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2018/12/31

佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 一一〇 ゴンゲサマ

 

一一〇 ゴンゲサマと云ふは、神樂舞(カグラマヒ)の組毎に一づゝ備はれる木彫(キボリ)の像にして、獅子頭とよく似て少しく異なれり。甚だ御利生のあるものなり。新張(ニヒバリ)の八幡社の神樂組のゴンゲサマと、土淵村字五日市の神樂組のゴンゲサマと、曾て途中にて爭を爲せしことあり。新張のゴンゲサマ負けて片耳を失ひたりとて今も無し。毎年村々を舞ひてあるく故、之を見知らぬ者なし。ゴンゲサマの靈驗は殊に火伏(ヒブセ)に在り。右の八幡の神樂組曾て附馬牛村に行きて日暮れ宿を取り兼ねしに、ある貧しき者の家にて快く之を泊(ト)めて、五升桝を伏せて其上にゴンゲサマを座ゑ置き[やぶちゃん注:「すゑおき」。]、人々は臥したりしに、夜中にがつがつと物を嚙む音のするに驚きて起きてみれば、軒端に火の燃え付きてありしを、桝の上なるゴンゲサマ飛び上り飛び上りして火を喰ひ消してありし也と。子供の頭を病む者など、よくゴンゲサマを賴み、その病を嚙みてもらふことあり。

[やぶちゃん注:私は既にこのカテゴリ「柳田國男で、柳田の単行本「一目小僧その他」の全電子化注を完遂しているが、その「鹿の耳」(全十三分割)でも、こうした「獅子頭」の噛み合いと片耳の損傷が語られている。柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 鹿の耳(4) 耳取畷を参照されたい。]

佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 一〇九 雨風祭

 

一〇九 盆の頃には雨風祭とて藁にて人よりも大なる人形を作り、道の岐(チマタ)に送り行きて立つ。紙にて顏を描(ヱガ)き瓜(ウリ)にて陰陽の形を作り添へなどす。蟲祭の藁人形にはかゝることは無く其形も小さし。雨風祭の折は一部落の中にて頭屋(トウヤ)を擇(エラ)び定め、里人集まりて酒を飮みて後、一同笛太鼓にて之を道の辻まで送り行くなり。笛の中には桐の木にて作りたるホラなどあり。之を高く吹く。さて其折の歌は『二百十日の雨風まつるよ、どちの方さ祭る、北の方さ祭る』と云ふ。

【○東國輿地勝覽に依れば韓國にても厲壇を必ず城の北方に作ること見ゆ共に玄武神の信仰より來れるなるべし】

[やぶちゃん注:「雨風祭」「あめかぜまつり」でよいか。時期的見ても実りへ向けての最終段階への大事な季節で、度を過ぎた雨風が致命的であるから、これはプラグマティクなそうした気象現象への祈願を主としたものであろう。また、復元されている人形も本文にある通り、このように(トラベル・サイトの個人の写真)豊饒を込めた巨大な男根を持っていたり、男女二体で女性の「ほと」(藁製の窪み)も象形されている(個人サイト)のも頷ける。陰陽の気がバランスがとれてこそ気象や実りは平穏無事となる。本文で「蟲祭の藁人形」との相違を述べていながら、その実、この行事の方法には最後に村外(異界)への通路である「道の辻まで送り行く」ところが全く同じであることから、この人形には豊饒の祈りを表(陽)とすれば、裏に台風や冷害封じ込める呪的な除災の裏(陰)の目的があり、それを送り去る点で御霊的な虫送りと同じなのだと思われる。

「笛の中には桐の木にて作りたるホラ」これが判らない。「笛」と言っている。しかし、「桐の木」で法螺貝をミミクリーして作るのは困難であろう。法螺貝のような音を出す、長い管状のそれであろうか? 画像などを探して見たが、判らぬ。

「頭屋(トウヤ)」本来は「頭家」。神事に際して氏子やその組織集団の中から本来は卜占や籤などによって選び出され、当該年・当該回の行事に限って総てを主宰する(或いは神主の重要な介添えをする)、人物或いは当該家の当主を指す。現在の神主が各種神事で行うことと役割上と全く同じであるが、本来は一回性で限定的なものである。

「北の方さ祭る」東北地方ではこれからの時期、稲を痛める強い冷・寒気や過剰な湿気を多量に持ち込むのは主に北方である。]

 

佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 一〇六~一〇八 山田の蜃気楼・山の神伝授の占い

 

一〇六 海岸の山田にては蜃氣樓年々見ゆ。常に外國の景色なりと云ふ。見馴れぬ都のさまにして、路上の車馬しげく人の往來眼ざましきばかりなり。年毎に家の形など聊かも違ふこと無しと云へり。

 

一〇七 上鄕村に河ぷちのうちと云ふ家あり。早瀨川の岸に在り。此家の若き娘、ある日河原に出でゝ石を拾ひてありしに、見馴れぬ男來り、木の葉とか何とかを娘にくれたり。丈高く面[やぶちゃん注:「おもて」。]朱[やぶちゃん注:「しゆ」。]のやうなる人なり。娘は此日より占(ウラナヒ)の術を得たり。異人は山の神にて、山の神の子になりたるなりと云へり。

 

一〇八 山の神の乘り移りたりとて占を爲す人は所々にあり。附馬牛(ツクモウシ)村にも在り。本業は木挽(コビキ)なり。柏崎の孫太郞もこれなり。以前は發狂して喪心したりしに、ある日山に入りて山の神より其術を得たりし後は、不思議に人の心中を讀むこと驚くばかりなり。その占ひの法は世間の者とは全く異なり。何の書物をも見ず、賴みにきたる人と世間話を爲し、その中にふと立ちて常居(ジヤウヰ)[やぶちゃん注:居間。既出既注。]の中(ナカ)をあちこちとあるき出すと思ふ程に、其人の顏は少しも見ずして心に浮びたることを云ふなり。當らずと云ふこと無し。例へばお前のウチの板敷を取り離し、土を掘りて見よ。古き鏡又は刀の折れあるべし。それを取り出さねば近き中に死人ありとか家が燒くるとか言ふなり。歸りて掘りて見るに必ずあり。かゝる例は指を屈するに勝へず。

 

佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 一〇二~一〇五 小正月の事

 

一〇二 正月十五日の晚を小正月と云ふ。宵(ヨヒ)のほどは子供等福の神と稱して四五人群を作り、袋を持ちて人の家に行き、明(アケ)の方から福の神が舞込んだと唱へて餅を貰(モラ)ふ習慣あり。宵を過ぐれば此晚に限り人々決しての外に出づることなし。小正月の夜半過ぎは山の神出でゝ遊ぶと言ひ傳へてあれば也。山口の字丸古立(マルコダチ)におまさと云ふ今三十五六の女、まだ十二三の年のことなり。如何なるわけにてか唯一人にて福の神に出で、處々をあるきて遲くなり、淋しき路を歸りしに、向の方より丈の高き男來てすれちがひたり。顏はすてきに赤く眼はかゞやけり。袋を捨てゝ遁げ歸り大に煩ひたりと云へり。

[やぶちゃん注:「すてきに」形容動詞「すばらし」の「す」に、接尾語「てき」の付いたものとされ、漢字は孰れも当て字で、ここは「程度が甚だしいさま」で「無暗に・ひどく・異常に」の意。]

 

一〇三 小正月の夜、又は小正月ならずとも冬の滿月の夜は、雪女が出でゝ遊ぶとも云ふ。童子をあまた引連れて來ると云へり。里の子ども冬は近邊の丘に行き、橇遊(ソリツコアソビ)をして面白さのあまり夜になることあり。十五日の夜に限り、雪女が出るから早く歸れと戒めらるゝは常のことなり。されど雪女を見たりと云ふ者は少なし。

[やぶちゃん注:旧正月の夜の雪女の出現という設定は、雪女が零落した神であることの証左であり、女であるという点から山の神(但し、山の神は一般に醜女とされる)との強い親和性をも持ち、共時的に彼女が本来は歳神であったことを示す有力な伝承の一つと言える。]

 

一〇四 小正月の晚には行事甚だ多し。月見と云ふは六つの胡桃の實を十二に割り、一時に[やぶちゃん注:「いつときに」。いっぺんに。]爐の火にくべて一時に之を引上げ、一列にして右より正月二月と數ふるに、滿月の夜晴なるべき月にはいつまでも赤く、曇るべき月には直(スグ)に黑くなり、風ある月にはフーフーと音をたてゝ火が振(フル)ふなり。何遍繰返しても同じことなり。村中何れの家にても同じ結果を得るは妙なり。翌日は此事を語り合ひ、例へば八月の十五夜風とあらば、其歳の稻の苅入(カリイレ)を急ぐなり。

【○五穀の占、月の占多少のヷリエテを以て諸國に行はる陰陽道に出でしものならん】

[やぶちゃん注:次の「世中見(ヨナカミ)」と同じく年占の一種であるが、こうしたものが、実際には古くは神前(実際には「爐」自体が古代の信仰の神聖な神ではある)ではなく、各家庭で個別的に行われ、しかもそれが翌日、それが村全体で民主的に評議されるという、農事の個別的占術の運命共同体としての村レベルでの綜合的決定を俟つという経緯を持つ点で、非常に興味深い。

「ヷリエテ」「ヴァリエテ」で「Variété」。フランス語で「多様性」の意。]

 

一〇五 又世中見(ヨナカミ)と云ふは、同じく小正月の晚に、色々の米にて餅をこしらへて鏡と爲し、同種の米を膳の上に平らに敷き、鏡餅をその上に伏せ、鍋を被せ置きて翌朝之を見るなり。餅に附きたる米粒の多きもの其年は豐作なりとして、早中晚の種類を擇び定むるなり。

[やぶちゃん注:これも各家庭で行われていた、作付けする稲の占術である。辞書によれば、この岩手県上閉伊郡の行事で、「ヨナカ」は作柄のこととするが、占いの真価が発揮される非日常としての「夜中」、或いは新旧の「世」の入れ替わる途「中」の辺縁的呪的時間を表わすもののように私に感じられる。]

佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 一〇〇、一〇一 妖狐譚

 

一〇〇 船越の漁夫何某、ある日仲間の者と共に吉利吉里(キリキリ)より歸るとて、夜深く四十八坂のあたりを通りしに、小川のあるところにて一人の女に逢ふ。見れば我妻なり。されどもかゝる夜中に獨此邊に來べき道理なければ、必定化物ならんと思ひ定め、矢庭に魚切庖丁を持ちて後の方より差し通したれば、悲しき聲を立てゝ死したり。暫くの間は正體を現はさざれば流石に心に懸り、後の事を連の者に賴み、おのれは馳せて家に歸りしに、妻は事も無く家に待ちてあり。今恐ろしき夢を見たり。あまり歸りの遲ければ夢に途中まで見に出でたるに、山路にて何とも知れぬ者に脅(オビヤ)かされて、命を取らるゝと思ひて目覺めたりと云ふ。さてはと合點して再び以前の場所へ引返して見れば、山にて殺したりし女は連の者が見てをる中につひに[やぶちゃん注:ママ。]一匹の狐となりたりと云へり。夢の野山を行くに此獸の身を傭(ヤト)ふことありと見ゆ。

 

一〇一 旅人豐間根(トヨマネ)村【○下閉伊郡豐間根村大字豐間根】を過ぎ、夜更け疲れたれば、知音[やぶちゃん注:「ちいん」。親友。知己(ちき)。]の者の家に燈火の見ゆるを幸に、入りて休息せんとせしに、よき時に來合せたり、今夕死人あり、留守の者なくて如何にせんかと思ひし所なり、暫くの間賴むと云ひて主人は人を喚びに行きたり。迷惑千萬なる話なれど是非も無く、圍爐裡の側にて煙草を吸ひてありしに、死人は老女にて奧の方に寢させたるが、ふと見れば床(トコ)の上にむくむくと起直る。膽潰れたれど心を鎭め靜かにあたりを見廻(ミマハ)すに、流し元の水口の穴より狐の如き物あり、面(ツラ)をさし入れて頻に死人の方を見つめて居たり。さてこそと身を潜め窃かに家の外に出で、背(セト)[やぶちゃん注:裏口。]の方に廻りて見れば、正しく狐にて首を流し元の穴に入れ後(アト)足を爪立(ツマタ)てゝ居たり。有合はせたる棒をもて之を打ち殺したり。

 

佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 九九 明治三陸地震で亡くなった妻の霊に逢う事

 

九九 土淵村の助役北川淸と云ふ人の家は字[やぶちゃん注:「あざ」。]火石(ヒイシ)にあり。代々の山臥[やぶちゃん注:「やまぶし」。山伏。]にて祖父は正福院といい、學者にて著作多く、村の爲に盡したる人なり。淸の弟に福二と云ふ人は海岸の田の濱へ聟に行きたるが、先年の大海嘯(オホツナミ)に遭ひて妻と子とを失ひ、生き殘りたる二人の子と共に元の屋敷の地に小屋を掛けて一年ばかりありき。夏の初の月夜に便所に起き出でしが、遠く離れたるところに在りて行く道も浪の打つ渚(ナギサ)なり。霧の布(シ)きたる夜なりしが、その霧の中より男女二人の者の近よるを見れば、女は正しく[やぶちゃん注:「まさしく」。]亡くなりし我妻なり。思はず其跡をつけて、遙々と船越村の方へ行く崎の洞[やぶちゃん注:読みは後注参照。]ある所まで追ひ行き、名を呼びたるに、振返りてにこと笑ひたり。男はと見れば此も同じ里の者にて海嘯の難に死せし者なり。自分が聟に入りし以前に互に深く心を通はせたりと聞きし男なり。今は此人と夫婦になりてありと云ふに、子供は可愛くは無いのかと云へば、女は少しく顏の色を變へて泣きたり。死したる人と物云ふとは思はれずして、悲しく情なくなりたれば足元を見て在りし間に、男女は再び足早にそこを立ち退きて、小浦(ヲウラ)へ行く道の山陰を廻(メグ)り見えずなりたり。追ひかけて見たりしがふと死したる者なりしと心付き、夜明まで道中(ミチナカ)に立ちて考へ、朝になりて歸りたり。其後久しく煩ひたりと云へり。

[やぶちゃん注:NHKのテキスト情報サイトのNHKテキストビュー」の「『遠野物語』に描かれる明治三陸大津波」によれば、実は『この話の主人公の福二は佐々木喜善の祖母の弟で』あるとする。『東日本大震災の津波でも大きな被害を受けてしまった山田町の船越半島の付け根に、田の浜という集落があ』りここ(国土地理院図))、『福二は当時、その集落の長根という家に婿に入って』おり、この三陸大津波に遭遇したのであった。この時、『田の浜では』百三十八『戸の家のうち』百二十九『戸が流失し、死者が』四百八十三『人、生存者は』三百二十五『人であり、半分以上の人が亡くな』ったとある。なお、後の昭和五(一九三〇)年、『佐々木喜善は』『「縁女綺聞」という文章の中で』、『自らこの話を書き起こしています(『農民俚譚(りたん)』所収)が、その文章は『遠野物語』よりも具体的で、福二は「おいお前はたきの(女房の名前)じゃないか」と声をかけます。そして「何たら事だ。俺も子供等も、お前が津浪で死んだものとばかり思って、斯(こ)うして盆のお祭をして居るのだのに、そして今は其の男と一緒に居るのか」と詰め寄ります。その言い方は、死んだと思っていたのに、実は生きていた奥さんに話しかけているように聞こえます。生と死の区別はここでも曖昧です』。『奥さんのほうは何もいわず、かすかにうつむいて、「二三間』(三・六四~五・四五メートル)『前に歩いて居る男の方へ小走りに歩いて追いつき、そうしてまた』、『肩を並べて、向うへとぼとぼと歩いて行った」とあります。これは『遠野物語』よりも残酷で、遣る瀬ない話ではないかと思います。ただ黙って去られるよりも、「いまはこの人と夫婦になっている」と宣言されたほうが、まだ諦めもつくでしょうか』。『しかし、この世ではともかく、あの世で奥さんが好きな人と一緒にいることまで自分が制限することはできません。福二はたぶん奥さんと出会うことで、遺体は見つからなくても、その死を受け入れざるを得ないと思えたのではないでしょうか。この話は悲しい出来事というよりは、それによって煩ったにせよ、絶望のなかで生きる希望をもって恢復(かいふく)していく、心の復興の物語として読んでこそ意味があるのではないかと思います。もちろん災害の悲惨さを伝えることは大事ですが、悲しみをどう乗り越えていくかというときに、この話はとても大きな意味をもっています』とある。

「先年の大海嘯(オホツナミ)」明治二九(一八九六)年六月十五日午後七時三十二分に岩手県上閉伊郡釜石町(現在の釜石市)の東方沖二百キロメートルの三陸沖を震源として発生した「明治三陸地震」。マグニチュード八・二~八・五の巨大地震であった。地震に伴い、二〇一一年三月九日の東北地方太平洋沖地震前まで、本州に於ける観測史上最高の遡上高であった海抜三十八・二メートルを記録する津波が発生、甚大な被害を与えた。本書刊行(明治四三(一九一〇)年六月)の十四年前のことである。参照したウィキの「明治三陸地震」によれば、死者・行方不明者は合計二万千九百五十九人(死者:二万千九百十五人/行方不明者:四十四人)。『行方不明者が少ない理由について、震災後当初は、宮城県の一部や青森県では検死を行い、死者数と行方不明者数を別々に記録し発表していたが、「生存者が少ない状況の下で、煩雑な検死作業をしていられなかった」という状況』と、災害時の『「検死を重視していなかった」等の』当時の社会的『背景により、「行方不明者」という概念はなくなり、死亡と見なされる者は全て「溺死」あるいは「死亡」として扱われた』ことによる。家屋流失は九千八百七十八戸、家屋全壊は千八百四十四戸、船舶流失は六千九百三十隻であった。

「船越村の方へ行く崎の洞ある所」位置的には前の国土地理院図(「田の浜」を見て戴ければ判る通り、北西に向かって船越半島の根元にある岩手県下閉伊郡山田町船越へ船越湾を廻り込む形で向かったことが判る。問題は「崎の洞」(この後が「ある」と続くところも気になる)当初は「崎(さき)の洞(ほら)」で、ちょっとした鼻か岬状の部分に生じた海食洞のような陸地或いは海岸線を一般名詞として指しているかと思っていた。新潮文庫は確かに『ほら』のルビなのだが、「ちくま文庫」版全集は驚いたことに『ほこら』(「祠」であろう)とルビするのである。まず「祠」は「洞」と誤読・誤植し易いことが気になる。次に、文脈で「船越村の方へ行く崎の洞ある所」とある時、「ほら」と「ほこら」のどちらがより自然かを考えた。固有名詞(海岸地名)で「崎の洞」だったら、私は「ある」と繋げるのは、文体上、如何にも練れていない下手糞な文章のように思うのである。しかし、「崎の」「祠」(ほこら)「ある所」なら、これはそれよりは腑に落ちるのである。海岸のちょっと突き出た岬(御崎)にある小さな祠である(「洞」を一般名詞としてとってもよいが、「ある」のは空「洞」より物体としての「祠」の方がランドマークらしい)。「遠野物語」は原草稿なども残っているらしいから、一度、何時か親しく見て検証してみたいとは思っている(出版されているが、私は所持しない)。

 

佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 九八 路傍の石神

 

九八 路の傍に山の神、田の神、塞(サヘ)の神の名を彫りたる石を立つるは常のことなり。又早地峯山六角牛山の名を刻したる石は、遠野鄕にもあれど、それよりも濱に殊に多し。

[やぶちゃん注:「山の神」「田の神」ここは分類学的に優れた「ブリタニカ国際大百科事典」の記載を引く(コンマを読点に代えた)。『山を支配し』、『領有する神。農民は』「田の神」『と結びつけて考え,山で働く人々は山を司る神と考えるなど,その内容は種々ある』。①『山そのものの姿態および山をめぐる自然現象に神秘性を感じて、それを神霊の力なり意志の現れとして神聖視する山岳信仰上の山霊。高山、秀峰に固有の神で世界的に分布するが、日本では火山系、神奈備(かんなび)系』(神霊の鎮まる小山・丘陵・森のような地形)、『水分(みくまり)系』(水源となる高地部)『と山容によって分離される』。②『人間が山に働きかけて、その体験から信仰対象となった山の神。春に芽を出し秋に実を結び、永遠に山の幸を授けてくれるものを山の大地母神と考えた。多くは女神として信仰する。日本で山の神を女神、姥(うば)神、夫婦神とするのもそれである』。③『狩猟民の信仰する山の神。山を領有する神とされ、日本では山の神に狩猟を許可されたという伝説をもつ狩猟集団がある』。④『平地農民の信仰する山の神。古代より山を死者の霊の休まるところとし、死者の霊が時を経るにつれて祖先神となり、山頂にしずまって子孫を守護するとする信仰で,日本に特徴的に認められる。農耕の開始される』春に山から迎えた「山の神」は、「田の神」となって五穀の生育を見守り、秋の収穫後には、再び、田から山へ帰って「山の神」となる『とされる。そのほか』、「山の神」信仰には、『山で生産に従事する炭焼き、きこり、木地屋、鉱山業者などの奉じる』分枝的な『神があり、複雑な信仰内容を伝えている』。

「塞(サヘ)の神」現代仮名遣は「さえのかみ」。同じく「ブリタニカ国際大百科事典」の記載を引く(コンマを読点に代えた)。『村や部落の境にあって、他から侵入するものを防ぐ神。邪悪なものを防ぐ』「とりで」(「塞」は「寨」「砦」と同義)の『役割を果すところからこの名がある。境の神の一つで、道祖神、道陸神(どうろくじん)、たむけの神、くなどの神などともいう。村落を中心に考えたとき、村境は異郷や他界との通路であり、遠くから来臨する神や霊もここを通り、また外敵や流行病もそこから入ってくる。それらを祀り、また防ぐために設けられた神であるが、種々の信仰が習合し、その性格は必ずしも明らかでない。一般には神来臨の場所として、伝説と結びついた樹木や岩石があり、七夕の短冊竹や虫送りの人形を送り出すところとなり、また』、『流行病のときには』、『道切りの注連縄(しめなわ)を張ったりする。小正月に左義長などの火祭をここで行う場合もある。神祠、神体としては、「塞の神」「道祖神」などの字を刻んだ石を建てたものが多いが、山梨県には丸石を祀ったものもあり、人の姿を刻んだ石や、男根形の石を建てるものも少くない。行路や旅の神と考える地方ではわらじを供え、また』、『子供の神としてよだれ掛けを下げたり、耳の神として穴あきの石を供えたりするところもある』。]

 

佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 九五~九七 天翔ける愛石家・嗅ぐ男・菊池松之亟の臨死体験

 

九五 松崎の菊池某と云ふ今年四十三四の男、庭作りの上手にて、山に入り草花を掘りては我庭に移し植ゑ、形の面白き岩などは重きを厭はず家に擔(ニナ)ひ歸るを常とせり。或日少し氣分重ければ家を出でゝ山に遊びしに、今までつひに[やぶちゃん注:ママ。]見たることなき美しき大岩を見付けたり。平生の道樂なれば之を持ち歸らんと思ひ、持ち上げんとせしが非常に重し。恰も人の立ちたる形して丈もやがて人ほどあり。されどほしさの餘之を負ひ、我慢して十間ばかり[やぶちゃん注:約十八メートル強。]步みしが、氣の遠くなる位(クラヰ)重ければ怪しみを爲し、路の旁に之を立て少しくもたれかゝるやうにしたるに、そのまゝ石とともにすつと空中に昇り行く心地したり。雲より上になりたるやうに思ひしが實に明るく淸き所にて、あたりに色々の花咲き、しかも何處とも無く大勢の人聲聞えたり。されど石は猶益(マスマス)昇(ノボ)り行き、終には昇り切りたるか、何事も覺えぬやうになりたり。其後時過ぎて心付きたる時は、やはり以前の如く不思議の石にもたれたるまゝにてありき。此石を家の内へ持ち込みては如何なる事あらんも測りがたしと、恐ろしくなりて遁げ歸りぬ。この石は今も同じところに在り。折々は之を見て再びほしくなることありと云へり。

[やぶちゃん注:エンディングの二文が美事だ。]

 

九六 遠野の町に芳公馬鹿(ヨシコウバカ)とて三十五六なる男、白痴にて一昨年まで生きてありき。此男の癖は路上にて木の切れ塵などを拾ひ、之を捻(ヒネ)りてつくづくと見つめ又は之を嗅(カ)ぐことなり。人の家に行きては柱などをこすりて其手を嗅ぎ、何ものにても眼の先きまで取り上げ、にこにことして折々之を嗅ぐなり。此男往來をあるきながら急に立ち留り、石などを拾ひ上げて之をあたりの人家に打ち付け、けたゝましく火事だ火事だと叫ぶことあり。かくすれば其晚か次の日か物を投げ付けられたる家火を發せざることなし。同じこと幾度と無くあれば、後には其家々も注意して豫防を爲すと雖[やぶちゃん注:「いへども」。]、終に火事を免(マヌカ)れたる家は一軒も無しと云へり。

 

九七 飯豐(イヒデ)の菊池松之亟と云ふ人傷寒を病み、度々息を引きつめし時、自分は田圃に出でゝ菩提寺なるキセイ院へ急ぎ行かんとす。足に少し力を入れたるに、圖らず空中に飛上り、凡そ人の頭ほどの所を次第に前下(マヘサガ)りに行き、又少し力を入るれば昇ること始の如し。何とも言はれず快し。寺の門に近づくに人群集せり。何故ならんと訝りつゝ門を入れば、紅(クレナヰ)の芥子(ケシ)の花咲き滿ち、見渡す限も知らず。いよいよ心持よし。この花の間に亡(ナ)くなりし父立てり。お前も來たのかと云ふ。これに何か返事をしながら猶行くに、以前失ひたる男の子居りて、トツチヤお前も來たかと云ふ。お前はこゝに居たのかと言ひつゝ近よらんとすれば、今來てはいけないと云ふ。此時門の邊にて騷しく我名を喚ぶ者ありて、うるさきこと限なけれど、據[やぶちゃん注:「よんどころ」。]なければ心も重くいやいやながら引返したりと思へば正氣付きたり。親族の者寄り集ひ水など打ちそゝぎて喚生(ヨビイ)かしたるなり。

[やぶちゃん注:「傷寒」漢方では高熱を伴う急性疾患を指し、腸チフスなどとされる。しかし、この主人公、たびたび呼吸困難になっている様子からは、例えばマラリアが治りきっておらず、後遺症でしばしば急激な発熱症状が回帰するそれのように思われる。所謂、古典で言う「瘧(おこり)」である。後の幻視などもそうした熱性譫妄として理解出来る。

「喚生(ヨビイ)かしたる」所謂、「魂振(たまふ)り」「魂呼(たまよば)ひ(たまよばい)」「魂呼(たまよ)び」である。意識消失や仮死状態・臨死期の者の名などを大声で呼ぶことによって現世界へ霊魂を引き戻す呪的仕儀である。]

佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 九三、九四 菊池菊蔵の体験した怪異

 

九三 これは和野の人菊池菊藏と云ふ者、妻は笛吹峠のあなたなる橋野より來たる者なり。この妻親里へ行きたる間に、絲藏と云ふ五六歳の男の兒病氣になりたれば、晝過ぎより笛吹峠を越えて妻を連れに親里へ行きたり。名に負ふ六角牛の峯續きなれば山路は樹深く、殊に遠野分より栗橋分へ下らんとするあたりは、路はウドになりて兩方は岨(そば)[やぶちゃん注:崖。]なり。日影は此岨に隱れてあたり稍薄暗くなりたる頃、後の方より菊藏と呼ぶ者あるに振返りて見れば、崖の上より下を覗(ノゾ)くものあり。顏は赭く[やぶちゃん注:「あかく」。]眼の光りかゞやけること前の話のごとし。お前の子はもう死んで居るぞと云ふ。この言葉を聞きて恐ろしさよりも先にはつと思ひたりしが、早其姿は見えず。急ぎ夜の中に妻を伴ひて歸りたれば、果して子は死してありき。四五年前のことなり。

[やぶちゃん注:「遠野分」「分」は「ぶん」と読んでおき、遠野の領域の謂いと採る。

「栗橋分」同前で旧「栗橋」村は現在の釜石市栗林町及び妻の実家の橋野町に当たる。]

【○ウドとは兩側高く切込みたる路のことなり東海道の諸國にてウタウ坂謠坂[やぶちゃん注:「うたひざか」。]など云ふはすべて此の如き小さき切通しのことならん】

[やぶちゃん注:「ウド」全国的に「土地が深く窪んでいる場所」・「凹地になっている尾根の鞍部や山塊の湾曲した部分」等を古くは「ウト」「ウツ」と称した。「ウタ」「ウタウ」「オト」はその音変化でそれらに多様な漢字(謡(うた)・善知鳥(うとう)・宇藤・鵜藤・宇頭・乙(おと)など)を当てたに過ぎない。]

 

九四 この菊藏、柏崎なる姊の家に用ありて行き、振舞はれたる殘りの餅を懷に入れて、愛宕山[やぶちゃん注:先に示した象坪山。]の麓の林を過ぎしに、象坪(ゾウツボ[やぶちゃん注:ママ。])の藤七と云ふ大酒呑にて彼と仲善[やぶちゃん注:「なかよし」。仲良し。]友に行き逢へり。そこは林の中なれど少しく芝原ある所なり。藤七はにこにことしてその芝原を指(ユビサ)し、こゝで相撲を取らぬかと云ふ。菊藏之を諾し、二人草原にて暫く遊びしが、この藤七如何にも弱く輕く自由に抱へては投げらるゝ故、面白きまゝに三番まで取りたり。藤七が曰く、今日はとてもかなはず、さあ行くべしとて別れたり。四五間[やぶちゃん注:七・二七~九・〇九メートル。]も行きて後心付きたるにかの餅見えず。相撲場に戾りて探したれど無し。始めて狐ならんかと思ひたれど、外聞を恥じて人にも言はざりしが、四五日の後酒屋にて藤七に逢ひ其話をせしに、おれは相撲など取るものか、その日は濱へ行きてありしものをと言ひて、愈[やぶちゃん注:「いよいよ」。]狐と相撲を取りしこと露顯したり。されど菊藏は猶他の人々には包み隱してありしが、昨年の正月の休に人々酒を飮み狐の話をせしとき、おれも實はと此話を白狀し、大いに笑はれたり。

【○象坪は地名にして且つ藤七の名字なり象坪と云ふ地名のこと石神問答の中にて之を硏究したり】

[やぶちゃん注:こういう民話構成は私は珍しく思う。前の「九三」は、子を失うことを山の怪人に言上げされてしまう、構造的には〈子の命を物の怪に奪われる悲話〉であって徹底した悲劇である。その悲惨な怪談の主人公と同じ人物が主人公で、こちらは〈たかが餅を親友に化けた狐に奪われる笑話〉であるからである。これが所謂、「昔話」なら問題はないが、これは明らかに主人公の姓名「菊池菊藏」が明かされ、妻の実家の地名も怪異の起こる場所も友人の名も総てが実在するもので、それらが完全に公にされて書かれている点で、両話は完全な「ごく最近起こった(とされる)実話(らしい)話」=「噂話」であり、しかもセットで読まれるようになっている点で特異的なのある。ある種それを私は残酷だと感ずる。そこが却って「噂話」ではない、あり得ない「昔話」という反属性の一つであり、では、前の子を失う話も事実ではない、とするのであれば、ほっともする。しかしそれは同時に民話としては両話が全くの捏造の偽せ物であることになり、〈民話〉としては死滅する危険性を孕むことになるのである。佐々木の原話はこの通りの順序であったのかも知れぬが、さんざんいじくった柳田なら、せめて、ここは話をせめて逆にするか、続かない形に遠く配するか(それなら幾分か私の言う残酷性は緩和される)、それこそ人名を「某」に伏せればよかったように思う(私は本条の起筆を「この菊藏」とする佐々木や柳田の神経が少し判らぬのである)。ただ、こうした悲喜こもごもの現実こそが民俗社会の現実であったのだという読みも無論、可能だし、それが確かな真実だったとも言われれば、「御説御尤も」と返すしかない。いや、だったら、何でもありだよな? 民話の深層まで下りて行って、こういうのはどうか? 〈貧しくて実は妻が実家に行っているうちに子を自ら間引いて殺した男の話〉が前話の真相であり、〈子を間引いた行為への一抹の後悔も持たない男が妖狐に騙されてたかだか餅を少しばかり騙し取られ、それを恥ずかしく思って隠していた救い難い嘲笑の的になる馬鹿話〉というのは、どうだ? これではしかし、余りに「菊池菊藏」が可哀想だし、以前、亡くなった子も浮かばれぬ。それにしても注で先行する全然売れなかった本(明治四三(一九一〇)年刊。本書と同じ聚精堂刊。これ(国立国会図書館デジタルコレクション))をさりげなく宣伝する柳田國男。そこではごちゃごちゃと複数箇所で考証しているのであるが、本来の象頭・象坪という地名は歓喜天由来と推定しつつ、地名としての実属性としては修験道(歓喜天と親和性有り)や仏教徒の「精進」・「精進場」の謂いであり、「結界を持った鎮守の地鎮を行った場所」由来としている。]

2018/12/30

佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 八九~九二 山中の怪人

 

八九 山口より柏崎へ行くには愛宕山[やぶちゃん注:「あたごやま」。]の裾を廻(マハ)るなり。田圃に續ける松林にて、柏崎の人家見ゆる邊より雜木(ザウキ)の林となる。愛宕山の頂には小さき祠ありて、參詣の路は林の中に在り。登口(ノボリクチ)に鳥居(トリヰ)立ち、二三十本の杉の古木あり。其旁には亦一つのがらんとしたる堂あり。堂の前には山神の字を刻みたる石塔を立つ。昔より山の神出づと言傳ふる所なり。和野[やぶちゃん注:「わの」。]の何某と云ふ若者、柏崎に用事ありて夕方堂のあたりを通りしに、愛宕山の上より降(クダ)り來る丈(タケ)高き人あり。誰ならんと思ひ林の樹木越しに其人の顏の所を目がけて步み寄りしに、道の角(カド)にてはたと行逢ひぬ。先方は思ひ掛けざりしにや大いに驚きて此方を見たる顏は非常に赤く、眼は耀(かがや)きてかついかにも驚きたる顏なり。山の神なりと知りて後(あと)をも見ずに柏崎の村に走りつきたり。

【○遠野鄕には山神塔多く立てり、その處は曾て山神に逢ひ又は山神の祟を受けたる場所にて神をなだむる爲に建てたる石なり】

[やぶちゃん注:「愛宕山」岩手県遠野市土淵町の象坪山(ぞうつぼやま)の別名。(国土地理院図)。標高三百九十九・五メートル。Yamaneko氏のブログ山猫を探す人Ⅱの「象坪山(愛宕山)その1の当地の画像(祠・石像・堂らしきものの残骸)がそれらしい雰囲気をよく伝える。]

 

九十 松崎村に天狗森と云ふ山あり。其麓なる桑畠にて村の若者何某と云ふ者、働きて居たりしに、頻に睡くなりたれば、暫く畠の畔(クロ)に腰掛けて居眠りせんとせしに、極めて大なる男の顏は眞赤(マツカ)なるが出で來れり。若者は氣輕にて平生相撲などの好きなる男なれば、この見馴れぬ大男が立ちはだかりて上より見下すやうなるを面惡く[やぶちゃん注:「つらにくく」。如何にも憎いと思わせるような面構えであるさま。]思ひ、思はず立上りてお前はどこから來たかと問ふに、何の答[やぶちゃん注:「こたへ」。]もせざれば、一つ突き飛ばしてやらんと思ひ、力自慢のまゝ飛びかゝり手を掛けたりと思ふや否や、却りて自分の方が飛ばされて氣を失ひたり。夕方に正氣づきて見れば無論その大男は居らず。家に歸りて後[やぶちゃん注:「のち」。]人にこの事を話したり。其秋のことなり。早地峯の腰へ村人大勢と共に馬を曳きて萩(ハギ)を苅りに行き、さて歸らんとする頃になりて此男のみ姿見えず。一同驚きて尋ねたれば、深き谷の奧にて手も足も一つ一つ拔き取られて死して居たりと云ふ。今より二三十年前のことにて、この時の事をよく知れる老人今も存在せり。天狗森には天狗多く居ると云ふことは昔より人の知る所なり。

[やぶちゃん注:本書は明治四三(一九一〇)年刊であるが、採集時を四、五年減ずるとして、明治一〇(一八七七)年ほどまで溯れるか。]

 

九一 遠野の町に山々の事に明るき人あり。もとは南部男爵家の鷹匠なり。町の人綽名(アダナ)して鳥御前(トリゴゼン)と云ふ。早地峯、六角牛の木や石や、すべて其形狀と在處(アリドコロ)とを知れり。年取りて後茸採(キノコト)りにとて一人の連と共に出でたり。この連の男と云ふは水練の名人にて、藁と槌[やぶちゃん注:「つち」。]とを持ちて水の中に入り、草鞋[やぶちゃん注:「わらぢ」。]を作りて出て來ると云ふ評判の人なり。さて遠野の町と猿ケ石川を隔つる向山(ムケエヤマ)と云ふ山より、綾織村の續石(ツツヾキイシ)とて珍しき岩のある所の少し上の山に入り、兩人別れ別れになり、鳥御前一人は又少し山を登りしに、恰も秋の空の日影、西の山の端[やぶちゃん注:「は」。]より四五間[やぶちゃん注:七・二七~九・〇九メートル。]ばかりなる時刻なり。ふと大なる岩の陰に赭(アカ)き顏の男と女とが立ちて何か話をして居るに出逢ひたり。彼等は鳥御前の近づくを見て、手を擴(ヒロ)げて押戾すやうなる手つきを爲し制止したれども、それにも構(カマ)はず行きたるに女は男の胸に縋る[やぶちゃん注:「すがる」。]やうにしたり。事のさまより眞の人間にてはあるまじと思ひながら、鳥御前はひやうきんな人なれば戲れて遣らんとて腰なる切刃(キリハ)を拔き、打ちかゝるやうにしたれば、その色赭き男は足を擧げて蹴りたるかと思ひしが、忽ちに前後を知らず。連なる男はこれを探(サガ)しまはりて谷底に氣してあるを見付け、介抱して家に歸りたれば、鳥御前は今日の一部始終を話し、かゝる事は今までに更になきことなり。おのれは此爲に死ぬかも知れず、外の者には誰にも云ふなと語り、三日ほどの間病みて身まかりたり。家の者あまりに其死にやうの不思議なればとて、山臥[やぶちゃん注:「やまぶし」。山伏。]のケンコウ院と云ふに相談せしに、其答には、山の神たちの遊べる所を邪魔したる故、その祟をうけて死したるなりと云へり。此人は伊能先生なども知合なりき。今より十餘年前の事なり。

[やぶちゃん注:「南部男爵家」旧陸奥盛岡藩主であった南部伯爵家の一門。南部行義 (明治元(一八六八)年~明治三五(一九〇二)年:明治三〇(一八九七)年男爵受爵)か。

「續石(ツツヾキイシ)」現在の岩手県遠野市綾織町上綾織にある。(グーグル・マップ・データ。右コンテンツの画像も必見)。文字通りの「續石」、ドルメン(dolmenフランス・ブルターニュ地方に多く見られ、古い現地語であるブルトン語で「石の机」を意味する「dol men」を語源とする)様の人工支石や、本話柄と親和性の強い二つの並列列石が現存する。dostoev氏のブログ『不思議空間「遠野」-「遠野物語」をwebせよ!-』の『「遠野物語91山神の祟りも必見。

「伊能先生」【二〇一八年十二月三十一日全面改稿】七二の注に出した遠野出身の人類学者・民俗学者伊能嘉矩(いのうかのり 慶応三(一八六七)年~大正一四(一九二五)年)。特に台湾原住民の研究では台湾総督府雇員となって「台湾蕃人事情」(明治三三(一九〇〇)年台湾総督府民政部文書課刊。粟野伝之丞との共著)等の膨大な成果を残した。明治三九(一九〇六)年に本土に戻ってからは、郷里遠野を中心とした調査・研究を行うようになり、「上閉伊郡志」「岩手県史」「遠野夜話」等を著し、その研究を通じて柳田國男と交流を持つようにもなり、郷里の後輩である佐々木喜善とともに柳田の「遠野物語」成立に影響を与えた。郷里岩手県遠野地方の歴史・民俗・方言の研究にも取り組み、遠野民俗学の先駆者と言われた。ここはウィキの「伊能嘉矩」に拠った。当初、大呆けをかましてしまい、時代の合わない伊能忠敬か等と不審注を附してしまったが、いつも御教授を戴く T 氏よりメールを頂戴し、トンデモ注を変更出来た。御礼申し上げる。

 

九二 昨年のことなり。土淵村の里の子十四五人にて早地峯に遊びに行き、はからず夕方近くなりたれば、急ぎて山を下り麓近くなる頃、丈の高き男の下より急ぎ足に昇り來るに逢へり。色は黑く眼(マナコ)はきらきらとして、肩には麻かと思はるゝ古き淺葱色(アサギイロ)の風呂敷にて小さき包を負ひたり。恐ろしかりしかども子共の中の一人、どこへ行くかと此方より聲を掛けたるに、小國さ行くと答ふ。此路は小國へ越ゆべき方角には非ざれば、立ちとまり不審する程に、行き過ぐると思ふ間も無く、早見えずなりたり。山男よと口々に言ひて皆々遁げ歸りたりと云へり。

佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 八六~八八 末期の魂の挨拶

 

八六 土淵村の中央にて役場小學校などのあるところを字[やぶちゃん注:「あざ」。]本宿(モトジク)と云ふ。此所に豆腐屋を業とする政と云ふ者、今三十六七なるべし。此人の父大病にて死なんとする頃、此村と小烏瀨(コガラセ)川を隔てたる字下栃内(シモトチナイ)に普請(フシン)ありて、地固めの堂突(ドウヅキ)を爲す所へ、夕方に政の父獨來りて人々に挨拶し、おれも堂突を爲すべしとて暫時仲間に入りて仕事を爲し、稍暗くなりて皆と共に歸りたり。あとにて人々あの人は大病の筈なるにと少し不思議に思ひしが、後に聞けばその日亡くなりたりとのことなり。人々悔みに行き今日のことを語りしが、其時刻は恰も病人が息を引き取らんとする頃なりき。

[やぶちゃん注:「堂突(ドウヅキ)」所謂、「よいとまけ」の唄で知られる、建築前の地固めの道具。丸太で櫓(やぐら)を拵えて、中へ真棒(心棒)を立て、「それーまけー、よいとまいた。それーまけー、よいとまいた』と掛け声で、全体は十二人ほど、櫓から下ろした一つの繩を三人ずつほどで取りかかって、四方から引いて突き固める。私の『日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第一章 一八七七年の日本――横浜と東京 1 モース来日早々「よいとまけ」の唄の洗礼を受く』を参照。]

 

八七 人の名は忘れたれど、遠野の町の豪家にて、主人大煩[やぶちゃん注:「おほわづらひ」。]して命の境に臨みし頃、ある日ふと菩提寺に訪ひ來れり。和尚鄭重にあしらひ茶などすゝめたり。世間話をしてやがて歸らんとする樣子に少々不審あれば、跡より小僧を見せに遣りしに、門を出でゝ家の方に向ひ、町の角を廻りて見えずなれり。其道にてこの人に逢ひたる人まだ外にもあり。誰にもよく挨拶して常の體(テイ)なりしが、此晚に死去して勿論其時は外出などすべき樣態[やぶちゃん注:「やうだい」。]にてはあらざりし也。後に寺にては茶は飮みたりや否やと茶椀を置きし處を改めしに、疊の敷合せへ皆こぼしてありたり。

 

八八 此も似たる話なり。土淵村大字土淵の常堅寺[やぶちゃん注:「じやうけんじ」。]は曹洞宗にて、遠野鄕十二ケ寺の觸頭(フレガシラ)なり。或日の夕方に村人何某と云ふ者、本宿(モトジユク)より來る路にて何某と云ふ老人にあへり。此老人はかねて大病をして居る者なれば、いつの間によくなりしやと問ふに、二三日氣分も宜しければ、今日は寺へ話を聞きに行くなりとて、寺の門前にて又言葉を掛け合ひて別れたり。常堅寺にても和尚はこの老人が訪ね來たりし故出迎へ、茶を進め暫く話をして歸る。これも小僧に見させたるに門の外(ソト)にて見えずなりしかば、驚きて和尚に語り、よく見れば亦茶は疊の間にこぼしてあり、老人はその日失せたり。

[やぶちゃん注:「觸頭(フレガシラ)」江戸時代の寺院統制機構の一つ。幕府及び各藩の寺社奉行の下で、本山及び一般寺院の上申下達の仲介を行い、また、一定の統制に当たった寺院。室町幕府の「僧録司(僧録)」がその起源で、戦国期には各大名が有力寺院を「僧(総)録」とか「録所」の名で呼び、領内寺院の統制に当たらせた。宗派別に置かれた場合と、全宗派を合して一寺とした場合があり(ここは後者であろう)、これは江戸時代の各藩ごとの触頭の場合にも同様に見られる(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。]

佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 八四、八五 海べりの西洋人・アルビノ

 

八四 佐々木氏の祖父は七十ばかりにて三四年前に亡くなりし人なり。この人の靑年の頃と云へば、嘉永[やぶちゃん注:一八四八年から一八五五年まで。アメリカの東インド艦隊ペリー提督が四隻の黒船を率いて浦賀沖に到着したのは嘉永六(一八五三)年六月で、翌嘉永七年三月三日(一八五四年三月三十一日に「日米和親条約」が締結されている。]の頃なるべきか。海岸の地には西洋人あまた來住してありき。釜石にも山田[やぶちゃん注:現在の岩手県下閉伊郡山田町(やまだまち)。(グーグル・マップ・データ)。]にも西洋館あり。船越[やぶちゃん注:「ふなこし」。]の半島[やぶちゃん注:(国土地理院図)。]の突端にも西洋人の住みしことあり。耶蘇教は密々に行は、遠野鄕にても之を奉じて磔(ハリツケ)になりたる者あり。濱に行きたる人の話に、異人はよく抱き合ひては嘗(ナ)め合ふ者なりなど云ふことを、今でも話にする老人あり。海岸地方には合(アヒ)の子(コ)なかなか多かりしと云ふことなり。

 

八五 土淵村の柏崎にては兩親とも正しく[やぶちゃん注:「まさしく」。]日本人にして白子(シラコ)二人ある家あり。髮も肌も眼も西洋人の通りなり。今は二十六七位なるべし。家にて農業を營む。語音も土地の人とは同じからず、聲細くして鋭(スルド)し。

佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 八三 山口大洞家のこと

 

八三 山口の大同、大洞萬之丞の家の建てざまは少しく外の家とはかはれり。其圖次の頁に出す。玄關は巽(タツミ)[やぶちゃん注:南東。]の方に向へり。極めて古き家なり。此家には出して見れば祟ありとて開かざる古文書の葛籠(ツヾラ)一つあり。

[やぶちゃん注:以下、底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングして示し、キャプションその他を注する。まず、この家の門は略されているが、どうも前の田尻家の「曲り家」に準ずるならば、上(「イ」の玄関が巽であるからには東北)にある庭(坪前)の先を左に抜けた川の上端外に橋があり、その内側に門があると読まねばならない。則ち、門は北西を向いていることになる。面白いのはそうなると、同じ面の南に裏口があるということになるが、これは「裏口」と言っても内部の直近(下部)「臺所」(厨房)の「勝手口」であるから、特に不審はない。

「ロ 前の口」は田尻家と同じく主人以外の家人の出入り通用口。

「ト ウチノ爐」「内の爐(ろ)」で炊事の竃(かまど)。

「オンニヤ(御庭)」「ちくま文庫」版全集では拗音化されて『オンニャ』とする。

「ホラ前」既出の例の母屋と厩との接合部の屋根の谷の部分及びその前の部分を指す「洞前」。

「据釜」田尻家の「馬ノカマ」と同性質のものであろう。土間全体を保温する効果もありそうに見える。その土間の「裏口」の手前になる梯状のものが不審だが、これは可動(取り外し可能)の常居と台所を給仕の際などに素足で行き来出来るようにした板敷きの簡易通路ではないかと私には思われる。

「セドノ口」「背の口」(家の後ろの出入り口・裏口の意)。これが真正のこの家の文字通りの「裏口」である。

 

Dadouikemitorizu

 

佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 七七~八二 「曲り家」と怪異

 

七七 山口の田尻長三郞と云ふは土淵村一番の物持なり。當主なる老人の話に、此人四十あまりの頃、おひで老人[やぶちゃん注:「お秀老人」で、「六九」に登場した土淵村の山口の大同の当主大洞萬之亟の養母で佐々木喜善の祖母の姉のこと。]の息子(ムスコ)亡(ナ)くなりて葬式の夜、人々念佛を終り各[やぶちゃん注:「おのおの」。]歸り行きし跡に、自分のみは話好(ハナシズキ)なれば少しあとになりて立ち出でしに、軒の雨落(アマオチ)ちの石を枕にして仰臥したる男あり。よく見れば見も知らぬ人にて死してあるやうなり。月のある夜なれば其光にて見るに、膝を立て口を開きてあり。此人大膽者にて足にて搖(ウゴ)かして見たれど少しも身じろぎせず。道を妨(サマタ)げて外にせん方(カタ)もなければ、終に之を跨(マタ)ぎて家に歸りたり。次の朝行きて見れば勿論其跡方もなく、又誰も外に之を見たりと云ふ人は無かりしかど、その枕にしてありし石の形と在(アリ)どころとは昨夜の見覺(ミオボ)えの通りなり。此人の曰く、手を掛けて見たらばよかりしに、半ば恐ろしければ唯足にて觸(フ)れたるのみなりし故、更に何物のわざとも思ひ付かずと。

[やぶちゃん注:遺体或いはそれに変じた霊や魔性のものが道を塞ぐという怪談はしばしば語られるもので、それに怖じず、それを跨ぐことで、却って何らの呵責や魔障を受けずに済むことが多いのである。これもその類話の一つである。嘘だって? 私の「宿直草卷二 第六 女は天性、肝ふとき事」を見よ!

「軒の雨落(アマオチ)」建築用語では「軒先から地面に垂直に降ろした地面部分」を「雨落ち」と称する。旧和建築では現在のように軒樋を付けることはまずなく、軒から雨水を垂れ流しにして溝で屋敷外へ流し出していたが、この場合、雨水が直に地表表面の土に溜まって泥になると、それが内側に跳ねて建物が汚れるため、その位置や溝に玉砂利や敷石を引いた。]

 

七八 同じ人の話に、家に奉公せし山口の長藏なる者、今も七十餘の老翁にて生存す。曾て夜遊びに出でゝ遲くかへり來たりしに、主人の家の門は大槌(オホヅチ)往還に向ひて立てるが、この門の前にて濱の方より來る人に逢へり。雪合羽(ユキガツパ)を著たり[やぶちゃん注:「きたり」。]。近づきて立ちとまる故、長藏も恠しみて之を見たるに、往還を隔てゝ向側なる畠地の方へすつと反(ソ)れて行きたり。かしこには垣根ありし筈(ハヅ)なるにと思ひて、よく見れば垣根は正しくあり。急に怖ろしくなりて家の内に飛び込み、主人にこの事を語りしが、後になりて聞けば、此と同じ時刻に新張村(ニヒバリムラ)の何某と云ふ者、濱よりの歸り途に馬より落ちて死したりとのことなり。

[やぶちゃん注:「雪合羽」裾が拡がった形の雪国で用いられる合羽。雪が滑り落ちやすく なるように足元まで隠れるほど長いもので、材質は毛・木綿・藁(但し、その場合は雪蓑と称することが多い)で出来ている。]

 

七九 この長藏の父をも亦長藏と云ふ。代々田尻家の奉公人にて、その妻と共に仕へてありき。若き頃夜遊びに出で、まだ宵のうちに歸り來たり、門(カド)の口(クチ)より入りしに、洞前(ホラマヘ)に立てる人影あり。懷手をして筒袖の袖口を垂れ、顏は茫としてよく見えず。妻は名をおつねと云へり。おつねのところへ來たるヨバヒト【○ヨバヒトは呼ばひ人なるべし女に思ひを運ぶ人をかく云ふ】では無いかと思ひ、つかつかと近よりしに、裏の方へは遁げずして、却つて右手の玄關の方へ寄る故、人を馬鹿にするなと腹立たしくなりて、猶進みたるに、懷手のまゝ後(アト)ずさりして玄關のの三寸ばかり明きたる所より、すつと内に入(ハイ)りたり。されど長藏は猶不思議とも思はず、其の隙に手を差入れて中を探らんとせしに、中の障子は正しく閉(トザ)してあり。茲に始めて恐ろしくなり、少し引下らんとして上を見れば、今の男玄關の雲壁(クモカベ)【○雲壁はなげしの外側の壁なり】にひたと附きて我を見下す如く、其首は低く垂れて我頭に觸るゝばかりにて、其眼の球は尺餘も、拔け出でゝあるやうに思はれたりと云ふ。此時は只恐ろしかりしのみにて何事の前兆にても非ざりき。

[やぶちゃん注:「洞前(ホラマヘ)」岩手県下に多く見られる草葺き民家形式である「曲り屋造り」(平面はL字形を成し、突出部は広い厩(うまや)で主屋の土間と繋がる独特の形状を成す)が、この接合部の屋根の谷の部分を「洞(ほら)」と呼ぶ。この向かって右側(厩の反対部分)が主人以外の家人の通用の出入り口に当たる(正規の玄関はその手前の右部分にある)。なお、厩の大きさは二間(三・六四メートル弱)四方以上あり、「うまや(んまや)」「まや」とも呼ぶ。次の条の底本の図を参照のこと。

「ヨバヒト【○ヨバヒトは呼ばひ人なるべし女に思ひを運ぶ人をかく云ふ】」如何にもクソな注である。夜這い行為は農村部では第二次世界大戦後まで実際に存在した。この注は民俗学的考現学的にもクソ文学的なオブラート二重のない方がマシな不要注に他ならない。性風俗除外派の柳田のお笑い注と言ってもよい。

「なげし」「長押」。柱と柱の間の壁面に取り付ける装飾的な水平に打ち付けた横木或いは平面材。ここは叙述から、先に示した正規の玄関の上部の上長押(かみなげし)であろう。]

 

八〇 右の話をよく呑込む爲には、田尻氏の家のさまを圖にする必要あり。遠野一鄕の家の建て方は何れも之と大同小異なり。

[やぶちゃん注:ここに以下の図がある。図は底本の国立国会図書館デジタルコレクションの四十一と四十二コマの画像(後者は図のみをトリミングした)を用いた。一枚目の図は改頁部分は詰めて認識する必要があるが、中央の「主人ネマ」と下部の「坪マヘ」以外は仕切りがあるので注意されたい。]

 

Tajirikehaitizu


Jyoui

 

門は此家のは北向なれど、通例は東向なり。右の圖にて厩舍[やぶちゃん注:「うまや」。]のあるあたりに在るなり。門のことを城前(ジヤウマヘ)と云ふ。屋敷のめぐりは畠にて、圍墻[やぶちゃん注:「いしやう」或いは「かこみ」。垣根や土塀のこと。]を設けず。主人の寢室とウチとの間に小さく暗き室あり。之を座頭部屋[やぶちゃん注:「ざとうべや」。]と云ふ。昔は家に宴會あれば必ず座頭を喚びたり。之を待たせ置く部屋なり。

【○此地方を旅行して最も心とまるは家の形の何れもかぎの手なることなり此家などそのよき例なり】

[やぶちゃん注:図のキャプションを右から左、上から下に注する。

「ハタ」「畑」。

「ホリ」「堀」。その上の堀の左(本文に従えば南側)は「門」の略字。

「クラ」「クヲ」に見えるが「クラ」で「蔵」(南端のそれも同じ)。門のそばにあるのは長屋門形式の変形であろうか。

「井」(三画目は直線)井戸。

「ウラ口」(他でもそうだが、「ラ」は「ヲ」に見えるので注意されたい)「裏口」。

「ヱン」「緣」。

「ウツコ」「ウツギ」のことであろう(「空木(うつき(ぎ))」の「木」を「こ」と読んだもの)。「ちくま文庫」版全集では「ウツギ」となっている。既出既注のミズキ目アジサイ科ウツギ属ウツギ Deutzia crenata

「ヒバ」「檜葉」ヒノキ(球果植物門マツ綱マツ目ヒノキ科ヒノキ属ヒノキ Chamaecyparis obtusa)やサワラ(椹。ヒノキ属サワラ Chamaecyparis pisifera)の別名。

「井ロリ」(「井」三画目は直線)は「ヰロリ」で「囲炉裏」。

「ウチ」(「内」であろう)「常居」「じやうゐ(じょうい)」と読み、家の中で家族がいつもいる居間のこと。

「ウラ茶ノマ」「裏茶の間」。

「小ザシキ」「小(こ)座敷」で「(七、五)」は七畳半(しちじょうはん)は、八畳の広さの内の半畳を欠いた間取りのものと四畳半に三畳を加えた間取りのものがあるが、孰れにしても、この図のような正方形にはならない。「マハリエン」(「𢌞り緣」)の一画が(図の「小ザシキ」の下部(南北の孰れかが半畳分凹んでいて、そこが給仕口等になっているのであろう。

「主人子マ」「子」はカタカナの「ネ」の代字(以下略す)。「主人」の「寢間」。

「城まへ」「城前」。家を城に見立て、そのエントランス部分。「カドノクチ」も「曲り家」の「角」(或いは「曲り家」そのもの)の入「口」の通路の意と思われる。

「坪マヘ」「坪前」。家の「前」の「坪」庭。

「奉公人子マ」「奉公人」の「寢間」。

「オモテ茶ノマ」「表茶の間」。

「カベ」「壁」。客や主人らは西の「オモテ茶ノマ」或いは十二畳の「ザシキ」(座敷)から家に入る形であろう。

「カラウスバ」「唐臼場」。米を精米する唐臼を置いて作業をする場所。「美濃加茂市民ミュージアム 美濃加茂市教育センター」公式サイト内の「カラウス(唐臼)」を見て戴けば、井の字型のニュアンスが判ると思う。

「ウマヤ」「厩」。季節によっては、この屋外の厩を馬牛のために用いるのであろう。

「馬ノカマ」よく判らないが、冬季に厩を温めるための「竃(かま)」であろうか。家人の厨房のそれの指示がないが、察するに、常居の北西にある土間がそれであろう

「ウマヤ」この曲り家に接合する方の厩の周囲の長方形の十個の記号は柵であろうか。

「ホラマヘ」「洞前」。「七九」に既出既注。

「ニハ」「庭」。

「ナガヤ(納屋)」「長屋」。これも位置的に長屋門の大きな変形と捉え得る。

「ハタ」「畑」。

「クラ」「藏」。

 以下、「常居」「ウチ」の拡大図。但し、見れば一致しないことで判る通り、これは前の田尻家のそれでは、ない

「臺ドコロ」「臺所」(台所)。厨房。

「キンスリ座」「木尻(きじり)座」の転訛。本来は、爐の薪の尻をそちらの方へ向けておくことに由来した。煙いのを我慢せねばならぬ、囲炉裏では最もよくない座で、最上席の主人の正面であるが、格別に身分の低い者の末席で、雇い人・出入の者の座る最悪の座席であった。

「ケグラ座」第二位の席。奥の厨房に近い位置で、主婦の座。北側になることが多いので「北座」とも称される。この座には祖母や娘も並んで座る。食事の給仕をする場所であることから、食(け)に因み、「けざ」「けどこ」「けんざ」「けぐらざ」など多くの呼び名がある。農家の主婦は主人とともに農事を担い、食物の配分などの家政の責任者であったことから、囲炉裏での座は低くなく、ここは第二位の定席だったのである。

「爐」「ろ」。囲炉裏。

「客座」狭義のゲストの意ではなく、外来者・他所(よそ)から来た者の意。客がない時は家長以外の男の席なので「男座」とも称する。第三位の座でグレードは低い。

「橫座」「よこざ」。囲炉裏端の主人の定席。囲炉裏の最上席。茣蓙又は畳を横に敷くところからこの呼称がありる。戸主権の象徴とされる席で、主人が不在の時でも他の者はこの席に座らず、また、「横座を譲る」ことは「隠居」を意味した。

「側椽」「そくえん」。緣側。「椽」の「緣」への慣用使用は既に述べた。]

 

八一 栃内の字[やぶちゃん注:「あざ」。]野崎に前川萬吉と云ふ人あり。二三年前に三十餘にて亡くなりたり。この人も死ぬる二三年前に夜遊びに出でゝ歸りしに、門(カド)の口(クチ)より廻(マハ)り椽(エン)に沿ひてその角(カド)迄來たるとき、六月の月夜のことなり、何心なく雲壁(クモカベ)を見れば、ひたと之に附きて寢たる男あり。色の蒼ざめたる顏なりき。大に驚きて病みたりしが此も何の前兆にても非ざりき。田尻氏の息子丸吉此人と懇親にて之を聞きたり。

 

八二 これは田尻丸吉と云ふ人が自ら遭ひたることなり。少年の頃ある夜常居(ジヤウヰ)より立ちて便所に行かんとして茶の間に入りしに、座敷との境に人立てり。幽(カス)かに茫としてはあれど、衣類の縞も眼鼻もよく見え、髮をば垂れたり。恐ろしけれどそこへ手を延ばして探りしに、板にがたと突き當り、のさんにも觸(サハ)りたり。されど我手は見えずして、其上に影のやうに重(カサ)なりて人の形あり。その顏の所へ手を遣れば又手の上に顏見ゆ。常居(ジヤウヰ)に歸りて人々に話し、行燈[やぶちゃん注:「あんどん」。]を持ち行きて見たれば、既に何物も在らざりき。此人は近代的の人にて怜悧なる人なり。又虛言を爲す人にも非ず。

[やぶちゃん注:「怜悧」(れいり)は「頭の働きが優れていて、賢いこと」。]

2018/12/29

カンパネルラ

大丈夫だよ、ジヨバンニ、僕は君といつも一緒だよ――ううん、あの人たちはね、ちよつとだけ間違つてゐるだけなんだ――ちよつとだけ、ね――

2018/12/28

ジヨバンニ

カンパネルラ……僕の尊敬してゐた人々は……さうか……そんな人たちだつたのかなあ…………

ホワイトハウスへの辺野古請願を!!!

 

「メール認証で署名完了 ホワイトハウスの辺野古請願」

(『琉球新報』のマニュアル記事)

署名完了まで一分かからない。「やるべし!」(「七人の侍」の村長の口調で)

佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 七五、七六 離森

 

七五 離森(ハナレモリ)の長者屋敷にはこの數年前まで燐寸(マツチ)の軸木(ヂクギ)の工場(コウバ)ありたり。其小屋の口に夜(ヨル)になれば女の伺ひ寄りて人を見てげたげたと笑ふ者ありて、淋しさに堪へざる故、終に工場を大字[やぶちゃん注:「おほあざ」。]山口に移したり。其後又同じ山中に枕木伐出(マクラギキリダシ)のために小屋を掛けたる者ありしが、夕方になると人夫の者何れへか迷ひ行き、歸りて後茫然としてあること屢(シバシバ)なり。かかる人夫四五人もありて其後もえず何方[やぶちゃん注:「いづかた」。]へか出でゝ行くことありき。此者どもが後に言ふを聞けば、女が來て何處(ドコ)へか連れ出すなり。歸りて後は二日も三日も物を覺えずと云へり。

[やぶちゃん注:「離森」三四で既出既注であるが、再掲しておくと、この琴畑川の南岸部辺りである(国土地理院図)。なお、東北地方で「森」と言った場合は、必ずしも我々の想起する平地にある森ではなく、寧ろ、小高い丘陵や幾つかの山塊の個別なピーク或いは独立した台地を指すことが多い。しかもそこが樹木に覆われておらず、下草ばかりであったり、丸裸であったりしても「森」なのである。これは宮澤賢治の「春と修羅」「第四梯形」などを読めば一目瞭然である。ここは「工場」「枕木伐出のため」の「小屋」という以上はやや平地が確保出来、水運の便もあるであろう現在の琴畑集落の近くかとは思われる。また、これは三四の『白望の山續きに離森と云ふ所あり。その小字に長者屋敷と云ふは、全く無人の境なり。玆に行きて炭を燒く者ありき。或夜その小屋の垂菰をかかげて、内を窺ふ者を見たり。髮を長く二つに分けて垂れたる女なり。此あたりにても深夜に女の叫聲を聞くことは珍しからず』という内容とも、すこぶる酷似する。そちらが「炭燒」きであるから、或いは近代以前からの伝承を、近代版にリニュアールしてリアリズムを添えたとも言えるが、こちらは精気をすっかり搾り取られて「茫然として」「二日も三日も物を覺えず」という辺りは寧ろ、古形の女形の淫魔スクブス(ラテン語:Succubus:古代ローマ神話とキリスト教に於いて悪魔の一人に数えられる女の夢魔。男性の夢の中に現れて性交を行うとされる。古くは夢精はスクブスの仕業と信じられていた)的性魔の雰囲気である。ともかくも、これらは濃厚な性の臭いに満ちたもので、性表現抑止健全民俗学派の柳田にも除去し切れない魅惑があったものであろう。こういうのを見ると、野坂昭如の「四畳半襖の下張」(永井荷風著)の裁判での名言を想起せざるを得ない。「猥褻だと思うあんたが猥褻なんだ」よ、柳田さん!

 

七六 長者屋敷は昔時長者の住みたりし址なりとて、其あたりにも糠森(ヌカモリ)と云ふ山あり。長者の家の糠を捨てたるが成れるなりと云ふ。此山中には五(イツ)つ葉(バ)のうつ木(ギ)ありて、其下に黃金を埋めてありとて、今も其うつぎの有處(アリカ)を求めあるく者稀々にあり。この長者は昔の金山師[やぶちゃん注:「かなやまし」。]なりしならんか、此あたりには鐵を吹きたる滓(カス)あり。恩德(オンドク)の金山(キンザン)もこれより山續きにて遠からず。

【○諸國のヌカ塚スクモ塚には多くは之と同じき長者傳を伴へり又黃金埋藏の傳も諸國に限りなく多くあり】

[やぶちゃん注:「長者の家の糠を捨てたるが成れるなりと云ふ」米糠を使いもせず、捨てたところが、それが積もり積もって(それほど白米をふんだんに食ったということで)山(森)となったわけで長者にしか成し得ない山なわけである。

「うつ木(ギ)」: ミズキ目アジサイ科ウツギ属ウツギ Deutzia crenata。「五(イツ)つ葉(バ)」というのが、今一つ、イメージし難いが、ウィキの「ウツギ」によれば、本種の『葉の形は変化が多く、卵形、楕円形、卵状披針形になり、葉柄をもって対生する』とあるので、四つの切れ込みが入った五つの針型分葉を有する卵状披針形ととればよいか。和名は「空木」で、茎が中空であることからの命名であるとされる。

「十五世紀末から十六世紀にかけて発生した鉱山業者。「山師(やまし)」はこの略。

「恩德(オンドク)の金山(キンザン)」現在の岩手県遠野市土淵町栃内恩徳。現在の琴畑集落の北一・六キロメートル位置。ここ(国土地理院図)。個人ブログ「釜石の日々」の「東北の黄金」に、『東北ではかって沢山の金が採掘された。万葉集で大伴家持が詠んだ「須売呂伎能 御代佐可延牟等 阿頭麻奈流 美知乃久夜麻尓 金花佐久(天皇の 御代栄えむと 東なる 陸奥山に 金花 咲く)の歌がある。岩手でも金が産出されており、釜石近辺では遠野、大槌、陸前高田などで産出され、河川での砂金採りも』曾ては『行われていたようだ。遠野では南北朝時代の阿曽沼氏の支配下で小友地区での金の採掘が主に菊池一族の手で行われはじめたようだ』、雑誌『旅』に以前、載った水上勉の「伝説のふるさと・遠野」にも『恩徳地区にも金鉱があったことが触れられて』あり、『親指大の沢山の金を箱に詰めた物を持ったまま川で亡くなっていた男の話等も出ている』。遠野に北東で接する『大槌には金沢地区のそのものずばりの金山があり、金鉱の精錬場跡と言われる金山平がある。大切坑跡と言われるところなどは現在でも坑道口が開いていて坑道内へも入ることができるそうだ。雲之峰と呼ばれるところにも万歳坑や胡桃坑などの名が付いた坑道があるそうだ』とされ(中略)、最後に『蝦夷の住んだ地にはマルコポーロの黄金のジパングがあった』のであると述べておられる。

「ヌカ塚」に既出既注。

「スクモ塚」「すくも」は「泥炭」或いは「葦や萱などの枯れたもの」又は「藻屑」・「葦の根」はたまた「籾穀」の意ともされるようである。前の糠塚と同じく古墳様の人口丘陵を指すようだが、検索では圧倒的に島根県益田市久城町にある須久茂塚古墳(スクモ塚古墳)が出るばかりである。ウィキの「スクモ古墳によれば、この古墳自体は昭和一四(一九三九)年の発見(発掘は二年後)であり、本書の刊行より、後ではある。但し、この「すくも塚」という名自体が、『不要になった籾殻を積み上げでできたという伝説による』とあるから、ここが古墳であることが知られる以前から「すくも塚」と呼称されていたことが判るから、ここを代表例として問題はないと思われる。須久茂塚古墳は直径五十七メートルの『円墳か、円墳と方墳の接合墳であるとされるが、全長』百『メートル、高さ』七『メートルにおよぶ前方後円墳とする説もあ』り、『いずれにしても、その墳形では石見地方最大、島根県下でも最大級の古墳である』とある。]

 

佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 七二~七四 カクラサマ

 

七二 栃内(トチナイ)村の字[やぶちゃん注:「あざ」。]琴畑(コトバタ)は深山の澤にあり。家の數は五軒ばかり、小烏瀨(コガラセ)川の支流の水上(ミナカミ)なり。此より栃内の民居まで二里を隔つ。琴畑の入口に塚あり。塚の上には木の座像(ザゾウ[やぶちゃん注:ママ。])あり。およそ人の大きさにて、以前は堂の中に在りしが、今は雨(アマ)ざらし也。之をカクラサマと云ふ。村の子供之を玩物(モテアソビモノ)にし、引き出して川へ投げ入れ又路上を引きずりなどする故に、今は鼻も口も見えぬやうになれり。或は子供を叱(シカ)り戒めて之を制止する者あれば、却りて祟を受け病むことありと云へり。

【○神體佛像子供と遊ぶを好み之を制止するを怒り玉ふこと外にも例多し遠江小笠郡大池村東光寺の藥師佛(掛川志)、駿河安倍郡豐田村曲金[やぶちゃん注:「まがりがね」。]の軍陣坊社の神(新風土記)、又は信濃筑摩郡射手の彌陀堂の木佛(信濃奇勝錄)など是なり】

[やぶちゃん注:「神體佛像」が「子供と遊ぶを好」むのは判るが、「之を制止する」者に「祟を受け病む」というのは尋常な事態ではない。これは寧ろ、その「神體佛像」だと思っているものが、特殊な条件下で神霊に祭り上げられた対象であった、即ち、それが一種の御霊(ごりょう)であるからに他ならないと私は思う。ネットを縦覧した限りでは、この「カクラサマ」をしっかり掘り下げておられるのは、たびたび引用させて戴いているdostoev氏のブログ『不思議空間「遠野」-「遠野物語」をwebせよ!-』の『「遠野物語73(恐ろしいカクラサマ)」』にとどめを刺すと思う。そこでdostoev氏は『佐々木喜善「遠野雑記」では「不思議なるは、栃内村字米通路傍の森の中に在すカクラサマは、全く陰茎形の石神なることなり。然れども未だ彼のオコマサマの如く、男女の愛情其の他の祈願にて、このカクラサマに参詣したり等の話を聞きたることなし。」』を引き、佐々木の素朴な不審を示された後、『しかし』、伊能嘉矩(いのうかのり 慶応三(一八六七)年~大正一四(一九二五)年:遠野出身の人類学者・民俗学者。特に台湾原住民の研究では台湾総督府雇員となって「台湾蕃人事情」(明治三三(一九〇〇)年台湾総督府民政部文書課刊。粟野伝之丞との共著)等の膨大な成果を残した。明治三九(一九〇六)年に本土に戻ってからは、郷里遠野を中心とした調査・研究を行うようになり、「上閉伊郡志」「岩手県史」「遠野夜話」等を著し、その研究を通じて柳田國男と交流を持つようにもなり、郷里の後輩である佐々木喜善とともに柳田の「遠野物語」成立に影響を与えた。郷里岩手県遠野地方の歴史・民俗・方言の研究にも取り組み、遠野民俗学の先駆者と言われた。ここはウィキの「伊能嘉矩」に拠った)の「遠野のくさぐさ」では『「積善寺境内に当たる所に一溝ありて、大鶴堰と云ふ。蓋し大鶴(タイカク)はオカクの転にて、オカクラサマの略さられに非じか。即ちこゝにオカクラサマの鎮まりしより、土名となりけんことうつなし。」』(「うつなし」は上代からの形容詞で「疑いない・確かだ」の意)とあるとする。「堰」であり、「鎮」である。ピンとくるこられる方も多いであろうが、これは橋に見られる人柱なのではないか、と思いつつ、dostoev氏の記事を読み続けると(引用が長くなるので諸検証部を中略して結論部だけを繫げておくので必ずリンク先を全文読まれたい)、『カクラサマが男女二対となっているのは、もしかして』『理不尽の元に死んでいった男女二人を祀った可能性があるかもしれない。ただし、その多くが罪人であった可能性は、カクラサマが紐によって結ばれ引き回されるという市中引き回しの刑を想起させる事である』とし、遠野のカクラサマへの特異な対応は、まさに『オシラサマが屋内で祀られ毎年恒例のオシラアソベやらオセンダクをされるのと対局で、触らぬ神に祟り無し』とする対象が『カクラサマで』あったからに他ならななかったからではないか?』と述べられた上、『ただカクラサマに触れ』得『るのは、神の子の内である子供達だけであった』のであり、『それはつまり、カクラサマとされた神は、罪人として川に鎮められた人柱では無かった』『だろうか』と結んでおられる。非常に肯んずることの出来る論考と思う。なお、柳田國男はこの四年後の大正三(一九一四)年八月発行の『郷土研究』(第二巻第六号)に「子安地蔵」という短い論考を発表しており、そこで本邦の各地に伝わる仏像虐待の風習に言及しているが、そこで、このカクラサマを引き合いの初めとして、以下のように述べている(底本は「ちくま文庫」版全集を用いたが、ルビは一部を略した)。

   *

 我々の地蔵は子供がお好きで大人には存外厳格である。『南路志続篇稿草』巻二十三に採録したる怪談抄の中に、土州山内家家中乾(いぬい)氏の表石垣の辺の一所、物なくして人のよく蹶(つまず)く所あり。ある年の夏の門涼(かどすずみ)のとき、若党ここにて仮睡してありし夢に、僧来たりて連夕[やぶちゃん注:「れんゆう」。]告げるところあり。これによりて地を掘り見るに、平石に地蔵の半身彫りたるが石垣の内にあり。すなわち浄洗して小丁稚(でっち)に命じて常通寺へやりしが、この子供中途地蔵の包薦(つつみこも)に縄を附けて引摺(ひきず)り行く。傍輩の中間途中にて出会いこれを戒め自ら肩に担わんとすれば、両足しびれ歩行ならず。再び小者(こもの)に渡しければまた縄を附けて行きけり。その中問屋敷へ帰るや否(いなや)、俄かに発熱して譫言(うわごと)をいうよう、せっかく丁椎に引張られて面白く思いしに、無用の誡(いましめ)を与えしゆえ崇るぞとの仰せなり。すなわちかの丁稚に頼み深く詫びければ無事になれり。その地蔵は今も常通寺(高知)にありという。この話を見た人はあるいは思い出されるかも知らぬ。以前佐々木君の「遠野雑記」の中に(人琴学雑誌二八巻四号)遠野のカクラサマは野天にありて、夏は子供らのために舟の用を勤めて川に浮かび、冬はまた橇(そり)に代用せられて走らせらる。しかもこれを悦びてこれを叱る大人に対しては機嫌よからず。土淵村字大洞の野中のカクラサマなどは、かくして子供等のために川に流され、今は台石と松の木のみあり。この神は諸々の神たちの道中したまうときの休場の神なりという(以上)。奥州のカクラサマは路傍の神には珍らしい木像である。しかとは判らぬが円頂の御姿であった。地蔵の一族でないまでも、その外戚の道祖神とは縁が近そうだ。『駿河新風土記』に、今の安倍郡豊田村大字曲金の軍陣坊社、これも路傍の荒神である。この社の神体は常に子供の弄び物となり、これを叱った老人に祟のあったこと、その書物のできた弘化年中[やぶちゃん注:一八四五年~一八四八年。但し、後で示す通り、完成はそれより前。]よりさらに六七十年前の事実だと言い、またほど近い不二見村大字北矢部の十八祖社の神体たる烏帽子・直衣(のうし)の木像にも、同じ出来事があったと記してある。遠江では小笠郡大池村、東光寺の薬師堂の古い木像についても同じ伝説のあること、これは『掛川志』に見えている。『信濃奇勝録』巻一には、西筑摩郡の射手の弥陀堂の本尊の木像、五体すでに完(まった)からず。春分の日児童小弓にてこれを射る。この日醴(あまざけ)を造り児童をもてなす。木像平日は菰の上に置く。縄にて樹上につるしなどすとある。これも同じ例である。

 仏像虐待の慣習はいかにも不審な話であるが、晴雨を禱(いの)りないしは瘧(おこり)を落す目的をもって、これを行うという例今も稀ではない。それがまた石地蔵に多いようである。化地蔵、切られ地蔵の類に至っては、ほとんと言語道断の冷遇であって、何のために菩薩としておくのか判らぬくらいである。しかしそれにもしかるべき中世的理由があったのであろう。我々はそれを忘れた。[やぶちゃん注:以下略。]

   *

「現在の静岡県掛川市下俣の曹洞宗醫王山東光寺であろう。前身の創建は養老年間(七二〇年代)で行基菩薩の開基とし、元は真言宗。本尊薬師如来は平将門の念持仏であり、「天慶の乱」(九四〇年)の後、将門等十九人の首級をこの地に葬った時、ここにあった草庵に祀り、醫王山平将寺を建立(一五三〇年代)、後に曹洞宗に改宗し、東光寺と改称している。将門である。御霊のチャンピオンの一人ではないか。

「掛川志」「掛川誌稾(こう)」掛川藩主太田資順(すけのぶ)が藩政資料とするために文化二(一八〇五)年に藩士斎田茂先(さいだしげとき)・山本忠英(ただふさ)に編纂させた藩領地誌。全十五巻。

「駿河安倍郡豐田村曲金の軍陣坊社の神」現在の静岡市駿河区曲金にある軍神社(ぐんじんじゃ)。個人ブログ「神が宿るところ」の「軍神社」に、『社伝によれば』、延暦二〇(八〇一)年、『桓武天皇の命を受け』、『坂上田村麻呂が蝦夷を平定したことを記念して創建されたという。一説には、日本武尊が東国平定を祈願して創建されたともいう。祭神は武甕槌命(タケミカヅチ)。かつては、隣接する曹洞宗の寺院「仏国山 法蔵寺」と一体で、祭神は摩利支天とされており、今川氏以来、武家の信仰を受けた。なお、祭神については、武甕槌命と経津主命(フツヌシ)の』二『神とするともいわれるが、一方でこの2神は同一とする説がある(これは当神社に限ったことではなく、フツヌシはタケミカヅチの別名であるとする説があることによる。)。タケミカヅチは「鹿島神宮」(常陸国一宮)、フツヌシは「香取神宮」(下総国一宮)の祭神で、どちらも武神とされて、武家の信仰を集めた』。『ところで、当神社は、かつては「軍人坊」と称されていた。「坊」という言葉には、僧侶の住む場所(僧坊)という意味もあるが、奈良・平安時代には』四町(約四三六メートル)『四方に区切られた方形の行政区画を意味した。元は、ここに有度軍団が置かれ、軍人が集まる場所ということで「軍人坊」と称したのではないかとされている。当神社の北側を古代東海道が通過しており』、『この付近では、古代東海道は近世東海道とほぼ重なっており、近世東海道は当神社の少し西側からカーヴして横田見附~府中宿に向かった。こうしたことから、駿河国府の東側入口の警備を固めていた場所ではないかと考えられる。なお、「グン」の音から、ここを「有度郡家」所在地とする説もある』(有度(うど)郡は「大化の改新」(六四六年)の後に七つの郡に分けられた駿河国の一つ。その郡司家のことであろう)。『さて、当神社には次のような昔話が伝えられている。即ち、村の悪童らが軍神社の神像を持ち出し、首に縄をかけて道に引き回して遊んでいたのを、村の老人が見咎め、神像を洗い清めて社に戻した。ところが、その夜、その老人が病気になって神懸り、「子供らと楽しく遊んでいたのに、なぜ邪魔をしたのか。」とうわ言をいうようになった。驚いた家族が神に謝罪すると、老人は回復したという。実は、似たような話は他所にもあるが、子供に悪戯されるのは地蔵菩薩であることが多い(地蔵菩薩は子供の守り神と考えられたため。)。そして、当神社のこの昔話では、「神像」と言っているので、神仏混淆後に作られた話ということになる(神像が作られるようになるのは、仏教の影響であり、本地垂迹説の影響で僧形の神像等も多数作られた。)。昔話と言っても案外新しく、せいぜい江戸時代頃に僧侶が作った話ではないか、とも思われる』とある。戦で死んだ勇ましい武人とは御霊の典型である。

「新風土記」「駿河国新風土記」か。新庄道雄(通称三階屋甚右衛門。駿府江川町で宿屋を営んでいた町人であるが、好学の士で、三十代半ばで「駿河大地誌」の編纂者の一人に選ばれており(同書自体は頓挫)、平田篤胤の門人でもあった)が文化一三(一八一六)年から天保五(一八三四)年にかけて記した全二十五巻の駿河地誌。

「信濃筑摩郡射手の彌陀堂の木佛」先の柳田の「子安地蔵」には『西筑摩郡の射手の弥陀堂』とあり、西筑摩郡は現在の木曽郡であるが、「射手」の地名が見当たらない。識者の御教授を乞う。以下の「信濃奇勝録」巻一にあるとするのも、国立国会図書館デジタルコレクションの画像でざっと見てみたが、探し方が悪いのか、見当たらない。

「信濃奇勝錄」江戸末期の信濃国佐久郡臼田町(現在は長野県佐久市内)の神官であった井出道貞(いでみちさだ)が信濃国各地を十数年に亙って実地踏査を重ね、その見分した成果を記録した地誌。全五巻。]

 

七三 カクラサマの木像は遠野鄕のうちに數多(アマタ)あり。栃内の字西内(ニシナイ)にもあり。山口分の大洞(オホホラ)と云ふ所にもありしことを記憶する者あり。カクラサマは人の之を信仰する者なし。粗末なる彫刻にて、衣裳(イシヤウ)頭(カシラ)の飾[やぶちゃん注:「かざり」。]の有樣も不分明なり。

 

七四 栃内のカクラサマは右の大小二つなり。土淵一村にては三つか四つあり。何れのカクラサマも木の半身像にてなた[やぶちゃん注:鉈。]の荒削(アラケヅ)りの無恰好[やぶちゃん注:「ぶかつこう」。]なるもの也。されど人の顏なりと云ふことだけは分(ワカ)るなり。カクラサマとは以前は神々の旅をして休息したまふべき場所の名なりしが、其地に常[やぶちゃん注:「つね」。]います神をかく唱ふることゝなれり。

[やぶちゃん注:「荒削りの無恰好なるもの也。されど人の顏なりと云ふことだけは分るなり」鉈彫りの木端のような木仏……これは或いは円空の彫ったものではなかったか? 私は円空がハンセン病患者であったのではないかという仮説を支持するものであるが、それに気づいた遠野の民が彼を追い払った、追い払ったが、その残された素朴な木仏を見て、後悔とまでは言わずとも、内心、忸怩たるものを残した、その結果、こうした伝承が生まれたと考えるのは突飛ではないと思う。野に埋もれた円空仏は沢山ある。知られた円空でなくてものよい。他にも幾多の最早、名の知れぬ行脚僧は無数に漂泊し、仏像を彫った。凡そ円空と祟りは結びつかぬが、子どもと円空は如何にも親和性がある。]

2018/12/27

佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 六九~七一 「おひで」ばあさまの話(オシラサマ他)

 

六九 今の土淵村には大同(ダイドウ)と云ふ家二軒あり。山口の大同は當主を大洞萬之亟(オホホラマンノジヤウ)と云ふ。此人の養母名はおひで、八十を超えて今も達者なり。佐々木氏の祖母の姊なり。魔法に長じたり。まじなひにて蛇を殺し、木に止(トマ)れる鳥を落しなどするを佐々木君はよく見せてもらひたり。昨年の舊曆正月十五日に、此老女の語りしには、昔ある處に貧しき百姓あり。妻は無くて美しき娘あり。又一匹の馬を養ふ。娘此馬を愛して夜(ヨル)になれば厩舍(ウマヤ)に行きて寢(イ)ね、終に馬と夫婦になれり。或夜父は此事を知りて、其次の日に娘には知らせず、馬を連(ツ)れ出して桑の木につり下げて殺したり。その夜娘は馬の居らぬより父に尋ねて此事を知り、驚き悲しみて桑の木の下に行き、死したる馬の首に縋りて泣きゐたりしを、父は之を惡(ニク)みて斧をもつて後(ウシロ)より馬の首を切り落せしに、忽ち娘は其首に乘りたるまゝ天に昇り去れり。オシラサマと云ふはこの時より成りたる神なり。馬をつり下げたる桑の枝にて其神の像を作る。其像三つありき。本(モト)にて作りしは山口の大同にあり。之を姊神とす。中にて作りしは山崎の在家(ザイケ)權十郞と云ふ人の家に在り。佐々木氏の伯母が緣付きたる家なるが、今は家えて神の行方を知らず。末にて作りし妹神の像は今附馬牛村にありと云へり。

[やぶちゃん注:後の佐々木喜善の「聴耳草紙」(昭和六(一九三一)年)の「一一五番 オシラ神」には、本条では概ねカットされてしまっている後日談の附随した同一人物の語ったものが載っており(底本は「ちくま文庫」版)、

   *

 

   一一五番 オシラ神

 

 昔、ある所に百姓の爺様婆様があって、美しい娘を一人持っていた。そしてまた厩舎には一匹の葦毛の馬を飼っていた。その娘が年頃になると、毎日毎日厩舎の木戸木にもたれて、何かしきりに話をしていたったが[やぶちゃん注:ママ。]、とうとうその馬と夫婦になった。

 父親はひどく怒って、ある日その馬を曳き出して、山畠へ連れて行って、大きな桑の木の枝につるし上げて責め殺した。そして生皮を剥いでいるところへ娘が来て見て泣いていた。するとその生皮が、父親に剥ぎ上げられると、そばで見ていた娘の体の方へ行ってぐるぐると巻きついて、天へ飛んで行った。

 爺様婆様は家で娘のことを案じて毎日毎夜泣いていた。するとある夜娘が夢に見えて、父も母も決して泣いてくれるな。オレは生れようが悪くて仕方がないので、ああした態(ざま)になったのだから、どうかオレのことはあきらめてクナさい。その代り春三月の十六日の朝間、夜明けに土間(にわ)の臼の中を見てケテがんせ。日の中に不思議な馬頭の形をした虫が、ずツばり(多数)湧いているから、それを葦毛(あしげ)を殺した桑の木から葉を採って来て飼っておくと、その虫が絹糸をこしらえますから、お前達はそれを売って生活してケテがんせ。それはトトコ(蚕)という虫で世の宝物だからと言った。そう聞いて両親は夢から覚めた。

 爺様婆様は不思議な夢もあればあるものだと思っていたが、三月の十六日の朝間になったから、早く起きて土間の日の中を覗いて見ると夢で見た通りの馬の頭の形をした虫が多く湧いていた。そこで山岳へ行って桑の木の葉を採って来てかけると、よく食って繭をかけた。

 これが今の蚕の始まりであるという。そうして馬と娘は今のオシラ様という神様になった。それだからオシラ様は馬頭(うまがしら)と姫頭との二体がある。

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が一字下げ。]

 (私の稚い時聴いた記憶、村の大洞お秀婆様という巫女婆様がことの外私を可愛(めご)がって、春の野に蓮華などを摘みに私を連れ出して、こんな話を多く語って聴かしてくれた。この婆様から他の多くの呪詛の文句やカクシ念仏の話を聴かされた。この人は私を育ててくれた祖母の姉である。)[やぶちゃん注:「カクシ念仏」隠し念仏。主に東北地方で広まった秘密宗教的な浄土真宗及び真言宗の異端である秘事法門の一つ。信徒たちは自ら「御内法(ごないほう)」と呼ぶが、世間からは「御庫(おくら)念仏」「庫法門(くらほうもん)」「土蔵秘事」などと呼ばれる。「西の隠れキリシタン」に対して「東の隠し念仏」とさえ言われた。もと、室町時代に東北地方に行われていた密教系の念仏が、江戸幕府の宗教政策の下、寺院本末化や檀家制度に当たり、浄土真宗の傘下に入るのを得策として、表面上は密教色を去り、真宗の教義による外見を装い、内では秘密念仏的性格を堅持し続けたもの。岩手県で現在行われているものは、真宗と新義真言宗との習合したものと見られている。この佐々木の祖母の姉「大洞お秀婆様」は「隠し念仏宗」の信者・呪術師であったことが後の「七一」で判明する。]

   *

それを読むと、一見、本伝承は全く以って中国の蚕馬(さんば)・蚕女(さんじょ)・馬頭娘(ばとうじょう)等の古伝承のマンマの翻案のように見える。この中国の神話は柳田國男 うつぼ舟の話 三柳田國男 炭燒小五郞が事 五の私の注で説明しているのでそちらや、或いは手っ取り早く纏めて読むなら、ウィキの「を参照されたいが、私は個人的には馬と娘の異類婚姻譚が中国と日本とで共時的に発生し、蚕と馬の相似形で後付けされた「養蚕創造神話」としての共通はあるものの、全体は一種の平行進化ではないかという考えを捨てきれないでいる。さらに言えば、本「遠野物語」の条は、父百姓が「妻は無くて美しき娘あり」という設定(エレクトラ・コンプレクスを匂わせる)、娘と馬との関係を知ったその父が馬を「つり下げて殺した」にも拘わらず、娘が「死したる馬の首に縋りて泣」いたのを見て、「父は」さらに激情して「之を惡(ニク)み」、その死んだ馬の「首」を「斧をもつて後(ウシロ)」から「馬の首を切り落」すシークエンス(エディプス・コンプレクスに於ける男根切除の象徴である)はフロイトならずとも痛く気になるのである。しかも貧しい百姓が食い扶持だけで雇った若者を「馬」と捉えるより、実際には婚姻する「娘」には兄弟がおり、馬はその父によって「馬」のように酷使され、遂には殺される(フロイトの「父親殺し」の反転設定)肉親の若者の隠蔽されたシンボルなのではないかと考える方が判り易い。開闢・人創世の始まりには近親相姦が当たり前で、それがまた連続されることで繁栄するという多重的構造は、寧ろ、神話では汎世界的に当然の設定であることは言を俟たない。インセスト・タブーの変形道義譚としてこれらを見ることは凡そ無理がないと私は考えている。]

 

七〇 同じ人の話に、オクナイサマはオシラサマの在る家には必ず伴ひて在(イマ)す神なり。されどオシラサマはなくてオクナイサマのみ在る家もあり。又家によりて神の像も同じからず。山口の大同に在るオクナイサマは木像なり。山口の辷石(ハネイシ)たにえと云ふ人の家なるは掛軸(カケヂク)なり。田圃(タンボ)のうちにいませるは亦木像なり。飯豐(イヒデ)の大同にもオシラサマは無けれどオクナイサマのみはいませりと云ふ。

[やぶちゃん注:ら「一六の「オクサイサマ」・「オシラサマ」・「コンセイサマ」の叙述とを並べて把握する必要がある。]

 

七一 此話をしたる老女は熱心なる念佛者なれど、世の常の念佛者とは樣(サマ)かはり、一種邪宗らしき信仰あり。信者に道を傳ふることはあれども、互に嚴重なる秘密を守り、其作法に就きては親にも子にも聊かたりとも知らしめず。又寺とも僧とも少しも關係はなくて、在家(ザイケ)の者のみの集(アツマ)りなり。其人の數も多からず。辷石(ハネイシ)たにえと云ふ婦人などは同じ仲間なり。阿彌陀佛の齋日(サイニチ)には、夜中人の靜まるを待ちて會合し、隱れたる室にて祈禱す。魔法まじなひを善くする故に、鄕黨に對して一種の權威あり。

[やぶちゃん注:「六九」の私の注の中で述べた「カクシ念仏」を参照。

「阿彌陀佛の齋日(サイニチ)」(旧暦の)毎十五日。]

佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 六五~六八 貞任伝承

 

六五 早地峯(ハヤチネ)は御影石(ミカゲイシ)の山なり。此山の小國に向(ム)きたる側(カハ)に阿倍ケ城(アベガジヤウ)と云ふ岩あり。險(ケハ)しき崖(ガケ)の中程にありて、人などはとても行き得べき處に非ず。こゝには今でも阿倍貞任の母住めりと言傳ふ。雨(アメ)の降(フ)るべき夕方など、岩屋(イハヤ)の扉(トビラ)を鎖(トザ)す音聞ゆと云ふ。小國、附馬牛(ツクモウシ)の人々は、阿倍ケ城の錠[やぶちゃん注:「ぢやう」。]の音がする、明日(アス)は雨ならんなど云ふ。

[やぶちゃん注:「ちくま文庫」版全集や現行の通行本は「阿倍」は総て「安倍」。後の条も同じい。但し、「六八」で引いた説明版から見ると、これらは「阿倍」「安倍」も誤りで「阿部」が正しいように読める。

「御影石(ミカゲイシ)」花崗岩(石英・雲母・長石などから成る深成岩)質の岩石(名は石材の産地の一つである神戸市の御影に由来)。但し、早池峰山(標高千九百十七メートル)は全山が花崗岩ではない超塩基性岩の橄欖岩や蛇紋岩で出来ているので誤りである。注の中には霊山として佐々木がこう表現したかったのではないか言われているなどとあるが、全く以って腑に落ちない。こういう根拠のない憶測注は頗る気に入らない。

「阿倍ケ城(アベガジヤウ)」現行は「安倍ヶ城」で、山の峰の名前。早池峰山の東方にある早池峰剣ヶ峰(けんがみね)の更に東方の尾根ののピーク(千五百八メートル。サイト「ヤマレコ」)。国土地理院図ではこの辺り。dostoev氏のブログ『不思議空間「遠野」-「遠野物語」をwebせよ!-』の『安倍ヶ城ヘの道』が、実際の踏破されて、写真も豊富でよい。岩の露頭が正に堅固な台形の山城のように見える。これを見ても明らかに蛇紋岩のそれである。蛇紋岩は表面に粘土性鉱物を含み、平滑になっている場合が多く、登山では滑落し易いから、ここが一種の魔所として人が近づかなかったことは腑に落ちる。後の条に見る通り、遠野や早池峰山には貞任の伝承が多いが、貞任が敗れて討たれたのは、安倍氏の最大の拠点であった厨川柵(くりやがわのさく)で、岩手県盛岡市の西にあったとされ、早池峰から近いとは言える。

「安倍貞任の母」「前九年の役」(永承六(一〇五一)年~康平五(一〇六二)年で父安倍頼時(?~天喜五(一〇五七)年)とともに知られる安倍貞任(寛仁三(一〇一九)年?~康平五(一〇六二)年)は頼時の次男であり、その母は不詳である。彼女が「今でも」そこに住んでいるというのは恐るべき伝承で、息子の貞任の没年から数えても、紋書刊行の明治四三(一九一〇)年は実に八百四十八年である。「遠野物語」では早池峰山の神を一貫して女神としており、東北の地を独自に守ろうとした貞任の、その母が東の峰筋を守る神となっているというのは腑には落ちる。しかし、不詳の母がここまで具体に伝承されているのは、そこに失われた別な彼女の話柄がかつては存在したことを意味しているように思われてならない。

「雨(アメ)の降(フ)るべき」雨の降りそうな。]

 

六六 同じ山の附馬牛よりの登り口にも亦阿倍屋敷(アベヤシキ)と云ふ巖窟あり。兎に角早地峯は安倍貞任にゆかりある山なり。小國より登る山口にも八幡太郞[やぶちゃん注:源義家。]の家來(ケラ)の討死(ウチジニ)したるを埋めたりと云ふ塚三つばかりあり。

 

六七 阿倍貞任に關する傳は此外にも多し。土淵村と昔は橋野[やぶちゃん注:「はしの」。]と云ひし栗橋村との境にて、山口よりは二三里も登りたる山中に、廣く平(タヒラ)なる原あり。其あたりの地名に貞任と云ふ所あり。沼ありて貞任が馬を冷(ヒヤ)せし所なりと云ふ。貞任が陣屋(ヂンヤ)を構へし址(アト)とも言ひ傳ふ。景色(ケシキ)よき所にて東海岸よく見ゆ。

 

六八 土淵村には阿倍氏と云ふ家ありて貞任が末なりと云ふ。昔は榮えたる家なり。今も屋敷の周圍には堀ありて水を通ず。刀劍馬具あまたあり。當主は安倍與右衞門、今も村にては二三等の物持にて、村會議員なり。安倍の子孫は此外にも多し。盛岡の阿倍館(アベダテ)の附近にもあり。厨川(クリヤガハ)の柵(シヤク[やぶちゃん注:ママ。方言か。])に近き家なり。土淵村の安倍家の四五町北、小烏瀨川(コガラセガハ)の河隈(カハクマ)に館(タテ)の址あり。八幡澤(ハチマンザ[やぶちゃん注:ママ。])の館(タテ)と云ふ。八幡太郞が陣屋と云ふもの是なり。これより遠野の町への路には又八幡山と云ふ山ありて、其山の八幡澤の館の方に向へる峯にも亦一つの館址(タテアト)あり。貞任が陣屋なりと云ふ。二つの館の間二十餘町を隔つ。矢戰(ヤイクサ)をしたりと云ふ言傳へありて、矢の根を多く掘り出せしことあり。此間に似田貝(ニタカヒ)と云ふ部落あり。戰の當時此あたりは蘆しげりて土固まらず、ユキユキと動搖せり。或時八幡太郞こゝを通りしに、敵味方(テキミカタ)何れの兵糧(ヘウロウ)にや、粥を多く置きてあるを見て、これは煮た粥かと云ひしより村の名となる。似田貝の村の外を流るゝ小川を鳴川(ナルカハ)と云ふ。之を隔てゝ足洗川村(アシラガムラ[やぶちゃん注:ママ。])あり。鳴川にて義家が足を洗ひしより村の名となると云ふ。

【○ニタカイはアイヌ語のニタト卽ち濕地より出しなるべし地形よく合へり西の國々にてはニタともヌタともいふ皆これなり下閉伊郡小川村にも二田貝といふ字[やぶちゃん注:「あざ」。]あり】

[やぶちゃん注:KDサイト城館探訪記の「安倍屋敷 ~遠野の貞任伝説~に土塁や堀跡を撮影した現地踏査の画像がある。同所の説明版によれば(KD氏の電子化を参考に画像で確認して一部を訂した。ルビは概ね除去した)、

   *

 安倍(阿部)屋敷跡

『遠野物語』第六十八話に「安倍氏という家ありて貞任の末なりと云ふ。昔は栄えたる家なり。今も屋敷の周囲には堀ありて水を通ず。刀剣馬具あまたあり」と記されている。昔からこの地は屯館(とんだて)と呼ばれ、平安時代後期に北上川流域に勢力を誇った安倍氏の一族(貞任の弟・北浦六郎重任)が屋敷を構えたと伝えられている。現在も堀の跡などの遺構が残り、この地に続く阿部氏は安倍氏の転じたものと伝えられている。屋敷跡の東北にある稲荷社は、約四〇〇年前に安倍氏の養子となった人が甲州(山梨県)より勧請し氏神としたもので、近郷でも古い社の一つといわれている。明治の初め頃まで旧暦二月十五日の祭例日には「ダンビラケー(ダンビラ祭)」が行われていた。近隣の山伏を一堂に集めて、湯立(ゆだて)の儀式を行ない巫女(みこ)が笹を振りながら巫女舞を舞ったといわれる。近くにカッパ淵がある。

   *

とある。今一つの解説版もここと関わるので、同じ仕儀で電子化しておく。

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   阿部屋敷(別名 屯館(とんだて))

陸奥六郡に威勢を誇った安倍氏の一族が、天喜・康平のころ(紀元1050年ごろ)から構えた屋敷で、豪壮な直屋(すごや[やぶちゃん注:民家の平面形態の一形式。長方形の輪郭で、その周囲に突出部を持たないものを指す。])の母屋(おもや)には数十名の家族が住み、土塁と塀とでかこまれていました。八幡座館(はちまんざだて)の八幡太郎の軍と小烏瀬川を挟んで矢をうち合ったと伝わる的場(まとば)跡もあります。

   *]

佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 六三・六四 マヨヒガ

 

六三 小國(オグニ)の三浦某と云ふは村一の金持なり。今より二三代前の主人、まだ家は貧しくして、妻は少しく魯鈍(ロドン)なりき。この妻ある日門(カド)の前(マヘ)を流るる小さき川に沿ひて蕗(フキ)を採(ト)りに入りしに、よき物少なければ次第に谷奧深く登りたり。さてふと見れば立派なる黑き門(モン)の家あり。訝(イブカ)しけれど門の中に入りて見るに、大なる庭にて紅白の花一面に咲き雞(ニハトリ)多く遊べり。其庭を裏(ウラ)の方へ廻(マハ)れば、牛小屋ありて牛多く居り、馬舍(ウマヤ)ありて馬多く居れども、一向に人は居らず。終に玄關より上(アガ)りたるに、その次の間には朱と黑との膳椀(ゼンワン)をあまた取出したり。奧の座敷には火鉢(ヒバチ)ありて鐵甁(テツビン)の湯のたぎれるを見たり。されども終に人影は無ければ、もしは山男の家では無いかと急に恐ろしくなり、驅(カ)け出(ダ)して家に歸りたり。此事を人に語れども實(マコト)と思ふ者も無かりしが、又或日我家のカド【○このカドは門には非ず川にて門前を流るゝ川の岸に水を汲み物を洗ふ爲家ごとに設けたる所なり】に出でゝ物を洗ひてありしに、川上より赤き椀一つ流れて來たり。あまり美しければ拾ひ上げたれど、之を食器に用ゐたらば汚(キタナ)しと人に叱(シカ)られんかと思ひ、ケセネギツ【○ケセネは米稗其他の穀物を云ふキツは其穀物を容るる箱なり大小種々のキツあり[やぶちゃん注:食用の穀類を入れる米櫃(こめびつ)の類い。]】の中に置きてケセネを量る器(ウツワ[やぶちゃん注:ママ。])と爲したり。然るに此器にて量り始めてより、いつ迄經(タ)ちてもケセネ盡きず。家の者も之を恠しみて女に問ひたるとき、始めて川より拾ひ上げし由(よし)をば語りぬ。此家はこれより幸運に向ひ、終に今の三浦家と成れり。遠野にては山中の不思議なる家をマヨヒガと云ふ。マヨヒガに行き當りたる者は、必ず其家の内の什器家畜何にてもあれ持ち出でゝ來べきものなり。其人に授(サヅ)けんが爲にかゝる家をば見する也。女が無慾にて何物をも盜み來ざりしが故に、この椀自ら流れて來たりしなるべしと云へり。

 

六四 金澤村(カネサハムラ)【○上閉伊郡金澤村】は白望(シロミ)の麓(フモト)、上閉伊郡の内にても殊に山奧にて、人の往來する者少なし。六七年前此村より栃内村の山崎なる某(ナニガシ)かゝ[やぶちゃん注:「何某嬶」か。]が家に娘の婿を取りたり。この聟實家に行かんとして山路に迷ひ、又このマヨイガに行き當りぬ。家の有樣(アリサマ)、牛馬鷄の多きこと、花の紅白に咲きたりしことなど、すべて前の話の通りなり。同じく玄關に入りしに、膳椀を取出したる室あり。座敷に鐵瓶の湯たぎりて、今まさに茶を煮んとする所のやうに見え、どこか便所などのあたりに人が立ちて在るやうにも思はれたり。茫然として後には段々恐ろしくなり、引返して終に小國(ヲグニ)の村里に出でたり。小國にては此話を聞きて實(マコト)とする者も無かりしが、山崎の方にてはそはマヨヒガなるべし、行きて膳椀の類を持ち來り長者にならんとて、聟殿を先に立てゝ人あまた之を求めに山の奧に入り、こゝに門ありきと云ふところに來たれども、眼にかゝるものも無く空(ムナ)しく歸り來たりぬ。その聟も終に金持になりたりと云ふことを聞かず。

[やぶちゃん注:「某(ナニガシ)かゝ」が「何某嬶」とすれば、或いはこの家は主人が早世した、裕福ではない母子家庭であったと採れる。そこに婿入りした若者となれば、彼は「マヨヒガ」に呼ばれる資格があったのではないか? しかし、山崎の人々(ここに婿入りした家の主人が出てこないのは前の推定を強固にするものと思う)に慫慂されて山崎の人々とともに「マヨヒガ」を求めてしまった結果、そこには辿りつくことは出来ない。そうして、欲を出して人々が一緒であってもなくても、彼は「マヨヒガ」には永遠に行き着くことは出来ないし、若者(婿)の家が裕福になることも、ない。それは、既にして、人々の先頭に立って「マヨヒガ」を目指したその前、人々の語りによって、欲が、この若者の内に独自に芽生えてしまったからであり、それは前話の最後で『女が無慾にて何物をも盜み來ざりしが故に、この椀自ら流れて來たりしなるべし』という謂いと美事な好対照を成すのである。ともかくも、私は「遠野物語」の中で、ブッチギリにこの「マヨヒガ」(迷ひ家)の話が好きだ。一見、似ているように見える中国や本邦の古典的な桃源境や龍宮異界譚とは、何か本質的には異なる、徹底した〈山界の物怪〉であるからである。この怪異は山中に忽然と豪華な屋敷が出現し、さっきまで誰かがいた、今も誰かがいるように感じられる特異的な日常感覚がその家の中には、ある。しかし、異人も何も出現しない(前話には『牛小屋ありて牛多く居り、馬舍(ウマヤ)ありて馬多く』いた動物を出すが、これは特異な日常性をより強固にするための仕儀に過ぎない。その証拠にこの話を読んで、この牛や馬を泉鏡花の「高野聖」の山中の妖女が変身させた人間だなどと読む人はまずなかろうからである。そうした妖魔性を本話が本来的に持っているのであれば、欲を持って探しに行く者は決して帰ってはこないはずだからである)。則ち、〈全く即物的に、あり得ない場所に豪家があり、日常性に満ちていて、しかも誰もいないというランドマーク的怪異〉なのである。これは本邦の怪談の中でも群を抜いてオリジナリティに富んだ優れものであると私は考えている(後世の怪談や随筆では擬似怪談として盗賊集団や差別されたハンセン病患者の家系が山中に住んでいるという話(作話・実話)はゴマンとあるのであるが、それらでは必ずその悪党や主人や娘が登場し、真相が最後に明かされるというm本質的には本話とは源を異にするものである)。体験者(作話者)の原型には物を持てくることで裕福になる、欲がなく、恐れて帰った者には「マヨヒガ」が川を使って不思議な物を贈り届けてくれるというのは、なかったのではなかったか? 怪異の不審を怪異の論理の中で腑に落ちるように後の道学や文芸趣味を持った改変者が付加させたものなのではないかとさえ思っているのである。

2018/12/26

佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 六〇~六二 山の怪

 

六〇 和野村の嘉兵衞爺(ヂイ)、雉子小屋(キジゴヤ)に入りて雉子を待ちしに狐(キツネ)屢(シバシバ)出でて雉子を追ふ。あまり憎(ニク)ければ之を擊たんと思ひ狙(ネラ)ひたるに、狐は此方を向きて何とも無(ナ)げなる顏してあり。さて引金(ヒキガネ)を引きたれども火移(ウツ)らず。胸騷(ムナサハ)ぎして銃を檢[やぶちゃん注:「けみ」。]せしに、筒口(ツヽグチ)より手元の處までいつの間にか悉く土をつめてありたり。

[やぶちゃん注:「雉子小屋」バード・ウオッチングのように、キジに気づかれないように射撃するためのシューティング・スペース。小屋と言っても、藁・葦などを自然な形に組んだ人一人が入れるような簡易の空間と思われる。]

 

六一 同じ人六角牛に入りて白き鹿(シカ)に逢へり。白鹿(ハクロク)は神(カミ)なりと云ふ言傳(イヒツタ)へあれば、若し傷(キヅヽ)けて殺すこと能はずば、必ず祟(タヽリ)あるべしと思案(シアン)せしが、名譽(メイヨ)の獵人(カリウド)なれば世間(セケン)の嘲(アザケ)りをいとひ、思ひ切りて之を擊つに、手應(テゴタ)へはあれども鹿少しも動かず。此時もいたく胸騷(ムナサハ)ぎして、平生(ヘイゼイ)魔除(マヨ)けとして危急(キキウ)の時の爲に用意したる黃金(ワウゴン)の丸(タマ)を取出し、これに蓬(ヨモギ)を卷き附けて打ち放したれど、鹿は猶動かず、あまり恠しければ近よりて見るに、よく鹿の形に似たる白き石なりき。數十年の間山中に暮(クラ)せる者が、石と鹿とを見誤るべくも非ず、全く魔障(マシヤウ)の仕業(シワザ)なりけりと、此時ばかりは獵を止(ヤ)めばやと思ひたりきと云ふ。

[やぶちゃん注:キク目キク科キク亜科ヨモギ属ヨモギ変種ヨモギ Artemisia indica var. maximowiczii は初期に於いては鉄砲の火薬に用いたが、ここは無論そうではなく、香気の強いそれが邪気を払うことから、金の弾丸に念には念を入れて蓬を巻き付けたのである。]

 

六二 また同じ人、ある夜(ヨ)山中(サンチウ)にて小屋を作るいとま無くて、とある大木の下に寄り、魔除(マヨ)けのサンヅ繩(ナハ)をおのれと[やぶちゃん注:自分で。]木のめぐりに三圍(ミメグリ)引きめぐらし、鐵砲を竪(タテ)に抱(カヽ)へてまどろみたりしに、夜深く物音のするに心付けば、大なる僧形(ソウギヤウ)の者赤き衣(コロモ)を羽(ハネ)のやうに羽ばたきして、其木の梢に蔽ひかゝりたり。すはやと銃を打ち放せばやがて又羽ばたきして中空(ナカゾラ)を飛びかへりたり。此時の恐ろしさも世の常ならず。前後三たびまでかゝる不思議に遭ひ、其度毎(タビゴト)に鐵砲を止(ヤ)めんと心に誓ひ、氏神(ウヂガミ)に願掛(グワンガ)けなどすれど、やがて再び思ひ返して、年取るまで獵人(カリウド)の業を棄つること能はずとよく人に語りたり。

[やぶちゃん注:「サンヅ繩」dostoev氏のブログ『不思議空間「遠野」-「遠野物語」をwebせよ!-』の『妖怪の通り道によれば、『サンズ縄は三途縄と書き、棺桶を縛る紐をこっそりとくすねて手に入れるか、葬儀の参列に使用する竜頭』(たつがしら:葬儀の時に竹竿の先に龍の頭を象ったものを附けたもの。龍の口の下に天蓋を下げたものや、魂を入れる紙袋を下げたようなものもあった。死者の霊が荒ぶる魂であることを示した、という解釈(五来重氏)と、死者の霊が龍のように昇天することを願ったとする解釈(藤井正雄氏)がある。ここは葬祭サイトの記載を参考にした私は知っているが、念のため、グーグル画像検索「竜頭 葬式をリンクさせておく。最初の一列にある)『に紐をこすり付けるだけでも良いとされている』『マタギに伝わる』結界を作ることの出来る呪具であるようだ。]

 

和漢三才圖會第四十三 林禽類 𩿦䳜(シト)(化鳥)/和漢三才圖會第四十三 林禽類~電子化注完遂

 

Sito

 

しと

𩿦【音止徒】

 

ツウトウ

 

三才圖會云杻陽山有鳥狀如鳥其足赤色名曰𩿦

以禦火

 

 

しと

𩿦【音、「止徒」。】

 

ツウトウ

 

「三才圖會」に云はく、『杻陽山〔(ちうやうざん)〕に鳥有り、狀、鳥〔(とり)のごとくにして〕、其の足、赤色。名づけて「𩿦〔(しと)〕」と曰ふ。以つて火を禦〔(ふせ)〕ぐべし』〔と〕。

[やぶちゃん注:出ちゃいましたね! 「しと・シト」! 使徒でせうか!?! 火を防いじゃったりするんだからね! 絶対ですよ!!!

「三才圖會」明の類書(百科事典)。王圻(おうき)の著。全百六巻。一六〇七年に成立した。「三才」とは天・地・人のことであり、天文・地理・人物・時令・宮室・器用・身体・衣服・人事・儀制・珍宝・文史・鳥獣・草木の十四部門に分けた事物を、豊富に図を取り入れて説明したもの。後に王圻の子の思義が続編を刊行した。寺島尚順良安の本「和漢三才図会」は本書に日本の事柄を腑やして加えた書。当該箇所は(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)。

「杻陽山」トンデモ幻想地誌「山海経」の「南山経」に出る山。

「鳥〔(とり)のごとくにして〕」っていう振り方からして、化鳥(けてう)やなあ!

 

 以上を以って、「和漢三才圖會第四十三 林禽類」は終わっている。]

和漢三才圖會第四十三 林禽類 䳜 (トットウドリ:やぶちゃん命名)

 

Tou

 

【音徒】

 

トウ

 

三才圖會云鳥鼠同穴爾雅云其鳥爲其鼠爲其穴

入地三四尺鼠在内鳥在外字彙云似而小黃黑色與

鼠同穴

 

 

【音、「徒」。】

 

トウ

 

「三才圖會」に云はく、『鳥と鼠と穴を同じくす』〔と〕。「爾雅」に云はく、『其の鳥を「」と爲し、其の鼠、「〔(トツ)〕」と爲す。其の穴、地に入〔ること〕、三、四尺。鼠、内に在り、鳥は外に在り』〔と〕。「字彙」、云はく、『に似て小さく、黃黑色。鼠と穴を同じうす』〔と〕。

[やぶちゃん注:惜しいなあ! 鳥と獣類の稀有の共生例になるのに! トンデモ幻想地誌「山海経」にも出る、幻想上の鳥。「三才図会」は「鳥」で、ら(図版)ら(本文)。孰れも国立国会図書館デジタルコレクションの画像。よっしゃ! 漢名は「鼵䳜鳥」で「トットドリ」と命名しよう!

「三才圖會」明の類書(百科事典)。王圻(おうき)の著。全百六巻。一六〇七年に成立した。「三才」とは天・地・人のことであり、天文・地理・人物・時令・宮室・器用・身体・衣服・人事・儀制・珍宝・文史・鳥獣・草木の十四部門に分けた事物を、豊富に図を取り入れて説明したもの。後に王圻の子の思義が続編を刊行した。寺島尚順良安の本「和漢三才図会」は本書に日本の事柄を腑やして加えた書。

「爾雅」著者不詳。紀元前 二〇〇年頃に成立した、現存する中国最古の類語辞典・語釈辞典。

「字彙」明の梅膺祚(ばいようそ)の撰になる字書。一六一五年刊。三万三千百七十九字の漢字を二百十四の部首に分け、部首の配列及び部首内部の漢字配列は、孰れも筆画の数により、各字の下には古典や古字書を引用して字義を記す。検索し易く、便利な字書として広く用いられた。この字書で一つの完成を見た筆画順漢字配列法は清の「康煕字典」以後、本邦の漢和字典にも受け継がれ、字書史上、大きな意味を持つ字書である(ここは主に小学館の「日本大百科全書」を参考にした)。]

和漢三才圖會第四十三 林禽類 木鼠鳥(きねずみ) (ゴジュウカラ)

 

Kinezumi

 

きねすみ

木鼠鳥

     【俗云木祢須美】

 

△按木鼠鳥狀如雀而頭背翮上灰青色眼後黑而頷頰

 及腹純白腹下黃赤色翅黑其尾灰青有彪其聲短而

 微毎窺山中樹穴居故名木鼠

 

 

きねずみ

木鼠鳥

     【俗に云ふ、「木祢須美」。】

 

△按ずるに、木鼠鳥、狀、雀のごとくして、頭・背・翮〔(はがひ)〕の上、灰青色。眼の後、黑くして、頷・頰及び腹、純白。腹の下、黃赤色。翅、黑。其の尾、灰青〔に〕彪〔(ふ)〕有り。其の聲、短くして微〔(かすか)なり〕。毎〔(つね)〕に山中の樹穴を窺ひ〔て〕居〔(を)れり〕。故に「木鼠」と名づく。

[やぶちゃん注:小学館「日本国語大辞典」によって解明! 既出既注の「五十雀(ごじゅうから)」、スズメ目スズメ亜目ゴジュウカラ科ゴジュウカラ属ゴジュウカラ Sitta europaea の異名であった。本邦には以下の三亜種が周年生息する。

ゴジュウカラSitta europaea amurensis

シロハラゴジュウカラSitta europaea asiatica(北海道に生息)

キュウシュウゴジュウカラSitta europaea roseilia

既注であるが、再掲すると、ウィキの「ゴジュウカラ」によれば(太字やぶちゃん)、『九州から北海道にかけて分布するが、高地で繁殖した個体は冬季には低地に移動する』。全長十三・五センチメートルで、『雌雄ほぼ同色である。尾羽は短い。嘴から眼を通り側頭部へ続く黒い筋模様(過眼線)が入る。嘴は黒色で、足は肉褐色』。『平地から山地にかけての落葉広葉樹林に生息する。木の幹に垂直にとまり、頭部を下にして幹を回りながら降りる習性がある(キツツキ類』(キツツキ目 Piciformes)』やキバシリ』(スズメ目キバシリ科キバシリ属キバシリ Certhia familiaris)『は幹に垂直にとまることはできるが、体を逆さまにして降りることはできない)』。『食性は雑食で、昆虫類、節足動物、果実、種子などを食べる。夏季は昆虫類、冬季は種子等を主に食べる。樹皮の隙間にいる獲物を探したり、逆に樹皮の隙間に食物を蓄えることもある』。『樹洞やキツツキの古巣に樹皮を敷き営巣する。巣穴の入り口や内壁、隙間に泥を塗る習性がある。日本では』三~六『月に』一『回に』五~七『個の卵を産む。メスのみが抱卵を行い、抱卵期間は』十八~二十『日。雛は孵化してから』二十~二十五『日で巣立つ』。『繁殖期にはつがいで縄張りを持つ。非繁殖期は、シジュウカラ』『類やコゲラ』(キツツキ目キツツキ科アカゲラ属コゲラ Dendrocopos kizuki)『と混群を形成することがある』。ともかくも、名前が似てはいても、シジュウカラとゴジュウカラは姿(ウィキのゴジュウカラの画像。全然、シジュウカラウィキれ)に似てません!)も行動も声の質も異なり、現在の分類学上もスズメ亜目 Passeriの、シジュウカラ科 Paridae とゴジュウカラ科 Sittidae で種としては決して近縁ではない。

和漢三才圖會第四十三 林禽類 深山鳥(みやまどり) (不詳)

 

Miyamadori

 

みやまとり

       【俗云美也末止里】

深山鳥

       別有深山頰

       白鳥與此異

 

△按深山鳥狀小於雀而頭黑有小冠眉黃眼之前後有

 黑條頰頷黃白臆有黑文背翅黑赤有班羽尾俱黑其

 聲清而多囀可愛

 

 

みやまどり

       【俗に云ふ、「美也末止里」。】

深山鳥

       別に「深山頰白鳥」

       といふもの有〔れども〕、

       此れと〔は〕異〔れり〕。

 

△按ずるに、深山鳥、狀、雀より小にして、頭、黑。小さき冠〔(さか)〕有り。眉、黃。眼の前後、黑條有り。頰・頷、黃白。臆〔(むね)〕、黑文有り。背・翅、黑赤〔に〕班有り。羽・尾、俱に黑く、其の聲、清くして多〔いに〕囀り、愛すべし。

[やぶちゃん注:調べて見ると、小学館「日本国語大辞典」でさえ深山に棲む鳥とするばかりで、本草書では本書と「本草食鑑」に載るばかりで(というよりも良安は鳥に関しては「本草食鑑」からの引き写しが目立つ)判らぬ。「本草食鑑」は「禽部之三」の「深山鳥」で、(国立国会図書館デジタルコレクションの当該頁の画像)。東洋文庫版「本草食鑑」現代語訳の島田勇雄氏の注では『深山(みやま)の付く鳥には、深山鶺鴒・深山松虫鳥・深山頰白・深山残子(高野燕)・深山ショウヒン・深山頭などがある』が、『それらのいずれであるかも知れない』と匙を投げておられる。

 但し、島田氏の挙げられたもののうち、

「深山鶺鴒」(みやませきれい)は種としては存在しない模様で、

「深山松虫鳥」は恐らくスズメ目イワヒバリ科カヤクグリ属ヤマヒバリ Prunella montanella ssp. (ユーラシア大陸の北部と東部に分布し、稀れに冬鳥として日本に飛来する)と思われ、

「深山頰白」スズメ目スズメ亜目ホオジロ科ホオジロ属ミヤマホオジロ Emberiza elegans「林禽類 畫眉鳥(ホウジロ)(ホウジロ・ガビチョウ・ミヤマホオジロ・ホオアカ)で既出既注)で、しかも良安は異種と断言しているから、これではない。

「深山残子(高野燕)」は全く不明。

「深山ショウヒン」も判らぬが、この「ショウヒン」が「ショウビン」の島田氏の誤りだとすると、ブッポウソウ目カワセミ科ショウビン亜科ヤマショウビン属ヤマショウビン(山翡翠)Halcyon pileata を候補とはし得るか。但し、同種は、ウィキの「ヤマショウビンによれば、『中国東部や朝鮮半島で繁殖し、冬季は東南アジアへの渡りをおこない』、『越冬する。またインドの沿岸部やスリランカには』一『年中生息している』。『日本では主に長崎県対馬、島根県隠岐、石川県舳倉島など日本海側の島嶼に少数の個体が、春と秋に旅鳥として渡来する。南西諸島でも、よく観察されている。その他全国的に観察記録はある。観察されるのは』四『月から』五『月にかけての春の渡りの時が圧倒的に多く、秋の渡りの時に観察されることは稀である』とし、『日本で営巣、産卵した記録も数例あるが、それらはすべてヒナが生まれる前で失敗に終わっており、いまだ日本で繁殖が成功した記録はない』とあるので厳しい。

「深山頭」は不詳である。]

和漢三才圖會第四十三 林禽類 瑠璃鳥(るり) (オオルリ)

 

Rurityou

 

るり    碧鳥

瑠璃鳥

      【俗云留里】

 

△按瑠璃鳥狀大如雀而頭背翮上翠碧色頰頷至臆下

 純黑胸腹白觜脚尾俱蒼色其聲圓滑清囀如曰知與

 豆比知與豆比畜之籠中弄之

 

 

るり    碧鳥

瑠璃鳥

      【俗に云ふ、「留里」。】

 

△按ずるに、瑠璃鳥、狀、大いさ雀のごとくにして、頭・背・翮〔(はがひ)〕の上、翠碧色。頰・頷、臆〔(むね)〕の下に至〔るまで〕純黑。胸・腹、白く、觜・脚・尾、俱に蒼色。其の聲、圓滑〔にして〕、清く、囀〔ること〕、「知與豆比知與豆比(ちよ〔つぴちよつぴ〕」と曰ふがごとし。之れを籠中に畜ひ、之れを弄す。

[やぶちゃん注:本邦での「青い鳥」の代名詞の一種で、「日本三鳴鳥」の一種(他はスズメ目ウグイス上科ウグイス科ウグイス属ウグイス Horornis diphone とスズメ目ツグミ科コマドリ属コマドリ Erithacus akahige akahigeである、スズメ目スズメ小目ヒタキ上科ヒタキ科ヒタキ亜科ヒタキ族オオルリ属オオルリ Cyanoptila cyanomelanaウィキの「オオルリ」によれば、『日本へは夏鳥として渡来・繁殖し、冬季は東南アジアで越冬する。高い木の上で朗らかにさえずる。姿も囀りも美しい』。全長は約十六センチメートル、翼開長は約二十七センチメートル。『雄の背中は尾も含め』、『光沢のある青で、尾の基部には左右に白斑がある。喉、顔は黒で腹は白い。雌は頭から尾にかけて背面が茶褐色で、喉と腹は白い。胸と脇が褐色。 また、雄が美しい色彩になるには』二~三『年を要すると考えられ、若鳥時代の雄の羽色は雌の羽色と似た茶褐色で、背面の一部と風切羽及び尾羽に青色が表れているだけである。雌はキビタキ』(ヒタキ族キビタキ属キビタキ Ficedula narcissina)『の雌やコサメビタキ』(ヒタキ族サメビタキ属コサメビタキ Muscicapa dauurica)『などに似ている』。『地鳴きはクッ、クッ。さえずりは、美しい声でゆっくりとピリーリー、ポィヒーリー、ピールリ、ピールリ、ジィ、ジィと鳴く。雌もさえずることがある』。『旧大陸北部・中国東北部・ウスリー・朝鮮半島・日本で繁殖し、インドシナ半島から大スンダ列島、フィリピンなどに渡って越冬する』。『日本には夏鳥として』四『月下旬ごろに渡来し、南西諸島を除く北海道から九州までの全国各地で繁殖する』。十『月ごろまで見られる』。『低山帯から亜高山帯にかけての山地や丘陵に生息し、とくに渓流沿いのよく茂った森林に多く、飛翔している昆虫を捕食する。クモ類なども捕食する』。『渓流沿いの岩壁や土壁のくぼみなどにコケを用いて巣をつくる』。『なわばりを持ち、林の中の湖のほとりや、牧場と林の境などでも見られる。繁殖期に雄は木の梢で豊富な声量でさえずる』。『渡りの時期には市街地の公園でも観察される』とある。囀りはサントリーの愛鳥活動の「オオルリでお聴きあれ。]

佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 五五~五九 河童

 

五五 川には河童(カツパ)多く住めり。猿ケ石川殊に多し。松崎村の川端(カハバタ)の家(ウチ)にて、二代まで續けて河童の子を孕(ハラ)みたる者あり。生れし子は斬(キ)り刻(キザ)みて一升樽(イツシヤウダル)に入れ、土中に埋(ウヅ)めたり。其形(カタチ)極めて醜恠なるものなりき。女の聟の里は新張(ニヒバリ)村の何某とて、これも川端の家なり。其主人人(ヒト)に其始終(シヾウ)を語れり。かの家の者一同ある日畠に行きて夕方に歸らんとするに、女[やぶちゃん注:「をんな」。]川の汀(ミギワ[やぶちゃん注:ママ。])に踞(ウヅクマ)りてにこにこと笑ひてあり。次の日は晝(ヒル)の休に亦此事あり。斯くすること日を重ねたりしに、次第に其女の所へ村の何某と云ふ者夜々(ヨルヨル)通(カヨ)ふと云ふ噂(ウワサ)立ちたり。始には聟が濱の方へ駄賃附(ダチンヅケ)[やぶちゃん注:既出既注の駄賃馬稼(だちんうまかせぎ)。駄馬を用いた運送業。]に行きたる留守をのみ窺ひたりしが、後には聟(ムコ)と寢(ネ)たる夜(ヨル)さへ來るやうになれり。河童なるべしと云ふ評判段々高くなりたれば、一族の者集まりて之を守れども何の甲斐も無く、聟の母も行きて娘の側(カタハラ)に寢(ネ)たりしに、深夜にその娘の笑ふ聲を聞きて、さては來てありと知りながら身動きもかなはず、人々如何にともすべきやうなかりき。其産は極めて難産なりしが、或者の言ふには、馬槽(ウマフネ)に水をたゝへ其中にて産まば安く産まるべしとのことにて、之を試みたれば果して其通りなりき。その子は手に水搔(ミヅカキ)あり。此娘の母も亦曾て河童の子を産みしことありと云ふ。二代や三代の因緣にはあらずと云ふ者もあり。此家も如法の豪家にて○○○○○と云ふ士族なり。村會議員をしたることもあり。

[やぶちゃん注:「馬槽(ウマフネ)」飼馬桶。

「如法の豪家にて」文字通りの富豪であって。

「○○○○○と云ふ士族なり」岩波文庫版では「何の某という士族なり」とあるが、伏字の字数と合わないことから、これは岩波の編者の恣意的な改変で、原話では実名或いは特定可能な地名を含んだ屋号であったものと思われる。【2018年12月27日追記】いつもいろいろなテクストに対して情報提供を下さるT氏から、石井正巳氏の論文「『遠野物語』の文献学的研究」PDF)の紹介を受けた。その中で石井氏は「五、本文の書き換え――物語五五の場合―」という一章を設け、この条を現在残る本文として最も古い、遠野市に寄贈された旧池上他隆祐蔵の、初稿本三部作のうちの毛筆原稿本に溯って、その書誌上の痙攣的な恣意的「書き換え」行為を具に検証されておられる。同章冒頭に示されたその現存最古の初期形を全文引用しておく。なお、後に石井氏が補足してある推敲過程を取消線で挿入し、また、恣意的に漢字を正字化し、ルビ「カッパ」の表記は「カツパ」とした。句読点が標題以降にないのはママで、踊り字「〱」は正字化した。

   *

五五、川には河童(カツパ)多く住めり。猿ケ石川殊に多し松崎村の川端の家にて二代迄つゞけて河童の子を孕みたる者あり生れし子は斬り刻みて一升樽に入れ土中に埋めたり形極めて恠しきものなりき女の聟の里は新張(ニヒバリ)村の某此も川端の家なり其主人人に其始末に語れり彼の家一同或日畠に行きて夕方歸らんとするに女川の汀に踞りてにこにこと笑へり次の日の晝休にも同じことなりかくすること日を重ねしに其頃其女の許に村の某といふ者通ふといふ噂たてり始は聟が濱の方へ駄賃附に行きたる留守を窺ひしか[やぶちゃん注:ママ。]後には聟とねたる夜さへ來るなり河童なるべしといふ評判高くなりたれは[やぶちゃん注:ママ。]一族集まりて之を守れとも[やぶちゃん注:ママ。]何の甲斐も無く聟の母も行きて娘の側に宿りしに深夜其女の笑ふ聲を聞きさては來てありと知りながら身動きもかなはず人々如何ともすべきやうなかりき其産は極めて難産なりしに或者の曰く馬槽に水をたゝへ其中にて産まば安からんとのことに之を試みたれば果して然りき其子は手に水搔あり此女の母も亦曾て河童の子をうめりと云ふ二代や三代の因緣には無しといふ者もあり此家も如法の豪家にて白岩市兵衞といふ士族なり村會議員をしたることもあり

   *

以下、この氏名伏字の書誌的考証が本文で続くが、T氏のメールの内容が要所を押さえておられるので、以下に引用させて戴く(一部に私が論文を元に変更を加え、言い回しの一部に手を加えさせて貰った)。

   《引用開始》

 同氏の研究では『○○○○○』の部分は柳田國男の原稿(毛筆とペン書き)及び初校校正まで実名で記載され、以降の校正で『○○○○○』になった。

 『○○○○○』が』『何の某』に変更されたのは、柳田文庫の朱書加筆本で、以降の「朱書加筆本」を基にした戦後の文芸春秋新社本(昭和二三(一九四八)年刊)、角川本(昭和四三(一九六八)年刊)は『何の某』になった。

 その後がまたややこしく、筑摩書房の定本柳田國男集(昭和六三(一九八八)年刊)で「遠野物語」初版を底本にし『○○○○○』 に戻った。

 岩波文庫版(昭和五三(一九七八)年刊)は、『初版本(明治四十三』(一九一〇)『年、聚精堂刊)、増補版(昭和十』(一九三五)『年、郷土研究社刊)版』(「増補遠野物語」)』『および成城大学柳田文庫所蔵の著者加筆本と交合した』と記載しているので、初版『○○○○○』の箇所は「朱書加筆本」の『何の某』を採用したもの、というのが石井正巳さんの考察です。

 定本柳田國男集で河童が川童に変更されているなど、細かい変更が多数あるようです。(確かに定本柳田國男集は川童でした。)

この論文を読むと、文献学的研究の面白さと、手に入る本文のややこしい話が分かりました。

   《引用終了》

私も本電子化中、「河童」を「川童」に〈学術用語〉として強引に統一化しようとするかのようなこの時の柳田國男の堅意地めいたアカデミストの一面を感じたのであるが、生物種の和名学名じゃあるまいし、しかも各地の「かっぱ」の属性の変異(特に本邦では西日本と東日本では大きな相違がある)や呼称の多様さでは妖怪の中でも群を抜いている一種である以上、「かっぱ」或いは私の嫌いなカタカナ表記の「カッパ」でよかろうかいと思ったものである。因みに、このワードの「かっぱ」の変換は「河童」であり、所持する民俗学及び妖怪関連書でも「河童」が有意に多く、柳田も以後の「かっぱ」を扱った著作では「河童」と記し(「山島民譚集(一)」(大正三(一九一四)年刊)の冒頭に収録されている論文「河童駒引」等)、「川童」が〈学術用語〉として認められることは遂になかったし、今も、ない。その優れた功績は偏に何と言っても私は芥川龍之介の「河童」(昭和二(一九二七)年三月発行。リンク先は私の電子化。私は他に芥川龍之介「河童」やぶちゃんマニアック注釈芥川龍之介「河童」決定稿原稿の全電子化と評釈及び芥川龍之介「河童」決定稿原稿(電子化本文版)等を手掛けている)のお蔭と信じて疑わない。さても、最後に、T氏にまたしても助けられた。心より御礼申し上げるものである。

 

五六 上鄕村の何某の家にても河童らしき物の子を産みたることあり。確なる證とては無けれど、身内(ミウチ)眞赤(マツカ)にして口大きく、まことにいやな子なりき。忌(イマ)はしければ棄てんとて之を携へて道ちがへに持ち行き、そこに置きて一間ばかりも離れたりしが、ふと思ひ直し、惜しきものなり、賣りて見せ物にせば金になるべきにとて立歸りたるに、早取り隱されて見えざりきと云ふ。

【○道ちがへは道の二つに別かるゝ所卽追分なり】

[やぶちゃん注:「追分(おひわけ)」は「辻」であり、民俗社会では集落の外れにあって、山向う・川向う・異国・異界に繋がる霊的な場所であった(それ故にそこに塞ノ神や道祖神などを置いて異界からの邪気の村落への侵入を防御した)。そこではこうした子捨て行為が許される(それを人柱として防禦システムに取り入れるという意味もあったであろう)特殊な異界との通路でもあったのである。「取り隱されて見えざりき」は子捨て・子殺しの言い訳なのではなく、身内の頑是ない赤子を見世物にして儲けようという、よりおぞましい化け物となった何某の家の主人にあきれた、そうした異界の「なにもの」かが、その子を確かに受け取ったと解されることで、「古事記」の蛭子(ひるこ)同様、異人の魂送りのモチーフともなっている。]

 

五七 川の岸の砂(スナ)の上には河童の足跡(アシアト)と云ふものを見ること決して珍しからず。雨の日の翌日などは殊に此事あり。猿の足と同じく親指(オヤユビ)は離れて人間の手の跡に似たり。長さは三寸に足らず[やぶちゃん注:九センチに足りない。]。指先のあとは人のゝやうに明らかには見えずと云ふ。

 

五八 小烏瀨川(コガラセガハ)の姥子淵(ヲバコフチ)の邊に、新屋(シンヤ)の家(ウチ)と云ふ家(イへ)あり。ある日淵(フチ)へ馬を冷(ヒヤ)しに行き、馬曳(ウマヒキ)の子は外(ホカ)へ遊びに行きし間に、河童出でゝ其馬を引込まんとし、却りて馬に引きずられて厩(ウマヤ)の前に來り、馬槽(ウマフネ)に覆(オホ)はれてありき。家の者馬槽の伏せてあるを恠しみて少しあけて見れば河童の手出でたり。村中の者集まりて殺さんか宥さんか[やぶちゃん注:「ゆるさんか」。]と評議せしが、結局今後(コンゴ)は村中の馬に惡戯(イタヅラ)をせぬと云ふ堅き約束をさせて之を放したり。其河童今は村を去りて相澤(アヒザハ)の瀧の淵に住めりと云ふ。

【○此話などは類型全國に充滿せり苟も河童のをると云ふ國には必ず此話あり。何の故にか】

[やぶちゃん注:「河童駒引き」である。私は多くの河童関連書を所持しているが、石田栄一郎氏の「河童駒引考」(初版一九四八年刊/新版・一九九四年岩波文庫刊)は柳田國男の「山島民譚集(一)」(大正三(一九一四)年刊)の冒頭に収録されている論文「河童駒引」を補足する形をとっているが、最も優れた河童を追った著作の一つと思う。そこで石田氏は河童は水神が零落した妖怪であり、古えの民俗社会に於いてはその水神に馬を生贄として捧げた供儀があったものが、長い時間をドライヴしてきて変形して生き残ったものと推定されている。]

 

五九 外(ホカ)の地にては河童の顏は靑しと云ふやうなれど、遠野の河童は面(ツラ)の色(イロ)赭(アカ)きなり。佐々木氏の曾祖母、穉(ヲサナ)かりし頃友だちと庭にて遊びてありしに、三本ばかりある胡桃(クルミ)の木の間より、眞赤(マツカ)なる顏したる男の子の顏見えたり。これは河童なりしとなり。今もその胡桃大木にてあり。此家の屋敷のめぐりはすべて胡桃の樹なり。

 

佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 五四 神女

 

五四 閉伊川(ヘイガハ)の流(ナガレ)には淵(フチ)多く恐ろしき傳少なからず。小國川との落合に近きところに、川井と云ふ村あり【○下閉伊郡川井村大字川井、川井は勿論川合の義なるべし[やぶちゃん注:ウィキの「遠野物語の「閉伊川の機織淵に位置が地図で示されてある。]】。其村の長者の奉公人、ある淵の上なる山にて樹を伐るとて、斧を水中に取落(トリオト)したり。主人の物なれば淵に入りてこれを探(サグ)りしに、水の底に入るまゝに物音聞ゆ。之を求めて行くに岩の陰に家あり。奧の方に美しき娘機(ハタ)を織りて居(ヰ)たり。そのハタシに彼の斧は立てかけてありたり。之を返したまはらんと言ふ時、振り返りたる女の顏を見れば、二三年前に身まかりたる我が主人の娘なり。斧は返すべければ我が此所(コノトコロ)にあることを人に言ふな。其禮としてはその方身上(シンシヤウ)良(ヨ)くなり、奉公をせずともすむやうにして遣らんと言ひたり。その爲なるか否かは知らず、其後胴引(ドウビキ)など云ふ博奕(バクチ)に不思議に勝ち續(ツヾ)けて金(カネ)溜(タマ)り、程なく奉公をやめ家に引込みて中(チウグラヰ)の農民になりたれど、此男は疾(ト)くに物忘れして、此娘の言ひしことも心付かずしてありしに、或日同じ淵(フチ)の邊(ホトリ)を過(ス)ぎて町へ行くとて、ふと前の事を思ひ出し、伴(トモナ)へる者に以前かゝることありきと語りしかば、やがて其噂は近鄕に傳はりぬ。其頃より男は家産再び傾(カタム)き、又昔の主人に奉公して年を經たり。家の主人は何と思ひしにや、その淵に何荷(ナンガ)とも無く熱湯を注(ソヽ)ぎ入れなどしたりしが、何の效もなかりしとのことなり。

[やぶちゃん注:本条については、三浦佑之論考「機織淵-『 遠野物語  第五四話をめぐって-」(『遠野常民号・遠野常民大学(一九九九二月・講演一九九八)が必見。最後の主人(娘の父)の行為がよくわからないが、三浦氏は『考えられるのは、たとえば、遠野は冬になると寒いですから水が凍るし、そうすると「ちょっと熱湯でも入れて温かくしてやって娘を居心地良くしてやろうか」と思っているのかな、というふうにもとれますよね。あるいは、「この噂は家にとってはとても良くない噂である。何とか娘を亡き者にしよう」と思って、熱湯を注ぎ込んで殺してしまおうとしている惨い父親だ、とも考えられないわけでもない。そうだとしても、そんな淵にいくら熱湯を注ぎ込んだって何の役にも立たないというのは誰が見てもわかるわけで、温度は上がりそうもないですし、ましてや熱湯で娘を消してしまうことなどとてもできそうもないですね』。『そういう父の狂気、それはおそらく家の問題、家によくない噂が立って困る、噂を消したいという父親の一種の狂気といったものが、そういう考えられないような行動を父親にとらせているんだろう、というふうに考えられるわけです。ただしその結論については、私にはなんとも、どう考えていいのかわからないところがありま』す、と述べておられる。ここにはこの淵で入水したと思われる娘の背景に何とも言えない暗い影がある。古来、機織りは妻となった者の、最初に行わねばならない絶対の神聖な行為でもあったからである。

「ハタシ」小学館「日本国語大辞典」によれば、岩手県採取で機織り機・機織り台とある。しかし、何か不審な気がする。織りの糸が截たれれば、総て台無しになる。にも拘らず、何故、それを大事な機織りに立て掛けて置いたのだろう? これが既に本話の最後の、約束を破ることで世界が元に戻ってしまうことを既に暗示しているもののようにも思われる。

「胴引(ドウビキ)」「手本引(てほんび)きのことと思われる。親(これを「胴(どう)」「胴元」「胴師」「胴親」「胴頭(どがしら)」「札師」とも呼ばれる』。『元来、胴は筒という字で書かれ、これはサイコロを入れる筒に由来するが、親が軍資金を腹巻きに入れていたことから、胴の字が当てられるようになった』)が一から六までを『図案化した』六『枚の札の中から自らの意志で』一『枚を選び出し、子は』一『点から』四『点張りのいずれかの賭け方で親が選んだ札を推理して勝負に挑む』。一『点張りは当たる確率が低くなるだけに配当が高く』、四『点張りは確率が高くなるだけに配当が低くなっている。 人数制限は特になく』、十五『人程度の多人数が同時に参加することができ、ひと勝負は』二『分前後の短時間で決着する。任意のタイミングで参加退出が可能なことから、不特定多数が出入りする賭場の都合に適っていた。「ホンビキ」「失地(しっち)」「釣り」とも呼ばれる』。一『人の親に対して複数の子が賭けを行うところは追丁株(おいちょかぶ)と似ているが、偶然性よりも過去の推移や相手の性格や癖(キズ)を読むといった心理戦の攻防に主眼が置かれる。その興奮や恍惚感から、手本引きを知ると』、『他のギャンブルがつまらなくなると言う人も多く、丁半やアトサキ(バッタ撒き/ジャンガー)などの賭博よりも格上とされ、日本における「究極のギャンブル」「博奕の華」「賭博の終着駅」と称賛される』とある。詳しくは参照引用したウィキの「手本引きを参照されたい。]

和漢三才圖會第四十三 林禽類 鶲(ひたき) (コサメビタキ?・キビタキ?・ルリビタキ?)

 

Hitaki

 

ひたき   鶲【出壒囊抄字義未詳】

【音翁】

       【俗云比大木】

 

△按鶲大如雀而頭黑有白彪【俗曰霜降者】頷頰正黑背翮灰

 赤有黑斑翅上有白羽黑羽層層觜脚蒼黑其聲清亮

 多囀如曰比伊古止比伊古止

                 師光

   百敷に栖定よひたき鳥なれはやとりも庭に見ゆめり

黃鶲 狀稍小而頭黑眉黃頰頷腹胸亦皆黃自眼後至

 背純黑背後腰間並黃翅尾純黑而翅間有白羽三四

 箇其聲亦清滑【一名金花】

一種 形色似鶯而眼圓大其鳴聲與鶲相似

 

 

ひたき   鶲【「壒囊抄」に出づ〔るも〕、

        字義、未だ詳らかならず。】

【音、「翁」。】

       【俗に云ふ、「比大木」。】

 

△按ずるに、鶲、大いさ雀のごとくして、頭、黑く、白き彪〔(ふ)〕有り【俗に「霜降」と曰ふ者〔なり〕。】。頷・頰、正黑。背・翮〔(はがひ)〕、灰赤、黑斑有り。翅の上(かみ)白き羽、黑き羽、有りて、層層たり。觜・脚、蒼黑。其の聲、清亮、多〔いに〕囀る。「比伊古止比伊古止〔ひいことひいこと〕」と曰ふがごとし。

                 師光

   百敷に栖〔(すみか)〕定〔さだめ〕よひたき鳥

      なれはやどりも庭に見ゆめり

黃鶲(き〔びたき)〕 狀、稍〔(やや)〕小さくして、頭、黑。眉、黃。頰・頷・腹・胸、も亦、皆、黃。眼より後、背に至つて純黑。背後・腰間〔(こしまはり)〕、並〔びに〕黃。翅・尾、純黑にして、翅の間〔に〕、白羽、三・四箇有り。其の聲も亦、清滑なり【一名「金花」。】

一種 形・色、鶯に似て、眼、圓く、大なり。其の鳴き聲、鶲〔(ひたき)〕と相ひ似たり。

[やぶちゃん注:スズメ目スズメ亜目スズメ小目ヒタキ上科ヒタキ科 Muscicapidae であるが、ウィキの「ヒタキ科」によれば、『ヒタキ(鶲)と総称されてきたが』、百『種以上がツグミ科』(ヒタキ上科ツグミ(鶫)科 Turdidae)『から移され、その中にはコマドリ類』(ツグミ科コマドリ属 Erithacus)『・シキチョウ類』(ツグミ科シキチョウ(四季鳥)属 Copsychus)『・ルリチョウ類』(ツグミ科 Myophonus 属ルリチョウ(瑠璃鳥)Myophonus insularis 等)『などもいる。英語では、従来ヒタキ科に含まれていた種を flycatchers、ツグミ科から移された種を chats と区別するが、これらは自然分類ではない』とある。『旧大陸・オーストラリア区の中低緯度に生息する』。『嘴』『は横に扁平で、基部が太く』、『剛毛が生えている』。『森林に住む。枝の上に止まり、飛ぶ虫に向かって飛び上がり空中で捕食し、元の枝に戻る「ヒタキ型」給餌をする』とあり、リンク先には驚くべき多数の種群がリストされてある(全世界では約千四百種がいるとされる)。辞書によれば、本邦には、

ヒタキ科オオルリ属オオルリ Cyanoptila cyanomelana

ヒタキ科キビタキ属キビタキ Ficedula narcissina

ヒタキ科サメビタキ属コサメビタキ(小雨鶲・小鮫鶲) Muscicapa dauurica

など 三十種以上が夏鳥又は渡り鳥として渡来するとある。後の「黃鶲」はキビタキでいいとして、本文の種が私には同定出来ない(コサメビタキか? サントリーの愛鳥活動の「コサメビタキを参照)。最後の「一種」はヒタキ科 Tarsiger属ルリビタキ Tarsiger cyanurus か?(ウィキの「ルリビタキ」画像) 同定自信なし。識者の御教授を乞う。]

和漢三才圖會第四十三 林禽類 伊須加鳥(イスカドリ) (イスカ・ヤツガシラ)

 

Iasuka

 

いすかどり 正字未詳

伊須加鳥

      【俗云伊須加止利】

 

△按伊須加鳥狀大如鸜鵒而頭背蒼赤腹臆最赤紫觜

 蒼而齟齬作叉故謂事物齟齬者譬伊須加觜以其觜

 食荏稗等亦妙也脚黑色肉味稍佳

   照るうその胸はこかれて思へともいすかのはしのあはぬ君かな

八首鳥 本朝食鑑云八首鳥狀如鳩而頭有黃羽冠其

 端有黑文鳴時起如揮羽扇眼邊背上紫色觜長短如

 伊須加觜而作叉臆胸黃赤腹白有黑斑翅羽黃白與

 黑色相交尾上下黑中白

 

 

いすかどり 正字は未だ詳らかならず。

伊須加鳥

      【俗に云ふ、「伊須加止利」。】

 

△按ずるに、伊須加鳥は、狀〔(かたち)〕・大いさ、鸜鵒〔(くろつぐみ)〕のごとくにして、頭・背。蒼赤、腹・臆〔(むね)〕、最も赤紫。觜、蒼くして齟齬(くいちが)い[やぶちゃん注:ママ。]叉を作〔(な)〕す。故に、事物〔の〕齟齬(そご)する者を謂ひて、「伊須加の觜(はし)に譬ふ。其の觜を以つて荏〔(えごま)〕・稗〔(ひえ)〕等を食ふも亦、妙なり。脚、黑色。肉の味、稍〔(やや)〕佳(よ)し。

   照るうその胸はこがれて思へどもいすかのはしのあはぬ君かな

八首鳥(やつがしら〔どり〕) 「本朝食鑑」に云はく、『八首鳥、狀、鳩のごとくして、頭、黃〔の〕羽の冠〔(さか)〕有り。其の端、黑き文有り。鳴く時、起き、羽扇を揮(ひら)くがごとし。眼の邊・背の上、紫色。觜、長短〔にして〕伊須加の觜のごとくにして、叉を作す。臆-胸〔むね)〕、黃赤。腹、白く、黑斑有り。翅-羽〔(つばさ)〕、黃白と黑色、相ひ交〔(まぢ)〕る。尾の上下、黑く、中〔は〕白し』〔と〕。

[やぶちゃん注:スズメ目アトリ科イスカ属イスカ Loxia curvirostra。全長十七センチメートル。「イスカの嘴(はし)の食い違い」と言われるように、上嘴と下嘴は先端部が捩じれて食い違い、合わさっていない。翼と尾は黒っぽく、体の他の部分は、雄では赤橙色乃至赤紫色、雌ではオリーブ色。針葉樹の種子を主食とし、食い違った嘴を使って、球果の鱗片を巧みにこじ開け、中の種子を取り出す。新旧大陸の北の中・高緯度地域の針葉樹林帯に広く繁殖分布している。通常は渡りをしないが、針葉樹の種子の不作な年には、豊富な場所へ群れで移動する。日本では、年によって北方から多数渡来し、越冬することがある。繁殖数はきわめて少なく、北海道及び本州の平地から山地の針葉樹林で繁殖の記録がある程度である(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。ウィキの「イスカ」によれば、『イスカのくちばしは』孵化後、『間もない』雛『は普通のくちばしをしているが』一~二『週間経つと先が交差してくる。しかし下のくちばしが右に出るか左に出るかは決まっていない』とあり、『西洋では、イエス・キリストが十字架に貼り付けになったときに、その釘を引き抜こうとしたため、このような嘴になったという伝承がある。そのため、キリスト教文化圏ではイスカは義人のイメージを付与される』とある。ウィキのの画像をリンクさせておく。

 

「鸜鵒〔(くろつぐみ)〕」スズメ目ツグミ科ツグミ属クロツグミ Turdus cardis。既に何度も述べたので繰り返さないが、良安は本書で、この「鸜鵒」を複数の種と混同している。ここは大きさから妥当と思われるクロツグミで訓じておく。但し、クロツグミは標準二十二センチメートルで本種よりも大きい。しかし、良安はこの「鸜鵒」を「ひよどり」(スズメ目ヒヨドリ科ヒヨドリ属ヒヨドリ Hypsipetes amaurotis)とルビしたりもするものの、ヒヨドリではもっと大きくなってしまう(標準二十七・五センチメートル)。また、良安の引く「本草綱目」等の中国の本草書及び現在の中文名での「鸜鵒」は明らかにこれまた別種のスズメ目ムクドリ科ハッカチョウ(八哥鳥)属ハッカチョウ Acridotheres cristatellus で、これも大き過ぎる(標準二十六・五センチメートル)。彼の混同誤認は「林禽類 鸜鵒(くろつぐみ)(ハッカチョウとクロツグミの混同)」の私の注を見られたい。

「荏〔(えごま)〕」荏胡麻。シソ目シソ科シソ属エゴマ Perilla frutescens。一年草で、お馴染みの青紫蘇(シソ属エゴマ変種シソ Perilla frutescens var. crispa)とは同種の変種。東南アジア原産とされる。地方名に「ジュウネン」があり、食べると十年長生きできるという謂れから。古名・漢名は「荏(え)」。

「稗〔(ひえ)〕」単子葉植物綱イネ目イネ科キビ亜科キビ連ヒエ属ヒエ Echinochloa esculenta

「等を食ふも亦、妙なり」食い違った如何にも使い難そうな嘴で、エゴマやヒエなどの極小さい種子を器用に摂餌するのが「妙なり」と言っているのである。

「照るうその胸はこがれて思へどもいすかのはしのあはぬ君かな」出典未詳であるが、この歌、「林禽類 鸒(うそどり)(鷽・ウソ)で既出既注。そこでは「照るうそ」は「照(て)り鷽(うそ)」でウソ属ウソ亜種ウソPyrrhula pyrrhula griseiventris とするから、私は「君」を女と読む。

「八首鳥(やつがしら〔どり〕)」サイチョウ(犀鳥)目ヤツガシラ(八頭)科ヤツガシラ属ヤツガシラ Upupa epops「林禽類 鶻嘲(あさなきどり)(ヤツガシラ)を参照。

『「本朝食鑑」に云はく……』「禽部之三」の伊須加鳥」の附録に載る。(国立国会図書館デジタルコレクションの当該ページ画像)。しかし、不審である。複数の画像を見る限り、ヤツガシラの嘴は非常に長く細く下に曲がってはいるものの、「觜、長短〔にして〕伊須加の觜のごとくにして、叉を作」してなどいないからである。本邦産にそういう種がいるのだろうか? 識者の御教授を乞う。

2018/12/25

和漢三才圖會第四十三 林禽類 猿子鳥(マシコドリ) (マシコ類)

 

Masikodori

 

ましことり 正字未詳

猿子鳥

       【俗云末之古】

 

△按猿子鳥狀大如雀全體灰黑胸腹淡赤色羽灰黑色

 而有黑彪尾下兩端白者二其觜短而赤黑脚黑頂灰

 黑自頭至胸淡赤而有白圈如千葉菊花紋鳴聲如曰

 比宇比宇囀則曰比宇知由留比宇知由留

猿麻之古鳥 狀似猿子鳥而無菊花紋

照麻之古鳥 狀同猿子鳥而自頰至胸正紅

大麻之古島 狀色同猿子鳥而大其菊花紋亦鮮明

 凡猿子鳥之屬性利而聲亦喧宛然似猿之子故名

 之蓋麻之者猿猴異名也

               第三御子

  夫木冬枯の𦊆邊にきゐる照ましこ紅葉に皈る梢なりけり

 

 

ましこどり 正字は未だ詳らかならず。

猿子鳥

       【俗に云ふ「末之古」。】

 

△按ずるに、猿子鳥、狀、大さ、雀のごとく、全體、灰黑。胸・腹、淡赤色。羽、灰黑色にして黑き彪〔(ふ)〕有り。尾の下〔の〕兩端、白き者二つ〔あり〕。其の觜、短くして、赤黑く、脚、黑。頂、灰黑。頭より胸に至〔りて〕淡赤にして白圈有り、千葉菊花の紋のごとし。鳴き聲、「比宇比宇〔(ひうひふ)〕」と曰ふがごとく、囀れば、則ち、「比宇知由留比宇知由留〔(ひうちゆるひうちゆる)〕」と曰ふがごとし。

猿麻之古鳥〔(さるましこどり)〕 狀、猿子鳥に似て、菊花紋無し。

照麻之古鳥〔(てりましこどり)〕 狀、猿子鳥に同じうして、頰より胸に至り、正紅。

大麻之古島〔(おほましこどり)〕 狀・色、猿子鳥に同じうして、大きく、其の菊花紋も亦、鮮明なり。

 凡そ猿子鳥の屬、性、黠-利(こざか)しくして、聲も亦、喧(かまびす)しく、宛然(さなが)ら、猿の子に似たり。故に之れに名づく。蓋し、「麻之(まし)」とは「猿-猴(さる)」の異名なり。

               第三御子

  「夫木」

    冬枯の𦊆邊〔(をかべ)〕にきゐる照〔(てり)〕ましこ

       紅葉に皈〔(かへ)〕る梢なりけり

[やぶちゃん注:「マシコ」は、スズメ目スズメ亜目スズメ小目スズメ上科アトリ科アトリ亜科 Fringillinae、或いはその下部タクソンのヒワ族 Carduelini、或いはその下部のマシコ属Carpodacusなどに分類される三十数種の総称。良安は性格と五月蠅さから「猿子」としたとするが、「マシコ」の類は一般に(後のハギマシコ以外の本邦で見られる種の画像を見よ)が赤い羽色を持ち、「ニホンザルの顔のように赤い色をした小鳥」が和名の由来とされる。但し、以上のように分類学上、特に纏まったグループを指すものではないので注意が必要。小学館「日本大百科全書」の「マシコ」その他によれば、北半球の温帯と亜寒帯に繁殖分布し、渡りをするものが多い。主に低木の小さな果実・種子・草の種子を食べ、その食性に適した太く短い嘴を持つ。少数の例外を除いて、明るい林・低木の散在する草原・半砂漠地帯などに棲息し、地上又は地上近くで行動することが多い。日本では、

ヒワ族ハギマシコ(萩益猿子)属ハギマシコ亜種ハギマシコ Leucosticte arctoa brunneonuchaウィキの「ハギマシコによれば、『本州中部以北で見られ』、『西日本には少ない』。『全長約十六センチメートルでスズメ(約十四・五センチメートル)より少し大きい。体重約三十グラム。『夏羽は全身が褐色みの強い羽毛で覆われ、嘴の色彩が黒い。冬羽では嘴の色彩はオレンジがかった黄色で先端が黒い』。『オスの冬羽は前頭部から腹面にかけて黒く、胸部や腹面には白色や赤紫色の細かい斑紋が入る。和名はこの斑紋がハギの花のように見えることに由来する。後頭から側頸にかけては明褐色。胴体背面や肩羽は褐色で、羽毛の軸周辺の斑紋(軸斑)は黒褐色。メスの冬羽は褐色みが強く、腹面に灰色がかった赤紫色の斑紋が狭く入る』。『標高の高い岩礫地や崖地に生息し、冬季になると海岸、崖地や岩場、疎林、草原、荒地などに移動する』。『非繁殖期には、数十羽から数百羽の群れで行動する』。『食性は植物食で、主に種子を食べる。主に地表で採食を行う』。『岩の隙間に木の枝、苔、枯れ草などを組み合わせた皿状の巣を作』る。『鳴き声は、地鳴きでは「ジュッジュッ」「ジェッジェッ」と濁って聞こえる。高めの声で「ピィスピィス」と鳴いたり、「チッチッ」という鳴き声を発したりもする。飛翔時に聞くことが多い』。ウィキの画像本種は強い赤みを帯びない

ヒワ族ギンザンマシコ属ギンザンマシコ(銀山猿子)亜種ギンザンマシコPinicola enucleator sakhalinensis(日本では、北海道の高山(大雪山系など)で少数が繁殖するほか、冬鳥として北海道の各地に渡来する。本州では冬季に稀れに観察される。全長二十~二十二センチメートル。腹部の羽毛は灰色。翼や尾羽の羽毛は黒褐色で、羽縁は淡色。は全身が赤い羽毛で覆われるは全身が黄褐色の羽毛で覆われる。ウィキの画像

ギンザンマシコ亜種コバシギンザンマシコPinicola enucleator kamtschatkensis

ヒワ族ベニマシコ属ベニマシコ Uragus sibiricusウィキの「マシコによれば、日本では夏鳥として北海道、青森県下北半島で繁殖し、冬鳥として本州以南へ渡り、越冬する。繁殖地では、低木が点在する草原や湿原、海沿いの低木林などで生活する。四~十月に見られる。平地の海岸・川・沼の藪のある草原や湿原などに繁殖する。 枯れ葉や花の穂などを材料に、椀形の巣をつくる』。『越冬期は、丘陵や山麓の林縁や草原、河原などで生活する』。『繁殖地では、地上や樹上で昆虫などを捕食している』。『越冬地ではイネ科やタデ科の草の実を啄んでいる』。『地鳴きは、ピッポッ、ピッポッまたはフィー、フィー。 囀りは、フィー、チリチィチョ、チィチョ』。全長は約十五センチメートル、翼開長は約二十一センチメートル。『嘴は丸みを帯びて短く、肌色をしている』『雄は全体的に紅赤色を帯び、目先の色は濃い。夏羽は赤みが強くなる。頬から喉、額の上から後頭部にかけて白い。 また、背羽に黒褐色の斑があり、縦縞に見える』『雌は全体的に明るい胡桃色で、頭部、背、喉から胸、脇腹の羽毛に黒褐色の斑があり、全体に縞模様があるように見える』。属名『Uragusはギリシャ語で「後衛隊長」』、種小名『sibiricusはロシア語の「シベリア」の意』。『和名の「ベニ」(紅)はその名の通り体色が赤いため』で、「マシコ」は「猿子」と書き、「猿」のことで、猿のように顔が赤いことから名付けられた。この「マシコ」は赤い顔をしていることが多いアトリ科の多くの種につけられているが、ハギマシコのようにそうでないマシコ類もいるウィキの「ベニマシコ画像

が繁殖し、冬鳥として、

ヒワ族マシコ属アカマシコ Carpodacus erythrinus(数少ない旅鳥として主に日本海側の島嶼で記録されることが多い。北海道・本州・伊豆諸島でも記録されている。グーグル画像検索「Carpodacus erythrinus

マシコ属オオマシコ Carpodacus roseus(冬鳥として本州中部以北に渡来するが、数はそれほど多くない。ウィキの「オオシコ画像

が少数、渡来する。小笠原諸島に分布していた

ヒワ族オガサワラマシコ属オガサワラマシコ Chaunoproctus ferreorostris

は一八二八年に捕獲されたのを最後に絶滅してしまった。

 時に、ちょっと困ったのは、主文のそれをどの種に同定するかで、ポイントは「頭より胸に至〔りて〕淡赤にして白圈有り、千葉菊花の紋のごとし」(「千葉菊花」不明。江戸中期以降、菊はななりの流行見たから、その供給地の一つが千葉であったものか)と、『鳴き聲、「比宇比宇〔(ひうひふ)〕」と曰ふがごとく、囀れば、則ち、「比宇知由留比宇知由留〔(ひうちゆるひうちゆる)〕」と曰ふがごとし』である。ハギマシコは外れるとして、そこから先が続かない。ネット・フレーズ検索で北海道野鳥だより百四十六(平成一八(二〇〇六)年十二月北海道野鳥愛護会広報部発行・PDF)の広報部編の「江戸時代中期の松前の鳥学術報告書から」を見出し、それを読んでみると、本種をベニマシコに同定してあった。サントリーの愛鳥運動ベニマシコの鳴き声を聴くと、これらしい感じが強くはした。

 

「猿麻之古鳥〔(さるましこどり)〕」ベニマシコのか?(ウィキの「ベニマシコ画像

「照麻之古鳥〔(てりましこどり)〕」ギンザンマシコのか? 問題はやっぱり分布域だなぁ。

「大麻之古島〔(おほましこどり)〕」オオマシコのか? しかし飛来数が少ないからないぁ。

「黠-利(こざか)しく」原典は「黠」(音「カツ」)は(れっか)が(つくり)の下まである字体。「小賢しく」。「黠」は「聡い・悪賢い」の意。

『「麻之(まし)」とは「猿-猴(さる)」の異名なり』所謂、「ましら」。猿の古名。

「第三御子」「夫木」「冬枯の𦊆邊〔(をかべ)〕にきゐる照〔(てり)〕ましこ紅葉に皈〔(かへ)〕る梢なりけり」「夫木和歌抄」の「巻二十七 雑九」の惟明(これあき)親王(治承三(一一七九)年~承久三(一二二一)年:高倉天皇の第三皇子。母親(平範子)の身分が低かったこと、異母弟尊成親王の方が祖父の後白河法皇に可愛がられていた事から、皇位は尊成親王が継いだ(後の後鳥羽天皇)。和歌に優れており、式子内親王や藤原定家などの当代随一の歌人とも親交が深かった。「承久の乱」直前の五月三日に享年四十三で薨去した)の一首。]

和漢三才圖會第四十三 林禽類 獦子鳥(あとり) (アトリ)

 

Atori

 

あとり 胡雀 臈觜鳥

獦子鳥

     【名義未詳】

     【和名阿止里】

 

△按和名抄注云此鳥群飛如列卒之滿山林故名獦子

 鳥也【獦者獵字之誤乎】此鳥常棲山林不時有群飛出于寺院

 叢林百千成群蔽天狀似雀而大觜太圓頭頸灰蒼有

 柹斑頷黃赤觜白背蒼黑帶赤有黑斑胸腹赤黑腹下

 黃白翅尾黑脚黃白肉味黃不可食

[やぶちゃん注:「肉味黃不可食」は意味が通らない。東洋文庫版はこの字を『苦』とする。これまでの肉味の記載からもそれが自然であるから、訓読では特異的に「苦」に変えた。]

 日本紀云天武天皇七年臘子鳥弊天【其後亦有之以爲天變】蓋

 臘字獵之訛乎近頃攝州天滿之寺院獵子鳥群飛不

 知幾千而爲鳥林木皆隱矣如此三四日人亦群集以

 爲奇恠然無些吉凶焉自古以邂逅群飛兒女爲恠異

 也突厥雀亦然矣【突厥雀見于原禽類】

 

 

あとり 胡雀 臈觜鳥〔(らうしてう)〕

獦子鳥

     【名義は未だ詳びらかならず。】

     【和名、「阿止里」。】

 

△按ずるに、「和名抄」注に云はく、『此の鳥、群飛して列卒の山に林滿つるがごとし。故に獦子鳥と名づくなり』〔と〕。【「獦」は「獵」の字の誤りか。】此の鳥、常に山林に棲み、不時に群飛して寺院の叢林を出ずること有り、百・千と群れを成し、天を蔽ふ。狀、雀に似て、大きく、觜、太く圓〔(まろ)〕し。頭・頸、灰蒼、柹斑、有り。頷、黃赤。觜、白く、背、蒼黑に赤を帶びて黑斑有り。胸・腹、赤黑。腹の下、黃白。翅・尾、黑。脚、黃白。肉味、苦く、食ふべからず。

「日本紀」に云はく、『天武天皇七年、臘子鳥、天に弊〔(おほ)ふ〕』〔と〕【其の後、亦、之れ、有りて、以つて天變と爲〔せり〕。】。蓋し、「臘」の字は「獵」の訛〔(あやまり)〕か。近頃、攝州天滿〔(てんま)〕の寺院、獵子鳥、群飛〔して〕幾千といふことを知れず、鳥の爲(ため)に、林〔の〕木、皆、隱るゝ。此くのごとくなること、三、四日、人、亦た、群集して以つて奇恠〔(きくわい〕と爲す。然れども、些〔(いささか)〕の吉凶も無し。古へより邂逅・群飛することを以つて、兒女、恠異と爲すなり。「突厥雀」も亦、然り【「突厥雀」は原禽類を見よ。】。

[やぶちゃん注:鳥綱スズメ目鳴禽亜目スズメ小目スズメ上科アトリ科アトリ亜科アトリ族アトリ属アトリ Fringilla montifringillaウィキの「アトリ」によれば、『ユーラシア大陸北部の亜寒帯で繁殖し、冬季は北アフリカ、ヨーロッパから中央アジア、中国、朝鮮半島に渡りをおこない』、『越冬する』。『日本には冬鳥として秋にシベリア方面から渡来する。主に日本海より山形県、富山県等に飛来し、それから各地に散らばる。渡来する個体数は年による変化が大きい』。全長は十六センチメートル。『黄褐色を基調に黒、白を加えた羽色をもち、特に胸部の羽毛は橙褐色で目立つ』。『オスの夏羽は頭部が黒い。メスおよびオスの冬羽の頭部は褐色であり、メスはオスより色が薄い』。『山麓の森林や農耕地に生息する。昼行性で昼間は小規模な群れで生活するが、夜は集団で休む。日本においては渡来直後や繁殖地への渡去直前に、数千羽から数万羽になる大群を作ることがある』。『食性は雑食性で果実、植物の種子、昆虫類、節足動物を食べる』。『秋に飛来する鳥なので戦前は穀物に害を与える害鳥とされていた』。一方、『古くから日本ではツグミ』(スズメ目ツグミ科ツグミ属ツグミ Turdus eunomus)『と並んで食用の鳥として重視されてきた。かすみ網で捕らえられ、焼き鳥などで食されたものの、戦後にかすみ網が禁止されたため』、『猟は下火となった』とある。和名「あとり」は如何にも不思議な名であるが、非常に古い呼名で、オーディオの「CEC株式会社」公式サイト内の「徒然野鳥記」の「アトリ」によれば、『「鳥名の由来辞典」(柏書房)によると、万葉の時代には獦子鳥(あとり)と呼ばれ、室町、安土桃山時代には「あっとり」と呼ばれ、江戸時代にはその双方が用いられ、今日の「アトリ」に統一されるに至ったと経過の説明がされていますが、「大言海」の説明する語源として、大群をなして移動することから集鳥(あつとり)が略されたという説を紹介しています。また、この「由来辞典」では、今日』、『漢字表記する際に普通に用いられる「花鶏」(かけい)については、単に、「漢名」とのみ記載されています』[やぶちゃん注:「花鶏」は本種の鮮やかなオレンジ色が目立つ体色が花が咲いたように見えることに由来するようである。]。『そうしますと』、『中国で「花鶏」と記述されたアトリを、ある時』、『日本でそのまま取り入れ、それを「あとり」と読み下したと理解するしかないようです。和名がほぼ確定した明治時代もしくはそれ以前の中国名は、おそらく「花鶏」だったのでしょう。今日、アトリは、台湾では「花雀」、中国では「燕雀」と記述されています。野鳥写真家、文筆家の叶内拓哉氏は「花鶏」の自分なりの解釈として、黒、橙、白とカラフルなこの野鳥が数万、数十万もの大群で飛び交う様が「まるで枯野に花が咲いたようにはなやか」で、そのような光景を目にしてこの鳥に「花」の名を冠したのであろうと述べています(「日本の野鳥100」昭和』六一(一九八六)『年新潮文庫)。残念ながら』、『そう名付けたのは日本人ではなく中国人だったのですが。事実、叶内氏は、昭和』六〇(一九八五)年十一月に『鹿児島県で一万羽のアトリの大群を目にした時の驚きを、「壮観そのものだった」と同書に書き記しています。いつの日か、数千、数万のアトリの乱舞する姿を見てみたいものです。島崎藤村は、「夜明け前」でこのような情報をさりげなく入れています』。『「あれは嘉永二年[やぶちゃん注:一八四九年。黒船来航の四年前。]にあたる。山里では小鳥のおびただしく捕れた年で、殊に大平村の方では毎日三千羽づつものアトリが驚くほど鳥網にかかるといはれ」』と記し、『また』、古くは『「万葉集」』に[やぶちゃん注:リンク先では『よみびと知らず』とするが、巻第二十の刑部虫麿の一首(四三三九番)である。以下、講談社文庫の中西進訳注を参考に独自に表記した。]、

 國巡る獦子鳥(あとり)鴨(かま)鳧(けり)行き𢌞り歸り來(く)までに齋(いは)ひて待たね

『と「アトリの大移動を、防人が国を廻るのにたとえている」と、「鳥名の由来辞典」は紹介しています』とある(「鴨(かま)」はカモの訛りで、「鳧(けり)」現行の和名ではチドリ目チドリ亜目チドリ科タゲリ属ケリ Vanellus cinereus を指す。諸家は無批判に現在のケリにこの「万葉集」の「けり」を同定しているが、私はかなり疑問がある。何故なら、「鳧」は「鳬」とも書き、古くから「かも」と訓じてきた経緯があるからで、実際には「鴨(かも)」と同義とする古記載も多いからである。困ったことに、「鴨(かも)」自体が鳥類の分類学上の纏まった群ではなく、カモ目カモ科 Anatidaeの鳥類のうち、雁(これも通称総称で、カモ目カモ科ガン亜科 Anserinaeのマガモ属 Anas よりも大型で、カモ科 Anserinae 亜科に属するハクチョウ類よりも小さいものを指す)に比べて体が小さく、首があまり長くなく、冬羽(繁殖羽)はで色彩が異なるものを指すが、カルガモ(マガモ属カルガモ Anas zonorhyncha)のように雌雄で殆んどその差がない種もいるので、これも決定的な弁別属性とは言えないからである。私はこの一首の「けり」を種で限定することは出来ないと思っている。鳴き声は「サントリーの愛鳥活動」の「アトリ」を参照されたい。

 

『「和名抄」注に云はく……』ここは送り仮名が少ないので、原典に当たって訓読した。巻十八の「羽族部第二十八 羽族名第二百三十一」に以下のようにある(訓読した全文を示す)。

   *

獦子鳥(アトリ) 「辨色立成」に云はく、「臈觜鳥」【「阿止里」、一に「胡雀」と云ふ。】「楊氏漢語抄」に云はく、「獦子鳥」【和名、上に同じ。今、按ずるに、兩説出づる所、未だ詳らかならず。但し、本朝国史に「獦子鳥」を用ひ、又、或る説に云はく、『此の鳥、群飛して列卒の山林に滿つるがごとし。故に「獦子鳥」と名づくなり』〔と〕。】

   *

『「獦」は「獵」の字の誤りか』と良安は述べているが、誤りである。何故なら、「獦」は「獵」(猟)の異体字だからである。而して「獦子鳥」とは「和名類聚鈔」が解読のヒントで、林に恐るべき数の兵士が構えているような想像を絶する本種の群れが、恰も(実際にはそうではない)それが「獲物を追いたてる勢子(せこ:獲物を狩り出す人)」の役に見えることから「猟」をするのに多数の勢「子」がいる「鳥」に由来するものであろう

「柹斑」柿色の斑(まだら)。グーグル画像検索「アトリ」を見られたい。

『「日本紀」に云はく……』「天武天皇七年」は六七八年。

   *

十二月癸丑[やぶちゃん注:二十七日。]朔己卯。臘子鳥蔽天。自西南飛東北。

   *

とあり、その後、二年後の天武天皇九年に、

   *

十一月辛丑[やぶちゃん注:三十日。]。臘子鳥蔽天。自東南飛以度西北。

   *

とある。但し、それを具体的に不吉な出来事の予兆とするような記載は「日本書紀」には見られない。まあ、乗せた理由は「天變」と見做したからに他ならない訳ではある。

『「臘」の字は「獵」の訛〔(あやまり)〕か』こう思うのは無理もない。私もそう思ったが(事実、両字は別字である)、しかし、ちょっと考えてみると、「臘」で一番に浮かぶのは「臘月」で、これは陰暦十二月の異名であり、年の暮れであり、中国古代に於いて「冬至の後の第三の戌(いぬ)の日に猟の獲物の獣肉を供えて先祖百神を祭った祭り」のことを「臘」と称したから、それに引かれてこの字を用いた確信犯とも考えられなくもない

「攝州天滿〔(てんま)〕の寺院」現在の天満(てんま)は大阪府大阪市北区天満及び同地域南東部の町名。(グーグル・マップ・データ)。現在は同地区内には浄教寺・定専坊・祐泉寺等があるが、これらの寺が、本書執筆当時実在したか、また、どの寺かは不明である。「日本書紀」の部分からこの部分まで、大朏東華(おおでとうか:江戸出身とするのみで生没年等一切不詳)著の随筆「斉諧俗談」の巻之五に「獦子鳥怪(あとりのくわい)」として、殆んど同一の文が載るが、同書は宝暦八(一七五九)年板行で、本書の成立(正徳二(一七一二)年)から四十七年も後。だのに「近頃」と云う部分まで同じだから、本書から丸のまんま抜き出したものに過ぎないと思われる。

「突厥雀」『「突厥雀」は原禽類を見よ』先行する和漢三才圖會第四十二 原禽類 突厥雀り)(サケイ)を指示する。そこに『此の鳥、北より來(きた)るときは、則ち、大唐、當に、賊、有るべし』とあるのを指す。私はそこで「突厥雀(たとり)」をサケイ(沙鶏)目サケイ科サケイ属サケイ Syrrhaptes paradoxus(漢名「毛腿沙鶏」。俗名「沙鶏」)に同定した。但し、本邦ではサケイは迷鳥で、十例ほどの観察記録があるのみである。]

和漢三才圖會第四十三 林禽類 菊戴鳥(きくいただき) (キクイタダキ)

 

Kikuitadaki

 

きくいたゝき  正字未詳

菊戴鳥

        【俗云菊以太々木】

 

按菊戴鳥狀似眼白鳥而背翅青緑色頂上載黃毛如

 花者故名之眉邊有黑斑翅端尾黑腰黃腹白觜灰白

 脚灰黑其聲如曰豆伊豆伊短而小性怕寒難育

 

 

きくいたゞき  正字は未だ詳らかならず。

菊戴鳥

        【俗に云ふ、「菊以太々木」。】

 

按ずるに、菊戴鳥、狀、眼白鳥に似て、背・翅、青緑色。頂の上、黃毛、花のごとき者を載す。故に之れを名づく。眉の邊、黑斑有り。翅の端・尾、黑し。腰、黃。腹、白。觜、灰白。脚、灰黑。其の聲、「豆伊豆伊〔(ついつい〕」と曰ふがごとくにして、短く、小〔さし〕。性、寒を怕れ、育で難し。

[やぶちゃん注:本邦に棲息するのは、スズメ目キクイタダキ科キクイタダキ属キクイタダキ亜種キクイタダキRegulus regulus japonensisウィキの「キクイタダキ」によれば、『砂漠地帯を除くユーラシア大陸の高緯度から中緯度の地域に広く分布する』。『総個体数はおよそ』八千万から二『億羽、生息域は』千三百二十万 平方キロメートル『と推定されている』。『日本では、北海道と本州中部以北(留鳥または漂鳥)で繁殖し、本州中部以南の西日本には一部が越冬のために飛来する』。全長は約十センチメートル、翼開長は約十五センチメートル、体重三~五グラムの『小型の鳥で、日本国内ではミソサザイ、エナガとともに最小の鳥の一種である』。『頭頂の縁が黒色で』、中央に『黄色い部分があるのが特徴で、その中央部の内側に』は『赤い斑がある』。『雌雄ほぼ同色だが、メスにはこの赤い斑がない』。『頭部以外の上面は全体にオリーブ色で、目の回りは白っぽく、嘴と足は黒褐色。嘴は小さくて細い』。『翼の雨覆に黒と白の模様がある』。『頭部の頂きに黄色い小菊を載せたように見える』ことが和名の由来である(同ウィキの頭部を撮った画像)。『春と夏に亜高山帯から山地にかけての針葉樹林に生息し、秋に低地や暖地に移動し』、『冬に針葉樹の多い公園や里山などでも見られる』。『高山にも少数が生息する』。『非繁殖期には小群れで行動し、ヒガラ』(スズメ目スズメ亜目シジュウカラ科シジュウカラ属ヒガラ亜種ヒガラ Periparus ater insularis)『などのカラ類と混群することがある』。『針葉樹で忙しく動き回り、蛾の幼虫、昆虫、クモ類などを捕食する』。『ホバリングして枝先の虫を捕食することもある』。『水浴びをする以外は樹の上で生活し』、『小枝の間にハンモック状の巣を作る』。『鳴き声を片仮名表記すると「ツツツツティーツィツィ」に近い』とある。囀りは「サントリーの愛鳥活動」の「キクイタダキ」を参照されたい。]

佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 五〇~五三 花や鳥

 

五〇 死助(シスケ)の山にカツコ花あり。遠野鄕にても珍しと云ふ花なり。五月閑古鳥(カンコドリ)の啼(ナ)くころ、女や子ども之を採りに山へ行く。酢(ス)の中に漬(ツ)けて置けば紫色(ムラサキイロ)になる。酸漿(ホヽヅキ)の實(み)のやうに吹きて遊ぶなり。此花を採ることは若き者の最も大なる遊樂なり。

[やぶちゃん注:「カツコ花」(カッコばな)は諸解説により、単子葉植物綱キジカクシ目ラン科アツモリソウ属アツモリソウ Cypripedium macranthos var. speciosum の地方名と判明した。ウィキの「アツモリソウ」より引く。花は三~四センチメートル『程の袋状で、赤紫色。茎の頂上に通常』一『花、まれに』二『花つける。全体の高さ』三十~五十センチメートル、葉は』三~五『枚が互生する。冬は落葉する。北海道から本州に分布する。寒冷地を好み、北へ行くほど低山でも見られるようになる。草原、明るい疎林に生育する。本種全体としてはベラルーシ東部から温暖な東アジアに分布。和名は、袋状の唇弁を持つ花の姿を、平敦盛の背負った母衣(ほろ)』(背後からの矢・投石等から防御するための甲冑の補助武具。兜や鎧の背に巾広の絹布をつけて風で膨らませるもの。後には旗指物の一種となった。「ほろ」は「幌」「保侶」「保呂」「母蘆」「袰」等とも書く。ここはウィキの「母衣に拠った)『に見立ててつけられている。また、この命名は熊谷直実の名を擬えた同属のクマガイソウ』(アツモリソウ属クマガイソウ Cypripedium japonicum)『と対をなしている』。『栽培目的で乱獲されることが多いラン科の中でも、最も激しく乱獲』・『盗掘される種類である。そのため、「絶滅のおそれのある野生動植物の種の保存に関する法律」(平成四』(一九九二)『年六月五日法律第七十五号)に』基づき、一九九七年に『「特定国内希少野生動植物種」に指定されるに至った。現在では環境大臣の許可をうけた場合などの例外を除き、採集等は原則禁止である』。『ちなみに「特定国内希少動植物種」を栽培することは禁止されていない。販売・購入についても、国内希少動植物種は原則』、『譲渡禁止だが、特定国内希少動植物種の場合は無菌播種などによって人工的に増殖された個体は、環境大臣及び農林水産大臣への届け出をした者であれば販売、頒布等の業(特定事業)をおこなうことができる。また、譲受け等をする者(法人である場合にはその代表者)は届出業者に住所氏名を提示し、書類記録を提出してもらえば譲受け等をすることができる』。『近年までアツモリソウ類の無菌播種はきわめて困難とされていたが、培養に必要な特殊条件(培地の無機塩濃度の減量、暗所培養、種子および苗の低温処理、未熟種子の利用または長時間の洗浄処理、種類によっては微量の植物ホルモンの添加、等々)が解明され、現在は大量の苗を生産することが可能になっている。一部の業者は園芸的にすぐれた個体同士の交配育種も進めており、今後は園芸植物としての発展が期待される』。但し、『北方寒冷地の植物であるため、暖地での栽培は』摂氏二十度『程度以上に気温が上昇しないよう栽培に適する温度を維持する必要があり』、極めて『困難である』。『なお、人工増殖によって標準個体の価値は相対的に下がり続けているにもかかわらず、国産アツモリソウの盗掘は続いている。草原の管理放棄による植生遷移などが加わり、自然状態では存続が難しい個体数になってしまった自生地も多い。野生個体群の存続についてはますます楽観できない状況になりつつある』。『日本のアツモリソウの仲間には』、ホテイアツモリソウ(布袋敦盛草)Cypripedium macranthos var. hotei-atsumorianum)・レブンアツモリソウ(礼文敦盛草)Cypripedium macranthos var. rebunense)及び同属のキバナアツモリソウ(黄花敦盛草)Cypripedium guttatum var. yatabeanum)があり、いずれも寒冷地を好む』とある(脱線だが、私は幸いにして、嘗て礼文島を旅した折り、開花しているそれを見、さらにレブンアツモリソウの管理者で研究者であられる方が、たまたま、奇形であったために取り除かれた個体を剖検されるのを仔細に見学させて戴く機会を得、その花卉の精巧な驚くべき内部構造まで教授して戴き、メモする機会を持つことが出来た。されば、アツモリソウは植物に詳しくない私にとって、特異点の親しい花なのである)。この地方名は「閑古鳥(カンコドリ)」(カッコウ目カッコウ科カッコウ属カッコウ Cuculus canorus。詳しくは私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 鳲鳩(ふふどり・つつどり)(カッコウ)を参照されたい)は春から初夏にかけて繁殖のために啼き始めるので、アツモリソウの花期である四月中旬から六月と一致することからの命名と思われる。アツモリソウについては、個人ブログ「花々のよもやま話」の「アツモリソウ(敦盛草)」が画像もあり、非常によい。それによれば、属名の「Cypripedium」(シプリペディウム)」はギリシャ語の「Cypris」(女神のビーナス)と「pedilon」(スリッパ)が『語源で、花の形を女性用のスリッパにたとえたことにちなみ、種名の「macranthum」』(マクランサム)『は「大きな花の」』、種『小名の「speciosum」』(スペシオサム『は「美しい、華やかな」を意味している』とある。

 

五一 山には樣々(さまざま)の鳥住(ス)めど、最も寂(サビ)しき聲の鳥はオツト鳥なり。夏の夜中(ヨナカ)に啼く。濱の大槌(オホヅチ)より駄賃附(ダチンヅケ)[やぶちゃん注:既出既注の駄賃馬稼(だちんうまかせぎ)。駄馬を用いた運送業。]の者など峠を越え來たれば、遙に谷底にて其聲を聞くと云へり。昔ある長者の娘あり。又ある長者の男の子と親(シタ)しみ、山に行きて遊びしに、男見えずなりたり。夕暮になり夜になるまで探(サガ)しあるきしが、之を見つくることを得ずして、終に此鳥になりたりと云ふ。オツトーン、オツトーンと云ふは夫(ヲツト)のことなり。末の方かすれてあはれなる鳴聲(ナキゴヱ)なり。

[やぶちゃん注:「オツト鳥」「夫鳥」。三浦佑之氏の論文「なぜ『遠野物語』か-配列と構成をめぐって-」(『路上』第五十五号「特集・遠野物語」(一九八八年十一月路上発行所刊)が、この前後の構成を含め、非常に興味深い考証をなされておられる。そこで(三浦氏は種同定に興味を示しておられないのだが)、この『夫鳥は、ブッポウソウ』(これだと、所謂、「姿の仏法僧」のこと。ブッポウソウ目ブッポウソウ科 Eurystomus 属ブッポウソウ Eurystomus orientalis。本種の鳴き声は「ゲッゲッゲッ」といった汚く濁った音で凡そ「ブッポウソウ」とは聴こえない)『だとかトラツグミ』(スズメ目ツグミ科トラツグミ属トラツグミ Zoothera dauma。鳴き声は頗る気味が悪い。主に夜間に「ヒィー、ヒィー」「ヒョー、ヒョー」(地鳴きは「ガッ」)と鳴く(雨天や曇っている時には日中でも鳴いていることがある)。ウィキの「トラツグミ」によれば、『森の中で夜中に細い声で鳴くため鵺(ぬえ)または鵺鳥(ぬえどり)とも呼ばれ、気味悪がられることがあった。「鵺鳥の」は「うらなけ」「片恋づま」「のどよふ」という悲しげな言葉の枕詞となっている。トラツグミの声で鳴くとされた架空の動物は』、『その名を奪って鵺と呼ばれ』、『今ではそちらの方が有名となってしまった』とある)『だとか言われたりもするのだが、武藤鉄城『鳥の民俗』や高橋喜平『遠野物語考』が指摘するようにコノハズクのことらしい』とある。所謂、「声の仏法僧」、フクロウ目フクロウ科コノハズク属コノハズク Otus scops である。私も本条のオノマトペイアから一番に想起したのは同種であった。酷似した話が佐々木喜善の「聴耳草紙」の一一四話「鳥の譚」の中の以下に出る(所持する「ちくま文庫」版で示す)。

   *

    夫鳥(その六)

 ある所に若夫婦があった。ある日二人で打揃うて奥山へ蕨採りに行った。蕨を採っているうちに、いつの間にか二人は別れ別れになって、互に姿を見失ってしまった。若妻は驚き悲しんで山中を、オットウ(夫)オットウと呼び歩いているうちにとうとう死んで、あのオットウ鳥になった。

 また、若妻が山中で見失った夫を探し歩いていると、ある谷底でその屍体を見つけて、それに取り縋り、オットウ、オットウと悲しみ叫びながらとうとうオットウ鳥になった。それで夏の深山の中でそう鳴いているのだともいう。

 齢寄(としより)達の話によると、この鳥が里辺近くへ来て啼くと、その年は凶作だというている。平素(ふだん)はよほどの深山に住む鳥らしい。

 (私の稚い記憶、祖母から聴いた話。)

   *

なお、三浦氏は、以上の類話と本条を比較検討された上で、この話にも柳田國男の多分に恣意的な文学的改変が加えられているのではないかと推理しておられる。

   《引用開始》

 穿鑿的なもの言いになるが、五一話の設定は佐々木が柳田に語った内容と違っているのではないか。『遠野物語』五二・五三話の小鳥前生譚と『聴耳草紙』のそれとがほとんど一致するということをみても、佐々木が夫鳥の話だけを、柳田に語った時と『聴耳草紙』の時とで語り方を変えたとは考えにくい。しかも、未婚の幼い少女と少年のようにみえる五一話で、娘が相手をオットーンと呼ぶのはどうみても似つかわしくないし、類話からも孤立している。こうした点を考慮すると、二人の設定を柳田が変えたのかもしれないという想定は、それほど突飛な思いつきでもないのだが、これが佐々木のものでないとすれば、柳田がなぜこのような二人を選んだかということが問題になる。

 カッコ花を語る五〇話は、『遠野物語』で唯一といっていいような穏やかな野遊びを語る話で、そこに登場するのは山と花と女や子どもたちである。そこから五一話への展開は、鳥で繋がってゆくとともに、その年若い娘や子どもたちの山入りという穏やかな風景からの連想によって構成しようとする意志が柳田には働いていたのではないか。だから、柳田も好んでいたらしいロミオとジュリエットを想い浮かべさせるような長者の家の二人の恋を暗示させるような設定をとったのではないかと思うのである。しかも、五〇話の穏やかさが実は「死助」という恐ろしい名を持つ山を舞台に語られているというところに、次の五一話に引き出された二人の悲恋は暗示されてもいる。そして、共同体の中で魂を鳥に変えなければならない者たちの暗部が、五〇話から五一話へという展開をとることによって、より鮮やかに増幅されていったのである。

   《引用終了》

私もすこぶる同感である。

 

五二 馬追鳥(ウマオヒドリ)は時鳥(ホトヽギス)に似て少(スコ)し大きく、羽(ハネ)の色は赤に茶を帶び、肩には馬の綱(ツナ)のやうなる縞(シマ)あり。胸のあたりにクツゴコ【○クツゴコは馬の口に嵌める網の袋なり[やぶちゃん注:諸注、「口籠」を当てる。「口籠」は通常は「くつこ」「くちのこ」と読み、牛馬などが噛み付いたり、作物を食べたりするのを防ぐために、口にはめる籠(かご)で古くは藁縄、後に鉄や金属で作る。「和名類聚鈔」に既に載る。]】のやうなるかたあり。これも或長者が家の奉公人、山へ馬を放(ハナ)しに行き、家に歸らんとするに一匹不足せり。夜通し之を求めあるきしが終に此鳥となる。アーホー、アーホーと啼くは此地方にて野に居(ヲ)る馬を追ふ聲なり。年により馬追鳥里にきて啼くことあるは飢饉の前兆なり。深山には常に住みて啼く聲を聞くなり。

[やぶちゃん注:PDFで「馬追鳥」の東北地方の類話譚及び全国の類話を集成してあり、必見である。

「馬追鳥(ウマオヒドリ)」諸家はハト科アオバト属アオバト Sphenurus sieboldii に同定。詳しくは私の和漢三才圖會第四十三 林禽類 青(やまばと)(アオバト)を参照されたいが、平塚市・大磯町をフィールドに持つアマチュア・バードウォッチングのグループ・サイト「こまたん」の「アオバトの形態」によれば、『繁殖期に』は『オーアオーアーーオーアオー』『などと鳴』き、『この他、早口でつぶやくように』『ポーポッポッポッポ』……『と鳴く』とある。サントリーの愛鳥活動の「アオバトで囀りが聴ける。dostoev氏のブログ『不思議空間「遠野」-「遠野物語」をwebせよ!-』の『「遠野物語52魔王鳥には、『高橋喜平は、鳥類図鑑でアオバトは「アーオーアーオー」と啼くと記されている事を紹介している。川口孫冶郎「自然暦」で、恐山では「マオが鳴くと必ず天気が悪くなる。」と伝えられ、そのマオとはアオバトの方言であると。また、高橋喜平が盛岡でアオバトが啼いている時に、古老に啼いている鳥の名を聞くと「ここらではマオウドリと言っている。」と。ところが「注釈遠野物語」では、その高橋喜平「遠野物語考」を参考文献とし「遠野を中心とする地方だけが「マオー」といい、その鳴声に馬追鳥という漢字をあて、ウマオヒというルビを付けた。」と書き記しているが、遠野を中心とする地方に盛岡が入っているのか』? 『という疑問を感じる』ものの、『とにかく馬追鳥は「マオウトリ」であるのは確かのようだ。「遠野物語52」には「年により馬追鳥里に来て啼くことあるは飢饉の前兆なり。」とあるが、高橋喜平は自らのエッセイに、こう記している』。『「山村ではマオウを見た者は死ぬといい伝えられ』て『おり、非常に淋しい声でマオウと啼き、その啼き声が鳥の名になっていた。どことなく赤ん坊の泣き声に似ていたが、夜の深山に啼くせいか、怨嗟そのもののようなひびきをもっていた。」』(中略)『飢饉をもたらす馬追鳥の啼き声はそのまま魔王の咆哮のようにも聞こえるが、気休めから「馬追」という漢字をあてる事によって、その魔を緩和させようとしたのではなかろうか』? 『山とは非情なものである。山に、山神に対する祈願とは「御怒りを鎮めてください。」であり、一方的な神の祟りを恐れた人々が山を神として崇めたのだった。遠野地方ではヤマセが吹くと飢饉となると言われたが、その風とは山が起こすものと信じられてきた。馬追鳥は深山に棲み、なかなかその姿を見る事が無かったという。姿が不明ながら、その恐ろしい啼き声は、山の魔王の啼き声とも捉えたのではなかろうか』? 『留場栄・幸子共著「遠野地方のむらことば」には「オット鳥ァむら近ぐで鳴げば、餓死になる。」というものがある。「遠野物語51」には、そのオット鳥が紹介はされているが、飢饉や餓死との結び付きは紹介されていない。そのオット鳥はコノハズクであるのだが、コノハズクの民俗には死に結びつく匂いはしない。もしかしてこの遠野地方の諺は、馬追鳥と間違って記されたものではなかろうか?山からは、人の生活の目安である紅葉が降りて来て、そして雪も降りてくる。そして深山に棲むというマオウ鳥もまた降りてくるのは、その基本が山であり、その山そのものが人の生き死にを左右しているからではなかったか。その生き死にの中のマオウ鳥の啼き声は、あたかもシューベルトの「魔王」のように人の死を司っていると信じられていたのかもしれない』と考察しておられる。民俗社会で「マオー」「マオウ」が「魔王」に転記されて理解されたかどうかは、私は俄かには断じ得ないが、個人ブログ「野鳥にまつわるお話の「アオバトの民話(秋田県・遠野物語)に、『武藤鉄城によれば、馬追鳥のほか、マオー・アオー・オエオ・魔王鳥などの別名を持つといい、それらはいずれもアオバトの鳴き声によって命名されていることがわかる』。『そして実は、このアオバトの由来譚は東北地方の一部に濃密に伝承され、一方で、アイヌにもアオバトを語る神謡(カムイユカラ)が伝えられているのである』ともあり、dostoev氏の説は非常に興味深い。

 

五三 郭公(クワツコウ)と時鳥(ホトヽギス)とは昔ありし姊妹(アネイモト)なり。郭公は姊なるがある時芋(イモ)【○この芋は馬鈴薯のことなり】を掘りて燒き、そのまはりの堅きところを自ら食い、中の軟(ヤワラ[やぶちゃん注:ママ。])かなるところを妹に與へたりしを、妹は姊の食ふ分(ブン)は一層旨(ウマ)かるべしと想ひて、庖丁にて其姊を殺せしに、忽ちに鳥となり、ガンコ、ガンコと啼きて飛び去りぬ。ガンコは方言にて堅いところと云ふことなり。妹さてはよきところをのみおのれにしなりけりと思ひ、悔恨に堪へず、やがて又これも鳥になりて庖丁かけたと啼きたりと云ふ。遠野にては時鳥のことを庖丁かけと呼ぶ。盛岡(モリヲカ)邊にては時鳥はどちやへ飛んでたと啼くと云ふ。

[やぶちゃん注:「郭公(クワツコウ)」前の「五一」の「閑古鳥(カンコドリ)」に同じい。

「時鳥(ホトヽギス)」カッコウ目カッコウ科カッコウ属ホトトギス Cuculus poliocephalus。私の和漢三才圖會第四十三 林禽類 杜鵑(ほととぎす)を参照されたい。]

2018/12/24

和漢三才圖會第四十三 林禽類 眼白鳥(めじろどり) (メジロ)

 

Mejiro

 

めしろとり 正字未詳

眼白鳥

 

按眼白鳥小禽也狀大似鷦鷯頭背翅尾黃青鮮明俗

 謂淡萌黃色是也眼眶有白圈胸臆白而帶柹色腹白

 性能成群好友在樊中亦集一相依互推其中一雙

 飛出拔群則餘又相推又自中拔去而如初終爲兩隻

 皆飛盡復羣集他枝故俚語稱人之群居相並如眼白

 之推是也毎好柹故捕之以囮或用熟柹安于擌傍畜

[やぶちゃん注:「擌」は(つくり)の下部が「巫」であるが、「ハコ」とルビしていることから、「擌」の誤字と採った。東洋文庫訳でもこの漢字を示してある。]

 之以柹研餌沙糖其鳴聲曰豆伊豆伊囀如曰比伊豆

 留其雌者稍小胸白不帶柹色最不能囀也

 

 

めじろどり 正字は未だ詳らかならず。

眼白鳥

 

按ずるに、眼白鳥は小禽なり。狀、大なり。鷦鷯〔(みそさざい)〕に似て、頭・背・翅・尾、黃青〔にして〕鮮明(あざや)か、俗に淡萌黃色(うすもへぎ〔いろ〕[やぶちゃん注:「へ」はママ。])是なり。眼-眶〔(まぶち)に〕白圈有り。胸-臆〔(むね)〕白くして柹色を帶ぶ。腹、白し。性、能く群れを成し、友を好む。樊〔(かご)〕の中に在りて〔も〕亦、一〔(いつ)の〕(とまりぎ)に集(〔あつまり〕ゐ)て相ひ依りて互ひに推〔(お)〕す。其の中の一雙〔(ひとつがひ)〕、飛び出で、群を拔〔ければ〕、則ち、餘〔も〕又、相ひ推し、又、中より拔け去りて初めのごとし。終〔(つひ)〕に兩隻〔(つがひ)〕と爲り、皆、飛び盡〔くせば〕、復た他の枝に羣集す。故に俚語に人の群居〔して〕相ひ並〔らぶ〕を稱して「眼白の推すごとし」と曰ふは是れなり。毎〔(つね)に〕柹を好む。故に之れを捕ふるに、囮〔(おとり)〕を以つて、或いは、熟柹を擌(はご)の傍〔ら〕に安(を)く。之れを畜ふに、柹〔の〕研餌(すりゑ)・沙糖を以つてす。其の鳴き聲、「豆伊豆伊〔ついつい)〕」と曰ひ、囀〔りは〕「比伊豆留〔(ひいつる)〕」と曰ふがごとし。其の雌は、稍〔ややや)〕小さく、胸、白くして柹色を帶びず。最〔も〕囀へずる能はざる〔もの〕なり。

[やぶちゃん注:スズメ目メジロ科メジロ属メジロ Zosterops japonicus であるが、本邦で見られるのは以下の五亜種。

メジロZosterops japonicus japonicus(北海道・本州・四国・九州・佐渡・隠岐・対馬・壱岐・五島列島及び韓国南部に分布)

シチトウメジロ Zosterops japonicus stejnegeri(伊豆諸島(伊豆大島から鳥島まで)に分布し、南鳥島には嘗ての住民により移入されたものが棲息する)

イオウジマメジロ Zosterops japonicus alani(小笠原諸島に属する火山列島(硫黄列島とも呼ぶ。東京とグアムの中間の当たり、硫黄島・北硫黄島・南硫黄島から成り、西之島を含めることもある)に分布)。

ダイトウメジロZosterops japonicus daitoensis(南大東島・北大東島に分布)

シマメジロ Zosterops japonicus insularis(種子島・屋久島に分布)。

リュウキュウメジロ Zosterops japonicus loochooensis(奄美大島以南の南西諸島に分布する。外見の特徴が亜種メジロと亜種ヒメメジロ(Zosterops japonicus simplex。カラメジロとも呼ぶ。中国・台湾・ベトナム北部・タイ北部に分布し、眼先や前頭部・背などが黄色がかり、胸部が灰白色である。要注意外来生物である)の中間種とされる)

以下、ウィキの「メジロ」より引く。『全長約』十二センチメートル『で、スズメよりも小さい。翼開長は約』十八センチメートル。『緑がかった背と暗褐色の羽を持ち、雌雄同色』。『目の周りの白い輪が特徴であり、名前の由来ともなっている(なおメジロ科に属する鳥は英名でも "White-eye" と呼ばれ、また中国語名では「繡眼鳥」と呼ばれ、やはり名前の由来となっている)。室町時代からメジロの名で知られている』。『昔は「繡眼児」という漢字が用いられていた』。『日本で見られる野鳥の中では、ミソサザイ』(スズメ目ミソサザイ科ミソサザイ属ミソサザイ Troglodytes troglodytes)『・キクイタダキ』(スズメ目キクイタダキ科キクイタダキ属キクイタダキ Regulus regulus)『に次いで最も小さい部類に入る小鳥である』。『東アジア(日本、中国、朝鮮半島、台湾、海南島)から東南アジア(ベトナム、タイ、フィリピン)にかけて分布する留鳥または漂鳥』。『日本では冬季の寒冷地を除く全国で、低地から山地にまで広く分布する。市街地の緑地のある公園などでも見られる』。『食性は雑食だが、花の蜜や果汁を好み、育雛期には虫なども捕食する』。『花の蜜を大変好むため』、『花期に合わせて行動し、春には好物の花の蜜を求めて南から北へと移動するものもいる。特に早春はツバキや梅の花に群がる様子がよく観察され、「チー、チー」という地鳴きで鳴き交わす様子がよく観察される。花の蜜を好むことから「はなすい」、「はなつゆ」などの地方名がある』。『ソメイヨシノが開花すると、ヒヨドリや雀と共に花に群がってくる』。『非繁殖期は山地から平地に移動し、群れで行動することが多く、カラ類と混群を形成することも多い。繁殖期は番いで分散し』、二『羽で鳴き交わしながら』、『花から花へと飛び回る様子がよく観察される。睡眠時は群れ全体でかたまりとなって枝にとまる習性があるため、夕暮れ時になると』、『かたまりの中心にわれ先に割り込もうとするメジロの姿を観察することができる』。『冬季には、アシ原で観察されることもあり、アシに着いた昆虫を採食していると思われる』。『本種とウグイスは両種ともに春を告げる鳥として親しまれていたこともあってか、時期的・場所的に重なる両種は古くから混同されがちであった』。『前述のとおり、メジロは梅の花蜜を好み、早春には梅の花を求めて集まってくる。また』、『比較的警戒心が緩く、姿を観察しやすい』。『いっぽう、梅が咲く頃によく通る声でさえずりはじめるウグイスは警戒心がとても強く、啼き声は聞かれても』、『姿を現すことはあまりなく』、藪『の中から出ることは稀である。またウグイスは主に虫や木の実などを食べ、花蜜を吸うことはめったにない』。『また、そのウグイスとメジロの混同を示すものとして「鶯色」がある。ウグイス色と言った際に、ウグイスの灰褐色(オリーブ色に近い)を想像する人もいれば、メジロの緑色に近い色を想像する人もいる』。『なお、古来より春を告げる言葉として「梅に鶯」があるが、これは梅の花に鶯の声を添えた風情を意味し、日本画で梅の枝にメジロを描くのとは意味が異なる』。『メジロは甘い蜜を好み、また里山や市街地でも庭木や街路樹などの花を巡って生活している。そのため昔から人々に親しまれた鳥である。現在も、切った果物や砂糖水などを庭先に吊しておくことでメジロを呼ぶことができ、野鳥観察において』、『馴染み深い鳥の一種である。エサ場でヒヨドリがメジロを追っ払うのもよく見かける光景である』。『また』、『メジロは比較的警戒心が緩く、頻繁に鳴き交わしつつ群れで行動するため、慣れた人だと口笛で(歯笛の感覚で吹く)仲間がいると思いこませ、群れを呼び寄せることもできたという』。『メジロにはお互いに押し合うように、ぴったりと枝に並ぶ習性がある』。『このことから、込み合っていることや物事が多くあることを意味する慣用句として「目白押し」がある。また、縁台に一列に並んで腰を掛け肩を左右に押し合って』、『端の者を順々に押し出す遊戯として「目白押し」がある』とある。

 

「鷦鷯〔(みそさざい)〕」スズメ目ミソサザイ科ミソサザイ属ミソサザイ Troglodytes troglodytes を指す。

「淡萌黃色(うすもへぎ〔いろ〕)」薄萌黄色。萌え出る葱の芽のような緑色を指す。これ(色見本サイト)。良安がわざわざ色をとり上げる形で言うのは極めて珍しい。或いは、彼はメジロが漉きだったのかも知れない。

「眼-眶〔(まぶち)〕」瞼(まぶた)。

「一雙〔(ひとつがひ)〕」東洋文庫は『一羽』と訳している。採れない。

「餘」その止まり木にまだ残っているメジロたち。

「中より拔け去りて初めのごとし」その残ったメジロたちの中から、また初めと同じように一番(ひとつがい)が抜けるのである。東洋文庫はここも『一羽』と訳している。採れない。

「兩隻〔(つがひ)〕」東洋文庫は単に『二羽』と訳している。

「擌(はご)」「はが」「はか」とも読み、「黐」とも漢字表記することから判る通り、竹や木の枝に鳥黐(とりもち)をつけて、囮(おと)りを置いておいて小鳥を捕える罠。既出既注。

「安(を)く」置く。

『其の鳴き聲、「豆伊豆伊〔ついつい)〕」と曰ひ、囀〔りは〕「比伊豆留〔(ひいつる)〕」と曰ふがごとし』サントリーの愛鳥活動の「メジロで両様の鳴き声が聴ける。

「最〔も〕囀へずる能はざる〔もの〕なり」全く以って囀ることは出来ない。但し、調べてみると、鳴かないわけではない(メジロのは鳴かないと断言している人がいるが、誤り)は「チィー」と鋭く短く鳴くらしい。則ち、その鳴き声を楽しむのはであることは確かである(但し、番で飼うとまず鳴かなくなるらしいこと、一羽でも人気のないところに置かないと鳴かないことなども判った。]

2018/12/23

佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 四四~四九 猿の怪

 

四四 六角牛の峯續きにて、橋野(ハシノ)と云ふ村【○上閉伊郡栗橋村大字橋野】の上なる山に金坑(キンコウ)あり。この鑛山の爲に炭を燒きて生計[やぶちゃん注:「なりはひ」或いは「たつき」と読みたい。]とする者、これも笛の上手にて、ある日晝(ヒル)の間(アヒダ)小屋(コヤ)に居り、仰向(アホムキ)に寢轉(ネコロ)びて笛を吹きてありしに、小屋の口なる垂菰(タレゴモ)をかゝぐる者あり。驚きて見れば猿の經立(フツタチ)なり。恐ろしくて起き直りたれば、おもむろに彼方へ走り行きぬ。

[やぶちゃん注:「經立(フツタチ)」三六」で既出既注。]

 

四五 猿の經立(フツタチ)はよく人に似て、女色を好み里の婦人を盜み去ること多し。松脂(マツヤニ)を毛に塗(ヌ)り砂を其上に附けてをる故、毛皮(ケガハ)は鎧(ヨロヒ)の如く鐵砲の彈(タマ)も通(トホ)らず。

 

四六 栃内村の林崎(ハヤシザキ)に住む何某と云ふ男、今は五十に近し。十年あまり前のことなり。六角牛山に鹿を擊ちに行き、オキ【○オキとは鹿笛のことなり】を吹きたりしに、猿の經立あり、之を眞(まこと)の鹿なりと思ひしか、地竹(ヂダケ)を手にて分(ワ)けながら、大なる口をあけ嶺の方より下(クダ)り來れり。膽潰(キモツブ)れて笛を吹止めたれば、やがて反(ソ)れて谷の方へ走り行きたり。

[やぶちゃん注:「鹿笛」dostoev氏のブログ『不思議空間「遠野」-「遠野物語」をwebせよ!-』の『「遠野物語46鹿笛の呼ぶ魔に鹿笛の画像及びその笛の音で誘われて射殺されるエゾシカの動画がある(射殺以後のシーンはここでは見る必要はなく、4:50以後には胸部を捌くシーンがあるので見られる場合は自己責任で)。そちらによれば、『鹿笛は鹿の腹子の腹部の皮、モモンガの皮、ヒキ蛙の』『皮をパンと張った物を最良とするらしい。他にも鹿の胎仔の皮、鹿の耳の内側の皮、仔鹿の耳の内側の皮、リスの皮など、比較的柔らかな皮を使用している』とある。]

 

四七 この地方にて子供をおどす言葉(コトバ)に、六角牛の猿の經立が來るぞと云ふこと常の事なり。この山には猿多し。緖挊(ヲガセ)の瀧(タキ)を見に行けば、崖(ガケ)の樹の梢(コズウェヱ)にあまた居(ヲ)り、人を見れば遁(ニ)げながら木の實などを擲(ナゲウ)ちて行くなり。

 

四八 仙人峠にもあまた猿をりて行人に戲(タハム)れ石を打ち付けなどす。

 

四九 仙人峠は登り十五里降り十五里あり【○この一里も小道なり[やぶちゃん注:で既出既注。一里を六町(六五四メートル)とする古い坂東道の「里」単位。]】。其中程に仙人の像を祀りたる堂あり。此堂の壁(カベ)には旅人がこの山中にて遭ひたる不思議の出來事を書き識(シル)すこと昔よりの習(ナラヒ)なり。例へば、我は越後の者なるが、何月何日の夜、この山路にて若き女の髮を垂れたるに逢へり。こちらを見てにこと笑ひたりと云ふ類[やぶちゃん注:「たぐひ」。]なり。又此所にて猿に惡戲(イタヅラ)をせられたりとか、三人の盜賊に逢へりと云ふやうなる事をも記(シル)せり。

[やぶちゃん注:ウィキの「遠野物語」によれば、『実際は遠野側の沓掛からと釜石側の大橋からでは、大橋からの方が』二『倍弱の距離があり、厳密には中間地点ではない』。『この峠には仙人が住むと伝えられ、昭和に入ってからも団体写真を撮れば』、一『人多く写ると云われてきた』『昭和』十『年代に遠野の市川洗蔵によって』、『雨風がしのげる程度の堂が奉納され』たが、『その後、トンネルが開通したことにより』『人通りが少なくなってからは』、『仙人堂の本尊は上郷町佐生田へと遷された』とある。]

 

和漢三才圖會第四十三 林禽類 惠奈加鳥(ゑながどり) (エナガ)

 

Enagadori

 

ゑながどり  正字未詳

惠奈加鳥

 

△按惠奈加鳥大如鷦鷯全體似四十雀而背淡赤雜色

 不鮮明眼後背上翮端羽上有黑紋其尾半白半黑頭

 圓小於常鳥其聲清亮而似喘毎鳴如曰豆伊豆伊蓋

 此四十雀屬乎性怕寒難育

 

 

ゑながどり  正字は未だ詳かならず。

惠奈加鳥

 

△按ずるに、惠奈加鳥、大いさ、鷦鷯〔(みそさざい)〕のごとし。全體〔は〕四十雀に似て、背、淡赤〔の〕雜色〔にして〕鮮-明(あざや)かならず。眼の後・背の上・翮〔(はがひ)〕の端〔の〕羽の上、黑〔き〕紋有り。其の尾、半白半黑〔なり〕。頭、常の鳥より圓〔く〕小〔さし〕。其の聲、清亮にして、〔蟲の〕喘(すだ)くに似、毎〔(つね)〕に鳴〔くに〕「豆伊豆伊」と曰ふがごとし。蓋し、此れ、四十雀の屬か。性、寒を怕〔(おそ)〕れ、育て難し。

[やぶちゃん注:掲げた画像は、底本の東洋文庫版のものを、九十度右回転させてある。私の底本原本も頭が完全に下を向いた状態なのだが、どうもおかしいのだ。本種はそんな、逆さまになって木の枝に止まることを特徴となどしていないからである。私が校合に使っている国立国会図書館デジタルコレクション(中外出版社刊。インターネット公開(保護期間満了))の画像の当該頁を見たら、やっぱり思った通り、上記のように組まれているので、特異的にそれに従った。「柄長」で、スズメ目エナガ科エナガ属エナガ Aegithalos caudatus で、本邦には以下の四亜種が棲息する。

コウライシマエナガ Aegithalos caudatus caudatus(ヨーロッパ北部と東部からシベリアにかけてと、韓国、日本の北海道に分布する。稀に本州北部で観察されることがある。頭部全体が白く、幼鳥には他の亜種の成鳥のように過眼線(淡い眉斑)があり、成鳥には黒い過眼線がない。Aegithalos caudatus japonicus はシノニム。北海道とサハリンなどに分布するものを亜種シマエナガ(Aegithalos caudatus japonicus)とする場合もある)

エナガ Aegithalos caudatus trivirgatus(本州に分布し、稀に北海道南部でも観察されることがある)

キュウシュウエナガ Aegithalos caudatus kiusiuensis (四国と九州に分布する。亜種エナガとの形態の相違は殆んどない)

チョウセンエナガ Aegithalos caudatus magnus(韓国中部と南部及び対馬・隠岐諸島・佐渡島に分布する。前種と同じく亜種エナガとの形態の相違は殆んどない)

ウィキの「エナガ」より引く。『ユーラシア大陸の中緯度地方を中心にヨーロッパから中央アジア、日本まで広く分布する』。『日本では九州以北に留鳥または漂鳥として生息する』。体長は標準が約十四センチメートルで、翼開長は約十六センチメートル、体重は五・五~九・五グラム。『体長には長い尾羽を含むので、尾羽を含めない身体はスズメ(体重約』二十四グラム『)と比べるとずいぶん小さい』(同ウィキの写真)。『黒いくちばしは小さく』、『首が短く』、『丸い体に長い尾羽がついた小鳥である』。『目の上の眉斑が』、『そのまま背中まで太く黒い模様になっており、翼と尾も黒い。肩のあたりと尾の下はうすい褐色で、額と胸から腹にかけて白い。雌雄同形同色で外観上の区別はできない』。『学名は、長い尾をもつカラ類を意味する』。『和名は極端に長い尾(全長』十四センチメートル『に対して尾の長さが』七~八センチメートル『)を柄の長い柄杓に例えたこと由来し』、『江戸時代には「柄長柄杓(えながひしゃく)」、「柄柄杓(えびしゃく)」、「尾長柄杓(おながひしゃく)」、「柄長鳥(えながどり)」などとも呼ばれていた』。『おもに平地から山地にかけての林に生息するが』、『木の多い公園や街路樹の上などでもみることができる。山地上部にいた個体が越冬のため』、『低地の里山に降りてくることがある』。繁殖期は群れの中につがいで小さな縄張りを持つ』。『非繁殖期も小さな群れをつくるが、シジュウカラ、ヤマガラ、ヒガラ、メジロ、コゲラなどの違う種の小鳥と混群することも多い』。『エナガはその混群の先導を行う』。『また、非繁殖期には』、『ねぐらとなる木の枝に並列し、小さなからだを寄せ合って集団で眠る習性がある』。『街中の街路樹がねぐらとなることもあり、ねぐらとなった街路樹は夕方にはたくさんのエナガの鳴き声でザワザワと騒がしくなり』、『木の下にはフンがたくさん落とされることになる。地鳴きで仲間を確認しながら、群れで雑木林の中を動き回る』。『木の枝先などで小さな昆虫類、幼虫、クモを食べ、特にアブラムシを好みホバリングしながら捕食することもある』。『また、草の種子、木の実なども食べ』、『樹皮から染み出る樹液を吸うこともある』。三『月ごろから繁殖期に入りつがいとなって、樹木の枝や幹のまたに、苔をクモの糸で丸くまとめた袋状の精巧な巣を作る』。『このため』、『巧婦鳥(たくみどり)と呼ばれることもあった』。一『腹』七~十二『個の卵を産む』。四『月には雛が見られることがある』。『産座には大量の羽毛が敷きつめられる』。『抱卵期間は』十二~十四『日で、日中は雌のみが抱卵し』、『夜は雄も抱卵を行う』。『雛は』十四~十七『日で巣立ちする。つがい以外の繁殖に失敗した雄が育雛に参加することもあり』、『シジュウカラの育雛にも参加する例が確認されている』。『雛が無事に育つ確率は低く、原因は悪天候やカラス、イタチ、ヘビに巣の卵や雛が捕食されることなどが主な原因である』。『さえずりは、「チーチー」、「ツリリ」、「ジュリリ」』。『地鳴きは「チュリリ」、「ジュリリ」』。『猛禽類のハイタカ、ツミ、モズなどにより捕食されることがあり、これらの外敵を察知すると』、『警戒発声を行う』とある。You Tube Furuse氏の「エナガの鳴き声。 "Aegithalos caudatus"をリンクさせておく。ほんと、彼らは可愛い。

「鷦鷯〔(みそさざい)〕」これはスズメ目ミソサザイ科ミソサザイ属ミソサザイ Troglodytes troglodytes原禽類 巧婦鳥(みそさざい)(ミソサザイ)参照。

「〔蟲の〕喘(すだ)く」東洋文庫版訳を参考に「蟲の」を挿入した。日本野鳥の会公式サイト内エナガ」がそれらしいものに聴こえる。]

2018/12/22

和漢三才圖會第四十三 林禽類 鶸(ひわどり) (カワラヒワ・マヒワ)

 

Hiwadoru

 

ひわとり  正字未詳

      【俗云比和止利】

[やぶちゃん注:「ひわ」はママ。歴史的仮名遣は「ひは」。]

 

按鶸狀小於雀全體黃色帶青頭背頸翅交黑羽尾黒

 腹黃白觜灰白脚黑其聲清滑能囀如曰比由牟知由

 牟知由牟肉味苦不可食

                  西行

  山家聲せずと色こくなると思はまし柳のめはむ鶸のむら鳥

河原鶸 狀似鶸而稍大頭背灰白眼後微黑背有黑斑

 翅蒼黑而交黃腹白聲亦同鶸山中水畔有之故名之

 肉【徵甘不苦】

 

 

ひわとり  正字は未だ詳らかならず。

      【俗に云ふ、「比和止利」。】

 

按ずるに、鶸、狀、雀より小にして、全體、黃色に青を帶びたり。頭・背・頸・翅、黑を交〔づ〕。羽・尾、黒く、腹、黃白。觜、灰白。脚、黑。其の聲、清滑〔にして〕能く囀り、「比由牟知由牟知由牟(ひゆんちゆ〔んちゆん〕)」と曰ふがごとし。肉味、苦くして食ふべからず。

                  西行

  「山家」

    聲せずと色こくなると思はまし

 

       柳のめはむ鶸のむら鳥

河原鶸(かはらひは[やぶちゃん注:「は」はママ。] 狀、鶸に似て、稍〔(やや)〕大きく、頭・背、灰白。眼の後、微黑。背に黑斑有り。翅、蒼黑にして黃を交づ。腹、白。聲も亦、鶸に同じ。山中〔の〕水畔〔に〕、之れ、有り。故に之れに名づく。肉【徵甘、苦からず。】。

[やぶちゃん注:スズメ目スズメ亜目スズメ小目スズメ上科アトリ科ヒワ亜科 Carduelinae のヒワ類(ヒワという種はいない)の総称。本邦で単に「鶸」と言った場合は、

本条の後の「河原鶸」=ヒワ亜科カワラヒワ属カワラヒワ亜種カワラヒワ(或いは亜種コカワラヒワ)Carduelis sinica minorほぼ日本全土で留鳥として見られるが、北部の個体群は冬場は暖地へ移動する)

同じカワラヒワ亜種のオオカワラヒワ Carduelis sinica kawarahiba(全体に体色が薄く、頭部から肩にかけて灰色がかるのが特徴。本邦ではでは主に冬鳥として観察される)

同亜種オガサワラカワラヒワ Carduelis sinica kittlitzi(小笠原諸島にのみ留鳥として分布)

カワラヒワ属マヒワ Carduelis spinus(本州中部以北に棲息)

(あと、問題カワラヒワ属ベニヒワ Carduelis flammeaとコベニヒワ Carduelis hornemanni の二種が棲息するが、ここには先に問題にした点と、特異的な赤色斑点からm本項の本文に即すと、挙げねばならない必然性をさらに感じない)が挙げられる。まず、ウィキの「カワラヒワを引く。体長は約十四センチメートル、翼開長は約二十四センチメートルで、『スズメと同大だが』、『やや小さい。全体的に黄褐色で、太い嘴と、翼(初列風切と次列風切)に混じる黄色が特徴的である』。『東アジア(中国、モンゴル、ロシア東南部、朝鮮半島、日本)に分布する』。『地鳴きは「キリリ、コロロ」等と聞こえ、メジロの「チリチリ」という鳴き声にも似ているが、本種のほうが声量があり』、『太い鳴き声なので識別できる。さえずりは「チョンチョンジューイン」等と聞こえる』。『「ジューイン」の部分はセンダイムシクイ』(スズメ亜目メボソムシクイ科メボソムシクイ属センダイムシクイPhylloscopus coronatus)『の囀りの一部とよく似ている。しかしながら、囀りの全体を比較すれば識別は容易である』。『低山から低地にかけての森林に広く生息する。近年は、都市部の市街地の公園や川原などでも観察される。繁殖期には低山から平地にかけての針葉樹林などで番いで生活し』、『小さな縄張りを持つが、秋季以降は数十羽から数百羽の群れを形成することがある。秋に雄は樹上で集団で求愛ディスプレイを行う』。『主に植物食で、植物の種子を食べることが多い。人為環境下ではヒマワリなどの種子を特に好み、大きな種子を太い嘴でついばむ様子が観察される』。『樹木の枝などの茂みの中に、枯れ枝や細根等々を使って椀状の巣を造る。一腹卵数は』五『卵前後。都市部の市街地で繁殖する個体は、巣材としてビニール紐などを利用する。抱卵日数は』十一~十三『日、育雛日数は』十四『日程度である』とある。You Tube Furuseカワラヒワの鳴き声をリンクさせておく。次にウィキの「マヒワを引く。『夏季にヨーロッパ北部やアルプス山脈、中華人民共和国北東部やウスリーで繁殖し、冬季はアフリカ大陸北部やヨーロッパ、中華人民共和国東部、日本、朝鮮半島で越冬する。日本では冬季に越冬のため』に『飛来(冬鳥)し、北海道や本州中部以北で繁殖(留鳥)する』。全長十二~十二・五『センチメートル。尾羽は黒い。翼は黒く、羽縁は黄色。嘴は細く、色彩は薄いオレンジ色』。『オスの成鳥は喉と額から後頭が黒い羽毛で覆われる。顔や胸部、腰は黄色い羽毛で覆われる。後頸から背中は黄緑色、腹部は白い羽毛で覆われ黒褐色の縦縞が入る。メスの成鳥は上面が緑褐色の羽毛で覆われ、黒褐色の縦縞が入る』。『平地から山地にかけての針葉樹林、林縁などに生息する。繁殖期以外は群れで生活する』。『食性は植物食で、果実(ダケカンバ、ハンノキなど)、種子、芽などを食べる』。『樹上に木の枝を組み合わせたお椀状の巣を作り』、一『回に』五~七『個の卵を産む。メスのみが抱卵し、抱卵期間は』十一~十四『日。雛は孵化してから』十三~十五『日で巣立つ』とある。You Tube 野鳥動画図鑑 - Wild Bird Japan氏の「マヒワ(3)さえずり - Eurasian siskin - Wild Bird - 野鳥 動画図鑑をリンクさせておく。

 

「西行」「山家」「聲せずと色こくなると思はまし柳のめはむ鶸のむら鳥」岩波の旧古典文学大系本「山家集 金槐和歌集」の一三九九番には、

   *

    小鳥どもの歌詠みける中に

 聲せずば色濃くなるとおもはまし柳の芽(め)食(は)むひわのむら鳥(どり)

   *

実はご覧の通り、西行も「ひわ」と仮名遣を誤っている。「聲せずば」は板本は「こゑせずと」でこれは「声をたてなくても」の意で、そちらの方が一首の意味(啄んでいる柳の芽の色に染まって羽の色が濃くなってきたから目立つことよと感じられるのだろうか)はよく通ずる。]

和漢三才圖會第四十三 林禽類 額鳥(ぬかどり) (ベニヒワ?)

 

Nikadori

 

ぬかとり  名義未詳

額鳥

      【俗云奴加止利】

 

按額鳥狀似鶸而小灰白色帶青其聲清圓多囀

照額鳥 形色相似鮮明而頂有小紫點

 

 

ぬかどり  名義は未だ詳らかならず。

額鳥

      【俗に云ふ、「奴加止利」。】

 

按ずるに、額鳥、狀、鶸(ひわ[やぶちゃん注:ママ。歴史的仮名遣は「ひは」。])に似て小さく、灰白色、青を帶ぶ。其の聲、清圓にして、多〔いに〕囀る。

照額鳥(てり〔ぬかどり〕) 形・色、相ひ似て鮮-明(あざやか)にして頂きに小〔さき〕紫〔の〕點有り。

[やぶちゃん注:多くの記載は「額鳥」ヲ「紅鶸」の古称とする(最も信頼が於けるのは、徹底的に文献を渉猟した個人ブログ情報言語学研究室「ぬか【糠鳥】」である。しかし、そこでもヒワドリに帰結している)。しかし、スズメ目スズメ亜目アトリ科ヒワ属ベニヒワ Carduelis flammea とはだぞ(ウィキの「ベニヒワ」の画像。)?! この子の緋色や紅色を「灰白色」で「青を帶ぶ」とか、「頂きに小〔さき〕紫〔の〕點有り」何て言うはずないやろ!(なお、「拾芥抄」の中に『三月 桐始華 田鼠(ウグロモチ)化爲ㇾ(ウヅラ・ヌカドリ)』という叙述を認めたが、「鶉」は如何にも「糠鳥」(米糠のような色模様だ!)で腑に落ちるが、この額鳥とは別物であることは言うまでもない)――さても――一応、ウィキの「ベニヒワを引いておくと、『夏季に北アメリカ大陸北部やユーラシア大陸北部で繁殖する。日本には本州中部以北に越冬のため』、『飛来(冬鳥)するが、飛来数の変動が大きい』。全長十三・五~十四センチメートル。『尾羽には切れこみが入る。背面は灰褐色、腹面は白い羽毛で覆われるが』、『体側面は灰褐色みを帯びる。背面や体側面、尾羽基部の腹面(下尾筒)には細い黒や褐色の縦縞が入る。額には赤い斑紋が入る。眼先や嘴基部の腹面(腮)は黒い。尾羽は黒褐色。中雨覆や大雨覆の先端が白く、翼を広げると』、二『本の白い筋状(翼帯)に見える』。『オスの成鳥は胸部の羽毛が赤く染まり、額の赤い斑紋が大型なのが和名の由来。メスや幼鳥は褐色みを帯び(幼鳥はより顕著)、胸部が白い』。『寒帯や亜寒帯にある森林や草原、亜高山帯針葉樹林などに生息する』。『食性は雑食で、果実、種子、昆虫類、節足動物などを食べる』とある。気になるのは、飛来域が本州中部以北であることである。寺島良安は大坂城の御城入医師で、そこで法橋となり、人物である。彼は出羽能代(現在の秋田県)の出身とも大坂出身ともされるが、ともかくも大坂での在住が長い人物であることは間違いない。そもそもが本「和漢三才図会」(木版印刷)の版元も大坂の大坂杏林堂である。或いは良安は紅鶸(ベニヒワ)を見たことがなく、名前も当時の「額鳥」ばかりしか知らなかったとして、あやふやな記憶しかない人物や、知ったかぶりをする者の話を聴き書きして無批判に誤ったことを書いたと考えることも出来るかも知れない。因みに、「鶸(ひわ)」はスズメ目スズメ亜目スズメ小目スズメ上科アトリ科ヒワ亜科 Carduelinae のヒワ類(ヒワという種はいない)の総称で、次の独立項で「鶸鳥」が出る。

和漢三才圖會第四十三 林禽類 日雀(ひがら) (ヒガラ)

 

Higara

 

ひから 名義未詳

日雀

    【俗云比加良】

 

按日雀狀似四十雀而小頭背灰赤色頰邊白黑相交

 腹白翅尾黑其根不澤

 

 

ひがら 名義は未だ詳らかならず。

日雀

    【俗に云ふ、「比加良」。】

 

按ずるに、日雀、狀、四十雀似て小さく、頭・背、灰赤色。頰の邊り、白・黑相ひ交〔じれり〕。腹、白。翅〔と〕尾〔は〕黑〔けれども〕其の根〔は〕澤(うるほ)はず。

[やぶちゃん注:スズメ目スズメ亜目シジュウカラ科シジュウカラ属ヒガラ Periparus ater。本邦には亜種ヒガラ Periparus ater insularis が北海道・本州・四国・九州(屋久島まで)に周年生息する(留鳥又は漂鳥)ウィキの「ヒガラ」(私の好きな元気な囀りの音声有り)によれば、『ユーラシア大陸の広範囲にかけてと』、『アフリカ北部のアルジェリア、チュニジア、モロッコおよび日本、台湾に分布する』。全長は約十一センチメートル、翼開長は約十七センチメートルで、全長約十四センチメートルの本邦の雀(スズメ目スズメ科スズメ属スズメ亜種スズメ Passer montanus saturatus)や約十三センチメートルのコガラ亜種コガラ Poecile montanus restrictus よりも『小さく、日本のカラ類』(今まで同定比定してきたシジュウカラ科Paridae のシジュウカラ・ヤマガラ・ヒガラ・コガラなどを一絡げにした通総称で、縁遠いゴジュウカラやエナガ(スズメ目スズメ亜目ウグイス上科エナガ科エナガ属エナガ Aegithalos caudatusを含めることもあるというから、非分類学的な呼び名である。大きさがほぼスズメ大で、梢の間を活発に動き回る小鳥類で「ガラ(雀)」を和名末に持つものが多い)『の中では最小の種』。『上面は青味がかった灰色や黒褐色、下面は淡褐色の羽毛で覆われる。頭頂は黒い羽毛で被われ、羽毛が伸長する短い冠羽がある』。『頬から後頸にかけて白い斑紋が入るが、喉から胸部にかけて黒い斑紋に分断され胸部の明色部とは繋がらない。翼の色彩は灰黒色。と中雨覆の先端(羽先)に白い斑紋が入り、静止時には』二『本ずつの白い筋模様(翼帯)に見える(シジュウカラの白い翼帯は』一『本)』。『嘴や後肢の色彩は黒い。雌雄同色』。『卵は白い殻で覆われ』、『淡紫色や赤褐色の斑点が入る』。『平地、山地、亜高山帯の針葉樹林に生息する』。『冬季になると』、『標高の低い場所へ移動する。秋季や冬季は群れを形成して生活し、コガラなどのシジュウカラ科の他種やキクイタダキ』(スズメ目キクイタダキ科キクイタダキ属キクイタダキ Regulus regulus)『などと混群を形成することもある』。『食性は雑食で』『昆虫、クモ、果実、草木の種子(アカマツやカラマツなどのマツ類の種子も好む)』『などを食べる』。『樹木の枝先付近を動き回ることが多く』、『樹上で採食を行う。木の幹の隙間に種子などの食物を貯蔵することもある』。『繁殖期にはペアで縄張りを形成する。樹洞やキツツキの古巣』『の中に苔類や獣毛、羽毛を敷いた巣に、日本では』五~七『月に』一『回に』五~八『個の卵を産む。メスのみが抱卵し、抱卵期間は』十四~十八『日。雛は孵化してから』十六~十八『日で巣立ち、巣立ちしてから約』二『週間で独立する。オスはシジュウカラよりも速いテンポで『ツピン ツピン ツピン』と高木の上でさえずる』とある。

「翅〔と〕尾〔は〕黑〔けれども〕其の根〔は〕澤(うるほ)はず」翼の上部と尾は黒いけれども、その根元の方は光沢を欠く。シジュウカラに比してで、ヒガラはそれらの部分の羽毛がシジュウカラに比べると詰まっていないから、そのように感じられるのだと思う。]

和漢三才圖會第四十三 林禽類 四十雀(しじふから) (シジュウカラ・附ゴジュウカラ)

 

Sijyuukara

 

しちうから 正字未詳

四十雀

[やぶちゃん注:「しちうから」はママ。歴史的仮名遣では「しじふから」が正しい。]

 

按四十雀似小雀而大頭黑兩頰白而白圓紋黑圈全

 頸胸背灰青翅尾黧黑而有灰白竪條腹白色胸至尾

 有黑雲紋其聲清滑多囀如曰四十加羅故名之其老

 者換毛色稍異形亦大俗呼曰五十雀 雌者腹雲紋

 幽微              寂蓮

    朝またき四十からめそたゝくなる冬籠もりせる虫のすみかを

 

 

しぢうから 正字は未だ詳らかならず。

四十雀

 

按ずるに、四十雀、小雀に似て大なり。頭、黑く、兩頰、白くして白き圓紋、黑き圈〔(わ)〕頸〔に〕全〔(まつた)し〕。胸・背、灰青。翅・尾、黧黑〔(すすぐろ)〕にして灰白の竪〔の〕條〔(すぢ)〕有り。腹、白色にして、胸より尾に至る黑〔き〕雲紋、有り。其の聲、清滑〔にして〕多く囀り、「四十加羅」と曰ふがごとし。故に之れを名づく。其の老〔(ふ)〕け〔たる〕者、毛、換〔(か)はり〕、色、稍〔(やや)〕異にして、形も亦、大〔なり〕。俗に呼んで「五十雀〔(ごじふから)〕」と曰ふ。 雌は腹の雲紋、幽-微〔(ゆうび)〕なり。

              寂蓮

    朝まだき四十からめぞたゝくなる冬籠〔(ふゆご)〕もりせる虫のすみかを

[やぶちゃん注:スズメ目スズメ亜目シジュウカラ科シジュウカラ属シジュウカラ Parus minor であるが、本邦産は現在、以下の四亜種が留鳥として棲息する。

亜種シジュウカラParus minor minor(アムール川流域から朝鮮半島・長江流域・四川省にかけてと、日本(北海道・本州・四国・九州・壱岐・隠岐・対馬・伊豆諸島・五島列島・佐渡島)及びサハリンに分布)

アマミシジュウカラ Parus minor amamiensis(奄美大島・徳之島固有亜種)

イシガキシジュウカラ Parus minor nigriloris(石垣島・西表島固有亜種)

オキナワシジュウカラ Parus minor okinawae(沖縄島・座間味島・屋我地島(やがじしま:沖縄本島北部にある島)

ウィキの「シジュウカラより引く。全長標準は約十四・五センチメートル、『スズメぐらいの大きさで』、翼開長は約二十二センチメートル、体重は十一~二十グラム。『種小名 minor は「小さな」の意だが、シジュウカラ科』Paridae『の中では大型種である』。『上面は青味がかった灰色や黒褐色、下面は淡褐色の羽毛で覆われる。頭頂は黒い羽毛で覆われ、頬および後頸には白い斑紋が入るが、喉から胸部にかけて黒い斑紋に分断され』、『胸部の明色部とは繋がらない。喉から下尾筒(尾羽基部の下面)にかけて黒い縦線が入る。翼の色彩は灰黒色。大雨覆の先端に白い斑紋が入り、静止時には左右』一『本ずつの白い筋模様の翼帯に見える』。『嘴の色彩は黒い。足の色彩は淡褐色』。は『喉から下尾筒にかけての黒い縦線が』と『比較して』、『より太い。幼鳥はこの黒い線縦が細く不明瞭であり、また頬および下面に黄色みがある』。『市街地の公園や庭などを含む平地から山地の林、湿原などに生息する。通常は渡りを行わないが、寒冷地に分布する個体や食物が少ない時には渡りを行うこともある。非繁殖期の秋季から冬季には数羽から』十『数羽、ときに数十羽の群れとなり』、『シジュウカラ科の他種も含めた小規模な混群も形成する』。『和名は鳴き声(地鳴き)』「ジュクジュクジュク」『に由来する。さえずりは甲高いよく通る声で「ツィピーツィピーツィピー」などと繰り返す』。『食性は雑食で、果実、種子、昆虫やクモなどを食べる。地表でも樹上でも採食を行う』。『樹洞やキツツキ類の開けた穴の内側などに』、が、『主にコケを組み合わせ』、『覆うように獣毛やゼンマイの綿、毛糸などを敷いた椀状の巣を作り』、『日本では』四~七『月におよそ』七~十『個の卵を年に』一回或いは二『回に分けて産む。卵』は『白色に小さな赤褐色や灰色の斑点がまばらにつく』。『メスのみが抱卵し、抱卵期間は』十二~十四日で、『雛は孵化してから』十六~十九『日で巣立つ』。なお、『シジュウカラは、平均寿命が』一『年半ほど』であるとある。You Tube usacchoシジュウカラの鳴き声 A song and a call of Japanese Titをリンクさせておく。前半に囀り、後半に地鳴きが入っている。なお、サイト「サントリーの愛鳥活動の「シジュウカラ」に以下の笑い話が載る。『ある男が、死んでしまったシジュウカラを寺へ持って行き、出てきた小坊主に、あの世への引導(いんどう)を渡してほしいと頼みました。小坊主が「これは何ですか」ときくので、「これはシジュウカラという鳥です」と答えると、小坊主は「なにシジュウカラ?』『人間でさえ人生わずか』『五十年』『というのに、なんじは小鳥のぶんざいでシジュウカラとは生き過ぎたり。カアーツ!」と叫んで引導を渡しました。シジュウカラの引導という江戸時代のお話ですが、これは、あの有名な一休和尚の小坊主時代のエピソードとされています』。

 

「兩頰、白くして白き圓紋、黑き圈〔(わ)〕頸〔に〕全〔(まつた)し〕」東洋文庫版訳では『両頰は白くて円紋をなし、黒い圏(わ)は頸にまで至っている』とある。「圏」の「わ」の読みはこれを援用させて貰った。ウィキ側面写真を見られたい。

「黧黑〔(すすぐろ)〕」「黧」(音「レイ・ライ・リ」)は訓で「つしむ・つじむ」と読み、「青黒い斑点が附く・さらの基底色に色が附いて滲む」の意。

「其の老〔(ふ)〕け〔たる〕者」良安もどうもシジュウカラは長生きする小鳥と勘違いしていたらしい。この辺り、如何にもそんな気がするのである。

「五十雀〔(ごじふから)〕」御存じと思うが、実は全くの別種で「五十雀(ごじゅうから)」はいるのである。スズメ目スズメ亜目ゴジュウカラ科ゴジュウカラ属ゴジュウカラ Sitta europaea で、本邦には三亜種が周年生息する。ウィキの「ゴジュウカラによれば、『九州から北海道にかけて分布するが、高地で繁殖した個体は冬季には低地に移動する』。全長十三・五センチメートルで、『雌雄ほぼ同色である。尾羽は短い。嘴から眼を通り側頭部へ続く黒い筋模様(過眼線)が入る。嘴は黒色で、足は肉褐色』。『平地から山地にかけての落葉広葉樹林に生息する。木の幹に垂直にとまり、頭部を下にして幹を回りながら降りる習性がある(キツツキ類』(キツツキ目 Piciformes)』やキバシリ』(スズメ目キバシリ科キバシリ属キバシリ Certhia familiaris)『は幹に垂直にとまることはできるが、体を逆さまにして降りることはできない)』。『食性は雑食で、昆虫類、節足動物、果実、種子などを食べる。夏季は昆虫類、冬季は種子等を主に食べる。樹皮の隙間にいる獲物を探したり、逆に樹皮の隙間に食物を蓄えることもある』。『樹洞やキツツキの古巣に樹皮を敷き営巣する。巣穴の入り口や内壁、隙間に泥を塗る習性がある。日本では』三~六『月に』一『回に』五~七『個の卵を産む。メスのみが抱卵を行い、抱卵期間は』十八~二十『日。雛は孵化してから』二十~二十五『日で巣立つ』。『繁殖期にはつがいで縄張りを持つ。非繁殖期は、シジュウカラ』『類やコゲラ』(キツツキ目キツツキ科アカゲラ属コゲラ Dendrocopos kizuki)『と混群を形成することがある』。ともかくも、名前が似てはいても、シジュウカラとゴジュウカラは姿(ウィキのゴジュウカラ画像。全然、シジュウカラに似てません!)も行動も声の質も異なり、現在の分類学上もスズメ亜目 Passeriの、シジュウカラ科 Paridae とゴジュウカラ科 Sittidae で種としては決して近縁ではない。

「雌は腹の雲紋、幽-微〔(ゆうび)〕なり」ウィキの写真。上からのショットではあるが、確かに腹部の下や後ろの部分のにある黒い箇所がないように見える。

「寂蓮」「朝まだき四十からめぞたゝくなる冬籠〔(ふゆご)〕もりせる虫のすみかを」寂蓮は既出既注。「夫木和歌抄」の「巻二十七 雑九」に載る一首。で校合済み。]

和漢三才圖會第四十三 林禽類 小雀(こがら) (コガラ)

 

Kogara

 

こがら  正字未詳

小雀  【俗云古加良】

 

按狀似山雀而小故俗曰小雀頭黑頸頰白如圓紋

 背腹白翅尾黑其聲滑多囀捷輕上下見難

                  慈鎭

  拾玉春來ても見よかし人の山里にこからむれゐる梅の立枝を

 

 

こがら  正字は未だ詳らかならず。

小雀  【俗に「古加良」と云ふ。】

 

按ずるに、狀、山雀〔(やまがら)〕に似て、小さし。故に俗に「小雀」と曰ふ。頭、黑く、頸・頰白くして圓紋のごとし。背・腹、白く、翅・尾、黑し。其の聲、滑〔らかにして〕多く囀り、捷輕〔(しようけい)に〕上下〔すれば〕見〔きはめ〕難し。

                  慈鎭

  「拾玉」

    春來ても見よかし人の山里に

       こがらむれゐる梅の立枝を

[やぶちゃん注:スズメ目スズメ亜目シジュウカラ科コガラ属コガラ亜種コガラ Poecile montanus restrictus が日本に留鳥として分布する種(私の偏愛する小鳥である)。ウィキの「コガラによれば(リンク先で鳴き声が聴ける。とてもしっかしした声である)、『ユーラシア大陸中緯度地域を中心に広くに分布する』。『日本では北海道、本州、四国、九州に周年』、『生息する』。『日本では本州以南では山地から亜高山帯の森林内に生息し、北海道では平地でも見られる』。『北海道留萌振興局天塩郡天塩町の町の鳥に指定されている』。全長は十二~十三センチメートル、翼開長は二十一センチメートル。『背面や翼、尾羽は褐色、腹面は淡褐色で覆われる』。『頭頂部と咽頭部の羽毛は黒い。側頭部から胸部にかけては白い羽毛で覆われる。ベレー帽を被ったようにも見える』。『雌雄同色』。『北海道に分布しているハシブトガラ』(シジュウカラ属ハシブトガラ Parus palustris)『と似ているが』、『嘴がやや細いこと、鳴き声が違うこと、頭上と喉に光沢がないことなどにより区別できる』。『平野から山地までの森林に生息する。種小名montanusは「山」の意。繁殖期にはペアで縄張りを形成する。亜高山帯で繁殖した個体は、冬季低地に下りて越冬する。秋から冬にかけてシジュウカラ科の他種と混群を形成することもある』。『食性は雑食で、昆虫類、節足動物、果実等を食べる。固い果実でも』、『こじ開けて食べることができる』。『繁殖形態は卵生で、枯れ木に穴を掘り、その中に樹皮、苔などを使って皿状の巣を作る。日本では』四~七『月に』一『回に』五~九『個の卵を産む。抱卵はメスのみが行い、抱卵期間は』十二~十五『日程である。雛は約』十八『日で巣立ちする』とある。

「捷輕〔(しようけい)に〕上下〔すれば〕見〔きはめ〕難し」東洋文庫訳では『軽やかにあちこちと素早く上下に飛び廻るので見きわめにくい』とある。「きはめ」を挿入したのはそれを参考にしたものである。

「慈鎭」「拾玉」「春來ても見よかし人の山里にこがらむれゐる梅の立枝を」「拾玉集」は平安末から鎌倉初期の僧侶で歌人で「愚管抄」の著者として知られる慈円(慈鎮は諡(おくりな)の私家集。鎌倉最末期から貞和二(一三四六)年にかけて、青蓮院尊円親王が集成した(同親王の命により慶運が編纂したともされる)。五巻本(五千九百十七首)と七巻本(流布本・四千六百十三首)がある。前者には青蓮院本ほかの善本が存し、和歌の配列はほぼ年代順で,慈円の全歌集に近い。歌風は平易な詞を用いてのびやかで、新しい趣向を好んで、仏教的な述懐歌に特色が見られる(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠る)。慈円(久寿二(一一五五)年~嘉禄元(一二二五)年)は摂関藤原忠通の子。兄の基実・基房・兼実は摂関、兼房は太政大臣になった。生まれた翌保元元(一一五六)年に「保元の乱」が起こったが、乱の原因をつくった忠実は慈円の祖父であり、敗死した頼長は叔父に当たる。二歳で母を、十歳で父を失い、永万元(一一六五)年に鳥羽天皇の皇子覚快法親王に従って道快と名のり、仁安二(一一六七)年、天台座主明雲を戒師として受戒得度した養和元(一一八一)年に慈円と改名。兄の兼実が平氏滅亡後、源頼朝の後援を受けて後鳥羽天皇の摂政となるや、その推挽によって建久三(一一九二)年、三十七の若さで天台座主となり、天皇の御持僧となった。頼朝とも親交を結び、政界・仏教界に地位を築き、仏教興隆の素志実現の機を得、建久から承久(一一九〇年~一二二二年)の凡そ三十年の間、国家鎮護の祈禱の生涯を送った。「保元の乱」以来の無数の戦死者や罪なくして殺された人々の得脱の祈りに加え、新時代の泰平を祈るところに慈円の本領があった。一年後に座主を辞し、東山の吉水(よしみず)の地に営んだ祈禱道場大懺法院に住んでいたため、吉水僧正とも呼ばれたが、その後も三度、都合、四度、天台座主に補せられている。後鳥羽院とは、このように師檀の関係も深く、また、歌人としても深く傾倒しあっていた間柄であったが、武家政治に関しては対立し、彼は院の方針に危険を感じ、遂に承久元(一二一九)年に院の前を去った。以後、入滅まで四天王寺別当の地位にあった。「承久の乱」(一二二一)年後は新たに大懺法院を整備し、朝廷と幕府とのための祈りとして行法を再開するが、病いのため、比叡山山麓の坂本で没した。慈円の学統は台密三昧(たいみつさんまい)流を汲み、特に安然(あんねん)の思想を受けること深く、教学の著も多い。政治にも強い関心をもち、「愚管抄」七巻を著した。その文学の愛好と造詣とは数多くの和歌となり、「新古今和歌集」には現存歌人として最高の九十二首もが採られてある。後鳥羽院は、その歌を「西行がふり」とし、「すぐれたる歌はいづれの上手にもをとらず、むねとめつらしき様を好まれき」と推賞している。「平家物語」成立の背景には彼の保護があったとも伝えられている(ここは小学館「日本大百科全書」に拠った)。なお、同歌集は所持しないので、校合は不能。]

和漢三才圖會第四十三 林禽類 山雀(やまがら) (ヤマガラ)

 

Yamagara

 

やまから 山陵鳥

      【正字未詳】

山雀

     【俗云也末加良】

 

按山雀狀似畫眉鳥而頭黃白帶赤色眼頷邊有黑條

 背灰赤色嘴胸翅尾共黑腹淡赤性慧巧能囀常鳴如

 曰豆伊豆伊好食胡桃飽則覆胡桃飢則飜之啄中肉

 作紙撚輪設籠中則能飛潜其輪別安小箱於籠隅爲

 宿處乃至暮自入毎攫物也有鷹鳶之勢其屬小雀四

 十雀火雀皆亦然矣共其肉味不佳故人不敢食又不

 入藥用止畜樊中爲兒女之弄戲耳

                  光俊

  新六山雀の𢌞すくるみのとにかくに持ちあつかふは心なりけり

 

 

やまがら 山陵鳥

      【正字は未だ詳らかならず。】

山雀

     【俗に「也末加良」と云ふ。】

 

按ずるに、山雀、狀、畫眉鳥〔(ほほじろ)〕に似て、頭、黃白、赤色を帶び、眼・頷〔(あご)〕の邊に黑き條〔(すぢ)〕有り。背、灰赤色。嘴・胸・翅・尾、共に黑く、腹、淡赤。性、慧巧〔(けいこう)にして〕能く囀る。常に鳴くは、「豆伊豆伊〔(ついつい)〕」と曰ふがおごとし。好んで胡桃(くるみ)を食ひ、飽〔(くひあ)〕くときは、則ち、胡桃を覆(うつむ)け〔置き、後に〕飢〔うれば〕、則ち、之れを飜〔(ひるが)へして〕中の肉を啄む。紙-撚(こより)〔の〕輪を作りて籠の中に設〔くれば〕、則ち、能く飛んで其の輪を潜(くゞ)る。別に小箱を籠の隅に安〔(あん)〕じて、宿處(ねどころ)と爲(す)れば、乃〔(すなは)〕ち、暮れに至りて自〔(みづか)〕ら入る。毎〔(つね)〕に物を攫(つか)むことや、鷹・鳶の勢(ありさま)有り。其の屬〔の〕小雀(こがら)・四十雀〔(しじふから)〕・火雀〔(ひがら)〕、皆、亦、然り。共に其の肉味、佳からず。故に、人、敢へて〔は〕食はず、又、藥用に〔も〕入れず。止(たゞ)樊〔(かご)〕の中に畜ひ、兒女の弄戲と爲すのみ。

                  光俊

  「新六」

    山雀の𢌞すくるみのとにかくに

       持ちあつかふは心なりけり

[やぶちゃん注:朝鮮半島及び日本(北海道・本州・四国・九州・伊豆大島・佐渡島・五島列島)に分布するスズメ目スズメ亜目シジュウカラ科シジュウカラ属ヤマガラ亜種ヤマガラ Parus varius varius(背中や下面は橙褐色の羽毛で被われ、頭部の明色斑は黄褐色)。本邦には他に限定地固有種亜種として以下の三種がいる。

ナミエヤマガラParus varius varius namiyei(神津島・新島・利島(としま)固有亜種。背中や下面は橙褐色の羽毛で被われ、頭部の明色斑は淡黄色)

オリイヤマガラParus varius varius olivaceus(西表島固有亜種。頭部の明色斑は赤褐色で、背中は灰褐色、下面は赤褐色の羽毛で被われる)

Parus varius varius owstoni オーストンヤマガラ(八丈島・御蔵島・三宅島固有亜種。最大亜種で、下面は赤褐色の羽毛で被われ、頭部の明色斑は細く、色彩は赤褐色。嘴が太い)

他に大東島諸島に固有亜種としてダイトウヤマガラ Parus varius orii Kuroda, 1923 がいたが、大正一一(一九二二)年にに採集されて以来、発見例がなく、絶滅したと考えられている。参照したウィキの「ヤマガラ」によれば、全長十三~十五センチメートル。『頭部は黒い羽毛で被われ、額から頬、後頸部にかけて明色斑が入る。下嘴基部(腮)から胸部にかけて黒い帯模様が入る。尾羽の色彩は黒褐色。初列風切や次列風切の色彩は黒褐色で、羽毛の外縁(羽縁)は青みがかった灰色。雨覆や三列風切の色彩は青みがかった灰色』。『嘴の色彩は黒い。後肢の色彩は青みがかった灰色。卵は白い殻で覆われ、淡褐色や青みがかった灰色の斑点が入る』。『標高』千五百『メートル以下にある常緑広葉樹林や落葉広葉樹林に生息する。和名は山に生息する事に由来するが、山地から平地にかけて生息する。標高』千メートル『以上の場所に生息する個体は、冬季になると』、『標高の低い場所へ移動する。同科他種と混群を形成する事もある』。『食性は雑食で、昆虫、クモ、果実などを食べる。主に樹上で採食し夏季は主に動物質を、冬季は主に果実を食べる。堅い果実は後肢で挟み、嘴でこじ開けて中身を食べる。また』、『樹皮などに果実を蓄える事(貯食)もある』(良安の胡桃の記載は、この貯食行動を正しく押さえた記載となっていることに着目されたい)。『樹洞にコケなどを組み合わせた』『皿状の巣を作り』、三~六『月に』三~八『個の卵を産む。メスが抱卵し、抱卵期間は』十二~十四『日。雛は孵化してから』十八~二十『日で巣立つ』とある。また、『日本では、本種専用の「ヤマガラかご」を使い』、『平安時代には飼育されていた文献が遺されている。学習能力が高いため』、『芸を仕込む事もでき、覚えさせた芸は江戸時代に盛んに披露された。特におみくじを引かせる芸が多く』、一九八〇年頃までは『神社の境内などの日本各地で見られた。そのため』、『年輩者には本種はおみくじを引く小鳥のイメージが強いが、おみくじ芸自体は戦後になってから流行し発展してきたもので、曲芸は時代の変化とともに変遷してきた事が記録から読み取れる。しかし』、『鳥獣保護法制定による捕獲の禁止、自然保護運動の高まり、別の愛玩鳥の流通などにより、これらの芸は次第に姿を消してゆき』、一九九〇年『頃には完全に姿を消した』。『このような芸をさせるために種が特定され』、『飼育されてきた歴史は日本のヤマガラ以外、世界に類例を見ない』とあり、なお、昭和二〇(一九四五)年以降、『消滅するまで代表的だったおみくじ引き以外にも』、「つるべ上げ」・「鐘つき」・「かるたとり」・「那須の与一」・「輪ぬけ」『のような芸があった』とある。私は実際に幼稚園の時、練馬の大泉学園にいたが、そこの妙延寺の祭礼で、カーバイトの火の下で、それらの芸の殆んど見たという記憶があるのである。恐らくは昭和三六(一九六一)年前後の秋のことだった。懐かしい遠い昔の思い出である。You Tube Furuse氏の「ヤマガラの鳴き声。(囀り) "Parus varius"をリンクさせておく。

 

「山雀」何故、「雀」を「から・がら」とと読むのか? 「雀」の音は「シャク・サク」が正規音で「ジャク」が慣用音であって「ガラ」などに近くないから、言わずもがな、和訓である。しかし「から」「がら」でかの小学館「日本国語大辞典」にも出ない。ネットで調べて見ると、「から」は「小鳥」を表わすとか、小鳥は概ね「軽(かる)く翻って飛ぶ」ので「軽(かる)」が転じたという説もあるようだが、どうも腑には落ちない。識者の御教授を乞う。

 

「畫眉鳥〔(ほほじろ)〕」スズメ目スズメ亜目ホオジロ科ホオジロ属ホオジロ亜種ホオジロ Emberiza cioides ciopsis

「慧巧」賢いこと。利発なこと。

「胡桃(くるみ)」本邦に自生するクルミは、ブナ目クルミ科クルミ属マンシュウグルミ変種オニグルミ(鬼胡桃)Juglans mandshurica var. sachalinensis 及び、同じ変種のヒメグルミ(姫胡桃)Juglans mandshurica var. cordiformis である。

「肉」果肉部分。伏せるのは雨水などの湿気を防ぐためであろうから、事実なら、まっこと、知恵が働くことが判る。

「紙-撚(こより)」「紙縒り」。

「小雀(こがら)」スズメ目スズメ亜目シジュウカラ科 Paridae(科ではヤマガラと同属ではある)コガラ属コガラ Poecile montanus

「四十雀〔(しじふから)〕」シジュウカラ科シジュウカラ属シジュウカラ Parus minor(本種は真正に狭義の同属。シジュウカラ属を Periparus ともするが、これはシノニム)。

「火雀〔(ひがら)〕」シジュウカラ科シジュウカラ属ヒガラ Parus ater(同じく真正に狭義の同属)。現行では和名の漢字表記は「日雀」

「光俊」「新六」「山雀の𢌞すくるみのとにかくに持ちあつかふは心なりけり」「新六」は「新撰六帖題和歌集」(「新撰和歌六帖」とも呼ぶ)。六巻。藤原家良(衣笠家良:いえよし。新三十六歌仙の一人)・為家(定家の子)・知家・信実・光俊の五人が、仁治四・寛元元(一二四三)年から翌年頃にかけて詠まれた和歌二千六百三十五首を収めた、類題和歌集。奇矯で特異な歌風を特徴とする(以上は東洋文庫版の書名注を参考にした)。本首は同書の「第六 木」に所収する。日文の「和歌データベース」で校合済み。]

2018/12/21

佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 四三 熊と素手で格闘

 

四三 一昨年の遠野新聞にも此記事を載せたり。上鄕村の熊と云ふ男、友人と共に雪の日に六角牛に狩に行き谷深く入りしに、熊の足跡を見出でたれば、手分(テワケ)してその跡を覓(モト)め、自分は峯の方を行きしに、とある岩の陰より大なる熊此方を見る。矢頃(ヤゴロ)あまりに近かりしかば、銃をすてゝ熊に抱へ[やぶちゃん注:「かかへ」。]つき雪の上を轉(コロ)びて、谷へ下る。連(ツレ)の男之を救はんと思へども力及ばず。やがて谷川に落入りて、人の熊下(シタ)になり水に沈みたりしかば、その隙(ヒマ)に獸の熊を打取りぬ。水にも溺(オボ)れず、爪の傷は數ケ所受けたれども命に障(サハ)ることはなかりき。

[やぶちゃん注:本書刊行は明治四三(一九一〇)年六月であるから、明治四一(一九〇九年となるが、dostoev氏のブログ『不思議空間「遠野」-「遠野物語」をwebせよ!-』の『「遠野物語43大熊に遠野常民大学著・後藤総一郎監修「注釈遠野物語」(一九九七年筑摩書房刊)から、当該記事『遠野新聞』の引用があり、そのクレジットは明治三九(一九〇六)年十一月二十日とある。佐々木からの聴き取りから実に四年も柳田が放置していたことが判る(漢字を恣意的に正字化し、「熊と格闘」とあるのを見出しととらさせて貰って前に配した)。

   *

 

   熊と格鬪

 

上鄕村仙人峠は今は篠切りの季節にて山奧深く分け入りしに淡雪に熊の足跡あるを見出し仝村細越佐藤末松を先頭に七八人の獵夫等沓掛山をまきしに子連れの大熊を狩出したれば狙ひ違はず二發まで見舞たれども斃るゝ氣配のあらざれば畑屋の松次郞は面倒臭しと獵銃打ち捨て無手と打組みしも手追ひの猛熊處きらはず鋭爪以て引搔きしも松次郞更にひるまず上になり下になり暫が間は格鬪せしも松次郞が上になれば子が嚙み付くより流石の松次郞も多勢に無勢一時は危く見えしも勇を鼓して戰ひしに熊も及ばずと思ひけん松次郞打ち捨てゝ逃げんと一二間離れし處を他の獵夫の一發に斃れしも松次郞の負傷は目も當てられぬ有樣にて腰より上は一寸の間きもなく衣類は恰もワカメの如く引き裂かれ面部に嚙み付かんと牙ムキ出せばコブシを口に突き込みし爲め手の如きは見る影もなき有樣にて今尚ほ治療中なりと聞くも恐ろしき噺にて武勇傳にでも有り相な事也。

   *

ウィキの「遠野物語」には、本条『
では熊はクマと格闘してもほぼ無傷で生還した屈強な男と書かれているが、新聞記事の内容とは異なる部分がいくつかある』「遠野物語」では知人と二人で『六角牛山へ入ったとなっているが、遠野新聞では篠切の季節(旧暦の』十『月から雪の降りはじめる季節)に佐藤末松を筆頭とする』七、Ⅷ『人からなる一団が沓掛山で遭遇した事件とされている。熊と呼ばれた畑屋の松次郎は負傷で目も当てられない状態となり、着衣はずたずたに裂け、クマが噛み付こうとした際に拳を口に押し込んで難を逃れた為に手は酷い有様で、発行時点でも治療を必要としていたとなっている。あるいは、松次郎の近所に住む高橋金助の証言によれば、こちらは怪我は負ったものの、病院へ行く必要があるような状態では無かったとされており、新聞では読み物として面白くするために誇張されていたのではないかと考えられている』とある。

和漢三才圖會第四十三 林禽類 鵐(しとど) (ホオジロの類かとも思われるも同定不能)

 

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しとゝ  巫鳥【漢語抄】

     【和名之止止】

【音巫】

 

△按字彙謂鵐者雀屬不詳形狀今鵐青鵐爲一物非也

 似鵐青者青鵐也【出原禽之下】鵐在山林不出於原野形似

 雀黃赤色翅有黑縱斑脚掌黑

                  定家

  夫木人問はぬ冬の山路のさひしさよ垣根のそはにしとと降りゐて

 

 

しとゞ  巫鳥〔(ふてう)〕【「漢語抄」。】

     【和名、「之止止」。】

【音、「巫」。】

 

△按ずるに、「字彙」に『鵐、雀の屬』と謂ひて、形狀を詳らかにせず。今、「鵐〔(しとど)〕」〔と〕「青鵐〔(あをじ)〕」を一物と爲すは、非なり。「鵐」に似て青き者、「青鵐」なり【原禽の下に出〔だせり〕。】。鵐〔(しとど)〕は山林に在りて、原野に出でず。形、雀に似て、黃赤色。翅に黑き縱斑有り。脚・掌、黑し。

                  定家

 「夫木」

  人問はぬ冬の山路のさびしさよ

     垣根のそばにしとど降〔(お)〕りゐて

[やぶちゃん注:「しとど」「鵐」は既出の「畫眉鳥(ほうじろ[やぶちゃん注:ママ。])」で主種として既に同定した、スズメ目スズメ亜目ホオジロ科ホオジロ属ホオジロ亜種ホオジロ Emberiza cioides ciopsis の異名である。 ここで良安は既に「和漢三才圖會第四十二 原禽類 蒿雀(あをじ)(アオジ)」(「青鵐」の異名が既にそこで出ている)で出した種の青くない別種だ、と言っている訳である。私はそちらで「蒿雀(あをじ)」はスズメ目スズメ亜目ホオジロ科ホオジロ属アオジ亜種アオジ Emberiza podocephala personata であると同定した。では、青くない「鵐」とは何ものか? 辞書を見ると、「鵐」はアオジ・ノジコ・ホオジロ・ホオアカなどの小鳥の古名だとするが、そいつらはみんな、既出項目で同定してしまっているのだった。ホオジロ属は他にもいることはいるし、ここで盛んに部分的に黒いというのを手掛かりに幾つかを調べてはみたが、どうも良安が見かけそうな種はいない。お手上げである。だいたいからしてこの「鵐」という漢字も訓の「しとど」も大いに妖しくヘンなのだ(以下の注参照)

「漢語抄」東洋文庫版の「書名注」に『『楊氏漢語抄』十巻。楊梅(やまもも)大納言顕直撰。源順の『和名抄』の中に多く引用されている書であるが、いまは佚して伝わらない。漢語を和訳したもの。『桑家(そうか)漢語抄』とは別本』とある。確かに、「和名類聚鈔」の巻十八の「羽族部第二十八 羽族名第二百三十一」に、

   *

鵐鳥 「唐韻」云「鵐」【音、「巫」。「漢語抄」云、『巫鳥。之止々』。】。鳥名也。

   *

とはあるんだわ。しかしね、そもそもが、この「鵐」という漢字、ワープロで普通に「しとど」で変換され、普通の国語辞典にさえ載っているのに、驚くべきことに、天下の「大漢和辭典」を元に略冊した所持する「廣漢和辭典」にさえ載っていないのである(以下に〈鵐の不思議〉さらに続く)

「字彙」明の梅膺祚(ばいようそ)の撰になる字書。一六一五年刊。三万三千百七十九字の漢字を二百十四の部首に分け、部首の配列及び部首内部の漢字配列は、孰れも筆画の数により、各字の下には古典や古字書を引用して字義を記す。検索し易く、便利な字書として広く用いられた。この字書で一つの完成を見た筆画順漢字配列法は清の「康煕字典」以後、本邦の漢和字典にも受け継がれ、字書史上、大きな意味を持つ字書である(ここは主に小学館の「日本大百科全書」を参考にした)。だからね、れっきとした中華の古い漢字なのだ。「廣韻」の「無」の部に「鵐。鳥名雀屬」とあるのも中文サイトで確認しただぎゃあ。だいたい、訓とする「しとど」は古くは清音「しとと」であったかとし、副詞で多く「に」を伴って「はなはだしく濡れるさま」「びっしょり」「ぐっしょり」「じとじと」で、「雨や露などにびっしょり濡れるさま」から転じて「涙や汗などにぐっしょり濡れるさま」としながら、「しとしと」は雨の降るさまやその静かな動態を表わし、「しとど」とは意味の違いが認められ、また、用例の上からも「しとど」の方が古いところから、「しとしと」から「しとど」が成立したとは考えられない、などと書いてあって、この訓自体も、またね、何から何まで怪しいんだわね。……或いは……ヱヴァンゲリオンの「シト」(使徒)が「ド」っさりやって来るの意かぁもしんねえぞ?……

「定家」「夫木」「人問はぬ冬の山路のさびしさよ垣根のそばにしとど降りゐて」「夫木和歌抄」巻二十七の「雑九」にある。この一首、作為が破綻しているようにしか私には読めない。「人問わぬ冬の山路」があるのは貴様の小倉山荘辺りだろ。人工の垣根がそばにあるもんな。だからこれは隠棲隠遁の奥深い山家の庵でも何でもない。春になりゃ、わんさか貴人がお出ましになって踏み荒らす山路だろ。たまには「しとど降」られて佇んで「つかの間の「人問はぬ冬の山路のさびしさ」を軽薄に味わうのも、また一興ってか? どうも好きになれんね、定家は。]

和漢三才圖會第四十三 林禽類 仙遊鳥(せんゆうどり) (センニュウ)

 

Senyuudori

 

せんゆうとり 正字未詳

仙遊鳥

 

△按仙遊鳥狀小似眼白鳥形色似雲雀觜黑色其尾能

 開合擴則如孔雀尾人畜之弄翫其聲不應形高亮似

 鸎喞喞聲性畏寒不易育

 

 

せんゆうどり 正字は未だ詳らかならず。

仙遊鳥

 

△按ずるに、仙遊鳥、狀、小さく、眼白鳥〔(めじろ)〕に似る。形・色〔は〕雲雀〔(ひばり)〕に似る。觜、黑色。其の尾、能く開合す。擴(ひろげ)るときは、則ち、孔雀の尾のごとし。人、之れを畜ひて、弄翫す。其の聲、形に應ぜず、高亮なり。鸎の「喞喞(きよつきよつ)」の聲と似〔たり〕。性、寒を畏れ、育て易すからず。

[やぶちゃん注:スズメ目スズメ亜目スズメ小目ウグイス上科センニュウ科 Locustellidae(ヒタキ科ウグイス亜科 Sylviinae ともする)のセンニュウ属Locustella(ロクステラ:ラテン語で「Locusta(バッタ)に似たもの」)の仲間。センニュウは「仙入」と漢字表記するが、語源は不明で、英語では対応する語がなく、スズメ亜目ヨシキリ科ヨシキリ属オオヨシキリ Acrocephalus arundinaceusやスズメ目セッカ科セッカ属 Cisticola・スズメ目ウグイス上科ウグイス科ウグイス属 Horornisなどとともに「warbler」とよばれる。センニュウ属Locustellaの仲間はユーラシアにのみ分布し、七種が知られているほか、一九七二年に樺太(サハリン)で採集された標本によって新種として記載されたが、エゾセンニュウ Locustella fasciolata との異同がはっきりしないものがある。孰れも褐色の地味な姿をしており、全長約十二~十八センチメートルで、藪か草原に棲み、草や低木の枝を伝いながら、昆虫を啄み、南へ渡って越冬する。囀りは、それぞれの種によって特徴があり、姿は似ていても、鳴き声によって識別することは難しくない。日本には、夏鳥として、先に示したエゾセンニュウの他、

シマセンニュウ Locustella ochotensis

マキノセンニュウLocustella lanceolata

が棲息し、稀に、

シベリアセンニュウ Locustella certhiola

も観察されている。ヨーロッパの種群は湿地や川べりの鳥として、人々に親しまれている。巣は、草むらかやぶの地上近くにつくるものが殆んどである(ここは主文を小学館「日本大百科全書」に拠った)。毎度、お世話になるサイト「馬見丘陵公園の野鳥」の「マキノセンニュウスズメ目センニュウ科牧野仙入によれば、『日本では、主に夏鳥として北海道北部や東部の平地の草原、潅木のある湿地、牧草地などに渡来し、繁殖する。草薮の中を歩き回っていて、人が近づくと足元から飛び立ち、短距離を飛んで草中に入る。本州以南では旅鳥として出現するが』、『記録は少ない』とあり、声は地鳴きが『チュッ、チュッ』、「囀り」は『朝夕や夜間、少し高い草の茎やフキの葉の上で「チリリリリ・・・・・・・・」と方向性のない音質の声で虫のように鳴く』とあり、『江戸時代中期にセンニュウ類として「センニウ」の名が記されていて、「センユウトリ」「センカ」の異名が知られている』とされ、名の『センニュウ』『は「仙遊鳥センユウドリ」から変化したものであろうが、鳥名の由来は不明』とある。You Tube 野鳥動画図鑑 - Wild Bird Japanの「マキノセンニュウ(4)さえずり(小刻みに鳴く)をリンクさせておく。]

和漢三才圖會第四十三 林禽類 頭鳥(かしらどり) (カシラダカ)

 

Kasiradori

 

かしらとり 正字未詳

      【俗云加志良】

頭鳥

 

按加志良鳥狀似深山畫眉鳥而毛色如鶉頭黑柹色

 頰赤有白斑腹白臆及兩脇有赤斑能成群其聲短不

 清囀時起毛冠其裏黑

 

 

かしらどり 正字は未だ詳らかならず。

      【俗に「加志良」と云ふ。】

頭鳥

 

按ずるに、加志良鳥、狀、深山畫眉鳥〔(みやまほほじろ)〕に似て、毛色、鶉のごとし。頭は黑柹色〔(くろがきいろ)〕。頰、赤くして、白斑有り。腹、白く、臆〔(むね)〕及び兩脇に赤斑有り。能く群れを成す。其の聲、短く、清からずして、囀る時、毛〔の〕冠〔(さか)〕を起こす。其の裏、黑し。

[やぶちゃん注:スズメ目ホオジロ科ホオジロ属カシラダカ(頭高)Emberiza rustica の異名。ウィキの「カシラダカによれば、『和名の由来は、興奮すると頭頂部の羽を立たせることによる』。『スカンジナビア半島からカムチャッカ半島までのユーラシア大陸高緯度地域と、アリューシャン列島で繁殖し、冬季は中国東部に渡り』、『越冬する。また、中央アジアに渡る個体もある』。『日本では冬鳥として、九州以北に渡来する』。体長は約十五センチメートル、翼開長は約二十四センチメートル。『後頭部に短い冠羽がある。雄の夏羽は、頭部が黒く目の上から白い側頭線がある。体の上面は茶色で黒い縦斑がある。体の下面は白色である。雄の冬羽と雌は、頭部と体の上面に淡褐色になる。外観はホオジロのメスに似ている』。『平地から山地の明るい林や林縁、草地、農耕地、アシ原に生息する。繁殖期はつがいで生活するが、それ以外は数羽から』百『羽程の群れを作って過ごす』。『巣は地上または枝の上に椀形ものを作る。卵数は』四~六『個である』。『越冬時は地上を跳ね歩きながら』、『時々』、『冠羽を立てて、草木の種子を採食している』。『地鳴きは「チッ、チッ」。越冬期の後期では日本でも囀りを聴くことができる。ホオジロやアオジ等より早口で複雑な囀りである。囀りを日本語で表記するのは簡単ではない』とある。You Tube Birdlover.jpの「カシラダカの囀りサントリーの愛鳥活動カシラダカ(こちらは地鳴きも有り)で聴ける。確かにかなり複雑で(良安はそこを「清からず」と言ったのだと腑に落ちる)音写は難しい。

和漢三才圖會第四十三 林禽類 畫眉鳥(ホウジロ) (ホウジロ・ガビチョウ・ミヤマホオジロ・ホオアカ)

 

Hoojiro

 

ほうじろ

畫眉鳥

 

ハアヽミィニヤ

[やぶちゃん注:「ほうじろ」はママ。歴史的仮名遣では「ほほじろ」、現代仮名遣でも「ほおじろ」となる。]

三才圖會畫云眉似鶯而小黃黑色其眉如畫故以名之

巧於作聲如百舌 歐陽公詩

 百囀千聲隨意移  山花紅紫樹高低

 始知鎖向金籠聽  不及園林自在啼

按畫眉俗云頰白鳥也狀大於鶯【但中華鶯甚大故三才圖會謂似鶯而小】

 灰赤色眉白如畫頰亦白間黑背上有黑斑翅尾畧黑

 尾兩端有白毛腹微赤黃色臆下有赤斑其脚赤黑其

 聲關滑多囀中有如小鈴之音者人畜籠中弄之其聲

[やぶちゃん注:「關滑」はママ。「圓滑」の誤記かと思われる。訓読では「圓滑」とした。]

 如曰知里里者名片鈴如曰知里里古呂呂知里里者

 名諸鈴而以爲珍

深山畫眉鳥 狀似畫眉鳥而頭黑胸腹灰白臆下有黑

 圏彪兩羽亦有黑其尾兩端白囀時起毛冠其裏正

 黃而美

――――――――――――――――――――――

頰赤鳥 正字未詳

    【保阿加止利】

按頰赤鳥形似雀而背色亦如雀其頰赤胸白有雌鶉

 文聲似青鵐而細髙常棲蒿間爲原禽之屬【對頰白鳥出于此】

 

 

ほうじろ

畫眉鳥

 

ハアヽミィニヤ

 

「三才圖會」に云はく、『畫眉は鶯に似て、小さく、黃黑色。其の眉、畫〔(ゑが)けるが〕ごとし。故に以つて之れに名づく。巧〔みに〕聲を作〔(な)〕すに於いて百舌(つぐみ)のごとし。 歐陽公〔が〕詩〔に〕、

 百囀〔(ひやてん)〕千聲し 意に隨ひて移る

 山花〔(さんくわ)〕紅紫〔(こうし)〕 樹 高低〔(こうてい)〕

 始〔めて〕知〔んぬ〕 鎖〔(つな)ぎて〕金籠〔に〕向〔ひて〕聽〔くは〕

 及ばず 園林に自〔(おのづか)ら〕啼〔きて〕在〔るに〕

[やぶちゃん注:詩の訓読は良安の返り点には従いつつ、ネット上の諸訓読を縦覧した上、最終的にはオリジナルに附した。]

按ずるに、畫眉は俗に云ふ、「頰白鳥」なり。狀、鶯より大〔にして〕【但し、中華の鶯は甚だ大なり。故に「三才圖會」〔は〕『鶯に似て小なり』と謂へり。】、灰赤色。眉、白く、畫〔(ゑが)ける〕がごとし。頰も亦、白く、間〔(まま)〕黑し。背の上、黑斑有り。翅・尾、畧〔(ほぼ)〕黑く、尾〔の〕兩端、白毛有り。腹、微〔(わづか)に〕赤〔き〕黃色。臆〔(むね)の〕下、赤斑有り。其の脚、赤黑。其の聲、圓滑〔にして〕多〔(おほ)いに〕囀り、〔その〕中に小〔さき〕鈴の音〔(ね)〕のごとき者有り、人、籠の中に畜ひ、之れを弄す。其の聲〔の〕「知里里〔(ちりり)〕」と曰ふがごとき者を「片鈴〔(かたすず)〕」と名〔づけ〕、「知里里古呂呂知里里〔(ちりりころろちりり)〕」と曰ふがごとき者を名「諸鈴(もろ〔すず〕)」と名づけて、以つて珍と爲す。

深山畫眉鳥〔(みやまほほじろ)〕 狀、畫眉鳥に似て、頭、黑。胸・腹、灰白。臆〔(むね)〕の下に黑〔き〕圏〔の〕彪〔(ふ)〕有り。兩羽も亦、黑有り。其の尾、兩端、白し。囀る時、毛〔の〕冠〔(さか)〕を起こし、其の裏、正黃にして美なり。

――――――――――――――――――――――

頰赤鳥(ほあかどり[やぶちゃん注:ママ。]) 正字は未だ詳らかならず。

    【「保阿加止利」。】

按ずるに、頰赤鳥は、形、雀に似て、背の色も亦、雀のごとし。其の頰、赤く、胸、白にして、雌〔の〕鶉〔(うづら)〕の文〔(もん)〕有り。聲、青鵐(あをじ)に似て、細く髙し。常に蒿〔(よもぎ)〕の間に棲む。原禽の屬たり【「頰白鳥」の對として此に出〔(いだ)せり〕。】

[やぶちゃん注:本邦に棲息するそれは、スズメ目スズメ亜目ホオジロ科ホオジロ属ホオジロ亜種ホオジロ Emberiza cioides ciopsisウィキの「ホオジロ」を引く。五亜種が『東アジアに広く分布し、顔の模様とさえずりが特徴的な小鳥である』。『日本では』上記亜種が『種子島、屋久島から北海道まで分布し、身近な野鳥の一つである。基本的に長距離の渡りはしない留鳥だが、北海道などの寒冷地では夏鳥として渡来繁殖し、冬季は暖地や南方へ移動する』。『成鳥は全長』十七センチメートルほどで『スズメとほぼ同じ大きさだが、尾羽が長い分だけ大きくみえる。翼開長』は約二十四センチメートル。『成鳥の顔は喉・頬・眉斑が白く目立ち、「頬白」の和名はここに由来する。一方、頭・過眼線・顎線は褐色で、先の白色部と互い違いの帯模様のように見える。オスは過眼線が黒いが、メスは褐色なのでよく観察すると区別がつく。メスの方がオスよりも全体に色が淡い』。『幼鳥は顔の色分けが不鮮明で、全体的に淡褐色をしている』。『くちばしは短く太い円錐形をしている。頭頂部は褐色と黒の羽毛が混じり、短い冠羽がある。首から下は全体的に赤褐色だが、背中には黒い縦しまがあり、翼の風切羽は褐色に縁取られた黒色である。また、尾羽の両外縁』二『枚は白く、飛翔時に尾羽を広げるとよく目立つ』。『平地や丘陵地の森林周辺、農耕地、草原、荒地、果樹園、河原など明るく開けた場所に生息する』。『主に地上や低い樹上で活動し、丈の高い草の茂みに潜むことがあるが、高木の梢にはほとんど行かない。単独または数羽ほどの小さな群れで行動する』。『食性は雑食性で、繁殖期には昆虫類、秋から冬には植物の種子を食べる』。『繁殖期は日本では』四~七『月。低木の枝や地上に枯れ草を組んで椀状の巣を作り、一度に』三~五『個前後の卵を産む。畑の背の高い作物の間に営巣することもある。卵は白色で、黒褐色の斑点や曲線模様がある。また、カッコウに托卵されることがある。抱卵期間は約』十一『日で、雌が抱卵する。雛は約』十一『日で巣立ちするが、その後も親から給餌を受け約』一『ヶ月で親から独立する』。『春になるとオスは草木の上に止まってさえずる。地域や個体による差があるが、さえずりの節回しは独特で「ピッピチュ・ピーチュー・ピリチュリチュー」などと聞こえる。この鳴き声の聞きなしとして「一筆啓上仕候」(いっぴつけいじょうつかまつりそうろう)「源平つつじ白つつじ」などが知られている』とある。You Tube massie3103氏の「ホオジロのさえずり」をリンクさせておく。

「歐陽公〔が〕詩」北宋の文学者で政治家の歐陽脩(一〇〇七~一〇七二]廬陵(江西省)の人。仁宗・英宗・神宗に仕えたが、王安石の新法に反対して引退した。北宋随一の名文家おして唐宋八大家の一人に数えられる。詩の評論形式の一つである「詩話」を初めて確立させた。「新唐書」「新五代史」「集古録」などは彼の撰になる。本詩は「畫眉鳥」の題で、秋田恵美氏のブログ「今日も星日和 kyomo hoshi biyori」の「ガビチョウシリーズその他(その1)中国の文献、絵ほか」によれば、一〇四九年、欧陽修が四十一歳の時の作で、この二年前に滁州(安徽省)に左遷されていたとある。秋田氏の記事にはまさに良安が示す「三才図会」の当該ページも画像で示されており、必見。さらに言えば、そこで秋田氏が指摘しているように、少なくとも、「三才図会」の絵の「畫眉鳥」のそれは、ホオジロではなく、現在、本邦の侵略的外来種ワースト百選の一種に挙げられてしまっている、スズメ目チメドリ科ガビチョウ属ガビチョウ Garrulax canorus と思われる(「画眉鳥」と言う名からはホオジロよりガビチョウの方にヴィジュアルで圧倒的に軍配が挙がることは確実である)。秋田氏は欧陽修の詩もガビチョウとされる(「三才図会」の本文には本詩が引用されているのであるから、それはそれで正当な解釈の一つではある)が、これは微妙に留保したい。実は、この数年、ガビチョウは我が書斎の窓外に好んで飛来し、かなり喧しく色々な鳥の声を真似するので、少々辟易しており、この何とも平易にして共感を覚える詩の対象がきゃつらであるというのはやや興醒めだからという甚だ個人的な理由があるからでもある。悪しからず。なお、本邦へのガビチョウの侵入(飼っていたものが脱走して定着したもの)はごく最近(一九七〇年代以降)のことで、良安の指すものは明らかにホオジロである。

「但し、中華の鶯は甚だ大なり。故に「三才圖會」〔は〕『鶯に似て小なり』と謂へり」は上記の通り、種誤認があるのでこの注は無化される。

「間〔(まま)〕黑し」しばしば黒くもある、と言う意味なのだが、それより、白い部分の「間」(あいだ)に黒が混じると言う方がしっくりくるのだか。

「深山畫眉鳥〔(みやまほほじろ)〕」ホオジロ属ミヤマホオジロ Emberiza elegansウィキの「ミヤマホオジロ」より引く。ユーラシア大陸東部の中国・朝鮮半島・日本・ロシア南東部に分布する。夏季に中国や朝鮮半島・『ウスリーなどで繁殖し、冬季には中華人民共和国南部や日本、台湾へ南下し』て『越冬する』。『日本では冬季に基亜種が主に本州中部以西、四国、九州に飛来(冬鳥)する。東日本での越冬数は少ない』。『広島県(西中国山地)や長崎県(対馬』『)では繁殖例がある』。『和名のミヤマは山奥ではなく「遠隔地」を指し、以前は朝鮮半島での繁殖は確認されていたものの』、『日本での繁殖が確認されていなかった事に由来する』。全長は約十六センチメートル、翼開長は約二十一センチメートルで、『雌雄ともに頭頂の羽毛が伸長(冠羽)』『する』。『尾羽の色彩は褐色で、外側の』二『枚ずつに白い斑紋が入る。種小名のelagansは「優雅な」の意。オスは冠羽がより発達する。腹部は白い羽毛で覆われる。眼上部にある眉状の斑紋(眉斑)や喉は黄色で、嘴の基部から眼を通り後頭部へ続く黒い筋状の斑紋(過眼線)が入る。胸部に三角形の黒い斑紋が入る。メスは喉から胸部は淡褐色、腹部は汚白色の羽毛で覆われる。眉斑は黄褐色。キマユホオジロ』(ホオジロ属キマユホオジロ Emberiza chrysophrys:シベリア中部で繁殖し、冬季は中国中部及び南東部に渡って越冬する。日本では数少ない旅鳥として主に西日本に渡来し、日本海側の島嶼部では春秋の渡りの時期に毎年記録され、特に対馬では春にかなり普通に観察される種である)『に似ているが、オスはキマユホオジロが眉線のみが黄色に対して、眉線と喉部が黄色』い。『平地から丘陵にかけての開けた森林や林縁に生息する。広い草地や農耕地の中央部など開けた場所に出ることはほとんどない』。『公園でも見られる』。『冬季には小規模な群れを形成し生活し、他の同属の種(カシラダカやホオジロなど)と混群することもある』。『危険を感じると』、『地表から飛翔し』、『樹上へ逃げる。食性は植物食傾向の強い雑食で、種子、昆虫、クモ類などを食べる。地表で採食を行う。繁殖形態は卵生。草の根元にコケや獣毛を組み合わせた皿状の巣を作』る。『繁殖期にオスは「チー チュチュリ チュルル チィチュリ チチ」と早口でさえずる』。『飛翔は小さな波形』。『地鳴きの声は「チッチッ」』。古くより、『「和鳥四品」』(他の三種はオオルリ(スズメ目ヒタキ科オオルリ(大瑠璃)属オオルリ Cyanoptila cyanomelana)・キビタキ(スズメ目ヒタキ科キビタキ(黄鶲)属キビタキ Ficedula narcissina)・コマドリ(スズメ目ツグミ科コマドリ属コマドリ Erithacus akahige akahige)『のひとつであった』とある。

「頰赤鳥(ほあかどり)」スズメ目スズメ亜目ホオジロ科ホオジロ属ホオアカ Emberiza fucataウィキの「ホオアカによれば、中国北東部及び南部・ヒマラヤ山脈西部・シベリア南東部・『モンゴルで繁殖し、北方のものは朝鮮半島南部から中国南部やインドシナ北部に渡』って『越冬する。日本では夏季に北海道、本州北部の高地や平地、本州中部以南の高地で繁殖するとされていたが、近年、山口県では海岸近くの低地での繁殖が確認され、また秋吉台でも繁殖している。冬季は本州西部、四国、九州で越冬する(留鳥)』。全長は十五~十六センチメートル、体重十九~二十六グラム。『側頭部に赤褐色の斑紋があるのが和名の由来。腹面は白く、体側面には褐色の縦縞が入り、メスは少々、色が薄い』。『オスの夏羽は頭部が灰色になり、胸部に黒と赤褐色の横帯が』一『対ずつ入る』。『平地から山地の草原や河川敷、農耕地に生息する。非繁殖期には単独か小規模な群れを形成して生活』し、『食性は雑食で、昆虫類、節足動物、果実、種子等を食べる。主に地上で採餌する』。『日本での繁殖期は』五~七『月で、藪や低木の樹上に枯れ草を束ねたお椀状の巣を作』り、一回に三~六『個の卵を産む。抱卵期間は約』十二『日で、雌が抱卵する。雛は約』十二『日で巣立ちする』とある。割注にある通り、良安は単に和名で対となることから、参考にここに示した訳だが、同属であり、極めて正当な配置となったのである。

「青鵐(あをじ)」ホオジロ属アオジ亜種アオジ Emberiza spodocephala personataウィキの「アオジによれば、夏季に中国・ロシア南東部・『朝鮮半島北部で繁殖し、冬季になると中』『国南部、台湾、インドシナ半島などへ南下し』て『越冬する。日本では亜種アオジが北海道や本州中部以北で繁殖し、中部以西で越冬する。また少数ながら』『基亜種』(シベリアアオジ Emberiza spodocephala spodocephala)『が越冬(冬鳥)や渡りの途中(旅鳥)のため、主に本州の日本海側や九州に飛来する』。全長十四~十六・五センチメートル、体重十六~二十五グラム。『上面は褐色の羽毛で覆われ、黒い縦縞が入る。中央部』二『枚の尾羽は赤褐色。外側の左右』五『枚ずつは黒褐色で、最も外側の左右』二『枚ずつは白い』。『上嘴は暗褐色、下嘴の色彩は淡褐色。後肢の色彩は淡褐色』。『オスは眼先や喉が黒い』。本邦の標準種であるアオジ Emberiza spodocephala personata は、『下面が黄色い羽毛で覆われ、喉が黄色い。オスの成鳥は頭部は緑がかった暗灰色で覆われ、目と嘴の周りが黒い』。『和名のアオは緑も含めた古い意味での青の意で』、『オスの色彩に由来する』。漢字表記では他に「蒿鵐」「蒿雀」があるが、『「蒿」はヨモギの意。メスの成鳥は緑褐色の羽毛で覆われ、上面が緑褐色の羽毛で覆われる。色合いなどはノジコ』(野路子・野地子。ホオジロ属ノジコ Emberiza sulphurata)『に似ており、素人では見分けが困難である』。アオジは『開けた森林や林縁に生息』し、『非繁殖期には藪地などにも生息する。非繁殖期には群れを形成することもあるが、単独でいることが多い。用心深い性質で、草むらの中などに身を潜める』。『植物の種子や昆虫類を食べる。地上で採食する』。『地表や低木の樹上に植物の茎や葉を組み合わせたお椀状の巣を作り』、五~七『月に』一『回に』三~五『個の卵を産む。抱卵期間は』十四~十五『日で、雌が抱卵し、雛は孵化してから』十二~十三『日で巣立つ』。『雄は繁殖期に縄張りをもち、高木の上などの高所でさえずる』とある。

「蒿〔(よもぎ)〕」キク目キク科キク亜科ヨモギ属ヨモギ変種ヨモギ Artemisia indica var. maximowiczii。東洋文庫訳は『藁(わら)』とするが、これは判読の誤りではなかろうか?]

和漢三才圖會第四十三 林禽類 駒鳥(こまどり) (コマドリ・タネコマドリ)

 

Komadori

 

こまとり

駒鳥

 

按駒鳥狀似鸎而稍大頭背羽尾俱樺色頷頰赤色胸

 腹白嘴細尖脚細長而蒼色其聲高清而長滑如曰必

 加羅加羅似走馬之鳴轡其頭毎振左右亦如走馬之

 形勢故名駒鳥矣春夏能囀畜之甚愛之惟恐脚弱易

 損性畏寒難育也雌者頷頰色不甚赤不能囀也和州

 葛城洞籠川山中多有之勢州宇治城州比叡攝州有

 馬作州高津有之然不如和州之者

島駒鳥 狀相似而畧小頭背灰白胸腹白而有黑彪【其彪

 如俗稱蛇腹紋者】甚美囀聲如曰珍古呂呂其囀也畧値時代

 雞鳴者爲最珍

 

 

こまどり

駒鳥

 

按ずるに、駒鳥、狀、鸎〔(うぐひす)〕に似て稍〔(やや)〕大〔なり〕。頭・背・羽・尾、俱に樺色(かばいろ[やぶちゃん注:特異点の左ルビ。])。頷・頰、赤色。胸・腹白。嘴。細く尖り、脚、細く長くして蒼色。其の聲、高く清くして長く、滑〔(なめら)かなり〕。必ず、「加羅加羅〔(からから)〕」と曰ふがごとし。走馬〔(そうま)〕の轡〔(くつわ)〕を鳴らすに似〔たり〕。其の頭、毎〔(つね)〕に左右に振るひ、亦、走馬の形勢のごとし。故に「駒鳥」と名づく。春夏、能く囀る。之れを畜ひ、甚だ之れ愛す。惟だ、恐〔る〕、脚の弱くして損〔じ〕易〔きを〕。性、寒を畏れ、育(そだ)ち難し。雌は頷・頰の色、甚だ〔しくは〕赤からず。能〔くも〕囀らざるなり。和州葛城〔の〕洞籠(どろ)川の山中に多く之れ有り。勢州の宇治・城州の比叡・攝州の有馬・作州の高津にし〔も〕之れ有り。然れども和州の者に如かず。

島駒鳥〔(しまこまどり)〕 狀、相ひ似て畧〔(ほぼ)〕小〔〕さし。頭・背、灰白。胸・腹、白くして黑き(ふ)彪有り【其の彪、俗に「蛇腹紋〔(じやばらもん)〕」と稱する者のごとし。】甚だ美〔しく〕囀り、聲、「珍古呂呂〔(ちんころろ)〕」と曰ふがごとし。其の囀りや、畧〔(ほぼ)〕時に値〔(あ)ひ〕て雞鳴の代りと〔なる〕者、最も珍と爲す。

[やぶちゃん注:スズメ目ツグミ科コマドリ属コマドリ Erithacus akahige akahigeウィキの「コマドリ」によれば、分布は中国南部・日本・樺太南部・南千島。『夏季に日本やサハリン、南千島で繁殖し、冬季になると』、中国『南部へ南下し』、『越冬する。日本では夏季に繁殖のため』、『九州以北に飛来(夏鳥)する』。全長十三・五~十四・五センチメートルで、体重は十三~二十グラム。『嘴の色彩は黒い。後肢の色彩は薄橙色』。『幼鳥は嘴の基部から口角にかけて黄色みを帯びる。オスは頭部から上胸にかけての羽衣が橙がかった赤褐色。体上面の羽衣や尾羽、翼は橙褐色。メスは頭部から上胸、上面が橙褐色、下胸から腹部にかけての羽衣が灰色で、上胸と下胸の色彩の境目が不明瞭』。『オスの成鳥は上胸と下胸の境目に黒い横縞が入り、下胸から腹部にかけての羽衣は暗灰色』を呈する。『亜高山帯の渓谷や斜面にあるササなどの下草が生い茂った針葉樹林や混交林』に棲息する。『食性は動物食で、主に昆虫を食べる。低木の樹上や地表で獲物を捕食する』。『崖の下など目立たない場所に木の枝や葉を使って巣を作』り、三~五『個の卵を産む。抱卵期間は』十二~十四『日で、雌が抱卵する。雛は』十二~十四『日で巣立つ。ジュウイチ』(カッコウ目カッコウ科カッコウ属ジュウイチ Cuculus fugax)『に托卵の対象とされることもある』。『「ヒンカラカラ」と囀る。囀りが馬(駒)の嘶きのように聞こえることが和名の由来である』とある。なお、学名の種小名「akahige」(赤髭)であるが、日本(南西諸島・男女群島)固有種であるスズメ目ヒタキ科 Larvivora 属アカヒゲ(赤髭)Larvivora komadori の学名の種小名が「komadori」で、これは学名登録の際に取り違えられたものと考えられている(但し、両種はその色がよく似ている。しかも近年、コマドリとアカヒゲはミトコンドリアDNAの分子系統推定では近縁(正確には二種ともにコルリ(小瑠璃。ツグミ科 Luscinia 属コルリ Luscinia cyane)やシマゴマ(島駒。ツグミ科 Luscinia 属シマゴマ Luscinia sibilians:ロシア東部のバイカル湖付近から沿海州・サハリンに夏鳥として渡来して繁殖し、冬期は中国南部から東南アジアに渡り、越冬する種で、日本では旅鳥として春に記録されることがあるが、数は少ない。主に日本海側で観察されているが、全て単独での記録でしかなく、全長は約十三センチメートルで、額から尾にかけての上面は褐色、尾は赤みがかった褐色。腹部は白色。頸の両側・胸・脇にオリーブ褐色の鱗状斑があることを本種の特徴とし、『さえずりは「ヒュルルルル」とコルリに似た声を出すが、やや震えていて声量に乏しい』とウィキの「シマゴマにあり、名前からは後の「島駒鳥」の比定候補にしたくなるが、そうではではないようだ)などに近縁)という解析結果が得らていれるらしい)。You Tube turbou2624氏の「コマドリのさえずり」をリンクさせておく。

 

「鸎〔(うぐひす)〕」スズメ目ウグイス科 Cettiidae ウグイス属ウグイス Horornis diphone

「樺色(かばいろ)」赤みのある橙色で「蒲色」とも書く。樺(ブナ目カバノキ科カバノキ属 Betula)の樹皮、或いは水生植物(抽水性水草)の蒲(単子葉植物綱イネ目ガマ科ガマ属 Typha。代表種はガマTypha latifolia)の穂の色。これ(リンク先は色見本サイト)。

「轡〔(くつわ)〕」「口食(くちは)み」或いは「口輪」の意で、手綱をつけるために馬の口に咬ませる金具。

「和州葛城〔の〕洞籠(どろ)川」現在の奈良県吉野郡天川村洞川(どろかわ)附近か。ここ(国土地理院図)。

「作州の高津」現在の岡山県岡山市北区御津高津附近か。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「島駒鳥〔(しまこまどり)〕」コマドリ亜種タネコマドリErithacus akahige tanensis か。伊豆諸島・種子島・屋久島に棲息する日本固有亜種で、全長は十三・五~十四・五センチメートルで、体重は十三~二十グラム。本種は照葉樹林にも棲む。You Tube strayrobinタネコマドリの囀りをリンクさせておく。私には「珍古呂呂〔(ちんころろ)〕」と聴こえないこともない。]

2018/12/20

佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 三六~四二 狼

 

三六 猿の經立(フツタチ)、御犬(オイヌ)の經立は恐ろしきものなり。御犬(オイヌ)とは狼のことなり。山口の村に近き二ツ石山(フタイシヤマ)は岩山なり。ある雨の日、小學校より歸る子ども此山を見るに、處々(トコロドコロ)の岩の上に御犬(オイヌ)うずくまりてあり。やがて首を下(シタ)より押上(オシア)ぐるやうにしてかはるがはる吠(ホ)えたり。正面より見れば生(ウ)まれ立(タ)ての馬の子ほどに見ゆ。後(ウシロ)から見れば存外(ゾングワイ)小さしと云へり。御犬のうなる聲ほど物凄く恐ろしきものは無し。

[やぶちゃん注:「經立(フツタチ)」現代仮名遣「ふったち」で「年(とし)經(ふ)りて立つ」、ある生き物が歳を永く「經」(へ)て異形ののものとして「立」(た)った(或いは「経立(へだ)たって」)ものの意であろう。千葉幹夫氏の「全国妖怪語辞典」(一九八八年三一書房刊「日本民俗文化資料集成」第八巻所収)には青森では「ヘェサン」「フッタチ」とし、『動物が年老いて霊力を備えたものをいう』とあり、ウィキの「経立」には、『青森県、岩手県に存在すると言われる妖怪あるいは魔物。生物学的な常識の範囲をはるかに越える年齢を重ねたサルやニワトリといった動物が変化したものとされる』。『民俗学者・柳田國男の著書『遠野物語』の中にも、岩手県上閉伊郡栗橋村(現・釜石市)などでのサルの経立についての記述がみられる。サルの経立は体毛を松脂と砂で鎧のように固めているために銃弾も通じず、人間の女性を好んで人里から盗み去るとされている。この伝承のある地方では、「サルの経立が来る」という言い回しが子供を脅すために用いられたという』(ここは後の「四五」の内容を元に述べている)。『また』、『國學院大學説話研究会の調査による岩手県の説話では、下閉伊郡安家村(現・岩泉町)で昔、雌のニワトリが経立となり、自分の卵を人間たちに食べられることを怨んで、自分を飼っていた家で生まれた子供を次々に取り殺したという』。『同じく安家村では、魚が経立となった話もある。昔』、『ある家の娘のもとに、毎晩のように男が通って来ていたが、あまりに美男子なので周りの人々は怪しみ、化物ではないかと疑った。人々は娘に、小豆を煮た湯で男の足を洗うように言い、娘がそのようにしたところ、急に男は気分が悪くなって帰ってしまった。翌朝に娘が海辺へ行くと、大きなタラが死んでおり、あの男はタラの経立といわれたという』とある。

「狼」絶滅した哺乳綱食肉(ネコ)目イヌ科 イヌ属タイリクオオカミ亜種ニホンオオカミ Canis lupus hodophilax。学術的に信頼出来る確実な最後の生息情報は明治三八(一九〇五)年一月の奈良県吉野郡小川村鷲家口(現在の東吉野村鷲家口)で捕獲された若い(後に標本となって現存)である。実際には本邦では野犬・山犬も混同して「狼」と呼んできた経緯があり、佐々木は目撃者を「小學校」としており、本書の刊行が明治四三(一九一〇)年のことであることを考えると、広義の、人間が飼育していない野生の通常の犬(イヌ属 Canis)類と見做して読むべきとも言われようが、いや、私は寧ろ、我々が滅ぼしたニホンオオカミがそれに強い怨念を持ってここに〈狼の経立(ふったち)〉となって現われたのかも知れぬとも思うのである

「山口の村に近き二ツ石山」同名の山が遠野の遙か北西にあるが、それではなく、遠野の旧山口村『集落の南の雑木林の中にある岩で、別名』、『夫婦岩と呼』ぶものであると、佐藤誠輔訳・小田富英注「遠野物語」(二〇一四年河出書房新社刊)の注にある。]

 

三七 境木峠(サカイゲタウゲ)と和山峠(ワヤマタウゲ)との間にて、昔は駄賃馬[やぶちゃん注:「だちんば」。]を追(オ)ふ者、屢(シバシバ)狼に逢ひたりき。馬方(ウマカタラ)は夜行には、大抵十人ばかりも群(ムレ)を爲し、その一人が牽く馬は一端綱(ヒトハヅナ)とて大抵五六七匹(ピキ)までなれば、常に四五十匹の馬の數なり。ある時二三百ばかりの狼追ひ來り、其足音山もどよむばかりなれば、あまりの恐ろしさに馬も人も一所に集まりて、其めぐりに火を燒きて之を防ぎたり。されど猶其火を躍り越えて入り來るにより、終には馬の綱(ツナ)を解(ト)き之を張(ハ)り囘(メグ)らせしに、穽(オトシアナ)などなりとや思ひけん、それより後は中に飛び入らず。遠くより取圍(トリカコ)みて夜の明るまで吠えてありきとぞ。

[やぶちゃん注:どうも数字がどれも誇大過ぎる。駄賃馬稼(だちんうまかせぎ)の運送業者が一度に一人で五~七頭の馬を牽いていたというのは、予備の馬にしても多過ぎる気がするし、第一、七頭以上の多数の馬を駄賃馬稼一人が飼育管理していたとは到底思えない。次の「三八」の「小友(オトモ)村の舊家の主人」でさえ飼っていたのは七頭である。さらに、ニホンオオカミも大規模な群れは作らず、二~十頭ほどの群れで行動した(北海道産でやはり絶滅してしまったタイリクオオカミ亜種エゾオオカミ Canis lupus hattai はかなりの群れを作ったらしいが、現存するタイリクオオカミでも記録上の最多でも四十二頭で、平均ではやはり三~十一頭の間であり、規模の大きな群れにあっても主な仕事を担うのは繁殖ペアで、最も捕食効率が良いのもペアの狼とされている)から、「二三百」はこれ、芝居がかって大袈裟過ぎる。実録風の狼に襲われる本邦の民話でも二~三頭であることが多いように私は感ずる。

「馬の綱(ツナ)を解(ト)き之を張(ハ)り囘(メグ)らせしに」馬引きと馬の命でもある手綱は神聖なものであり(実際に現在でも正月の注連繩にそれを附ける習慣のある地方がある。オシラサマも馬形である)、ここでそれを張り巡らすことは彼ら(人と馬。文字通り、ここでは一蓮托生)にとって防衛のための霊的な結界を作ることに他ならない。この行為は現実的物理的な防禦線なのではなく、遙かに呪的な装置なのである。

「穽(オトシアナ)などなりとや思ひけん」オオカミは知能が高く、それが繩・竹・蔓などを用いた罠(落とし穴でなくても、絡めて捕縛するタイプのものもでも陥穽(かんろう)=罠である)はないかと警戒したのである。

「ありき」「步き」と採る。]

 

三八 小友(オトモ)村の舊家の主人にて今も生存せる某爺(ナニガシヂー[やぶちゃん注:長音符はママ。])と云ふ人、町より歸りに頻に御犬[やぶちゃん注:前に出た通り、「狼」。]の吠ゆるを聞きて、酒に醉ひたればおのれも亦其聲をまねたりしに、狼も吠えながら跡より來るやうなり。恐ろしくなりて急ぎ家に歸り入り、門のを堅(カタ)く鎖(トザ)して打潛(ウチヒソ)みたれども、夜通し狼の家をめぐりて吠ゆる聲やまず。夜明(ヨア)けて見れば、馬屋の土臺(ドダイ)の下を掘り穿ちて中に入り、馬の七頭ありしを悉く食ひ殺してゐたり。此家はその頃より産稍傾きたりとのことなり。

 

三九 佐々木君幼き頃、祖父と二人にて山より歸りしに、村に近き谷川の岸の上に、大なる鹿の倒れてあるを見たり。橫腹は破れ、殺されて間(マ)もなきにや、そこよりはまだ湯氣(ユゲ)立てり。祖父の曰く、これは狼が食ひたるなり。此皮ほしけれども御犬(オイヌ)は必ずどこか此近所に隱れて見てをるに相違なければ、取ることが出來ぬと云へり。

[やぶちゃん注:佐々木喜善の生年は明治一九(一八八六)年(十月五日)である。まだ、ニホンオオカミは、いた。既に注した通り、学術的に信頼出来る確実な最後の生息情報は明治三八(一九〇五)年一月の奈良県吉野郡小川村鷲家口(現在の東吉野村鷲家口)で捕獲された若い♂であった。]

 

四〇 草の長さ三寸あれば狼は身を隱すと云へり。草木(サウモク)の色の移り行くにつれて、狼の毛の色も季節(キセツ)ごとに變りて行くものなり。

[やぶちゃん注:「三寸」約九・一センチメートル。]

 

四一 和野の佐々木嘉兵衞、或年境木越[やぶちゃん注:「さかひげごえ」。]の大谷地(オホヤチ)へ狩にゆきたり。死助(シスケ)[やぶちゃん注:「三二」に既出既注。]の方より走れる原なり。秋の暮のことにて木の葉は散り盡し山もあらは也。向(ムカフ)の峯より何百とも知れぬ狼此方へ群れて走り來るを見て恐ろしさに堪へず、樹の梢に上(ノボ)りてありしに、其樹の下を夥しき足音して走り過ぎ北の方へ行けり。その頃より遠野鄕には狼甚だ少なくなれりとのことなり。

 

四二 六角牛(ロツコウシ)山の麓(ふもと)にヲバヤ、板小屋など云ふ所あり。廣き萓山[やぶちゃん注:「かややま」。]なり。村々より苅りに行く。ある年の秋飯豐村(イヒデムラ)の者ども萓を苅るとて、岩穴の中より狼の子三匹を見出し、その二つを殺し一つを持ち歸りしに、その日より狼の飯豐衆(イヒデシ)の馬を襲(オソ)ふことやまず。外の村々の人馬には聊かも害を爲さず。飯豐衆相談して狼狩を爲す。其中には相撲(スモウ[やぶちゃん注:ママ。])を取り平生力自慢(チカラジマン)の者あり。さて野に出でゝ見るに、雄(ヲス)の狼は遠くにおりて來らず。雌(メス)狼一つ鐵と云ふ男に飛び掛りたるを、ワツポロ【○ワツポロは上羽織のことなり】を脱ぎて腕(ウデ)に卷き、矢庭に其狼の口の中に突込みしに、狼之を嚙む。猶く突き入れながら人を喚(ヨ)ぶに、誰も々々[やぶちゃん注:「たれもたれも」。]怖れて近よらず。其間に鐵の腕は狼の腹まで入(ハイ)り、狼は苦しまぎれに鐵の腕骨を嚙み碎きたり。狼は其場にて死したれども、鐵も擔(カツ)がれて歸り程なく死したり。

佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 三一~三五 山中の怪

 

三一
 遠野鄕の民家の子女にして、異人にさらはれて行く者年々多くあり。殊に女に多しとなり。

 

三二 千晚ケ嶽(センバガダケ)は山中に沼(ヌマ)あり。此谷は物すごく腥(ナマグサ)き臭(カ)のする所にて、此山に入り歸りたる者はまことに少(スクナ)し。昔何の隼人と云ふ獵師あり。其子孫今もあり。白き鹿を見て之を追ひ此谷に千晚こもりたれば山の名とす。その白鹿擊たれて遁げ、次の山まで行きて片肢(カタアシ)折れたり。其山を今片羽山(カタハヤマ)と云ふ。さて亦前なる山へ來て終に死したり。其地を死助(シスケ)と云ふ。死助權現(シスケゴンゲン)とて祀れるはこの白鹿なりと云ふ。

【○宛然として古風土記をよむが如し】

[やぶちゃん注:「千晚ケ嶽(センバガダケ)」現在の仙磐山(せんばんやま)。標高千十六・二メートル。この山は「仙葉山」「仙羽山」(せんばやま)とも呼ばれるようである。ここ(グーグル・マップ・データ)。その西六キロメートル強の位置に「片羽山」がある(双子峰で北にある雄岳が最高標高で千三百十三メートル。ここ(グーグル・マップ・データ))。現地では「片葉山」と書くようである(足が折れたとするから「片輪」とするのではちと単純過ぎる。両山の別称に「葉」が共通するのは天狗の秋「葉」山等を連想される)。登山記録記事を見たが、孰れも上級者向きのコースで、航空写真を見ても、この間の尾根と谷は見るからに難所という感じがする。ある方の仙磐山登山の記載ではまさに「鹿道」(ししみち:獣道)に入り込んで迷ったとさえあるのである。

「死助權現」dostoev氏のブログ『不思議空間「遠野」-「遠野物語」をwebせよ!-』の『遠野不思議 第四百七十六話「死助権現(ぼっちらしの権現)』に、祀られていたそれが別な場所に現存するとある(写真有り)。そこには『縫』(「遠野物語拾遺」の「九六」・「一一〇・「一八五」・「二二一」に登場する遠野の稀代の名狩人「旗屋(はたや)の縫(ぬい)」。ブログ主は「何の隼人(はやと)」と「旗屋の縫」を同一人物と推定されておられる)『の倒した鹿は、角が八つに分かれており、きっと山ノ神の化身に違いないと、縫に鹿の肉を勧められた人々は決して、その肉を食べようとはしなかったという』。『縫が鹿を仕留めた処に石の権現様を祀り、鹿の霊を供養する事にしたのだと。この石の権現様が「ぼっちらしの権現」で「死助権現」とも呼ばれる』。明治二二(一八八九)年頃、『区画整理の為に栗橋の人間が遠野から、自分の土地へと下げたのが、この写真に祀られている権現様である』とある。個人ブログ『「遠野」なんだり・かんだり』の「畑屋の縫」には、「注釈遠野物語」『によると、縫の名前が初めて文章に登場するのは』、元禄一〇(一六九七)年三月に『盛岡へ出頭した遠野の古人(古人~境目論争があったときに証人となる監視役のこと)』七『人の中に「鳥海長峰よりひこう峠迄之様子存候百姓縫殿」と記されたときからだという。慶安元年』(一六四八年)『の生まれ。江戸時代になって百姓の身分であっても高橋姓であり、「先祖遠野譜代」と由緒にあることから、阿曾沼氏の家臣であったことを示すという。確かに上郷町細越畑屋は、ひとかたまりが高橋姓である』。『この縫の霊を祀ったともされる畑屋観音堂の棟札には「大檀那当城主義長公御武運長久郡中安全如意満足奥州南部遠野於機屋村建立」とあるとか』。『板沢館、刃金館、爪ヶ森館、篠ヶ館、林崎と館があった上郷に釜石側との山々を知り尽くしていた高橋氏が武士として鉄砲を所持して住んでおり、後に猟師として土着した可能性が高いという』。『この御堂の本尊である千手観音は』延宝六(一六七八)年に『青笹町中沢村の工藤藤九郎が高橋縫之助に頼まれ、京都妙伝寺前の仏師から壱両で買い、届けたものと記されているという』とある。また、ウィキの「遠野物語」には、『この話は三山の由来譚であり、その舞台となったのが千晩ヶ嶽、現代における釜石市の仙磐山となる。「縫」は「鵺」とされることもあり』、「遠野物語拾遺」や「聴耳草子紙」『などに多く取り上げられ、題目の畑屋の縫に関する伝承は遠野市上郷町細越の小字である畑屋に伝わっている』。『この地には「縫」を祀ったとも、殺』(あや)『めた「畜霊」を祀ったとも云われる畑屋観音堂があり、その棟札には』延宝六(一六七八)年に『機屋村高橋縫之介から頼まれ、中沢村の工藤氏藤九郎が参拝に行った京都で仏師から買い求め、この年の』五月十四日に『購入し、同月』二十九『日に届けたものと記されて』おり、『この時』、『高橋縫之介は』三十一『歳であったという。また、釜石市甲子町には千晩神社があり、その由緒によると勧請されたのは』文禄二(一五九三)年『頃で、次のような伝承がある』(以下、「釜石市文化財報告書 第十五集 歴史の道」の「甲子道と小川新道」を出典とする。漢字を私が恣意的に正字化して示した)。――『元文三[やぶちゃん注:一七三八年。]年機屋ノ奴ハ國守ノ命ヲ受ケ千晚山ニ九百九十九日籠リ將ニ千日ニナラントスル曉、千晚樣ノ御告ニ依リ國守所望ノ鰭廣ノ大鹿ヲ見付ケ之レガ俊足ノ蹄ヲ狙ヒテ少シモ傷ツケスニ射止メテ國守ニ獻セリト云フ、其ノ際機屋ノ奴ノ使用セシ鍋ヲ千晚ニ納メタリト云ヘトモ今ハ無シ』――『中世の遠野は阿曾沼氏に代わって南部氏が南下して支配する一方、北上する仙台の伊達氏との間で境界にあった』。『旧領主であった阿曾沼広長や新支配者の鱒沢左馬之助などと伊達藩の間には三度の戦闘があり(平田・赤羽根峠・樺坂峠の戦い)、さらにその後、小友の赤坂金山の支配権を巡り南部と伊達との境は緊張状態が続いた』。『それを受け、藩境を明確にする為に藩境塚が設置され、御境古人が任命された』。元禄一〇(一六九七)年に『記された「遠野領における境論争の有無についての書上」には盛岡へ出頭した古人』七『名の中に「鳥海長峰よりひこう峠迄之様子存候百姓縫殿」という名があり、文書に「縫殿」という名が確認できる』。或いは、享保七(一七二二)年の『「御境古人共由緒書上之事」に寄るところ、遠野領の藩境には小友の五輪峠から仙人峠の仙人堂までに』七『人の古人が充てられ、その中にはたや六左衛門七十五という人物が書き記され、高橋縫之介とはたや六左衛門はいずれも』慶安元(一六四八)年に『生まれたことになる』。『これらの事から「百姓縫殿」と「高橋縫之介」と「はたや六左衛門」は同一人物と考えられている』。『仙磐山は鉱物の標本とも言われるほどの鉱産地であり、その開山譚の背景には六角牛山、片羽山、権現山、五葉山らに深い関わりを持った「畑屋の縫」がいたのではなかろうかとも考えられている』とある。

「宛然」「ゑんぜん(えんぜん)」は「そっくりそのままであること」で「宛(さなが)ら」の意。]

 

三三 白望(シロミ)の山に行きて泊(トマ)れば、深夜にあたりの薄明(ウスアカ)るくなることあり。秋の頃茸(キノコ)を採りに行き山中に宿する者、よくこの事に逢ふ。又谷のあなたにて大木を伐り倒す音、歌の聲など聞(キコ)ゆることあり。此山の大さは測(ハカ)るべからず。五月に萓[やぶちゃん注:「かや」。「萱」の異体字。]を苅りに行くとき、遠く望めば桐の花の咲き滿ちたる山あり。恰も紫の雲のたなびけるが如し。されども終に其あたりに近づくこと能はず。曾て茸を採りに入りし者あり。白望の山奧にて金の樋(トヒ)と金の杓(シヤク)とを見たり。持ち歸らんとするに極めて重く、鎌にて片端を削り取らんとしたれどそれもかなはず。又來んと思ひて樹の皮を白くし栞(シヲリ)としたりしが、次の日人々と共に行きて之を求めたれど、終に其木のありかをも見出し得ずしてやみたり。

[やぶちゃん注:「白望(シロミ)の山」は遠野の東北約二十キロメートルに位置する、現在の岩手県宮古市小国(おぐに)の白見山。標高千百七十三メートル。ここ(グーグル・マップ・データ)。この山中のオー・パーツ(その発見された対象物がその場所或いは時代と全く齟齬すると考えられる物であることを指す超常現象用語。れっきとした英語で、out-of-place artifacts」の略「OOPARTS。「場違いな工芸品」の意)は明らかに「六三」「六四」を初出とするとする、まさに「マヨヒガ」(迷い家)の必要条件の豪華な付属物の属性であり、白望山とその地区小国は後の二話とも一致するから、私は「遠野物語」の「マヨイガ」の初出はこの「三三」とするべきであると考える。因みに、私は柳田がすっかり広めて一般化させてしまった感のある民俗学上の和名学名表記みたような怪しげなカタカナ表記用語は、実は生理的に甚だ――虫唾が走るほどに――嫌いである(同様に日本語の方言である沖繩言葉をカタカナ表記するのもやはり厭である)が、ここではひとまず、本文に従っておく。だいたいが「マヨイガ」は小さな頃から「迷い蛾」に見えて気持ち悪くて仕方がないのである。

 

三四 白望の山續きに離森(ハナレモリ)と云ふ所あり。その小字(コアザ)に長者屋敷と云ふは、全く無人の境なり。玆(コヽ)に行きて炭を燒く者ありき。或夜その小屋の垂菰(タレコモ)をかかげて、内を窺(ウカヾ)ふ者を見たり。髮を長く二つに分けて垂(タ)れたる女なり。此あたりにても深夜に女の叫聲[やぶちゃん注:「さけびごゑ」。]を聞くことは珍しからず。

[やぶちゃん注:「離森」諸情報を綜合すると、南岸である(国土地理院図)。なお、東北地方で「森」と言った場合は、必ずしも我々の想起する平地にある森ではなく、寧ろ、小高い丘陵や幾つかの山塊の個別なピーク或いは独立した台地を指すことが多い。しかもそこが樹木に覆われておらず、下草ばかりであったり、丸裸であったりしても「森」なのである。これは宮澤賢治修羅」第四梯形などを読めば一目瞭然である。ここは無論、炭焼きに入るので、かなりの森林帯の山である。]

 

三五 佐々木氏の祖父の弟、白望(シロミ)に茸を採りに行きて宿りし夜、谷を隔てたるあなたの大なる森林の前を橫ぎりて、女の走り行くを見たり。中空を走るやうに思はれたり。待てちやアと二聲ばかり呼はりたるを聞けりとぞ。

 

和漢三才圖會第四十三 林禽類 文鳥(ぶんちやう) (ブンチョウ・キンパラ)

 

Buntyou

   

ぶんちやう

文鳥

 

文鳥狀似宇曾而灰色頂喉黒頰純白觜脚俱紅聲短不

圓滑近時自異國來以形麗號文鳥畜籠而弄之又能孕

於籠中

――――――――――――――――――――――

錦波羅 本朝食鑑云此鳥狀似文鳥而頭頷黑全身紫

 紅觜青脛黃色或爲金腹近年來於異國亦希有之美

 鳥也

 

 

ぶんちやう

文鳥

 

文鳥、狀、宇曾〔(うそ)〕似て灰色。頂(いたゞき)・喉(のど)黒く、頰、純白。觜・脚、俱に紅。聲、短くして圓滑ならず。近時、異國より來たる。形、麗〔なるを〕以つて「文鳥」と號す。籠に畜ひて之れを弄す。又、能く籠の中に孕む。

――――――――――――――――――――――

錦波羅〔(きんぱら)〕 「本朝食鑑」に云はく、『此の鳥、狀、文鳥に似て、頭・頷〔(あご)〕黑く、全身、紫紅。觜、青く、脛、黃色。或いは「金腹〔(きんぱら)〕」と爲〔(な)〕す。近年、異國より來たる。亦、希有〔(けう)〕の美鳥なり』〔と〕。

[やぶちゃん注:スズメ目カエデチョウ科キンパラ(金腹)属ブンチョウ Lonchura oryzivoraウィキの「ブンチョウ」を引く。『インドネシア(ジャワ島、バリ島)』原産であるが、『アメリカ合衆国(ハワイ州およびプエルトリコ)、スリランカ、フィジー、フィリピン、ブルネイ、マレーシア、メキシコなどの世界各地に移入・定着』しており、『日本では大阪府、東京都、兵庫県、福岡県で定着した例がある』。全長十七センチメートル、体重約二十四~二十五グラム。『額や後頸・喉は黒く、頬は白い』。『体上面や胸部の羽衣は青灰色、腹部や体側面の羽衣は薄いピンク色』を呈し、『尾羽は黒い』。『嘴の色彩はピンク色』。『幼鳥は灰褐色で、顔が淡褐色』。『嘴の色彩は灰黒色で、基部は薄いピンク色』。『オスは上嘴の基部が盛り上がる』。元来は原産地の標高千五百メートル『以下にある草原や開けた低木林などに生息し、農耕地周辺や民家の庭でも見られる』。『ペアや小規模な群れを形成して生活するが、大規模な群れを形成する事もある』。『主に草本の種子を食べるが、果実、小型昆虫なども食べる』。『樹上に枯草などを組み合わせた球状の巣を作り』、五~七『個の卵を産む』。『抱卵期間は』十七~十八日で、『雛は孵化してから約』二十『日で巣立つ』。『コメやトウモロコシなどを食害する害鳥とみなされることもある』。『ペット用の乱獲などにより』、『生息数は減少し、害鳥としての駆除・農薬による汚染・スズメとの競合などによる影響も懸念されて』おり、一九九七年には『ワシントン条約附属書II』(国同士の取り引きを制限しないと、将来、絶滅の危険性が高くなる虞れがある生物で、輸出入には輸出国の政府が発行する許可書が必要とされる種)『に掲載されている』。『一方で遺棄や脱走により移入・定着している地域もある』。『ペットとして飼育されることもあり、日本にも輸入されている。日本には江戸時代初期から輸入されていたとされる』。『飼育下で様々な品種(サクラブンチョウ、シロブンチョウなど)が作出されている』。『鳥籠や庭籠で飼育される』。『水浴びを好むため』、『水容器を設置し、水は汚れやすいため不衛生にならないように毎日取り替える』。『餌としてアワやキビ・ヒエなどの穀物、青菜、ぼれい粉』(牡蠣(カキ:音「ボレイ」)殻の粉砕したもの)、『配合飼料などを与える』『孵化後』五~十八『日で雛を親鳥から離し』、『ヘラやスポイトなどで給餌して育てた個体は人馴れし、訓練すれば手に乗せることも可能である』。

 

「錦波羅〔(きんぱら)〕」スズメ目 カエデチョウ科キンパラ属キンパラ Lonchura atricapillaウィキの「キンパラ」によれば、『以前の分類ではギンパラ』(銀腹。キンパラ属ギンパラ Lonchura malacca。東南アジア(インド・スリランカ・ベトナム・マレーシア・インドネシア)に分布する留鳥で、日本では外来種で、一九六八年に神奈川県で発見され、以降留鳥として棲息しているが、愛玩用に持ち込まれたものが野生化したものと考えられている。体長十一~十二センチメートルほどで、は頭部が黒く、背部が橙褐色、嘴が青灰色。は褐色。 羽色は本種キンパラに似るが、ギンパラは脇腹の部分が白いので判別できる)『の亜種と考えられていた(学名:Lonchura malacca atricapilla)が、最近では別種として扱われている』。『一時はフィリピンの国鳥であった』。『南アジアおよび東南アジア(バングラデシュ、ブルネイ、インド、スリランカ、中国南部、インドネシア、ラオス、ミャンマー、ネパール、フィリピン、シンガポール、台湾、タイ王国、ベトナム)に分布する留鳥』で、『日本では外来種で』、明治四三(一九一〇)『年頃に東京都で野生化した群れが見つかって以降、各地で見つかっている』。体長は十一~十二センチメートルで、『成鳥はずんぐりした薄灰色の嘴、黒い頭、褐色の体を持つ。地域によっては腹部が黒いこともある。雌雄はよく似ている。若鳥は上部は一様に単褐色で、下部は白から淡い黄土色をしている』。『外見・生態的特徴はギンパラに似るが、腹部が白くならず、背部とほぼ同じ橙褐色である点で判別できる』。『群れで行動し、主に穀類など種子を食べる。開けた草原や農耕地を好む。薮や背の高い草の中に草で大型のドーム状の巣を作り』、四~七『個の白い卵を産む』とある。

『「本朝食鑑」に云はく……「本朝食鑑」(医師で本草学者であった人見必大(ひとみひつだい 寛永一九(一六四二)年頃?~元禄一四(一七〇一)年:本姓は小野、名は正竹、字(あざな)は千里、通称を伝左衛門といい、平野必大・野必大とも称した。父は四代将軍徳川家綱の幼少期の侍医を務めた人見元徳(玄徳)、兄友元も著名な儒学者であった)が元禄一〇(一六九七)年に刊行した本邦最初の本格的食物本草書)の「禽部」の「林禽類」のスズメ目アトリ科ウソ属ウソPyrrhula pyrrhulaのパートの「附録」にあった。国立国会図書館デジタルコレクションの画像なんだけど…………見よ! でさんざん困らされたのと同じだぞ! 大標題が「」じゃない! 前の「うそ」字の「」だギャア!! 良安先生の間違いはここに起因するような気がしてきたぞ!!  ヤラレタ! これじゃ良安先生と一緒に、この人見の「ウソ(噓)」にやられてあたら討ち死にだったわけカイ!!! クソ!!! 

 最後に。腹を立てて終わるのも癪、しかしオリジナルに言うこともないし……。そこで、見つけた個人サイト「文鳥団地生活」というサイトの「文鳥御紹介させて貰う。それによると、『日本では江戸時代末期より、いったん野生化しても根付かずに消滅することを繰り返している。日本の自然環境には、完全に適応できないようだ』とされ、『このジャワ雀』(Java Sparrow。文鳥の英名)『が江戸時代にはすでに日本に持ち込まれており、文鳥として絵画や浮世絵などに描かれるようになっている。しかし、どういった経緯で日本に持ち込まれ、『文鳥』と呼ばれるようになったのか、今一つわからない。試みにその起源を少し調べたところ、本によって諸説が分かれ、しかもそれぞれの話の根拠が不明瞭なので、かえって混乱してしまう』。『伝聞推量の論説を排除し、とりあえず根拠が明確なものは、飼育書の類には存在せず、むしろ小林清之介さんの随筆(「文鳥」『日本の名随筆 生きるってすばらしい』)に見出される。小林さんはその随筆の中で、『本朝食鑑』』『に「近時外国から来たもの」とあることから、その数年前に文鳥は日本にやって来たとお考えになっている』。『そこで『本朝食鑑』の原文を確認すると、確かに「・・・近時自外国来、以形麗号文鳥、・・・」とある。しかしこの「近時」という表現を数年前と単純に考えて良いものか疑問であろう。大昔はいなかった程度の意味かもしれないのだ』。『何しろ』、この当『時の将軍は「犬公方」の徳川綱吉であり、生類憐れみ政策のもと、極端な動物愛護が強いられており、鳥の飼育自体を禁じることはなかったものの(「慰み」のために野鳥を捕獲飼育することは禁じられていた)、カゴの鳥を新たに外国から輸入する時期としては 、最も不適当な時期に相違ないのである』。『むしろ、それ以前の方が自然ではないかと私は思う』とされ、『安土桃山時代から江戸の初期』(この部分以降を中略させて戴いた。単に引用が許容を越えて長く過ぎることを避けんがためである)、『貿易商人を通じて日本に持ち込まれたとしても、何ら不思議ではない』。『つまり、日本人の文鳥飼育の起源をたどっていくと、野生の文鳥が南蛮貿易を通じて直接日本に持ち込まれたものにさかのぼれると、ここでは考えておきたい』。『しかし一説には、すでに飼鳥化したものが中国(China)を経由して日本に入ったとされている。無根拠なのでとるに足らないが、たしかに『文』という漢字には、『いくつかの色で作りだす模様』とか『みやびやかな』といった意味があるので、南方の珍奇な、どことなく上品な色彩の小鳥を指して、中国の知識人層が『文鳥』と表現することは大いに有り得そうだ』。『ただ』、『飼鳥化していたという事は、この場合』、十七『世紀までに、中国で文鳥の人工繁殖が行われていたという意味になる点が気にかかる。何しろ』、『日本でも中国でも野鳥を捕らえ』、『飼鳥とすることはあっても、そういった小鳥を人工繁殖させるような習慣があったとは思えない』から『である』。『例えば日本にも、鳥をカゴに入れて飼うという行為自体は古くからあり、古くは』大化三(六四七)年に『オウムが新羅(朝鮮半島にあった国)から送られているし』、十一『世紀あたりの平安貴族たちは、小鳥合(コトリアワセ、持ち寄った小鳥の鳴き声や羽の色を競う遊びという)をしており(『日本史小百科動物』、『鳥の日本史』など参照)、清少納言というその頃の女性も「すずめの子がひ」がお気に入りだったし、さらに』十四『世紀の兼好法師』『は、空を飛ぶ鳥の翼を切って籠に入れるなんてかわいそうだと主張しているくらいだ』「徒然草」第百二十一段)。『しかし、これらは野生の鳥を捕まえてきて、鳥カゴに放りこんでいるに過ぎず、野生の小鳥をわざわざ繁殖などする事はなかった。元々、小鳥は声や姿のためだけの存在で、かわいがって育てようなどという発想は乏しかったのである。昔の児童唱歌に、「歌を忘れたカナリヤは、裏のお山に捨てましょか。」などという文句があったらしいが、昔の人々にとって、小鳥は完全に鑑賞物でしかないのである』。『そういった感覚は、おそらく中国も同様であったものと思う。もし前近代に中国でジャワ雀が飼われていても、野生のものを捕まえて輸入したものだった可能性が高く、まして、人工繁殖をし、それを日本に輸出するなどという、現代のペット産業化した側面は、ほとんど想定しがたいであろう』。『さらに、「文鳥」という言葉の由来を、一概に中国に求めるのにも問題がある。『大漢和辞典』の「文鳥」の項によれば、かの国には「文鳥之夢」という四文字熟語があるのが、この『文鳥』というのは「文彩の有る鳥」、つまり模様の有るきれいな鳥という意味で、ジャワ雀の事だけを指す言葉ではない』。『実はジャワ鳥をはじめて見た日本人に、彩色の有る鳥=「文鳥」と中国人が説明したのを、『文鳥』という種類の鳥なのだと誤解したのが、ジャワ雀が日本で文鳥と呼ばれるようになる発端なのではないか、そのように考えた方が、無理がないように思う』。『さらに『日本鳥名由来辞典』によれば、清国(中国の近世帝国)では「瑞紅鳥」と文鳥を表記していた事が判明する。中国では、元々ジャワ雀は「文鳥」ではなく「瑞紅鳥」という別の固有名詞を持っていたのである。結局、現代も過去も中国で「文鳥」が文鳥という品種をさす固有名詞ではなかったと考えざるを得ないのである』。『しかし、中国大陸経由で持ち込まれたという話は、まったく的外れとも言えない。何しろ日本の場合』、一六三〇『年代から鎖国体制に入り、徳川幕府の政策によって、貿易港は基本的に長崎の出島だけとなり、相手国は中国とオランダに限られていたのである。当然『文鳥』の輸入も出島を経て行われたはずで、中国商人の手を通じた輸入の形態をもって、中国経由であったと理解することも十分に可能なのである』と考察されておられる。中略も施したので詳しくはリンク先をお読みになられたい。これで「文鳥」の和名の私の不審も氷解し、ただの私の怒りで終わるはずだった注が、すこぶるアカデミックになった。「文鳥団地の生活」サイト主に心より御礼申し上げる。

和漢三才圖會第四十三 林禽類 鸒(うそどり) (鷽・ウソ)

 

Usodoi

 

うそとり  正字未詳俗

      用鸒字鸒【音預】

      鴉烏之本名也

      【俗云宇曾止利】

 

△按鸒狀肥大於鶯頭眞黑兩頰至頸深紅觜短肥而黑

 背胸腹及翮灰青帶微赤羽尾黑其聲圓滑而短鳴時

 隨聲兩脚互擧如彈琴揺手故俚俗稱宇曾彈琴或以

 形麗聲艷曰宇曾姫雄呼晴雌呼雨

照鸒 乃宇曾鳥之雌也狀稍小頭背灰赤色眉白頰亦

 白頰下及頷深紅翅羽尾灰青色胸腹白其聲艷觜黑

 脚長好動揺其尾常鳴呼風雨

   照る鸒の胸はこかれて思へともいすかの嘴のあはぬ君かな

 

 

うそどり  正字、未だ詳らかならず。

      俗、「鸒」の字を用ふ。「鸒」

      【音、「預」。】。〔然れども本字は〕

      「鴉-烏(はしぶと)」の本名なり。

      【俗に「宇曾止利」と云ふ。】

 

△按ずるに、鸒、狀、鶯より肥大〔にして〕、頭、眞黑。兩頰〔より〕頸に至りて深紅。觜、短く肥えて黑し。背・胸・腹及び翮〔(はがひ)〕、灰青〔に〕微赤を帶ぶ。羽・尾、黑し。其の聲、圓滑にして短く、鳴く時、聲に隨ひて、兩脚を互に擧げて、琴を彈〔きて〕手を揺らすがごとし。故に俚俗、「宇曾、琴を彈ず」と稱す。或いは、形、麗しく、聲、艷を以て[やぶちゃん注:「以」には「ス」の送り仮名があるが、訓読不能なので、かく読んだ。]「宇曾姫〔うそひめ〕」と曰ふ。雄は晴れを呼び、雌は雨を呼ぶ〔とも云へり〕。

照鸒(てり〔うそ〕) 乃〔(すなは)〕ち宇曾鳥の雌なり。狀、稍〔(やや)〕小にして、頭・背、灰赤色。眉、白。頰も亦、白し。頰の下及び頷〔(あご)〕、深紅。翅-羽〔(はね)〕・尾、灰青色。胸・腹、白。其の聲、艷〔なり〕。觜、黑。脚、長く、好んで其の尾を動揺す。常に鳴きて風雨を呼ぶ。

   照る鸒の胸はこがれて思へどもいすかの嘴〔(はし)〕のあはぬ君かな

[やぶちゃん注:「鸒」は以下の本文の言う種としての「ウソ」を表わす「鷽」とは別字で、「鸒」((かんむり」部分が「與」)は中国ではハシブトガラス(スズメ目カラス科カラス属ハシブトガラスCorvus macrorhynchos「林禽類 大觜烏(はしぶと)(ハシブトガラス)」を参照)或いはミヤマガラス(カラス属ミヤマガラス Corvus frugilegus)を指す(既に述べた通り、この二種は現在でも誤って混同されることが多い。「和漢三才圖會第四十三 林禽類 山烏(やまがらす)(ミヤマガラス)を参照)。拡大して示す。

「鸒」「鷽」

なのである。

 則ち、これは漢字は良安の誤りで、「鸒」ではなく「鷽」が正しく、種としては、

スズメ目アトリ科ウソ属ウソPyrrhula pyrrhula

である。本邦では、

ウソ属ウソ亜種ウソPyrrhula pyrrhula griseiventrisの頬・喉は淡桃色を呈するが、にはこの特徴は発現しない(以下の二亜種も同じ)。千島列島と日本に分布)

の他、

亜種アカウソ Pyrrhula pyrrhula rosaceaは胸から腹にかけて淡い紅色。樺太に分布するが、冬鳥として九州以北に渡来する。北海道の利尻島等では小数が繁殖している可能性がある)

ベニバラウソPyrrhula pyrrhula cassiniiは胸から腹にかけて紅色。シベリア東部に分布するが、稀に冬鳥として本邦中部地方以北に飛来する)

の三種が見られるウィキの「ウソ」によれば、全長十五~十六センチメートル、翼開長約二十六センチメートル。体重二十一~三十四グラム。体はスズメよりやや大きく、頭の上と尾及び翼の大部分は黒色で、背中は灰青色を呈する。嘴は太くて短く、黒い。『繁殖期は山地の針葉樹林に生息し、非繁殖期には低地の林にも生息する。非繁殖期は』十『羽ほどの小規模の群れを形成する』。『春に木の実や芽(時にはサクラ』(特にソメイヨシノ)・ウメ・モモ『などの花や蕾などを食べ、繁殖期に昆虫のガの幼虫やクモなどを食べ』、『秋にはズミやナナカマドの果実などを食べる』。『繁殖期は』五~七『月で、縄張りをもち』、『つがいで生活する』。『針葉樹の枝の上に枯れ枝などを使って椀形の巣を作る』。『囀声は「フィー、フィー」と口笛のような澄んだ声で』、『単調な節を交え、雄だけでなく』、『雌も囀る。飛翔は浅い波形』。『地鳴きは「ヒー」、「フィッ」など』。『また、囀る時に、左右の脚を交互に持ち上げることから』、『別名「弾琴鳥」とも呼ばれる』(囀りはYou Tube 「ウソ(2)鳴き声(秋ヶ瀬公園) - Eurasian Bullfinch - Wild Bird - 野鳥 動画図鑑」を視聴されたいが、幾つかの動画を見てみたが、ここに言う脚挙げの動作は確認出来なかった。これ、いつもするわけではないらしい)。なお、『材木に付く虫を食べる』こと、「鷽」という字の(かんむり)部分が「学」の旧字「學」と同じであることから、『太宰府天満宮や亀戸天神社では「天神様の使い」とされ、鷽を模した木彫りの人形「木鷽」』(きうそ)『が土産の定番となっている。この木鷽を使った』「鷽替(うそか)え神事」も幾つかの『菅原道真を祀った』神社での定番ではある。ウィキの「鷽替え」によれば、例えば大阪府大阪市北区天神橋の「天満(てんま)の天神さん」大阪天満宮では、毎年一月二十五日、『木彫りの鷽の木像である木うそを「替えましょ、替えましょ」の掛け声とともに交換しあ』い、東京都江東区亀戸の『亀戸天神社では前年神社から受けた削り掛けの木うそを新しいものと交換する』(なお、『多くの神社では正月に行われるが』、『斎行日は異なる』。ただ、概ね初天神の二十五日前後に行われるようである)。『鷽替えは元来』、『大宰府天満宮で』、正月七日の夜、「鬼すべ神事」(迎春の火除け神事。午後九時頃から斎火が点火され、天満宮氏子約三百人が「すべ手」と「鬼警固」に分かれて「鬼すべ堂」の中に立て籠る鬼を燻し出す形で行われる)『とともに行われる吉兆神事が発祥とされ、京都市上京区の北野天満宮は天神信仰の中心の一つであるが、鷽替え神事は無く、木うそも授与しない。しかし』、『北野天満宮から勧請された天満宮でも鷽替え神事を斎行している神社は多い』とある。だが、「日本野鳥の会京都支部」公式サイト内の「ウソ」を見ると(ウソの画像・動画有り)、こ「鷽替」について、大阪の天満宮の「鷽替神事」を挙げて説明し、これは、去年一年間に『ついた嘘を、ウソに託して罪滅ぼしするわけです。交換した回数が多いほど』、『ご利益があるとされています』。『交換会が終わり、お守りの封を開けて中に金色のウソが入っていると賞品が進呈されます。似たような行事は各地の天満宮にあり、絵札ではなく木彫りの鷽鳥を使う神社もあります』。『大阪天満宮によると、菅原道真公は「学問の神様」であると同時に「正直の神様」であり、ウソは道真公が愛した梅の木に縁が深いために始まった神事だそうです』。『しかし、この「鷽替神事」には二つの嘘があります。まず、ウソという鳥名の語源は「嘘」ではなく、「口笛」を意味する古語』(「嘯(うそぶ)く」。本来は口を尖らせて詩を詠ずる仙人の風で、転じて口笛を吹くの意となった。本種の囀りが口笛に似ることからそれを当てたのである)で、『「フィー、フィー」と口笛のような声で鳴くことに由来します』(以上の通り、「うそ」という和名は「噓」とは全く関係がない)。『二つめは、梅の木に縁があるという嘘。ウソは桜の芽を食べることで知られていますが、梅には特に縁はないはず。目くじら立てることではありませんが、「正直の神様」の割には嘘が多いです』とある。流石は名にし負う「日本野鳥の会」、突っつくところが鋭いわ

 

「鸒」の字を用ふ「鸒」【音、「預」。】。〔然れども本字は〕「鴉-烏(はしぶと)」の本名なり」特異的に「〔然れども本字は〕」を勝手に挿入した。良安が漢字を「鷽」とすべきところを「鸒」と誤ってしまっていることは既に述べた。大修館書店「廣漢和辭典」を引くと、「鷽」は最初に、『おながどり【をながどり】。かささぎに似て、色が黒く、くちばしと脚が赤い。=』とし、以下の漢籍の引用には『山鵲』と出る。これは先に林禽類 山鵲(やまかささぎ)(サンジャク)として出、私はスズメ目カラス科サンジャク属サンジャク Urocissa erythrorhyncha に同定したものである。幸いにしてK'sBookshelfの「漢字林」の「鳥之部」でも(この辞書は侮れない。特に漢字の電子化で使用可能字体であるかどうかは私はここでしばしば御厄介になっている)、「鷽」の意として最初に、『サンジャク(山鵲)、カラス科サンジャク属の鳥』を掲げているので決まりである。しかし、良安の言う『「鴉-烏(はしぶと)」の本名なり』は漢字を誤ったために生じたトンデモ自爆的誤りとなる(実は私も最初、気づかず、公開後に慌てて書き換え・改稿を行ったから、良安先生を責めることは実は出来ない。トホホ)

「雄は晴れを呼び、雌は雨を呼ぶ〔とも云へり〕」ウィキの「ウソ」に、『雄は照鷽(てりうそ)、雌は雨鷽(あめうそ)と呼ばれる』とある。

「照鸒(てり〔うそ〕) 乃〔(すなは)〕ち宇曾鳥の雌なり。狀、稍〔(やや)〕小にして、頭・背、灰赤色。眉、白。頰も亦、白し。頰の下及び頷〔(あご)〕、深紅。翅-羽〔(はね)〕・尾、灰青色。胸・腹、白。其の聲、艷〔なり〕。觜、黑。脚、長く、好んで其の尾を動揺す。常に鳴きて風雨を呼ぶ」良安先生、混同している。解説部は「頰の下及び頷〔(あご)〕、深紅」とある以上、明らかにこれはウソの「雄」についての叙述であるから「雌は「雄」の誤りで、しかも、ここの最後も「風雨」ではなくて「晴」でないとあきまへんがな良安先生。

「照る鸒の胸はこがれて思へどもいすかの嘴〔(はし)〕のあはぬ君かな」「ウソ」と「イスカ」(スズメ目アトリ科イスカ属イスカ Loxia curvirostra:イスカの嘴は左右が互い違いに食い違っている(生後一、二週間で先の交差が始まるが、下の嘴が右に出るか左に出るかは特に決まっていないらしい。この特有の嘴から、「物事が食い違うこと」を「イスカの嘴(はし)の食い違い」と称するようになった)を読み込んで面白い歌と思うが、出典未詳。識者の御教授を乞う。「てるうそ」は「出る嘘」を掛けて「胸はこがれて思」っている言っている本人も実は、そんなに思っちゃいないんだろう、「いすかの嘴の」捩じ曲がってしまって致命的に「合はぬ」のは「君」だけじゃなくあんたも致命的に「うそ」をついているからなんじゃないのかい?

……それにしても……良安先生の「うそ」字にてんてこ舞いさせられた。やっぱ「ウソ」は危険がアブナいわい!……と思ったら……次の「文鳥」関連で調べたら、良安が参考にした
人見必大の「本朝食鑑」が「鸒」と誤ってんだわさ!

2018/12/19

佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 二四~三〇 家・山中の異人

 

二四 村々の舊家を大同と云ふは、大同元年に甲斐國より移り來たる家なればかく云ふとのことなり。大同は田村將軍征討の時代なり。甲斐は南部家の本國なり。二つの傳を混じたるに非ざるか。

【○大同は大洞かも知れず洞とは東北にて家門又は族といふことなり。常陸國志に例あり、ホラマヘと云ふ語のちに見ゆ】

[やぶちゃん注:「大同元年」八〇六年。延暦二十五年五月十八日(ユリウス暦八〇六年六月八日)に 改元。延暦二十五年三月十七日(八〇六年四月九日))に桓武天皇が薨去し、平城天皇が同日即位後、二ヶ月後、即座に改元した。『「日本後紀」は、「臣子の心、一年に二君あるにしのびず」と非難している』とウィキの「大同」にはある。また、ウィキの「観察使」によれば、『日本では、平安時代最初期の』延暦一六(七九七)『年頃、地方行政の遂行徹底を狙う桓武天皇により、地方官(国司)の行政実績を監査する勘解由使』(かげゆし)『が設置された。勘解由使は国司行政を厳正に監査し、地方行政の向上に一定の効果を上げていた』。『しかし』、この大同元年、『桓武天皇が崩御すると、後継した平城天皇は政治の刷新を掲げ、同年』六『月、その一環として勘解由使を廃止し、新たに観察使を置いた。観察使は当初、東山道を除く六道(東海道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道)ごとに設置され、六道観察使とも呼ばれた。また、観察使は議政官の一員である参議が兼任することとされていた。観察使は、参議に比肩しうる重要な官職だった』。翌大同二年には『東山道および畿内にも観察使が置かれた。併せて、参議を廃止して観察使のみとした。観察使による地方行政の監察は、精力的に実施されていたようで、『日本後紀』には、各観察使が民衆の負担を軽減するため、様々な措置を執っていたことが記録されている』とある。当時の陸奥国は既に蝦夷(えみし)との長い戦争状態が続いていた。

「田村將軍」大納言正三位兼右近衛大将兵部卿坂上田村麻呂(天平宝字二(七五八)年~弘仁二(八一一)年)のこと。ウィキの「坂上田村麻呂」によれば、『若年の頃から陸奥国では蝦夷との戦争が激化しており(蝦夷征討)』延暦八(七八九)年には『紀古佐美の率いる官軍が阿弖流為の率いる蝦夷軍に大敗した。田村麻呂はその次の征討軍の準備に加わり』、延暦一一(七九二)年に『大伴弟麻呂を補佐する征東副使に任じられ』、翌年、』『軍を進発させた。この戦役については『類聚国史』に「征東副将軍坂上大宿禰田村麿已下蝦夷を征す」とだけあり、田村麻呂は』四『人の副使(副将軍)の』一『人ながら』、『中心的な役割を果たしたとされる』。延暦一五(七九六)年一月に『陸奥出羽按察使兼陸奥守に任命され』、十月に『鎮守将軍も兼任すると』、翌年十一月五日、『桓武天皇により征夷大将軍に任じられ、東北全般の行政を指揮する官職を全て合わせた』。延暦二〇(八〇一)年二月十四日、『節刀を賜って』、四『万の軍勢』、五『人の軍監』と三十二『人の軍曹を率いて平安京より出征。記録に乏しいが『日本略記』には』、九月二十七日に『「征夷大将軍坂上宿禰田村麿等言ふ。臣聞く、云々、夷賊を討伏す」とのみあり、討伏という表現を用いて蝦夷征討の成功を報じている』とある。ウィキの「蝦夷征討」には、この時、『蝦夷の指導者阿弖流為は生存していたが、いったん帰京してから翌年、確保した地域に胆沢』(いさわ)『城を築くために陸奥国に戻っていることから、優勢な戦況を背景に停戦したものと見られている。『日本紀略』には、同年の報告として、大墓公阿弖流為(アテルイ)と盤具公母礼(モレ)が五百余人を率いて降伏したこと、田村麻呂が』二『人を助命し』、『仲間を降伏させるよう提言したこと、群臣が反対し』、『阿弖流為と母礼が河内国で処刑されたことが記録されている。また、この』時、現在の岩手県の『閉伊』(へい)『村まで平定されたことが『日本後紀』に記されている』とある。この時の征討軍の中に甲斐出身の者がおり、現地観察の実務武人として遠野に在住し、定着したとしても、強ち不自然ではないようにも思われる。

「甲斐は南部家の本國なり」ウィキの「南部藩」によれば、甲斐国に『栄えた甲斐源氏の流れを汲んだ南部氏の始祖・南部光行』(永万元(一一六五)年?~嘉禎二(一二三六)年?)『が、平泉の奥州藤原氏征討の功で現在の青森県八戸市に上陸し、現在の南部町(青森県)相内地区に宿をとった。その後、奥州南部家の最初の城である平良崎城』『を築いた。後に現在の青森県三戸町に三戸城を築城し』、『移転している』。『鎌倉時代に源頼朝に出仕して以来』、七百『年間も同じ土地を領有し続けた大名は、薩摩の島津家と南部家の』二『家のみである』とある

「常陸國志」水戸徳川家二代藩主徳川光圀が家臣小宅生順(おやけせいじゅん)に命じて編纂させた「常陸国風土記」の増補本「古今類聚常陸国誌」のことか。

 

二五 大同の祖先たちが、始めて此地方に到著せしは、恰も歳の暮にて、春のいそぎの門松を、まだ片方(カタハウ)はえ立てぬうちに早元日になりたればとて、今も此家々にては吉例として門松の片方を地に伏せたるまゝにて、標繩(シメナハ)を引き渡すとのことなり。

[やぶちゃん注:本条とは直接関わらないが、こうした個別の異例は実は多い。私の「甲子夜話卷之四 31 正月の門松、所々殊る事」を見られたい。]

 

二六 柏崎の田圃のうちと稱する阿倍氏は殊に聞えたる舊家なり。此家の先代に彫刻に巧なる人ありて、遠野一鄕の神佛の像には此人の作りたる者多し。

[やぶちゃん注:「田圃のうち」(「内・中」か。「田内」「田中」の原型である)の「阿倍氏」が呼称(屋号)なのである。こうした呼称は一般に同族同姓(同発音異字を含む)集団の多い村落での極めて当たり前の地名由来呼称である。かの安倍頼時・貞任父子の勢力下に遠野郷も含まれていたこと、帰順した蝦夷の中にも安倍氏がいたらしいこと等を考えると、「あべ」(阿部・阿倍・安部)姓が多くある可能性は合点が行く。但し、ウィキの「遠野物語」には、この『田中家の祖先は滝ノ上源右衛門という力士で、南部家の仲間となって盛岡にいた時に認められ、江戸で力士となった。大変強かったが、他の力士の妬みなどもあって家業を継ぐために帰郷したという』とあり、さらに、『田中家の当主は代々円吉を襲名し、二代目円吉も彫刻に長けていた』本条『の円吉は』文化十(一八一三)年『頃の生まれで』明治二六(一八九三)年に『亡くなった八代目で、土淵村本宿の石田家からの養子と考えられている』。『明治以前に常堅寺が京都から仏師を招いて十六羅漢や延命地蔵を作らせた際に仏像彫刻の技術を会得したという』。『この者の作品には土淵村山口にある薬師堂の十二神将、常堅寺の地蔵菩薩、早池峰神社の神門の随神像、田中家の薬師如来などがあり、常堅寺の仁王像移転にも関わっているという』。『田圃のうちの屋号を持つ田中家が』、『なぜ』、『安倍氏と名乗ったのか、その理由は明らかになっていない』とある。なお、以上の通り、ウィキでは「安倍」となっており、「六五」以降に語られる安倍貞任の伝承では、底本は総て「阿倍」となっているのに、現行の「ちくま文庫」版全集ではそちらは総て「安倍」になっている。この「阿倍」は或いは変え忘れた可能性が高いか。しかし、いろいろ調べて見ると、六五以下の土淵村の「あべ」姓は「阿倍」「安倍」でもなく「阿部」が正しいようであり、この「安倍」についても不審が残る。

 

二七 早地峯(ハヤチネ)より出でゝ東北の方宮古(ミヤコ)の海に流れ入る川を閉伊(ヘイ)川と云ふ。其流域は卽ち下閉伊郡なり。遠野の町の中にて今は池(イケ)の端(ハタ)と云ふ家の先代の主人、宮古に行きての歸るさ、此川の原臺(ハラダイ)の淵(フチ)と云ふあたりを通りしに、若き女ありて一封の手紙を托す。遠野の町の後なる物見山の中腹にある沼に行きて、手を叩けば宛名の人出で來るべしとなり。この人請け合ひはしたれども路々心に掛りてとつおいつせしに、一人の六部に行き逢へり。此手紙を開きよみて曰く、此を持ち行かば汝の身に大なる災あるべし。書き換へて取らすべしとて更に別の手紙を與へたり。これを持ちて沼に行き教への如く手を叩きしに、果して若き女出でゝ手紙を受け取り、其禮なりとて極めて小さき石臼を呉れたり。米を一粒入れて囘(マハ)せば下より黃金出づ。此寶物(タカラモノ)の力にてその家稍富有になりしに、妻なる者慾深くして、一度に澤山の米をつかみ入れしかば、石臼は頻に自ら囘りて、終には朝每に主人が此石臼に供えたりし水の、小さき窪みの中に溜りてありし中へ滑(スベ)り入りて見えずなりたり。その水溜りは後に小さき池になりて、今も家の旁(カタハラ)にあり。家の名を池の端と云ふも其爲なりと云ふ。

【○此話に似たる物語西洋にもあり偶合にや】

[やぶちゃん注:この話、読んでやや消化不良を起こす(しかしそうした不分明な辺りは、逆に本話が恣意的な創作物ではなく、正真正銘の民話である証明なのかも知れぬ)。まず、手紙の内容である。これは本邦の他の例を見るに、概ね、その内容は六部が「大」い「なる災」いと言っているように「手紙を持ってきた当該人物を生贄として与える、喰え」という内容であろうことは容易に推測はされる。しかし、六部は「書き換へて取らすべし」と言いながら、書き換えるのではなく、「更に別の手紙を」書いて「與」えている。ここでは別の筋を考え得る。則ち、六部の書き換えは確かに「池の端」「の先代の主人」を救い、しかも、その上に彼に不思議な黄金を産み出す臼を齎したわけだが、或いは「六部が見た手紙の内容には、実はそんな一粒一金を産み出す臼どころではない、もっともの凄い富裕か幸福を齎す何ものかが授けられることが記されていたのではないか?」という欲深い(言っとくが「私が」ではない)読みをも可能にするし、そう考える聡い聴き手もあったに違いない。確かに話はここで後半の急激に後の授かった不思議な臼の話に一気に移り、実際には聴き手はその打ち出の小槌のような現世利益に惹かれ、欲深の妻の失策による幸甚喪失の結末で深い溜息をつくばかりで、そこまで深読みはしないのであろうが、にしても、この話はテクストとしての延伸性、別な展開の可能性を意識的に孕ませてあるように思われる。それは不貪欲戒などという教訓性とは全く異なったレベルでの特異属性として、である。なお、この話、柳田國男は後の昭和九(一九三四)年刊の「一目小僧その他」の「橋姫」の冒頭でも採り上げている(「橋姫」の初出は大正七(一九一八)年一月『女學世界』)。『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 橋姫(1)』参照。

「とつおいつ」「取りつ置きつ」の音変化で、元は「手に取ったり、また、下に置いたりして」の意で、そこから心理的に転じて「考えが定まらず、あれこれと思い迷うさま」の言となった。

「六部」(ろくぶ)は「六十六部」の略。本来は全国六十六か所の霊場に一部ずつ納経するために書写された六十六部の「法華経」のことを指したが、後に専ら、その経を納めて諸国霊場を巡礼する行脚僧のことを指すようになった。別称「回国行者」とも称した。本邦独特のもので、その始まりは聖武天皇(在位:神亀元(七二四)年~天平勝宝元(七四九)年)の御代からとも、最澄(神護景雲元(七六七)年~弘仁一三(八二二)年)の法華経書写を始めとするとも、もっと後の鎌倉初期ともされて定かではない。恐らくは鎌倉末期に始まったもので、室町を経て、江戸時代に特に流行し、僧ばかりでなく、俗人もこれを行うようになった。男女とも鼠木綿の着物に同色の手甲・脚絆・甲掛(こうがけ:足の甲に掛けて日光や埃を避ける布)・股引をつけ、背に仏像を入れた厨子を背負って鉦(かね)や鈴を鳴らして米銭を請い歩いて諸国を巡礼した(ここまでは主に小学館「日本大百科全書」を参考にした)。後には巡礼姿で米銭を請い歩くのを目的とした乞食も、かく呼んだ。

「此話に似たる物語西洋にもあり」神山重彦氏の「物語要素事典」のこちらに、『★3.運び手に死をもたらす手紙』『を書き換える』というケースに本条を挙げる他に(一部の「見よ」注記型リンク部分を省略した)、

   《引用開始》

『魚と指輪』(イギリス昔話)  領主が、息子の妻になる運命を持つ娘を嫌い、「この手紙の持参人を殺せ」と記した手紙を、弟の所へ持って行かせる。途中で出会った盗賊たちが手紙を開いて気の毒に思い、「この手紙の持参人を我が息子と結婚させよ」と書き換える。

『ドイツ伝説集』(グリム)486「ハインリヒ三世帝の伝説」  コンラート帝が、「この手紙の持参人を殺せ」と記した手紙をハインリヒに持たせ、妃のもとへ送る。ハインリヒが旅の途中で泊まった宿の主が、好奇心から手紙を開封し、「この手紙の持参人に娘を添わせよ」と書き換える〔*『黄金(きん)の毛が三本はえてる鬼』(グリム)KHM29の前半部が、この伝説と類似した展開をする〕。

[やぶちゃん注:中略。ここに本条の梗概が入る。]

『沼の主のつかい』(昔話)  みぞうけ沼の主である女が、伊勢詣りに出かける百姓・孫四郎に手紙を託し、富士の裾野の高沼まで持って行かせる。途中で出会った六部がその手紙を開いて見ると、「この男を取って食え」と書いてあった。六部は手紙を、「この男に黄金の駒を与えよ」と書き換える。孫四郎は高沼の主から、黄金の駒をもらって無事に帰って来る。その駒は、1日に米1合食べて、黄金1粒をひり出すのだった(岩手県江刺郡)

『ハムレット』(シェイクスピア)第4~5幕  デンマークの王子ハムレットは、叔父王クローディアスの命令で、親書を携えイギリス王のもとへ向かう。船中でひそかに親書を開き見ると、「ハムレットの首をはねよ」と記してあった。ハムレットは、同行した叔父王の臣下、ローゼンクランツとギルデンスターンが処刑されるように、親書の内容を書き直す。

   《引用終了》

とあるが、柳田が想起したものが以上の洋物に相当するのかどうかは、分らぬ。或いは、柳田が似ていると言ったのは、例のイソップ寓話の中の知られた「ガチョウと黄金の卵」のことに過ぎないのかも知れない。なお、佐藤誠輔訳・小田富英注「遠野物語」(二〇一四年河出書房新社刊)の注には、 『遠野では、この話に、南部家以前の阿曾沼氏の滅亡にかかわる実話があると伝えられて』いるとして、『一六○○年、阿曾沼広長は、最上への出陣中に領内で反乱に』遇い、『遠野を追われ』たが、『広長の妻女が遠野から落ちのびる時に、物見山に軍資金を埋めたという話が伝わって』おり、ここに出る『「先代の主人」=孫四郎はその話を祖母から聞き、探索を続けた結果、ついに』その軍資金を『掘り当てて、急に裕福にな』った。しかし、『軍資金を探し当てたとなると』、『取り上げられてしまうので、このような話につくりかえられたと』言われている、とある。また、ネット上には現在も遠野市中央通りには池端家が信奉する石臼大明神の祠がある、ともあった。この軍資金の話、本当なのかどうかは私にもよく判らぬ。]

 

二八 始めて早地峯に山路をつけたるは、附馬牛[やぶちゃん注:既出。「つくもうし」。]村の何某と云ふ獵師にて、時は遠野の南部家入部(ニフブ)[やぶちゃん注:既注。鎌倉初期の甲斐の武将南部光行(永万元(一一六五)年?~嘉禎二(一二三六)年?)が奥州藤原氏征討による論功行賞の結果として入った。]の後のことなり。其頃までは土地の者一人として此山には入りたる者無かりし也。この獵師半分ばかり道を開きて、山の半腹に假小屋を作りて居りし頃、或日爐の上に餅を並べ燒きながら食ひ居りしに、小屋の外を通る者ありて頻に中を窺ふさまなり。よく見れば大なる坊主也。やがて小屋の中に入り來り、さも珍しげに餅の燒くるを見てありしが、終にこらへ兼ねて手をさし延べて取りて食ふ。獵師も恐ろしければ自らも亦取りて與へしに、嬉しげになほ食いたり。餅皆になりたれば歸りぬ[やぶちゃん注:「皆になる」は古語で「全部無くなる・尽きる」の意。]。次の日もまた來るならんと思ひ、餅によく似たる白き石を二つ三つ、餅にまじえて爐の上に載せ置きしに、燒けて火のやうになれり。案の如くその坊主けふも來て、餅を取りて食うこと昨日の如し。餅盡(つ)きて後其白石をも同じやうに口に入れたりしが、大に驚きて小屋を飛び出し姿見えずなれり。後に谷底にて此坊主の死してあるを見たりと云へり。

【○北上川の中古の大洪水に白髮水と云ふがあり白髮の姥を欺き餅に似たる燒石を食はせし祟なりと云ふ此話によく似たり】

[やぶちゃん注:Kawakatu氏のブログ「民族学伝承ひろいあげ辞典」の「災禍と超常現象2/白髪水と山姥」に、平凡社「世界大百科事典」の『日本の洪水伝説』の項に『農業技術の未発達な時代には,洪水とそれにともなう泥海はこの世の終末と意識された。東北地方ではかつてあった最大の洪水を〈白髪水〉と呼び,その直前に白髪の老人が予告したり出水のおりに水の上を下ってくると語られた。木曾川下流域では大増水の際,〈やろかぁー,やろかぁー〉という叫びが聞こえ,これに応答すると水が浸入するという〈やろか水〉の伝説が語られている』と引用された上で、柳田國男の「女性と民間伝承」(『婦人新聞』(大正一五(一九二六)年四月~昭和二(一九二七)年十一月連載)から『東北地方の人たちは、これまで言うとあるいは思い出されるかも知れませぬが、秋田の雄物川でも、津軽の岩木川でも、岩手の北上川でも、会津の阿賀川でも、またその他のいい佐奈川でも、昔のいちばん大きかった洪水を、たいていは白髪水、または白髭水と記憶しているのであります』と引いて、『以上の説明をあわせ考えると、どうやら東北地方では洪水や湧き水を「白髪」に例える習慣があったようだ。この白髪は、老婆の白髪や、地域によっては翁の白髭(しらひげ)のような水が激しく動くときの白波・飛沫のことであるらしい。地域の巫覡(ふげき)の多くが老婆や老人を選んでいた風習の名残ではないかと柳田は想定している』。『このことはすでに江戸時代の旅行作家で博物学者の菅江真澄も『栖家能山(すみかのやま)』寛政八年』(一七九六年)『五月一日に』、『「太郎次郎が館(やかた)とて そのはらからやここに栖家したりけん 柵は白髪水というに押し流されて そのあたりの人もふる館という所にうつりて その村のみいまもなおあり」』『という記録がある』。『白髪の老婆にたとえた洪水なので、その地名やいわれのある場所では、だいたい山姥(やまんば)の目撃譚も多く、どうも山姥と洪水には連想のつながりがあったようだ』とされて本条を紹介されておられる。さらにその少し後では、『この類型は長崎県や和歌山県など全国に広範囲にあるのだが、やはりいずれも古代から海人がいた地位にリンクするともみえる。やはり』この二八『話と同じ早池峰山には、神仏習合の時代に早池峰の妙泉寺の住職が餅を焼いていると山姥が現れ、餅を全部食べてしまう。和尚はなんとか仕返しがしたいので、今度は餅によく似た石を焼いて食わせ、酒といつわり油をいれておきこれをまんまと飲ませたところ、山姥は苦しみながら山に逃げ込んだが、その後三日魅晩暴風雨が続き、大津波と大洪水になって寺を押し流してしまった。大洪水の直前に津波の波頭の上に白髪の翁が立って歌を歌いながら流されていった。それで人々はこの洪水を白髪水と呼び始めた、という』と記され、『水を白髪に例える地方は東北でも太平洋側に多く、不思議なことに同じ太平洋側の高知県本山町奥白髪などに点在する』という。最後に、『東北地方は鎌倉時代頃まで「生蛮地(せいばんち)」と言われてきた蝦夷やアイヌのいた地域であり、彼らがすべて俘囚として西日本へ移住させられたわけではなく、縄文時代から住み着いてきた蝦夷たちのほとんどは、依然としてここに住まい、生活してきた。その証拠が地名のアイヌ由来が多いことである(半分ほど残っている)。同時に海岸部には九州から北上した南方縄文海人も住んでいたわけで、はるか南の太平洋南岸の土佐などに白髪地名が残存し、やはり洪水話があるのも、地震や津波が東南海でプレートがつながっていて、地震が多かったことと関連して、言い伝えが行き来した結果であろう』と結んでおられる。]

 

二九 雞頭山(ケイトウザン)は早地峯の前面に立てる峻峯なり。麓の里にてはまた前藥師(マヘヤクシ)とも云ふ。天狗住めりとて、早地峯に登る者も決して此山は掛けず。山口のハネトと云ふ家の主人、佐々木氏の祖父と竹馬の友なり。極めて無法者にて、鉞(マサカリ)にて草を苅り鎌にて土を掘るなど、若き時は亂暴の振舞(フルマヒ)のみ多かりし人なり。或時人と賭(カケ)をして一人にて前藥師に登りたり。歸りての物語に曰く、頂上に大なる岩あり、其岩の上に大男三人居(ヰ)たり。前にあまたの金銀をひろげたり。此男の近よるを見て、氣色(ケシキ)ばみて振り返る、その眼の光極めて恐ろし。早地峯に登りたるが途[やぶちゃん注:「みち」。]に迷ひて來たるなりと言へば、然らば送りて遣(ヤ)るべしとて先(サキ)に立ち、麓近き處まで來り、眼を塞(フサ)げと言ふまゝに、暫時そこに立ちて居る間に、忽ち異人は見えずなりたりと云ふ。

[やぶちゃん注:岩手県花巻市鶏頭山。標高千四百四十一メートル。早池峰山の西五キロメートル強の位置にある。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

三〇 小國(ヲグニ)村の何某と云ふ男、或日早地峯に竹を伐(キ)りに行きしに、地竹(ヂダケ)の夥(オビタヾ)しく茂りたる中に、大なる男一人寢て居たるを見たり。地竹にて編みたる三尺ばかりの草履を脱(ヌ)ぎてあり。仰(アホ)に臥して大なる鼾(イビキ)をかきてありき。

【○下閉伊郡小國村大字小國】

【○地竹は深山に生ずる低き竹なり】

[やぶちゃん注:「地竹」恐らくは単子葉植物綱イネ目イネ科タケ亜科タケ連ササ属チシマザサ(千島笹)Sasa kurilensis ではないかと思われる(但し、変種及び品種が多くある。以下のリンク先を見られたい)。大型の笹の一種で稈(かん:イネ科 Poaceae 植物などに見られる中空構造の茎を指す)の基部が弓状に曲がっていることから、「ネマガリダケ」(根曲がり竹)の別名があり、ネット上では「地竹」ともする。ウィキの「チシマザサによれば、『稈』『は農作物の支柱や竹細工に利用される』。『チシマザサの筍(タケノコ)は』五~六『月に収穫でき、伝統的には筍といえば』、『初夏の食べ物であった。本種の筍は山菜として特に人気がある。灰汁が少ないので、皮を剥いて灰汁抜きせずに味噌汁や煮物にしたり、皮付きのまま焼いたあと皮を剥いて食べたりする』。『長野県北信地方と新潟県上越地方の山間部では、根曲竹(長野県側の呼称)または筍(新潟県側の呼称、姫竹とも)と呼ばれるチシマザサの新芽が採れる時期』『に、サバ(鯖)の水煮の缶詰と一緒に味噌汁にして食べる習慣がある。作り方や材料は各家庭によって違うが、基本は沸騰した鍋の中に、チシマザサと、缶詰から取り出した鯖を入れ、しばらくしてから地元特産の信州味噌あるいは越後味噌を入れ、ひと煮立ちさせて完成する。この味噌汁は、当該地域では春の特産として風物詩として親しまれている』。『また』、『産地の一つ』である『青森県津軽地方の山間部で採取されるものは』、『筍と呼ばれ、当該地域では身欠にしんとワカメのみをともにした素朴な味噌汁として同様に親しまれている』とある。本種を食用のそれとして採取する時期と話柄の雰囲気が如何にも一致するように私には思われるからである。]

 

佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 一七~二三 座敷童・幽霊

 

一七 舊家(キウカ)にはザシキワラシと云ふ神の住みたもふ家少なからず。此神は多くは十二三ばかりの童兒なり。折々人に姿を見することあり。土淵村大字飯豐(イヒデ)の今淵(イマブチ)勘十郞と云ふ人の家にては、近き頃高等女學校に居る娘の休暇にて歸りてありしが、或日廊下(ロウカ)にてはたとザシキワラシに行き逢ひ大に驚きしことあり。これは正しく男の兒なりき。同じ村山口なる佐々木氏にては、母人ひとり縫物しておりしに、次の間にて紙のがさがさと云ふ音あり。此室は家の主人の部屋(ヘヤ)にて、其時は東京に行き不在の折なれば、恠しと思ひて板を開き見るに何の影も無し。暫時(シバラク)の間(アヒダ)坐(スハ)りて居ればやがて又頻に鼻を鳴(ナラ)す音あり。さては坐敷ワラシなりけりと思へり。此家にも坐敷ワラシ住めりと云ふこと、久しき以前よりの沙汰なりき。此神の宿りたもう家は富貴自在なりと云ふことなり。

【○ザシキワラシは坐敷童衆なり此神のこと石神問答一六八頁にも記事あり】

[やぶちゃん注:ウィキの「座敷童子」が非常によく纏められているので必見。

「石神問答」(いしがみもんだう(いしがみもんどう))は柳田国男の自書で、明治四三(一九一〇)年に本「遠野物語」と同じ聚精堂より刊行したもの(後年の昭和一六(一九四一)年に序を付して再刊)。日本民俗学の先駆的著書とされ、本邦に見られる各種の石神
(道祖神・赤口神・ミサキ・荒神・象頭神等) についての考察を,著者と山中笑・伊能嘉矩・白鳥庫吉・喜田貞吉・佐々木繁らとの間にかわした書簡を元に編集したもの。既に述べた通り、難解で、売れ行きは芳しくなかった。ここ(国立国会図書館デジタルコレクションの当該ページの画像)で、「三 遠野なる佐々木繁氏より柳田へ」の一節。無論、「佐々木繁」は喜善(彼の別名)のことである。オシラ様の三体の図も添えられてある。]

 

一八 ザシキワラシまた女の兒なることあり。同じ山口なる舊家にて山口孫左衞門と云ふ家には、童女の神二人いませりと云ふことを久しく言傳へたりしが、或年同じ村の何某と云ふ男、町より歸るとて留場(トメバ)の橋のほとりにて見馴れざる二人のよき娘に逢へり。物思はしき樣子にて此方へ來る。お前たちはどこから來たと問へば、おら山口の孫左衞門がところから來たと答ふ。此から何處へ行くのかと聞けば、それの村の何某が家にと答ふ。その何某は稍離れたる村にて今も立派に暮せる豪農なり。さては孫左衞門が世も末だなと思ひしが、それより久しからずして、この家の主從二十幾人、茸(キノコ)の毒に中(アタ)りて一日のうちに死にえ、七歳の女の子一人を殘せしが、其女も亦年老いて子無く、近き頃病みて失せたり。

[やぶちゃん注:「留場(トメバ)」狭義の「留場」「御留場」(おとめば)は、一般の狩猟を禁止した禁猟区。江戸時代に将軍家の狩場や寺社から狩猟・漁猟を禁じられた場所のことを指すが、後の「遠野物語拾遺」(昭和一〇(一九三五)年刊の「遠野物語」増補版と名うつものであるが、この「拾遺」は鈴木脩一(後に鈴木棠三の名で知られる国文学者)が刪定整理したもので、「ちくま文庫」版全集にも載らない。私は新潮文庫版で所持する。柳田は「遠野物語」の続篇を考えて佐々木にそれを慫慂、佐々木喜善が膨大な草稿を柳田に渡していたが、柳田はなかなか続篇に着手せず、痺れを切らした佐々木が「聴耳草紙」(昭和六(一九三一)年)を刊行したため、柳田は計画を一方的に放棄してしまう(増補版は佐々木の死後の刊行である)。私が「遠野物語」に関して柳田を生理的に嫌悪する理由はそこにもあるの「七二」の中に、『明治四十三年に字本宿の留場某の家が焼けた時には』という一節があり、ここは或いは、その土地を所有する「留場」という住民の姓からの地名呼称かも知れない。この橋は、ウィキの「遠野物語」によれば、現在の遠野市土淵町山口の内とする(現存するかどうか不明)。]

 

一九 孫左衞門が家にては、或日梨(の木のめぐりに見馴れぬ茸(キノコ)のあまた生(ハ)えたるを、食はんか食ふまじきかと男共の評議してあるを聞きて、最後の代の孫左衞門、食はぬがよしと制したれども、下男の一人が云ふには、如何なる茸にても水桶の中に入れて苧殼(ヲガラ)を以てよくかき廻(マハ)して後食へば決して中(アタ)ることなしとて、一同此言に從ひ家内悉く之を食ひたり。七歳の女の兒(コ)は其日外に出でゝ遊びに氣を取られ、晝飯を食ひに歸ることを忘れし爲に助かりたり。不意の主人の死去にて人々の動轉してある間に、遠き近き親類の人々、或は生前に貸ありと云ひ、或は約束ありと稱して、家の貨財は味噌の類(タグヒ)までも取去りしかば、此村草分(クサワケ)の長者なりしかども、一朝にして跡方も無くなりたり。

[やぶちゃん注:「苧殼(ヲガラ)」皮を剝ぎ取った麻(バラ目アサ科アサ属アサ Cannabis sativa)の茎。

「草分(クサワケ)」には「土地を開拓して、そこに村や町を興すこと」の他に「ある物事を初めて行うこと・ある様態に最初に達すること」の意があり、ここは後者の当村で初めてお大尽、金持ちになった人の意であろう。]

 

二〇 此兇變の前には色々の前兆ありき。男ども苅置きたる秣(マグサ)を出すとて三ツ齒の鍬にて搔きまはせしに、大なる蛇を見出したり。これも殺すなと主人が制せしをも聽かずして打殺したりしに、其跡より秣の下にいくらとも無き蛇ありて、うごめき出でたるを、男ども面白半分に悉く之を殺したり。さて取捨つべき所もなければ、屋敷の外(ソト)に穴を掘りて之を埋め蛇塚を作る。その蛇は簣(アジカ)に何荷[やぶちゃん注:「なんが」。]とも無くありたりといへり。

[やぶちゃん注:「簣(アジカ)」竹・藁・葦などを編んで作った籠・笊(ざる)の類い。]

二一 右の孫左衞門は村には珍しき學者にて、常に京都より和漢の書を取寄せて讀み耽(フケ)りたり。少し變人と云ふ方なりき。狐と親しくなりて家を富ます術を得んと思ひ立ち、先づ庭の中に稻荷(イナリ)の祠(ホコラ)を建(タ)て、自身京に上(ノボ)りて正一位の神階を請(ウ)けて歸り、それよりは日々一枚の油揚(アブラゲ[やぶちゃん注:ママ。])を缺かすことなく、手づから社頭に供(ソナ)へて拜を爲せしに、後には狐馴れて近づけども遁(ニ)げず。手を延ばして其首を抑へなどしたりと云ふ。村に在りし藥師の堂守は、我が佛樣は何物をも供へざれども、孫左衞門の神樣よりは御利益ありと、度々笑ひごとにしたりと也。

 

二二 佐々木氏の曾祖母年よりて死去せし時、棺に取納め親族の者集まり來て其夜は一同座敷にて寢たり。死者の娘にて亂心の爲離緣せられたる婦人も亦其中に在りき。喪の間は火の氣(ケ)をやすことを忌(イ)むがところの風なれば、祖母と母との二人のみは、大なる圍爐裡(イロリ)の兩側(リヤウガハ)に坐(スハ)り、母人は旁(カタハラ)に炭籠を置き、折々炭を繼ぎてありしに、ふと裏口の方より足音して來る者あるを見れば、亡(ナ)くなりし老女なり。平生腰かゞみて衣物(キモノ)の裾(スソ)の引ずるを、三角に取上げて前に縫附けてありしが、まざまざとその通りにて、縞目(シマメ)にも見覺(ミオボ)えあり。あなやと思ふ間も無く、二人の女の座れる爐の脇を通り行くとて、裾にて炭取にさはりしに、丸き炭取なればくるくるとまはりたり。母人は氣丈(キジヤウ)の人なれば振り返りあとを見送りたれば、親類の人々の打臥したる座敷の方へ近より行くと思ふ程に、かの狂女のけたゝましき聲にて、おばあさんが來たと叫びたり。其餘の人々は此聲に睡[やぶちゃん注:「ねむり」。]を覺し只打ち驚くばかりなりしと云へり。

【○マーテルリンクの「侵入者」を想ひ起こさしむ】

[やぶちゃん注:「マーテルリンク」「青い鳥」(L'Oiseau bleu:一九〇七年発表)で知らる、ノーベル文学賞(一九一一年受賞)を受けたベルギー象徴主義の作家モーリス・メーテルリンク (Maurice Maeterlinck/正式名:メーテルリンク伯爵モーリス・ポリドール・マリ・ベルナール:Maurice Polydore Marie Bernard, comte de Maeterlinck 一八六二年~一九四九年)。本人の母語であるフランス語のカタカナ音写は「メテルラーンク」、ベルギー「マテルラーンク」、今一つの母国語であったフラマン語では「マータリンク」或いは「マーテルリンク」に近い発音である(「maeterlinck」はフラマン語で「計量士・測量士」の意である。以上はウィキの「モーリス・メーテルリンク」に拠った)。

「侵入者」「闖入者」と訳されることが多い。メーテルリンクが一八九四年に出版し、一八九五年に初演された戯曲「Intérieur(Interior)個人ブログ「Reisetuの「遠野出身者の東京見聞93;遠野物語の魅力(改題と増補・追補)」の「2.造形芸術におけるミニマリズム(minimalism)と遠野物語の魅力」に、かなり詳しい梗概が載る。私も本作は未読なので助かった。必見。

 本話は「遠野物語」の中でも人口に膾炙した怪談としてよく知られ、その功労者は三島由紀夫である。彼の評論「小説とは何か」(昭和四三(一九六八)年五月から二年後の一九七〇年十一月まで『波』(新潮社)に連載されたが、著者の自死によって中絶)の中の一節で本条を素材として語っている。私は遠い昔、同僚とのオリジナル実力テスト作製の際にこれを扱ったのを懐かしく思い出す(早期退職した七年前にとってあった試験問題その他は総て廃棄したのが、ここではちょっと惜しまれた)。私は同書を所持しているのであるが、今は書庫の底に沈んでしまって発見出来ない。ゆうなみ氏のサイト「はねこま草紙」の中の「物語の馬たち」の「第五章 『遠野物語』番外編 「炭取りの廻る話」の巻 三島由紀夫『遠野物語』を語る『小説とは何か』からに、『関西大学社会学部入試問題から採録した』という断り書きのあるものを孫引きさせて戴く。

   《引用終了》

 私は最近、自分の楽しみのためだけの読書として、柳田国男氏の名著『遠野物語』を再読した。これは明治四十三年に初版の出た本で、陸中(現在の岩手県をさす旧国名)上閉伊郡の山中の一集落遠野郷(現在の遠野市)の民俗採訪の成果であるが、全文自由な文語体で書かれ、わけても序文は名文中の名文であるが、いま私の挙げたいのは、第二十二節の次のような小話である。

 佐々木氏(本書の語り手喜善氏)の曾祖母年よりて死去せし時、棺に取り納め親族の者集まり来てそ の夜は一同座敷にて寝たり。死者の娘にて離縁せられたる婦人もまたその中にありき。喪の間は火の気を絶やすことを忌むが所の風なれば、祖母と母との二人のみは、大なる囲炉裏の両側に座り、母人は傍らに炭籠を置き、折々炭を継ぎてありしに、ふと裏口より足音して来るものあるを見れば、亡くなりし老女なり。平生腰かがみて着物の裾の引きずるを、三角に取り上げて前に縫い付けてありしが、まざまざとその通りにて、縞目にも見覚えあり。あなやと思う間も無く、二人の女の座れる囲炉裏の脇を通り行くとて、裾にて炭取(炭籠に同じ)にさわりしに、丸き炭取なればくるくると回りたり。母人は気丈の人なれば振り返りあとを見送りたれば、親類の人々のうち臥したる座敷の方へ近寄り行くと思うほどに、かの女のけたたましき声にて、おばあさんが来たと叫びたり。その余の人々はこの声に眠りを覚まし、ただうち驚くばかりなりしと言えり。

 この中で私が、「あ、ここに小説があった」と三嘆これ久しうしたのは、「裾にて炭取にさわりしに 、丸き炭取なればくるくると回りたり」という件である。ここがこの短い怪異譚の焦点であり、日常性と怪異との疑いようのない接点である。この一行のおかげで、わずか一ページの物語が、百枚二百枚の似非小説よりも、はるかに見事な小説になっており、人の心に永久に忘れがたい印象を残すのである。こんな効果は分析し説明しても詮ないことであるが、一応現代的習慣に従って分析を試みることにしよう。

 通夜の晩あらわれた幽霊は、あくまでも日常性を身につけており、ふだん腰がかがんで、引きずる裾 を三角に縫い付けてあったまま、縞目も見覚えのある着物で出現するので、その同一性が直ちに確認せられる。ここまではよくある幽霊談である。人々は死の事実を知っているから、その時すでに、あり得べからざることが起こったということは認識されている。すなわち棺内に動かぬ死体があるという事実と、裏口から同一人が入って来たという事実とは、完全に矛盾するからである。二種の相容れぬ現実が併存するわけはないから、一方が現実であれば、他方は超現実あるいは非現実でなければならない。その時人々は、目前に見ているものが幽霊だという認識に戦慄しながら、同時に超現実が現実を犯すわけ はないという別の認識を保持している。これはわれわれの夢の体験と似ており、一つの超現実を受容する時に、逆に自己防衛の機能が働いて、こちら側の現実を確保しておきたいという欲求が高まるのである。目の前を行くのはたしかに曾祖母の亡霊であった。認めたくないことだが、現れた以上はもう仕方がない。せめてはそれが幻であってくれればいい。幻覚は必ずしも認識にとっての侮辱ではないからだ 。われわれは酒を飲むことによって、好んでそれをおびき寄せさえするからだ。しかし「裾にて炭取にさわりしに、丸き炭取なればくるくると回りたり」と来ると、もういけない。この瞬間に、われわれの現実そのものが完全に震撼されたのである。

 すなわち物語は、この時第二段階に入る。亡霊の出現の段階では、現実と超現実とは併存している。 しかし炭取の回転によって、超現実が現実を犯し、幻覚と考える可能性は根絶され、ここに認識世界は逆転して、幽霊の方が「現実」になってしまったからである。幽霊がわれわれの現実世界の物理法則に従い、単なる無機物にすぎぬ炭取に物理的力を及ぼしてしまったからには、すべてが主観から生じたという気休めはもはや許されない。かくて幽霊の実在は証明されたのである。

 その原因はあくまでも炭取の回転にある。炭取が「くるくる」と回らなければ、こんなことにはならなかったのだ。炭取はいわば現実の転位の蝶番(つなぎ目の金具)のようなもので、この蝶番がなければ、われわれはせいぜい「現実と超現実の併存状態」までしか到達することができない。それから先へもう一歩進むには、(この一歩こそ本質的なものであるが)、どうしても炭取が回らなければならないのである。しかもこの効果が一にかかって「言葉」にあるとは、驚くべきことである。舞台の小道具の炭取では、たといその仕掛けがいかに巧妙に仕組まれようとも、この小話における炭取のような確固たる日常性を持つことができない。短い叙述のうちにも浸透している日常性が、このつまらない什器の回 転を真に意味あらしめ、しかも『遠野物語』においては、「言葉」以外のいかなる資料も使われていないのだ。

 私が「小説」と呼ぶのはこのようなものである。小説が元来「まことらしさ」の要請に発したジャンルである以上、そこにはこのような、現実を震撼させることによって幽霊を現実化するところの根源的な力が備わっていなければならない。しかもその力は、長たらしい叙述から生まれるものでなくて、こんな一行に圧縮されていれば十分なのである。しかし凡百の小説では、小説と名がついているばかりで、何百枚読み進んでも決して炭取の回らない作品がいかに多いことであろう。炭取が回らない限り、それを小説と呼ぶことは実はできない。小説の厳密な定義は、実にこの炭取が回るか回らぬかにあると言っても過言ではない。そして、柳田国男氏が採録したこの小話は、まさに小説なのである。

   《引用終了》

 この三島の解析と同じ認識は、私の怪奇小説認識の重大な核心である。現実を、一切の、科学的解説をも拒む――〈もの〉――が侵犯する、その一瞬――にこそ/にのみ――真正にして唯一正統な怪異の出来(しゅったい)は〈在る〉。

 

二三 同じ人の二七日の對夜(タイヤ)に、知音の者集まりて、夜更くるまで念佛を唱へ立歸らんとする時、門口(カドグチ)の石に腰掛けてあちらを向ける老女あり。其うしろ付(ツキ)正しく亡(ナ)くなりし人の通りなりき。此は數多(アマタ)の人見たる故に誰も疑はず。如何なる執着(シウヂヤク)のありしにや、終に知る人はなかりし也。

[やぶちゃん注:「對夜(タイヤ)」「逮夜」に同じ。葬儀や忌日の前夜。誤字かとも思ったが、調べて見ると、本願寺顕如自筆「報恩講等和讃」に「逮夜」を「對夜」とも記すのを確認出来た。]

佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 九~一六 山中の怪・尊属殺人・老話者・オクナイサマ・オシラサマ・コンセイサマ

 

  菊池彌之助と云ふ老人は若きころ駄賃(ダチン)を業とせり[やぶちゃん注:「駄賃」とは駄馬を用いた運送業。]。笛の名人にて夜通(ヨドホ)しに馬を追ひて行く時などは、よく笛を吹きながら行きたり。ある薄月夜(ウスヅキヨ)に、あまたの仲間の者と共に濱へ越ゆる境木峠を行くとて、又笛を取り出して吹きすさみつゝ、大谷地(オホヤチ)【○ヤチアイヌ語にて濕地の義なり内地に多くある地名なり又ヤツともヤトともヤとも云ふ】と云ふ所の上を過ぎたり。大谷地は深き谷にて白樺(シラカンバ)の林しげく、其下は葦(あし)など生じ濕(シメ)りたる澤なり。此時谷の底より何者か高き聲にて面白いぞーと呼はる者あり。一同悉く色を失ひ遁げ走りたりと云へり。

[やぶちゃん注:これは空気の逆転層による遠方の音がごく近くに聴こえる現象で説明がつくかも知れない。私は何度も下界を離れた高山で、遙か下界の町のざわめきを聴いた経験がある。概ね、天候が悪化する兆しででもあったので記憶が鮮明である。]

 

一〇 此男ある奧山に入り、茸(キノコ)を採るとて小屋を掛け宿(トマ)りてありしに、深夜に遠きところにてきやーと云ふ女の叫び聲聞え胸を轟かしたる[やぶちゃん注:「とどろかしたる」。]ことあり。里へ歸りて見れば、其同じ夜、時も同じ刻限に、自分の妹なる女その息子(ムスコ)の爲に殺されてありき。

[やぶちゃん注:その殺人事件の一部始終が次で語られるという配置がリアルに凄い。]

 

一一 此女と云ふは母一人子一人の家なりしに、嫁(ヨメ)と姑(シウト)との仲惡しくなり、嫁は屢(シバシバ)親里へ行きて歸り來ざることあり。其日は嫁は家にありて打臥して居りしに、晝の頃になり突然と忰(セガレ)の云ふには、ガガ【○ガガは方言にて母といふことなり】はとても生(イカ)しては置かれぬ、今日(ケフ)はきつと殺すべしとて、大なる草苅鎌を取り出し、ごしごしと磨(ト)ぎ始めたり。その有樣更に戲言(タハムレゴト)とも見えざれば、母は樣々に事を分(ワ)けて詫(ワ)びたれども少しも聽かず。嫁も起出でゝ泣きながら諫(イサ)めたれど、露(ツユ)從(シタガ)ふ色もなく、やがて母が遁(ノガ)れ出でんとする樣子(ヤウシ)あるを見て、前後の口を悉く鎖(トザ)したり。便用に行きたしと言へば、おのれ自ら外より便器を持ち來たりて此(これ)へせよと云ふ。夕方にもなりしかば母も(ツヒ)にあきらめて、大なる圍爐裡(イロリ)の側(カタハラ)にうづくまり只泣きて居たり。忰(セガレ)はよくよく磨(ト)ぎたる大鎌を手にして近より來り、先づ左の肩口を目掛けて薙(ナ)ぐやうにすれば、鎌の刃先(ハサキ)爐(ロ)の上(ウヘ)の火棚(ヒダナ)に引掛(ヒツカ)かりてよく斬(キ)れず。其時に母は深山の奧にて彌之助が聞きつけしやうなる叫聲[やぶちゃん注:「さけびごゑ」。]を立てたり。二度目には右の肩より切(キ)り下(サ)げたるが、此にても猶死(シニタ)えずしてある所へ、里人等(サトビトラ)驚きて馳付(ハセツ)け忰を取抑(トリオサ)へ直に警察官を呼(ヨ)びて渡(ワタ)したり。警官がまだ棒を持ちてある時代のことなり。母親は男が捕(トラ)えられ引き立てられて行くを見て、瀧のように血の流るゝ中より、おのれは恨も抱(イダ)かずに死ぬるなれば、孫四郞は宥(ユル)したまはれと言ふ。之を聞きて心を動(ウゴ)かさぬ者は無かりき。孫四郞は途中にても其鎌を振上げて巡査を追ひ𢌞しなどせしが、狂人なりとて放免せられて家に歸り、今も生きて里に在り。

 

一二 土淵村山口に新田乙藏(ニツタオトザウ)と云ふ老人あり。村の人は乙爺(オトヂイ)と云ふ。今は九十に近く病みてまさに死(シナ)んとす。年頃遠野鄕の昔の話をよく知りて、誰かに話して聞かせ置きたしと口癖のやうに言へど、あまり臭(クサ)ければ立ち寄りて聞かんとする人なし。處々(トコロドコロ)の館(タテ)の主(ヌシ)の傳記、家々(イヘイヘ)の盛衰、昔よりこの鄕(ゴウ)に行(オコナ)はれし歌の數々を始めとして、深山の傳又は其奧に住める人々の物語など、此老人最もよく知れり。

【○惜むべし乙爺は明治四十二年[やぶちゃん注:一九〇九年。本書刊行の前年。]の夏の始になくなりたり】

 

一三 此老人は數十年の間山の中に獨(ヒトリ)にて住みし人なり。よき家柄なれど、若き頃財産を傾け失ひてより、世の中に思ひを(タ)ち、峠の上に小屋(コヤ)を掛け、甘酒(アマザケ)を往來(ワウライ)の人に賣りて活計[やぶちゃん注:「たつき」と読みたい。]とす。駄賃(ダチン)の徒(ト)はこの翁を父親(チヽオヤ)のやうに思ひて、親(シタ)しみたり。少しく收入の餘(アマリ)あれば、町に下(クダ)り來て酒を飮む。赤毛布(アカゲツト)にて作りたる半纏(ハンテン)を着て、赤き頭巾(ヅキン)を被(カブ)り、醉へば、町の中を躍りて歸るに巡査もとがめず。愈(イヨイヨ)老衰して後、舊里(キウリ)に歸りあはれなる暮(クラ)しを爲せり。子供はすべて北海道へ行き、翁唯一人也。

[やぶちゃん注:「赤毛布(アカゲツト)」「ゲツト」は「ゲット」で「毛布」英語「blanket」のカタカナ音写「ブランケット」の略。なお、明治初期、東京などの都会見物に来た田舎からの旅行者が多く赤い毛布を羽織っていたことから、当時はこの語が都市部では専ら「お上りさん」(或いは「旅慣れていない洋行者」にも使用された)を指すようになっていた。]

 

一四 部落(ブラク)には必ず一の舊家ありて、オクナイサマと云ふ神を祀(マツ)る。其家をば大同(ダイドウ)と云ふ。此神の像(ザウ)は桑(クハ)の木を削(ケヅ)りて顏(カホ)を描(ヱガ)き、四角なる布(ヌノ)の眞中(マンナカ)に穴を明(ア)け、之を上(ウヘ)より通(トホ)して衣裳とす。正月の十五日には小字中(コアザヂウ)の人々この家に集り來りて之を祭る。又オシラサマと云ふ神あり。此神の像も亦同じやうにして造り設(マウ)け、これも正月の十五日に里人(サトビト)集りて之を祭る。其式には白粉(オシロイ[やぶちゃん注:ママ。])を神像の顏に塗ることあり。大同の家には必ず疊(タヽミ)一帖の室(シツ)あり。この部屋(ヘヤ)にて夜(ヨル)寢(ネ)る者はいつも不思議に遭(ア)ふ。枕(マクラ)を反(カヘ)すなどは常のことなり。或は誰かに抱起(ダキオコ)され、又は室より突(ツ)き出(イダ)さるゝこともあり。凡そ靜かに眠ることを許さぬなり。

【○オシラサマは雙神なりアイヌの中にも此神あること蝦夷風俗彙纂に見ゆ】

【○羽後苅和野の町にて市の神の神體なる陰陽の神に正月十五日白粉を塗りて祭ることあり之と似たる例なり】

[やぶちゃん注:「オクナイサマ」は恐らく「屋内様」「奥内様」で、地憑きの家霊神のように思われる。祖霊も習合しているかも知れないが、単純な祖霊(祖先)崇拝とは異なるような感じがする。但し、dostoev 氏のブログ『不思議空間「遠野」-「遠野物語」をwebせよ!-』の『「遠野物語70(オクナイサマ)」』には、『オクナイサマは、形がオシラサマと似通っている棒状のものと、そうでないものがある。また、オクナイサマはオコナイサマとも云われている。佐々木喜善』の『「遠野のザシキワラシとオシラサ」では、山形のオコナイサマとは「御宮内様」の事であると記している。その山形の御宮内様とは、宮内の者が』六『尺の竿で検地をした筈が、実は』六尺三寸『の竿であった為、削られると思った土地が助かった農民達が喜びの余り、その』六尺三寸『の竿を細切れにして、各家で神として祀ったのがオコナイサマであると。しかしそれは、紛れもないオシラサマであろうとしている』(この「宮内」は恐らくは地名で、現在の山形県南部の米沢盆地北部に位置する南陽市の中心市街地で、その旧町名である。吉野川の谷口に位置し、熊野神社の門前町として発達し、中世には大津氏が居城、慶長年間 (一五九六年~一六一五年) 以降は米沢に次ぐ中心地として発達した)。『しかし「オコナイ」という言葉は、かなり古くからあり、「日本書紀(天智天皇記)」に「吉野に之りて、修行佛道(オコナイ)せむと講したまふ。」記しているが、元々オコナイとは仏教の行法一般を意味する言葉であった。恐らく、その行法に対して偶像が組み込まれ、その偶像が屋内で祀られた事からオクナイサマとも呼ぶようになったのではなかろうか。キリスト教もそうだが、偶像崇拝禁止でありながら異民族にキリスト教を布教する場合、形が無いと信仰心が生じない為に、イエス・キリストと一体になった十字架などを偶像とした。オコナイサマ・オクナイサマも、初めに信仰が入り込んで、それに合わせた偶像が設定された為に、棒状のオシラサマ型であったり、仏像型になったのではなかろうか。そしてまた掛軸型があるのはやはり、オクナイサマそのものが行法を主体とした言葉であった為に、いかに日々信心するかを重要視したので、神像』や仏像或いは掛軸であって『も問題は無かったのだろう』と述べておられる。俄かには賛同出来ないが、佐々木の如何にも現実的な解釈に比すと、遙かに興味深い仮説ではある。

「オシラサマ」東北地方に分布する家の神の信仰。茨城県などにもなくはないが、青森・岩手・宮城県北部などにことに濃厚である。「オシンメ様」(福島県)・「オコナイ様」(山形県)などとも称される。多くは桑の木に男女とか馬の顔を彫刻した長さ三十センチメートルほどのものを布裂れで幾重にも覆ってある。「貫頭型」と布を頭からかぶせた「包頭型」とがある。通常は神棚の祠(ほこら)に納めておくが、春秋の祭日に出して、神饌を供え、供養し、また「オシラアソバセ」をする。祭日は一月・三月・九月の十六日である。昔は同族的な系譜を背景とする女性集団によって祀られていたらしく、本家の老婆が祭文を読んだり、女の子が「オシラサマ」を背負って遊ばせたりもした。これを「オシラホロキ」とか「オシラアソバセ」とも称し、「イタコ」が参与して行う場合も多い。「金満長者」「せんだん栗毛」などの祭文を語りながら、「オシラサマ」を、一対、両手にとって打ち振り、神がかり風(トランス状態)になってお託宣をしたりもした(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「アイヌの中にも此神あること」私は昔からアイヌのイナウ(それは極東北方の少数民族の祭具や神道の御幣とも酷似する)とオシラサマには親和性があると思っている。陽物崇拝のシンボルそのものとも言え、豊饒神であるとも言える。

「蝦夷風俗彙纂」肥塚貴正編纂。前・後編。明治一五(一八八二)年刊。早稲田大学図書館古典総合データベースのこちらにある。

「羽後苅和野」現在の秋田県大仙市刈和野附近か。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

「枕を反す」私の「佐渡怪談藻鹽草 枕返しの事」をリンクさせておく。もうお気づきの方も多いであろうが、そこの引用に佐々木喜善の話をも引くように、妖怪或いは怪奇現象としての「枕返し」は、東北地方では座敷童子(ざしきわらし)の悪戯とされることが多いのである。]

 

一五 オクナイサマを祭れば幸(サイハヒ)多し。土淵村大字柏崎(カシハザキ)の長者阿部氏、村にては田圃(タンボ)の家(ウチ)と云ふ。此家にて或年田植(タウエ)の人手(ヒトデ)足(タ)らず、明日(アス)は空(ソラ)も恠(アヤ)しきに、僅(ワヅカ)ばかりの田を植え殘すことかなどつぶやきてありしに、ふと何方(イヅチ)よりともなく丈低(タケヒク)き小僧(コザウ)一人來たりて、おのれも手傳ひ申さんと云ふに任(マカ)せて働(ハタラ)かせて置きしに、午飯時(ヒルメシドキ)に飯(メシ)を食はせんとて尋ねたれど見えず。やがて再び歸りきて終日、代(シロ)を搔(カ)きよく働きて呉(く)れしかば、その日に植ゑはてたり。どこの人かは知らぬが、晚には來て物を食(ク)いひたまへと誘(サソ)ひしが、日暮れて又其影(カゲ)見えず。家に歸りて見れば、椽側(エンガハ[やぶちゃん注:ママ。後注参照。])に小さき泥(ドロ)の足跡(アシアト)あまたありて、段々に座敷に入り、オクナイサマの神棚(カミダナ)のところに止(トヾマ)りてありしかば、さてはと思ひて其扉(トビラ)を開き見れば、神像の腰より下は田の泥(ドロ)にまみれていませし由。

[やぶちゃん注:「椽側」「椽」は本来は「たるき(垂木)」の意であるが、芥川龍之介を始めとして、明治・大正期の作家は「緣」の代わりに「椽」を使用する例がすこぶる多く、完全な「緣側」の慣用語として幅を利かせていた。]

 

一六 コンセサマを祭れる家も少なからず。此神の神體はオコマサマとよく似たり。オコマサマの社は里に多くあり。石又は木にて男の物を作りて捧ぐるなり。今は追々とその事少なくなれり。

[やぶちゃん注:「コンセサマ」は「金精様」「金勢様」。豊饒を願う陽物(男根/リンガ)崇拝である。「勢」は古くから男根の別称である。

「オコマサマ」恐らくは一つの表記は「御駒様」であろう。但し、ここで「コンセサマ」とよく似ているという通り、「オコマサマ」と呼ばれる神体は私の見た複数のそれは全くの大きな男根そのものを模していた。雄馬の長大なそれをシンボライズしているともとれるが、私はそれに擬えて意識的に対象の特定形状をずらした「こんせいさま」の転訛であるように思う。ウィキの「遠野物語」には、『コンセサマとは金勢様、あるいは金精様の漢字が充てられる男性器を模った精神で、生命力の象徴に悪霊や邪気を祓う力、あるいは縁結び、子宝、安産祈願などの加護が得られると考えられ信仰されてきた』。『オコマサマは東北地方から関東にかけて馬の守り神として信仰されてきたが、祀られた当初は他の神を祀ったものとする考え方もある』。『多数の駒形神社や馬頭観音の石塔などが存在する遠野で名高い駒形神社は附馬牛の駒形神社であるが、これは中世阿曾沼時代に蒼前駒形明神を祀ったのが初まりとされている』。『この「そうぜん」という言葉はやまとことばには存在せず、駒形神社の宗社である水沢の駒形神社は延喜式神名帳にも記載されている式内社で、原初山の神である水分神を祀ったものであったという』。『こういった伝承により、本来の駒形の神というものは北方より伝来したアイヌ語における山の神と関わりのあるものであったが、奥羽からアイヌの影響力が失われていくと共にその原義を失い、何を信仰していたものかわからなくなったところに、全国有数の馬産地としての必要性から馬の神としての神格が与えられたものと考える説もある』。『いずれにおいても石や木でできた男性器を神体とする点で同じであるが、コンセサマは主として女の神であるの対してオコマサマは馬の神であり、別の神格を有している。「遠野物語拾遺」の一四・一五・一六話などの話から』窺うに、『佐々木喜善は少なくない』性風俗の絡んだ『伝承を柳田に語ったと考えられるが、柳田の性の民俗に関する伝承の考え方から』、「遠野物語」に『取り上げられた内容は極々概説的なものに限られている』とある。

「オコマサマの社は里に多くあり。石又は木にて男の物を作りて捧ぐるなり。今は追々とその事少なくなれり」所謂、国家神道による政治的人心掌握の一環として行われた、神仏分離令やそれによるおぞましい廃仏毀釈の嵐の中で邪教淫祠としてヤリ玉に挙げられ、後の一村一社といった神社合祀政策などの流れによって多くが他の旧信仰物(塞の神・庚申塔・道祖神等々)と一緒くたに神社に強引に移されたり、公的神社組織に衣替えさせられた。これらは本来の素朴な信仰形態が概ね失われてしまった古代性器信仰である。無論、現在もどっこい生き残っているものは結構ある。msystemブログの「岩手県内における金勢信仰  何でこんなに沢山あるの Vol.4(過去三回分の踏査も読まれたい)を見られたいが、そこでmsystem氏は、柳田國男が佐々木喜善の語った中の具体的な性的内容部分を『編集時に、故意に割愛したと伝わってい』るとされ、『この点に関しては、後に』柳田國男『は、弟子に対して、次のように語っていた』として、「『民俗学は、まだ若い学問である。性の民俗学は、誤解を受けやすく、興味本位と思われるので、書かなかった』」」と述懐したともある(これは私も既に述べた)。同氏は別なブログのオシラサマについて - オシラサマは「お知らせ様」?という記載でも、「遠野物語」は佐々木喜善が『収集した民話・昔話を、柳田國男が整理・編集したものになり』、『悪く言えば「パクリ小説」で』あると述べてもおられる。これも私が冒頭注で主張したように、至極、賛同出来る見解である。

 

2018/12/18

和漢三才圖會第四十三 林禽類 啄木鳥(てらつつき・きつつき) (キツツキ)

 

Kitutuki

 

てらつつき  斲木

きつつき   

啄木鳥

       【和名天良豆豆木】