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2018/10/13

古今百物語評判卷之三 第二 道陸神の發明の事

 

  第二 道陸神(だうろくじん)の發明の事

先生の云へらく、「世人(よのひと)の、いはゆる『道陸神』と申すは、『道祖神』とも、又は『祖道』とも云(いへ)り。旅路のつゝがなからん事を祈る神なり。「左傳」に祖(そ)すと云るも、此神を祭り侍る。和歌には『ちふりの神』など、よめり。「袖中抄(しうちゆうせう)」に云(いふ)『みちぶりの神』と云る心なり。貫之が歌に、『わたつみのちぶりの神にたむけするぬさのおひかぜやまずもふかなん』と讀めり。隱岐の國『知夫利(ちぶり)の崎(さき)』といふ所に、『わたつみの宮』といふ神おはしますと云り。「古今」の序に『逢坂山(あふさかやま)に手向(たむけ)を祈る』と侍るも此事なり。もろこしには、黃帝の子累祖(るいそ)と云へる人、遠遊(ゑんいう)を好みて、道に死(しに)給ひしを、後の世に、まつりて、行路神(かうろじん)とせり。かく云(いへ)ばとて、あながち、黃帝の子を、我朝にも祭るとにはあらざるべけれど、和漢ともに、其わざの通ずるなるべし。然るを、今の世に、田舍も京も女童部(をんなわらんべ)の云ひならはし侍るは、道路に捨てたる石佛(いしぼとけ)、さまざまの妖怪をなし、人を欺(あざむ)き、世を驚(おどろか)すと云り。つらつら、案ずるに、中昔(なかむかし)のころ、なき人のしるしの石をたつとては、必(かならず)、佛體をきざみて、其下に亡者の法名をしるせり。今の、石塔每に名號をゑりつくるがごとし。その法名などは星霜ふるに隨(したがひ)て、石とても消えうせ侍るに、佛體計(ばかり)は、鼻、かけ、唇、かけながら、のこりけるを、聞傳(ききつた)ふるばかりの末々(すゑずゑ)も、はかなくなりうせて、道に捨(すて)られ、岐(ちまた)にはふらかされて、何れの人のしるしとも、覺束なし。たゞ石佛(いしぼとけ)とのみ、みな人、おもへり。思ふに、佛は拔苦與樂(ばつくよらく)の本願、六波羅密(ろくはらみつ)の行體(げうたい[やぶちゃん注:原典のルビ。])なり。菩薩常不經(ぼさつじやうふきやう)の法身(ほうしん)を具し給へば、まして、佛體におゐて[やぶちゃん注:ママ。]、人に捨てられ、世に用られずとて、かゝる災(わざはひ)をなし給ふべきや。其妖をなせる物は、石佛(いしぼとけ)には、あらず。其とぶらはるべき子孫も、なき亡者の亡念によりて、天地の間に流轉せる亡魂、時に乘じ、氣につれて、或は瘧(おこり)の鬼(おに)となり、又は疫(えやみ)の神(かみ)ともなりて、人をなやまし侍るなるべし。それゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、世に瘧-疾(おこり)疫癘(えきれい)はやり侍る時は、道端に捨(すて)られたる石塔を、繩もてしばり、或は牛馬の枯骨(かれぼね)を門のにかけて、其惡鬼をおどし侍るまじなひあり」。或人の云(いは)く、「その、佛をしばりて病(やまひ)のいゆる事、如何」。云く、「是れ、佛をしばるにあらず、其石塔に屬する所の亡魂をいましめこらすなり」。云く、「しからば、卽(すなはち)、其石塔にきざまれたる亡魂、其病者(やむひと)を知りて、なやませるにや」。云く、「さにあらず。天地(てんち)の間(あひだ)、多く、善惡の二氣なり。それゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、爰(こゝ)の惡鬼をしりぞくれば、彼(かしこ)の惡鬼も退(しりぞ)くなり。是、一佛を供養すれば、三世諸佛の本懷にかなふと云る心なり」。又、云(いはく)、「瘧(おこり)は、もと、脾胃の虛より生ずる所なり。其故に諸病と、かはり、おこれるにも、其時、必(かならず)、定(さだま)り侍るは、脾胃は五行の配當に『土(つち)』にして、五常の『信』にあたり侍れば、其おこれる時節のたがはぬも『信』なり。勿論、其病(やまひ)をうくる所は脾胃なり。病は件(くだん)の、惡氣の世上(せじやう)の邪氣にくみして、人をなやまし侍るなり。さればにや、諸病とかはり、此二病(ふたつのやまひ)は醫書にも、まじなひ侍るなり。又、云く、「しばれるほどなる石佛(いしぼとけ)ならば、いえて後(のち)も、其繩をゆるし、また、香花をそなへ、供養する事、如何」。云く、「われに災(わざはひ)をなせば、邪氣なり。そも又、退(しりぞけ)る時は、邪氣にあらず。兼ては又、我が願ふ所に應ずる物、などかは、手向のなかるべき。其上、佛體に寓(ぐう)する邪氣なれば、にくみはつべき、いはれなし」。又、云(いはく)、「既(すでに)其理(ことわり)は聞(きき)き。其理を知りたる人の、まじなひて、いゆるは、勿論なり。其理をしらざる人も、まじなへば、いゆる事、如何」。云く、「萬(よろづ)のまじなひ事、其理を知りたる人のみ、せるにあらず、たゞ其傳(つた)へと信仰とによりて、其しるしは侍るなり。その功は作者にあり、其德は無窮にのこれる物なるべし」。

[やぶちゃん注:まず、小学館「日本大百科全書」の「道祖神」より引く。「道祖神」「塞(さえ)の神」・「塞の大神(さえのおおかみ)」・「賽(さい)の神」・「衢(ちまた)の神」」・「岐(くなど)の神」・「道(みち)の神」・「道六神(どうろくじん)」(道に通ずる「陸」(くが・おか)が原型であろう。別に「陸」には「六」の意味があり、その方が庶民の認識が容易である)「祖道」(これには同様の予祝の意味を含んだ「旅の餞(はなむけ)の宴」の意が中国での原義)などと呼ばれたりし、猿田彦命や伊弉諾・伊弉冉尊などにも付会されて伝承されていることもある。『境の神、道の神とされているが、防塞(ぼうさい)、除災、縁結び、夫婦和合などの神ともされている。一集落あるいは一地域において』、道祖神・塞の神・道陸神などを『別々の神として祀』『っている所もあり、地域性が濃い。、村境、分かれ道、辻(つじ)などに祀られているが、神社に祀られていることもある』(下線太字やぶちゃん。以下同じ。後の「古今和歌集仮名序」の「逢坂山」は峠に当たる。但し、明治以後の合祀により強制移動で庚申塔などと一緒に集積されただけのものも多いので注意が必要)。『神体は石であることが多く、自然石や丸石、陰陽石などのほか、神名や神像を刻んだものもある。中部地方を中心にして男女二体の神像を刻んだものがあり、これは、山梨県を中心にした丸石、伊豆地方の単体丸彫りの像とともに、道祖神碑の代表的なものである。また、藁(わら)でつくった巨大な人形や、木でつくった人形を神体とする所もある。これらは』、『地域や集落の境に置いて、外からやってくる疫病、悪霊など災いをなすものを遮ろうとするものである。古典などにもしばしば登場し、平安時代に京都の辻に祀られたのは男女二体の木の人形であった。神像を祀っていなくても、旅人や通行人はや村境などでは幣(ぬさ)を手向けたり、柴(しば)を折って供えたりする風習も古くからあった。境は地理的なものだけではなく、この世とあの世の境界とも考えられ、地蔵信仰とも結び付いている』。『道祖神の祭りは、集落や小地域ごとに日待ち』(旧暦一・五・九月の十五日又は農事の暇な日に、組織された特定集団である「講」の構成員が「頭屋(とうや)」(当屋とも書く。祭礼や講で行事を主宰する人やその家)に集まり、斎戒して神を祀り、徹宵して日の出を待つ行事。「待ち」とは、本来、神の傍に伺候して夜明しすることを意味し、類似した月の出を待つ「月待」や十干十二支の特定の日に物忌する「庚申講」・「甲子(きのえね)講」などを総称して「待ちごと」と称する)『や講などで行われることもあるが、小(こ)正月の火祭りと習合し、子供組によって祭られることが多い。また、信越地方では』、『家ごとに木で小さな人形を一対つくり、神棚に祀ったあと』、『道祖神碑の前に送ったり、火祭りに』して『燃したりする所もある。このほか』、二月八日或いは十二月十五日に『藁馬を曳(ひ)いてお参りに行く所もある。これらの祭りには、厄神の去来とその防御、道祖神の去来など、祭りの由来についての説話が伝えられていることがある。また』、『中部地方や九州地方などで、祭祀』『の起源を近親相姦』『と結び付けて語る所もある』。

 次にウィキの「道祖神」を、なるべくダブらぬように部分的に引く(リンク先には多彩な道祖神現存像の写真有り)。『道祖神は、厄災の侵入防止や子孫繁栄等を祈願するために村の守り神として主に道の辻に祀られている民間信仰の石仏であると考えられており、自然石・五輪塔もしくは石碑・石像等の形状である。中国では紀元前から祀られていた道の神「道祖」と、日本古来の邪悪をさえぎる「みちの神」が融合したものといわれる』。『全国的に広い分布をしているが、出雲神話の故郷である島根県には少ない。甲信越地方や関東地方に多く、中世まで遡り』、『本小松石の産業が盛んな神奈川県真鶴町や、とりわけ道祖神が多いとされる安曇野市では、文字碑と双体像に大別され、庚申塔・二十三夜塔とともに祀られている場合が多い』。『各地で様々な呼び名が存在』し、上記以外にも、「障(さい/さえ)の神」「幸の神(さい/さえのかみ)」「手向(たむ)けの神」などがあり、『秋田県湯沢市付近では仁王さん(におうさん)の名で呼ばれる』。『道祖神の起源は不明であるが』、「平安遺文」に収録されている八世紀半ばの『文書には』、『地名・姓としての「道祖」が見られ』、「続日本紀」(菅野真道らが平安初期の延暦一六(七九七)年に完成させた)の文武天皇天平勝宝八(七五六)年の条には』、『人名としての「道祖王」が見られる』。『神名としての初見史料は』、平安中期の承平年間(九三一年~九三八年)に源順(みなもとのしたごう)によって編纂された辞書「和名類聚抄」で、『「道祖」という言葉が出て』『おり、そこでは「さへのかみ(塞の神)」という音があてられ、外部からの侵入者を防ぐ神であると考えられている』。また、長久年間(一〇四〇年~一〇四四年)に比叡山横川中堂首楞厳院(しゅりょうごんいん)の鎮源の著した「大日本国法華験記」には、『「紀伊国美奈倍道祖神」(訓は不詳)の説話が記されていおり』、平安末に成立した「今昔物語集」にも、『同じ内容の説話が記され、「サイノカミ」と読ませている』。十三世紀前半に成った「宇治拾遺物語」に至って、「道祖神」が「だうそじん」と訓じられている。『後に松尾芭蕉の』「奥の細道」の『序文で書かれることで有名になる。しかし、芭蕉自身は道祖神のルーツには、何ら興味を示してはいない』(「道岨神のまねきにあひて取もの手につかず」(芭蕉真筆本)。私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅0 草の戸も住替る代ぞひなの家 芭蕉』より)。『道祖神が数多く作られるようになったのは』十八『世紀から』十九『世紀で、新田開発や水路整備が活発に行われていた時期である』。『神奈川県真鶴町では特産の本小松石を江戸に運ぶために』、『村の男性たちが海にくり出しており、皆が』海路の安全の『祈りをこめて道祖神が作られている』。『初期は百太夫』(ももだゆう/ひゃくだゆう:傀儡師や遊女が信仰する神で、特に西日本各地の神社の末社として祀られる。一般に男神とされ、多数の木像を刻んで祀る。広く道祖神や疱瘡除けの神としても信仰された)『信仰や陰陽石信仰となり、民間信仰の神である岐の神と習合した』。また、『岐の神と同神とされる猿田彦神と習合したり』、『猿田彦神および彼の妻といわれる天宇受売命と男女一対の形で習合したりもし、神仏混合で、地蔵信仰とも習合したりしている。集落から村外へ出ていく人の安全を願ったり、悪疫の進入を防ぎ、村人を守る神として信仰されてきたが、五穀豊穣のほか、夫婦和合・子孫繁栄・縁結びなど「性の神」としても信仰を集めた』。『また、ときに風邪の神、足の神などとして子供を守る役割をしてきたことから、道祖神のお祭りは、どの地域でも子供が中心となってきた』。『道祖神はまた、集落と神域(常世や黄泉の国)を分かち、過って迷い込まない、禍を招き入れないための結界とされている』。『道祖神は様々な役割を持った神であり、決まった形はない。材質は石で作られたものが多いが、石で作られたものであっても自然石や加工されたもの、玉石など形状は様々である』。『像の種類も、男神と女神の祝事像や、握手・抱擁・接吻などが描写された像などの双体像、酒気の像、男根石、文字碑など個性的でバラエティに富む』。『双体道祖神は一組の人像を並列させた道祖神』『の呼称』。『双体道祖神は中部・関東地方の長野県・山梨県・群馬県・静岡県・神奈川県に多く分布し、東北地方においても見られる』。『山間部において濃密に分布する一方で』、『平野・海浜地域では希薄になり、地域的な流行も存在することが指摘される』。『伊藤堅吉は』昭和三六(一九六一)年の時点で全国に約三千基を報告しており』、『紀年銘が確認される中で最古の像は』、『江戸時代初期のものとしている』。『道祖神は日本各地に残されており、なかでも長野県や群馬県で多く見られ、特に長野県の安曇野は道祖神が多い土地でよく知られている』。『長野県安曇野市には約』四百『体の石像道祖神があり、市町村単位での数が日本一である。同じく長野県松本市でも旧農村部に約』三百七十『体の石像道祖神があるが、対して』、『旧城下は木像道祖神が中心であった。ほか、長野県辰野町沢底地区には日本最古のものとされる道祖神がある(異説あり)。奈良県明日香村にある飛鳥の石造物(石人像)は飛鳥時代の石造物であるが、道祖神とも呼ばれており、国の重要文化財となっている』(t-katsuhiko氏のサイト「飛鳥の石造物」のこちらのアルバムで飛鳥資料館蔵の現物が見られる)。『道祖神を祭神としている神社としては、愛知県名古屋市にある洲崎神社が挙げられる。小正月の道祖神祭礼には、かつて甲斐国(現在の山梨県に相当)で行われていた甲府道祖神祭礼や、現在も行われている神奈川県真鶴町(道祖神 (真鶴町))、長野県野沢温泉村の道祖神祭り(国の重要無形民俗文化財に指定されている日本三大火祭りのひとつ)などがある』とある。

『「左傳」に祖(そ)すと云る』「春秋左氏伝」の昭公七(紀元前五三五)年の、「三月、公如楚」(公、楚に如く)の注部。

   *

公將往。夢襄公祖。祖、祭道神。梓愼曰、君不果行。襄公之適楚也、夢周公祖而行。今襄公實祖。君其不行。子服惠伯曰、行。先君未嘗適楚。故周公祖以道之。襄公適楚矣。而祖以道君。不行何之。【杜注。祖、祭道神。】。

(公、將に往かんとす。夢みらく、『[やぶちゃん注:先王の。]襄公、祖(そ)す』と。祖は、道神を祭るなり。梓愼(ししん)曰く、「君、行くことを果たさじ。襄公の楚に適(ゆ)きしや、『周公、祖す』と夢みて、行きぬ。今、襄公、實(じつ)に祖す。君、其れ、行かざらん。」と。子服惠伯、曰く、「行かん。先君は未だ嘗つて楚に適かず。故に、周公、祖して以つて之れを道(みちび)きぬ。襄公は楚に適けり。而れば、祖して以つて君を道く。行かずして何に之(ゆ)かん。」と。【杜注:「祖」は「道神を祭る」なり。】)

「杜」は三国末期から西晋の政治家・将軍で学者であった杜預(とよ/どよ 二二二年~二八四年)。「春秋左氏伝」は杜家の家学で、これは彼自らが施したもの。

「ちふりの神」「道觸の神」。「ちぶりのかみ」とも。陸路・海路の旅の安全を守る神。知られた和歌での古い用例は後に出る「土佐日記」のものであるようだ。後の「みちぶりの神」も同じい。因みに、「日本国語大辞典」で「みちぶり」を引くと、「みちゆきぶり」(道行触・道行振)の略とし、赤染衛門集から、

 みちふりのたより計(ばかり)はまともせんとけては見えじ雪の下草

の歌を示すので、「みちゆきぶり」を引くと、『①道で行き会うこと。道中でのすれちがい』として、「万葉集」の巻第十一に載る一首(二六〇五番)、

 玉桙(たまほこ)の道行きぶりに思はぬに妹を相見て戀ふる頃かも

を例示する(この一首は、男女が道で行き逢ってすれ違っただけで思はぬ片思いの恋に落ちてしまうことを指している)。これは物理的な交差ではなく、魂の接触(或いは「魂振(たまふ)り」的運動)を意味し、異界である異国や旅路の逢魔が時のそれに於いては、すれ違うものは人とは限らず、神霊や魑魅魍魎であることを考えれば、既にしてこの「みちゆきぶり」の語には民俗的な神概念が起原に存在すると考えてよいように私には思われる。

「袖中抄」(しゅうちゅうしょう)は歌学書。全二十巻。顕昭(大治五(一一三〇)年頃~承元三 (一二〇九)年頃:平安末から鎌倉初期の歌人で歌学者。藤原顕輔の養子。義兄清輔とともに六条家歌学を大成した)著で、文治年間(一一八五年~一一九〇年)頃の成立。「万葉集」から「堀河百首」辺りまでの歌集・歌合(うたあわせ)から約三百の難解な歌語を抄出して解釈したもの。同書の「十九」に、

 行く今日も歸らん時も玉鉾(たまぼこ)のちぶりの神を祈れとぞ思ふ

と出る、と「日本国語大辞典」の「ちぶりのかみ【道触神】」の用例に出る。新潮日本古典集成の「土佐日記 貫之集」(木村正中校注)の注に、「袖中抄」に、

   *

「ちふりの神」とは、「みちふりの神」といふにや、海路のもよめり。

   *

とあると記す。

「貫之が歌」「わたつみのちぶりの神にたむけするぬさのおひかぜやまずもふかなん」「土佐日記」の以下(事実に即せば、承平四(九三四)年の二月二十六日となる)。

   *

廿六日。まことにやあらむ、「海賊追ふ」といへば、夜(よ)なかばかりより、船をいだして漕ぎくる途(みち)に、手向けする所あり。楫取りして、幣(ぬさ)たいまつらする[やぶちゃん注:「奉らする」のイ音便。これはくだけた口調で、軽い気持ちで水主(かこ)に奉幣させたことを指す。]に、幣の東(ひむがし)へちれば、楫取りの申し奉ることは[やぶちゃん注:主人公の気持ちとは正反対の水主の厳粛な気持ちを表わす。]、

「この幣の散るかたに、御船(みふね)速かに漕がしめ給へ。」

と申して奉る。

 これを聞きて、ある女(め)の童(わらは)のよめる、

  わたつみのちふりの神に手向けする

    幣の追風(おひかぜ)やまず吹かなむ

とぞ詠める。

 この間(あひだ)に、風のよければ、楫取り、いたく誇りて、船に帆上げなど、喜ぶ。その音を聞きて、童も媼(おうな)も『いつしか』[やぶちゃん注:早く早く。]とし思へばにやあらむ、いたく喜ぶ。

 このなかに、『淡路の專女(たうめ)』[やぶちゃん注:淡路の老女の意。]といふ人のよめる歌、

  追風の吹きぬる時はゆく船の

    帆手(ほて)うちてこそうれしかりけれ

とぞ。

 天氣(ていけ)のことにつけて、祈る。

   *

「隱岐の國『知夫利(ちぶり)の崎(さき)』「わたつみの宮」島根県隠岐郡知夫村(ちぶむら)島津島にある渡津神社。ここ(グーグル・マップ・データ)。個人ブログ「Islander's diary~離島ライフ~」の「知夫里島ジオツアー 後書き」に、「土佐日記」の前掲歌を示された上で、先の「袖中抄」に、

   *

岐の國にて知夫利崎といふに、「わたすの宮」といふ神おはすなり。舟いだすとて其神に奉幣してわたすを祈るとぞ

   *

という歌があるとされ、

   《引用開始》[やぶちゃん注:改行部を繋げさせて貰った。]

『ちぶりの神』とは漢字で書くと『道触神』。全国で広く信仰されている、旅の安全を守る道祖神です。知夫里島は隠岐諸島の中で一番本土に近い島。本土から来た船にとっては、隠岐の国の玄関口であり、反対に、隠岐からは本土への出発点であったところ。ここ渡津海岸に航海の無事を祈って『道触神』が祀られるのも当然です。そしてその神様の名がそのまま知夫里島の名前になったとしてもなんの不思議もありません。新潟にも『道触神』が由来ではないかと考えられている地名があるそうです。神島という名前の島もあるし、なんだか神様に囲まれてるというか、神様だらけ(言葉が悪いけど)の場所に住んでる気分になります[やぶちゃん注:以下略。]

   《引用終了》

『「古今」の序に『逢坂山に手向(たむけ)を祈る』と侍る』「古今和歌集仮名序」の後半部に出る一節。岩波の新日本古典文学大系を基礎底本として、一部に手を加え、漢字を正字化して示す。

   *

 かゝるに、今、皇(すべらぎ)の天(あめ)の下(した)知ろしめすこと、四つの時、九囘(こゝのかへり)になむ、成りぬる。遍(あまね)き御慈(おほむうつくし)みの浪、八州の外(ほか)まで流れ、廣き御惠みのかげ、筑波山の麓よりも繁くおはしまして、萬(よろづ)の政(まつりごと)を聞(きこ)し召す暇(いとま)、もろもろの事を捨給はぬ餘りに、古(いにしへ)の事をも忘れじ、古(ふ)りにしことをも興(こ)し給ふとて、今も見そなはし、後の世にも傳はれとて、延喜五年[やぶちゃん注:九〇五年。]四月十八日に、大内記紀友則・御書所預(ごしよのところのあづかり)紀貫之・前甲斐少目宮(さきのかひのさうくわん)凡河内躬恒(おふしかふちのみつね)・右衛門府生(うゑもんのふのさう)壬生忠岑(みぶのただみね)らに仰せられて、「万葉集」に入らぬ古き歌、自(みづか)らのをも、奉らしめ給ひてなむ。

 それが中(なか)に、梅(むめ)を插頭(かざ)すより始めて、郭公(ほとゝぎす)を聞き、紅葉(もみぢ)を折り、雪を見るにいたるまで、又、鶴・龜に付けて、君を思ひ、人をも祝ひ、秋萩・夏草を見て、妻を戀ひ、逢坂山(あふさかやま)に至りて、手向けを祈り、或(ある)は、春(はる)・夏・秋・冬にも入らぬ、種々(くさぐさ)の歌をなむ、選ばせ給ひける。統(す)べて、千歌(うた)二十卷(はたまき)、名付けて「古今和歌集」 と言ふ。

   *

「黃帝の子累祖(るいそ)」平凡社「世界大百科事典」の道祖神には、「漢書」「十三王伝」の臨江王栄の伝において、顔師古は、後人が黄帝の子累祖を行神に当てたと注してある。しかし、中文サイトでは圧倒的に黄帝の子ではなく、妻とする。個人ブログらしき「プロメテウス」の「祖:古代中国神話中で絹を発明した黄帝の正妃」によれば、祖(れいそは、別名を「累祖」とも称し、『古代中国の神話中に出てくる女性です。西陵氏の娘で、黄帝軒轅の妃でした。祖は養蚕を発明したことから、祖は養蚕の始祖と言われています』。『祖は黄帝との間に玄』(げんごう)と『昌意の二子を儲けています。玄の子は蟜極と言い、蟜極の子は五帝の一人である帝嚳です。一方の昌意は蜀山氏の娘を娶り、高陽を生み高陽は帝位を継承し』、『五帝の一人の帝顓頊として即位しました』。『司馬遷の史記の五帝本紀には』「黄帝は軒轅の丘に住み、西陵の娘を娶り祖となした。祖は黄帝の正妃で二人の子を産み、その後は両者とも、天下を治めた。その一人を玄と言い、青陽と為し、青陽に降り、江水に住んだ。二人目は昌意と言い、降って若水に住んだ。」『とあります』。祖については、「山海経」の「海内経」にも『記載が見られ』、「黄帝の妻である雷祖(祖とも。)は昌意を生んだ。昌意は自ら天に上り降り、若水に到り住み、韓流を生んだ。韓流は長い頭を持っており、小さな耳、人面で豚の長い口、麒麟の体、ぐるりと丸い二本の足、子豚の蹄で淖子族の阿女を妻として娶り帝顓頊を生んだ」と『あります』。『神話中では祖は養蚕と絹による縫製の創造者となっています。北周以降には』「先蚕」、所謂、『蚕神として祀られるようになりました。祖が絹糸を創り出す物語が以下のように伝わっています』とあって、以下に詳しい養蚕神伝承が記されてあるので、リンク先を見られたい。顔師古の謂いからみても、玄昌意の二氏のこととも思えない。私のネット探求はここまでである。

「遠遊」故郷を離れて遊学すること、或いは、単に遠出の旅。

「妖怪」怪異。

「たつ」「建つ」。

「必(かならず)、佛體をきざみて、其下に亡者の法名をしるせり」これはおかしい。江戸前期の元隣の言う「中昔」とは鎌倉・室町時代であろうが、当時のそれは圧倒的に供養塔であって、下に遺骸や骨が埋まっているわけではなく、また必ずしも法名は刻まれていないない。元隣が「はふらかされて、何れの人のしるしとも、覺束なし。たゞ石佛(いしぼとけ)とのみ、みな人、おもへり」と言っているのは、知ったかぶりの大間違いの感じが強い。彼は総ての名もない廃石仏が総て墓標だと暗に脅しているのである。

「岐(ちまた)」分かれ道。分岐する道は村落の辺縁に存在し、民俗社会では複数の外界からの気が流れ来たって、ぶつかり、澱む場所であって、イコール、異界への通路と見做された。さればこそ、そこに墓や異界に去ったはずの死者の霊を供養するものとして供養塔が置かれたと考えられ、これは或いは荒ぶるかも知れぬそうした御霊(ごりょう)を、そこに祀り置くことによって、村落への外部からの邪気の侵入を防防禦機構としても機能した。そうしたものとして、道祖神以下の集合信仰を捉えることが出来ると私は考えている。

「拔苦與樂」仏・菩薩が、その慈悲を以って、衆生の苦を取り除き、楽を与えること。

「六波羅密の行體」仏教に於ける六つの修行様態。布施(見返りを求めずに施しを行うこと)・持戒(身を慎んで傲(おご)りの心を持たぬこと)・忍辱(にんにく:広い心で苦難に耐えること)・精進(純粋な心を以って努力を惜しまないこと)・禅定(ぜんじょう:精神を鍛えて真の平常心を持つこと)・智慧(正法(しょうぼう)を見極める力を持つこと)。

「菩薩常不經の法身」不詳。これは思うに、法華経に登場する菩薩である「常不輕菩薩」(じょうふきょうぼさつ)を指す誤りではなかろうか? ウィキの「常不軽菩薩」によれば、「法華経」の「常不軽菩薩品」に『説かれる菩薩で、釈尊の前世の姿であったとされる』。『釈尊の前世、むかし』、『威音王如来という同じ名前をもつ』二『万億の仏が次々と出世された。その最初の威音王仏が入滅した後の像法の世で、増上慢の比丘など四衆(僧俗男女)が多い中に』、『この常不軽菩薩が出現したとされる。常不軽菩薩は出家・在家を問わず』、「我深く汝等(なんだち)を敬ふ。敢へて輕慢(きやうまん)せず。所以は何(いか)ん、汝等、皆、菩薩の道(だう)を行(ぎやう)じて、當(まさ)に作佛することを得べしと。」『と礼拝したが、四衆は悪口罵詈(あっくめり)し、杖や枝、瓦石をもって彼を迫害した』。『常不軽菩薩は臨終が迫った時、虚空の中において、威音王仏が先に説いた法華経の』二十『千万億の偈を聞き、六根の清浄を得て』、二『万億那由他』(なゆた)『という永い寿命を得て、広く人のために』「法華経」を『説いた。これを聞いた増上慢の四衆たちは、その所説を聞き、みな信じ伏し』、『随従した。常不軽菩薩は命終して、同名である』二『千億の日月燈明如来という仏に値遇し、また同名である』二『千億の雲自在燈王如来という仏にも値遇し』、「法華経」を『説き続け、諸々の善根を植え、さらにまた』、『千万億の仏に遇い』、さらに「法華経」を『説いて功徳を成就し』、『最終的に彼も仏と作(な)ることができたという』。『常不軽菩薩は自身が誹謗され』、『迫害されても、他人を迫害するどころか、仏法に対する怨敵などと誹謗し返さなかった。この精神や言動は、宗派を問わず』、『教理を越えて、仏教徒としての原理的な行動・言動の規範としてよく紹介引用される』とある。ここで元隣が紹介するに最も相応しい菩薩の法身(仏陀の究極の本体。仏陀の姿を三種に分類した三身(さんしん:後の二つは「報身(ほうじん:単なる永遠の真理でも、無常の人格でもなく、真理を悟った力を持った人格的な仏身を指す)・応身(おうじん:衆生救済のために真理により現世に多様な姿を仮に現した仏身を指す)の内の一つで、「仏陀は真理そのものである」として、真理を本体の仏陀の身体とする捉え方を指す)と私は思う

「かゝる災(わざはひ)をなし給ふべきや」反語。

「瘧(おこり)の鬼(おに)」「瘧」は狭義にはマラリアを指す。重篤な熱病の疫鬼(えきき)。

「疫(えやみ)の神(かみ)」流行り病いの邪神。

「瘧-疾(おこり)疫癘(えきれい)」同前二つの総称。

「いましめこらすなり」「縛(いまし)め懲らす」。

「三世諸佛」こう言った場合の「三世」(さんぜ)は時間軸のそれ。過去・現在・未来の各世(せい)。

「脾胃」漢方では広く胃腸・消化器系を指す語。

「虛」「脾胃」の虚証は消化器系の働きが著しく低下した下痢などの症状を指す。

「おこれる」瘧が発症すること。

「脾胃は五行の配當に『土(つち)』にして」五行説に於いて「五臓」は「肝」に「木」を、

「心包(しんぼう:心)」の「火」を、「脾胃」に「土」を、「肺」に「金」を、「腎」に「水」をそれぞれ配する。

「五常の『信』」五常は五徳で儒教で説く五つの徳目。五行説では「仁」に「木」を、「礼」に「火」を、「信」に「土」を、「義」に「金」を、「智」に「水」をそれぞれ配する。

「其おこれる時節のたがはぬも『信』なり」判ったような判らぬ謂いである。他の臓器の疾病でも発生時期が極めて限定的なものはゴマンとある。

「此二病」瘧と流行り病い。

「まじなひ侍るなり」「封じるためのそれに特化した呪文があるのである。」。これもまた、判ったような判らぬ謂いである。他の臓器に発生する病気に就いて呪文染みた記載は李時珍「本草綱目」の「附方」にはゴマンとありますがね、元隣センセ?

「寓(ぐう)する」仮にそこにとり憑いていただけの。

「にくみはつべきいはれなし」「憎み果つべき謂はれ、無し」。憎み通すような理由は全く以って、ない。

「作者」呪(まじな)いを最初に考案作成し、実際に効験を示し得た人物。]

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