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2018/11/30

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 白い鳥

 

         白 い 鳥

 

 ⦅みんなサラーブレツドだ

  あゝいふ馬 誰行つても押へるにいがべが⦆

 ⦅よつぽどなれたひとでないと⦆

古風なくらかけやまのした

おきなぐさの冠毛がそよぎ

鮮かな靑い樺の木のしたに

何匹かあつまる茶いろの馬

じつにすてきに光つてゐる

   (日本繪卷のそらの群靑や

    天末のturquois(タコイス)はめづらしくないが

    あんな大きな心相の

    光の環(くわん)は風景の中にすくなくない)

二疋の大きな白い鳥が

鋭くかなくし啼きかはしながら

しめつた朝の日光を飛んでゐる

それはわたくしのいもうとだ

死んだわたくしのいもうとだ

兄が來たのであんなにかなしく啼いてゐる

  (それは一應はまちがひだけれども

   まつたくまちがひとは言はれない)

あんなにかなしく啼きながら

朝のひかりをとんでゐる

  (あさの日光ではなくて

   熟してつかれたひるすぎらしい)

けれどもそれは夜どほしあるいてきたための

vaguc(バーグ)な銀の錯覺なので

   ちやんと今朝あのひしげて融けた金(キン)の液体が

   靑い夢の北上山地からのぼつたのをわたくしは見た)

どうしてそれらの鳥は二羽

そんなにかなしくきこえるか

それはじぶんにすくふちからをうしなつたとき

わたくしのいもうとをもうしなった

そのかなしみによるのだが

   (ゆふべは柏ばやしの月あかりのなか

    けさはすずらんの花のむらがりのなかで

    なんべんわたくしはその名を呼び

    またたれともわからない聲が

    人のない野原のはてからこたへてきて

    わたくしを嘲笑したことか)

そのかなしみによるのだが

まだほんたうにあの聲もかなしいのだ

いま鳥は二羽、かゞやいて白くひるがへり

むかふの濕地、靑い芦のなかに降りる

降りやうとしてまたのぼる

  (日本武尊の新しい御陵の前に

   おきさきたちがうちふして嘆き

   そこからたまたま千鳥が飛べば

   それを尊のみたまとおもひ

   芦に足をも傷つけながら

   海邊をしたつて行かれたのだ)

淸原がわらつて立ってゐる

 (日に灼けて光つてゐるほんたうの農村のこども

  その菩薩ふうのあたまの容(かたち)はガンダーラから來た)

水が光る きれいな銀の水だ

⦅さああすこに水があるよ

 口をすゝいでさつぱりしてから往かう

 こんなにきれいな野はらだから⦆

 

[やぶちゃん注:本篇を以って「無聲慟哭」パートは終わっている。大正一二(一九二三)年六月四日(月)の作。本詩篇は本書以前の発表誌等は存在しない。前の「風林」の翌日であり、ロケーションも生徒を連れた岩手山登山の帰りの柳沢の草原らしき雰囲気と読める。月曜で農学校は課業中のはずあるが、「東岩手火山」の際もそうであったように、この岩手山登山は校長公認の学校行事であった可能性が高い(但し、本当にこの日・月にかけて登山が行われたかどうかは事実確認はなされていない)。宮澤家版「手入れ本」は最終的に全篇抹消の意向を示す様態と校本全集版編者注がある。これは前のと全く同じ仕儀である。個人的には私は「月林」とこの「白い鳥」は本書にはなくてよい気がしている。少なくとも「無聲慟哭」パートに入れるべきではなかったと感ずる。そうして、トシを失った賢治には、未だ〈トシの死の後に詩を書くことは野蛮ではないか〉といった意識がトシの死後二年後の本書刊行の大正一三(一九二四)年四月にあっても、どこかに未だあったような気がする。トシを直截に詠み込んだこれら二篇を許せなかった彼が見える。それが許されるのは次の、二ヶ月後の「オホーツク挽歌」パート(大正一二(一九二三)年八月の創作群)を待たねばならなかったのである。

 本篇は賢治にしては珍しく、題名「白い鳥」を見た読者の大半が意想する通りに展開する特異点の一篇ではないかと私は思う。少なくとも私は、若き日にこの詩篇の題名を見た時、倭建命(やまとたけるのみこと)とトシの霊魂の飛翔を想起し、それが詩篇中に出てくるので、あらっと意外に思ったからである。それほど賢治の詩篇は恒常的に読者の意表を突くことを通常属性としているばかりだからである。

・「鋭くかなくし啼きかはしながら」ママ。原稿は「鋭くかなしく啼きかはしながら」で誤植であるが、「正誤表」にない。まあ、これなら人によっては「かなしく」と脳内で補正して躓かないケースもあろう。

・「vaguc」原稿は「Vague」(大文字はママ)で誤植であるが、「正誤表」にない。「vague」(賢治は「バーグ」とルビを振るが、カタカナ音写なら「ヴェィグ」に近い)は英語で「(言葉・観念・感情などが)漠然とした・曖昧な・はっきりしない」、「(態度・行動などが)紛らわしい・どうとも採れる」で語源はラテン語の「vagus」(彷徨える・(考えなどが)定まらない)である。これでは調べても意味が判らぬという点で救命不能の致命的誤植である。

・以下の部分、

   *

  (あさの日光ではなくて

   熟してつかれたひるすぎらしい)

けれどもそれは夜どほしあるいてきたための

vaguc(バーグ)な銀の錯覺なので

   ちやんと今朝あのひしげて融けた金(キン)の液体が

   靑い夢の北上山地からのぼつたのをわたくしは見た)

   *

の「わたくしは見た)」の丸括弧の始まりがないのはママ(因みに「体」はママ)。而して原稿(推敲最終形。一部の消し忘れは操作した)を見ると、

   *

  (あさの日光ではなくて

   熟してつかれたひるすぎらしい

   けれどもそれは夜どほしあるいてきたための

   
Vague(バーグ)な銀の錯覺なので

   ちやんと今朝あのひしげて融けた金(キン)の液体が

   靑い夢の北上山地からのぼつたのをわたくしは見た)

   *

となっている。これだと、丸括弧の不具合は解消されるし、中間部の二行が前後で齟齬する感じも無くなるのである。しかし、全集校訂本文は、

   *

  (あさの日光ではなくて

   熟してつかれたひるすぎらしい)

けれどもそれは夜どほしあるいてきたための

vague(バーグ)な銀の錯覺なので

  (ちやんと今朝あのひしげて融けた金(キン)の液体が

   靑い夢の北上山地からのぼつたのをわたくしは見た)

   *

と丸括弧を「ちやんと」の前に配しただけで澄ましている(「済まして」の誤字ではない。平然と「澄まして」いるのが「気に入らない」のである)。これは正直、太字で示した本書用原稿の形態で校訂本文とするのが妥当なのではないか? 大方の御叱正を俟つものではある。

 

・「靑い夢の北上山地からのぼったのをわたくしは見た)」底本では最後の「わたくしは見た)」の七字の文字部は字間が詰まっており、最後の丸括弧は半角のそれである(全集校異は『七字のみ字間四分アキなし』とのみで丸括弧には言及していない)。再現が面倒なのでここで注しておく。これは印刷業者が、本書本来の版組では一行字数が多過ぎ、次行に渡ってしまうのを避けるために行った、親切な仕儀である。

・「芦」二箇所のそれは、底本では下部は「」ではなく「戸」の字体であるが、表記出来ないので「芦」で示した。

 

「サラーブレツド」thoroughbred。サラブレッド。 Thorough (完璧な・徹底的な)+ bred(品種)で、「人為的に完全管理された血統」「純血種」の意。家畜の馬の一品種で、英国原産種にアラビア馬その他を交配して数世紀に亙って主として競走用に改良・育成された。

「あゝいふ馬 誰行つても押へるにいがべが」「ああいう馬、誰が行ったら、おとなしくさせるのに、いいだろうか?」。

「古風なくらかけやま」岩手県滝沢市にある鞍掛山。標高八百九十七メートル。岩手山の南東の裾野の低いピークで、賢治がその景観を愛した小岩井農場の北方八キロ弱に位置する。ここ(グーグル・マップ・データ)。ブログ・サイト「宮澤賢治の詩の世界」の「岩手山とくらかけ山」によれば、鞍掛山は網張(あみはり)火山群に属し、網張火山群の活動と形成期の初期は、更新世前・中期(約一万年前以降)であり、現在の岩手山の方は、その後の更新世中・後期に活動が開始され,成層火山体が形成され、ずっと後に山体南東部のカルデラが形成されたとあるから、岩手山を中心とした山塊の中では鞍掛山は「古風」、古株の独立峰なのである。なお、上記リンク先では先行する「岩手山」を最初に掲げて、その解釈を示しておられ、そこで否定的嫌悪的に描く岩手山は父政次郎の象徴とされ、『では、もしも「岩手山」が賢治にとって父親を象徴していたとすれば、母親を象徴するものは何でしょうか』。『それは、岩手山のふところに抱かれるように位置している、「くらかけ山」ではなかっただろうかと、私は思います』。『 まず、岩手山に寄り添うくらかけ山の姿は、妻として、主婦として、家長・政次郎を支えた妻イチの姿を、彷彿とさせるものがあります。雄大で男性的な岩手山に対して、なだらかな曲線を描くくらかけ山の山容は、優しく女性的です』。『そして、賢治の「くらかけ山」に対する感情は、岩手山に対するものとはまた少し異なって、自分がいちばん苦しい時、孤独な時に、最後の頼みとする「心のよりどころ」のようでした。「岩手山」と同じく『春と修羅』所収の「くらかけの雪」では、次のような思いが吐露されます』として「くらかけの雪」が引用されるが、リンク先の私のそれを見られたい。そこでも最終行に『(ひとつの古風(こふう)な信仰です)』と賢治は記している。さらに、『晩年になって「雨ニモマケズ手帳」に書き記された断片では、次のようになっています。

 

  〔くらかけ山の雪〕

 

くらかけ山の雪

友一人なく

たゞわがほのかにうちのぞみ

かすかなのぞみを托するものは

麻を着

けらをまとひ

汗にまみれた村人たちや

全くも見知らぬ人の

その人たちに

たまゆらひらめく

 

『これはおそらく未完に終わっており、小倉豊文氏が指摘しているように、一行目の「くらかけ山の雪」が題名であって、詩の本文は「友一人なく」から始まるのかもしれません』。『しかしいずれにしても、「友一人なく」孤独な賢治が「かすかなのぞみを托する」のは、くらかけ山の雪だったのです』。『このことからも私は、「慈母」と呼ばれた母イチの存在を、連想してしまうのです』と述べておられる。

「おきなぐさ」既出既注。キンポウゲ目キンポウゲ科オキナグサ(翁草)属オキナグサ Pulsatilla cernua。葉や花茎など、概ね、全草が白い長い毛で覆われる。「おきなぐさ」の私の注を参照されたい。花期は四~五月であるからすでに散っているが、開花後も種子が付いた白い綿毛が目立つのでそれを、「冠毛」と言っているかとも思われる。

「樺」賢治が諸作品に記す「樺」は殆んどが白樺、ブナ目カバノキ科カバノキ属シラカンバ日本産変種シラカンバ Betula platyphylla var. japonica である。

「天末」空と山岳大地の接するスカイライン。

turquois(タコイス)」はトルコ石で、turquoise(ターコイズ:青色から緑色の色を呈する不透明な鉱物)(「turquois」は単数形)であるが、ここはターコイズ・ブルー(turquoise blue)で緑がかった青い色のこと。色見本サイトのそれをリンクさせておく。

「心相」「しんさう(しんさう)」は仏教用語では、主観としての現象世界の対象物の認識すべてを指す。即ち、我々が客観的対象と認識している、例えばここでの自然の景色は自己の観念が客観化して心の中に写した像であるとするのである。而してありがちな逆説的展開で以って最終的には「主観の心相」と「客観の色相」とは実は本質一体であるなどとのたもうてもいる。まあ、しかしここで賢治はそのような神経症的みたような意味で使ってはいまい。但し、だからと言って客観的即物的景観の意でもない。その客観的現象である「光の環(くわん)」が心に映って、彼の心を充溢させ(それが「大きな」という形容である)ているという感動を指している捩じった表現と私は採る。

「光の環(くわん)」これも前に出た日暈(にちうん)、「ハロウ」(英語:halo:ヘイロー)であろう。太陽やその周囲に光の輪が現れる大気光学現象のこと。。太陽や月を光源として、それらに薄い雲がかかった際、その周囲に発生するように見える光の輪。日暈(ひがさ)。語源はギリシャ語の当該現象を指す語で、お馴染みの写真や映像で、強い光が当たった部分が白くぼやけることを指す「ハレーション」(halation)は、この「halo」に結果や状態を表わす名詞語尾「-ation」が附いたものである。他に宗教的聖像などの後光・光輪・光背の意もある。

「それは一應はまちがひだけれども」/「まつたくまちがひとは言はれない」この否定と一部留保の謂いは賢治の特異とするところであるが(ある意味では病的な関係妄想的気分を感じさせる時もある)、ここには賢治の中の二律背反のディレンマがよく現われていると言える。科学者・教師・家長・実行動的日蓮宗信徒(日蓮宗は天皇の日蓮宗化。国家の日蓮宗化を闡明している極めて政治的宗教であることは「立正安国論」を読めば一目瞭然である)という対社会的な存在としての自分(それが「白い鳥をトシと思うことは無意味で馬鹿げて誤りだ」とする)と、破戒をものともせぬ修羅の彷徨者・頽廃を孕んだ夢想家・幻想を偏愛する芸術至上主義者・突き抜けた神秘家としての反社会的存在としての自分(それが「いや! 全く間違いだとは言い切れぬ! 死んだトシに霊魂があり、それが白い鳥になることはあり得る!」と叫ぶ)を、彼は常に同時に心の内に持っている。その〈二人〉が常に言い争う。それを生身の賢治はただ黙って見ているしかない。そういう生身の賢治は恐らく発狂するしかないと思っているだろう。賢治が時に見せたという半狂乱的行動は私はそのようなものであったと考えている。

「あさの日光ではなくて」/「熟してつかれたひるすぎらしい」ここで正確な現実時間に戻っていることが判る。仮にこの生徒引率の山行の実行を想定した時、岩手山外輪山で御来光を拝んで、それから下山し、「馬返し」を経て、柳沢の放牧地辺りまで辿りついたとするなら、これは最早、朝ではない。即ち、前にあった「しめつた朝の日光を飛んでゐる」という描写は夢想感覚(心象)に於いて「朝」なのであり、この詩はオープニングから昼過ぎの現実時制であったのである。それで読者の認識は落ち着くからいいはずなのだが、そこで賢治はまた、そこに「けれどもそれは夜どほしあるいてきたための」「vaguc(バーグ)な」(「ぼんやりとした」が一番よかろう)「銀」(太陽のハレーションか「異邦人」のムルソーの「太陽が眩しかったから」の感じか)「の錯覺」による感覚変調「なので」私には「朝」なのだ(或いは後の「靑い夢の北上山地からのぼつた」のだから私は未だに「靑い夢」の中にいるのだ、と謂いたいのかも知れぬ)、と日常性をまたしても覆して、自己の故意の錯視感覚へと読者を引き戻そうとするのである。さても、これは彼の特異で偏奇なる嗜好であり、それは、ある種の読者にとっては激しい苛立ちを起させるものとなるとも思っている。そういう意味では賢治は自身の行動や言動が他者にどう感じられるかということを、相手の立場に立って考えることが出来ない、アスペルガー症候群(Asperger Syndrome)に近い人格の持ち主であったように私は考えている。アスペルガー症候群は天才にも多いということは御存じであろう。ここの表現のまどろっこしさは、賢治には極めて大真面目でしかも論理的な〈つもり〉なのである。

「ひしげて融けた金(キン)の液体」日の出や日没時の太陽は大気の屈折(回折と蜃気楼等)のために、帆立貝・円柱・円盤・四角等、多様な形に変化するのは御存じの通り。

「どうしてそれらの鳥は二羽」/「そんなにかなしくきこえるか」/「それはじぶんにすくふちからをうしなつたとき」/「わたくしのいもうとをもうしなった」/「そのかなしみによるのだが」ここに賢治の非常に特異な心性がよく現われている。

彼の「悲しみ」は――私の愛する妹を失ったことによる――〈のではない〉――

のである。

愛する妹を失ったことが悲しみの核心――〈ではない〉――

のである。

彼は、二羽の鳥の鳴き声がいやまさに悲しく聴こえるのは、

「それは」自分〈「に」〉救う道を失った時、その時、同時に――「たまたま」――いや――「だから」かも知れない――愛する〈「わたくしの」〉「いもうとを」〈「も」〉「うしなつた」その「かなしみ」によるのだ

というのである。妹を失ったことは共時的に発生した副次的理由(そこに因果関係があるにしてもないにしてもそれは飽くまで二次的なものである)であって、

「わたくしの」「かなしみ」の核心は飽くまで――自分〈「に」〉救う道を失った――ことによる

というのである。この助詞の「に」が捩じれている。

「自分」の中「に」於いて、「自分」で「自分」「を救う道」を完全に「うしなつた」ことが「かなしみ」なのだ

と読むべきであろう。それはそれでよい。それは確かに真理であろう。我々は「わたくし」のこと、自分のことしか実際には真剣には考えられないものだろうからして。しかし、実は問題は別にある。論理を厳重に解析するのは賢治の性癖でもあろう。それは賢治が、

「自分」(=「わたくし」)の中で「自分」(=「わたくし」)を救う道を完全失ってしまったという「わたくし」(={自分」)の「かなしみ」、それに加えて、

その時、同時に逝ってしまった「わたくし」(=「自分」)「のいもうと」、「わたくしの」(=「自分」)愛するトシ「うしなつてしまった」「わたくし」(=「自分」)が「かなしいから」、

その「二羽」の「鳥」の鳴き声を「かなしくきこえ」させ「る」のだ

と言っている点である。何? 総てが「わたくし」「自分」の問題でしかないことは判ってるって? そうじゃない! 問題なのはこの文脈では、

逝った妹トシは、「わたくしの」ものであり、「自分」が今までずっと思っている通りの存在であるはずの「いもうと」まで「も」失ってしまった、だから悲しい

と言っている事実が問題なのだ。賢治が悲しいのは、

「自分」を唯一無条件に理解してくれていた、「わたしの」(物理的兄妹であること)、(それ以上に信仰や精神や魂までも共有していた)「わたし」だけのものであった「いもうと」まで「も」、私を置いて逝ってしまった

と誤認している点である。賢治は少なくとも、この詩篇のここでは、トシの現実世界での精神的存在を、彼の好きそうな詩語で言うなら、溶解した自身と融合体していたはずのもの(悪く言えば賢治の精神的所有物)と捉えているのである。賢治よ、トシの魂は、最早、君の思想や幻想の一部なんかじゃ、ないんだよ。トシは君の考えるより、遙かに孤高な思想を抱えて、遙かに君を慈愛の眼で見降ろして、「じぶん」を「すくふちからを」持って、あちらの世界へと旅立ったのだ。……さても……賢治がそれに気づくには……「銀河鉄道の夜」の着想を得るまで、待たねばならぬようだ……

「ゆふべは柏ばやしの月あかりのなか」前の「風林」である。

 

「すずらん」単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシ科スズラン亜科スズラン属スズラン変種スズラン Convallaria majalis var. keiskei。日本在来変種。私の偏愛する花。

「またたれともわからない聲が」/「人のない野原のはてからこたへてきて」/「わたくしを嘲笑したことか)」乖離した超自我が破戒の意識の中にある彼を嘲り笑うのである。それが実は自分の内なる自分自身そ糾弾する今一人の自分に声であることは判っている。だから「そのかなしみによるのだが」と呟かざるを得ないのである。

「まだほんたうにあの聲もかなしいのだ」現実へ戻る。二羽の鳥の声である。

「日本武尊の新しい御陵の前に」/「おきさきたちがうちふして嘆き」/「そこからたまたま千鳥が飛べば」/「それを尊のみたまとおもひ」/「芦に足をも傷つけながら」/「海邊をしたつて行かれたのだ」「日本武尊」は「やまとたけるのみこと」(「のみこと」をつけて賢治が読んでいるかどうかは不明だが、私はつけて読む)。「御陵」は「みささぎ」と訓じておく。倭建命(やまとたけるのみこと)が死後、白鳥となったとする伝承は記紀に載り、よく知られるが、そこでは通常、白鳥(鳥綱カモ目カモ科Anserinae 亜科に属する広義のハクチョウ類であるが、本来、古来から本邦に自然に飛来して来る種はオオハクチョウ Cygnus Cygnus とコハクチョウ Cygnus columbianus の二種のみであったと考えられる)とされるのである(私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 天鳶(はくちやう)〔ハクチョウ〕」を参照されたい)が、ここで賢治は「千鳥」(チドリ目チドリ亜目チドリ科 Charadriidae の属する種の総称(チドリという種は存在しない)。本邦では十二種が観察され、その内の五種が繁殖する。私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鴴(ちどり)」を参照されたい)としている。悲劇の英雄の変身するそれとしては大きなハクチョウが相応しいように見えるが、しかし、実は「白い千鳥」(種は不明)なので、賢治の謂いは正しいのである。道三(どうさん)氏のブログ「古事記演義」の「天翔ける巨大怪鳥ヤマトタケル」が細かな考証をされていて、読み物としても非常に面白いのでお薦めである。悲劇の人物はよく「白鳥」となって翔け去る。浦島太郎伝説の一ヴァージョンでも老人と化した浦島は白鳥(一説に白鶴)となって飛び去ったとする。この「白き鳥」とは浦島の鶴で推測出来るように、永遠の寿命を持った神聖な鳥なのである。その存在と同じ「白鳥」となったトシが、二羽で翔けてゆくのである。賢治は実際にはその一羽を自らに擬え、天空の彼方へトシと一緒に翔けり去ってしまいたかったのではなかったか。倭建命の挿話は、或いは、ここで生徒たちにその話を賢治が語ったのかも知れぬが、そうした死の願望を隠すための仕儀と私は読む。

「淸原」花巻農学校二年生であった清原繁雄。

「ガンダーラ」現在のアフガニスタン東部からパキスタン北西部にかけて紀元前六世紀から十一世紀の間存続した古代王国。一世紀から五世紀にかけては仏教を信奉したクシャーナ朝(中央アジアから北インドにかけて一世紀から三世紀頃まで栄えたイラン系王朝)のもとで最盛期を迎えた。一〇二一年にガズナ朝(現在のアフガニスタンのガズナを首都としてアフガニスタンからインド亜大陸北部の一帯を支配したイスラム王朝)のスルタン・マフムードにより征服された後、ガンダーラの地名は失われた。ガンダーラの最も有名な王であるインド・グリーク朝(紀元前二世紀頃から西暦後一世紀頃までの間、主にインド亜大陸北西部に勢力を持ったギリシア人の諸王国)のメナンドロスⅠ世は仏教徒となって以降、この地にギリシャ・シリア・ペルシャ・インドの様々な美術様式を取り入れた仏教美術を齎した。日焼けした頭の鉢の太いくりくり頭の清原君のそれが、眼に浮かぶ。面白いカットで可愛らしく終わって、エンディングとしては私は好きだ。

「さああすこに水があるよ」「古事記」の倭建命の部分の薨去パートである「思國歌(くにしのびうた)」の箇所で、山の神を討って死の元となる深手を負った直後、玉倉部(たまくらべ)の清水で休息して、いっときだけ、一心地をつくシーンを思い出した。]

2018/11/29

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 風林

 

        風  林

 

  (かしはのなかには烏の巢がない

   あんまりがさがさ鳴るためだ

ここは艸があんまり粗(あら)く

とほいそらから空氣をすひ

おもひきり倒れるにてきしない

そこに水いろによこたはり

一列生徒らがやすんでいる

  (かげはよると亞鉛とから合成される)

それをうしろに

わたくしはこの草にからだを投げる

月はいましだいに銀のアトムをうしなひ

かしははせなかをくろくかがめる

柳澤(やなぎざわ)の杉はなつかしくコロイドよりも

ぼうずの沼森(ぬまもり)のむかふには

騎兵聯隊の灯も澱んでゐる

⦅ああおらはあど死んでもい⦆

⦅おらも死んでもい⦆

  (それはしよんぼりたつてゐる宮澤か

   さうでなければ小田島國友

      向ふの柏木立のうしろの闇が

      きらきらつといま顫えたのは

      
Egmont Overture にちがひない

   たれがそんなことを云つたかは

   わたくしはむしろかんがへないでいい⦆

⦅傳さん しやつつ何枚、三枚着たの

せいの高くひとのいい佐藤傳四郞は

月光の反照のにぶいたそがれのなかに

しやつのぼたんをはめながら

きつと口をまげてわらつてゐる

降つてくるものはよるの微塵や風のかけら

よこに鉛の針になつてながれるものは月光のにぶ

⦅ほお おら……⦆

言ひかけてなぜ堀田はやめるのか

おしまひの聲もさびしく反響してゐるし

さういふことはいへばいい

  (言はないなら手帳へ書くのだ)

とし子とし子

野原へ來れば

また風の中に立てば

きつとおまへをおもひだす

おまへはその巨きな木星のうへに居るのか

鋼靑壯麗のそらのむかふ

 (ああけれどもそのどこかも知れない空間で

  光の紐やオーケストラがほんたうにあるのか

  …………此處(ここ)あ日(ひ)あ永(な)あがくて

      一日(いちにぢ)のうちの何時(いづ)だがもわがらないで……

  ただひときれのおまへからの通信が

  いつか汽車のなかでわたくしにとどいただけだ

とし子 わたくしは高く呼んでみやうか

  ⦅手凍(かげ)えだ⦆

  ⦅手凍えだ?

   俊夫ゆぐ凍えるな

   こないだもボダンおれさ掛げらせだぢやい⦆

俊夫といふのはどつちだらう 川村だらうか

あの靑ざめた喜劇の天才「植物醫師」の一役者

わたくしははね起きなければならない

 ⦅おゝ 俊夫てどつちの俊夫⦆

 ⦅川村⦆

やつぱりさうだ

月光は柏のむれをうきたたせ

かしははいちめんさらさらと鳴る

 

[やぶちゃん注:まず、標題であるが、「ふうりん」と読んでおく。風が吹く林の意の賢治の造語と思われる。本篇は大正一二(一九二三)年六月三日(日)の作とする。校本全集年譜には同日にには、本篇が詩篇として久し振りに(後述)書かれたことを記した上、『生徒を引率しての岩手登山中のスケッチ』と記す。しかし、この日にそのような岩手登山が決行されたとは一言も書かれていない(事実確認する資料が添えられていないということである)。稗貫農学校の岩手山登山は大正十一年から始まり、夏休みの行事であった旨の記載が全集にはあるが、それは夏に限らず頻繁に行われた(或いは学校から許可された)ものだったのか。前年のそれは明らかに賢治一人の引率であったように読め、これもどうもそんな感じがする。なお、この登山は先行する前年九月に行われたそれを題材とした「東岩手火山」を一読すれば判る通り、御来光を拝むことをメインとした、午後から登り出して、九合目の小屋で一泊する甚だ危険な山行である(私は一応、高校の山岳部の顧問の経験があるが、こんな遅い時刻の登攀は許可されないし、引率もしたくない。実際、本篇では「月光」が描写される)。さらに言っておくと、底本の「目次」では『一九二二、六、三』(原本で総て半角)であるが、実は初版本「目次」の原稿が一部残っており、そこで「一九二二」と書い後、最後の「二」を「三」に訂していることから、かく決定することに一応しておく但し、後掲する本篇の初稿断片でも、この「一九二二」が出るのはかなり不審である。後述する)。このクレジットは前作「無聲慟哭」(トシの死の当日、大正一一(一九二二)年十一月二十七日のクレジット)から七ヶ月後である(クレジットの問題は「無聲慟哭」の私の冒頭注を参照されたい)。本詩篇は本書以前の発表誌等は存在しない。本篇に限っては、「夜と柏」と題された清書後に手入れした原稿(断片か)が残っている(後掲する)。宮澤家版「手入れ本」では削除と削除痕(削除線を消しゴムで消した痕)が甚だ多く、最終的には全篇を削除していると採るのが至当であるらしい

・「(かしはのなかには烏の巢がない」本書用原稿では「烏」は「鳥」であり、校本全集校異では『おそらく誤植』とし、校訂本文を「鳥」とする。「正誤表」にない(「手入れ本」は削除志向として以下も扱わない)。まあ、普通に読むと、私は「烏」(からす)でなくて「鳥」(とり)であろうとは思う。

・「柳澤(やなぎざわ)の杉はなつかしくコロイドよりも」原稿は「柳澤(やなぎさわ[やぶちゃん注:「わ」はママ。])の杉はなつかしく」で「コロイドよりも」はない。「正誤表」に修正はない。しかし、この「コロイドよりも」はそもそもが意味が取れないから、とんでもない錯文の可能性が深く疑われる(全集校異には『語順誤植か』とする)「ざわ」は「さわ」の誤植であるが、「正誤表」に修正はない。しかし、校訂本文は「やなぎざわ」とし、「コロイドよりも」もそのままである。これはかなり不思議だ。

・「騎兵聯隊の灯も澱んでゐる」原稿では「澱」は「淀」。「正誤表」や「手入れ本」に修正はない。

「きらきらつといま顫えたのは」「顫えた」(ふるえた)の「え」はママ。原稿もママで「正誤表」や「手入れ本」に修正なく、校訂本文も「え」のママ。歴史的仮名遣では「顫へた」でないとおかしい。

・「わたくしはむしろかんがへないでいい⦆」末尾の二重丸括弧はママ。原稿は前に合わせて普通の丸括弧閉じるであるが、「正誤表」や「手入れ本」に修正はなく、全集校訂本文もここだけを二重丸括弧閉じるとする。しかし、これは本詩篇全体を見渡せば、丸括弧閉じると校訂するのが正しいと思うのだが。不思議。

・「…………此處(ここ)あ日(ひ)あ永(な)あがくて」原稿は「…………此處(ここ)あ 日(ひ)あ 永(な)あがくて」と字空けがある。「正誤表」や「手入れ本」に修正はない。

・「一日(いちにぢ)のうちの何時(いづ)だがもわがらないで……」の「一日」のルビは原稿では「いぢにぢ」。「正誤表」や「手入れ本」に修正はない。

 本書用原稿を見ると、標題は最初、「かしはばやしの夜」で、次に「風と哀傷」とし、三度目に「風林悲傷」とした後に、「傷」を消し、上の「悲」も削除したような形で決定されているようである。因みに、最初のそれは後に童話「かしはばやしの夜」の題名として転用されている。

 以下、「夜と柏」と題された清書後に手入れした原稿(断片か)の最終形を示す(漢字を正字化し、促音等も正字にした)。

   *

 

        夜と柏。(一九二二・六・三・)

 

こゝは草があんまり粗(あら)く、

空氣を吸ひ倒れるには適しない。

そこに水いろによこたはり

一列、生徒らがやすんでゐる。

 (陰はつめたさと亞鉛とでできてゐる。)

それをうしろへ、

私はこの草にからだを投げる。

月はいま次第に銀のアトムを失ひ、

柏はからだを黑くかがめる。

「あゝ、俺はあど死んでもい。」

「おらも死んでもい。」

 (それは宮澤かさうでなければ小田島國友、

  向ふの闇のところがきらきらつと顫ふのは

 Egmont Overture にちがひない。

  誰がいまの返事をしたかは私は考へないでいゝ。)

「傳さん、シヤツツ何枚、三枚着たの?。」

傳さんは月光のうしろの鈍い黃昏のなか、

きつと口をまげて人のよささうな笑ひかたをしてゐる。

降つて來るものはよるの微塵や風のかけら。

橫に鉛の針になって流れるものは月の光。

 

   *

「一九二二・六・三・」である。本書用原稿で誤ったものが、それ以前の草稿でも誤っているというのは、この草稿を見ながら、決定稿を書いたとすれば、やや判らぬでもない。しかし、草稿で誤り、完全時系列で構成している本書で目次部分でも誤る(最終的には修正不能の印刷上の誤植であるが、自筆目次原稿さえも西暦の一桁目を落とすというのは尋常ではない)というのは、普通は考えられない。私はこれは、トシの死を認めたくない賢治の無意識がやらかしてしまった「しくじり行為」の一つであると採れると思っている。

 

「かしは」「柏」「槲」。ブナ目ブナ科コナラ属コナラ亜属 Mesobalanus 節カシワ Quercus dentata。火山地帯では群落がしばしば見られる。カシワの葉は柏餅のそれでお判りの通り、大きく厚いために「がさがさ鳴る」ことは事実だが、だから鳥が厭がって「巢がない」とは言えないだろう。葉には殺菌作用のある芳香のあるオイゲノール(eugenol)が含まれるが、それを鳥が忌避するとも思われない。山のひっそりとした柏林を措定するための感覚的表現であろう。

「ここは艸があんまり粗(あら)く」/「とほいそらから空氣をすひ」/「おもいきり倒れるにてきしない」下草が岩肌を覗かせて疎らであるか、がさついた藪であるために、登攀の一本をとるのに深呼吸をして、ぱったりと思いっきり倒れるには適していないというのである。生徒たちはかなりバテているようだ。

「水いろ」月光を受けていることを指すのあろう。後の「かげはよると亞鉛とから合成される」も月「影は夜と亜鉛」(青白色を帯びて鈍い光沢を有する)「から合成され」て、疲れ切った少年たちを深く静かに取り巻いているのである。

「銀のアトムをうしなひ」低い位置からの月光の鋭く突き刺すようなそれが、時間の経過に伴って中天へと動くことでソフトに変化し、身に馴れて穏やか感ぜられるようになったことを、月の光の中の銀の原子の衰弱として捉えたものであろう。

「柳澤」現在の岩手県滝沢市柳沢。ここ(グーグル・マップ・データ)。西端に岩手山神社があり、そこから北西に三キロ半行ったところに、「馬返し」登山口がある。

「ぼうずの沼森(ぬまもり)」「ぼうず」は月光の指す中にこんもりと丸く見えることの謂いであろう。「沼森」は現在の岩手県滝沢市鵜飼沼森。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「騎兵聯隊」松井潤氏のブログ「HarutoShura」の本作の解説(分割)で、『騎兵第』三『旅団(第』二十三及び第二十四『聯隊)のことで』明治四二(一九〇九)『年に盛岡市厨川に創設され』たとされ、『詩人は、岩手山中腹辺りに立っているとみられ』るとされ、ギトン氏はこちらで、『騎兵連隊のあった場所は分かりませんが、小岩井農場に騎兵が現れることもあったようですから、この近くに駐屯地があったのでしょう。現在、射撃場のあるあたりだ』った『とすると、柳沢から見て「沼森」の手前になりますが』とされる。

「柳澤の杉はなつかしくコロイドよりも」/「ぼうずの沼森(ぬまもり)のむかふには」/「騎兵聯隊の灯も澱んでゐる」この三行を眺めていると、

柳澤の杉はなつかしく

ぼうずの沼森(ぬまもり)のむかふには

騎兵聯隊の灯もコロイドより澱んでゐる

という文字列の組み替えをしたくなる。聯隊内の電「灯も」闇の中に溶け込んでしまって「コロイドより」粒立ちを失って「澱んでゐる」ようにべったりと見える、というのはどうか?

「ああおらはあど死んでもい」/「おらも死んでもい」「あぁ! 俺(おら)はもう、後(あと)、死んでもいい!」「俺も、死んでも、いいわい!」と、歩き疲れた生徒たちが暗闇の中で、次々に音を挙げる。

「宮澤」ブログ「宮澤賢治の詩の世界」の「《ああおらはあど死んでもい》の話者」によれば、「新校本全集 第十六巻(下)補遺・伝記資料篇」に『掲載されている「稗貫郡立農蚕講習所・稗貫農学校・花巻農学校在職時指導生徒卒業生名簿」を参考にすると』、これは大正一四(一九二五)年三月の『卒業生の「宮沢(臼崎)吉太郎」のことかと推測され』るとある。

「小田島國友」前記ブログで大正一三(一九二四)年三月の卒業生とし、『大正』十四『年卒業生は、この詩が書かれた時点では第』一『学年、大正』十三『年卒業生は第』二『学年』であったとされる。

「柏木立」「かしはこだち」。

Egmont Overture」ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven 一七七〇年~一八二七年)の、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe 一七四九年~一八三二年)の一七八七年の同名の戯曲のために作曲した劇付随音楽「エグモント」(Egmont:作品八十四)の序曲。曲についての解説はウィキの「エグモント(劇音楽)」を参照されたいが、『作品の題材は、エフモント(エグモント)伯ラモラールの物語と英雄的行為である。作品中でベートーヴェンは、自らの政治的関心を表明している。圧政に対して力強く叛旗を翻したことにより、死刑に処せられた男の自己犠牲と、とりわけその英雄的な高揚についてである。初演後、この楽曲には称賛の評価がついて回った。とりわけ』、ドイツの幻想作家として知られるエルンスト・テオドール・アマデウス・ホフマン(Ernst Theodor Amadeus Hoffmann 一七七六年~一八二二年:私の偏愛する作家である)『がこの作品の詩情を賛えたものが名高く、ゲーテ本人もベートーヴェンは「明らかな天才」であると述べた』とある。そちらで序曲部分を手短に聴け、以下に諸演奏へのリンクもある。ウィキの「ラモラール・ファン・エフモント」によれば、ラモラール・ファン・エフモント(オランダ語:Lamoraal van Egmont 一五二二年~一五六八年)は『フランドルの軍人、政治家。八十年戦争初期の指導者の一人』。当時、『ネーデルラント地方を支配していた神聖ローマ皇帝カール』Ⅴ『世のアルジェ遠征に従軍』、一五五四年、『イングランドへ渡り、カールの子フェリペ(フェリペ』Ⅱ『世)とメアリー』Ⅰ『世の婚儀を成立させた』一五五七年にはフェリペⅡ世の『対フランス戦におけるフランドル騎士団の指揮官を任じられ』翌年の『サン・カンタン、グラヴリーヌ』の戦い『で戦功を挙げ』、一五五九年、『フェリペからフランドル、アルトワ両州の知事に指名された』。その後、『故郷に戻り、スペインによるネーデルラント属領支配に憤った彼は、カルヴァン派の浸透し始めた地元ブルジョワ階級に支持を受け、オラニエ公ウィレム』Ⅰ『世、ホールン伯フィリップらとともに、フェリペの派遣した総督でパルマ公妃マルゲリータおよび枢機卿グランヴェルの専制に抵抗し』、一五六四『年には、グランヴェルをスペインへ退去に追い込んだ』。『しかし』、『フェリペが宗教裁判政策を改めることはなく、ラモラールはその緩和のためにスペイン宮廷へ赴くが、むなしく帰国した。その後』一五六六『年に組織された中小貴族の反対同盟には加わらなかったが、ラモラールに対する王の疑惑は解けなかった』。翌年、『新総督アルバ公フェルナンド・アルバレス・デ・トレドが着任すると』、『ただちに逮捕され、翌年の裁判でモンモランシーとともに死刑を宣告されてブリュッセルで斬首刑に処された』とある。以前の「マサニエロ」といい、この手の悲劇的結末に終る英雄は修羅に生きると自認した賢治の好みではあったらしい。そこはまたそうした解析のお好きな方に丸投げすることとする。寧ろ、私にはその解剖されたエグモントの処刑の意味よりも、ここでの、「向ふの柏木立のうしろの闇が」/「きらきらつといま顫えたのは」/「Egmont Overture にちがひない」という、賢治の特異な視覚的変調と聴覚的共感覚の器楽的幻覚に非常に強く惹かれる。こんなところも、突如、あばら家にベートーヴェンが鳴り響くタルコフスキイ(「ノスタルジア」Nostalghia):イタリア・ソ連合作。一九八三年公開)とすこぶる親和性があるように思われるのである

「たれがそんなことを云つたかは」/「わたくしはむしろかんがへないでいい」これが賢治の内的な急激な精神変調の呼び水となっている。「そんなこと」とは最初の「⦅ああおらはあど死んでもい⦆」を指す。これは即ち、先の「永訣の朝」の臨終間際のトシの言葉「(Ora Orade Shitori egumo)」(おら、おらで、しとり、えぐも)を賢治にフラッシュ・バックさせてしまうのである。

「傅さん しやつつ何枚、三枚着たの」賢治が「傳さん」に呼びかけた。「傳さん」「佐藤傳四郞」は先のブログ「宮澤賢治の詩の世界」の「《ああおらはあど死んでもい》の話者」によれば、大正一三(一九二四)年卒業生にいるとある。

「月光の反照のにぶいたそがれのなかに」「月光の反照」(はんせう:照り返し。)「の鈍い黃昏の中に」。

「降つてくるものはよるの微塵や風のかけら」常套的な星の降るような夜空に比して何とオリジナリティのある表現であることだろう。しかも、この縦(垂直)の幻想の自由落下に対し、横「に鉛の針になつてながれる」「月光」を挿し入れるのも憎い。

「にぶ」「鈍」。「鈍色(にびいろ)」「にび」と同義の色名。薄墨に藍をさした染色の伝統色名のこと。濃い鼠色。リンクするまでもないかろうが、色見本サイトのそれ

「堀田」ブログ「宮澤賢治の詩の世界」の「《ああおらはあど死んでもい》の話者」によれば、やはり、大正十三年卒業生の堀田昌四郎と思われるとする。

「⦅ほお おら……⦆」/「言ひかけてなぜ堀田はやめるのか」/「おしまひの聲もさびしく反響してゐるし」/「さういふことはいへばいい」/「(言はないなら手帳へ書くのだ)」或いは、堀田は「はあぁ、おら、もうこれ以上、歩けん」とはっきり表明しかけて口ごもったのかも知れない。しかしそうだとしても、変調をきたした賢治にはそうした余韻として響きはしない。先の通りの「ほお おらもあど死んでもい」であり、その声は闇に、大地に、空に、宇宙に「おら、おらで、しとり、えぐも」というトシの声となって反響するのである。その幻しのトシの声に対して賢治は、「さういふことはいへばいい」/「(言はないなら手帳へ書くのだ)」という、如何にも脆弱で無効な彼賢治にしか適応不可能な処方として投げ出されるのである。生徒に言うなら確かにメモせよだろう、メモするのは何を使う? お前は彼女が欲しがった色鉛筆さえ与えてやれなかったのではなかったか? 言って楽になることもあるであろう、言っても書いてもその恐怖から逃れられぬものもあるであろう、しかし、今、ここではそうした施術は何の効果も齎さず、遂にトシの魂への呼びかけとなって、生徒たちは消え失せ、賢治の立っている空間は、一瞬にして野と風と柏の林から遂には宇宙空間へと変容してゆくのである。

「おまへはその巨きな木星のうへに居るのか」ギトン氏は本詩篇については一貫して、この詩篇が創作されたとする日に生徒を引率して岩手山登山が行われたとして、検証しておられ、このシーンは実際の木星が見えていたとこちらで述べておられる。これは、この晩にちょうど木星が、よく見える位置にあったためと思われ』、『午前〇時の星図を見』る『と、この夜は、木星が南西の空に出ていた』ことが判るとして、サイト「賢治の事務所」の大正一二(一九二三)日の夜空の星座図がある『「風林」の創作』がリンクされてある。ああ! 蝎の目の前だねえ、ジョバンニ!

「鋼靑壯麗」「鋼靑」「谷」にも既に出たし、「銀河鉄道の夜」に出現するが(「六 銀河ステーシヨン」の冒頭。『そしてジヨバンニはすぐうしろの天氣輪の柱がいつかぼんやりした三角標の形になつて、しばらく螢のやうに、ぺかぺか消えたりともつたりしてゐるのを見ました。それはだんだんはつきりして、とうとうりんとうごかないやうになり、濃い鋼靑のそらにたちました。いま新らしく灼いたばかりの靑い鋼の板のやうな、そらの野原に、まつすぐにすきつと立つたのです』の一箇所)、他で私は見たことがない。賢治の造語と思われる。鋼(はがね)の紫色を帯びた切れるよう冴えた青のことか。

のそらのむかふ

「ああけれどもそのどこかも知れない空間」トシがいる時空間を指す。既に木星などという名指すことの出来る既知的世界でないことを賢治は無意識で感じている。そこは日蓮宗等によって安心立命する世界ではない(そもそも仏教はその元からして変生男子(へんじょうなんし)説(女は男に生まれ変わらないと往生出来ない)を抱えている)ことも、賢治は直感的に判っている。

「光の紐やオーケストラ」エグモントに引かれた連想と思われる。天界の音楽を光波のあざなえる紐に喩えたものか。

「ほんたうにあるのか」賢治にしてこうした彼の幻想を支えるものへの根源的懐疑のはっきりした表明は珍しい。これはある意味、彼には致命的な懐疑であり、危険である。

「…………此處(ここ)あ日(ひ)あ永(な)あがくて」/「一日(いちにぢ)のうちの何時(いづ)だがもわがらないで……」というトシからの、霊界からの通信が「ただひときれ」、「いつか汽車のなかでわたくしにとどいただけだ」った、という驚天動地の事実(幻覚・夢想)が語られる。永劫の光明の中にいるというのか? 賢治の性癖には悪戯っぽいところがあり、虚構の怪談を語って周囲を怖がらせたりすることもあったし、童話の多くにはそうした霊界や異界性を狙ったものもはなはだ多い。しかし、どうも私はこの話はそうした創作や文学的虚構ではないように思われる。精神変調の中で実際に見た(と思っている)一通の霊界通信を読み、それは瞬時に消え失せたのであろう。汽車に乗っている際の短い夢であったとしてもそれは、確かな霊体験として賢治には意識されいるのである。

「とし子 わたくしは高く呼んでみやうか」トシの肉声の応答を求めて賢治は彼女の名を高く叫ぼうとする、と、――「手凍(かげ)えだ」(手が凍(こご)えた)――と生徒の会話で、賢治は「はっ」と現実へと帰還するのである。

「俊夫ゆぐ凍えるな」「俊夫は、よく凍えるなぁ。」。

「こないだもボダンおれさ掛げらせだぢやい」「こないだも、自分のボタン、俺に掛けさせたじゃないか。」。

「俊夫てどつちの俊夫」「川村」ブログ「宮澤賢治の詩の世界」の「《ああおらはあど死んでもい》の話者」によれば、『字が一つ違っていますが、大正』一三(一九二四)『年卒業生の「長坂(川村)俊雄」と推測され』、『「どっちの俊夫」とあるのは、同じ学年に「高橋俊雄」もいるためで』あろうとある。次注も参照のこと。

「あの靑ざめた喜劇の天才」『「植物醫師」の一役者』「植物醫師」は
慟哭」の注で示した、この前月の五月二十五日に県立花巻農学校開校式で、賢治が演出して上演された自作劇「異稿 植物医師」(リンク先は渡辺宏氏の「宮沢賢治 Kenji-Review」の第八百五十七号)のこと。ギトン解説によれば、『河村俊雄(「川村俊夫」は賢治の誤字)も、小田島、佐藤と同級ですが、「喜劇の天才」は事実でした。そもそも、河村は、友達の受験の付き添いで来ていたのを、賢治が気に入って受験させ、その後は村長を動かし、両親を説得させて入学させた経緯があります。賢治はよほど河村が気に入っていたらしく、「植物医師」という戯曲は、河村の役柄に合わせて書いたと言われるほどです』とある。畑山博「教師 宮沢賢治のしごと」(初版一九八八年小学館刊)によれば、『長坂俊雄は「植物医師で」主役の爾薩待』(恐らくは「にさつたい」と読む。先の渡辺氏の電子化では「待」を「侍」と誤っているので注意されたい)『医師をやった。この劇は、初めは英語劇としてやるはずだったが、準備が整わず、ふつうの岩手弁の野外劇でやられることになった』とし、以下、長坂の証言として、『「わたしは医師ですから、白衣を着て、聴診器を持って診察室で待っているのです。するとそこへ、稲の病気で困っている農民が相談にやってくる。と、病人は稲なのに、お医者はいきなりその農民の脈の方を診ようとしてしまうのですね。やっていて、自分でおかしくて、おかしくてどうしようもないような劇でしたよ」』。『「それで、脈をとるとき、もう片方の手で懐中時計をポケットから出して演ずることになっていたのです。それを、わたしは、賢治先生には内緒で、シャツの下に大きな目覚まし時計を隠しておいて、いきなり取り出してみせたんです。すると観客はもちろん、賢治先生も大喜びで、わたしに喜劇の天才というあだ名をくれたのです……」』とある

「わたくしははね起きなければならない」ここは泊まった九合目の小屋の中の景で終わっているか。そこまでの実景が説明されねばならない理由はないから、それでよいのである。変調した危ない夢想にあっても、本能的に教師であった賢治は彼らを正しく岩小屋へ導いていたと考えれば、かえって読む我々もどこか、ほっと安心するではないか。]

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 無聲慟哭

 

           

 

こんなにみんなにみまもられながら

おまへはまだここでくるしまなければならないか

ああ巨きな信のちからからことさらにはなれ

また純粹やちいさな德性のかずをうしなひ

わたくしが靑ぐらい修羅をあるいてゐるとき

おまへはじぶんにさだめられたみちを

ひとりさびしく往かうとするか

信仰を一つにするたつたひとりのみちづれのわたくしが

あかるくつめたい精進(じやうしん)のみちからかなしくつかれてゐて

毒草や螢光菌のくらい野原をただよふとき

おまへはひとりどこへ行かうとするのだ

  (おら、おかないふしてらべ)

何といふあきらめたやうな悲痛なわらひやうをしながら

またわたくしのどんなちいさな表情も

けつして見遁さないやうにしながら

おまへはけなげに母に訊(き)くのだ

  (うんにや ずゐぶん立派だぢやい

   けふはほんとに立派だぢやい)

ほんたうにさうだ

髮だつていつさうくろいし

まるでこどもの苹果の頰だ

どうかきれいな頰をして

あたらしく天にうまれてくれ

  ⦅それでもからだがくさえがべ?⦆

  ⦅うんにや いつかう⦆

ほんたうにそんなことはない

かへつてここはなつののはらの

ちいさな白い花の匂でいつぱいだから

ただわたくしはそれをいま言へないのだ

   (わたくしは修羅をあるいてゐるのだから)

わたくしのかなしさうな眼をしてゐるのは

わたくしのふたつのこころをみつめてゐるためだ

ああそんなに

かなしく眼をそらしてはいけない

  

[やぶちゃん注:以下の『註』は「永訣の朝」で示した通り、「無聲慟哭」の最終行のある底本の百九十ページと百九十一ページの見開きに、詩篇本文二行分を空けて、全体が八字下げで示されてあるが(原本画像)、ブラウザの不具合を生じるので、かく上げてある。]

 

 

 ※あめゆきとつてきてください

 ※あたしはあたしでひとりいきます

 ※またひとにうまれてくるときは

  こんなにじぶんのことばかりで

  くるしまないやうにうまれてきます

 ※ああいい さつぱりした

  まるではやしのなかにきたやうだ

 ※あたしはこわいふうをしてるでせう

 ※それでもわるいにほひでせう

 

[やぶちゃん注:本書の目次では前の「永訣の朝」「松の針」と合わせて以上の三篇を大正一一(一九二二)年十一月二十七日のクレジット、トシの死の当日(トシはこの日の夜午後八時三十分、満二十四歳(十一月五日が彼女の誕生日であった)で亡くなった)とするであるが、これはどう見ても、この日にこの三篇が書き得たとは、当日の臨終後の賢治の悲痛な状況(押入れに首を突っ込んで慟哭した)から見ても、到底、信じられない。以下、この点について考証する。

 まず以って、「永訣の朝」という標題の「永訣」という語は、トシが永遠に去ったその日に附し得るものではないと思う(少なくとも私には出来ない)。

 さらに冷静に観察すれば、「永訣の朝」「松の針」は時系列で整然と並んで配されてあり、それは「永訣の朝」の取り敢えずの既定形が出来たことを踏まえて、「松の針」が、やおら、創作され、しかもやはり安定した既定形が出来上がっていると読める。「無聲慟哭」はやはりその題名自体が、まさに深く静かに考えて、この時の自分のぎりぎりの悲傷の極みであるはずの心象を詩語にモデイファイ(「mental sketch modified」)する余裕を見せて創作され、配置されていると言える。

 これは、明らかにトシの死から有意な時間の経過が必要な仕儀である(そうしたことが瞬時に出来るのが詩人宮澤賢治だというならば、私は宮澤賢治という男を人間として逆に信用出来なくなる。それは死臭の芬々たる中で超然として小奇麗な和歌を苦吟する藤原定家みたような非人間性を覚えるからである)。

 だいたい、冒頭の「永訣の朝」の起筆が「けふのうちに」/「とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ」で始まるのは、それを後に読む読者が既にしてこの人はもう亡くなっているという感覚のもとに読まれることを確信犯で前提としているのである。

 校本全集年譜に拠れば、賢治はトシの死後、現在知られる限りでは、本格的な詩作に関しては(文語詩篇ノートに同年十二月にメモらしきものはあるが、詩篇ではない)、次に載る「風林」の翌大正一二(一九二三)年六月三日まで、実にトシの死からは六ヶ月、前に書かれた「栗鼠と色鉛筆」からは七ヶ月近くも行っていないのである(但し、既に作られてあった本書で先行する「東岩手火山」の初期形「心象スケツチ 外輪山」と童話「やまなし」を四月八日附『岩手毎日新聞』に発表したり(「東岩手火山」で既注)、童話「氷河鼠の毛皮」(『岩手毎日新聞』(四月十五日附)や童話「シグナルとシグナレス」(五月に『岩手毎日新聞』に十一回で連載)したり、五月二十五日の県立花巻農学校(稗貫郡立稗貫農学校へ昇格した)新校舎(町の郊外に別に建築された)完成による開校式で自作劇「異稿 植物医師」(このリンク先は渡辺宏氏の「宮沢賢治 Kenji-Review」の第八百五十七号。そこに『初演形の台本は残っていな』い『が、出演した農学校生徒が記憶から書き起こし、再現』したものが電子化されてある)と「飢餓陣営」を演出・上演しており、文芸活動が沈滞していたわけではない)。

 トシの死の衝撃を考えれば、これは尤もな話であり、本三篇は、概ね、この詩篇封印の時間の中で醸成されたものと考えてよい。これらを決定稿に至らせずに、「風林」を書くことは、賢治には出来なかったと私は思われる。そうした「無聲」沈黙の行の中でこの三篇は産みの苦しみの末に誕生したものと捉えている。

 かく考えると、本書の「目次」クレジットの幾つかにある二重丸括弧(⦅ ⦆)の謎を解く鍵がここにはある気はする。それを持つのは、これより前の「春と修羅」「眞空溶媒」「靑い槍の葉」「原體劔舞連」だけで、本三篇以降に存在しない。

 「靑い槍の葉」は既に注した通り、本書刊行以前に「國柱會」の機関紙『天業民報』の大正一二(一九二三)年八月六日附に掲載されるという特異点の詩であるから、推敲が通常の詩よりも重ねられたことが窺え、全集年譜を見ると、創作クレジットの大正一一(一九二二)年六月十二日の条には、『この詩を労働歌として田植えの時生徒に歌わせる』とあるのである。これは田植え唄であり、唄わせてみて、歌詞としての唄い易さ等を勘案したと考えるのが自然であり、さすれば、これはこの日にプロトタイプが出来、しかも唄として実際に生徒らに歌わせ、後に『天業民報』にも発表し、本書で決定稿としたのであればこそ、この原型からは大きく変わった可能性が高い。さればこそ、その⦅起点日⦆として丸括弧が使われていると読める。

 それ以外の「春と修羅」「眞空溶媒」「原體劔舞連」は本書の中でも、「無聲慟哭」パートの三篇を別格として、ある種の「心象スケツチ」のクライマックス或いは外輪山のピークを成す中・長篇詩であり、本書用原稿の推敲跡や刊行後の手入れを見ても、原型に対する初期推敲がかなり綿密に行われていることが推測されるのである。

 それらは確かに、そのクレジットの日に起筆し、その日のうちに、一つの心象像として一応の完結したソリッドな詩形を成したものではあるが、その後に複数回、有意な改変が行われて決定稿となったのであり、それをよく理解している賢治は、そうした詩篇の産みの苦しみを自ら記憶するために、或いは、読者のここから後にはこの二重丸括弧の詩篇のグラデーションがずっと残って行くということを伝えたかったからなのではないかと思うのである。

   *

 本詩篇「無聲慟哭」の注に戻る。本詩篇は本書以前の発表誌等は存在しない。トシの死の前後に状況は前の「永訣の朝」の私の注を参照されたい

・「おまへはまだここでくるしまなければならないか」藤原嘉藤治所蔵「手入れ本」では、

 おまへはまだここでくるしまなければならないのか

とする。

・「精進(じやうしん)」のルビはママ。原稿は「しやうじん」であるから誤植であるが、「正誤表」になく、「手入れ本」の補正もない(ルビで見落とした可能性が大)。校本全集校訂本文は驚くべきことに「じやうしん」のママである。

・「(おら、おかないふしてらべ)」原稿は「(※おら、おっかなぃふうしてらべ?)」(「※」は他(前の二篇にも)にも見られ、『註』と対応させるための記号。最終校正で本文詩篇からは総て除去したものと思われる)である。最終校正で変更したものらしい。

・「⦅それでもからだがくさえがべ?⦆」/「⦅うんにや いつかう⦆」の二重丸括弧はママ。原稿は前後と同じ普通の丸括弧である。「正誤表」なし、「手入れ本」修正なし。とすれば、最終校正でここをかく二重丸括弧にして強調した可能性が強い

 

「無聲慟哭」個人的感懐であるが、私は後年、「源氏物語」の「夕顔」の帖の、夕顔が亡くなり、結局、その通夜の席に向かった光源氏が、粗末な板屋の中で僧らが無言念仏(ごくごく低声(ひきごえ)で声にならない念仏を唱えること。葬送の前にこれを唱えると、十五の功徳があるとされた)を唱える中、光が夕顔の亡骸に最後の悲傷に満ちた対面をするシークエンスを読んだ瞬間、「これこそ賢治の無声慟哭だ!」と思わず叫んでしまったのを思い出す。

   *

 道遠くおぼゆ。十七日の月さし出でて、河原[やぶちゃん注:賀茂河原。]のほど、御前驅(みさき)の火もほのかなるに、鳥邊野(とりべの)の方など見やりたるほどなど、ものむつかしきも、何ともおぼえたまはず、かき亂る心地したまひて、おはし着きぬ。

 邊りさへすごきに、板屋のかたはらに堂建てて、行へる尼の住まひ、いとあはれなり。御燈明(みあかし)の影、ほのかに透きて見ゆ。その屋には、女一人[やぶちゃん注:夕顔の侍女右近。]泣く聲のみして、外の方に、法師ばら二、三人物語しつつ、わざとの聲立てぬ念佛ぞする。寺々の初夜(そや)[やぶちゃん注:午後十時過ぎ頃の勤行。]も、みな行ひ果てて、いとしめやかなり。淸水(きよみづ)の方ぞ、光多く見え、人のけはひもしげかりける。この尼君の子なる大德(だいとこ)の聲たふとくて、經うち讀みたるに、淚の殘りなく思さる。

 入りたまへれば、火取り背(そむ)けて、右近は屛風隔てて臥したり。いかにわびしからむと、見たまふ。恐ろしきけもおぼえず、いとらうたげなるさまして、まだいささか變りたるところなし。手をとらへて、

「我に、今一度、聲をだに聞かせたまへ。いかなる昔の契りにかありけむ、しばしのほどに、心を盡くしてあはれに思ほえしを、うち捨てて、惑はしたまふが、いみじきこと。」

と、聲も惜しまず、泣きたまふこと、限りなし。

 大德たちも、誰(たれ)とは知らぬに、あやしと思ひて、皆、淚落としけり。

 右近を、

「いざ、二條へ。」

とのたまへど、

「年ごろ、幼くはべりしより、片時たち離れ奉らず、馴れきこえつる人に、にはかに別れたてまつりて、いづこにか歸りはべらむ。いかになりたまひにきとか、人にも言ひはべらむ。悲しきことをばさるものにて、人に言ひ騷がれはべらむが、いみじきこと。」

と言ひて、泣き惑ひて、

「煙(けぶり)にたぐひて、慕ひ參りなむ。」[やぶちゃん注:御主人様の火葬の烟と一緒になって、お跡を慕って追い申し上げまする。]

と言ふ。

「道理(ことわり)なれど、さなむ世の中はある[やぶちゃん注:かように世の中は無常なものなのだ。]。別れといふものの悲しからぬはなし。とあるもかかるも、同じ命の限りあるものになむある。思ひ慰めて、我を賴め。」

と、のたまひこしらへて、

「かく言ふ我が身こそは、生きとまるまじき心地すれ。」

とのたまふも、賴もしげなしや。

 

   *

「ああ巨きな信のちからからことさらにはなれ」/「また純粹やちいさな德性のかずをうしなひ」/「わたくしが靑ぐらい修羅をあるいてゐるとき」トシの末期を前にして、賢治自身が露悪的に修羅道(それは自身の日蓮宗への信仰に対する激しい揺らぎを意味していよう)を彷徨している自己を暗示的に暴露する。いや、それを暴露することによって、実は逆にトシを襲う死に拮抗し、それを遠ざけようとする原始的な類感呪術的なものをも私は感ずる。

「信仰を一つにするたつたひとりのみちづれのわたくしが」/「あかるくつめたい精進(じやうしん)のみちからかなしくつかれてゐて」/「毒草や螢光菌のくらい野原をただよふとき」/「おまへはひとりどこへ行かうとするのだ」「螢光菌」については、広く真正細菌 Bacteria 類には蛍光色素を持つ種が認められるが(例えば、プロテオバクテリア門 Proteobacteriaガンマプロテオバクテリア綱 Gammaproteobacteria シュードモナス目シュードモナス科シュードモナス属 Pseudomonas 等)、ここは「毒草」との並列、おぞましい「修羅」の妖光という属性から見て、一科一属一種の原始的かつ貴重なコケ植物で、暗所では金緑色(エメラルド色)に光る、マゴケ(真苔)植物門マゴケ綱マゴケ亜綱シッポゴケ目ヒカリゴケ科ヒカリゴケ属ヒカリゴケ Schistostega pennata をイメージしていると採っておく(農科学者である賢治を考えれば、真正菌類でも構わない)。ウィキの「ヒカリゴケ」によれば、『北半球に分布し、日本では北海道と本州の中部地方以北に、日本国外ではロシア極東部やヨーロッパ北部、北アメリカなどの冷涼な地域に広く分布する。洞窟や岩陰、倒木の陰などの暗く湿った環境を好む。日本の自生地にはマッカウス洞窟(北海道目梨郡羅臼町)、長野県佐久市や光前寺(長野県駒ヶ根市)、群馬県嬬恋村(浅間山溶岩樹型)、吉見百穴(埼玉県)、北の丸公園(東京都)などがある』。『小型のコケ植物で配偶体(茎葉体)は』一センチメートル『程度。葉は披針形で、朔柄は』五ミリメートル『程度で直立し、先端につく朔は球形。原糸体(胞子から発芽した後の糸状の状態)は、一般的な蘚類が持つ糸状細胞の他に、直径』十五マイクロメートル(一マイクロメートルは〇・〇〇一ミリメートル)『程度の球状であるレンズ状細胞を多く持つ』。『ヒカリゴケは自力で発光しているのではなく、原糸体のレンズ状細胞が暗所に入ってくる僅かな光を反射することによる。またレンズ状細胞には葉緑体が多量にあるため』、『反射光は金緑色(エメラルド色)になる』。『生育環境の変化に敏感で、僅かな環境変化でも枯死してしまうほどに脆い存在である。そのため』、『生育地である洞窟の開発や大気汚染、乾燥化などの影響を大きく受けて、その個体数は減少し続けていると言われており、絶滅が危ぶまれている。日本ではその生育地の大部分は国立公園内にあり、採取は規制されているほか、国や地方自治体により天然記念物に指定されている』とある。「信仰を一つにするたつたひとりのみちづれのわたくしが」は、話者である賢治にしてみれば、無論、日蓮宗であり、トシは賢治に誘われて、彼が、歌人で父方の親戚筋に当たる関徳弥らと開いていた法華経輪読会にも参加したりしたことがあり、末期の様子からも賢治は、彼女を当然の如く、自身と同行二人の日蓮宗信徒としての認識を持って言っている謂いであることは疑いない。しかし、トシの信仰はもっとオリジンなものであったようである。私が感銘した賢治関連書の一つに、山根知子氏の『宮沢賢治 妹トシの拓いた道―「銀河鉄道の夜」へむかって―』(二〇〇三年朝文社刊)があるが、その「第二部。第一章 賢治の前を歩いたトシ」で、山根氏は短い生涯の中でトシが辿った信仰遍歴を解説され、最後に、トシ直筆の「自省録」『における宗教的表現を追ってゆくと(なお、「自省録」引用中の「彼女」はトシ自身を指す)、「実在」「絶対者」「彼女の深い深いところにある本然の声」といった言葉をはじめ、特定の宗教に還元されない表現によって語り進められているところが多い。そのなかに「彼女は今こそ神と人との前にひれ伏さねばならない。/わがあやまちを許させたまへ/と祈らねばならぬ」「神の前に本当の謙遜を教へられた」ほか、「神を求める」「讃美」などキリスト教的表現があり、また「願はくはこの功徳を以て普ねく一切に及ぼし我等と衆生と皆倶に」という法華経の一節が使われていたり』、『「一念三千の理法や天台の学理は彼女には今は口にするだに僭越ではあるけれども、彼女の理想が小乗的傾向を去って大乗の煩悩即菩提の世界に憧憬と理想をおいてゐる事は疑ひなかった」などの仏教的表現がキリスト教的表現とも混在しながらなされており、最終的には既成の宗教の形にとらわれないでむしろそうした宗教の根底にある宇宙の生命と深く触れ、自己と宇宙との正しい関係を得ることがめざされている』。『トシの意識』は『既成の宗教にとらわれないで宗教の根底にある「宇宙の霊」をめぐる内容を指し示そうとして、その概念を示しやすい既成の宗教の表現を借りたというのが真実だろう』。この『トシの言葉から、宗教の生命に触れようとする姿勢が』『確認される。これらのトシの姿勢と相対して賢治の信仰に対する姿勢を改めて概観すると、一六歳の年に』『歎異砂信仰を父に対して宣言したことからはじまり、一八歳の年の『漢和対照 妙法蓮華経』との出会いにより』、『新たに法華経信仰および日蓮への帰依の思いが深まり、一九二〇(大正九)年末には日蓮主義団体の国柱会に入会してのち翌年一月に家出上京する頃まで、賢治の姿勢は長男として父に信仰的に自立した自分を見せたいあまりに、性急に自らの身を既成宗教や既成団体に徹底帰属させようとするものと見受けられる。しかし、のちにトシの死後において、一九二六(大正一五)年六月頃に善かれた「農民芸術概論綱要」では既成宗教に対して「宗教は疲れて」いると批判の姿勢を見せ、童話「銀河鉄道の夜」(初期形第三次稿)においては「ほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだらう」と宗教の根底で通じ合う価値観が示され、一九二九(昭和四)年(推定)の書簡』『では「宇宙意志」を第一義として語るようになるなど、トシの姿勢に近づいてくるのである。このように見てくると、「信仰を一つにするたつたひとりのみちづれ」とトシの死に際して語ったトシの信仰への思いを、賢治は残された人生の歩みのなかで徐々に確認していったといえるように思われるのである』と述べておられる。私はこれに激しく共感する。トシは恐らく、兄を思って日蓮宗の信者であるように、その致死期にさえ振る舞って上げたのだとも思っているくらいである。トシが賢治に対して慈悲深い観音やマリアのように、である。

「苹果」賢治は概ね音の「ひやうくわ(ひょうか)」ではなく「りんご」と読んでいる。リンゴの果実。

「かへつてここはなつののはらの」/「ちいさな白い花の匂でいつぱいだから」「永訣の朝」の朝に引用した、トシのすぐ下のシゲに纏わる、逝去の夜の体験に、

   *

 重いふとんも青暗い蚊帳も早くとってやりたく、人びとはいそがしく働きはじめた。そして女たちは経かたびらを縫う。そのあけがた、針の手をおいてうとうとしたシゲは、落葉ばかりのさびしい野原をゆくゆめを見る。自分の歩くところだけ、草花がむらがって、むこうから髪を長くたらした姉が音もなく近づいてくる。そして「黄色な花コ、おらもとるべがな」ときれいな声で言った。

   *

とある。或いは、シゲがこれを語ったのを賢治は聴いたのではなかったか? 実際、後の「靑森挽歌」の中に、

   *

おしげ子たちのあけがたのなかに

ぼんやりとしてはいつてきた

⦅黃いろな花こ おらもとるべがな⦆

たしかにとし子はあのあけがたは

まだこの世かいのゆめのなかにゐて

落葉の風につみかさねられた

野はらをひとりあるきながら

ほかのひとのことのやうにつぶやいてゐたのだ

   *

と出るのである。

 

「ただわたくしはそれをいま言へないのだ」/「(わたくしは修羅をあるいてゐるのだから)」/「わたくしのかなしさうな眼をしてゐるのは」/「わたくしのふたつのこころをみつめてゐるためだ」前に注したように、彼の言う「修羅」が、実は自身の日蓮宗への信仰への激しい揺らぎであるとするなら、この謂いはすこぶる腑に落ちる。賢治は「信仰」と「修羅」の自身の中のアンビバレントな「ふたつのこころ」を心眼に於いて見詰めている。しかし、それを死を前にして信仰を堅く持っているお前(トシ)――無論、これは実は誤認であると私は思っているが――には「いま」とても「言へないのだ」と賢治は述懐するのである。

「ああそんなに」/「かなしく眼をそらしてはいけない」これは賢治の最後のトシへの、精一杯の(しかしそれは実は〈独り善がりの〉でもある)声掛けである。……トシの視線は永久に賢治と読者から外(そら)され……トシは永遠の眠りに……落ちる……そこに無窮の安寧があるかないか、それは賢治と我々、惨めな生きている者の勝手な謂いである……

 

 なお、底本では、以上の末尾の『註』の後、その次のページ(百九十二ページ相当)をめくると、完全な白紙ページでノンブルもなく、見開きの左ページ百九十三ページから「風林」が始まっている。この仕儀は、パート標題の裏が白紙ページであるものの、パート内で版組としては、本書でここだけにしかない特異点である。これは本書用原稿には一ページを空ける指示は示されていない。出版上では、ここまでの組み方から見ても、ここを詰めて百九十二ページから「風林」を組んで至極、普通である。この白紙ページには私は賢治の本詩篇の余韻を醸しだすという意向が働いているのではないかと強く思うのである。]

2018/11/28

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 松の針

 

       松 の 針

 

  さつきのみぞれをとつてきた

  あのきれいな松のえだだよ

おお おまへはまるでとびつくやうに

そのみどりの葉にあつい頰をあてる

そんな植物性の靑い針のなかに

はげしく頰を刺させることは

むさぼるやうにさへすることは

どんなにわたくしたちをおどろかすことか

そんなにまでもおまへは林へ行きたかつたのだ

おまへがあんなにねつに燃され

あせやいたみでもだえてゐるとき

わたくしは日のてるとこでたのしくはたらいたり

ほかのひとのことをかんがへながら森をあるいてゐた

   ⦅ああいい さつぱりした

    まるで林のながさ來たよだ⦆

鳥のやうに栗鼠(りす)のやうに

おまへは林をしたつてゐた

どんなにわたくしがうらやましかつたらう

ああけふのうちにとほくへさらうとするいもうとよ

ほんたうにおまへはひとりでいかうとするか

わたくしにいつしよに行けとたのんでくれ

泣いてわたくしにさう言つてくれ

  おまへの頰の けれども

  なんといふけふのうつくしさよ

  わたくしは綠のかやのうへのも

  この新鮮な松のえだをおかう

  いまに雫もおちるだらうし

  そら

  さわやかな

  
terpentine(ターペンテイン) の匂もするだらう

 

[やぶちゃん注:本篇も大正一一(一九二二)年十一月二十七日、トシの死の当日のクレジットを持つ(トシはこの日の夜午後八時三十分、満二十四歳(十一月五日が彼女の誕生日であつた)で亡くなつた)。これは「永訣の朝」の冒頭に述べた通り、次の「無聲慟哭」でこのクレジットについては別に考証するものとする。本書以前の発表誌等は存在しない。トシの死の前後に状況は前の「永訣の朝」の私の注を参照されたい。特に全集からの二つ目の引用部に本シークエンスに相当する部分が現われる。この詩篇についても、こんなことはトシは実はしなかったのではないかというような考証を真面目腐ってやっているページを多く見かけるが、それが本当か虚構かを明らかにすることは、本詩篇をしみじみと味わうことから絶望的に遠く離れた行為であることに気づいていない彼らを私は心の底から哀れと思う。それは芥川龍之介が本当に河童の国へ行って「河童」を書いたかそうでないかを延々論議するどこかの国の不毛な国会質疑と同じ、実に馬鹿げたことである。

・「あのきれいな松のえだだよ」は底本では「あのきれいな松のえだよ」であるが、「えだよ」原稿は「えだだよ」で誤植。「正誤表」に載るので、訂した。

「そんなにまでもおまへは林へ行きたかつたのだ」/「おまへがあんなにねつに燃され」/「あせやいたみでもだえてゐるとき」/「わたくしは日のてるとこでたのしくはたらいたり」/「ほかのひとのことをかんがへながら森をあるいてゐた」及び後の「どんなにわたくしがうらやましかつたらう」賢治が自身が自らに望み而もあるべき(ゾレン:ドイツ語:Sollen:当為(とうい))と考えている行動や思想・詩想に対して、それにさえも自分勝手な(トシのことを忘れていた、或いは、忘れることで彼女の死を考えることの絶対の悲哀を拒否しようとしていた(忘れることはしかし実は出来なかった))自分を、どこか、暗に懺悔するというのは、賢治の詩篇はおろか、彼の実人生でも稀有のことだったと私は思っている。私のこの詩篇こそ、賢治の特異点と思うのである。

「ああいい さつぱりした」/「まるで林のながさ來たよだ」賢治によれば、

   *

ああいい さつぱりした

まるではやしのなかにきたやうだ

   *

である。

「ああけふのうちにとほくへさらうとするいもうとよ」/「ほんたうにおまへはひとりでいかうとするか」/「わたくしにいつしよに行けとたのんでくれ」/「泣いてわたくしにさう言つてくれ」これは賢治にして肉親への直截の懇請として特異点である。私は思って呟いても決して言葉に綴ることを憚る部類の言辞である点からも、極私的に、頗る特異点なのである。

「綠のかや」「かや」は蚊帳。「永訣の朝」の全集年譜の引用の後半の冒頭、『トシが病臥したのは、宮澤家が大正八年に買いとった隣りの佐藤友八家で、八畳七畳半の粗末な建物、これに廊下を通じて主家とゆききした。あるときは雨がもって大さわぎをしたし、すきま風になやまされるので八畳の病室は一年を通じて屏風を立て、蚊帳をつるありさま、その上、窓が高く小さく、暗く陰気で病人の気の晴れることはない』とある「蚊帳」である。

terpentine(ターペンテイン)」は一般には「テレピン油」(マツ科の樹木のチップ或いはそれらの樹木から得られた松脂を水蒸気蒸留することによって得られる精油。油絵具の薄め液・画用液として用いられることで知られ、塗料やワニスなどの工業溶剤として広く利用される)で、英語では「turpentine」であるが、これはドイツ語(正しくは頭文字は大文字で「Terpentine」)で発音は「テルペンティーン」「松脂」のこと。]

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 永訣の朝

 

 

 

  無 聲 慟 哭

 

 

        永 訣 の 朝

 

けふのうちに

とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ

みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ

   (あめゆじゆとてちてけんじや)

うすあかくいつさう陰慘(いんざん)な雲から

みぞれはびちよびちよふつてくる

   (あめゆじゆとてちてけんじや)

靑い蒪菜(じゆんさい)のもやうのついた

これらふたつのかけた陶椀(たうわん)に

おまへがたべるあめゆきをとらうとして

わたくしはまがつたてつぽうだまのやうに

このくらいみぞれのなかに飛びだした

   (あめゆじゆとてちてけんじや)

蒼鉛(さうえん)いろの暗い雲から

みぞれはびちよびちよ沈んでくる

ああとし子

死ぬといふいまごろになつて

わたくしをいつしやうあかるくするために

こんなさつぱりした雪のひとわんを

おまへはわたくしにたのんだのだ

ありがたうわたくしのけなげないもうとよ

わたくしもまつすぐにすすんでいくから

   (あめゆじゆとてちてけんじや)

はげしいはげしい熱やあえぎのあひだから

おまへはわたくしにたのんだのだ

 銀河や太陽、氣圈などとよばれたせかいの

そらからおちた雪のさいごのひとわんを……

…ふたきれのみかげせきざいに

みぞれはさびしくたまつてゐる

わたくしはそのうへにあぶなくたち

雪と水とのまつしろな二相系(にさうけい)をたもち

すきとほるつめたい雫にみちた

このつややかな松のえだから

わたくしのやさしいいもうとの

さいごのたべものをもらつていかう

わたしたちがいつしよにそだつてきたあひだ

みなれたちやわんのこの藍のもやうにも

もうけふおまへはわかれてしまふ

Ora Orade Shitori egumo

ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ

あああのとざされた病室の

くらいびやうぶやかやのなかに

やさしくあをじろく燃えてゐる

わたくしのけなげないもうとよ

この雪はどこをえらばうにも

あんまりどこもまつしろなのだ

あんなおそろしいみだれたそらから

このうつくしい雪がきたのだ

   (うまれでくるたて

    こんどはこたにわりやのごとばかりで

    くるしまなあよにうまれてくる)

おまへがたべるこのふたわんのゆきに

わたくしはいまこころからいのる

どうかこれが天上のアイスクリームになつて

おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに

わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ

 

[やぶちゃん注:本書の目次では大正一一(一九二二)年十一月二十七日のクレジットを持つ。トシの死の当日である(トシはこの日の夜午後八時三十分、満二十四歳(十一月五日が彼女の誕生日であった)で亡くなった)が、これはどう見ても、この日に本篇以下の三篇(後の「松の針」と「無聲慟哭」)が書き得たとは以下に示す当日の状況から見て到底、思われない。これについては本書の「目次」クレジットの幾つかにある二重丸括弧(⦅ ⦆)の解明を含め、「無聲慟哭」のところで考証したいと考えている。本書以前の発表誌等は存在しない。なお、「そらからおちた雪のさいごのひとわんを……」の末尾のリーダは底本では八点、「…ふたきれのみかげせきざいに」の冒頭のリーダは四点である。

・「Ora Orade Shitori egumo」は底本では頭の「Ora」が「Cra」で誤植しているが(但し、原稿は「(Ora Ora de Shitori egmo)」である。最終校正で他の部分は改めたか。「C」を見落としたのは「O」のカスレと見做してしまったからかも知れない)、「正誤表」にあるので(但し、「誤」を「cra」(「c」に傍点「ヽ」)、「正」を「ora(「o」に傍点「ヽ」)と小文字とするまたしても「正誤表」を誤植してしまっている)、流石にその誤りで示すのは悲惨過ぎるので、原則を破り、正しく大文字とした

 「手入れ本」は宮澤家版が最後の部分に有意な変更をしている。以下に示す。

   *

どうかこれが兜卒の食に變つて

やがてはおまへとみんなとに

聖い資糧をもたらすやうに

わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ

   *

「兜卒」はママ。「兜率天」であろうから、誤字(弥勒菩薩が釈迦入滅から五十六万七千万年、現在も、衆生を済度するために修行しているのが兜率天である)。言わずもがなであるが「食」は「しよく(しょく)」で「食べ物」。しかし、これは完全に改悪であり、採れない(「とそつ」の語の響き「食」の単漢字が生理的に私には不快だからである)松井潤氏のブログ「HarutoShura」の本詩篇の解説(分割の最後)によれば、『草野心平は「天上のアイスクリーム」を「兜卒の天の食」に変えた点について、〈アイスクリームも悪くはない。けれども賢治は矢張りアイスクリームをも包含する天の食にしたかったのだろう。訂正された方が厳粛でカッチリしていて「わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ」にふさわしい、と私も思う。〉と述べてい』るらしいが、私は断然、拒否する。もしこうなっていたら、私のただの語彙感触上からの勝手な憶測であるが、本詩篇が高校の国語教科書に載る率はがっくり下がっていたと思う。賢治は後、本書刊行から二年八ヶ月後の大正一五(一九二六)年十二月発行の『銅鑼』に本篇を再掲しているが、幸いなことに、この改変は賢治の意識の中でも無効となったらしく、以上の本篇とは基本的に有意な異同はなく、ほぼ同じである。なお、他の変更が藤原嘉藤治所蔵本にはあるが、有意なものと思われないので略す。

 なお、本篇の次に「松の針」が配され、その次に「無聲慟哭」が示されるが、その「無聲慟哭」の最終行から、二行空けて、八字下げで、その前の三篇全体への「註」が配されてある(底本の百九十と百九十一ページの見開き)。以下にそれを画像で示しておく。

 

Museidoukokutyuu

 

これは、言うまでもなく、トシが逝ったその日に立て続けに詠まれた(とポーズする)絶唱群(「永訣の朝」「松の針」「無聲慟哭」三篇)の中に用いられた花巻方言(本篇のローマ字表記部一箇所を含む)を標準語訳したものである。こうした注は既に北原白秋の作品等にも認められるが、私はそれでも非常に画期的なものであったと思う。トシと交わした肉声を刻する当たって、その原型としての花巻弁を詩語に写したそれは、非常に高く評価されてよい。私は方言の肉声の強いリアリズムを詩篇で感じて激しく胸打たれたのは、賢治のこれら三篇と、山之口貘の「弾を浴びた島」(リンク先は私の電子化)だけであると言ってよい。

 ここで、校本全集の年譜からトシの死の前後を引用しておきたい。トシ病状は次第に重くなり、大正一一(一九二二)年十一月十九日には、下根子桜の宮澤家の別宅に移していた(既に「高級の霧」で注したように、七月六日の段階で、病状の悪化とともに母イチ(当時四十五歳)も看病疲れとなったことから、下根子桜(現在の花巻市桜町)にあった別宅(後に賢治が独りで自炊生活に入った場所でもある)にトシは移されていた)トシを、豊沢町の実家へ戻している。十一月十九日に豊沢町の自宅に戻った。その八日後にトシは亡くなってしまうのであった。

   《引用開始》[やぶちゃん注:注記号を除去した。下線は私が施した。]

一一月二七日(月) みぞれのふる寒い朝、トシの脈搏甚だしく結滞し、急遽主治医藤井謙蔵の来診を求める。医師より命旦夕に迫るをしらされ、蒼然として最愛の妹を見守る。この一日の緊張したありさまは〈永訣の朝〉〈松の針〉〈無声慟哭〉にえがかれている。

 いよいよ末期に近づいたとき、トシの耳もとでお題目を叫び、トシは二度うなづくようにして八時三〇分逝く。享年二四歳。押入れに首をつっこんで慟哭する。

一一月二八日(火) 弔問客でごつた返し、お通夜の食事を出すのに家族は追われた。宮津家には下に浄土真宗の、二階に日蓮宗の仏壇があり、賢治はその御曼陀羅に祈りつづける。

一一月二九日(水) 寒い風の吹く日、鍛冶町安浄寺で葬儀が行われる。花巻高女生徒二年以上が門前の両側に整列し、校長の追悼のことばがあった。賢治は宗旨がちがうために出ず、柩を火葬場へ送り出すとき、町角からあらわれて人びとと共に柩に手をかけて運んだ。火葬場は同じく鍛冶町(現在は藤沢町)にある地蔵寺となりの他のそばにあり、うすぐらく陰気な上に、道はじめじめとわるく叔母の梅津セツは着物にゴム靴というありさま、その上火葬場が火事で焼けていたため、野天で焼く始末であった。薪や萱を山のように積んだ。安浄寺の僧侶がかんたんな回向をしたあと、賢治は棺の焼け終るまでりんりんと法華経をよみつづけ、そこにいた人びとにおそろしいような、ふるえるような感動を与えた。遺骨は二つに分けるといい、自分の持ってきた丸い小さな罐に入れた。

   《引用終了》

なお、年譜、この直後の十二月のある日、『はげしい吹雪の日、学校の帰り妹』トシ『に似た女性を見てショックをうける』ともある。これは大正一二(一九二三)年八月一日のクレジットを持つ、次の「靑森挽歌」の残存草稿の一つ「靑森挽歌 三」の中盤に以下のように出現する。私が確かなソリッド・パートと判断する箇所のみを引用する(校本全集第二巻を用いたが、漢字を恣意的に正字化し、促音等も正字に直した)。

   *

私が夜の車室に立ちあがれば

みんなは大ていねむつてゐる。

その右側の中ごろの席

靑ざめたあけ方の孔雀のはね

やはらかな草いろの夢をくわらすのは

とし子、おまへのやうに見える。

「まるつきり肖たものもあるもんだ、[やぶちゃん注:「肖た」は「にた」。]

法隆寺の停車塲で[やぶちゃん注:これは奈良の関西本線の法隆寺駅らしい。]

すれちがふ汽車の中に

まるつきり同じわらすさ。」

父がいつかの朝さう云つてゐた。

そして私だつてさうだ

あいつが死んだ次の十二月に

酵母のやうなこまかな雪

はげしいはげしい吹雪の中を

私は學校から坂を走つて降りて來た。

まつ白になった柳澤洋服店のガラスの前

その藍いろの夕方の雪のけむりの中で

黑いマントの女の人に遭つた。

帽巾に目はかくれ

白い顎ときれいな齒

私の方にちょつとわらつたやうにさへ見えた。

( それはもちろん風と雪との屈折率の關係だ。)

私は危なくんだのだ。

(何だ、うな、死んだなんて

いゝ位のごと云つて[やぶちゃん注:いい加減なこと言って。]

今ごろ此處ら步てるな。)

又たしかに私はさうんだにちがひない。

たゞあんな烈しい吹雪の中だから

その聲は風にとられ

私は風の中に分散してかけた。

   *

 

 なお、年譜には「トシの死―一一月二七日」という注があり、これは非常に重要な事実を我々に伝えて呉れるので、かなり長いが、やはり全文を引用したい。

   《引用開始》[やぶちゃん注:下線は私が附した。]

 トシが病臥したのは、宮澤家が大正八年に買いとった隣りの佐藤友八家で、八畳七畳半の粗末な建物、これに廊下を通じて主家とゆききした。あるときは雨がもって大さわぎをしたし、すきま風になやまされるので八畳の病室は一年を通じて屏風を立て、蚊帳をつるありさま、その上、窓が高く小さく、暗く陰気で病人の気の晴れることはない。母の看病疲れで七月下板子の別宅へ移ってほっとしたトシも、寒さや道の悪さ、食糧運搬の不自由などから一一月一九日再びこの病室へもどるときは「あっちへいくとおらぁ死ぬんちゃ。寒くて暗くて厭な家だもな」とつぶやいたが、予感通り一週間後に死を迎えたのである。

 二七日朝からみぞれ。七畳半に寝泊りしているつきそいの細川キヨが炭火をまっ赤におこし、火鉢にうつして部屋をあたため、藤本看護婦が蚊帳に入って脈をはかる。トシの脈は一〇秒に二つしか打たない。健康な人なら一〇秒に一二、三打つ。キヨがだれよりも先に二階にいる賢治へしらせ、賢治はすぐ仲町の藤井謙蔵医師へ電話、まもなく羽織袴の医師の来診があって危険がしらされた。家中が緊張し、やせて、白くとがったおとがいにも黒い長い髪のまとわりつくトシを見守っている。トシはみぞれを兄にとってきてもらつてたべ、そえられた松の針でほげしく頰を刺し、「ああいい、さっぱりした、まるで林のながさ来たよだ」とよろこぶ。

 トシは幼少から父の自慢の子であった。新しい婦人の生き方にも関心深かった父[やぶちゃん注:四十八歳。]は、母校の教諭になった娘を誇らしく思っていた。その愛娘がながい闘病生活にあえぎ、いま死へ向かおうとするのを見ては、哀れで言うすべもなく、思わず「とし子、ずいぶん病気ばかりしてひどかったな。こんど生まれてくるときは、また人になんぞ生まれてくるなよ」となぐさめた。トシは「こんど生まれてくるたて、こんどはこたにわりやのごとばかりで、くるしまなあよに生まれてくる」と答える。また母は愛情の籠ったことばで娘をなぐさめる。

 夜、母の手で食事したあと、突然耳がごうと鳴って聞こえなくなり、呼吸がとまり、脈がうたなくなる。呼び立てられて賢治は走ってゆき、なにかを索める[やぶちゃん注:「もとめる」。]ように空しくうごく目を見、耳もとへ口を寄せ、南無妙法蓮華経と力いっぱい叫ぶ。トシは二へんうなずくように息をして彼岸へ旅立った。八時半である。賢治は押入れをあけて頭をつっこみ、おうおう泣き、母はトシの足元のふとんに泣きくずれ、シゲ[やぶちゃん注:トシのすぐ下の妹。二十一歳。この年の一月に結婚していた。]とクニ[やぶちゃん注:末妹。十五歳。花巻高等女学校四年生。]は抱きあって泣いた。岩田ヤス[やぶちゃん注:賢治の父方の叔母。三十九歳。]が「泣かさるんだ、泣かさるんだ」(泣くのはもっともだ、泣いた方がいいんだ)といい、母は「ヤスさん、トシさんをおよめさんにしないでくやしい」と号泣した。やがて、賢治はひざにトシの頭をのせ、乱れもつれた黒髪を火箸でゴシゴシ梳いた

 重いふとんも青暗い蚊帳も早くとってやりたく、人びとはいそがしく働きはじめた。そして女たちは経かたびらを縫う。そのあけがた、針の手をおいてうとうとしたシゲは、落葉ばかりのさびしい野原をゆくゆめを見る。自分の歩くところだけ、草花がむらがって、むこうから髪を長くたらした姉が音もなく近づいてくる。そして「黄色な花コ、おらもとるべがな」ときれいな声で言った。

   《引用終了》

年譜の編者によるものであるが、これだけインパクトの強い年譜の注というのは極めて珍しい。名文である。

 なお、私は高校国語教師三十三年の中でたった一度だけ、この「永訣の朝」を朗読したことがあった(解析的授業はしていない。慥か、「説明しては感動が薄れるだけだね」と言った記憶がある)。賢治を敬して遠ざけ続けた私だったが、実際に音読してみると、この一篇は完全に分析を拒否して、燦然と輝く名詩篇であることが判る。

 

「あめゆじゆとてちてけんじや」既に画像で示した『註』に『あめゆきとつてきてください』とある。なお、後の童話「手紙」の「四」を鬼の首を獲ったように掲げて、これは実はチュンセ(賢治)が「雨雪とつてきてやろうか。」と聴き、ポーセ「うん」がうんと答えたから、そっちが真相で「心象スケツチ」なんだから、これは虚構だ、などと偉そうに薀蓄垂れている阿呆を見かけたが、これはもう賢治を読む資格のない輩の物言いに過ぎぬ(そもそも「心象スケツチ」で無効なものは童話も同じだよ。大馬鹿者が)。さらに言い添えると、私も二十代の頃に耳にし、その瞬間はハッとしたものの、「けんじや」はトシが賢治兄のことを「賢じゃ」(じゃは「者」で男性への尊称接尾語とするのであろう)と呼んでいたというまことしやかな話は、今の私には、いやったらしい甘さを持った、残るべきでない「賢治伝説」の如何にもな腐った「都市伝説」(アーバン・レジェンド)にしか感じられない。

菜(じゆんさい)」(校本全集校異は見落としているが、原稿は「蓴菜」である。但し、「蒪」は「蓴」の異体字であるから問題はない私の好きなスイレン目ハゴロモモ科ジュンサイ属ジュンサイ Brasenia schreberi。天然の菱の実や蓴菜を採ったことがある私は私の世代(昭和三十二年生まれである)では珍しいであろう。

「これらふたつのかけた陶椀」「これら」というしみじみとした賢治(とトシ)の視線、「ふたつ」である理由、「かけ」ている理由、これらを綜合すれば、これは容易に賢治とトシが小さな頃から使っていた陶器の椀であろうと読める。それは後に「わたしたちがいつしよにそだつてきたあひだ」/「みなれたちやわんのこの藍のもやうにも」でも明らかだ。試みに今調べてみたところ、菅原宮沢賢治「永訣の朝」におけるいくつかの疑問点について : 教材化のための作品研究の試みPDF)に、『「ふたつのかけた陶椀」とは「明らかに兄妹が幼少時に使ったお揃いの茶碗』『であるという点に,異論は出されていない。さらに「ふたつ」とは「自分ととし子の子供のころから共有した生の象徴」とする見解もある』とある。

「まがつたてつぽうだまのやうに」直進するはずの銃弾が幾折れにも左右に曲がって行くかのように、トシの病室から渡り廊下・母屋・その廊下から庭へと、走ってゆく賢治の姿を見る。この彼の事実としての曲折動態は、後の「わたくしもまつすぐにすすんでいくから」の直線の志向の決意に応じて、そちらを際立たせることとなる。

「蒼鉛(さうえん)いろ」「蒼鉛」はビスマス(Bi)で、純正のそれは淡く赤みがかった銀白色を呈する。

「ああとし子」/「死ぬといふいまごろになつて」/「わたくしをいつしやうあかるくするために」/「こんなさつぱりした雪のひとわんを」/「おまへはわたくしにたのんだのだ」/「ありがたうわたくしのけなげないもうとよ」私のこの下りにキリストを感ずる。マリアよりもキリストを感ずる。或いはマリア的キリストを感ずると言うべきか。トシはあらゆる生きとし生けるものの象徴の一人である「わたしに」、「こんなさつぱりした」「あめゆじゆ」、「雪のひとわんを」「とてちてけんじや」と「たのんだ」ことによって、あらゆる原罪を背負った人間たちを、涼やかに「ひとわん」に掬い(救い)あげて呉れたのだ、と私には響き返ってくる。

「銀河や太陽、氣圈などとよばれたせかいの」/「そらからおちた雪のさいごのひとわんを」ここでは常に膨張する幻想宇宙も所詮、ちっぽけなものへと縮まってしまっているように感じられる。賢治が普段得意としている無限の天文学的スケールの幻想が、トシとの永遠の訣別の間際になって、それも所詮、実在ではないちっぽけな仮想体に過ぎないという無常の真空を賢治は感じているのではないか?

「…ふたきれのみかげせきざいに」「二切れの御影石材に」。花崗岩の別名というか、建築用石材名である御影石(神戸市御影が産地として知られることに由来)が庭に置かれていたのである。本詩篇では具体的な人工物は極度に外されて画面外へ押し出されてある。最初から戻って見ても、実に「靑い菜(じゆんさい)のもやうのついた」二つの欠けた「陶椀」一つである。この仕儀によって、トシに含ませる「みぞれ」の純「白」の「天上のアイスクリーム」の清らかなイメージがしっかりと醸成されるようになっているのである。

「雪と水とのまつしろな二相系(にさうけい)」氷水化している「みぞれ」(霙)は固体と液体という物性様態の異なる二つの部分からなるので「二相系」で腑に落ちるが、それ以上にその二相は完全に分離せず、溶け合って「霙」という一体を形成している。さらに見れば、先の菅原氏の論文にも出るように、先の「ふたつ」(二つ)の陶椀といい、「ふたきれの」(二片)の御影の石材といい、この「二」は賢治とトシのみを画面の中に封じ込めるための暗号であることも容易に判る。

Ora Orade Shitori egumo「おら、おらで、しとり、えぐも」。『註』によれば、『あたしはあたしでひとりいきます』。痛烈にして悲痛な直接話法である。彼がこれのみを最後の最後にローマ字とした気持ちが私にはいたく判る。原稿では当初は「おらおらでしゆとり行(え)ぐも」としていたものを、かく書き換えている。

「くらいびやうぶやかやのなかに」/「やさしくあをじろく燃えてゐる」/「わたくしのけなげないもうとよ」ここを読む時、遠く、本「心象スケツチ 春と修羅」の「序」の冒頭の謎の詩句、「わたくしといふ現象は」/「假定された有機交流電燈の」/「ひとつの靑い照明です」/「(あらゆる透明な幽靈の複合体)」/「風景やみんなといつしよに」/「せはしくせはしく明滅しながら」/「いかにもたしかにともりつづける」/「因果交流電燈の」/「ひとつの靑い照明です」/「(ひかりはたもち、その電燈は失はれ)」が目から鱗が落ちる如く、氷解するのだと私は思う。

「(うまれでくるたて」/「こんどはこたにわりやのごとばかりで」/「くるしまなあよにうまれてくる)」『註』によれば、

   *

またひとにうまれてくるときは

こんなにじぶんのことばかりで

くるしまないやうにうまれてきます

   *

である。

「聖い」「きよい」。

「資糧」原義は「資金と食糧」であるが、ここは生きとし生ける衆生の魂に真に資するところの聖なる食物の意。]

和漢三才圖會第四十三 林禽類 山烏(やまがらす) (ミヤマガラス)

 

Yamagarasu

 

やまからす

      【今云深山烏】

山烏

 

本綱山烏似鴉烏而小赤觜穴居

△按此烏深山中希有之小於烏而觜大頭身黑光色胸

 背有白斑尾黑而長一尺許俗名深山烏

  風雅大井川ゐ杭にきゐる山烏うのまねすとも魚はとらじな公朝

一種有川烏 谷川有之小鳥【出于水禽類】

鴉舅【一名鴉兢】 似鴉而小黑色嘴邊有毛甚勁能逐鴉鴉見

 之則避

鷹舅【一名鷹兢】 似鷹而小蒼色能逐鷹蓋此二物本朝未見

 

 

やまがらす

      【今、「深山烏」と云ふ。】

山烏

 

「本綱」、山烏は鴉烏〔(からす)〕に似て、小さく、赤き觜。穴居す。

△按ずるに、此の烏、深山の中に希れに、之れ、有り。烏より小さく、觜、大きく、頭・身、黑光色。胸・背、白斑有り。尾、黑くして長さ一尺許り。俗に「深山烏」と名づく。

  「風雅」

    大井川ゐ杭〔(ぐひ)〕にきゐる山烏

       うのまねすとも魚はとらじな

                   公朝

一種、「川烏〔(かはがらす)〕」有り。谷川に、之れ、有り。小鳥なり【「水禽類」に出づ。】

鴉舅〔(あきう)〕【一名、「鴉兢〔(あきよう)〕」。】 鴉に似て、小さく、黑色。嘴の邊に毛有り。甚だ勁〔(つよ)〕く、能く鴉を逐ふ。鴉、之れを見れば則ち避〔(に)〕ぐ。

鷹舅〔(ようきう)〕【一名、「鷹兢〔(よきよう)〕。】 鷹に似て、小さく、蒼色。能く鷹を逐ふ。蓋し、此の二物、本朝〔には〕未だ見ず。

[やぶちゃん注:和名としてはカラス属ミヤマガラス Corvus frugilegus を指すが、実際には現行では先の「大觜烏」ハシブトガラスCorvus macrorhynchos をも、かく呼称する。ウィキの「ミヤマガラス」を引く。分布は『ユーラシア大陸中緯度地方』で、『日本では、越冬のため飛来する冬鳥で、かつては本州西部と、特に九州に飛来したが、現在はほぼ全国に飛来する』。なお、『ニュージーランドにもかつてイギリスからの移民によって、害虫駆除の目的で持ち込まれ』、『帰化している』。全長四十七センチメートル、翼開長九十センチメートルで、『全身は黒い羽毛で覆われる。嘴は細く、成鳥では基部の皮膚が剥き出しになり白く見える』。『森林や農耕地に生息する。大規模な群れを形成する。コクマルガラス』(前項の「燕烏」コクマルガラス Corvus dauuricus)『と混群を形成することもある。樹上にコロニーを形成し、木の枝等をお椀状に組み合わせた巣を作る』。『食性は雑食で昆虫類、鳥類の卵や雛、果実、種子等を食べる』。一回に三~五個の『卵を産む。主にメスが抱卵し、その間オスはメスに対し』、『捕らえた獲物を与える』習性を持つ、とある。

「赤き觜。穴居す」嘴の色や「穴居」が文字通りの意味であるならば、他種を指している可能性がある。

「風雅」「大井川ゐ杭〔(ぐひ)〕にきゐる山烏うのまねすとも魚はとらじな」「公朝」所持する「風雅和歌集」を見たが、この一首は載らない(彼の別の一首は載る)。調べてみたところ、これは「夫木和歌抄」の誤りであることが判明した。私は同歌集を所持しないが、名夢子氏のブログ「徒然名夢子」のこちらで確認出来た。それによれば、「狂歌」とし、以下のように解説されておられる。

   《引用開始》[やぶちゃん注:一部の行空けを詰めた。]

 

権僧正公朝(ごんのそうじょう・きみとも)  夫木和歌抄

 大井川堰杙(ゐぐい)に来居る山烏 鵜のまねすとも魚は捕らじな

 

 「大井川」は「大堰川」で丹波山中から保津峡、嵐山を経て流れる川。亀岡では大堰川、嵐山では保津川、五条通を横切る当たりから桂川と名を変える。小式部内侍のよむ歌の「生野」では大堰川と呼ばれてる。「堰杙」は井堰(いせき)という川の水の流量を変える堰(せき)で、杙(杭)が川底に打ち込まれている。堰杙では川の流れがせき止められるため、川魚が集まる。それをねらって山烏(からす)が鵜のまねをするように潜って魚を捕ろうとしているが、おぼれてそれどころではない、というのが歌意。ことわざの「鵜のまねする烏が水に溺れる」の出本が、この和歌である。枕も韻もみごとに踏まえているし、面白い。

 この歌で、最後の句「さかなはとらしな」は字余りだ。「さ」が字余りだと「かなはとらしな」、「な」が字余りだと「さかなはとらし」。普通に作れば「魚は捕らじ」で良いはずだが、わざわざ字余りにしている。すなわち「さ」と「か」を考えよ、という作者の意図だ。「さか」すなわち「釈迦」である。「釈迦」とかいて「しゃか」と読ませているだけで、呉音では「さか」だ。だから

「山烏といえども、川堰でもがいている魚を手軽に殺生しようとしないのは、お釈迦様のおかげなのだろうか」

という解釈もできる。作者が僧侶だけに。

 また、中世のころも京での死人は全て川に流して捨てた。するとこういった堰で死体がひっかかって、高貴な人の骸から衣服を剥ぎ、死体を上手に処理する、河原者が居た。

「戦乱が長く続き、民も疲弊して、戦地を逃れ京にやってきた人々が、河原者のまねをして、堰にひっかかった死体から衣服をはぎ取ろうとして、誤って足を滑らせて溺れている、なんたることだ、この世にはお釈迦様の教えは、もう伝わっていないのか」

という、解釈も可能だろう。

 なぜ、このような後者の解釈が生まれるのかというと、「さか」の字余りだけでなく、「堰杙」という詞が「共食い」に通じるからだ。もしくは「居喰い」。河原者は、川に死体が何時流れてくるかと、じっと川を眺めて一日を過ごしているのだ。流れてくると思うと、皆が一目散に堰を目掛けて水中を走り、奪い合う。「おおいかわ」、「ゐくい」、「来居る」、それぞれに「い」の音が入っている。「い」=「生く」であり「依(よりどころ)」である。

 最後の句「魚」を「うを」とすると釈迦の姿は消える。「うのまねすとも・うをはとらしな」。すると、上句で「生きる」ために山烏は水に飛び込むが、鵜のようには魚を捕れない。「う」=「生む」に通じているので、生きてはいけないとなる。こちらは悲惨だ。釈迦の慈悲すら無いわけだから、川を流れてくる死体にありつけないと、その人々は死んでいくしかない。そういう彼らでさえ、衣服ははぎ取られるのだ。実に、悲惨な世だったではないか。

 この歌が、ことわざになった背景というのがよくわかる。

   《引用終了》

和歌嫌いの私には想像だにしなかった深淵がこの一首にはあることを、名夢子氏に教えられた。心より感謝申し上げるものである。なお作者の権僧正公朝(ごんのそうじょうきんんとも)は生没年未詳の謎の人物であるが、「拾遺風体集」「夫木和歌抄」に多数入集している。所持する平成三(一九九一)年三弥井書店刊「風雅和歌集」の「作者略伝」によれば、『北条朝時男、実は従三位八条実文男か』とし、三井寺の所属で、関東に在ったとする。八条実文というのはよく判らぬが(こちらの系図によるなら、正親町(おおぎまち)三条家の八条姉小路実文らしい。子を「公朝」としている)、北条(名越)朝時(ともとき 建久四(一一九三)年~寛元三(一二四五)年)はよく知っている。第三代執権北条泰時の異母弟である。この一首は「夫木和歌抄」の「巻二十七 雑九」にあり、「日文研」の「和歌データベース」でも確認した。正字表現で改めて示しておく。

   *

 大井川堰杙(ゐぐひ)に來居(きゐ)る山烏

    鵜の眞似(まね)すとも魚は捕らじな

   *

「川烏〔(かはがらす)〕」スズメ目カワガラス科カワガラス属カワガラス Cinclus pallasiiウィキの「カワガラス」によれば(下線太字やぶちゃん)、『ヒマラヤ北部からインドシナ半島北部、中国、台湾、サハリン、日本、カムチャツカ半島に分布する』。『生息地では、基本的には留鳥である』。『日本では、北海道、本州、四国、九州、屋久島にかけて広く分布する』。『留鳥として、河川の上流から中流域にかけてと』、『山地の渓流に生息する』。全長は二十一~二十三センチメートル、翼開長は約三十二センチメートル、体重六十五~九十グラムで、『ヒヨドリやツグミより』、『少し小さい。全身が濃い茶色(チョコレート色』。『光の具合により』、『赤茶色に見えることもある』『)の羽毛におおわれているのが名前の由来だが、カラスの仲間ではない』。『尾羽は短めで黒味の強い焦茶色』。『目は茶色で、目を閉じると白いまぶたが目立つ』。『雌雄同色』。『くちばしは黒く』、『足は灰色でがっちりしている。ミソサザイを大きくしたような体形で、短めの尾羽を立てた独特の姿勢をとる』。『幼鳥は喉から腹にかけて』、『白くて細かいうろこ模様がある』。『平地から亜高山帯の川の上流から中流の岩石の多い沢に生息する。冬期(積雪期)には下流側に生息場所を移動することもある。一年中、単独(非繁殖期は単独で行動している』『)もしくは番いで行動し群れを形成することはない。つがい形成期には、一夫二妻行動をとることがある』。『ピッピッと鳴きながら、速い羽ばたきで川面の上を一直線に飛翔する』。『頑丈な脚で岩をつかみ、水流の圧力を利用して川底を歩きながら』、『水中で捕食を行う』。『尾羽を上下に動かしたり、風切羽を半開きにしたり、まばたきし白いまぶたを見せながら、石や流木の上で休息する』。『食性は動物食』で、『水に潜ってカゲロウ、カワゲラなどの幼虫などの水生昆虫やカニなどの甲殻類、小魚を捕食する』。『水面上を泳ぎながら首を水中に入れて覗き込み、頻繁に潜水する』。『水中では水底を這うように歩き回って川底の餌を探し、『渓流の素潜り名人』と称されることがある』。『水にもぐっているときは羽毛の間に空気がふくまれるため、全身が銀色にみえる』。『ほかの鳥にくらべて繁殖を始めるのが早く』、十二月頃からオスが囀って、『縄張り宣言を行う。暖地では』一『月頃から繁殖を始める』。『滝の裏の岩の隙間にコケや植物の根で半球状のドーム形の巣をつくる』(思うに、前の「本草綱目」の「穴居」とは本種を指しているのではあるまいか?。『岩の陰やコンクリート護岸の排水口、橋桁』『などの人工物にも巣を作ることもある』。『造巣の際の雌雄の貢献度はほぼ等しく分業は行われない』。『日本では』、二~六月に一腹四~五個の『卵を産む。抱卵日数は』十五~十六『日で、雌が抱卵する育雛は雌雄共同で行う』。『雛は』二十一~二十三『日で巣立つ。雛は飛べない内から、水中を泳いだり歩くことができる』。『オスは』十二『月頃の繁殖期から「ピピピ チュシュ ピッピッ ピュュ」と鳴き始める』。『セグロセキレイ似た濁った声で「チーチージュピチリリ」と複雑に鳴く』。『地鳴きは「ピッ ピッ」』である、とある。

『「水禽類」に出づ』先行する第四十一 水禽類 河鴉 (カワガラス)を参照されたい。

「鴉舅〔(あきう)〕【一名、「鴉兢〔(あきよう)〕」。】」中文の鳥類学サイトを調べたところ、これは先に林禽類 鳩(ぎうく) (謎の鳥「くろもず」(?))の注で出したスズメ目オウチュウ(烏秋)科オウチュウ属オウチュウ Dicrurus macrocercus が所属するオウチュウ属Dicrurus に比定してあるのを発見した。色も黒いし、台湾の漢名にも「烏鶖」「烏秋」がある。中部・東部・南部と、台湾にそれぞれ亜種が一種ずつ棲息する。尾がYの字と言って呉れれば、苦労せずに済んだのに! 良安先生!

「鷹舅〔(ようきう)〕【一名、「鷹兢〔(よきよう)〕。】」「欽定四庫全書」の「山堂肆考」巻二百三十七(明の彭大翼撰)の「禽」に「鴉舅」として「此鳥似鴉而小黑色能逐鴉鴉見避之故名鴉舅一名鴉兢一種似鷹而小蒼色能逐鷹亦名鷹舅形頗類脊令」とあるのを見つけたぎりで、種同定に至らない。識者の御教授を乞う。]

芭蕉忌

本日2018年11月28日(陰暦では今日は10月21日) 
   元禄7年10月12日 
はグレゴリオ暦では 
   1694年11月28日 
である。
 
324年前の今日の午後四時頃、松尾芭蕉は亡くなった――
 
 
 芭蕉枯れて死ぬのはいつも他人也    唯至

 
 
 

和漢三才圖會第四十三 林禽類 燕烏(ひぜんがらす) (コクマルガラス)

 

Hizengarasu

 

ひぜんからす  白脰 鬼雀

       【今云肥前烏】

燕烏

 

本綱燕烏似鴉烏而大白項者以爲不祥

△按燕者乃國名【非燕雀之燕】九州肥前多有之故稱肥前烏

 

 

ひぜんがらす  白脰〔(はくたう)〕

        鬼雀〔(きじやく)〕

       【今、「肥前烏」と云ふ。】

燕烏

 

「本綱」、燕烏、鴉烏〔(からす)〕に似て大〔きく〕、白き項〔(うなじ)〕の者〔なり〕。以つて不祥と爲す。

△按ずるに、燕とは乃〔(すなは)〕ち國の名〔なり〕【燕雀〔(えんじやく)〕の燕〔(つばめ)〕に非ず。】。九州肥前、多く之れ有り。故に「肥前烏」と稱す。

[やぶちゃん注:スズメ目カラス科カラス属コクマルガラス Corvus dauuricus

 既に「慈烏」の冒頭注で指摘しておいたが、現行では「ヒゼンガラス」を多くカラス科カササギ属カササギ Pica pica の別名としているが、後(次の次)に独立項で「鵲」が出る以上、良安は別種としてこれを認識しており、形態と分布から見て、良安が指しているのは、ほぼ「コクマルガラス」に違いないことが判明した。ウィキの「コクマルガラス」によれば、『種小名dauuricusは、ダウーリア地方(「ダウール族の国」、バイカル湖の東)に由来』するとあり、『大韓民国、中華人民共和国、台湾、朝鮮民主主義人民共和国、日本、モンゴル人民共和国、ロシア東部』に分布し、『日本には越冬のため』に、『本州西部、特に九州に飛来する(冬鳥)。(稀に北海道、本州東部、四国にも飛来することがある。)』。全長三十三センチメートルで、本邦に飛来するカラス属の中では最小種である(この事実は、本条の「鴉烏〔(からす)〕に似て大」という謂いと矛盾する。後掲引用参照)。『全身は黒い羽毛で覆われ、側頭部に灰色の羽毛が混じる。頚部から腹部の羽毛が白い淡色型と、全身の羽毛が黒い黒色型がいる』。『嘴は細く短い』。『森林や草原、農耕地などに生息する。ミヤマガラスと混群を形成することもある』。『食性は雑食で、昆虫類、鳥類の卵や雛、果実、種子などを食べる』。『繁殖形態は卵生。樹洞などに集団で巣を作り』、一『回に』四~六『個の卵を産む。主にメスが抱卵し、その間はオスがメスに捕らえた獲物を与える。給餌は雌雄共に行う』とある。同ウィキのコクマルガラスの画像を、ウィキの「カササギ」カササギの画像と比べて見て貰うと判るが、項から腹部にかけて白いのは、下から見上げたり、一定の距離で離れて見ると、カササギに似ていなくもない。私の言いが私の勝手な思いつきでない証拠に、個人論文ブログ「古事記・日本書紀・万葉集を読む」の「八咫烏について 其の二」には(下線太字やぶちゃん)、『[やぶちゃん注:前略。]和漢三才図会に「燕烏」と記されるコクマルガラスが思い浮かぶ。「案ずるに、燕は乃ち国の名なり〈燕雀の燕に非ざる也〉。九州肥前に多く之れ有り。故に肥前烏と称す」と解説されている。大陸に広く分布し、列島には多くは九州北部に冬鳥として、ないし、迷鳥として飛来する。体長は』三十三センチメートル『ほどで、ハシボソガラス、ハシブトガラス、ミヤマガラスが』五十センチメートル『内外であるから』、『ずいぶん小さく、ハトほどの大きさである。和漢三才図会には、大きさの記述に誤りがあるようである。コクマルガラスには淡色型と暗色型があるが、額から顔の前面、喉から胸までは黒く、後頭から首側、腹にかけては白く、背や尾のほうになると再び黒くなっている。つまり、頭のほうから見れば、外側から黒、白、黒の三重丸になっている。的の印に見えるためか、黒丸烏と書き慣わされている。爾雅・釈鳥に「燕は白』脰『烏(こくまるがらす)」、註に「小爾雅に云ふ。白き項(うな)にして、羣(むらが)り飛ぶは、之を燕烏(こくまるがらす)と謂ふ」とある。ただし、黒丸烏をコクマルガラスと訓むのは重箱読みである。元来』『のやまとことばとしては、コクマルは、コ(子)+クマル(分)の意味として名づけられた可能性が高い』。『コクマルガラスは、止まっている限りにおいて、体の模様がカササギ(鵲)によく似る。カササギは鵲烏とも書く。漢籍を頼りに七夕の夜に列をなして天の川に架かって橋となり、牽牛と織姫とが出会っていたと知られていた。日本では現在、旧肥前国の佐賀平野にのみ生息し、天然記念物に指定されている。豊臣秀吉の朝鮮出兵の折に移入、定着したともいわれている。古代の文献に』、『其[倭]の地に牛・馬・虎・豹・羊・鵲無し。(魏志・倭人伝)』/『難波吉師磐金(なにはのきしいはかね)、新羅より至りて、鵲二隻(ふたつ)を献る。乃ち難波杜(なにはのもり)に養(か)はしむ。因りて枝に巣(すく)ひて産(こう)めり。(推古紀六年四月条)』/『新羅王(しらきのこにきし)の献物、馬二匹・犬三頭・鸚鵡二隻・鵲二隻、及(また)種々(くさぐさ)の物あり。(天武紀十四年五月条)』/『此の[船引]山に鵲住めり。一(また)、韓国(からくに)の烏といふ。枯木の穴に栖み、春時(はる)見えて、夏は見えず。(播磨風土記・讃容郡)』『とある』。カササギは『本邦には九州北部に在来していたか、いたとしても極めて数が少なかったようである。江戸期には、カチガラス、唐ガラス、高麗ガラス、朝鮮ガラス、肥後ガラスとも呼ばれていた。和漢三才図会に、コクマルガラスは肥前烏であったから、兄弟の間柄のようである。カササギの名の由来についても、朝鮮語との関連から解かれることが多いが、和名抄に、「鵲 本草に云はく、鵲〈且略反、加佐々岐(かささぎ)〉は、飛駮馬、泥々脳の名也といふ」、また、新撰字鏡に、「嘖 側伯反、至也、呼也、烏鳴く、又加左々支(かささぎ)鳴く」とある。紀に、新羅から到来したものとして記されており、ヤマト朝廷に人にとっては、新羅や九州北部との関連が深い鳥であると捉えられていたらしい[やぶちゃん注:以下略。]』とあるのが、頼りになる証左と言えよう。

「白脰〔(はくたう)〕」「脰」は「項(うなじ)」の意。

「鬼雀〔(きじやく)〕」「本草綱目」に載る異名であるから、この「鬼」は「死者」の謂いであろう。既に「慈烏」で注したが、五行説では「色」を、「木」に「青」、「火」に「紅(赤)」、「土」に「黄」、「金」に「白」「水」に「玄(黒)」を配するのことよく知られているが、「五志」(感情や性格に相当する)は、「木」に「怒」、「火」に「喜」、「土」に「思」、「金」に「悲()「水」に「恐()を配することから、中国でも、古来から、白と黒の組み合わせは縁起が悪いとされてきた(中国の喪服は白)。さればこそ、本種の白黒という組み合わせは死をシンボライズする極めて「不祥」なもの「と爲す」ことは明らかである。だからこそ「白き項〔(うなじ)〕の者〔なり〕。以つて」と理由が語られているのである。

「肥前烏」肥前は現在の佐賀県と、対馬市・壱岐市を除く長崎県に相当する。

「燕とは乃〔(すなは)〕ち國の名〔なり〕」周・春秋・戦国時代に亙って存在した「戦国の七雄」の一つである燕(えん 紀元前一一〇〇年頃~紀元前二二二年)国。現在の河北省北部及び現在の北京を中心とする地域を支配した。首都は「薊(けい)城」で、現在の北京に当たる。

「燕雀〔(えんじやく)〕」ツバメやスズメのような小鳥。専ら、「史記」の「陳渉世家」によって、秦に反旗を翻した陳勝が、その前、日雇いの人夫であった頃、同僚らに「苟富貴無相忘」(苟(も)し富貴(ふうき)なりとも、相ひ忘るること無からん)と志に基づく感懐を口にした際、それを聞いた農地の雇主が嘲笑して揶揄した。それに彼が答えた、「嗟乎、燕雀安知鴻鵠之志哉」(嗟乎(ああ)、燕雀安(いづ)くんぞ鴻鵠(こうこく)の志を知らんや」/反語。「ツバメやスズメのような小さな鳥には、オオトリ(カモ目カモ科ハクチョウ属オオハクチョウ Cygnus cygnus 或いは大型の水鳥)やコウノトリ(コウノトリ目コウノトリ科コウノトリ属コウノトリ Ciconia boyciana)のような大きな鳥の志すところは所詮判らぬものだ)と嘆いたことから、「度量の小さい人物・小人物」の意で使われることとなったのは周知の通り。]

2018/11/27

和漢三才圖會第四十三 林禽類 大觜烏(はしぶと) (ハシブトガラス)

 

Hasibuto

 

はしふと 烏鴉 老鴉

     鸒  鵯

     楚鳥

大觜烏

 

本綱大觜烏似慈烏大觜而腹下白不反哺者也狀大於

慈鳥性貪鷙好食善避繒繳

[やぶちゃん注:「本草綱目」の「大觜烏」を見ると、「集解」に「時珍曰、烏鴉大觜而性貪鷙好鳥善避繒繳」とあり、「好食」は良安の誤写であることが判った。訓読では特異的に訂した。]

肉【溫臭】 不可食止治疾勞咳及小兒癇疾

 

 

はしぶと 烏鴉〔(うあ)〕 老鴉

     鸒〔(よ)〕 鵯〔(ひつきよ)〕

     楚鳥〔(そてう)〕

大觜烏

 

「本綱」、大觜烏、慈烏〔(からす)〕に似て、大〔なる〕觜〔(くちばし)〕にして、腹の下、白く、反哺せざる者なり。狀〔(かたち)〕、慈鳥〔(からす)〕より大きく、性〔(しやう)〕、貪鷙〔(どんし)〕にして、鳥〔(とり)〕を好み、善く繒繳〔(いぐるみ)〕を避く。

肉【溫、臭。】 食ふべからず。止(たゞ)勞咳及び小兒の癇疾を治す[やぶちゃん注:最後は思うに「本綱綱目」にある「主治」の条の、処方部分を飛ばして病名だけを繋げた際、一部の字(具体的には「治疾」の「疾」で原典の「主治瘦病」の「瘦」を省略すべきところを採り、しかも「疾」と誤った)を誤判読したものと思われることから、「治疾」の「疾」を無視して書き下した。]。

[やぶちゃん注:珍しく、良安の評語がないスズメ目カラス科カラス属ハシブトガラス Corvus macrorhynchos。本邦で単に「カラス」と言った場合は同属の前項烏」=ハシボソガラス Corvus corone 或いは本種を指す。ウィキの「ハシブトガラス」から引く。『ユーラシア大陸東部(東洋区、旧北区東部)に分布する』。『日本では留鳥として、小笠原諸島を除き全国で、低地から山地まで幅広く分布する』。全長五十六センチメートル、翼開長一メートル、体重五百五十~七百五十グラム『ほどで、全身が光沢のある黒色をしており、雌雄同色。ハシボソガラスに似るが』、『やや大きく、嘴が太く上嘴が曲がっているところと、額(嘴の上)が出っ張っているところで判別できる。なお、突然変異で白い個体が出現することもあり、これはアルビノまたは白変種と考えられる』。『幼鳥は虹彩の色が青や灰色で、口の中もピンクであるなど、成鳥との外見的相違が目立つ』。『英名 "Jungle Crow" も示すように、元来は森林に住むカラスであり、現在も山間部など森林地帯に広く分布しているが、近年日本では都市部において急速に分布を拡げた』。『食性は雑食で、昆虫や木の実、動物の死骸など、あらゆるものを食べる。特に脂質を好み、石鹸や和蝋燭を食べることもある。また、小鳥やネズミなどの生きた小動物を捕食することもある。主に電柱や高木上など高所から地上を見下ろして餌を探し、餌を見つけると下りて行ってとり、高所に戻って食べる。鋭い嘴は、つつくだけでなく』、『咬む力にも優れており、肉なども引きちぎって食べることができる。生態が類似するハシボソガラスよりも肉食性が強い』。『産卵期は』四『月頃で、主に樹林内の大木に木の枝などを用いた巣を作り』二~五『卵を産む。抱卵日数は約』二十『日で、メスのみが抱卵する。雛への給餌は雌雄で行い、雛は孵化してから約』一『か月で巣立つ。その後約』一『か月は家族群で行動し、独立する。若鳥は約』三『年間』、『群れで行動し、その後』、『ペアで縄張りを構える』。『夜間』、『人が立ち入る事の無いよく茂った森に集団ねぐらをとる習性があり、冬期には特に多数が集まる』。『鳴き声は「カー、カー」と澄んでおり、ここでもハシボソガラス(少々濁る)と判別できる』。『頭のいいカラスは、雪を水の代わりに浴びる「雪浴び」や、アリを羽毛になすりつけたり、巣の上に伏せてアリにたからせる「蟻浴(アリの持つ蟻酸によって、ハジラミを退治している)」、銭湯の煙を浴びる「煙浴」など、いろいろな入浴方法を実践している』。『寿命は飼育下では約』二十『年、野生下では約』十『年とされる』。『前述のように元来は森林などに住む鳥であったが、近年都市化が進んだ日本では都市部においても分布を拡げており、「都会の鳥」としてのイメージが定着した』。『何でも食糧にしうるハシブトガラスにとって都市部は食糧が豊かであったこと、止まり木代わりになる構造物が入り組んでいること、また天敵となる猛禽類が住めなくなった事などが相まって、その数は激増し、早朝に群れで生ゴミを漁る光景や、洗濯物を干す針金製ハンガーを集めて営巣する様子などが各地で観察されるようになった』。『近年』、『都会で急激に数を増やしたのには、自治体により黒色のゴミ袋に代わり』、『透明・半透明のゴミ袋の使用が義務づけられたため、視覚に』よって『餌を探すカラスにとって』、『ゴミを漁りやすくなった事が原因の一つとして指摘されている』。『その対策として、ゴミ置き場にネット等を用いてカラスがゴミを漁れないようにする、夜間のゴミ収集を行い』、『カラスの行動する時間にゴミを残さないなどの方法』『がとられた』。『また』、二〇〇四年には、四色型『色覚であるカラスの目の特性を逆手にとり、紫外線を遮断する特殊な顔料(企業秘密)を混ぜ、カラスには中身をわからなくした黄色いポリエチレンのゴミ袋を、大倉工業と三井化学が宇都宮大学農学部杉田昭栄教授の協力で開発した。コストは従来のゴミ袋よりも高いが、大分県臼杵市や東京都杉並区などで試験的に導入されている』。『また、都市部では街路樹や電柱などでも営巣し繁殖を行うが、本能的に気性が荒くなりがちな』四~七『月の繁殖期においては、時に』、『巣の近くを歩く人間を攻撃(後頭部への蹴り)することもある』。『成鳥は滅多にトラップにかからないが、若鳥は経験不足と好奇心から捕まってしまう事がある』。『カラスは非常に知能の高い鳥で、トラップやカカシを見抜く。記憶力も高く、石や銃で狙われた経験があるものは、石を拾おうとしたり傘をライフルのように構えただけで逃げ出す。反面、幼鳥から飼い馴らしたカラスは人間に非常によく懐』(なつ)『き、トイレを覚えたり、飼い主の肩にとまって眉毛を丁寧に毛繕いしたり、さらにはキュウカンチョウ』(スズメ目ムクドリ科キュウカンチョウ属キュウカンチョウ Gracula religiosa)『のように人間の言葉を真似て喋ったりと、愛玩鳥として最も優れた特性を持つ』とある。

「反哺」前項「烏」で既出既注。

「貪鷙〔(どんし)〕」「鷙」は「荒い」の意(ワシ・タカ等の猛禽類を指す語でもある)。貪欲で獰猛なこと。

「鳥〔(とり)〕を好み」同じ鳥類を食うことを好み。

「善く繒繳〔(いぐるみ)〕を避く」「繒繳〔(いぐるみ)〕」は現行では「矰繳」が普通。「射(い)包(くる)み」の意で、飛んでいる鳥を捕らえるための仕掛けで、矢に網や長い糸を附けて、当たると同時にそれが絡みつくようにしたものを指す。それを巧みにかわすというのである。知能の高いカラスなればこそである。

「勞咳」結核。

「小兒の癇疾」「疳の虫」によって起こるとされた小児の神経症。「夜泣き」や「ひきつけ」などの発作症状が主体。]

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 栗鼠と色鉛筆

 

        栗鼠と色鉛筆

 

樺の向ふで日はけむる

つめたい露でレールはすべる

靴革の料理のためにレールはすべる

朝のレールを栗鼠は橫切る

橫切るとしてたちどまる

尾は der Herbst

 日はまつしろにけむりだし

栗鼠は走りだす

  水そばの苹果綠(アツプグルリン)と石竹(ピンク)

たれか三角やまの草を刈つた

ずゐぶんうまくきれいに刈つた

綠いろのサラアブレツド

  日は白金をくすぼらし

  一れつ黑い杉の槍

その早池峰(はやちね)と藥師嶽との雲環(うんくわん)は

古い壁畫のきららから

再生してきて浮きだしたのだ

  色鉛筆がほしいつて

  ステツドラアのみぢかいペンか

  ステツドラアのならいいんだが

  來月にしてもらひたいな

  まああの山と上の雲との模樣を見ろ

  よく熟してゐてうまいから

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年十月十五日の作。本書以前の発表誌等は存在しない。「手入れ本」は有意な変更と思われないので略すが、菊池曉輝氏所蔵「手入れ本」では最終連六行総てに「☓」印を附し、藤原嘉藤治所蔵本の一本(現在、所在不明)では、その前の「その早池峰(はやちね)と藥師嶽との雲環(うんくわん)は」から以下総てを「*」で挟んで抹消を示している。本詩篇を以って「東岩手火山」パートは終り、遂に「無聲慟哭」パートがやってくる。トシの死はこの翌月十一月二十七日のことであった。

・「アツプグルリン」のルビはママ。原稿は「アツプルグリン」で誤植であるが、「正誤表」にはない。「手入れ本」や全集は訂する。

「栗鼠」哺乳綱齧歯目リス形亜目リス科 Sciurinae 亜科 Sciurini 族リス属リス亜属ニホンリス Sciurus lis

「樺」既に注した通り、賢治が「樺」と書く時は概ね「白樺」(ブナ目カバノキ科カバノキ属シラカンバ日本産変種シラカンバ Betula platyphylla var. japonica)を指す。但し、松井潤氏のブログ「HarutoShura」の本篇の解説(分割版の最初)を見ると、「宮澤賢治語彙辞典」では『この詩の場合は「ダケカンバである可能性が大きい」と』するとある。しかし、ブナ目カバノキ科カバノキ属ダケカンバ Betula ermanii はシラカンバによく似ているが、それよりもさらに高い高度に分布する樹種(漢字表記「岳樺」がそれを物語る。シラカンバより樹皮がかなり赤茶色がかっていること、葉に少し光沢があること(シラカンバの葉には光沢はない)ので識別できる)であり、私は以下に示すロケーションを考えると、やはりシラカンバでよいように思われる。さても以上の点景対象から、恐らくは岩手軽便鉄道(現在のJR釜石線)沿線で花巻からそう遠くないところがロケーションであると思う。

「靴革の料理のためにレールはすべる」「つめたい露」によって湿った革靴の臭いが結果して立ち昇ってくるのを、「レール」が「すべる」の原因へと転倒して表現したものであろう。

「橫切るとしてたちどまる」横切ろうとして、ふと、立ち止まって、周囲をきょろっと見回すカット。

「尾は der Herbst」後部はドイツ語で、「der」は定冠詞、「Herbst」(ヘルプスト)は「秋」の意。無論、ニホンリスがモヘアのような大きな尾をさっち振り立てるのを季節に換喩したもの。

「水そばの苹果綠(アツプグルリン)」「水そば」は恐らく「水蕎麥」であろう。正式和名は溝蕎麦(みぞそば)でナデシコ目タデ科タデ属ミゾソバ Polygonum thunbergii葉は明るい緑色で互生する。葉の形が牛の額に似ていることから、「ウシノヒタイ」(牛の額)の異名もある。花期は晩夏から秋にかけてで、茎の先端で枝分かれした先に、直径四~七ミリメートルほどの、根元が白く、先端が薄紅色を呈する、多数の金平糖のような花を咲かせる(但し、他のタデ科Polygonaceae と同じく、花弁に見えるものは萼である)。私が偏愛するものである。花はこれウィキの「ミゾソバ」の画像)。「アツプルグリン」(補正した)は「apple Green」で柔らかい黄みのかかった緑。一般には青林檎の果皮のような、やや青みがかった薄い緑を指す。

「石竹(ピンク)」石竹色を略して示した(この頃に大正期に流行ったルビ俳句を思い出す。漢字熟語に自由な当て読みをして音数律を合わせるのである)。ナデシコ目ナデシコ科ナデシコ属セキチク Dianthus chinensis の花のような淡い赤色或いは桃色に近い色。ミゾソバの蕚花弁の尖端のグラデーションである。

「三角やま」諸家諸説紛々である。松井潤氏のブログ「HarutoShura」ではこちらで、『賢治が好んで作品に取り上げた七つ森の「三角森」、あるいは乳頭山の南東にそびえる「三角山」(標高』一四一九『メートル)でしょうか』とされ、ギトン氏はこちらこちらで、後の童話「税務署長の冒険」に出る「三角山」を「江釣子森」(三百七十九メートル)と推定比定された上で、『江釣子森は、花巻西郊の湯口村と湯本村の間にある山で、見る方向によっては、とんがり帽子の三角に見え』、『地元では、むかしから江釣子森を「三角山」と呼んでいる地域があ』るとされる。さらに、『しかし』、この森は『湯口村のほうから見ると、馬の背のようにも見え』、これはまさに次に言い換えられる『綠いろのサラアブレツド』と一致するとされる((グーグル・マップ・データ)。但し、『少なくとも現在では、“江釣子森”は木立に覆われていて、草原の山ではない』と言い添えがある)。他にも「税務署長の冒険」の「三角山」は『江釣子森と瀬川を挟んだ隣にある』草井山 (四百十三メートル)』『だという説もあ』るとされつつ、本詩篇について見るなら、『草井山のほうは線路から遠すぎるように思』われるされる。『江釣子森にしろ草井山にしろ、当時ちょうど伐採されて、草の山になっていたのかもしれ』ず、『そう考えるならば』、『「草を刈つた/ずゐぶんうまくきれいに刈つた」は文字通りの草刈りではなく、森林の伐採をそう表現していることにな』り、『たしかに、少し離れた麓から見れば、バリカンできれいに刈り取ったように見えるで』あろうし、『山を被っていた森林が刈られて、地形の輪郭の線がよく見えるようになったので、馬の形』と表現したのではないか、また、『もし江釣子森ならば、作者の歩いている「レール」は、湯口を通っている花巻電鉄の線路にな』ると指摘される。『ともかく、どちらにしろ、また、別の山だとしても、「三角山」は、花巻近郊のどれかの山で、作者のいる線路からは少し離れている──早池峰のように遠くではないけれども、すぐ近くではなく、背景の山だと思ってよさそうで』あるとある。私も「綠いろのサラアブレツド」(Thoroughbred:サラブレッド。 Thorough (完璧な・徹底的な)+ bred(品種)で、「人為的に完全管理された血統」「純血種」の意。家畜の馬の一品種で、英国原産種にアラビア馬その他を交配して数世紀に亙って主として競走用に改良・育成された)を気持ちよく解読されている点でも、ギトン氏の説に賛同するものである。

「白金」platinum(ラテン語)。元素記号 Ptウィキの「白金によれば、『学術用語としては白金が正しいが、現代日本の日常語においてはプラチナと呼ばれることもある。白金という言葉はオランダ語の witgoudwit=白、goud=金)の訳語である』。『単体では、白い光沢(銀色)を持つ金属として存在する』とある。

「くすぼらし」「燻ぼらし」。太陽光のハレーションをかく言ったものであろう。

「早池峰(はやちね)」岩手山の南東五十四キロメートル弱の位置にある、早池峰山(はやちねさん)。ここ(グーグル・マップ・データ)。岩手県宮古市・遠野市・花巻市に跨り、標高千九百十七で北上山地の最高峰である。

「藥師嶽」東岩手火山の火口を取り囲む外輪山の、北西にある最高峰(岩手山のそれでもある)を薬師岳(二千三十八メートル)と称する。

「雲環(うんくわん)」山の頂上やその中・下部を山を取り巻くように掛かっている雲のことであろう。以前に出て注した「ヘイロー」(halo)、太陽の「暈環」(かさ)とする説を見たが、それでは「その早池峰(はやちね)と藥師嶽との雲環(うんくわん)は」という情景が上手く映像に描けない。

「きらら」「雲母(きらら)」。日本画や浮世絵の「雲母摺(きらずり)」に「雲母粉(きらこ/きららこ)」(雲母を粉砕して粉状にしたもの)が用いられることは既に述べた。ここはその雲の輪に太陽光が散乱するさまを、かく「再生してきて浮きだしたのだ」と表現したものであろう。

「色鉛筆がほしいつて」これを賢治の自問自答(自己内の仮想幻想の会話)と採る向きもあるようだが、私はしかし、断然、遂に確かにトシがここに登場していると読む人間である。最終連は「ステッドラーの色鉛筆が欲しい」とトシが病床で言ったことへの、賢治の答えとしてあると読む。無論、実際にこう素気無く答えたのではなく、それを病床に届けてやろう思ったのであろうが、「來月にしてもらひたい」と賢治が思ったその来月の末、十一月二十七日の午後八時三十分、満二十四歳(十一月五日が彼女の誕生日であった)でトシは逝くのであった。トシと本詩篇が全く無縁なものであるとしたら、私は「手入れ本」に見られる、異様な後半の削除の説明がつかないと思う。この最終連を消し去るのは、賢治の中の激しい悔恨の表現に他ならないと、私は思うのである。

「ステツドラア」ドイツのニュルンベルクに本拠を置く、鉛筆や色鉛筆を始めとする筆記具や製図用品の先駆である世界的メーカー、ステッドラー有限合資会社(STAEDTLER Mars GmbH & Co. KG)。一六六二年頃にニュルンベルクでフリードリヒ・シュテットラー(Friedrich Staedtler)が鉛筆を発明し、その子孫が一八三五年に創業した。一八八七年(明治二十年)に、鉛筆十二硬度及び四十八色もの色鉛筆の量産を開始しており、本詩篇が書かれた四年後の大正一五(一九二六)年には、大阪に事務所を設立し、日本でもこの頃からステッドラー社製品が進出し始めたとウィキの「ステドラにある。

「みぢかいペン」ギトンステッドラーども色鉛筆写真公開てい。小難しいテクスト論を薀蓄して展開することは好き勝手に未来の誰彼でも奔放に出来るが、直きに失われてしまうかも知れない民俗的即物的証拠物件を特定するこうした作業にこそ私は深い敬意を感ずる。]

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 マサニエロ

 

        マ サ ニ エ ロ

 

城のすすきの波の上には

伊太利亞製の空間がある

そこで烏の群が踊る

白雲母(しろうんも)のくもの幾きれ

   (濠と橄欖天蠶絨(かんらんびらうど)、杉)

ぐみの木かそんなにひかつてゆするもの

七つの銀のすすきの穗

 (お城の下の桐畑でも、ゆれてゐるゆれてゐる、桐が)

赤い蓼(たで)の花もうごく

すゞめ すゞめ

ゆつくり杉に飛んで稻にはいる

そこはどての陰で氣流もないので

そんなにゆつくり飛べるのだ

  (なんだか風と悲しさのために胸がつまる)

ひとの名前をなんべんも

風のなかで操り返してさしつかえないか

  (もうみんなが鍬や繩をもち

   崖をおりてきていゝころだ)

いまは烏のないしづかなそらに

またからすが橫からはいる

屋根は矩形で傾斜白くひかり

こどもがふたりかけて行く

羽織をかざしてかける日本の子供ら

こんどは茶いろの雀どもの抛物線

金屬製の桑のこつちを

もひとりこどもがゆつくり行く

蘆の穗は赤い赤い

  (ロシヤだよ、チエホフだよ)

はこやなぎ しつかりゆれろゆれろ

  (ロシヤだよ ロシヤだよ)

烏がもいちど飛びあがる

希硫酸の中の亞鉛屑は烏のむれ

お城の上のそらはこんどは支那のそら

烏三疋杉をすべり

四疋になつて旋轉する

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年十月十日の作。本書以前の発表誌等は存在しない。宮沢家版「手入れ本」の最終形はサイト「宮澤賢治の詩の世界」のを見られたい。

・「風のなかで操り返してさしつかえないか」「操り返して」の「操」はママ。原稿もママである。「繰り替して」の賢治の誤記。「手入れ本」でも修正していないので、賢治は「繰り返す」は「操り返す」と書くと思い込んでいた可能性が高い。こうした強い思い込みはによる長期に亙る誤用例は萩原朔太郎等にも生涯的に認められる。かく言う私は「たたり」=「祟」の字を二十九になるまで「崇」と同字であると思っていた。高校国語教師になっても、なんと七年間、そう思い続けていたのであった。

 本篇は、「城」、旧稗貫農学校裏に相当した花巻城址(後注する)の秋の実景から、「マサニエロ」(後注する)に導かれて、「伊太利亞製」の映画のような地中海イタリアはナポリの「橄欖」(オリーヴ)の香気が漂って来、城の堀端の「蘆の穗」の「赤い」色からは「ロシヤ」革命の旗から、その広大な大地の荒らしい草原へと飛翔、最後には蒼穹は「支那」の気圏へとメタモルフォーゼする。賢治の天馬空を翔るが如き詩想の変幻自在の空間的感覚変容の妙味が、たった三十五行の詩の中に複雑に圧縮されていると言える。

 

「マサニエロ」Masaniello(一六二〇年(アマルフィ生まれ)~一六四七年(ナポリにて没))はナポリの漁夫で本名は Tommaso Aniello d'Amalfi(トンマーゾ・アニエッロ・ダマルフィ)。 一六四七年、スペイン支配下のナポリで、果物税を課して属領からの収奪を強化しようとしたスペインに対し、ナポリ市民の不満が爆発、同年七月、マザニエッロの指導下で下層民による反乱が発生し、これが広範囲な市民反乱へと拡大した。彼らは王宮に侵入し、役所や牢獄を破壊、マザニエッロは「ナポリ人民の総司令官」に選出されたが、わずか五日後に仲間の一団によって暗殺された(その後、反乱は、市民だけでなく農民をも巻き込み、反スペイン暴動に発展したが、一年後にスペイン軍に鎮圧されている)。また、マザニエッロは最後は精神障害を起こしていたとも言われる。賢治が彼の名を出したのは、特に彼の革命家としてのそれに惹かれたものではなく、恐らくは彼を素材とした、フランスの作曲家ダニエル=フランソワ=エスプリ・オベール(Daniel-François-Esprit Auber  一七八二年~一八七一年)、が一八二七年に作曲した架空のオペラ「ポルティチの唖娘(おしむすめ)」(La Muette de Portici:一八二八年二月・パリ・オペラ座初演・全五幕)からの、賢治の好きなイタリア風人名の響きの良さからの借用に過ぎないと私は思う。反乱を背景としつつ、架空のマザニエッロの唖の妹フェネッラ(Fenella)を登場させ、彼女の死で終わる悲劇である。そのストーリーを如何にしても解釈の力動の一つにしないと気が済まない方は、ウィキの「ポルティチの唖娘」を読まれるがよかろうが、しかし数奇の妹とは、どう考えても、私にはトシにオーバー・ラップしてならない

「城」旧稗貫農学校(現在の岩手県立花巻農業高等学校はその後身に当たるが、位置は異なる。同校は現在の総合花巻病院附近であったらしい(グーグル・マップ・データのこちらで確認されたい))裏にある花巻城址(盛岡藩花巻郡代の居城。古くは鳥谷ヶ崎城(とやがさきじょう)と称し、「前九年の役」の安倍頼時の城柵と伝えられる。ウィキの「花巻城」によれば、『稗貫氏は室町時代には十八ヶ城(稗貫郡宮野目村)を本城としていたが、戦国期の享禄年間に本城を鳥谷ヶ崎(稗貫郡花巻村)に移した。周辺には八重畑館や大瀬川館など同じ稗貫一族の城郭が複数あった』。しかし、天正一八(一五九〇)年の豊臣秀吉による奥州仕置により、『稗貫氏は没落し、鳥谷ヶ崎城には秀吉の代官浅野長政が入部、長政帰洛ののちは同族浅野重吉が目代として駐留した。しかし同年の冬、旧領を奪還しようとする和賀氏と稗貫氏が一揆を起こした(和賀・稗貫一揆)。これによって、鳥谷ヶ崎城を含め』、『稗貫氏の旧領も和賀・稗貫勢の手に渡ったが、翌天正』十九『年、再仕置軍の侵攻により一揆は鎮圧された。同年中に稗貫郡は南部領と決められ、南部信直の代官北秀愛が城代として入り、城の改修が行われ、名称も花巻城と改められた』とある)

「白雲母」muscovite(既出既注)。雲母の一種で、ガラス光沢又は真珠光沢があり、無色又は白色透明。六角板状の結晶で、薄く剝がれる。白雲母は当時のストーブの耐熱の覗き窓に使われていた。

「濠」「ほり」。花巻城址の南方に濠跡らしき池が認められる。

「橄欖天蠶絨(かんらんびらうど)、杉」オリーヴ色をした天蚕糸で織った厚手の織物であるが、ここは杉の木を形容したものであろうが、「橄欖」をわざわざ出したのはイタリアと親和性からであろう。

「ぐみの木」茱萸の木。バラ目グミ科グミ属 Elaeagnus のグミであるが、私は即座に秋に実が赤く熟すアキグミ Elaeagnus umbellata を想起してしまう。赤いそれは点描されないもの季節的には、それをここに思い描いても、問題はないし、「赤い蓼(たで)」も直後に示されるので私は部分着色した画面を見る。「そんなにひかつてゆするもの」と言っているのもその実に相応しい。

「桐畑」「桐」シソ目キリ科キリ属キリ Paulownia tomentosa。箪笥材として古くから栽培され、特に東北地方は産地として知られる。本邦産に樹木の中で最も大きな葉をつける種であり、「ゆする」というのはそれが風に靡くさまにマッチし、前の茱萸の木の「ゆする」さま、風に靡く「すすきの穂」「波」の映像とともに、描写はクロース・アップを多用した、すこぶるシネマティクなものである。

「赤い蓼(たで)の花」ナデシコ目タデ科ミチヤナギ亜科 Persicarieae Persicariinae 亜連イヌタデ属イヌタデ Persicaria longiseta であろう。

「なんだか風と悲しさのために胸がつまる」「悲しさ」に読む者も自然、「胸がつまる」一行である。私は愛する友人で決別してしまった保阪嘉内や、日増しに病態の悪化する最愛の妹トシへの思いはこれに共振して仕方がないのだ。さればこそ「ひとの名前をなんべんも」/「風のなかで操り返してさしつかえないか」は標題のお洒落な感じのイタリア人名「マサニエロ」のそれを呟くことを意味するのであろうが、それは賢治にとっては、「銀河鉄道の夜」の「カンパネルラ」と同じく、嘉内やトシの面影に連動する響きを持っていたものとして転用造語して命名されたものなのではあるまいか。なお、ギトン氏ついで、トシ説は否定され、賢治が秘かに愛していた『宮澤家のすぐ近所の蕎麦屋の娘』『大畠ヤス子という女性だという』説(澤口たまみ「宮沢賢治 愛のうた」二〇一〇年盛岡出版コミュニティー刊に拠るとある)を出されつつ、最終的に保阪嘉内であるとされる。面白いのは、最後でギトン氏が、「繰り返して」の誤字の「操」を指して、『「操」とは、“ただ一度の恋”に対する「みさお」で』あるとされているところである。フロイトの「言い間違い」理論に重ねるなら、ちょっと興味深くはある。因みに、ギトン氏はこの「マサニエロ」の名も「まさにエロ」と読め、『賢治が「エロ」という言葉を“エロティック、性愛”の意味で使っていたことは』、森荘已池氏の「宮沢賢治の肖像」(一九七四年津軽書房刊)に、昭和六(一九三一)年の賢治の発言に、「草や木や自然を書くようにエロのことを書きたい。」とある』ことを例証として示しておられる。これも面白い立派な解釈の一つであると私は思う。

「もうみんなが鍬や繩をもち」/「崖をおりてきていゝころだ」幻想の中にあっても、収穫という農事のクライマックスの、現実の農民の活動を想起することを忘れない。彼はそれを自然の摂理の一つとして認識している(自然科学のマクロで捉えれば、農地は反自然であるが、彼は農科学者であり、そうした今風の中途半端な自称エコロジストのエコロジーは寧ろ噴飯物であろう)。

「いまは烏のないしづかなそらに」/「またからすが橫からはいる」パンして烏がインする。オフで烏の鳴き声を出すのもよい。続く「屋根は矩形で傾斜白くひかり」/「こどもがふたりかけて行く」/「羽織をかざしてかける日本の子供ら」/「こんどは茶いろの雀どもの抛物線」/「金屬製の桑のこつちを」/「もひとりこどもがゆつくり行く」のカット・バックの効果的な多用とともに、優れた映像詩となっている。

「金屬製の桑」バラ目クワ科クワ属 Morus のクワ類は、秋になると枝が灰色或いは褐色になる。

「蘆の穗は赤い赤い」賢治は山巡査」で「蘆(よし)」とルビしているから、ここもそう読んでおく。そこで注した通り、「葦(あし)」「葭(よし)」「アシ」「ヨシ」と書き換えても孰れも総て同一の、湿地帯に植生する単子葉植物綱イネ目イネ科ダンチク(暖竹)亜科ヨシ属ヨシ Phragmites australis を指す。秋に咲く花は暗紫色を呈し、長さ二十~五十センチメートルの密集した円錐花序である。

「ロシヤだよ、チエホフだよ」「赤い」から「ロシヤ」(賢治と当時のロシアについては山巡査」の私の注を参照されたい)へ、それが「チエホフ」を引き出し、ロシアの広い原野が夢想される。アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ(Антон Павлович Чехов:ラテン文字転写:Anton Pavlovich Chekhov 一八六〇年~一九〇四年)には短編小説「曠野」(Степь 一八八八年発表)があり、ギトン氏はで、本篇のここは同作の印象に引かれて登場させたものと分析しておられ、「曠野」に見られるように、『チェーホフの描くロシアの大地は、人間に‘飼いならされ’ていない原初の自然の息吹に満ちて』おり、『そこに描かれた人間たちは、剥き出しの現実そのものであり、農民的な素朴な心性の奥に、おどろおどろしいものを見え隠れさせてい』て、『人間の恐るべき“なまの”姿が映し出されて』おり、賢治のここでの『詩句は、けっして情緒豊かなメルヘンだけを指してはいない』とされる。その読みの深さには何時もながら、感服する。

「はこやなぎ」本邦産種ならば、日本固有種のキントラノオ目ヤナギ科ヤマナラシ属ヨーロッパヤマナラシ変種ヤマナラシ Populus tremula var. sieboldii の別名である。箱の材料にしたことから「箱柳」と呼び、「白楊」とも書く。学名で判る通り、所謂、広義のポプラである。

「希硫酸の中の亞鉛屑は烏のむれ」松井潤氏のブログ「HarutoShura」の解説(分割版の最後)には、『固体の化学物質と液体の化学物質を反応させて気体を発生させるときに用いる“キップの装置”に、亜鉛の縮れた屑を入れて希硫酸を滴下させると、化学反応によって水素が発生』するが、『「稀硫酸の中の亜鉛屑は烏のむれ」というのは、その反応によって黒くなった亜鉛が細々になって移動し、あたかも「烏のむれ」が飛んでいるようにみえるという喩えなので』あろうとされる。「キップの装置」とは、オランダの化学者ペトルス・キップ(Petrus Jacobus Kipp)によって発明された、雪達磨のように縦に三つに並んだガラス製の容器から成る実験器具である。ウィキの「キップの装置を見られたい。]

2018/11/26

和漢三才圖會第四十三 林禽類 慈烏(からす) (ハシボソガラス)


Karasu

からす  慈鴉 寒鴉

     孝鳥

慈烏

     【和名加良須】

ツウ ウヽ

 

本綱慈烏狀似烏鴉而小多羣飛作鴉鴉聲初生母哺六

十日長則反哺六十日可謂慈孝矣背飛向啼也凡烏類

有四種慈烏【小而純黑小觜反哺者】鴉烏【似慈烏而大觜腹下白不反哺】燕烏【似鴉烏而

大白項者】山烏【似鴉烏而小赤觜穴居者】北人喜鴉惡鵲南人喜鵲惡鴉

五雜組曰鴉鳴俗云主有凶事故女子小人聞其聲必唾

之然舊説烏性極壽三鹿死後能倒一松三松死後能倒

一烏而世反惡之何也

三才圖會云鴉見異則噪故人聞烏噪則唾性樂空曠傳

涎而孕候烏飛翅知天將雨蓋烏陽物也感陰氣而重故

俗以此占雨

△按烏者有孝慈而長壽之鳥也山林及村市多有之將

 曙之時群飛噪鳴集市中郊野貪雜穀或雛卵及腥膻

 屍肉恣食之故人強惡之至黃昏宿于叢林雖夜中月

 既出則鳴其聲如曰鵶鵶純黑而雌雄難辨自古相傳

 云烏者熊野之神使也凡病人將死之前群鳴以爲凶

 兆大忌之其肉【味酸鹹臭】人不食故烏不恐人不屑鷹鷂而

 恣啄園圃果蓏穀實竊人家所晒魚肉餅餻等噉郊野

 屍肉最貪惡之甚者也

  祝由哥烏なく万の神の誓ひかや阿字ほんふしやう加しは不可得

 續日本紀聖武帝天平十一年出雲國獻赤烏又越

 中獻白烏白烏者聞有出赤烏者尚希有之物也

日本紀云敏速帝元年高麗上表疏書于烏羽字隨羽黑

[やぶちゃん注:以上の行、何故か、行頭から始まっている。]

 既無識者辰爾乃蒸羽於飯氣以帛印羽悉寫其字

 竟宴世の中に君なかりせは烏羽にかける言の葉猶消えなまし

王辰爾 應神天皇命荒田別使於百濟搜聘有識者國

 王奉旨擇宗族遣其孫辰孫王隨使入朝天皇喜焉特

 加寵以爲皇太子之師於是始傳書籍儒風文教興焉

 其子太阿郞王【其子】亥陽君【其子】午定若生三男【長子味沙中子辰爾

 季子麻呂】從此別爲三姓各因所職命氏辰爾爲船長

 

 

からす  慈鴉〔(じあ)〕 寒鴉

     孝鳥

慈烏

     【和名、「加良須」。】

ツウ ウヽ

 

「本綱」、『慈烏は、狀、烏鴉〔(はしぶと)〕に似て小さく、多く羣飛して「鴉鴉〔(ああ)〕」の聲を作〔(な)〕す。初生、母は哺すること、六十日、長ずるときは、則ち、反哺〔(はんぽ)〕すること、六十日。「慈孝〔(じこう)〕なり」と謂ふべし。背〔(あふむ)〕き〔て〕飛び、〔また〕向〔(むか)〕ひ〔て〕啼くなり。凡そ、烏の類に四種有り。「慈烏〔(からす)〕」【小にして純黑。小さき觜。反哺する者。】・「鴉烏〔(はしぶと)〕」【慈烏に似て、大きく、觜・腹下、白く。反哺せず。】・「燕烏(ひぜんがらす)」【鴉烏に似て、大きく、白き項〔(うなじ)〕の者。】・「山烏〔(やまがらす)〕」【鴉烏に似て、小さく、赤き觜。穴居する者。】〔なり〕。北人は鴉を喜びて、鵲〔(かささぎ)〕を惡〔(にく)〕む。南人は、鵲を喜びて、鴉を惡む』〔と〕。

「五雜組」に曰はく、『鴉鳴〔(あめい)〕、俗に凶事有ることを主〔(つかさど)〕ると云ふ。故に女子・小人、其の聲を聞けば、必ず、之れに唾〔(つばき)〕す。然〔れども〕、舊説に烏の性〔は〕極めて壽〔(なが)〕し、三鹿〔(さんろく)[やぶちゃん注:継代三代のシカ。]〕死して後〔(のち)〕、能く、一松〔(いつしやう)[やぶちゃん注:一本のマツ。]〕倒ふれ、三松、死(か)れて後、能く、一烏〔(いちう)〕の倒ふる〔と〕。而るを、世に反つて之れを惡むは何ぞや』〔と〕。

「三才圖會」に云はく、『鴉、異を見れば、則ち、噪〔(さは)〕ぐ。故に、人、烏の噪ぐを聞くときは、則ち唾(つばきは)く。性〔(しやう)〕、樂〔にして〕空曠〔(くうくわう)たり〕。涎〔(よだれ)〕を傳〔(つた)〕へて孕〔(はら)〕む。烏の飛-翅〔(と)ぶ〕を候〔(うかが)ひ〕て、天、將に雨〔(あめふ)〕らんとするを知る。蓋し、烏は陽物なり。陰氣を感じて重〔(おも)〕し。故に、俗、此れを以つて雨を占ふ』〔と〕。

△按ずるに、烏は孝慈有りて、長壽の鳥なり。山林及び村・市〔(いち)〕に多く之れ有り。將に曙〔(あけぼの)たらん〕とするの時、群飛して噪ぎ鳴き、市中・郊野に集まり、雜穀を貪り、或いは、雛・卵及び腥-羶〔(なまぐさもの)〕・屍肉〔(しにく)〕、恣〔(ほしいまま)〕に之れを食ふ。故に、人、強く之れを惡む。黃昏に至りて叢林に宿〔るも〕、夜中と雖も、月、既に出〔ずれば〕、則ち、鳴く。其の聲、「鵶鵶〔(ああ)〕」曰ふがごとし。純黑にして、雌雄、辨〔(わか)ち〕難し。古へより相ひ傳へて云はく、「烏は熊野の神使なり」〔と〕。凡そ、病人、將に死せんとするの前、群れ鳴〔くを〕以つて、凶兆と爲す。大いに之れを忌む。其の肉【味、酸、鹹。臭〔(くさ)し〕。】、人、食はず。故に、烏、人を恐れず。鷹-鷂〔(たか)〕を屑(ものゝかづ[やぶちゃん注:ママ。]とも)せず、恣〔(ほしいまま)〕に園圃の果蓏穀實〔(からこくじつ)〕を啄ばみ、人家〔の〕晒〔(さら)〕す所の魚肉・餅-餻〔(もち)〕等を竊〔(ぬす)〕み、郊野の屍肉を噉〔(くら)〕ふ。最も貪惡の甚しき者なり。

  祝由哥〔(しゆくゆうか)〕

 烏なく万〔(よろづ)〕の神の誓ひかや阿字〔(あじ)〕ほんぷしやう加〔(か)〕じは不可得〔(ふかとく)〕

 「續日本紀」、『聖武帝天平十一年、出雲國より赤き烏を獻ず。又、越中より白き烏を獻ず』と。白き烏は聞〔(ぶん)〕に出づること有〔れども〕、赤き烏は、尚、大いに希有〔(けう)〕の物なり。

「日本紀」に云はく、『敏達帝元年、高麗より上りつる表-疏(ふみ)、烏の羽に書〔(しよ)〕す。字、羽の黑き隨(ま〔にま〕に)〔しるせば〕、既に識る者、無し。辰爾〔(ときしか)〕、乃〔(すなは)ち〕、羽を飯の氣〔(かざ)〕に蒸〔(む)〕し、帛を以つて羽を印(を)して、悉く其の字を寫す』〔と〕。

 竟宴〔(きやうえん)〕〔歌〕

 世の中に君なかりせば烏羽〔(からすば)〕にかける言の葉猶〔なほ〕消えなまし

王辰爾(わうのときしか) 應神天皇、荒田〔(あらた)〕の別〔(わけ)〕に命じて、百濟に使はして、有識の者を搜聘〔(さうへい)〕せよと。國王、旨〔(むね)〕を奉〔(たま)〕はり、宗族〔(しうぞく)〕を擇〔(えら)び〕、其の孫、辰孫王をして使ひに隨ひて入朝せしむ。天皇、焉〔(これ)〕を喜び、特に寵を加へ、以つて皇太子の師と爲す。是れに於いて、始めて、書籍、傳はり、儒風〔の〕文教、興れり。其の子、太阿郞王、【其の子〔の〕】亥陽君、【其の子〔の〕】午定若、三〔(み)〕たりの男を生む【長子、味沙。中子、辰爾。季子、麻呂。】。此れより別れて、三姓と爲〔(な)〕る。各々、職〔(つかさど)る〕所に因りて氏を命じ、辰爾〔は〕「船〔(ふな)〕」〔の〕長(をさ)[やぶちゃん注:「船」という姓。]と爲る。

[やぶちゃん注:カラスの代表して、スズメ目カラス科カラス属ハシボソガラス Corvus corone。を最初に挙げている(本項の後に、この本文にも出ている別種(とするもの)として、個別独立項で、「大觜烏(はしぶと)」(カラス属ハシブトガラス Corvus macrorhynchos)・「燕烏(ひぜんがらす)」(これは現在、カラス科カササギ属カササギ Pica pica の別名ともされるが、不審なことに、後に独立項で「鵲」が出る。調べて見たところ、どうもこの「燕烏」はカササギではなく、見た目がちょっと似て、日本の西部、特に九州のカササギ分布区域内にも飛来するカラス属コクマルガラス Corvus dauuricus を指していることが判明した。それぞれでそちらで考証することとする)・「山烏」(和名としてはカラス属ミヤマガラス Corvus frugilegus であるが、実際にはハシブトガラスをもかく呼称する)が続いている)。ウィキの「ハシボソガラス」によれば(下線やぶちゃん)、『英名の Carrion Crow は「死肉を食うカラス」を意味するが、実際は後述の』通り、『植物質を好む』。『ユーラシア大陸(東部、西部)』に分布し、『日本では、ほぼ全域の平地から低山に分布する留鳥』である。全長は五十センチメートル『ほどで、全身が光沢のある黒色をしており、雌雄同色。外から見える羽は黒いが、皮膚に近いところの短い羽毛はダウン』・『ジャケットのように白く柔らかな羽毛で、寒さに非常に強く冬も平気で水浴びをする』。『地肌の色は黒っぽい灰色。脚とクチバシも黒色である。突然変異で白い個体が出現することもあり、これはアルビノまたは白変種と考えられる』。『ハシブトガラスに似るが』、『やや小さく、嘴が細く上嘴があまり曲がっていないところと、額(嘴の上)が出っ張っていないところで判別できる』。『ハシボソガラスと最も近縁な種はクビワガラス』(カラス属クビワガラス Corvus torquatus。但し、中国に分布する外来種)『であり、ハシブトガラスはやや離れている』。『河川敷や農耕地など開けた環境に生息する。極度に都市化が進んだ地域や高山帯ではあまり見られない。ペアは年間を通して縄張りを持つが、非繁殖期には夜間決まった林に集団でねぐらをとる』。『鳴き声は「ガーガー」と濁って聞こえるが、ハシブトガラスのそれに似る場合もある』。『営巣は開けた場所に位置する樹木に木の枝を組み合わせたお椀状の巣を作り、巣材に針金やハンガーなどを利用することもある』。『知能は高く、仙台市などで信号停車中の車のタイヤの前にクルミを置いて割るのも本種である』。『食性は雑食で、昆虫類、鳥類の卵や雛、小動物、動物の死骸、果実、種子などを食べる。ハシブトガラスよりも比較的植物質を好む傾向にある。ハシブトガラスと違って地面をウォーキング(交互に脚を出して歩く)する時間が長いため、地面採食(土食い)もする』。『産卵期は』四『月頃で』、一回に三~五『個の卵を産む。主にメスが抱卵し、その間オスはメスに餌を運ぶ。抱卵日数は約』二十『日。雛に対する給餌は雌雄共同で行い、雛は孵化後約』一『か月で巣立つ。子育てに失敗した場合は再度』、『抱卵して子育てを行うこともあるが、前述のとおり時間を要するため、北では』一『回が限度と見られる』。『ハシブトガラスが森林に生息していたのに対し、本種は人里近くに生息し』、『住み分けてきた。かつて日本で「カラス」といえば本種を指したが、都市部へハシブトガラスが進出したため、「日本のカラス」の座をハシブトガラスに譲ることになった。実際、都市化にともなってハシブトガラスが個体数を増やしているのに対し、本種は個体数を漸減している』。『学名の種小名 corone は一般には鳴き声に由来していると考えられているが、白いカラスを従えていたギリシャ神話の太陽神アポローンの愛人、コローニスに由来しているという説もある』。『狩猟鳥ではあるが、今日肉を食用に供することはまずなく、もっぱら煩瑣な手続きを経ることなく』、『農業害鳥として駆除できるのに役立つ程度である。ただし世界的には中国や西洋において、古来より薬用として食べてきた歴史があり、いわゆるゲテモノとしてではなく』、『一般的な食材に供した例も洋の東西を問わず』、『世界的には多々ある』。『日本においては北海道の一部、秋田県、長野県、岐阜県などでかつて食用に供されてきた。なかでも有名なのが、長野県上田市の』「カラス田楽」『という郷土料理である。岐阜県においても、大正中期ごろまで地元の肉屋でカラス肉が売られていたという』とある。

 

「哺する」食べ物を口に含ませること。そこから「育(はぐく)む・慈しみ育てる」の意とあった。

「反哺〔(はんぽ)〕」ここにある通り、烏は成長の後、育てて呉れた親鳥の口に餌(えさ)を含ませて、養育の恩に報いるという。これは「事文類聚」(宋の祝穆(しゅくぼく)の撰になる類書(百科事典)。全百七十巻。一二四六年成立。先行する類書「芸文類聚」(唐の高祖(李淵)の勅命によって欧陽詢らが撰。六二四年成立。全百巻)に倣って、古典の事物・詩文などを分類したもの)などに載り、そこから「反哺の孝」(「烏さえ親の恩に報いるのだから、ましてや人は孝行せねばならない」という故事成句が生まれた。残念ながら、実際にはそんなことはしない。鳥は巣立ちすれば、親鳥とは縁がなくなり、実の親や兄弟とも喧嘩や餌の奪い合いをする。

「北人は鴉を喜びて、鵲〔(かささぎ)〕を惡〔(にく)〕む。南人は、鵲を喜びて、鴉を惡む」その理由はよく判らない。カラスの方は、或いは、黄河や長江以北を中心として形成された中国神話に於いて、カラスが太陽の使いとされていたことと関係するか。カササギは七夕伝説に於いて、織姫と彦星の間を繫ぐ掛け橋の役を担う鳥として親しまれている点が南では強調されて、福を招くと考えたか。死肉を啄むとされたところで、腐敗の早い、南の方の人がそれを現認することが多かったであろうから、憎むという理由は判る。また、北のカササギのそれは、五行説によるものであろう。五行説では色は、「木」に「青」、「火」に「紅(赤)」、「土」に「黄」、「金」に「白」、「水」に「玄(黒)」を配するのはよく知られるが、五志(感情・性格相当)は、「木」に「怒」、「火」に「喜」、「土」に「思」、「金」に「悲(憂)」、「水」に「恐(驚)」を配することから、中国でも古来から白と黒の組み合わせは縁起が悪いとされる(中国の喪服は白)ので、カササギの毛色の白黒という組み合わせは死を意味するからであろう。但し、何故、それが南で適応されなかったのかは、これまた謎である。何方か、解明の御教授を戴けると嬉しい。

「五雜組」「五雜俎」とも表記する。明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で遼東の女真が、後日、明の災いになるであろうという見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになるという数奇な経緯を持つ。

「唾〔(つばき)〕す」人体から取り出された「もの」や排泄された「もの」は、人間の「生」由来するものであり、それは血腥さかったり、独特の臭気を持つことから、人間(的)でない存在である神や鬼や獣や病いや妖怪変化が忌避する対象となる。それを呪術として用いた例は、洋の東西を問わず、枚挙に暇がない。「黄金伝説」(Legenda aureaLegenda sanctorum:レゲンダ・アウレア。ヤコブス・デ・ウォラギネ(Jacobus de Voragine 一二三〇年頃~一二九八年)によるキリスト教の聖人伝集。一二六七年頃に完成)の「聖ペテロ鎖の記念」では、指で十字の印を作って龍につきつけ、さらに唾を龍の顎に吐きかけてこれを倒したとか、「ギリシア神話」では教えた占術を「私の口中に唾をはけ」と命ずる事で忘れさせたり、「新約聖書」の「マルコによる福音書」第八章では、イエスが盲人の両目に唾をつけ、両手をその上に当てて開眼させた、と個人ブログ「歯顔大笑」の「唾の呪 にある。「巫研 Docs Wikiのこちらにある、柳田や折口と同時代の民俗学者中山太郎(明治九(一八七六)年~昭和二二(一九四七)年:本名は中山太郎治)の昭和五(一九三〇)刊の「日本巫女史」の「第一篇 固有呪法時代 第四章 巫女の呪術に用いし材料 第三節 呪術に用いし排泄物」から「二 唾液」を引く(注記号は略した)。

   *

 私は先年、客気に駆られて、紀伊国熊野神社の祭神である速玉男神(ハヤダマヲノカミ)及び事解男神(コトサカヲノカミ)の両神は、共に唾液の神格化されたものが、後に人格神となったのであると云う考証を発表したことがある。勿論、当時の私の研究には多くの欠陥があったので、吾れながらもその粗笨[やぶちゃん注:「そほん」。大まかでぞんざいなこと。細かいところまで行き届いていないこと。粗雑なこと。]であったことを認めざるを得ぬのであるが、然しその結論である熊野神は唾液の神格化なりと云う点だけは、今に固く主張することが出来ると考えている。私が改めて言うまでもなく、熊野社の祭神である速玉・事解の二神は、諾尊の唾液から成りました事は神典に明記されているところである。これを「日本書紀」に徴するに、その一書に、

 伊弉諾尊追伊弉冊尊所在処(中略)。及所唾之時、化出神号曰速玉之男、次掃之時、化出神号曰泉津事解之男、凡二神矣云々。

と載せてある。而して斯くの如く唾液が神格化されるようになったのは、古く唾液には呪力が在るものと信じられた為である。諾尊が冊尊を追うて黄泉国に到り、絶妻(コトドワタ)してその穢れに触れたので、此の汚き国を去るに臨んで唾液を吐かれたのは、此の呪力によって、悪気または邪気を払われたのである。

 唾液の有した呪力に就いては、これを民俗学的に見るときは、古今を通じて、その例証の多きに苦しむほどであるが、それを一々載せることは差控えるとして、更に、事解神に就いて私見を述べんに、これは大和葛城の一言主神が、善言(ヨゴト)も一言(ヒトコト)、悪言(マガコト)も一言(ヒトコト)、言離(コトサカ)の神、我れは葛城の一言主神なりと宣(ノ)られた。その言離と同じ意味であって、現代語で云えば、唾液を吐いたのは、契りを絶った証拠であって、これ以後は言語も交わさぬぞと云うことなのである。一言主神の言離も、善悪ともに一言に云うぞ、再び問い返しても一度言離りした上は答えぬぞ、と云う意味である。

 而して此の神話から派生した唾液の呪力は、古代人の固く信仰していたものと見えて一二の記録に残されている。「日本書紀」神代巻に、天孫彦火々出見尊が兄火酢芹命と山幸海幸を交換し、兄の鈎を失いて海神の宮に至り、海神が此の鈎を得て尊に授けるときに教えるに『兄の鈎を還さん時に、天孫則ち言ひますべし、汝が生子の八十連属(ツヅキ)の裔(ノチ)、貧鈎(マチヂ)、狭々貧鈎(ササマチヂ)と言い訖りて、三たび下唾(ツバ)きて与へたまへ』と載せ、更に「古語拾遺」にも、御歳神の子が、大地主神の作れる田に至り『唾饗而還』と記したのは、二つともに唾液の呪力を示したものである。

 而して以上の記事は、一般の呪術に関するものであって、特に巫女に限られたものではないのであるが、今はさる選択をせずに記述したまでである。

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「烏の性〔は〕極めて壽〔(なが)〕し」カラスの寿命は実際に他の鳥類に比べると長い。サイト「生活110番」(害獣駆除を含むサイト)の「カラスの寿命は意外と長い! カラスにも長生きの秘訣はあるのか?」によれば、野生環境下に於けるカラスの平均寿命は十年から十五年、寿命の長い種や個体では三十年と言われており、例えばスズメ(スズメ目スズメ科スズメ属スズメ Passer montanus)の寿命が約六年、カラスの天敵である本邦の鷹類の代表種オオタカ(タカ目タカ科ハイタカ属オオタカ Accipiter gentilis)が約十一年とされるので、『カラスはかなり長生きであると言える』とある(但し、『鳥類には長生きする種が多く』、フクロウ(フクロウ目フクロウ科フクロウ属フクロウ Strix uralensis)やオウム(オウム目オウム科 Cacatuidae)は六十『年以上生きることが知られてい』るとも言い添えてある)。その理由は人間社会に入り込んだことで『エサの調達が容易』になったこと、同様の理由から『天敵が少な』くなったこと、『カラスは非常に賢く危険をすばやく仲間に伝えることができるため、一斉に命を落とすことはほとんど』なく、『また』、『記憶能力も非常に優れており、危ない目にあったところには二度と近寄らないと言われてい』て、『隠したエサの場所を正確に把握することができるので、餓死する確率も低い』ことも挙げられ、他にも、『体の丈夫さも関係して』おり、『病気にかかりづらく多少の怪我ならば治療する必要がない、というほど丈夫と言われ』ている、とある。因みに、『街でカラスをよく見かける割には死骸を見かけることはほとんど』ないことから、まさにここで言われるような感じで、今も『「カラスは』百『年以上生きる」といった都市伝説も噂されてい』たりする(これはまさに一九七〇年代の関東地区限定で発生したアーバン・レジェンドの「マクドナルド猫肉説」(最近猫の轢死体を見ないマクドナルドのハンバーガーは母さんの作るのとまるで味が違う実はあれは猫の肉を使っている)とコンセプトが同一である)。『実はカラスの死骸をほとんど見かけない理由は、カラスは寿命が近づくと』、『自分の巣で余生を過ごすためだ』というのが真相で、『不慮の事故でもない限り』、彼らの『街で死骸を見ることは』、事実、『ほとんど』ないのだと記す。『また』、『死んでしまったカラスの死骸は』、速やかに『他の動物のエサになっていることが多く、そのような点もカラスが死骸として見つかる事が少ない理由』と思われるある(但し、『畑や空き地が多くある地域ではカラスの死骸をよく見かけるよう』であると言い添える)。最後に、『世界には』六十『年生きたカラスがいたという記録があり』、それは『コクマルガラス』(カラス属コクマルガラス Corvus dauuricus。或いは分離して Coloeus 亜属ともする)『という比較的小さなカラスで、日本では越冬のために九州に飛んでくることが多い』種で、『もしかしたら私たちの知らないところでは、もっと長生きしているカラスがいるのかもしれ』ないと結んでいる。

「一松〔(いつしやう)倒ふれ、三松、死(か)れて」裸子植物門マツ綱マツ目マツ科マツ属 Pinus に属するマツ類の平均寿命は二千五百年で、最長で五千年とされる。平均寿命で計算しても、「三松」は七千五百年だから、現在のアーバン・レジェンドなんか目じゃなくなるブットびの数値だ! これをもとに――「カラスは数千年から一万年生きる」――という都市伝説を流行らせたら、どうよ!?!

「異を見れば」異変を察知すると。

「性、樂〔にして〕空曠〔(くうくわう)たり〕」性質は至って気楽なもので、のびのびとして、気持ちが広く、「あっけらかん」(東洋文庫版の「空曠」へのルビ)としている。

「涎〔(よだれ)〕を傳〔(つた)〕へて孕〔(はら)〕む」雄が雌に涎を垂らすだけで子が出来る。うへえ! ヤバい!

「飛-翅〔(と)ぶ〕を」「三才図会」の原本頁を見たが(国立国会図書館デジタルコレクション)、「翅」で間違いない。「翅翅」で飛ぶことの意があるから、かく二字で訓じておいた。

を候〔(うかが)ひ〕て、天、將に雨〔(あめふ)〕らんとするを知る。蓋し、烏は陽物なり。「陰氣を感じて重〔(おも)〕し」「重し」とは陰気に対して甚だ敏感である、の意。

故に、俗、此れを以つて雨を占ふ』〔と〕。

「市〔(いち)〕市街地。良安の時代にカラスが既に都市棲息型へと移行していたことが判る。

「腥-羶〔(なまぐさもの)〕」生臭いもの。魚や獣の肉。

「雌雄、辨〔(わか)ち〕難し」くろ氏のサイトCrowes!!」の「カラスのオス・メスはどうやって見分けるの?」によれば、『カラスはもちろん雌雄同色。カモやヒタキのように色で見分けるのは不可能です。若鳥は光沢が少ない、などと言われますが、それでもどこまで区別できるか。大きさもほとんど差はないですから、一般的にカラスの雌雄は見ただけでは分かりません』。『雌雄でまったく差がないかといえばそうでもなくて、体のサイズを測定をしていると平均してオスの方が全体に大きく、メスの方が小さい傾向があることが今までのいろんな人の研究で分かっています。しかし、これはあくまで平均値であり、これで雌雄の識別ができる』わけではないとされる。『もう一つ、行動で見ると、繁殖期には差が出てきます。抱卵個体の観察です。抱卵というのは字の通り卵を暖めることですが、カラスの場合卵はほとんどメスが暖めます。また、ヒナに直接餌をやるのもメスが多いようです。オスはどうしているかというと、外に出て餌を採ってきて、巣の近くに隠したり、メスに渡すわけです。また、巣の周りを見張る役目もしています』。『また、抱卵中の時期のメスは、卵を皮膚に触れさせて効率よく暖めるために』、『おなかの羽根が抜け落ち、かなり白っぽく見えます(場合によっては地肌が見える)。これを「抱卵斑」といいますが、これで見分けがつく場合もあります。抱卵斑が出ればメスとして良いでしょうが、出ないメスもいるので、出ない方は雌雄不明、ということになります』とあるから、やっぱり、良安先生の言う通り、弁別は難しい。

「烏は熊野の神使なり」日本神話に於いて、神武東征の際に高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)によって神武天皇のもとに遣わされ、熊野国から大和国橿原への道案内をしたとされる八咫烏(やたがらす)で、「導きの神」として信仰され、また、中国神話の影響か、「太陽の化身」ともされる。一般的に「三本足のカラス」として知られ、古くよりその姿絵が伝わる。ウィキの「八咫烏」から引く。『熊野三山においてカラスはミサキ神(死霊が鎮められたもの。神使)とされており、八咫烏は熊野大神(素戔嗚尊)に仕える存在として信仰されており』、『熊野のシンボルともされる』。『近世以前によく起請文として使われていた熊野の牛玉宝印(ごおうほういん)にはカラスが描かれている』。『咫(あた)は長さの単位で、親指と中指を広げた長さ(約』十八『センチメートル)のことであり、八咫は』百四十四センチメートル『となるが』、『ここでいう八咫は単に「大きい」という意味である』。八咫烏は「日本書紀」や「古事記」に登場するが、「日本書紀」では、『同じ神武東征の場面で、金鵄(金色のトビ)が長髄彦との戦いで神武天皇を助けたともされるため』、『八咫烏と金鵄がしばしば同一視ないし混同され』ている。『八咫烏が三本足であることが何を意味するかについては、諸説ある。熊野本宮大社では、八咫烏の三本の足はそれぞれ天(天神地祇)・地(自然環境)・人を表し、神と自然と人が、同じ太陽から生まれた兄弟であることを示すとしている』。『また、かつて熊野地方に勢力をもった熊野三党(榎本氏、宇井氏、藤白鈴木氏)の威を表すともいわれる』。しかし、記紀には、『八咫烏が三本足であるとは記述されておらず、八咫烏を三本足とする最古の文献は、平安時代中期(』九三〇『年頃)の「倭名類聚抄」であり、この頃に八咫烏が中国や朝鮮の伝承の鳥「三足烏(さんそくう)」と同一視され、三本足になったとされる』。元は『賀茂氏が持っていた「神の使いとしての鳥」の信仰と』、『中国の「太陽の霊鳥」が習合したものともされ』、『古来より太陽を表す数が三とされてきたことに由来するとする見方は、宇佐神宮など太陽神に仕える日女(姫)神を祭る神社(ヒメコソ神社)の神紋が、三つ巴であることと同じ意味を持っているとする説である』。『中国では古代より道教と関連して奇数は陽を表すと考えられており、中国神話では太陽に棲むといわれる』。『陰陽五行説に基づき、二は陰で、三が陽であり、二本足より三本足の方が太陽を象徴するのに適しているとも、また、朝日、昼の光、夕日を表す足であるともいわれる』とある。私は熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)を総て参詣し、三種の熊野牛王符(くまのごおうふ)総てを戴き、今、この書斎に飾ってある。

「鷹-鷂〔(たか)〕」タカ目 Accipitriformes に属するタカ類総てと採っておく。「鷂」は通常は、タカ類では中・小型のタカ科ハイタカ属 Accipiter のハイタカ類を指す。

「蓏〔(ら)〕」瓜(うり)類。ウリ目ウリ科 Cucurbitaceae に属する広義の瓜類を指す。古書ではマクワウリ・シロウリ・キュウリ・トウガンなどの名が見える。

「餅-餻〔(もち)〕」「餻」は餅を乾燥させて粉にしたもの、或いは、それで作った餅菓子を指すが、二字で、かく訓じておいた。

「祝由哥〔(しゆくゆうか)〕」「祝由」は古代の中国医学で呪文を唱えて病気を治療する術を指した。東洋文庫では「祝由」に『まじない』とルビする。

「烏なく万〔(よろづ)〕の神の誓ひかや阿字〔(あじ)〕ほんふしやう加〔(か)〕じは不可得〔(ふかとく)〕」本歌の出典は不詳。識者の御教授を乞う。「阿字〔(あじ)〕」は梵語(ぼんご)の字母の第一。ウィキの「梵字」の当該文字の画像)密教ではこの字に特殊な意義を認め、宇宙万有を含むと説く。「ほんふしやう」は「本不生」で前の「阿字」と合わせて、「阿字本不生」(あじほんぷしょう)で密教の根本教義の一つを指す。前に述べた通り、「阿」字は宇宙の根源であり、「本来不生不滅」、即ち、「永遠に存在するということ」をこれで意味する。この真理を体得した時、人は大日如来と一体化すると説いている。「加〔(か)〕じ」加持祈禱の「加持」。諸仏が不可思議な力で衆生を守ること。加持祈禱は密教で行者が印(いん)を結んで真言を唱え、仏の助け・保護を祈っては病気や災難を除くことであるが、ここは本来の前者の意味。「不可得」は「認知出来ないこと」。仏教では一切の存在に固定不変の実体を認めないため、その本体を追求しても「不可得」であるとし、この立場を「不可得空」と称する。

「續日本紀……」「聖武帝天平十一年」は七三九年。原文は『天平十一年正月甲午朔 十一年春正月甲午朔。出雲國獻赤烏。越中國獻白烏』。

「日本紀……」「敏達帝元年」は五七二年。「日本書紀」の原文は『敏達天皇元年五月丙辰。天皇執高麗表疏、授於大臣。召聚諸史、令讀解之。是時諸史於三日内、皆不能讀。爰有船史祖王辰爾。能奉讀釋。由是天皇與大臣倶爲讚美曰。勤乎、辰爾。懿哉、辰爾。汝若不愛於學。誰能讀解。宜從今始近侍殿中。既而詔東西諸史曰。汝等所習之業、何故不就。汝等雖衆、不及辰爾。又高麗上表疏、書于烏羽。字隨羽黑、既無識者。辰爾乃蒸羽於飯氣。以帛印羽。悉寫其字。朝庭悉之異』。

「辰爾〔(ときしか)〕」ルビはママ。良安の勘違いか、或いは、こういう和訓で読む書物があったのか、よく判らぬ。飛鳥時代の人物で、後に出る「王辰爾」(おうしんに 生没年不詳)である。名は「智仁」とも記されている。正式な氏姓は「船史(ふなし/ふねし)」。第十六代百済王の辰斯(しんし)王の子である辰孫王の後裔で、塩君又は午定君の子とされている。ウィキの「王辰爾」によれば、『渡来系氏族である船氏の祖。学問に秀で、儒教の普及にも貢献したとされる』。欽明天皇一四(五五三)年に『勅命を受けた蘇我稲目によって派遣され、船の賦(税)の記録を行った。この功績によって、王辰爾は船司に任ぜられるとともに、船史姓を与えられた』。また、ここにある通り、敏達天皇元(五七二)年には、『多くの史が』三『日かけても誰も読むことのできなかった高句麗からの上表文を解読し、敏達天皇と大臣・蘇我馬子から賞賛され、殿内に侍して仕えるように命ぜられた。上表文はカラスの羽に書かれており、羽の黒い色に紛れてそのままでは読めないようにされていたが、羽を炊飯の湯気で湿らせて帛に文字を写し取るという方法で解読を可能にしたという』。「懐風藻」『序文には、「王仁は軽島に於いて(応神天皇の御代に)啓蒙を始め、辰爾は訳田に於いて(敏達天皇の御代に)教えを広め終え、遂に俗を漸次『洙泗の風』(儒教の学風)へ、人を『斉魯の学』(儒教の学問)へ向かわしめた」』『と表現されている』。歴史学者の『鈴木靖民や加藤謙吉によると』、「日本書紀」の『王辰爾の伝承は船氏が西文氏』(これで「かわちのふみうじ」と読む。古代の渡来系氏族で、王仁(わに:古代に百済から渡来した人物。生没年不詳。伝承によると、漢の高祖の子孫といい、「日本書紀」では、応神天皇の時に同じ百済からの渡来人であった阿直岐(あちき:記紀に見える朝鮮使節の一人で、応神天皇の時、百済王より遣わされて馬二頭を献上したという。経典に通じ、皇子の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)の師となった。阿直氏の祖とされ、「古事記」では「阿知吉師(あちきし)」)に推挙されて来朝し、「論語」や「千字文」を本朝に持ち込んだといわれる)の子孫と伝えられる。河内国古市郡に住み、主に文筆を以って大和朝廷に仕えた)『の王仁の伝説をまねて創作されたものだという。田中史夫は、王辰爾が中国系の王氏の姓を持っていることに着目しており』、『鈴木靖民によると、実際は王辰爾の代に新しく渡来した中国南朝系百済人だという』。『子に那沛故』(なはこ)『が、孫に船王後』(ふな(ふね)のおうご)『がおり、子孫はのち連』(むらじ)『姓に改姓し、さらに一部は天長年間(』八三〇『年頃)に御船氏(御船連・御船宿禰)に改姓している』。延暦九(七九〇)年に『菅野』(すがのの)『朝臣姓を賜る事を請願した百済王仁貞・元信・忠信および津真道らの上表によれば、辰爾には兄の味沙と弟の麻呂がおり、それぞれ葛井連・津連の租である』。『また、これに合致する形で新撰姓氏録において』、『辰孫王の後裔に相当する氏族に、右京の菅野朝臣・葛井宿禰・宮原宿禰・津宿禰・中科宿禰・船連のほか、摂津国の船連などがみえる』。「日本書紀」に『よれば、欽明天皇』三〇(五六九)年には『王辰爾の甥の胆津が白猪屯倉』(しらいのみやけ:吉備国に設置された大和朝廷の屯倉(直轄地))『に派遣され、田部の丁籍が定められた。これにより』、『胆津には白猪史の姓が授けられ、田令に任ぜられた』。『さらに』敏達天皇三(五七四)年十月には『船史王辰爾の弟の牛が津史姓を与えられ』ている、とある。

「飯の氣〔(かざ)〕に蒸〔(む)〕し、帛を以つて羽を印(を)して、悉く其の字を寫す」飯を蒸す際の湯気の上にそれを翳(かざ)して、水蒸気を含ませて乾燥した書かれた墨の字を潤ませ、それを白い絹の布にトレースしたのである。頭(あったま)いい!!!

「竟宴〔(きやうえん)〕〔歌〕」(現代仮名遣「きょうえんか」)「竟宴」は、平安時代に宮中で進講や勅撰集の撰進が終わった後に催された酒宴を指す。諸臣に詩歌を詠ませたり、禄を賜ったりした。別に、広く祭りの後に催される宴会である直会(なおらい)をも指す。ここは前者で採っておく。

「世の中に君なかりせば烏羽〔(からすば)〕にかける言の葉猶〔なほ〕消えなまし」かなり調べてみたのであるが、この歌の出所も本歌の出典も前と同様、不詳。識者の御教授を乞う。

「應神天皇」確定的ではないが、四世紀末から五世紀初頭に実在した可能性の高い天皇。第十五代に数えられる。名は「ほんだわけのみこと」または「おおともわけのみこと」。仲哀天皇の第四皇子で、母は神功皇后。先帝が没した際、なお母后の胎中にあったため、「胎中天皇」ともいう。彼及びその時代に関する記紀の伝承は豊富で、池溝開発・内政整備の記事の他、王仁の来朝、「論語」や「千字文」の奉献を始めとして、弓月君・阿知使主らの渡来人や、漢籍・儒学・工芸の輸入などに関するものが多く、この時代に於ける大和国家の勃興と、大陸や半島の先進文化の流入とをよく示している(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

「荒田〔(あらた)〕の別〔(わけ)〕」古代東国の豪族上毛野(かみつけの)氏らの先祖で、神功皇后や応神天皇の時代の人とされる。「日本書紀」によると、神功皇后の時、新羅との紛争解決のために鹿我別(かがわけ)とともに同地に派遣され、現在の慶尚南道の七国や済州島を陥れて、百済王近肖古と王子貴須と会見した。また、前の注で示した通り、応神天皇の時に、百済に使いして、阿直岐の推す王仁を招いて連れ帰った。この王仁招聘のことは、「続日本紀」の延暦九(七九〇)年七月の条の、百済王氏らの上表文中にも述べられている。神功皇后時代の新羅侵攻は、その史実性に疑いが持たれているが、早い時期から対朝鮮外交に活躍した人物が関東の勢力の中に実在したことは認められてよいだろう(「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。

「搜聘〔(さうへい)〕」「聘」は礼を尽くして人を招く意。

「宗族〔(しうぞく)〕を擇〔(えら)び〕」王統の宗家の者を選んで。

「辰孫王」(三五六年~?)は百済の第十四代国王近仇首王(きんきゅうしゅおう ?~三八四年)の孫で辰斯王の息子。ウィキの「辰孫王によれば、『応神天皇時代、祖父近仇首王の命を受けて』、『学者王仁と一緒に』「論語」十巻と「千字文」一巻を『携え、船で全羅南道霊岩郡から日本に渡った』。彼は『百済には帰国せずに日本に定着し』、『菅野氏と葛井寺』(ふじいでら)『の始祖となる。息子太阿郎王は仁徳天皇の近侍となった』とある。

「皇太子」正規に立太子されていたのは菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)である。実際には異母兄弟の大鷦鷯尊(おおさざきのみこと:後の仁徳天皇)と皇位を譲り合ったが、そうこうしているうちに薨去してしまった(「日本書紀」は仁徳天皇に皇位を譲るために自殺したと伝える)。仁徳の即位は崇神の没年から三年後で、その三年間は皇位は空席であった。

「其の子、太阿郞王、【其の子〔の〕】亥陽君、【其の子〔の〕】午定若、三〔(み)〕たりの男を生む【長子、味沙。中子、辰爾。季子、麻呂。】」この系譜はウィキの「辰孫王の家系と照らしてみても間違いない。

「三姓」菅野氏(津氏)・葛井(寺)氏・船氏の三つか。

「職〔(つかさど)る〕所に因りて氏を命じ、辰爾〔は〕「船〔(ふな)〕」〔の〕長(をさ)と爲る」水運を職掌したようである。葛井(寺)氏は後に遣唐使を輩出しているので外交を、菅野氏は後に「津氏」に改名しているところからは港湾管理を担当したか。]

2018/11/25

大和本草卷之十三 魚之上 ハス

 

【和品】

ハス 生江湖中琵琶湖ニ多シ味ヨシ長七八寸細鱗白

 色尾鬣赤初夏時出連行其性好飛躍越舩飛游

 四五月自湖底泝於河溝以網取之浮陽之魚也

 以蝦及蚯蚓爲餌釣之或曰氣味甘溫無毒養脾

 胃益氣力補虛乏和胃止瀉作鮓最美爲炙亦良

 ○順和名ニ鰣魚ヲ波曾ト訓ス然レドモ本草綱目所

 載鰣魚ニアラス

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

ハス 江湖の中に生ず。琵琶湖に多し。味、よし。長さ七、八寸。細き鱗、白色。尾・鬣〔(ひれ)〕、赤し。初夏の時、出で、連〔なり〕行く。其の性、飛躍を好み、舩〔(ふね)〕を越ゆ。飛び游ぐ。四、五月、湖底より河・溝〔(みぞ)〕に泝〔(さかのぼ)〕る。網を以つて之れを取る。浮陽の魚なり。蝦〔(ゑび)〕及び蚯蚓〔(みみず)〕を以つて餌と爲し、之れを釣る。或いは曰はく、氣味、甘、溫。毒、無し。脾胃を養ひ、氣力を益す。虛乏を補ひ、胃を和〔(なご)ませ〕、瀉を止む。鮓〔(すし)〕に作り〔て〕最も美〔(よ)〕し。炙り爲して、亦、良し。○順が「和名」に、鰣魚を『波曾〔(はそ)〕』と訓ず。然れども「本草綱目」所載の「鰣魚」にあらず。

[やぶちゃん注:条鰭綱コイ目コイ科クセノキプリス亜科 Oxygastrinaeハス属ハス亜種ハス Opsariichthys uncirostris uncirostrisウィキの「ハス(魚)」より引く。『コイ科』(Cyprinidae)『魚類としては珍しい完全な魚食性の魚である』。『成魚の体長は多くの場合』、三十センチメートル、『最大で』四十センチメートル『に達する。オスの方がメスより大型になる』性的二形。『頭部を除いた体つきはオイカワ』(コイ科 Oxygastrinae 亜科ハス属オイカワ Opsariichthys platypus)『に似て、前後に細長い流線型、左右も平たく側扁し、尻びれが三角形に大きく発達する。体色は背中が青みを帯び、体側から腹部にかけては銀白色である。口は下顎が上顎より前に突き出ていて、口が上向きに大きく裂け、唇が左右と前で「へ」の字に計三度折れ曲がる。目は小さく、他のコイ科魚類に比べて』、『背中側に寄っている。この独特の風貌で他の魚と容易に区別できる』。『ただ、幼魚のうちは上記のような本種の特徴が弱いため特にオイカワに酷似し』、『識別が困難な場合もある。成長するにつれ、頭部が大きくなり、眼が上方背面寄りに移動し、独特の口の形状も顕著となっていく。また、オスのほうがメスよりも本種の外部形態上の特徴が強く発現される』。『主に河川の中流』・『下流や平野部の湖沼に棲息する。酸欠に極めて弱く、高温耐性も高い方ではないが、霞ヶ浦のような水質の悪い水域にも生息することはできる』。『肉食性。アユ、コイ科魚類、ハゼ類などの小魚を積極的に追い回し』、『捕食する。独特の形状に発達した口も、くわえた魚を逃がさないための適応とみられる』。『動作は敏捷で、小魚を追い回す時や川を遡る時、驚いた時などはよく水面上にジャンプする。また琵琶湖での生態調査では、一つの地点から放流した標識個体が一月でほぼ湖全体に分散してしまったことが報告されており、長距離の遊泳力にも優れることが窺える』。『ハスはコイ科魚類、そして日本在来の淡水魚では数少ない完全な魚食性の魚で、ナマズと同様に淡水域の食物連鎖の上位に立つ。日本在来の魚食性淡水魚はナマズやドンコやカワアナゴ、カジカ類など待ち伏せ型が多いが、ハスは遊泳力が高く追い込み型である点でも唯一といえる存在であった』。『繁殖期は』六~七『月頃で、この時期のオスはオイカワに似た婚姻色が現れる。湖や川の浅瀬にオスとメスが多数集まり、砂礫の中に産卵する』。『孵化した稚魚は成魚ほど口が裂けておらず、ケンミジンコなどのプランクトンを捕食するが、成長に従って口が大きく裂け、魚食性が強くなる。 寿命は飼育下で』七『年ほどである』。『東アジアと日本に分布する』。『日本国内の自然分布は琵琶湖・淀川水系と福井県の三方五湖に限られる。しかし』二十『世紀後半頃からアユなど有用魚種の放流に混じって各地に広がり、関東地方や中国地方、九州などにも分布するようになった。今日では流れの比較的緩やかな水域ではポピュラーな魚のひとつとなっている。一部では食害の報告もあったが、他の外来種のほうがクローズアップされやすいためか、それほど問題とはされていない』。『日本以外ではアムール川水系、朝鮮半島、長江水系からインドシナ半島北部にかけての他、台湾にも分布する』。四『ヶ所の分布域ではそれぞれ』以下の通り、『亜種に区分されている』。

Opsariichthys uncirostris uncirostris(日本)

Opsariichthys uncirostris amurensis(アムール川)

Opsariichthys uncirostris(朝鮮半島・長江からインドシナ半島及び海南島。但し、亜種ではなく別種 Opsariichthys bidens とする説もある)

『容姿がオイカワに似ていることもあり、淀川流域ではオイカワを「ハス」、ハスを「ケタバス」と呼ぶ。標準和名との混乱があるので注意を要する。また、その風貌とオイカワの別称である「ヤマベ」から「オニヤマベ」と呼ぶ事もある』。『中国語では「馬口魚 mǎkǒuyú」と称し、別名に「桃花魚」、「山」、「坑爬」、「寛口」がある。地方名では、福建省の客家語で「大口魚」、莆仙語で「闊嘴耍」と呼ばれる。広東省ではオイカワとの混称で「紅車公」と呼ばれる』。『警戒心が強く、動きが機敏で引きの力も強いため、分布域ではルアーなどによる釣りの対象として人気がある。釣りの他にも刺し網や投網などで漁獲される』。『身は白身で、塩焼き、天ぷら、唐揚げ、南蛮漬け、車切り(雌の背ごしを洗いにした物)、などで食べられる。生息数が多い琵琶湖周辺では鮮魚店でも販売されている』。『中国では唐揚げかオイル焼きにすることが多い』。『神経質な』ため、『音や光などに驚いてガラス面に突進し頭をぶつけたり、ジャンプして水槽から飛び出してしまうことが頻繁にあり、それが原因で死んでしまうことがある。また、スレ傷や酸欠、水質悪化、高水温並びに水温差に弱く、上手に飼育しないとすぐに死んでしまう為、飼育の難易度は高い。成魚の場合は狭いと弱るため、最低でも』九十センチメートル『以上の水槽が不可欠となる。泳ぎは機敏で落ち着きがなく高速で泳ぎ回る』ことから、『衝突防止策としてガラス面には水草をたくさん植えて、ジャンプによる飛び出しを防止する』ので、『水槽の上部にはクッション性があるものでフタをするとよい。餌は成魚は配合飼料に慣れるのに時間がかかるため、最初のうちは小魚、赤虫の生餌などがよい。尚、配合飼料に慣れさせる為には、オイカワを一緒に飼育すると効果的である』。十センチメートル『くらいの幼魚であれば』、『成魚よりも比較的飼い易い』とある。「鰣」は福井県三方湖とこれに注ぐ鰣川(リンクはグーグル・マップ・データ)にも産し、「鰣」という名はこの鰣川に由来する。一説に鰭が早く傷むところから、「早子(はす)」とされるともあった。

「尾・鬣〔(ひれ)〕、赤し」「尾」「鬣」は分離した。ハスは個体差があるが、一部の個体は尾鰭だけでなく、他の鰭も赤みを持つものが有意に認められるからである。グーグル画像検索「Opsariichthys uncirostrisを見られたい。

「連〔なり〕行く」群れを成すの意で採る。

「浮陽」不詳。漢方用語に「浮陽」=「戴陽(たいよう)」という語があり、下部が真寒の様態で、上部が仮熱の状態を指す、とあるので、頭部が熱を持った魚で、それで、水中から飛び出る(という説明は私の勝手な解釈)というのか? よく判らぬ。

「脾胃」複数回既出既注。漢方で広く胃腸・消化器系を指す。

「虛乏」あるべきバランスのとれた正気が欠乏している状態。

『順が「和名」に、鰣魚を『波曾〔(はそ)〕』と訓ず』源順の「和名類聚鈔」巻十九の「鱗介部第三十 竜魚類第二百三十六」に、

   *

鰣 「唐韻」云、鰣【音「時漢語抄」云、『波曾』。】、魚名也。似魴肥美、江東四月、有之。

   *

『「本草綱目」所載の「鰣魚」にあらず』「本草綱目」巻四十四「鱗之三」に、

   *

鰣魚【「食療」。】

釋名寗源曰、初夏時有、餘月則無、故名。

出産時珍曰、按孫愐云、鰣出江東、今江中皆有、而江東獨盛、故應天府以充御貢。每四月鱭魚出後卽出、云従海中泝上、人甚珍之。惟蜀人呼爲瘟魚、畏而不食。

集解時珍曰、鰣、形秀而扁、微似魴而長、白色如銀、肉中多細刺如毛、其子甚細膩。故何景明稱其銀鱗細骨、彭淵材恨其美而多刺也。大者不過三尺、腹下有三角硬鱗如甲、其肪亦在鱗甲中、自甚惜之。其性浮游、漁人以絲網沈水數寸取之、一絲罣鱗卽不復動才、出水卽死、最易餒敗。故袁達「禽蟲述」云、鰣魚罥網而不動、其鱗也。不宜烹煮。惟以筍・莧・芹・荻之屬、連鱗蒸食乃佳。亦可糟藏之。其鱗與他魚不同、石灰水浸過、晒乾層層起之、以作女人花鈿甚良。

氣味甘、平、無毒。詵曰、發疳痼。

主治補虚勞【孟詵。】。蒸下油、以瓶盛埋土中、取塗湯火傷甚效【寗源。】。

   *

書いてあることは、益軒が記した内容とかなり合致するのに、益軒が同名異魚と断じている理由が全く判らぬ。]

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 犬

 

         

 

なぜ吠えるのだ、二疋とも

吠えてこつちへかけてくる

 (夜明けのひのきは心象のそら)

頭を下げることは犬の常套(じやうたう)だ

尾をふることはこわくない

それだのに

なぜさう本氣に吠えるのだ

その薄明(はくめい)の二疋の犬

一ぴきは灰色錫

一ぴきの尾は茶の草穗

うしろへまはつてうなつてゐる

わたくしの步きかたは不正でない

それは犬の中の狼のキメラがこわいのと

もひとつはさしつかえないため

犬は薄明に溶解する

うなりの尖端にはエレキもある

いつもあるくのになぜ吠えるのだ

ちやんと顏を見せてやれ

ちやんと顏を見せてやれと

誰かとならんであるきながら

犬が吠えたときに云ひたい

帽子があんまり大きくて

おまけに下を向いてあるいてきたので

吠え出したのだ

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年九月二十七日の作。本書以前の発表誌等は存在しない。

・「なぜさう本氣に吠えるのだ」底本は「なぜさう本氣にえるのだ」。誤植。「正誤表」にあるので、訂した。

・「もひとつはさしつかえないため」の「さしつかえ」の「え」はママ。「手入れ本」は宮澤家版が大きく改変しているので、その最終形を一部推敲も含めて示す。

   *

 

         

 

なぜ吠えるのだ、二疋とも

吠えてこつちへかけてくる

 (夜明けのひばは鐡のそら)

頭を下げるは犬の常套(じやうたう)

尾をふることはこわくない

それだのに

なぜさう本氣に吠えるのだ

その薄明(はくめい)の二疋の犬

一ぴきは病態の病氣の錫で

一ぴきの尾は茶の草穗

うしろへまはつてうなつてゐる

ひどく不正なわけでもないわたくしの步きかたは

そんなに不正な筈がない

それは犬の中の狼のキメラがこわいのと

もひとつはさしつかえないため

犬は薄明に溶ける

うなりの尖端(きり)にはエレキもある

ぜんたいつもあるくのに

おうしてそんなに吠えるのだ

ちやんと顏を見せてやれ

ちやんと顏を見せてやれと

誰かとならんであるきながら

犬が吠えたときに云ひたい

帽子があんまり大きくて

おまけに下を向いてきたので

吠え出したのにちがひない

 

   *

私は賢治の「手入れ」を概ね改悪と採るが、本詩篇はこの手入れをした方がよいと感ずる。

 諸家の記事を読むと、宮澤賢治は基本、犬とは相性が悪かったようであり、「頭を下げることは犬の常套(じやうたう)だ」とか、「尾をふることはこわくない」という部分はかえって誰もが当たり前に知っている犬の習性を、今までのように読者や学校の生徒に科学的・天文学的解説と同じ感じでやらかしているような滑稽さえ感じる。宮澤家では犬を飼ったことがないようで、賢治は小学生時代によく近所で飼っていた犬によく吠えられた結果、犬にトラウマがあったらしいなどと記すものもある。「心象スケツチ 春と修羅 第二集」の「丘陵地を過ぎる」(大正一三(一九二四)年三月二十四日)でも、『ははあきみは日本犬ですね/(一字下げ)生藁の上にねそべつてゐる/(一字下げ)顏には茶いろな縞もある/どうしてぼくはこの犬を/こんなにばかにするのだらう/やっぱりしやうが合はないのだな』とあり、童話「注文の多い料理店」では狩猟家の連れた『白熊のやうな』『二疋』の『犬』はのっけから、訳の分からない『山が物凄いので』という原因、『二疋いつしょにめまいを起して、しばらく吠つて、それから泡を吐いて死んでしま』わせている(その死んだはずの犬が、後で猟師たちを救いに飛び込んでくるというおかしな展開には、愚鈍な小学生だった私でも目が点になったのをよく覚えている)し、かの名作「銀河鉄道の夜」の中でも、「三、家」で、カンパネルラがジョバンニに語りかける印象的な会話の中で、「ザウエルといふ犬がゐるよ。しつぽがまるで箒のやうだ。ぼくが行くと鼻を鳴らしてついてくるよ。ずうつと町の角までついてくる。もつとついてくることもあるよ。今夜はみんなで烏瓜のあかりを川へながしに行くんだつて。きつと犬もついて行くよ。」と出るものの、この「ザウエル」も語られるだけで、その後には登場してこない。なお、本作の一部を前の東岩手火山」の夜の宙天の星座との関係性を持たせて解釈したもの有意に見られる(それ自体は或いは正統にして正当とも言えるのかも知れない。そのために賢治は前の詩篇の最後に、不思議な『( 犬、 マサニエロ等 )』、この詩篇は次の「犬」や「マサニエロ」と続くのだ、という広告染みたそれをよく説明するようにも思われるからである。実際に「東岩手火山」では「大犬のアルフア」が名指されてはいる)。例えば、その優れた一つは、加倉井厚夫氏のサイト「賢治の事務所」の『賢治の「犬」と「キメラ」』で、そこでは、「なぜ吠えるのだ 二疋とも/吠えてこつちへかけてくる」を『東天からおおいぬ座、こいぬ座が日周運動で昇ってくる様子を示している』とし、「その薄明の二疋の犬」は『薄明の東天に』、『おおいぬ座、こいぬ座が見えている』ことで、「犬は薄明に溶解する」とは、『薄明のため、見えている恒星がしだいに減り、星座はだんだんと「溶解」するように消えてゆく』ことだとされておられる。それはそれで凡愚な私は、御説御尤もと思うものの、それがそれでは詩篇全体を通したマクロな解釈へと止揚する鑰(かぎ)となるのかという点に於いて、留保せざるを得ない。誰より早く「一番星を見つけた!」のは判るが、それが詩篇全体を解明する秘鑰(ひせき)たるものであることを、果敢に続けて全き漏れなしに解釈して示すのでければ、その発見は、あのしょぼくれた「東岩手火山」のエンディングのように、あっけなく夜空は明けてしまい、星は瞬く間に見えなくなってしまう。「なぜ、吠えるのだ、二疋とも」から始まって、最後の「帽子があんまり大きくて」/「おまけに下を向いてきたので」/「吠え出したのにちがひない」まで総ての暗号文を天文学的な意味に変換して全解読しない限り、その発見は生きない、と私は思うからである。翻って、こうしたかなり詳しい天文学的知識を必要とする解析は、現在でも通常の読者の成し得るものではないと思う。いや、寧ろ、そうした天文学的知識によって部分解析した人は、逆にこの詩篇全体は何を言っているかは判らない、狂人に戯言としか思われない、と言いそうな気もするのである(私は嘗ての同僚の優れた理数の教師たちを想起した時、そうした印象を強く持つ)。また、私はそうしたテクスト論的解釈は好まない。キビ悪く、「こゝろ」の学生が「先生」の「奥さん」と結婚してしまうというようなそれまでの忌避感はないけれども。

 しかし、この一篇は徹底的に神経症的に病的であると私は思う(私のように、である)。イヌ恐怖症(Cynophobia:サイナフォビア)というわけではないが、賢治が犬に対し、完全に忌避するのでもなく、同じ生き物としての共感を抱こうとするスタートはあるものの、賢治が抱いているある漠然とした不吉な暴力的な予感を感じざるを得ない(私も同じだから、である)。「うしろへまはつてうなつゐる」には賢治の詩篇にしばしば見受けられる、ある種の、強迫神経症や統合失調症の初期症状などで見られる追跡妄想的気分の影が窺えるように思われ、「うなりの尖端にはエレキもある」は確かに今までも自然界から受ける霊的な波動を彼は電気に喩えることしばしばなのではあるが、私は寧ろ、ここでは犬の唸り声に私を害するある種の電波があるという表現置換をしたくなる。「私に悪い電波を送っている」というのは統合失調症の初期症状に高い確率で見られるのである(私は教え子(複数いた)だけでなく、その保護者からも『私は「悪い電波」に襲われている』と愁訴された経験がある。因みに彼らは後に、全員が統合失調症と診断された)。

「(夜明けのひのきは心象のそら)」ここだけが丸括弧にされている点に注意すべきである。この煽りのワン・ショットだけが陽画で「薄明」(賢治が最も好んだ語の一つであろう)の鮮やかで凛とした気に満ちた印象的なカラー画像である。「ひのき」檜。ヒノキ科ヒノキ属ヒノキ Chamaecyparis obtusa。これも賢治が好んだ樹種の一つである。いや、寧ろ、「心象の」空は「夜明けの」檜が立ち竦む――その夜明けの空に立ち竦む檜の心象自体が自己の投影、心象風景であると読み換えても私はよいと思う。

「わたくしの步きかたは不正でない」歩き方が悪いとか変だとかであれば、犬は警戒して吠えて、後をつけてくることもあるだろうが、しかし「わたくしの步きかたは不正でない」のだから、彼らが私をつけてくるのは論理的に説明がつかない、とここで言っている。この謂いは、一見、正しいが、それをかくわざわざ言いつらうこと自体が、既にして何となく尋常じゃないことに気づかれよう。則ち以って神経症的なのである(私も時にそうだから、である)

「それは犬の中の狼のキメラがこわい」「キメラ」chimerachimaera。生物学で同一個体中に遺伝子型の違う組織が互いに接して存在する現象をいい、動物では「モザイク」(mosaic)とも称する。昆虫にみられるような雌雄型の入り交ったものは雌雄モザイク gynandromorphという。キメラとは、もともとはギリシア神話に出てくる幻獣キマイラ(頭がライオン、胴と尾が羊で、蛇の頭をもち,火を吐く雌の怪獣)に由来する。植物でキメラをつくるには、まず、接木(つぎき)を行い、接木部でそれを切断し、そこから新芽を生じさせてその芽の中に接穂に由来した組織と台木に由来した組織とが混在されるようにしたもので容易に作ることが出来る。混在の仕方が周辺部と内部とで異なるものを「周辺キメラ」、左右で異なるものを「区分キメラ」と呼び、普通に見かける斑入り葉も一種のキメラであり、体細胞突然変異によって生じたものである(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。ここは犬(食肉(ネコ)目イヌ亜目イヌ下目イヌ科イヌ亜科イヌ族イヌ属タイリクオオカミ亜種イエイヌ Canis lupus familiaris)の中に、かつての獰猛な人を襲う狼(Canis lupus)の遺伝的要素(習性)が隠れており、それが「先祖返り」のように発言して私を襲ってくるのではないか、それが「怖い」と言っているのであるが、この一見、科学的であるかのような謂いに、やはりフォビアとしての関係妄想的気分が充満して病的である。

「もひとつはさしつかえないため」「と」で並列しているために判りにくくなっている。この判りにくさ自体が神経症的気分の特性でもある。恐らくは、「犬の中の狼のキメラがこわい」のだが、「わたくしの步きかたは不正でない」のだから、「それは」実は理不尽である、私はお前に襲われる筋合い・論理的理由は皆無である、だから、私はキメラの恐れに動転して妙な行動をとったりは決してしないぞ! と冷静さを装っているのであり、そうした神経症的な自身のイラクサのような神経を押し隠し、ことさらに防衛的言辞を弄しているに過ぎないのである。

「犬は薄明に溶解する」フォビアが現実を最後に侵犯する。犬は実態を失って、彼の周囲の現況の大気の中に溶け込み、目に見えぬ恐怖として彼を襲う。しかしこれがまた、苛立った感覚の頂点でもある。

「いつもあるくのになぜ吠えるのだ」/「ちやんと顏を見せてやれ」/「ちやんと顏を見せてやれと」/「誰かとならんであるきながら」/「犬が吠えたときに云ひたい」/「帽子があんまり大きくて」/「おまけに下を向いてあるいてきたので」/「吠え出したのだ」神経症的気分が最後に徐々に鎮静してゆくのが判る。顔を見せて敵意がないことを見せてやれば、彼らは私を襲ってこないはずだ、私の「帽子があんまり大きくて」「おまけに下を向いてあるいてきたので」彼らは生き物として自然の行動として警戒し「吠え出したのだ」から、「ちやんと顏を見せてやれ」ば、それで安心なはずなのだ、というのは至って正常な普通の意識から発せられる主張である。それは極めて正当である。しかし、問題はそれがまた(「まだ」と言うべきか)、不安な捩じれを引き起こしている点にある。即ち、『「ちやんと顏を見せてやれ! ちやんと顏を見せてやれ!』と、「誰かと」並んで歩きながら、「犬が吠えた」時には「云ひたい」気分なんだ! という内的な神経症的なまどろっこしい叫びとなっている点である。並んで歩く「誰か」とは誰かを考えることは私は意味がないと思っている(心の深奥にある種の厭人的資質を持っているとも思われる賢治を考えると、心から判って貰える人物、例えば熱愛している保阪嘉内辺りを想起出来ないことはないが)。寧ろ、「誰かとならんであるく」という謂いは、社会的人間として他者とこの苛立つ世界に共存していかねばならない詩人の謂いではあるまいか? この一篇は、本質的には誰も真の私を理解してくれる他者はいないと鬱々としている、薄明に屹立する孤独な詩人の姿が私には垣間見えるのである。]

 

2018/11/24

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 東岩手火山

 

 

 

     

 

 

 

            

 

月は水銀、後夜(ごや)の喪主(もしゆ)

火山礫(れき)は夜(よる)の沈殿(ちんでん)

火口の巨(おほ)きなえぐりを見ては

たれもみんな愕くはづだ

 (風としづけさ)

いま漂着(ひやうちやく)する藥師外輪山(ぐわいりんざん)

頂上の石標もある

 (月光は水銀、月光は水銀)

⦅こんなことはじつにまれです

向ふの黑い山……つて、それですか

それはここのつづきです

ここのつづきの外輪山です

あすこのてっぺんが頂です

向ふの?

向ふのは御室火口です

これから外輪山をめぐるのですけれども

いまはまだなんにも見えませんから

もすこし明るくなつてからにしませう

えゝ 太陽が出なくても

あかるくなつて

西岩手火山のはうの火口湖やなにか

見えるやうにさへなればいいんです

お日さまはあすこらへんで拜みます)

 黑い絕頂の右肩と

 そのときのまつ赤な太陽

 わたくしは見てゐる

 あんまり眞赤な幻想の太陽だ

⦅いまなん時です

三時四十分?

ちやうど一時間

いや四十分ありますから

寒いひとは提燈でも持つて

この岩のかげに居てください⦆

 ああ、暗い雲の海だ

(向ふの黑いのはたしかに早池峰です

線になつて浮きあがつてるのは北上山地です

 うしろ?

 あれですか

あれは雲です、柔らかさうですね、

雲が駒ケ嶽に被さつたのです

水蒸氣を含んだ風が

駒ケ嶽にぶつつかって

上にあがり、

あんなに雲になつたのです。

鳥海山(ちやうかいさん)は見えないやうです、

けれども

夜が明けたら見えるかもしれませんよ⦆

  (柔らかな雲の波だ

   あんな大きなうねりなら

   月光會社の五千噸の汽船も

   動搖を感じはしないだらう

   その質は

   蛋白石、glass-wool

   あるひは水酸化礬土の沈殿

⦅じつさいこんなことは稀なのです

わたくしはもう十何べんも來てゐますが

こんなにしづかで

そして暖かなことはなかつたのです

麓の谷の底よりも

さつきの九合の小屋よりも

却つて暖かなくらゐです

今夜のやうなしづかな晚は

つめたい空氣は下へ沈んで

霜さへ降らせ

暖い空氣は

上に浮かんで來るのです

これが氣溫の逆轉です

 御室火口の盛(も)りあがりは

 月のあかりに照らされてゐるのか

 それともおれたちの提灯のあかりか

 提灯だといふのは勿体ない

 ひわいろで暗い

⦅それではもう四十分ばかり

寄り合つて待つておいでなさい

さうさう、北はこつちです

北斗七星は

いま山の下の方に落ちてゐますが

北斗星はあれです

それは小熊座といふ

あの七つの中なのです

それから向ふに

縱に三つならんだ星が見えませう

下には斜めに房が下がつたやうになり

右と左には

赤と靑と大きな星がありませう

あれはオリオンです、オライオンです

あの房の下のあたりに

星雲があるといふのです

いま見えません

その下のは大犬のアルフア

冬の晚いちばん光つて目立(めだ)つつやつです

夏の蝎とうら表です

さあ、みなさん、ご勝手におあるきなさい

向ふの白いのですか

雲ぢやありません

けれども行つてごらんなさい

まだ一時間もありますから

私もスケツチをとります)

 はてな、わたくしの帳面の

 書いた分がたつた三枚になってゐる

 殊によると月光のいたづらだ

 藤原が提灯を見せてゐる

 ああ頁が折れ込んだのだ

 さあでは私はひとり行かう

 外輪山の自然な美しい步道の上を

 月の半分は赤銅(しやくどう)、地球照(アースシヤイン)

⦅お月さまには黑い處もある⦆

 ⦅後藤(どう)又兵衞いつつも拜んだづなす⦆

  私のひとりごとの反響に

  小田島治衞(はるゑ)が云ってゐる

⦅山中鹿之助だらう⦆

  もうかまはない、步いていゝ

    どつちにしてもそれは善(い)いことだ

二十五日の月のあかりに照らされて

藥師火口の外輪山をあるくとき

わたくしは地球の華族である

蛋白石の雲は遙にたゝえ

オリオン、金牛、もろもろの星座

澄み切り澄みわたつて

瞬きさへもすくなく

わたくしの額の上にかがやき

 さうだ、オリオンの右肩から

 ほんたうに銅靑の壯麗が

 ふるえて私にやつて來る

 

三つの提灯は夢の火口原の

白いとこまで降りてゐる

⦅雪ですか、雪ぢやないでせう⦆

困つたやうに返事してゐるのは

雪でなく、仙人草のくさむらなのだ

さうでなければ高陵土(カオリンゲル)

殘りの一つの提灯は

一升のところに停つてゐる

それはきっと河村慶助が

外套の袖にぼんやり手を引つ込めてゐる

⦅御室(おむろ)の方の火口へでもお入りなさい

噴火口へでも入つてごらんなさい

硫黃のつぶは拾へないでせうが⦆

斯んなによく聲がとゞくのは

メガホーンもしかけてあるのだ

しばらく躊躇してゐるやうだ

 ⦅先生 中さ入つてもいがべすか⦆

⦅えゝ、おはいりなさい 大丈夫です⦆

提灯が三つ沈んでしまふ

そのでこぼこのまつ黑の線

すこしのかなしさ

けれどもこれはいつたいなんといふいゝことだ

大きな帽子をかぶり

ちぎれた朱子のマントを着て

藥師火口の外輪山の

しづかな月明を行くといふのは

 

この石標は

下向の道と書いてあるにさういない

火口のなかから提灯が出て來た

宮澤の聲もきこえる

雲の海のはてはだんだん平らになる

それは一つの雲平線(うんぴやうせん)をつくるのだ

雲平線をつくるのだといふのは

月のひかりのひだりから

みぎへすばやく擦過した

一つの夜の幻覺だ

いま火口原の中に

一點しろく光ひかるもの

わたくしを呼んでゐる呼んでゐるのか

私は氣圈オペラの役者です

鉛筆のさやは光り

速かに指の黑い影はうごき

唇を圓くして立つてゐる私は

たしかに氣圈オペラの役者です

また月光と火山塊のかげ

向ふの黑い巨きな壁は

熔岩か集塊岩、力い肩だ

とにかく夜があけてお鉢廻りのときは

あすこからこつちへ出て來るのだ

なまぬるい風だ

これが氣溫の逆轉だ

  (つかてゐるな、

   わたしはやっぱり睡いのだ)

火山彈には黑い影

その妙好(みやうこう)の火口丘には

幾條かの軌道のあと

鳥の聲!

鳥の聲!

海拔六千八百尺の

月明をかける鳥の聲、

鳥はいよいよしつかりとなき

私はゆっくりと踏み

月はいま二つに見える

やつぱり疲れからの乱視なのだ

 

かすかに光る火山塊の一つの面

オリオンは幻怪(げんくわい)

月のまはりは熟した瑪璃と葡萄

あくびと月光の動轉(どうてん)

    (あんまりはねあるぐなぢやい

     汝(うな)ひとりだらいがべあ

     子供達(わらしやども)連れてでて目にあへば

     汝(うな)ひとりであすまないんだぢやい)

火口丘(くわこうきう)の上には天の川の小さな爆發

みんなのデカンシヨの聲も聞える

月のその銀の角のはじが

潰れてすこし圓くなる

天の海とオーパルの雲

あたたかい空氣は

ふつと撚(より)になつて飛ばされて來る

きつと屈折率も低く

濃い蔗糖溶液(しよたうようえき)に

また水を加へたやうなのだらう

東は淀み

提灯(ちやうちん)はもとの火口の上に立つ

また口笛を吹いてゐる

わたくしも戾る

わたくしの影を見たのか提灯も戾る

  (その影は鐵いろの背景の

   ひとりの修羅に見える筈だ)

さう考へたのは間違ひらしい

とにかくあくびと影ばうし

空のあの邊の星は微かな散

すなはち空の模樣がちがつてゐる

そして今度は月が蹇(ちぢ)まる。

 

 

            ( 犬、 マサニエロ等 )

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年九月十八日の作。新パート「岩手東岩手火山」となっているのであるが、先の「グランド電柱」末尾の二篇「銅線」「瀧澤野」は、この前日からの同じ岩手登山のロケーション内の作品であり、それは注意深い読者なら直に判る。さすれば、賢治が、創作のある種の内的なクライマックスによって、本書の一見、編年体の整然とした順列の詩篇に対し、しかし、ある特殊な感性的区別を行って、それを読者にも理解して貰いたいと思っていることが、よく判る部分なのである(恐らくは、前に述べた創作クレジットに特殊な二重丸括弧を附すものがあるのも、これと同様にある特異点を読者に暗示させる別手法なのだと私は確信している)。ロケーションその他は前の同日作「銅線」の注の冒頭を参照されたいが、岩手山登山の九合目の泊りから翌未明の頂上での出来事が描かれている。

 本篇は本書刊行前、大正一二(一九二三)年四月七日附『岩手毎日新聞』で「心象スケツチ外輪山」という標題(「スケ」/「ツチ」は紙面では二行割注形式で挿入)発表しており(初出原稿はなく、総ルビであるが、とんでもない読みが附されてある箇所も多く、この多くの部分は当時の慣習から考えて賢治の附したものではない。近代の著名な作家でも総ルビを附す作家は泉鏡花などのごく限られた者しかおらず、殆んどは校正係が好き勝手にルビを振っていた(時には自分の趣味で文章をいじったりした!)のである。実現しなかったが、堀辰雄が、編集委員であった岩波書店の第一次「芥川龍之介全集」の編集作業に於いて、全作品の総てのルビを除去することを提案したのは実は正統にして正当なことなのであった)、本書用原稿もあるが、長詩なので、それらは電子化しない(校本全集口絵に初出画像が載っていたのでそれをもとに初出形を完全復元しようとも思ったが、一部が欠けている写真であったのでやめた)。幸い、hamagaki氏のサイト「宮澤賢治の詩の世界」のこちらで『岩手毎日新聞』版「心象スケツチ外輪山」が電子化されており(漢字は新字)本書用原稿のそれ(最終形。新字)もこちらにあり、「手入れ本」(宮澤家本)もこちらに示されてあるので、今回はそちらにおんぶにだっこすることとした。原稿との有意な気になる異同(この原稿と初版本では句読点の有無の異同が異様に激しく散見されるが、それは略した)はいつも通り、以下に示す。

・「お日さまはあすこらへんで拜みます)」の丸括弧はママ。開始点は「⦅こんなことはじつにまれです」で二重丸括弧であり、原稿でも「拜みます⦆」となっているから誤植であるが、「正誤表」なく「手入れ本」にもない。校訂本文は二重丸括弧となっている。

・「提灯だといふのは勿体ない」の「体」はママ。

・「下向の道と書いてあるにさういない」「さうい」はママ。「相違」だから歴史的仮名遣は「さうゐ」が正しい。原稿もママ、「手入れ本」もなし。驚くべきことに、全集校訂本文もそのまま。これは誤りでしょ!

・「熔岩か集塊岩、力い肩だ」は底本では「熔岩か集塊岩、力彌い肩だ」。誤植で、「正誤表」に載るので、補正した。

・「つかてゐるな、」原稿「つかれてゐるな、」。誤植であるが、「正誤表」にない。「手入れ本」は修正。

・「月のまはりは熟した瑪璃と葡萄」「瑪璃」は原稿は「瑪瑙」で誤植。しかし「正誤表」にはなく、「手入れ本」にも修正はない。校本全集は無論、原稿に従って「瑪瑙」とする。

・「やつぱり疲れからの乱視なのだ」「乱」はママ。

・「( 犬、 マサニエロ等 )」本文詩篇最終行から二行空けて、百六十七ページの最終行下方に記されている。これは原稿でも同じ(但し、丸括弧内の前後の一字空けはない)である。「犬」と「マサニエロ」は以下に続く詩篇の標題であるから、一見、後にその原稿が続くということを示す校正書きのように受け取れなくもないが、これは校本全集の校異の文字の起こしから、原稿用紙のマス目にはっきりと書かれたものであることが判るから、そうではない。「手入れ本」も除去していないのはこれが賢治の備忘メモでも何でもない、「ここにこう記すんだ」という確信犯であることを意味しているのである。即ち、これは読者に対しての予告メッセージめいたものと結果的になっている。読者は戸惑う。改頁すると、マサに詩篇「犬」が続き、その後にまたマサに「マサニエロ」がある、という仕掛けとなる。賢治の悪戯っぽい(彼は彼なりに真面目なある意味を含ませているのかも知れぬが、それは大半の読者には判らぬ、私も判らぬ)仕儀である。こういう勝手な思い込み様の部分が、私をして嘗て賢治から遠ざけた一面であるといえる。

 

「東岩手火山」サイト「いわての山々」の「岩手山」によれば、標高二千三十八メートルの岩手山は『東西二つの火山からなり、古い西岩手火山の上に新しい東岩手火山が覆っている。西岩手火山の火口は東西約』三『㎞、南北約』二『㎞の紡錘形をなし、北側の屏風岳、南側の鬼ヶ城を外輪山とする大地獄カルデラと呼ばれている。その内部に中央火口丘としての御苗代火山と御釜火山などがある。東岩手火山は西岩手火山の東斜面に形成された新しい火山で、御鉢と呼ばれる火口をもつ薬師岳、その中央火口丘である妙高岳および二次火口の御室などからなる。御室火口東部には噴気孔があり、活火山の様相を呈している』。享保一七(一七三二)年一月の『噴火では、東岩手火山の北東斜面中腹から多量の溶岩が流出し、「焼走り溶岩流」が形成された』とある。

「後夜(ごや)」仏教で一昼夜を現在の概ね四時間で六分した「六時」の最後。午前二時頃から六時前後の夜明けまでの。「晨朝(じんじょう)」・「日中」・「日没(にちもつ)」・「初夜」・「中夜」・「後夜(ごや)」。この時間毎に懺悔(さんげ)・念仏などの勤行が行われた。

「月は水銀」この前日は月齢25.3、細くなり始めた下弦の月で、当地での月の出は二十三時三十七分、月の入りはこの十八日の十五時二十七分であった。

「喪主(もしゆ)」本熟語には死者を弔う主宰者以外の意はない。しかし、それは葬儀や法要などの当主であるから、それは所謂、施主、サンスクリット語で「ダナパティ」で「陀那鉢底」「檀越(だんおつ)」漢音写される、元来は「布施を成す人」と同義であるわけで、ここは広く「仏法僧に供養する人」、読経をする人、と読み代えることが出来る。事実、既に「銅線」の冒頭注で述べた通り、賢治はこの日の午前三時頃に、頂上近くに登り、読経(無論、「法華経」であろう)を行っているのである。その後、生徒の一人藤原健太郎は目を覚まして彼とともになったが、読経が終わると、賢治はスケッチブックに何か書き始めた、とあるのである(恐らくは本詩篇の初期形なのではないかと思われる)。但し、深夜・未明・暁の火山の火口近くの凄絶感を、この「喪」という字のインパクトで狙ったものとも採れる。

「火山礫(れき)」lapilli(ラピリ)。直径二~六十四ミリメートルまでの火山砕屑(さいせつ)物。これより小さいものを「火山灰」、大きいものを「火山岩塊」と呼ぶ。火山の噴出によって空中で飛散している間に、周囲の火山灰を集めて成長するため、同心状の殻を成る場合がある(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「藥師外輪山」東岩手火山の火口を取り囲む外輪山の、北西にある最高峰(岩手山のそれでもある)を薬師岳(二千三十八メートル)と称する。サイト「360@旅行ナビ」の「薬師岳」の地図を参照。同ピークからのパノラマ写真も見られる。後に出る「御室火口」の写真もある。薬師外輪山に囲まれた火口原の中央近くにある「妙高火口丘」にある複雑に抉られた旧火口の写真も見らえる。現在も噴煙が多少出、活動している。

「西岩手火山」岩手火山は、山体の三分の二を占めるこの「西岩手火山」(ここ(グーグル・マップ・データ))と、その外輪山の東に寄生火山として覆い被さった「東岩手火山」が重なった形で形成されている。国土地理院図が非常に判り易い。次の通も参照。

「火口湖」ウィキの「岩木山」によれば、『岩手山と西の黒倉山』(標高千五百七十メートル)『の間に西岩手火山のカルデラがある。このカルデラの成因は不明で、東西に』二・五『キロメートルの長い楕円をなす。中央火口丘をはさんで大地獄谷と左保沢という二つの小河川が北西に流れ出る。中央火口丘の中に、御釜湖と御苗代湖という火口湖がある。小さな御釜湖はほぼ円形で、明瞭な火口湖である。御苗代湖は南東部が火口湖で、その水があふれ出るようにして西に広がっている』とある。

「お日さまはあすこらへんで拜みます」御来光の参拝は外輪山の東の縁辺りを考えているであろう。そこからは賢治の好きな「魚の涎(よだれ)」(前の「瀧澤野」でのそれの形容と思われるもの)「焼け走り溶岩流」もよく見えるはずである。

「黑い絶頂の右肩と」/「 そのときのまつ赤な太陽」/「わたくしは見てゐる」/「あんまり眞赤な幻想の太陽だ」時間を先に行って、その景を想定して前に出してある。

「いまなん時です」/「三時四十分?」/「ちゃうど一時間」/「いや四十分あります」この日の当地での「日の出」は五時十七分であるから、「四時四十分」「四時二十分」は「日の出」の五十七分から三十七分前で、ロケーションが高地で視界が開けて空気も澄んでいるから、所謂薄明の曙になる時間を賢治は指してかく言っているものであろう。

 

「早池峰」岩手山の南東五十四キロメートル弱の位置にある、早池峰山(はやちねさん)。ここ(グーグル・マップ・データ)。岩手県宮古市・遠野市・花巻市に跨り、標高千九百十七で北上山地の最高峰である。

「駒ケ嶽」秋田県仙北市田沢湖生保内の駒ケ岳。標高千六百三十七メートル。岩手山の約二十キロメートル南西に位置する。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「鳥海山」山形県飽海郡遊佐町吹浦の鳥海山。岩手山の約百十三キロメートル南西。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「月光會社の五千噸の汽船」雲海の「うねり」を海に見立てて、そこを照らす月とその光の連想から、夢想した賢治の幻想の船舶会社とその大型汽船である。五千トンは現在でも大型で、社名から見ても、天界をどっしりと行く豪華客船をイメージしていよう。

「動搖を感じはしないだらう」「あんな大きなうねりなら」という条件であるから、表現が逆となっていい気がするが、或いは、船が大きいならば、大きなピッチングやローリングを感ずることなしに、悠々と漂うであろうという意味か。

「その質」は雲海のその質感。

「蛋白石」(たんぱくせき)はオパール(opal)の和名。色は乳白色・褐色・黄色・緑色・青色など、多様な色を呈する。

glass-woolglasswool。ガラス繊維で出来た綿状素材。オパールでは硬質感が強く出過ぎるので、雲海の無上のソフト感を言い添えるために、かく言い換えたのであろう。

「水酸化礬土の沈殿」「礬土」(ばんど)はアルミナ(alumina:酸化アルミニウム。Al2O3。天然には鋼玉として産出する。アルミニウムの原料式)で、水酸化アルミニウム(Al(OH)3 を指す。水溶液から新たに生成したゲル状の沈殿は酸及び塩基水溶液に容易く溶解し、それはよく白濁したふわふわとして柔らかな印象に見える。

「氣溫の逆轉」気象学に於ける「逆転」は、高度に伴う大気の性質、特に気温の変化が通常と異なる現象(気温逆転)であり、普通ならば高度の上昇に伴って気温が低下するはずであるのに、逆に上昇していることを指す。これが起こる層を逆転層と呼ぶ。『一般に高温の大気は密度が低いため』、『上に移動し、対流が起こる。しかし逆転層があると』、『上の方が密度が低いため、対流は起こらない。従って逆転層によって地表近くの大気がトラップされ、濃霧になったり』する。『逆転層により、遠くの音が大きく聞こえることが多く、また電波伝播に異常が見られることもある。なお逆転層では蜃気楼が起こりやすくなる』。『逆転層は、特に秋・冬の夜間に風が弱いとき、放射冷却で地表面温度が低下することによって形成されやすい(接地逆転層)』。『また風がある場合に冷えた地表・海面の上に温かい大気が流れ込んで発生することもある(移流逆転層)』。『高気圧による下降気流で断熱圧縮が起こり、その結果ある程度の高度(』二キロメートル『程度)に気温の高い層ができることがある(沈降逆転層)』とウィキの「逆転層」にあった。まさに昔から、天狗の仕業と言われた、すぐ近くで倒木音や大きな落石音がしながら、そんな痕跡がなかったり、火の玉のような不思議な発光現象(現代のUFO現象でもしばしばこれが原因とされる。私は小学校高学年で未確認飛行物体の調査会を立ち上げたことがある人間である)があるが、まさにこの気象現象及びそれに纏わる見かけ上の擬似怪異は、科学者としても、幻想作家としても、賢治が最も好む部類のそれと言えるではないか。

「御室火口の盛(も)りあがりは」/「月のあかりに照らされてゐるのか」/「それともおれたちの提灯のあかりか」/「提灯だといふのは勿体ない」この時、科学者賢治の中に、神秘主義者或いは幻想を志向する今一人の賢治が顔を覗かせている感じがする。

「ひわいろ」「鶸色」。鶸(スズメ目スズメ亜目スズメ小目スズメ上科アトリ科ヒワ亜科 Carduelinae に属する種群の総称であるが、「ヒワ」という種は存在しない)の羽の色に因んだ、黄味の強い明るい萌黄色。これ(サイト「伝統色のいろは」の鶸色のページ)。

「北斗七星は」/「いま山の下の方に落ちてゐますが」/「北斗星はあれです」/「それは小熊座といふ」/「あの七つの中なのです」/「それから向ふに」/「縱に三つならんだ星が見えませう」/「下には斜めに房が下がつたやうになり」/「右と左には」/「赤と靑と大きな星がありませう」/「あれはオリオンです、オライオンです」/「あの房の下のあたりに」/「星雲があるといふのです」/「いま見えません」/「その下のは大犬のアルフア」/「冬の晚いちばん光つて目立(めだ)つつやつです」/「夏の蝎とうら表です」私は星には冥いので、加倉井厚夫氏のサイト「賢治の事務所」の『詩「東岩手火山」をめぐる話題⑵』で、星座図を添えて判り易くこのシチュエーションの星系の賢治の説明を解説されておられるので(小さな星座図は画像を別タブで開くとよく判る)、それをリンクさせておくに留めるが、そこでは賢治の勘違いと思われる箇所として、『「北斗星」として、西隣のこぐま(小熊)座の骨格をなす主な星を「七つの中」と説明してい』るが、『こくま座の「斗」の配列を「北斗星」と呼ぶことはあまり行われてい』ないから、『「北斗七星」との思い違い』か、『あるいはおおぐま座との勘違いで』はないかと指摘され、「下には斜めに房が下がつた」ような部分というのは『「小三つ星」と呼ばれるもので』、『この中に 「オリオン座大星雲(M42)」があ』るとされる。私もちょっと気になる、「あれはオリオンです、オライオンです」(Orion)については、賢治は『星座名を異なった読みで繰り返し言ってい』る点についても、『今では星座名はIAU(国際天文連合)がその数と共に名称や境界線などを細かく規定して』いるが、『 賢治がこの詩を書いた時代には、まだ共通のルールとして決められてい』なかったことから、『読んだ書物により』、『星座名が複数あったり、日本語化されているものもあれば、ラテン読みをそのまま星座名としているものまで、実にさまざまで』あったと注しておられる(『IAUの総会で星座が現在の数に落ち着いたのは』一九二八年(昭和三年)のことであったとある)。

「私もスケツチをとります」周囲は未だ暗い暁の時刻である。スケッチのしようはあるまい? いや、そうか! この「スケツチ」はまさに「心象スケツチ」なのだ! この詩の初期形を彼は書き記しておこうとしているのだ!

「はてな、わたくしの帳面の」/「書いた分がたつた三枚になってゐる」/「殊によると月光のいたづらだ」/「藤原が提灯を見せてゐる」/「ああ頁が折れ込んだのだ」「藤原」は既に「銅線」の冒頭注で出た、この登山に参加した生徒の藤原健太郎である。ギトン氏はこちらで、『「提灯を見せてゐる」は、生徒が提灯で、賢治がメモを書いている帳面を照らしてくれたという意味で』、『藤原の回想談を見』ると、『「暗くて見えないだろうと思い、わたしがちょうちんを差し出すと、いらないと言う。それで書けるだろうかとわたしは不思議でならなかった。翌朝、のぞき見ると字が重なっている。けれども、先生はこれで十分わかるんだと言う……。」』(読売新聞盛岡支局編「啄木・賢治・光太郎」より)とある。暗い中で見ると、帳面に詩篇を沢山書いたはずなのに「書いた分がたつた三枚になってゐる」ように見えた、しかし藤原君が提灯で照らして呉れ、よく見ると、「ああ」、なあんだ、「頁が折れ込ん」でしまっていて、三枚しかないように見えたに過ぎなかった「のだ」という謂いである。

「地球照(アースシヤイン)」地球照(ちきゅうしょう、英語:earthshine)とは、月の欠けて暗くなっている部分が、地球に照らされて、薄っすらと見える現象を指す。そこが「赤銅」色に現認出来るのである。

「後藤(どう)又兵衞」安土桃山から江戸初期の武将後藤基次(永禄三(一五六〇)年~慶長二〇(一六一五)年)の通称。黒田孝高(如水)・黒田長政・豊臣秀頼に仕え、数多くの軍功を挙げた智将。江戸時代に講談や軍記物などで豪傑な英雄として描かれ、「大坂城五人衆」の一人に数えられた。身長は六尺(百八十センチメートル)を超える巨漢であった。

「小田島治衞(はるゑ)」藤原健太郎と同じ農学校二年生。この登山に参加していたのであろう。

「山中鹿之助」戦国時代武将山中幸盛(天文一四(一五四五)年~天正六(一五七八)年)の通称(自署は「鹿介」)。尼子義久に仕え、伯耆尾高城を攻め落し、勇名を馳せた。永禄九(一五六六)年、尼子氏が毛利氏に敗れて降伏したが、幸盛は尼子氏再興に力を尽し、豊臣秀吉に支援を求め、その中国征伐に従軍、播磨上月(こうづき)城に拠って、毛利氏に対抗した。しかし、天正六年、落城して捕縛され、毛利方へ護送される途中、謀殺された。勇猛な美男子であったともされる。このシーンの軍配は賢治の誤りで、小田島の勝ち三日月に向かって「我に七難八苦をあたえ給え」と祈ったのは山中鹿介である。Kokoro氏のサイト「出雲の月神」の「三日月の影」の枕の部分によれば、『このエピソードにはかなり後世の潤色が入っている、ということを断っておく必要がある。というのも、最初に「七難八苦をあたえ給え」の台詞を編み出したのは、鹿介本人ではなく、幕末の松江藩の儒者、桃節山だと考えられているからである。鹿介が初めてこの台詞を口にしたのは、明治二十五年』(一八九二年)『に補訂された『出雲私史』であり、しかも同書ではまだ「三日月を拝しながら」ということになっていなかった。最終的に、彼が三日月に祈り、この台詞をしゃべった、ということにしたのは、明治初期に島根県知事などを務めた籠手田安定』(こてだやすさだ:小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)を松江に招聘した人物として私は記憶している)『であると言う。そして昭和』一二(一九三七)『年、このエピソードが小学校の国語読本に『三日月の影』のタイトルで採用され、鹿介は戦前の少年達の間でヒーローとなった』。『とはいえ、鹿介がしばしば三日月を拝していたこと自体は本当だった可能性が高い。『陰徳太平記』によれば』十六『歳の少年鹿介が三日月に向かって「願わくは三十日を限り、英名を博せしめ給え」と祈ったとあり、鹿介が三日月を拝したのはこの時が初めてで、それからは常に三日月を拝するようになり、その信仰は終生変わらなかったという』(ここへの注の記載『ちょっと気になるのは、昭和』四六(一九七一)『年に初版が発行された妹尾豊三郎の『山中鹿介幸盛』には、この三日月を拝したエピソードについて「武者物語や尼子十勇士伝等には見えているが、雲陽軍実記、陰徳太平記、恩故私記には載っていない。」とあることである』)。「陰徳太平記」は『江戸期に成立した文献であり、鹿介と同時代のものではないが、全くの作り事で三日月を信仰していたなどという話は出てこないだろう。こういったことから、彼が三日月を拝する信仰をもっていたこと自体は本当だと考えて良いと思う。だが、この信仰はどこから到来したのか』。『いちおう、定説というのか、鹿介は兄から山中家の家督を譲られた際、家宝の甲冑を譲り受け、その兜の脇立てに鹿の角が使われていたため「鹿介」を名乗り、前立てに三日月の飾りが付けてあったので三日月を信仰するようになった、という伝えがある』。『しかし、いくら家督と共に譲られた兜とはいえ、そこに三日月を象った前立てが付いていただけで、月を信仰する気持になれるだろうか。むしろ、その風変わりな月への信仰を解く鍵は、もっと別のところにあると考えるべきではないか』。『山中鹿介幸盛は出雲の人である。天文十四年八月十五日に出雲国富田庄で生まれたとされる』(異説有り)。『富田庄は出雲東部を流れる富田川流域の土地で、鹿介の主家、尼子氏の本拠であった。鹿介の頃は能義郡になっていたが、分割される前は意宇郡である。そして先にも触れた通り、意宇郡は海上交通神としての神格をもつ出雲の月神信仰圏であると考えられた。してみると、三日月を拝する彼の信仰も、じつは上代から続くそうした月神信仰の流れをひくものであった可能性を感じるのである』とある。さらに考察は続くが、それはリンク先を見られたい。ともかくも、小学校国語読本に載る以前、少年たちが貪るように読んだ歴史読み物の中に既に、彼が武将として戦勝を込めて三日月に向かって「我に七難八苦を與へ給へ」と祈ったというエピソードが載っていたのである。

「二十五日の月」この大正一一(一九二二)年九月十八日の前日は旧暦七月二十五日で、その終りに月の出は起きている。

「金牛」牡牛座。この時、オリオン座の右上方に見えていた。

「さだ、オリオンの右肩から」/「ほんたうに銅靑の壯麗が」/「ふるえて私にやつて來る」「銅靑」は銅青(どうせい)色で色名。steel blueこれ(リンク先は色見本サイト)。明度のある群青色というべきか。ギトン氏はこちらで、『「オリオンの右肩」は』『オリオン座の向かって左、つまり、この日の空で言うと、ちょうど日が昇る東の空を指しているのだと思』われるとし、『星座に重ねられる巨人オリオンの姿は、右手で棍棒を振り上げて』おり、『α星(ベテルギウス)は、棍棒の先ではなく、ちょうど「右肩」の位置になり』、『この日時の星空では、オリオンは30°くらい右に(向かって左に)傾いてい』る『から、「オリオンの右肩」が、東の地平線を指すような位置関係になると思』うと述べておられる(ギトン氏の掲げておられる一九二二年九月十八日の星空の単独画像をリンクさせて貰う)。賢治の中の宇宙の霊気が壮大「壯麗」に賢治の体に降臨するのである。

「三つの提灯」三つとあるが、全集年譜では五、六人の生徒を引率したことになっているから、三人と限定するに当たらないのではないか。用意した提灯は四つだけだったのであろう。

「仙人草」キンポウゲ目キンポウゲ科センニンソウ属センニンソウ Clematis terniflora。有毒植物(全草有毒。葉や茎の汁に触れても皮膚炎を起こし、誤って食べると、胃腸炎や嘔吐を発し、多量に食べると生命の危険もある)。但し、植生から見て、同種が高地の岩手山の火口内に群生するというのは考えにくい。植物系・ガーデニング系サイトでも高地に群落を作ることはないとあるから、これは違う。しかし、まあ、賢治も「さうでなければ」と言ってはいる。

「高陵土(カオリンゲル)」ケイ酸塩鉱物で粘土鉱物の一種であるカオリナイト(kaolinite:高陵石。名は中国の有名な粘土の産地である江西省景徳鎮付近の高嶺(カオリン:Kaoling)に由来する。高嶺で産出する粘土は景徳鎮で作られる磁器の材料として有名で、同質の粘土(鉱石)は「カオリン」(kaolin)「陶土」(china clay)などとも呼ばれる)のゲル(泥)状化したものの謂いらしい。但し、これも、ギトン氏がこちらで、『《御鉢》火口は、まだできて日が浅く、風化は進んでいないので、カオリンは無いと思われます』と否定しておられる。さて? その白い一帯は一体、何だったのだろうか? 本篇ではそれは明らかにされずに終わっていて、ひどく気になるのである。渡部芳紀氏の「東岩手火山」では、実はやっぱり雪だったのではないか? という仮説を立てておられる。『筆者が勝手な逞しい推測をするに、この<向ふの白いの>は、本当に雪だったのでは ないかということがある。今回この原稿を書くにあたって』、『何度も以前登山したときの写真を見てみたのだがその中に一か所雪のような真っ白なところがある。どう見ても雪である。草や粘土ではない。筆者が登ったのは九月十日、賢治が登ったのは九月十八日で一週間くらいしか違わない。とすると』、『同じところの白い物を見ているのかも知れない。<《雪ですか 雪ぢやないでせう》>と言われて<困つたやうに返事してゐる>のは、先生は雪じゃないと思い込んでいるが本当に雪だった。先生に言っていいものかどうか躊躇していたのではないか。そんなふうにも考えられなくもない。自分の写真にあまりはっきりと雪の跡があるので。少々非論理的推測をしてみた』と述べておられる。実はやっぱり「雪」だった説、私も「困つたやうに返事してゐる」少年たちのシーンのニュアンスから、強く支持したい

「一升のところ」登りの十合目で「一升」、頂上のこと。嘗てはそれを示す石標があったが、現在は撤去されている模様(ギトン氏の単体写真を参照されたい。写真の中の石造物は火口辺縁の「御鉢」に沿って並ぶ三十三観音石仏だそうである)。

「河村慶助」松井潤氏のブログ「HarutoShura」の本詩篇の解説(分割掲載の一つ)に、『川村慶助。賢治の教え子で、このとき稗貫農学校』三年生、とある。

「メガホーンもしかけてあるのだ」火口内の形状から声がよく反響するのを、自然がメガホン効果を齎して呉れているのだ、と言うのであろう。

「すこしのかなしさ」私にはこの唐突の一行が身に染みて判る。それはペシミスティクな世界観をどこかに持っている総ての人間の孤独な宿命である。

けれどもこれはいつたいなんといふいゝことだ

「ちぎれた朱子のマント」実際のその時の着衣を指している。「朱子」は「しゆす」で「繻子」(しゅす)のこと。経(たて)糸と緯(よこ)糸の交わる点を少なくして布面に経糸或いは緯糸のみが現れるようにした織物。布面に縦又は横の浮きが密に並んで光沢があって肌ざわりがよいが、摩擦や引っ掛けなどには弱くてほつれ易い。ギトン氏のこちらに、『賢治は、注文して作らせた黒いサテンのマントを気に入っていて』、余所行きにしていたらしいとされ、大正一四(一九二五)年に『弘前で徴兵訓練中の清六氏のところに、兄の賢治が面会に来た時の回想』に、『「私共〔訓練中の清六氏と隊友──ギトン〕がだんだん廠舎に近づいたとき、道のそばの小高いところに支那服のようなものを着た人が、太陽を背中にして直立し、逆光線に浮かび上がっているのに気づいたのであった』。(中略)『私に面会人だというので急いで行ってみると、兄が満面に笑いを浮かべて衛兵所のそばに居たのである。そこで私は先刻途中で立っていた人が兄であったことに気付いたのであるが、支那服と見えたのは実は黒い折襟の服で、それは繻子でダブダブに仕立てた変なものであった。」』(宮沢清六「兄のトランク」より)とある。確かに、彼はお洒落である。

「下向の道と書いてあるにさういない」以下によって暁時のロケーションは我々が心内で映像化しているのより遙かに暗いことが判る。実は比較的その石標の近くにいても賢治にはそれが読めないのだ。いわば、我々は映画の中の夜のシークエンスが明度が上って見えているように、本詩篇を賢治のカメラで〈見せて貰っている〉のだということに気づく必要がある。

「宮澤」松井潤氏のブログ「HarutoShura」の本詩篇の解説(分割掲載の一つ)に、『賢治の教え子で、稗貫農学校を』、この翌月の、大正一一(一九二二)年十月に退学することになる『宮沢貫一と考えられている』とある。

「雲平線(うんぴやうせん)」穏やかに平らになった雲海の果てを地平線に擬えて言った。

「雲平線をつくるのだといふのは」/「月のひかりのひだりから」/「みぎへすばやく擦過した」/「一つの夜の幻覺だ」賢治ファンタジーの洒落た「雲平線」という造語を、賢治の中の別な一人が「幻覺」だと嘲笑的に批評している。しかしその評し方も、また「月のひかりのひだりから」「みぎへすばやく擦過した」結果の「幻覺」だという謂いに於いてお洒落でファンタジックであることから逃れられていないところが、また面白いと言える。

「いま火口原の中に」/「一點しろく光ひかるもの」/「わたくしを呼んでゐる」(原稿ではここに読点が入っている)「呼んでゐるのか」それは、火口に降りてそこからまた戻ろうとする生徒の提灯の光りが最初であるが、それが見る間に、オペラの舞台のフット・ライトかスポット・ライトの如く強烈に変化し、賢治の奔放自在な夢想が幕を開ける。

「鉛筆のさやは光り」/「速かに指の黑い影はうごき」/「唇を圓くして立つてゐる私」とは、まさにそこで夢想にただぼうっと身を任せているのではなく、その幻の大「氣圈」座の「オペラの役者」を演じながら、同時に恐るべきスピードで詩を詠じ、実際にノートに書き取っている賢治を外から描写しているのである。

渡部芳紀氏の「東岩手火山」に『頂上付近の外輪山を指すか?』『右上がりのスロープになっており』、『<力強い肩>に符号する』とある。

「集塊岩」agglomerate。大小の岩石塊を多数含む火山砕屑(さいせつ)岩の総称。集塊凝灰岩・集塊溶岩などがある。集塊凝灰岩は火山礫・軽石・火山弾・火山岩塊などが火山灰で凝結されたもの。集塊溶岩は岩塊の間が溶岩で満たされたもので,一般に火口の近くに分布する。

「力い肩だ」渡部芳紀氏の「東岩手火山」に『力強い肩を思わせる形をしている。頂上付近の形状に似ている』とある。

「あすこからこつちへ出て來るのだ」現場を知らないとよく判らない。ギトンの『「あすこ」は、「向ふの黒い巨きな壁」を指しています。《御鉢めぐり》は、通常は左回りに行きます(画像ファイルの矢印とは逆)』から、『《下向の道》石標(∩)から見ると、ちょうど』、『頂上の右肩あたりから出てくることになります』という見解を単立画像とともに示しておくに留める。

「妙好(みやうこう)の火口丘」「妙好」は「御鉢」の中にある火口丘の通称である「妙高岳」のこと。その麓部分に火口がある。

「幾條かの軌道のあと」溶岩が流れた地形上の筋を指しているようである。

「海拔六千八百尺」二千六十・六〇四メートル。岩手山最高峰の薬師岳は二千三十八メートル。

「(あんまりはねあるぐなぢやい」/「汝(うな)ひとりだらいがべあ」/「子供達(わらしやども)連れてでて目にあへば」/「汝(うな)ひとりであすまないんだぢやい)」奔流する幻想に、制動がかかる。賢治自身の教師としての最低限の超自我の発する社会的倫理義務に拠る禁則警告である。ギトン氏の訳を引かせて貰う。『あんまり跳ね歩くんじゃない。お前ひとりならいいだろうが、子供ら(わらしゃども)を連れていて事故に遭えば、お前ひとりでは済まないんだぞ』。

「天の川の小さな爆發」高校一年の夏、友人と土方のアルバイトをしてテントを買い、能登半島を一周した。最初に泊まった能登金剛の砂浜で見た夜空は天空の暗黒部より星の輝きの方が多いような錯覚を起させた。その中でも、「天の川」は本当に乳液の流れのようであり、今にも流れ下ってきそうな奔流であり、確かに、まっこと、「小さな爆發」だったのを私は忘れられない。

「みんなのデカンシヨの聲も聞える」渡部芳紀氏の「東岩手火山」には、『でかんしょ節。丹波杜氏たちが「あとの半年は寝て暮らす」と歌ったところから「出稼ぎしよう」の意。今宵徹夜で騒ぎましょうの意で「徹今宵」から来たのとの説などある。明治末から大正初めにかけ全国の学生間、花柳界で歌われた。ここでは、徹夜登山で眠くなってきた生徒たちが景気付けに歌っているか?』とされ、ギトンの最後で、『デカンショを、農学校の生徒たちに流行らせたのは、宮澤、堀籠両教諭だそうです』と記される。

「オーパル」オパール(opal)。先に出た「蛋白石」に同じ。

「蔗糖溶液(しよたうようえき)」「蔗糖」はサッカロース(saccharose)・スクロース(sucrose)とも称し、サトウキビやサトウダイコン(テンサイ)などの多くの植物によって合成されるグルコースとフラクトースが一分子ずつ結合した二糖類。ショ糖を主体とする工業的製品を総称して「砂糖」と呼ぶ。「ショ糖」及び「砂糖」という言葉は混同して使われることが多いが、化学物質として扱う場合は常に「ショ糖」の名称が用いられる。「ショ糖」は光合成能力のあるすべての植物体に見いだされ,人類には甘味料として非常に古くから用いられていた歴史を持つ(平凡社「世界大百科事典」)。まあ、砂糖水でよかろうかい。ちょっと想像する判る通り、それに「また水を加へたやうなの」というのは、すこぶる腑に落ちる。あの儚い感じが。

「とにかく」「あくび」(アップ。1ショット)「と」/「影ばうし」(アップ。1ショット)/「空の」「あの邊の星は」「微かな散」(ワイド・1ショット)/「すなはち」「空の模樣が」「ちがつてゐる」(ワイドでゆっくりティルト・ダウンして→)/「そして」「今度は」「月が」「蹇(ちぢ)まる」(「蹇」(音「ケン」)の原義は「足萎(あしな)え・跛(びっこ・ちんば」で「悩む・苦しむ」「止まる・留まる」「曲がる・入り組んでしまう」であり、「易」の六十四卦の「嶮しさに行き悩むさま」を指す卦(け)でもある)(月がインしてストップしてズーム・アップ。前との1ショット)……(F・O)……あたかも父アルセイニ・タルコフスキの詩を被せながら、アンドレイ・タルコフスキが撮った映画のように(「鏡」「ノスタルジア」)私は思う、この作品はオペラ役者なんぞ扮した詩人が出たりするが、全く以ってこれ、演劇的でない。……即ち、テンションのクライマックスで幕は下りず、映画的終局、ある侘しいエピローグで、見る間に萎んでゆくのだ。……御来光の光輝を予感させながら、それを描かず、強い哀感を湛えながら、急速にフェイド・アウトしてしまうのである。……


 

2018/11/23

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 瀧澤野

 

        瀧 澤 野

 

光波測定(くわうはそくてい)の誤差(ごさ)から

から松のしんは徒長(とちやう)し

柏の木の烏瓜(からすうり)ランタン

  (ひるの烏は廣野に啼き

   あざみは靑い棘に遷(うつ)る)

太陽が梢に發射するとき

暗い林の入口にひとりたたずむものは

四角な若い樺の木で

GreenDwarf といふ品種

日光のために燃え盡きさうになりながら

燃えきらず靑くけむるその木

羽蟲は一匹づつ光り

鞍 掛や銀の錯乱

    (寬政十一年は百二十年前です)

そらの魚の涎(よだれ)はふりかかり

天未線(スカイライン)の恐ろしさ

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年九月十七日の作。本書以前の発表誌等は存在しない。本詩篇を以ってパート「グランド電柱」は終わっている。ロケーションその他は前の同日作「銅線」の注の冒頭を参照されたいが、岩手山登山のトバ口での嘱目を素材とした一篇である。先に推定した「岩手山馬返し登山口」(ここ(グーグル・マップ・データ)。標高六百三十メートル)からは、ほぼ西に登るが、そこから見下ろす岩手山の東南の裾野の旧「滝澤村」、現在の滝沢市の中北部一帯が「瀧澤野」なのであろう。後で出る「鞍掛」山(八百九十七メートル)はそこから南西二キロメートル強の位置にある。登攀ルートから見て、詩篇の視線は西の岩手山及び鞍掛山のある東南方向となり、標題の「瀧澤野」は登攀を休んで顧みる方向となる。

・「柏の木」は底本では「柏の本」であるが、「正誤表」に載るので、訂した。

・「たたずむ」はママ。原稿も「たたずむ」。校訂本文もそれで載る。

・「GreenDwarf」はママ。原稿は「Green Dwarf」と有意な字空けがある。「正誤表」になく、「手入れ本」も修正はないが、校訂本文は無論、字空けを施す。

・「鞍 掛や銀の錯乱」の字空けはママ。「乱」もママ。原稿は「鞍掛」で誤植であるが、「正誤表」にはなく、何故か「手入れ本」も修正がない。校訂本文は無論、詰めている。

・「天未線」「未」はママ。原稿も「未」。校訂本文は「天末線」。既に述べた通り、「小岩井農塲」の「パート七では同じく「天未線」(原稿も「未」)であるが、前の「原體劍舞連」では「天末線」(原稿も「末」)である。前者の注で述べた通り、「未」でもニュアンスは通ると私は思うし、また、これを単なる賢治の誤字或いは書き方の誤りと断ずることを微妙に留保したい気持ちが今も、ある

「光波測定(くわうはそくてい)の誤差(ごさ)」よく判らない。私は漠然と特殊相対性理論(一九〇五年発表)の時間のズレを指した賢治得意の幻想だろうなどと勝手に思い込んできたのだが、流石にどうもそんなSF紛いの話ではなさそうだ。ギトン氏はこちらで、『植物は光を求めて生長しますが、光波を正確に測定して生長すれば均整のとれた形になるが、測定に誤差があると伸び過ぎたりして変な形になる、というサイエンス・フィクションを想定してみます』と枕され、『「誤差」とは、“誤測定”とは違います。どんなに正確に測定しても、理論値と完全に一致はしない‥その理論値(真の値)と測定値の差のことで』、『“光を測定する”という場合、光の速度を測る、波長/周波数を測る、強さを測る、位相を測る』『などの場合があると思いますが、ここでギトンの考えを言いますと、賢治の時代に、もっとも有名な「光波」の測定実験は、光速度の測定だったと思います』。『光波度の測定は』、『測定地から非常に遠い場所に鏡を置いて、測定地から光を送り、反射して戻ってきた光を、もとの光と重ねます』。『こうすると、鏡までの距離を往復するのにかかった時間だけ、反射光の位相は、もとの光の位相からずれているはずです。この位相差を測定して計算すれば光速度が求まります』(以下、次のページ)。『ところで、位相のずれた波を重ね合わせると、“干渉”がおきます。位相差に‘ゆらぎ’があれば、干渉縞──縞模様ができます』。『位相差の‘ゆらぎ’しだいで、縞模様は同心円状になったり、さまざまな形を描きます』、ここで或いは、『作者は、しだいに光度を落としてきた夕方の日差しの中で、カラマツの梢、あるいは枝先に、干渉縞のような虹色の模様を見たのではないでしょうか』? 『木の枝などに虹が見えることは、よくありますが、ニュートン・リングのような縞模様が見えたとすれば、おそらく幻視です』。『カラマツの枝々は、誤差の‘ゆらぎ’による干渉縞を派生しながら、光波を測定している』が、そこに彼ら(「から松」)自身の『測定に誤差があるために、あんなに「しん」が徒長した(伸びすぎた)枝や、伸びたりない枝があるのだ──作者は、このように考えたのではないでしょうか?』と解釈しておられる。またしても私には目から鱗であった。

「から松のしんは徒長(とちやう)し」「から松」既出既注。裸子植物門マツ綱マツ目マツ科カラマツ属カラマツ Larix kaempferi。漢字表記は「落葉松」「唐松」。その「しん」というのは恐らくはその針形をした葉であろう。その葉の「徒長」(とちょう)とは、植物の伸長成長が勝り、内容の充実を伴わない成長をする現象指す園芸用語。参照したウィキの「徒長によれば、『徒長は、高温、弱光、多湿、多窒素条件下で発生しやす』く、『徒長した植物は柔らかく、細長いという特徴があ』り、稲などの場合は、『近年の省力・軽作業化を目的とした全自動移植機や収穫機の普及に伴い、機械定植では苗のサイズに制限があり、大きすぎる苗や徒長苗は植え痛みしやすい』とあるから、先のギトン氏の謂いを援用するならば、その細かな針状の葉の伸長に微妙に違った長短が現出しているというのであろう。

「柏の木」コナラ亜属 Quercus Mesobalanus 節カシワ Quercus dentata

「烏瓜(からすうり)ランタン」「烏瓜」はスミレ目ウリ科カラスウリ属カラスウリ Trichosanthes cucumeroides。その実を「ランタン」(lanthanum:手提げランプ)に擬えた。但し、岩手でもまだこの時期では赤く色づいてはいない気がする。賢治は熟したそれを夢想しているのである。周囲も暗くなり始めた。ランタンは似つかわしい。ウィキの「カラスウリ」から引くと、『花期は夏で』七~九月に『かけて』、『日没後から開花する』(以前、如何にも不思議そうに「烏瓜は花も咲かないのに実がつく」と言っている知人がいたが、このことをその人は知らなかったのであった)『雄花の花芽は一ヶ所から複数つき、数日間連続して開花する。対して雌花の花芽は、おおむね単独でつくが、固体によっては複数つく場合もある。花弁は白色で主に』五弁(四弁・六弁も『ある)で、やや後部に反り返り、縁部が無数の白く細いひも状になって伸び、直径』七~十センチメートル『程度の網あるいはレース状に広がる。花は翌朝、日の出前には萎む。こうした目立つ花になった理由は、受粉のため夜行性のガを引き寄せるためであると考えられており、ポリネーター』(pollinator:送粉者。植物の花粉を運んで受粉させ、花粉の雄性配偶子と花の胚珠を受精させる動物のこと)『は大型のスズメガ』(鱗翅目スズメガ科 Sphingidae のウチスズメ亜科 Smerinthinae・スズメガ亜科 Sphinginae・ホウジャク亜科 Macroglossinae に属する蛾の一群。私が唯一、気持ちが悪いと感じない特異点の蛾である。多分、初めての海外旅行のペルーはナスカのセスナの飛行場の待合室の庭で出逢った沢山のハチドリと似ているからだと思う)『である。カラスウリの花筒は非常に長く、スズメガ級の長い口吻を持ったガでなければ』、『花の奥の蜜には到達することはできず、結果として送粉できないためである』。『雌花の咲く雌株にのみ』、『果実をつける。果実は直径』五~七センチメートル『の卵型形状で、形状は楕円形や丸いものなど様々。熟する前は縦の線が通った緑色をしており』、『光沢がある』。十月から十一月末に『熟し、オレンジ色ないし朱色になり、冬に枯れたつるにぶらさがった姿がポツンと目立つ。鮮やかな色の薄い果皮を破ると、内部には胎座由来の黄色の果肉にくるまれた、カマキリの頭部に似た特異な形状をした黒褐色の種子がある。この果肉はヒトの舌には舐めると一瞬甘みを感じるものの非常に苦く、人間の食用には適さない。鳥がこの果肉を摂食し、同時に種子を飲み込んで運ぶ場合もある。しかし名前と異なり、特にカラスの好物という観察例はほとんどない』とある。……私は烏瓜の実が無性に好きで、毎年、アリスと一緒に裏山で烏瓜刈りをするの楽しみにしてきた……しかし昨年十月二十六日、脳腫瘍の彼女を安楽死させてしまってから、もう、それもやめてしまった……先日のこと、まさに一年ぶりに裏山に散歩に行った(糖尿病の数値が規定値を越えてしまったので運動をせねばならなくなっただけのことだ)……烏瓜は今年も沢山ぶら下がっていた……私はそれを暫く眺めていたが、採ることもなく、山を、下りた……今、私の家には、昨年、最後に末期に近かったアリスと一緒に採った烏瓜が……木乃伊になって……いくつも……ぶら下がっている……

「ひるの烏は廣野に啼き」実際のカラスが鳴いてもいようが、前のカラスウリと響き合う縁語だ。カラスウリは前に述べた通り、「夜」に咲く妖しい白いレースのような花、それは「ひるの烏」にこれもまた美事に対称するではないか。

「あざみ」キク目キク科アザミ亜科 Carduoideae、或いは、同アザミ連Cynareae アザミ属 Cirsium に属するアザミ(薊:どうもこの漢字は好きじゃない)類の仲間。岩手山附近で見られそうな種は、

ノアザミ Cirsium japonicum(本州から九州に分布。春咲きのアザミの代表で、八月ぐらいまでが花期であるが、稀れに十月に咲いている個体もある)

ノハラアザミ Cirsium oligophyllum(本州中部以北の山地の草原や林縁に見られる)

モリアザミ Cirsium dipsacolepis(本州から九州の草原。「ヤマゴボウ(山牛蒡)」の名で根を食用とする。「山牛蒡」については最近、「和漢三才圖會第四十三 林禽類 杜鵑(ほととぎす)」で詳細な注を施したので参照されたい)

ナンブアザミ Cirsium nipponicum(本州中北部では普通。アザミ類の中では分布域が比較的広い種として知られる)

タカアザミ Cirsium pendulum(北海道から本州の北部で、東アジアにも分布。茎の高さは一~三メートルにも及び、茎も太く、直径一センチメートルを超える)

などが挙げられる。

「靑い棘に遷(うつ)る」アザミと言えば「棘」(とげ)で、葉にも棘がある種が殆んどであるが、彼ら筒状の花包の下部にまで鋭いそれが生えており、ここは鮮やかな(白もあるが)花(頭状花序)がみな飛び去って、棘ばかりが目立つように遷移している様態を指している。

「太陽が梢に發射するとき」大正一一(一九二二)年九月七日の日没は五時五十九分で、登攀の開始を六時頃としているから、まさに日没直前の「馬返し」前後の景観ととることが出来るか。

「樺の木」「Green」「Dwarf」「といふ品種」三浦修氏の論文『宮沢賢治作品の「装景樹」と植生景観 ―「田園を平和にする」白樺、獨乙唐檜、やまならし―」』(『総合政策』第十一巻第二号・二〇一〇年・PDF)によれば、賢治が諸作品に記す「樺」は殆んどが白樺、ブナ目カバノキ科カバノキ属シラカンバ日本産変種シラカンバ Betula platyphylla var. japonica であることが判る。あるサイトにはそっけなく『盆栽用の矮性植物。「Dwarf」は小びと』とつまらぬ教科書の脚注の如く記してあったが、如何にもインキ臭い、「宮澤賢治の研究者でございます」的な不親切な輩が書きそうな記事だった(憚るのではなく、甚だ不快だからリンクせぬ)。岩手山の登山口「馬返し」の近くに奇形の「小びと」の「盆栽用の矮性植物」ですか。それを自分が好きな「樺の木」(白樺)の「品種」などと言ったんだ、賢治がねえ。これはそれ、ブナ目ブナ科コナラ属アメリカガシワ Quercus palustrisGreen Dwarfのこと言ってんじゃねえのかい?(リンク先は英文の庭木サイト) アメリカ・カナダ原産だが、日本にも移入されていることは、個人サイト「GKZ植物事典」のこちらでも判るぜ。なぜ、そう判るように書かねえのかね、え? なお、分類は近年、遺伝子レベルで分離・改変されているし、当時の賢治が同定を大ミスしたかどうかは私には判らない。しかし、この時期にアメリカガシワがここまで侵入していたというのは、ちょっと考えにくいわなあ。しかし「品種」と言い、実在する英名まで出してるしなあ。判らんな、侏儒の脳味噌の私には。賢治の好きな白樺から飛び出した夢幻の「Green」の色をした「Dwarf」=「森の小びとさん」なのかしらん?

「羽蟲」ここは単に夜行性の小さな飛翔性昆虫でよかろう。ヌカカ(ユスリカ上科ヌカカ科 Ceratopogonidae)だとヤバい。♀が激しく吸血し、私は山や海でさんざん刺された。後から異様に痒くなり、傷の治りも悪いのを特徴とする奴だ。

「鞍」「掛や銀の錯乱」またしても異質な、実在する「鞍掛」山(の日没の景)と、最後の太陽光の輝きの「銀の錯乱」(という形容)の並列。

「寬政十一年は百二十年前です」「寬政十一年」は一七九九年。本篇の詠まれた大正一一(一九二二)年からは百二十三年前で四捨五入すれば合致するが、当時の何を賢治は言いたいのかは、分らない。登り詰めんとする岩手山の火山活動史を見たが、ピンとくるものはない。ギトンで、『山腹火口からのマグマ噴出によって《焼け走り溶岩流》が形成された噴火は、かつては1719年』(享保四年)『に起こったと考えられていました(1903』(明治三十六年)『年の論文によるもので、賢治の時代にも、そう思われていました)』。『しかし、最近の調査で、1719年には噴火はなく、1732年』(享保十七年)『の古文書類に記録された噴火が《焼け走り溶岩流》の噴出にほかならないことが、判明しています』。『賢治は、1719年を1799年と覚え違いしていたのかもしれませんし、あるいは、“鞍掛山形成史”と同じように』(ギトン氏がどのような賢治の資料を指しているのかは不明)『賢治独自の見解を持っていたのかもしれません』とある。一七一九年と一七九九年の覚え違いというのはありそうな感じはする。但し、ウィキの「岩手山には、享保一六(一七三一)年に噴火し、『北東山麓に溶岩流(国の特別天然記念物・焼走り熔岩流)が発生』し、『現在の八幡平市の集落の住民が避難』したとあり、享保四(一九一九)年には水蒸気爆発による小噴火が発生した、とある。ともかくもこの突然の挿入は読者には頗る不親切で、私はない方がよいと思う。或いはその時、引率した生徒たちへの教授の言葉をそのまま切り取って状況的リアリズムを出そうとしたのかも知れぬが。

「そらの魚の涎(よだれ)はふりかかり」昔は『アンドレ・ブルトンの「溶ける魚」か!』と思ったのを思い出す。今は、何かの現認される地形らしいという気がした。岩手山の現地を見たことがない私は、最早、ギトン氏に頼るしか術はない。その期待にしっかりギトン氏は答えて呉れておられた。で即物的な景色を示されて、かく解釈されておられる。『滝沢付近からは、《焼け走り溶岩流》が見えるのでしょうか』。『「そらの魚の涎(よだれ)はふりかかり」は、東岩手山の山裾に広がる《焼け走り》の黒い溶岩流の堆積を指していると思います』。『それは、空にいる巨大な魚が落としたヨダレだというのです』。『なにか非常に不潔で不浄な』『生理的な感覚を誘います。しかし、それにしても、魚の身体全体の大きさは、はかりしれません。生理的感覚とすれば、これは地球そのものの生理、──気圏もふくんだこの世界全体がひとつの生き物だとすれば、その“世界生物”の生理です』。『この魚は、荘子の「鵬」よりも巨大です』。私の好きな「荘子」を引かれており、最近、殆んど「ギトン」教にハマってしまっている私は、すっかり頭を縦に振るばかりである。「焼け走り溶岩流」は、ウィキの「走り溶岩流によれば、『岩手山の北東斜面山腹から山麓にかけた、標高約』五百五十~千二百『メートルに広がり、天然記念物に指定された面積は』百四十九・六三『ヘクタール、溶岩流の延長は約』四『キロメートル、岩石の種類は「含かんらん石紫蘇輝石普通輝石安山岩」で』、『一般的に輝石安山岩溶岩は粘性が大きいが、焼走り熔岩流の溶岩は粘性が小さく流動性に富んでいると言われている』。『岩手山は山頂部に爆裂カルデラと中央火口丘を持つ円錐形の成層火山であり』、貞享三(一六八六)年から昭和九(一九三四)年の『間に複数回、爆発と熔岩流噴出の火山活動記録が残されているが、焼走り溶岩流はこれら山頂部の噴火活動とは違う、中腹部にできた噴火口、いわゆる寄生火山から流出したものである』。『焼走り溶岩流が形成された火山活動の年代は従来より』、享保四(一七一九)年正月(旧暦)『とされて』きた『が、近年の研究では』、享保一七(一七三二)年』『とする説もある』。『溶岩流を作った噴出口は、岩手山の東側山腹、標高』八百五十メートルから千二百五十メートル付近まで』、『直線状に複数個所残っており、いずれも高さ』四~五メートル、直径四メートル『ほどのものである』。『焼走り熔岩流の名称の由来は、真っ赤な熔岩流が山の斜面を急速な速さで流下するのを見た当時の人々が焼走りと呼んだことによるものであると言われており、地元では古くから「焼走り」と呼ばれていた』。『熔岩流の表面は波紋状の凸凹があり、これがトラの縞模様のように見えることから「虎形」と呼ばれている。また、しわ状模様の存在は、粘性が小さい熔岩であったことを示している』。『焼走り熔岩流は噴出時期が比較的新しいため』、『風化作用が進んでおらず、その表面には未だに土壌が形成されていないことから』、『植生に乏しく』、『噴出当時の地形を留めている。溶岩流そのものは火山国日本では珍しいものではないが、表土や樹木に覆われず、地形的改変もないのは学術的に貴重であり』、現在、『国の特別天然記念物』及び『十和田八幡平国立公園の特別保護地区にも指定されている』。『今日では熔岩流末端に片道約』一『キロメートルの観察路が設けられており、積雪で閉鎖される冬季以外は自由に見学することができる。また散策路の終点には、当地を訪れた宮沢賢治による詩、「鎔岩流」の碑が建てられている』とある。「馬返し」のほぼ北、四・六キロメートルと直近ではある。ここ(グーグル・マップ・データ)。しかし、グーグル・アースや国土地理院図で見る限り()では、「馬返し」からの登頂コースの低中度では、岩手山の東の複数の尾根筋が邪魔して、恐らくかなりの高度まで登らないと位置的には「焼け走り溶岩流」は見えないように思われる。しかも、当日の登攀開始が日没ジャストの午後六時頃であったことを考えると、私は実際にこの日の登攀中の賢治の視界に「焼け走り」が見えた可能性は非常に低いように思われる。但し、賢治の好きなそれは、見えずとも、常に彼の脳内映像として確かにあったのであり、ここで見えた見えないを云々することは意味がない

「天未線(スカイライン)の恐ろしさ」溶暗してゆく地平線は確かに絶対零度に冷たく恐い。]

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 銅線

 

      銅  線

 

おい、銅線をつかつたな

とんぼのからだの銅線をつかひ出したな

  はんのき、はんのき

   交錯光亂轉(くわうらんてん)

気圏日本では

たうたう電線に銅をつかひ出した

  (光るものは碍子

   過ぎて行くものは赤い萓の穗)

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年九月十七日の作。本書以前の発表誌等は存在しない。全集年譜の複数の記載によれば、この日(日曜日)の午後、賢治は生徒五、六人を連れて、岩手山(標高二千三十八メートル)登山をしている。夕方に花巻から汽車で瀧沢まで行って(推定。なお、恐らく本篇はその車窓の景の嘱目を素材としたと思われる。後注参照)下車し、六時頃から「馬返し」(ここ(グーグル・マップ・データ))から登る現在の柳沢コース(同僚堀籠氏の回想による推定。「山渓」公式サイト内のこちらのコース行程図を参照)より登り始め、九合目の小屋で泊まっている。『その夜は旧暦八月十五日の満月で、岩手山頂上から拝むとおわんのような格好に見え、その中から仏さんが三体現われると』二年生の生徒であった藤原健太郎は賢治から『聞かされた』とある(但し、ここ(引用は読売編「啄木 賢治 光太郎」一〇五頁とする)には記憶の誤りがある。同日は旧暦八月二十日で、月齢は25.3、細くなり始めた下弦の月である。ページ」を見られたい)。因みにこの藤原健太郎という生徒はこの日、『汽車賃のないことを打ちあ』けていたが、賢治に『つれていってもら』ったもので、賢治は彼のために『おにぎりも持ってきてくれたという』(本「銅線」と次の「瀧澤野」は、その夜、生徒らが寝てから認められものかも知れぬ)。翌九月十八日(月)は、午前三時頃、賢治は『頂上近くで読経』している。『藤原は目ざめて提灯をもって登り』、賢治は『その後ろに立った。読経後スケッチブックに何か書きだす』とある。この最後のそれは、次の次に現われる「東岩手火山」パートの巻頭を飾る長篇詩「東岩手火山」に違いない(なお、既に夏休みは終わっており、この土・日登山というのは不審であるが、それを解明した記載をしているものは、ない。ギトン氏はこちらで、準学校行事として認められたものだったものかという仮定を立てておられるが、六人でそれは少し少な過ぎで無理があるようにも思われる。しかし『当時の畠山栄一郎校長(宮澤賢治に強く勧めて教諭に就職させた人)は、豪放磊落で懐の広い性格だったといいますから、これは十分にありうることです』というギトン氏の謂いもまた一方で頷ける気もする)。

・「はんのき、はんのき」が半角分上っているのはママ。原稿は次の行と同じ位置であり、植字ミスと断じてよい。「手入れ本」は宮澤家版が特異。以下に校本全集の注に書かれた内容の最終形と思しきものを再現して示す(植字ミスの半角は戻した)。

   *

 

          銅  線

 

    おい、銅線をつかつたな

    とんぼのからだの銅線をつかひ出したな

一部┃   はんのき、はんのき

  ┃   まさしく交錯光亂轉(くわうらんてん)

二部┃ 気圏日本では

  ┃ たうたう電線に銅をつかひ出した

三部┃   過ぎて行くのは白磁の碍子

  ┃   ひらめくものは赤い萓の穗

 

   *

「┃」は表記出来ないので、それぞれ一部・二部・三部の各部の間では繋がらず、二本ずつが繋がっている三本の線と見做してほしい。「一部・二部・三部」が校正的指示記号に過ぎないものと見做されるから、これは、『部』というのをソリッドな一組として指示していると考えるならば、一行空けが最も判り易いから、結果して私は、

   *

 

      銅  線

 

   はんのき、はんのき

   まさしく交錯光亂轉(くわうらんてん)

 

気圏日本では

たうたう電線に銅をつかひ出した

 

   過ぎて行くのは白磁の碍子

   ひらめくものは赤い萓の穗

 

   *

が賢治が思った改良形ではないかと考える。

「萓」既出既注。「萓」は「萱」の異体字。茅(かや)。既出既注。イネ科(単子葉植物綱イネ目イネ科 Poaceae)及びカヤツリグサ科(イネ目カヤツリグサ科 Cyperaceae)の草本の総称。細長い葉と茎を地上から立てる一部の有用草本植物のそれで、代表種にチガヤ(イネ科チガヤ属チガヤ Imperata cylindrica)・スゲ(カヤツリグサ科スゲ属 Carex)・ススキ(イネ科ススキ属ススキ Miscanthus sinensis)がある。

「銅線」松井潤氏のブログ「HarutoShuraの本詩篇の解説では、『秋、汽車の車窓から移り行く風景をながめていると、細長い「とんぼ」のからだが線状に流れるように思えたのを「銅線」としたのだろう。細長いからだも羽の模様も、とんぼには金属細工がよくはまるようにも思えてくる』と述べておられる。一方、ギトン氏はこちらから数回に亙って、この「銅線」はまずは、実際のそれを指示しているととって、以下のように述べておられる。『この作品「銅線」は、6行目の「電線に銅をつかひ出した」という驚きの表明が、詩句の中心となっていて、これは、私たちには不可解な感じを与えます。なぜなら、私たちの常識では、電線はすべて銅を使うもので、銅線でない電線などは考えられないからです』。『しかし、昔からそうではなかったのです。これを解明されたのは、加島篤氏の『童話「月夜のでんしんばしら」の工学的考察』で』、『加島氏によりますと、電信が日本で始まった1869』(明治元年~明治二年)『年以来、電信線には、鉄線(はりがね)が使われていました』。『硬銅線が初めて通信用に使用されたのは1890年』(明治二十三年)『で、その後、銅の電信線が増えましたが、1916年』(大正五年)『末時点でも、日本の電信線総延長(約172000km)の92.4%が鉄線だったのです』とある。『そして、加島氏によれば、ちょうどこの 1921年』(大正十年)『ころ、東北では、通信線を鉄線から銅線に付け換える工事が進行していたと推測されます』(以下はこちら)。『さて、賢治自身は、電灯線や送電線は銅線でできていることを知っていたでしょうけれども、同行の生徒たちは知らなかったかもしれませんね』。『岩手山麓へ向かう汽車の中で、ホトケさまの仏像を造るのと同じ銅でできているのだ!』『ほら、付け替えたばかりの新しい電線は、赤っぽく光ってるだろう!』『と賢治から聞いて、そんな高価なものを使っているのか!!、と言って、生徒たちは驚いたかもしれません』。『そのことと』、『ちょうど秋の野原では、赤銅色の赤とんぼ(アキアカネ)』(秋茜。トンボ目トンボ科アカネ亜科アカネ属アキアカネ Sympetrum frequens。日本特産種)『がたくさん飛びまわり、「赤い萓』『の穗」がゆれているのを見て、作者は、このおどけたスケッチを考えついたのではないでしょうか?』(ギトン氏はこの「萓」をススキに限定されている。赤蜻蛉なら確かにそれが相応しい)『走る列車から見はるかす広々とした気圏の中で、銅線のように細いたくさんの赤トンボや、ススキの赤い穂の波が、真新しい銅のようにきらきらと輝いています』。『そして、線路に沿って、どこまでも続いて行く電信線もまた、いまや綺麗な銅に取り換えられて光っているのです』と極めて映像的に美しく示され、さらにここは『「気圏」を飛び回る赤トンボを指して「銅線」と言っているのか、線路沿いの電信線を指して「とんぼのからだの銅線」でできていると言っているのか、よくわからないところがあります。そればかりか、「赤い萓の穗」も、赤銅色の細い線で、「銅線」でできているようです。そして、「碍子」が親しげに、きらっと光ります。ここには、きれいな銅の電信線に彩られながら、北上の田園風景の中を力強く疾駆する機関車、果てしなく延びて行く鉄道線路──当時の近代科学技術と工業化への憧れと期待が感じられないでしょうか?』『賢治の「イーハトーヴ」は、単なる自然一辺倒ではなくて、そうした科学技術と近代化によって支えられていこうとする世界なのだと思います』。『それが、「気圏日本」と』、『やや、はにかみまじりに』、『賢治が愛称する故郷だったのだと思います』と本篇の鑑賞を締め括っておられる。美事な解釈である。

「はんのき」「榛の木」。既出既注。ブナ目カバノキ科ハンノキ属ハンノキ Alnus japonica

「交錯光亂轉(くわうらんてん)」松井潤氏の解説では、これを「交錯し」、「光」が「乱転す」るの意とされ、これは、『古代インドの仏教僧、天親が、弥陀の浄土のさまを描いた中に出てくる句のようだ』。『車窓からの景色の賢治らしい表現だ。電柱の碍子は光りを浴び、赤い萱の穂も後ろへ去っていく。「気圏日本」は、段階的に拡大する宇宙の部分としての日本。銅線も、賢治の宇宙観のなかにある』と結ばれおられる。ギトンで、これは、大乗仏教僧の世親(ヴァスバンドゥ)』(彼は尊称を「天親菩薩」とも言う)『が「無量寿経」を解説した「往生論」の一節であると指摘されている。調べて見ると、

   *

寶華千萬種 彌覆池流泉 微風動華葉 交錯光亂

   *

とある。ギトン氏は続けて、『これは、世親が、阿弥陀浄土のありさまを想像して描いている中の一部で、阿弥陀浄土には、美しいハスの花が一千万種あって、池や川や泉をあまねく覆っている。そよ風が吹いて、水辺のハスの葉を動かすと、光が入り乱れてきらきらと輝く』という意味だとされた上で、「往生論」は『日本では、浄土宗や浄土真宗で重く用いられている聖典でして、日蓮宗には関係ないのですが』(私が原典を見たのも浄土真宗のデータベース内である)、『賢治は、世親の著作には関心を持っていたようで、「青森挽歌」で、世親の『倶舎論』に基いて死後の世界を考えたりしています』。『ともかく、ここではハンノキの葉が風に吹かれて光るようすを「交錯光乱転」(光が入り乱れて、極楽浄土のように、きらきら輝く)と言っているわけです』とされる。]

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 竹と楢

 

         竹 と 楢

 

煩悶(はんもん)ですか

煩悶ならば

雨の降るとき

竹と楢(なら)との林の中がいいのです

  (おまへこそ髮を刈れ)

竹と楢との靑い林の中がいいのです

  (おまへこそ髮を刈れ

   そんな髮をしてゐるから

   そんなことも考へるのだ)

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年九月七日の作。本書以前の発表誌等は存在しない。「手入れ本」は宮澤家版と藤原嘉藤治所蔵本の現存本は全行に斜線を附す。今一つの現在所在不明の藤原嘉藤治所蔵本では、抹消はなく、「竹と楢(なら)との林の中がいいのです」が「竹と楢(なら)との林の中がいいですな」と修正してあった。

「竹」単子葉植物綱イネ目イネ科タケ亜科タケ連 Bambuseae のタケ類。代表的な一種はマダケ属マダケ Phyllostachys bambusoides であるが、タケ類は世界で六百~千二百種、本邦でも百五十~六百種があるとされる(学説によって異なる)。なお、一部、各所に特定のスパンを持って転々と忽然と竹林があることが多いのは、竹細工を生業(なりわい)として漂泊したサンカの人々が、永い彼らの歴史の中で植えた結果であるとする説を私は強く支持している。

「楢」賢治が好きな木で複数回既出既注。ブナ目ブナ科コナラ属 Quercus の総称であるが、ここはその中でも主要な種とされるミズナラ Quercus crispula ととっておく。なお、竹が落葉広葉樹である水楢に混在した場合は、水楢が成長して林を形成すると、竹は太陽光を遮られて枯れてしまうから、ここはそれらの過渡期的な林か、相互が棲み分けて、しかし、遠目には一つの叢(むら)、林のように見えるものを指しているのかも知れない。

 

 しかし、問題はこの異様な応答である。そうして、竹と水楢の林なるものを想起した時、どうもそうした林(特に過渡期的混在林)は、およそ、穏やかに散策出来るような場所ではない。「煩悶」しているの「ならば」、「雨の降るとき」に「竹と楢(なら)との林の中がいい」という謂いは現実的でない。寧ろ、「煩悶」を象徴するような、散歩もし得ない場所である。しかも雨さえ降っている。とすると、この「そんな髮」と誰かが詩人を批難している「そんな髮」がキーになる。即ち、「雨の降る」「竹と楢(なら)との林」はまさにそのごちゃごちゃした「髮」の外化したものと見ることが出来、ごちゃごちゃした「髮」は、「そんな髮をしてゐるから」「そんなことも考へるのだ」という批難の言葉によって、直ちに、その下に在る、ごちゃごちゃした詩人の「脳髄」の言い換えへと変貌する。「おまへこそ髮を刈れ」! 「おまへこそ髮を刈れ」! 「そんな髮をしてゐるから」「そんなことも考へるのだ」! と批難する人は誰か? 父か? 父のような存在か? 市井の人々か? 詩人の超自我か? その批難がまるっきり不当なものであると詩人が考えているなら、そもそもがこんな詩篇を創る必要はない。無視すればよい。とすれば、表明されるその批難に対し、詩人はそれは確かに正当な一面があると認めていると読まねばなるまい。であるなら、これはやはり詩人の中の別な全く反するアンビバレントな意識・思想からのもう一人からの指弾とするのが正当であろう。……私は高校時代、髪を女みたように伸ばし、パンタロンみたようなジーンズを穿きながら、鬱々としていた。そうして四季を通じて、休日になると、住んでいた高岡市伏木の二上山の麓の奥、矢田の堤を越えて、谷川深く入り込み、最早、獣道(けものみち)でさえない中を、何時間も何時間も、目的もなく、ただ蒸し暑い中、はたまた、雪の積もった中を彷徨するのを常としていた。大の昆虫嫌いの臆病な私が、寒がりの私が、だ。だから、私はこの賢治の謂いに限りない共感を覚えるのである……
 
 

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 たび人

 

        た び 人

 

あめの稻田の中を行くもの

海坊主林(うみぼうずぼやし)のはうへ急ぐもの

雲と山との陰氣のなかへ步くもの

もつと合羽をしつかりしめろ

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年九月七日の作。本書以前の発表誌等は存在しない。「うみぼうずぼやし」の「ぼうず」(正しい歴史的仮名遣は「ばうず」)と「ぼやし」はママ。原稿は「うみぼうずばやし」で「ぼ」は明らかな誤植であるが、「正誤表」になく、「手入れ本」も修正がない(他に手入れもない)。小さなルビで誤植に気づかなかった例である。「ぼうず」は古典でもあるケースで気にはならない。前の電線工夫」と同じく、一種、アフォリズム風の小品である。実景であろうが、陰鬱である。この旅人は孤高に人生を歩む賢治自身の投影であり、「もつと合羽をしつかりしめろ」と言う叱咤激励の声は無論、詩人自身へ鏡返しされて反響している。そうして、それは、私には遠く梅崎春生遺作ってったエンディングの、主人公久住五郎が、阿蘇の噴火口を巡り歩く生死の賭けをした丹尾章次に呼びかける「しっかり歩け。元気出して歩け!」の叫び声へと響き合うのである(リンク先は私のブログでの分割電子化注のそれ。その一括版(PDFにある)。

「海坊主林(うみぼうずぼやし)」で一語の賢治の造語であろう。稲田の中に残っている、一叢(ひとむら)こんもりと丸い雑木林の形状を妖怪のそれに喩えたものと採る。妖怪としての「海坊主」やそれに類する怪異はさんざん注してきたし、まず、皆さんは御存じであろう。「船幽霊」と同じものと捉えるケースもあるが、本質的には両者はその発生と出現様態に差があり、ここで賢治が名指しているのは、お馴染みの概ね円筒形の頭をしたオバQ見たような巨大な妖怪妖怪したそれである。どうしてもと言われる御仁は私のウィキの「海坊主からの引用を主とした、小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十一章 日本海に沿うて (二)の注でも参照されたい。まあ、ウィキそのものを見た方がヴィジュアル的にはよかろうかい。]

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 電線工夫

 

            

 

でんしんばしらの氣まぐれ碍子の修繕者

雲とあめとの下のあなたに忠告いたします

それではあんまりアラビアンナイト型です

からだをそんなに黑くかつきり鍵にまげ

外套の裾もぬれてあやしく垂れ

ひどく手先を動かすでもないその修繕は

あんまりアラビアンナイト型です

あいつは惡魔のためにあの上に

つけられたのだと云はれたとき

どうあなたは辯解をするつもりです

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年九月七日の作。本書以前の発表誌等は存在しない。原稿は「云はれたとき」が「いはれたとき」とひらがな。最終校正でひらがなにしたらしい。宮澤家版「手入れ本」は大きく全体を改変している(改変しないのは一・四・六行目のみ)。以下に示す。

   *

 

            

 

でんしんばしらの氣まぐれ碍子の修繕者

雲とあめとのそのまつ下のあなたに忠告いたします

それではまるでアラビヤ夜話のかたちです

からだをそんなに黑くかつきり鍵にまげ

雨着の裾もぬれてあやしく垂れさがり

ひどく手先を動かすでもないその修繕は

アラビヤ夜話のあんまりひどい寫し【模倣】です

あいつは黑い盜賊團か

惡魔のためにあすこのとこに

つけられたのだと云はれても

どうまああなたは辯解できるおつもりですか

 

   *

【模倣】は「寫し」の横に「模倣」(「倣」の字の(にんべん)を(のぎへん)に誤記している)を併記していることを示した。

「でんしんばしら」「グランド電柱」の注を参照されたい。

「氣まぐれ碍子の修繕者」「氣まぐれ」は「氣まぐれ碍子」で一語のように見え、気紛れに故障をやらかす碍子(碍子はやはり「グランド電柱」の注を参照)の謂いであるが、どうも後の謂いを見るに「雲とあめとの下」でショートしちまうかもしれない、碍子の修繕しよだなんて、それって気紛れですか? と物言いしているようにも読める。私はそう二重に読む。だから「あなたに忠告いたします」と続いて腑に落ちるからである。

「それではあんまりアラビアンナイト型です」「アラビアンナイト」は、その中の具体な話を想起して喩えているのではなく、「アラビアンナイト」から単に「魔法」を連想しているのであろう。以下、如何にも事大主義的な真黒な防雨防電用の外套を着ている(「そんなに黑く」)修理工夫が「からだをかつきり鍵にまげ」(電信柱に体を確保するために両足を挟んで(推定)上半身を鈎型に曲げて)て、「外套の裾も」ずぶ濡れで、それがまた、如何にもぬらぬらとして「あやしく垂れ」ていて、これはもう、尋常には見えないぞ! しかも「ひどく手先を動かすでもな」く(碍子の修繕であるからその作業はその大仰な姿形に反して、指先だけで行う微細な作業なのであろう)、そこにその格好で固まっている、いや! 吊り下げられているのだ! やっぱり「あんまりアラビアンナイト型」じゃないですか?! そうして「魔法」から「惡魔」が関係妄想され、あなたは誰からから、「あいつは惡魔のためにあの上に」「つけられた」者な「のだ」! と名ざされた時、「どうあなたは辯解をするつもりです」か? と謂い掛けているのである。ややブラッキーなファンタジーの切り取りである。]

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 山巡査

 

        山 巡 査

 

おお

何といふ立派な楢だ

綠の勳爵士(ナイト)だ

雨にぬれてまつすぐに立つ綠の勳爵士(ナイト)だ

 

栗の木ばやしの靑いくらがりに

しぶきや雨にびしやびしや洗はれてゐる

その長いものは一体舟か

それともそりか

あんまりロシヤふうだよ

 

沼に生えるものはやなぎやサラド

きれいな蘆(よし)のサラドだ

 

[やぶちゃん注:「体」はママ。大正一一(一九二二)年九月七日の作。本書以前の発表誌等は存在しない。原稿は「ロシヤふう」は「ロシヤ風」であるが、最終校正でひらがなにしたか。「手入れ本」は手入れなし。特異点。

「山巡査」無論、賢治の造語。言わずもがな、次の「楢」の木を擬人化したもの。それと一体となった詩人が雨の中を栗林から沼へと、自然を指差点呼しつつ巡邏してゆく。

「楢」既出既注。ブナ目ブナ科コナラ属 Quercus の総称であるが、ここはその中でも主要な種とされるミズナラ Quercus crispula ととっておく。

「勳爵士(ナイト)」「ナイト」は「勳爵士」三字へのルビ。主にヨーロッパのキリスト教国家に於いて、勲章の授与に伴って王室又は教皇から授与される、中世の騎士階級に由来した栄誉称号「Knight」の訳語。特にイギリス(連合王国)の叙勲制度に於いて王室より叙任されるものが著名。他に「勲功爵」「騎士爵」「士爵」などの訳が見られる。称号としての「ナイト」を「騎士号」とも訳す。なお、英国に於いては「ナイト」は貴族身分ではなく、世襲権を持たない準貴族の扱いである(ここはウィキの「ナイトに拠った)。

「その長いものは一体舟か」/「それともそりか」地に帰ることとなった倒木であろう。

「あんまりロシヤふうだよ」「そり」(橇)から連想された。この九年前の一九一七年(大正六年)十一月七日、「十月革命」で「ロシア社会民主労働党ボリシェヴィキ」政権が樹立(当時の賢治は満二十一歳で盛岡高等農林学校三年)され、そのトップにレーニンがなり、「ボリシェビキ」を改称した「ロシア共産党」を率いて内戦に勝利し、事実上の建国の始動期にあったが、本詩篇の書かれた直後、一九二二年(大正十一年)の翌月末(年末)の十二月三十日(当時の賢治は二十六歳)ロシア=ソヴィエト連邦社会主義共和国(一九一八年七月成立)に、ウクライナ・ベロルシア・ザカフカースの三つのソヴェト社会主義共和国が加わって、遂に「ソ連共産党」の一党独裁による「ソヴィエト社会主義共和国連邦」を成立させている。ロシアが世界中で大きな話題になっていた中で、この「あんまりロシヤふうだよ」という、やや傍観者的な風刺を感じさせる謂い掛けが用いられていることに着目したい。宮澤賢治はこの世紀の一大イベントとなった「ロシア革命」と巨大な社会主義国家の出現をどう思っていたか。Kenjitomorris氏のブログ賢治とモリスの館」の「宮沢賢治とロシア革命」によれば、「羅須地人協会」に出入りしていた伊藤与蔵氏の「聞き書き」を素材に、賢治が、イギリスの詩人でデザイナーであると同時にマルクス主義者でもあったウィリアム・モリス(William Morris 一八三四年~一八九六年)が主導したデザイン運動「アーツ・アンド・クラフツ運動(Arts and Crafts Movement:「美術工芸運動」。産業革命により生じた、安価ながら粗悪なステロタイプの商品の大量生産の蔓延を批判し、中世の手仕事に帰り、生活と芸術を統一することを主張したもので、自ら「モリス商会」を設立、装飾された書籍・インテリア製品などを製作した。その製品自体は結局、高価なものになって、裕福な階層にしか使えなかったという批判もあるが、生活と芸術の一致を目指したモリスの思想は世界的に大きなインパクトを与え、「アール・ヌーヴォー(Art nouveau:新しき芸術)」・「ウィーン分離派」(Wiener Secession:一八九七年にウィーンで画家グスタフ・クリムト(Gustav Klimt)を中心に結成された芸術家のグループ。単に「セセッション」とも表記される)・ユーゲント・シュティール(Jugendstil:一八九六年にミュンヘンで刊行された雑誌『ユーゲント』(Die Jugend:若者・青春の意)に代表されるドイツ語圏の世紀末美術の傾向を指す。「ユーゲント」は「若さ」、「シュティール」は様式を意味するドイツ語で、「アール・ヌーヴォー」と意を同じくし、「青春様式」と訳されることもある)などの美術運動にもその影響が見られる)の芸術論を読んでおり、特に『芸術と労働の関係については』『モリスなどの思想を継承してい』たとあり、このソヴィエト社会主義共和国連邦成立という壮大な歴史の実験は、賢治が『「農民芸術概論」を書き、羅須地人協会が設立、活動を始める』四『年前のこと』であるとされ、以下のように述べておられる。

   《引用開始》[やぶちゃん注:クエスチョン・マークの後に字空けを入れた]

モリスなど『ユートピア便り』の社会主義や芸術思想とロシア革命の現実が、賢治など多くの知識人の眼にどのように映り、どのように受け止められたか? プロレタリア独裁の暴力革命、「労・兵ソビエトと全国の電化」の社会主義の現実は、産業革命の工業化の資本主義を超えようとしていたモリスの「ユートピア社会主義」の夢とは、余りにもかけ離れた暗い現実ではなかったか? 知識人の間に動揺が走り、思想的混乱が生じたのも当然だったろう。東大の卒業論文のテーマにモリスを選んだ芥川竜之介が、「ただぼんやりとした不安」という謎めいた遺書を残して自殺した。「ぼんやりとした不安」の背後には、ロシア革命とソ連邦の現実があったという推測もある。[やぶちゃん注:芥川龍之介の卒論(無論、英文)は戦災により消失し、現在、我々がそれを読むことは出来ない。非常に残念なことである。]

 では、こうした思想界の混乱や動揺の中で、モリスの芸術思想、そして社会主義を受容・継承しようとしていた賢治は、ロシア革命をどう受け止めていたか?

 「聞き書き」には、「私は小ブルジョア」の項目があった。賢治はそこで「革命が起きたら、私はブルジョアの味方です」と言い切り、「私は革命という手段は好きではない」とも語っていた。彼が自分の出身階層が小ブルジョアであることは、いわば客観的事実として率直に認めていたことであって、賢治らしい率直さだと思う。プロレタリア独裁のテーゼからは、小ブルジョワが反革命の側につく。そこから賢治は、自らは客観的な階層的地位からすれば、反革命の立場に立たざるを得ないことを率直に語ったのであろう。

 しかし、ここで賢治が「革命という手段は好きではない」と語っていることは、ロシア革命に対する不賛成・反対の意思表示である。プロレタリア独裁の暴力革命の方式に、賢治がはっきり反対の立場に立とうとしていたことがわかる。モリスなどの、西欧社会主義・社会民主主義の思想的伝統の流れからすれば、レーニンのボルシェビズムは相容れないものだろう。賢治のロシア革命に対する明確な否定の態度表明は、モリスなどの社会主義の思想からは、むしろ当然ともいえる立場の意思表示だったのではないか?「農民芸術論」、そして羅須地人協会の運動を理解する上でも、大事な論点提起だと思う。

   《引用終了》

(「小ブルジョア」と「小ブルジョワ」の違いはママ。著作権侵害とならないよう引用を最小限にするため、前後を省略してある)と述べておられる。これは、賢治という人間のある種の偏頗な性格や非社会性や作品群の示す世界観を鳥瞰するに、肯んずることの出来る結論であり、さすれば、この「あんまりロシヤふうだよ」という何か微苦笑を含んだ揶揄を感じさせる言い掛けも腑に落ちてくるのである。一八七〇年代のロシアの社会運動家群ナロードニキ(Народники)が提唱した「ヴ・ナロード」(в народ:ラテン文字転写:v narod:人民のもとへ)が失敗した事実とともに、賢治にはプチ・ブル階級による人民主義革命さえも絵空事に思えたに違いない。賢治は悪い意味でも良い意味でも、実は農民には成りきれなかった(成ろうとはしなかった)選民としての科学者であり、芸術家であったと私は思っている。

「やなぎやサラド」/「きれいな蘆(よし)のサラドだ」「サラド」は「サラダ」(salad)。視認する即物対象の一般名と別な並列対照物の換喩表現の名を並べるのは、新手の手法。「やなぎ」は彼の好きな「ベムベロ」=「カワヤナギ」=ネコヤナギキントラノオ目ヤナギ科ヤナギ属ネコヤナギ Salix gilgiana であろう。「蘆(よし)」は「葦(あし)」「葭(よし)」「アシ」「ヨシ」と書き換えても孰れも総て同一の、湿地帯に植生する単子葉植物綱イネ目イネ科ダンチク(暖竹)亜科ヨシ属ヨシ Phragmites australis を指す。ウィキの「ヨシ」によれば、『もともとの呼び名は「アシ」であり、日本書紀に著れる『豊葦原(とよあしはら)の国』のように、およそ平安時代までは「アシ」と呼ばれていたようである』。「更級日記」においても、『関東平野の光景を「武蔵野の名花と聞くムラサキも咲いておらず、アシやオギが馬上の人が隠れるほどに生い茂っている」と書かれている』。八『世紀、日本で律令制が布かれて全国に及び、人名や土地の名前に縁起のよい漢字』二『字を用いる好字が一般化した。「アシ」についても「悪し」を想起させ』、『連想させ』て『縁起が悪いとし、「悪し」の反対の意味の「良し」に変え、葦原が吉原になるなどし、「ヨシ」となった。このような経緯のため』、『「アシ」「ヨシ」の呼び方の違いは地域により変わるのではなく、新旧の違いでしか無い。現在も標準和名としては、ヨシが用いられる。これらの名はよく似た姿のイネ科にも流用され、クサヨシ』(イネ科イチゴツナギ亜科カラスムギ連クサヨシ属クサヨシ Phalaris arundinacea)・『アイアシ』(イネ科アイアシ属アイアシ Phacelurus latifolius)『など和名にも使われている』とある。ヨシの『垂直になった茎は』二~六メートル『の高さになり、暑い夏ほどよく生長する』。『葉は茎から直接』、『伸びており、高さ』二十~五十センチメートル、幅二~三センチメートルで、『細長い』。カメラが林を抜けて湿原へ向かう。そこに大好きな「ベンベロ」(猫柳)と、こんもりとしたグリーンの、雨に洗われて生き生きと輝くサラダのような蘆原が見えてくる。ロシアが出てきた序でに、これも私はタルコフスキイに撮って貰いたい一篇である。]

2018/11/22

大和本草卷之十三 魚之上 ※1※2魚 (ギギ類)

 

2魚 時珍食物本草註云諸生溪河中長五六

[やぶちゃん注:「1」=「魚」+「盎」。「2」=「糸」+「系」。]

 寸黃褐色無鱗濶口口有細齒如鋸鰓下有硬刺

 骨亦硬善吞小魚肉薄味短氣味甘平無毒主益

 脾胃和五藏發小兒痘疹多食生疥々山中

 溪河ニアリアギノ下ノ兩傍ニヒレアリ又背ニヒレアリ皆刺

 ナリ三處共ニ人ノ手ヲフルレバ人ヲサシテ痛ムナマツニ似

 テ小ナリ又鰷ノ形ニ少シ似タルモアリ黃褐色ナリ處々ニ斑

 文アリテ段ヲナスモアリ長三四寸或五六寸山州嵯

 峨ノ川ニテミコ魚ト云ハギヾノ赤キ也形狀ハ同シ筑紫

 ノ村民蜂振ト云ハリアル故名ツク海ニモ此ノ魚アリ案ニ

 本草所載之黄顙魚又號黃𩼝魚又名䱀䰲時珍云

[やぶちゃん注:「黃𩼝魚」の「𩼝」の(つくり)の下部は「甘」ではなく「耳」のように見えるが、このような漢字が見当たらないので取り敢えずこれを当てておく。中文サイトで「玉篇」なる書物に「黃鱨魚」という名が載っており、「鱨」の異体字が「𩼝」であるからである。]

 無鱗魚也身尾倶似小鮎腹下黃背上靑黃情最

 難死反荊芥今案恐クハコレ2魚ト同物異名ナルヘシ

 凡異名同物多シ黃顙魚ヲタラト訓スルハ非ナリ

○やぶちゃんの書き下し文[やぶちゃん注:「1」=「魚」+「盎」。「2」=「糸」+「系」。]

2(ギヾ)魚 時珍「食物本草」の註に云はく、『諸溪河中に生ず。長さ、五、六寸、黃褐色、鱗、無く、濶〔(ひろ)〕き口。口に細き齒有り、鋸のごとし。鰓〔(あぎと)〕〔の〕下、硬き刺〔(はり)〕有り。骨も亦、硬く、善く小魚を吞む。肉、薄く、味、短〔(おと)れり〕。氣味、甘、平。毒、無し。脾胃を益し、五藏の和〔す〕ことを主〔(つかさど)〕る。小兒の痘疹を發し、多く食へば、疥〔(はたけ)〕を生ず』〔と〕。○處々山中溪河にあり。あぎ〔と〕の下の兩傍に、「ひれ」あり、又、に「ひれ」あり、皆、刺(はり)なり。三つ處共に、人の手をふるれば、人をさして、痛む。ナマヅに似て小なり。又。鰷〔(ハヤ)〕の形に少し似たるもあり。黃褐色なり。處々に斑文ありて段をなすもあり。長さ、三、四寸、或いは、五、六寸。山州嵯峨の川にて「ミコ魚」と云ふは「ギヾ」の赤〔きもの〕なり。形狀は同じ。筑紫の村民、「蜂振(〔ハチ〕フリ)」と云ふ。はりある故、名づく。海にも此の魚あり。案ずるに、「本草」所載の「黃顙魚」、又、「黃𩼝魚」と號し、又、「䱀䰲」と名づく。時珍云はく、『無鱗魚なり。身・尾倶に、小〔さき〕鮎(ナマヅ)に似て、腹の下、黃。背の上、靑黃。情、最も死に難〔(がた)〕し。荊芥〔(けいがい)〕に反す。今、案ずるに、恐らくは、これ、「2魚」と同物異名なるべし。凡そ、異名同物、多し。「黃顙魚」を「タラ」と訓ずるは非なり。

[やぶちゃん注:やや問題点(中国のそれは良安の推理する通り、ギギ科 Bagridae のギギの仲間である可能性は結構あるが(ナマズに似てしかも時珍は「軋軋」(現代中国語では「yàyà」。「ィアィア」)と鳴くとする(後掲)からである)、別種である(本邦産種は以下に見る通り、総て日本固有種)。また、後で注するように「ミコ魚」=「蜂振」についてははギギ類ではないがあるが、本邦産種としては、

条鰭綱ナマズ目ギギ科ギバチ属ギギ Pelteobagrus nudiceps(新潟県阿賀野川より以南、四国の吉野川、九州東部まで分布する日本固有種)

をまず挙げてよかろう。それ以外に、同じギギ科の、

ギギ科 Pseudobagrus属ネコギギ Pseudobagrus ichikawai(愛知県・岐阜県・三重県(伊勢湾・三河湾流入河川)に分布する日本固有種。体色は黒褐色に黄褐色の斑紋が入る。幼魚は明色斑が明瞭であるが、成長に伴い、不明瞭となる。絶滅危惧IB類(EN))

ギバチ属ギバチ Pseudobagrus tokiensis(神奈川県・富山県以北の本州に分布する日本固有種。体色は茶褐色から黒褐色。幼魚は黄色味を帯びたはっきりとした斑紋を有する)

や、長くそのギバチと同種とされてきたが、近年、染色体数の違いなどから独立種とされた、

ギバチ属アリアケギバチ Pseudobagrus aurantiacus(九州西部及び長崎県壱岐に分布する日本固有種。準絶滅危惧種(NT))

も掲げておく必要がある(後者は特に益軒のフィールド辺縁であるからである)。非常に興味深いのは、これら四種は夜行性で、音を発すること、無鱗で棘を有することなど、その習性や生態はよく似ているが、本邦内での分布が全く重なっておらず、自然に棲み分けをしている点である(熊本県球磨川にギギがいるが、これは琵琶湖からの人為移入と推測されている)。ウィキの「ギギから引く。『琵琶湖、岡山県、広島県で』「ギギ」及び「ギギウ」、『岐阜県で』「クロイカ」及び「クロザス」と呼ぶ、とある。『全長は』三十センチメートル『にもなるなど、ギギ科のなかで最も大きくなる。同じギギ科のギバチに似ているが、ギギは尾びれが』二『叉になっているので区別できる。背びれに』一『棘』七『軟条、尻びれに』二十『軟条、腹びれに』六『軟条、触鬚が』四『対。上顎に』二『対、下顎に』二『対、合計』八『本の口ひげがある。昼間は岩陰に潜み、夜間に出て』、『底生動物や小魚などを食べる。腹びれの棘と基底の骨をすり合わせ、「ギーギー」と低い音を出す』(漢字で「義義」・「鱨」本文内の私の注を参照)等と記すが、和名はこのオノマトペイアである)。『背びれ・胸びれの棘は鋭く、刺さると痛い』。『直径約』二ミリメートル『の強い粘着性のある黄褐色の卵は』千二百『粒から』二千百『ほど産卵された後に約』七十『時間で孵化し、体長』五ミリメートル『程度の稚魚となる。稚魚は』一『週間で卵黄を吸収し』九ミリメートル『程度まで成長すると、摂食を開始する』。『煮物、フライ、天ぷらなど、食用として利用される』が、現在は個体数が減ってきており、各地で希少種とされていて、保全すべき種になりかけている。私が小学校二年生の時、最初に買って貰った小学館の「魚貝の図鑑」で真っ先に魚体と名前を覚えたのがギギだった。名前が怪獣みたようだったことと、そのブッ飛びの命名由来と、危険がアブナい毒針との三役揃い踏みときた上に、その直後に裏山の溜池の水門でモッゴ(条鰭綱コイ目コイ科モツゴ属モツゴ Pseudorasbora parva獲りの最中、見かけたような気がしたから、衝撃の刷り込み効果が生じたのであった。

2(ギヾ)魚」(「1」=「魚」+「盎」。「2」=「糸」+「系」)サイト「真名真魚(まなまな)字典」のこちらで、本条を引き、最後に、この奇体な二字について、『二字とも大辞典に記載なし』。孰れも、本字一『字だけで魚の名をあらわす用例は見当たら』ず、「2」或いは「絲」を『伴って、ギギをあらわす。ツクリの』「盎」『は、おそらく、ギギを中国でも現してきた』「䱀䰲」の「」の「央(オウ)」『と、まったく別文字だが』、『マナガツオやタナゴを指す』「鰪」の(へん)の(アフ(オウ))『とが、混同して(意識的か無意識かはわからないが)生まれた文字のような気がする。また、翻刻に当って』、「2」と「絲」及び「[「魚」+「系」]」とを『同字として活字化している場合』(「古事類苑」等)が『あり、原典執筆者の用例に戻り』、『確認が必要かもしれない』とある。

『時珍「食物本草」の註』明の汪穎の食療食養専門書「食物本草」に同時代の李時珍が注したものか。

「脾胃」漢方で広く胃腸・消化器系を指す語。

「五藏の和〔す〕こと」「心(しん)」・「肝」・「脾」・「肺」・「腎」の五つの内臓(現代医学のそれとは必ずしも一致しない)の全体のバランスを整える機能・機序。

「小兒の痘疹を發し」子どもが食べると天然痘を発症し。ちと大袈裟過ぎである。天然痘様の激しい発疹と採っておく。

「疥〔(はたけ)〕」顔面単純性粃糠疹(ひこうしん:pityriasis simplex faciei)の俗称。顔面に、境界が比較的鮮明で軽い、色素脱失性の大小の円形病変が生じる疾患。病変部は乾燥し、粃(しいな:籾殻(もみがら))や糠(ぬか)のような感じで落屑(らくせつ:皮膚の表層が大小の角質片となって剝げ落ちること)するため、白っぽく粉を掃いたように見える。通常は自覚症状がない。発赤や丘疹がみられることもある。以前は「顔面白癬」と考えられていたが、現行では白癬菌が病原体であるとは証明されていない。思春期前の小児、特に男児に多く、思春期になり、皮脂分泌が増えると自然に治癒する。症状は夏季に顕著になる。同様の病変が頭部に生じるものは「頭部単純性粃糠疹」、顔面と頭部に生じるものは「顔面頭部単純性粃糠疹」と呼ばれる(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)。

「鰷〔(ハヤ)〕」複数回既出既注であるが、再掲しておく。複数の種の川魚を指す。ハヤ(「鮠」「鯈」などが漢字表記では一般的)は本邦産のコイ科(条鰭綱骨鰾上目コイ目コイ科 Cyprinida)の淡水魚の中でも、中型で細長い体型を持つ種群の総称通称である。釣り用語や各地での方言呼称に見られ、「ハエ」「ハヨ」などとも呼ばれる。呼称は動きが速いことに由来するともされ、主な種としては、

コイ科ウグイ亜科ウグイ属ウグイ Tribolodon hakonensis

ウグイ亜科アブラハヤ属アムールミノー亜種アブラハヤ Rhynchocypris logowskii steindachneri

アブラハヤ属チャイニーズミノー亜種タカハヤ Rhynchocypris oxycephalus jouyi

コイ科 Oxygastrinae 亜科ハス属オイカワ Opsariichthys platypus

コイ科 Oxygastrinae亜科カワムツ属ヌマムツ Nipponocypris sieboldii

カワムツ属カワムツ Nipponocypris temminckii

などが挙げられる。ここでそれらに「形に少し似たるもあり」と言うところが、私が当初、少し同定比定を躊躇したところである。以上の「ハヤ」類はナマズ目 Siluriformes のナマズ類とは全く縁がなく、普通にイメージするナマズと彼らは全く似ていないからである。しかしながら、ギギ類はこちらの小学館「日本大百科全書」の解説の脇にある博物画(クリックで拡大出来る。ネコギギ・ギバチ・ギギの三種の図がある)を見て戴くと判る通り、実はナマズの癖にナマズナマズしていない、ちょいとハヤっぽいスマートな流線型をしているのである。特にギギは尾鰭が二叉していて、似ていると言えるのである。

「處々に斑文ありて段をなすもあり」先に示した通り、若年個体にはこうした斑紋が見られる。

「山州嵯峨の川」山城国嵯峨川は嵯峨嵐山附近を流れる保津川の別称。

「ミコ魚と云ふは「ギヾ」の赤〔もの〕なり」これが一番引っ掛かった。結論から言うと、これはギギ科 Bagridae のギギ類ではない「赤佐」で、ナマズ目 Siluriformes ではあるが、アカザ科 Amblycipitidae の、アカザ属アカザ Liobagrus reini である。ウィキの「アカザ」によれば、『胸鰭と背鰭に鋭く毒のある棘条があり、その棘条に刺されると痛いことからつけられたアカザスが転訛してこの名になったとされている。他には、アカネコ、アカナマズの名がある。日本固有種で、秋田県、宮城県以南の本州と四国、九州に分布する』。『ナマズの仲間としては小型で、体長は最大』十『前後。ドジョウのように円筒形の細長い体型をしており、英名でもLoach catfish(ドジョウナマズ)と呼ばれる。体色は、やや赤色がかるが地域変異が大きい。生息域の重複や頭部の形状などの特徴から』、『ギギやギバチに若干似るが、以上のような特徴から識別は容易である。また、他種と比べて頭部が小さく』、『側線が胸鰭の後ろ近辺までしかないという違いがある。口ひげは上顎に』二『対、下顎に』二『対の計』八『本である。胸鰭に』一『本ずつ、背鰭に』一『本の刺条を持つ。刺条には毒腺があり、刺されると痛む。背鰭の後部には脂鰭があるが』、『その基底は長く、後端で尾鰭と連結する。尾鰭の後縁は丸く扇形になる』。『水温の低い河川の上流域下部〜中流域、渓流部の清澄な水底に生息する。高温に弱く、水温が』二十五『度以上になると死亡個体が出始める』。『夜行性。日中は水底の浮き石の下、岩の隙間などに隠れており、夜間や水の濁った時に活動する。形態と同様、動作もドジョウに似ており、水底の石の間を伝いぬうように動き回る。肉食性で、主に水生昆虫を捕食する』。『卵はゼリー状の物質に守られ、ひとかたまりに産み付けられる』とある。しかし、画像を幾つか並べてみると、素人目にはギバチとかなり似ており、夜行性であること、毒針を有すること等、これは益軒がギギ類と誤認しても無理はないと私は思ったものである。

『筑紫の村民、「蜂振(〔ハチ〕フリ」と云ふ』ぼうずコンニャク氏の「市場魚貝類図鑑」のアカザのページの「地方名・市場名」の欄に『ハチウオ』『ハチナマズ』とあった。一方、同氏のギギページには「ハチ」で始まる異名はないから、この呼称は正しく「アカザ」を指している可能性が頗る高いと思う。

「海にも此の魚あり」これを問題にする人がいるかも知れぬが、どっこい! 背鰭と胸鰭の第一棘条が毒棘となっている、危険海水魚として名の知れた、ナマズ目ゴンズイ科ゴンズイ属ゴンズイ Plotosus japonicus 「ギギ」「ハゲギギ」「ググ」(真正のギギの地方名に「クグ」がある)「ギギュウ」といった「ギギ」と同じ名・異名をも持っているのである。海に「ギギ」は「いる」んですよ!

「本草」「本草綱目」巻四十四の「鱗之四」に(「主治」は略す)、

   *

黃顙【「食療」。】

釋名黃鱨魚【古名。】。黃頰魚【「詩註」。】。䱀䰲【央軋。】黄。時珍曰、顙、頰以形、鱨以味、軋以聲也。今人析而呼爲黃、黃軋。陸璣作黃、楊謬矣。

集解時珍曰、黃顙、無鱗魚也。身尾俱似小鮎、腹下黃、背上靑黃、腮下有二橫骨、兩鬚、有胃。羣游作聲如軋軋。性最難死。陸璣云、魚身無頭、頰骨正黃。魚之有力能飛躍者。陸佃云、其膽春夏近上、秋冬近下。亦一異也。

氣味甘、平、微毒。詵曰、無鱗之魚不益、人發瘡疥。時珍曰、反荊芥、害人。

   *

「鮎(ナマヅ)」条鰭綱新鰭亜綱骨鰾上目ナマズ目ナマズ科ナマズ属ナマズ Silurus asotus。禅宗の公案を絵画化した「瓢鮎図」で知られる通り、漢語漢字・中国語としての「鮎」はナマズを指す。因みに、中国では条鰭綱キュウリウオ目キュウリウオ亜目キュウリウオ上科キュウリウオ科アユ亜科アユ属アユ Plecoglossus altivelis は「香魚」である(アユは北海道・朝鮮半島から中国・ベトナム北部まで、東アジア一帯に分布するが、本邦がその中心である)。

「情」性質。

「最も死に難〔(がた)〕し」なかなか死なない。ナマズ類は概して強健ではある。

「荊芥に反す」「荊芥」シソ目シソ科イヌハッカ属ケイガイ Schizonepeta tenuifoliaの全草を乾燥させたもの。ウィキの「ケイガイによれば、『中国原産の草本で花期は初夏から夏』。『花穂は発汗、解熱、鎮痛、止血作用などがあり、日本薬局方に生薬「荊芥(ケイガイ)」として収録されている。荊芥連翹湯(けいがいれんぎょうとう)、十味敗毒湯(じゅうみはいどくとう)などの漢方方剤に配合される。「アリタソウ」という別名がある。ただし、本種はシソ科であり』、和名『アリタソウ』(有田草:ナデシコ目ヒユ科 Chenopodioideae Chenopodieae 連アカザ属アリタソウ Chenopodium ambrosioides)『とは全く別の物である』とあるので注意が必要。漢方サイトによれば、高さは六十~八十センチメートルで、シソ科特有の強い香気を有し、初夏に淡い紫紅色の小花を穂状(すいじょう)につけた際に採取し、感冒による熱・頭痛・鼻炎・咽喉の痛みなどを改善する働きがあるとする。

『「黃顙魚」を「タラ」と訓ずるは非なり』確かに。「本草綱目」のそれは鱈(条鰭綱タラ目タラ科タラ亜科 Gadinae のタラ類。日本近海では北日本沿岸にマダラ(マダラ属マダラ Gadus macrocephalus)・スケトウダラ(スケトウダラ属スケトウダラ Theragra chalcogramma)・コマイ(コマイ属コマイ Eleginus gracilis)の三属三種が分布するが、単に「タラ」と呼んだ場合はマダラを指すことが多い)じゃあ、ないねえ。]

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 グランド電柱

 

         グランド電柱

 

あめと雲とが地面に垂れ

すすきの赤い穗も洗はれ

野原はすがすがしくなつたので

花卷(はなまき)グランド電柱(でんちゆう)の

百の碍子(がいし)にあつまる雀

 

掠奪のために田にはいり

うるうるうるうると飛び

雲と雨とのひかりのなかを

すばやく花卷大三又路(はなまきだいさんさろ)の

百の碍子にもどる雀

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年九月七日の作。本書以前の発表誌等は存在しない。

・「花卷大三又路(はなまきだいさんさろ)」の「又」はママ。原稿も「又」。「手入れ本」も修正せず。校本全集校訂本文は「叉」とする。

・「百の碍子にもどる雀」宮澤家版「手入れ本」は、

 百の碍子にしりぞく雀

とする。韻律からは「しりぞく」がよい。

 和田博文氏の「風呂で読む宮澤賢治」(一九九五年世界思想社刊。私の入浴中の愛読書の一つ)の解説に、『花巻に電燈が初めてともったのは、賢治が一六歳の一九一二(大正元)年のことだという。ランプから電気への移行は、人々の生活様式や感受性のありかたを変えた。この詩はその一〇年後に書かれているが、「グランド」(grand=堂々とした)という形容からは、その頃の電柱イメージがうかがえる』とある。松井潤ブログ「HarutoShura詩篇解説によれば、『「グランド電柱」「花巻大三叉路」ともに、賢治の造語。花巻市豊沢町の街路を豊沢橋のほうに進み、橋を渡ってから』「花巻大三叉路」『(いまの新旧国道の交差点)にいたる区間の両側に立ち並んでいた電柱のことをグランド電柱と呼んだ』とある。「花巻大三叉路」は(グーグル・マップ・データ)桜町交差点(現在は四叉路)であろう。賢治の地図でも判る通り、生家から五百七十メートル南南東で、これらはごく直近の身近な景色であったことが判る。ギトン解説によれば、『当時は、奥州街道に沿って高圧送電線の高い電柱が並んでいたそうです。これが賢治の言う「花巻グランド電柱」です。幹線の送電線ならば、ひとつの電柱に2~3段の横木と10個前後の碍子が付いていたでしょうから、立ち並ぶ電柱に付いている碍子の数を合計すれば、「百の碍子」は誇張ではないのです』とあり、別ページでは、「電柱」と「電信柱」は異なるものであることを写真で解説して下さっている。私などは今まで混同していただけに、眼から鱗であった。

「碍子(がいし)」電線を支持し絶縁するために、電柱や鉄塔に取り付ける絶縁体の器具。ごく初期は木製であったが、後に陶磁器製のものが登場し、ごく近年まで使用され、我々にはお馴染みである。現在は改良が進んで合成樹脂製のものが多い。

「掠奪」(りやくだつ(りゃくだつ))「略奪」に同じ。暴力的に奪い取って自分のものにすること。農学者としての賢治なればこそかく言うものの、雀による稲作被害は実際には有意性がないことは彼も知っていたから、ここは寧ろ、その飛ぶさまを「うるうるうるうる」と何か侘びしげに表現して、「雲と雨とのひかりのなかを」/「すばやく花卷大三又路(はなまきだいさんさろ)の」/「百の碍子にもどる雀」に同情を寄せて、優しく眺めている詩人の姿が見える。]

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 原體劍舞連(はらたいけんばいれん)

 

          (はらたいけんばいれん)
      
mental sketch modified

 

  dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah

こんや異装(いさう)のげん月のした

鷄(とり)の黑尾を頭巾(づきん)にかざり

片刄(かたは)の太刀をひらめかす

原体(はらたい)村の舞手(おどりこ)たちよ

鴇(とき)いろのはるの樹液(じゆえき)を

アルペン農の辛酸(しんさん)に投げ

生(せい)しののめの草いろの火を

高原の風とひかりにさゝげ

菩提樹皮(まだかは)と繩とをまとふ

氣圏の戰士わが朋(とも)たちよ

靑らみわたる灝氣(かうき)をふかみ

楢と掬(ぶな)とのうれひをあつめ

蛇紋山地(じやもんさんち)に篝(かゞり)をかかげ

ひのきの髮をうちゆすり

まるめろの匂のそらに

あたらしい星雲を燃せ

 dah-dah-sko-dah-dah

肌膚(きふ)を腐植と土にけづらせ

筋骨はつめたい炭酸に粗(あら)び

月月(つきづき)に日光と風とを焦慮し

敬虔に年を累(かさ)ねた師父(しふ)たちよ

こんや銀河と森とのまつり

准(じゆん)平原の天末線(てんまつせん)に

さらにも强く鼓を鳴らし

うす月の雲をどよませ

 Ho! Ho! Ho!

     むかし達谷(たつた)の惡路王(あくろわう)

     まつくらくらの二里の洞(ほら)

     わたるは夢と黑夜神(こくやじん)

     首は刻まれ漬けられ

アンドロメダもかゞりにゆすれ

     靑い仮面(めん)このこけおどし

     太刀を浴びてはいつぷかぷ

     夜風の底の蜘蛛(くも)おどり

     胃袋はいてぎつたぎた

 dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah

さらにただしく刄(やいば)を合(あ)はせ

霹靂(へきれき)の靑火をくだし

四方(しはう)の夜(よる)の鬼神(きじん)をまねき

樹液(じゆえき)もふるふこの夜(よ)さひとよ

赤ひたたれを地にひるがへし

雹雲(ひやううん)と風とをまつれ

 dah-dah-dah-dahh

夜風(よかぜ)とどろきひのきはみだれ

月は射(ゐ)そそぐ銀の矢並

打つも果(は)てるも火花のいのち

太刀の軋(きし)りの消えぬひま

 dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah

太刀は稻妻(いなづま)萓穗(かやほ)のさやぎ

獅子の星座(せいざ)に散る火の雨の

消えてあとない天(あま)のがはら

打つも果てるもひとつのいのち

 dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年八月三十一日の作。本書後尾の「目次」の創作クレジットを示す表示は、先行する詩篇「春と修羅」「眞空溶媒」「靑い槍の葉」と同様、他の詩篇のそれの丸括弧でなく、二重丸括弧のそれで『⦅一九二二、八、三一⦆』(実際には漢字と読点は半角)となっている。本書以前の発表誌等は存在しない。

・「こんや異装(いさう)のげん月のした」原稿は「こんや異装(いさう)の弦月のした」とするが、最終校正で訂したものらしく、宮澤家版「手入れ本」では「こよひ異装(いさう)のげん月のした」とあって「げん」はひらがなのママである。

・「原体(はらたい)村の舞手(おどりこ)たちよ」「体」はママ(原稿は新字採用なので不明だが、「手入れ本」の指示はないから、恐らくは賢治自身が「体」で書いていると推定される)。新字採用の稿本全集校訂本文も当然ながら(とは思わないが)「原体村」である。ルビの「おどり」の「お」は原稿もママ。全集校訂本文も「お」。

・「鴇(とき)いろのはるの樹液(じゆえき)を」原稿では「鴇」を「鵇」(異体字)とする。宮澤家版「手入れ本」では、

 若やかに波だつむねを

と大きく改変している。

・「生(せい)しののめの草いろの火を」宮澤家版「手入れ本」では、

 ふくよかにかゞやくむねを

と大きく改変している。

・「楢と掬(ぶな)とのうれひをあつめ」「掬(ぶな)」は原稿では「椈」で誤植であるが、「正誤表」にはなく、「手入れ本」でも修正されていない。見落としであろう。全集では「椈」と訂する。「椈」はブナ目ブナ科ブナ属ブナ Fagus crenata

・「あたらしい星雲を燃せ」の後の字下げの「dah-dah-sko-dah-dah」は原稿では初行の「dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah」と同じ。「手入れ本」も手を加えていないから、最終校正で変えたものか。

・「こんや銀河と森とのまつり」宮澤家版「手入れ本」では、

 こよひ銀河と森とのまつり

と変更している。

・「さらにも强く鼓を鳴らし」原稿では「鼓」に「こ」のルビがあるが、「手入れ本」に修正はないから、これでよしとしたものか。しかし私などは「つづみ」と訓じてしまい、「原体剣舞」を知らない読者には不親切である。

・「Ho! Ho! Ho!」原稿は「dä-dä-dä-dä-dä-sko-dä-dä」とするも、その下の余白に『 ノ代リニ daa 又ハdah」と注記する。最終校正でかく変更したものらしい。「ä」(ドイツ語のウムラウト(Umlaut)附き)を用いた原型は、賢治がこの詩篇で出る一連のオノマトペイアに発音上の変化を持たせることを当初は考えていたことを示している。因みにドイツ語のそれは「エ」と殆んど同じであるから、これだとそのままなら、「デェ・デェ・デェ・デェ・デェ・スコ・デェ・デェ」か。

・「むかし達谷(たつた)の惡路王(あくろわう)」「たつた」のルビはママ。本書用原稿も「たつた」。「手入れ本」は藤原嘉藤治所蔵本の現存の一本のみが「たこく」とするだけで、全集校訂本文も「たつた」である。私は「たっこく」で知っており、行ったこともあるので、「たつこく」の誤植かと思ったので調べてみたが、「たつた(たった)」の読みは見当たらない。後で引く後の童話「種山ヶ原」では「たつこく」のルビを振るから、いよいよ不審で、さらに検索してみたところ、米地(よねち)文夫・神田雅章共著の論文『賢治の詩「原体剣舞連」と達谷窟毘沙門堂 ―悪路王とアルペン農の謎―』(『総合政策』第十八巻第二号(二〇一七年)・PDFでダウン・ロード可能)の『達谷の読み「たつた」』に以下の記載を見出せた。

   《引用開始》

 この詩の達谷には「たつた」とルビが振られているが、その地に近い所で育った米地にはそのような呼び方を聞いた記憶はないし、歴史や地名の研究者に問い合せても、そのような読みがあったとは聞いたことがない、ということであった。

 賢治が「たっこく」という正しい読みを知っていたことは童話「種山ヶ原」では達谷に「たつこく」とルビが振られていることからもわかる。

 原稿が遺されていないので推定ではあるが、おそらく、「たつこく」と賢治が少し斜めに書いたのを、後の二文字を一字と見間違えた植字工が、左下の「く」と右上の「こ」とを合わせて「た」と読んだのであろう。『春と修羅』には誤植が多かったが、それを賢治はあまり気にしなかったらしく、存外、語感がよいので誤植をそのままにしたのかも知れない。

   《引用終了》

この最後の推理には不審がある。本書用原稿は現存し、先に述べた通り、校本全集の「校異」に活字化されており、そこには確かに「たつた」とルビが振られているからである。しかし、やはり、「たつた」という異名はなかった可能性が高いことはこれで明らかであろう。ここは一種の仮想の唄部分であり、以上の『存外、語感がよい』音数律も悪くないと賢治が思った『ので誤植をそのままにしたのかも知れない』というのも頷けないことはない。また、全く単に賢治が最初に誤記し、見落とし続けていたという大ボケもあり得る。本書では誤植ルビに関しては訂していないケースが今までも複数あったからである。

・「アンドロメダもかゞりにゆすれ」原稿では、最初、アンドロメダではなく、「カシオペア」としたものを削除し、

 Ho! アンドロメダもかゞりにゆすれ

とするが、ご覧の通り、「Ho! 」はない。最終校正で変更したものらしい。

・「太刀を浴びてはいつぷかぷ」原本では「太刀」は「大刀」で誤植であるが、「正誤表」にあるので、訂正して示した。

・「蜘蛛おどり」の「お」は原稿もママ。全集校訂本文も「お」。

・「胃袋はいてぎつたぎた」原稿は「はいて」は「吐いて」。最終校正でかくしたものらしいが、個人的には「吐いて」のままの方が躓かずによかったようには思う。「吐」という漢字が感覚的に賢治が嫌ったものと思われる。

・「dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah」は原稿では「dä-dä-dä-dä-dä-sko-dä-dä」。先の校正指示が影響した印刷所側の改変かとも思われる。

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