉八雲が「知られぬ日本の面影 第十五章 狐(落合貞三郎訳)」の中のここで語る「人狐」や「狐持ち」の属性と強い親和性が感じられ、同じ「知られぬ日本の面影 第二十三章 伯耆から隱岐ヘ」のこちらで「狐持ち」と「犬神持ち」とが実際に併記されて語られるとこなどから窺えるのである。

「そゞろ事」「漫ろ事」。通常は「とりとめもないこと・とるに足りないこと」の意であるが、ここは文脈から見て、熱に魘(うな)された者の「譫言(うわごと)」の意で用いているようである。

「『犬神持ち』たる人」以下もそうだが、これは「『犬神』持ちたる人」の意でも普通に読めるが、「犬神持ち」である人の意で統一して、かく表記した。

「かく」そちらの犬神に憑かれたらしい、という部分は厳に隠しておいて、単にこういう病態に陥っているということを語るのであろう。

「隔心」「かくしん」でもよいが、こう言う読みも存在する。「打ち解けないこと・相手に気兼ねする気持ち」であるが、ここは親しい間柄ではない場合の意であろう。されば「中」は「仲」の意と私は採る。但し。原典には「中」にルビはない。

「覡(かんなぎ)」古くは「かむなき」。「神(かむ)和(なぎ)」の意とされる。ここは「神降ろし」をする呪術者(シャーマン)の男性を指す(「巫覡(ふげき)」と言った場合、「巫」が「巫女」で女の、「覡」が男のシャーマンを指す)。

「さがなき事にして」「性無きことにして」であるが、本来は「さがなし」は「意地悪だ・性格が悪い」「口うるさい・口が悪い」の意で、文が繋がらないから(敢えて強引に訳すなら、そうした差別を受ける結果として、自然、性質が悪い人間になってしまい、と訳せぬこともないが)、ここは、周囲がそう対応する故に、何とも自分ではしようがない状態となってしまい、ぐらいの意味で採りたい。

「あきはて」そうした家系の宿命が、ほとほと厭になり。

「うへ殺し」ママ。「飢えごろし」。

「なす事なり」特異的なのは、ここでは犬神は邪悪な魂と欲を持った人間が、強い目的性のもとに製造する、呪われた人造の妖魅、モンスターということになるのであって、自然界にもともと棲息する超自然の妖異存在ではない点で、本邦の妖怪の中では、かなり異質なものと言える。それだけに、私はこの製造法自体が、かなり後になっておどろおどろしく飾るために後付されたものに過ぎないと考えているのである。

「かたへも行(ゆか)む」我が家からどこぞへ去って行ってしまってくれ。

「是、名字(みやうじ)をもしらず、無佛世界(むぶつせかい)の時の事なるべし」原隣りは、この邪悪なる犬神の発生(というか、製造)を、民草が名を持たなかった、仏教が伝来する以前の、大昔の産物であろうと考えている。犬神にはシャーマニズムとの関連が認められるから、これは頗る正しい謂いであるように感ぜられる。

「さは云(いへ)ど、都の方にも『犬神持ち』たる人、多し」以下、比喩の道話にずらしてある。何だかな、って感じ。

「もるべき酒」「盛るべき酒」。饗応すべき十分な酒。]

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