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2018/11/11

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 眞空溶媒

 
 

 眞  空  溶  媒

 
 
 
      眞 空 溶 媒

       ( Eine Phantasie im Morgen

 

融銅はまだ眩(くら)めかず

白いハロウも燃えたたず

地平線ばかり明るくなつたり陰(かげ)つたり

はんぶん溶けたり澱んだり

しきりにさつきからゆれてゐる

おれは新らしくでパリパリの

銀杏(いてう)なみきをくぐつてゆく

その一本の水平なえだに

りつぱな硝子のわかものが

もうたいてい三角にかはつて

そらをすきとほしでぶらさがつてゐる

けれどもこれはもちろん

そんなにふしぎなことてもない

おれはやつぱり口笛をふいて

大またにあるいてゆくだけだ

いてふの葉ならみんな靑い

冴えかへつてふるえてゐる

いまやそこらは alcohol 瓶のなかのけしき

白い輝雪(きうん)のあちこちが切れて

あの永久の海蒼(かいさう)がのぞきでてゐる

それから新鮮なそらの海鼠(なまこ)の匂

ところがおれはあんまりステツキをふりすぎた

こんなににはかに木がなくなつて

眩ゆい芝生(しばふ)がいつぱいいつぱいにひらけるのは

さうとも 銀杏並樹(いてふなみき)なら

もう二哩もうしろになり

野の綠靑(ろくせう)の縞のなかで

あさの練兵をやつてゐる

うらうら湧きあがる昧爽(まいさう)のよろこび

氷ひばりも啼いてゐる

そのすきとほつたきれいななみは

そらのぜんたいにさへ

かなりの影(えい)きやうをあたへるのだ

すなはち雲がだんだんあをい虛空に融けて

たうたういまは

ころころまるめられたパラフヰンの團子(だんご)になつて

ぽつかりぽつかりしづかにうかぶ

地平線はしきりにゆすれ

むかふを鼻のあかい灰いろの紳土が

うまぐらゐあるまつ白な犬をつれて

あるいてゐることはじつに明らかだ

(やあ こんにちは)

(いや いゝおてんきですな)

(どちらへ ごさんぽですか

  なるほど ふんふん ときにさくじつ

  ゾンネンタールが沒(な)くなつたさうですが

  おききでしたか)

 (いゝえ ちつとも

  ゾンネンタールと はてな)

 (りんごが中(あた)つたのださうです)

 (りんご、ああ、なるほど

  それはあすこにみえるりんごでせう)

はるかに湛(たた)える花紺靑の地面から

その金いろの苹果(りんご)の樹が

もくりもくりと延びだしてゐる

 (金皮のまゝたべたのです)

 (そいつはおきのどくでした

  はやく王水をのませたらよかつたでせう)

 (王水、口をわつてですか

  ふんふん、なるほど)

 (いや王水はいけません

  やつぱりいけません

  死ぬよりしかたなかつたでせう

  うんめいですな

  せつりですな

  あなたとはご親類ででもいらつしやいますか)

 (えゝえゝ もうごくごく遠いしんるいで)

いつたいなにをふざけてゐるのだ

みろ、その馬ぐらゐあつた白犬が

はるかのはるかのむかふへ遁げてしまつて

いまではやつと南京鼠(なんきんねずみ)のくらゐにしか見えない

 (あ、わたくしの犬がにげました)

 (追ひかけてもだめでせう)

 (いや、あれは高價(たか)いのです

  おさへなくてはなりません

  さよなら)

苹果(りんご)の樹がむやみにふえた

おまけにのびた

おれなどは石炭紀の鱗木(りんばく)のしたの

ただいつぴきの蟻でしかない

犬も紳士もよくはしつたもんだ

東のそらが苹果林(りんごばやし)のあしなみに

いつぱい琥珀をはつてゐる

そこからかすかな苦扁桃(くへんたう)の匂がくる

すつかり荒(す)さんだひるまになつた

どうだこの天頂(ちやう)の遠いこと

このものすごいそらのふち

愉快な雲雀(ひばり)もたうに吸ひこまれてしまつた

かあいさうにその無窮遠(むきうゑん)の

つめたい板の間(ま)にへたばつて

瘠せた肩をぷるぷるしてるにちがひない

もう冗談ではなくなつた

畫かきどものすさまじい幽靈が

すばやくそこらをはせぬけるし

雲はみんなリチウムの紅い熖をあげる

それからけわしいひかりのゆきき

くさはみな褐藻類にかはられた

こここそわびしい雲の燒け野原

風のヂグザグや黃いろの渦

そらがせわしくひるがへる

なんといふとげとげしたさびしさだ

 (どうなさいました 牧師さん)

あんまりせいが高すぎるよ

 (ご病氣ですか

  たいへんお顏いろがわるいやうです

 (いやありがたう

  べつだんどうもありません

  あなたはどなたですか)

 (わたくしは保安掛りです)

いやに四かくな背(はい)囊だ

そのなかに苦味丁幾(くみちんき)や硼酸(ほうさん)や

いろいろはいつてゐるんだな

 (さうですか

  今日なんかおつとめも大へんでせう)

 (ありがたう

  いま途中で行き倒(たほ)れがありましてな)

 (どんなひとですか)

 (りつぱな紳士です)

 (はなのあかいひとでせう)

 (さうです)

 (犬はつかまつてゐましたか)

 (臨終(りんじふ)にさういつてゐましたがね

  犬はもう十五哩もむかふでせう

  じつにいゝ犬でした)

 (ではあのひとはもう死にましたか)

 (いゝえ露がおりればなほります

  まあちよつと黃いろな時間だけの假死(かし)ですな

  ううひどい風だ まゐつちまふ)

まつたくひどいかぜだ

たほれてしまひさうだ

沙漠でくされた駝鳥(だてう)の卵

たしかに硫化水素ははいつてゐるし

ほかに無水亞硫酸

つまりこれはそらからの瓦斯の氣流に二つある

しやうとつして渦になつて硫黃華(くわ)ができる

    氣流に二つあつて硫黃華ができる

        氣流に二つあつて硫黃華ができる

 (しつかりなさい しつかり

  もしもし しつかりなさい

  たうたう參つてしまつたな

  たしかにまゐつた

  そんならひとつお時計をちやうだいしますかな)

おれのかくしに手を入れるのは

なにがいつたい保安掛りだ

必要がない どなつてやらうか

         どなつてやらうか

            どなつてやらうか

               どなつ……

水が落ちてゐる

ありがたい有難い神はほめられよ 雨だ

惡い瓦斯はみんな溶けろ

 (しつかりなさい しつかり

  もう大丈夫です)

何が大丈夫だ おれははね起きる

 (だまれ きさま

  黃いろな時間の追剝め

  飄然たるテナルデイ軍曹だ

  きさま

  あんまりひとをばかにするな

  保安掛りとはなんだ きさま)

いゝ氣味だ ひどくしよげてしまつた

ちゞまつてしまつたちいさくなつてしまつた

ひからびてしまつた

四角な背囊ばかりのこり

たゞ一かけの泥炭(でいたん)になつた

ざまを見ろじつに醜(みにく)い泥炭なのだぞ

背囊なんかなにを入れてあるのだ

保安掛り、じつにかあいさうです

カムチヤツカの蟹の罐詰と

陸稻(をかぼ)の種子がひとふくろ

ぬれた大きな靴が片つ方

それと赤鼻紳士の金鎖

どうでもいゝ 實にいゝ空氣だ

ほんたうに液体のやうな空氣だ

 (ウーイ 神はほめられよ

  みちからのたたふべきかな

  ウーイ いゝ空氣だ)

そらの澄(ちやう)明 すべてのごみはみな洗はれて

ひかりはすこしもとまらない

だからあんなにまつくらだ

太陽がくらくらまはつてゐるにもかゝはらず

おれは數しれぬほしのまたたきを見る

ことにもしろいマヂエラン星雲

草はみな葉綠素を恢復し

葡萄糖を含む月光液(げつくわうえき)は

もうよろこびの脈さへうつ

泥炭がなにかぶつぶつ言つてゐる

 (もしもし 牧師さん

  あの馳せ出した雲をごらんなさい

  まるで天の競馬のサラアブレツドです)

 (うん きれいだな

  雲だ 競馬だ

  天のサラアブレツドだ 雲だ)

あらゆる變幻の色彩を示し

……もうおそい ほめるひまなどない

虹彩はあはく變化はゆるやか

いまは一むらの輕い湯氣(ゆげ)になり

零下二千度の眞空溶媒(しんくうようばい)のなかに

すつととられて消えしまふ

それどこでない おれのステツキは

いつたいどこへ行つたのだ

上着もいつかなくなつてゐる

チヨツキはたつたいま消えて行つた

恐るべくかなしむべき眞空溶媒は

こんどはおれに働きだした

まるで熊の胃袋のなかだ

それでもどうせ質量不變の定律だから

べつにどうにもなつてゐない

といつたところでおれといふ

この明らかな牧師の意識から

ぐんぐんものが消えて行くとは情ない

 (いやあ 奇遇ですな)

 (おお 赤鼻紳士

  たうたう犬がおつかまりでしたな)

 (ありがたう しかるに

  あなたは一体どうなすつたのです)

 (上着をなくして大へん寒いのです)

 (なるほど はてな

  あなたの上着はそれでせう)

 (どれですか)

 (あなたが着ておいでなるその上着)

 (なるほど ははあ

  眞空のちよつとした奇術(ツリツク)ですな)

 (えゝ さうですとも

  ところがどうもおかしい

  それはわたしの金鎖ですがね)

 (えゝどうせその泥炭の保安掛りの作用です)

 (ははあ 泥炭のちよつとした奇術(ツリツク)ですな)

 (さうですとも

  犬があんまりくしやみをしますが大丈夫ですか)

 (なあにいつものことです)

 (大きなもんですな)

 (これは北極犬です)

 (馬の代りには使へないんですか)

 (使へますとも どうです

  お召しなさいませんか)

 (どうもありがたう

  そんなら拜借しますかな)

 (さあどうぞ)

おれはたしかに

その北極犬のせなかにまたがり

犬神のやうに東へ步き出す

まばゆい綠のしばくさだ

おれたちの影は靑い沙漠旅行(りよかう)

そしてそこはさつきの銀杏(いてふ)の竝樹

こんな華奢な水平な枝に

硝子のりつぱなわかものが

すつかり三角になつてぶらさがる

 

[やぶちゃん注:全二百四十八行から成る長篇詩。大正一一(一九二二)年五月十八日の作。本書後尾の「目次」の創作クレジットを示す表示は、先行する詩篇「春と修羅」と同様、他の詩篇のそれの丸括弧でなく、二重丸括弧のそれで『⦅一九二二、五、一八⦆』(実際には漢字と読点は半角)となっている。現存稿は底本原稿のみで、これ以前の発表誌等も存在しない。

 誤植が甚だ多く、最後部の三箇所以外(●で示した)は「正誤表」にも載らない。賢治自身の歴史的仮名遣の誤りや慣用誤用や口語使用も含まれるが、まず、それらを一括して箇条で掲げる。但し、原稿と相違していても、底本に用法上の違和感(私の、である)がなく、「手入れ本」での修正が行われいないものは省略した。なお、本文中の「体」はママである。

・「銀杏(いてう)」と後の「いてふ」「銀杏並樹(いてふなみき)」「銀杏(いてふ)」(最終行から四行目)はママ。最初のそれは底本原稿から、「いてふ」の誤植であることが判る。なお、「いてふ」とするのは、江戸時代の歴史的仮名遣の一つとして現に存在し、今もそう書く人も有意に多い。これは、当時、「公孫樹・銀杏」の読み(現代仮名遣「いちょう」)に対して唱えられた語源説の一つである「一葉(いちえふ)」の約されたものという説によったためであるが、現行では、正しい歴史的仮名遣は「いちやう」とされている。しかし、「手入れ本」には修正は全くない。賢治は歴史的仮名遣を「いてふ」で覚えいたということである。

・「新らしくで」原稿は「新しくて」。「で」は「て」の誤植であるが、「正誤表」にはないので、ママとした。「手入れ本」の一部に修正が有る。

・「そらをすきとほしでぶらさがつてゐる」原稿「そらをすきとほして」。「で」は「て」の誤植。これには「手入れ本」の一部に修正が有る。

・「そんなにふしぎなことてもない」原稿「ことでもない」。「て」は「で」の誤植。「手入れ本」の一部に修正が有る。

・「冴えかへつてふるえてゐる」「ふるえる」は原稿もママ。筑摩版校訂本文も「ふるえる」のままとしている(同全集は賢治の独特の語彙や漢字使用及び表現の強い癖などの場合には、正統な歴史的仮名遣による強制補正を行っていない。これは私は正しいやり方だと考えている。同じ筑摩書房の萩原朔太郎全集が、その強制補正を朔太郎著作の総てに対し、有無を言わさず、行ってしまっているのとは大違いである)。「手入れ本」には修正はない。

・「輝雪(きうん)」ママ。原稿「輝雲(きうん)」であるから、強烈な誤植。迂闊な読者はルビで無意識に誤字と認めずに読み過ぎた者も多かろう。しかし、実は「手入れ本」には修正がないのである。高い確率で、賢治自身や彼の周辺の人々さえも、このルビで騙されて、誰一人として気づかなかったものと推定される。

・「綠靑(ろくせう)」ママ。原稿もママ。歴史的仮名遣は「ろくしやう」が正しい。筑摩版校訂本文も「ろくせう」のままとしている。

・「たうたういまは」の「たうたう」は原稿もママ。「到頭」であるから、「たうとう」が正しい。全集校訂本文は「たうたう」なままとしている。但し、「手入れ本」の二種には修正が有るから、ここは「たうとう」を校訂本文と採るべきであるように私は思う。

・「むかふを鼻のあかい灰いろの紳土が」「紳士」の誤植。「手入れ本」修正なし。私も初読時、見落とした。

・「(やあ こんにちは)」/「(いや いゝおてんきですな)」/「(どちらへ ごさんぽですか」の三行のみが字下げなしで記されているのはママ原稿では、これらは、ちゃんと一字下げとなっており、後の「なるほど ふんふん ときにさくじつ」の文字本文と綺麗に並んでいるから、これは誤植である。しかし、「手入れ本」にも修正指示がない。これはこの三行が底本の右ページ(三十八ページ)の末三行であるため、実際に本を開いて読んだ場合、ページが綴目の中央内側に反ること、また、この三行の丸括弧(「(」)のそれが、字下げしていないにも拘わらず、字下げ的な錯視的効果を与えることから、左ページの二字下げに視覚的に影響を受け、都合よく錯覚を起こしたからではないかと私は推定する。

・「湛(たた)える」原稿もママ。「手入れ本」の修正もない。筑摩版全集もママ。

・「「おれなどは石炭紀の鱗木(りんばく)のしたの」ルビは「りんぼく」の誤植。「手入れ本」修正なし。私も初読時、見落とした。

・「たいへんお顏いろがわるいやうです」末尾の丸括弧閉じるが、ない。原稿「たいへんお顏いろがわるいやうです)」。誤植。「手入れ本」の一部に修正が有る。

・「いま途中で行き倒(たほ)れがありましてな)」原稿ではルビは「行き倒(だほ)れ」。「ほ」はママであるが、「だ」は誤植である。しかし「手入れ本」には修正はない。賢治やその周辺の人々はここに限っては誤り(ポイント最小のルビ活字の濁点の誤植)を見落としていたと考えられる。

・「たほれてしまひさうだ」「たほれ」は前注と同じく原稿もママ。全集校訂本文もママ。

・「すつととられて消えしまふ」ママ。原稿は「すつととられて消えてしまふ」なので、脱字。宮澤家「手入れ本」で「て」を補う。

・「(あなたが着ておいでなるその上着)」はママ。原稿は「(あなたが着ておいでになるその上着)」なので、脱字であるが、「手入れ本」の補正はない。「おいでなる」ではどうみてもおかしいから、これは見落としたものらしい。筑摩書房版は校訂本文を「おいでなる」と特異的に現存原稿のみに依拠して訂正している。まあ、これは無理もないか。

●「犬があんまりくしやみをしますが大丈夫ですか)」/「(なあにいつものことです)」は底本では、前行末に次行頭の「な」の活字が迷い込んで(と筑摩書房編者は理解している)、

犬があんまりくしやみをしますが大丈夫ですかな)

(あにいつものことです)

となっている。原稿を見ると誤植であり、「正誤表」にも載るので、原稿通りに《二箇所》を示した。

●「すつかり三角になつてぶらさがる」この最終行は底本では、

すつかり三角にならてぶらさがる  

となっているが、原稿は「すつかり三角になつてぶらさがる」で誤植であり、「正誤表」にも載るので、原稿通りに示した。

   *

 「原稿」と底本との異同で、以上以外で特に気になる点を掲げる。

・「しきりにさつきからゆれてゐる」が、原稿では「しきりにさつきからゆすれてゐる」となっているが、「手入れ本」でもこの「ゆれてゐる」部分への修正はない。最終校正刷で改したものかも知れない。但し、本書では先行する詩篇「春と修羅」で賢治は既に「ゆすれ」を二箇所で使用しており、語としての用法の強い違和感も私にはない。本篇の雰囲気からうすると、音数律上の変更とも思われない。

・唯一のリーダ使用部「どなつ……」のリーダ数は「………」で三字分である。

・その次の次の行の

ありがたい有難い神はほめられよ 雨だ

は、原稿では、

さうだ神はほめられよ 雨だ

となっている。最終校正刷で大改変したものか。印刷屋には一番嫌われる仕儀である。

・「サラアブレツト」は、原稿では「サラーブレツド」。「手入れ本」修正なし。

・「おれたちの影は靑い沙漠旅行(りよかう)」は、原稿では「おれたちの影は靑い沙漠行旅(かうりよ)」。ルビから確信犯であるが、「手入れ本」に修正がないから、最終校正刷で普通に戻したか。

   *

 「手入れ本」については非常な長詩であるので略すが、その二種の最終形を整序した電子データが、サイト「宮澤賢治の詩の世界」にある(但し、漢字は新字)。宮澤家本がこちら菊池曉輝氏所蔵本がこちらであるので、参照されたい。ただ一点、非常に興味深いのは、宮澤家本に、「ゾーネンタールが沒(な)くなつたさうですが」の横に「陽の谷」という書き入れがあることで、全集脚注では『註か? 自筆ではない可能性もある』とあることである。これは、後の注(引用)を参照されたい。

「眞空溶媒」「溶媒」(英語:solvent)は一つの溶液に於いて、その溶液が作られるに当たって、溶かされた成分を「溶質」と称し、その「溶質」を溶かすのに用いた成分を「溶媒」と呼ぶ。溶質・溶媒の区別がつけ難い場合には、多量に存在する一方を通常は「溶媒」と考える。「溶質」は気体・液体・固体の孰れでもよいが、「溶媒」は一般には液体である。ところが「眞空」では、一般人である我々には溶媒も溶質も無化されるのではないかと躓いてしまう。ここは或いは、ダダイズムやシュールレアリスムが好んで用いた、最もかけ離れていて、凡そ熟語足り得ない二概念を持つ対象を衝突させることで、新たな芸術的イメージを創出しようとした(例えばダリの事大主義画題作品「恋愛感情を表わす二個のパン」(一九四〇年:但し、その実、私はダリの作品の中では非常に好きな作品である)のように「恋愛感情」と「パン」との結合である)手法を科学用語に用いたものとも思われるし、また、「眞空」なのは宇宙空間であり、それはビッグバンから完全収縮に至る開闢と消滅のドライヴである。真空空間には充満はしていなくとも、先に出たエーテル仮説や後のアインシュタインの光量子仮説と、同人がそれと同時に一九〇五年に発表している特殊相対性理論などを考え合わせるならば、夢想された人間存在という儚い「媒質」が、そうした最新科学の特異な属性を内包する真空という「触媒」の影響を受けて、時空間をやすやすと往来し、その形象さえも自在にメタモルフォーゼさせることが出来る、と賢治は仮定したのではあるまいか?

Eine Phantasie im Morgen」ドイツ語で「朝(午前)の想像(空想・幻想)」。

「融銅はまだ眩(くら)めかず」融解した銅(銅の融点は摂氏一千八十五度弱)。日の出の太陽の色を形容しているのであろう。ブログ「金沢・金の科学館」の「融銅はまだ眩めかず」という記事で、『吹管分析という方法で銅の鉱石のひとつである孔雀石から銅を取り出せ』るとあり、『この融銅の眩めきというのが見たくなり』、学校で(ブログ主は教師らしい)硫酸銅を用いて実験してみたとされ、『木炭にドライバーで小さな穴をあけ、硫酸銅粉末を入れ、吹管で炎を吹き付けてみた』ところ、『一発で、立ち上る朝日のような球状に輝く銅が出てきた』とあり、『実験を見ていた生徒も「すごい!」と感動した』と記されて、『賢治もこの実験をやって感動したに違いないと思え』たと述べておられる。その実験映像を見られたい。これは確かに、日の出後に赫奕(かくやく)とする太陽そのものである。

「ハロウ」英語「halo」(英語読み:ヘイロー)とは、太陽やその周囲に光の輪が現れる大気光学現象のことである。日暈(にちうん)。太陽や月を光源として、それらに薄い雲がかかった際、その周囲に発生するように見える光の輪。日暈(ひがさ)。語源はギリシャ語の当該現象を指す語で、お馴染みの写真や映像で、強い光が当たった部分が白くぼやけることを指す「ハレーション」(halation)は、この「halo」に結果や状態を表わす名詞語尾「-ation」が附いたものである。他に宗教的聖像などの後光・光輪・光背の意もある。

「銀杏(いてう)なみき」の「その一本の水平なえだに」「りつぱな硝子のわかものが」「うたいてい三角にかはつて」「そらをすきとほしでぶらさがつてゐる」「けれどもこれはもちろん」「そんなにふしぎなことてもない」私の大好きなアメリカのブラザーズ・クエイ(Brothes Quay)の「ヤン・シュヴァンクマイエルの部屋」(The Cabinet of Jan Svankmajer:一九八四年)や、そこでオードされたチェコスロバキア・プラハ生まれのシュルレアリストでアニメーション作家・映像作家ヤン・シュヴァンクマイエル(Jan Švankmajer 一九三四年~)の素晴らしい諸作品を面白がれる余裕があれば、この数行は難解でも何でもない。

「いまやそこらは alcohol 瓶のなかのけしき」この「alcohol 瓶のなかのけしき」は生物のアルコール液浸標本のことであろう。アルコールでは長期の固定保存は不可能で、経年劣化が進むと、対象生物によっては、繊維組織が抜け出たり、個体の一部や全体が溶解を起して液中に崩れたり、溶け出したりする。以下の形容は、饐えた臭いと、黄変して雪の降るようになったり、個体表面が崩れて、内部へと裂け目の出来た標本瓶たちのカット・バックだ。高校まで理科部(中学・海塩核班/高校・生物班)であった私には、当たり前の日常の風景であった。無論、ここは公孫樹並木(瓶)とその隙間の「輝」く「雲」が切れて、そこから垣間見える「海」の如くに「蒼」黒い空の実景をそれらに換喩して夢想を楽しんでいるのである。……ああ……それにしても……まさに今の私(藪野)にとっては、自身の記憶自体が、誰も見に来ない理科室の展示棚の中のそうした液浸標本みたようなものである……

「あの永久の海蒼(かいさう)がのぞきでてゐる」前注に述べた通り、であるが、それは次の換喩である「新鮮なそらの海鼠(なまこ)の匂」からのフィード・バックとも言えよう。

「二哩」一マイルは一キロ六百十メートル弱。二マイルは三キロ二百十九メートル弱。

「昧爽(まいさう)」夜明け。「昧」は「暗い」で「爽」は「明るい」の意であるから、夜明け方のほの暗い時間。曙(日の出直前までの時間帯)である。辞書によっては「暁(あかつき)」とするが、これは正しくない。「あかつき」とは朝であるが、まだ真っ暗な状態、「曙」の前の時間を明確に分けて指す語だからである。

「氷ひばり」「神戸宮沢賢治の会」の公式サイトの「会報No.39 -氷ひばり-」に、『その鳴き声が透き通っているところから、賢治がつけた早春のひばりの総称。従って次行の「きれいななみ」とは、ひばりの声波のことで』あるとある。

「ゾンネンタール」上記引用先には、『ドイツの俳優、あるいは近所の資産家、との説がありますが、賢治は単に語呂が面白くて会話中にその名を登場させたとの説が妥当のようです』とあるが、それこそ『単に』『語呂が面白くて』で終わらせるというのは、考証・考察ではない、『単』なる感想・思いつきでしかない。面白い語呂なんだったら、「存念垂る」のアナグラムでもいいんですね、とツッコみたくなる。私は若き日にこれを読んだ時は「ネアンデタール」人を直ちに想起した(と言ってもその単連想であって、それが賢治のミラクル・ワールドに繋がるものとは思ってはいなかった)。この如何にも怪しい名の解読は大塚常樹氏の「宮沢賢治 心象の宇宙論(コスモロジー)」(一九九三年朝文社刊)に於いて、まさに目から鱗の解読がなされてある。その「無意識が見させる夢――中生代爬虫の悪夢――」の中で大塚氏は、

   《引用開始》[やぶちゃん注:注記号は省略させて戴いた。]

ここに登場する「ゾンネンタール」は、「原人」の隠喩であろう。この名について恩田逸夫はネアンデルタール人ヒント説を[やぶちゃん注:昭和四六(一九七一)年角川書店刊「日本近代文学大系 三十六 高村光太郎・宮沢賢治集」の注釈。大塚氏の注に拠る。]、栗原敦は役者ゾンネンタール説を提示している[やぶちゃん注:平成四(一九九二)年新宿書房刊「宮沢賢治 透明な軌道の上から」。同前。]。仮に「原人」と把握すれば、「しんせき」「ごくごく遠いしんるゐ」[やぶちゃん注:本詩篇の後の部分。]の意味も明らかになる。すなわち《現人類》の遠い親戚であり、彼らと同様の原始人であったころの記憶や感情が《現人類》にも残存している、という意味になるからである。この一節のすぐ後に、自分は石炭紀の鱗木の下の一匹の蟻だ、という一節があることからも「ゾンネンタール」の発想の基盤に進化論や地質年代的知識があったことはほぼ間違いないだろう。

 この「ゾンネンタール」(宮沢賢治家所蔵本には、賢治の手入れかどうかは不明だが、陽の谷、という訳語が記入されている[やぶちゃん注:ネアンデルタール人(ヒト属ホモ・ネアンデルターレンシス Homo neanderthalensis)の本格的な科学的研究の対象となった化石の発見(一八五六年)場所であるドイツのデュッセルドルフ郊外のネアンデル谷(ドイツ語: Neanderthal 又は Neandertal)であった。綴りが二種あるのは、一九〇一年にドイツ語の「正書法」改革により、「Thal」(タール:谷)の綴りが「Tal」に改められたからで、命名時の綴りを保持するのが分類学上の慣例であることから、ネアンデルタール人の学名 Homo neanderthalensis(ヒト亜種とする場合は Homo sapiens neanderthalensis は綴り方の変更の影響を受けないことによる)。]は、栗原の言うように作品後方の「泥炭」の「タール」に引っかけた名前でもあるだろう。賢治が地質時代の悪夢をしばしば体験したこと、石炭紀や白堊紀の湿地(氾濫原)が修羅のさまよう場所としてイメージされたことは本書の「序論」でも詳しく見たとおりである。泥炭地帯とはこうしたはるかむかしの氾濫原や湿地帯の、今日的地層地帯のことにほかならない。「ゾンネンタール」は「冬のスケッチ」にも、

  しろびかりが室をこめるころ

  澱粉ぬりのまどのそとで

  しきりにせのびをするものがある

  しきりにとびあがるものがある

  きっとゾンネンタールだぞ。

と描かれている。ここにも過去の「原人」の記憶に対する、賢治の恐怖心が読み取れるのではないか。

   《引用終了》

と述べておられるのである(「冬のスケッチ」は以前にも注で出したが、創作年代は不詳であるものの、製作史的には賢治の短歌時代と口語詩時代の狭間に位置する若い頃のものと推定される短唱的作品群で、引用は旧稿本全集では第六巻の「七」パートにあるソリッド(この五行で完結している)なものである)。これは、まさしく、田舎の冴えない高校生であった私が「ネアンデルタール人」をこの語に重ねたときの、何とも言えぬ慄然とした感じを開明して呉れたのである。そうしてそれは後にユングの著作に触れ、その「集団的無意識」説を読んだ時の、私の中の妙に腑に落ちるもの(これを以って私の小学生高学年以降のフロイトの汎性理論への無批判な信望は瓦解した)をも解き明かして呉れたのでもあった。宮澤賢治を全的に解読するには彼のファンダメンタルな日蓮宗への信仰部分を除去して語ることは全く不可能だと思っているが、それ以上に、賢治の科学者(特に地学・古生物学)を中心とした博物学的自然哲学的な学際的解析が不可欠であることは言うまでもなかろう。而してこの大塚常樹氏(現在、お茶の水大学基幹研究院人文科学系教授)の「宮沢賢治 心象の宇宙論(コスモロジー)」は、まさにそうした、特に後者の部分をターゲットとした論考として、他に類を見ない研究書として、非常に優れたものであるので一読をお薦めするものである。大塚氏は、かの原子朗氏の「新宮沢賢治語彙辞典」(一九九九年東京書籍刊。私は所持しないのでここで活用できないのは残念である)の分担執筆者の筆頭者でもあられる。因みに、大塚常樹氏の連れ合いである大塚美保氏(現在、聖心女子大学日本語日本文学科教授)は第一線の森鷗外の研究者として知られるが、彼女は私が最初に担任を持った生徒であり、お二人の結婚式にも招待され、錚々たる日本文学研究者たちの並居る中、ユングの「ヨブへの答え」を朗読するというトンデモ祝辞をやらかしてしまった(これは全くの偶然で、ただ直近で読んだそれにいたく感銘していたことからなのであるが)。今思うと、まっこと恥ずかしい限りであるが、しかし、懐かしい思い出である。

「花紺靑」「はなこんじやう(はなこんじょう)」と読む。紫色を帯びた暗い青色のこと。サイト「伝統色のいろは」の「花紺青」に、『人類最古のコバルト顔料「スマルト」の和名。スマルトはエジプトやミケーネ文明の頃から用いられて』おり、『日本では顔料の「紺青色 こんじょういろ」の中でも、人造の顔料を「花紺青」、天然のアズライト』(藍銅鉱:らんどうこう:azurite:アズライト。炭酸塩鉱物の一種で、「ブルー・マラカイト」と呼ばれる宝石でもある)『を原料とする顔料を「石紺青 いわこんじょう」と呼んで区別してい』る、とある。色はリンク先で確認されたい。曙方の地面の色であろうが、そこに金の皮の林檎があるのだとすれば、それは異界を示す色でもあろう。

「苹果(りんご)」「苹」(音「ヘイ・ヒヤウ(ヒョウ)」)は原義は「浮草(うきくさ)」或いは「蓬(よもぎ)」であるが、国立国会図書館の「レファレンス協同データベース」の、まさに、『宮沢賢治「銀河鉄道の夜」の中でリンゴが「苹果」と表記されている。「林檎」と「苹果」では意味の違いがあるのか』という質問への回答として、

   《引用開始》

『日本語源大辞典』(小学館)の「りんご」の項に「林檎」は「西洋リンゴが普及する以前の和リンゴの総称」で、「中国では、古く西洋から伝わったリンゴを『奈』「頻婆』『苹果』などと表した。それに対し、中国原産のものが『林檎』である」と示される。また、『新宮澤賢治語彙辞典』(東京書籍)の「苹果」の項でも「『林檎』は、もともと西洋リンゴ輸入前の小粒の和リンゴの総称で、西洋リンゴ(大りんご)の表記は『苹果』であった」としている。明治29年刊行の『果樹栽培全書第二編』(博文館)を確認したところ、「苹果樹栽培法」の中で「苹果ナルモノハ一名『おふりんご』ト称シ本邦在来林檎ノ一種」で「苹果ハ即チ漢名ニシテ清國ニハ其産アリ欧米産ノ品ト異ナラズ」と記されている。

   《引用終了》

「(金皮のまゝたべたのです)」/「(そいつはおきのどくでした」/「はやく王水をのませたらよかつたでせう)」/「(王水、口をわつてですか」/「ふんふん、なるほど)」/「(いや王水はいけません」/「やつぱりいけません」/「死ぬよりしかたなかつたでせう」/「うんめいですな」/「せつりですな」/「あなたとはご親類ででもいらつしやいますか)」/「(えゝえゝ もうごくごく遠いしんるいで)」「王水」の後の読点は原稿にもあり、底本にもあるのに、何故か、全集校本の校訂本文では除去されている。「王水」は「わうすい(おうすい)」と読み、濃塩酸と濃硝酸の混合物である。通常は濃塩酸三に対して濃硝酸一を加えたものを指し、強酸化剤として知られ、硝酸では溶解しない金・白金などの貴金属をも溶かすことから、この名を持つ。この部分については、先に引用した大塚常樹氏の「宮沢賢治 心象の宇宙論(コスモロジー)」の引用文の直前で、『恐らくこの幻想的な会話は、シンボリックな会話である。「金の華果」を食べて死ぬとは、有名な失楽園のパロディであろう。「うんめい」「せつり」にはこうしたキリスト教的な人類の宿命(原罪)が暗示されていよう』(以下、『また』を挟んで、先の引用の『ここに登場する「ゾンネンタール」は……』と続く)とあり、激しく共感する。

「南京鼠(なんきんねずみ)」モルモットのこと。齧歯目ネズミ上科ネズミ科ハツカネズミ属ハツカネズミ Mus musculus の実験用・愛玩用の飼養白変(アルビノ)種。

「おれなどは石炭紀の鱗木(りんぼく)のしたの」/「ただいつぴきの蟻でしかない」同じく大塚氏は「宮沢賢治 心象の宇宙論(コスモロジー)」の、巻頭にある「宮沢賢治の空間意識」の中で、この二行を引かれ、『この「鱗木」は実は杉の遠い祖先と言われている。賢治が影響を受けたドイツの進化論生物学者エルンスト・ヘッケルの提唱する、進化論的生命発生原則(本書「宮沢賢治とへッケル」を参照されたい)に従えば、五年位の若い杉(いわば子供の杉)は、祖先の「鱗木」に非常によく似ていることになるのである。「春と修羅」で賢治が描いた「Zypressen」[やぶちゃん注:発音は「ツュプレッセン」で、ドイツ語で糸杉類(球果植物門マツ綱マツ目ヒノキ科ヒノキ亜科イトスギ属 Cupressus)を指す。英語の「Cypress」(サイプレス)のこと。先行する「春と修羅」の注を参照されたい。]、すなわち糸杉は、よく言われるようにゴッホの「糸杉」が念頭に置かれていただけではなく、石炭紀の「鱗木」のイメージが重ねられていたのである』とある。大塚氏は『ゴッホの「糸杉」』に注され、『大正八年』(一九一九年)『ころの短歌に「ゴオホサイプレスの歌」の連作がある)と述べておられる。これは、以下(底本は校本全集第一巻を用いた)、

   *

 

ゴオホサイプレスの歌

 

サイプレスいかりはもえてあまぐものうづまきをさへやかんとすな

 

雲の渦のわめきのなかに湧きいでゝいらだちもゆるサイプレスかも

 

灯のしたにうからつどふをなはひとりたそがれに居てものおもひけん

 

薄明穹まつたく落ちて燐光の雁もはるかの西にうつりぬ

 

   *

で、また別な同時期の歌稿に(「巻」を恣意的に正字化した)、

   *

 

サイプレス

忿りは燃えて

天雲のうづ卷をさへ灼かんとすなり。

      ※

天雲の

わめきの中に湧きいでて

いらだち燃ゆる

サイプレスかも。

 

   *

とある(「忿り」は「いかり」、「天雲」は「あまぐも」と読んでおく)。大塚氏の挙げられた、エルンスト・ハインリッヒ・フィリップ・アウグスト・ヘッケル(Ernst Heinrich Philipp August Haeckel 一八三四年~一九一九年)は、「個体発生は系統発生を繰り返す」という命題で知られた、私の好きな生物学者・自然哲学者で、今まで多くの記事で述べてきたが、ここは取り敢えず私見を殆んど交えていない、「進化論講話 丘淺次郎 第十五章 ダーウィン以後の進化論(3) 三 ハックスレーとヘッケル」をリンクさせておく。なお、彼の名は、後の「青森挽歌」の中に「ヘツケル博士!」/「わたくしがそのありがたい證明の」/「任にあたつてもよろしうございます」という挿入句の中に登場する。

「苦扁桃(くへんたう)」アーモンド(Almond:バラ目バラ科モモ亜科サクラ属ヘントウ Amygdalus dulcis であるが、ここは感覚的な美的比喩であろう。或いは、その種子から油を搾った滓(かす)を発酵させたものを蒸留して得る無色の液体(主成分はベンズアルデヒド)で香料に用られる苦扁桃油(くへんとうゆ)の杏の種のような匂い(朝の地面や植物からの揮発したものの混淆した微かな甘酸っぱい匂い)かも知れない。

「その無窮遠(むきうゑん)の」/「つめたい板の間(ま)」蒼穹の果てのイメージである。

「リチウムの紅い熖をあげる」リチウム(lithium)の炎色反応は深紅色。winnie1046氏のYou Tube の動画を見られたい。

「褐藻類」不等毛植物門褐藻綱 Phaeophyceae。ごく一部を除いて海産の多細胞藻類で、コンブ目 Laminariales(英語:Sea kelp)等、極めて大型になるものが含まれる。ここで賢治が「にかはられた」と言っているのは、日の出から推移した景観色をかく言ったものであろうが、それはその実景に太古の海のイメージをも幻視しているようにも感じられる。

「(どうなさいました 牧師さん)」と声を掛けてくる人物がいて、「あんまりせいが高すぎるよ」と不満の心内語が発せられる。声を掛けてきたのが、後の胡散臭い風体の「保安掛り」と読め、さすれば、ここは主人公(詩人宮澤賢治)を、その田舎にしては妙な風采から「牧師」と誤認したのであろう(あのお馴染みの賢治の帽子とコートの姿に逢えば、私も牧師と誤認する気がする)。後半で「でおれといふ」/「この明らかな牧師の意識から」とある。

「苦味丁幾(くみちんき)」「苦味チンキ」(「チンキ」は「tincture」チンキ剤で、生薬をアルコールで浸出させたり、溶かした水液薬剤)は異の芳香をもつ苦い黄褐色の液剤で、センブリを原料とする苦味薬を橙皮(トウヒ)・サンショウなどの芳香剤と混じてアルコールで浸出したもの。健胃薬とする。

「硼酸(ほうさん)」(底本の「硼」は「月」が「萠」のように斜体であるが、表示出来ないので以上で示した)。ホウ酸(Boric acid)或いはオルトホウ酸は、H3BO3またはB(OH)3で表わされるホウ素のオキソ酸で、温泉などに多く含まれ、殺菌剤・殺虫剤・医薬品(うがい薬・軟膏の基剤・眼科の結膜の洗浄や消毒及び目薬の保存料等)に用いられる。四角な背嚢を背負い、その中にこれらのものが入っているというのは、所謂、行商の薬売りのポーズであるが、無論、他の人物同様、幻影の産物である。

「黃いろな時間」「露」とあるから、黄昏時を指すのか? 夕暮れとなって夜露が下りれば蘇生するというのか?

「沙漠でくされた駝鳥(だてう)の卵」の比喩が「硫化水素」の臭いのするような「ひどい風」を形容するか。

「無水亞硫酸」二酸化硫黄の俗称。所謂、亜硫酸ガス。同前。

「硫黃華(くわ)」「いわうくわ(いおうか)」は人工的には硫黄の蒸気を急冷して固化させて得られる黄色の粉末。天然には硫黄泉の噴出口に見られる。「昇華硫黄」とも呼ぶ。

「氣流に二つあつて硫黃華ができる」このくどいリフレインの表現としての意味(「氣流に二つあ」るという解説)は私にはよく判らない。しかし、強力な硫黄臭を読者にも嗅がせ、しかも主人公も、その毒気に詩人の意識が薄れてゆくことを表わしているのであろうとは思われる。

「テナルデイ軍曹」ヴィクトル・ユーゴー(Victor Marie Hugo 一八〇二年~一八八五年)が一八六二年に執筆したロマン主義の名作「レ・ミゼラブル」(Les Misérables)に登場する悪党テナルディエ(Thénardier)のこと。非常に詳しいウィキの「レ・ミゼラブル」の、「登場人物」の彼の条を参照されたい。

「みちからのたたふべきかな」「御力の讃ふべきかな」。「ウーイ」に挟まれた、冒頭の「神は」褒「められよ」という命令形と、この紋切型の讃嘆表現は、前の「液体のやうな空氣」を吸い込み過ぎて酔っぱらった(酸素は劇薬であり、酸素濃度が高まると、酸素酔いを起こすことは周知の通り)雰囲気を醸し出している。

「そらの澄(ちやう)明 すべてのごみはみな洗はれて」/「ひかりはすこしもとまらない」/「だからあんなにまつくらだ」空気中の塵が無くなり、乱反射を起こす対象物が存在しなくなれば、光りは人間の眼には見えなくなるという理屈よりも、またしても真空溶媒が起動して、新たな時空間の反転現象が起きているのであろう。「太陽がくらくら」してくるほどに。日没と日入りを繰り返しては時間が逆転し、同時に太古の時間の「數しれぬほしのまたたきを見」るというのか?

「マヂエラン星雲」マゼラン星雲(Magellanic Clouds:マゼラン雲)は、地球のある銀河系のすぐ隣にある銀河で、大マゼラン星雲と小マゼラン星雲の二つの不規則型銀河からなる(天球上では互いは約二十三度離れている)。視直径はそれぞれ十・八度、四・七度と、非常に大きく、肉眼では、名の通り淡い小さな雲のように見え、南十字星とともに南半球の空を代表する天体で、明るさでは全天随一とされるが、日本からは見えない。十五世紀頃から、南方へ行く船乗りの間で、その存在が知られていたが、初めて世界一周の航海をしたフェルディナンド・マゼラン(一四八〇年~一五二一年:航海途中、フィリピンで戦死したが、彼が率いたスペインの艦隊は翌年に帰国を果たし、史上初の世界一周が成し遂げられた)に因んで名づけられた。距離が約一六万光年と、我が銀河系に最も近い銀河であることから、その明るい星々は一つ一つに分解して観測できるため、天文学上、きわめて重要な天体とされる。近年ではマゼラン星雲を取り囲む水素ガスの雲が発見され、これらが天球上をほぼ一周するように分布していることから、大・小マゼラン星雲は、互いに重力的に引き合う二重銀河となって、我々の銀河系の周囲を約十億年かけて回っているとの説が有力である(以上は主に小学館「日本大百科全書」に拠る)。

「草はみな葉綠素を恢復し」/「葡萄糖を含む月光液(げつくわうえき)は」/「もうよろこびの脈さへうつ」時空間が逆回転していると仮定すれば、これらの反転再生(文字通りの「再生」、「蘇生」である)は私には悉く腑に落ちるのである。それ故に、「泥炭」になってしまったはずの「保安掛り」が、「泥炭」のままに「なにかぶつぶつ言つてゐる」のも少しも不自然ではないのである。

「サラアブレツド」thoroughbred。サラブレッド。 Thorough (完璧な・徹底的な)+ bred(品種)で、「人為的に完全管理された血統」「純血種」の意。家畜の馬の一品種で、英国原産種にアラビア馬その他を交配して数世紀に亙って主として競走用に改良・育成された。

「零下二千度」摂氏(
degree Celsius:セルシウス度。人名の中国語漢訳「摂爾修斯」に基づく略号)マイナス二百七十三・一五度(華氏(degree Fahrenheit:ファーレンハイト度:人名の中国語漢訳「華倫海特」に基づく略号)四百五十九・六七度)が絶対零度(Absolute zero)の下限であることは、無論、賢治は知っていたから、この数値は確信犯の幻想。「眞空溶媒」は恐るべき低温世界であり、総てのエネルギをブラック・ホールのように瞬時に吸引して「それでもどうせ質量不變の定律だから」日常的観察では質量は不変であるが、アインシュタインの特殊相対性理論では質量も変化することは賢治も知っていたろうが、ここは流石に、読者を煙にまくことはしなかったということか。

「奇術(ツリツク)」原稿では最初、「トウリツク」と振って、「ツリツク」に直している。無論の「trick」のこと。

「北極犬」所謂、ハスキー犬(HuskySiberian husky)を、極地方に住む北アメリカのインディアンやイヌイットの人々は「北極犬」と呼ぶようである。

「犬神」これは単なる犬を支配する神の意。本邦の土俗の「犬神」とは無縁(そちらについて暗い方は最近の私の仕儀、古今百物語評判卷之一 第七 大神、四國にある事を読まれたい)。]

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