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2018/12/17

芥川龍之介 西鄕隆盛 (正字正仮名版・附注)

[やぶちゃん注:大正七(一九一八)年一月一日発行『新小説』初出。後に作品集「鼻」「芋粥」に所収された。底本は旧岩波書店刊「芥川龍之介全集」第二巻を用いた(底本を作品集「鼻」とするもの)。

 芥川龍之介満二十五歳(彼は明治二五(一八九二)年三月一日生まれ)、未だ横須賀海軍機関学校教授嘱託(英語)で、この二月二日には塚本文(満十七歳)と田端の自宅で結婚式を挙げている。本文冒頭に、『昨年の冬鎌倉へ轉居する』と出るのは、大正五年(執筆は大正六年中。最終クレジット参照)十二月一日に横須賀海軍機関学校教官に就任したため、田端の自宅からは通勤が困難であったことから、当時の鎌倉町和田塚(現在の鎌倉市由比ガ浜)の「海浜ホテル」側のの間西洋洗濯店の離れに下宿をしたことを指す(この八日後の十二月九日に恩師夏目漱石の逝去に遇う。着任早々であったからか、主なき漱石宅に赴いたのは十一日の昼頃であった。また、この十二月に塚本文と婚約している。鎌倉の下宿は大正六年九月十四日に横須賀市汐入の尾鷲方へ転居しているが、文と結婚後に鎌倉に戻る予定で、実際に大正七年三月二十九日に鎌倉町大町辻の小山別邸内に新居を構えた。因みにここは私の父方の実家の直近でもある)。

 読みは一部の判読で振れると判断したもののみに施した。先行して出ながら、後で振ってある場合は、それに従っている。また、加工用データとして「梅雨空文庫」のこちらのものを利用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。ダッシュやクレジット位置はブラウザを不具合を考えて上に上げてある。読みにあった踊り字は正字化した。

 なお、作中に出る、ネタ元を語ったとする『大學の史學科を卒業した本間さん』や、後に出る老紳士の学者らしき人物もモデル不詳で、芥川龍之介自身の分身のようにも受け取れる。

 簡単に語注しておく。

・「赤木桁平」(あかぎこうへい 明治二四(一八九一)年~昭和二四(一九四九)日)は評論家、後に政治家。ウィキの「赤木桁平によれば、『本名は池崎忠孝。初めて夏目漱石の伝記を書いた人物として知られ、漱石門下で一歳違い(赤木の方がとし上)という近さから、芥川龍之介との交流も頻繁で、書簡のやり取りも甚だ多い。衆議院議員を戦前・戦中に三期務めた。『岡山県阿哲郡万歳村(現・新見市)生まれ。東京帝国大学法科大学卒業、在学中夏目漱石門下に入り、漱石命名による「赤木桁平」の筆名で文芸評論を書いたが、中でも』、大正五(一九一六)年の『朝日新聞』に載せた「『遊蕩文学』の撲滅」が有名である。これは、当時、花柳界を舞台にした小説が多く、「情話新集」なるシリーズが出ていたのを、「遊蕩文学」と名づけて攻撃したもので、その筆頭たる攻撃目標は近松秋江だったが、ほかに長田幹彦、吉井勇、久保田万太郎、後藤末雄が槍玉に挙げられた。これは論争になったが、久保田や後藤は、攻撃されるほど花柳小説を書いてはいなかったし、当時、東京帝大系で非漱石系の親玉だった小山内薫が反論した中に、なぜ自分や永井荷風が攻撃目標になっていないのか、とあったが、谷崎潤一郎も批判されていなかった。また、もし少しも遊蕩的でない小説を書く者といったら、漱石と小川未明くらいしかいないではないかという反論もあった。谷崎や荷風が攻撃から外されていた点については、赤木が当時谷崎と親しく、谷崎の庇護者だった荷風にも遠慮したからだろうとされている』。卒業後、『萬朝報』に入社し、論説部員を務めた。その後』、家業のメリヤス業を継いだが、昭和一一(一九三六)年に衆議院議員に当選、第一次『近衛内閣で文部参与官を務めた』。これ以前、昭和四(一九二九)年以降は本名の池崎忠孝で『日米戦争を必然とする立場から盛な著作活動を行な』った。戦後はA級戦犯に指定され、『巣鴨プリズンに収監され』たが、『後に病気のため釈放され』たものの、『公職追放となり』、『そのまま不遇のうちに死去』した。

・「MCC」エジプト製の煙草(cigarette)。明治末期から大正初期にかけては、舶来の巻煙草と言えば、稀にこれが用いられる程度であった、と筑摩書房類聚版「芥川龍之介全集」(昭和四九(一九七四)年刊)にある。調べたところ、略号の意味は判らなかったが、「Best Samos M.C. Carathhanassis & Co」でこれであろう(画像有り。英文の骨董品販売サイト)。

・「俵屋」(たはらや(たわらや))は現在の京都市中京区麩屋町(ふやちょう)にある老舗旅館。創業三百余年で京都で最も古い旅館の一つ。

・「ドクタア・ジヨンソン」イングランドの詩人・批評家・文献学者サミュエル・ジョンソン(Samuel Johnson 一七〇九年~一七八四年)。「英語辞典」(一七五五年)の編集で知られ、十八世紀の英国に於いて「文壇の大御所」と呼ばれた。辛口の警句を連発し、しばしば「典型的なイギリス人」と呼ばれる。

・「almanac-maker」「オーマナック・メイカー」。暦・年鑑を作る人。

・「金釦」「きんぼたん」。金ボタン。

・「鐵木眞(てむじん)」チンギス・ハン(成吉思汗 一一六二年~一二二七年)のこと。

・「加治木(かぢき)常樹城山籠城調査筆記」加治木常樹(安政二(一八五五)年~大正七(一九一八)は薩摩出身の政治運動家・官吏。妻時子は来島恒喜(くるしまつねき:国家主義者。頭山満らの玄洋社社員となり、後に中江兆民の仏学塾に入ったが、大隈重信外相の条約改正案に反対し、明治二二(一八八九)年十月十八日、外務省前で大隈に爆弾を投じて重傷を負わせ、その場で自殺した)の妹。西南戦争では西郷隆盛に従い、捕らえられて一年の懲役を受けた。後、挙兵の真相が誤伝されていることを憂え、「西南血涙史」(大正元年(一九一二)年十月刊)を書いている。そのプレ資料か。

・「市來(いちき)四郎日記」市来四郎(文政一一(一八二九)年~明治三六(一九〇三)年)は元薩摩藩士で修史家。薩摩藩のために軍艦・銃器の調達を担当し、箱館戦争に従軍した。維新後は島津久光の系統に属して、明治一五(一八八二)年には島津斉彬の言行録を調べ、同十八年からは維新前後にかかる「旧邦秘録」の調査に取り掛かり、島津家の修史事業に従事した。同二十二年には旧大名家を勧誘し、「史談会」を結成、甥の寺師宗徳とともにその運営を推進した。

・「蹌踉(さうろう)たる」足もとがしっかりせず、よろめくさま。

・「窓帷」「カアテン」と読んでおく。筑摩書房類聚版「芥川龍之介全集」がかくルビを振る。

・「風骨(ふうこつ)」姿。風体(ふうてい)。ここは風格あるそれ。

・「魁偉」(くわいゐ(かいい))顔の造作や身体が人並外れて大きく、逞しい感じを与えること。

・「ウオルタア・ラレエ」イングランド女王エリザベス世の寵臣にして探検家・作家・詩人であったウォルター・ローリー(Walter Raleigh 一五五二年又は一五五四年~一六一八年)。新世界に於ける最初のイングランド植民地を築いた功績で知られる。エリザベス世が一六〇三年に死去すると、内乱罪で裁判を受け、ロンドン塔に一六一六年まで監禁された。獄中で彼はギリシャとローマの古代史に関する本「世界の歴史」(A Historie of the World)を著している(未完)ので、これを指すのであろう。ロンドン塔から解放されると、南米オリノコ川流域に黄金郷を探索すべく派遣されることとなった二度目の探検隊を指揮することになったが、この探検の途中、ローリーの部下達がメンバーのひとりであるローレンス・キーミスの指示の下、スペインの入植地であったサン・ソーム(San Thome)で略奪を行い(この町での最初の戦いでローリーの息子ウォルターは銃撃を受けて死亡している)、ローリーがイングランドに帰還した後、憤慨したスペイン大使がジェームズ世にローリーの死刑を求め、国家間の思惑からこの要求が受け入れられ、ローリーは一六一八年十月十八日、『ホワイトホール宮殿で斬首刑に処せられた。ローリーの最後の言葉は、斬首を行う斧を見せられた時の、「これは劇薬であるが、すべての病を癒すものである」というものであった』という。ローリーの伝記「海の羊飼い」(Shepherd of the Ocean)によれば、『ローリーの妻ベスは彼の首を「防腐処置を施していつも自分のそばに置き、しばしば訪問者達にウォルター卿に会いたいかと尋ねた」。ローリーの首はその後、ウェストミンスター寺院の隣にある聖マーガレット教会に、彼の胴体と共に埋葬された』とある(ここはウィキの「ウォルター・ローリー」に拠った)。

・「狄靑」(てきせい 一〇〇八年~一〇五七年)は北宋の武将。文民優遇の北宋にあって一兵卒から叩き上げで将軍の位まで出世した稀有な人物。庶民からの人気も高い。但し、あまりに出世し過ぎたため、朝廷から疑われ、一〇五六年には枢密正使を免職されて陳州長官され、その後も朝廷の監視を受けて翌年に享年四十九で亡くなった。

・「濃智高」儂智高(のん づうご 一〇二五年~一〇五五年頃)は北宋の大暦国・南天国・大南国の反乱の指導者、チワン族の歴史における民族的英雄。一〇五三年に宋王朝から宋軍狄青部が派遣され、同じ年の春正月の夜中に、狄青は崑崙関(広西の邕寧区と賓陽県の境付近)を越え、邕州で儂智高の反乱軍と会戦し、大勝、儂智高は雲南特磨道(現在の雲南文山チワン族ミャオ族自治州)へと逃亡し、反乱は失敗した(ウィキの「儂智高」に拠る)。この老人の話の謂いはよく判らない。個人ブログ「きんくんの閑談」の「西郷隆盛(3)」によると、彼は『雲南の大理に逃れたとされ』、一〇五五年に『大理国王に殺され、その首が北宋の首都開封に送られてきたとされてい』ると記された上、また、『この戦いの際に、狄青が逃げる儂智高を追おうとする諸将に対し、深追いを避けさせたというのは有名な話ですが、この逸話は聞いたことがありません。史実とは異なる内容なので、俗説でしょうか、あるいは芥川の創作でしょうか』。『私も懐疑論者になってしまいそうです』とある。名前の漢字表記も異なり(異民族への当て字であるから、五月蠅く言う必要もないが)、芥川龍之介はルビも振っていないので、「のうちかう(のうちこう)」と読んでいる可能性が高いか。筑摩全集類聚版は『のんちかう』と振る。悩ましい。

・「誣いて」「しひて(しいて)」「強る」と同語源。事実を曲げて言って。作りごとを言って。

・「スケプテイツク」sceptic(主に英国で用いられる)・skeptic。懐疑主義者。

・「ピルロン」古代ギリシャのエリス出身の哲学者で史上最初の懐疑論者の元祖として知られるピュロン(ラテン文字転写:PyrrōnPyrrho 紀元前三六〇年頃~紀元前二七〇年頃)。ウィキの「ピュロンによれば、ピュロンはアレクサンドロス三世(大王)の『東征に随い、インドでは裸の哲学者たち、ペルシャではマギたちに学んだとされる。東洋哲学からみると、彼は孤独な生活を受け入れていたように映ったようである。エリスに戻ってからは貧困に生きたが、エリス人たちは彼を尊敬し、またアテネ人たちは彼に市民権を授与した。彼の思想は主に、弟子のプリウスのティモン(Timon of Phlius)による風刺文学によって知られている』。『ピュロンの思想は不可知論』「Acatalepsy」(アッカタレプシイ)『という一言で言い表すことができる。不可知論とは、事物の本性を知ることができない、という主張である。あらゆる言明に対して、同じ理由付けをもってその逆を主張することができる。そのように考えるならば、知性的に一時停止しなければならない、あるいはティモンの言を借りれば、いかなる断定も異なった断定に比べてより良い、ということはない、と言えるだろう。そしてこの結論は、生全体に対してあてはまる。それゆえピュロンは次のように結論付ける。すなわち、何事も知ることはできない、それゆえ唯一適当である態度は、アタラクシア(苦悩からの解放)である、と』。『ピュロンはまた、知者は次のように自問しなければならないと言う。第一は、どのような事物が、どのように構成されているのか。次に、どのように我々は事物と関係しているのか。最後に、どのように我々は事物と関係するべきか。ピュロンによれば、事物そのものを知覚することは不可能であって、事物は不可測であり、不確定であり、あれがこれより大きかったり、あれがこれと同一だったりすることはない、とされる。それゆえ、我々の感覚は真実も伝えず、嘘もつかない。それゆえ、我々はなにも知ることがない。我々は、事物が我々にどのように現れてくるか、ということを知るだけなのであり、事物の本性がいかなるものか、ということについては知ることがない』。『知識を得ることが不可能だということになれば、我々が無知だとか不確実だという点を考慮に入れても、人は無駄な想像をして議論を戦わせていらいらしたり』、『激情を抱いたりすることを避けるだろう。ピュロンによるこの知識が不可能だという主張は、思想史的には不可知論』「Agnosticism」(アグノッスティズム)『の先駆であり』、『また』、『その最も強い主張である。倫理学的には、ストア派やエピクロス主義の理想的な心の平安と比較される』。『重要な点であるが、懐疑論の定める基準によれば、ピュロンは厳密には懐疑論者ではない。そうではなく、彼はむしろ否定的ドグマ主義者』「negative dogmatist」』『であった。世界において事物がいかにあるか、という視点からみるならば』、『彼は「ドグマ主義者」であり、知識を否定するという面から見るならば彼のドグマは「否定的」なのである』。『ピュロンは紀元前』二七〇『年頃、懐疑論に束縛されるあまり、不運な死を遂げたと言われている。伝説によれば、彼は目隠しをしながら』、『弟子達に懐疑主義について説明しており、弟子達の、目前に崖があるという注意を懐疑したことにより』、『不意の死を迎えたと言われている。しかしこの伝説もまた疑われている』とある。

 なお、西郷の最期は、彼の介錯をして自害した薩摩藩士別府晋介のウィキによれば、『洞前に整列した』四十『余名は岩崎口へ進撃し、途中、銃弾で負傷した西郷が切腹を覚悟すると、晋介は駕籠から下り』(別府は足を負傷して歩行出来なかった)、『「御免なったもんし(お許しください)」と叫び、西郷を介錯し』、『その後、弾雨の中で自決した』。西郷は享年五十一(満四十九)、別府は三十一であった。

 本篇は初期の芥川龍之介の独自の歴史小説論の主張として甚だ面白い。

 因みに、私の父母は従兄妹同士でそれぞれに鹿児島で生きた者の血が混じり、従って私はハイブリッドで薩摩の「血気」を受けている人間である。されば、昨夜の西郷や桐野(享年四十)の死を、脚色とは思いつつも、六十一になってからに涙なくしては見れなかった。【二〇一八年十二月十七日。NHK大河ドラマ「西郷(せご)どん」の終わった翌日に――藪野直史】]

 

 西 鄕 隆 盛

     ──赤木桁平に與ふ──

 

 これは自分より二三年前に、大學の史學科を卒業した本間さんの話である。本間さんが維新史に關する、二三興味ある論文の著者だと云ふ事は、知つてゐる人も多いであらう。僕は昨年の冬鎌倉へ轉居する、丁度一週間ばかり前に、本間さんと一しよに飯を食ひに行つて、偶然この話を聞いた。

 それがどう云ふものか、この頃になつても、僕の頭を離れない。そこで僕は今、この話を書く事によつて、新小の編輯者に對する僕の寄稿の責を完うしようと思ふ。尤も後になつて聞けば、これは「本間さんの西鄕隆盛」と云つて、友人間には有名な話の一つださうである。して見ればこの話も或社會には存外もう知られてゐる事かも知れない。

 本間さんはこの話をした時に、「眞僞の判斷は聞く人の自由です」と云つた。本間さんさへ主張しないものを、僕は勿論主張する必要がない。まして讀者は唯、古い新聞の記事を讀むやうに、漫然と行を追つて、讀み下してさへくれれば、よいのである。

 

 ─────────────────―――

 

 彼是七八年も前にもならうか。丁度三月の下旬で、もうそろそろ清水(きよみづ)の一重櫻が咲きさうな──と云つても、まだ霙(みぞれ)まじりの雨がふる、或寒さのきびしい夜の事である。當時大學の學生だつた本間さんは、午後九時何分かに京都を發した急行の上り列車の食堂で、白葡萄酒のコツプを前にしながら、ぼんやりMCCの煙をふかしてゐた。さつき米原を通り越したから、もう岐阜縣の境に近づいてゐるのに相違ない。硝子窓(がらすまど)から外を見ると、どこも一面にまつ暗である。時々小さい火の光りが流れるやうに通りすぎるが、それも遠くの家の明りだか、汽車の煙突から出る火花だか判然しない。その中で唯、窓をたたく、凍りかかつた雨の音が、騷々しい車輪の音に單調な響を交してゐる。

 本間さんは、一週間ばかり前から春期休暇を利用して、維新前後の史料を研究かたがた、獨りで京都へ遊びに來た。が、來て見ると、調べたい事もふえて來れば、行つて見たい所もいろいろある。そこで何かと忙しい思をしてゐる中(うち)に、何時か休暇も殘少なになつた。新學期の講義の始まるのにも、もうあまり時間はない。さう思ふと、いくら都踊りや保津川下りに未練があつても、便々と東山を眺めて、日を暮してゐるのは、氣が咎める。本間さんはとうとう思ひ切つて、雨が降るのに荷拵へが出來ると、俵屋の玄關から俥を驅つて、制服制帽の甲斐々々しい姿を、七條の停車場へ運ばせる事にした。

 所が乘つて見ると、二等列車の中は身動きも出來ない程こんでゐる。ボーイが心配してくれたので、やつと腰を下す空地は見つかつたが、それではどうも眠れさうもない。さうかと云つて寢臺は、勿論皆賣切れてゐる。本間さんは暫く、腰の廣さ十圍に餘る酒臭い陸軍將校と、眠りながら齒ぎしりをするどこかの令夫人との間にはさまつて、出來るだけ肩をすぼめながら、靑年らしい、とりとめのない空想に耽つてゐた。が、その中に追々空想も種切れになつてしまふ。それから隣(きやうりん)の壓迫も、次第に甚しくなつて來るらしい。そこで本間さんは已むを得ず、立つた後(あと)の空地へ制帽を置いて、一つ前に連結してある食堂車の中へ避難した。

 食堂車の中はがらんとして、客はたつた一人しかゐない。本間さんはそれから一番遠いテエブルへ行つて、白葡萄酒を一杯云ひつけた。實は酒を飮みたい譯でも何でもない。唯、眠くなるまでの時間さへ、つぶす事が出來ればいいのである。だから無愛想なウエエタアが琥珀のやうな酒の杯を、彼の前へ置いて行つた後でも、それにはちよいと唇を觸れたばかりで、すぐにMCCへ火をつけた。煙草の煙は小さな靑い輪を重ねて、明い電燈の光の中へ、悠々とのぼつて行く。本間さんはテエブルの下に長々と足をのばしながら、始めて樂に息がつけるやうな心もちになつた。

 が、體だけはくつろいでも、氣分は妙に沈んでゐる。何だかかうして坐つてゐると、硝子戸の外のくら暗が、急にこつちへはいつて來さうな氣がしないでもない。或は白いテエブル・クロオスの上に、行儀よく並んでゐる皿やコツプが、汽車の進行する方向へ、一時に辷り出しさうな心もちもする。それがはげしい雨の音と共に、次第に重苦しく心をおさへ始めた時、本間さんは物に脅されたやうな眼をあげて、われ知らず食堂車の中を見まはした。鏡をはめこんだカツプ・ボオド、動きながら燃えてゐる幾つかの電燈、菜の花をさした硝子の花瓶、──そんな物が、いずれも耳に聞えない聲を出して、ひしめいてでもゐるやうに、慌しく眼にはいつて來る。が、それらのすべてよりも本間さんの注意を惹いたものは、向うのテエブルに肘(ひぢ)をついて、ウイスキイらしい杯を嘗めてゐる、たつた一人の客であつた。

 客は斑白(はんぱく)の老紳士で、血色のいい兩頰には、聊(いさゝか)西洋人じみた疎な髯を貯へてゐる。これはつんと尖つた鼻の先へ、鐵緣の鼻眼鏡をかけたので、殊にさう云ふ感じを深くさせた。着てゐるのは黑の背廣であるが、遠方から一見した所でも、決して上等な洋服ではないらしい。──その老紳士が、本間さんと同時に眼をあげて、見るともなくこつちへ眼をやつた。本間さんはその時、心の中で思はず「おや」と云ふかすかな叫び聲を發したのである。

 それは何故かと云ふと、本間さんにはその老紳士の顏が、どこかで一度見た事があるやうに思はれた。尤も實際の顏を見たのだか、寫眞で見たのだか、その邊ははつきりわからない。が、見た覺えは確にある。そこで本間さんは、慌しく頭の中で、知つてゐる人の名前を點檢した。

 すると、まだその點檢がすまない中に、老紳士はつと立上つて、車の動搖に抵抗しながら、大股に本間さんの前へ步みよつた。さうしてそのテエブルの向うへ、無造作に腰を下すと、壯年のやうな大きな聲を出して、「やあ失敬」と聲をかけた。

 本間さんは何だかわからないが、年長者の手前、意味のない微笑を浮べながら、鷹揚に一寸頭を下げた。

 「君は僕を知つてゐますか。なに知つてゐない? 知つてゐなければ、ゐなくつてもよろしい。君は大學の學生でせう。しかも文科大學だ。僕も君も似たやうな商賣をしてゐる人間です。事によると、同業組合の一人かも知れない。何です、君の專門は?」

 「史學科です。」

 「ははあ、史學。君もドクタア・ジヨンソンに輕蔑される一人ですね。ジヨンソン曰、歷史家は almanac-maker にすぎない。」

 老紳士はかう云つて、頸を後へ反らせながら、大きな聲を出して笑ひ出した。もう大分醉がまはつてゐるのであらう。本間さんは返事をしずに、唯にやにやほほ笑みながら、その間に相手の身のまはりを注意深く觀察した。老紳士は低い折襟に、黑いネクタイをして、所々すりきれたチヨツキの胸に太い時計の銀鎖を、物々しくぶらさげてゐる。が、この服裝のみすぼらしいのは、決して貧乏でさうしてゐるのではないらしい。その證據には襟でもシヤツの袖口でも、皆新しい白い色を、つめたく肉の上へ硬(こは)ばらしてゐる。恐らく學者とか何とか云ふ階級に屬する人なので、完く身なりなどには無頓着なのであらう。

 「アルマナツク・メエカア。正にそれにちがひない。いや僕の考へる所では、それさへ甚(はなはだ)疑問ですね。しかしそんな事は、どうでもよろしい。それより君の特に硏究しようとしてゐるのは、何ですか。」

 「維新史です。」

 「すると卒業論文の題目も、やはりその範圍内にある譯ですね。」

 本間さんは何だか、口頭試驗でもうけてゐるやうな心もちになつた。この相手の口吻には、妙に人を追窮するやうな所があつて、それが結局自分を飛んでもない所へ陷れさうな豫感が、この時ぼんやりながらしたからである。そこで本間さんは思ひ出したやうに、白葡萄酒の杯をとりあげながら、わざと簡單に「西南戰爭を問題にするつもりです」と、かう答へた。

 すると老紳士は、自分も急に口(くち)ざみしくなつたと見えて、體を半分後の方へ扭(ね)ぢまげると、怒鳴りつけるやうな聲を出して、「おい、ウイスキイを一杯」と命令した。さうしてそれが來るのを待つまでもなく、本間さんの方へ向き直つて、鼻眼鏡の後に一種の嘲笑の色を浮べながら、こんな事をしやべり出した。

 「西南戰爭ですか。それは面白い。僕も叔父があの時賊軍に加はつて、討死をしたから、そんな興味で少しは事實の穿鑿をやつて見た事がある。君はどう云ふ史料に從つて、硏究されるか、知らないが、あの戰爭に就いては隨分誤傳が澤山あつて、しかもその誤傳が又立派に精確な史料で通つてゐます。だから餘程史料の取捨を愼まないと、思ひもよらない誤謬(ごびう)を犯すやうな事になる。君も第一に先、そこへ氣をつけた方が好いでせう。」

 本間さんは向うの態度や口ぶりから推して、どうもこの忠告も感謝して然る可きものか、どうか判然(はつきり)しないやうな氣がしたから、白葡萄酒を嘗め嘗め、「ええ」とか何とか、至極曖昧な返事をした。が、老紳士は少しも、こつちの返事などには、注意しない。折からウエエタアが持つて來たウイスキイで、ちよいと喉を沾すと、ポツケツトから瀨物のパイプを出して、それへ煙草をつめながら、

 「尤も氣をつけても、あぶないかも知れない。こう申すと失禮のやうだが、それ程あの戰爭の史料には、怪しいものが、多いのですね。」

 「さうでせうか。」

 老紳士は默つて頷きながら、燐寸(まつち)をすつてパイプに火をつけた。西洋人じみた顏が、下から赤い火に照らされると、濃い煙が疎な鬚をかすめて、埃及の匂をぷんとさせる。本間さんはそれを見ると何故か急にこの老紳士が、小面憎く感じ出した。醉つてゐるのは勿論、承知してゐる。が、いい加減な駄法螺(だぼら)を聞かせられて、それで默つて恐れ入つては、制服の金釦に對しても、面目が立たない。

 「しかし私には、それ程特に警戒する必要があるとは思はれませんが──あなたはどう云ふ理由で、さうお考へなのですか。」

 「理由? 理由はないが、事實がある。僕は唯西南戰爭の史料を一々綿密に調べて見た。さうしてその中(かな)から、多くの誤傳を發見した。それだけです。が、それだけでも、十分さう云はれはしないですか。」

 「それは勿論、さう云はれます。では一つ、その御發見になつた事實を伺ひたいものですね。私なぞにも大に參考になりさうですから。」

 老紳士はパイプを啣へた儘、暫く口を噤んだ。さうして眼を硝子窓の外へやりながら、妙にちよいと顏をしかめた。その眼の前を橫ぎつて、數人の旅客の佇んでゐる停車場が、くら暗(やみ)と雨との中をうす明く飛びすぎる。本間さんは向うの氣色(きしよく)を窺ひながら、腹の中(なか)でざまを見ろと呟きたくなつた。

 「政治上の差障りさへなければ、僕も喜んで話しますが──萬一秘密の洩れた事が、山縣公にでも知れて見給へ。それこそ僕一人の迷惑ではありませんからね。」

 老紳士は考へ考へ、徐にかう云つた。それから鼻眼鏡の位置を變へて、本間さんの顏を探るやうな眼で眺めたが、そこに浮んでゐる侮蔑の表情が、早くもその眼に映つたのであらう。殘つてゐるウイスキイを勢よく、ぐいと飮み干すと、急に鬚だらけの顏を近づけて、本間さんの耳もとへ酒臭い口を寄せながら、殆ど嚙みつきでもしさうな調子で、囁いた。

 「もし君が他言しないと云ふ約束さへすれば、その中の一つ位(ぐらい[やぶちゃん注:「い」はママ。])は洩らしてあげませう。」

 今度は本間さんの方で顏をしかめた。こいつは氣違ひかも知れないと云ふ氣が、その時突嗟(とつさ)に頭をかすめたからである。が、それと同時に、ここ迄追窮して置きながら、見す見すその事實なるものを逸してしまふのが、惜しいやうな心もちもした。そこへ又、これ位な嚇しに乘せられて、尻込みするやうな自分ではないと云ふ、小供じみた負けぬ氣も、幾分かは働いたのであらう。本間さんは短くなつたMCCを、灰皿の中へ抛りこみながら、頸をまつすぐにのばして、はつきりとかう云つた。

 「では他言しませんから、その事實と云ふのを伺はせて下さい。」

 「よろしい。」

 老紳士は一しきり濃い煙をパイプからあげながら、小さな眼でぢつと本間さんの顏を見た。今まで氣がつかずにゐたが、これは氣違ひの眼ではない。そうかと云つて、世間一般の平凡な眼とも違ふ。聰明な、それでゐてやさしみのある、始終何かに微笑を送つてゐるやうな、朗然とした眼である。本間さんは默つて相手と向ひ合ひながら、この眼と向うの言動との間にある、不思議な矛盾を感ぜずにはゐられなかつた。が、勿論老紳士は少しもそんな事には氣がつかない。靑い煙草の煙が、鼻眼鏡を繞つて消えてしまふと、その煙の行方を見送るやうに、靜に眼を本間さんから離して、遠い空間へ漂せながら、頭を稍後へ反らせて殆獨り呟くやうに、こんな途方もない事を云ひ出した。

 「細かい事實の相違を擧げてゐては、際限がない。だから一番大きな誤傳を話しませう。それは西鄕隆盛が、城山の戰では死ななかつたと云ふ事です。」

 これを聞くと本間さんは、急に笑ひがこみ上げて來た。そこでその笑を紛(まぎら)せる爲に新しいMCCへ火をつけながら、いて眞面目な聲を出して、「さうですか」と調子を合せた。もうその先を尋(き)きたゞすまでもない。あらゆる正確な史料が認めてゐる西鄕隆盛の城山戰死を、無造作に誤傳の中へ數へようとする──それだけで、この老人の所謂事實も、略(ほゞ)正體が分つてゐる。成程これは氣違ひでも何でもない。唯、義經と鐵木眞(てむじん)とを同一人にしたり、秀吉を御落胤にしたりする、無邪氣な田舍翁の一人だつたのである。かう思つた本間さんは、可笑(をか)しさと腹立たしさと、それから一種の失望とを同時に心の中で感じながら、この上は出來る丈早く、老人との問答を切り上げようと決心した。

 「しかもあの時、城山で死ななかつたばかりではない。西鄕隆盛は今日までも生きてゐます。」

 老紳士はかう云つて、寧ろ昂然と本間さんを一瞥した。本間さんがこれにも、「ははあ」と云ふ氣のない返事で應じた事は、勿論である。すると相手は、嘲るやうな微笑をちらりと唇頭に浮べながら、今度は靜な口ぶりで、わざとらしく問ひかけた。

 「君は僕の云ふ事を信ぜられない。いや辯解しなくつても、信ぜられないと云ふ事はわかつてゐる。しかし──しかしですね。何故君は西鄕隆盛が、今日まで生きてゐると云ふ事を疑はれるのですか。」

 「あなたは御自分でも西南戰爭に興味を御持ちになつて、事實の穿鑿をなすつたさうですが、それならこんな事は、恐らく私から申上げるまでもないのでせう。が、さう御尋ねになる以上は、私も知つてゐるだけの事は、申上げたいと思ひます。」

 本間さんは先方の惡く落着いた態度が忌々しくなつたのと、それから一刀兩斷に早くこの喜劇の結末をつけたいのとで、大人氣ないと思ひながら、かう云ふ前置きをして置いて、口早やに城山戰死を辯じ出した。僕はそれを今、詳しくここへ書く必要はない。唯、本間さんの議論が、いつもの通り引證(いんしやう)の正確な、如何にも論理の徹底してゐる、決定的なものだつたと云ふ事を書きさへすれば、それでもう十分である。が、瀨物のパイプを啣(くわ)へた儘、煙を吹き吹き、その議論に耳を傾けてゐた老紳士は、一向辟易したらしい氣色を現さない。鐵緣(てつぶち)の鼻眼鏡の後には、不相變小さな眼が、柔(やはらかな)な光をたたへながら、アイロニカルな微笑を浮べてゐる。その眼が又、妙に本間さんの論鋒を鈍らせた。

 「成程、或假定の上に立つて云へば、君のは正しいでせう。」

 本間さんの議論が一段落を告げると、老人は悠然とかう云つた。

 「さうしてその假定と云ふのは、今君が擧げた加治木(かぢき)常樹城山籠城調査筆記とか、市來(いちき)四郞日記とか云ふものゝ記事を、間違のない事實だとする事です。だからさう云ふ史料は始めから否定してゐる僕にとつては、折角の君の名論も、徹頭徹尾ノン・センスと云ふより外はない。まあ待ち給へ。それは君はさう云ふ史料の正確な事を、いろいろの方面から辯護する事が出來るでせう。しかし僕はあらゆる辯護を超越した、確かな實證を持つてゐる。君はそれを何だと思ひますか。」

 本間さんは、聊か煙に捲かれて、ちよいと返事に躊躇した。

 「それは西鄕隆盛が僕と一しよに、今この汽車に乘つてゐると云ふ事です。」

 老紳士は殆嚴肅に近い調子で、のしかゝるやうに云ひ切つた。日頃から物に騷がない本間さんが、流石に愕然としたのはこの時である。が、理性は一度脅されても、この位な事でその權威を失墜しはしない。思はず、MCCの手を口からはなした本間さんは、又その煙をゆつくり吸ひかへしながら、怪しいと云ふ眼つきをして、無言の儘、相手のつんと高い鼻のあたりを眺めた。

 「かう云ふ事實に比べたら、君の史料の如きは何ですか。すべてが一片の故紙(こし)に過ぎなくなつてしまうでせう。西鄕隆盛は城山で死ななかつた。其證據には、今此上り急行列車の一等室に乘り合せてゐる。此位確な事實はありますまい。それとも、やはり君は生きてゐる人間より、紙に書いた文字の方を信賴しますか。」

 「さあ──生きてゐると云つても、私が見たのでなければ、信じられません。」

 「見たのでなければ?」

 老紳士は傲然とした調子で、本間さんの語を繰返した。さうして徐にパイプの灰をはたき出した。

 「さうです。見たのでなければ。」

 本間さんは又勢を盛返して、わざと冷かに前の疑問をつきつけた。が、老人にとつては、この疑問も、格別、重大な効果を與へなかつたらしい。彼はそれを聞くと依然として傲慢な態度を持しながら、故らに肩を聳かせて見せた。

 「同じ汽車に乘つてゐるのだから、君さへ見ようと云へば、今でも見られます。尤も南洲先生はもう眠てしまつたかも知れないが、なにこの一つ前の一等室だから、無駄足をしても大した損ではない。」

 老紳士はかう云ふと、瀨物のパイプをポケツトへしまひながら、眼で本間さんに「來給へ」と云ふ相圖をして、大儀さうに立ち上つた。かうなつては、本間さん兎に角一しよに、立たざるを得ない。そこでMCCを啣へた儘、兩手をズボンのポケツトに入れて、不承不承に席を離れた。さうして蹌踉(さうろう)たる老紳士の後から、二列に並んでゐるテエブルの間を、大股に戸口の方へ步いて行つた。後には唯、白葡萄酒のコツプとウイスキイのコツプとが、白いテエブル・クロオスの上へ、うすい半透明な影を落して、列車を襲ひかゝる雨の音の中に、寂しくその影をふるはせてゐる。

 

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 それから十分ばかりたつた後(あと)の事である。白葡萄酒のコツプとウイスキイのコツプとは、再(ふたゝび)無愛想なウエエタアの手で、琥珀色の液體がその中に充(みた)された。いや、そればかりではない。二つのコツプを圍んでは、鼻眼鏡をかけた老紳士と、大學の制服を着た本間さんとが、又前のやうに腰を下してゐる。その一つ向うのテエブルには、さつき二人と入れちがひにはいつて來た、着流しの肥つた男と、藝者らしい女とが、これは海老のフライか何かを突(つゝ)ついてでもゐるらしい。滑かな上方辯(かみがたべん)の會話が、纏綿として進行する間に、かちやかちや云ふフオオクの音が、しきりなく耳にはいつて來た。

 が、幸(さいはひ)本間さんには、少しもそれが氣にならない。何故かと云ふと、本間さんの頭には、今見て來た驚くべき光景が、一ぱいになつて擴がつてゐる。一等室の鶯茶がかつた腰掛と、同じ色の窓帷と、さうしてその間に居睡(ゐねむ)りをしてゐる、山のやうな白頭(はくとう)の肥大漢(ひだいかん)と、──あゝ、その堂々たる相貌に、南洲先生の風骨(ふうこつ)を認めたのは果して自分の見ちがひであつたらうか。あすこの電燈は、氣のせいか、ここよりも明くない。が、あの特色のある眼もとや口もとは、側へ寄るまでもなくよく見えた。さうしてそれはどうしても、子供の時から見慣れてゐる西鄕隆盛の顏であつた。……

 「どうですね。これでもまだ、君は城山戰死を主張しますか。」

 老紳士は赤くなつた顏に、晴々した微笑を浮べて、本間さんの答を促した。

 「…………」

 本間さんは當惑した。自分はどちらを信ずればよいのであらう。萬人に正確だと認められてゐる無數の史料か、或は今見て來た魁偉な老紳士か。前者を疑ふのが自分の頭を疑ふのなら、後者を疑ふのは自分の眼を疑ふのである。本間さんが當惑したのは、少しも偶然ではない。

 「君は今(いま)現(げん)に、南洲先生を眼のあたりに見ながら、しかも猶(なほ)史料を信じたがつてゐる。」

 老紳士はウイスキイの杯を取り上げ乍ら、講義でもするやうな調子で語を次いだ。

 「しかし、一體君の信じたがつてゐる史料とは何か、それから先考へて見給へ。城山戰死は暫く問題外にしても、凡そ歷史上の判斷を下すに足る程、正確な史料などと云ふものは、どこにだつてありはしないです。誰でも或事實の記錄をするには自然と自分でデイテエルの取捨選擇をしながら、書いてゆく。これはしないつもりでも、事實としてするのだから仕方がない。と云ふ意味は、それだけもう客觀的の事實から遠ざかると云ふ事です。さうでせう。だから一見當(あて)になりさうで、實は甚當にならない。ウオルタア・ラレエが一旦起した世界史の稿を廢した話なぞは、よくこの間(かん)の消息を語つてゐる。あれは君も知つてゐるでせう。實際我々には目前の事さへわからない。」

 本間さんは實を云ふと、そんな事は少しも知らなかつた。が、默つてゐる中に、老紳士の方で知つてゐるものときめてしまつたらしい。

 「そこで城山戰死だが、あの記


唐ノしても、疑ひを挾む餘地は澤山ある。成程西鄕隆盛が明治十年九月二十四日に、城山の戰(たゝかひ)で、死んだと云ふ事だけはどの史料も一致してゐませう。しかしそれは唯、西鄕隆盛と信ぜられる人間が、死んだと云ふのにすぎないのです。その人間が實際西鄕隆盛かどうかは、自ら又問題が違つて來る。ましてその首や首のない屍體を發見した事實になると、さつきも君が云つた通り、異も決して少くない。そこも疑へば、疑へる筈です。一方さう云ふ疑ひがある所へ、君は今この汽車の中で西鄕隆盛──と云ひたくなければ、少くとも西鄕隆盛に酷似してゐる人間に遇つた。それでも君には史料なるものの方が信ぜられますか。」

 「しかしですね。西鄕隆盛の屍體は確かにあつたのでせう。さうすると──」

 「似てゐる人間は、天下にいくらもゐます。右腕に古い刀創があるとか何とか云ふのも一人に限つた事ではない。君は狄靑が濃智高の屍(し)を檢(けん)した話を知つてゐますか。」

 本間さんは今度は正直に知らないと白狀した。實はさつきから、相手の妙な論理と、いろいろな事をよく知つてゐるのとに、惱まされて、追々この鼻眼鏡の前に一種の敬意に似たものを感じかかつてゐたのである。老紳士はその間にポツケツトから、又例の瀨物のパイプを出して、ゆつくり埃及(えぢぷと)の煙をくゆらせながら、

 「狄靑(てきせい)が五十里を追うて、大理に入つた時、敵の屍體を見ると、中に金龍(きんりう)の衣を着てゐるものがある。衆は皆これを智高だと云つたが、狄靑は獨り聞かなかつた。『安(いづく)んぞその詐(いつはり)にあらざるを知らんや。寧ろ智高を失ふとも、敢(あへ)て朝廷を誣いて功を貪らじ』これは道德的に立派なばかりではない。眞理に對する態度としても、望ましい語(ことば)でせう。所が遺憾ながら、西南戰爭當時、官軍を指揮した諸將軍は、これ程周密な思慮を缺いてゐた。そこで歷史までも『かも知れぬ』を『である』に置き換つてしまつたのです。」

 愈(いよいよ)どうにも口が出せなくなつた本間さんは、そこで苦しまぎれに、小供らしい最後の反駁を試みた。

 「しかし、そんなによく似てゐる人間がゐるでせうか。」

 すると老紳士は、どう云ふ譯か、急に瀨物のパイプを口から離して、煙草の煙にむせながら、大きな聲で笑ひ出した。その聲があまり大きかつたせいか、向うのテエブルにゐた藝者がわざわざふり返つて、怪訝な顏をしながら、こつちを見た。が、老紳士は容易に、笑ひやまない。片手に鼻眼鏡が落ちさうになるのをおさへながら、片手に火のついたパイプを持つて、咽を鳴らし鳴らし、笑つてゐる。本間さんは何だか譯がわからないので、白葡萄酒の杯を前に置いた儘、茫然と唯、相手の顏を眺めてゐた。

 「それはゐます。」老人は暫くしてから、やつと息をつきながら、かう云つた。

 「今君が向うで居眠りをしてゐるのを見たでせう。あの男なぞは、あんなによく西鄕隆盛に似てゐるではないですか。」

 「ではあれは──あの人は何なのです。」

 「あれですか。あれは僕の友人ですよ。本職は醫者で、傍[やぶちゃん注:「かたはら」。]南畫を描く男ですが。」

 「西鄕隆盛ではないのですね。」

 本間さんは眞面目な聲でかう云つて、それから急に顏を赤らめた。今まで自分のつとめてゐた滑稽な役まはりが、この時忽然として新しい光に、照される事になつたからである。

 「もし氣に障つたら、勘忍し給へ。僕は君と話してゐる中(うち)に、あんまり君が靑年らしい正直な考を持つてゐたから、ちよいと惡戲をする氣になつたのです。しかしした事は惡戲(いたづら)でも、云つた事は冗談ではない。──僕はかう云ふ人間です。」

 老紳士はポケツトをさぐつて、一枚の名刺を本間さんの前へ出して見せた。名刺には肩書きも何も、刷つてはない。が、本間さんはそれを見て、始めて、この老紳士の顏をどこで見たか、やつと思ひ出す事が出來たのである。──老紳士は本間さんの顏を眺めながら、滿足さうに微笑した。

 「先生とは實際夢にも思ひませんでした。私こそいろいろ失禮な事を申し上げて、恐縮です。」

 「いやさつきの城山戰死なぞは、中々傑作だつた。君の卒業論文もああ云ふ調子なら面白いものが出來るでせう。僕の方の大學にも、今年は一人維新史を專攻した學生がゐる。──まあそんな事より、大[やぶちゃん注:「おほいに」。]に一つ飮み給へ。」

 霙まじりの雨も、小止みになつたと見えて、もう窓に音がしなくなつた。女連れの客が立つた後(あと)には、硝子の花瓶にさした菜の花ばかりが、冴え返る食堂車の中にかすかな匂を漂はせてゐる。本間さんは白葡萄酒の杯を勢よく飮み干すと、色の出た頰をおさへながら、突然、

 「先生はスケプテイツクですね。」と云つた。

 老紳士は鼻眼鏡の後から、眼でちよいと頷いた。あの始終何かに微笑を送つてゐるやうな朗然とした眼で頷いたのである。

 「僕はピルロンの弟子で澤山だ。我々は何も知らない、いやさう云ふ我々自身の事さへも知らない。まして西鄕隆盛の生死をやです。だから、僕は歷史を書くにしても、噓のない歷史なぞを書かうとは思はない。唯如何にもありさうな、美しい歷史さへ書ければ、それで滿足する。僕は若い時に、小家にならうと思つた事があつた。なつたらやつぱり、さう云ふ小を書いてゐたでせう。或はその方が今よりよかつたかも知れない。兎に角僕はスケプテイツクで澤山だ。君はさう思はないですか。」

            (六・十二・十五)

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