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2018/12/19

佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 二四~三〇 家・山中の異人

 

二四 村々の舊家を大同と云ふは、大同元年に甲斐國より移り來たる家なればかく云ふとのことなり。大同は田村將軍征討の時代なり。甲斐は南部家の本國なり。二つの傳を混じたるに非ざるか。

【○大同は大洞かも知れず洞とは東北にて家門又は族といふことなり。常陸國志に例あり、ホラマヘと云ふ語のちに見ゆ】

[やぶちゃん注:「大同元年」八〇六年。延暦二十五年五月十八日(ユリウス暦八〇六年六月八日)に 改元。延暦二十五年三月十七日(八〇六年四月九日))に桓武天皇が薨去し、平城天皇が同日即位後、二ヶ月後、即座に改元した。『「日本後紀」は、「臣子の心、一年に二君あるにしのびず」と非難している』とウィキの「大同」にはある。また、ウィキの「観察使」によれば、『日本では、平安時代最初期の』延暦一六(七九七)『年頃、地方行政の遂行徹底を狙う桓武天皇により、地方官(国司)の行政実績を監査する勘解由使』(かげゆし)『が設置された。勘解由使は国司行政を厳正に監査し、地方行政の向上に一定の効果を上げていた』。『しかし』、この大同元年、『桓武天皇が崩御すると、後継した平城天皇は政治の刷新を掲げ、同年』六『月、その一環として勘解由使を廃止し、新たに観察使を置いた。観察使は当初、東山道を除く六道(東海道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道)ごとに設置され、六道観察使とも呼ばれた。また、観察使は議政官の一員である参議が兼任することとされていた。観察使は、参議に比肩しうる重要な官職だった』。翌大同二年には『東山道および畿内にも観察使が置かれた。併せて、参議を廃止して観察使のみとした。観察使による地方行政の監察は、精力的に実施されていたようで、『日本後紀』には、各観察使が民衆の負担を軽減するため、様々な措置を執っていたことが記録されている』とある。当時の陸奥国は既に蝦夷(えみし)との長い戦争状態が続いていた。

「田村將軍」大納言正三位兼右近衛大将兵部卿坂上田村麻呂(天平宝字二(七五八)年~弘仁二(八一一)年)のこと。ウィキの「坂上田村麻呂」によれば、『若年の頃から陸奥国では蝦夷との戦争が激化しており(蝦夷征討)』延暦八(七八九)年には『紀古佐美の率いる官軍が阿弖流為の率いる蝦夷軍に大敗した。田村麻呂はその次の征討軍の準備に加わり』、延暦一一(七九二)年に『大伴弟麻呂を補佐する征東副使に任じられ』、翌年、』『軍を進発させた。この戦役については『類聚国史』に「征東副将軍坂上大宿禰田村麿已下蝦夷を征す」とだけあり、田村麻呂は』四『人の副使(副将軍)の』一『人ながら』、『中心的な役割を果たしたとされる』。延暦一五(七九六)年一月に『陸奥出羽按察使兼陸奥守に任命され』、十月に『鎮守将軍も兼任すると』、翌年十一月五日、『桓武天皇により征夷大将軍に任じられ、東北全般の行政を指揮する官職を全て合わせた』。延暦二〇(八〇一)年二月十四日、『節刀を賜って』、四『万の軍勢』、五『人の軍監』と三十二『人の軍曹を率いて平安京より出征。記録に乏しいが『日本略記』には』、九月二十七日に『「征夷大将軍坂上宿禰田村麿等言ふ。臣聞く、云々、夷賊を討伏す」とのみあり、討伏という表現を用いて蝦夷征討の成功を報じている』とある。ウィキの「蝦夷征討」には、この時、『蝦夷の指導者阿弖流為は生存していたが、いったん帰京してから翌年、確保した地域に胆沢』(いさわ)『城を築くために陸奥国に戻っていることから、優勢な戦況を背景に停戦したものと見られている。『日本紀略』には、同年の報告として、大墓公阿弖流為(アテルイ)と盤具公母礼(モレ)が五百余人を率いて降伏したこと、田村麻呂が』二『人を助命し』、『仲間を降伏させるよう提言したこと、群臣が反対し』、『阿弖流為と母礼が河内国で処刑されたことが記録されている。また、この』時、現在の岩手県の『閉伊』(へい)『村まで平定されたことが『日本後紀』に記されている』とある。この時の征討軍の中に甲斐出身の者がおり、現地観察の実務武人として遠野に在住し、定着したとしても、強ち不自然ではないようにも思われる。

「甲斐は南部家の本國なり」ウィキの「南部藩」によれば、甲斐国に『栄えた甲斐源氏の流れを汲んだ南部氏の始祖・南部光行』(永万元(一一六五)年?~嘉禎二(一二三六)年?)『が、平泉の奥州藤原氏征討の功で現在の青森県八戸市に上陸し、現在の南部町(青森県)相内地区に宿をとった。その後、奥州南部家の最初の城である平良崎城』『を築いた。後に現在の青森県三戸町に三戸城を築城し』、『移転している』。『鎌倉時代に源頼朝に出仕して以来』、七百『年間も同じ土地を領有し続けた大名は、薩摩の島津家と南部家の』二『家のみである』とある

「常陸國志」水戸徳川家二代藩主徳川光圀が家臣小宅生順(おやけせいじゅん)に命じて編纂させた「常陸国風土記」の増補本「古今類聚常陸国誌」のことか。

 

二五 大同の祖先たちが、始めて此地方に到著せしは、恰も歳の暮にて、春のいそぎの門松を、まだ片方(カタハウ)はえ立てぬうちに早元日になりたればとて、今も此家々にては吉例として門松の片方を地に伏せたるまゝにて、標繩(シメナハ)を引き渡すとのことなり。

[やぶちゃん注:本条とは直接関わらないが、こうした個別の異例は実は多い。私の「甲子夜話卷之四 31 正月の門松、所々殊る事」を見られたい。]

 

二六 柏崎の田圃のうちと稱する阿倍氏は殊に聞えたる舊家なり。此家の先代に彫刻に巧なる人ありて、遠野一鄕の神佛の像には此人の作りたる者多し。

[やぶちゃん注:「田圃のうち」(「内・中」か。「田内」「田中」の原型である)の「阿倍氏」が呼称(屋号)なのである。こうした呼称は一般に同族同姓(同発音異字を含む)集団の多い村落での極めて当たり前の地名由来呼称である。かの安倍頼時・貞任父子の勢力下に遠野郷も含まれていたこと、帰順した蝦夷の中にも安倍氏がいたらしいこと等を考えると、「あべ」(阿部・阿倍・安部)姓が多くある可能性は合点が行く。但し、ウィキの「遠野物語」には、この『田中家の祖先は滝ノ上源右衛門という力士で、南部家の仲間となって盛岡にいた時に認められ、江戸で力士となった。大変強かったが、他の力士の妬みなどもあって家業を継ぐために帰郷したという』とあり、さらに、『田中家の当主は代々円吉を襲名し、二代目円吉も彫刻に長けていた』本条『の円吉は』文化十(一八一三)年『頃の生まれで』明治二六(一八九三)年に『亡くなった八代目で、土淵村本宿の石田家からの養子と考えられている』。『明治以前に常堅寺が京都から仏師を招いて十六羅漢や延命地蔵を作らせた際に仏像彫刻の技術を会得したという』。『この者の作品には土淵村山口にある薬師堂の十二神将、常堅寺の地蔵菩薩、早池峰神社の神門の随神像、田中家の薬師如来などがあり、常堅寺の仁王像移転にも関わっているという』。『田圃のうちの屋号を持つ田中家が』、『なぜ』、『安倍氏と名乗ったのか、その理由は明らかになっていない』とある。なお、以上の通り、ウィキでは「安倍」となっており、「六五」以降に語られる安倍貞任の伝承では、底本は総て「阿倍」となっているのに、現行の「ちくま文庫」版全集ではそちらは総て「安倍」になっている。この「阿倍」は或いは変え忘れた可能性が高いか。しかし、いろいろ調べて見ると、六五以下の土淵村の「あべ」姓は「阿倍」「安倍」でもなく「阿部」が正しいようであり、この「安倍」についても不審が残る。

 

二七 早地峯(ハヤチネ)より出でゝ東北の方宮古(ミヤコ)の海に流れ入る川を閉伊(ヘイ)川と云ふ。其流域は卽ち下閉伊郡なり。遠野の町の中にて今は池(イケ)の端(ハタ)と云ふ家の先代の主人、宮古に行きての歸るさ、此川の原臺(ハラダイ)の淵(フチ)と云ふあたりを通りしに、若き女ありて一封の手紙を托す。遠野の町の後なる物見山の中腹にある沼に行きて、手を叩けば宛名の人出で來るべしとなり。この人請け合ひはしたれども路々心に掛りてとつおいつせしに、一人の六部に行き逢へり。此手紙を開きよみて曰く、此を持ち行かば汝の身に大なる災あるべし。書き換へて取らすべしとて更に別の手紙を與へたり。これを持ちて沼に行き教への如く手を叩きしに、果して若き女出でゝ手紙を受け取り、其禮なりとて極めて小さき石臼を呉れたり。米を一粒入れて囘(マハ)せば下より黃金出づ。此寶物(タカラモノ)の力にてその家稍富有になりしに、妻なる者慾深くして、一度に澤山の米をつかみ入れしかば、石臼は頻に自ら囘りて、終には朝每に主人が此石臼に供えたりし水の、小さき窪みの中に溜りてありし中へ滑(スベ)り入りて見えずなりたり。その水溜りは後に小さき池になりて、今も家の旁(カタハラ)にあり。家の名を池の端と云ふも其爲なりと云ふ。

【○此話に似たる物語西洋にもあり偶合にや】

[やぶちゃん注:この話、読んでやや消化不良を起こす(しかしそうした不分明な辺りは、逆に本話が恣意的な創作物ではなく、正真正銘の民話である証明なのかも知れぬ)。まず、手紙の内容である。これは本邦の他の例を見るに、概ね、その内容は六部が「大」い「なる災」いと言っているように「手紙を持ってきた当該人物を生贄として与える、喰え」という内容であろうことは容易に推測はされる。しかし、六部は「書き換へて取らすべし」と言いながら、書き換えるのではなく、「更に別の手紙を」書いて「與」えている。ここでは別の筋を考え得る。則ち、六部の書き換えは確かに「池の端」「の先代の主人」を救い、しかも、その上に彼に不思議な黄金を産み出す臼を齎したわけだが、或いは「六部が見た手紙の内容には、実はそんな一粒一金を産み出す臼どころではない、もっともの凄い富裕か幸福を齎す何ものかが授けられることが記されていたのではないか?」という欲深い(言っとくが「私が」ではない)読みをも可能にするし、そう考える聡い聴き手もあったに違いない。確かに話はここで後半の急激に後の授かった不思議な臼の話に一気に移り、実際には聴き手はその打ち出の小槌のような現世利益に惹かれ、欲深の妻の失策による幸甚喪失の結末で深い溜息をつくばかりで、そこまで深読みはしないのであろうが、にしても、この話はテクストとしての延伸性、別な展開の可能性を意識的に孕ませてあるように思われる。それは不貪欲戒などという教訓性とは全く異なったレベルでの特異属性として、である。なお、この話、柳田國男は後の昭和九(一九三四)年刊の「一目小僧その他」の「橋姫」の冒頭でも採り上げている(「橋姫」の初出は大正七(一九一八)年一月『女學世界』)。『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 橋姫(1)』参照。

「とつおいつ」「取りつ置きつ」の音変化で、元は「手に取ったり、また、下に置いたりして」の意で、そこから心理的に転じて「考えが定まらず、あれこれと思い迷うさま」の言となった。

「六部」(ろくぶ)は「六十六部」の略。本来は全国六十六か所の霊場に一部ずつ納経するために書写された六十六部の「法華経」のことを指したが、後に専ら、その経を納めて諸国霊場を巡礼する行脚僧のことを指すようになった。別称「回国行者」とも称した。本邦独特のもので、その始まりは聖武天皇(在位:神亀元(七二四)年~天平勝宝元(七四九)年)の御代からとも、最澄(神護景雲元(七六七)年~弘仁一三(八二二)年)の法華経書写を始めとするとも、もっと後の鎌倉初期ともされて定かではない。恐らくは鎌倉末期に始まったもので、室町を経て、江戸時代に特に流行し、僧ばかりでなく、俗人もこれを行うようになった。男女とも鼠木綿の着物に同色の手甲・脚絆・甲掛(こうがけ:足の甲に掛けて日光や埃を避ける布)・股引をつけ、背に仏像を入れた厨子を背負って鉦(かね)や鈴を鳴らして米銭を請い歩いて諸国を巡礼した(ここまでは主に小学館「日本大百科全書」を参考にした)。後には巡礼姿で米銭を請い歩くのを目的とした乞食も、かく呼んだ。

「此話に似たる物語西洋にもあり」神山重彦氏の「物語要素事典」のこちらに、『★3.運び手に死をもたらす手紙』『を書き換える』というケースに本条を挙げる他に(一部の「見よ」注記型リンク部分を省略した)、

   《引用開始》

『魚と指輪』(イギリス昔話)  領主が、息子の妻になる運命を持つ娘を嫌い、「この手紙の持参人を殺せ」と記した手紙を、弟の所へ持って行かせる。途中で出会った盗賊たちが手紙を開いて気の毒に思い、「この手紙の持参人を我が息子と結婚させよ」と書き換える。

『ドイツ伝説集』(グリム)486「ハインリヒ三世帝の伝説」  コンラート帝が、「この手紙の持参人を殺せ」と記した手紙をハインリヒに持たせ、妃のもとへ送る。ハインリヒが旅の途中で泊まった宿の主が、好奇心から手紙を開封し、「この手紙の持参人に娘を添わせよ」と書き換える〔*『黄金(きん)の毛が三本はえてる鬼』(グリム)KHM29の前半部が、この伝説と類似した展開をする〕。

[やぶちゃん注:中略。ここに本条の梗概が入る。]

『沼の主のつかい』(昔話)  みぞうけ沼の主である女が、伊勢詣りに出かける百姓・孫四郎に手紙を託し、富士の裾野の高沼まで持って行かせる。途中で出会った六部がその手紙を開いて見ると、「この男を取って食え」と書いてあった。六部は手紙を、「この男に黄金の駒を与えよ」と書き換える。孫四郎は高沼の主から、黄金の駒をもらって無事に帰って来る。その駒は、1日に米1合食べて、黄金1粒をひり出すのだった(岩手県江刺郡)

『ハムレット』(シェイクスピア)第4~5幕  デンマークの王子ハムレットは、叔父王クローディアスの命令で、親書を携えイギリス王のもとへ向かう。船中でひそかに親書を開き見ると、「ハムレットの首をはねよ」と記してあった。ハムレットは、同行した叔父王の臣下、ローゼンクランツとギルデンスターンが処刑されるように、親書の内容を書き直す。

   《引用終了》

とあるが、柳田が想起したものが以上の洋物に相当するのかどうかは、分らぬ。或いは、柳田が似ていると言ったのは、例のイソップ寓話の中の知られた「ガチョウと黄金の卵」のことに過ぎないのかも知れない。なお、佐藤誠輔訳・小田富英注「遠野物語」(二〇一四年河出書房新社刊)の注には、 『遠野では、この話に、南部家以前の阿曾沼氏の滅亡にかかわる実話があると伝えられて』いるとして、『一六○○年、阿曾沼広長は、最上への出陣中に領内で反乱に』遇い、『遠野を追われ』たが、『広長の妻女が遠野から落ちのびる時に、物見山に軍資金を埋めたという話が伝わって』おり、ここに出る『「先代の主人」=孫四郎はその話を祖母から聞き、探索を続けた結果、ついに』その軍資金を『掘り当てて、急に裕福にな』った。しかし、『軍資金を探し当てたとなると』、『取り上げられてしまうので、このような話につくりかえられたと』言われている、とある。また、ネット上には現在も遠野市中央通りには池端家が信奉する石臼大明神の祠がある、ともあった。この軍資金の話、本当なのかどうかは私にもよく判らぬ。]

 

二八 始めて早地峯に山路をつけたるは、附馬牛[やぶちゃん注:既出。「つくもうし」。]村の何某と云ふ獵師にて、時は遠野の南部家入部(ニフブ)[やぶちゃん注:既注。鎌倉初期の甲斐の武将南部光行(永万元(一一六五)年?~嘉禎二(一二三六)年?)が奥州藤原氏征討による論功行賞の結果として入った。]の後のことなり。其頃までは土地の者一人として此山には入りたる者無かりし也。この獵師半分ばかり道を開きて、山の半腹に假小屋を作りて居りし頃、或日爐の上に餅を並べ燒きながら食ひ居りしに、小屋の外を通る者ありて頻に中を窺ふさまなり。よく見れば大なる坊主也。やがて小屋の中に入り來り、さも珍しげに餅の燒くるを見てありしが、終にこらへ兼ねて手をさし延べて取りて食ふ。獵師も恐ろしければ自らも亦取りて與へしに、嬉しげになほ食いたり。餅皆になりたれば歸りぬ[やぶちゃん注:「皆になる」は古語で「全部無くなる・尽きる」の意。]。次の日もまた來るならんと思ひ、餅によく似たる白き石を二つ三つ、餅にまじえて爐の上に載せ置きしに、燒けて火のやうになれり。案の如くその坊主けふも來て、餅を取りて食うこと昨日の如し。餅盡(つ)きて後其白石をも同じやうに口に入れたりしが、大に驚きて小屋を飛び出し姿見えずなれり。後に谷底にて此坊主の死してあるを見たりと云へり。

【○北上川の中古の大洪水に白髮水と云ふがあり白髮の姥を欺き餅に似たる燒石を食はせし祟なりと云ふ此話によく似たり】

[やぶちゃん注:Kawakatu氏のブログ「民族学伝承ひろいあげ辞典」の「災禍と超常現象2/白髪水と山姥」に、平凡社「世界大百科事典」の『日本の洪水伝説』の項に『農業技術の未発達な時代には,洪水とそれにともなう泥海はこの世の終末と意識された。東北地方ではかつてあった最大の洪水を〈白髪水〉と呼び,その直前に白髪の老人が予告したり出水のおりに水の上を下ってくると語られた。木曾川下流域では大増水の際,〈やろかぁー,やろかぁー〉という叫びが聞こえ,これに応答すると水が浸入するという〈やろか水〉の伝説が語られている』と引用された上で、柳田國男の「女性と民間伝承」(『婦人新聞』(大正一五(一九二六)年四月~昭和二(一九二七)年十一月連載)から『東北地方の人たちは、これまで言うとあるいは思い出されるかも知れませぬが、秋田の雄物川でも、津軽の岩木川でも、岩手の北上川でも、会津の阿賀川でも、またその他のいい佐奈川でも、昔のいちばん大きかった洪水を、たいていは白髪水、または白髭水と記憶しているのであります』と引いて、『以上の説明をあわせ考えると、どうやら東北地方では洪水や湧き水を「白髪」に例える習慣があったようだ。この白髪は、老婆の白髪や、地域によっては翁の白髭(しらひげ)のような水が激しく動くときの白波・飛沫のことであるらしい。地域の巫覡(ふげき)の多くが老婆や老人を選んでいた風習の名残ではないかと柳田は想定している』。『このことはすでに江戸時代の旅行作家で博物学者の菅江真澄も『栖家能山(すみかのやま)』寛政八年』(一七九六年)『五月一日に』、『「太郎次郎が館(やかた)とて そのはらからやここに栖家したりけん 柵は白髪水というに押し流されて そのあたりの人もふる館という所にうつりて その村のみいまもなおあり」』『という記録がある』。『白髪の老婆にたとえた洪水なので、その地名やいわれのある場所では、だいたい山姥(やまんば)の目撃譚も多く、どうも山姥と洪水には連想のつながりがあったようだ』とされて本条を紹介されておられる。さらにその少し後では、『この類型は長崎県や和歌山県など全国に広範囲にあるのだが、やはりいずれも古代から海人がいた地位にリンクするともみえる。やはり』この二八『話と同じ早池峰山には、神仏習合の時代に早池峰の妙泉寺の住職が餅を焼いていると山姥が現れ、餅を全部食べてしまう。和尚はなんとか仕返しがしたいので、今度は餅によく似た石を焼いて食わせ、酒といつわり油をいれておきこれをまんまと飲ませたところ、山姥は苦しみながら山に逃げ込んだが、その後三日魅晩暴風雨が続き、大津波と大洪水になって寺を押し流してしまった。大洪水の直前に津波の波頭の上に白髪の翁が立って歌を歌いながら流されていった。それで人々はこの洪水を白髪水と呼び始めた、という』と記され、『水を白髪に例える地方は東北でも太平洋側に多く、不思議なことに同じ太平洋側の高知県本山町奥白髪などに点在する』という。最後に、『東北地方は鎌倉時代頃まで「生蛮地(せいばんち)」と言われてきた蝦夷やアイヌのいた地域であり、彼らがすべて俘囚として西日本へ移住させられたわけではなく、縄文時代から住み着いてきた蝦夷たちのほとんどは、依然としてここに住まい、生活してきた。その証拠が地名のアイヌ由来が多いことである(半分ほど残っている)。同時に海岸部には九州から北上した南方縄文海人も住んでいたわけで、はるか南の太平洋南岸の土佐などに白髪地名が残存し、やはり洪水話があるのも、地震や津波が東南海でプレートがつながっていて、地震が多かったことと関連して、言い伝えが行き来した結果であろう』と結んでおられる。]

 

二九 雞頭山(ケイトウザン)は早地峯の前面に立てる峻峯なり。麓の里にてはまた前藥師(マヘヤクシ)とも云ふ。天狗住めりとて、早地峯に登る者も決して此山は掛けず。山口のハネトと云ふ家の主人、佐々木氏の祖父と竹馬の友なり。極めて無法者にて、鉞(マサカリ)にて草を苅り鎌にて土を掘るなど、若き時は亂暴の振舞(フルマヒ)のみ多かりし人なり。或時人と賭(カケ)をして一人にて前藥師に登りたり。歸りての物語に曰く、頂上に大なる岩あり、其岩の上に大男三人居(ヰ)たり。前にあまたの金銀をひろげたり。此男の近よるを見て、氣色(ケシキ)ばみて振り返る、その眼の光極めて恐ろし。早地峯に登りたるが途[やぶちゃん注:「みち」。]に迷ひて來たるなりと言へば、然らば送りて遣(ヤ)るべしとて先(サキ)に立ち、麓近き處まで來り、眼を塞(フサ)げと言ふまゝに、暫時そこに立ちて居る間に、忽ち異人は見えずなりたりと云ふ。

[やぶちゃん注:岩手県花巻市鶏頭山。標高千四百四十一メートル。早池峰山の西五キロメートル強の位置にある。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

三〇 小國(ヲグニ)村の何某と云ふ男、或日早地峯に竹を伐(キ)りに行きしに、地竹(ヂダケ)の夥(オビタヾ)しく茂りたる中に、大なる男一人寢て居たるを見たり。地竹にて編みたる三尺ばかりの草履を脱(ヌ)ぎてあり。仰(アホ)に臥して大なる鼾(イビキ)をかきてありき。

【○下閉伊郡小國村大字小國】

【○地竹は深山に生ずる低き竹なり】

[やぶちゃん注:「地竹」恐らくは単子葉植物綱イネ目イネ科タケ亜科タケ連ササ属チシマザサ(千島笹)Sasa kurilensis ではないかと思われる(但し、変種及び品種が多くある。以下のリンク先を見られたい)。大型の笹の一種で稈(かん:イネ科 Poaceae 植物などに見られる中空構造の茎を指す)の基部が弓状に曲がっていることから、「ネマガリダケ」(根曲がり竹)の別名があり、ネット上では「地竹」ともする。ウィキの「チシマザサによれば、『稈』『は農作物の支柱や竹細工に利用される』。『チシマザサの筍(タケノコ)は』五~六『月に収穫でき、伝統的には筍といえば』、『初夏の食べ物であった。本種の筍は山菜として特に人気がある。灰汁が少ないので、皮を剥いて灰汁抜きせずに味噌汁や煮物にしたり、皮付きのまま焼いたあと皮を剥いて食べたりする』。『長野県北信地方と新潟県上越地方の山間部では、根曲竹(長野県側の呼称)または筍(新潟県側の呼称、姫竹とも)と呼ばれるチシマザサの新芽が採れる時期』『に、サバ(鯖)の水煮の缶詰と一緒に味噌汁にして食べる習慣がある。作り方や材料は各家庭によって違うが、基本は沸騰した鍋の中に、チシマザサと、缶詰から取り出した鯖を入れ、しばらくしてから地元特産の信州味噌あるいは越後味噌を入れ、ひと煮立ちさせて完成する。この味噌汁は、当該地域では春の特産として風物詩として親しまれている』。『また』、『産地の一つ』である『青森県津軽地方の山間部で採取されるものは』、『筍と呼ばれ、当該地域では身欠にしんとワカメのみをともにした素朴な味噌汁として同様に親しまれている』とある。本種を食用のそれとして採取する時期と話柄の雰囲気が如何にも一致するように私には思われるからである。]

 

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