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2018/11/25

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 犬

 

         

 

なぜ吠えるのだ、二疋とも

吠えてこつちへかけてくる

 (夜明けのひのきは心象のそら)

頭を下げることは犬の常套(じやうたう)だ

尾をふることはこわくない

それだのに

なぜさう本氣に吠えるのだ

その薄明(はくめい)の二疋の犬

一ぴきは灰色錫

一ぴきの尾は茶の草穗

うしろへまはつてうなつてゐる

わたくしの步きかたは不正でない

それは犬の中の狼のキメラがこわいのと

もひとつはさしつかえないため

犬は薄明に溶解する

うなりの尖端にはエレキもある

いつもあるくのになぜ吠えるのだ

ちやんと顏を見せてやれ

ちやんと顏を見せてやれと

誰かとならんであるきながら

犬が吠えたときに云ひたい

帽子があんまり大きくて

おまけに下を向いてあるいてきたので

吠え出したのだ

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年九月二十七日の作。本書以前の発表誌等は存在しない。

・「なぜさう本氣に吠えるのだ」底本は「なぜさう本氣にえるのだ」。誤植。「正誤表」にあるので、訂した。

・「もひとつはさしつかえないため」の「さしつかえ」の「え」はママ。「手入れ本」は宮澤家版が大きく改変しているので、その最終形を一部推敲も含めて示す。

   *

 

         

 

なぜ吠えるのだ、二疋とも

吠えてこつちへかけてくる

 (夜明けのひばは鐡のそら)

頭を下げるは犬の常套(じやうたう)

尾をふることはこわくない

それだのに

なぜさう本氣に吠えるのだ

その薄明(はくめい)の二疋の犬

一ぴきは病態の病氣の錫で

一ぴきの尾は茶の草穗

うしろへまはつてうなつてゐる

ひどく不正なわけでもないわたくしの步きかたは

そんなに不正な筈がない

それは犬の中の狼のキメラがこわいのと

もひとつはさしつかえないため

犬は薄明に溶ける

うなりの尖端(きり)にはエレキもある

ぜんたいつもあるくのに

おうしてそんなに吠えるのだ

ちやんと顏を見せてやれ

ちやんと顏を見せてやれと

誰かとならんであるきながら

犬が吠えたときに云ひたい

帽子があんまり大きくて

おまけに下を向いてきたので

吠え出したのにちがひない

 

   *

私は賢治の「手入れ」を概ね改悪と採るが、本詩篇はこの手入れをした方がよいと感ずる。

 諸家の記事を読むと、宮澤賢治は基本、犬とは相性が悪かったようであり、「頭を下げることは犬の常套(じやうたう)だ」とか、「尾をふることはこわくない」という部分はかえって誰もが当たり前に知っている犬の習性を、今までのように読者や学校の生徒に科学的・天文学的解説と同じ感じでやらかしているような滑稽さえ感じる。宮澤家では犬を飼ったことがないようで、賢治は小学生時代によく近所で飼っていた犬によく吠えられた結果、犬にトラウマがあったらしいなどと記すものもある。「心象スケツチ 春と修羅 第二集」の「丘陵地を過ぎる」(大正一三(一九二四)年三月二十四日)でも、『ははあきみは日本犬ですね/(一字下げ)生藁の上にねそべつてゐる/(一字下げ)顏には茶いろな縞もある/どうしてぼくはこの犬を/こんなにばかにするのだらう/やっぱりしやうが合はないのだな』とあり、童話「注文の多い料理店」では狩猟家の連れた『白熊のやうな』『二疋』の『犬』はのっけから、訳の分からない『山が物凄いので』という原因、『二疋いつしょにめまいを起して、しばらく吠つて、それから泡を吐いて死んでしま』わせている(その死んだはずの犬が、後で猟師たちを救いに飛び込んでくるというおかしな展開には、愚鈍な小学生だった私でも目が点になったのをよく覚えている)し、かの名作「銀河鉄道の夜」の中でも、「三、家」で、カンパネルラがジョバンニに語りかける印象的な会話の中で、「ザウエルといふ犬がゐるよ。しつぽがまるで箒のやうだ。ぼくが行くと鼻を鳴らしてついてくるよ。ずうつと町の角までついてくる。もつとついてくることもあるよ。今夜はみんなで烏瓜のあかりを川へながしに行くんだつて。きつと犬もついて行くよ。」と出るものの、この「ザウエル」も語られるだけで、その後には登場してこない。なお、本作の一部を前の東岩手火山」の夜の宙天の星座との関係性を持たせて解釈したもの有意に見られる(それ自体は或いは正統にして正当とも言えるのかも知れない。そのために賢治は前の詩篇の最後に、不思議な『( 犬、 マサニエロ等 )』、この詩篇は次の「犬」や「マサニエロ」と続くのだ、という広告染みたそれをよく説明するようにも思われるからである。実際に「東岩手火山」では「大犬のアルフア」が名指されてはいる)。例えば、その優れた一つは、加倉井厚夫氏のサイト「賢治の事務所」の『賢治の「犬」と「キメラ」』で、そこでは、「なぜ吠えるのだ 二疋とも/吠えてこつちへかけてくる」を『東天からおおいぬ座、こいぬ座が日周運動で昇ってくる様子を示している』とし、「その薄明の二疋の犬」は『薄明の東天に』、『おおいぬ座、こいぬ座が見えている』ことで、「犬は薄明に溶解する」とは、『薄明のため、見えている恒星がしだいに減り、星座はだんだんと「溶解」するように消えてゆく』ことだとされておられる。それはそれで凡愚な私は、御説御尤もと思うものの、それがそれでは詩篇全体を通したマクロな解釈へと止揚する鑰(かぎ)となるのかという点に於いて、留保せざるを得ない。誰より早く「一番星を見つけた!」のは判るが、それが詩篇全体を解明する秘鑰(ひせき)たるものであることを、果敢に続けて全き漏れなしに解釈して示すのでければ、その発見は、あのしょぼくれた「東岩手火山」のエンディングのように、あっけなく夜空は明けてしまい、星は瞬く間に見えなくなってしまう。「なぜ、吠えるのだ、二疋とも」から始まって、最後の「帽子があんまり大きくて」/「おまけに下を向いてきたので」/「吠え出したのにちがひない」まで総ての暗号文を天文学的な意味に変換して全解読しない限り、その発見は生きない、と私は思うからである。翻って、こうしたかなり詳しい天文学的知識を必要とする解析は、現在でも通常の読者の成し得るものではないと思う。いや、寧ろ、そうした天文学的知識によって部分解析した人は、逆にこの詩篇全体は何を言っているかは判らない、狂人に戯言としか思われない、と言いそうな気もするのである(私は嘗ての同僚の優れた理数の教師たちを想起した時、そうした印象を強く持つ)。また、私はそうしたテクスト論的解釈は好まない。キビ悪く、「こゝろ」の学生が「先生」の「奥さん」と結婚してしまうというようなそれまでの忌避感はないけれども。

 しかし、この一篇は徹底的に神経症的に病的であると私は思う(私のように、である)。イヌ恐怖症(Cynophobia:サイナフォビア)というわけではないが、賢治が犬に対し、完全に忌避するのでもなく、同じ生き物としての共感を抱こうとするスタートはあるものの、賢治が抱いているある漠然とした不吉な暴力的な予感を感じざるを得ない(私も同じだから、である)。「うしろへまはつてうなつゐる」には賢治の詩篇にしばしば見受けられる、ある種の、強迫神経症や統合失調症の初期症状などで見られる追跡妄想的気分の影が窺えるように思われ、「うなりの尖端にはエレキもある」は確かに今までも自然界から受ける霊的な波動を彼は電気に喩えることしばしばなのではあるが、私は寧ろ、ここでは犬の唸り声に私を害するある種の電波があるという表現置換をしたくなる。「私に悪い電波を送っている」というのは統合失調症の初期症状に高い確率で見られるのである(私は教え子(複数いた)だけでなく、その保護者からも『私は「悪い電波」に襲われている』と愁訴された経験がある。因みに彼らは後に、全員が統合失調症と診断された)。

「(夜明けのひのきは心象のそら)」ここだけが丸括弧にされている点に注意すべきである。この煽りのワン・ショットだけが陽画で「薄明」(賢治が最も好んだ語の一つであろう)の鮮やかで凛とした気に満ちた印象的なカラー画像である。「ひのき」檜。ヒノキ科ヒノキ属ヒノキ Chamaecyparis obtusa。これも賢治が好んだ樹種の一つである。いや、寧ろ、「心象の」空は「夜明けの」檜が立ち竦む――その夜明けの空に立ち竦む檜の心象自体が自己の投影、心象風景であると読み換えても私はよいと思う。

「わたくしの步きかたは不正でない」歩き方が悪いとか変だとかであれば、犬は警戒して吠えて、後をつけてくることもあるだろうが、しかし「わたくしの步きかたは不正でない」のだから、彼らが私をつけてくるのは論理的に説明がつかない、とここで言っている。この謂いは、一見、正しいが、それをかくわざわざ言いつらうこと自体が、既にして何となく尋常じゃないことに気づかれよう。則ち以って神経症的なのである(私も時にそうだから、である)

「それは犬の中の狼のキメラがこわい」「キメラ」chimerachimaera。生物学で同一個体中に遺伝子型の違う組織が互いに接して存在する現象をいい、動物では「モザイク」(mosaic)とも称する。昆虫にみられるような雌雄型の入り交ったものは雌雄モザイク gynandromorphという。キメラとは、もともとはギリシア神話に出てくる幻獣キマイラ(頭がライオン、胴と尾が羊で、蛇の頭をもち,火を吐く雌の怪獣)に由来する。植物でキメラをつくるには、まず、接木(つぎき)を行い、接木部でそれを切断し、そこから新芽を生じさせてその芽の中に接穂に由来した組織と台木に由来した組織とが混在されるようにしたもので容易に作ることが出来る。混在の仕方が周辺部と内部とで異なるものを「周辺キメラ」、左右で異なるものを「区分キメラ」と呼び、普通に見かける斑入り葉も一種のキメラであり、体細胞突然変異によって生じたものである(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。ここは犬(食肉(ネコ)目イヌ亜目イヌ下目イヌ科イヌ亜科イヌ族イヌ属タイリクオオカミ亜種イエイヌ Canis lupus familiaris)の中に、かつての獰猛な人を襲う狼(Canis lupus)の遺伝的要素(習性)が隠れており、それが「先祖返り」のように発言して私を襲ってくるのではないか、それが「怖い」と言っているのであるが、この一見、科学的であるかのような謂いに、やはりフォビアとしての関係妄想的気分が充満して病的である。

「もひとつはさしつかえないため」「と」で並列しているために判りにくくなっている。この判りにくさ自体が神経症的気分の特性でもある。恐らくは、「犬の中の狼のキメラがこわい」のだが、「わたくしの步きかたは不正でない」のだから、「それは」実は理不尽である、私はお前に襲われる筋合い・論理的理由は皆無である、だから、私はキメラの恐れに動転して妙な行動をとったりは決してしないぞ! と冷静さを装っているのであり、そうした神経症的な自身のイラクサのような神経を押し隠し、ことさらに防衛的言辞を弄しているに過ぎないのである。

「犬は薄明に溶解する」フォビアが現実を最後に侵犯する。犬は実態を失って、彼の周囲の現況の大気の中に溶け込み、目に見えぬ恐怖として彼を襲う。しかしこれがまた、苛立った感覚の頂点でもある。

「いつもあるくのになぜ吠えるのだ」/「ちやんと顏を見せてやれ」/「ちやんと顏を見せてやれと」/「誰かとならんであるきながら」/「犬が吠えたときに云ひたい」/「帽子があんまり大きくて」/「おまけに下を向いてあるいてきたので」/「吠え出したのだ」神経症的気分が最後に徐々に鎮静してゆくのが判る。顔を見せて敵意がないことを見せてやれば、彼らは私を襲ってこないはずだ、私の「帽子があんまり大きくて」「おまけに下を向いてあるいてきたので」彼らは生き物として自然の行動として警戒し「吠え出したのだ」から、「ちやんと顏を見せてやれ」ば、それで安心なはずなのだ、というのは至って正常な普通の意識から発せられる主張である。それは極めて正当である。しかし、問題はそれがまた(「まだ」と言うべきか)、不安な捩じれを引き起こしている点にある。即ち、『「ちやんと顏を見せてやれ! ちやんと顏を見せてやれ!』と、「誰かと」並んで歩きながら、「犬が吠えた」時には「云ひたい」気分なんだ! という内的な神経症的なまどろっこしい叫びとなっている点である。並んで歩く「誰か」とは誰かを考えることは私は意味がないと思っている(心の深奥にある種の厭人的資質を持っているとも思われる賢治を考えると、心から判って貰える人物、例えば熱愛している保阪嘉内辺りを想起出来ないことはないが)。寧ろ、「誰かとならんであるく」という謂いは、社会的人間として他者とこの苛立つ世界に共存していかねばならない詩人の謂いではあるまいか? この一篇は、本質的には誰も真の私を理解してくれる他者はいないと鬱々としている、薄明に屹立する孤独な詩人の姿が私には垣間見えるのである。]

 

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