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2018/12/27

佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 六五~六八 貞任伝承

 

六五 早地峯(ハヤチネ)は御影石(ミカゲイシ)の山なり。此山の小國に向(ム)きたる側(カハ)に阿倍ケ城(アベガジヤウ)と云ふ岩あり。險(ケハ)しき崖(ガケ)の中程にありて、人などはとても行き得べき處に非ず。こゝには今でも阿倍貞任の母住めりと言傳ふ。雨(アメ)の降(フ)るべき夕方など、岩屋(イハヤ)の扉(トビラ)を鎖(トザ)す音聞ゆと云ふ。小國、附馬牛(ツクモウシ)の人々は、阿倍ケ城の錠[やぶちゃん注:「ぢやう」。]の音がする、明日(アス)は雨ならんなど云ふ。

[やぶちゃん注:「ちくま文庫」版全集や現行の通行本は「阿倍」は総て「安倍」。後の条も同じい。但し、「六八」で引いた説明版から見ると、これらは「阿倍」「安倍」も誤りで「阿部」が正しいように読める。

「御影石(ミカゲイシ)」花崗岩(石英・雲母・長石などから成る深成岩)質の岩石(名は石材の産地の一つである神戸市の御影に由来)。但し、早池峰山(標高千九百十七メートル)は全山が花崗岩ではない超塩基性岩の橄欖岩や蛇紋岩で出来ているので誤りである。注の中には霊山として佐々木がこう表現したかったのではないか言われているなどとあるが、全く以って腑に落ちない。こういう根拠のない憶測注は頗る気に入らない。

「阿倍ケ城(アベガジヤウ)」現行は「安倍ヶ城」で、山の峰の名前。早池峰山の東方にある早池峰剣ヶ峰(けんがみね)の更に東方の尾根ののピーク(千五百八メートル。サイト「ヤマレコ」)。国土地理院図ではこの辺り。dostoev氏のブログ『不思議空間「遠野」-「遠野物語」をwebせよ!-』の『安倍ヶ城ヘの道』が、実際の踏破されて、写真も豊富でよい。岩の露頭が正に堅固な台形の山城のように見える。これを見ても明らかに蛇紋岩のそれである。蛇紋岩は表面に粘土性鉱物を含み、平滑になっている場合が多く、登山では滑落し易いから、ここが一種の魔所として人が近づかなかったことは腑に落ちる。後の条に見る通り、遠野や早池峰山には貞任の伝承が多いが、貞任が敗れて討たれたのは、安倍氏の最大の拠点であった厨川柵(くりやがわのさく)で、岩手県盛岡市の西にあったとされ、早池峰から近いとは言える。

「安倍貞任の母」「前九年の役」(永承六(一〇五一)年~康平五(一〇六二)年で父安倍頼時(?~天喜五(一〇五七)年)とともに知られる安倍貞任(寛仁三(一〇一九)年?~康平五(一〇六二)年)は頼時の次男であり、その母は不詳である。彼女が「今でも」そこに住んでいるというのは恐るべき伝承で、息子の貞任の没年から数えても、紋書刊行の明治四三(一九一〇)年は実に八百四十八年である。「遠野物語」では早池峰山の神を一貫して女神としており、東北の地を独自に守ろうとした貞任の、その母が東の峰筋を守る神となっているというのは腑には落ちる。しかし、不詳の母がここまで具体に伝承されているのは、そこに失われた別な彼女の話柄がかつては存在したことを意味しているように思われてならない。

「雨(アメ)の降(フ)るべき」雨の降りそうな。]

 

六六 同じ山の附馬牛よりの登り口にも亦阿倍屋敷(アベヤシキ)と云ふ巖窟あり。兎に角早地峯は安倍貞任にゆかりある山なり。小國より登る山口にも八幡太郞[やぶちゃん注:源義家。]の家來(ケラ)の討死(ウチジニ)したるを埋めたりと云ふ塚三つばかりあり。

 

六七 阿倍貞任に關する傳は此外にも多し。土淵村と昔は橋野[やぶちゃん注:「はしの」。]と云ひし栗橋村との境にて、山口よりは二三里も登りたる山中に、廣く平(タヒラ)なる原あり。其あたりの地名に貞任と云ふ所あり。沼ありて貞任が馬を冷(ヒヤ)せし所なりと云ふ。貞任が陣屋(ヂンヤ)を構へし址(アト)とも言ひ傳ふ。景色(ケシキ)よき所にて東海岸よく見ゆ。

 

六八 土淵村には阿倍氏と云ふ家ありて貞任が末なりと云ふ。昔は榮えたる家なり。今も屋敷の周圍には堀ありて水を通ず。刀劍馬具あまたあり。當主は安倍與右衞門、今も村にては二三等の物持にて、村會議員なり。安倍の子孫は此外にも多し。盛岡の阿倍館(アベダテ)の附近にもあり。厨川(クリヤガハ)の柵(シヤク[やぶちゃん注:ママ。方言か。])に近き家なり。土淵村の安倍家の四五町北、小烏瀨川(コガラセガハ)の河隈(カハクマ)に館(タテ)の址あり。八幡澤(ハチマンザ[やぶちゃん注:ママ。])の館(タテ)と云ふ。八幡太郞が陣屋と云ふもの是なり。これより遠野の町への路には又八幡山と云ふ山ありて、其山の八幡澤の館の方に向へる峯にも亦一つの館址(タテアト)あり。貞任が陣屋なりと云ふ。二つの館の間二十餘町を隔つ。矢戰(ヤイクサ)をしたりと云ふ言傳へありて、矢の根を多く掘り出せしことあり。此間に似田貝(ニタカヒ)と云ふ部落あり。戰の當時此あたりは蘆しげりて土固まらず、ユキユキと動搖せり。或時八幡太郞こゝを通りしに、敵味方(テキミカタ)何れの兵糧(ヘウロウ)にや、粥を多く置きてあるを見て、これは煮た粥かと云ひしより村の名となる。似田貝の村の外を流るゝ小川を鳴川(ナルカハ)と云ふ。之を隔てゝ足洗川村(アシラガムラ[やぶちゃん注:ママ。])あり。鳴川にて義家が足を洗ひしより村の名となると云ふ。

【○ニタカイはアイヌ語のニタト卽ち濕地より出しなるべし地形よく合へり西の國々にてはニタともヌタともいふ皆これなり下閉伊郡小川村にも二田貝といふ字[やぶちゃん注:「あざ」。]あり】

[やぶちゃん注:KDサイト城館探訪記の「安倍屋敷 ~遠野の貞任伝説~に土塁や堀跡を撮影した現地踏査の画像がある。同所の説明版によれば(KD氏の電子化を参考に画像で確認して一部を訂した。ルビは概ね除去した)、

   *

 安倍(阿部)屋敷跡

『遠野物語』第六十八話に「安倍氏という家ありて貞任の末なりと云ふ。昔は栄えたる家なり。今も屋敷の周囲には堀ありて水を通ず。刀剣馬具あまたあり」と記されている。昔からこの地は屯館(とんだて)と呼ばれ、平安時代後期に北上川流域に勢力を誇った安倍氏の一族(貞任の弟・北浦六郎重任)が屋敷を構えたと伝えられている。現在も堀の跡などの遺構が残り、この地に続く阿部氏は安倍氏の転じたものと伝えられている。屋敷跡の東北にある稲荷社は、約四〇〇年前に安倍氏の養子となった人が甲州(山梨県)より勧請し氏神としたもので、近郷でも古い社の一つといわれている。明治の初め頃まで旧暦二月十五日の祭例日には「ダンビラケー(ダンビラ祭)」が行われていた。近隣の山伏を一堂に集めて、湯立(ゆだて)の儀式を行ない巫女(みこ)が笹を振りながら巫女舞を舞ったといわれる。近くにカッパ淵がある。

   *

とある。今一つの解説版もここと関わるので、同じ仕儀で電子化しておく。

   *

   阿部屋敷(別名 屯館(とんだて))

陸奥六郡に威勢を誇った安倍氏の一族が、天喜・康平のころ(紀元1050年ごろ)から構えた屋敷で、豪壮な直屋(すごや[やぶちゃん注:民家の平面形態の一形式。長方形の輪郭で、その周囲に突出部を持たないものを指す。])の母屋(おもや)には数十名の家族が住み、土塁と塀とでかこまれていました。八幡座館(はちまんざだて)の八幡太郎の軍と小烏瀬川を挟んで矢をうち合ったと伝わる的場(まとば)跡もあります。

   *]

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