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2018/10/12

和漢三才圖會第四十二 原禽類 鶉 (ウズラ)

Uzura

うつら   【鶉之子】

      羅鶉【鶉卵初生】

      早秋【至秌初者】

      白唐【中秋已後者】

【音純】

      【和名宇豆良】

トヲン

 

本綱鶉大如雞雛頭細而無尾毛有斑點甚肥雄者足高

雌者足𤰞性畏寒在田野夜則羣飛晝則草伏人能以

聲呼取之畜令闘搏其性淳不越橫草竄伏淺草無常居

而有常匹隨地而安其行遇小草卽旋避之亦可謂醇矣

蝦蟇得爪爲鶉又南海有黃魚九月變爲鶉而盡不爾蓋

始化成終以卵生故四時常有之鴽則始田鼠化終復爲

鼠故夏有冬無

肉【甘平】炙食甚美【四月以前未堪食】和小豆生姜煑食治小兒疳

 痢大人皷脹【合菌子食發痔或云忌山椒】

 新古今住みなれし我か古鄕は此頃や淺茅か原に鶉なくらん

△按鶉處處原野多有之甲州信州下野最多畿内之産

 亦勝矣色有黃赤而黑白斑彪如有珍彪者人甚賞之

 其聲如曰知地快【今如此聲者希有而不好】有數品【帳吉古吉幾利快幾比快勅快

 等聲皆不佳】嘩嘩快爲上【聲轉而永引大圓亮爲珍】毎早旦日午夕暮鳴

 凡春二三月始鳴至芒種止聲六月又更發聲至中秋

 止聲人養之其籠最美麗而此與鶯相並弄之其雌者

 小足卑不囀【呼曰阿以布】如雄鶉未發聲則置雌籠於側則

 發聲

 

 

うづら   〔(ぶん)〕【鶉の子。】

      羅鶉〔(らじゆん)〕【鶉の

      卵〔の〕初生。】

      早秋【秌〔(あき)〕初め

      に至〔れる〕者。】

      白唐【中秋已後の者。】

【音、「純」。】

      【和名「宇豆良」。】

トヲン

 

「本綱」、鶉、大いさ、雞〔(にはとり)〕の雛のごとく、頭、細くして、尾、無し。毛に斑點有り。甚だ肥たり。雄は、足、高く、雌は、足、𤰞(ひき)し。其の性〔(しやう)〕、寒を畏る。田野に在り。夜、則ち、羣飛し、晝は、則ち、草に伏す。人、能く聲を以つて呼びて之れを取る。畜〔(か)ひ〕て闘〔ひ〕搏〔(う)た〕せしむ。其の性、淳(すなを[やぶちゃん注:ママ。])にして、橫〔(よこた)ふ〕草を越へず。淺〔き〕草に竄(かく)れ伏す。常〔なる〕居〔(きよ)は〕無くして、常に匹〔(つれそひ)〕と有り。地に隨ひて安ず。其の行(ゆく)とき、小〔さき〕草に遇へば、卽ち、旋〔(や)〕や、之を避くる。亦た、醇(すなほ)と謂ひつべし。蝦蟇〔(がま)〕、爪を得て、鶉と爲る。又、南海に、黃魚といふもの有り、九月、變じて鶉と爲り、而れども、盡くは爾(しか)らず。蓋し、始め、化に成りて、終〔(つゐ)〕に卵を以つて生ず。故に、四時、常に、之れ、有り。鴽(かやくき)は、則ち、始め、田鼠(うごろもち)、化して、終に復た、鼠と爲る。故に、夏は有りて、冬は無し。

肉【甘、平。】。炙り食ふ。甚だ美なり【四月以前は未だ食ふに堪へず。】。小豆・生姜に和(あゑ)て、煑〔(に)〕、食ふ。小兒の疳痢・大人の皷脹〔(こちやう)〕を治す【菌子〔(きのこ)〕と合せて食へば、痔を發す。或いは云ふ、山椒を忌むと。】

「新古今」

 住みなれし我が古鄕は此頃や淺茅が原に鶉なくらん

△按ずるに、鶉は處處の原野に多く之れ有り。甲州・信州・下野、最も多し。畿内の産、亦た、勝れり。色、黃赤にして黑白の斑彪(まだらふ)有り。如(も)し、珍〔しき〕彪〔(ふ)〕の者有れば、人、甚だ之れを賞す。其の聲、「知地快〔(ちちくわい)〕」と曰ふがごとし【今、此くのごとき聲なる者、希に有り。好まれず。】。數品〔(すひん)〕、有り【「帳吉古〔(ちやうきつこ)〕」・「吉幾利快〔(ききりくわい)〕」・「幾比快〔(きひくわい)〕」・「勅快(ちよくくわい)」等の聲へ[やぶちゃん注:ママ。]、皆、佳からざるなり。】「嘩嘩快〔(くはくはくわい)〕」を上と爲す【聲、轉(ころば)せて、永く引き、大〔いに〕圓〔(まどか)にして〕亮〔(りやう)なる〕を珍と爲す。】毎〔(まい)〕早-旦(あさ)・日-午(ひる)・夕暮に鳴く。凡そ、春、二、三月、始めて鳴き、芒種〔(ぼうしゆ)〕に至りて聲を止む。六月、又、更に聲を發し、中秋に至りて聲を止む。人、之れを養ふ。其の籠〔(かご)〕は、最も美麗にして、此れと鶯と、相ひ並べて之れを弄〔(もてあそ)〕ぶ。其の雌は小さく、足、卑(ひく)く、囀(さへづら)ざる[やぶちゃん注:ママ。]【呼びて「阿以布〔(あいふ)〕」と曰ふ。】。如〔(も)〕し、雄の鶉、未だ、聲を發せずば、則ち、雌の籠を側〔(そば)〕に置くときは、則ち、聲を發す。

 

[やぶちゃん注:キジ目キジ科ウズラ属ウズラ Coturnix japonicaウィキの「ウズラ」を引く(下線太字やぶちゃん)。インド北東部・タイ王国・大韓民国・中華人民共和国・朝鮮民主主義人民共和国・日本・ブータン・ベトナム。ミャンマー・モンゴル国・ラオス・ロシア東部に分布するが、『日本(主に本州中部以北)、モンゴル、朝鮮半島、シベリア南部、中華人民共和国北東部などで繁殖し、冬季になると』、『日本(本州中部以南)、中華人民共和国南部、東南アジアなどへ南下し越冬する』。『日本国内の標識調査の例では』、『北海道・青森県で繁殖した個体は主に関東地方・東海地方・紀伊半島・四国などの太平洋岸で越冬し、九州で越冬する個体は主に朝鮮半島で繁殖した個体とされる(朝鮮半島で繁殖して四国・山陽地方・東海地方へ飛来する個体もいる)』。全長は約二十センチメートルで、翼長九・一~十・四センチメートル』、『上面の羽衣は淡褐色』。『繁殖期のオスは顔や喉』及び『体側面の羽衣が赤褐色』で、『希に全体が白色羽毛で散在的に野性型羽毛をもつ個体が生じるが、劣性遺伝により発現するとされている』。『以前は旧ウズラCoturnix coturnix(現ヨーロッパウズラ)の亜種とされていたが、独立種として分割された』。『低地にある草原・農耕地などに生息』し、『秋季から冬季にかけて』、五~五十『羽の小規模から中規模の群れを形成することもある』。『和名は「蹲る(うずくまる)」「埋る(うずる)」のウズに接尾語「ら」を付け加えたものとする説がある』。『種子、昆虫などを食べる』。『配偶様式は一夫一妻だが』、『一夫多妻の例もある』。『繁殖期は』五~九月で、『植物の根元や地面の窪みに枯れ草を敷いた巣を作る』。七~十二『個の卵を産むが』、十八個の『卵を産んだ例もある』。『抱卵期間は』十六~二十一日で、『メスのみが抱卵する』。『雛は孵化してから』二十『日で飛翔できるようになり』、一~二ヶ月で『独立』し、『生後』一『年以内に成熟する』。『孵化後』六『週令で産卵を開始する』。『卵には通常』、『黒い斑点があるが、希に白色の卵も産む』。『雌の平均寿命は』通常は二『年に満たない』。『卵殼表面には褐色のまだら模様があるが、これは卵を外敵から守るカモフラージュの効果がある。模様は』、『卵を作る器官に由来し、個体差があるものの』、『個体ごとに決まった模様がつくため』、一『羽のメスが産む卵は同じ様な模様をしている』。『この模様の元となる色素は産卵開始時刻の約』三『時間前から分泌が始まり、子宮壁の伸縮、卵の回転に伴い』、『卵殼表面に拡がり』、『斑紋を形成するとする研究がある』。『古くから歌に詠まれ』、「古事記」「万葉集」「千載和歌集」などにも、『本種のことを詠んだ歌がある』。『食用とされることもある。日本では平安時代に本種の調理法について記した書物がある』。『明治時代中期から採卵用の飼養が本格的に進められるようになり』、昭和一六(一九四一)年には飼養数は約』二百万羽に『達した』。『当時は』、『本種の卵が』、『肺病や心臓病の薬になると信じられ』て『珍重されたが、販売経路が限られることや』、『原価が高いことから下火となった』。『第二次世界大戦により』、『本種の飼養は壊滅的な状況に陥ったものの』、昭和四〇(一九六五)年には飼養数が再び』、約二百万羽にまで『増加した』。一九七〇年代『以降は主に愛知県(日本の飼養数のうち約』六十五%『を占める)』、『なかでも豊橋市を中心に養殖がおこなわれている』。昭和五九(一九八四)年に約八百五十万羽と『ピークを迎えたが』、平成二一(二〇〇九)年に『豊橋市でトリインフルエンザが確認されたことにより』、約百六十万羽が『殺処分された』。『調理法として水炊き、焼き鳥、肉団子などがあり、雑煮の出汁に用いられることもある』。生後六十日ほどで『成熟し、オスは精肉用、メスは採卵用となる』。法的制限内に於いて『狩猟の対象とされたこともあったが、平成二五(二〇一三)年に『狩猟鳥獣』『から除外されたことにより、日本で本種を狩猟することは違法となった』。『日本では草地開発や河川敷の樹林化・レクリーエション利用などにより』『生息数は減少して』おり、「環境省レッドリスト」では絶滅危惧 VU)に指定されている。『ペットとして飼育されることもある。日本では室町時代には籠を用いて本種を飼育されていたとされ』、「言繼卿記」(ときつぐきょうき:戦国期の公家山科言継の日記。大永七(一五二七)年から天正四(一五七六)年の凡そ五十年に渡るもの。但し、散逸部分も少なくない。有職故実や芸能及び戦国期の政治情勢などを知る上で貴重な史料とされる)に記載がある。『江戸時代には武士の間で鳴き声を競い合う「鶉合わせ」が行われ、慶長』(一五九六年~一六一五年)『から寛永』(一六二四年~一六四五年:慶長との間には元和(げんな)が挟まる)『をピークに大正時代まで行われた』。『一方で』、『鳴き声を日本語に置き換えた表現(聞きなし)として「御吉兆」などがあり、珍重されることもあった』。『小型で飼育スペースを取らないこと、世代交代が早い事から実験動物として用いられることもある』。なお、『近親交配による退行が発現しやすく』、三『世代で系統の維持が困難になり』、五『世代を経ると』、『次の世代の作出が困難になったとする研究がある』とある。鳴き声の動画を複数聴いたが、売られている卵を孵化させた、ゲージの中の、ノイロっているような殺伐とした哀れなそれが多く、視聴しているだけで甚だ憂鬱になってしまったので、ダウン・ロード再生方式であるが、自然にいるウズラの声を採った、「サントリー世界愛鳥基金」公式サイト内のウズラをリンクさせておくに留める。自然のウズラのそれは、なんと、長閑なことであろう……古歌にも詠まれた自然の中の鶉の祝祭の声を失った日本人は、一体、どこへ行こうというのだろう……

「初生」生れたての幼鳥。

「秌」「龝」=「秋」の異体字。

𤰞(ひき)し」低い。短い。

「闘〔ひ〕搏〔た〕せしむ」闘鶏のように鶉同志を羽を搏(打)たさせて闘わせることを指す。

「淳(すなを)にして、橫〔(よこた)ふ〕草を越へず」中国文学の載道派的叙述で、廉直にして素直なればこそ、横向きに靡き曲がった草をよしとしないというのであろう。

「匹〔(つれそひ)〕」愛する配偶者。これも「淳」の正統なる属性である。

「地に隨ひて安ず」どのような場所であっても、自身らに相応しい場所を探し出して、そこで安静に生活する。これも前に続いて「淳」なる品格なればこそである。

「小〔さき〕草に遇へば、卽ち、旋〔(や)〕や、之を避くる。亦た、醇(すなほ)と謂ひつべし」未だ懸命に生え初めたばかりの小さな野草に逢うと、直ちに立ち止まって、そこを避けて少し迂回して踏まずに行く、これもまた前と同じく「素直」な品性によるものと讃えるべきべきものである、というのである。

「蝦蟇〔(がま)〕、爪を得て鶉と爲る。又、南海に、黃魚といふもの有り、九月、變じて鶉と爲り」トンデモ化生説である。これは李時珍の「本草綱目」の「鶉」の「集解」の「崔禹錫食經」からの引用(蝦蟇の件)と「交州記」からの引用(黄魚)の叙述であるが、わざわざ良安がこれを引いたのは、残念ながら、良安自身もそうしたトンデモ化生(以下の本文にある通り(「蓋し、始め、化に成りて、終〔(つゐ)〕に卵を以つて生ず」)、突如としてある生物が無性的に出現し、後に雌雄が生じて卵を生むとするのである。これは本「和漢三才圖會」の「蟲類」の部等で(例えば「蝨」(シラミ))、既に何度も良安が自身の言葉で主張している例があるのである)が実際にある、と考えていたからなのである(今まであまり指摘していないが、「本草綱目」の引用は、原典のかなり恣意的な抜粋であり、表記の一部も書き換えられてある。特に次の注で述べるが、この引用には時珍が全く書いていないことがこの後に出るのである。但し、全然、別種のところで類似したことを時珍が書いている可能性はあり、それを援用した可能性は、無論、あるなお、荒俣宏「世界博物大図鑑」の第四巻「鳥類」(一九八七年平凡社刊)の「ウズラ」の項を見ると、『中国の民俗では』、『古来ウズラはガマの化身だとみなされ』、『〈万畢術〉には〈蝦蟇(がま)が瓜(くわ)を食うと鶉になる〉とある』とある。この「万畢術」とは前漢の文帝期から武帝期にかけて生きた淮南王劉安が全国から学者や方士たちを招致して製作した著作の一つと伝えられる「淮南萬畢術」で、これは宋の李昉らの撰になる「太平御覽」の「巻第九百二十四」の「羽族部十一」の「鶉」の条に、

   *

莊子曰田化爲鶉。淮南萬畢術曰蝦蟇得瓜平時爲鶉【注云取瓜去辨置生蝦蟇其中敎鶉以血塗瓜堅塞之埋東垣北角深三尺其平日發出之矣爲鶉矣】。

   *

と出るのを発見出来た。はてさて?――本文の「蝦蟇得爪爲鶉」の「爪」(つめ)と――この「蝦蟇得瓜平時爲鶉」の「瓜」(カ/うり)と――ヤバくね? 因みに、荒俣氏はこの後、江戸時代の趣味の鶉飼いのフリーキーな様子が、喜多村信節(のぶよ)の「嬉遊笑覽」(文政一三 (一八三〇)年刊)の「鶉合(うづらあはせ)」から引かれ(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの同書の画像の当該頁。左の最後から次頁まで)、間に本「和漢三才圖會」最終部(「其の籠〔(かご)〕は、最も美麗にして、此れと鶯と、相ひ並べて之れを弄〔(もてあそ)〕ぶ。其の雌は小さく、足、卑(ひく)く、囀(さへづら)ざる【呼びて「阿以布〔(あいふ)〕」と曰ふ。】。如〔(も)〕し、雄の鶉、未だ、聲を發せずば、則ち、雌の籠を側〔(そば)〕に置くときは、則ち、聲を發す」)を挟んで、「飼鳥必用」(「鳥賞案子」の別名。享和二(一八〇二)年序)には「巾着鶉(きんちゃくうずら)」と称して、鶉を袋に入れて腰にぶら下げて持ち歩き、座敷で袋から取り出して鳴かせるという可哀想な飼い方も記されてあるとある。また、「奥州波奈志」(私の好きな女流国学者只野真葛(ただのまくず 宝暦一三(一七六三)年~文政八(一八二五)年)の晩年の優れた伝説物語集)から、『伊達政宗が京にのぼったとき』、『小鳥屋のウズラを気にいって』、『値ぶみしたところ』が、五十『両をふっかけられた』。そこで、

 立よりてきけば鶉の音(ね)はたかし

  さてもよくにはふけるものかな

『とよむと』、『小鳥屋は』、流石に『恥じて』、『その鳥を進呈したという話がみえ』、当時流行した鶉飼いに便乗した『ウズラ商がかなり強気な商売をしていたこともうかがえ』ると記しておられる。

「而れども、盡くは爾(しか)らず」この一文は少なくとも「本草綱目」の「鶉」の中には書かれていない。寧ろ、その「發明」の条では、時珍は「按鶉乃蛙化氣性相同蛙與蝦蟇」とそうした化生のサイクルを積極的に肯定しているのである。則ち、ここは時珍の言葉ではなく、良安の化生説に対する限定的疑義(見解)がさりげなく挟み込まれてあるのだと私は思うのである。

「故に、四時、常に、之れ、有り」化生説の擬似論理的説明である。こうした偉そうな謂いは、周年生活環(ライフ・サイクル)を人間にしか擬え得ない、人間第一主義の悲しさを今となっては感じるものである。

「鴽(かやくき)」東洋文庫版は『ふなしうずら』と訳ルビしてある。既出であるが、再掲しておくと、フナシウズラは現行では「鶕」で、鳥綱チドリ目ミフウズラ(三斑鶉)科ミフウズラ属ミフウズラ Turnix suscitator の旧名(各タクソンを見れば判る通り、本ウズラとは全く縁遠い種であるので注意されたい)。中国南部から台湾・東南アジア・インドに分布し、本邦には南西諸島に留鳥として分布するのみである。されば、ここで良安が「かやくき」と和名表記したそれは、種としてのフナシウズラではないと言える。「かやくき」は調べてみると、「鷃」の漢字を当ててあり、これはウズラとは無関係な(この漢字を「うずら」と読ませているケースはあるが)、

スズメ目スズメ亜目イワヒバリ科カヤクグリ属カヤクグリ Prunella rubida

の異名であることが、小学館「日本国語大辞典」で判明した。実は次の項が「鷃(かやくき)」なのであった(但し、そこには『鷃者鶉之屬』(「本草綱目」引用)とはある)。

「田鼠(うごろもち)」脊索動物門脊椎動物亜門哺乳綱トガリネズミ形目モグラ科 Talpidae のモグラ類のこと。

「鼠」これは恐らく「復た」とあるから、「田鼠」の「田」の脱字であろう(化生説の両奉方向サイクルである)。東洋文庫版も本文に『(田)鼠』としてある。

「疳痢」「疳」とは漢方医学で「脾疳(ひかん)」で、乳児の腹部膨満や異常食欲などを称したから、そうした乳幼児のそれを原因とするとされた、下痢症状を指すものと思われる。

「皷脹〔(こちやう)〕」東洋文庫版割注に『腸内発行がはげしく』、『腹部が膨張する病』とある。病的な腹部膨満である。

「新古今」和歌集の以下の歌は、「巻之十七」の「雑歌中」の大僧正行尊(天喜三(一〇五五)年~長承四(一一三五)年:平安後期の天台僧で歌人。平等院大僧正。平安中期の公卿で三条天皇の第一皇子敦明(あつあきら)親王の子源基平の子。近江園城寺(おんじょうじ:=三井寺)で出家し、各地を行脚した。祈禱に優れ、鳥羽天皇の護持僧となり、園城寺長吏・四天王寺別当・天台座主を歴任した)の一首(一六八〇番歌)、

   三井寺燒けてのち、住み侍りける房を

   思ひやりてよめる

 住みなれし我がふる里はこのごろや淺茅(あさぢ)が原(はら)にうづら鳴くらん

「三井寺燒けてのち」保安二(一一二一)年閏五月、三井寺僧徒による延暦寺修行僧の殺害を発端に、山徒が三井寺の塔堂を焼き、三井寺は廃墟と化した。「淺茅が原」丈の低い茅(ちがや:単子葉類植物綱イネ目イネ科チガヤ属チガヤ Imperata cylindrica:初夏に細長い円柱形の穂を出し、葉よりも高く伸び上がってほぼ真っ直ぐに立つ。分枝はなく、真っ白の綿毛に包まれてよく目立ち、「茅花(つばな)」と呼ぶ)の茂る野原。「鶉」はこの頃には既に秋の淋しい野良を象徴する鳴き声として定着していた。

「數品〔(すひん)〕、有り」以下の割注(総てオノマトペイア。目出度い意味を連想させるような漢字を選んで組み合わせていることが判る)で判る通り、鳴き声に数種がある、の意。

「聲、轉(ころば)せて、永く引き、大〔いに〕圓〔(まどか)にして〕亮〔(りやう)なる〕を珍と爲す」東洋文庫版訳では、『声は転(ころが)って永く引き、大へんまろやかで明快なのを珍重する』とある。

「芒種」二十四節気の第九。五月節で旧暦の四月後半から五月前半。陽暦では六月六日頃。「芒」(のぎ:イネ科植物の果実を包む穎(えい)にある棘状突起)を持った植物の「種」を播く頃の意で、西日本の梅雨入りの頃に当たる。]

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