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2018/10/24

古今百物語評判卷之四 第四 梟の事附賈誼鵩鳥の賦の事

 

  第四 梟(ふくろ)の事賈誼(かぎ)鵩鳥(ふくてう)の賦(ふ)の事

先生、いへらく、「梟と申(まうす)も木兎(みゝづく)と同類にして、晝は目見えず、洞(ほら)にかくれ、木のまたにゐて、獵師とてもたやすく見る事なく、よるは眼(まなこ)の光(ひかり)、明鏡のごとくにして、木によりては、鳥をうかゞひ、池におりては蛙(かはづ)をつかみ、宅(いへ)に入りては、鼠をとれり。世の風説に、『何がしの屋の棟より、いつの頃、火の玉とびし』などいぶかりあへるも、此鳥の眼のひかりならし。猶、年長(としたけ)たる梟は其眼のひかりに映じて、滿身ともに光侍れば、彼(か)の靑鷺のごとくさながら、光り物のやうに見え侍るとかや。されども、かゝる妖怪ある家は、いつしか、ほろび、主(ぬし)、ゆるは何事ぞや。それ、梟は怪鳥(けてう)の最上にして、其德、さがなき物なり。かくてぞ、漢の賈誼と云(いへ)し人も、鵩(ふく)といふ鳥のとび來(きたり)て、座のすみにとゞまれるを見て、長沙(ちやうしや)の住居(すまひ)、いとものあぢきなくおもひて、占ひし詞(ことば)にも、『野鳥入ㇾ室主人將ㇾ去(野鳥 室(しつ)に入り/主人 將に去らんとす)』と見えけるに、「鵩鳥の賦」をつくりて、程なく、身まかりけるとなん。蓋(けだし)鵩鳥も梟の一類なり。おもふに、すべて、妖孽(ようげつ)[やぶちゃん注:妖しい災い。又は、不吉なことが起こる前兆を指す。妖怪や魔物及び災禍の意味もある。]ある故に、其家、ほろぶるにあらず。此家、ほろぶるが故に妖孽あるなるべし。猶、かやうの時にこそ、物の機(き)を知る君子は誠(まこと)をつくし、禮をまもりて、上(かみ)、天地(てんち)をあふぎ、下(しも)、人心(じんしん)を和(やはら)ぐれば、妖は德にかたずして、あやしみもやぶれ侍るとぞ。其ためし、あげてかぞふべからず。又、梟といふ物は、至りて不孝なる鳥にて、生まれて六十日なる時は、かならず、其母を喰(くら)ふ。故に、文字にも「鳥」の首を「木」にかけたる形容をもつて作れり。人のくびを獄門にかけしを「梟首(けうしゆ)」といふも其心(そのこころ)なり。されば、もろこしには、五月五日に此鳥をあつものにして、群臣に給ひて不孝をこらしめ給ふとかや。ありがたかりける政(まつりごと)なり」と語られき。

[やぶちゃん注:「梟」フクロウ目フクロウ科フクロウ属フクロウ Strix uralensis

「鵩鳥」フクロウとする邦人の記載が多いが、これは厳密にはミミズク(次注参照)を指す。「鵩」の(へん)は「服」。「鵬」の字とお間違えなきよう。

「木兎」フクロウ科 Strigidae に属する種の内、羽角(うかく:俗に「耳」と呼んでいる部分)がある種の総称。古名は「ツク」「ズク」。羽角は哺乳類の耳(耳介)のように突出した羽毛であって、「耳」とは呼ばれるが、ミミズクに限らず、鳥類に耳介は存在しない。この羽角の機能は現在でもよく判っていない。最も有力な説は、枝などに見立てて木に擬態する装置だとするもので、他にはこれを立てる事によって、後ろからの音を拾い易くしている(実際のミミズク類の耳は顔の横附近の羽毛の中に開孔している)とする説もあるらしい。

「靑鷺」ペリカン目サギ科サギ亜科アオサギ属亜アオサギ亜種アオサギ Ardea cinerea jouyi「古今百物語評判卷之三 第七 叡山中堂油盜人と云ばけ物靑鷺の事」の注でも示したが、博物学的上のそれは、私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 蒼鷺(アオサギ)」、及び『森立之立案・服部雪斎画「華鳥譜」より「あをさぎ」』を見られたい。

「さがなき物」「性無き物」で「意地悪で性格が悪い物」の意。フクロウ類は中国では古来より特に不吉な鳥とされてきた

「漢の賈誼と云(いへ)し人も、鵬(ふく)といふ鳥のとび來(きたり)て……」賈誼(紀元前二〇〇年~紀元前一六八年)は前漢の政治思想家で文章家。ウィキの「賈誼」によれば、『洛陽の出身』で、十八『歳にして詩経・書経を論じ、文章が優れていたために郡中で賞賛されていた。当時、河南郡守であった呉公はその才能を愛し、招いて門下にお』いた。『文帝が即位し、呉公が李斯と同郷で治績をあげていることを聞き』、『廷尉に任命されるに際し』、『賈誼が年少でありながらも諸家の書に通じていることを上申したために、博士として抜擢された』。『賈誼は、当時の博士の中で最も年少ではあったが、詔令の下るたびに真っ先に意見を具申することができたので、その年のうちに太中大夫に昇進』した。『漢の制度に関して、儒学と五行説にもとづいて「正朔を改め、服色をかえ、法度を制し、礼楽を興す」べきことを主張した。そうした賈誼を、文帝はさらに公卿にしようとしたが』、紀元前一七八年、『それを嫉んだ丞相絳侯周勃・東陽侯張相如・馮敬等の讒言により、長沙王の太傅』(たいふ:帝王を輔弼する高官)『として左遷させられてしま』った。『任地に赴く途中、屈原を弔った賦が』「文選」にも『収録されている「弔屈原文」である』。三『年余りにも』亙った『左遷生活であったが』紀元前一七四年、『文帝は賈誼のことを思い出し、長安に召して』、『鬼神のことを問う』た。『その答えが上意にかなうものだったため、ふたたび信任され、もっともかわいがっていた末子』であった『梁の懐王の太傅となった』。『ちょうどこのころ、漢朝にとって諸侯王国は大きな脅威となり、匈奴も辺境を侵略しつつあった。そうした多様な社会問題に対し、賈誼も対策を上奏している。今日「治安策」と呼ばれているのが、それである。第一に諸侯が強力であるのを抑制すべきであること、第二に蛮夷を侮らず』、『警戒すべきことなどを説いている』。紀元前一六九年、『梁の懐王が落馬して亡くなったことを悼み、その翌年』、『賈誼自身も憂死した。享年』三十三の若さであった。『彼の文章は議論と叙事が錯綜し、雄渾流麗、古来名文として名高い。代表的な韻文としては、他に長沙在任中の「鵩鳥賦(ふくちょうのふ)」があり、これも』「文選」に『収録されている。秦を批判する「過秦論」も著名であり、これらの散文をまとめたものとして』「新書」がある、とある。

   *

賈誼爲長沙王太傅、四月庚子日、有鵩鳥飛入其舍、止於坐隅、良久、乃去。誼發書占之、曰、「野鳥入室、主人將去。」。誼忌之、故作鵩鳥賦、齊死生而等禍福、以致命定志焉。

(賈誼、長沙王の太傅(たいふ)と爲る。四月庚子(かのえね)の日、鵩鳥、有り、其の舍に飛び入り、坐の隅に止まり、良(や)や久しくして、乃(の)ち、去る。誼、書を發(ひら)きて之れを占ふに、曰はく、「野鳥 室に入り 主人 將に去らんとす。」と。誼、之れを忌む。故に「鵩鳥賦」を作りて、死生齊しく而して禍福も等しければ、以つて、命(めい)に致(ち)し、志を定めんとせり。)

   *

以上の訓読は私の勝手流なので注意されたい。

「鵩鳥賦」原文総ては中文サイト「中文百花線」のこちらがよいように思われ、訓読ととても判り易い現代語訳はサイト「肝冷斎日録」のこちら(ここから全四回。但し、途中に一回休みが入る)がよい。

「占ひし詞(ことば)」「捜神記」は「發書占之」、原文も「發書占之兮、讖言其度」(書を発(ひら)きて之れを占ひ、其の度(ど)[やぶちゃん注:様子。]を讖言(しんげん)[やぶちゃん注:予言。]せんとす)で、占いの書を開いてその現象の意味を調べたのである。

「梟といふ物は、至りて不孝なる鳥にて、生まれて六十日なる時は、かならず、其母を喰(くら)ふ」、CEC」公式サイト内の「徒然野鳥記」の「フクロウに(行間は詰めた。衍字と思われる「る」一字を除去した。なお、この「徒然野鳥記」はなかなか凄い。和漢三才図会」電子化注でも、ごく最近、非常にお世話になった)、

   《引用開始》

[やぶちゃん注:前略。]国内でフクロウが、知的な尊敬の念を含めて好意的に受け止められてきたのは、実はごく最近のことで、明治維新以降、西欧文化の感化によるものと思われます。

 江戸時代以前のフクロウは、実は不吉であり、その声を聞いただけでも災いを呼ぶ恐ろしい鳥として理解されてきました。かの源氏物語では、再三、フクロウが気味悪いものの代名詞として登場します。「気色ある鳥の空声に鳴きたるも、『梟は、これにや』と、おぼゆ」(夕顔の巻)、「もとより荒れたりし宮の内、いとど、狐の住に処になりて、うとましう、気遠き木立に、梟の声を、朝夕に耳ならしつつ」(蓬生の巻)といった具合です。夕顔の巻の気色ある鳥とは、気味が悪い鳥の意味であり、蓬生の巻にいたっては、狐が住むようになるほど荒れ果てた屋敷の気味の悪い木立を更に強調するのがフクロウの声として使われています。

 江戸時代には、フクロウは自分の父母を食べる悪き鳥とまでその地位を落とします。「梟 一名不孝鳥 喰母故也」(類船集)[やぶちゃん注:俳諧付合(つけあい)語集。梅盛(ばいせい)著。延宝四(一六七六)年刊。見出し語二千七百余を「いろは」順に配列し、語の下に付合語を列挙、殆んどの項目に説明文を付してある。]と記載され、母殺しの汚名が着せられます。江戸時代の著名な愛鳥家であり、多くの野鳥を飼育したことで知られた滝沢馬琴でさえ、「フクロウは不孝の鳥なり。雛にして父母を喰わんとするの気ありといふ。和名フクロウとは、父母くらふにて、父を喰うの義ならんか。かかる悪鳥も、またその子を思ふことは、衆鳥にいやましたり。」(燕石雑誌)と語られるのです。どうも、平安から江戸時代までの大変に否定的なフクロウ観は、中国の動植物史観の影響が大きかったようです。その代表的な「本草綱目」で、フクロウは悪鳥で、父母を食べてしまう、夏至には磔にすると記載され、それゆえに磔の上に鳥を置いて、梟(フクロウ)と書くとされていたものを盲信したようです。

 しかし明治の時代に入り、西欧のフクロウ観が入って来ます。農業をもととした古代ギリシャでは、農耕に害をなすネズミを食べるフクロウは農業の女神アテネの従者と崇められるのです[やぶちゃん注:中略。]。時代は一挙に19世紀にすすみ、近代哲学の泰斗、ヘーゲルは、こう語ります。「ミネルヴァの梟は迫りくる黄昏に飛び立つ」(「法の哲学」序文)。ミネルヴァとは女神アテネのことであり、フクロウはここで農業の保護者であること以上に、歴史的な現状を深く認識できる女神の知的な補佐役、哲学の象徴としての役割を担っているのです。知的な象徴としてのフクロウはここに極まっています(このセンテンスの解釈には多くの説があるようです。私は近代哲学と近代そのものが、危機を迎えているとの警告だと考えています)[やぶちゃん注:以下略。]

   《引用終了》

「本草綱目」巻四十九「禽部 山禽類」の「鴞」には(和漢三才図会」電子化注は未だそこに至っていない。辿り着き次第、ここにリンクする)、

   *

梟長則食母、故古人夏至磔之、而其字從鳥首在木上。

   *

とある。上記引用では、『磔の上に鳥を置いて、梟(フクロウ)と書くとされていたものを盲信したよう』だとあるが、「廣漢和辭典」の「梟」の解字を見ると、『鳥を木の上につきさしたさまで、ふくろう・さらすの意。ふくろうは不孝の鳥であるから、これをさらし首にし、五月五日にそのスープを作り、みせしめに役人に飲ませたといわれる』と書いてあるので「盲信」とばかりは言えない。

「五月五日」端午の節句だが、恐らくは前の引用に出た旧暦の夏至の近日であるからであろうとも思われる。因みに、先の賈誼が「弔屈原文」を奉った、かの憂国の士屈原が汨羅に身を投じたのも紀元前二七八年の五月五日である。

「あつもの」「羹(あつもの)」「熱物(あつもの)」。魚鳥の肉や野菜を入れた熱いスープ。]

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