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2018/11/26

和漢三才圖會第四十三 林禽類 慈烏(からす) (ハシボソガラス)


Karasu

からす  慈鴉 寒鴉

     孝鳥

慈烏

     【和名加良須】

ツウ ウヽ

 

本綱慈烏狀似烏鴉而小多羣飛作鴉鴉聲初生母哺六

十日長則反哺六十日可謂慈孝矣背飛向啼也凡烏類

有四種慈烏【小而純黑小觜反哺者】鴉烏【似慈烏而大觜腹下白不反哺】燕烏【似鴉烏而

大白項者】山烏【似鴉烏而小赤觜穴居者】北人喜鴉惡鵲南人喜鵲惡鴉

五雜組曰鴉鳴俗云主有凶事故女子小人聞其聲必唾

之然舊説烏性極壽三鹿死後能倒一松三松死後能倒

一烏而世反惡之何也

三才圖會云鴉見異則噪故人聞烏噪則唾性樂空曠傳

涎而孕候烏飛翅知天將雨蓋烏陽物也感陰氣而重故

俗以此占雨

△按烏者有孝慈而長壽之鳥也山林及村市多有之將

 曙之時群飛噪鳴集市中郊野貪雜穀或雛卵及腥膻

 屍肉恣食之故人強惡之至黃昏宿于叢林雖夜中月

 既出則鳴其聲如曰鵶鵶純黑而雌雄難辨自古相傳

 云烏者熊野之神使也凡病人將死之前群鳴以爲凶

 兆大忌之其肉【味酸鹹臭】人不食故烏不恐人不屑鷹鷂而

 恣啄園圃果蓏穀實竊人家所晒魚肉餅餻等噉郊野

 屍肉最貪惡之甚者也

  祝由哥烏なく万の神の誓ひかや阿字ほんふしやう加しは不可得

 續日本紀聖武帝天平十一年出雲國獻赤烏又越

 中獻白烏白烏者聞有出赤烏者尚希有之物也

日本紀云敏速帝元年高麗上表疏書于烏羽字隨羽黑

[やぶちゃん注:以上の行、何故か、行頭から始まっている。]

 既無識者辰爾乃蒸羽於飯氣以帛印羽悉寫其字

 竟宴世の中に君なかりせは烏羽にかける言の葉猶消えなまし

王辰爾 應神天皇命荒田別使於百濟搜聘有識者國

 王奉旨擇宗族遣其孫辰孫王隨使入朝天皇喜焉特

 加寵以爲皇太子之師於是始傳書籍儒風文教興焉

 其子太阿郞王【其子】亥陽君【其子】午定若生三男【長子味沙中子辰爾

 季子麻呂】從此別爲三姓各因所職命氏辰爾爲船長

 

 

からす  慈鴉〔(じあ)〕 寒鴉

     孝鳥

慈烏

     【和名、「加良須」。】

ツウ ウヽ

 

「本綱」、『慈烏は、狀、烏鴉〔(はしぶと)〕に似て小さく、多く羣飛して「鴉鴉〔(ああ)〕」の聲を作〔(な)〕す。初生、母は哺すること、六十日、長ずるときは、則ち、反哺〔(はんぽ)〕すること、六十日。「慈孝〔(じこう)〕なり」と謂ふべし。背〔(あふむ)〕き〔て〕飛び、〔また〕向〔(むか)〕ひ〔て〕啼くなり。凡そ、烏の類に四種有り。「慈烏〔(からす)〕」【小にして純黑。小さき觜。反哺する者。】・「鴉烏〔(はしぶと)〕」【慈烏に似て、大きく、觜・腹下、白く。反哺せず。】・「燕烏(ひぜんがらす)」【鴉烏に似て、大きく、白き項〔(うなじ)〕の者。】・「山烏〔(やまがらす)〕」【鴉烏に似て、小さく、赤き觜。穴居する者。】〔なり〕。北人は鴉を喜びて、鵲〔(かささぎ)〕を惡〔(にく)〕む。南人は、鵲を喜びて、鴉を惡む』〔と〕。

「五雜組」に曰はく、『鴉鳴〔(あめい)〕、俗に凶事有ることを主〔(つかさど)〕ると云ふ。故に女子・小人、其の聲を聞けば、必ず、之れに唾〔(つばき)〕す。然〔れども〕、舊説に烏の性〔は〕極めて壽〔(なが)〕し、三鹿〔(さんろく)[やぶちゃん注:継代三代のシカ。]〕死して後〔(のち)〕、能く、一松〔(いつしやう)[やぶちゃん注:一本のマツ。]〕倒ふれ、三松、死(か)れて後、能く、一烏〔(いちう)〕の倒ふる〔と〕。而るを、世に反つて之れを惡むは何ぞや』〔と〕。

「三才圖會」に云はく、『鴉、異を見れば、則ち、噪〔(さは)〕ぐ。故に、人、烏の噪ぐを聞くときは、則ち唾(つばきは)く。性〔(しやう)〕、樂〔にして〕空曠〔(くうくわう)たり〕。涎〔(よだれ)〕を傳〔(つた)〕へて孕〔(はら)〕む。烏の飛-翅〔(と)ぶ〕を候〔(うかが)ひ〕て、天、將に雨〔(あめふ)〕らんとするを知る。蓋し、烏は陽物なり。陰氣を感じて重〔(おも)〕し。故に、俗、此れを以つて雨を占ふ』〔と〕。

△按ずるに、烏は孝慈有りて、長壽の鳥なり。山林及び村・市〔(いち)〕に多く之れ有り。將に曙〔(あけぼの)たらん〕とするの時、群飛して噪ぎ鳴き、市中・郊野に集まり、雜穀を貪り、或いは、雛・卵及び腥-羶〔(なまぐさもの)〕・屍肉〔(しにく)〕、恣〔(ほしいまま)〕に之れを食ふ。故に、人、強く之れを惡む。黃昏に至りて叢林に宿〔るも〕、夜中と雖も、月、既に出〔ずれば〕、則ち、鳴く。其の聲、「鵶鵶〔(ああ)〕」曰ふがごとし。純黑にして、雌雄、辨〔(わか)ち〕難し。古へより相ひ傳へて云はく、「烏は熊野の神使なり」〔と〕。凡そ、病人、將に死せんとするの前、群れ鳴〔くを〕以つて、凶兆と爲す。大いに之れを忌む。其の肉【味、酸、鹹。臭〔(くさ)し〕。】、人、食はず。故に、烏、人を恐れず。鷹-鷂〔(たか)〕を屑(ものゝかづ[やぶちゃん注:ママ。]とも)せず、恣〔(ほしいまま)〕に園圃の果蓏穀實〔(からこくじつ)〕を啄ばみ、人家〔の〕晒〔(さら)〕す所の魚肉・餅-餻〔(もち)〕等を竊〔(ぬす)〕み、郊野の屍肉を噉〔(くら)〕ふ。最も貪惡の甚しき者なり。

  祝由哥〔(しゆくゆうか)〕

 烏なく万〔(よろづ)〕の神の誓ひかや阿字〔(あじ)〕ほんぷしやう加〔(か)〕じは不可得〔(ふかとく)〕

 「續日本紀」、『聖武帝天平十一年、出雲國より赤き烏を獻ず。又、越中より白き烏を獻ず』と。白き烏は聞〔(ぶん)〕に出づること有〔れども〕、赤き烏は、尚、大いに希有〔(けう)〕の物なり。

「日本紀」に云はく、『敏達帝元年、高麗より上りつる表-疏(ふみ)、烏の羽に書〔(しよ)〕す。字、羽の黑き隨(ま〔にま〕に)〔しるせば〕、既に識る者、無し。辰爾〔(ときしか)〕、乃〔(すなは)ち〕、羽を飯の氣〔(かざ)〕に蒸〔(む)〕し、帛を以つて羽を印(を)して、悉く其の字を寫す』〔と〕。

 竟宴〔(きやうえん)〕〔歌〕

 世の中に君なかりせば烏羽〔(からすば)〕にかける言の葉猶〔なほ〕消えなまし

王辰爾(わうのときしか) 應神天皇、荒田〔(あらた)〕の別〔(わけ)〕に命じて、百濟に使はして、有識の者を搜聘〔(さうへい)〕せよと。國王、旨〔(むね)〕を奉〔(たま)〕はり、宗族〔(しうぞく)〕を擇〔(えら)び〕、其の孫、辰孫王をして使ひに隨ひて入朝せしむ。天皇、焉〔(これ)〕を喜び、特に寵を加へ、以つて皇太子の師と爲す。是れに於いて、始めて、書籍、傳はり、儒風〔の〕文教、興れり。其の子、太阿郞王、【其の子〔の〕】亥陽君、【其の子〔の〕】午定若、三〔(み)〕たりの男を生む【長子、味沙。中子、辰爾。季子、麻呂。】。此れより別れて、三姓と爲〔(な)〕る。各々、職〔(つかさど)る〕所に因りて氏を命じ、辰爾〔は〕「船〔(ふな)〕」〔の〕長(をさ)[やぶちゃん注:「船」という姓。]と爲る。

[やぶちゃん注:カラスの代表して、スズメ目カラス科カラス属ハシボソガラス Corvus corone。を最初に挙げている(本項の後に、この本文にも出ている別種(とするもの)として、個別独立項で、「大觜烏(はしぶと)」(カラス属ハシブトガラス Corvus macrorhynchos)・「燕烏(ひぜんがらす)」(これは現在、カラス科カササギ属カササギ Pica pica の別名ともされるが、不審なことに、後に独立項で「鵲」が出る。調べて見たところ、どうもこの「燕烏」はカササギではなく、見た目がちょっと似て、日本の西部、特に九州のカササギ分布区域内にも飛来するカラス属コクマルガラス Corvus dauuricus を指していることが判明した。それぞれでそちらで考証することとする)・「山烏」(和名としてはカラス属ミヤマガラス Corvus frugilegus であるが、実際にはハシブトガラスをもかく呼称する)が続いている)。ウィキの「ハシボソガラス」によれば(下線やぶちゃん)、『英名の Carrion Crow は「死肉を食うカラス」を意味するが、実際は後述の』通り、『植物質を好む』。『ユーラシア大陸(東部、西部)』に分布し、『日本では、ほぼ全域の平地から低山に分布する留鳥』である。全長は五十センチメートル『ほどで、全身が光沢のある黒色をしており、雌雄同色。外から見える羽は黒いが、皮膚に近いところの短い羽毛はダウン』・『ジャケットのように白く柔らかな羽毛で、寒さに非常に強く冬も平気で水浴びをする』。『地肌の色は黒っぽい灰色。脚とクチバシも黒色である。突然変異で白い個体が出現することもあり、これはアルビノまたは白変種と考えられる』。『ハシブトガラスに似るが』、『やや小さく、嘴が細く上嘴があまり曲がっていないところと、額(嘴の上)が出っ張っていないところで判別できる』。『ハシボソガラスと最も近縁な種はクビワガラス』(カラス属クビワガラス Corvus torquatus。但し、中国に分布する外来種)『であり、ハシブトガラスはやや離れている』。『河川敷や農耕地など開けた環境に生息する。極度に都市化が進んだ地域や高山帯ではあまり見られない。ペアは年間を通して縄張りを持つが、非繁殖期には夜間決まった林に集団でねぐらをとる』。『鳴き声は「ガーガー」と濁って聞こえるが、ハシブトガラスのそれに似る場合もある』。『営巣は開けた場所に位置する樹木に木の枝を組み合わせたお椀状の巣を作り、巣材に針金やハンガーなどを利用することもある』。『知能は高く、仙台市などで信号停車中の車のタイヤの前にクルミを置いて割るのも本種である』。『食性は雑食で、昆虫類、鳥類の卵や雛、小動物、動物の死骸、果実、種子などを食べる。ハシブトガラスよりも比較的植物質を好む傾向にある。ハシブトガラスと違って地面をウォーキング(交互に脚を出して歩く)する時間が長いため、地面採食(土食い)もする』。『産卵期は』四『月頃で』、一回に三~五『個の卵を産む。主にメスが抱卵し、その間オスはメスに餌を運ぶ。抱卵日数は約』二十『日。雛に対する給餌は雌雄共同で行い、雛は孵化後約』一『か月で巣立つ。子育てに失敗した場合は再度』、『抱卵して子育てを行うこともあるが、前述のとおり時間を要するため、北では』一『回が限度と見られる』。『ハシブトガラスが森林に生息していたのに対し、本種は人里近くに生息し』、『住み分けてきた。かつて日本で「カラス」といえば本種を指したが、都市部へハシブトガラスが進出したため、「日本のカラス」の座をハシブトガラスに譲ることになった。実際、都市化にともなってハシブトガラスが個体数を増やしているのに対し、本種は個体数を漸減している』。『学名の種小名 corone は一般には鳴き声に由来していると考えられているが、白いカラスを従えていたギリシャ神話の太陽神アポローンの愛人、コローニスに由来しているという説もある』。『狩猟鳥ではあるが、今日肉を食用に供することはまずなく、もっぱら煩瑣な手続きを経ることなく』、『農業害鳥として駆除できるのに役立つ程度である。ただし世界的には中国や西洋において、古来より薬用として食べてきた歴史があり、いわゆるゲテモノとしてではなく』、『一般的な食材に供した例も洋の東西を問わず』、『世界的には多々ある』。『日本においては北海道の一部、秋田県、長野県、岐阜県などでかつて食用に供されてきた。なかでも有名なのが、長野県上田市の』「カラス田楽」『という郷土料理である。岐阜県においても、大正中期ごろまで地元の肉屋でカラス肉が売られていたという』とある。

 

「哺する」食べ物を口に含ませること。そこから「育(はぐく)む・慈しみ育てる」の意とあった。

「反哺〔(はんぽ)〕」ここにある通り、烏は成長の後、育てて呉れた親鳥の口に餌(えさ)を含ませて、養育の恩に報いるという。これは「事文類聚」(宋の祝穆(しゅくぼく)の撰になる類書(百科事典)。全百七十巻。一二四六年成立。先行する類書「芸文類聚」(唐の高祖(李淵)の勅命によって欧陽詢らが撰。六二四年成立。全百巻)に倣って、古典の事物・詩文などを分類したもの)などに載り、そこから「反哺の孝」(「烏さえ親の恩に報いるのだから、ましてや人は孝行せねばならない」という故事成句が生まれた。残念ながら、実際にはそんなことはしない。鳥は巣立ちすれば、親鳥とは縁がなくなり、実の親や兄弟とも喧嘩や餌の奪い合いをする。

「北人は鴉を喜びて、鵲〔(かささぎ)〕を惡〔(にく)〕む。南人は、鵲を喜びて、鴉を惡む」その理由はよく判らない。カラスの方は、或いは、黄河や長江以北を中心として形成された中国神話に於いて、カラスが太陽の使いとされていたことと関係するか。カササギは七夕伝説に於いて、織姫と彦星の間を繫ぐ掛け橋の役を担う鳥として親しまれている点が南では強調されて、福を招くと考えたか。死肉を啄むとされたところで、腐敗の早い、南の方の人がそれを現認することが多かったであろうから、憎むという理由は判る。また、北のカササギのそれは、五行説によるものであろう。五行説では色は、「木」に「青」、「火」に「紅(赤)」、「土」に「黄」、「金」に「白」、「水」に「玄(黒)」を配するのはよく知られるが、五志(感情・性格相当)は、「木」に「怒」、「火」に「喜」、「土」に「思」、「金」に「悲(憂)」、「水」に「恐(驚)」を配することから、中国でも古来から白と黒の組み合わせは縁起が悪いとされる(中国の喪服は白)ので、カササギの毛色の白黒という組み合わせは死を意味するからであろう。但し、何故、それが南で適応されなかったのかは、これまた謎である。何方か、解明の御教授を戴けると嬉しい。

「五雜組」「五雜俎」とも表記する。明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で遼東の女真が、後日、明の災いになるであろうという見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになるという数奇な経緯を持つ。

「唾〔(つばき)〕す」人体から取り出された「もの」や排泄された「もの」は、人間の「生」由来するものであり、それは血腥さかったり、独特の臭気を持つことから、人間(的)でない存在である神や鬼や獣や病いや妖怪変化が忌避する対象となる。それを呪術として用いた例は、洋の東西を問わず、枚挙に暇がない。「黄金伝説」(Legenda aureaLegenda sanctorum:レゲンダ・アウレア。ヤコブス・デ・ウォラギネ(Jacobus de Voragine 一二三〇年頃~一二九八年)によるキリスト教の聖人伝集。一二六七年頃に完成)の「聖ペテロ鎖の記念」では、指で十字の印を作って龍につきつけ、さらに唾を龍の顎に吐きかけてこれを倒したとか、「ギリシア神話」では教えた占術を「私の口中に唾をはけ」と命ずる事で忘れさせたり、「新約聖書」の「マルコによる福音書」第八章では、イエスが盲人の両目に唾をつけ、両手をその上に当てて開眼させた、と個人ブログ「歯顔大笑」の「唾の呪 にある。「巫研 Docs Wikiのこちらにある、柳田や折口と同時代の民俗学者中山太郎(明治九(一八七六)年~昭和二二(一九四七)年:本名は中山太郎治)の昭和五(一九三〇)刊の「日本巫女史」の「第一篇 固有呪法時代 第四章 巫女の呪術に用いし材料 第三節 呪術に用いし排泄物」から「二 唾液」を引く(注記号は略した)。

   *

 私は先年、客気に駆られて、紀伊国熊野神社の祭神である速玉男神(ハヤダマヲノカミ)及び事解男神(コトサカヲノカミ)の両神は、共に唾液の神格化されたものが、後に人格神となったのであると云う考証を発表したことがある。勿論、当時の私の研究には多くの欠陥があったので、吾れながらもその粗笨[やぶちゃん注:「そほん」。大まかでぞんざいなこと。細かいところまで行き届いていないこと。粗雑なこと。]であったことを認めざるを得ぬのであるが、然しその結論である熊野神は唾液の神格化なりと云う点だけは、今に固く主張することが出来ると考えている。私が改めて言うまでもなく、熊野社の祭神である速玉・事解の二神は、諾尊の唾液から成りました事は神典に明記されているところである。これを「日本書紀」に徴するに、その一書に、

 伊弉諾尊追伊弉冊尊所在処(中略)。及所唾之時、化出神号曰速玉之男、次掃之時、化出神号曰泉津事解之男、凡二神矣云々。

と載せてある。而して斯くの如く唾液が神格化されるようになったのは、古く唾液には呪力が在るものと信じられた為である。諾尊が冊尊を追うて黄泉国に到り、絶妻(コトドワタ)してその穢れに触れたので、此の汚き国を去るに臨んで唾液を吐かれたのは、此の呪力によって、悪気または邪気を払われたのである。

 唾液の有した呪力に就いては、これを民俗学的に見るときは、古今を通じて、その例証の多きに苦しむほどであるが、それを一々載せることは差控えるとして、更に、事解神に就いて私見を述べんに、これは大和葛城の一言主神が、善言(ヨゴト)も一言(ヒトコト)、悪言(マガコト)も一言(ヒトコト)、言離(コトサカ)の神、我れは葛城の一言主神なりと宣(ノ)られた。その言離と同じ意味であって、現代語で云えば、唾液を吐いたのは、契りを絶った証拠であって、これ以後は言語も交わさぬぞと云うことなのである。一言主神の言離も、善悪ともに一言に云うぞ、再び問い返しても一度言離りした上は答えぬぞ、と云う意味である。

 而して此の神話から派生した唾液の呪力は、古代人の固く信仰していたものと見えて一二の記録に残されている。「日本書紀」神代巻に、天孫彦火々出見尊が兄火酢芹命と山幸海幸を交換し、兄の鈎を失いて海神の宮に至り、海神が此の鈎を得て尊に授けるときに教えるに『兄の鈎を還さん時に、天孫則ち言ひますべし、汝が生子の八十連属(ツヅキ)の裔(ノチ)、貧鈎(マチヂ)、狭々貧鈎(ササマチヂ)と言い訖りて、三たび下唾(ツバ)きて与へたまへ』と載せ、更に「古語拾遺」にも、御歳神の子が、大地主神の作れる田に至り『唾饗而還』と記したのは、二つともに唾液の呪力を示したものである。

 而して以上の記事は、一般の呪術に関するものであって、特に巫女に限られたものではないのであるが、今はさる選択をせずに記述したまでである。

   *

「烏の性〔は〕極めて壽〔(なが)〕し」カラスの寿命は実際に他の鳥類に比べると長い。サイト「生活110番」(害獣駆除を含むサイト)の「カラスの寿命は意外と長い! カラスにも長生きの秘訣はあるのか?」によれば、野生環境下に於けるカラスの平均寿命は十年から十五年、寿命の長い種や個体では三十年と言われており、例えばスズメ(スズメ目スズメ科スズメ属スズメ Passer montanus)の寿命が約六年、カラスの天敵である本邦の鷹類の代表種オオタカ(タカ目タカ科ハイタカ属オオタカ Accipiter gentilis)が約十一年とされるので、『カラスはかなり長生きであると言える』とある(但し、『鳥類には長生きする種が多く』、フクロウ(フクロウ目フクロウ科フクロウ属フクロウ Strix uralensis)やオウム(オウム目オウム科 Cacatuidae)は六十『年以上生きることが知られてい』るとも言い添えてある)。その理由は人間社会に入り込んだことで『エサの調達が容易』になったこと、同様の理由から『天敵が少な』くなったこと、『カラスは非常に賢く危険をすばやく仲間に伝えることができるため、一斉に命を落とすことはほとんど』なく、『また』、『記憶能力も非常に優れており、危ない目にあったところには二度と近寄らないと言われてい』て、『隠したエサの場所を正確に把握することができるので、餓死する確率も低い』ことも挙げられ、他にも、『体の丈夫さも関係して』おり、『病気にかかりづらく多少の怪我ならば治療する必要がない、というほど丈夫と言われ』ている、とある。因みに、『街でカラスをよく見かける割には死骸を見かけることはほとんど』ないことから、まさにここで言われるような感じで、今も『「カラスは』百『年以上生きる」といった都市伝説も噂されてい』たりする(これはまさに一九七〇年代の関東地区限定で発生したアーバン・レジェンドの「マクドナルド猫肉説」(最近猫の轢死体を見ないマクドナルドのハンバーガーは母さんの作るのとまるで味が違う実はあれは猫の肉を使っている)とコンセプトが同一である)。『実はカラスの死骸をほとんど見かけない理由は、カラスは寿命が近づくと』、『自分の巣で余生を過ごすためだ』というのが真相で、『不慮の事故でもない限り』、彼らの『街で死骸を見ることは』、事実、『ほとんど』ないのだと記す。『また』、『死んでしまったカラスの死骸は』、速やかに『他の動物のエサになっていることが多く、そのような点もカラスが死骸として見つかる事が少ない理由』と思われるある(但し、『畑や空き地が多くある地域ではカラスの死骸をよく見かけるよう』であると言い添える)。最後に、『世界には』六十『年生きたカラスがいたという記録があり』、それは『コクマルガラス』(カラス属コクマルガラス Corvus dauuricus。或いは分離して Coloeus 亜属ともする)『という比較的小さなカラスで、日本では越冬のために九州に飛んでくることが多い』種で、『もしかしたら私たちの知らないところでは、もっと長生きしているカラスがいるのかもしれ』ないと結んでいる。

「一松〔(いつしやう)倒ふれ、三松、死(か)れて」裸子植物門マツ綱マツ目マツ科マツ属 Pinus に属するマツ類の平均寿命は二千五百年で、最長で五千年とされる。平均寿命で計算しても、「三松」は七千五百年だから、現在のアーバン・レジェンドなんか目じゃなくなるブットびの数値だ! これをもとに――「カラスは数千年から一万年生きる」――という都市伝説を流行らせたら、どうよ!?!

「異を見れば」異変を察知すると。

「性、樂〔にして〕空曠〔(くうくわう)たり〕」性質は至って気楽なもので、のびのびとして、気持ちが広く、「あっけらかん」(東洋文庫版の「空曠」へのルビ)としている。

「涎〔(よだれ)〕を傳〔(つた)〕へて孕〔(はら)〕む」雄が雌に涎を垂らすだけで子が出来る。うへえ! ヤバい!

「飛-翅〔(と)ぶ〕を」「三才図会」の原本頁を見たが(国立国会図書館デジタルコレクション)、「翅」で間違いない。「翅翅」で飛ぶことの意があるから、かく二字で訓じておいた。

を候〔(うかが)ひ〕て、天、將に雨〔(あめふ)〕らんとするを知る。蓋し、烏は陽物なり。「陰氣を感じて重〔(おも)〕し」「重し」とは陰気に対して甚だ敏感である、の意。

故に、俗、此れを以つて雨を占ふ』〔と〕。

「市〔(いち)〕市街地。良安の時代にカラスが既に都市棲息型へと移行していたことが判る。

「腥-羶〔(なまぐさもの)〕」生臭いもの。魚や獣の肉。

「雌雄、辨〔(わか)ち〕難し」くろ氏のサイトCrowes!!」の「カラスのオス・メスはどうやって見分けるの?」によれば、『カラスはもちろん雌雄同色。カモやヒタキのように色で見分けるのは不可能です。若鳥は光沢が少ない、などと言われますが、それでもどこまで区別できるか。大きさもほとんど差はないですから、一般的にカラスの雌雄は見ただけでは分かりません』。『雌雄でまったく差がないかといえばそうでもなくて、体のサイズを測定をしていると平均してオスの方が全体に大きく、メスの方が小さい傾向があることが今までのいろんな人の研究で分かっています。しかし、これはあくまで平均値であり、これで雌雄の識別ができる』わけではないとされる。『もう一つ、行動で見ると、繁殖期には差が出てきます。抱卵個体の観察です。抱卵というのは字の通り卵を暖めることですが、カラスの場合卵はほとんどメスが暖めます。また、ヒナに直接餌をやるのもメスが多いようです。オスはどうしているかというと、外に出て餌を採ってきて、巣の近くに隠したり、メスに渡すわけです。また、巣の周りを見張る役目もしています』。『また、抱卵中の時期のメスは、卵を皮膚に触れさせて効率よく暖めるために』、『おなかの羽根が抜け落ち、かなり白っぽく見えます(場合によっては地肌が見える)。これを「抱卵斑」といいますが、これで見分けがつく場合もあります。抱卵斑が出ればメスとして良いでしょうが、出ないメスもいるので、出ない方は雌雄不明、ということになります』とあるから、やっぱり、良安先生の言う通り、弁別は難しい。

「烏は熊野の神使なり」日本神話に於いて、神武東征の際に高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)によって神武天皇のもとに遣わされ、熊野国から大和国橿原への道案内をしたとされる八咫烏(やたがらす)で、「導きの神」として信仰され、また、中国神話の影響か、「太陽の化身」ともされる。一般的に「三本足のカラス」として知られ、古くよりその姿絵が伝わる。ウィキの「八咫烏」から引く。『熊野三山においてカラスはミサキ神(死霊が鎮められたもの。神使)とされており、八咫烏は熊野大神(素戔嗚尊)に仕える存在として信仰されており』、『熊野のシンボルともされる』。『近世以前によく起請文として使われていた熊野の牛玉宝印(ごおうほういん)にはカラスが描かれている』。『咫(あた)は長さの単位で、親指と中指を広げた長さ(約』十八『センチメートル)のことであり、八咫は』百四十四センチメートル『となるが』、『ここでいう八咫は単に「大きい」という意味である』。八咫烏は「日本書紀」や「古事記」に登場するが、「日本書紀」では、『同じ神武東征の場面で、金鵄(金色のトビ)が長髄彦との戦いで神武天皇を助けたともされるため』、『八咫烏と金鵄がしばしば同一視ないし混同され』ている。『八咫烏が三本足であることが何を意味するかについては、諸説ある。熊野本宮大社では、八咫烏の三本の足はそれぞれ天(天神地祇)・地(自然環境)・人を表し、神と自然と人が、同じ太陽から生まれた兄弟であることを示すとしている』。『また、かつて熊野地方に勢力をもった熊野三党(榎本氏、宇井氏、藤白鈴木氏)の威を表すともいわれる』。しかし、記紀には、『八咫烏が三本足であるとは記述されておらず、八咫烏を三本足とする最古の文献は、平安時代中期(』九三〇『年頃)の「倭名類聚抄」であり、この頃に八咫烏が中国や朝鮮の伝承の鳥「三足烏(さんそくう)」と同一視され、三本足になったとされる』。元は『賀茂氏が持っていた「神の使いとしての鳥」の信仰と』、『中国の「太陽の霊鳥」が習合したものともされ』、『古来より太陽を表す数が三とされてきたことに由来するとする見方は、宇佐神宮など太陽神に仕える日女(姫)神を祭る神社(ヒメコソ神社)の神紋が、三つ巴であることと同じ意味を持っているとする説である』。『中国では古代より道教と関連して奇数は陽を表すと考えられており、中国神話では太陽に棲むといわれる』。『陰陽五行説に基づき、二は陰で、三が陽であり、二本足より三本足の方が太陽を象徴するのに適しているとも、また、朝日、昼の光、夕日を表す足であるともいわれる』とある。私は熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)を総て参詣し、三種の熊野牛王符(くまのごおうふ)総てを戴き、今、この書斎に飾ってある。

「鷹-鷂〔(たか)〕」タカ目 Accipitriformes に属するタカ類総てと採っておく。「鷂」は通常は、タカ類では中・小型のタカ科ハイタカ属 Accipiter のハイタカ類を指す。

「蓏〔(ら)〕」瓜(うり)類。ウリ目ウリ科 Cucurbitaceae に属する広義の瓜類を指す。古書ではマクワウリ・シロウリ・キュウリ・トウガンなどの名が見える。

「餅-餻〔(もち)〕」「餻」は餅を乾燥させて粉にしたもの、或いは、それで作った餅菓子を指すが、二字で、かく訓じておいた。

「祝由哥〔(しゆくゆうか)〕」「祝由」は古代の中国医学で呪文を唱えて病気を治療する術を指した。東洋文庫では「祝由」に『まじない』とルビする。

「烏なく万〔(よろづ)〕の神の誓ひかや阿字〔(あじ)〕ほんふしやう加〔(か)〕じは不可得〔(ふかとく)〕」本歌の出典は不詳。識者の御教授を乞う。「阿字〔(あじ)〕」は梵語(ぼんご)の字母の第一。ウィキの「梵字」の当該文字の画像)密教ではこの字に特殊な意義を認め、宇宙万有を含むと説く。「ほんふしやう」は「本不生」で前の「阿字」と合わせて、「阿字本不生」(あじほんぷしょう)で密教の根本教義の一つを指す。前に述べた通り、「阿」字は宇宙の根源であり、「本来不生不滅」、即ち、「永遠に存在するということ」をこれで意味する。この真理を体得した時、人は大日如来と一体化すると説いている。「加〔(か)〕じ」加持祈禱の「加持」。諸仏が不可思議な力で衆生を守ること。加持祈禱は密教で行者が印(いん)を結んで真言を唱え、仏の助け・保護を祈っては病気や災難を除くことであるが、ここは本来の前者の意味。「不可得」は「認知出来ないこと」。仏教では一切の存在に固定不変の実体を認めないため、その本体を追求しても「不可得」であるとし、この立場を「不可得空」と称する。

「續日本紀……」「聖武帝天平十一年」は七三九年。原文は『天平十一年正月甲午朔 十一年春正月甲午朔。出雲國獻赤烏。越中國獻白烏』。

「日本紀……」「敏達帝元年」は五七二年。「日本書紀」の原文は『敏達天皇元年五月丙辰。天皇執高麗表疏、授於大臣。召聚諸史、令讀解之。是時諸史於三日内、皆不能讀。爰有船史祖王辰爾。能奉讀釋。由是天皇與大臣倶爲讚美曰。勤乎、辰爾。懿哉、辰爾。汝若不愛於學。誰能讀解。宜從今始近侍殿中。既而詔東西諸史曰。汝等所習之業、何故不就。汝等雖衆、不及辰爾。又高麗上表疏、書于烏羽。字隨羽黑、既無識者。辰爾乃蒸羽於飯氣。以帛印羽。悉寫其字。朝庭悉之異』。

「辰爾〔(ときしか)〕」ルビはママ。良安の勘違いか、或いは、こういう和訓で読む書物があったのか、よく判らぬ。飛鳥時代の人物で、後に出る「王辰爾」(おうしんに 生没年不詳)である。名は「智仁」とも記されている。正式な氏姓は「船史(ふなし/ふねし)」。第十六代百済王の辰斯(しんし)王の子である辰孫王の後裔で、塩君又は午定君の子とされている。ウィキの「王辰爾」によれば、『渡来系氏族である船氏の祖。学問に秀で、儒教の普及にも貢献したとされる』。欽明天皇一四(五五三)年に『勅命を受けた蘇我稲目によって派遣され、船の賦(税)の記録を行った。この功績によって、王辰爾は船司に任ぜられるとともに、船史姓を与えられた』。また、ここにある通り、敏達天皇元(五七二)年には、『多くの史が』三『日かけても誰も読むことのできなかった高句麗からの上表文を解読し、敏達天皇と大臣・蘇我馬子から賞賛され、殿内に侍して仕えるように命ぜられた。上表文はカラスの羽に書かれており、羽の黒い色に紛れてそのままでは読めないようにされていたが、羽を炊飯の湯気で湿らせて帛に文字を写し取るという方法で解読を可能にしたという』。「懐風藻」『序文には、「王仁は軽島に於いて(応神天皇の御代に)啓蒙を始め、辰爾は訳田に於いて(敏達天皇の御代に)教えを広め終え、遂に俗を漸次『洙泗の風』(儒教の学風)へ、人を『斉魯の学』(儒教の学問)へ向かわしめた」』『と表現されている』。歴史学者の『鈴木靖民や加藤謙吉によると』、「日本書紀」の『王辰爾の伝承は船氏が西文氏』(これで「かわちのふみうじ」と読む。古代の渡来系氏族で、王仁(わに:古代に百済から渡来した人物。生没年不詳。伝承によると、漢の高祖の子孫といい、「日本書紀」では、応神天皇の時に同じ百済からの渡来人であった阿直岐(あちき:記紀に見える朝鮮使節の一人で、応神天皇の時、百済王より遣わされて馬二頭を献上したという。経典に通じ、皇子の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)の師となった。阿直氏の祖とされ、「古事記」では「阿知吉師(あちきし)」)に推挙されて来朝し、「論語」や「千字文」を本朝に持ち込んだといわれる)の子孫と伝えられる。河内国古市郡に住み、主に文筆を以って大和朝廷に仕えた)『の王仁の伝説をまねて創作されたものだという。田中史夫は、王辰爾が中国系の王氏の姓を持っていることに着目しており』、『鈴木靖民によると、実際は王辰爾の代に新しく渡来した中国南朝系百済人だという』。『子に那沛故』(なはこ)『が、孫に船王後』(ふな(ふね)のおうご)『がおり、子孫はのち連』(むらじ)『姓に改姓し、さらに一部は天長年間(』八三〇『年頃)に御船氏(御船連・御船宿禰)に改姓している』。延暦九(七九〇)年に『菅野』(すがのの)『朝臣姓を賜る事を請願した百済王仁貞・元信・忠信および津真道らの上表によれば、辰爾には兄の味沙と弟の麻呂がおり、それぞれ葛井連・津連の租である』。『また、これに合致する形で新撰姓氏録において』、『辰孫王の後裔に相当する氏族に、右京の菅野朝臣・葛井宿禰・宮原宿禰・津宿禰・中科宿禰・船連のほか、摂津国の船連などがみえる』。「日本書紀」に『よれば、欽明天皇』三〇(五六九)年には『王辰爾の甥の胆津が白猪屯倉』(しらいのみやけ:吉備国に設置された大和朝廷の屯倉(直轄地))『に派遣され、田部の丁籍が定められた。これにより』、『胆津には白猪史の姓が授けられ、田令に任ぜられた』。『さらに』敏達天皇三(五七四)年十月には『船史王辰爾の弟の牛が津史姓を与えられ』ている、とある。

「飯の氣〔(かざ)〕に蒸〔(む)〕し、帛を以つて羽を印(を)して、悉く其の字を寫す」飯を蒸す際の湯気の上にそれを翳(かざ)して、水蒸気を含ませて乾燥した書かれた墨の字を潤ませ、それを白い絹の布にトレースしたのである。頭(あったま)いい!!!

「竟宴〔(きやうえん)〕〔歌〕」(現代仮名遣「きょうえんか」)「竟宴」は、平安時代に宮中で進講や勅撰集の撰進が終わった後に催された酒宴を指す。諸臣に詩歌を詠ませたり、禄を賜ったりした。別に、広く祭りの後に催される宴会である直会(なおらい)をも指す。ここは前者で採っておく。

「世の中に君なかりせば烏羽〔(からすば)〕にかける言の葉猶〔なほ〕消えなまし」かなり調べてみたのであるが、この歌の出所も本歌の出典も前と同様、不詳。識者の御教授を乞う。

「應神天皇」確定的ではないが、四世紀末から五世紀初頭に実在した可能性の高い天皇。第十五代に数えられる。名は「ほんだわけのみこと」または「おおともわけのみこと」。仲哀天皇の第四皇子で、母は神功皇后。先帝が没した際、なお母后の胎中にあったため、「胎中天皇」ともいう。彼及びその時代に関する記紀の伝承は豊富で、池溝開発・内政整備の記事の他、王仁の来朝、「論語」や「千字文」の奉献を始めとして、弓月君・阿知使主らの渡来人や、漢籍・儒学・工芸の輸入などに関するものが多く、この時代に於ける大和国家の勃興と、大陸や半島の先進文化の流入とをよく示している(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

「荒田〔(あらた)〕の別〔(わけ)〕」古代東国の豪族上毛野(かみつけの)氏らの先祖で、神功皇后や応神天皇の時代の人とされる。「日本書紀」によると、神功皇后の時、新羅との紛争解決のために鹿我別(かがわけ)とともに同地に派遣され、現在の慶尚南道の七国や済州島を陥れて、百済王近肖古と王子貴須と会見した。また、前の注で示した通り、応神天皇の時に、百済に使いして、阿直岐の推す王仁を招いて連れ帰った。この王仁招聘のことは、「続日本紀」の延暦九(七九〇)年七月の条の、百済王氏らの上表文中にも述べられている。神功皇后時代の新羅侵攻は、その史実性に疑いが持たれているが、早い時期から対朝鮮外交に活躍した人物が関東の勢力の中に実在したことは認められてよいだろう(「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。

「搜聘〔(さうへい)〕」「聘」は礼を尽くして人を招く意。

「宗族〔(しうぞく)〕を擇〔(えら)び〕」王統の宗家の者を選んで。

「辰孫王」(三五六年~?)は百済の第十四代国王近仇首王(きんきゅうしゅおう ?~三八四年)の孫で辰斯王の息子。ウィキの「辰孫王によれば、『応神天皇時代、祖父近仇首王の命を受けて』、『学者王仁と一緒に』「論語」十巻と「千字文」一巻を『携え、船で全羅南道霊岩郡から日本に渡った』。彼は『百済には帰国せずに日本に定着し』、『菅野氏と葛井寺』(ふじいでら)『の始祖となる。息子太阿郎王は仁徳天皇の近侍となった』とある。

「皇太子」正規に立太子されていたのは菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)である。実際には異母兄弟の大鷦鷯尊(おおさざきのみこと:後の仁徳天皇)と皇位を譲り合ったが、そうこうしているうちに薨去してしまった(「日本書紀」は仁徳天皇に皇位を譲るために自殺したと伝える)。仁徳の即位は崇神の没年から三年後で、その三年間は皇位は空席であった。

「其の子、太阿郞王、【其の子〔の〕】亥陽君、【其の子〔の〕】午定若、三〔(み)〕たりの男を生む【長子、味沙。中子、辰爾。季子、麻呂。】」この系譜はウィキの「辰孫王の家系と照らしてみても間違いない。

「三姓」菅野氏(津氏)・葛井(寺)氏・船氏の三つか。

「職〔(つかさど)る〕所に因りて氏を命じ、辰爾〔は〕「船〔(ふな)〕」〔の〕長(をさ)と爲る」水運を職掌したようである。葛井(寺)氏は後に遣唐使を輩出しているので外交を、菅野氏は後に「津氏」に改名しているところからは港湾管理を担当したか。]

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