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« 反古のうらがき 卷之四 不慮の死を遂し事 | トップページ | 反古のうらがき 卷之四 崋山 »

2018/10/01

反古のうらがき 卷之四 竹村海藏

 

    ○竹村海藏

[やぶちゃん注:読み易さと臨場感を出すために改行を施した。]

 竹村海藏は向凌翁が取立ての弟子なりけり。後に林門となり、大才の聞へ[やぶちゃん注:ママ。]ありけり。書もよく書きて、出藍と號しけり。詩をよく作りたり。少時より、人に異なる事おゝかりき[やぶちゃん注:ママ。]。

 或時、向凌翁がり來りて、翁弟子と戲れたるが、庭に柿の子(み)のなりたるを、木の下に來りて、木のまゝに一口づゝくひ取りて、手のとゞく程の處は、みな、くひかきて置(おき)けり。

 後に向凌翁、是を見て、

「海藏が仕業なるべし。かゝる事をして、そらしらぬ顏して歸ると雖ども、後に悔ひて、おもなく思ふべし。かゝる大才ありても、年のたらわぬ[やぶちゃん注:ママ。「足らはぬ」。]うちは、わらべめける業(わざ)はあるもの。」

とて笑ひけり。

 明けの日も同じよふ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]に來りて、庭に出(いで)て戲むるにぞ、翁、こなたより聲をかけていふよふ、

「きのふ、いたづら者ありて、我柿を、皆、食ひつきたり。一つ、二つ、摘取(つみとり)て食ひたらんには多くの内なれば、しるよしもなくて事濟(ことすみ)なんを。おろかなるくせ者かな。」

と、のゝしりければ、皆人(みなひと)、おそれあへりけるに、海藏は、おそるゝ色もなく、

「おのれ食ひかき侍るが、皆、澁く侍るゆへに、甘からん時に食わんと思ひて、摘取侍らず、木に付(つけ)て置(おき)たれば、不日(ふじつ)に熟すべし。かかる澁柿を摘取たらんものこそおろかなれ。かくしつる方(かた)は巧みなりといふべし。師のの玉ふ事こそ、かへりておろかなれ。」

といひて、大に笑ひてけり。

[やぶちゃん注:以下は底本でも改行が成されてある。]

 後に大酒を好み、座に人を罵(のゝし)り、口論を好みて、人に忌(い)まるゝ事、おゝかりけり。

 後に

「主人が家の政(まつりごと)、亂れたり。」

とて、家老何某が隱事(かくしごと)、數ケ條を劾奏(がいそう)[やぶちゃん注:官吏の罪状を暴いて、君主に奏上すること。弾劾奏聞(だんがいそうもん)。]しけれども、其身、微賤なりければ、思ふよふにも、言(げん)、おこなわれずして[やぶちゃん注:ママ。]、自(みづ)から仕(つか)へを辭してけり。

 其後は、文雅の交りのみにして、世の塵を厭(いと)ひ、隱者の如く、風流に世を送りぬ。

 或時、夕ぐれに家に歸るとて、主人の門に入らんとせしに、折節、家老何某も歸り來りて、ひとしく門に入らんとするに、貴賤の禮なれば、路(みち)の傍(かたはら)に拜することなるを、口惜しくやおもひけん、門のこなたに、ゆばり[やぶちゃん注:小便。]するよふにして、やり過しけり。

 家老も駕籠より出で、たゞに門に入(いる)べかりしを、と見れば、頭巾深くかむりたる人の容躰(ようてい)、海藏にまがふべくもあらざれば、

「そこに立(たち)てゆわり[やぶちゃん注:ママ。]するは何者ぞ。」

と、とがめければ、その一聲をきくとひとしく、いかでかこらふべき、

「おのれ、國賊。」

といふまゝに、小脇差、引放(ひきはなち)て、向ふ樣(ざま)にさしければ、聲をも立得(たてえ)ず、

「どふ」

と倒れたり。つゞけざまに、二刀(ふたかたな)、三刀、差してけれども、誰(たれ)ありて立向(たちむか)ふ者もなければ、先(まづ)、其所をば、のきてけり。

 それより、麹町醫師何某がり行ていふよふ、

「今日は心地よき事して、吾、願ひ足りぬ。今は心に望みなし。此上はいかゞせん。かゝる時、人のこゝろ、あわてゝ後(のち)に笑ひをのこすことも多かり。よりて、子(し)と計(はか)るなり。」

とて、顚末、委しく語りければ、每(つね)に親しくする友なりければ、敢ておどろかず、

「そは、よくし玉ひけり。今の身となりて、何の計る事かあらん。但し、三つのケ條あり。此より、君(くん)に告(つげ)て刑を家にまつこそ、上策といふべし。さりながら、これは尋常のことなり。其次(つ)ぎは、此まゝ、家に歸りて自刄すること、中策なり。これは常のことながらも、いさましくして心地よし。其次ぎは、影をかくし、萬一を僥倖(げうかう)[やぶちゃん注:幸運を願い待つこと。]するぞ、下策といふべし。これは世の中の鄙夫(ひふ)[やぶちゃん注:下賤の者。]の業(わざ)なり。」

といゝければ、

「さありけり。吾も此三策を思ひたり。上策よしといへども、命をおしむに似たり。下策、もとより、行ふべからず。中策にしたがはんとおもふ也。」

とぞいひける。

「いざ。名殘(なごり)の酒、くまん。」

とて、數盃(すはい)を傾け、蘭竹の畫、二、三枚を畫(ゑが)きて、家に歸りしが、其夜、自殺して失(うせ)てけり。

 一齋翁の話に、其弟何某【醫師なり。】、來りて、介錯せしとぞ。

 詩集一卷あり。後、林祭酒檉宇(ていう)、予同僚櫻墩(あうとん)をして校正せしむ。石柳溪、偶々(たまたま)來りて、其勞をたすけけり。

「甚(はなはだ)警策(きやうさく)あり。」

とて、たゝへてけり。

[やぶちゃん注:以下は底本ではポイント落ちで全体が二字下げ。]

◎林祭酒、海藏ヲ集ノ小花和(おばなわ)ニ校正セシメシハ、「櫻墩ノ才、海藏、ヨク似タリ。」トテ、申付ケラレタルナリ。

[やぶちゃん注:「竹村海藏」底本の朝倉治彦氏の補註によれば、『向陵の弟子、のち林門』。『挙母藩士』(挙母藩(ころもはん)は三河国の北西部、現在の愛知県豊田市中心部を治めた二万石の譜代大名の小藩)で家は代々藩医であった)。『名は正信一』(「正」は不審)、』『名は蕡』(音「フン」)、『字』は『伯実』。林述斎・佐藤一斎に学び、藩主侍講となり、また、藩士の子弟をも教えたが(ここは講談社「日本人名大辞典」を参考にした)、藩の藩の家老『津村伊左衛門の専権乱政を弾劾して容れられず、文政三』(一八二〇)『年、遂に斬り、切腹した。三六歳』。『森銑三に「奇士竹村悔斎」あり』とある(悔斎は彼の号)。

「向凌翁」既出既注。前注通り、「向陵」が正しい。塾「環翠堂」を営んだ(ここに出る海蔵の少年期のエピソードもその塾であろう)。能書を以って知られた。桃野の母方の親族。

「一齋翁」彼が学んだ、儒者佐藤一斎(明和九(一七七二)年~安政六(一八五九)年)であろう。美濃岩村藩家老佐藤文永の次男。藩主松平乗薀(のりもり)の子の林述斎(じゅっさい)とともに学び、林家の塾頭を経て、昌平黌教授となった。朱子学と陽明学を折衷した学風で、門人に渡辺崋山(本書の次章は「崋山」である)・佐久間象山らがいる。その著「言志四録」は頓に知られる。

「詩集一卷あり」海蔵の遺稿詩集「奚所須窩遺稿(けいしょしゅかいこう)」。

「林祭酒檉宇(ていう)」既出既注。林檉宇(寛政五(一七九三)年~弘化三(一八四七)年)は、かの林家当主林述斎の三男。天保九(一八三八)年)には父祖同様に幕府儒官として大学頭を称し、侍講に進んだ。

「櫻墩(あうとん)」(おばなわなりまさ)底本の朝倉治彦氏の補註によれば、『小花和氏。名正度』とするが、調べてみると、小花和度正(おばなわなりまさ)が正しいようである。『字君璋』(「くんしょう」か)『銈次郎』(後のリンク先の写真キャプションでは『桂次郎』の表記)『または正助と称す。桜墩は号。一に玉舟と号す。文久元年』(一八六一年)『には日光奉行になった。明治十年』(一八七七年)『十二月四日歿。六五歳』とあるから、生年は文化一〇(一八一三)年(以下のリンク先でもその確認が出来た)。櫻井成孝氏のサイト「HOWDY TOMMY内に画像で載る桜井成広氏の論文「日光奉行小花和内膳正父子」に詳しい(何と、かの夏目漱石の遠縁に当たるとある)。因みに、「墩」という漢字は、中国で用いられる陶磁製の太鼓状の腰掛けで、主に庭園で用いられるあれを指すが、リンク先には彼の愛した隅田川向島の「桜の堤」の意とある。

「石柳溪」「公益社団法人新宿法人会」公式サイト内の「新宿歴史よもやま話」の第七十九回の「灌楽園――松岡藩下戸塚村抱屋敷(5)」の記載の中に、『石川柳渓(名澹、字若水、通称次郎 作、昌平校助教』と出る人物であろう。

「警策」「きやうざく(きょうざく)」「こうざく」とも読み、特にこの場合は、他者が驚くほど、詩文に優れていることを指す。

「海藏ヲ集ノ小花和ニ校正セシメシハ」国立国会図書館版もこうなっているが、これは私には「海藏小花和ニ校正セシメシハ」の錯字のように思われるが、如何?]

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