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2018/10/15

古今百物語評判卷之三 第四 錢神の事附省陌の事

 

  第四 錢神(ぜにがみ)の事省陌(せいはく)の事

かたへより、問(とふ)て云(いはく)、「世に錢神といふものありて、たぞかれ時に薄雲のやうなる物の氣、一村(ひとむら)[やぶちゃん注:一塊り。]、其聲をなして、人家(ひとのいへ)の軒だけを、ざゝめきわたれり。見る人、刀をぬきて切りとむれば、錢多くこぼれ落つる、と云へり。然れども、誰(たれ)得たりといふ者を聞かず候。あるべきものにや」と問(とひ)ければ、先生、答(こたへ)ていはく、「是れ、世界の錢の精、空中に靡(たなび)く物なりけらし。何にても、其物、あつまれば、其精、必ず、生ず。陽の精は日となり、陰の精は月と也(なり)、金石(きんせき)の精は星となれば、錢、もと、人爲(じんゐ)にいづる物なれども、その集(あつま)るに及(および)ては、其精、なきにしもあらじ」。又、問て云く、「『子母錢(しぼせん)』と申すもの御座候よし。如何成(なる)事にて候ふや」。云く、「是れ、仙術のひとつにして、昔より申(まうし)ならはし侍る。其法は『靑蚨(せいふ)』といふ蟬と似たる蟲の、かいこのごとくなる子を、草村(くさむら)に生じをけるを、とれば、其母、必(かならず)、たづね來れるを、とりて、母の血をしぼり、八十一の錢にぬり、子の血をも、又、八十一の錢にぬりて、その一方の錢を以て市(いち)に出(いで)て物を買へば、子母(しぼ)の契り、淺からぬ故に、其錢、飛歸(とびかへ)るゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、常に、へる事、なしといへり。『子母錢成(なつて)豈患ㇾ貧(あにひんをうれへんや)』と唐の人の作りしも此事に侍る。されど、我朝にては誰(たれ)心見(こころみ)しとも聞(きき)侍らず。そも錢の起りは、外(そと)の圓(まる)きは天になぞらへ、内の方(けた)なるは、地にかたどりて、もろこしにては女媧氏(ぢよかし)の、世に、作り出(いだ)せり。本朝にては聖武皇帝の時に鑄初(ゐはじめ)けるとかや。其文(もん)は『開基』・『太平』・『萬年勝寶』・『元寶通寶』など也。猶、後にはもろこしにても、年號を加へて、其名とせり。開元・淸和(せいわ)の類(るい)、是れなり。むかしより、新しき錢出(いで)來ては、古きはすたりし時もあり、又、新舊ともに用ひらるゝ政(まつりごと)も、あり。皆、其時のよろしきに隨(したがへ)り。猶、此銅錢どのは、いかなる心よしやらん、智のあるも、をろかなる[やぶちゃん注:ママ。]も、ちかづかまほしく思へり。され共、類(たぐひ)[やぶちゃん注:ここは「るい」の方が判りがいい。]を思ふ物にて、其多き所には、まねかざれども、集(あつま)り、すくなき所には、たまたま至れども、一夜(いちや)の宿(やど)をも、かる事なし。就ㇾ中(なかんづく)和漢ともに私(わたくし)に鑄る事は、つよき禁制なり。金錢・銀錢は名高き物なれど、私にも鑄るならはしも侍るは、何事ぞや。銅錢は通用の寶(たから)にして、金銀は私の寶なればならん。それ、人の富饒(ふねう)・貧乏は天命のなせる分(ぶん)也。縱逸(ほしいまま)に通寶を鑄ば、誰(たれ)か貧しからん。もし、人の力(ちから)をもつて、貧富を自在にせば、人、よく天に勝(かて)るなり。豈(あに)よく天に勝たむや。又、錢の數(かず)を九十六文にせし事、いづれの時より定(さだまれ)りとも覺束なし。唐土(もろこし)にても、時と所により、九十文、或は、八十文、五十七文なるもあり。これを『省陌』と云ふよし、明の楊升庵(やうしようあん)が「丹鉛總錄」に見えたり」。

[やぶちゃん注:「錢神」という妖怪・怪異は私は他に聴いたことがない。ウィキに「金霊」があり、そこでは「金霊」「金玉」が挙げられ、「かねだま」或いは「かなだま」と読むとあるものの、『金霊と金玉は似て非なるものだが、訪れた家を栄えさせるという共通点があり、金玉が金霊の名で伝承されていることもある』とする。私はこれらと、この「銭神」なるものは、ルーツは同じであろうが、属性や様態に致命的な変質が起こって、肝心の部分(善人限定・家業繁栄・幸運招来等々)が、皆、抜け落ちてしまい、出来(しゅったい)の謂れも脱落し、それこそ、神から零落して妖怪に堕してしまったもののように思われる。まず、「金霊」であるが、『鳥山石燕による江戸時代の妖怪画集』「今昔画図続百鬼」(安永八(一七七九)年刊)に『よれば、善行に努める家に金霊が現れ、土蔵が大判小判であふれる様子が描かれている。石燕は同書の解説文で、以下のように述べている』(所持する刊本の原典画像で以下は補正した。返り点「二」はないが、挿入し、句読点・鍵括弧を打った。リンク先に原画像もある)。

   *

 金靈(かねだま)

金(かね)だまは金氣(きんき)也。唐詩に「不ㇾ貪夜識金銀氣(むさぼらずして よる きんぎんのきをしる)」といへり。又、「論語」にも「冨貴在ㇾ天(ふうきてんにあり)」と見えたり。人、善事(ぜんじ)を成せば、天より福をあたふる事、必然の理(り)也。

   *

以下、私が独自に示す。この「不貪夜識金銀氣」は「唐詩選」にある杜甫の七律「題張氏隱居」の五句目である。

  題張氏隠居

 春山無伴獨相求

 伐木丁丁山更幽

 澗道餘寒歷冰雪

 石門斜日到林丘

 不貪夜識金銀氣

 遠害朝看麋鹿遊

 乘興杳然迷出處

 對君疑是泛虛舟

    張氏の隱居に題す

  春山 伴(とも)無く 獨り相ひ求む

  伐木 丁丁(ちようちよう) 山 更に幽なり

  澗道(かんだう)の餘寒 冰雪(ひようせつ)を歴(へ)

  石門の斜日(しやじつ) 林丘に到る

  貪らずして 夜(よ) 金銀の氣を識り

  害に遠ざかつて 朝(あした)に麋鹿(びろく)の遊ぶを看る

  興に乘じては 杳然(ようぜん)として出處に迷ひ

  君(きみ)に對し 疑ふらくは 是れ 虛舟を泛(うか)べしかと

最終句は、「荘子」の「山木篇」の「方舟而濟於河、有虛船、來觸舟、雖有惼心之人不怒」(舟を方(なら)べて河を濟(わた)るに、虛船有り、來たりて舟に觸るれど、惼心(へんしん)の人有りと雖も怒らず:舟で川を渡ろうとした折り、人の乗っていない舟が流れ来たってその人の舟に衝突したとしても、どんなに短気な人であっても腹の立てようはない。)という話に基づき、張氏の無心さを譬えている(以下、引用に戻る)。

『からの引用で、無欲な者こそ埋蔵されている金銀の上に立ち昇る気を見分けることができるとの意味である。また』(以下、私が補填した)「冨貴在天」は「論語」の「顔淵第十二」の「司馬牛憂曰、人皆有兄弟、我獨亡。子夏曰、商聞之矣、死生有命、冨貴在天。君子敬而無失、與人恭有禮、四海之内、皆兄弟也。君子何患乎無兄弟也。」(司馬牛、憂へて曰はく、「人は皆、兄弟(けいてい)有り、我に獨り亡(な)し。子夏、曰はく、「商(しよう)、之れを聞く。死生(しせい)、命(めい)有り。冨貴(ふうき)、天に在り。君子、敬して失ふ無く、人と與(まぢ)はるに恭(うやうや)しくして禮有らば、四海の内、皆、兄弟なり。君子、何ぞ兄弟無きを患へんや。:「商」は子夏の名。)『からの引用で、富貴は天の定めだと述べられている。これらのことから』、『石燕の金霊の絵は、実際に金霊というものが家に現れるのではなく、無欲善行の者に福が訪れることを象徴したものとされている』。『同時期にはいくつかの草双紙にも金霊が描かれている例があるが、いずれも金銭が空を飛ぶ姿で描かれている』。享和三(一八〇三)年の『山東京伝による草双紙』「怪談摸摸夢字彙(かいだんももんじい)」では『「金玉(かねだま)」の名で記載されており、正直者のもとに飛び込み、欲に溺れると去るものとされている』。『昭和以降の妖怪関連の文献では、漫画家・水木しげるらにより、金霊が訪れた家は栄え、金霊が去って行くと家も滅び去るものとも解釈されている。また水木は、自身も幼い頃に実際に金霊を目にしたと語っており、それによれば金霊の姿は、轟音とともに空を飛ぶ巨大な茶色い十円硬貨のような姿だったという』。『東京都青梅市のある民家では、実際に人家に金霊が現れたという目撃例がある。家の裏の林の中に薄ぼんやりと現れるもので、家の者には恐れられているが、その家でも見れば』、『幸運になれるといわれている』(以下に本書の本条の梗概が紹介されているが、略す)。以下、「金玉」の項。『その名の通り』、『玉のような物または怪火で、これを手にした者の家は栄えるという』。『東京都足立区では轟音と共に家へ落ちてくるといい』、『千葉県印旛郡川上町(八街市)では、黄色い光の玉となって飛んで来たと伝えられている』。『静岡県沼津地方では、夜道を歩いていると』、『手毬ほどの赤い光の玉となって足元に転がって来るといい、家へ持ち帰って床の間に置くと、一代で大金持ちになれるという。ただし』、『金玉はそのままの姿で保存しなければならず、加工したり』、『傷つけたりすると、家は滅びてしまう』。滝沢馬琴編の都市伝説集「兎園小説」では、文政八(一八二五)年の『房州(現・千葉県)での逸話が語られている。それによれば、丈助という農民が早朝から農作業に取り掛かろうとしていたところ、雷鳴のような音と共に赤々と光り輝く卵のようなものが落ちて来た。丈助はそれを家を持ち帰り、秘蔵の宝としたという』。そこでは、『では「金玉」ではなく「金霊」の名が用いられているため、金霊を語る際にこの房州での逸話が引き合いに出されることがあるが、妖怪研究家・村上健司はこれを、金霊ではなく』、『金玉の方を語った話だと述べている』また、『同じく妖怪研究家の多田克己は、この空から落ちてきたという物体を、赤々と光っていたとのことから、隕鉄(金属質の隕石)と推測している』。『東京都町田市のある家では、文化・文政時代に落ちてきたといわれる「カネダマ」が平成以降においても祀られているが、これも同様に隕石と考えられている』とある。最後の部分は「兎園小説第七集」の、文政八(一八二五)年乙酉七月一日の「兎園会」での「文寶堂」(薬種商。詳細事蹟不詳)の報告の一つである「金靈(かねだま)幷(ならびに)鰹舟(かつをぶね)の事」(読みは推定)であり、私は既に「柴田宵曲 妖異博物館 異玉」で原文を電子化しているので見られたい。

「子母錢(しぼせん)」ここにある通り、青蚨(せいふ)というセミに似た虫(以下に注する)の母と子の血を、それぞれ、別の銭に塗ると、一方を使った際、残った他方を慕って飛んで帰って来るとある故事(以下に原典を示す)であるが、そこから、世に回り回って流通するところの普通の「銭(ぜに)の異名」となった。また、別に「子銭(利息)と母銭(元金)」の意もあるので注意されたい。さて、故事の元は干宝の「捜神記」の「巻十三」に載る以下である。

   *

南方有蟲、名「𧑒𧍪(とんぐ)」、一名「𧍡蠋(そくしよく)」、又名「靑蚨」。形似蟬而稍大、味辛美、可食。生子必依草葉、大如蠶子、取其子、母卽飛來、不以遠近、雖潛取其子、母必知處。以母血塗錢八十一文、以子血塗錢八十一文、每市物。或先用母錢、或先用子錢、皆復飛歸。輪轉無已。故「淮南子」術以之還錢、名曰、「青蚨。」。

   *

「靑蚨(せいふ)」私は既に「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 青蚨」の注で、迂遠な考証をし、その結果として、これは蟬の類ではなく、所謂、俗に呼んでいる広義の「蜉蝣(かげろう)」類であろうと推定比定した。広義のそれとは、真正の「カゲロウ」類である、

有翅亜綱旧翅下綱 Ephemeropteroidea 上目蜉蝣(カゲロウ)目 Ephemeroptera の仲間

に、その成虫の形状に非常によく似ている、真正でない「蜉蝣」である、

有翅昆虫亜綱内翅上目脈翅(アミメカゲロウ)目脈翅亜(アミメカゲロウ)亜目クサカゲロウ科 Chrysopidae に属するクサカゲロウ類

及び、

脈翅(アミメカゲロウ)目ウスバカゲロウ上科ウスバカゲロウ科 Myrmeleontidae に属するウスバカゲロウ類

を加えたものである(この「カゲロウ」の真正・非真正の問題は私はさんざんいろいろなところで注してきたので、ここでは繰り返さない。未読の方は、最も最近にその決定版として注した、「生物學講話 丘淺次郎 第十九章 個體の死(4) 三 壽 命」の私の冒頭注『「かげろふ」の幼蟲は二年もかかつて水中で生長する』以下をお読み戴きたい)。しかも、この拡大比定は、実は、まさにここで書かれてある草の中に産みつけられる「靑蚨」の卵と「錢神」の親和性が強いように思われる点でも都合がいいように思われるのである。「捜神記」でも「靑蚨」は卵を草の中に産むとあり、「和漢三才図会」の中でも「多く蒲(がま)の葉の上に集まる。春、子を蒲の上に生ず。八つ・八つ、行〔(れつ)〕を爲し、或いは九つ・九つ、行を爲す」(これは実は真正カゲロウでは説明がつかない)の部分が、クサカゲロウの卵である、見るからに目を引くところの不思議な形の「優曇華(うどんげ)の華」で説明をつけることが可能だからである。そうして、どうだろう? 「優曇華の華」の先端の楕円円筒体の卵はそれこそ私は銭っぽく見えないだろうか? そうだ! これは

フレーザーの謂う類感呪術なのではあるまいか?

「かいこのごとくなる子」カゲロウ類のそれは、まあ、蠶のようだと言えば、そうも見えなくはないが……ちとムズい気もする。

『「子母錢成豈患貧」と唐の人の作りし』晩唐の詩人許渾(きょこん 七九一年~八五四年?)

の七律「贈王山人」の一節。後の訓読は私の暴虎馮河の力技で訓じた。

   *

   贈王山人

 貰酒攜琴訪我頻

 始知城市有閑人

 君臣藥在寧憂病

 子母錢成豈患貧

 年長每勞推甲子

 夜寒初共守庚申

 近來聞燒丹處

 玉洞桃花萬樹春

 (  王山人に贈る

  酒を貰(か)り 琴を携へ 我れを訪ふこと 頻りなり

  始めて知る 城郭にも閑人有るを

  君臣の藥 在らば 寧(いか)んぞ病ひを憂へん

  子母の錢 成りて 豈(あ)に貧を患はん

  年(とし)長(た)けて 每(つね)に甲子(かつし)を推(お)すに勞(らう)し

  夜(よ)寒くして 初めて共に庚申(かうしん)を守る

  近來 聞説(きくなら)く 燒丹(しやうたん)の處

  玉洞 桃花 萬樹の春)

   *

なお、この詩は「和漢朗詠集」巻下に、頸聯が「年長けては每に勞(いたは)しく甲子を推す 夜寒うしては初めて共に庚申(かうじん)を守る」と訓じて引かれて(原詩句古点)、菅原道真が「己酉年終冬日少 庚申夜半曉光遲 菅」として「己酉(きいう)年(とし)終(を)へて冬の日少なし 庚申の夜(よ)半ばにして曉(あかつき)の光(ひかり)遲し」(古点)と訓じて、庚申の夜の所懐を詠じている。

「我朝にては誰(たれ)心見(こころみ)しとも聞(きき)侍らず」青蚨の術が目的語。

「女媧氏」古代中国神話の女神。天地を補修し、人類を創造した造物主とされる。「淮南子(えなんじ)」によれば、太古に天を支えていた四本の柱が折れると、大地はずたずたに裂け、至る所に大火災が発生し、洪水が大地を覆い、さらに猛獣や怪鳥が横行して、人々を苦しめたという。そこで女媧は、五色に輝く石を溶かして天の欠けた部分に流し込み、これを補い、大亀の足を切り取って天と地を支え直したので、地上には再び平安が甦ったとする。一方、後漢末の「風俗通義」では、女媧が人間を創造したという物語が見え、それによれば、彼女は初め、黄土を人の形に捏ね上げて、人間を丁寧に一人ずつ、創っていたが、作業に骨が折れ過ぎ、休む暇もないのに業(ごう)を煮やし、遂に繩を泥中に浸してそれを引き上げ、その際に繩から飛び散った泥の滴(しずく)が、総て、人間に成ったとする。こうした創造神としての伝承はやがて変化し、女は三皇の一人となったり、また、男性神でる伏羲(ふっき)と夫婦とも考えられるようになった。しかし、上半身は人間だが、下半身が蛇形に描かれた伏羲と女媧が、互いの尾を絡み合わせて並んでいる姿が石などに残されており、寧ろ、こうした蛇身の姿こそ、本来の女媧に近いものと思われる(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。女媧は錬金的創造を行っており、手に「規(コンパス)」を持つ姿で描かれることから、金を最初に作ったというのも、頷ける気はする。

「聖武皇帝の時に鑄初(ゐはじめ)けるとかや」聖武天皇(大宝元(七〇一)年~天平勝宝八(七五六)年/在位:神亀元(七二四)年~天平勝宝元(七四九)年)。和同開珎(わどうかいちん、わどうかいほう)であるが、日本で最初の流通貨幣と言われる和同開珎(わどうかいちん/わどうかいほう)は和銅元(七〇八)年に鋳造・発行されたもので、これは、聖武の二代前の女帝元明天皇が慶雲五年一月十一日(七〇八年二月七日)に武蔵国秩父(黒谷)より銅(和銅)が献じられたことから、元号を和銅に改元し、和同開珎を鋳造させたというのが正しいウィキの「和同開珎」によれば(下線太字やぶちゃん)、直径二十四ミリメートル『前後の円形で、中央には一辺が約』七ミリメートル『の正方形の穴が開いている円形方孔の形式である。表面には、時計回りに和同開珎と表記されている。裏は無紋である。形式は』、六二一年に『発行された唐の開元通宝を模したもので、書体も同じである。律令政府が定めた通貨単位である』一『文として通用した。当初は』一『文で米』二キログラム『が買えたと言われ、また新成人』一『日分の労働力に相当したとされる』。『現在の埼玉県秩父市黒谷にある和銅遺跡から、和銅(にきあかがね、純度が高く精錬を必要としない自然銅)が産出した事を記念して、「和銅」に改元するとともに、和同開珎が作られたとされる。ただし、銅の産出が祥瑞とされた事例はこの時のみであり、和同開珎発行はその数年前から計画されており、和銅発見は貨幣発行の口実に過ぎなかったとする考え方もある』。『唐に倣』う『目的もあった』。七〇八年五月には『銀銭が発行され』、七『月には銅銭の鋳造が始まり』、八『月に発行されたことが』「続日本紀」に『記されている。銀銭が先行して発行した背景には当時私鋳の無文銀銭が都で用いられていたのに対応して』、『私鋳の無文銀銭を公鋳の和同開珎の銀銭に切り替える措置が必要であったからと言われている。しかし、銀銭は翌年』八『月に廃止された。和同開珎には、厚手で稚拙な「古和同」と、薄手で精密な「新和同」があり、新和同は銅銭しか見つかっていないことから、銀銭廃止後に発行されたと考えられる。古和同は、和同開珎の初期のものとする説と、和同開珎を正式に発行する前の私鋳銭または試作品であるとする説がある。古和同と新和同は成分が異なり、古和同はほぼ純銅である。また両者は書体も異なる。古和同はあまり流通せず、出土数も限られているが、新和同は大量に流通し、出土数も多い』。『当時の日本は』、『まだ』、『米や布を基準とした物々交換の段階であり、和同開珎は、貨幣としては畿内とその周辺を除いて』、『あまり流通しなかったとされる。また、銅鉱一つ発見されただけで元号を改めるほどの国家的事件と捉えられていた当時において』、『大量の銅原料を確保する事は困難であり、流通量もそれほど多くなかったとの見方もある。更に地方財政(国衙財政)が一貫して穎稲を基本として組まれている』『ことから、律令国家は農本思想の観点から通貨の流通を都と畿内に限定して』、『地方に流れた通貨は中央へ回収させる方針であったとする説もある』。『それでも地方では、富と権力を象徴する宝物として使われた。発見地は全国各地に及んでおり、渤海の遺跡など、海外からも和同開珎が発見されている』。『発行はしたものの、通貨というものになじみのない当時の人々の間で』は『なかなか流通しなかったため、政府は流通を促進するため』、『税を貨幣で納めさせたり、地方から税を納めに来た旅人に旅費としてお金を渡すなど』、『様々な手を打ち』、和銅四(七一一)年には『蓄銭叙位令が発布された』。『これは、従六位以下のものが十貫(』一『万枚)以上蓄銭した場合には位を』一『階、二十貫以上の場合には』二『階』、『進めるというものである。しかし、流通促進と蓄銭奨励は矛盾しており、蓄銭叙位令は銭の死蔵を招いたため』、延暦一九(八〇〇)年にはこの法令は廃止されている。『政府が定めた価値が地金の価値に比べて非常に高かったため、発行当初から、民間で勝手に発行された私鋳銭の横行や貨幣価値の下落が起きた。これに対し』、『律令政府は、蓄銭叙位令発布と同時に私鋳銭鋳造を厳罰に定め、首謀者は死罪、従犯者は没官、家族は流罪とした。しかし、私鋳銭は大量に出回り、貨幣価値も下落していった』。天平宝字四(七六〇)年には『万年通宝が発行され、和同開珎』十『枚と万年通宝』一『枚の価値が同じものと定められた。しかし、形も重量もほぼ同じ銭貨を極端に異なる価値として位置づけたため、借金の返済時などの混乱が続いた。神功開宝発行の後』、宝亀一〇(七七九)年に『和同開珎、万年通宝、神功開宝の』三『銭は、同一価を持つものとされ、以後』、『通貨として混用された』。『その後』、延暦一五(七九六)年に四年後をめどに』、『和同開珎、万年通宝、神功開宝の』三『銭の流通を停止する詔が出された』『ものの、実際に停止できたのは』大同二(八〇七)年の『ことであり、それも翌年には取り消された』。また、延暦十五年の『詔では全ての貨幣を隆平永宝に統一する方針が出され、そのための材料として回収された』三『銭が鋳潰された。和同開珎が流通から姿を消したのは』九『世紀半ば』『と推定されている』。『「わどうかいほう」と読む説が主流であるが、「わどうかいちん」と読む説が一部にある』。『「ほう」と読む説は、「珎」は「寳」の異体字であり、「天平勝寳四年」を「天平勝珎四年」と表記している事例のほか』、「東大寺献物帳」には『「寳」の意で「珎」を用いている事例があることや、「寳」は「貨幣」の意であることによる。そもそも和同開珎は』六二一年に初鋳されて三百年以上に『わたり』、『唐および周辺諸国で広く流通した開元通寳を模倣しており、和同開珎の「開珎」は開元通寳を略したものと推察されること、引き続き鋳造された萬年通寳をはじめ、皇朝十二銭、その後流通した宋銭、元銭、明銭および江戸時代の銅銭の全てが「寳」であることなどを根拠にしている』。『「ちん」と読む説は、「珎」は「珍」の異体字であり』、『「国家珍寳」を「国家珎寳」と表記していると考えられる事例があること、などを根拠にしている』。また、『上下右左に「和開同珎」という読み順の可能性を指摘する説もある』。他にも、『「和同」とは官民が互いに納得して取引が出来るように願いを込めた名称であるとする説もある』。『和同開珎以前に存在した貨幣として、無文銀銭と富本銭が知られて』おり、一九九九年には、『奈良県明日香村から大量の富本銭が発見され、最古の貨幣は和同開珎という定説が覆る、教科書が書き換えられるなどと大きく報道された。しかし、これらは広い範囲には流通しなかったと考えられ、また、通貨として流通したかということ自体に疑問も投げかけられている。現在のところ、和同開珎は、確実に広範囲に貨幣として流通した日本最古の貨幣であるとされている』とある。

「文(もん)」以下の列挙からこれは一文銭ではなく、広義の貨幣の意。

「開基」天平宝字四(七六〇)年に初めて試鋳された日本最初の金貨である開基勝宝のことウィキの「開基勝宝」によれば(下線太字やぶちゃん)、『太政大臣である恵美押勝(藤原仲麻呂)』(慶雲三(七〇六)年~天平宝字八(七六四)年)『の命により鋳造されたが、鋳造数は極少数であり、質量のばらつきが大きな貴金属貨幣であることから』、『計数貨幣としては不適格であり、流通目的ではなく』、『萬年通寳』百『枚で金貨一枚と価格設定することにより、銅銭の価値を高める狙いがあったとする説がある』。『円形に方孔が開き、文字「開基勝寳」は吉備真備の筆と伝わる』が、現存するものは三十二枚しかない、とある。

「太平」前の開基通宝と同時に発行された銀銭太平元宝。ウィキの「太平元宝」によれば、発光に際して『出された詔には』、『同時に発行された貨幣との交換比率が示され、大平元宝』十『枚で開基勝宝(金銭)』一『枚分』、『また、大平元宝』一『枚は万年通宝(銅貨)』十『枚分に当てると定められた。これらの貨幣の発行権は前年に太政大臣に任ぜられた藤原仲麻呂(恵美押勝)に専制的に与えられた』。しかし、『大平元宝が発掘調査で見つかった事例は報告されておらず、大正時代には某家』から、昭和三(一九二八)年に『唐招提寺で宝蔵から発見され伝わる』二『品が現存していた』(三『品が伝存するとする説もある』)。『現在はその』二『品の拓本が伝わるのみで、現品は行方不明となっている。しかし』、『拓本によれば』、何れも、「続日本紀」に『記された「大平元寳」ではなく「太平元寳」と表記されており、贋物説さえ囁かれていた』。『一方で』、『「大平」は「太平」と同じく天下太平を表す吉語であり、淳仁天皇の治世が太平であることを願ったものともされる』。『現存が僅少である、また確認されていないということは』、『当時一般流通がなかったものと推定され、新規発行の万年通宝』一『枚を従来の和同開珎』十『枚分と』、『高額に設定するために、銀貨の』十分の一『に相当する価値の高いものであることを示す目的の見せ金であったとする説もある』。また、『和同開珎』百『枚分の価値に相当することから』、『私鋳銭が現れることは必至であり、このことによる貨幣経済の混乱を避けるため、大平元宝を流通に投じることはなかったとする説もある』。『現存していない理由として、奈良国立博物館列品室長の吉澤悟は、淳仁天皇や藤原仲麻呂の事績を打ち消したい称徳天皇が回収させて銀壺(現在は正倉院宝物)に鋳直させ、東大寺に奉納したとの説を』二〇一七年に『唱えた』とある。なお、「太平通寶」というのが存在するが、これは太平興国元(九七六)年、北宋の第二代皇帝太宗の時代に鋳造された銅銭で、銭貨が不足していた日本に輸出され、渡来銭としても利用されたもので、和銭ではない

「萬年勝寶」天平宝字四(七六〇)年に鋳造・発行された銭貨。ウィキの「万年通宝」によれば(下線太字やぶちゃん)、直径二十四~二十五ミリメートル『前後の円形で、中央には正方形の孔が開いている。銭文(貨幣に記された文字)は、時計回りに回読で萬年通寳と表記されている。裏は無紋である。量目(重量)』三グラムから四グラム『程度の青銅鋳造貨』。先に引用した通り、和銅元(七〇八)年以来、五十年以上、『通用していた和同開珎に替わる通貨として発行されたが、万年通宝』一『枚に対し』、『和同開珎』十『枚の交換比率が設定されたため、貨幣流通が混乱した。不評のためか』、『わずか』五『年で鋳造は中止された。また、万年通宝発行が藤原仲麻呂(恵美押勝)が推進した政策であり、恵美押勝の乱で仲麻呂が反逆者として殺されたことも中止の原因であったと考えられている』。この時、『同時に金銭開基勝宝、銀銭太平元宝も同時に発行された。その交換比率は金銭』一枚に対して、銀銭十枚、銀銭一枚に対し、万年通宝十枚で『あったが、これらの発行は流通させることを目的としていなかったといわれる。銀銭に至っては現存しない』とある。

「元寶通寶」これもおかしい。唐代以降の中国の通貨の用例に「元宝」・「通宝」の両方の例があり、本邦の発行通貨にはない。これは前に示した「太平元宝」と「万年通宝」を混同した誤りではあるまいか。私は貨幣には疎いので誤りがあるかも知れない。

「開元」開元通宝。唐代において六二一年に初鋳され、唐代のみならず、五代十国時代まで約三百年に亙って流通した貨幣。但し、これが創られたのは武徳四年(唐の高祖李淵の治世に行われた年号で唐朝最初の年号)で、開元は後の玄宗の治世の前半で七一三年から七四一年であるウィキの「開元通宝」によれば、唐代の開元二六(七三八)年に『出版された』「唐六典」には、「武德中、悉く五銖(しゆ)を除き、再(あら)ためて開通元寳を鑄る」と『記述しており』、『一方で』、『詔勅文としては』「旧唐書」の中に「仍令天下置鑪之処並鑄開元通寳錢」と『記述している。唐代には「開元」という元号が存在するが、これは約』百『年後のことであり、これ以降に開元通寳と呼ばれるようになったという説も捨てきれない』とある。

「淸和」不詳。中国の元号には「淸和」はない。或いは、北宋の第八代皇帝徽宗(きそう)が大観五年に政和と改元して政和元(一一一一)年に銭文を「政和通寶」として銭を鋳造している(「政和重寶」銭も発行している)から、それを誤ったものか。

「此銅錢どの」人が惹きつけられることに洒落て、人称の尊敬語を附したものか。

「心よし」「心由」も考えたが、前の擬人化を考えると、「心良し」で「気立てがよいこと」の意であろうか。

「錢の數(かず)を九十六文にせし事、いづれの時より定(さだまれ)りとも覺束なし」個人サイト「雑木林」の「96文=100文」には、江戸時代、一文銭九十六枚は百文として使えたとあり、『この数え方を「九六銭」、「省銭」、「省百」などと呼』び、その起源は、六『世紀頃の中国にさかのぼる』らしい。中国では「百文」相当を七十枚・八十枚・九十枚など、『いろいろな数え方があったのに対して、江戸時代の日本ではだいたいが』九十六『枚で共通してい』るとある。『なぜこのような数え方になったのかについての定説は』ないとされつつも、百『文分を数えて、藁の紐に通す手間賃として』、四『文を差し引いた』とする説、『金貨の単位は』一両=四分=十六朱という四進法であったが、十六で『割り切れる』九十六『の方が何かと便利』であったからという説、百『文で仕入れて』、十『文ずつ』十『人に売ると、それだけで』四『文の儲けになる』からという説を掲げておられる。

「省陌」短陌とも呼んだ。ウィキの「短陌」によれば、『近代以前の東アジア地域で行われてきた商慣習で』、百『枚以下の一定枚数によって構成された銅銭の束(陌)を銅銭』百枚(=〇・一貫)と『同一の価値として扱う事。中国で発生した慣習とされ、日本で行われていた九六銭(くろくせん)と呼ばれる慣習もその』一『つである』。『短陌の慣例の由来については不明な点もあるが、少なくとも前漢の時代には存在しなかった。これは紀元前』一七五『年に書かれた賈誼の上奏文によれば、当時四銖半両(四銖銭の半両銭)』百『銭の重さが』一斤十六銖(=四百銖)が『基準とされ、それより軽い場合には』、『それに何枚か足して』一斤十六銖分『にしてそれを』百『銭分としたこと、反対に』、『それよりも重い場合には』百『枚に満たないことを理由に通用しなかったことが書かれていることによる』(「漢書」『食貨志)。これは裏を返せば、銭』百『枚分の重量があっても、実際の枚数がともなわなければ通用しなかったことを示しており、銭』百『枚以下を』百『枚として通用させる短陌の慣例は』、『まだ存在しなかったことを示している』。『東晋の葛洪によって書かれた』「抱朴子」(三一七年完成)には、『「人の長銭を取り、人に短陌を還す」の言葉があり(内篇』六『微旨)、この時期に既に短陌の慣行があったことが知られる。梁の時代に経済的混乱から』、『短陌が問題視されたことが知られている。この当時、国の東側では銭』八十『枚を』一『陌として「東銭」と称し、西側では銭』七十『枚を』一『陌として「西銭」と称し、首都の建康でも銭』九十『枚を』一『陌として「長銭」と称した。このため、大同元』(五四六)年『には、短陌を禁じる詔が出されたが』、『効果はなく、梁朝末期には銭』三十五『枚を』一『陌とするようになったという』(「隋書」『食貨志)。この習慣は梁と対立関係にあった北周にも伝わり、甄鸞』(けんらん)『が著した数学書』「五曹算経」には『短陌に関する問題が登場している』。『唐代以後、中国王朝が発行する銅銭は高い信用価値をもって通用されて』、『日本をはじめとする周辺諸国においても』、『自国通貨に代わって用いられるようになった』。『だが』、『中国の銅の生産能力は決して高いとは言えない上に、経済の急速な発展から』、『銅銭の需要が銅銭発行量を上回るペースで高まったために、結果的には市中に流通する銅銭が慢性的に不足すると言う銭荒現象が生じるようになった』。『そのため、銅銭の実際の価値が公定の価格以上に上昇して経済的に大きな影響を与えるようになった。そのため、唐代末期以後に銅銭の穴に紐をとおして纏めた束(陌)一差しに一定枚数があれば』、『それをもって』、百『枚と見なすという短陌の慣習が形成されるようになった。これは、実質上の通貨の切り上げになると同時に』、『銅銭を多く取り扱う大商人に有利な制度として定着した。これに対して、短陌を用いずに銅銭』百『枚をもって支払うことを』、『中国では「足銭」、日本では「長銭(丁銭・調銭)」・「調陌」と呼ぶ』。『短陌そのものの規制もしくは公定のレートを定める動きは唐の時代から存在したが、五代十国の一つである後漢の宰相であった王章は、乾祐年間に』七十七『枚をもって銅銭』百『枚として見なす事を公的に定めた』『きまりが定着し、宋以後の王朝でも採用された。「省陌」の異名は特に公定のレートもしくは』、『それに基づく陌に対して用いられることが多い。なお、王章の時には民間より政府への納入は』八十『枚をもって』百『枚としてみなしており、納税時の短陌を政府に有利にする方法が用いられていたが、北宋の太平興国』二(九七七)年に『至って』、『この仕組みが廃止されて』七十七『枚に統一された』。『だが、公式なレートによって短陌のレートを統一することは出来ず、民間では更に少ない枚数での短陌が行われ、政府にとっては民間よりも高い陌の価値を利用した物資調達における有利さを得たに過ぎなかった。民間では』、『更に少ない枚数での短陌レートが設けられていた。孟元老の』「東京夢華録」巻三の『「都市銭陌」においては、官用』七十七『・街市使用』七十五『・魚肉菜』七十二『・金銀』七十四『など、官が使うレートと民間のレートが異なり、更に業種によっては』、『それらとも異なる業界独自のレートが存在したことが記されている』。『短陌が社会に定着すると、陌及び陌』十『束分で構成される「貫」と文(銅銭』一『枚)は同じ貨幣を用いながら、別の体系を有する貨幣単位として機能するようになり、陌を構成する実際の枚数が多少異なっていても公定のレートである省陌から大きく離れたものでなければ、同一単位の陌(』百『枚相当)として認められる慣例も生じた』。『短陌は銅銭不足であった当時の経済状況に合わせた慣習であり、銅銭の輸送の不便さを軽減する上では歓迎された。だが、銅銭を多く保有して多額の取引を行う大商人には』、『実質上の資産価値の増大に繋がる一方、短陌を外してしまうと』、『銅銭本来の公定価値に戻ってしまう(宋代の公定価値を元にすると、短陌を外した銅銭を全て合わせても』七十七『枚分の価値しか有しないために』、二十三『枚分の損となる)ために、日常生活において小額の取引がほとんどである庶民にとっては大変不利な制度でもあった。更に明・清においては』、『悪質な銭を用いた取引に対する良質な銭の使用レートを指す例も現れた』。『なお、近年においては、調銭(』百『枚単位)が本来の通貨流通のあり方であることを前提とした通説を批判して、日常生活や取引の場面において銀や商品の相場との関係などを理由として』、百『枚以下の枚数(』九十六『枚や』七十七『枚など)で束を作った方が使い勝手が良かった場合もあり』、百『枚以下の銭束は』、『その枚数分が必要であった(銭』八十『枚分が相場であった商品を買うために』八十『枚の銭束を作ることが広く行われていた)ケースも含まれている可能性もあるとして、短陌はそれ程広くは行われてはいなかったのではないかとする説も出されている』。以下、「日本」の項(下線太字やぶちゃん)。『日本においては、鎌倉時代後期から室町時代にかけて銅銭』九十七『枚をもって』百『枚とみなす商慣習があったと言われている。その頃には差額の』三『枚分は目銭(めぜに)と称し、長銭(』百『枚)揃っているものを加目銭(かもくせん)・目足(めたり)、省陌(』九十七『枚)のものを目引(めびき)と称した。江戸時代に銅銭』九十六枚(=九十六文)の束をもって銭百文と『見なした慣習も短陌の一つと見なされるが、その慣習は戦国時代初期の』永正二(一五〇五)年の『室町幕府による撰銭令の中において、(銅銭』九十六『枚を』百『文とすることを前提として)』百文の三分の一を三十二文として『換算する規定が見られ』るとある。また、『江戸時代初期の数学書である』「塵劫記」第十四「銭売買の事」にも、九十六枚を百文として『計算する問題が提示されている。こうした慣行を九六銭または省銭とも呼び、これに対して』、銅銭百『枚を』百『文とするものを調銭(長銭・丁銭)と称した』九十七『銭が』九十六『銭になった理由については、江戸時代の』「地方落穂集」が『示した計算上の便宜を図る(』九十六『枚であれば』、三・四・六・八などで『割り切れる)とする説が有力である。また、これとは別に独自の短陌を設けている地方があり、周防・長門・土佐では』八十『枚、伊予では』七十五『枚をもって』百『文とみなす慣習があった。明治維新後の』明治五(一八七二)年、『大蔵省は貨幣の計数貨幣化を推し進めるため、九六銭などの短陌・省陌の慣習を禁止した』とある。

『明の楊升庵(やうしようあん)が「丹鉛總錄」』明代の文人学者楊慎(一四八八年~一五五九年)。升庵は号。一五一一年に進士に及第して翰林修撰となったが、後に世宗嘉靖帝が即位した際、その亡父の処遇について、帝に反対したために怒りを買い、平民として雲南永昌衛に流され、約三十五年間、配所で過して没した。若き日より、神童と称えられ、詩文をよくし、博学であった。雲南にあって奔放な生活を送りながら、多くの著述を残し、その研究は詩曲・小説を含め、多方面に亙るが、特に雲南に関する見聞・研究は貴重な資料とされる(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。「丹鉛總錄」は一五五四年の序がある彼の代表作の一つで、諸対象を考証した一種の博物学書と思われる。]

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