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2018/10/31

古今百物語評判卷之五 第三 殺生の論附伏犧・神農、梁の武帝の事

 

  第三 殺生(せつしやう)の論伏犧(ふつき)・神農、梁の武帝の事

[やぶちゃん注:少し長いので、特異的に改行字下げを施し、注も途中の適当な位置に入れ込んだ。]

 ある人の云(いふ)、

「好(このみ)て殺生をなせし者は、怨靈、來たりて、仇(あだ)をなし、又は、其子孫にむくふ事、世に、物がたり、多し。此故に、佛家(ぶつけ)には五戒の第一とし、儒者には遠庖厨(庖厨(はうちう)を遠(さ)く)とやらむ申すよし、承り候ふ。されども、先祖のまつりに犧(いけにへ)をさき、饗應(あるじまうけ)に生類(しやうるゐ)を殺す事、これ又、聖賢の掟(おきて)なり。本朝には魚鳥(うをとり)を服(ぶく)すれども、四足をいむ事、昔より然(しか)り。此説、いかゞ。」

[やぶちゃん注:「五戒」在家信者が守らなければならない基本的な五つの戒めで「不殺生」・「不偸盗(ふちゅうとう)」・「不邪淫」・「不妄語」・「不飲酒(ふおんじゅ)」。

「遠庖厨」「孟子」の「梁惠王章句上」に基づく。話し相手である斉の宣王が、嘗て生贄に連れて行かれる牛を見て、憐憫の情を起こし、助けて、羊に代えるようにせたところ、人民はそれを王が高価な牛を惜しんで吝嗇(けち)ったのだと思い込んでいると語り、

   *

曰、無傷也。是乃仁術也。見牛未見羊也。君子之於禽獸也、見其生、不忍見其死、聞其聲、不忍食其肉。是以君子遠庖廚也。

(曰く、傷(いた)むことなかれ。是れ、乃(すなわ)ち、仁術なり。牛を見て、未だ羊を見ざればなり。君子の禽獸に於けるや、其の生けるを見ては、其の死するを見るに忍びず、其の聲を聞きては、其の肉を食ふに忍びず。是(こ)れを以つて、君子は庖厨を遠ざくるなり。)

   *

「傷(いた)むこと」とは「愚かな民の見当違いな評価を気にすること」を指す。以上はの結論は、則ち、生贄や食用に供する動物を殺戮し、その断末魔の声が響き、血の匂いに満ちた台所には君子は決して近づいてならない、というのである。現行の「男子厨房に入らず」の謂いはこれを誤用したものである。

「服(ぶく)す」原本は「ふく」。厳密には魚鳥も動物であり、獣の仲間であるという認識は古くからあった(魚と鳥が四足でない、或いは四足に見えないことは四足獣と差別化して食用に供するには甚だ都合はよかったことは事実)ので、それら(四足獣も含む)を食する場合に薬としていやいや食べる、「藥喰(くすりぐひ)」と称したから、「服用する」の意の「服(ぶく)す」は、殺生・肉食(にくじき)嗜好を隠蔽するには格好の動詞となった。]

と問ひければ、先生、答(こたへ)て云(いふ)、

「是、むづかしき論なるを、とひ給へり。先(まづ)、佛家には、平等利益(りやく)をたつとぶ故に、人の親を見る事、わが親におなじく、蚤(のみ)蝨(しらみ)を見る事、人を見るにひとし。此故に、つよく殺生戒をたてゝ、一つの蟲をも殺さず。其(それ)、ひとつの蟲を殺す事、猶、我が親をころすにひとし、とおもへり。されば、落穗をひろひ、麻を着て、三衣一鉢(さんえいつぱつ)のまうけだに、かつかつなるを、本分(ほんぶん)の事とす。是れも又、たうとからずや。猶、六道流轉を立てゝ、人間より畜生になり、畜生より人間に生ず。されば、一疋の魚鳥を見るとても、是れ、何ぞ過去生(くはこしやう)のわが親なる事も、知るべからず。現在にても、おくれさきだつ親類の中、何(いづ)れか畜生に生れたらむも、心得がたし。況や、おなじ人におゐては、猶、其因緣を知るべからず。是れを以て、釋氏の教(をしへ)は、もつぱら、殺生戒をおもんず。行基の歌に「鳥べ野にあらそふ犬の聲きけば父かとぞ思ふ母かとぞおもふ」と詠まれしも此心なり。

[やぶちゃん注:「三衣」「さんね」とも読む。本来はインドの比丘が身に纏った三種の僧衣で、僧伽梨衣(そうぎゃりえ:九条から二十五条までの布で製した)・大衣(だいえ=鬱多羅僧衣(うったらそうえ):七条の袈裟で上衣とする)・安陀会(あんだえ:五条の下衣)のことを指すが、ここは単に身をただ包むに足る粗末な僧衣のこと。

『行基の歌に「鳥べ野にあらそふ犬の聲きけば父かとぞ思ふ母かとぞおもふ」と詠まれし』この歌形は知らぬ。知られたそれは、「玉葉和歌集」(鎌倉末期の正和元(一三一二)年頃に成立した勅撰和歌集。全二十巻。伏見院の命により京極為兼が撰した)の巻第十九の「釈教」に載る、行基(天智七(六六八)年~天平二一(七四九)年)作の遠い昔の一首(二六二七番)、

   山鳥のなくを聞きて              行基菩薩

 山鳥のほろほろとなく鳴く山鳥の聲聞けば父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ

の伝承変形異形か。しかし、古えの風葬(古えは墳墓を作るのは特別な階級の人間だけであった)・鳥葬地(一説には死者を木に吊るしてその肉を鳥に喰らわせる鳥葬が行われていたともされる)であった「鳥辺野」で、投げられたり、ぶら下がった人肉を喰らうのを争う「犬」の吠え声の方が、これ、遙かに凄絶で、私好みではある。

 儒家の説には、天を父とし、地を母として、其見識の大きなる事、釋氏にかはらねども、その中に『本末(もとすゑ)』の差別あり。『本末』といふは、先(まづ)、我親は天下の至つて年比(ねんごろ)なる物なれば、『本』とす。それにつぎて兄弟、又、其次は親類・眷屬、其つぎは朋友、その次は知らぬ世界の人、其次は禽獸草木(とりけものくさき)なり。是れを『末』とす。されば、天下を以ても、我が親一人にかへ申さず。此心を本末といふ。此故に、其親へねんごろなる心をおしてひろめて、兄弟・親類・朋友にほどこし、其あまれる處を他人へ及ぼし、又、其餘れる心を禽獸(とりけだもの)に至らしむ。かく差別あるゆへに、禽獸までは、その仁心(じんしん)、おなじごとくにはいたらねど、猶、其(それ)殺すに、禮義を立てゝ、天子國君も、故(ゆゑ)なければ、牛をころさず、其(その)孕めるにあたつては、ちいさき[やぶちゃん注:原典のママ。]鳥獸(とりけだもの)をも害せず。また、數罟不ㇾ入洿池(數罟(さくこ)洿池(をち)に入れず)といへば、ちいさき目の網をもつて魚の子までを取盡(とりつく)す事をきらひ、草木(くさき)も春夏の長ずるにあたつては折りとらず、葉落ちて後(のち)、杣(そま)を山林にいるゝ、と云へり。是れ、禽獸草木(きんじうさうもく)へおよべる愛心(あいしん)なり。

[やぶちゃん注:「天下を以ても、我が親一人にかへ申さず」世界全体を以ってしても、自身の親一人の存在に、それをとって代えるなどということは到底出来ぬことにて御座る。

「數罟不ㇾ入洿池」「孟子」の「梁恵王上」に基づく。

   *

數罟不入洿池、魚鼈不可勝食也。

(數罟(さくこ)、洿池(をち)に入(い)ざれば、魚鼈(ぎよべつ)勝(あ)げて食(くら)ふべからざるなり。)

   *

「細かな目の網を以ってして、水の溜まった浅い小さな沼や池の生き物を徹底的に漁(と)ることをしなければ、子魚や小さな鼈(すっぽん)は残され、未来に於いてもそこの生き物が尽きることはない」の意である。なお、これについては、魚類学者真道(しんどう)重明先生の『再び、「数罟不入夸池」について』という大変、興味深い論考がある。実は、真道先生は四、五年前、私のサイトでの栗本丹洲の「栗氏千蟲譜」の電子化注を、お褒め戴くと同時に激励して下さった稀有の恩人であられる。]

 それ、天地開闢(てんちかいびやく)のはじめ、人は萬物(ばんもつ[やぶちゃん注:原典のルビ。])の靈なれば、禽獸(とりけだもの)より、はるかの後(のち)に生ず。既に生じては、衣服なき事、あたはず。此故に禽獸(きんじう)の血をすひ、肉をくらひ、其皮を着るといへど、猶、その力のき物ありて、人の害をなせしを、其時の君、これを制する事を教へ給ふ聖人を伏犧と云ふ。「伏」とは「たいらぐる心」、「犧」といふは「鳥獸」といふ心なり。其後(そののち)、人民、おほくなりて、禽獸(きんじう)、たらざりしに至りて、始めて、五穀を食らふ事を教へ給ふ聖人を神農氏といふ。是れ、たゞ其時節のよろしきによれるのみ、何ぞ、其心にかはりあらんや。されば、蛛(くも)は蠅(はい[やぶちゃん注:原典のルビ。])をとり、雀は蛛をとり、鳶(とび)は雀をとり、鵰(たか)は鳶をとり、犬の小さきを制し、きが弱きにかつは、天地自然の勢(いきほひ)なれば、人倫の物をとる事も、なを[やぶちゃん注:ママ。]、かくのごとしといへど、既に其(その)殺すに禮儀を立(たつ)るは、人の萬物の靈なるゆへ、彼の親をしたしみ、人をおもむずる[やぶちゃん注:ママ。]心を、おしひろめたるのみ、是れ、周公・孔子の道なり。

[やぶちゃん注:「伏犧」「伏羲」が一般的だが、かくも書き、「庖犧」「虙戯」などとも書く。小学館「日本大百科全書」より引く。『古代の伝説上の帝王。華胥(かしょ)氏の娘が雷沢(らいたく)の中に残されていた巨人の足跡を踏んで懐妊し、生まれたのが伏羲であるという』。『三皇五帝の』一『人に数えられる』。「列子」では、『伏羲は人頭蛇身とされ、漢代の画像石には蛇身の伏羲と女媧(じょか)が尾を交えている姿がみられる。易の八卦』『を考案したり、網を発明して民に狩猟や漁労の方法を教え、さらに獲物を生(なま)のままでなく』、『火を使って料理することも教えたといい、庖犧の名はこれを表していると思われる。そのほか』、『結婚の制度を創始するなど、さまざまな事物の発明や諸制度を創設したといわれるが、これらは諸文物の起源を好んで聖天子の功績に帰そうとする中国古伝承の現れであって、史実とはいえない。民間では、伏羲と女が結婚して人類の祖となったという伝承が語られているが、むしろこのような伏羲が本来のおもかげをとどめているものと考えられる』。

「神農氏」同じく「日本大百科全書」より引く。『古代の伝説上の帝王。神農の名前が最初に文献に現れるのは』、「孟子」で『あり、これには、戦国時代、許行という神農の教えを奉じる人物が、民も君主もともに農耕に従事すべきであると主張したという話が載っている。許行が信奉した神農がいかなる存在であったかは明らかではないが、漢代になると、神秘的な予言の書である』「緯書(いしょ)」などに、『しばしば』、『神農のことが記されるようになる。それによれば、神農は体は人間だが頭は牛、あるいは竜という奇怪な姿をしており、民に農業や養蚕を教えたり、市場(いちば)を設けて商業を教えるほか、さまざまな草を試食して医薬の方法を教え、五絃』『の琴を発明したとされる。こうした業績から三皇の一人に数えられることもあるが、神農に関する具体的な記述は古い文献にみえないため、神農の伝説には後代の知識人が付け加えた部分が多いと考えられている』。

「鵰(わし)」タカ目(新顎上目タカ目
Accipitriformes)の内で大形で強力な鳥の総通称。

「周公」(生没年未詳)周の政治家。文王の子。名は旦。兄の武王を助けて殷を滅ぼし(紀元前十二世紀末)、武王の死後、幼少の成王を助けて王族の反乱を鎮圧。また、洛邑(洛陽)を建設するなど周王室の基礎を固めた。礼楽・制度を定めたといわれる。儒家の尊崇する聖人の一人。]

 故(かるがゆへ)に、むかし、梁の武帝といふ天子、ふかく佛法を信じ、殺生戒をたもちて物を殺さず、宗廟の牲(いけにへ)を蠟(らふ)にて作り、織物にさへ生(いけ)るものをおらしめず。其(それ)たつときに、鳥獸をきりて、殺生戒をばやぶるに似たればなり。かくは有(あり)しかど、遠き敵國と戰(たゝかひ)て、數多(あまた)の群兵(ぐんひやう)をころして、大(だい)を輕んじ給ふを、儒家より笑ひしが、後(のち)果して、國、みだれて、臺城(たいじやう)に餓死(うゑじに)し給へり。

[やぶちゃん注:「梁の武帝」蕭衍(しょうえん 四六四年~五四九年)南朝梁の初代皇帝(在位:五〇二年~五四九年)。武帝は諡(おくりな)。斉を滅ぼして建国。治世中、六朝を通じて最も貴族文化が栄えたが、晩年、仏教に傾倒し、財政を破綻させた。ウィキの「蕭衍」によれば、五四八年、『東魏の武将侯景が梁に帰順を申し出てきた。武帝はそれを東魏に対抗する好機と判断し、臣下の反対を押し切って、侯景に援軍を送り』、『河南王に封じた。しかし、東魏と彭城(現在の江蘇省徐州市)で戦った梁軍は大敗し、侯景軍も渦陽(現在の安徽省蒙城県)で敗れてしま』った。『その後、武帝は侯景に軍を保持したまま』、『梁に投降することを許可するが、やがて侯景は梁の諸王の連帯の乱れに乗じて叛乱を起こし(侯景の乱)、都城の建康を包囲した』。『当時』、『建康の外城を守っていたのは、東宮学士庾信率いる文武』三千『人だったが、鉄面をつけた侯景軍が迫ってくると』、『瞬く間に四散してしまい、浮橋を落とすことにも失敗した。侯景軍は宣陽門から、宗室の臨賀王蕭正徳の手引きの下、ほとんど無血で外城の中へと入ってきた。武帝たちは内城に篭り、侯景たちは彼らを包囲しつつ、占拠した東宮でとらえた宮女たち数百人を将兵に分かち与えて、祝宴を始めた。怒った皇太子蕭綱は兵を派遣して東宮を焼いてしまい、こうして南朝数百年で積み上げられた建康の歴史的建造物も、その蔵書も多くが焼けてしまった』。『内城攻略戦は、梁将羊侃の健闘により数ヶ月にわたって一進一退の様を呈し、侯景が木驢を数百体作り城を攻めると、羊侃は葦に油を注いで放火してそれらを焼いてしまう有様だった。業を煮やした侯景は、宮城の東西に土山を築くため、建康の住民を平民から王侯まで貴賎の別なく駆り立てて、倒れる者は土山の中に埋められた。しかし、山は完成を見ぬうちに豪雨が降り、崩壊した』。『そこで侯景は、今度は奴隷解放令を出し、宮中の奴で降る者はみな良民にすると宣言した。早速』、武帝のお気に入りの政治家朱异(しゅい:低い身分の出身であった)の『家の入墨奴隷が反乱軍に降ると、侯景は儀同の官位を与えた。これに感激した奴は馬に乗り』、『錦を着て城中に』向かって『「朱异は』五十『年も仕官してやっと中領軍になれただけだが、私が侯王(侯景)さまに仕えたら早くも儀同になったぞ!」』と『叫んだという』。三日の『うちに侯景軍の兵力は激増し、一方で内城の防御軍は櫛の歯の抜けるように脱走は相次ぎ、ついに』五四九年三月、『内城を統率していた羊侃』(ようがん)『が死ぬと、いよいよ戦況は最終局面を見せた。内城の兵士や立てこもった男女も、体が腫れて呼吸も困難となり、「爛汁、堀に満つる」有様だった。こうした中、侯景は玄武湖の水を堀に注いで水攻めを開始、ついに城は陥落した』。『引き立てられた武帝は、侯景と次のような問答を交わした』(以下、改行を会話の省略した)。『「江を渡る時、何人いたのか?」「千人です」「では、建康を囲んだ時は?」「』十『万人です」「今は何人なのだ?」「率土のうち、己の有にあらざるはありません」『そのまま、武帝は黙ってうなだれた』。『侯景に幽閉された武帝は、食事も満足に与えられなかった。憂憤のうちに病気になり、蜜を求めたが与えられず、失意のうちに死んだ』とある。後の『北宋の司馬光は』その「資治通鑑」の「梁紀」の論賛で、『次のように評している』。『梁の高祖(武帝)が終わりを全うしなかったのはもっともだ。自らの粗食(菜食)を盛徳とし、君主としての道が既に備わって、これ以上』、『加えるものがなく、群臣の諫言はどれも聞くに値しないとした』。『名は辱しめられ、身は危うく、国は覆り(滅び)、宗廟の祀りは絶え、長く後世に憫笑(哀れだとさげすみ笑われ)された。哀しいことだ』とある。

「臺城(たいじやう)」六朝期に宮城を「臺所」と呼んだ。]

 さはいへど、ゆめゆめ、物をころせるがよきといふにはあらず。上(かみ)にまうせしごとくなり。其外、物の命をすくひて壽命を得、官位を得し類(たぐひ)、あげてかぞふべからず。さて又、我が日の本に四足をいむ事は、本朝人皇のはじめ、既に天地の風氣(ふうき)、ひらけて、五穀もみちみちけるにより、はじめより、四足の類を服(ぶく)するに及ばず。食事のたれるは、我が國の風俗なるべし。中頃まで、孔子の奠(まつり)[やぶちゃん注:「奠」は「神仏に物を供えて祭る」の意。]に狗彘(こうてい)[やぶちゃん注:犬や豚。]を用ひしかども、ある人の夢に、孔子、告(つげ)てのたまはく、『我、此國にまつられては、天照大神(てんしやうだいじん)と同座なる故、猪鹿(ちよろく)の類(たぐひ)、目にあたりて、惡(あし)し。國に入りては國にしたがふが我が心なれば、向後(きやうこう)、用ゆる事、なかれ』と御告(おつげ)ありしゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、それより用ひずといふ事、「著聞集」にも見えたり。思ふに、狗彘の類(るゐ)は既に魚鳥(うをとり)とはちがひて、人の類にちかき物なれば、殺さゞる風俗、たれか惡(あし)しといはむや。我が國を君子國(くんしこく)といふも、むべなるかな。さて、其(その)禮義もなく殺生を好めるものは、天地(てんち)の心、元(もと)、物を生ずる事を好み給ふにそむけば、何ぞ報(むくひ)もなからざらむ。もし、鷹かい[やぶちゃん注:ママ。「飼ひ」。]獵師などのなさで叶はぬものなり共、面々の遠慮あるべき事にこそはべれ」とかたられき。

[やぶちゃん注:『「著聞集」にも見えたり』「古今著聞集」の「巻第一 神祇」にある、「或人の夢に依りて、大學寮の廟供に猪鹿を供へざる事」(別本では前半を「孔子の夢の告に依り、」とある)。

   *

 大學寮の廟供(べうぐ)には、昔、猪(ゐのしし)・鹿(かのしし)をもそなへけるを、或る人の夢に尼父(ぢほ)[やぶちゃん注:孔子。字の仲尼と尊称。]ののたまはく、「本國にてはすすめしかども、この朝に來りし後は、大神宮、來臨して禮を同じくす。穢食(ゑしよく)、供(きやう)すべからず」とありけるによりて、後には供せずなりにけるとなん。

   *

「大學寮」は式部省(現在の人事院相当)直轄下の官僚育成機関。官僚候補生である学生(がくしょう)に対する教育と試験及び儒教に於ける重要儀式である釈奠(せきてん/しゃくてん/さくてん:孔子及び儒教に於ける先哲を先師先聖として祀る儀式)を執行した。「新潮日本古典集成」(西尾光一・小林保治校注/昭和五八(一九八三)年刊)の同書の注に、平安後期の宇治左大臣藤原頼長の日記「台記(たいき)」の久安二(一一四六)年四月一日の条に、『「大神宮つねに来臨す。肉を供ふるなかれ」との文宣王(孔子)の夢告によって獣肉の供えは廃された、という本話と類似する記事が見える』とある。]

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