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2018/11/02

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 靑樹の梢をあふぎて

 

  靑樹の梢をあふ

  ぎて

 

まづしい、さみしい町の裏通りで、

靑樹がほそほそと生えてゐた。

 

わたしは愛をもとめてゐる、

わたしを愛する心のまづしい乙女を求めてゐる、

そのひとの手は靑い梢の上でふるへてゐる、

わたしの愛を求めるために、いつも高いところでやさしい感情にふるへてゐる。

 

わたしは遠い遠い街道で乞食をした、

みぢめにも飢えた心が腐つた葱や肉のにほひを嗅いで淚をながした、

うらぶれはてた乞食の心でいつも町の裏通りを步きまはつた。

 

愛をもとめる心は、かなしい孤獨の長い長いつかれの後にきたる、

それはなつかしい、おほきな海のやうな感情である。

 

道ばたのやせ地に生えた靑樹の梢で、

ちつぽけな葉つばがひらひらと風にひるがへつてゐた。

 

[やぶちゃん注:「飢えた」「みぢめ」「飢えた」はママ。なお、本篇は全五連から成っているが、恐らく、当該詩集を読んだ人の中で、迂闊な読者(叙述的には切れており、句点も打たれているので「かなり迂闊な」人物だけとは思うが)は全三連で読む可能性がある。たまたま、そこ(第一連と第二連の間、及び、第四連と第五連の間)で改ページがなされてあるからである。ただ、寧ろ、綺麗に連を改ページのリズムで過たず組めると朔太郎は踏んで、標題を改行しているのであろうから、寧ろ、そういう読者は朔太郎の「読者」の範疇に属さない大阿呆ということに朔太郎自身によってされてしまうのかも知れない。

 初出は『感情』大正六(一九一七)年二月号。第二連二行目「そのひとの手は靑い梢の上でふるへてゐる、」以外は行末に句読点がないこと、第二連冒頭「わたしは愛をもとめてゐる、」が「わたしは愛をもとめて居る」となっていること、同二行目の「乙女」に「おとめ」(ママ)のルビがあること、第二連最終行「わたしの愛を求めるために、いつも高いところでやさしい感情にふるへてゐる。」の「ゐる」が「居る」となっていること、詩篇末下方に『詩集月に吠えるヨリ』とある以外は、仮名遣いの誤りも含めて同じである。これもまた、と同様、共時的広告である。]

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