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2018/12/14

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(62) ジェジュイト敎徒の禍(Ⅶ) /「ジェジュイト敎徒の禍」~了

 

 若しこの過誤(或は欺僞[やぶちゃん注:「ぎぎ」。原文「deception」。「欺瞞」・「騙す手法」で、「詐欺」に同じいが、まず見かけない熟語である。])が山口に於て起こり得たとすれば、それが亦他の場所でも起つたらうと想像するのも當然である。外面上ロオマ教の儀式は、普通に行はれて居る佛教の儀式に似てゐた。人々はその勤行、法衣、數珠、平伏、立像、梵鐘、香等の形式に於て、それ等が自分達の日頃見馴れて居るものである事を認めた。處女と聖徒達は、御光をさした菩薩と佛陀に似てゐると見られた、天使と惡魔とは直に天人竝びに鬼と同一視されたのである。佛法の儀式に於て一般の想像を喜ばした一切のものは、僅ばかり異つただけの形式で、ジエジユイト教派に渡され、彼等によつて教會や禮拜堂として、神聖な場所とされたその寺院に於て見る事が出來たのであつた。この二つの信仰を、實際に二分してゐる底知れぬ深淵は、普通の人には認められ得なかつたが、併し外而上の類似は直ぐに認められた。更に又、人の心を惹くやうな二三の新奇なものもあつた。例へばジエジユイト教徒達は人々の注意を惹く目的から、自分達の教會内で、いつも奇蹟劇(ミラクル・プレイ)を演じたらしい……。併しあらゆる種類の外觀上の目を喜ばすものとか、佛教との外觀上の類似とかは、この新宗教の傳播を只が援助し得たに過ぎなくて、それ等はその布教の急速な進步を説明するには足らないのである。

[やぶちゃん注:「奇蹟劇(ミラクル・プレイ)」原文「miracle-plays」。中世教会内に発生したラテン語による教会劇の一つ。旧・新約聖書に題材をとる聖史劇(神秘劇)に対し、聖徒の生涯やその奇跡に関する伝説を題材とする世俗的宗教劇。各個の聖人による罪人や悪人の救済と回心や、聖母マリアの奇跡を主題としたものが多く、市井へも広がり、町やギルドがそれぞれの守護聖人の祝日に上演することが多かった。]

 制といふ事は幾分その明になるかも知れない――改宗した大名がその臣下に及ぼした制が。地方の住民はい脅迫を受けて、改宗した領主の宗教に追從して行つたといふ事である。そして幾百――恐らくは幾千の人々は、單に忠義の習慣から、みな同じ事を行つたに相違ない。かういふ場合、どういふ種類の得法を、教派のものが大名に對して用ひたか、それを考究して見るのは價値のある事である。傳道事業に對する一大助力は、ポルトガルの商業にあつた事――特に鐡砲及び彈藥の商事にあつた事を吾々は知つて居る。秀吉の權力穫得に先き立ち、國情の騷亂して居た際には、この商售は地方の領主と宗教上の協商をするに有力なる賄賂であつた。鐡砲を用ひ得左た大名は、さういふ武器を持つて居ない競爭の位置にある領主に對して幾分有利である、そしてさういふ商賣を獨占し得る領主は、その近隣のものを犠牲に供して、自分の權力を增大する事を得たのである。それで説教をする特權を得るために、この商賣が實際提供された、時にはその特權以上のものを要求し、それの得られた事もあつた。一五七二年[やぶちゃん注:元亀三年。ポルトガル船の長崎発来港は前年の元亀二(一五七一)年で、この年の内に純忠は六町(島原町・大村町・外浦町・平戸町・横瀬浦町・文知(ぶんち)町)を建設している。]にポルトガル人は、その教會への贈物として、長崎の全市をさへ敢て要求するといふ大それた事を申出した――その市の上に於ける司法權と共に、そしてそれを拒すれば、他處に行つて根城を据ゑると云つて威嚇した。大名の大村[やぶちゃん注:戦国から安土桃山にかけての大名大村純忠(天文二(一五三三)年~天正一五(一五八七)年)。大村氏第十八代当主で三城城城主。永禄六(一五六三)年に日本初のキリシタン大名となり、長崎港を開港し、天正一〇(一五八二)年の天正遣欧少年使節の派遣を決めた人物として知られる。使節団の純忠の名代千々石ミゲルは彼の甥である。]は最初異議を唱へたが、遂には讓步した。かくして長崎はキリスト教徒の領地となり、直接に教會に支配された[やぶちゃん注:天正八(一五八〇)年に純忠は長崎港周辺部と茂木(現在の長崎市茂木町)をイエズス会に寄進し、治外法権のイエズス会領となった。]。さうすると忽ちに師父等は、其の地方の宗教の上に猛烈な攻擊を加へて、自分等の信條の特徵を出し始めた。則ち彼等は佛教の寺、神宮寺に火を放ち、その火災を以て『神の怒り』[やぶちゃん注:原文「“wrath of God”」。]だと言ひふらした、――この一事の後、改宗者の熱意に依つて、長崎市内及び附近の凡そ八十箇所の寺が燒かれた。長崎の領地内にあつては、佛教は全滅させられた――その僧侶は迫害され逐はれてしまつた。豐後の國に於てはジエジユイト教派の佛教迫害は、これよりも遙かに猛烈で、廣大な規模に依つて行はれた。その支配して居た大名大友宗麟宗近はその領土内の佛寺を盡く打ち壞したのみならず(傳ふる處に依るとその數三千に及ぶといふ)多數の佛僧を殺害した。彦山の僧侶達は暴君宗麟の死を祈願したと云はれたのであるが、この山の大伽藍の破壞のために、宗麟は意地惡るくも(一五七六年の)五月六日――佛陀誕生の祭日を選んだといふ事である[やぶちゃん注:一五七六年五月六日(ユリウス暦)は旧暦天正四年四月八日で、釈迦(ゴータマ・シッダッタ)は旧暦四月八日に生誕したと伝承されているこの大友の彦山攻めは一ヶ月に及び、全山焼却されて彦山は降伏した。この「彦山焼き討ち」は信長の「比叡山焼き討ち」とともに戦国期の二大法難とされている。]。

 無條件の服從にならされて居た從順な人民の上に及ぼす領主の制は。幾分傳道成功の第一步を明するに足るであらう。併しそれにしても、尚ほ幾多の明しがたい事が殘つて居る、例へば後年の祕密傳道の成功、迫害の下にあつた改宗者の熱心と勇氣、反對な信仰の進展に對する、祖先祭祀を守る主なる人々の長い間の冷靜等がそれである……。キリスト教が初めてロオマ帝國を一貫して擴がり始めた際には、祖先の宗教なるものは滅びて地に堕ち、社會の構造はその原形を失つて居り、キリスト教に對し、立派な抵抗を實際なし得る何等宗教的保守主義なる者はなかつたのである。然るに第十六世紀十七世紀の日本に於ては、祖先の宗教は遙かにい勢を以て活躍して居り、社會はまだ不完全なるその完成の第二期に入つたのみであつた。ジエジユイト教への改宗は、昔の信仰を既に失つて居た人民の間になされたのではなく、世界中の最も深刻に宗教的なまた保守的な社會の一に於てなされたのである。かくの如き社會に入つて來たキリスト教は、その種類の如何なるものたるを問はず、社會の構造上の崩壞を起こさずには居まい――少くとも地方的性質の崩壞を。かくの如き崩壞がどれほど擴大し透徹して居たか、それは吾々の知る處ではない、また吾々は、この危險に當面して、本來の宗教的本能の長い間の惰性は、どうしたのであるか、それに就いての適當な明はない。

 併し少くともこの問題の上に傍證を投ずると思はれるやうな歷史上の事實は多少ある。リツキ[やぶちゃん注:イタリア人イエズス会司祭で宣教師であったマテオ・リッチ(Matteo Ricci 中国名 利瑪竇 りまとう Lì Mǎdòu 一五五二年~一六一〇年)ゴア・マカオを経て一六〇一年北京に入り、漢文教書「天主実義」や世界地図「坤輿(こんよ)万国全図」などの出版を通じて布教を図った。平井呈一氏は恒文社版(一九七六年刊)割注で『イタリアの改宗論者』としつつも、生没年を一七四一年から一八一〇年とするが、これはイタリアの司教シピオーネ・デ・リッチ(Scipione de 'Ricci)のそれを誤認されたものと思う。]に依つて基礎を定められた支那に於けるジエジユイト教派の政策は、改宗者をして自由にその祖先の祭式を行はしめたのであつた。この政策が繼續されら間は傳道も降盛であつた。然るにこの妥協の結果として、不和が生じた時、事件はロオマに具申された。法王インノセント第十世[やぶちゃん注:ローマ教皇インノケンティウスX世(Innocentius X一五七四年~一六五五年/在位:一六四四年~一六五五年)。]は、一六四五年に上諭[やぶちゃん注:君主や最高権力者が臣下や人民に告げ諭す文書。]を出して、異禁止を決定した。そのためジエジユイト教の傳道は、實際支那に於ては滅亡した。法王インノセントの決定は、その翌年法王アレクサンダア第八世[やぶちゃん注:ローマ教皇アレクサンデルAlexander  一六一〇年~一六九一年/在位:一六八九年~一六九一年)。何だかおかしい。原文は“Pope Innocent's decision was indeed reversed the very next year by a bull of Pope Alexander”とあるにはあるが、「翌年」というのは合わない。インノケンティウスX世とアレクサンデル世の間には、アレクサンデル世・クレメンス世・クレメンスX世・インノケンティウス世と、五人もの法皇が在位しているからで、この「the very next year」とは単に朝令暮改の謂いで、四十三年後も長いキリスト教史の中で「あっという間」なのかも知れぬ(ド素人の私はインノケンティウスX世が上諭した十年後の一六五五年に後を継いだ法皇アレクサンデル世がそれを取り消す上諭を早くも出したことの小泉八雲の誤りなのかもしれないなどと思ったりしたが、後で最終決定を上諭するのが「法王クレメント第十一世」(しかしそれも不審があるのだが)と出るので違うようだ)。この辺りの知見は私の及ぶところではないので、識者の御教授を切に乞うものである。]の上諭によつて取消された。併し祖先禮拜のこの問題に就いては、繰り返し繰り返し論諍が起こされ、終に一六九三年に法王クレメント第十一世[やぶちゃん注:クレメンス世(Clemens  一六四九年~一七二一年/在位:一七〇〇年~一七二一年)。おかしい。一六九三年時の法皇はインノケンティウス世(在位:一六九一年~一七〇〇年)である。が斷然如何なる形を以てしても、改宗者の、祖先の祭式を行ふ事を禁ずるに至つた……爾來極東に於けるあらゆる傳道の市切の努力も、キリスト教の主旨を進める事は出來なくなつた。その社會學上の理由は明瞭である。

 こんなわけで一六四五年までは、祖先の祭祀は、支那に於けるジエジユイト教派に依つて默認され、有望の效果があつた事を吾々は見たが、さてそれで日本に於ても、第十六世紀の後半の間は、支那に於けると同樣な默認政策が採られたのかも知れない。日本の傳道は一五四九年[やぶちゃん注:天文十八年。]に始まり、その歷史は一六三八年[やぶちゃん注:寛永十五年。]の島原の虐殺を以て終つて居る――祖先禮拜の默認を禁じた第一囘の法王決定の前、約七年である。ジエジユイト教派の傳道事業は、あらゆる反對のあつたに拘らず、確實に隆盛に赴いたが、頓て考慮の足りない、しかも極めて固陋な熱狂者のために妨げられるに至つた。抑も一五八五年にグレゴリイ第十三世[やぶちゃん注:グレゴリウスX世(Gregorius X 一五〇二年~一五八五年/在位:一五七二年~一五八五年)。]に依つて發布され、更に一六〇〇年にクレメント第三世[やぶちゃん注:クレメンス世は一一八七年~一一九一年の法皇で小泉八雲の誤り。年号が正しいとすれば、クレメンス世(Clemens  一五三六年~一六〇五/在位:一五九二年~一六〇五年)のことである。平井呈一氏の訳も「クレメント十三世」となっているが、これも誤りで、彼は一六九三年生まれであり、まだ生まれてもいない。]に依つて確定された上諭に依つてジエジユイト教のみが日本で傳道事業を行ふやうに公認されたが、この特權がフランシスカン派の熱心のために無視されるに至つて、始めて日本政府との葛藤が起つたのであつた。一五九三年[やぶちゃん注:文禄元年。]に秀吉が、フランシスカン派の僧侶六人を死刑に處した事はすでに言つた處である。それから一六○八年に、ポオル第五世[やぶちゃん注:パウルス世(Paulus V 一五五二年~一六二一年/在位:一六〇五年~一六二一年)。慶長遣欧使節の支倉常長らは一六一五年(慶長二十年・元和元年)に彼に謁見している。]が、ロオマ舊教のあらゆる教圏の傳道師に、日本で仕事をする事を許した上諭を發した事は、恐らくジエジユイト教派の破滅を招致したのであらう。記憶すべき事は、家康は一六一二年[やぶちゃん注:慶長十七年。]にフランシスカン派を鎭壓した事で、――これはフランシスカン派の、秀吉から得た體驗も、少しも彼等に教へる處のなかつた證據である。大體に言つて見れば、ドミニカン教派とフランシスカン教派とは、ジエジユイト教徒(この派を彼等兩派は卑怯だとして排斥した)が賢くもそのままにして手を觸れずに置いた事柄に、無謀もたづさはり、そののたづさはつた事が、結局傳道事業の避くべからざる破滅を早めたのであつたらしく考へられる。

 吾々は第十七世紀の初めに當つて、日本に果たして百萬のキリスト教信者があつたか、それに就いて當然疑を抱く、それよりも遙かに事實らしい六十萬と言ふ方が頷かれる。信教自由の今の時代に於て、總ての外國傳道師の團體が、その努力を結合し、その事業を支持するに莫大な金額を年々消費して居るのであるが、しかも彼等は、信賴し得べき槪算に依ると、前のポルトガルの傳道師等の得たと言ふ成功の僅に五分の一を得たのみであつた。なるほど第十六世紀のジエジユイト教派は、幾多の領主に依つて、その地方の全人民の上に極めて力ある制を行ひ得たのではあった。併し近代の傳道は、制力の如何はしい[やぶちゃん注:「いかがはしい」。疑わしい。どれほどのものであるか甚だ怪しい。]價値よも遙かに勝さる、教育上、財政上、竝びに立法上の長所をもつて居る、しかもその齎し[やぶちゃん注:「もたらし」。]得た結果の小なることは説明を要するであらう。がその説明は難しくはない。蓋し要もなく祖先の祭祀を攻擊する事は、當然社會の組織を攻擊する事になる。而して日本の社會は本能的に倫理上の根據の上に加へられら、かくの如き攻擊に抵抗するのである。何となればこの日本の社會は、紀元第二世紀三世紀にロオマの社會が示したやうな、それほどの狀態にすらも達して居たと想像するのは間違ひであるからで、むしろこの日本社會は、キリスト降誕前幾世紀の古にあつたギリシヤ、ラテンの社會の狀態に似て居たのである。鐡道、電信、正確な近代の武器、各種の近代の應用化學等の輸入も、まだ事物の根本的秩序を變更するには足らなかつた。表面上の事物の崩壞は急速に進行し、新しい構造が出來かけて居る。併し社會の狀態は、南歐に於ける、キリスト教輸入の餘程以前にあつた狀態にとどまつて居るのである。

 

 凡そ宗教の各種は多少不朽の眞理を保有しては居るが、進化論者はその宗教を分類しなければならない。進化論者は一神教の信仰を以て、人間思想の進步上、多神教的信條よりも著しく進步したものを代表して居ると考へざるを得ないのである。一神教とは無敷の靈を信ずる幾多の信仰を、一つの目に見えざる全能力といふ大きな廣い考へに融合さし擴大したものの意である。なほ心理學的進化論の立脚地から言へば、進化論者は勿論汎神教を以て、一神教よりも進んだものであるとなし、さらに不可知論を以て、一神汎神の兩者よりも進んだものであると考へざるを得ないのである。併しながら信條の價値は、當然關係的のものである、而してその價値如何は、或る教養ある一階級の智的發達にそれが適應するといふ事に依つて定められるのでなく、全社會――その宗教がこの壯會の道德上の體驗を具體的に示して居る――その社會に對する大きな情緒的關係に依つて決せられるのである。また別の社會に對するその信條の價値は、その社會の倫理上の實驗に適應するその力に依らざるを得ないのである。吾々はロオマ舊教が、その一神的槪念の唯一の力に依つて、原始的な祖先禮拜よりも、一段進んだものである事を容認し得るのである。併しこのロオマ舊教は、支那或は日本の文化が到達して居なかつた社會狀態にのみ適應して居たのであつた――その社會の狀態といふのは、古代の家族が分解し、孝道の宗教が忘却されてしまつた社會を言ふのである。インドの宗教は遙かに巧妙な、また比較する事の出來ない程人情味のあるものであつて、それはロヨラ(ジヱジユイト教の)[やぶちゃん注:イグナティウス・デ・ロヨラ(Ignatius de Loyola 一四九一年?~一五五六年)はスペインの宗教家。スペイン北部バスク州のロヨラ城主の子。清貧・貞潔を掲げてイエズス会を創立。プロテスタントの宗教改革に対抗し、カトリックの失地回復と異邦人への伝道に尽力した。]に先き立つ事一千年も前に、傳道上の成功の祕訣を心得て居たが、それとは異つたジエジユイト派の宗教は、日本の社會狀態に適應する事を知らなかつた。それでその適應不能の事實のため、傳道の運命は早くすでに決定されて居たのであつた。異禁止、陰謀、野蠻な迫害等の行はれた事――ジエジユイト教徒のあらゆる欺瞞及び殘虐――それ等は只だかくの如き適應不能の表現とのみ考へられて然るべきであらう。それと共に家康及びその後繼者の採つた壓抑政策は、社會學上から見れば、最大な危除を國家的に知覺したといふに過ぎない事になる。則ち外國宗教の勝利は、社會の全崩壞、帝國の外國支配への服從を、包藏して居るといふ事が認められたのである。

 

 少くとも美術家も、社會學者も、この傳道の失敗を遺憾とする事はない。彼等の傳道の滅は、日本の社會をして、その型の極致にまで發展するを得せしめ、かくて近代人の眼に、日本美術の驚くべき世界を保存し、なほ傳統、信仰、及び慣習の更に驚くべき世界を保存するを得せしめたのである。若しロオマ舊教が勝利を博したならば、すベて斯樣なものを一掃し去つて、消滅さした事であらう。美術家達の傳道師に對する自然の反抗心は、その傳道師が常に用捨なき破壞者であり、又破壞者ならざるを得なかつたといふ事實に依つても察しられる。何處に於ても、凡そ美術の發達なるものは、何等かの形を以て、宗教と關係して居る、そして人民の美術が、その人民の信仰を反映して居る限り、その美術はそれ等の信仰を敵とするものに取つては厭ふべきものであらう。佛教起原の日本美術は、特に宗教上の暗示を具へる美術である――單に繪畫彫刻に關してのみならず、なほ裝飾その他殆ど一切の審美的趣味をもつ所産に關してさうである。日本人の樹木、花卉、庭園の美を悅ぶ心、自然及び自然の聲に對する愛好心にすらも――要するに生のあらゆる詩情にも、多少宗教の感情が結ばれて居る。ジエジユイト教徒竝びにその同盟者が、少しの狐疑[やぶちゃん注:「こぎ。狐は疑い深い性質であるとされたことから、「相手のことを疑うこと」の意。]する處もなく、すべてそれ等の感、その微細のに至るまで、これを無くしてしまはうとした事は、殆ど確實な事であると考へられる。よし又彼等教徒はこの異樣な美の世界の意義――再びくりかへし若しくは囘復する事の出來ない民族の體驗の結果である――を了解し、これを感じ得たとしても、彼等は抹殺、滅却のその仕事をするに、一刻も躊躇した事ではあるまいと思ふ。なるほど今日もその驚くべき美術の世界は、兩歐の産業主義のために、正に取りかへしのつかないやうに破壞されかかつて居る。併し産業上の影響は、用捨なく働きはするが、熱狂的ではない、そしてその破壞はそれほど猛烈に急速に行はれるのでもないのであるから、その美の段々薄らいで行く話は、記錄に殘され、將來の人文の利益となる事であらう。

 

 

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