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2018/10/08

古今百物語評判卷之一  第八 神鳴附雷斧・零墨の事 / 古今百物語評判卷之一~了

 

  第八 神鳴雷斧・零墨の事

Narukami

一人の云(いはく[やぶちゃん注:原典のルビ。])、「世におそろしき物の中にて、神鳴(かみなり)程(ほど)なるは、なし。何方(いづかた)へ落(おつ)べき共(とも)覺束(おぼつか)なく、『生類(しやうるい)にあらざるか』とおもへば、形あるに似たり。いかさまにも、委(くはしき)道理の侍らん。承らばや」と云ふ。先生の云(いふ)、「雷(いかづち)の本説は周易に見えり。唐土(もろこし)にも、さまざま説きたり。雷州といふ所にては二月の始(はじめ)つかた、山にこもりゐし神鳴ども、來たりて、火をこふよしを記せり。「國史補」には、『其狀(かたち)、狗(いぬ)のごとし』とも書けり。かやうの説、多しといへ共、正説に非ず。詳(つまびらか)に、「性理大全(しやうりだいぜん)」に宋朝の儒者の論を載(のせ)たり。荒々(あらあら)かたり侍らん。夫(それ)れ、雷(いかづち)は、陰陽、相せまる聲なり。蟄(ちつ)せる蟲も是れより出(いで)、根に歸る。草木も、是れより萌出(もえづ)るなれば、天地(てんち)の間になくても叶ふべからず。さは云へど、其(その)はげしきは、天の怒(いかり)なり。此故に孔子も迅(とき)雷(いかづち)には、必(かならず)、形を變じ給へり。是れ、努(ゆめゆめ)、おそれさせ給ふにあらず、天の怒をつゝしみ給へるなり。はるかに轟(とゞろく)處を云(いは)ば、天地(てんち)の陽氣、夏は天にあり、時に陰雲、雨をもよほさむとて、江湖(ごうこ)の水氣(すいき)をのせて、濕風(しつふう)にいざなはれて、彼(か)の空にある陽氣を、つゝめり。もとより、陰陽は相剋(そうこくす)るなれば、陽はうごいて、陰を出(いだ)さんとす。かくてぞ、天地(てんち)にひゞき、山谷(やまたに)をうごかせり。其(それ)、落(おつ)るといふは、陰の氣、陽にかつ時は、其聲、しづかなり。陰・陽ひとしき時は、おつるにおよばず。陽の氣、陰に勝つときは、其(その)あまる處、あるひは中空にさがり、又は地にくだりて、かならず、積惡の家に落(おち)て、惡人を災(わざは)ひせり。されども、雷に、心ありて、かくあるにはあらざるべけれど、其つもれる惡と、いかれる氣の感ずる所なりけらし。唐土にても、むかし、樊光(はんくはう)と云(いひ)し者、所の奉行になりて訟(うつた)へを聞きしに、非公事(ひくじ)のかたより賄(まひなひ)をつかひて賴みしかば、さまざま、理(り)かたの者をなやましめ、猶も土木(どぼく)の責(せめ)にあはしめしかば、其もの、苦しみにたえずして、『我れ、すじ[やぶちゃん注:ママ。]なき事を申(まうし)かけたり』と、僞りて、罪をおふによりて、非公事のかた、勝ちたり。其後、天、俄にかき曇り、雷電、しきりにして、終に樊光がうへに落ちて、其報(むくひ)をはうじ[やぶちゃん注:ママ。]給ひしとかや。此類(たぐひ)、あげてかぞふべからず。又、さもなき人の、つよくおそるゝあり。是れは、其(その)むまれつき[やぶちゃん注:ママ。]、精神元氣のうすきなるべし。人參一味(いちみ)を煎湯(せんとう[やぶちゃん注:原典のママ。])にして、雷をおそるゝ者にあたふれば、曾て、おそるゝ事なしと、醫書にも見えたり。昔、大舜(だいしゆん)の德をかきしにも、『烈風雷雨にもまよはず』といふを、ひとつにかき出せしかば、其(それ)、おそれざるも、聖賢の德になぞらふべし。猶、佛家(ぶつけ)にも、おもき災難のひとつとして、法衣(はうゑ[やぶちゃん注:原典のママ。正しくは「はふえ」。])を着し、香花(かうはな[やぶちゃん注:原典のルビ。])をそなへ、經をよみ、陀羅尼(だらに)を誦(じゆ)し、佛力(ぶつりき)をたのみたてまつれり。されば、我朝のむかし、延喜の御代、延長年中に、淸涼殿にいかずちふるひて、藤原淸貫(ふじはらのきよつら)、右中辨希世(うちうべんまれよ)その外、殿上人、ひとりふたり、身まかりにけり。世の人、申(まうし)ならはし侍るは、菅丞相(かんしやうぜう[やぶちゃん注:原典のママ。正しくは「くわんしようじやう」。])の御靈のわざにこそと。かゝるおそろしきためしによりけるにや、雷の聲、三たび、高たか)なりし侍れば、近衞の大將・次將まで、弓箭(ゆみや)を帶して、御殿の孫(まご)びさしに候(こう)し、御門(みかど)を守護し、將監(しやうげん)より以下の官人、いづれも簑かさにて、南殿(なんでん)の前庭(ぜんてい)に侍るを、『神鳴陣(かんなりぢん)』と申(まうす)とかや。されば、其(その)おそはれ死する人は、皮肉は損せずして、骨のとろくる事は、雷(いかづち)はもと陰火なれば、やはらかき物を破る事、あたはず、かたきをくだく道理なり。其うへ、落(おち)たるあとを見るに、あたかも、鬼形(きぎやう)のつめがたに似る事あるに付けて、いかさまにも、獸、そひて、落つるやうに、京童部(きやうわらはべ)のいひならはすれど、さにあらず。又、一説に、『陰陽のなす處といへども、又、神ありて、其所をつかさどり給へり。鬼神幽微(きしんゆうび)の道、きはめがたし』など唐土(もろこし)の書に侍れども、程子・朱子の説には、陰陽の外(ほか)をかたるに、およばず。又、「雷(いかづち)の槌(つち)」・「雷(いかづち)の斧(をの)」・「雷(いかづち)の墨(すみ)」などいふ物、其(その)落(おち)たるあとに、まことに、有(ある)物のよし。其(その)重み・長さ・色あひ・能毒(のうどく)まで、書物に侍るめれど、はかりがたし。猶、星、おちて、石となるたぐひにて、雷(いかづち)ごとには、あるべからず」と評せられしかば、おのおの、申しけるは、「此(この)説をうけ給はりて、少しおそるゝ心、やみさふらひぬ」ともうしき[やぶちゃん注:ママ。]。

[やぶちゃん注:以上で「古今百物語評判卷之一」は終わっている。

「周易」「易経」の別名。周の文王が創ったとされることに由る呼称であるが、現行のそれは後に孔子が編集・完成させたものである。

「雷州」現在の広東省湛江市の県級市である雷州市一帯。唐代、雷が多い地方であることから、かく名付けられた。同地には雷神を司る神を祀る「雷祖祠(廟)」が現存し、これは唐の六四二年の創建で、後梁の九一二年に現在の場所に再建された。但し、この雷祖は現地出身の実在の人物で、唐代の雷州刺史にして雷州の名付親でもある陳文玉(五七〇年~六三八年)であることが、ブログ「アジアの街並-東南アジア旧市街・中国古鎮・日本昔町川野明正の研究室」の「雷州の雷祖廟の石狗雷神さまのたまごを見つけた九耳狗の伝説 (広東省雷州市雷祖廟)」で判った。犬が彼の眷属で、現地には多くに石狗(犬の石造)が数多く見られることが、他のネット記事でも確認出来るが川野氏によれば、明の荘元貞の書いた「雷祖志」によれば、『陳鉷(ちんこう)という猟師が九耳の狗を飼っていて、ここ掘れワンワンというと、大きな卵が出てきて、翌日』、『黒雲が立ちこめ、雷電あい混じる風雨中に雷が落ち、割れた卵から陳文玉が誕生したとあ』るとされ、『この時、誕生した陳文玉は、左手に「雷」、右手に「州」と書いてあり、雷祖と縁深い九耳の狗が登場』するとある(明の万暦年間(一五七三年~一六二〇年)に書かれた「雷州府志」の巻十七「郷賢志」にも同様の記載あると注記されておられる)。『この九耳の狗について、往年の雷祖廟では、「九耳呈祥」の匾額が掛』けられてあったとあり、『「九」の発音と、「狗」の発音は、ともに「ガウ」(雷州方言・広東方言ともに)で』あるから、『雷神信仰と深く結びついた形で、犬の信仰が雷州半島にあるのだとはいえると思』と述べておられる。『犬と雷との関係は、たぶん調べればもっといろいろ深い関係が見つかること』と思われるが、『石狗にも、胴に大きな渦巻きの線刻があるものもあり、これは、巻き毛というより、雷紋の表現といわれてい』ともある。因みに、ネットの雷州を観光で訪れた方の記事を二本見たが、雷神の眷属として崇敬されている一方で、当地では犬料理が今も名物であることが確認出来る。

『二月の始(はじめ)つかた、山にこもりゐし神鳴ども、來たりて、火をこふよしを記せり。「國史補」には、『其狀(かたち)、狗(いぬ)のごとし』とも書けり』唐の李肇(りちょう)の撰になる唐代の事物の逸話集「唐國史補」。但し、同書の「巻下」には、

   *

或曰、雷州春夏多雷、無日無之。雷公秋冬則伏地中、人取而食之、其狀類彘。又與黃魚同食者、人皆震死。亦有收得雷斧、雷墨者、以爲禁藥。

   *

とあり、前の二月云々は別な伝承を記したものからの引用と思われ(出典不詳だが、どうも唐代伝奇かその断片ではなかろうか? 識者の御教授を乞う)、しかも、「唐國史補」のそれは「狗」(犬)ではなく、「彘」(音「テイ」)でこれは豚のことである(面白いのは地中に伏して居る秋冬の頃の、ブタのようなその「雷獣」を、人は掘り起こして食べるとあることである。豚であるが、雷祖の眷属が「犬」であり、現在の雷州市が「犬料理」が盛んなのを考えると、これは私は、雷祖の使者たる「犬」を畏れ多くも当時から美味いから食べており、それを憚って李肇或いはその話を伝えた雷州の人が「彘」と偽ったとも思われるようにも感じられたのであった。

「性理大全(しやうりだいぜん)」(現行では「性理」は「せいり」と読む)宋の性理学=朱子学説を分類集大成して編んだ書。全七十巻。一四一五年完成。胡広らが王命によって撰した。「四書大全」・「五経大全」とともに「永楽三大全」と称される。巻一から巻二十五までは、原書を収め、巻二十六以下は項目を立てて、理気・鬼神・性理・道統・聖賢・諸儒・学・諸子・歴代・君道・治道・詩・文の十三目を立てて、それぞれについての諸家の説を程子(二程子。北宋の思想家。程顥(けい)と頤(こう)の兄弟。思想傾向が近いことから、一緒に論じられることが多い。彼らの学は「程学」とも称され、北宋道学の中心に位置し、宋学の集大成者朱子への道を開いた。天地万物と人間を生成調和という原理で一貫されているところに特徴がある)・朱子(朱熹(しゅき 一一三〇年~一二〇〇年:南宋の地方官で儒学者。宋以降の中国及び本邦の思想界に圧倒的な影響を及ぼした。彼は北宋道学を集大成し、宇宙論・人性論・道徳論の総ての領域に亙る理気の思想を完成させた)の説を中心として収録してある。中文サイト「中國哲學書電子化計劃」で同書を調べてみたが、恐らくは「巻五」のこの辺りが元隣の要約の冒頭の謂いのようである。

「天地(てんち)の間になくても叶ふべからず」動植物の生命活動の発動を促すものであるから、この現実世界になくてはならないものである。

「形を變じ給へり」威儀を正されては、その怒りの対象を厳重に考察なされた。

「相剋」以前に注した「相生」の対概念。陰陽五行説のフィフ・スエレメント、木・火・土・金・水の五つの元素が、特定元素をうち滅ぼす「陰」の関係性を言う。「木剋土(もっこくど)」(木は根を地中に張って土を締めつけ、その養分を吸い取っては土地を痩せさせてしまう)・「土剋水」(土は水を濁らし、吸い取り、常に溢れんとする水を堤防や土塁等によって堰き止めてしまう)・「水剋火」(水は火を消してしまう)・「火剋金(かこくごん)」(火は金属を熔かしてしまう)・「金剋木(ごんこくもく)」(金属製の斧や鋸は木を傷つけ、切り倒してしまう)という関係と判り易過ぎる比喩で説明される。参照したウィキの「五行思想」によれば、もともとは「相勝(そうしょう)」であったが、先の対概念である「相生(そうしょう)」と『音が重なってしまうため、「相克」』から『「相剋」となった。「克」には戦って勝つという意味がある。「剋」は「克」にある戦いの意味を強調するために刃物である「刂」を「克」に付加した文字である。同様に克に武器を意味する「寸」を加えた』「尅」の字を用いることもある、とある。

「樊光(はんくはう)と云(いひ)し者……」これは「太平廣記」の「報應二十三 冤報」の「報應錄」からの引用とする「樊光」であろう。

   *

交趾郡廂虞候樊光者。在廨宇視事、亭午間、風雷忽作、光及男並所養一黃犬並震死。其妻於霆擊之際、欻見一道士、撮置其身於別所、遂得免。人問其故、妻云、「嘗有二百姓相論訟、同繫牢獄。無理者納賂於光。光即出之、有理者大被栲掠、抑令款伏。所送飮食。光悉奪與男並犬食之、其囚饑餓將死間、於獄内被髮訴天、不數日、光等有此報。」。

   *

とあるのを簡略したもののように思われる。

「非公事(ひくじ)のかたより」公事(訴訟)の被告である人物から。

「理(り)かたの者」道理に則って訴訟を起こしている原告の人物を。

「土木の責」不詳。先の「相剋」五行の土・木(から雷電で焼け死ぬ「火」)を考えたが、どうも違う。「其もの、苦しみにたえずして」とあるからには、土中に埋めたり、木に吊るしたりする拷問のことを指すようだ。

「おふ」「負ふ」。

「さもなき人の、つよくおそるゝあり」見た感じ、偉丈夫と感じられる人物で、ひどく雷を怖がる人がいる。

「煎湯」湯で煎り出す、煎じることであろう。

「大舜」中国神話に登場する五帝の一人で、聖王とされる舜の尊称。

「『烈風雷雨にもまよはず』といふを、ひとつにかき出せしかば」迷わされることがない対象三つ烈しい「風」・「雷」・「雨」の三つの内の一つに書き出して掲げてあるのから見れば。

「陀羅尼」サンスクリット語(梵語)の漢音写。以前には「総持」と漢訳されたように、本来は「保持する」という意。現行では漢訳・和訳しない現サンスクリットそのままに似せて音写した呪文のこと。原始仏教教団に於いては呪術は禁じられていたが、大乗仏教では経典の中にも取り入れられ、「孔雀明王経」「護諸童子陀羅尼経」などは呪文だけによって構成されている経典である。これらの呪文は「真言」(マントラ)と呼ばれ、真言としての陀羅尼は密教で特に重要視され、「陀羅尼」といえば、専ら「呪文」を表わすようになった。

「延喜の御代、延長年中」「延喜」は九〇一年から九二三年まで。この時代は形式的ながらも、醍醐天皇による天皇親政が行われ、後にそれを「延喜の治」と呼んだことによる表現であろう。「延長」は延喜の次の年号で、九二三年から九三一年までで、以下に記された「清涼殿への落雷事件は、延長八年六月二十六日(ユリウス暦九三〇年七月二十四日)に発生した。ウィキの「清涼殿落雷事件」によれば、『この年、平安京周辺は干害に見舞われており』、六月二十六日に『雨乞の実施の是非について醍醐天皇がいる清涼殿において太政官の会議が開かれることとなった。ところが』、午後一時頃より、『愛宕山上空から黒雲が垂れ込めて平安京を覆いつくし』、『雷雨が降り注』いで、『それから凡そ』一『時間半後』、突如、『清涼殿の南西の第一柱』を『落雷が直撃した』。『この時、周辺にいた公卿・官人らが巻き込まれ、公卿では大納言民部卿の藤原清貫が衣服に引火した上に胸を焼かれて即死、右中弁内蔵頭の平希世も顔を焼かれて瀕死状態となった。清貫は陽明門から、希世は修明門から』、『車で秘かに外に運び出されたが、希世も程なく死亡した。落雷は隣の紫宸殿にも走り、右兵衛佐美努忠包』(みぬのただかね)『が髪を焼かれて死亡』、紀蔭連連(きのかげつら)『は腹を焼かれてもだえ苦しみ、安曇宗仁』(あずみそうにん)『は膝を焼かれて立てなくなった。更に警備の近衛も』二『名死亡し』ている。『清涼殿にいて難を逃れた公卿たちは、負傷者の救護もさることながら、本来』、『宮中から厳重に排除されなければならない死穢に直面し、遺体の搬出のため』、大混乱に陥った。『穢れから最も隔離されねばならない醍醐天皇は清涼殿から常寧殿に避難したが、惨状を目の当たりにして体調を崩し』、三『ヶ月後に崩御することとなる』。『天皇の居所に落雷し、そこで多くの死穢を発生させたということも衝撃的であったが、死亡した藤原清貫が』、『かつて大宰府に左遷された菅原道真の動向監視を藤原時平に命じられていたこともあり、清貫は道真の怨霊に殺されたという噂が広まった。また、道真の怨霊が雷神となり』、『雷を操った、道真の怨霊が配下の雷神を使い』、『落雷事件を起こした、などの伝説が流布する契機にもなった』。「日本紀略」の「一醍醐」によれば、

   *

延長八年六月廿六日戊午、諸卿侍殿上、各議請雨之事、午三刻從愛宕山上黑雲起、急有陰澤、俄而雷聲大鳴、堕淸涼殿坤第一柱上、有霹靂神火、侍殿上之者、大納言正三位兼行民部卿藤原朝臣淸貫、衣燒胸裂夭亡(年六十四)又從四位下行右中弁兼内藏頭平朝臣希世、顏燒而臥、又登紫宸殿者、右兵衞佐美努忠包、髮燒死亡、紀蔭連、腹燔悶亂、安曇宗仁膝燒而臥。

   *

とあり、「扶桑略記」の二十四」の裏書の「醍醐」によれば、

   *

延長八年六月廿六日戊午、是日申一刻、雲薄雷鳴、諸衞立陣、左大臣以下群卿等、起陣侍淸涼殿、殿上近習十餘人連膝、但左丞相近御前、同三刻、旱天曀々、蔭雨濛々、疾雷風烈、閃電照臨、卽大納言淸貫卿、右中弁平希世朝臣震死、傍人不仰瞻、眼眩魂迷、或呼或走云々、先是登殿之上舎人等、倶於淸涼殿南簷、右近衞茂景獨撲滅、申四刻雨晴雷止、臥故淸貫卿於蔀上、數人肩舁、出式乾門、載車還家、又荷希世修明門外車將去、上下之人、觀如堵檣、如此騷動、未嘗有矣。

   *

とある。以上の二種の資料はリンク先にあるものを、恣意的に正字化して示した。

「藤原淸貫」(貞観九(八六七)年~延長八(九三〇)年)のは公卿。名地方官として知られた藤原南家の参議藤原保則の四男。ウィキの「清貫によれば、『讃岐権大掾・中判事・兵部少丞を経て』、寛平九(八九七)年、『醍醐天皇の即位に伴い』、『六位蔵人に任ぜられ、翌昌泰元』(八九八)年、『従五位下に叙せられる』。『五位蔵人に右少弁を兼ねて醍醐天皇の身近に仕えるが』、延喜五(九〇五)年には『右衛門権佐(検非違使佐)に任ぜられ、史上初めて三事兼帯となる。その後も弁官を務めながら急速に昇進し』、延喜九(九〇九)年には『従四位下・蔵人頭、翌延喜』十年には『参議兼右大弁に叙任され』、『公卿に列す。この間、藤原時平政権に参加し』、延喜五年に『開始された延喜式の編纂や』、昌泰四(九〇一)年に発生した「昌泰の変」『(右大臣・菅原道真の追放)などに関わったとされる。宇佐八幡宮への使者に任じられた折には、道真の見舞いを名目に大宰府を訪れ、帰京後に道真の動向を醍醐天皇や藤原時平に報告している』。『その後の忠平政権下でも』、延喜一三(九一三)年に従三位権中納言、翌年に中納言、延喜二十一年には『三位・大納言と順調に昇進し、太政官において、執政の左大臣・藤原忠平、天皇の外戚である右大臣・藤原定方に次ぐ地位を占めた』。しかし、この時、『清涼殿において落雷の直撃を受け』、『清貫は衣服を焼損し』、『胸部を裂かれた状態で』、『陽明門から自邸に搬出されたものの、即死状態で』、『人々は清貫が菅原道真の追放に関与したために、その怨霊によって報いを受けたと噂したという』とある。

「右中辨希世」(?~延長八(九三〇)年)は『仁明天皇の第五皇子本康親王の子である左馬頭・雅望王の子。官位は従四位下・右中弁』で、勅撰歌人でもあった(「後撰和歌集」「玉葉和歌集」に一首ずつ採録されてある)。『平朝臣姓を与えられ、臣籍降下』し、延喜一一(九一一)年に、『宇多上皇の主催で亭子院で開かれた酒合戦に酒豪として招聘され』、『参加』、『大量に飲んで』、『門外に倒れた』、『右兵衛佐・内蔵権佐・五位蔵人を経て』、『右中弁に任ぜられ、右馬頭を兼任する』。延長元(九二三)年には『内蔵頭に任ぜられ』、延長三年、『左近衛少将を兼任』、延長六年、『従四位下に叙され』た。しかし、この清涼殿への落雷は『希世の顔に直撃』、『重傷を負い、修明門から外で運び出されるも、ほどなく卒去』した。『最終官位は従四位下行右中弁兼内蔵頭』であった。『この落雷事件で、共に落雷の直撃を受け薨じた大納言・藤原清貫』が「昌泰の変」に関与していた『ため、菅原道真の怨霊により』、『清貫は報いを受けたと人々は噂したが、一方の希世と道真との関係や』、「昌泰の変」に『希世が関与していたかどうかは不明である』とある。

「將監」近衛府判官(じょう)。従六位相当の第三等官。

「南殿(なんでん)」私は「なでん」と読みたくなる。紫宸殿の別名。

「前庭」左右の衛府の官人が諸種の儀式の際、この場の左右に控えたことから、そこに植えられた「左近の桜」・「右近の橘」がよく知られる。

「神鳴陣(かんなりぢん)」「枕草子」に、

   *

言葉なめげなるもの[やぶちゃん注:言葉から乱暴で汚ない感じを受ける不快なもの。]。宮のべの祭文(さいもん)讀む人。舟漕ぐ者ども。雷鳴(かんなり)の陣の舍人(とねり)。相撲(すもひ)。

   *

「宮のべ」は「宮咩(みやのめ)の祭り」のこと。平安以降、不吉を避け、幸福を祈願して、正月と十二月の初午(はつうま)の日に高皇産霊神(たかみむすびのかみ)以下六柱の神を祭ったそれを指す。その祭文は卑俗で滑稽な文句を並べていた。「雷鳴(かんなり)の陣」角川文庫石田穣二氏の注に「西宮記」よりの引用として、「大聲三度以上、大將以下帶弓箭、候御前孫庇。」とあり、新潮日本古典集成の萩谷朴氏の注によれば、『雷鳴の時』、大きな雷音が三度以上鳴った際には、『大将以下近衛中少将等が弓箭(きゅうぜん)を帯びて清涼殿の孫廂(まごびさし)に候し、将監(しょうげん)以下のこのえの舎人(とねり)』(将監以下、将曹・番長・近衛の官人の総称)『は蓑笠(みのかさ)を着けて東庭に東向きに立って、主上を警護する。その際、兵衛は』紫宸殿『の南庭、衛門は后宮を警護するが、雷鳴の中で呼び交す近衛舎人の声が大きく乱暴になるの』を清少納言は嫌ったのである。なお、「孫庇」とは、寝殿造りで母屋から出ている庇の外側に、さらに継いで添えた庇のこと。また、同じ「枕草子」のこの後にある、

   *

神のいたう鳴るをりに、「神鳴の陣」こそ、いみじう恐ろしけれ。左右の大將・中・少將などの、御格子(みかうし)のもとに侍(さぶら)ひ給ふ、いと、いとほし。鳴り果てぬるをり、大將、仰せて、「おり。」と、のたまふ。

   *

ともある。「御格子」は清涼殿の東廂と孫廂との境。「いと、いとほし」は「たいそう、お気の毒だわ!」の意。「おり」は「孫廂から庭面(にわも)に降りて「神鳴の陣」は解散!」という命令を指す。

「されば」これは漠然と以上の掲げた資料と事例を指し、まとめに入るための発語の辞。

「皮肉は損せずして、骨のとろくる事」皮膚や筋肉及び内臓は損傷を受けずに、人体を支える骨だけが溶けるのは。後者は雷撃のショックによって、心停止や脳損傷が起こり、完全にぐったりなることをかく言っているものと思われる。雷撃は電圧にして二百万から一億ボルト、電流にして一千から二十万アンペアという想像を絶するもの、外部損傷が無くとも、心臓や脳が感電して即死することもある(体内の流電経路によっては、無論、助かるケースもある)。但し、実際には電流の入口と出口に傷が開き(本文の「鬼形(きぎやう)のつめがたに似る事ある」というのに彷彿とした雷撃を受けた人体の入射痕跡の写真を見たこともあるが、この元隣の言っている噂好きの京童部のそれは、或いは、雷撃を受けた樹木・家屋・地面のことを指しているのかも知れぬ)、皮膚の表面に広汎に蚯蚓腫れや特殊な樹状模様の赤黒変が広がることがあることが、ネット上の「雷撃痕」の画像検索で判る。かなり強烈なのでリンクは張らない。私は、私の家のすぐ近くの玉繩城址にある清泉女学院で、女生徒がテニス中に雷撃を受けて即死したという昔の話を知っているのが唯一の身近なそれで、その時はベルトのバックルに落ちたと聞いている。

「幽微」ナリ ごくかすかでであること。神秘的で微妙にして知りがたいこと。

「唐土の書に侍れ」これは思うに、直後に出る、雷(撃)の物体化したとされる、明の李時珍の本草書のチャンピオン、「本草綱目」の「金石之三」の「霹靂砧(へきれきちん)」(雷楔(らいけつ))の解説によるのではないろうかとも思われる(「砧」は訓「きぬた」で、布地などを打つときに使う堅い台の意。雷撃の後から発見されるなどとされる堅い石)。その「集解」の最後に、『必太虛中有神物使然也。陳時蘇紹雷錘重九斤。宋時沈括於震木之下得雷楔、似斧而無孔。鬼神之道幽微、誠不可究極』とあるからである。

『「雷(いかづち)の槌(つち)」・「雷(いかづち)の斧(をの)」・「雷(いかづち)の墨(すみ)」などいふ物、其(その)落(おち)たるあとに、まことに、有(ある)物のよし』読んだ当初は、落雷場所からたまたま出土した古代人の石棒・石斧や加工された黒曜石の大きな鏃ではないかと思ったのだが、調べてみると、落雷の際に強い電流によって珪砂(石英(二酸化ケイ素 SiO)を主成分とする砂)が溶解し、塊状になって出来る「雷石」=「ファルグライト(fulgurite)」=「閃電岩」=「雷管石」というのが実在することが判った。ウィキの「閃電岩によれば、英名は『ラテン語の fulgur 「雷」から』で、『珪砂に落雷したあとにできる、ニンジンに似た形状の天然のガラス管である。ちょうどよい成分の砂が高温に熱せられることで、雷の経路にそった形の石英ガラスを形成する。「雷の化石」とも呼ばれることがある。形成されたガラスはルシャトリエライト』(Lechatelierite)『と呼ばれるが、これは隕石の落下や火山噴火でも生成される』。『管の直径は数センチメートルで、長さは数メートルになる。色は元の砂の成分により黒や褐色から緑・半透明白色のものがある。内面は通常はなめらかか、または細かい泡がある。外側は一般に粗い砂粒で覆われている。外見は木の根に似て、しばしば枝分かれや小さな穴がある。時には閃電岩は岩の表面に形成されることがある(exogenic fulgurite と呼ばれる』『)』。『閃電岩はとても稀少で』、『ニュージャージー州サウス・アンボイで採取された大きな標本は長さがほぼ』九『フィート、地表近くで直径』七・六センチメートル『あり、次第に細くなっていって掘り出された最深部では直径』五ミリ『となっていた。しかし閃電岩はきわめてもろいため』、『全体をそのまま掘り出すことはできず、最大の断片でも長さ』十五・二センチメートル『でしかない』。『「カスケード山脈の避雷針」として知られるシールセン山』『では、特に山頂点近くの』『岩表面に茶緑色の閃電岩が形成される。また、五大湖湖岸でも見つかる』。『おそらくもっともきれいな標本はフィラデルフィアの自然科学アカデミー』『に展示されているもの』で、一九四〇年に『発見された』。『最大のものは、イェール大学ピーボディ自然史博物館に展示されているコネチカット州北部の Lake Congamond の湖畔で採取された長さ』四メートルの『標本である』とあり、三メートル『以上ある標本がロンドン自然史博物館に展示されて』おり、これは『断片が』五十センチメートル『以上もある』。『閃電岩の生成には約』六『億ボルトの電圧を持った強力な雷が必要とされ、日本の気象条件では強くても』一『億ボルト程度の雷しか発生しない事から』、『閃電岩は通常できない』。『しかし、日本でも』一九六六年に『北海道岩見沢市で発見例があり、同市の郷土科学館にて長さ約』八十九センチメートル、重量約六十キログラムの『断片が展示されている(展示部以外を含む全体では長さ約』二メートル、直径が最大で約四十一センチメートル、推定重量は約二百三十キログラム)。『発見当時、この閃電岩の採取地点で高圧電線の切断事故が記録されている事から、落雷で切断された電線が障害物に引っ掛かる事なく』、『地表に接触し、同時に落雷のエネルギーが電線を経由して大きく増幅されたと見られる。さらにそこへ主成分となる珪砂を含んだ当該地点の地質が重なった事で、本来』、『起こりえない生成条件を満たし日本初となる閃電岩の発見に至ったとされる』とあった。はてさて、さすれば、この真正の狭義の「雷石」=「ファルグライト」は、本邦ではまず生成し得ないことが以上から判ったからには、私の最初の古代人の異物説の方が、しっくるくるように思うのだが、如何?

「能毒」効能及び毒性。

「雷(いかづち)ごとには、あるべからず」雷が発生する度に必ずそうした奇体な「雷石」が生成されるわけではない。]

 

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