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2018/10/18

古今百物語評判卷之四 第一 攝州稻野小笹附呉隱之が事

 

 百物語評判卷之四

 

  第一 攝州稻野小笹(いなのおざゝ)呉隱之が事

某(それがし)たづね侍るは、「攝州伊丹(いたみ)と神崎(かんざき)とのあはいの、いなのと申す處に、方(はう)四、五間[やぶちゃん注:約七~九メートル四方。]なる笹原あり。是れ、和歌に詠ぜし『いなのさゝ原』の名殘(なごり)なるよしにて、其所の者、まうせしは、『たとへば、誰(たれ)にてものあれ、その竹をきりとる者候へば、たちまち、狂氣になりし事、數をしらず。其故、たゞ今は、其まはりに堀をほりをきて[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]、人のよらぬやうにいたし置きつ。「これ、『いでそよ』の歌、名歌なる故にや」と、人々、申しき』と、かたり侍る。此事、先年、有馬へ湯治仕りし時、うけ給はり候(さふらふ)て、今に不審に存じ候ふが、いかなる事にて候ふや」と問(とひ)ければ、先生のいへらく、「それがしも過(すぎ)にし比(ころ)、其所を通りしに、皆人、さやうに申(まうし)き。樣子をくはしく尋(たづぬ)れば、此地、むかし、『いなの寺(でら)』と申(まうす)古跡のよしにて候へば、伊丹はことに近き比まで、荒木一亂(いちらん)の刻(きざ)、戰場となりし故、何とぞ、其さくの邊(へん)に剛(がうきやう)なる侍の墓など候ゆへ、その氣、殘りて、不思議をなし候が、又、其邊に歸る狐など、住(すま)ゐして、かく、人をおそふなるべし。又は、何事もなき事なるを、古跡なれば、その竹をたやさじとて、かしこき人の申(まうし)をきしを、愚(おろか)なる土民などの折りたる時、かたへより、皆人、寄會(よりあひ)て、『汝、かのさゝをおりたるや、すは、狂氣ならん』などいはむ時に、もとより、おろかなる心ゆへ、自(おのづか)ら、其詞(ことば)にひかされて、血あがり、氣くるふ事、あるべし。たゞしき人の、いらで叶はぬときに折りとらんに、何の子細か候ふべき。もろこしにも、是に似たる事のあり。荊州(けいしう)に貪泉(たんせん[やぶちゃん注:ママ。「貪」には「タン」の音もある。])といふ水あり。此水をのめば、必ず、人毎(ごと)に、むさぼる心出來(いでき)て、慾心、ふかふなるよし、いひしかば、呉隱之といふ賢人、こゝろみに吞みしに、いよいよ心淸かりけり、とみえたり。『いなのお笹』もさる事にや侍らん」と評せられき。

[やぶちゃん注:「攝州伊丹稻野小笹」山本俊夫氏のブログ「我が町伊丹.jp」の「27 猪名野笹原」(地図有り)によれば、現在の伊丹市東有岡五丁目にある「東洋リノリューム株式会社」敷地内附近に比定される「猪名野笹原(いなののささはら)」である。山本氏が「説明プレート」を電子化されておられるので、以下に引用させて戴く(一部の表記の誤りとしか思えない部分については、bittercup氏のサイト「摂津名所図会」のこちら(後に出す「摂津名所図会」の「いなのさゝはら」の絵図のトリミング彩色画像もある)で電子化されている本文と校合して訂し、一部の行空けを省略、最後のクレジット以下は上に引き上げて示した)。

   《引用開始》

猪名野笹原旧蹟

 

   有馬山 ゐなの笹原風吹けば

    いでそよ人を忘れやはする

        小倉百人一首 大貳三位

 

   しなが鳥 猪名野を来れば有馬山

    夕霧たちぬ 宿りはなくて

        万葉集 巻七

 

万葉の時代からこの地一帯は猪名野と呼ばれ、笹の原野が拡がり、風にそよぐ笹原の風情は古くから旅人の詩情をかもしていたとみえ、数多くの古歌が残されています。

その後、荒涼とした笹の原野が次第に開墾されていく中で、一画の笹原が残され、人びとに猪名の笹原の旧蹟として伝えられてきたようで、正保二年(西暦1645年)頃の摂津国絵図の中にこの地が「いなの小笹」と記され、寛政十年(西暦1798年)頃の摂津名所図会には「猪名笹原」とあります。(図の左半分に小さく示されています)

今この庭にある笹は、学名ネザサと呼ばれ、植物学者室井 綽氏の御説により往時の笹を偲ぶよすがとして弊社が植付けたものです。

左側に植えられた笹は学名オカメザサと呼ばれるものです。有馬山の歌の笹をオカメザサとする学者もおられますので、御参考のため、併せて植えることにいたしました。

ところで、当地には明治二十四年から大正八年まで、綿糸に稲わら繊維を用い経糸に綿糸を用いた平敷織物である由多加織の工場がありましたが、現在ではこれを継承進展した東洋リノリューム株式会社が操業いたしております。

敷地の中には猪名の笹原に祭られていたお社を継承したといわれる笹原稲荷や(黄)金塚があり、弊社によって保存されています。

 平成元年121日 創業70周年記念日 造園

        東洋リノリューム株式会社

   《引用終了》

・本文でも「『いでそよ』の歌」と指し、ここで最初に掲げられている一首は「小倉百人一首」の五十八番歌で、出典は「後拾遺和歌集」巻十二 恋」(七〇九番)。

   かれがれになる男(をとこ)の、

   「おぼつかなく」などいひたるに

   よめる

 有馬山猪名(ゐな)の笹原風吹けばいでそよ人を忘れやはする

作者大貳三位(だいにのさんみ)は紫式部と藤原宣孝(婚姻後三年で死去)の娘である藤原賢子(かたいこ 長保元(九九九)年頃~永保二(一〇八二)年頃)。

・二首目は「万葉集」巻第七の「攝津((つのくに)にして作れる歌」(よみびと知らず)の冒頭の一首、

 しなが鳥猪名野を來れば有馬山夕霧たちぬ宿(やどり)はなくて

「しなが鳥」はカイツブリ目カイツブリ科カイツブリ属カイツブリ Tachybaptus ruficollis の古名かとされる。雌雄連れる相愛の鳥とされた。

・「摂津名所図会」「猪名笹原」は(国立国会図書館デジタルコレクションの当該頁画像)。電子化しておく。

   *

猪名笹原 昆陽寺(こやでら)の東、田圃(でんぽ)の中にあり。此(この)小篠[やぶちゃん注:「篠」はママ。後も同じ。](をざゝ)を每歳正月元旦に、開山行基像開扉(かいひ)の用具とす。或人曰く、此篠(をざゝ)はむかし佐藤繼信(つぐのぶ)箆竹(のだけ)をこゝに立て置きしが、枝葉(しえふ)繁茂すとなり。此人の苗孫(べうそん)今に昆陽村にあり。

   *

ここに出る「佐藤繼信」(保元三(一一五八)年~文治元(一一八五)年)は義経の忠臣として知られる武士。陸奥湯の荘司元治の子で、狐忠信の伝承で知られる彼の兄。源義経が藤原秀衡のもとにいた頃から弟忠信とともに義経に仕え、鎌田盛政・光政とともに「四天王」と称された。「屋島の戦い」で義経を庇って、平教経の矢面(やおもて)に立ち、討死にした。「箆竹(のだけ)」は「矢竹」、タケ亜科ヤダケ属ヤダケ Pseudosasa japonica のこと。茎の節と節との間が長いことから、古くから良質の矢柄として利用された。

 但し、先行する別項に「猪名笹原」の項もあり(電子化する)、

   *

猪名笹原(いなのさゝはら) 伊丹の南、街道の東に、方三間許の篠原あり。舊蹟の印に遺せしものならん。猪名野笹原、猪名野の惣號なり。

   *

とあり(ここ(同前))、絵図も附す()。位置的には、この後者の方がより現在位置にはしっくりくる。位置的には昆陽寺の東ではあるが、「摂津名所図会」の筆者が確信犯で別々に挙げている以上は、二つあると考えねばならぬ。結界とされる神聖性からは前者であるが、現行の比定地との関係と古跡として指示されてあるという点では、圧倒的に後者の方が自然である。

・「メザサ」は単子葉植物綱タケ亜科メダケ属アズマネザサ変種ネザサ Pleioblastus chino var. viridis。植物学的にはKatou氏のサイト「三河の植物観察」の「ネザサ」に詳しい。

・「オカメザサ」はタケ亜科オカメザサ属オカメザサ Shibataea kumasacaウィキの「オカメザサ」によれば、『日本原産であるが、野生種の発見は難しい。各地で栽培されている』とある。写真は、よしゆき氏のサイト「松江の花図鑑」の「オカメザサ」がよい。

「呉隱之」(?~四一三年)は東晋(三一七年~四二〇年)の名臣。永一直人氏の中国史愛好サイト「枕流亭」の「中国史人物事典」のこちらによれば、『字は処黙。濮陽郡鄄城の人。容姿が美しく、談論をよくし、文史に通じ、清廉で孝行なことで名声があった。韓康伯に引き立てられて、輔国功曹に任ぜられ、参征虜軍事に転じた。桓温に賞されて晋陵太守に累進し、中書侍郎・御史中丞・著作郎に上った。元興元』(四〇二)年、『広州刺史に任ぜられた。赴任途中に貪泉を過ぎ、そこで水を飲み、詩を賦して志を明らかにした。それが「酌貪泉賦詩」である。州にあってもますます清廉で、時弊を改めるのに力を尽くした』。同三年には、『盧循が広州を攻めたが、百日にわたって守り通した。城が破れて捕らえられたが、のちに釈放された。京師にもどって、度支尚書となり、中領軍に進んだ』とある。

「神崎」位置的に見て、伊丹の南東四キロ半ほどの位置にある現在の兵庫県尼崎市神崎町附近であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「いなの寺(でら)」「摂津名所図会」のこちら(同じく国立国会図書館デジタルコレクションの画像)に(視認電子化)、

   *

猪名寺(ゐなでら) 猪名寺村にあり。法園寺(ほふをんじ)といふ。古(いにしへ)は伽藍巍々たり。今(いま)古礎(こそ)あり。其中に方一間(けん)餘(あまり)の石あり。土人云ふ、大塔の礎(いしづゑ)なりとぞ。

 本尊藥師佛 行基の作。座像。長(たけ)二尺。初(はじめ)法道仙人大化年中に開創し、其後(そのゝち)行基こゝに止住(しぜう)して、諸堂莊麗たり。天正の荒木が兵火に罹(かゝ)りて灰燼(くわいじん)となり。今(いま)小堂一宇に天王祠(てんわうのほこら)あり。これを生土神(うぶすな)とす。

   *

ここに出る「法道」は本邦に伝わる伝説上の仙人僧天竺(インド)に生まれたが、紫雲にのって唐・百済を経て、日本に渡来し、播磨の法華山に棲んで、「法華経」を読誦し、密教の灌頂を修し、十一面観音信仰を伝え、孝徳天皇の病気を治したとされる。また、「飛鉢(ひばち)の法」を駆使して供物を集めたことから「空鉢(からはち)仙人」とも呼ばれた。さても、この寺、現在、真言宗猪名野山法園寺として、兵庫県尼崎市猪名寺にある。ウィキの「法園寺(尼崎市猪名寺)」によれば、『本尊は秘仏・薬師如来像で、平安時代後期の作』。『寺伝によると』、大化元(六四五)年、『インドの僧・法道が開創』、天平一三(七四一)年に『行基が中興し、孝徳天皇が七堂伽藍三廊四門を建立し』、『寺領八百八町を下賜したと伝えられる』。元亨元(一三二一)年の「元弘の乱」では『兵火に遭い、寺領・伽藍を失うも』、『再興』した。しかし、天正六(一五七七)年の『荒木村重と織田信長の戦いで』『完全に焼失した。その後、本尊が池から発見され』、宝暦七(一七五六)年、『小堂を再興、翌年』、本堂が建立されているとあるから、「摂津名所図会」のなんとなく侘しいそれは、これであることが判る。その後、明治六(一八七三)年、『無住のため』、『廃寺とな』ったが、明治十一年、『檀家の努力で再興された』とある。なお、『上記の寺伝や』「摂陽群談」によれば、『北隣にあったとされる大寺院・猪名寺と同一であったと思われる記述も見られる』ともある。

「荒木一亂(いちらん)の刻(きざ)み」「刻み」は「折り」。荒木村重(天文四(一五三〇五)年~天正一四(一五八六)年:利休七哲の一人で摂津伊丹(有岡)城主。池田氏から三好氏に属し、天正元(一五七三)年に織田信長に仕えた。同二年に伊丹城を乗取り、四方の諸城に一族を配して摂津一円を治めた。しかし、同六年、突如、信長に叛き、攻められ、翌年、居城を逃れて毛利氏を頼った。後、剃髪して道薫・道董を号し、豊臣秀吉に茶人として仕えて、おぞましくも命脈を保った)が信長に謀反を起こしたことに端を発する、「有岡城の戦い」。天正六(一五七八)年七月から翌天正七年十月十九日まで続いた籠城戦。城に残った荒木一族と重臣や家臣の妻子他、実に約六百七十名が凄惨に処刑されたことでも知られる。

「其邊に歸る狐」やや不自然。「人をおそふ」とあるから、「その辺り」を永(なが)の棲み家として「帰る」、年経る妖「狐」、の意で採っておく。

「たやさじ」「やさじ」。先の「摂津名所図会」の「猪名笹原」に「此小篠(をざゝ)を每歳正月元旦に、開山行基像開扉(かいひ)の用具とす」とあるのには、これは、よく適合する解釈である。

「いらで叶はぬときに」「要(い)らで」は」「叶はぬ時に」で、無くては済まされぬ、どうしても必要な折りに。

「何の子細か候ふべき」反語。何の差し障りなど、あろうはずが、ない。

「荊州(けいしう)に貪泉(たんせん[やぶちゃん注:ママ。])といふ水あり。……」「晉書」巻九十の「良吏傳」の「呉隱之傳」に、

   *

廣州包帶山海、珍異所出、一篋之寶、可資數世、然多瘴疫、人情憚焉。唯貧窶不能自立者、求補長史、故前後刺史皆多黷貨。朝廷欲革嶺南之弊、隆安中、以隱之爲龍驤將軍、廣州刺史、假節、領平越中郎將。未至州二十里、地名石門、有水曰貪泉、飮者懷無厭之欲。隱之既至、語其親人曰、「不見可欲、使心不亂。越嶺喪淸、吾知之矣。」。乃至泉所、酌而飮之、因賦詩曰、「古人云此水、一歃懷千金。試使夷齊飮、終當不易心。」。及在州、淸操踰厲、常食不過菜及乾魚而已、帷帳器服皆付外庫、時人頗謂其矯、然亦終始不易。帳下人進魚、每剔去骨存肉、隱之覺其用意、罰而黜焉。元興初、詔曰、「夫孝行篤於閨門、淸節厲乎風霜、實立人之所難、而君子之美致也。龍驤將軍、廣州刺史呉隱之孝友過人、祿均九族、菲己潔素、儉愈魚飧。夫處可欲之地、而能不改其操、饗惟錯之富、而家人不易其服、革奢務嗇、南域改觀、朕有嘉焉。可進號前將軍、賜錢五十萬、穀千斛。」。

   *

とあり、他の中文サイトの異なる書物のそれを調べても、皆、「廣州」であるから、「荊州」は元隣の誤認であろう。全文は気が重いので、太字部分だけを力技で訓読してみる。

   *

 未だ州に至らざること、二十里、地、ありて、「石門」と名づく。水、有りて、「貪泉(たんせん)」と曰ふ。飮む者は無厭(むえん)[やぶちゃん注:飽きることがない。]の欲(よく)を懷くとす。隱之、既に至りて、其の親しき人[やぶちゃん注:同行の付き人であろう。]に語りて曰はく、「欲せんとすべきものを見ざれば、心をして亂らざらしめん。『嶺を越さば、淸を喪ふ』とは、吾も之を知れり。」と。乃(すなは)ち、泉所に至り、酌みて之れを飮み、因りて、詩を賦して曰はく、

 古人云ふ 『此の水

 一(ひと)たび歃(すす)らば 千金を懷(いだ)く』と

 試みに 夷(い)・齊(せい)に飮ましむるとも

 終(つゐ)に當(まさ)に 心(こころ)易(か)はらざるべし

と。

   *

「夷・齊」は言わずもがな、「史記」列伝の巻頭を飾る、殷末の孤竹国の王子にして高名な礼節の隠者兄弟、伯夷(はくい)・叔斉(しゅくせい)のこと。]

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