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2018/10/01

反古のうらがき 卷之四 崋山

 

    ○崋山

 邊渡登、麹町一丁目三宅藩なり。繪事は世に越(こえ)たり。學問もありて殊に畫學も精しく、監識は書畫ともに精(くは)しかりき。主人八藏【後に何の守。】歿して公子二人迄おはせしが、家、貧にして立(たち)こらふべきよふ[やぶちゃん注:ママ。]なしとて、大臣ども、申合せて、大諸侯より養ひ子を取らんといふことに極(きま)りぬ。崋山獨りこれをうれひて、同じつかさ人等(ら)、いゝ合せ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、給分の半を君に返し奉り、國用を足し侍らんに、いかで、家のたもち難き事あらん、といゝ出(いで)けり。皆、一と度(たび)は「尤(もつとも)なり」と同(どふ[やぶちゃん注:底本のルビ。])じけれども、又、「おもふに、崋山は繪事をよくするによりて、給分の外おゝく[やぶちゃん注:ママ。]財を得るなれば、事かくことあらじ。吾等はかゝる業(わざ)なければ、何とて半給にてこらへ果(はつ)べき」といふ者ありて、大臣の議に從ふ人、多かりき。されども國の血脈(けちみやく)をたつるのおもきをしるものは、崋山にくみして、事やわらがざりければ、遂に止みにけり。後に和蘭の學を好み、其事にも精しく、おのづから和蘭の學をも、よくしてけり。其徒に長英といへる醫師ありけるが、其頃、英吉利(イギリス)にモリソンといへる豪傑ありて、諸國を征するよし、聞へ[やぶちゃん注:ママ。]けるによりて、「夢物語」といふ書をあらはしけり。異國のこと、書(かき)あらはすは、御法度なりける故に、ひそかにをさめ置(おき)しを、ある小人(こびと)、奪ひて、おゝやけ[やぶちゃん注:ママ。]に告(つげ)てけり。崋山も此事にかゝり合(あひ)たりとて、ともに獄屋に入(いり)けるが、長英は、いかゞにしてか、逃れて、行方なくなりけり。崋山は主人御預けとなりて、國元に深く取込(とりこめ)てありけり。かゝる御預け人(おあづけにん)は、一日も早く死(しぬ)るを主人其外役人のよろこぶことにて、其手當、甚だおろかなり。崋山は母・妻・男女(なんによ)の子・おのれともに五人なるに、五人扶持のあてがひと聞へし。さる故に、崋山は自(みづ)から農作なし、母・妻は、絲、くり、麻、うみて[やぶちゃん注:「績(う)む」とは、青麻(あおそ=麻(アサ科アサ属 Cannabis)を湿(しめ)らしながら、指先で細く裂き、撚(よ)って繋ぐの意。]、漸く衣食に給するに、自ら城下に至る事を許さざれば、皆、人づてにて交易するに、利分薄くして、貧しきこと、いわん方なし[やぶちゃん注:ママ。]。江戸の畫弟子、これをしりて、金を返る人あれども、おゝくは[やぶちゃん注:ママ。]、とゞかで、うせぬることありけり。崋山が自書の弟子におくれる文通をみるに、配所のさまを繪がけり。崋山は偉然たる大男にてありしが、繪がけるさまは、憔悴(しやうすい[やぶちゃん注:底本のルビ。正しくは「せうすい」。])【やせる】して實(じつ)にあわれに[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]ぞありける。母は燈し火に向ひて、麻、うみながら、孫に物よむことをおしへ、妻は娘とともに、絲、くる。其庭とおぼしき所に、崋山、月を帶びて、はたを作る。貧家のさまなりけり。畫弟子何某が女(むすめ)、家、富みければ、これが主(しゆ)となりて、ふるき弟子どもへいひ合せて、月に金二分づゝをおくりけり。其謝儀として屛風一隻ぶりの繪を畫きて、江戸におくりき。これにて、少し餘寒を免れけり。扨も、此頃、朝家の大臣、貶黜(へんちゆつ)【おとし、しりぞく。】[やぶちゃん注:官位を降格し、上席格から退けること。貶斥(へんせき)。]のこと、おゝかりけるを、三宅家の役人ども、いひおくりけるは、「こたび朝家に事おこり、諸侯家、異國と内通の御疑ひありて、某公、某公、皆、職を奪はれ、下屋敷に蟄居せらる。かゝれば、吾主人[やぶちゃん注:当時の田原(たはら)藩主は第十一代三宅康直(やすなお 文化八(一八一一)年~明治二六(一八九三)年)。]へも御疑ひあらんも斗(はか)りがたし」といゝけり。崋山、これをきゝて、大におそれ、江戸なる畫弟子がり、右の實否をとひこししが、其答へに、「いかでかゝることあらん、諸侯大臣職を奪はれしは、みな、それぞれの罪にして、異國のことにては、これなき」趣きをいゝ送りしが、其ふみの、いまだとゞかざる間に、いかにせまりけん、小刀もて咽のあたりを突(つき)て死(しし)てけり。「おのれ、異國のことにて御疑ひを受けたれば、其罪、主人に及ばんか」とおそれて死したるは、あわれなることなりけり。予後に長英が著はせし「夢物語」を見しに、蘭學者の常談(じやうだん)のみにして、決(けつし)て疑(うたがふ)べきこと、なし。其頃、人のいひしは、「異國内通か、又は、密(ひそか)に異國へ乘渡(のりわた)りし人にあらざれば、かく委細にしるすこと能はじ。しかれば、御疑ひあるも尤(もつとも)」といゝし。笑ふべきの甚しきなり。かゝる人は唐・日本・天竺とて、世界は三國のみと思ひて、しかも天竺は天上の國と思ふなり。此固陋(ころう)[やぶちゃん注:古い習慣や考えに固執して、新しいものを好まないこと]をもて、人を疑ひ、かゝる寃罪を蒙むらしむ、哀哉(かなしいかな[やぶちゃん注:底本のルビ。])。「夢物語」は篋(はこ)底にひそめ置(おき)しを、さる心友の方に借し與へたるに、其家にて小人に見出(みいださ)れけるよし、小人も書生にて、かゝることをも好むよふにいひて、探り出し、「しばし、かし給へ」とて持(も)て行しが、公(おほやけ)に訴へたるなり。其小人といふは、上の卷に名をしるせし人の、しる人なれども、餘りに出身をいそぐにぞ、かゝる友を賣るの不仁をば、なせしなり。

[やぶちゃん注:超弩級の有名人の登場である。三河国田原藩(現在の愛知県田原市東部)の藩士で画家として知られ、著名な蘭学者達のシンパサイザーでもあった渡辺崋山(寛政五(一七九三)年~天保一二(一八四一)年)である。号は当初は「華山」であったものを、三十五歳の頃に「崋山」と改めている。文政一〇(一八二七)年に第十代藩主三宅康明(やすてる)が二十八歳の『若さで病死してしまい、藩首脳部は貧窮する藩財政を打開するため、当時比較的裕福であった姫路藩から養子を持参金付きで迎えようとした。崋山はこれに強く反発し、用人の真木定前』(さだちか)『らとともに康明の異母弟・友信の擁立運動を行った。結局』、『藩上層部の意思がとおって養子・康直が藩主となり、崋山は一時』、『自暴自棄となって酒浸りの生活を送っている。しかし、一方で藩首脳部と姫路藩双方と交渉して後日に三宅友信の男子と康直の娘を結婚させ、生まれた男子(のちの三宅康保』(やすよし)『)を次の藩主とすることを承諾させている。また』、『藩首脳部は、崋山ら反対派の慰撫の目的もあって、友信に前藩主の格式を与え、巣鴨に別邸を与えて優遇した。崋山は側用人として親しく友信と接することとなり、のちに崋山が多くの蘭学書の購入を希望した際には友信が快く資金を出すこともあった。友信は崋山の死後の明治』一四(一八八一)年に「崋山先生略傳補」として『崋山の伝記を書き残している』。天保三(一八三二)年五月、満三十八歳の時に田原藩年寄役末席(家老職)となった。天保九(一八三八)年、「モリソン号事件」(前年天保八年六月末に日本人漂流民七名を乗せて、浦賀沖及び鹿児島湾に現われたアメリカ合衆国の商船「モリソン号(Morrison)」に対し、浦賀奉行太田資統(すけのり)及び薩摩藩が「異国船打払令」に基づいて砲撃を行った事件)を『知った崋山や』、紀州藩儒官遠藤勝助が設立した学術団体「尚歯会」で知り合った陸奥生まれの蘭学者高野長英(文化元年五(一八〇四)年~嘉永三(一八五〇)年:開港論を唱えて投獄されるも脱走し、「沢三伯」の変名で江戸に潜入、医療や訳述に専念したが、幕吏に襲われて自殺した)は、『幕府の打ち払い政策に危機感を持ち、崋山はこれに反対する』「慎機論」を書いた(天保九年に書かれたものの、途中で筆を絶っている)。しかし、『この書は海防を批判する一方で』、『海防の不備を憂えるなど』、『論旨が一貫せず、モリソン号についての意見が明示されず』、『結論に至らぬまま、幕府高官に対する激越な批判で終わるという不可解な文章になってしまった。内心では開国を期待しながら』、『海防論者を装っていた崋山は、田原藩の年寄という立場上』、「戊戌夢物語」(夢に託して江戸幕府を批判した作品。本文に出るように単に「夢物語」とも呼ぶ。高野長英著。全一巻。同じく天保九年作。「モリソン号事件」に対して、イギリスの強大なこと・その植民政策・モリソンの人柄などを数十人の大学者の集会のなかで甲乙二人が語るかたちで述べ,幕府のやり方の無謀なこと,国際常識のなさなどを批判したもので、崋山の「慎機論」とともに幕府の怒りを買い、「蛮社の獄」のきっかけをつくった。初めは無署名で二、三人に見せられただけであったが、後、筆写されて広まり、遂には将軍徳川家慶の目にも触れた。西洋事情や国際慣行などを記した警世の書として注目される。ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)『を書いた長英のように匿名で発表することはできず、幕府の対外政策を批判できなかったためである。自らはばかった崋山は提出を取りやめ』、『草稿のまま放置していたが、この反故にしていた原稿が約半年後の』「蛮社の獄」に於ける『家宅捜索で奉行所にあげられ』てしまい、『断罪の根拠にされることにな』った。天保一〇(一八三九)年五月、「慎機論」原稿が『発見され、陪臣の身で国政に容喙したということで』、崋山は『田原で蟄居することとなった』。天保一二(一八四一)年、『田原の池ノ原屋敷で謹慎生活を送る崋山一家の貧窮ぶりを憂慮した』崋山の高弟で南画家の福田半香(はんこう 文化元(一八〇四)年~元治元(一八六四)年:遠江出身)『の計らいで』、『江戸で崋山の書画会を開き、その代金を生活費に充てることとなった。ところが、生活のために絵を売っていたことが幕府で問題視されたとの風聞が立ち(一説には藩内の反崋山派による策動とされている)、藩に迷惑が及ぶことを恐れた崋山は「不忠不孝渡辺登」の絶筆の書を遺して、池ノ原屋敷の納屋にて切腹した』。より詳しい事蹟は引用元のウィキの「渡辺崋山を参照されたい。

「邊渡登」「へん/ととう」と音読みしておく。登(「のぼり」。一部の絵では「のぼる」と揮毫)は彼の通称。錯字のようにも思われる画、所謂、和名を中国人風に組み替えることは、文人の間では好んで行われたから、ここはそれで採っておく。

「偉然」は底本では「然(いぜん)」であるが、「」は「等しい」・「列ねる」・「移る」・「同輩」・「同等」の意で意味が通らぬ。国立国会図書館版のこれなら、「立派であるさま。盛大なさま」で腑に落ちるのでそちらを採用した。

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