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2019/01/31

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(13) 「河童ノ詫證文」(4)

 

《原文》

 元來詫證文ナルモノハ勝チタル方ノ言分ヲ何處マデモ通シ得ルモノナレバ、右ノ如ク至極念入ナルモ別ニ不思議トスルニ足ラザレドモ、苟クモ仁賀保金七郞ノ名ヲ揭グルニ於テハ、其眞僞ヲモ問フコト無ク、常ニ疫病神總員ノ營業ヲ禁止シ得ト云フニ至ツテハ、聊カ過酷ノ嫌無キニ非ザルナリ。唯舊來ノ緣故如何ニ拘ラズ勝チタル者ヲ以テ保護者ト賴ムハ、言ハヾ封建時代ノ餘風ナリ。「ヒヤウスヘ」ノ社、又ハ「エンコウ」ノ宮ノ御札ノ如キモ、要スルニ近世海船ノ國旗ト同ジク、一種庇護ノ權力ヲ標識スル徽章ニ他ナラズ。而シテ又相手ガ文字ニ疎キ河童ナルコトヲ考慮シ、今一段簡單ナル方法ヲ以テ之ヲ表示シタル例アリ。昔三河ノ某地、淸水權之助ナル人ノ領内ニ於テ、河童馬ヲ襲ハントシテ亦大ニ失敗シ、助命ノ條件トシテ約束ヲ爲ス。【紅手拭】卽チ手拭ノ端ヲ紅ク染メタルヲ持ツ人ニ對シテハ害ヲ加フマジト云フコトナリ。是ヨリ以後此附近ノ人民ハ我モ我モト紅手拭ヲ携帶スルコトヽナレリト云ヘバ〔水虎考略後篇二所引〕、此モ亦稍濫用セラレタリト見エタリ。又一アリ。此話ノ異傳ナルカ否カヲ知ラザルモ、同ジ三河國ニ設樂(シダラ)某ト云フ強力ノ勇者アリ。「カハツパ」ト組合ヒ取ツテ押ヘ突殺サントシケル時、「カハツパ」下ヨリ言ヒケルハ、命ヲ御宥シ候ハヾ御子孫竝ニ御一家ノ分殘ラズ水ノ難ヲ遁レシメ申スべシ。【河童一黨】日本國中ノ「カハツパ」ハ皆我等ガ一類ニテ候間、何方ニテモ我等ガ御約束申シタリト聞キ候ハヾ、川ニテ守護仕ルべシト言ヒケル故、然ラバ宥ス、證據ハ如何トアリシカバ、乃チ歌ヲ教ヘタリ。

  「ヒヤウスヘ」ハ約束セシヲ忘ルナヨ川立チ男氏ハ菅原

 【設樂氏】設樂氏元ハ菅原氏ナリ。之ニ因ツテ設樂氏ノ人ハ川ノ難無シ。又此歌ヲ唱フレバ他氏ノ者モ難ヲ遁ルト云ヘリ〔落穗餘談四〕。此河童ハ別ニ馬盜人ニテモ無カリシ如クナルニ、兎ニ角ニ大ナル言質ヲ取ラレタリ。右ノ「氏ハ菅原」ノ歌ノ如キハ、河童自筆ノ手形ヲ眼ノ前ニ突附ケタルニ比ブレバ、幾分證據力ニ乏シキモノナリシナランモ、若シ律義ナル河童ナラバ夫ノミニテモ以前ノ約束ヲ思出サシムルニハ十分ナリシナリ。世間尋常ノ疱瘡神ノ如キハ、居ル筈モ無キ昔ノ勇士ノ名ヲ署シテ人ノ門ニ張リ置ケバ、【サヽラ三八】サテハ此家ハ鎭西八郞爲朝閣下ノ御宿ナルカト言ヒテ通リ過ギ、又ハ此家ニモ「サヽラ」三八殿ガ同居シテゴザルノカト、碌々家ノ内ヲ覗キモセズニ歸リ去ルヲ常トセリ。之ヲ思ヘバ人ノ方ガ遙カニ人惡シ。如何ニ相手ガ害敵ナリトハ言ヒナガラ、每回此手段ヲ以テ彼ヲ欺クナリ。但シ印刷シタル降參狀又ハ謝罪ノ口供ハ決シテ此類ノ陰險ナル策ニ非ズ。汝ノ一類ニハ曾テ此ノ如ク敗北ノ恥ヲ晒セシ者アル也。人間ハ決シテ侮リ得べカラザル動物ナルゾ。馬モ亦然リ。心得違ヒヲスルコトナカレト豫戒スル迄ノ事ナリ。河童ニシテ若シ文字アリトセバ、馬屋、牛小舍ノ守護トシテ、此ホド穩當且ツ適切ナル警備手段ハ、決シテ他ニ求ムルコトヲ得べカラザルナリ。

 

《訓読》

 元來、詫證文なるものは、勝ちたる方(かた)の言分(いひぶん)を何處(どこ)までも通し得るものなれば、右のごとく、至極、念入りなるも、別に不思議とするに足らざれども、苟(いやし)くも仁賀保金七郞の名を揭ぐるに於ては、其の眞僞をも問ふこと無く、常に疫病神(やくびやうがみ)總員の營業を禁止し得(う)と云ふに至つては、聊(いささ)か過酷の嫌(きらひ)無きに非ざるなり。唯(ただ)、舊來の緣故如何(いかん)に拘(かかは)らず、勝ちたる者を以つて保護者と賴むは、言はゞ、封建時代の餘風なり。「ヒヤウスヘ」の社、又は「エンコウ」の宮の御札のごときも、要するに、近世海船の國旗と同じく、一種庇護の權力を標識する徽章(きしよう)に他ならず。而して又、相手が文字に疎(うと)き河童なることを考慮し、今一段、簡單なる方法を以つて、之れを表示したる例あり。昔、三河の某地、淸水權之助なる人の領内に於いて、河童、馬を襲はんとして、亦。大いに失敗し、助命の條件として約束を爲(な)す。【紅手拭(あかてぬぐひ)】卽ち、手拭の端を紅(あか)く染めたるを持つ人に對しては、害を加ふまじ、と云ふことなり。是より以後、此の附近の人民は、我も我もと、紅手拭を携帶することゝなれり、と云へば〔「水虎考略」後篇二・所引〕、此れも亦、稍(やや)濫用せられたりと見えたり。又、一あり。此の話の異傳なるか否かを知らざるも、同じ三河國に設樂(しだら)某と云ふ強力(ごうりき)の勇者あり。「カハツパ」と組み合ひ、取つて押へ、突き殺さんとしける時、「カハツパ」、下(した)より言ひけるは、「命を御宥(おゆる)し候はゞ、御子孫竝びに御一家の分(ぶん)殘らず、水の難を遁(のが)れしめ申すべし。【河童一黨】日本國中の「カハツパ」は、皆、我等が一類にて候間(さふらふあひだ)、何方(いづかた)にても、我等が御約束申したりと聞き候はゞ、川にて守護仕(つかまつ)るべし」と言ひける故、「然(しか)らば宥(ゆる)す、證據は如何(いかん)」とありしかば、乃(すなは)ち、歌を教へたり。

  「ヒヤウスヘ」は約束せしを忘るなよ川立ち男氏は菅原

 【設樂氏】設樂氏、元は菅原氏なり。之れに因つて、設樂氏の人は川の難、無し。又、此の歌を唱(とな)ふれば、他氏の者も難を遁る、と云へり〔「落穗餘談」四〕。此の河童は、別に馬盜人(うまぬすびと)にても無かりしごとくなるに、兎に角に大いなる言質(げんち)を取られたり[やぶちゃん注:事前の確認・取り決め・契約・交渉などに於いて、後で証拠となるような言葉や証書を相手から引き出すこと。]。右の「氏は菅原」の歌のごときは、河童自筆の手形を眼の前に突き附けたるに比ぶれば、幾分、證據力に乏しきものなりしならんも、若(も)し、律義なる河童ならば、夫(それ)のみにても、以前の約束を思ひ出さしむるには、十分なりしなり。世間尋常の疱瘡神(はうさうがみ)[やぶちゃん注:疱瘡を齎(みたら)すとされた悪神。]のごときは、居(を)る筈も無き昔の勇士の名を署(しよ)して、人の門に張り置けば、【さゝら三八(さんぱち)】「さては此の家は鎭西八郞爲朝閣下の御宿なるか」と言ひて通り過ぎ、又は「此の家にも「さゝら」三八殿が同居してござるのか」と、碌々(ろくろく)、家の内を覗きもせずに、歸り去るを常とせり。之れを思へば、人の方が、遙かに、人惡(ひとわる)し。如何に相手が害敵なりとは言ひながら、每回、此の手段を以つて彼(かれ)を欺(あざむ)くなり。但し、印刷したる降參狀、又は、謝罪の口供(こうきよう)は、決して、此の類の陰險なる策に非ず。「汝の一類には、曾て、此(か)くのごとく、敗北の恥を晒(さら)せし者あるなり。人間は決して侮り得べからざる動物なるぞ。馬も亦、然り。心得違ひをすることなかれ」と豫戒(よかい)するまでの事なり。河童にして、若(も)し、文字ありとせば、馬屋・牛小舍の守護として、此れほど、穩當、且つ、適切なる警備手段は、決して、他に求むることを得べからざるなり。

[やぶちゃん注:「近世海船の國旗と同じく」この「近世」は近代の意。船首旗・艦首旗に於ける国籍を示す国籍旗。

「手拭の端を紅(あか)く染めたるを持つ人に對しては、害を加ふまじ」と河童が誓約したとならば、赤は決して元来は河童が忌避する色なのではないということになる(考えて見れば、しばしば河童の顔は赤いともされる)。謂わば、水中で目立つ色という、観察する河童側から見て、極めてプラグマティクな理由が最初であったものとここでは推察される。

『「ヒヤウスヘ」は約束せしを忘るなよ川立ち男氏は菅原』殆んど変わらぬ形で既出

「設樂氏」「元は菅原氏なり」三河国の武士であるが、これは近世以降の自称と思われる。平凡社「世界大百科事典」によれば、『近世の所伝では菅原氏末裔とするが,在庁官人三河伴氏一族とみられる。設楽郡中設楽郷』(現在の東栄町)『を名字の地とする説もあるが』、『不明。源義家に従って』、「後三年の役」に『出陣した資兼が系図以外での初見』で、「保元の乱」の『義朝方に設楽兵藤武者がある。鎌倉時代には一族富永氏とともに三河守護足利氏の被官で』、『足利氏所領奉行番文に太郎兵衛入道がみえる。室町前期には将軍近習の一員として諸記録に散見し』、伯耆・周防『などで所領給付をうけた』とある。

さゝら三八(さんぱち)」ブログ戦国ちょっといい話・悪い話まとめに、『佐々良三八は戦国の武士で名護屋九右衛門の家来の一人で』、『福岡に赴いた時、犬に囲まれて困っている男を助けた』ところ、『助けた男が疱瘡神(天然痘や水疱瘡の神様)で、犬から助けて下さったお礼にあなたの家には二度と出入りしませんといった事から』、『各地で「佐々良三八の宿」や「三八の家」と紙や木に彫り吊り下げる』ようになったとあり、『三八は疱瘡除け伝説になるほどの美肌の持ち主で在ったと伝わるが』、『この時代、風土病や流行病がすぐに治療できないので』、『年齢性別問わず』、『流行病の痕で多少アバタ顔であった。大名家の娘ともなると』、『嫁ぎ先に支障をきたすので』、『大名家では特に娘の肌に気を使った』。『この三八の噂を聞きつけた森忠政が娘(九右衛門の娘とも)のために佐々良三八の家の看板を譲ってほしいと三八を家に招いた』。『三八は家宝にしていた家の札をなぜか譲ってしまい』、その『祟りで』、『人前では出歩けないほど』、『酷い荒れ肌になってしまったとい』い、一方、『その後、忠政の娘はとても肌がきれいな女に育った』という。『伝説の類だが』、『戦国後期』の『妖怪、怪談話』としては、『割合と有名なまじない伝説』で、『疫病、難病の魔除けに佐々良三八の宿だったり』、『住処と書いてまじないにする風習が元禄頃から全国各地に広がった』とある。研」怪異・妖怪伝承データベースにも、須田元一郎氏の「九州北部の伝説玩具」(『旅と伝説』昭和一〇(一九三五)年八月発行所収)に、福岡県での採話として要約で、『名護屋山三郎の家来に、佐々良三八という美男がいた。ある時』、『路上で』一『人の男が多くの犬に囲まれて弱っているのを助けた。この男が疱瘡神で、お礼にあなたの名前の出ている家には決して這い入りませんと誓った。だから』、七『穴のあわび貝に「佐々良三八様御宿」と書いておけば、疱瘡にかからない』とある。

「鎭西八郞爲朝」言わずと知れた剛弓引きの源鎮西八郎為朝(保延五(一一三九)年~嘉応二(一一七〇)年?)は源為義の八男で、「保元の乱」(保元元(一一五六)年七月)に敗れ、逃亡したが、捕縛、但し、武勇を惜しまれて助命され、八月二十六日、肘を外し、自慢の弓を射ることが出来ないようにされて、伊豆大島に流刑となったが、伊豆七島を支配するに至った。前注のリンク先によれば、後、『八丈島では疱瘡が全く流行らなかった』ことから、『源為朝が疱瘡神を倒したとして三八同様』、『この時代』、『疱瘡除けの札として人気があった』とある。

口供(こうきよう)」罪人の口から罪状を述べること。また、その筆記録。「口書き」とも言う。

「豫戒(よかい)」前以って警戒すること。予(か)ねてより用心すること。]

和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 木客鳥(もつかくちやう) (不詳)

 

Mokkakudoru

 

もつかくちやう[やぶちゃん注:ママ。]

 

木客鳥

 

モツ ケツ ニヤウ

 

本綱異物志云廬陵郡東有之大如鵲千百爲群飛來有

度俗呼曰木客鳥黃白色有翼有綬飛獨高者爲君長居

前正赤者爲五伯正黑者爲鈴下緗色雜赤者爲功曹左

脇有白帶者爲主簿各有章色

 

 

もつかくちやう

 

木客鳥

 

モツ ケツ ニヤウ

 

「本綱」、「異物志」に云はく、廬陵郡の東に、之れ、有り。大いさ、鵲〔(かささぎ)〕のごとく、千、百、群れを爲し飛び來たる。度〔(わた〕り、有り。俗に呼びて、「木客鳥」と曰ふ。黃白色にして、翼、有り、綬〔(じゆ)〕、有り。飛ぶに、獨り高き者を「君長〔(くんちやう)〕」と爲し、前に居て、正赤なる者は「五伯〔(ごはく)〕」と爲し、正黑なる者、「鈴下〔(れいか)〕」と爲す。緗(もへぎ)色〔に〕赤を雜(まじ)ふる者を「功曹〔(こうさう)〕」と爲す。左の脇に白〔き〕帶有る者を「主簿〔(しゆぼ)〕」と爲す。各々、章〔(しるし)〕の色、有り。

[やぶちゃん注:この引用記載には、特に妖鳥の雰囲気はないのであるが、日中ともに諸家は中国神話上の妖鳥とし、実在種への同定やモデル比定をした記載は見当たらない。これも先に語注を施す

「異物志」東洋文庫書名注に、『一巻。漢の楊孚(ようふ)撰。清の伍元薇編輯『嶺南遺書』の中に収められている。嶺南地方の珍奇な生物などについて書いたもの』とある。

「廬陵郡」廬陵郡は後漢末から唐代にかけて、現在の江西省吉安市一帯に設置された郡。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「鵲〔(かささぎ)〕」スズメ目カラス科カササギ属カササギ亜種カササギ Pica pica sericea

「度〔(わた〕り、有り」所謂、渡りをすることを意味しているようである。即ち、「木客鳥」は渡り鳥なのである。

「綬〔(じゆ)〕」古代中国に於いては、官職を表わす印を身に付けるのに用いた組み紐。官位によって色を異にした。ここはまるでそのような特徴の羽の模様を、それぞれの個体が、別々にそれを持っているということを指しているようだ。挿絵をよく見ると、右の前胸部に白い妙なマークのような模様が見てとれる(右翼の根元の羽のそれとは全く反対方向に向いている妙なものでる)、これがここで言う「綬」なのではないかと私は読む。その中でも「君長」「五伯」「鈴下」「功曹」「主簿」は特別扱いで、別にそれぞれの特殊マークを有するというのであろう。

「君長」君主。

『前に居て、正赤なる者は「五伯」と爲し……「主簿」と爲す」東洋文庫はここの訳に、『伯は諸侯。五伯とは春秋時代の斉(さい)の桓公など五人の霸者(諸侯)になぞらえたものであろう。鈴下は随従する護衛の武官。功曹は書史を司る官吏。郡の属吏。主簿とは書記のことである』という注を附している。

「各々、章色、有り」それぞれに地位があって、その印として、色の違いがある。

 

 さて。ところが、この「木客」(「鳥」は附かない)は、別に「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」に載るのである。しかも、中国の本草書も良安もこれを先の「冶鳥」・「山都」・「山蕭鳥(かたあしどり)」と併置して《同じ仲間の妖鳥・妖怪・妖獣》(「冶鳥」が人に化けたりする以上、これは妖怪或いは妖獣である)として記すのである。但し、良安は最終的には「木客」と「木客鳥」を全くの別なものとして取り扱ってはいる。原文はリンク先を見て戴くとして、私の訓読と注を示す(古い仕儀なので、今回、一部に別資料で手を加えてリニューアルした。従ってリンク先のそれとは異なる)。

   *

 

Mokkaku

 

もつかく

木客

      【別に「木客鳥」有り。

       禽(とり)の部に見ゆ。】

モツ ケツ

 

「本綱」に、『「幽明録」に載せて云はく、『南方の山中に生〔(せい)〕す。頭〔(かしら)〕・面〔(おもて)〕・語言〔(ことば)〕、全く、人に異〔(こと)〕ならず。但〔(ただ)〕、手脚〔(てあし)〕の爪、鈎〔(かぎ)〕のごとく利〔(と)〕し。絶岩の閒〔(あひだ)〕に居〔(を)〕り、死するも亦、殯〔(ひんれん)〕す。能く人と交易して〔するも〕、其の形〔(かた)〕ちを見せず。今、『南方に「鬼市(きいち)」有る』と云ふ〔も〕亦、此れに類す。』〔と〕。』〔と〕。

[やぶちゃん注:「殮」の字を良安は「」=「歹」+「隻」という字体で書いているのだが、こんな漢字は見当たらず、調べて見たところ、「本草綱目」では「殮」となっており、これだと読みも意味もすんなり通るので、それで示した。

 さて、前の「冶鳥」(治鳥)で引用した多田克己氏の「渡来妖怪について」の「山都」にもある通り、この木客は、先に示した山都・治鳥の仲間、魑魅の一種とされ、漢の楊孚(ようふ)の「異物志」には『江西省の東部に鵲(かささぎ)ほどの大きさの木客鳥という鳥がいて、千、百と群れをなし編隊を組んで飛ぶという。この鳥は治鳥の仲間といわれる。巣をつくるという山都も、あるいは鳥の性質をもつことを暗示しているかもしれない』とされているが、ここの叙述を読む限り、これは「木客鳥」とは全く異なったもので、鳥ではなく、「木客」と呼んだ、一種の少数民族、若しくは、特殊な風俗風習を固持している人々の誤認或いは蔑称なのではないかという確信に近いものがあるのである。それは死者を断崖絶壁に埋葬するという習俗が、四川省の崖墓(がいぼ)を容易に連想させるからである。これは懸棺葬・懸崖葬などと呼ばれる葬送民俗で、NHKが「地球に乾杯 中国 天空の棺〜断崖に消えた民族の謎〜」で二〇〇四年に紹介したものを、私も見た。これについては、H.G.Nicol氏のブログ「民族学伝承ひろいあげ辞典」の「懸棺葬・懸崖葬・崖墓」を是非、参照されたい。懸棺葬や地図の写真・リンクも充実した素晴らしい記載である。思うに、彼等は、埋葬の際、また、日常生活にあって、断崖や山上の菌類・山野草を採取する道具として、四肢に鈎状の器具を装着していたのではあるまいか? それがこの長い爪の正体なのではないか? という可能性である。識者の御教授を乞うものである。

・「幽明録」南北朝時代の南朝の一つである宋王朝(劉宋 四二〇年~四七九年)の武帝の甥で、鮑照などの優れた文学者をそのサロンに招いたことで知られ、名著「世説新語」の作者とされる文人劉義慶(四〇三年~四四四年)が撰した志怪小説集。但し、現行の同書には、ここに書かれた内容を現認出来なかった

・「殯殮」「殯斂」とも書き、死者を納棺し、暫く安置して祀ること。仮殯(かりもがり)。

・「能く人と交易するも、其の形ちを見せず」巷間の人間と物の売買を行うが、容易にはその姿を見せない、という意味で、めったに実体を見せない、ごく稀にしか直接の交易はしない、という意味であろう。東洋文庫版のように『よく人と交易もするが、その姿は見せない』という訳では如何にも不満である。第一、姿を見せずに商売をすることなど不可能である。特殊な仲買人を通してしか接触しないとか、近くの木や崖上にでも隠れて物々交換をするとか、無人販売を装うとでもいうのであれば、そのような推測した補注を施すべきである、というのが、私の判らないことをはっきりさせるのが注の役割と心得るからである。

・「鬼市」私が最初にこの語を見たのは、諸星大二郎の漫画「諸怪志異」の「鬼市」であったが、そこでは異界の化物や霊が立てる市であった。ここで言うのは、公的な行政許可を得た市ではなく、山岳部の少数民族や僻村の者達が、町へ下りてきて非公式に開く市のことを言うか。また、狭義には、諸星の作品でも暗に示されていたかと思われるが、中国で飢饉があった際、食人するにしても自分の子供を食うに忍びず、夜陰に紛れて人身売買の市を開き、子を交換して食ったという食人習俗での人肉市の呼称であったという伝承も耳にしたことがあるので、参考までにここに記しおくこととする。

   *

 正直、以上の民族「木客」を語ってしまうと妖に、基! 妙に熱くなってしまい、木客鳥の鳥のモデル比定をする意志が減衰してしまった。取り敢えず、木客鳥の属性を掲げておく。

カササギぐらいの大きさカササギは全長約四十五センチメートル。

百や千の大群を成して飛ぶことがある。カササギほど大きさの種で、「千」の数で群れ飛ばれたら、ヒッチコックの「鳥」なみにキョワいし、異様に目立って、実在する鳥なら、誰かが絶対、同定比定しているはずだから、やっぱり実在しないのかなぁ?

渡り鳥である。

目立つ印章(バッジ)風(挿絵に拠る。本文は「綬」で組紐模様とする)のものが前胸部にある

隊列を組んで群飛している際、その群れの位置より有意に高く一羽高く飛んでいる個体がいるそれを人は「君長」(君主)と呼ぶ。

同じく、そうした群れの前の方を先導するように飛ぶ個体(複数或いは五羽かも知れない)がいる。それを人は「五伯」(五大諸侯)と呼ぶ。

沢山いる中に、特に真っ黒な個体がいる(複数であろう)。それを人は「鈴下」(近衛兵)と呼ぶ。

沢山いる中に、左肩の部分に白い帯状の模様が入っている個体がいる(複数であろう)。それを人は「主簿」(書記)と呼ぶ。

あとは、「日本野鳥の会」の方(妻は嘗て会員で、私はその金魚の糞の家族会員ではありました)にでも比定候補を挙げて貰いましょう! では、これにて。

和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 山蕭鳥(かたあしどり) (妖鳥・モデル種同定失敗)

 

Kataasidori

 

かたあしとり 獨足鳥

山蕭鳥

 

本綱獨足鳥閩廣有之大如鵠其色蒼其聲自呼一足文

身赤口晝伏夜飛或時晝出群鳥譟之惟食蟲豸不食稻

粱聲如人嘯將雨轉鳴

[やぶちゃん注:「轉」は「囀」の誤字と思われる。訓読では「囀」にした。]

――――――――――――――――――――――

槖蜚 山海經云羭次之山有鳥狀如梟人面而一足冬

 則蟄服之不畏雷

邑 三才圖會云大次山有鳥狀如梟而人面一足冬

 出而夏蟄人以羽毛置諸衣中則不畏雷霆

△按二書所謂槖蜚蠹邑恐此一物矣但出蟄時大異耳

 

 

かたあしどり 獨足鳥

山蕭鳥

 

「本綱」、獨足鳥、閩(びん)・廣(こう)に、之れ、有り。大いさ、鵠〔(くぐひ)〕のごとく、其の色、蒼。其の聲、自〔(みづか)〕ら呼ぶ。一足にして文身〔(もんしん)あり〕[やぶちゃん注:身体全体に紋様がある。]。赤き口。晝(〔ひ〕る)は伏して、夜(〔よ〕る)は飛ぶ。或る時は、晝、出づ。〔さすれば、〕群鳥、之れを譟(さは)ぐ。惟だ、蟲〔(むし)〕・豸〔(ながむし)〕を食ひ、稻・粱〔(あは)〕を食はず。聲、人の嘯(うそぶ)くごとし。將に雨〔(あめふ)〕らんとすと、囀〔(さへづ)〕り、鳴く。

――――――――――――――――――――――

槖蜚(たくひ) 「山海經」に云はく、『羭次〔(ゆじ)〕の山に、鳥、有り。狀、梟のごとく、人面にして一足。冬、則ち、蟄す。之れを服〔(ふく)〕すれば、雷を畏れず』〔と〕。

邑(たくゆう) 「三才圖會」に云はく、『大次山に、鳥、有り。狀、梟のごとくして、人面・一足。冬は出でて、夏、蟄す。人、羽毛を以つて、諸衣の中に置け〔ば〕、則ち、雷霆を畏れず』〔と〕。

△按ずるに、二書〔の〕所謂〔(いはゆ)〕る、「槖蜚」・「蠹邑」、恐らく、此れ、一物〔ならん〕。但〔(ただ)〕、出蟄の時、大〔いに〕異〔(こと)〕なるのみ。

[やぶちゃん注:今回は先に語注を施す。

「山蕭鳥」この場合の「蕭」は、夜行性・一本足・他の鳥と馴れない・摂餌が侘しい・人が口を尖らせて詩を吟ずる時のような淋しい声(「嘯(うそぶ)く」とはそういう意味。なお、これは隠者・仙人のポーズでもある)を出す・雨が降る前に囀るといったネガティヴな属性から、「蕭蕭・蕭条・蕭然」等の「山中に住む、もの寂しげな鳥」の謂いであろう。

「閩(びん)・廣(こう)」「閩」は、もと、中国五代十国時代の十国の一つ(九〇九年~九四五年)現在の福建省を中心に立国していた。ここは福建地方の意で、かなり近世まで「閩」の広域地名としての呼称は行われた。「廣」は広東と広西。現在の広東省と広西チワン族自治区(中華民国までの旧広西省)に概ね相当する。因みに、広州・広東・広西などの「広」はネットのQ&Aサイト等の回答によれば、「広信県」(現在の広西チワン族自治区梧州市。ここ(グーグル・マップ・データ))の「広」で、元来、現在の広州附近は交州(漢から唐にかけて置かれた行政区域で、漢代には広州は交州に所属し、呉代に大部分が広州として分割されたが、唐代には広西と併せて嶺南道となったりした。このように現在のベトナム北部及び中国の広東省及び広西チワン族自治区の一部が含まれた。前漢の武帝が置いた十三刺史部の一つである「交阯」(こうし/こうち)に由来する。)の一部と見做され、州都が置かれていたのが広信県で、現在の広西自治区チワン族自治区の東端にあり、凡そ両広の中央にある(後に交州の都は広信から現在の広州市附近に移されたが、前に書いた通り、後に広州は交州と分離してしまう)。「広州市」公式見解も「広信県が由来」とされる。さても、この「山蕭鳥(獨足鳥)」グーグル・マップ・データの地図の東から西の大陸に沿った広域の中国沿岸地方とベベトナム社会主義共和国の北部までを棲息域とするというのだから、えらく広域で、夜行性とは言え、片足しかないというのなら、誰もが見知っていていいはずだが?

「鵠〔(くぐひ)〕」広義の白鳥の意としてよく用いるが、ここはそれでは同定候補探しが困る。ハクチョウ属オオハクチョウ Cygnus cygnus を指しているとしておく。「オオハクチョウ」の中文ウィキ「大天には『又名』とあるからであり、添えられた挿絵も、まあ、がたいはそれらしくはある。

「其の色、蒼」派手に見えるが、黒味を帯びた青か。

「其の聲、自〔(みづか)〕ら呼ぶ」その声は、自分の名を呼ぶようである、というのである。「本草綱目」の標題は「獨足鳥」で『一名山蕭鳥』とするから、標題名「独足鳥」なら現代中国語では「dú zú niǎo」(ドゥー・ヅゥー・ニィアォ)、「山蕭鳥」だと、「shān xiāo niǎo」(シァン・シィアォー・ニィアォ)となる。これが「かたあしどり」の鳴き声のオノマトペイアとなる。後者は鳥より猫っぽいくて、この鳥のブラッキーな感じと合わない気がする。

「一足にして文身〔(もんしん)あり〕」挿絵では頸部にはない。

「晝(〔ひ〕る)は伏して、夜(〔よ〕る)は飛ぶ。或る時は、晝、出づ。〔さすれば、〕群鳥、之れを譟(さは)ぐ」通常は夜行性で、昼は隠れていて、夜、飛ぶ。但し、時には、昼に出てくることがあるが、そうすると、他の鳥は群れて激しく騒ぎ立てる。

「蟲〔(むし)〕」ここは昆虫でよかろう。

「豸〔(ながむし)〕」ここは並列する「蟲」から、「ながむし(長虫)・はいむし(這い虫)」で、足のない蠕動して動く動物、ミミズ(環形動物門 Annelida 貧毛綱 Oligochaeta)やヒル(環形動物門ヒル綱 Hirudinea)のようなものを指すと採っておく。蛇は含めないと考えた方がよい。蛇を食うのであれば、取り立ててそれを示すはずだと私は思うからである。

「粱〔(あは)〕」単子葉植物綱イネイネ科エノコログサ属アワ Setaria italica

『槖蜚(たくひ) 「山海經」に云はく、『羭次〔(ゆじ)〕の山に、鳥、有り。狀、梟のごとく、人面にして一足。冬、則ち、蟄す。之れを服〔(ふく)〕すれば、雷を畏れず』〔と〕』「槖」は「袋」の意で「鞴(ふいご)」の意がある。「蜚」はこの場合、「飛ぶ」の意。「蜚禽」は「飛ぶ鳥」の意である。「羭次の山」はトンデモ幻想地誌「山海経」の「西山経」に、

   *

又西七十里、曰羭次之山、漆水出焉、北流注于渭。其上多棫橿、其下多竹箭、其陰多赤銅、其陽多嬰垣之玉。有獸焉、其狀如禺而長臂、善投、其名曰囂。有鳥焉、其狀如梟、人面而一足、曰橐𩇯、冬見夏蟄、服之不畏雷。

   *

とは出る。

『蠧邕(たくよう) 「三才圖會」に云はく、『大次山に、鳥、有り。狀、梟のごとくして、人面・一足。冬は出でて、夏、蟄す。人、羽毛を以つて、諸衣の中に置け〔ば〕、則ち、雷霆を畏れず』〔と〕』良安ばかりか、東洋文庫訳も「蠹邕」に『たくゆう』とルビするが、「蠹」は音「ト・ツ」のみ、「邕」は音「ヨウ・ユ」しかないんだよ! だからこれは「蠧邕(とよう)」が正しいのだよ! 「蠧」は「蠹」と同字で「きくいむし」(木食虫。狭義には昆虫綱鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目 Cucujiformia 下目ゾウムシ上科キクイムシ科 Scolytidae のキクイムシ類)・「紙魚」(昆虫綱 シミ目シミ亜目シミ科ヤマトシミ属ヤマトシミ Ctenolepisma villos)・「すくもむし(テントウムシの幼虫)」・「毛虫」・「物を損ない破るもの」等の意がある。「邕」は「四方を水が巡っている土地」・「載せる」・「和らぐ」・「塞ぐ」の意。「大次山」は、やはり「山海経」の「西山経」の前注で出した部分の少し後に、

   *

又西三百里、曰大次之山、其陽多堊、其陰多碧、其獸多牛、羊。

   *

とはある。さて! ここで、おたちあい! 「三才圖會」に載る人面一足の「蠹邕」の図を見ようではないか! ヒエーッツ! 強烈! 原本では「一足」と「冬出而」の間に「曰蠹」(「」=(上)「非」+(下)「巴」)とある(画像は国立国会図書館デジタルコレクションの三才図会」当該の画像から)。あれぇ? これって前の「蜚」に似てねえかぁ? だいたいからして、「槖蜚」と「蠹邕」の「槖」と「蠹」からしてが、手書きではごちゃついて判別し難かろう。良安の言う通り、記載も巣籠りから出てくるのが冬と夏の違いなだけやしなぁ。こりゃもう同一の妖鳥種だわ。

Toyou

 なお、中国の本草書では、この鳥の別名として他に「商羊」(しょうよう)を挙げるが、これは「孔子家語」(「論語」に漏れた孔子一門の説話を蒐集したとされる古書で、魏の王粛(一九五年~二五六年)が再発見したものに注釈を加えたと称する四十四篇が現存する。王粛の偽書ともされるが、今は散佚した古文献から再録した可能性もあり、必ずしも価値のないものではない)「辯政」で、

   *

齊有一足之鳥、飛習於公朝、下止於殿前、舒翅而跳。齊侯大怪之、使使聘魯問孔子。孔子曰、「此鳥名曰商羊、水祥也。昔童兒有屈其一、振訊兩眉而跳且謠曰、『天將大雨、商羊鼓儛。』。今齊有之、其應至矣。急告民趨治溝渠、脩隄防、將有大水爲災。」。頃之、大霖雨、水溢泛諸國、傷害民人、唯齊有備不敗。景公曰、「聖人之言、信而有徵矣。」。

   *

自然流で訓読すると、

   *

 齊(せい)に一足の鳥、有り。公朝(おほやけ)[やぶちゃん注:王宮の内。]に飛び習(あつ)まり、下りては殿前に止どまり、翅を舒(ひろ)げて跳ねたり。齊侯、大いに之れを怪しみ、魯に使ひして孔子を聘(まね)きて問はしむ。孔子曰はく、

「此の鳥、名を『商羊』と曰ひ、水の祥(きざし)なり。昔、童兒、有りて、其の一[やぶちゃん注:「脚」に同じ。]を屈し、兩眉を振-訊(つりあ)げて跳り、且つ、謠ひて曰はく、『天、將に大雨ふらんとし、商羊、鼓儛(こぶ)せり[やぶちゃん注:脚を踏み鳴らして舞った。]。』と。今、齊に之れ有りて、其れに應じ至らんとす。急ぎ、民に告げて、趨(すみや)かに溝渠[やぶちゃん注:水路。]を治し、隄防[やぶちゃん注:「堤防」に同じ。]を脩(ととの)ふべし。將に大水有りて災ひを爲さんとす。」と。頃-之(しばらく)して、大霖雨(だいりんう)[やぶちゃん注:「霖雨」は長雨。]あり、水、諸國に溢泛(いつはん)し[やぶちゃん注:氾濫し。]、民人(たみびと)を傷害するも、唯だ、齊のみ、備へ有りて、敗れず。景公曰はく、「聖人の言、信にして徵(しるし)有り。」と。

   *

に基づくものである。

 さても。「山蕭鳥」の属性を並べる。

一本足である。生物学的にはあり得ないが、遠目に一本に見えるのかも知れない

白鳥ほどの大きさがある。この場合の「白鳥」は単に比較的大きな鳥だの意味と採れる。

羽毛は青黒い。そもそも次に出るように夜行性であるから、この羽毛の色は信用出来ない。もっと明るい色かも知れない

基本的には夜行性である。も参照。

「どぅーづぅーにぃあぉ」と人が詩を口ずさむ、口笛を吹くような声で鳴く。この、不気味な声で、夜に、鳴くのである。

全体的に有意な斑紋或いは模様を有する。「文身」(もんしん)は刺青(いれずみ)のような模様と読み換えることが出来る。

嘴は赤い。夜行性の鳥は多くは肉食である。或いは、獲物の血が嘴に付着しいていたのかも知れない。

夜行性()ではあるが、時に昼に現われることがあり、そうすると、他の鳥が群れを成してパニックを起こす。即ち、通常の鳥にとっては脅威の鳥である。これは明らかに所謂、猛禽の類いであることを強く意味するように私には思われる。

昆虫や環形動物を摂餌し、穀類は一切、食べない。夜行性だから、この観察が十全とは思われない。但し、ヨタカ(夜鷹。ヨタカ目ヨタカ科ヨーロッパヨタカ(夜鷹)亜科ヨタカ属ヨタカ Caprimulgus indicus)のように飛翔する昆虫類を摂餌する特殊な種もおり、夜行性でも小・中型哺乳類等を摂餌しない種群もいる。

雨が降ることを事前に察して囀る。これはある種の鳥に見られる。但し、私は寧ろ雨が止みそうになると鳴くものの方が親しい。

以上のうち、の「遠目に一本に見える」可能性は、木にとまっているいて、足を揃えている場合、夜行性の鳥で視認が難しい場合に有り得る。而してのやや大きな鳥で、夜行性()で、不気味な声で夜鳴き()、全身に斑紋があり()、肉食の可能性があり()、猛禽或いはかつては猛禽類に含まれていた鳥()となれば、これはもう、私は

フクロウ目 Strigiformes(メンフクロウ科 Tytonidae(二属十八種・本邦には棲息しない)及びフクロウ科 Strigidae(二十五属二百二種)の二科二十七属二百二十種が現生)、或いはそのフクロウ科 Strigidae に属する種群

が当て嵌まるとしか思えないのであるが、残念なことにフクロウ類は北方系で、中国南部やベトナム北部には分布しない。しかし、時珍が分布域をちゃんと示しているということは、モデル種が必ずいるはずである。今、暫く、探索してみたい。

 なお、この鳥は中国の本草書では、前の鳥」(鳥)や、そこで出した「山都」、この後の「木客鳥」(もっかくちょう)と合わせて、同類群の妖鳥として併記されている。而して、一本足である。さらに、前の注で私が傍線太字にしたように「槖蜚(たくひ)」の「槖」には「鞴(ふいご)」の意がある。或いは、前の鳥」(鳥)の注の最後で言い添えたように、この妖鳥も「いっぽんだたら」(一本踏鞴)、冶金製錬の古い文化技術と何らかの関係を持った象徴的鳥なのかも知れないという気がした。]

2019/01/30

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(12) 「河童ノ詫證文」(3)

 

《原文》

 此ノ如ク論ジ來レバ長門ノ一村ニ於テ、「エンコウ」ノ手形ヲ印刷シテ望ミノ者ニ分與スト云フハ非常ニ意味ノアルコトナリ。蓋シ河童ニシテ村ノ祭ヲ享クル程ノ靈物ナリトセバ、斷然トシテ詫證文ノ作成ヲ拒シ、「イヤ僞ハ人間ニコソアレ」ト高ク止リテアリ得べキ筈ナレドモ、既ニ手モ無キ術策ニ馬脚ヲ露ハシ、内甲(ウチカブト)ヲ見透カサレシ以上ハサウモナラズ、ヲメヲメト昔ナラバ大恥辱ノ一札之事ヲ差出シテ引下リシハ、誠ニ器量ノ惡キ次第ナリ。併シナガラ是レ決シテ河童バカリノ身ノ上ニ非ズ。【四國無狐】例ヘバ本朝故事因緣集卷四ニハ、四國ニ狐ノ住マザル理由ヲ明シテ左ノ一話ヲ載ス。伊豫ノ河野家ニテ不意ニ同ジ奧方二人トナリ、其何レカ一方ハ狐ニ相違ナカリシ時、僅カナル擧動ニテ狐ノ奧方看破セラレ既ニ打殺サレントセシヲ、散々ニ詫ヲシテ命ヲ助ケラル。其折ノ謝リ證文ニハ將來四國ニハ一狐モ住ムマジキ由ノ誓言アリ。乃チ數艘ノ船ヲ借用シテ悉ク本土ニ押渡ル云々〔以上〕。上陸地點ハ中國ノ何レノ海岸ナリシカ、如何ニモ迷惑ナルコトナリシナラン。【狐崎】備後靹(トモ)町ノ狐崎ハ寶曆年間迄狐ノ形シタル赤石アリキト云ヒ、又狐多ク群レ居ルトモ言ヘド、一ニハ昔四國ニ狐狩アリシ時狐多ク浪ニ浮ビテ此崎ニ著キシヨリノ地名トモ謂リ〔沼名前神社由來記附錄〕。或ハ其樣ナル事モアリシカモ知レズ。而シテ右ノ證文ハ今モ必ズ河野氏ニ於テ之ヲ保存シテアルコトヽ信ズ。何トナレバ若シ此文書ニシテ亡失セバ、狐ハ再ビ四國ノ島ニ來リ住スルコトヲ得ル約束ナリケレバナリ。【疫病神】近クハ文政三年ノ秋ノコトナリ。江愛宕下田村小路ナル仁賀保(ニカホ)大膳ト云フ武家ノ屋敷へ、疫病神アリテ窃ニ入込マントセシヲ、同家ノ次男金七郞之ヲ見咎メ、右樣ノ者我ガ方へハ何シニ入來ルゾ、打殺スべシト怒リシニ、疫病神何トゾ一命ヲ宥シタマハレト申ス。然ラバ書附ニテモ差出スべシト云ヘバ、早速別紙ノ如キ證文ヲ認メ置キテ立チ去ルト云フ〔竹抓子二〕。

[やぶちゃん注:底本ではここに一行空けで、引用の証文は全体が二字下げ、「疫病神」の署名は下五字上げインデントである。「兩人」は証文の頭書であるが、如何にも格好が悪くなるので、前の以上の位置に配した。上付きにした「江」「而」は実際には前後の活字の三分の二ほどあるが、かく示した。また、クレジットの「文政三辰九月廿二日」も実際には全体のポイントがやや小さくなっている。]

 

【兩人】

    差上申一札之事

私共兩人心得違ヲ以御屋敷入込段々被仰出候趣奉恐入候以來御屋敷内竝金七郞樣御名前有之候處決而入込間敷候私共ハ申不及仲ケ間之者共迄モ右之趣申聞候依一命御助被下難有仕合奉存候爲念一札如件

    文政三辰九月廿二日  疫 病 神

   仁賀保金七郞樣

 疫病神ノ方デハ無論ゴク内々ノツモリナリシナランモ、當時ハ疫病大流行ノ折柄トテ、爲ニスル者ノ手ニ由ツテ此證文ハ意外ニ弘ク流布シタリト覺シク、隱居老人ナドノ隨筆ニモ採錄セラルヽニ至レリ。或ハ此モ亦長門ノ「エンコウ」ノ手形ト同ジク、板行シテ信者ニ施シタリシカモ測リ難シ。

 

《訓読》

 此くのごとく論じ來たれば、長門(ながと)の一村に於いて、「エンコウ」の手形を印刷して望みの者に分與すと云ふは、非常に意味のあることなり。蓋し、河童にして、村の祭(まつり)を享(う)くる程の靈物なりとせば、斷然として、詫證文の作成を拒し、「いや。僞(いつはり)人間にこそあれ」と高く止(とま)りてあり得べき筈なれども、既に手も無き術策に馬脚を露はし、内甲(うちかぶと)[やぶちゃん注:「兜に隠された額の部分」の意から、転じて「隠している内情・内心」の譬え。]を見透かされし以上は、さうもならず、をめをめと、昔ならば、大恥辱の、「一札之事(いつさつのこと)」[やぶちゃん注:この場合の「一札」は「証文」の意。証文の一件。]を差し出して引き下(さが)りしは、誠に器量の惡(あし)き次第なり。併しながら、是れ、決して河童ばかりの身の上に非ず。【四國無狐】例へば、「本朝故事因緣集」卷四には、四國に狐の住まざる理由を明して左の一話を載す。伊豫の河野家にて不意に同じ奧方、二人となり、其の何れか一方は狐に相違なかりし時、僅かなる擧動にて、狐の奧方、看破せられ、既に打ち殺されんとせしを、散々に詫をして命を助けらる。其の折の「謝り證文」には、將來、四國には一狐も住むまじき由の誓言あり。乃(すなは)ち、數艘の船を借用して、悉く、本土に押し渡る云々〔以上〕。上陸地點は中國の何れの海岸なりしか、如何にも迷惑なることなりしならん。【狐崎】備後靹(とも)町の狐崎は寶曆年間[やぶちゃん注:一七五一年~一七六四年。]まで、狐の形したる赤石ありきと云ひ、又、狐多く群れ居るとも言へど、一には、昔、四國に狐狩りありし時、狐、多く浪に浮びて、此の崎に著(つ)きしよりの地名とも謂へり〔「沼名前(ぬなくま)神社由來記」附錄〕。或いは、其の樣なり事も、ありしかも知れず。而して、右の證文は、今も必ず河野氏に於いて、之れを保存してあることゝ信ず。何となれば若(も)し、此の文書にして、亡失せば、狐は、再び、四國の島に來たり、住することを得る約束なりければなり。【疫病神】近くは文政三年[やぶちゃん注:一八二〇年。]の秋のことなり。江愛宕下田村小路なる仁賀保(にかほ)大膳と云ふ武家の屋敷へ、疫病神(やくびやうがみ)ありて、窃(ひそか)に入り込まんとせしを、同家の次男金七郞、之れを見咎(みとが)め、「右樣(みぎやう)の者、我が方へは何しに入り來たるぞ、打ち殺すべし」と怒りしに、疫病神、「何とぞ、一命を宥(ゆる)したまはれ」と申す。「然らば、書附(かきつけ)にても差し出すべし」と云へば、早速、別紙のごとき證文を認(したた)め置きて、立ち去ると云ふ〔「竹抓子(たけさうし)」二〕。

[やぶちゃん注:原文は前に示した通りで、一切の訓点はない。推定で私が訓読したものを以下に示す。「」は「え」で古文書では、「江」或は「え」のままで出すのが常識だが、ここは読み易さ第一として、本文同ポイントで正しい「へ」に直して出しておいた。「候」「趣」等も同様に送り仮名を振った。

 

【兩人】[やぶちゃん注:この場合は、当該事件に関わった疫病神と、それに対する当事者である相手(仁賀保大膳家の次男金七郞)がいることを意味するだけの「兩人」であり、「二人」と訳す意味は全くないし、正直、ここに柳田國男がこれを頭書としたことの意味が判らない。柳田が暗に人も同罪とする意識の中でこれを掲げたとならば、古文書読解の初歩的間違いとしか私には思えない。

    差し上げ申す一札の事

私共(ども)兩人、心得違ひを以つて、御屋敷へ入り込み、段々、仰せ出だされ候ふ趣き、恐れ入り奉り候ふ。以來、御屋敷内、竝びに、金七郞樣御名前之れ有り候ふ處へ、決して入(い)り込む間敷(まじ)く候ふ。私共は申すに及ばず、仲ケ間(なかま)の者共(ども)までも、右の趣き申し聞かせ候ふ依りして、一命、御助け下され、有り難き仕合(しあは)せ、存じ奉り候ふ。念の爲め、一札、件(くだん)のごとし。

    文政三辰九月廿二日  疫 病 神

   仁賀保金七郞樣

 疫病神の方では、無論、ごく内々のつもりなりしならんも、當時は疫病大流行の折柄とて、爲(ため)にする者の手に由つて、此の證文は意外に弘(ひろ)く流布したりと覺しく、隱居老人などの隨筆にも採錄せらるゝに至れり。或いは此れも亦、長門(ながと)の「エンコウ」の手形と同じく、板行(はんぎやう)して信者に施したりしかも測り難し。

[やぶちゃん注:『「本朝故事因緣集」卷四には、四國に狐の住まざる理由を明して左の一話を載す』「本朝故事因緣集」(本朝の故事逸話を集めたもの。作者未詳。元禄二(一六八九)年板行)「国文研データセット」のこちらで全篇が読め、原典の「八十七 四國狐不住由來」(四國に狐住まざる由來)の画像も読める。ここここ。記された事件は、享禄年中(一五二八年~一五三一年。戦国前期)のことで、河野通直(こうのみちなお)の妻とある。河野通直(明応九(一五〇〇)年~元亀三(一五七二)年)は伊予国の戦国大名河野氏の当主で、ウィキの「河野通直」によれば、『河野通宣の嫡男で』、永正一六(一五一九)年に『父の死去にともない』、『家督を継いだ』。天文九(一五四〇)年には、『室町幕府御相伴衆に加えられる。自身に嗣子がなかったため、娘婿で水軍の頭領として有能であった村上通康を後継者に迎えようとしたが、家臣団の反発と、予州家の当主・通存(みちまさ、河野通春の孫)と家督継承問題で争ったため、通康とともに湯築城から来島城へと退去することになる。その後、家督を通存の子通政に譲って権力を失うが、通政の早世後には河野家の実質的な当主の座に復帰する。なお、その後』、『天文末期には通政の弟である通宣とも家督を巡って争い、最終的には村上通康にも見捨てられる形で失脚したとする見方もある』とある。さて、二人の妻女を見て、医師は離婚病と診断し、祈禱等も行うが効果がないため、二人とも捕えて籠居(監禁)させ、数日経るうち(食物を絶ったか、ごく少量しか与えなかったもののようである)、食物を与えたところ、一人が異様な勢いで喰らいだしたことから、それを拷問したところ、狐となった。さても殺そうとしたところが、門前に僧俗男女が四、五千人も群衆している。誰何したところが、「吾ら、四国中の狐にて訴訟に来て御座る。この度、不慮の事を致いたその者は貴狐(きこ)明神の末稲荷の使者の「長狐(ちょうこ)」と申す日本国の狐の王であって、これを害されるならば、国に大災害が起こることになりましょう。この長狐は吾等の師匠なれば、さても向後、変身の術はこれを、皆、封印断絶致します。どうか願わくはお助け下さい」と訴えた。河野はこれに、「何とまあ、名誉の狐であることよ。殺すのも不憫なことじゃ。さすれば、向後、四国中に一匹の狐も住まぬことを誓約した書き物を致し、皆、舟に乗りて中国(本邦の瀬戸内海の北の中国地方)に渡るとならば、長狐を助けて後、渡るがよかろう」と応えた。群狐は皆畏まって誓紙を捧げ、舟を借り、数艘で以って本州へ渡った。これより、四国には狐はいないとあり、最後に柳田が言うように、『此誓紙、子孫ニ至リ(タヘ)タル時ハ可住(すむべき)國ナリト云(いふ)トナリ。今ニ河野(かふの)ノ家ニアリ』と書かれてある。但し、最後に『評ニ曰(いはく)、今ノ世マデ一疋モ不住(すまず)と云(いへ)リ。奇妙ナリ』とダメ押しがある。なお、この四国からの狐追放伝承には、ずる賢い狐よりも愛嬌のある狸を人々が愛したため、弘法大師がその意を汲んで追放したとする説もある(ただ、この追放も条件附きで、大師は「四国と本州との間に橋が架かった帰ってよい」としたというから、こちらの追放は既に解除されていることになる。なお、弘法伝承には別に「四国と本州に橋が架かると邪悪な気が四国を襲う」と予言したという伝承も別にあるらしいことを、架橋前後に聴いたことがある)。ネットではこの四国にキツネはいないという話を信じている人が意想外に多く、ネット上にもそこら中に「四国には狐はいない」と真顔で記しておられるが、残念ながら、食肉目イヌ科キツネ属アカギツネ亜種ホンドギツネ Vulpes vulpes japonica 四国にちゃんと棲息している(但し、本州・九州に比して個体数は有意に少ない)。恐らくは「四国自然史科学研究センター」主催で「高知大学」・「四国森林管理局」・「環境の杜こうち」が共催して「高知大学朝倉キャンパス」の総合研究棟で催された「特別展 豊かな森の住人たち」の「ワークシート」の正答版(PDFに、四国にキツネは棲息しているとして、二十『年ほど前の調査によると、四国ではキツネの確認地点は高知県と愛媛県の境に集中し、他の地域での情報はとても少なかった』のですが、『ところが、ここ最近は徳島県や香川県でもキツネの情報が多くなってきていまして、全体的に数が増えてきている傾向があります。その原因は、まだわかっていません』とある。江戸時代にいなかったのでは? と主張されると、私は答えようがない。但し、そう言われるのであれば、近代以降に移入されたとする確実な記録・資料が示されなければならない。リンク元のような専門的機関の資料にさえ、近代以降に移入された事実が記されないのは、そうではないからだ、と考えた方が自然であろう。私は、昔から限定された地域でホンドギツネが棲息していたのではなかったかとは思っている。

「備後靹(とも)町の狐崎」広島県福山市鞆町(ともちょう)後地(うしろじ)にある岬狐崎。ここ(グーグル・マップ・データ)。かの「鞆の浦」の南西二キロメートル圏内にあり、最も近い四国の香川県三豊市三崎の半島先端までは直線で二十一キロメートルである。

「沼名前(ぬなくま)神社」鞆町後地の鞆の浦の北直近にある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「疫病神」疫病神が人体(じんてい)の形(なり)で出現することは珍しい。しかも、その書付というのも、これまた、珍しい。

「江愛宕下田村小路」江戸切絵図で同小路に「仁賀保内記」を確認した。現在の港区新橋丁目のこの附近かと思われる(グーグル・マップ・データ)。彼は江戸初期に出羽国由利郡塩越(現在の秋田県にかほ市象潟町字二ノ丸)の塩越城に政庁を置いた仁賀保藩の藩主家仁賀保氏の家筋から出た、所領千石の旗本で、その五代目が仁賀保大膳である。

「私共(ども)」この「共」は一人称単数。謙譲を示す場合に複数でなくても用いる。

「段々、仰せ出だされ候ふ趣き」順序立てて、意見なされたその趣旨には。実際には、一気に打ち殺そうとしたわけだが、遜っているわけである。

『爲(ため)にする者の手に由つて、此の證文は意外に弘(ひろ)く流布したりと覺しく、隱居老人などの隨筆にも採錄せらるゝに至れり。或いは此れも亦、長門(ながと)の「エンコウ」の手形と同じく、板行(はんぎやう)して信者に施したりしかも測り難し』「爲(ため)にする」とは、ある目的に役立てようとする下心を持って(しかもそれが目的であることを周囲になるべく知られぬようにして)事を行うを言う。私は常に「卑劣な」のニュアンスを含んで表向き誠実・正当に見せてする厭らしい行為にしか使わない。閑話休題。さても! すこぶる嬉しいことに、この守り札(しかも「板行」(印刷)ではなくて書写したもの)を国分寺市立図書館」の「デジタル博物館 」の「疫病神の詫び証文」(三で現物画像を見ることが出来る! 解説には、『江戸時代に厄災が家に入り込まないように戸口などに貼ったと思われるまじない札の一種です』。』この詫び証文は江戸時代の随筆』「竹抓子(ちくそうし)」巻二(小林渓舎著。天明六(一七八六)年自序)や「梅の塵」(梅之舎主人(長橋亦次郎)著。天保一五(一八四四)年自序)に『紹介されています』。『内容は、文政』三(一八二〇)年、『旗本仁賀保大善(にかほだいぜん)の屋敷に入り込んだ疫病神が捕まり、助けてもらうかわりに』、『仁賀保家や仁賀保金七郎の名がある場所には入り込まないという内容の詫び証文です』。『随筆で紹介されているにもかかわらず、現存するものは少なく、川島家の』三『点、他の都内の』三『点、栃木県で』二『点、群馬県で』二『点、埼玉県で』四『点、神奈川県で』六『点、静岡県で』一『点の』、計二十一点のみとし、『いずれにしても本文に大差なく、書き写されて伝わったと思われ、戸口に貼っていたという事例もあります。江戸時代の民族史料です』とある。これを見ると、三枚とも、宛名は「仁賀保金七郞樣」の前に連名で父「仁賀保金大膳樣」とあることが判り、本文の最後も「爲念一札如件」ではなく、「爲念差申上一札如件」(念の爲め、差し上げ申す、一札、件(くだん)のごとし)で、柳田の記すものよりも正式で正しい。なお、別に、あきる野市乙津軍道の高明神社(元熊野三社大権現)の神官鈴木家に伝わった同類のものが、こちらで活字起こしと訳がなされてあるPDF。しかし『私ども二人』って、一体誰やねん? 訳がおかしいと思わんかねぇ? 因みに、「梅の塵」は所持するので、以下に示す。吉川弘文館随筆大成版を参考に、漢字を正字化して示す。

   *

    ○疫病神一札の事

御簱本仁賀保公の先君は、英雄の賢君にておはしけるが、近年(ちかごろ)、疫病神を手捕[やぶちゃん注:「てどり」。]にせさせ賜し[やぶちゃん注:「たまひし」。]よし、疫神、恐れて、一通の証書を呈して、一命を乞によつて、免助[やぶちゃん注:免じて助けてやること。]ありしと也。右公の家は、一切(たえて)疫神流行と云事なし。又仁賀保金七郎と認め[やぶちゃん注:「したため」。入口へ張置時は、疫病いらずと云傳ふ。証書は、寶藏に納めあるよし。得たるまゝをしるす。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が下げてあり、頭の「一」は一マス頭抜けている。署名も下四字上げインデント。「奉恐」の間には中央に熟語を示す「-」が入っている。]

        差上ケ申一札之事

一私共兩人、心得違ヲ以、御屋敷入込、段々、被仰出候趣、奉恐入候。以來、御屋鋪内、幷金七郞樣御名前有ㇾ之候處、決、入込間鋪候。私共申不ㇾ及、仲間之者共迄、右之通リ申聞候。依、一命御助被ㇾ下、難ㇾ有仕合奉ㇾ存候。爲ㇾ念一札如ㇾ件

  文政三年九月二十二日  疫 病 神

     仁 賀 保 金 七 郞 樣

   *

「文政三辰九月廿二日」文政三年は確かに庚辰(かのえたつ)。グレゴリオ暦では一八二〇年十月二十八日。]

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(11) 「河童ノ詫證文」(2)

 

《原文》

 河童敗衄ノ記錄ハ右ノ外ニモ猶多シ。【水邊ノ牧】例ヘバ同ジ長門ノ大津郡向津具(ムカツグ)村ハ出島ナリ。村ニ杉谷池ト云フ池アリ。每年領主ノ馬ヲ預リテ此池ノ堤ニ野飼スルヲ例トス。又河童アリ。手續ハ型ノ通リニシテ馬ニ引摺ラレテ厩ノ中ニ轉ゲ込ム。【手印】隣人等集リ來リ、後代ニ至ルマデ向津具一庄ノ中ニ住ムマジキ由ノ券文(ケンモン)ヲ代書シ、彼ガ手ニ墨ヲ塗リテ之ヲ押サシメテ放シ還ス。此ガ爲ニ庄内ニ河童永ク跡ヲツト云フ。貞享年中ノ出來事ニシテ、其證文ハ少クトモ寬政ノ頃マデ村ノ産土(ウブスナ)ノ社ニ之ヲ藏メタリキ〔蒼柴園隨筆〕。河童ガ無筆ニシテ代書ヲ必要トセシコトハ無理モ無キ話ナリ。【河童自筆】然ルニ或地方ニテハ其證書ヲ以テ彼ガ自筆ニ成ルモノヽ如ク傳フ。現ニ江戸深川入船町ニ於テモ斯ル例アリ。安永年間ノコト也。或男水ヲ泳ギ居タルニ、河童來リテ害ヲ加ヘントシ、亦捉ヘラレテ陸ニ引上ゲラル。三十三間堂ノ前ニテ打殺サントセシヲ、見物ノ中ニ仲裁ヲ試ミタル人アリ。河童詫證文ヲ出シテ宥サル。其一札ニハ以來此邊ニテ一切害ヲ爲スマジキ由ノ文言アリ。【手印】且ツ河童ノ手判ヲ墨ヲ以テ押シタルモノナリキト云フ〔津村氏譚海〕。【河童角力】九州ハ肥前佐賀ノ藩士大須賀道健ガ被官、佐賀鄕百石村ノ某ト云フ者、東淵ト云フ處ヨリノ歸途ニ、一人ノ小僧來リ逢ヒ強ヒテ角力ヲ取ランコトヲ求ム。某之ヲ諾シテ取組ミシニ、負ケナガラ段々ト水ノ方ニ近ヨル。サテハ河童ト心ニ悟リ、此物人間ノ齒ヲ怖ルヽコトヲ豫テ知リタレバ、早速ニ其肩ノアタリニ嚙附ケバ、聲ヲ立テヽ水底ニ遁レ去ル。其夜河童ノ來リテ家ヲ繞リテ哀號スルコト、他國ニテ腕ヲ斬ラレタル場合ト同ジク、何トゾ此傷ヲ治シテ下サレヨト云フ。其仔細ヲ聞クニ、嚙ミタル人ガ手ヲ以テ其疵ヲ摩ルニ非ザレバ到底癒ヘヌモノト見エタリ。汝若シ此近邊ノ人ヲ取ラズト誓フナラバ其請ヲ允スべシト云ヘバ、河童欣々トシテ敬諾シ、終ニ紙ヲ乞ヒテ券ヲ作リ手印ヲ押シテ之ヲ差出ス。汝ガ如キ者ニハ手ヲ汚スヲ欲セズ、足デ澤山ナリト威張リ足ヲ展バセバ、ヌルリトシテ觸ルヽ所アリト云フ話ナリ。此券文モ永ク勇者ガ家ニ傳ハレリ。其體略文字ノ如クナレドモ讀ミ難シトナリ〔水虎考略後篇〕。【化物文書】此話ナドハ取分ケ虛誕ラシケレド、天狗ノ書ト云ヒ狸ノ自筆ナド稱スルモノ諸國ニ例多ケレバマダ何トモ申シ難シ。播州佐用郡ノ某地ニ一種ノ骨繼藥ヲ出ス舊家アリ。此家ト緣故アル河童ノ如キハ、前者ニ比シテハ稍正直ニ見ユ。【野飼】此ハ寶永中ノコトト稱ス。七月下旬ノ殘暑ノ勞ヲイタハルトテ、愛馬ヲ野飼ノ爲ニ川邊ニ出シ置キシニ、此亦綱ノ端ニ河童ヲ引摺リテ厩ニ走リ入ル。【猿】仲間怪シミテ往キ見ルニ、厩ノ片隅ニ猿ノヤウナル物手綱ヲ身ニ搦メテ居リ、駒ハ向ウ[やぶちゃん注:ママ。]ノ方ニテ息ヲ繼ギ居タリ。其物ヲ熟視スレバ猿ニ似テ猿ニ非ズ、頭上ニ窪ミアリテ髮ハ赤松葉ノ如ク也。【河童ノ手】旦那歸リテ此始末ヲ聽キ大ニ怒リ、此川原ニテ折々人ヲ取ルハ必定汝ナルべシト、忽チ脇差ヲ拔キテ河童ノ手ヲ切落ス。河童シホシホトシテ、ドウカ命ヲ助ケ給へ、今ヨリ此村ノ衆ニハ指モ差シ申スマジト言ヘバ旦那、其方ヲ殺シタリトテ手柄ニモ非ズ、宥シ遣ハスべシ詫證文ヲ書ケトアリ。【河童藥】私ハ元來物書クコトモナラヌ上ニ、手ヲ御切リ成サレタレバ愈以テ書ケマセヌ。御慈悲ニ免シ給ヒ其手モ返シテ下サレ、持ツテ還ツテ藥デ繼ギマスト云フ。旦那思慮ヲ廻ラシ其藥ハ己ガ調合スルノカト問ヘバ、ナル程拵ヘ申スト答フ。然ラバ手ヲ戾シ助クルニヨリ其藥方ヲ我ニ傳ヘヨ。命ノ代リナレバ安キ御事ト、人ヲ拂ハセテ備ニ祕法ヲ口授シテ去ル。其法甚ダ奇ニシテ子孫勿論之ヲ相續スト云ヘリ〔西播怪談實記〕。【河童ノ手】此一條ニ由ツテ察スルニ、詫證文ト藥方ト片腕トハ、河童ノ主觀ニ在リテハ兎モ角モ、人間ニ取ツテハ其價値略同等ナリキトオボシ。證文ガ書ケズバ祕傳ヲ、片手ガ欲シケレバ藥方ヲト云フ中ニモ、手ハ河童ニハ最モ大切ニシテ人間ニハ比較的無用ナリ。渡邊綱ニシテ強情ヲ張ラザリシナラバ、何カ有利ナル「コンミツシヨン」位ハ得ラレシ筈ナリ。其證據ト云フモ妙ナレドモ、近世ニモサル例アリ。山城伏見ノ和田某ナル者、曾テ淀川ノ堤ニ道ビシニ、河童出デテ足ヲ取リ引入レントス。和田強氣ノ男ニシテ其手ヲ捉ヘ腰刀ヲ以テ之ヲ切レバ、キヤツト叫ビ水中ニ入レリ。歸リテ其手ヲ人ニ示スニ、何レモ彼ガ剛勇ヲ感ゼザルハ無シ。此河童モ夜深ク出直シテ來リ、切ニ片手ノ返却ヲ求ムルコト既ニ六夜ニ及ブ。【河童ノ祟】七日目ノ夜ハ殆ド閉口シテ、今夜御返シ下サレズバ最早接グコトモ相成ラズト、打明ケテ懇願ニ及ビタルニモ拘ラズ、頑トシテ之ニ應ゼザリシカバ、茲ニ至ツテカ河童大ニ恨ミ、此報ニハ七代ノ間家貧窮ナルべシト咀[やぶちゃん注:ママ。「詛」の誤字であろう。特異的に訓読では訂した。「ちくま文庫」版全集も「詛」とする。]ヒテ去ル。而モ其手ハ永ク和田ガ家ニ傳ハルト云フ〔諸國便覽〕。和田氏貧乏ノ言譯トシテハ、目先ノ變リタル思附ナレドモ、而モ天下ノ勇士ハ多クハ河童ノ豫言ヲ待タズシテ貧乏ナリ。殊ニ干涸ビタル河童ノ手ヲ家寶トスルガ如キ氣紛レ者ハ、金持ニナレヌ性分トモ云フべシ。但シ河童ノ手ノ評判、如何ニシテ世ニ傳ハルニ至リシカハ、考ヘテ見ル値アリ。今ハ如何ニナリシカヲ知ラズ、以前筑後ノ柳河藩ノ家老某氏ノ家ニモ一本ノ河童ノ手ヲ藏セリキ。此家ノ側ニ近ク大ナル池アリテ、家人時トシテ四五歳ノ小兒ノ猿ニ似テ猿ニ非ザル者ガ水ノ滸ニ立ツヲ見タリ。【足洗】或時家來ノ者足ヲ洗ヒニ行キテ河童ニ引込マレントシ、之ト鬪ヒテ其腕ヲ斬リテ持歸ル。其河童ハ如何ナル仔細アリテカ手ノ返却ヲ求メニ來ラズ、故ニ今モ此家ノ寶物ナリ。每年夏ノ始ニナレバ取出シテ之ヲ水ニ浸シ、親族朋友ノ家ノ子供ヲ集メテ其水ヲ飮マシム。斯クスレバ永ク河童ノ災ニカヽルコト無シトノコト也〔水虎錄話〕。伏見ノ和田氏ナドモ子孫貧苦ニ迫リ、此一物ヲ筐底ヨリ取出シテ世ノ中ニ吹聽シタリトスレバ、其動機必ズシモ初代ノ武功ヲ誇ルニ止ラザリシナランカ。此モ亦有リ得べカラザル推測ニハ非ズ。

 

《訓読》

 河童敗衄(はいぢく)[やぶちゃん注:敗北。]の記錄は右の外にも、猶ほ多し。【水邊(みづべ)の牧】例へば、同じ長門の大津郡向津具(むかつぐ)村は出島(でじま)なり。村に杉谷池と云ふ池あり。每年、領主の馬を預りて、此の池の堤に野飼するを例(ためし)とす。又、河童あり。手續きは型の通りにして、馬に引き摺られて、厩の中に轉げ込む。【手印(しゆいん)】隣人等、集まり來たり、後代に至るまで向津具一庄(しやう)の中に住むまじき由の券文(けんもん)を代書し、彼(かれ)が手に墨を塗りて、之れを押さしめて、放し還す。此れが爲に、庄内に、河童、永く跡をつ、と云ふ。貞享(ぢやうきやう)年中[やぶちゃん注:一六八四年~一六八八年。]の出來事にして、其の證文は少くとも、寬政の頃まで[やぶちゃん注:一七八九年~一八〇一年。]、村の産土(うぶすな)の社(やしろ)に之れを藏(をさ)めたりき〔「蒼柴園(さうさいえん)隨筆」〕。河童が無筆にして、代書を必要とせしことは、無理も無き話なり。【河童自筆】然るに、或る地方にては、其の證書を以つて、彼(かれ)が自筆に成るものゝごとく傳ふ。現に江戸深川入船町(いりふねちやう)に於いて斯かる例あり。安永年間[やぶちゃん注:一七七二年~一七八一年。]のことなり。或る男、水を泳ぎ居たるに、河童來たりて害を加へんとし、亦、捉へられて陸(をか)に引き上げらる。三十三間堂の前にて打ち殺さんとせしを、見物の中に仲裁を試みたる人あり。河童、詫證文を出だして宥(ゆる)さる。其の一札(いつさつ)には、以來、此の邊りにて、一切、害を爲すまじき由の文言あり。【手印(しゆいん)】且つ、河童の手判(しゆはん)を墨(すみ)を以つて押したるものなりき、と云ふ〔津村氏「譚海」〕。【河童角力(すまふ)】九州は肥前佐賀の藩士大須賀道健が被官(ひかん)、佐賀鄕百石(ももいし)村の某と云ふ者、東淵と云ふ處よりの歸途に、一人の小僧、來たり逢ひ、強ひて角力を取らんことを求む。某、之を諾(だく)して取り組みしに、負けながら、段々と、水の方に、近よる。『さては河童』と心に悟り、此の物、人間の齒を怖(おそ)るゝことを豫(かね)て知りたれば、早速に其の肩のあたりに嚙み附けば、聲を立てゝ、水底(みなそこ)に遁(のが)れ去る。其の夜、河童の來たりて、家を繞(めぐ)りて哀號すること、他國にて腕を斬られたる場合と同じく、「何とぞ、此の傷を治(なほ)して下されよ」と云ふ。其の仔細を聞くに、嚙みたる人が手を以つて其の疵を摩(す)る[やぶちゃん注:さする。]に非ざれば、到底、癒へぬものと見えたり。「汝、若(も)し、此の近邊の人を取らずと誓ふならば、其の請(せい)を允(ゆる)すべし」と云へば、河童、欣々(きんきん)として敬諾(けいだく)し、終(つひ)に紙を乞ひて券(けん)を作り、手印を押して、之れを差し出だす。「汝がごとき者には手を汚(けが)すを欲せず、足で澤山なり」と威張(いば)り、足を展(の)ばせば、ぬるりとして觸るく所ありと云ふ話なり。此の券文も永く勇者が家に傳はれり。其の體(てい)、略(ほぼ)文字のごとくなれども、讀み難し、となり〔「水虎考略」後篇〕。【化物文書】此の話などは、取り分け、虛-誕(うそ)らしけれど、天狗の書と云ひ、狸の自筆など稱するもの、諸國に例多ければ、まだ何とも申し難し。播州佐用郡の某地に一種の骨繼藥(ほねつぎやく)を出す舊家あり。此の家と緣故ある河童のごときは、前者に比しては稍(やや)正直に見ゆ。【野飼】此れは寶永中[やぶちゃん注:一七〇四年~一七一一年。]のことと稱す。七月下旬の殘暑の勞(らう)をいたはるとて、愛馬を野飼の爲に川邊に出だし置きしに、此れ亦、綱の端に河童を引き摺りて、厩に走り入る。【猿】仲間、怪しみて往き見るに、厩の片隅に、猿のやうなる物、手綱(たづな)を身に搦(から)めて居(を)り、駒は向うの方(かた)にて息を繼ぎ居(ゐ)たり。其の物を熟視すれば、猿に似て、猿に非ず、頭上に窪みありて、髮は赤松葉のごとくなり。【河童の手】旦那、歸りて此の始末を聽き、大いに怒り、「此の川原にて、折々、人を取るは、必定(ひつじやう)、汝なるべし」と、忽ち、脇差を拔きて、河童の手を切り落とす。河童、しほしほとして、「どうか、命を助け給へ、今より、此の村の衆には指(ゆび)も差し申すまじ」と言へば、旦那、「其の方を殺したりとて、手柄にも非ず、宥し遣はすべし。詫證文を書け」とあり。【河童藥】「私は、元來、物書くこともならぬ上に、手を御切り成されたれば愈(いよいよ)以つて、書けませぬ。御慈悲に免(ゆる)し給ひ、其の手も返して下され、持つて還つて藥で繼ぎます」と云ふ。旦那、思慮を廻らし、「其の藥は己(おのれ)が調合するのか」と問へば、「なる程、拵へ申す」と答ふ。「然(しか)らば、手を戾し。助くるにより、其の藥方を我に傳へよ。命の代はりなれば安き御事」と、人を拂(はら)はせて[やぶちゃん注:人払いをして、河童と二人きりで。]、備(つぶさ)に祕法を口授(くじゆ)して去る。其の法、甚だ奇にして、子孫、勿論、之れを相續す、と云へり〔「西播怪談實記」〕。【河童の手】此の一條に由つて察するに、詫證文と藥方と片腕とは、河童の主觀に在りては兎も角も、人間に取つては、其の價値、略(ほぼ)同等なりきとおぼし。證文が書けずば祕傳を、片手が欲しければ藥方をと云ふ中にも、手は、河童には、最も大切にして、人間には、比較的、無用なり。渡邊綱にして[やぶちゃん注:のように。]強情を張らざりしならば、何か有利なる「コンミツシヨン」[やぶちゃん注:commission。権限移譲。手数料。歩合。]位(ぐらゐ)は得られし筈なり。其の證據と云ふも妙なれども、近世にもさる例あり。山城伏見の和田某なる者、曾て淀川の堤に道びしに、河童、出でて、足を取り引き入れんとす。和田、強氣(がうき)の男にして、其の手を捉へ、腰刀を以つて之れを切れば、「キヤツ」と叫び、水中に入れり。歸りて、其の手を人に示すに、何(いす)れも彼が剛勇を感ぜざるは無し。此の河童も、夜深く、出直して來たり、切(せつ)に片手の返却を求むること、既に六夜に及ぶ。【河童の祟(たたり)】七日目の夜は、殆んど閉口して、「今夜御返し下されずば、最早、接(つ)ぐことも相ひ成らず」と、打ち明けて、懇願に及びたるにも拘らず、頑(がん)として之れに應ぜざりしかば、茲(ここ)に至つてか、河童、大いに恨み、「此の報(むくひ)には七代の間、家、貧窮なるべし」と咀(のろ)ひて去る。而(しか)も其の手は、永く、和田が家に傳はる、と云ふ〔「諸國便覽」〕。和田氏、貧乏の言譯(いひわけ)としては、目先の變りたる思ひ附きなれども、而も天下の勇士は多くは河童の豫言を待たずして貧乏なり。殊に干涸(ひから)びたる河童の手を家寶とするがごとき氣紛(きまぐ)れ者は、金持になれぬ性分(しやうぶん)とも云ふべし。但し、河童の手の評判、如何にして世に傳はるに至りしかは、考へて見る値(ねうち)[やぶちゃん注:私の当て訓。]あり。今は如何になりしかを知らず、以前、筑後の柳河藩の家老某氏の家にも一本の河童の手を藏(ざう)せりき。此の家の側に近く、大なる池ありて、家人、時として、四、五歳の小兒の、猿に似て、猿に非ざる者が、水の滸(ほとり)に立つを見たり。【足洗(あしあらひ)】或る時、家來の者、足を洗ひに行きて、河童に引き込まれんとし、之れと鬪ひて、其の腕を斬りて、持ち歸る。其の河童は如何なる仔細ありてか、手の返却を求めに來たらず、故に、今も此の家の寶物なり。每年、夏の始めになれば、取り出だして、之れを水に浸し、親族・朋友の家の子供を集めて、其の水を飮ましむ。斯(か)くすれば、永く、河童の災(わざはひ)にかゝること無し、とのことなり〔「水虎錄話」〕。伏見の和田氏なども、子孫、貧苦に迫り、此の一物(いちもつ)を筐底(きやうてい)より取り出だして、世の中に吹聽(ふいちやう)したりとすれば、其の動機、必ずしも初代の武功を誇るに止(とどま)らざりしならんか。此れも亦、有り得べからざる推測には非ず。

[やぶちゃん注:ここは柳田先生、なかなか余裕を持ってユーモアに富んで書いておられる。

「敗衄(はいぢく)」「衄」(音は現代仮名遣「ジク」)は「挫(くじ)ける・敗れる」の意で「敗北」に同じ。

「長門の大津郡向津具(むかつぐ)村は出島(でじま)なり」現在の長門市油谷の北西端の半島部に当たる山口県長門市油谷(ゆや)向津具上(むかつくかみ)向津具下(むかつくしも)(国土地理院図)。現行では表記した通り、「むかつく」と清音である。ここは航空写真(グーグル・マップ・データ)で見て分かる通り、同地区の油谷島が陸繋島であるだけでなく、向津具地区全体が東で有意に縊れて出島風になっている半島であることから、かく言ったものであろう。因みにここは驚きの伝楊貴妃の墓(山口県長門市油谷向津具下のここ(グーグル・マップ・データ)があることで知られる地である。

「杉谷池」この向津具地区は国土地理院図で見ても、大きな池が十数箇所、小さな池沼に至っては数え切れぬほどあり(さればこそ河童にとっては本来なら、よき棲息環境とは思われる)、この名称の池は同定出来なかった。話柄から推して相応に大きな池とは思われるものの、それでも複数あり、同定出来ない。

「向津具一庄(しやう)」この「庄」は単に「村里」の意。

「券文(けんもん)」本来は律令制下に於いて、土地・牛馬・家屋等の売買にあって必要な交感約定書類を指す。「券契」とも言う。ここは単に誓約文書の意。

「貞享(ぢやうきやう)年中」これは徳川綱吉の治世だ。ああ、そうか! ここで他と違って打ち殺されそうになるシーンが挟まれないのは(原典に当たっていないのであるのかも知れぬが)「生類憐れみの令」(貞享四(一六八七)年十月に始まるとされる)絡みかな?

「村の産土(うぶすな)の社」当地の旧郷社である油谷向津具下にある向津具八幡宮か。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「江戸深川入船町」現在の中央区明石町の聖路加病院附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。因みに「河童」(リンク先は私の電子テクスト)を書いた芥川龍之介の生地である。

「三十三間堂」江戸三十三間堂。江戸時代、江戸の富岡八幡宮の東側(現在の江東区富岡二丁目附近。ここ(グーグル・マップ・データ))にあった仏堂で本尊は千手観音であった。現在の入船町とは隅田川挟んで東へ二キロメートルほど行った位置であるが、隅田川の中で格闘して東へ流れて行って、ここで陸へ上がったものと思えば、不審なロケーションではない。ウィキの「江戸三十三間堂」によれば、『京都東山の三十三間堂(蓮華王院)での通し矢の流行をうけて』、寛永一九(一六四二)年に『弓師備後という者が幕府より』、『浅草の土地を拝領し、京都三十三間堂を模した堂を建立したのに始まる』。翌寛永二十年四月の『落成では、将軍徳川家光の命により』、『旗本吉田久馬助重信(日置流印西派吉田重氏の嫡子)が射初め(いぞめ)を行った』。その後、元禄一一(一六九八)年の『勅額火事により焼失したが』、三年後の元禄十四年に『富岡八幡宮の東側』『に再建された。しかし』、明治五(一八七二)年、悪名高き神仏分離と廃仏毀釈によって、『廃されて堂宇は破却された』。『京都の通し矢同様、距離(全堂・半堂など)、時間(一昼夜・日中)、矢数(無制限・千射・百射)の異なる種目があり流行した。記録達成者は「江戸一」を称した』とあり、寧ろ、剛腕の主人公が河童を平伏させ、詫び請文を書かせるに相応しいロケーションと言うべきであろう。

『津村氏「譚海」』私は遅筆ながら、同書の電子化注を行っており、幸いにしてこれは「譚海 卷之二 江戸深川にて川太郎を捕へし事」で電子化注を終わっている。見られたい(直前の注はそれを援用した)。

「河童角力」河童が習性として相撲をとることを好むというのは知られた話であるが、このケースを見るに、相撲は口実で、川に引き込んで尻子玉を抜くことが真の目的であるように見えてくる。

「肥前佐賀ノ藩士大須賀道健」『佐賀医学史研究会報』第百十(二〇一八年二月発行・PDF)の「緒方洪庵の大坂適塾と肥前門人」のリストの中に、佐賀藩の大須賀道貞なる者が万延元年六月九日に緒方洪庵の大坂適塾に入門したという記載があるから、この人物の先祖の一人かとは思われる。「道健」という名は如何にも後代に医師となりそうな感じではある。但し、彼の「被官」(近世に於いては町家の下男・下女をかく称したから、ここも藩士大須賀道健家に雇われた中間(ちゅうげん)等であろうと思われる)の「佐賀鄕百石(ももいし)村」(国土地理院図で発見した。ここ。グーグル・マップ・データではこの中央辺りで、現在の佐賀県佐賀市高木瀬町大字長瀬で、ネット記事を見ると、小字地区名で「百石」は生きているようである)出身の「の某」が主人公なので、ご注意あれ。

「東淵」百石から巨勢川を跨いだ東の、現在の佐賀市金立町(きんりゅうまち)大字薬師丸のここの中央位置(国土地理院図であるが、あまり大きくすると、「東渕」の地名が消えてしまうので注意されたい)「東渕」の地名(地区名か)が現存する。

「人間の齒を怖る」これは私は初めて聴いたのだが、サイト「カッパ研究会」のこちらに、『日本の各地に、河童が子どもの尻小玉を抜いたとの話が伝わっています』。『確かに、河童はキュウリだけでなく生肝も好きです。最初は口から手を入れて肝を抜いていたのですが、人の歯が強いことを知ってからは、歯のないお尻から手を入れて生肝を抜くようになりました』。『でも、肝も好きになったのは、明治以降のことで、最初の頃は肝が好きなわけではなかったのですよ』。『生肝を好む由来は、中国の「竜宮の乙姫様の病気に猿の生肝がよいので、亀やクラゲが猿を連れてくるが、猿が途中で逃げる」伝承から来ているのだと思います。この話は江戸時代は、亀が生肝と抜きに行く小咄のネタになっていますから、本当に肝がすきなのは亀です。この肝が薬になる伝承と、「川に捨てられた河童が、食べるものがないと答えると、尻でも食べろ」と言われる、話が重なりあったのではないでしょうか』。『河童族にとっては迷惑な話です。最初は口から生肝を抜いていたが、尻から抜くようになる伝承は、佐賀県や福岡県などに伝わっています』とあったので、これはもう、納得!!!

「允(ゆる)すべし」「允」(音「イン」)には原義に「認めて許す」の意があり、訓で「ゆるす」と読む。熟語として「允可」「允許」「承允」等がある。

「欣々(きんきん)」非常に楽しげにするさま。にこにこ微笑んで喜ぶさま。

「敬諾(けいだく)」謹んで承知すること。

「券(けん)」先の「券文(けんもん)」に同じ。広く各種の証明手形や割符(わりふ)等もかく言う。

「狸の自筆」私の電子化した類話の中でも、特に忘れ難いしみじみとした話は、「想山著聞奇集 卷の四 狸、人に化て來る事 幷、非業の死を知て遁れ避ざる事」である。筆ではないけれど、「形見の手形」が出る(挿絵有り)。未読の方は、是非読まれたい。

「播州佐用郡」概ね、現在の兵庫県佐用町(さようちょう)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「柳河藩」有明海湾奧の筑後国柳河(現在の福岡県柳川市。ここ(グーグル・マップ・データ))に居城を置いた外様藩。]

2019/01/29

和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 治鳥(ぢちやう) (実は妖鳥「冶鳥(やちょう)」だ!)

 

Jityou

 

ぢちやう   附

        天狗

        天魔雄

治鳥

 

ツウニヤ◦ウ

 

本綱越地深山有之大如鳩青色穿樹作窠大如五六升

噐口徑數寸餝以土堊赤白相間狀如射侯伐木者見此

樹卽避之犯之則能役虎害人燒人廬舎白日見之鳥形

也夜聞其鳴鳥聲也或作人形長三尺入澗中取蟹就人

間火炙食山人謂之越祀祖

△按先輩僉云治鳥乃本朝所謂天狗之類矣羅山文集

 云日光山有天狗好棲息于長杉猶是愛宕山大杉榮

 術太郞之所居之類也歟蓋指鬼魔而言也夫天狗者

 星名也我朝浮修驗者欲恐怕世俗扇惑庸愚而使

 己術售之故唱天狗名以訇之歟但深山幽谷其氣之

 所及則山都木客亦有之乎猶如大海有鯨鯢又奚疑

△或書云服狹雄尊猛氣滿胸腹而餘成吐物化成天狗

 神姫神而軀者人身頭獸首也鼻高耳長牙長左右不

 隨意則太怒甚荒雖大力神乃懸于鼻挑千里雖强堅

 刀戈輙咋掛於牙壞以作叚叚毎事不能穩止以在左

 者早逆謂爲右又在前者卽謂爲後自推名兮名

 毎姫吞天之逆氣獨身而生兒名天魔雄神不順 天

 尊命諸事造爲不成順善八百萬神等悉方便矣

 祖赦使天魔雄神王九虛而荒神逆神皆屬之託心腑

 變意令敏者高之使愚者迷之【此乃俗云天狗及天乃佐古之類乎非爲正

 記之備考】

 北國能登海濱有天狗爪往往拾取之大二寸許末尖

 微反色潤白如小猪牙而非牙全爪之類也疑此北海

 大蟹之爪也歟若夫天狗之爪者可有處處深山中何

 有海邊耶

 

 

ぢちやう   附〔(つけた)〕り

        天狗

        天魔雄(あまのざこ)

治鳥

 

ツウニヤ

 

「本綱」、越〔の〕地の深山に、之れ、有り。大いさ、鳩のごとく、青色。樹を穿(うが)ち、窠を作る。大いさ、五、六升の噐、口徑、數寸。餝〔(かざ)〕るに土〔(あかつち)と〕堊〔(しつくい[やぶちゃん注:歴史的仮名遣はこうである。「漆喰」は当て字で「しつくひ」ではない。])〕を以つてす。赤・白、相ひ間(まじ)はる。狀、射-侯(まと)[やぶちゃん注:弓の的。]のごとし。木を伐る者も、此の樹を見れば、卽ち、之を避く。之れを犯すときは、則ち、能く役-虎(たゝ)り[やぶちゃん注:「祟り」。]、人を害す。〔その〕人の廬-舎〔(いへ)〕を燒き、〔→く。〕白日、之れを見れば、鳥の形なり。夜、其の鳴くを聞くも、鳥の聲なり。〔しかれども、〕或いは人の形と作〔(な)〕る。長〔(た)〕け〔は〕三尺〔にして〕、澗(たに)の中に入りて、蟹を取りて、人間の火に就〔(つ)き〕て[やぶちゃん注:人の熾(おこ)している焚火の傍にやってきて。]、炙りて食ふ。山人、之れを「越〔の〕祀〔(かみ)〕の祖」と謂ふ。

△按ずるに、先輩[やぶちゃん注:良安の先輩の学者たち。]、僉(みな)[やぶちゃん注:「皆」。]、云はく、「治鳥、乃〔(すなは)ち〕、本朝の所謂〔(いはゆる)〕、天狗の類か」と。「羅山文集」に云はく、日光山に、天狗、有り。好んで長〔(たか)〕き杉に棲-息(す)む。猶ほ、是れ、愛宕(あたご)山の大杉は榮術太郞〔(えいじゆつたらう)〕の居する所といふの類ひのごとくなるか。蓋し、鬼魔[やぶちゃん注:超自然のやや魔性に傾いた存在、鬼神・魔神・荒ぶる神ほどの意味か。]を指して、言ふなり。夫〔(そ)〕れ、天狗〔(てんこう)〕は星の名なり。我が朝、浮屠〔(ふと)〕[やぶちゃん注:僧侶。]・修驗者、世俗を恐-怕(をど)し、庸愚(ようぐ)[やぶちゃん注:平凡でおろかな一般人。]を扇-惑(まどは)し、己〔(おの)〕が術をして、之れを售(う)らん[やぶちゃん注:「賣らん」に同じ。]と欲するの故、天狗の名を唱へ、以つて之れを訇(のゝし)るか。但し、深山幽谷には、其の氣の及ぶ所、則ち、山都〔(さんと)〕・木客〔(もつかく)〕も亦、之れ、有るか。猶ほ、大海に鯨-鯢(くじら)有るがごときも、又、奚(なん)ぞ疑はん。

△或る書に云はく、服狹雄尊(そさのをのみこと)[やぶちゃん注:「素戔嗚命(すさのをのみこと)」に同じ。]猛〔き〕氣、胸・腹に滿ちて、〔その〕餘り、吐物と成る。〔それ、〕化して天狗神と成る。姫神[やぶちゃん注:女神。]にして、軀は人の身、頭は獸の首なり。鼻、高くして、耳、長く、牙、長し。左-右(ともかく)も、〔他の〕意に隨はず、則ち、太(にへざま)に[やぶちゃん注:不詳。「煮え樣に」で。煮え立つように、激しくの意か。東洋文庫訳は『大へんに』と訳している。]怒り、甚だ荒(すさ)む。大力の神と雖も、乃〔(すなは)〕ち、鼻に懸け、〔即座に〕千里へ挑(はね)る。强堅の刀戈〔(とうくわ)〕[やぶちゃん注:刀や矛。]と雖も輙〔(すなは)〕ち咋(か)みて牙に掛けて壞して、以つて叚叚(づたづた)と作〔(な)〕す。毎〔(つね)〕に、事、穩止(をんとうにす)ること能はず[やぶちゃん注:穏当にすることが出来ず。]、左に在〔(あ)〕る者を以つて、早〔(はや)〕逆〔(さから)ひ〕て「右爲(た)り」と謂ひ、又、前に在る者は、卽ち、「後(しりへ)爲〔(た)〕り」と謂ふ。自〔(みづか)〕ら推〔(お)〕して名づけて、「天逆毎姫(〔あま〕のさこの〔ひめ〕」と名づく。天〔(てん)〕の逆氣〔(さかき)〕を吞みて、獨り〔にて〕身(はら)みて兒を生む。「天魔雄神(〔あま〕のさかをの〔かみ〕」と名づく。天尊の命に順はず、諸事の造-爲(しわざ)に〔も〕、順-善(よきこと)〔を〕成さず、八百萬神〔(やほよろづのかみ)〕等〔(ら)〕、悉く、--便(もてあつか)ふ[やぶちゃん注:持て余してしまった。]。天祖、赦〔(ゆる)〕して、天魔雄神(〔あまのさかを〕の〔かみ〕」をして、九虛に王たらしめ、荒(あらぶ)る神、逆(さらふ)る神〔は〕皆、之れに屬す。〔かの神どもは〕心腑〔(しんぷ)〕に託〔(たく)〕し[やぶちゃん注:憑依し。]、意〔(おもひ)〕を變じ、令敏(さと)き者をして之れを高ぶらしめ、愚かなる者をして之れを迷はしむ【此れ、乃〔(すなは)〕ち、俗に云ふ、天狗及び「天(あま)の佐古(ざこ)」の類ひか。正と爲るに非ざるに、〔→非ざれども、〕之れを記して考ふるに備ふ〔るものなり〕。】。

北國〔の〕能登の海濱〔に〕「天狗の爪」有り、往往〔にして〕之れを拾ひ取る。大いさ、二寸許り、末、尖り、微かに反(そ)り、色、潤白〔にして〕小さき猪(ゐ)の牙(き〔ば〕)のごとくにして、牙に非ず。全く、爪の類いなり。疑ふらくは、此れ、北海〔の〕大蟹〔(おほがに)〕の爪か。若〔(も)〕し、夫〔(そ)〕れ、「天狗の爪」ならば、處處の深山の中に有るべし。何ぞ海邊に有らんや。

[やぶちゃん注:私は実は「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」(サイト一括版)の「野女」で、本項を既に電子化注している。しかし、今回は全くゼロから再度、電子化し、注も新たに施した。しかし、はっきり言って、狭義の妖鳥治鳥については四世紀に東晋の干宝が著した志怪小説集「捜神記」の巻十二の以下以外には、ロクな記載がない。

但し! ここに重大な発見があった!

 「搜神記」のそれは

「治鳥」(じちょう)ではなく、「冶鳥」(やちょう)

ということである! しかも、そこでは、より豊かにして詳細な、奇体なる習性が語られてあるのだ。

   *

越地深山中有鳥、大如鳩、靑色。名曰「冶鳥」。穿大樹、作巢、如五六升器、口逕數寸、周飾以土埡、赤白相分、狀如射侯。伐木者見此樹、卽避之去。或夜冥不見鳥、鳥亦知人不見、便鳴喚曰、「咄咄上去」。明日便宜急上。「咄咄下去」、明日便宜急下。若不使去、但言笑而不已者、人可止伐也。若有穢惡及其所止者、則有虎通夕來守、人不去、便傷害人。此鳥、白日見其形、是鳥也。夜聽其鳴、亦鳥也。時有觀樂者、便作人形、長三尺、至澗中取石蟹、就人炙之。人不可犯也。越人謂此鳥「是越祝之祖」也。

   *

勝手自然流で私の理解を当て訓しながら訓読すると(但し東洋文庫の竹田晃氏の訳文を参考にした)、

   *

 越の地の深山の中に、鳥、有り、大いさ、鳩のごとく、靑色。名づけて「冶鳥(やてう)」と曰ふ。

 大樹を穿ち、巢を作り、五、六升の器(うつは)のごとく、口、逕(さしわたし)數寸、周(まは)り、土(あかつち)と埡(しつくい)を以つて飾り、赤・白、相ひ分け、狀(かたち)、射侯(しやこう)のごとし。

 木を伐る者、此の樹を見れば、卽ち、之れを避けて去る。

 或いは、夜冥(やめい)、鳥、見えず、鳥も亦、人の見えざるを知れば、便(すなは)ち、鳴き喚(わめ)きて曰はく、

「咄咄上去(とつとつじやうきよ)。」[やぶちゃん注:現代中国語では、「duō duō shàng qù」(ドゥオ・ドゥオ・シァン・チュィー)。]

とならば、明日(みやうじつ)、便ち、宜しく、急ぎ上(のぼ)るべし。

「咄咄下去(とつとつげきよ)。」[やぶちゃん注:現代中国語では、「duō duō xià qù」(ドゥオ・ドゥオ・シィア・チュィー)。]

とならば、明日、便ち、宜しく、急ぎ下るべし。若(も)し、去らしめず、但(た)だ、言ふに、笑ひて已(や)まざるのみならば、人、止(とど)まりて伐るべし。若し、其の止まる所に穢惡(あいあく)有るに及びては、則ち、虎、有りて、夕べを通して守りに來たれば、人、去らざれば、便ち、人を傷害す。

 此の鳥、白日、其の形を見るに、是れ、鳥なり。夜、其の鳴くを聽くも亦(また)、鳥なり。時に、觀樂せる者、有り、便ち、人の形(なり)を作(な)し、長(たけ)三尺にして、澗(たに)の中に至り、石蟹(いしがに)を取り、人に就(したが)ひて、之れを炙(あぶ)れり。人、犯すべからず。

 越人(えつひと)、此の鳥を「是れ、『越祝(えつのはふり)の祖』なり」と謂ふなり。

   *

この文章を見ると、「治鳥」ではない、「冶鳥」の意が判然としてくるのだ!

「冶」は「冶金(やきん)」で知れる通り、「ある対象を練り上げ、捏ね上げて作る」の意である。「土」(この場合は「赤土(あかつち)」と採る)と「埡」(「堊」に同じく、「白土(しろつち)・石灰・漆喰」。但し、建築材料としてのそれは、石灰に麻の繊維・草本類・海藻等から得られた糊様の物質と水などを加え、練り上げて作られた白色の人工素材である。ここでの「土堊」はそうした人為的な建築材料ではなく、ほぼ石灰から成る天然の漆喰を指していよう。顔料としてのそれは既に高松塚古墳壁画等にも既に用いられている)の二色の土を捏ね上げて巣を作るから「冶」

なのであり、しかも、

「冶」には別に「艶(なま)めく・艶めかしい・美しく飾る」の意があるのだ! そうだ! 彼は巣を「土(あかつち)と埡(しつくい)を以つて」「赤・白、相ひ分け」て「飾り」、その「狀(かたち)」はあたかも、描かれた、きっちりとデザインされた、「射侯」(しゃこう)弓の的のように素晴らしく、目立つもので、だから、木樵にもよく判る

というのである!(こんなに論理的に明解に腑に落ちる志怪小説は珍しい!) 貧弱なちゃちなミイラみたようになった良安の引く「本草綱目」よりずっといい。但し、「本草綱目」には良安の引用した後に(実は時珍はちゃんと頭で『時珍曰、按干寳「搜神記」云』と添えている)、以下が続いている。

   *

又、段成式「酉陽雜俎」云、俗、昔有人遇洪水、食都樹皮、餓死化爲此物。居樹根者爲猪都、居樹中者爲人都、居樹尾者爲鳥都。都、左脇下有鏡印、闊一寸一分。南人食其窠、味如木芝也。竊謂、獸有山都・山𤢖・木客、而鳥亦有治鳥、山蕭・木客鳥。此皆戾氣所賦、同受而異形者與。今附于左。[やぶちゃん注:として以下に「附錄」として「木客鳥」を載せるが、これは次の次の項に独立項として出るのでそちらで示すこととして略す。]

   *

この際、これも力技で訓読しておくと(但し、東洋文庫の今村与志雄氏の「酉陽雜俎」の巻十五の「諾皐記(だくこうき)下」の元の文の訳文を参考にしたが、時珍は原文を有意に省略してしまっている)、

   *

又、段成式が「酉陽雜俎」に云はく、俗にくに、『昔、人の洪水に遇ふ有りて、都樹(とじゆ)の皮を食ひ、餓死し、化(か)して此の物と爲(な)る。樹の根に居る者、「猪都」と爲し、樹の中に居る者を「人都」と爲し、樹の尾[やぶちゃん注:頂きの意か。]に居る者を「鳥都」と爲す。「鳥都」は、左の脇の下に鏡(かがみ)の印(しるし)、有り、闊(ひろ)さ[やぶちゃん注:直径。]一寸一分[やぶちゃん注:段成式は唐代(中晩唐期)で当時のそれは三・四二センチメートル。]。南人、其の窠を食ひ、味、木芝(もくし)[やぶちゃん注:菌界担子菌門真正担子菌綱タマチョレイタケ目マンネンタケ科マンネンタケ属レイシ(霊芝)Ganoderma lucidum 或いはその仲間。]のごとくなりと』〔と〕。竊(ひそか)に謂はく、『獸に、「山都」・「山𤢖」・「木客」、有り。而して鳥にも亦、「治鳥(ぢてう)」・「山蕭(さんせう)」・「木客鳥」、有り。此れ皆、戾氣(れいき)所賦(しよふ)[やぶちゃん注:極めて悪性の邪気を生まれつき与えられていることの意であろう。]にして、同じく受くも、異形をなせる者か。今、左に附す。

   *

実在する鳥より、やっぱ、幻想の鳥はええなあ! 超惹かれるわ!

 

「五、六升の噐」「捜神記」は四世紀の東晋の干宝の著で、当時の一升はぐっと少なく〇・二リットルであるから、一~一・二リットルにしかならない(因みに、明の時珍の頃は一・七リットルだからエラい読み違いをしていたに違いない)。

「口徑」直径。

「數寸」六掛けで十八センチメートルだが、一・二リットルからはちと大き過ぎる。絵を良く見るに、「きんかくし」型で底が長円形をしているから。これを長径とっておけば、辻褄は合いそうだ。

「〔(あかつち)と〕堊〔(しつくい)〕」東洋文庫訳は「土堊」で『しつくい』のルビを振っている。白い漆喰だけでどうやって「赤・白、相ひ間(まじ)はる」「射-侯(まと)」のようなデザインが作れるんですかっつーうの!!!

「役-虎(たゝ)り」当初、この訓を不審に思っていたのであるが、これは「捜神記」の「則有虎通夕來守、人不去、便傷害人」の部分を圧縮したもので、「能く虎を役(えき)し、人を害す」(よく虎を使役して、人を害する)だがね! 良安先生、こりゃ誤訓読でっせ! でもね、東洋文庫訳は誤魔化して漢字を出さずに『これを犯すとたたり危害を加え』ってなっている。これは掟破りでショウ!!!

「或いは人の形と作〔(な)〕る」ある時は、人の姿に変ずる。

「長〔(た)〕け〔は〕三尺」背丈は(東晋のそれ(一尺は二十四・二四センチメートル)で換算)七十三センチメートルに足りない小人である。

「澗(たに)」渓谷。

「蟹」「捜神記」は「石蟹」であるが、山中の渓谷であり、竹田氏も『沢蟹』と訳す。「石」の下にいる「蟹」ほどの意味で、確かにそれでよいが、ただ、甲殻亜門軟甲(エビ)綱十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目カニ下目サワガニ上科サワガニ科サワガニ属サワガニ Geothelphusa dehaani 日本固有種で、実は中国にはいない。従ってサワガニ科 Potamidae のサワガニの仲間で、調べてみると、中文サイトでは近溪蟹亞科 Potamiscinaeの属群が相当するようである。

『山人、之れを「越〔の〕祀〔(かみ)〕の祖」と謂ふ』昔の越(春秋戦国時代に遡る古代の国の旧名。ここはそれに相当する浙江省杭県以南の東海に至る地方を指す)の内陸の山間部の人々は土地神の化身としていたのである。

「本朝の所謂〔(いはゆる)〕、天狗」ウィキの嫌いのアカデミストのために、ウィキの「天狗」は引かずに(かなりマニアックにいい線いってるんだけどねぇ)小学館「日本大百科全書」の「天狗」を引く(井之口章次氏の解説。読みは一部を省略した)。『山中に住むといわれる妖怪。中国では、流星または彗星が尾を引いて流れるようすを、天のイヌまたはキツネに例え、仏教では夜叉や悪魔のように考えられていた。日本では仏教を、当初は山岳仏教として受け入れ、在来の信仰と結び付いた修験道を発達させたが、日本の天狗には修験道の修行者=山伏の姿が色濃く投影している。一般に考えられている天狗の姿は、赤ら顔で鼻が高く、眼光鋭く、鳥のような嘴をもっているか、あるいは山伏姿で羽根をつけていたり、羽団扇(はうちわ)を持っていて自由に空を飛べるといったりする。手足の爪が長く、金剛杖や太刀を持っていて神通力があるともいう。これらの姿は、深山で修行する山伏に、ワシ、タカ、トビなど猛禽の印象を重ね合わせたものである。また天狗の性格は、感情の起伏が激しく、自信に満ちてときに増上慢であるが、一方では清浄を求めてきわめて潔癖である。天狗に大天狗と、烏天狗や木(こ)っ葉(ぱ)天狗などとよばれる小天狗との別があるというのも、山伏が先達(せんだつ)に導かれながら修行するようすを投影したものであろう』。『人が突然行方不明になることを、神隠しにあったという。中世以前はワシや鬼に連れ去られたといったが、近世以後は天狗にさらわれたという事例が急増する。天狗にさらわれた子供が数日たって家に戻ってきたり、空中を飛んだ経験を話して聞かせたなどの記録が残っている。近代の天狗のイメージには、近世に形成されたものが多いようである。妖怪を御霊(ごりょう)信仰系のものと祖霊信仰系のものとに大別すると、天狗は後者に属する。中国伝来の諸要素を多く残しながら、祖霊信仰に組み入れることによって山の神の性格を吸収したのであろう。そのため群馬県沼田市の迦葉山弥勒寺(かしょうざんみろくじ)、栃木県古峯原(こぶがはら)の古峯(ふるみね)神社、そのほか修験道系統の社寺において、天狗を御神体もしくは使令(つかわしめ)(神様のお使い)として信仰する例が多い』。『天狗がまったく妖怪化した段階では、種々の霊威・怪異の話が伝承されている。子供をさらって行くというのもその一つであるが、各地の深山で天狗倒し・天狗囃子(ばやし)などの話がある。天狗倒しは、夜中に木を伐る音、やがて大木の倒れる音がするが、翌朝行ってみるとどこにも倒れた木がないという怪異現象であり、天狗囃子は、どこからともなく祭囃子の音が聞こえてくるというものである。村祭りの強烈な印象や、祭りの鋪設(ほせつ)のための伐木から祭りへの期待感が、天狗と結び付いて怪異話に転じたものであろう。そのほか、山中で天狗に「おいおい」と呼ばれるとか、どこからともなく石の飛んでくるのを天狗のつぶてということがある。昔話では、かなり笑話化されているが「隠れ蓑笠」というのがある。むかし、ある子供が「めんぱ」[やぶちゃん注:「面桶(めんつう:「ツウ」は「桶」の唐音)一人前ずつの飯を盛った曲げ物の弁当箱。破子(わりこ)に同じい。]に弁当を入れて山へ行く。天狗がいるので「めんぱ」でのぞき、京が見える、五重塔が見えると欺く。天狗が貸せというので隠れ蓑笠と交換する。天狗はのぞいてみたが何も見えないので、だまされたと気づいて子供を探すが、隠れ蓑笠を着ているのでみつからない。子供は隠れ蓑笠を使って盗み食いする。あるとき母親が蓑笠を焼いてしまう。灰を体に塗り付けて酒屋で盗み飲みすると、口の周りの灰がとれて発見され、川へ飛び込んで正体が現れるといった類の話である。伝説には天狗松(天狗の住む木)などがあり、民家建築の棟上げのとき、棟の中ほどに御幣を立ててテンゴウサマ(天狗様)を祭る所もある』とある。う~ん、やっぱ、ウィキの「天狗」の方が、本邦での天狗の進化については、遙かに合点がいきますがねぇ(実は引かないのは、あまりに叙述が長いからである)

「羅山文集」江戸初期の朱子学派儒学者で、幕府ブレーンとなる林家の祖である林羅山(天正一一(一五八三)年~明暦三(一六五七)年)の死後(寛文二(一六六二)年)に編された著作大成。全七十五巻。約二千篇に及ぶ考証随想。他の資料を参考に原文を国立国会図書館デジタルコレクションの画像から探そうとしたが、上手くいかなかった。そのため、どこまでが羅山の文なのか不明である。

「日光山」現在は栃木県日光市にある輪王寺(日光東照宮の東隣り。の附近一体。グーグル・マップ・データ)の山号。江戸時代には日光寺社群を総称して日光山と呼んだ。『日光山は勝道上人(奈良時代後期から平安時代初期の人物)が開いた現日光の山岳群』、『特にその主峰である男体山を信仰対象とする山岳信仰の御神体』乃至『修験道の霊場であった』。『日光が記録に見えてくる時期は、禅宗が伝来し』、『国内の寺院にも山号が付されるようになり、また関東にも薬師如来像や日光菩薩像が広く建立され真言密教が広がりを見せる平安時代後期』乃至『鎌倉時代以降である。下野薬師寺の修行僧であった勝道一派が日光菩薩に因んで現日光の山々を「日光山」と命名した可能性も含め、遅くても鎌倉時代頃には現日光の御神体が「日光権現」と呼ばれ』、『また「日光山」や「日光」の呼称が一般的に定着していたものと考えられる』(以上はウィキの「日光山」による)。因みに、この天狗は日光山東光坊といい、平田篤胤の「仙境異聞」には、この山には数万の天狗がいたと記している。

「愛宕山」(あたごやま/あたごさん)は現在の京都府京都市右京区の北西部、旧山城国及び丹波国国境にある山。標高九百二十四メートル。ここ(グーグル・マップ・データ)。山頂は京都市にあるが、約一・五キロメートル西には市境があり、山体は亀岡市に跨る。京都盆地の西北に聳え、東北の比叡山と並び、古くから信仰の山とされた。神護寺などの寺社が愛宕山系の高雄山にある。山頂に愛宕神社があり、古来より「火伏せの神」として信仰を集める、全国の愛宕社の総本社である。

「榮術太郞〔(えいじゆつたらう)〕」の読みは「日文研」の「怪異・妖怪画像データベース」の「愛宕栄術太郎;アタゴエイジュツタロウ」に拠った。ウィキの「太郎坊によれば、彼は京都の愛宕山に祀られる天狗の頭目である「愛宕太郎坊天狗」の別名で、多くの眷族を従える、「日本一の大天狗」の異名を持つ、全国代表四十八天狗及び八天狗の一人である。また、江戸中期に書かれた「天狗経」によれば、本邦には四十八種、十二万五千五百もの天狗が数え挙げられてあるが、その中でも有力な八大天狗の一人で、東の富士山頂に棲む富士太郎に対する、西国を代表する天狗とし、伝承では、この太郎坊は、仏の命によって「大魔王」となったのであり、衆生利益を目的として愛宕山を護持しているとする。国立国会図書館の「レファレンス協同データベース」の京都市図書館の「愛宕山の太郎坊天狗について」の事例回答によれば、『愛宕山の天狗は古くから文献に登場しますが』、『固有名がありませんでした。『源平盛衰記』の巻』八『「法皇三井灌頂の事」における後白河法皇と住吉明神の問答の中で』、『初めて「太郎坊」の名が出てきたようです』が、「源平盛衰記」の『成立年代は不明です。また』久寿二(一一五五)年の『藤原頼長の日記には愛宕山の天狗とあるのみで』、二十『年ほど後の』安元三(一一七七)年の『京都大火は愛宕山の天狗が引き起こしたとして「太郎焼亡」と呼ばれ』、『当時の検非違使の記録にも火事名「太郎」が記されています』とあり、知切光歳著の「天狗の研究」による以下の根拠が挙げられてある(一部に私が追記・表現の変更を施ししているので引用符は振らない)。

・平安末期に成立した「今昔物語集」に於いて、異国の天狗が、まず頼ってきたのが、愛宕の天狗であったこと。

・左大臣藤原頼長(保安元(一一二〇)年~保元元(一一五六)年)が近衛帝調伏の釘を打ち付けたのが、愛宕の天狗像であること。

・王朝期の天狗といえば、事あるごとに、愛宕の天狗が介入していること。

・日本の天狗名第一号が愛宕山の「太郎坊」であること。

・「太郎坊」は古書に最もよく名前の出てくる天狗であること。

そうして、その下方の「回答プロセス」の中に、「山城名勝志」(大島武好(元は山城国の菓子屋で、早くから京に出て、野々宮家に仕えた)が三十余年を費やして宝永二(一七〇五)年刊行した、史料を引用して成しあげた山城国地誌。全二十一巻)に載る「白雲寺縁起」(ここの鎮守神であったと思われるものが阿多古(あたご)神社で、現在の愛宕神社)に始めて(少なくともこの調査者にとっては)「太郎坊一名栄術太郎」と出るとある。

「天狗〔(てんこう)〕は星の名なり」本邦の「天狗」(てんぐ)と差別化するために、東洋文庫訳のルビを採用した。「天狗星」「天狗流星」とも。本来、中国では流星・彗星の内、大気圏内に突入し、火と音を発するものをかく言った。良安が初め、如何にも不信感を以って書いている通り、現在、我々が知る鼻の長い「天狗」なるものは実は純国産の妖怪なのである。「史記」の「天官書 第五」には以下のように記載される(原文はネット上の中文サイトのものを参考にし、書き下し・語注及び訳には明治書院の新釈漢文体系四十一「史記 四 八書」を参考にした)。

   *

天狗、狀如大奔星、有聲、其下止地、類狗。所墮及望之如火光炎炎沖天。其下、圜如數頃田處、上兌者則有黃色。千里、千里破軍殺將。

   *

 天狗は、狀(かたち)、大奔星(だいほんせい)のごとく、聲、有り。其れ、下りて地に止(とど)まらば、狗(いぬ)に類(に)たり。堕(お)つる所、之れを望むに、火光(くわこう)のごとく、炎炎として天に沖(のぼ)る。其の下は圜(まろ)きこと、數項(すうけい)の田處(でんしよ)のごとくにして、上兌(じやうえい)は、則ち、黃色、有り。軍を破り、將を殺す。

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語注すると、「大奔星」は大きな流星。「狗」は「犬」或いは「小さい犬」の他、「熊や虎の子」の意もある。「沖」諸本の多くは「衝」で「つく」と訓じているが、この字の方が私にはしっくりくる。「項」面積単位。「一項」は「百畝」で約百八十二アール(前漢期の単位換算)で、これは一万八千二百平方メートルであるから、「數」を六掛けとして、一千九十二アール、約十一ヘクタールで、東京ドームの二倍強に当たる。「上兌」「兌」は「尖っている様」であるから、落下した隕石の尖った上部のこと。以下、訳す。

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 天狗星は、その形状は、巨大な流星のようで、飛ぶ際には、はっきり聞き取れる音がするほどのものである。

 落下して地上に落ちた場合は、小犬に似て見える。

 落下する際に観察すると、それは火と光の柱のように見え、その立ち上る火炎は、まさに天を衝(つ)くように高く伸びている。

 その落下地点は完全な円形を成しており、凡そのその広さたるや、数項(けい)の田畑に等しく、落下物の上部は鋭く尖っていて、黄色を呈している。

 これが天空に出現したり、落下したりした国は、大きな戦争の敗北と、無数の将兵の死が齎される。

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「浮屠」は、本来はサンスクリット語の「ブッダ(仏陀)」のことであるが、そこから広義に僧侶や仏教徒をも指す語となった。ここ以降は、次のように訳せる(私の「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」(サイト一括版)の「野女」で示した旧訳に少し手を加えた)。

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(「天狗(てんぐ)」とは、本来は「天狗(てんこう)」であって、妖怪ではなく、星の名前であるのにも関わらず、)本邦の僧侶や修験者らが、「天狗(てんぐ)」なる妖怪変化をでっち上げたのは、布教教化のためと称して、世俗の者たちを必要以上に怖がらせ、愚鈍なる衆生という蔑視の目線で以って、わざわざ彼らを惑わせるという、巧妙にして卑劣な方便・手段によって、その不完全な教えや妖しげな術を彼らに信じ込ませて、何やかやと売り込もうと欲しているのではないか? それ故にこそ「天狗」なる存在せぬ架空のものの名を唱えては、これを声高(こわだか)に叫ぶのではなかろうか? 但し、深山幽谷といった場所は、そのような人智を越えた妖気の及ぶ所ででもあろうからして、「山都」・「木客」といった妖怪変化や異人のようなものも、また、ない、とは言えぬのかも知れぬ。また、そうした観点から見れば、大洋に信じられないほど巨大なる鯨が、事実、棲息しているといったようなことも、何ら、不思議なことには当るまい。

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「訇」は「のゝしる」と訓じてはいるが、これは古語の「ののしる」であるから、「大声で叫ぶ」の意であり、批難の意はない。東洋文庫はそのまま『ののしる』と訳しており、誤訳である。

「山都〔(さんと)〕」良安は「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」で、この「山都」を独立項で挙げ、本邦の「みこし入道」を一見、強引に当てているように見える(しかし、これは正当。後述する)。図と訓読文を示すと(原文はリンク先を見られたい)、

   *

 

Mikosi

 

みこし入道

山都
 

       
【長〔(た)〕け高く、

        髮無き者。俗に云ふ、

        「見越入道」。『後ろより、

        人の顏を見る」と云云。

        蓋し、此れ、山都の類か。】

サン トウ

「述異記」に云ふ、『南康に神有り、「山都」と曰ふ。形、人のごとく、長け、二丈餘り。黑色・赤目・黃髪。深山の樹の中に窠を作〔(な)〕す。狀〔(かた)〕ち、鳥の卵のごとく、高〔(た)〕け、三尺餘り。内、甚だ光采〔(くわうさい)〕たり。體質、輕虚〔たり〕。鳥〔の〕毛を以つて褥〔(しとね)〕と爲し、二枚、相ひ連なる。上は雄、下は雌。能く變化して形を隠(〔(か)〕く)し、覩〔(み)〕ること、罕(まれ)なり。』と。

   *

「述異記」は南斉の祖沖之が撰したとされる志怪小説集。その時代の一丈は二・四四メートルであるから、「二丈」は約五メートル弱、「三尺」(当時の一尺二十四・二四センチメートル)は七十三センチメートル弱。この叙述は、判り難いが、普段、木の巣の中にいる時は巨大な鳥の卵(世界最大の単細胞体であるダチョウの卵の長径が約二十センチメートルだから、その三・六倍以上もある)みたような形をしている生物で、時に五メートルほどの巨人に化けるというのである。「冶鳥(やちょう)」の生態と、大小の違いや鳥・卵の違いはあるものの、妙に類似しており、同類の化鳥であることが判然とするではないか。「酉陽雜俎」の記載を時珍が「本草綱目」に引いた意図もこれで判る。多田克己氏は「渡来妖怪について」の「山都」では(かつてネット上で読めたが、現在は消失)、やはり多田氏も山都を、治鳥の仲間、また、後に良安が掲げるところの木客(もっかく)の仲間とされてきたことを記し、山都を魑魅の一種と規定、漢の楊孚(ようふ)の「異物志」には『江西省の東部に鵲(かささぎ)ほどの大きさの木客鳥という鳥がいて、千、百と群れをなし編隊を組んで飛ぶという。この鳥は治鳥の仲間といわれる。巣をつくるという山都も、あるいは鳥の性質をもつことを暗示しているかもしれない』とされる。『この山都の伝承が日本に伝えられたのは、宋(十一~十二世紀)時代以降であると思われる。中国の浙江省、江蘇省、福建省、江西省などは、ちょうど日中間の交通の要衝にあたっていた。そうした理由から山都の伝承が伝わったらしい。日本では愛知県で山都の妖怪が出ている。日本ではこの類をミコシとよび、見越もしくは御輿と書く。これは背の高いこの妖怪が、物陰(ヤブや竹林もしくは屏風など)から現れて、後ろからのぞきこむからだという』。『入道とは仏道に入った人、頭をそって坊主頭にした人をさした呼称である。おそらく山都の伝承と、華南(中国南部)から訪れた仏教徒(室町時代以降日本に伝来した宗派であろう)とに関係があるのであろう。入道といえば坊主頭の大男を連想することになる。大坊主もまた同じような意味で、見越し入道を大坊主とよぶ地方もある。この妖怪がムクムクと巨大化するという伝承があり、そうしたありさまから入道雲などの名称が生まれている。その巨大化するというイメージから見上げ入道伸上がり高坊主などとよばれるようにな』ったのだと推定されている。また、『長崎県五島列島ではゴンドウクジラを入道海豚とよぶそうであるが、これは身体が巨大で坊主頭、そして体が黒いことによるようである。こうしたことから体が黒くて坊主頭の巨人を海坊主とか海入道などとよぶようになったと思われる。海坊主の類もまた山都の系譜の中にあると思われ』、『海坊主との関係を暗示させるものに愛媛県の伸上がりやカワソがあり、その正体は川獺(かわうそ)であるという。川獺は水辺(海岸や河川)に棲む肉食動物で、河童に仮託された獣であり、河童の性質である相撲(すもう)好きが、この伸び上がりやカワソなどにも語られている。因幡(鳥取県)の相撲の祖神野見宿禰を祀る社がある徳尾の森に、大坊主が出現するのはとくに興味深い』とされ、最後に『岡山県では便所をのぞきこむ見越し入道の話があり、加牟波理入道と同じ雪隠(便所)で唱える「見越し入道ホトトギス」という呪文がある。江戸ではこれを眼張入道(がんばりにゅうどう)もしくは雁婆利入道とよび、見越し入道と加牟波理入道は同じものであったことがわかる』。江戸前期、貞享三(一六八六)年刊になる山岡元隣の怪談集「古今百物語評判」には『見越し入道を高坊主とよぶとある』(「古今百物語評判卷之一 第六 見こし入道幷和泉屋介太郞事」。リンク先はごく最近に私が行った電子化注)。『高坊主は人家を訪れ、見た者は熱病となり死に至る場合もあった。こうしたことから疫病神の一種であろうといわれている。便所神もまた祇園信仰と関係し、疫病除けの民間信仰と関連があった。やはり疫神の一種とされた一つ目小僧と見越し入道は合体し、一つ目入道や三つ目入道などの妖怪が誕生したらしい。もともと山都と一つ目小僧』『は同種の精で、中国では五通七郎諸神とよんで、人家を訪れて疫病をもたらす疫鬼でもあった』という目から鱗の考証をなさっておられる。これで「見越し入道」が綺麗に「山都」にリンクしたと言えると私は判断する。

「木客〔(もつかく)〕」これも「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」に「木客」として独立項で出る。その注で私は、まず、先の多田克己氏の「渡来妖怪について」から引き、この木客は、先に示した山都・治鳥の仲間、魑魅の一種とされ、漢の楊孚(ようふ)の「異物志」には『江西省の東部に鵲(かささぎ)ほどの大きさの木客鳥という鳥がいて、千、百と群れをなし編隊を組んで飛ぶという。この鳥は治鳥の仲間といわれる。巣をつくるという山都も、あるいは鳥の性質をもつことを暗示しているかもしれない』とあるとした。但し、私はその「木客」の図(手足の爪が長いが、全く、人としか思えない絵が附されてある)や叙述を読むに、一種の少数民族若しくは特殊な風俗を有する人々の誤認、或いは強烈な差別意識によってでっち上げられたヘイト系モンスターではないかという確信に近いものを今も持っているのである。但し、これは次の次の独立項「木客鳥」で詳述したいと思っているので、ここはこれまでとしておく。待ちきれない方は、上記のリンク先の私の旧注をどうぞ!

「鯨-鯢(くじら)」音「ゲイゲイ」。「鯨」はクジラ、「鯢」はクジラ。古くは「ケイゲイ」とも読んだ。脊索動物門脊椎動物亜門顎口上綱哺乳綱獣亜綱真獣下綱ローラシア獣上目 Laurasiatheria 鯨偶蹄目クジラ亜目 Cetacea)。因みに「大魚」の譬えにも用い、有り難くない意味として「大悪人・悪党の首領」の譬えにも用いる。

「奚(なん)ぞ疑はん」前の注で訳した通り、反語。但し、「鯨」がいるから、「山都(鳥)」も「木客鳥」もいる、というのは論理の飛躍ではある。

「或る書」これは今回、ツイッターの天狗関連の記事によって、「先代旧事本紀大成経(せんだいくじほんきたいせいきょう)」であることが判った聖徳太子によって編纂されたと伝えられる教典であるが、複数の研究者によって偽書とされている、とウィキの「先代旧事本紀大成経」にはあった。「先代旧事本紀」とは別物なので注意されたい。前者を略して「先代旧事本紀」と表記し、それをまた混同・誤認している記載も古くから見られる(なお、後者の「先代旧事本紀」は『蘇我馬子などによる序文を持つものの』、大同年間(八〇六年~八一〇年)『以後、延喜書紀講筵』(九〇四年~九〇六年)『以前の平安時代初期に成立したとされる』が、『江戸時代には』『伊勢貞丈、本居宣長らによって偽書とされた』。しかし、『近年』、『序文のみが後世に付け足された偽作であると反証され』ている、とウィキの「先代旧事本紀」にある)。井上円了の「天狗論」(明治三六(一九〇三)年哲学館刊・『妖怪叢書』第三編の「第一章 天狗の名称」の「三、日本説」(所持する二〇〇〇年柏書房刊「井上円了 妖怪学全集」第四巻に拠る。新字新仮名。〔 〕は編者の補記。下線は私が引いた)に、以下のようにある

   *

 天狗を解して雷獣となすときは、これを鳥名となす説も同時に解し得べし。『震雷記』には、加州白山に棲(す)める雷鳥なりとて、その図を出だせり。『鋸屑譚』にその鳥の考証あり。また、天狗を石となせるがごときは、天狗を流星と誤解せるより起こる。すなわち、流星の落ちて石となりしものに与えたるなり。その他、草名、仙名、竜名等に用うるは、種々の連想より名づけたるものにして、わが国にて将棋やタバコに用うるに同じく、深き意味あるにあらざるなり。

 以上解するがごとくなるときは、シナの天狗とわが国の天狗とは全く異なること、問わずして明らかなり。ゆえに『善庵随筆(ぜんあんずいひつ)』には、「こちらに天狗といえるもの、西土の天狗と同名異物なり。混称すべからず」といい、『居行子(きょこうし)』にも、「もとより漢土、天竺(てんじく)等には、今いう天狗というものはなし」といえり。しからばここに、天狗は日本に特殊なるものにして、その名も日本にて起こりしといえる日本説を考うるに、その主唱者は僧諦忍(たいにん)なり。諦忍の『天狗名義考(てんぐめいぎこう)』には、「天狗は、わが国にて神代より用いきたれる称号なり」となす。すなわち『〔先代(せんだい)〕旧事本紀(くじほんぎ)』を引き、「服狭雄尊(そさのおのみこと)の猛(たけ)き気が胸腹に満ち余りて吐物と化し、天狗神(あまのざこがみ)となる、云云(うんぬん)」とあるをもって証となし、かつ自ら評して曰く、「これ、日本天狗の元祖なり」と。また、『学海余滴』にも同様の説あり。しかるに『桂林漫録(けいりんまんろく)』には、「世に天狗というものの説は古書に見えず」とし、「『旧事紀(くじき)』は偽書なり」と注せり。ただ、「後の書にて『続古事談(ぞくきじだん)』『沙石集(しゃせきしゅう)』『太平記(たいへいき)』などに見えたり」といい、「諦忍の『天狗名義考』は俗にして見るにたえず」と評せり。されば、『旧事紀』に天狗の語あるも、天狗の由来を証するに足らざるなり。つぎに天狗の名称の見えたるは『日本書紀』なり。すなわち、舒明(じょめい)天皇九年に、

[やぶちゃん注:以下、引用は底本では全体が二字下げ。]

 大星、東より西に流る。すなわち音ありて雷に似たり。時の人は流星の音といい、また地雷ともいえり。ここにおいて、僧旻(びん)曰く、「流星にあらずして、これ天狗なり。その吠ゆる声、雷に似たるのみなり」(漢文和訳)

とあり。これ、もとより流星なり。僧旻がこれを名づけて天狗となしたるは、『史記』の天狗を流星と誤解せるによる。しかるに『〔日本〕書紀』には、天狗の字に邦訓を施してアマツキツネとなせり。ゆえに『平氏太子伝(へいしたいしでん)』には、舒明天皇の下に天狐(あまつきつね)と出でたり。また『壒囊鈔(あいのうしょう)』には、「天狗とも天狐とも通用す」といえり。余案ずるに、和訓にて狗(く)をキツネと訓ずることありしならんか。決して流星を狐の所為となせるにあらず。しかるに、朝川善庵はこの邦訓を引きて、「天狗は狐なり」との一証となせしは怪しむべし。けだし、『太子伝』の天狐はこの邦訓にもとづきしもののみ。もとより、シナのいわゆる天狐をいうにあらず。シナにては『広異記(こういき)』等に天狐の名目あれども、『〔日本〕書紀』の天狗と大いにその意を異にす。すなわち、『擬山海経(ぎさんがいきょう)』に引用せる天狐の談を見て知るべし。また、『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』にも天狗星の現ぜしことを載せたるも、これみな通俗の天狗にあらざること明らかなり。しかして『保元物語(ほうげんものがたり)』『太平記』等に出ずる天狗は、今日一般に唱うるところの天狗に同じ。余がみるところによるに、わが国の古書には天狗の怪談なしといえども、その名称は、『日本〔書〕紀』もしくはシナの書に出でたる名目を慣用したるならん。そのゆえは、わが国の妖怪の名目は、大抵みなシナの名称を用いおればなり。しかしてその実、わが国の天狗はシナの天狗と同じからず。すなわち同名異体なり。ただ、シナにありて古代、雷獣のなんたるを解せざりしゆえに、これを真に天よりくだれるものと思い、これに与うるに天狗の名をもってしたりしに、その名漸々に相移りて、わが国のいわゆる天狗に慣用しきたれるは、あえて怪しむに足らず。もし人、深山に入りて火光を見、震響を聞くときは、これを一般に天狗の所業となす。されば、『史記』の天狗とわが国の天狗とは、全く関係なきにもあらざるなり。

    *

「服狹雄尊(そさのをのみこと)」素戔嗚命は「古事記」では「建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)」、「日本書紀」では「素戔男尊」「素戔嗚尊」などと表記する。以下はむちゃくちゃな説としか思えないが、「天狗神」との接点は、正しく祀らなければ災厄を齎す荒ぶる神としての共通性を持っているようには思われる。

「姫神」天狗を女体獣面の女神をルーツとするというのはブッ飛んでいる。なお且つ、既にこの女神、クレオパトラも羨むほどに鼻が高く、寿老人か福禄寿の如く耳が長く、鬼女よろしく牙が長く出ているとある。女神としての映像(イメージ)が一向に浮かんでこないのだが、こんな面体(めんてい)に生まれては、男は誰も近寄らん! さればこそか、以後の叙述を読むと、我儘にしてヒステリーとならざるを得ず、臂力ならず、微力でない鼻力(鼻息ではない。長い鼻で跳ね飛ばすのである)も強烈で、男根どころか、堅い鉄の刀剣・矛であろうと、ズタズタに嚙み千切ってこなごなにしてしまうという。しかも、何に対しても激して、穏当に振る舞うということを全く知らず、左にあるものは「右よ! 右!」と言い放ち、前にあるものでも「後に決まってるわよ! キキイイッツ!」というのだ。いやはや、これは、全く見たくも逢いたくもない女神(めがみ)さまではある。却って可哀想な気がしてくるではないか。

『左に在〔(あ)〕る者を以つて、早〔(はや)〕逆〔(さから)ひ〕て「右爲(た)り」と謂ひ、又、前に在る者は、卽ち、「後(しりへ)爲〔(た)〕り」と謂ふ』この辺り、近世の読本みたような、口語的な説明で、如何にもこの本、偽書臭いわ。

『自〔(みづか)〕ら推〔(お)〕して名づけて、「天逆毎姫(〔あま〕のさこの〔ひめ〕」と名づく』おや? 実は自分の異様な性格が判っている訳だぞ?! こりゃ! 自ら進んで「天逆毎姫」と名乗ったのだもの! 「天逆毎姫」とは「天」の下に於いて「毎」(つね)に「逆」のことをする「姫」だぞ! おいおい! 彼女はここに至って何とまあ、「天邪鬼」(あまんじゃく・あまのじゃく)と完全に通底しているではないか?! 天邪鬼は本来は中国仏教由来で四天王など踏みつけられる悪鬼(煩悩の象徴)であるが、本邦ではそれに記紀に出現するうっかり男天稚彦(あめのわかひこ)及び性悪の天探女(あまのさぐめ)に由来する天邪鬼が習合、そこに更に、ここに示されたような後付けの解釈が加わったもののようにも思われるが、これはもう、やっぱ、この本、後世も後世の落語だべ!!!

「天〔(てん)〕の逆氣〔(さかき)〕を吞みて、獨り〔にて〕身(はら)みて兒を生む」そのお顔とご気性では、単為生殖するしかありません。生物ははそれが出来ますし、ヒトもそのうちそうなるやも知れませぬ。何? 良安先生? そんなことはあり得ないって? いえいえ、両生類以下では普通に行われるのですよ。先生も仰っておられしょう、「猶ほ、大海に鯨鯢有るがごときも、又、奚ぞ疑はん」で御座いますよ。

「天魔雄神(〔あま〕のさかをの〔かみ〕」標題の別名より「天魔雄命(あまのざこのみこと)」とも称するわけであろう。

「九虚」「九天」に同じい。本義は、大地を中心に回転する九つの天体で、日天・月天・水星天・金星天・火星天・木星天・土星天・恒星天・宗動天を指すが、広義に神域である「全天上界」の意。

「心腑に託し」人の心(魂)や「心の臓」に憑依するの意と解釈した。

「意を變じ」心を乱れさせ。

「正と爲るに非ざれども、之れを記して考ふるに備ふるものなり。」まともな説とするに値すると思うわけではないが、ここに記録しおいて、後人の考証のための備えとしておくものである。

「天狗爪」先に引いた井上円了の「天狗論」の「第四章 天狗の形象」の最後に、以下のようにある(記号は前に同じ)。

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『周遊奇談(しゅうゆうきだん)』には、「北国若狭、越前の海浜にても、天狗魚を捕ることあり」と記せり。されば、天狗の髑髏はこの魚の頭骨なること疑いなし。また、天狗の爪と名づくるものあり。『夜光珠(やこうのたま)』と題する書中に、左のごとく記せり。

[やぶちゃん注:以下の引用は、底本では全体が二字下げ。]

 世間にて天狗の爪というものあり。所々の深山幽谷にて、まれに拾い得るという。その状、小さきは一、二寸、大きなるは三、四寸、本(もと)厚く末とがり、両稜(かど)刃のごとく、極めて硬く重し。色白く、末は青黒くして光沢あり。また、鴉(からす)の觜(くちばし)に似てまだらなるもあり。表は甲高く〔裏は平らなり〕。本のとまりはこぐち陶器の薬をかけ残したるようにて、松茸(たけ)[やぶちゃん注:「茸」のみのルビ。]の根の色あいに似たり。これを天狗の爪とのみいい伝えて、なにの成れるものというを知らず。

 また『羅山文集』に、「北国能登の海浜に天狗の爪あり、往々これを拾い取る。大きさ二寸ばかり、末とがり、こまかく反れり。色潤白にして小猪(いのしし)[やぶちゃん注:「猪」のみのルビ。]〔の〕牙(きば)のごとし。しかして牙にあらず、全く爪の類なり。疑うらくは、これ北海大蟹(かに)[やぶちゃん注:「蟹」のみのルビ。]の爪ならんか」とあり。この爪のなんたるにつきて、『夜光珠』および『震雷記(しんらいき)』に説明を下せり。この二書の文は、毫(ごう)も異なるところなし。

[やぶちゃん注:以下の引用は、底本では全体が二字下げ。]

 ある人のいえるは、「この物、雷の落ちたる辺り、またはそこの地を掘りて得るものなるゆえに、西国にては雷の爪という」と。しからばすなわち、唐〔の〕陳蔵器(ちんぞうき)が『本草拾遺(ほんぞうしゅうい)』に、「霹靂碪(へきれきちん)[やぶちゃん注:江戸時代に発見された古代の石器の一種の名称。現在の台石・石斧・石環・石錐・石鏃などで、当時は落雷の跡から見つかったとされて、雷の物体化したものと誤解された。]の中に剉刀(ざとう)[やぶちゃん注:刻むための小刀か。]に似たるものあり。色青黒く、斑文にていたって硬く玉のごとし[やぶちゃん注:黒曜石の石鏃か。]」といえるもの、雷震の後によって得るとあれば、これなるべし。

 また『民生切要録(みんせいせつようろく)』に、「能州石動山の林中に、天狗〔の〕爪という物あり。色青黒にして、長さ五分ばかりにして石のごとく、先とがり後ろ広く、獣の爪に似たり、云云(うんぬん)」とあり。されば、俗間に伝うる天狗の爪は、雷斧(ふ)、雷楔(けつ)、雷碪(ちん)、雷鑚(さん)[やぶちゃん注:「鑚」はタガネ。]の類なること明らかなり。これみな、石器時代の遺物と知るべし。あるいはいう、「民間に伝わるところの天狗の爪は鮫(さめの歯なり」との説あり。その他、天狗火、天狗礫(つぶて)の話あれど、次章の天狗の作用を論ずる下において述ぶべし。

   *

とある。頭の「天狗魚」は、軟骨魚綱全頭亜綱ギンザメ目ギンザメ科ギンザメ属ギンザメ Chimaera phantasma か、テングギンザメ科Rhinochimaeridae の一種に同定してよい。私の博物学古記録翻刻訳注 ■17 「蒹葭堂雑録」に表われたるギンザメの記載を見られたい。さて、現在、一般に知られている「天の狗の爪」なるものは、サメの歯の化石の俗称である。通常は三角錐様、青灰色の光沢を持つものが多く、新生代第三紀中新世半ばから鮮新世(約千八百万年前から約百五十万年前)にかけての、海が比較的暖かった時代に生息していたサメ類の歯の化石である。代表的なそれは、軟骨魚綱板鰓亜綱ネズミザメ目ネズミザメ科ホホジロザメ属カルカロクレス・メガロドン(ムカシオオホホジロザメ(昔大頬白鮫)Carcharocles megalodon or Carcharodon megalodon(カルカロドン・メガロドンの方は、本種を現生のホホジロザメ Carchrodon carcharias の同属とする説に基づく学名)のそれが最も巨大で、歯高十五センチメートルにも及ぶ。しかし、私は、これを良安が言う「天狗爪」に同定するのに、躊躇を感ずるものである。以下、良安の記述を検討してみよう。――それは能登地方の海浜で容易にビーチ・コーミング出来るもので、長径約六センチメートル、末端が有意に細くなって尖っていて、微かに反っている。色は純白でやや光沢がある(「潤」は鮮やかな光沢というよりざらついた乳白色ではなく、濡れたやや透明度のある白の謂いであろう)。そして、それは譬えるなら、小さな猪の牙のようなものであるが、決して動物の――ここの記載からは陸上性の動物及び現代の生物学上の魚類も含むものと考えられる――牙ではない。しかし、全くある種の生物の爪の類いとしか思えないものである。そして彼は「思うにこれは北海の大蟹の爪であろうか」と推測し、「第一、もし、これが正真正銘の『天狗の爪』であるならば、天狗が棲息すると言われている各地の深山幽谷から齎されなければならぬはずである。どうして天狗の爪なんどというものが海辺にあろうものか!」――激して否定しているのである。ここで気付くことは、もし、この「天の狗爪」が「サメの歯の化石」であるとしたら、それこそ「處處の深山の中の有る」のである。そこから実際に出土するのである。私も小さな時に裏山から幾つも掘り出した。さすれば、これは「サメの歯の化石」では、ない。私は一読、これはもう「ツノガイ」しかない、と感じた。軟体動物門掘足綱のツノガイ目 Dentaliida 及びクチキレツノガイ目 Gadilida のツノガイである。以下、ウィキの「掘足綱」から引用する。『掘足綱全体に共通する形状として、殻は角を思わせる緩やかにカーブした筒状で、上端と下端は必ず開いている。この上端側の孔を後口、下端側の孔を殻口と呼ぶことが多い。また、カーブの外側を腹側、内側を背側と呼ぶ。殻表に輪脈と呼ばれる筋がある場合、ない場合』、『まちまちである。また』、『殻色も白色、薄黄色や赤紫色、など様々であるが白っぽい色をした種が多い。殻長は数』ミリメートル『の種から数十』センチメートル『程度で現生種の中では、マダガスカル近海に生息する Dentalium metivieri が最大とされ』、二十センチメートル『を超える。以上の様な細かい特徴は科や属、種などにより様々であるが、掘足綱全体の形状としては腹足綱や二枚貝綱と比べると統一感があるといえる』。その軟体部は『殻の後口側に肛門が、殻口側に頭、足がある。頭部は眼や触角など多くの感覚器官を欠くが平衡胞(statocysts)と呼ばれる感覚器官を持つほか、食物を捕食するための頭糸と呼ばれる触手状の器官がある。これらの器官を使用し、餌を捕らえ、歯舌で擦り取って食べるとされる。鰓は持たないため、外套膜が代わりとなり海水中の酸素を取り込む。また、以上の様な器官や殻などがすべて左右対称になっていることも掘足綱の最大の特徴のひとつである。なお、蓋は持たない』。生態は雌雄異体で、『浮遊性のトロコフォア幼生、ベリジャー幼生を経て着底する。通常、二枚貝綱と同様に足を用いて泥底や砂底などを掘り、埋没して生活する。この際、後口を砂や泥から出し、排泄や海水の交換を行う。上記の様に鰓を持たないため、外套膜で酸素の交換を行うが、この際、足を収縮させ海水を循環させる。また、平衡胞や頭糸を用いて餌を捕食し、歯舌で擦り取って食べる』。すべて海産で、分布域は世界各地の海に広く分布し、『生息深度も幅広く、潮間帯~深海まで広く分布するが、生息環境は比較的軟らかい海底に限られる』とある。種は多数あるものの(該当リンク先にもある)、研究が進められているとは言い難く、極めて流動的である。私自身、実は四十年程前、春の初めに旅した能登の海浜で、多量のツノガイ類の殻を採取した印象的な経験があるからである。それは確かに凄絶なほどに多量であったのを覚えている。ネット上の記載を検索すると、石川県能登九十九湾での採取品として、

シラサヤツノガイ科ロウソクツノガイ亜科ロウソクツノガイEpisiphon subrectum

ゾウゲツノガイ科ゾウゲツノガイ属ヤカドツノガイDentaliumParadentalium octangulatum

等が見つかる

 

 最後に今一つ気になることがある。この怪鳥の正式な元の名が「冶鳥」であることははっきりしたが、「冶」と言えば

――冶金=製錬

が真っ先に思い浮かぶ。この鳥は鉱脈のありそうな

――「深山」にしかいない

のだ。そうして、この鳥は《地面の中の特に》

――「赤」と「白」の土を捏(こね)ねて=練(ね)って=って巣を「造る」≒錬金

――「赤」を連想させ、それは赤色の硫化水銀であり、仙薬であり、錬金術で卑金属を金に変える霊薬「賢者の石」lapis philosophorum:ラピス・フィロソフィウム)に近似した不老不死の登仙薬の製造法練丹の際の主成分

ではなかろうか? しかも、その「錬」り上げた巣のデザインは

――弓の的⦿「一つ目」のようなランドマーク

だと言っている。これは容易に

――⦿=妖怪「一つ目小僧」≒山中の妖怪「いっぽんだたら(一本踏鞴)」

を連想させ、後の柳田國男の「一つ目小僧その他」(ブログカテゴリ「柳田國男」で完全電子化注済み)を出すまでもなく、「たたら」は「タタラ師」で「鍛冶師」であり、これは金属精錬をする彼らが、鞴を踏み続け、金属の溶融温度を常に一方の目で視認して確かめなくてはならぬために、片足が不自由となり、片目が悪くなることと連関し、

――⦿一つ目小僧いっぽんだたら一つ目の鍛冶神「天目一箇神(あめのまひとつのかみ)」の零落したもの

ともされるのだ。一方、「冶鳥」は深山の渓谷に小人の人の姿として変ずるともあった。山中の足の悪い「たたら師」は背ぐくまって身長が低く見えるに違いない。そう考えると、山岳部の「越」の「山人」が、この鳥を「越の祝(ほうり)の祖」とするのは、遠い古代の越で鉱脈を探し、そこで冶金に勤しんだ踏鞴師たちをこそ指しているのではないか?! 語り序でに言い添えれば、偶然だが、素戔嗚命の娘が深山に住む天狗の親玉で、強く硬いの刀や矛であっても、忽ち、噛み砕いてづたづたにしてしまうのさえ、金属精錬の逆回しのように私には思えたのであった。

 

久し振りに楽しい注となった。有難う! 良安先生!

2019/01/28

和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 姑獲鳥(うぶめ) (オオミズナギドリ?/私の独断モデル種比定)

 

Ubumedori

 

うぶめどり    夜行遊女

         天帝少女

         乳母鳥 譩譆

姑獲鳥

         無辜鳥 隱飛

         鬼鳥  鉤星

タウフウニヤ◦ウ

 

本綱鬼神類也能收人魂魄荊州多有之衣毛爲飛鳥

毛爲女人是産婦死後化作故胸前有兩乳喜取人子養

爲己子凡有小兒家不可夜露衣物此鳥夜飛以血

爲誌兒輙病驚癇及疳疾謂之無辜疳也蓋此鳥純雌無

雄七八月夜飛害人

△按姑獲鳥【俗云産婦鳥】相傳曰産後死婦所化也蓋此附會

 之中華荊州本朝西海海濵多有之則別此一種

 之鳥最陰毒所因生者矣九州人謂云小雨闇夜不時

 有出其所居必有燐火遙視之狀如鷗而大鳴聲亦似

 鷗能變爲婦攜子遇人則請負子於人怕之迯則有憎

 寒壯熱甚至死者剛者諾負之則無害將近人家乃

 背輕而無物未聞畿内近國狐狸之外如此者

 

 

うぶめどり    夜行遊女

         天帝少女

         乳母鳥 譩譆〔(いき)〕

姑獲鳥

         無辜鳥〔(むこてう)〕

         隱飛〔(いんひ)〕

         鬼鳥〔(きてう)〕

         鉤星〔(こうせい)〕

タウフウニヤ

 

「本綱」、鬼神の類也。能く人の魂魄を收〔(をさ)〕む[やぶちゃん注:捕る。]。荊州[やぶちゃん注:湖北省。]に多く、之れ、有り。毛を衣〔(き)〕て飛鳥と爲り、毛を(ぬ)げば、女人と爲る。是れ、産婦、死して後(〔の〕ち)、化して作(な)る。故〔に〕胸の前に兩乳有り。喜〔(この)〕んで人の子を取り、養ひて己〔(わ)〕が子と爲す。凡そ小兒有る家には、夜(〔よ〕る)、〔兒の〕衣物〔(きもの)〕を露(あら)はにす〔る〕べからず。此の鳥、夜、飛び、血を以つて、之れにじ、誌(しるし)と爲す。兒、輙〔(すなは)〕ち、驚癇及び疳病を病む。之れを「無辜疳(むこかん)」と謂ふなり。蓋し、此の鳥、純(もつぱ)ら、雌なり。雄、無し。七、八月〔の〕夜、飛びて、人を害す。

△按ずるに、姑獲鳥は【俗に云ふ、「産--鳥(うぶめ)」。】、相ひ傳へて曰はく、「産後、死せば、婦、化する所なり」〔と〕。蓋し、此れ、附會のなり。中華にては荊州、本朝にては西海〔の〕海濵に多く、之れ、有りといふときは、則ち、別に、此れ、一種の鳥〔たり〕。最も陰毒〔の〕因りて生ずる所の者ならん。九州の人、謂ひて云はく、「小雨(こさめふ)り、闇(くら)き夜、不時に[やぶちゃん注:不意に。]出づること、有り。其の居〔(を)〕る所、必ず、燐火[やぶちゃん注:鬼火。青白い妖しい火。]あり。遙かに之れを視るに、狀(〔かた〕ち)、鷗(かもめ)のごとくにして、大きく、鳴く聲も亦、鷗に似る。能く變じて婦と爲り、子を攜〔(たづさ)へ〕て、人に遇ふときは、則ち、人に子を負(をは)せんことを請ふ。之れを怕(あおそ)れて迯(に)ぐれば、則ち、憎(にく)み、寒・壯熱、甚〔だしく〕して死に至る者、有り。剛の者、諾して之れを負ふときは、則ち、害、無し。將に人家に近づくに、乃〔(すなは)〕ち、背、輕くして、物、無し。未だ畿内・近國には、狐狸の外、此くのごとき者を聞かず。

[やぶちゃん注:妖怪にして妖鳥の「姑獲鳥(うぶめ)」で「産女」「憂婦女鳥」等とも表記する。但し、鳥形象のそれは少なく、概ね、下半身が血だらけの赤子を連れた人形(ひとがた)の妖怪であることが多い。私のブログ記事では「怪奇談集」を中心に十数種の話を電子化している、最も馴染み深く、産婦の死して亡霊・妖怪となるという点で個人的には非常に哀れな印象を惹起させる話柄が多いように感ずる。まず、妖鳥の方はウィキの「姑獲鳥」によれば、『中国の伝承上の鳥。西晋代の博物誌』「「玄中記」や、ここで引いた「本草綱目」などの『古書に記述があり、日本でも』として、本「和漢三才図会」の記載を紹介して、まさに本条を抜粋現代語訳した感じで以下のように記す。『「夜行遊女」「天帝少女」「乳母鳥」「鬼鳥」ともいう』。『鬼神の一種であって、よく人間の生命を奪うとある。夜間に飛行して幼児を害する怪鳥で、鳴く声は幼児のよう。中国の荊州に多く棲息し、毛を着ると鳥に変身し、毛を脱ぐと女性の姿になるという』。『他人の子供を奪って自分の子とする習性があり、子供や夜干しされた子供の着物を発見すると血で印をつける。付けられた子供はたちまち魂を奪われ、ひきつけの一種である無辜疳(むこかん)という病気になるという』。『これらの特徴は、毛を着ると鳥、毛を脱ぐと女性になるという点で東晋の小説集』「捜神記」にある「羽衣女」と、また、『他人の子を奪う点で』では「楚辞」に『ある神女「女岐(じょき)」と共通しており、姑獲鳥の伝承は、これら中国の古典上の別々の伝承が統合されたものと見られている』、また、唐代の「酉陽雑俎」では、『姑獲鳥は出産で死んだ妊婦が化けたものとの説が述べられており』、「本草綱目」に於いても、『この説が支持されている』。『日本でも茨城県で似た伝承があり、夜に子供の着物を干すと、「ウバメトリ」という妖怪が自分の子供の着物だと思って、その着物に目印として自分の乳を搾り、その乳には毒があるといわれる』のであるが、『これは中国の姑獲鳥が由来とされ、かつて知識人によって中国の姑獲鳥の情報が茨城に持ち込まれたものと見られている』。『江戸時代初頭の日本では、日本の伝承上の妖怪「産女」が中国の妖怪である姑獲鳥と同一視され、「姑獲鳥」と書いて「うぶめ」と読むようになったが、これは産婦にまつわる伝承において、産女が姑獲鳥と混同され、同一視されたためと見られている』とある。

 さても、以上に言う「玄中記」のそれや「捜神記」にある「羽衣女」は、私の「古今百物語評判卷之二 第五 うぶめの事附幽靈の事」の注で電子化してあるので見られたいし、「酉陽雑俎」の「前集卷十六」及び北宋の叢書「太平広記」の「卷四百六十二」に載る「夜行遊女」では、「或言産死者所化(或いは産死者の化(くわ)せる所なりと言ふ)」とあるのも「諸國百物語卷之五 十七 靏のうぐめのばけ物の事」(但し、これは五位鷺を誤認した擬似お笑い怪談)で述べておいた。「楚辞」の「女岐」については、子を殺す或いは殺そうとする、奪おうとする妖怪「鬼車」として知られる、中国の「鬼車」のウィキの記載に、『また、鬼車とはまったく別の伝説として、人の子供を奪って養子にするといわれる神女「女岐(じょき)」がある』が、「楚辞」では『「女岐は夫もいないのになぜ』九『人もの子供がいるのか」とあり、この言い伝えが』、先に示した「捜神記」での『鬼車と子供にまつわる話と習合し、さらに「九子」が「九首」と誤って伝えられたことから、鬼車が』九『つの頭を持つ鳥として伝えられたものと見られている』とある。

 因みに、「鬼車」は同じくけったいな多頭妖鳥なので、仲間のよしみで、中国の「鬼車」の特徴をそこから引いておくと、「太平御覧」には、『斉の国(現・山東省)に頭を』九『つ持つ赤い鳥がおり、カモに似て』、九『つの頭が皆鳴くとあ』り、唐代の「嶺表録異」に』は、九つの『頭を持つ鳥で、嶺外(中国南部から北ベトナム北部かけて)に多くいるもので、人家に入り込んで人間の魂を奪う。あるとき』のこと、九つの『頭のうちの一つを犬に噛まれたため、常にその首から血を滴らせており、その血を浴びた家は不幸に苛まれるという』とし、「正字通」では、『「鶬虞(そうぐ)」の名で記述され』、『「九頭鳥(きゅうとうちょう)」ともいい、ミミズクの一種である鵂鶹(きゅうりゅう)に似たもので、大型のものでは』一『丈あまり(約』三『メートル)の翼を持ち、昼にはものが見えないが、夜には見え、火の光を見ると目がくらんで墜落してしまうという』。また、南宋代の「斉東野語」には、十個の『頭のうちの一つを犬に噛み切られ、人家に血を滴らせて害をなすという。そのために鬼車の鳴き声を聞いた者は、家の灯りを消し、犬をけしかけて吠えさせることで追い払ったという』とあるそうである。因みに、頭を数多く持つというのは中国の妖獣ではしばしば見かけるが、本邦では流行らない傾向があるように私は思う

 ウィキの「産女」も見ておく必要があろうが、これは最近では、『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 橋姫(3) 産女(うぶめ)』で引いているので、そちらを見られたい。

 

「譩譆〔(いき)〕」これは実は経絡の一つ「譩譆穴(いきけつ)」(足の太陽膀胱経に属する第四十五番目の経穴)の名でもある。ウィキのそれによれば、この名の由来として、『譩と譆は』「言」と「意」、「言」と「喜」を『それぞれまとめて一字で書いたもので』、『この字は、おくび』(欠伸(あくび))『または吐息を表す擬声語で、アー・シー、またはウィー・シーと読む。ここを強く押すと、げっぷや吐息が出ることによる』とある。子を失い、自らも死に、妖鳥となってしまった鳥の哀れな鳴き声か。一方で、これは「姑獲鳥」のモデルとされる実在する鳥の鳴き声ともとれる。夜行性で、夜「あーしー」「うぃーしー」と鳴く鳥、凶鳥とされ、鳴き声も不気味ともされるフクロウやトラツグミを想起することは出来よう。

「無辜鳥〔(むこてう)〕」この異名は何かしみじみするではないか! これはこの姑獲鳥が哀れにも亡くなった妊婦の化した「何の罪もない鳥」だという意味ではないのか?!

「鉤星〔(こうせい)〕」これは中国では星座の名で、西洋の龍座に相当するようだ。彼女はヨタカが星となったように、星座となったのではなかったか? そうあってほしいと私は「收〔(をさ)〕む」東洋文庫訳は『食べる』とする。如何にもセンスのない厭な訳だ。

「胸の前に兩乳有り」旧暦「七、八月」の夜に飛ぶ、「西海」(「國」ではなく、わざわざ「海」を使っているのは、この鳥が海岸に近いところにいるからではなかろうか?)の「海濵に多く」棲息する、実在する鳥を捜索するに、最も特徴的な箇所だ! しかし、誰も真剣に「姑獲鳥」のモデルの鳥を探した形跡はない。ちょっと淋しい。もう一つ言い添えるなら、妖鳥の形状を良安は「遙かに之れを視るに」その形は「鷗(かもめ)のごとくにして、大きく、鳴く聲も亦、鷗に似る」と言ってるんだぜ? 両乳マークはないけど、海辺を棲息地とし、カモメ(チドリ目カモメ科カモメ属カモメ亜種カモメ Larus canus kamtschatschensis)に似ていて、それより大きく、夜に盛んに騒ぎ、本邦では西日本の暖地で夏秋に見られる鳥……いるじゃないか!

ミズナギドリ目ミズナギドリ科オオミズナギドリ属オオミズナギドリ Calonectris leucomelas

だよ! ウィキの「オオミズナギドリ」によれば(太字下線やぶちゃん)、本邦『では春から秋にかけて最も普通にみられるミズナギドリ類であり』『よく陸からも観察される』。『西太平洋北部の温帯域で』、『ミズナギドリ科』Procellariidae『のうち』で、『唯一繁殖し、夏鳥として日本近海、黄海、台湾周辺の島嶼に分布する』。『日本では、夏季に北海道(渡島大島)から八重山諸島(仲御神島)にかけての離島で繁殖し』、『韓国では、済州道の管轄となる泗水島に大繁殖地があり、他の島々でも少数が繁殖する』。『冬季になるとフィリピンやオーストラリア北部周辺へ南下し』、『越冬するが』、『日本の近海に残るものもある』全長は四十六~五十一センチメートル、翼開長は一メートル十から一メートル二十二センチメートルで(カモメは全長四十~四十六センチメートル。翼開長はオオミズナギドリと大差ない)、『体長や翼開長はウミネコと同じぐらいであるが、飛翔時には翼がカモメ類より細長く見える』(とわざわざ言っているのはカモメとよく似ているからに他ならない)『雌雄同色であり、上面は暗褐色の羽毛で覆われ、羽毛の外縁(羽縁)が淡色で、白い波状の斑紋が入っているように見える』。『大雨覆や次列風切は淡褐色で、飛翔時には不明瞭なアルファベットの「M」字状に見える』。『頭部は白い羽毛に不明瞭な褐色の斑紋や斑点が点在する』。『尾羽は黒または黒褐色』。『体下面は白い羽毛で覆われる』。『翼下面は白いが、初列下雨覆の外側(外弁)や風切羽下面は黒または黒褐色』。『嘴の色彩はピンク色がかった淡青色で』、『先端に黒みがある』。『足はピンク色』。『地表から飛翔することができず、斜面を使って助走したり』、『断崖』『や樹上から飛び降りたりしなければ』、『飛び立てないとされることもあるが』、『岩手県の三貫島や伊豆諸島の御蔵島の繁殖地では、地面から羽ばたいて飛び立つのが観察されている』。『飛び立てない理由として体重の重さや、翼の長さと足の短さなどが挙げられることもあるが』、『他のミズナギドリ目の鳥類と比べてとくに体形が大きく違うわけでもない』。『繁殖期のほかは海上で生活する』。『主に滑翔して、ゆっくりとした羽ばたきを交えながら、海面低くを左右に翼を傾けて飛びまわり』、『餌の群れを見つけると遠くからもたくさん集まる』。『食性は動物食で、魚類や軟体動物などを食べる』。『水面を泳ぎながら』、『水面近くにいる獲物を捕らえたり、浅く潜水して捕らえる』。『とくにカタクチイワシ』条鰭綱ニシン目ニシン亜目カタクチイワシ科カタクチイワシ亜科カタクチイワシ属カタクチイワシEngraulis japonicus)『を多く利用することが報告されている』。『海面からは翼を広げて羽ばたきながら風上に向かい』、『助走して飛翔する』。『ほとんど海上で鳴くことはないが』、『夜間の営巣地では鳴き声や翼の音で騒がしくなる』。『鳴き声は、ピーウィーピーウィー(雄』『)、グワーェグワーェ(雌』『)など』。二~三月に『集団繁殖地に飛来して』『平地や斜面を問わず』、『森林に』九十センチメートルから一メートルほどの『横穴を掘り、奥を20-30cm × 10-20cmに広げて』、『枯葉などを敷いた巣に』、六~七月に、一回に一個の『卵を産む』。『巣穴形状は「棒状型」「くの字型」「迷路型」など様々である』。『雌雄が昼夜交代で抱卵し、抱卵期間は』五十二~五十四日で、『雛は孵化してから』七十~九十『日で巣立つ』。『抱卵や抱雛をしないほうの親鳥は未明から海上に出て餌を探し、日没後に巣穴に戻って雛に給餌する』。『時速およそ』三十五キロメートルで『飛び、巣に戻るまでにかかる時間を考えて餌場から帰巣し、門限を守る習性がある』。十月(孵化後二ヶ月目)には、『雛は親鳥より体重が重くなり』、一・五倍にもなり、『やがて親鳥が雛を残して島を離れた後も、雛は約』三『週間にわたって蓄えた脂肪で成長し』、十一月下旬から十二月上旬には島から渡り去る。『太平洋戦争の戦前、戦中、戦後の期間、日本各地の繁殖地では』『羽毛が利用されたり、食用とされることもあった』。『沖縄県仲の神島では組織的な捕獲事業が行われ』、『生息数は大きく減少したが、御蔵島では住民らが厳しい自主規制のもと保護し捕獲を行った』。『池田真次郎の『森林と野鳥の生態』によると御蔵島では年に一度巣立ち前の雛を捕獲し、皮からは油を搾り、肉は塩漬、骨と内臓は挽いて塩辛にしたという。また、糞が堆積し化石化してできたグアノは肥料として利用された』。『御蔵島では本種を「カツオドリ」と呼びならわしている』『が、「カツオドリ」の標準和名を持つ鳥は別にあり、オオミズナギドリとは目レベルで異なる』(ペリカン目カツオドリ科カツオドリ属カツオドリ Sula leucogaster)『全くの別種である』とある。そうだ! 彼らは島の地面の中に巣を作るのだ! だから、彼らの巣を実際に見た者は少ないのだ! とすれば、「姑獲鳥」の巣の記載がないこと、雌しかいない、という変なことが書いてあるのが、ちょっと腑に落ちるじゃあないか?! 私は一つ、誰もやっていない「姑獲鳥」の実在モデル候補としてオオミズナギドリを挙げる!!!

「驚癇」幼児のひきつけを起こす病気を指す。現在は脳膜炎の類が比定されている。驚風(きょうふう)とも呼ぶ。

「疳病」東洋文庫割注は『小児の神経症。夜泣きををしたり』、『恐い夢におそわれたりする』とある。

「純(もつぱ)ら」「專ら」。

「攜〔(たづさ)へ〕て」「携へて」に同じ。連れて。

「寒・壯熱」異様な寒気(さむけ)と激しい高熱。

剛の者、諾して之れを負ふときは、則ち、害、無し。將に人家に近づくに、乃〔(すなは)〕ち、背、輕くして、物、無し」ここに無念と苦痛の中で亡くなった若き妊婦とその嬰児の霊の鎮魂(異界からたまさかに眺める現実界としての「村」)や、神道以前の産土神の零落した姿をさえ、私はここに見る思いがするのである。

「未だ畿内・近國には、狐狸の外、此くのごとき者を聞かず」「畿内」とその「近國」はまさに良安の生活フィールドを指す。即ち、良安は姑獲鳥が婦人や赤子に化けるというのを見聴きしたことが全くない、と不審を言い添えているのである。噂にさえ聴かない以上は「附會のなり」、牽強付会のコジツケの妄説に過ぎない、と断ずるのは、どうもこの妖鳥・妖怪を素直に受け入れられない私にはよく判るのである。]

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(10) 「河童ノ詫證文」(1)

 

《原文》

河童ノ詫證文  其時代ノ河童ハ神代ノ草木ト同ジク能ク人語ヲ解シタリト見ユ。【詫證文】又人間ト同ジク或ハ泣キ或ハ叩頭シ、甚シキハ人間ト對等ニ不行爲ノ契約ヲ締結セリ。其契約モ單ニ口頭ノモノノミナラズ、時トシテハ書面ヲ以テ差出シタルヲ以テ察スレバ、約ニ背キ若シクハツイ失念シテ相濟マヌコトナドモ、ヤハリ人間竝ニテアリシカト思ハル。出雲八束郡川津村大字西川津ニモヨク似タル話アリ。昔此村水草川(ミクサガハ)ノ河童、馬ヲ引込マントシテ例ノ如ク失敗シ、色々ト村民ニ陳謝シ辛ウジテ助命ヲ得タリ。【氏神】此時ノ河童退治ハ全ク村ノ氏神宮尾明神ノ神德ニ因ルト云ヘリ。【エンコウ】雲陽志ニハ此顚末ヲ記載シ且ツ曰ク、ソレヨリ後此里ニテハ猿猴災ヲ爲スコトナシ。其故ニ世人ハ此社ヲ猿猴ノ宮ト稱ス。猿猴トハ俗ニ謂フ「カハコ」ノコト也。又「カハツパ」トモ「カハタロウ[やぶちゃん注:ママ。]」トモ、國々ニテ名ノ相違アリ。水中ニ住ミテ人ノ害ヲ爲ス者ナリ云々(以上)[やぶちゃん注:丸括弧はママ。]。近代ノ傳承ハ之ト若干ノ變化アリ。猿猴トハ言ハズシテ河獺ト稱ス。河獺馬ノ綱ヲ身ニ纏ヒテ之ヲ引込マントシ、却ツテ馬ノ爲ニ引摺ラレテ棉畠ノ中ヲ轉ゲ廻ル。村ノ者之ヲ見ツケテ河子々々ト騷ギ立テ、終ニ之ヲ捕ヘタリ。河獺ガ手ヲ合セテ拜ムニヨリ、殺サントセシ命ヲ宥シ、河獺ハ其儘村ニ奉公シテ田畠ノ仕事ヲ爲セリ。然レドモ本來人間ノ生膽ヲ拔クヲ好ムヲ以テ、奉公中モ其ノ癖ヤマズ。【御尻用心】折モアレバ村ノ者ノ臀ノ邊ニ手ヲ出ス故、始ノ程ハ各自ニ瓦ヲ當テテ用心ヲセシモ、アマリ度々ノ事ニテ氣味ガ惡クナリ、相談ノ上河獺ニ證文ヲ入レサセテ之ヲ放ス。村ノ宮ニ祀レルハ實ニ此時ノ證文ナリ。【水難禁呪】今モ土地ノ人ハ水泳ノ時ニ雲州西川津ト唱フルヲ常トス。是レ河子除(カハゴヨケ)ノ呪文ナリ〔日本傳集〕。河童ト河獺トヲ混同スル例ハ他ニモ存ス。中國西部ノ諸縣ニ於テ今モ河童ヲ「エンコウ」ト呼ブハ、殊ニ我輩ノ肝要ト認ムル所ナリ。【手形】長門ノ萩ニ近キ阿武郡椿鄕西分村ニ於テハ、亦雲州ノ西川津ト同ジク、古クヨリ「エンコウ」ノ手形ナルモノヲ傳フル神社アリ。【守札】之ヲ板行シテ信心ノ徒ニ施ス、牛馬安全ノ護符トシテ有效ナリト云ヘリ。此手形ニ關シテモ同種ノ由來記アリ。寬永年間ト云ヘバイト古キコトナリ。「エンコウ」或家ノ馬ヲ水中ニ引入レントシテ相變ラズ失敗ス。手形ハ卽チ其河童ガ、再度此村ノ牛馬ニ對シテ非望ヲ抱カザルべシト云フ誓約書ナルガ故ニ、之ヲ寫セシ印刷物マデモ、牛馬ヲ保護スルノ效力アルモノト認メラレシ也〔長門風土記〕。

 

《訓読》

河童の詫證文(わびしやうもん)  其の時代の河童は神代(かみよ)の草木と同じく、能く人語を解したりと見ゆ。【詫證文】又、人間と同じく或いは泣き、或いは叩頭(ていとう)し、甚しきは、人間と對等に不行爲の契約を締結せり。其の契約も單に口頭のもののみならず、時としては、書面を以つて差し出したるを以つて察すれば、約に背(そむ)き若(も)しくは、つい、失念して相ひ濟まぬことなども、やはり、人間竝(なみ)にてありしかと思はる。出雲八束(やつか)郡川津村大字西川津にも、よく似たる話あり。昔、此の村水草川(みくさがは)の河童、馬を引き込まんとして、例のごとく、失敗し、色々と村民に陳謝し、辛(から)うじて助命を得たり。【氏神】此の時の河童退治は、全く村の氏神宮尾明神の神德に因る、と云へり。【エンコウ】「雲陽志」には此の顚末を記載し、且つ曰く、『それより後、此の里にては、猿猴(エンコウ)、災ひを爲すこと、なし。其れ故に、世人は此の社(やしろ)を「猿猴の宮」と稱す。猿猴とは俗に謂ふ「カハコ」のことなり。又、「カハツパ」とも「カハタロウ」とも、國々にて名の相違あり。水中に住みて、人の害を爲す者なり』云々(以上)。近代の傳承は之れと若干の變化あり。「猿猴」とは言はずして、「河獺(かはをそ)」と稱す。河獺、馬の綱を身に纏ひて、之れを引き込まんとし、却つて、馬の爲に引き摺られて棉畠(わたばたけ)の中を轉(ころ)げ廻(まは)る。村の者、之れを見つけて、「河子々々」と騷ぎ立て、終に之れを捕へたり。河獺が手を合せて拜むにより、殺さんとせし命(いのち)を宥(ゆる)し、河獺は其の儘、村に奉公して、田畠(でんぱた)の仕事を爲(な)せり。然れども、本來、人間の生膽(いきぎも)を拔くを好むを以つて、奉公中も、其の癖、やまず。【御尻用心】折もあれば、村の者の臀(しり)の邊りに手を出だす故、始めの程は、各自に瓦(かはらけ)を當てて用心をせしも、あまり度々の事にて氣味が惡くなり、相談の上、河獺に證文を入れさせて、之れを放す。村の宮に祀(まつ)れるは、實(じつ)の此の時の證文なり。【水難禁呪(きんじゆ)】今も土地の人は水泳の時に「雲州西川津」と唱ふるを常とす。是れ、「河子除(かはごよけ)」の呪文なり〔「日本傳集」〕。河童と河獺とを混同する例は他にも存す。中國西部の諸縣に於いて、今も「河童」を「エンコウ」と呼ぶは、殊に我輩(わがはい)[やぶちゃん注:柳田國男]の肝要と認むる所なり。【手形】長門(ながと)の萩に近き阿武(あぶ)郡椿鄕(つばきがう)西分村(にしぶんそん)に於いては、亦、雲州の西川津と同じく、古くより「エンコウの手形」なるものを傳ふる神社あり。【守札(まもりふだ)】之れを板行(はんぎやう)して信心の徒(と)に施す、「牛馬安全」の護符として有效なり、と云へり。此の「手形」に關しても同種の由來記あり。寬永年間[やぶちゃん注:一六二四年から一六四五年。第三代将軍徳川家光の治世。]と云へば、いと古きことなり。「エンコウ」、或る家の馬を水中に引き入れんとして、相ひ變らず、失敗す。手形は、卽ち、其の河童が、再度、此の村の牛馬に對して非望(ひばう)[やぶちゃん注:分不相応の大きな望み。]を抱かざるべし、と云ふ誓約書なるが故に、之れを寫せし印刷物までも、牛馬を保護するの效力あるものと認められしなり〔「長門風土記」〕。

[やぶちゃん注:「不行爲」法律用語としては「不作為」(為すべきことをしないこと)を指すが、ここはある種の行為を不法行為として指定することを指しているから、民事訴訟法のそれや、刑法上の不作為犯のそれとは異なるので、通常の用法ではない。

「出雲八束(やつか)郡川津村大字西川津」現在の島根県松江市西川津町(グーグル・マップ・データ)。松江市市街の北東部に当たる。ここに出る「水草川(みくさがは)」は現在、「朝酌川(あさくみがわ)」と呼称が変わっている。同町の準公式ガイドと思われる「川虎の郷(かわこのさと)かわつ まち歩きガイドマップ」(PDFを見ると、標題の通り、ここの「河童」、柳田が「カハコ」と書いているものは「川虎」と漢字表記するものであるらしいことが判明する。ところが、それを祀っていると柳田が記す「村の氏神宮尾明神」というのは、上記のガイド・マップにもグーグルの地図上や国土地理院図にも見当たらない。ガイド・ブックのほぼ中央位置に今尾橋とあるから、この辺りと思しいのだが、ない。ガイド・マップでは地区の氏神を解説の十一番の「住吉神社」としているから、或いは、合祀されてしまったものかも知れない、などとも思ったが、だったら、ガイドマップに書きそうなもんだ、とも思う。ガイド・マップを眺めていたら、ふと、今尾橋の南東に「若宮さん」とあるのに気づいた。さらに「松江市 宮尾神社」で検索すると、「こころの巡礼」というサイト内の『トピックス「西川津の河虎」 松江の宮尾神社のカッパ伝説』というページに「宮尾明神 (雲陽誌西川津の項より)」として、『大己貴命をまつる、本社五尺四方、拝殿九尺 梁に三間、境内皆山なり、祭禮正月三日九月廿五日、古老傳にいわく昔西川津村を西長田村といひし時、猿猴人民をなやまし人皆難儀のことにおもひ、明神へいのりしに或時猿猴馬を川へ引こまんとしたりしに神力にてやありけん彼馬猿猴を陸へ引上たり、折節俚民出合で猿猴をとらへ神前にて石に證文を書、即社内に納をきて今にあり夫より後此里にて猿猴わさわひをなすことなし、此故にこの宮を世人猿猴の宮といへり、猿猴とは俗にいふかわこの事なり、又かわつは又かわ太郎なんと國々にて名のかわりあり、水中にすみて人に害をなすものなり』とあるのを見出し(当該ページにはこれに基づく紙芝居の絵がある。絵をクリックすると大きくなり、語りが下にテロップで附されてある)、ここで「今尾神社」と記すからには現存するのではないかと確信し、さらに調べると、同地区の「笠無自治会」公式サイト内の「かわつ故郷かるた」の「て」に『天馬坂昔あそんだ通学路』とあって、解説に『天馬坂は、西川津町橋本地区にある石段が連なる坂道です。この道は、上東川津町へ通じる村道、宮尾神社の参道でもあり、天にも昇る坂道という意味から天馬坂と名がつきました。その昔冬は雪も多く、子どものスキーそり等の遊び場、普段は通学路として利用されていました』とあるのを発見した。今尾神社は現存するのである。一つの推理であるが、この解説の「橋本」から、この雑木林のような小さな丘のようなものがある附近(グーグル・マップ・データの航空写真)に今尾神社はあるのではなかろうか? 郷土史研究家の御教授を乞う。【15:30追記】いつものT氏より、個人ブログ「出雲国神社めぐり」の「熊野神社(市成)」に(地図有り。私の想定した位置の南方に当たる)、『合祀神』『宮尾神社(大己貴命)』の記載があるとメールを戴いた。そっか、合祀されちゃってたんだなぁ、リンク先にも河童のことは書かれてない。ちょと淋しいなぁ。でも、T氏はそれだけでなく、「雲陽誌」の「宮尾明神」の載る画像をお送り下さった。以下に附す。またまた激しく感謝!!!

Miyao1
Miyao2

 

 

 

 

「エンコウ」「猿猴」は本来は中国で猿類(我々ヒト(真核生物ドメイン Eukaryota 動物界 Animalia真正後生動物亜界 Eumetazoa 新口動物上門 Deuterostomia 脊索動物門 Chordata 脊椎動物亜門 Vertebrata 四肢動物上綱 Tetrapoda 哺乳綱 Mammalia 真獣下綱 Eutheria 真主齧上目 Euarchontoglires 真主獣大目 Euarchonta 霊長目 Primate 直鼻猿亜目 Haplorrhini(真猿亜目 Simiiformes)狭鼻下目 Catarrhini ヒト上科 Hominoidea ヒト科 Hominidae ヒト亜科 Homininae ヒト族 Hominini ヒト亜族 Hominina ヒト属 Homo ヒト Homo sapiensを含む霊長目は別称でサル目である)を総称する語で、古くは中でも「手長猿」(現在の霊長目直鼻亜目真猿下目狭鼻小目ヒト上科テナガザル科

Hylobatidae のテナガザル類)と「尾長猿」(狭鼻下目オナガザル上科オナガザル科オナガザル科オナガザル亜科ヒヒ族マカク属 Macaca)指した。但し、現行の中国語漢名では前者は「長臂猿」で、後者を「猿猴」に当てる。本邦に於ける「猿猴」認識は私の寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類の「猨(ゑんこう)」(「俗に猿猴の二字を用ひて之れを称す」と注記有り)で詳注しているので、そちらを参照されたい。同巻では別に「川太郎(かはたらう)」(「一名川童(かはらう)」の注記有り)別項立てされているのでそちらも見られたいが、何故、河童が、本邦の一部地方(主に西日本中部の中国・四国地方)で「えんこう」(猿猴)と呼ばれるようになったかは、追々、柳田國男が明らかにして呉れるであろう。

 

 

 

「カハタロウ」「河太郎」であるから、歴史的仮名遣では「カハタラウ」でなくてはならない。

 

「河獺(かはをそ)」読みは古式の感じと人に悪さをする妖獣として、実在した「かわうそ」と差別化するために敢えてこれとした。因みに、「ちくま文庫」版全集も『カワオソ』とする。絶滅した哺乳綱食肉目イタチ科カワウソ亜科カワウソ属ユーラシアカワウソ亜種ニホンカワウソ Lutra lutra nippon。実在する彼らはかなり古くから妖怪化されており、河童と棲息域が重なり、生態や習性も類似点があることから、その混同も有意に見られる。ウィキの「カワウソ」によれば、彼らカワウソ類は日本では(中国・朝鮮にもある)『キツネやタヌキ同様に人を化かすとされていた。石川県能都地方で』、二十『歳くらいの美女や碁盤縞の着物姿の子供に化け、誰かと声をかけられると、人間なら「オラヤ」と答えるところを「アラヤ」と答え、どこの者か尋ねられると「カワイ」などと意味不明な答を返すといったものから』加賀(現・石川県)で、城の堀に住むカワウソが女に化けて、寄って来た男を食い殺したような恐ろしい話もある』(河童が人間に化ける話は本書で既に出たし(夫に化けて行為に及んでいる)、実際に他の伝承でも認められる)。『江戸時代には』「裏見寒話」「太平百物語」「四不語録」などの『怪談、随筆、物語でもカワウソの怪異が語られており、前述のように美女に化けたカワウソが男を殺す話がある』。『広島県安佐郡沼田町(現・広島市)の伝説では「伴(とも)のカワウソ」「阿戸(あと)のカワウソ」といって、カワウソが坊主に化けて通行人のもとに現れ、相手が近づいたり上を見上げたりすると、どんどん背が伸びて見上げるような大坊主になったという』。『青森県津軽地方では人間に憑くものともいわれ、カワウソに憑かれた者は精魂が抜けたようで元気がなくなるといわれた』。『また、生首に化けて川の漁の網にかかって化かすともいわれた』。『石川県鹿島郡や羽咋郡ではかぶそまたはかわその名で妖怪視され、夜道を歩く人の提灯の火を消したり、人間の言葉を話したり』、十八、十九『歳の美女に化けて人をたぶらかしたり、人を化かして石や木の根と相撲をとらせたりといった悪戯をしたという』。『人の言葉も話し、道行く人を呼び止めることもあったという』。『石川や高知県などでは河童の一種ともいわれ、カワウソと相撲をとったなどの話が伝わっている』。『北陸地方、紀州、四国などではカワウソ自体が河童の一種として妖怪視された』。『室町時代の国語辞典』「下学集」には、『河童について最古のものと見られる記述があり、「獺(かわうそ)老いて河童(かはらふ)に成る」と述べられている』。『アイヌの昔話では、ウラシベツ(北海道網走市浦士別)で、カワウソの魔物が人間に化け、美しい娘のいる家に現れ、その娘を殺して魂を奪って妻にしようとする話がある』。『中国では、日本同様に美女に化けるカワウソの話が』「捜神記」などの『古書にある』。『朝鮮半島にはカワウソとの異類婚姻譚が伝わっている。李座首(イ・ザス)という土豪には娘がいたが、未婚のまま妊娠したので李座首が娘を問い詰めると、毎晩四つ足の動物が通ってくるという。そこで娘に絹の糸玉を渡し、獣の足に結びつけるよう命じた。翌朝糸を辿ってみると糸は池の中に向かっている。そこで村人に池の水を汲出させると糸はカワウソの足に結びついていたのでそれを殺した。やがて娘が生んだ子供は黄色(または赤)い髪の男の子で武勇と泳ぎに優れ』、三『人の子をもうけたが末の子が後の清朝太祖ヌルハチである』。『ベトナムにもカワウソとの異類婚姻譚が伝わっている。丁朝を建てた丁部領(ディン・ボ・リン)は、母親が水浴びをしているときにかわうそと交わって出来た子であり、父の丁公著はそれを知らずに育てたという伝承がある』とある。

 

「人間の生膽(いきぎも)を拔くを好む」河童と言えば、人間の尻小玉を抜き取ることがよく語られるが、ウィキの「河童」によれば、『水辺を通りかかったり泳いだりしている人を水中に引き込み、おぼれさせたり、「尻子玉」(しりこだま。尻小玉とも書く)を抜いて殺したりするといった悪事を働く描写も多い』が、この『尻子玉とは人間の肛門内にあると想像された架空の臓器で』、『河童は、抜いた尻子玉を食べたり、竜王に税金として納めたりするという。ラムネ瓶に栓をするビー玉のようなものともされ』、『尻子玉を抜かれた人は「ふぬけ」になると言われている。「河童が尻小玉を抜く」という伝承は、溺死者の肛門括約筋が弛緩した様子が、あたかも尻から何かを抜かれたように見えたことに由来するとの説もある。人間の肝が好物ともいうが、これも前述と同様に、溺死者の姿が、内臓を抜き去ったかのように見えたことに由来するといわれる』とある。

 

「瓦(かはらけ)」素焼きの皿のようなものであろう。それを着衣の下、肛門の辺りに仕込んだものであろう。

 

「日本傳集」高木敏雄著。大正二(一九一三)年郷土研究社刊。以上はここに出る(国立国会図書館デジタルコレクションの画像の当該部)。

 

「エンコウ」「猿猴」。本来は猿(手長猿。以下の引用を参照)を指す漢語であるが、やはり、本邦で河童と混同されたもので、川に棲む猿としての妖怪名である。本邦のそれはウィキの「猿猴」によれば、『猿猴(えんこう)は広島県及び中国・四国地方に古くから伝わる伝説上の生き物。河童の一種』。『一般的にいう河童と異なるのは、姿が毛むくじゃらで猿に似ている点である。金属を嫌う性質があり、海又は川に住み、泳いでいる人間を襲い、肛門から手を入れて生き胆を抜き取るとされている。女性に化けるという伝承もある』。「土佐近世妖怪資料」によると、三『歳ほどの子供のようで、手足は長く爪があり、体はナマズのようにぬめっているという』。文久三(一八六三)年に『土佐国(現・高知県)で生け捕りになったとされる猿猴は、顔は赤く、足は人に似ていたという。手は伸縮自在とされる』(中国の妖猿の通臂猴の特徴と一致する)。『ある男が川辺に馬を繋いでいたところ、猿猴が馬の脚を引いて悪戯をするので、懲らしめようと猿猴の腕を捻り上げたが、捻っても捻ってもきりがなく、一晩中捻り続ける羽目になったという』。『民俗学者・桂井和雄の著書』「土佐の山村の妖物と怪異」』『によれば、土佐の猿猴は市松人形に化けて夜の漁の場に現れ、突くと』、『にっこり笑うという』。『人間の女を犯すこともあるという。猿猴が人に産ませた子供は頭に皿があり、産まれながらにして歯が』一『枚生えているといい、その子供は焼き殺されたという』。『また河童に類する四国の妖怪にシバテンがいるが、このシバテンが旧暦』六月六日の『祇園の日になると川に入って猿猴になるといい、この日には好物のキュウリを川に流すという』。『山口県萩市大島や阿武郡では河童に類するタキワロという妖怪がおり、これが山に』三『年、川に』三『年住んで猿猴になるという』。『広島市南区を流れる猿猴川の名前の由来となっている。付近では伝承にちなみ「猿猴川河童まつり」が開催されている』。『ほんらい猿猴とは、猿(テナガザル)と猴(マカク)の総称で、サルのことである』。『この生き物のモデルは、日本の隣国、中国南西部に生息していたテナガザル』(霊長目直鼻亜目真猿下目狭鼻小目ヒト上科テナガザル科 Hylobatidae)『ではないかといわれている』とある。私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の「猨(ゑんこう)」も是非、参照されたい

 

「阿武(あぶ)郡椿鄕(つばきがう)西分村(にしぶんそん)」山口県萩市椿大字椿はここ(グーグル・マップ・データ)。読みはウィキの「椿村(山口県)」に拠ったが、本土で「村」を「そん」と読むのは、比較的珍しい。

 

『「エンコウの手形」なるものを傳ふる神社あり』山口県文書館製作になる書庫に棲む動物たちPDF)の「申」の項に、『萩長蔵寺の「猿猴の手形板」』とあり、『江戸時代はじめの頃の洪水のとき、近辺の牛馬を繋いでいたら猿猴が水中へ引き込もうとしたのを捕らえて、今後、牛馬の守護をするなら命を助けてやると言ったところ、猿猴は手を差し出して手形を押した。それを板に写し取り、牛馬の祈祷の時に用いるようになった。(「御国廻御行程記」、上写真)』とあり、『民俗学は、これらのカッパ(猿猴)は「水神の零落した姿」だととらえています。だとすると、これらの「猿猴退治」の伝承の背後には、「大蛇退治」の伝承と同様に、人々が治水・利水に苦労しつつ、用水をコントロールしていった歴史の断片が隠されているのかもしれません』とあるのは、神社ではないが、この長蔵寺(臨済宗)、椿にあ(グーグル・マップ・データ)「長門風土記」国立国会図書館デジタルコレクションにあが、膨大で、調べる気が起こらない。悪しからず。

 

「板行(はんぎやう)」「ちくま文庫」全集では『ハンコウ』とするが、私の好きな読みで附した。]

2019/01/27

和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鴆(ちん) (本当にいないと思いますか? フフフ……)

 

Tin

 

ちん  同力鳥

    

【音朕】

 

チン

 

本綱鴆似鷹而大狀如鴞紫黑色赤喙黑目頸長七八寸

雄名運日雌名陰諧雄鳴則晴雌鳴則雨其聲如擊腰鼓

似云同力故名同力鳥巢於大木之顚巢下數十步皆草

木不生也食蛇及橡實知木石間有蛇卽爲禹步以禁之

須臾木倒石崩蛇出也蛇入口卽爛其屎溺着石石皆黃

爛飮水處百蟲吸之皆死人誤食其肉立死惟得犀角卽

解其毒也此鳥出商州州等南方山中

[やぶちゃん字注:「」{(つくり)は(くさかんむり)に「單」}+(へん)「斤」。訓読文では「本草綱目」の原文を確認、同じ字である「蘄」に代えた。]

 

 

ちん  同力鳥〔(とんりつてう〕[やぶちゃん注:本文参照。]

    
日〔(うんじつ)〕

【音、「朕」。】

 

チン

 

「本綱」、鴆、鷹に似て、大。狀、鴞〔(ふくろふ)〕のごとく、紫黑色。赤き喙、黑き目、頸の長さ、七、八寸。雄を「運日〔(うんじつ)〕」と名づく。雌を「陰諧〔(いんかい)〕」と名づく。雄、鳴くときは、則ち、晴れ、雌、鳴くときは、則ち、雨ふる。其の聲、腰鼓〔(こしつづみ)〕を擊〔(たた)〕くがごとく、「同力(とんりつ)」と云ふに似たり。故に「同力鳥」と名づく。大木の顚(いたゞき)に巢くふ。巢の下、數十步、皆、草木、生ぜず。蛇及び橡〔(とち)〕の實を食ふ。木石の間に蛇有るを知るときは、蛇、卽ち、禹步〔(うほ)〕を爲して、以つて之れを禁〔(ごん)〕す。須臾〔(しゆゆ)にして〕、木、倒れ、石、崩(くづ)れて、蛇、出づる。蛇、口に入らば、卽ち、爛る。其の屎〔(くそ)〕・溺〔(いばり)[やぶちゃん注:尿。]〕石に着けば、石、皆、黃〔に〕爛(たゞ)る。飮水〔(のみみづ)〕の處にて、百蟲、之れを吸ふに、皆、死す。人、誤りて其の肉を食へば、立ちどころに死す。惟〔ただ)〕犀の角を得て、卽ち、其の毒を解すなり。此の鳥、商州・蘄州〔(きしう)〕等、南方の山中に出づ。

[やぶちゃん注:中国で古代から猛毒を持つとされる想像上の化鳥(けちょう)。但し、「鴆」の実在を否定は出来ないし、以下の注で示す通り、羽一枚でヒトが死ぬ毒を有する毒鳥は《実在する》。但し、その鳥がイコール「鴆」であるかどうかは判らないし、或いは、嘗ての中国に毒鳥「鴆」は実際に棲息していたのだが、今は絶滅してしまった種である可能性もないとは言えない。逆に一九九〇年に発見された毒鳥の存在はただ偶然の一致に過ぎず、実在する毒物(或いは複数の毒物の混合体)を「鴆」という架空の鳥由来としたのかも知れない。ともかくも、こうした幻獣となると、私は何時も以上に「力(りき)」が入ってしまうのを常とする。まずはこの際、良安の抜粋する「本草綱目」(明の李時珍よって編纂された薬学本草書。全五十二巻。一五七八年完成、一五九六年出版)と、やや遅れて出来た本書が倣ったところの「三才圖會」(王圻(おうき)と彼の次男王思義によって編纂された類書(百科事典)。全百六巻。明の一六〇七年完成、一六〇九年出版)の「鴆」の記載を完全に電子化して、比べてみることから始めようではないか。

 「本草綱目」の「鴆」は「巻四十九」の「禽之四」に載る。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの原本画像を元にし、句読点や記号を推定で補った。一部の記号は変えてある。漢字表記は原文に基づく。

   *

鴆【音「沈」、去聲。「別録」下品。】 校正【自外類移于此。】

 釋名日【與運日同。「別録」】。同力鳥【陶宏景】。

 集解【「別録」曰、『鴆生南海』。弘景曰、『鴆與日是兩種。鴆鳥、状如孔雀、五色雜斑、髙大、黒頸、赤喙、出廣之深山中。日、状如黒傖鷄、作聲似云同力、故江東人呼爲同力鳥。並啖蛇、人誤食其肉立死、並療蛇毒。昔人用鴆毛爲毒酒、故名鴆酒、頃不復爾。又海中有物赤色、状如龍、名海薑。亦有大毒、甚于鴆羽』。恭曰、『鴆鳥、出商州以南江嶺間大有、人皆諳識、其肉腥有毒不堪啖』。云、『羽畫酒殺人、亦是浪證』。郭璞云、『鴆大如鵰、長頸赤喙、食蛇』。「文」「廣雅」「淮南子」皆以鴆爲日。交廣人亦云、『日即鴆、一名同力鳥、更無如孔雀者。陶爲人所誑也』。時珍曰、『按「爾雅翼」云、鴆似鷹而大、状如鴞、紫黒色、赤喙黒目、頸長七八寸。雄名運日、雌名隂諧。運日鳴則晴、隂諧鳴則雨。食蛇及橡實。知木石有蛇、即爲禹歩以禁之、須臾木倒石崩而蛇出也。蛇入口即爛。其屎溺着石、石皆黄爛。飲水處、百蟲吸之皆死。惟得犀角即解其毒。又楊夫「鐵厓集」云、鴆出蘄州黄梅山中、状類訓狐、聲如擊腰鼓。巢於大木之顛、巢下數十歩皆草不生也』。】

 毛氣味有大毒。入五臓、爛殺人【「別録」。】。

 喙主治帶之、殺蝮蛇毒【「別録」。時珍曰、『蛇中人、刮末塗之、登時愈也』。】

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良安は「集解」の冒頭の陶弘景(四五六年~五三六年)六朝時代の医師・本草家で偉大な博物学者であった)の引用文の一部と末尾の時珍の引用部(私が下線を施した後半箇所)に基づいて抜粋していることが判る。しかし、それよりも私には非常に興味深い部分があるのである。則ち、弘景の引用文だ。始めの「鴆與日是兩種」とは「鴆と日とは、是れ兩種なり」で、彼は「鴆」と「日」を別種としている点も目が惹かれるが、さらに彼は「又海中有物赤色、状如龍、名海薑、亦有大毒、甚于鴆羽鴆毒海薑」と述べているのである。「又、海中、物、有り、赤色、状(かたち)、龍のごとく、「海薑(カイキヨウ)」と名づく。亦、大毒、有りて、鴆の羽よりも甚だし」と言っている点である。実は私はこの部分を六年前に「海産生物古記録集■8 「蛸水月烏賊類図巻」に表われたるアカクラゲの記載」で取り上げており、この鴆毒よりも激しい毒を持つ生物「海薑」(「薑」は生姜(ショウガ)のこと)を、私は、刺胞毒の激しい刺胞動物門鉢虫綱旗口クラゲ目オキクラゲ科ヤナギクラゲ属アカクラゲ Chrysaora pacifica に同定しているのである。私が何を言いたいかと言うと、弘景は実在する強い刺胞毒を持ったアカクラゲの毒の強さと、鴆の羽から浸出させた毒を比べると、遙かにアカクラゲの方が強毒であると彼が証言している点である。有毒鳥「鴆」が全くの架空の鳥であり、「鴆の羽の浸出液」とされる「鴆毒」なるシロモノも全然、荒唐無稽なもので存在しないとするならば、この毒性比較自体が初めから意味のないものとなること、優れた博物学者であった弘景が見もしない「鴆の羽の毒」を、実在するアカクラゲと比較検討するというのは私は考えにくいこと、実在する強毒生物の下手にわざわざランクするということが出来るということは、少なくとも「鴆の羽の浸出液とされた鴆毒」なるものは現に確かに存在した事実を物語っているからだと思うのである。なお、「交廣人亦云」(中国の南方の交趾や広州の人の意か)の箇所は、「鴆」や「鴆毒」の存在を否定するものではなく、単に「孔雀」より美しい五色のそんな鳥はその地方にはいないと批判しているだけであると読む。

 「三才圖會」の「鴆」は「鳥獸二卷」に載る。こちらの左頁に図こちら右頁に解説。孰れも国立国会図書館デジタルコレクションの画像である。同前の仕儀で解説を電子化する。

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  鴆

鴆、毒鳥也。似鷹而大、如鴞也。紫黒色、長頸、赤喙、長、七、八寸。作銅聲。雄名運日、雌名陰諧。天晏静無雲、則、運日先鳴、天将陰雨、則、陰諧鳴。之故「淮南子」云、『運日、知晏陰諧知雨也』。食蝮蛇、蛇入口、即爛、屎溺、若石、石亦爲之爛。

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「鴆」の絵も寸詰りの首で幼稚園児の描いたような稚拙なもので、凡そ現物を見ていないことの見え見えのいい加減なものだ(線上のものは食っている毒蛇かどうかも判らぬ。「和漢三才圖會」はこの絵を元にしているが、まだマシだ)。十一年前の「本草綱目」の梗概というよりも、抜粋に引用を附してオリジナルに見せかけた、お茶濁しの感を免れぬ。しかも最後の「若石」は「着」の誤字だぜ! さて、茨城大学名誉教授東アジア医学史を専門とされる真柳誠氏の論文「鴆鳥-実在から伝説へ」(一九九四年四月朝日新聞社刊の山田慶兒編「物のイメージ-本草と博物学への招待」に所収。リンク先は「真柳研究室」公式サイト内のページ)は「鴆」について最も優れたネット上での記事の一つと思うが、そこで真柳氏も、『後世に誇る明代の『本草綱目』すら、宋以後の新知見は一切ない。また明の図説百科事典『三才図会』も鴆鳥を載せるが』、『説明は過去の記載からの作文にとどまる。そればかりか、説明文と合致しない絵図を掲げる』。『なぜか』。『理由は明らかだろう。鴆鳥は唐代の『新修本草』で薬物として否定され、宋代には毒物としてのインパクトもなくなってしまった。それで人々の関心もうせ、伝説の進化すら生じようがなかったのである。もちろん鴆鳥自体が唐宋間で、急速に姿を消していったらしいことも要因の一つに加えてよいだろう』。結局、『鴆鳥に与えられたみちは、ただ一つだった。空想的毒鳥として、過去の記録がみな伝説的とみなされたあげく、歴史の片隅に埋められたのである。伝説にしても、鴆鳥伝説はいわば忘れられた化石であった』と述べておられる。実は、「本草綱目」以前の「鴆」や「鴆毒」の古文献を掲げたいと思ったのだが、この真柳氏の論文のこの前の部分(「3 鴆鳥による毒殺」と「4 本草と鴆鳥」及び上記引用含まれる「5 実像から虚像へ、そして湮滅」)でそれは精緻に、しかも、判り易く纏められてあるので、とても私が新たな内容を附け加えることは出来そうもない。是非、そちらを参照されたい。本論文は実在する毒鳥(後述する)の発見を契機として起筆されたものであるが、少しだけ、引用させて戴くと、「鴆」のような毒鳥が近年、『出現したことで、鴆鳥に関する古い文献記載にも再検討すべき余地が生まれた。与えられた手がかりは多い』とされ、『(1)南国の密林に棲息する。(2)鳴き鳥で、声は二音節に近い。(3)皮膚・羽毛の毒性が強い。(4)毒性はヒトに経口でもすぐ発現する。(5)毒成分はエタノールに溶出する。(6)蛇・鷹が捕食を忌避する。以上の六点である』と既定される(太字は私が施した。以下同じ)。史書で最も古い「鴆毒」と同一と思われるものは、以下らしい。『酖という文字が、前六六二年にあたる『春秋左氏伝』荘公三十二年の話にでてくる』。『病にたおれた魯の荘公から世継ぎを相談された成季が、意見を異にする叔牙を殺すのに飲ませたのが酖である。すると酖は酒に関連した毒液に相違ない。この翌年にあたる同書閔公元年でも、「安楽の害は酖毒に同じ」、と管敬仲が斉公に説く』。『次の話からすれば、この酖とは鴆鳥をしこんだ毒酒とわかる』。『『国語』晋語二』『に記される前六五六年の策謀では鴆が使われるが、単純な毒殺ではない。すなわち、晋の献公は異族の驪戎を討って、美人の驪姫を得た。献公の寵愛をわがものとした驪姫は、わが子を世継ぎとするため、異腹の太子申生を廃する陰謀をはかる』。『「まず申生に亡き生母を祭らせてから、その祭祀の酒肉を献公に送らせた。次にすきをみて酒に鴆を、肉にトリカブトをしこんだのである。献公が酒を地にそそいで祭ると、土がもり上がった。そこで驪姫が肉を犬にやると、犬は死んだ。宦官に酒を飲ませたら、やはり死んだ」』。『こうして無実の罪をかぶせられた申生は、自殺へと追いやられてしまう』。『この猛毒トリカブトは「菫」の字で記され、中国でもっとも古いトリカブトの表現である』。『すると並記される鴆鳥の存在と毒性も、相当にはやくから知られていたことが示唆されよう。なお『穀梁伝』もほぼ同一の話を載せ、酖の字を使う。けっきょく酖は鴆酒なのである』とある。以下の史書渉猟はリンク先を読まれたい。以下は「4 本草と鴆鳥」の冒頭。『中国では本草と呼ばれる分野で、薬物に関する情報を集積してきた。現在、全体の内容が伝えられる最古の本草書は、後漢の一世紀頃に原型が編纂された『神農本草経』で、凡例部分と、三六五薬を上薬・中薬・下薬に分類した部分からなる。鴆鳥は、条文として本書に設けられていない。が、中薬の犀角条文に唯一の言及がみえる。すなわち「犀角は鉤吻・鴆羽・蛇の毒を殺(け)し」』『とあり、鉤吻つまり野葛や毒蛇の中毒とともに、鴆羽による中毒を犀角が解毒するという。ならば鴆鳥は羽毛に毒性があった。しかも羽毛は食用にならない。つまり鴆羽の用途はあくまでも毒用しかなく、それが毒酒にもされたのである』とされ、後の方で唐の「新修本草」(六五九年成立)の画像(仁和寺旧蔵の巻子本を幕末に模写した上海古籍出版社影印本のもの)が載る。そこには、

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鴆鳥毛有大毒入五藏爛殺人其口殺蝮蛇毒一名日生南海

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とある(「口」の部分を真柳氏は『くちばし』と訳しておられる)。勝手に訓読すると、

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鴆鳥、毛、大毒、有り。五藏に入らば、爛れ、人を殺す。其の口■(くちばし)、蝮蛇(ふくだ)を殺毒す。一名、「日(うんじつ)」、南海に生ず。

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「蝮蛇」は有鱗目クサリヘビ科マムシ亜科 Crotalinae に属する毒蛇類。真柳氏曰く、『ここで「くちばしは蝮蛇の毒を殺す」、という薬効が認められたので、鴆鳥はようやく本草の正式品目に立てられたのである』。『ところで『神農本草経』では、犀角が野葛・鴆羽の毒とともに蛇毒も消す、と記されていた。そして『本草集注』の墨字経文では、鴆鳥のくちばしに犀角と同様、蛇毒への薬効を認めたことになる。犀角・鴆鳥・毒蛇および野葛は、のちのちも関連して語られ、とりわけ鴆鳥と毒蛇の話は多い』。『その最初は後漢の応劭』(おうしょう)『が『漢書』斉恵王伝につけた注』『と思われ、「鴆鳥は黒身赤目で、蝮蛇・野葛を食う。その羽でひとかきした酒を飲むと、たちどころに死ぬ」と記す。蛇が小鳥を捕食するのは普通である。しかし鳥が蛇を、しかも毒鳥が毒蛇を捕食する、という話はよほど興味を引いたのであろう。『山海経』の郭璞(二七六~三二四)の注』『もこれを踏襲し、「鴆は鵰(ワシ)ほどの大きさで紫黒色。頸が長く、くちばしが赤く、蝮蛇の類を食う」という。はるか後代になるが一五九六年の『本草綱目』初版(金陵本)の絵』『も、郭璞の説にもとづくと思われる。後代』、『こうして鴆鳥の形状も敷衍されてゆく』とされ、「本草集注」の陶弘景の注(「本草綱目」の「鴆」「集解」の頭部分と前半は同じ)を訳され、真柳氏も「海薑」をアカクラゲと推測され、私が先に指摘した「鴆」と「日」を別種とした点にも着目されておられるが、ここで氏は弘景の記載を批判しておられる。『ここで新説が出た。鴆鳥と』『日鳥は別種という。さらに』『日鳥と同種らしい同力鳥は、肉に毒性があるという。しかし』『日鳥・同力鳥とも、羽毛の毒や薬効を記さない。他方、鴆鳥については羽毛の毒性だけをいい、酖酒も近ごろは使用されないと記す。さらに鴆鳥はくちばしのみならず、羽毛も蛇の毒消しとなり、くちばしは蛇よけにもなるという。この陶弘景の口吻には、『本草集注』の墨字経文で新出の{云+鳥}日を無益の毒鳥とする一方、先秦時代からの鴆鳥に、有用性を認めようとする意図が秘められていないだろうか』。『もしそうだとすると、理由はいくつか考えられる。『神農本草経』を校訂した陶弘景は、その凡例にある「有毒な下薬は、急性疾患に用いる」』、『という定義を十分承知している。また儒仏道に通じ、当代随一の学者と称された彼にとって、本草のテキスト作成に際し、古くから知られた毒薬を無視することができなかった。しかし斉・梁の皇帝とも親交のある彼は、毒薬の知識でいらぬ嫌疑を招きたくない。こう仮定すると、彼の注釈にみえる不自然さも、少しは納得できよう』とされる。なるほど! と私も膝を打った。『しかし疑問はまだある。なぜ毒鳥が蛇よけになり、蛇の毒消しになるのだろうか。大塚恭男氏はトリカブト毒とサソリ毒が相殺する記載を、東西の古文献に発見している』。『また数年前の殺人事件で、トリカブトの毒性発現がフグ毒の併用で遅延したことも記憶に新しい』と述べられ(以下、実在する毒鳥を蛇・鷹が捕食を忌避する事実を検証されておられるが、引用限界を越えると指摘されると厭なので現論文を参照されたい。なお、この記事の後に実在する毒鳥が出るが、その属名は後に修正変更されている(後述する)ので注意されたい)つつ、結局は『鴆鳥の作用は毒性だけに現実性があり』、「本草集注」『のいう薬効は相当にあやしいのである』と断じられておられる。その後、唐の政府の公定薬物書であった「新修本草」によって鴆鳥及び鴆毒は「有名無用」とされ、本草学の表舞台からは降ろされてしまったと真柳氏は言われる。実は我々が目にすることが多い、その後の本草書である「本草綱目」や「三才図会」、さらにそれらの影響を強く受けた日本の本草書等も、実は有名無実化されてしまった、ミイラのような解説だったのである。但し、勘違いしてはいけないのは、真柳氏は『鴆鳥がかつて実在したことを筆者は確信して』おられるのであり、幻想の産物になりかけていたそれ(「鴆」「鴆毒」)が、『ニューギニアの毒鳥発見により、化石的鴆鳥伝承にも再検討の必要性が生じた。記録中の虚像と実像を見分ける手がかりが提供されたからである。検討の結果、鴆鳥がほぼ七世紀まで実在したことは確実である。のち伝説化が進行し、さらに一転して伝説の伝承までとだえてしまった事情も知ることができた』とされ、『物のイメージは人との距離によって変化する。その距離は、人間にとっての有用性の質と程度で認識されることが多い。鴆鳥の消長は、はからずも如実にこれらを具現していたのであった』と擱筆しておられるのである。是非、原文を通して読まれたい。

 さても、最も優れた学術的記載を挙げた。これで、インキ臭いのがお好きな輩には文句は言わせない。では、やおら、「鴆」と「鴆毒」を判り易く鳥瞰するため、まず、ウィキの「鴆」を見ようか。因みに「鴆」は拼音(ピンイン)で「zhèn」(ヂェン)である。『中国の古文献に記述が現れている猛毒を持った鳥』で、『大きさは鷲ぐらいで緑色の羽毛、そして銅に似た色の』嘴『を持ち、毒蛇を常食としているため』、『その体内に猛毒を持っており、耕地の上を飛べば作物は全て枯死してしまうとされ』、『石の下に隠れた蛇を捕るのに、糞をかけると石が砕けたという記述もある』(「三才図会」)。「三才図会」の『記述では、紫黒色で、赤い』嘴、『黒い目、頸長』七、八『寸とある』(約二十一~二十四センチメートル)とある。「韓非子」や「史記」など、『紀元前の古文献では、この鳥の羽毛から採った毒は鴆毒と呼ばれ、古来より』、『しばしば暗殺に使われた。鴆毒は無味無臭』で、且つ、『水溶性であり、鴆の羽毛を一枚浸して作った毒酒で、気付かれることなく相手を毒殺できたという。春秋時代、魯の荘公の後継ぎ争いで、荘公の末弟の季友は兄の叔牙に鴆酒を飲ませて殺した』(「史記」の「魯周公世家」)。『また、秦の始皇帝による誅殺を恐れた呂不韋』(りょふい ?~紀元前二三五年:戦国時代の秦の政治家。荘襄王を王位につける事に尽力し、秦で権勢を振るった。荘襄王により文信侯に封ぜられた。始皇帝の本当の父親との説もある。「奇貨居くべし」は彼と荘襄王の故事に基づく。ウィキの「呂不韋」を参照されたい)『は鴆酒を仰いで自殺した』(「史記」の「呂不韋伝」)『など、古い文献に鴆による毒殺の例は数多い』。『紀元前の文献では、鴆の生息したとされる地域はおおむね江南(長江以南)であり、晋代、鴆を長江以北に持ち込んではならないとする禁令があった。宋代では取締りが厳しくなり、皇帝が駆除のため営巣した山ごと燃やせと命令を出したとか、ヒナを都に連れてきただけの男をヒナと共に処刑させたといった記述がある。南北朝時代を最後に文献上の記録が絶えることとなるが、その頃の記録は文献毎にバラバラで統一性がなく、すでに伝説上の存在になっていた様子が伺える。唐代になると』、『当時の政府も存在を認めず』、六五九『年刊行の医薬書である「新修本草」では『存否不詳とされてしまった。また鳥類学上、鳥に有毒種は全くないとされていた。それ故にいつか伝説化され、龍や鳳凰などと同様の単なる空想上の動物と考えられるようになった』。『だが』一九九二年に『なって、ニューギニアに生息し、原住民の猟師たちが昔から食べられない鳥として嫌っていたピトフーイ』(スズメ目スズメ亜目カラス上科コウライウグイス科ピトフーイ属ズグロモリモズ(頭黒森百舌)Pitohui dichrous:神経毒を有する。後述する)『という鳥が羽毛に毒を有していることがわかり、かつて鴆が実在していた可能性が現実味を帯びることとなってきた。ただし、ピトフーイの姿形と山海経等の古文献にある鴆の図はまるで似ていない』。『ピトフーイ以外にも』二〇〇〇年に『発見されたズアオチメドリ』(スズメ目 Ifritidae 科ズアオチメドリ属ズアオチメドリ(頭青)Ifrita kowaldi:ピトフーイと同じ神経毒を持つ。後述する)『を皮切りに複数の毒鳥類が新たに発見されており、当時の中国に未知の(既に絶滅した)毒鳥類が生息していた可能性は否定できない』。『鴆毒の毒消しには犀角(サイ』(哺乳綱奇蹄目有角亜目 Rhinocerotoidea 上科サイ科 Rhinocerotidae のサイ類。現生種は五種で、アフリカ大陸の東部と南部(シロサイ・クロサイ)、インド北部からネパール南部(インドサイ)、マレーシアとインドネシアの限られた地域(ジャワサイ・スマトラサイ)に分布している)『の角)が有効という迷信がいつの頃からか信じられ、毒酒による暗殺を恐れた中国歴代の皇帝や高位の貴族たちは、犀角でできた杯を競って求めた』。『この犀角の毒消し効果に関する迷信は、鴆が記録から消え去った後は「あらゆる毒の毒消しに有効である」とか、「劇的な精力剤である」という形に昇華され現在に至っている。ゆえに、今日でも世界各地の漢方薬局では犀角が非常な高価で取引されており、その影響でアジアやアフリカのサイは絶滅が危惧されるまでにその個体数を減らした』。『現在、サイは全種が絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約(ワシントン条約)や、生息する地域に位置する国家から厳重に保護されているにもかかわらず、常に高価な角を狙う密猟者の手による射殺の危機に晒されている』。『さらにこの犀角にまつわる迷信は後に西洋に伝わり、ユニコーンの角は水を清めるという別の迷信を生んだ』とある。次はウィキの「鴆毒」といこう。この記載者は「鴆」の存在と「鴆毒」の実在は否定派らしい。その積りで読まれたい。冒頭から、『鴆と呼ばれる空想上の鳥の羽の毒』だ。『一説には、パプアニューギニアに住む』ピトフーイ『という毒鳥と同種の絶滅種の羽ともいう』『が、実際には亜ヒ酸』(亜砒酸・三酸化二砒素:arsenous acidAs(OH)3の無機化合物)『との説が有力である。あるいは酖毒とも書く』(太字下線は私が引いた)。『なお、経書『周礼』の中に鴆毒の作り方と思われる記述がある』。『まず、五毒と呼ばれる毒の材料を集める』。五毒は以下。

・「雄黄」(ゆうおう:orpiment:砒素硫化物。As2S3。強毒)

・「礜石」(よせき:硫砒鉄鉱。FeAsS。無毒)

・「石膽」(せきたん:硫酸銅()。 CuSO4。有毒)

・「丹砂」(たんしゃ:辰砂に同じ。硫化水銀()。HgS。有毒)

・「慈石」(じしゃく:磁鉄鉱。四酸化三鉄。Fe3O4 。無毒)

『この五毒を素焼きの壺に入れ、その後三日三晩かけて焼くと白い煙が立ち上がるので、この煙でニワトリの羽毛を燻すと鴆の羽となる。さらにこれを酒に浸せば鴆酒となるという』。『煙で羽毛を燻るのは、気化した砒素毒の結晶を成長させることで毒を集める、昇華生成方法の一種ではないかと思われる。日本でも、亜砒焼きと呼ばれた同様の三酸化二ヒ素の製造法が伝わっている』。『日本における記述として』、「続日本紀」天平神護元(七六五)年正月七日の『条に、「鴆毒のような災いを天下に浸み渡らせ」という表現が見られる』。原文を示す。

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○己亥。改元天平神護。敕曰。朕以眇身。忝承寶祚。無聞德化。屡見姦曲。又疫癘荐臻。頃年不稔。傷物失所。如納深隍。其賊臣仲麻呂、外戚近臣。先朝所用。得堪委寄。更不猜疑。何期、包藏禍逆之意。而鴆毒潛行於天下。犯怒人神之心。而怨氣感動於上玄。幸賴神靈護國、風雨助軍。不盈旬日。咸伏誅戮。今元惡已除。同歸遷善。洗滌舊穢。與物更新。宜改年號。

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(以下続けて引用するが、注記やその他の記載と組み合わせた)『軍記物である』「太平記」巻第三十には、足利直義は『鴆毒によって毒殺されたという説があると記されて』おり、「関八州古戦録」巻十には、下野国の戦国大名那須高資は天文二〇(一五五一)年に家臣にこれを『盛られて殺された』とする『記述があり』、土佐国の戦国大名長宗我部氏の興亡を描いた土佐藩馬廻り記録方吉田孝世(たかよ)作の江戸時代後期の軍記物「土佐物語」(宝永五(一七〇八)年)成立)『巻第六にも、永禄年間』(一五五八年~一五七〇年)『の事として、「潜(ひそか)に城中の井水に鴆毒を入れ」というくだりがあり、これにより気絶する者が続出したと記述されている(死者についての記述はない)』。さらに同書巻第十七では「文禄の役」に於いて長宗我部元親勢に捕えられ、土佐国へ渡った李氏朝鮮の医師経東(キントン 生没年不詳)は『鴆毒によって死んだと記す』とある。

 次は、発見された実在する毒鳥について記す。筋肉や羽に毒を有し、毒成分はヤドクガエル(両生綱無尾目カエル亜目ヤドクガエル科 Dendrobatidae)と似た猛毒の神経毒であり、ヒトも羽一枚分で死亡してしまうという「鴆毒」と酷似した驚異の事実が最初に発見された種は、スズメ亜目カラス小目カラス上科コウライウグイス科ピトフーイ属ズグロモリモズ Pitohui dichrous である。ウィキの「ピトフーイ」により引く(太字・下線は私)。『ピトフーイ』『は、かつて同じ属に分類されていた ニューギニア島固有の鳥類』六『種(カワリモリモズ、ズグロモリモズ、ムナフモリモズ、サビイロモリモズ、クロモリモズ、カンムリモリモズ)』(他の五種の学名は後で示す)『を指す。ピトフーイの名は鳴き声に由来する』。実にわずか二十九年前の一九九〇年、同属の『ズグロモリモズが有毒であることがシカゴ大学において発見され、世界初の有毒鳥類と認定された』(ヨーロッパウズラ(キジ目キジ科ウズラ属ヨーロッパウズラ Coturnix coturnix: 同種が地中海地方で渡りをする秋、即ち、地中海地方で最も本種の狩猟が盛んな時期に、一部の個体の肉や脂肪に推定で有毒植物由来の毒が蓄積されるらしく,それらを食すことで「Coturnism」(コータニズム:(中国語訳)鶉肉中毒症)という横紋筋融解症が発症し、ミオグロビン尿症が見られ、最悪の場合は急性腎不全や多臓器不全が合併し、死に至ることもある)やツメバガン(カモ目カモ科 Plectropterus 属ツメバガン Plectropterus gambensis:有毒昆虫として知られるスパニッシュフライ(鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目Cucujiformia 下目ゴミムシダマシ上科ツチハンミョウ科ツチハンミョウ亜科 Lyttini 族ミドリゲンセイ属スパニッシュフライ Lytta vesicatoria)やツチハンミョウ(ゴミムシダマシ上科ツチハンミョウ科 Meloidae)といった甲虫が有する有毒物質カンタリジンン(cantharidin)に対する耐性があるため、摂餌によりその毒性を一時的に肉に溜め込むため、こうした個体を食した場合にカンタリジン中毒を起こすことがある)『など、食餌の内容により』、『一時的に肉が毒性を有する例は知られていたが、羽毛にまで毒を含む種は伝説を除くと』、『世界初であった』)。『その後、同属のうち』、ムナフモリモズを除く五『種が毒を持つことが判明し』ている。『これにより、ピトフーイの名は有毒鳥類の代名詞として知られるようになったが、その後に分類が見直され、これら』六『種は』二〇一七『年現在では別の科・属に分類されている。また』、二〇〇〇『年にはやはりニューギニア固有の別属で』一属一種のズアオチメドリ(スズメ目 Ifritidae 科ズアオチメドリ属ズアオチメドリ(頭青)Ifrita kowaldi:本種のみでIfritidae科ズアオチメドリ属を構成する。ニューギニア固有種で、山間部にのみ棲息する小鳥で、鮮やかな青色の毛を頭冠に持つ可愛い鳥であるが、羽にピトフーイらと同じとされる神経毒を持つ有毒鳥類の一種である。かわいい顔をして怖いやつ!超珍しい【毒のある鳥】ズアオチメドリで写真が見られる)『にピトフーイに類似した構造を有する毒成分が発見され』二〇一三『年にカワリモリモズの分類が見直されて』二『種増えたうえ、ニューギニアとオーストラリアにまたが』って『分布するチャイロモズツグミ(スズメ目スズメ亜目カラス小目カラス上科モズヒタキ科モズツグミ属チャイロモズツグミ Colluricincla megarhynchaウィキの「チャイロモズツグミ」によれば、インドネシアのパプア州・西パプア州・パプアニューギニア(ニューギニア島とその近海の諸島)及びオーストラリア北部に分布し、亜熱帯・熱帯域の低湿地林や熱帯の湿潤山林に棲息する。『ピトフーイ属の毒性の研究から,本種においても』二『標本を用いて調査が行われた。結果,そのうちの』一『体はからは中央・南アメリカ産のフキヤガエル属毒ガエルの分泌物に見られるバトラコトキシン』batrachotoxin:パリトキシン(palytoxin)に次ぐ世界最強の天然有毒物質とされる。パリトキシンは一九七一年にハワイに棲息する数腔腸動物イワスナギンチャク Palythoa toxica から初めて単離された)『に類似した構造を有する物質が見つかった』。『発見当初はサメビタキ属 Muscicapa 属に記載された。学者によっては Pinarolestes 属に分類することもある。』。『ニューギニア産チャイロモズツグミの遺伝子調査から』、一『つ以上の種から構成される可能性を示唆する,高いレベルの遺伝的隔離が見つかった』。『少なくとも』八『つの独立した系統群が存在し,別種に分類される可能性を秘めている。今後の研究により,本種は複数の新種に再分類されるかもしれない』とあり、以下に二十もの亜種記載があるから、向後、毒を持った鳥の種・亜種数が増す可能性は極めて高い『の標本からも毒性が発見されたので』、『現在では有毒鳥類はピトフーイに限らなくなり、種数も増えた』。

(以下、「系統と分類」の項。前注の関係上、ここはどうしても引きたい。興味のない方は「特徴」の項まで飛ばしてよろしい)

『かつて Pitohui 属には上記』六『種にモリモズ Pitohui tenebrosaMorningbird)を加えた』七『種が含まれ、モリモズ属と呼ばれていた。しかしすぐにモリモズ Morningbird Pitohui 属でなくモズツグミ属 Colluricinclaへ分類するのが適当ではないかといった説が有力になり、やがて学名は Colluricincla tenebrosa と記されるようになった。また、学者によってはこの種を Malacolestes へ分類するなど、その扱いはまちまちであった』。二〇一三年に『なり、モリモズMorningbirdは、実は属の異なる』二『種から成ることがわかり、それを機に モズヒタキ属 Pachycephala に分類され、学名は Pachycephala tenebrosa となった。このとき、新たに分離された別種がモリモズ Morningbird に充てられていた学名 Colluricincla tenebrosa を引き継ぎ、この別種の英名はSooty shrikethrushとされた』。『このような経緯から、標準和名のモリモズはMorningbird, Sooty shrikethrushどちらに用いるのにも不適当となり、宙に浮いた状態となっている』。『もっとも、どちらの種も』二〇一七年『現在においては Pitohui 属ではないので、 Pitohui 属をモリモズ属と呼ぶのは不適切である』。『モリモズを除いた』六『種は引き続き』、『モズヒタキ科 Pitohui 属に残された。しかし、これらもまた多系統であるとされ、改めて』四『属に分類し直された』。二〇一七年』『現在、これらはカラス上科内の』三『科に分散している』。コウライウグイス科 Oriolidae は『最も毒性が強いカワリモリモズとズグロモリモズがコウライウグイス科に移された Pitohui 属の模式種はカワリモリモズなので、Pitohui の属名はこの種を含むピトフーイ属が受け継いだ』。そこでは、コウライウグイス科 Oriolidaeカワリモリモズ Pitohui kirhocephalus・ズグロモリモズ Pitohui dichrous とされたのであるが、『その後』、二〇一三年に『カワリモリモズ Pitohui kirhocephalus の分類が見直され、新たにPitohui cerviniventris Pitohui uropygialis の』二『種が追加された』二〇一七年『現在では、以下の』四『種がピトフーイ属 Pitohui に含まれる』。

コウライウグイス科 Oriolidae

 カワリモリモズ Pitohui kirhocephalus

 
Pitohui cerviniventris(和名なし)

 
Pitohui uropygialis(和名なし)

 ズグロモリモズ Pitohui dichrous

『モズヒタキ科に残された Pseudorectes 属はモズツグミ属 Colluricincla に近縁であり、モズツグミ属に含める説もある』。『同じくモズヒタキ科に残されたクロモリモズはそれらとは系統的に離れており、別属とされた』。

モズヒタキ科 Pachycephalidae

 ムナフモリモズPseudorectes incertus本種のみ無毒》

 サビイロモリモズPseudorectes ferrugineus

 クロモリモズMelanorectes nigrescens

『カンムリモリモズはモズヒタキ科の他の』二『属と共に新科のカンムリモズビタキ科に分離された』。

カンムリモズビタキ科 Oreoicidae

 
カンムリモリモズ Ornorectes cristatus

以下「特徴」の項。『ピトフーイは鮮やかな配色をした雑食性の鳥である。特にズグロモリモズの腹部は鮮やかなれんが色で、頭部は黒い。これはよく目立つ配色であり、警告色だと考えられる。カワリモリモズには多くの異なった姿のものがあり、羽毛のパターンの違いで全部で』二十の『亜種に分けられていた』。『そのうち』二『亜種はズグロモリモズによく似ており、ベイツ型擬態の一例となっている』。『いくつかの種、特にカワリモリモズとズグロモリモズの筋肉や羽毛には、強力な神経毒ステロイド系アルカロイドのホモバトラコトキシン』(homobatrachotoxinbatrachotoxinの同族塩基)『が含まれている。これは、ピトフーイから発見される以前はヤドクガエル科フキヤガエル属 Phyllobates の皮膚からのみ見つかっていた』。『この毒は寄生虫や蛇、猛禽類、人間からの防衛に役立っていると考えられている。ピトフーイは自分自身ではバトラコトキシンを生成しないので、おそらくはピトフーイが捕食する』鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目カッコウムシ上科『ジョウカイモドキ』(浄海擬)『科 Melyridae Choresine 属甲虫由来であると考えられる』とある。

 ここまで付き合ってくれた方にのみ、ご褒美をあげよう。『毒を持つ鳥が存在する!珍しい6種類をご紹介!』は私が注した中の六種の鳥が如何にも簡単な一言と写真とともに挙げてある。終りには相応しく、清々しかろう。

 

「同力鳥〔(とんりつてう〕」現代中国語では「同」は「tóng(トォン)、「力」は「(リィー)。以下に記される通り、鳴き声のオノマトペイアに漢字を当てたものとする。もし「鳥」まで中国音にするなら「niǎoニィアォ)である。 

「鴆」形声文字で、(へん)は「沈める」の意で、水中に人を「沈」めるように息の根を止めてしまう「鳥」の意なのである。

『雄を「運日」と名づく。雌を「陰諧」と名づく。雄、鳴くときは、則ち、晴れ、雌、鳴くときは、則ち、雨ふる』判り易い名前。「日(太陽)を運び」来るから晴れるし、「陰」気を呼び込んで「諧」する(=慣れ親しみ戯れる)から雨が降る。

「腰鼓〔(こしつづみ)〕」古代中国から日本にも伝わったインド系の鼓(つづみ)の一種。西域を経て、六朝時代に中国に輸入され、「細腰鼓」と呼ばれたものの一種。本邦では伎楽などで用いた。胴の中央を細くし、両端に円形の革を張り、長い紐で首から腰のあたりに横に吊るして両手で素手で打って鳴らした。「呉鼓(くれつづみ)」とも呼ぶ。

「禹步〔(うほ)〕」歩き方による呪法(呪(まじな)い)。もともとは、古代中国の夏の聖王禹は治水で知られるが、その激務と廻国の結果、天下は収まったが、足を悪くして特殊な歩き方をするようになったが、その有り難い禹の歩き方を、後、占いや祭の際、巫者(ふしゃ)真似をすることで、聖なる呪術を呼び込む仕草となったもの。複数の説があるが、基本的には足を進める時、二歩めを一歩めより前に出さず、三歩めを二歩めの足で踏み出すような歩き方のパターンを基本とする。東晋の葛洪の「抱朴子」には、呪的なステップを表わすとして文献上、最も古い「禹步」が二種、記載されてある。一つは「仙藥篇」にあるもので、

   *

禹步法、前擧左、右過左、左就右、次擧右、左過右、右就左、次擧左、右過左、左就右、如此三步、當滿二丈一尺、後有九跡。

(禹步の法、前に左を擧げ、右左を過ぎり、左右に就く。次に右を擧げ、左右を過ぎり、右左に就く。次に左を擧げ、右左を過ぎり、左右に就く。此くのごとく三步せば、滿二丈一尺に當たり、後に九跡、有るべし。)

   *

東晋の「二丈一尺」は五メートル十三センチメートル。今一つは「登涉篇」にある以下。

   *

禹步法、立右足在前、左足在後、次復前左足、次前右足、以左足從右足倂。是一步也。次復前右足、次前左足、以右足從左足倂。是二步也。次復前左足、次前右足、以左足從右足倂。是三步也。如此、禹步之道畢。

(禹步の法は、正しく右足を立てて前に在らしめ、左足を後に在らしむ。次に復た、左足を前にし、次に右足を前にして、左足を以つて右足に從はしめて倂(あは)すべし。是れ、一步なり。次に復た、右足を前にし、次に左足を前にし、右足を以つて左足に從はしめて倂すべし。是れ、二步なり。次に復た、左足を前にし、次に右足を前にして、左足を以つて右足に從はしめて倂すべし。是れ、三步なり。此くのごとくにして、禹步の道、畢(をは)る。)

   *

(以上の訓読は昭和一七(一九四二)岩波文庫刊の石島快隆訳注「抱朴子」を参考にした)これらは孰れも「禹步」が実質の「三步」をやや迂遠な、一見、無駄な動きを以って完成するということを示している。所謂、日常のせこせこした能率的な歩き方のリズムを意図的に遅らせてずらし(はぐらかす)ことが、異界からの霊力を逆に呼び込むことになることが容易に想像されるものである。

「禁〔(ごん)〕す」「呪禁(じゅごん)」の意で採り、読んだ。まじないを唱えて物の怪 などの災いを払うことを「呪禁」と言い、律令制で、宮内省の典薬寮の職員にはそれによって病気の治療などを担当した呪禁師がいた(中務省の陰陽寮の陰陽師とは別)。

「須臾〔(しゆゆ)にして〕」忽ちにして。

「蛇、口に入らば、卽ち、爛る」言わずもがな、鴆が即座に嘴で突いて、その口に入った途端に、蛇は焼け爛れたようになって(溶けて)しまうというのである。

「其の屎〔(くそ)〕・溺〔(いばり)」無論、「鴆の糞や尿」である。

「石に着けば、石、皆、黃〔に〕爛(たゞ)る」熔岩カイ! マジ、草木も生えんのだから、んな感じ(溶岩流のシンボライズ)もしてくるわな!

「飮水〔(のみみづ)〕の處」水場。だから「百蟲」とは昆虫だけでなく、ヒトを除いたあらゆる異類、獣及び動物全般の意である。

「人、誤りて其の肉を食へば、立ちどころに死す」この謂いだと、ヒトは肉を食わないと死なない訳だ。羽一枚を浸した毒酒でコロリってえのと合わねえじゃねえかよ!

「犀の角」哺乳綱奇蹄目有角亜目 Rhinocerotoidea 上科サイ科 Rhinocerotidaeの現生五種の内、インドサイ属は頭部に一本(インドサイ属ジャワサイ Rhinoceros sondaicus・インドサイRhinoceros unicornis の二種)を、クロサイ属クロサイ Diceros bicornis・シロサイ属 Ceratotherium simum・スマトラサイ属スマトラサイ Dicerorhinus sumatrensis の三種は二本の角を有する。ラテン語「リノケロス」の種名及び英名の rhinoceros(ライノォセラス)はこの角に由来し、古代ギリシャ語で「鼻」を指す「rhis」と、「角」を指す「ceras」を組み合わせたものとされる。参照したウィキの「サイによれば、『スマトラサイでは後方の角が瘤状にすぎない個体もいたり』、『ジャワサイのメスには角のない個体もいる』とあり、『角はケラチン』即ち、サイの角は、ヒトの爪・頭髪・体毛と同じものなのである『の繊維質の集合体で、骨質の芯はない(中実角』(水牛角や牛角の芯部分は骨質である))『何らかの要因により角がなくなっても、再び新しい角が伸びる』。『シロサイやクロサイでは最大』一・五メートル『にもなる』。『サイの角は肉食動物に抵抗するときなどに使われる。オスのほうがメスより角が大きい』とある。

「商州」現在の陝西省商洛市一帯。西安の東南。(グーグル・マップ・データ)。

「蘄州〔(きしう)〕」現在の湖北省と推測される(グーグル・マップ・データ)。]

2019/01/26

和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鴞(ふくろふ) (フクロウ類)

 

Hukurohu_2

 

ふくろふ  梟鴟【音嬌】 流離

      鵩【音】   訓狐

 𩴂魂【𩴂字韻書無攷】

【音囂】

      【和名布

       久呂不

      一云佐介】

ヒヤ

 

本綱梟狀如母雞有斑文頭如鴝鵒目如猫目其名自呼

好食桑堪其少美好而長醜惡盛午不見物夜則飛行不

能遠飛長則食其母不孝鳥也故古人夏至𣩊之梟字従

鳥首在木上北方梟鳴人以爲恠南方晝夜飛鳴與烏鵲

無異家家羅取使捕鼠以爲勝猫也

肉【甘溫】可爲羹臛炙食古人多食之

孟康云梟食母破鏡食父破鏡者如貙而虎眼獸也【貙似獸狸】

                  寂蓮

 夫木物思へは木高き森にふくろふの苦しきかとも問人そなき

△按鴞形態皆似木兔但無毛角爾狀大於木兔小於鳶

 而尾短頭目如木兔而全體褐黒色有褐彪或白彪亦

 有脚脛色及傅毛亦如木兔晝伏夜出摯食小鳥

 似木兔而長如曰方伊方伊將霽如曰乃利須里於介

 將雨如曰乃里止利於介占以雨晴初若呼後若笑者

 是也雌者稍小而彪亦麤其聲如曰久伊久伊

 

 

ふくろふ  梟鴟〔(けうし)〕【音、「嬌」。】

      流離

      鵩【音[やぶちゃん注:欠字。]】

      訓狐

 𩴂魂〔(じゆうこん)〕

      【「𩴂」の字、韻書に攷〔(かう)〕無し。】

鴞【音、「囂〔(ガウ)〕」。】

      【和名、「布久呂不」。一に云ふ、「佐介〔(さけ)〕」。】

ヒヤ

 

「本綱」、梟、狀、母雞〔(めんどり)〕のごとく、斑文有り。頭、鴝鵒(ひよどり)のごとく、目、猫の目のごとし。其の名、自ら呼びて、好んで桑堪〔(くはのみ)〕を食ふ。其の少〔(わか)〕きときは美好にして、長ずと、醜-惡(みにく)きなり。盛-午(ひる)は物を見ず、夜は、則ち、飛行す〔れども〕遠く飛ぶこと、能はず。長ずれば、則ち、其の母を食ふ不孝の鳥なり。故に、古人、夏至に之れを𣩊(はりつけ)にす。「梟」の字、鳥の首、木の上に在るに従ふ〔はこの故なり〕。北方に〔て〕は、梟、鳴けば、人、以つて恠〔(あや)し〕と爲す〔も〕、南方に〔て〕は、晝夜、飛び鳴きて、烏-鵲〔(かささぎ)〕異なること無し。家家、羅(あみ)にて取りて、鼠を捕らしむ。以つて猫に勝〔(すぐ)〕ることを爲すなり〔と〕。

肉【甘、溫。】羹-臛(にもの)・炙(やきもの)に爲〔(な)〕して可なり。古人、多く、之れを食ふ。

孟康が云はく、『梟、母を食ふ。破鏡は、父を食ふ』〔と〕、破鏡とは貙〔(ちゆう)〕のごとくにして、虎の眼の獸〔(けもの)〕なり【貙は狸に似たる獸〔なり〕。】。

                  寂蓮

 「夫木」

   物思へば木高〔(こだか)〕き森にふくろふの

      苦しきかとも問ふ人ぞなき

△按ずるに、鴞、形(なり)も態(わざ)も、皆、木兔(みゝづく)に似たり。但〔(ただ)〕、毛角〔(うかく)〕無きのみ。狀、木兔よりも大きく、鳶より小〔さく〕して、尾、短く、頭・目、木兔のごとくにして、全體、褐黒色、褐(きぐろ)の彪(ふ)有り。或いは、白き彪も亦、有り。脚・脛の色、及び、傅(つ)いたる毛も亦、木兔のごとく、晝、伏し、夜、出でて、小鳥を摯(と)り食ふ。〔(よるな)〕く聲、木兔に似て、長し。「方伊方伊〔(ほいほい)〕」と曰ふがごとし。將に霽(はれ)んとすると〔き〕、「乃利須里於介(のりすりおけ)」と曰ふがごとし。將に雨〔(あめふ)ら〕んと〔するときは〕、「乃里止利於介(のりとりおけ)」と曰ふがごとし。〔されば〕以つて雨・晴を占ふ。初めは、呼ぶがごとく、後は、笑ふがごとしといふは、是れなり。雌は稍〔(やや)〕小さくして、彪も亦、麤(あら)く[やぶちゃん注:「粗く」。]、其の〔(よるな)〕く聲、「久伊久伊〔(くいくい)〕」と曰ふがごとし。

[やぶちゃん注:フクロウ目 Strigiformes(メンフクロウ科 Tytonidae(二属十八種・本邦には棲息しない)及びフクロウ科 Strigidae(二十五属二百二種)の二科二十七属二百二十種が現生)、或いはそのフクロウ科 Strigidae に属する種群、或いは種としては、フクロウ属フクロウ Strix uralensis がいる。まず、ウィキの「フクロウ目」から引く。『ミミズクと呼ばれるものも同じ仲間で、はっきりとした区別(分類学上の区別)はない。頭部の上方に突き出た耳のように見えるものを羽角(うかく)というが、羽角のない種をフクロウ、羽角のある種をミミズクと呼んでいる』。『南極を除く世界中に分布し、グリーンランドにまで生息している。日本には』十『種ほどが生息している』。フクロウは頭部を百八十度以上回転させることが出来ることが大きな特徴で、『両目が頭部の前面に位置しており、上下にも僅かにずれている』。『フクロウは遠目が利くが、逆に数十センチ以内の近い範囲ははっきりと見ることができない。瞳孔が大きく、弱い光に敏感な桿体細胞が網膜に多いため、夜目がきく(ただし』、『その代償として昼間は眩しすぎるため、目を細めていることが多い)』。フクロウの目の感度はヒトの百倍もあり、『他の多くの鳥類と異なり、両目が正面にあるため』、『立体視が可能で、静止していても』、『対象までの正確な距離を把握できる』。『両耳は、耳穴が左右でずれた位置に存在し、奥行きも違っている。左右非対称であることにより、音源の方向を立体的に認識することが可能になっている。また、パラボラ型の顔面の羽毛が対象の発するわずかな音を集め、聴覚を助ける役目をする』。『暗所に強い目と、驚異的な聴力がフクロウ目の夜間ハンティングを可能にしている』。『ワシのような形をしたくちばしをもつ』。『目の周囲を縁取るようにはっきりとした顔盤という羽毛が生えた部位がある。耳角と呼ばれる耳のように見える羽は耳ではなく、耳は顔盤のすぐ後ろに位置している。耳の位置は左右で異なっている』。『フクロウ目の羽毛は柔らかく、風切羽の周囲には綿毛が生え、はばたきの音を和らげる効果があるため、ほとんど音を立てることなく飛行できる』。『趾(あしゆび)のうち、いちばん外側の第』四『趾の関節が非常に柔軟で、多くの鳥類のような三前趾足(第』一『趾のみが後ろで前』三『本後』一『本)から対趾足(前』二『本後』二『本)に切り替えることができる』。『多くの種が夜行性で、フクロウ目は数少ない夜行性の鳥類(鳥類全体の約』三%『)の中で大きな割合を占める。肉食で小型の哺乳類や他の鳥類、昆虫などを鋭い爪で捕獲し』、『捕食する。一部には魚を捕食する種もみられる』。『単独またはつがいで生活する』。『種類によっては、刺激を受けると、外見上の体の大きさを変えるものもいる』。『フクロウ目は古くは、猛禽類として分類されてきた。カール・フォン・リンネは、タカ類・ハヤブサ類・モズ類と共にタカ目 Accipitres に分類した』。一九九〇『代のSibley分類では、現在のフクロウ目』Strigiformes『・ヨタカ目』Caprimulgiformes『・アマツバメ目ズクヨタカ科』Aegothelidae『の構成種を含めていた。彼らは狭義のフクロウ目とヨタカ目(ズクヨタカ科を含む)は姉妹群だとしており』、『それらを合わせた群の名称がフクロウ目となったのは命名規則のためである』。『フクロウ目とヨタカ目は夜行性・捕食性という生態が共通しており、頭骨にも共通点が発見された(』但し、『アマツバメ目』Apodiformes『とも共通である)』。二〇〇〇『年代前半までは、これらが近縁であるという説は、同じ目に分類するかどうかは別として』、『ある程度の支持を得ていた』が、二〇〇四年に、『夜行性に関連したAanat遺伝子の分析により、両目の夜行性は収斂進化』(convergent evolution:複数の異なるグループの生物が同様の生態的地位についた際、系統に関わらず、身体的特徴が似通った姿に進化する現象)『によるものだとされ』、『さらにそれに続く包括的な分子系統により現生鳥類全体の系統が明らかになると、両目の類縁性は否定された』。以下、「神話や伝承」の項。『カラスやミヤマガラスのほうが知能は高いが、フクロウは古代ギリシャでは女神アテナの従者であり、「森の賢者」と称されるなど知恵の象徴とされている』。『古代エジプトではヒエログリフの「m」の文字をフクロウを表すものとしたが、しばしばこのヒエログリフを復活と攻撃のために足の折れたいけにえのフクロウとして記述した』。『日本ではフクロウは死の象徴とされ、フクロウを見かけることは不吉なこととされていた。現在では、「不苦労」、「福郎」のゴロ合わせから福を呼ぶものとも言われている』。『青森県北津軽郡嘉瀬村(現・五所川原市)では、死んだ嬰児の死霊を「タタリモッケ」といって、その霊魂がフクロウに宿るといわれた』。『岩手県和賀郡東和町北成島(現・花巻市)ではフクロウを「しまこぶんざ」といい、子供が夜更かししていると「しまこぶんざ来んど」(フクロウが来て連れて行かれる、の意)といって威す風習があった』。『アイヌの人々は、シマフクロウを守護神コタンコロカムイとして、エゾフクロウ(フクロウの北海道産亜種)を猟運の神として崇めている』。『ホピ族(北アメリカの先住民)でもフクロウは不潔で不気味な生き物とされている』。二〇〇三『年にアメリカの教育委員会が多文化への対応のために児童の教科書のフィクションの項目を再調査したとき、北アメリカの先住民の文化によって従来の蛇やサソリに対するそれのように、フクロウに関する記述や問題を子供たちが怖がってテストが混乱しないように、フクロウについてのこれらの物語や問題を新しい教科書やカリキュラムから取り除かなければならないとの結論に達した』。『ヨーロッパでは学問の神、英知の象徴とされる』。『近年、アジアなどで食用や飼育、様々な用途で密輸され、摘発されるケースがある』。次にウィキの「フクロウ」から引く。これは種としてのフクロウ属フクロウ Strix uralensis について記載している。『学名の属名(Strix)はフクロウを意味し、種小名の(uralensis)はウラル地方を意味する』。『夜行性であるため人目に触れる機会は少ないが、その知名度は高く』、『「森の物知り博士」、「森の哲学者」などとして人間に親しまれている』。『木の枝で待ち伏せて音もなく飛び、獲物に飛び掛かることから「森の忍者」と称されることがある』。『スカンジナビア半島から日本にかけてユーラシア大陸北部に帯状に広く分布する』。『温帯から亜寒帯にかけての針葉樹林、混交林、湿地、牧草地、農耕地などに生息し、留鳥として定住性が強い』。『日本では、九州以北から、四国、本州、北海道にかけて分布する留鳥で、平地から低山、亜高山帯にかけての森林、農耕地、草原、里山』『などに生息する』。『大木がある社寺林や公園で見られることがある』。全長は五十~六十二センチメートル、翼開長は九十四センチメートルから一メートル十センチメートル、尾長は二十二~二十五センチメートル。『日本のフクロウ類ではシマフクロウ』(フクロウ科シマフクロウ属シマフクロウ Ketupa blakistoni:全長約七十一センチメートル)・ワシミミズク(ワシミミズク属ワシミミズクBubo bubo)・シロフクロウ(ワシミミズク属シロフクロウ Bubo scandiacus:全長約五十八センチメートル。繁殖期には北極圏に広く分布するが、冬は多くの個体がユーラシア大陸や北アメリカ大陸などの亜寒帯まで南下し、日本でも北海道でまれに見られる。鳥取県や広島県などや、さらに南でも記録されたこともある。日本での記録はほとんど冬だが、北海道の大雪山系では夏に記録されたこともある)『に次いで大きく』、お馴染みの『ハシボソガラス』(スズメ目カラス科カラス属ハシボソガラス Corvus corone:全長約五十センチメートル)『と同じ程の大きさ』である。『体重は』で五百~九百五十グラム、で五百七十~千三百グラム。尾羽は十二枚あり、『褐色の横斑があり』、『やや長く扇形』を成す。『上面は褐色の羽毛で覆われ、濃褐色や灰色、白い斑紋が入る。下面は白い羽毛で被われ、褐色の縦縞が入る。顔は灰褐色の羽毛で被われ、顔を縁取る羽毛(顔盤)はハート型。翼は短く、幅広い』。『翼下面は淡褐色の羽毛で被われ、黒い横縞が入る。雌雄同色』。『平たいお面のような顔で』、『頭は丸くて大きい』。『目は大きく』、『暗闇でも物がよく見えるように眼球が大きく発達し、眼球とまぶたの間に半透明の瞬膜があり、日中は眼球を覆い網膜を保護する』。『角膜は大きく盛り上がり、網膜細胞が発達している』。『目は、他の種類の鳥が頭部の側面にあるのに対して、人間と同じように頭部の前面に横に並んでいる』。『虹彩は黒や暗褐色』。『嘴は先端が鋭く、視野の邪魔にならないように短く折れ曲がっていて』、『色彩は緑がかった黄褐色。趾は羽毛で被われ』、『指が前後』二『本ずつに分かれていて』、『大きな指の先に鋭いかぎ状の爪が付いている』。『ミミズクにある羽角はなく』、『耳は目の横にあり、顔盤の羽毛で隠れている』。『幼鳥は全身が白い羽毛で被われる』。本邦には、

エゾフクロウStrix uralensis japonica(北海道・千島列島南部)

フクロウStrix uralensis hondoensis(本州北部。以前は「トウホクフクロウ」と和名呼称されていた)

モミヤマフクロウStrix uralensis momiyamae(本州中部)

キュウシュウフクロウStrix uralensis fuscescens(本州南部・四国・九州)

の四亜種が棲息する。『北の亜種ほど』、『体色が白っぽく、南の亜種ほど暗色である』。『単独またはつがいで行動』する。『夜行性で昼間は樹洞や木の横枝などで』、『ほとんど動かず目を閉じて休息している』。『夕方から活動を始めるが、日中に行動することもある』。『冬場の獲物が少ない時』『や強風や雨天が続いた場合は』、『昼間でも狩りを行ったり、保存した獲物を食べる。日中木の枝でじっとしている時にカケスなどの他の鳥に騒ぎ立てられて、他の場所へ逃げ出すこともある』。『森林内の比較的開けた空間や林縁部などの樹上で獲物を待ち伏せて』、『首を回しながら』、『小動物の立てる物音を察知し獲物を見つけると』、『羽音を立てずに』(『フクロウ類は羽毛が非常に柔らかく』、『初列風切羽の先が細かく裂けていることから』、『羽音を立てずに飛行することができる』)『軽やかにふわふわと直飛し獲物に近づく』。『足の指を広げて獲物の背中に突き立て、獲物を押さえつけて締め殺す』。目はヒトの十倍から百倍ほどの感度があると考えられており、『目で遠近感をつかめる範囲は』六十度から七十『度と広いが、視野は約』百十『度と狭く』(『他の種類の鳥は視野は約』三百四十『度と広いが、遠近感をつかめる範囲は約』二十四『度と狭い』)、『これを補うために首は上下左右約』百八十『度回り』、『真後ろを見ることができる』。『体を動かさずに首だけで約』二百七十『度回すことができる』。『発達した顔盤は小さな音を聞くアンテナとしての機能があり』、『左右の耳は大きさが異なり』、『位置も上下にずれているため、音源の位置の方向と距離を立体的に認識することができる』。『聴覚が発達しており、音により獲物の位置を特定し、雪の下にいる』野鼠『や地上付近のトンネル内を移動しているモグラやミミズを仕留めることができる』(但し、以上の「森林内の比較的開けた空間や……」からここまでは要検証が掛けられている)。『ヨーロッパ北部でのペレット』(pellet:猛禽類などが消化できないもの(羽・骨など)を吐き出した塊)『の内容物調査では主に小型哺乳類、鳥類、両生類が検出され、昆虫が含まれることは』二%『未満でまれという報告例がある』。二〇〇〇年に『発表された北海道での同一個体のペレットの内容物調査では主にタイリクヤチネズミ』齧歯(ネズミ)目ネズミ上科ネズミ下科ネズミ科ミズハタネズミ亜科ヤチネズミ属タイリクヤチネズミ Myodes rufocanus)『が検出され(81%)、次いでアカネズミ』(ネズミ科アカネズミ属アカネズミ Apodemus speciosus)『6.8%、ヒメネズミ』(アカネズミ属ヒメネズミ Apodemus argenteus)『4%、鳥類3.6%、シマリス』(齧歯目リス亜目リス科 Xerinae 亜科 Marmotini 族シマリス属シベリアシマリス Tamias sibiricus)『1.4%、ハントウアカネズミ』(アカネズミ属ハントウアカネズミApodemus peninsulae)『・ドブネズミ』(ネズミ科クマネズミ属ドブネズミ Rattus norvegicus)『・ヒメヤチネズミ』(ネズミ上科キヌゲネズミ科ハタネズミ(ミズハタネズミ)亜科ヤチネズミ族ヤチネズミ属ヒメヤチネズミ『Clethrionomys rutius0.4%ずつという報告例がある』。『日本でも昆虫を食べることはまれとされていたが』二〇〇九『年に発表された上賀茂試験地での調査では』六~八『月にかけて本種の周辺にカブトムシの成虫の死骸が多く散乱し、実際に飛翔中のカブトムシを本種が捕える様子が確認されたという報告例もある』。『この報告例ではメスの死骸の発見率が高く、卵を持ち』、『高栄養価のメスを選択的に捕食していた可能性が示唆されている』。二〇〇七『年に発表された富士河口湖町での人工巣内でのビデオ撮影および獲物の残骸から主にアカネズミ・ヒメネズミ・スミスネズミ』(ネズミ科ビロードネズミ属スミスネズミEothenomys smithii)『といったネズミ類(約79.7 %)、ヤマネ』(齧歯目ヤマネ科ヤマネ属ヤマネ Glirulus japonicus)、や『アズマモグラ』(食虫(トガリネズミ形)目モグラ科 Talpinae 亜科モグラ属アズマモグラ Mogera imaizumii)・『ヒミズ』(日不見:モグラ科ヒミズ属ヒミズ Urotrichus talpoides)・『ジネズミ』(トガリネズミ科ジネズミ亜科ジネズミ属ジネズミ Crocidura dsinezumi)『といった無盲腸類(トガリネズミ目』(食虫目 Soricomorpha))、『ニホンノウサギ』(ウサギ目ウサギ科ノウサギ属ニホンノウサギ Lepus brachyurus)『(哺乳類全体で約87.9%)、昆虫(約7.8%)、コガラ』(スズメ目スズメ亜目シジュウカラ科コガラ属コガラ Poecile montanus)『・コジュケイ』(キジ目キジ科コジュケイ属コジュケイ Bambusicola thoracicus)『・コルリ』(スズメ亜目ツグミ科 Luscinia 属コルリ Luscinia cyane)『などの鳥類(約1.7%)を捕食したという報告例があり、鳥類の比率が小さいのは夜行性の本種とは活動する時間帯が重複しないためだと考えられている』。『食性は動物食で、主にネズミや小型の鳥類』『を食べるが、モグラやヒミズなどのトガリネズミ目』、『モモンガ』(リス亜科モモンガ族モモンガ属モモンガ Pteromys momonga)や『リスといった小型の哺乳類』、『カエルなどの両生類、爬虫類、カブトムシやセミなどの昆虫なども食べる』。『最も多く捕食しているものが、丸呑みし易いハタネズミ』(ネズミ上科キヌゲネズミ科ハタネズミ(ミズハタネズミ)亜科 Arvicolinae)『の仲間の野』鼠類で、『ハタネズミ』類『は体長が約』十センチメートル、体重が三十~四十グラム『程度で、アカネズミやヒメネズミなどと比較して敏捷性が劣る』からであろう。『日齢が』二~四十五『日の巣立ち前のヒナの』一『日当たりの食餌量は』五十~二百グラム、続く日齢四十六~六十六『日の巣立ち後の幼鳥の食餌量は約』二百グラム、日齢六十六日『以上の若鳥を含む成鳥の食餌量は約』百グラムである。『捕獲した獲物を丸呑みし消化し、骨や羽毛などの消化できないものを塊(ペリット)として吐き出す』。『市街地近くの森林の少ない場所で巣営するものは、周辺をねぐらとするカワラバト』(我々が普通に「ハト」と呼んでいるハト目ハト科カワラバト属カワラバト Columba livia のこと)『やスズメ』(スズメ目スズメ科スズメ属スズメ Passer montanus)『を捕食したり、民家の屋根裏をねぐらとするアブラコウモリ』(哺乳綱翼手(コウモリ)目小翼手(コウモリ)亜目ヒナコウモリ上科ヒナコウモリ科 Vespertilioninae 亜科 Pipistrellini 族アブラコウモリ属 Pipistrellus亜属アブラコウモリ Pipistrellus abramus)『、飲食店付近ではドブネズミ、夜間に電灯や自動販売機の照明に集まる大型の昆虫などを捕食することもある』。『秋にはたくさんの』野鼠『を捕獲して皮下脂肪に蓄えて冬に備える』。『主に大木の樹洞に巣を作るが、木の根元の地上、地上の穴、屋根裏、神社の軒下や巣箱、他の鳥類の古巣などを利用することもある』。『フクロウが利用した巣穴には獣毛が混じったペリットが残っていることが多い』。二~四『月頃に、巣営地付近で夜になると』、『雌雄で盛んに鳴き交わす』。三~四『月頃に、巣穴に巣材を使わず』、『直接産卵を行う』。『白色の卵を』一~三日おきに二~四個産み、二十八~三十五『日の期間』、『メスが胸の羽根を開いて』四十『度の体温で抱卵する』。『卵は長径約』五・一センチメートル、短径四・二センチメートル、重さは五十グラムほどで、『白色無斑』。『卵が転がりやすい形状であるため、巣に小さな窪みを彫って産座を設ける』。『抱卵の期間に、オスは』一『日に』一、二『個体の獲物を捕獲し』、『鳴きながら巣の近くまで来て』、『メスに獲物を受け渡す』。『メスは獲物を丸呑みしてすぐに巣に戻る』。『雛へはオスとメスの両方がネズミなどを給餌する。メスは雛へ丁寧に餌を給餌し、雛たちは温厚で互いに争うことなく』、三十五~四十『日ほどで巣立つ』。『雛は孵化して』二『週間ほどで羽毛が生えそろって体温調整ができるようになり、餌を丸呑みできるようになる』。『この期間にオスが巣へ運ぶ餌の量が急激に多くなり、メスも巣内に留まり、餌を食いちぎって雛へ給餌を行い、巣内のヒナの糞を食べる』。『孵化して約』二『週間後には雛の餌の量が増えるため、メスも巣を離れて獲物を捕獲するようになる』。『孵化して』一ヶ『月ほどで巣立ち』、二~三ヶ月の間、『両親から狩りの訓練と受けたり』、『飛ぶ練習などを行い、その年の』、九~十一『月頃』、『親から離れて独り立ちする』。『雛は一度巣から出ると、もう巣には戻らない』。『雛に餌をちぎって与えるのはメスが行い、オスは獲物をメスに渡すと』、『また獲物を捕りに出かける』。『巣立ち後約』五十『日ごろに羽毛が生え揃い』、『若鳥となる』、『通常』、『一夫一妻制で』、『繁殖に成功したつがいは翌年』、『同じ巣を利用する傾向が強い』。『メスの平均寿命は約』八『年』(但し、二十年若しくは『それ以上生きるフクロウの個体がいることが知られている』)、三~四『年目から繁殖を始めることが多く』、五『年ほど繁殖を続ける』。「鳴き声」の項。鳴き声には成鳥で十四種類、幼鳥が四種類が『存在し、鳴き声は数キロメートル先まで届くことがある。 オスは十数秒おきに』、『犬が吠えるような低い音で』『で物悲しく鳴くことから、不吉な鳥とされることもある』「さえずり」は、『オスは「ゴッホウ ゴロッケ ゴゥホウ」と透き通った良く通る声でと鳴き、メスは低くかすれた』、『あまり響かない同様な声で鳴く』。『鳴き声を日本語に置き換えた表現(聞きなし)としては「五郎助奉公」』『や「ボロ着て奉公」』『「糊付け干せ」などがあるが、「糊付け干せ」に関しては「フクロウの染め物屋」という昔話が存在する』(以下、要約)。『昔々、あるところにフクロウが経営する染め物屋がありました』。『そこにカラスが目立つ色に着物を染めて欲しいとやってきたので』、『全身を真っ黒に染めてあげたところ、予想外の色にカラスは激怒し』、『以降』、『フクロウを見るなり』、『追いかけまわすようになりました』。『平地で暮らしていたフクロウは』、『カラスを避けるため、誰にも見られないよう』、『夜の森の奥深くで』、『ひっそりと「ホーホ、糊付け干せ」と鳴きながら営業をしているそうです』。「地鳴き」は『オスは「ホッ、ホッ、ホッ、ホッ……」、メスは「ギャーッ!、ギャーッ!」と鋭く濁った鳴き声で鳴く』。『和名は、毛が膨れた鳥であることに由来する、鳴き声に由来する』「昼隠居(ひるかくろふ)」(動詞ということか)『から転じたなどの説がある』。『異名として、不幸鳥、猫鳥、ごろすけ、ほろすけ、ほーほーどり、ぼんどりなどがある』。『古語で飯豊(いひとよ)と呼ばれていた。日本と中国では、梟は母親を食べて成長すると考えられていた』ため、『「不孝鳥」と呼ばれる』。『日蓮は著作において何度もこの点を挙げている』。『譬へば』、『幼稚の父母をのる、父母これをすつるや。梟鳥が母を食、母これをすてず。破鏡父をがいす、父これにしたがふ。畜生すら猶かくのごとし』(「 日蓮開目抄」)と言った感じである。『「梟雄」という古くからの言葉も、親殺しを下克上の例えから転じたものに由来する。あるいは「フクロウ」の名称が「不苦労」または「福老」に通じるため』、『縁起物とされることもある。広義にフクロウ目の仲間全体もフクロウと呼ばれている』。『繁殖に適した洞穴がある森林伐採により、個体数が減少している』。西洋では、専ら、ローマ神話の女神の手にとまる「ミネルヴァのフクロウ」で知恵の象徴とされ、「森の哲人」などとも呼ばれるが(私の妻は大のフクロウ好きで世界から集めたフクロウの飾りがそこら中にある)、『東洋では、フクロウは成長した雛が母鳥を食べるという言い伝えがあり、転じて「親不孝者」の象徴とされている。唐朝の武則天は政敵を貶める目的から』、『政敵の遺族の姓を「蟒」(ウワバミ、蛇の一種)と「梟」に変えさせている。「梟帥(たける)」は地域の長を意味する。「梟雄(きょうゆう)」は荒々しい人、盗賊の頭を意味する。獄門の別名を梟首(きょうしゅ)と言う。『その一方で』、『前述のように縁起物と』も『され、フクロウの置物も存在する。また、『ことわざの一つに「フクロウの宵鳴き、糊すって待て」というものがある。宵にフクロウが鳴くと明日は晴れるので洗濯物を干せという意味』だとある(「要検証」がかけられているが、少なくとも、良安の記載した「將に霽(はれ)んとすると〔き〕、「乃利須里於介(のりすりおけ)」と曰ふがごとし。將に雨〔(あめふ)ら〕んと〔するときは〕、「乃里止利於介(のりとりおけ)」と曰ふがごとし。〔されば〕以つて雨・晴を占ふ」とこの諺は一致する。『普段は穏やかでおとなしい気質であるため』、『人間から非常に親しまれている鳥であるが、繁殖期には雛を守るため』、『巣に近づく人間に対して攻撃的になる』。『巣に近づく人間に向かって飛びかかり、鋭い爪で目を攻撃して失明させたり、耳を引きちぎったりする事例がヨーロッパでは』(要検証がかけられてある)あるとある。『フクロウの主食がノネズミであることから、日本では江戸時代から畑に杭を打ってフクロウの止まり木を提供し』、『ノネズミの駆除に利用し、東南アジアでは田畑や果樹園の横に巣営場所を提供しノネズミ駆除に利用してい』ともあり(要検証がかけられてある)、『初列風切羽の外弁の縁ギザギザの鋸歯状の構造には消音効果があ』るともある(要検証がかけられてある)。なお、前項でも引いた、個人と思われるフクロウの総合サイト内の「古典」(よく渉猟されていて必見)」も是非、参照されたい。

 

「梟鴟〔(けうし)〕」「鴟梟」「鴟鴞」とも書き、「けうし(きょうし)」と読み、フクロウの別称であるが、以下に述べられている中国の母を喰らうという伝承から、「凶悪な者」を譬えて言う語としても生きている。

「流離」個人ブログ「tatage21’s diary」の「語源を考える〜『フクロウ(梟)』」に、堀井令以知編「語源大辞典」(一九八八年東京堂出版刊)の「フクロウ」を引いておられ、そこに、『ふくろ【梟】大言海──ふくろふノ約。日本釈名「梟、其毛フクルル鳥ナル故也」。るハろト通ズ。一説、ははくらふ也。梟は悪鳥ニテ、其母ヲクラフモノ也。ふハはは也、はトふト通ズ。らトろト通ズ。大言海ふくろふ──其鳴ク声ヲ名トスト云フ。浜名寛祐氏はいう──詩経の邶風の「流離之子」の毛伝に「流離は鳥也」とあり、爾雅の釈詁に「流は求也」とあるから、「流離」はクロと読める。陸機の詩疏に「関より而西は梟を謂って流離と為す」とあり、その流離(クロ)は集韻に「鵂鶹(クロ)は鳥也」とある鵂鶹(クロ)で、すなわちフクロである』とある(上記サイトは資料書誌もしっかりしており、必見)。母を食う悪鳥は永遠に流離せねばならない、漂泊の鳥だとでも言うのか。

「鵩【音[やぶちゃん注:欠字。]】」音「ホウ」。「本草綱目」によれば、「漢書」に基づく。呉音「ブク」、漢音「フク」であるが、現行ではこの訓読みは「みみずく」である。「文選」の賈誼「鵩鳥賦」が知られるが、そこにも「鵩似鴞、不祥鳥也」とあるから、これはもう、フクロウではなく、羽角のあるミミズクで前項に置くべき異名である。但し、次注も参照。

「訓狐」「本草綱目」によれば、唐の陳蔵器の薬物本草書「本草拾遺」(七四一 年成立)に基づく。しかし、「本草綱目」を見ると、

   *

時珍曰、鴞・鵩・鵂・鶹・梟、皆、惡鳥也。者、往往混註。賈誼謂鵩似鴞、藏器謂、鴞與訓狐爲二物、許慎・張華謂鴞鵩鵂鶹爲一物、王逸謂鵩即訓狐、陳正敏謂梟爲伯勞、宗謂土梟爲鴝鵒、各執一。今通攷據、幷咨詢野人、則、鴞・梟・鵩・訓狐、一物也。鵂・鶹、一物也。藏器所謂訓狐之狀者鵂鶹也。鴞卽今俗所呼幸胡者是也。

   *

面白くなるくらい、トンデモ大混戦となっている。則ち、陳蔵器は「鴞」(フクロウ」)と「訓狐」は別種であると言っているが、李時珍は「鴞」も「梟」も「鵩」も「訓狐」も全部、同一の種類であると結論しているのである。そうなると、「鵩」はミミズクなんだから、この「訓狐」もミミヅクということになるのだが、ここは実はミミズクが鳥類学的にフクロウ類であることを考えれば、分類至上主義の古典的本草家の言としては、この時珍のそれは現在の鳥類学レベルで科学的に正しいことを言っていることになることに気づくべきであろう。なお、本邦ではこの「訓狐」は古く「このはづく」の訓を当てており、そうなると、コノハズク属コノハズク Otus scops で、やはり「ミミズク」ということにはなるのである。

𩴂魂〔(じゆうこん)〕【「𩴂」の字、韻書に攷〔(かう)〕無し。】」割注は『「𩴂」という漢字につていは韻書には考察が施されていない』の意。中文サイトでも発音も意味もよく判らない。魑魅魍魎に習って、「重」の音で読んでおいただけのことである。しかし、何やら、まがまがしい雰囲気のある熟語で、いいね。

「佐介〔(さけ)〕」フクロウの古名。「日本国語大辞典」には「和訓栞」が「サケブの意か」とするとある。「叫ぶ」か。なるほどね。

「鴝鵒(ひよどり)」既に何遍も述べた通り、良安はこれを、

スズメ目ヒヨドリ科ヒヨドリ属ヒヨドリ Hypsipetes amaurotis

のつもりで、かくルビを振っているのだが、これは「本草綱目」の引用である以上、その場合はヒヨドリではなく、

スズメ目ムクドリ科ハッカチョウ(八哥鳥)属ハッカチョウ Acridotheres cristatellus

を指すと考えねばならないというのが私の結論なのである。因みに、東洋文庫版は独自の見解を持っており、これに『くろつぐみ』とルビする。則ち、

スズメ目ツグミ科ツグミ属クロツグミ Turdus cardis

とするのであるが、私は受け入れられない

「其の名、自ら呼びて」あたかも自分の名前を呼ぶかのように鳴いて、の意。「鴞」に良安が附した中国音なら「ヒヤウ」(実はこの「」の意味が私はよく判っていない。識者の御教授を乞うものである)だが、現代中国音ではこの「鴞」は「chī」(チィー)或いは「xiāo」(シィアォ)である。

「好んで桑堪〔(くはのみ)〕を食ふ」以上の通り、肉食で誤り

「美好」人好きのする美しい容姿。

「烏-鵲〔(かささぎ)〕」スズメ目カラス科カササギ属カササギ Pica pica

「羅(あみ)」鳥を獲るカスミ網。

「羹-臛(にもの)」野菜を或いは野菜を主として煮込んだスープは「羹」(音「コウ・カン」)、肉を或いは肉を主として野菜を加えたそれを「臛」(音「コク」)と呼ぶ。私はどうしても「あつもの」と読みたくなる。

「炙(やきもの)」「燒き物」。炙ったもの。

「孟康」生没年未詳(生年は二二〇年から二二六年の間)。三国時代の魏の人。「漢書」の注釈書「漢書音義」を書いた。

「貙〔(ちゆう)〕」「虎の眼の獸〔(けもの)〕」「狸に似たる獸」現代仮名遣で「チュウ」獣の名で、大きさは狗(く:イヌ・クマ・トラなどの小形種のものの子)ほどで貍(り:ヤマネコやベンガルヤマネコの類)のような紋様があるとする、「貙虎(ちゅうこ)」とも。「爾雅注疏」の「釋獸」に「貙似貍【疏:字林云貙似貍而大一名郭云今山民呼貙虎之大者爲貙豻……」と出、また「説文解字注」の「犬部の「」には「郭云今貙虎也大如狗文似貍」とある。以上は「K'sBookshelf 辞典・用語 漢字林」に拠った。

「寂蓮」「夫木」「物思へば木高〔(こだか)〕き森にふくろふの苦しきかとも問ふ人ぞなき」「夫木和歌抄」の「巻二七 雑九」に所収。校合済み。

「態(わざ)」仕草。

「木兔(みゝづく)」項「鴟鵂(みみづく)参照。

「毛角」同前。所謂、通称で「耳」と読んでいる突出した羽毛のこと。俗に哺乳類のそれのように「耳」と呼ばれるているが、鳥類には耳介はない。

「鳶」タカ目タカ科トビ亜科トビ属トビ亜種トビ Milvus migrans lineatus既出独立

「褐(きぐろ)」ルビは「黄黒」の意。良安は暗くくすんだ黄褐色をこう呼ぶのを好む。

「乃利須里於介(のりすりおけ)」晴れるから、服を洗って糊を張って乾かすに十分だから、今晩から糊を擦って作っておけ、の意。前のウィキの「フクロウ」からの引用を参照。

「乃里止利於介(のりとりおけ)」雨が降って糊り張り干しは出来ないから、糊擦りは止めておけ、の意。]

和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鴟鵂(みみづく) (フクロウ科の「みみづく」類)

 

Mimiduku

 

みゝつく  雚【音丸】 恠鴟

      呼鷹   角鴟

      夜食鷹   鉤鵅

      轂轆鷹   老兔

鴟鵂

ツウヒユウ 鵋䳢【俗云美美豆久】

 

本綱鴟鵂大如鴟鷹黃黑斑色頭目如猫又如老兔有毛

角兩耳【故名雚也雚字象形】晝伏夜出鳴則雌雄相喚其聲如老人

初如呼後若笑所至多不祥夜能拾蚤虱【或云拾人手爪者妄蚤虱之蚤字誤以爲爪甲之蚤矣】鴟鵂之小者爲鵂鶹

△按木兎【日本紀用此二字】大如兄鷂而全體褐黑色有白彪似

 豆者臆胸亦同色橫有白彪相亂似蛇腹文頭目如猫

 眼外作白圈眼中黃赤而能旋轉毛角有小彪似胡

 麻其下有耳穴怒則毛角竪起一寸許脚黃赤脛短有

 毛謂之傳毛似矮雞之脛爪勾利其啄下短上長勾黑

 不能遠飛夜出摯小鳥聲似梟而短連聲如曰甫伊

 甫伊其尾短十二枚表文幽微裏文鮮明畜之爲囮縫

 閉目繫架頭側設羅擌則諸鳥來集噪噪猶笑木兔盲

 形而罹羅擌者不知數以不勞捕鳥人賞之

 周伯溫曰鴟雚頭上角曰觜【字從角】俗用作鳥喙之

 也

 

 

みゝづく  雚【音、「丸〔グハン〕」。】

      恠鴟〔(かいし)〕

      呼鷹〔(こかよう)〕

      角鴟〔(かくし)〕

      夜食鷹〔(やしよくよう)〕

      鉤鵅〔(こうかく)〕

      轂轆鷹〔(こくろくよう)〕

      老兔〔(らうと)〕

 鵋䳢〔(きき)〕

鴟鵂

ツウヒユウ 【俗に云ふ、「美美豆久」。】

 

「本綱」、鴟鵂、大いさ、鴟〔(とび)〕・鷹のごとく、黃黑〔の〕斑〔(まだら)〕色、頭・目、猫のごとく、又、老〔ひたる〕兔〔(うさぎ)〕のごとし。毛の角〔の〕兩耳、有り【故に「雚」と名づくなり。「雚」の字、象形。】。晝(ひる)、伏し、夜、出づる。鳴くときは、則ち、雌雄、相ひ喚〔(よ)〕ぶ。其の聲、老人のごとし。初めは呼ぶがごとく、後は笑ふがごとし。至る所、不祥、多し。夜(〔よ〕る)、能く蚤(のみ)・虱(しらみ)を拾(ひろ)ふ【或いは云ひて、「人の手の爪を拾ふ」といふは妄なり。「蚤・虱」の「蚤」の字を、以-爲〔(おもへら)〕く、爪-甲(つめ)の「蚤」と誤りて〔のことならん〕。】鴟鵂の小さき者、「鵂鶹〔いひとよ〕」と爲す。

△按ずるに、木兎(みゝづく)【「日本紀」此の二字を用ふ。】、大いさ、兄鷂(このり)のごとく、全體、褐黑色、豆〔(まめ)〕に似たる白き彪、有る者〔なり〕。臆-胸〔むね)〕も亦、同色、橫に白き彪〔(とらふ)〕、有り。相ひ亂れて、蛇腹の文に似たり。頭・目、猫のごとく、眼の外に白き圈を作〔(な)〕す。眼中、黃赤にして、能く旋轉(くるくる)とす。毛の角に小さき〔の〕彪〔(とらふ)〕有り、胡麻〔(ごま)〕に似たり。其の下に耳の穴、有り。怒るときは、則ち、毛角、竪〔(た)〕つに、起こりこと、一寸許り。脚、黃赤、脛、短く、毛、有り〔て〕、之れを「傳毛(つたいげ[やぶちゃん注:ママ。])」と謂ひ、矮雞(ちやぼ)の脛に似たり。爪、勾(まが)りて利〔(と)〕く、其の啄(くちばし)、下は短く、上は長く、勾(とが)りて黑し。遠く飛ぶこと能はず、夜、出でて、小鳥を摯〔(と)〕る。(〔よる〕な)く聲、梟(ふくろふ)に似て、短く、連聲〔して〕「甫伊甫伊〔(ほいほい)〕」と曰ふがごとし。其の尾、短く、十二枚、表の文、幽-微(かすか)に〔して〕、裏の文は鮮明なり。之れを畜〔(か)〕ひて、囮(をとり)と爲し、目を縫〔ひ〕閉〔じ〕、架の頭に繫(つな)ぎ、側〔(かたはら)〕に羅-擌(あみばこ)を設〔(まう)〕く。則ち、諸鳥、來〔り〕集〔(つど)ひ〕、噪噪〔(さは)ぎ〕、猶を[やぶちゃん注:ママ。]、木兔(みゝづく)の盲(めくら)の形を笑ふがごとく〔しつつ〕、羅-擌〔(あみばこ)〕に罹(かゝ)る者、數を知らず、以つて勞せずして、鳥を捕るを、人、之れを賞す。

 周伯溫が曰はく、『鴟雚(みゝづく)が頭の上の角を「觜」と曰ふ【字、「角」に從ふ。】俗、用ひて鳥の喙(くちばし)の「」〔に〕作〔(な)〕す〔は〕、非なり。

[やぶちゃん注:フクロウ目フクロウ科 Strigidae の中で、羽角(うかく:所謂、通称で「耳」と読んでいる突出した羽毛のこと。俗に哺乳類のそれのように「耳」と呼ばれるているが、鳥類には耳介はない)を有する種の総称俗称で、古名は「ツク」で「ヅク(ズク)」とも呼ぶ。俗称に於いては、フクロウ類に含める場合と、含めずに区別して独立した群のように用いる場合があるが、鳥類学的には単一の分類群ではなく、幾つかの属に分かれて含まれており、しかもそれらはフクロウ科の中で、特に近縁なのではなく、系統も成していない非分類学的呼称である(但し、古典的な外形上の形態学的差異による分類としては腑に落ちる)ウィキの「ミミズク」によれば、『ミミズクの種の和名は「〜ズク」で終わるが、「〜ズク」で終わっていても』、アオバズク属 Ninox(代表種アオバズク Ninox scutulata には『羽角はな』いから、俗総称の絶対的属性からは、『ミミズクとは』言えないし、『また、シマフクロウ』(島梟:シマフクロウ属シマフクロウ Ketupa blakistoni)『のように「ミミズク」と呼ばれなくとも羽角があるフクロウもいる』ので、如何にいい加減な和名命名であるかは理解しておく必要がある(太字やぶちゃん)。なお、英語には「ミミズク」に相当する語は存在せず、羽角の有無に拘わらず、フクロウ類は「owlである。但し、中国では良安の抜粋する「本草綱目」で判る通り、本邦と同じく形態分類に基づく区分をしている(「角鴟〔(かくし)〕」(頭に角(つの)のあるトビ)。また、後の私の「雚」も参照されたい)。『ミミズクの語源には諸説あり、以下のようなものがある』。

・『「耳付く」もしくは「耳突く」の意味。ツクはミミヅク(ミミズク)の略で、実際はより新しい表現』。

・『ツクは「角毛」の意味。原義が忘れられた後、さらに「ミミ」をつけて呼ぶようになった』。

・「ツクは「鳴く」の意味で本来フクロウ・ミミズク類の総称(現にアオバズクに羽角はない)。耳のあるツクがミミヅク(ミミズク)』。

といったものである。『漢名木菟・木兎(ぼくと)は、樹上性のウサギの意味(菟は兎に同じ)で、羽角をウサギの長い耳になぞらえたもの。鵩(ふく)・鶹(りゅう)・鵂(きゅう)は』一『文字でミミズクを表す。角鴟(かくし)・鴟鵂(しきゅう)の鴟はトビ』(タカ目タカ科トビ亜科トビ属トビ亜種トビ Milvus migrans lineatus)『・フクロウ類の総称』(フクロウは嘗ては猛禽類に分類されていたし、捕食行動も猛禽類と同じいから、この二種を合わせた漢字が存在することは少しもおかしくない。フクロウの一部が印象的に可愛いと認識されて、「フクロウ・カフェ」などで弄ばれたり(私はあれは立派な動物虐待であると思う)するが、肉食性鳥類であるという認識がない、昨今のペット感覚の輩の方が遙かに非分類学的・非生物学的なのであり、「本草綱目」でもちゃんと『鴟〔(とび)〕・鷹のごとく』と言っている)『耳木菟・耳木兎は漢名ではなく、ミミヅク(ミミズク)のミミとツクにそれぞれ漢字を当てたもの』。『羽角がある以外はフクロウ科に同じ』で、『羽角は、長く伸びたものから、コミミズク』(トラフズク属コミミズク Asio flammeus)『のようにほとんど判別できないものまであり、形もさまざまである』。世界的な主な「~ズク」系の和名種は、コノハズク属 Otus・コミミズク属 Asio・ジャマイカズク属 Pseudoscops・ワシミミズク属 Bubo・シマフクロウ属Ketupa(ウオミミズク Ketupa flavipes・マレーウオミミズク Ketupa ketupu がいる)に属する種の中に含まれる。

 しかし、ここでの良安の評言部は、明らかに特定の種を「みみづく」と呼んで記載していると捉えなければならない。複数の、それもミミズクに含まれないフクロウ類を混同している可能性が濃厚(特に鳴き声の「甫伊甫伊〔(ほいほい)〕」は明らかにミミズク類ではないフクロウ類の「ホウホウ」である)であるものの、一つ、羽角の特徴、「其の下に耳の穴、有り。怒るときは、則ち、毛角、竪〔(た)〕つに、起こりこと、一寸許り」という、実は羽角が普段は全然目立たないという辺りからは、これは、本邦に冬鳥として飛来する、

フクロウ科トラフズク属コミミズク Asio flammeus

ではないか(但し、鳴き声は「ギャーウー」)とも踏んでいる。但し、挿絵の方は、同じ仲間で羽角がよく発達した本邦の留鳥である、

トラフズク属トラフズク Asio otus

(鳴き声は「ウーウー」であるから、音写的には近似はする)か、

Otus 属オオコノハズク Otus lempiji

(繁殖期には「ウォッウォ」「ポ ポ ポ」と連続して鳴く点で「連聲〔して〕「甫伊甫伊〔(ほいほい)〕」と曰ふがごとし」と極めて一致する)のように思われる(しかし、これでは脚と尾羽を隠したら全く以って猫でげすなぁ)。(なお、蛇足であるが、和名には「ミミズク」「コミミズク」という標準和名の、セミ類に近いヨコバイ科 Cicadellidaeの昆虫がいる。一種は節足動物門昆虫綱半翅(カメムシ)目同翅亜目ヨコバイ科ミミズク亜科 Ledra 属ミミズク Ledra auditura であるが、漢字表記は「耳蝉」で異なる。本種は体長(翅端まで)が一・四センチメートル、で一・八センチメートル内外で、全体は暗褐色乃至赤褐色で、樹皮によく似る(擬態と思われる)。頭部は扁平で幅広く、前方に突出する。複眼は後側方にあり、小さいが、突出する。前胸背は大きく、その後部に一対の耳状突起があり、では小さく、上方に突出するが,では大きく、前上方に向くことがある。クヌギやナラなどにつくが、その数は多くない。本州・四国・九州・琉球列島・朝鮮・台湾・中国に分布する。同亜科 Ledropsis 属コミミズク(小耳蝉)Ledropsis discolor は小型で細長く、前胸背上に耳状突起はない)。フクロウ類については次項「鴞」の注で、また、詳述する。

 

「鴟鵂」音「テイキフ(テイキュウ)」。

『「雚」の字、象形』「雚」はコウノトリ(コウノトリ目コウノトリ科コウノトリ属 Ciconia のコウノトリ類或いは同属コウノトリ Ciconia boyciana)の意で、頭部の白い毛とそこに目立つ両眼を象形した漢字である。コウノトリには左右に立つような冠毛のようなものはないが、要は頭部の眼球が白い羽毛によって目立つことから、それを耳に擬えて、この字が当てられたものと私は推定する。

「至る所、不祥、多し」西洋では、専ら、ローマ神話の女神の手にとまる「ミネルヴァのフクロウ」で知恵の象徴とされ、「森の哲人」などとも呼ばれるが(私の妻は大のフクロウ好きで世界から集めたフクロウの飾りがそこら中にある)、中国ではフクロウ類は、夜行性であること、その鳴き声の不気味さに加え、次項の「鴞(ふるろふ)(フクロウ)」の「本草綱目」の引用部にも記されてある通り、成長すると母鳥を喰らうという俗説があり、それがために古代に於いては夏至になるとその非道残虐を罰し知らしめるために、フクロウを磔(はりつけ)にしたものであり、「梟」の字が「鳥」が「木」の上に磔にされている様子を表しているのはそのためである、等と書かれているように、凶鳥・悪鳥とされてきた。そうした綜合的ネガティヴ・イメージに、さらに鳥の癖に、人や哺乳類と同じような「耳」を持つミミズクが擬人的で薄気味悪くも感じられたのではないかと思われ、そこから「この鳥が出没するところでは不祥事・凶事が多い」という謂いとなったものであろう。

「夜(〔よ〕る)、能く蚤(のみ)・虱(しらみ)を拾(ひろ)ふ」これ自体が妄説でしょう! 鼠・兎の誤りでしょう! 夜中にちまちまとノミやシラミを食っておられまへんて!

『「蚤・虱」の「蚤」の字を、以-爲〔(おもへら)〕く爪-甲(つめ)の「蚤」と誤りて〔のことならん〕』「蚤」(音「サウ(ソウ)」)という漢字には別に「礼記」以来の、「手足の爪」の意がちゃんとあり、この「蚤」の字の中の「」の部分は「爪」の古字なのである。大修館書店「廣漢和辭典」の次の「鵂鶹」を調べていたところ、「鵂」の使用例に「一切経音義」唐初(七世紀中頃)に玄応が記した音義書。全二十五巻。四百五十部余の経典についてその音義を示したもの)。本来の題は「大唐衆経音義」)十八巻に「鵂鶹、纂文云、夜卽拾人爪也」とあった

「鵂鶹〔いひとよ〕」(音「キウリユウ(キョウリュウ)」)小学館「日本国語大辞典」に「いいとよ」(歴史的仮名遣「いひとよ」)の項を設け、この「鵂鶹」の漢字を当て、『「いいどよ」とも』(こちらの濁音形が古形)とした上で『「ふくろう(梟)」の古名』とし、「日本書紀」の皇極天皇三(六四四)年三月の条を引き、「岩崎本」訓読で『休留(イヒトヨ)<休留は茅鴟なり>子を豊浦大臣の大津の宅の倉に産めり』と出すのに従ってルビを振った。但し、「本草綱目」はこれを、「ミミズクの小型種」の名としていると読めるが、前注で出した大修館書店「廣漢和辭典」の「鵂」の使用例を見ても、「鶹」の字を単独で調べてみても、孰れもミミズクのことを指すだけで、特別な小型の限定種を指しているようには思われない。

『木兎(みゝづく)【「日本紀」此の二字を用ふ。】』「日本書紀」には「平群木莵宿禰(へぐりのつくのすくね)」という人名の中に用いられて複数箇所に出現する。彼は武内宿禰の子で、平群氏及びその同族の伝説上の祖とされる。ウィキの「平群木菟」によれば、「日本書紀」仁徳天皇元(三一三)年正月三日の即位の条の附文によれば、『大鷦鷯尊(仁徳天皇)と木菟宿禰とは同日に生まれたという。その際、応神の子の産殿には木菟(つく:ミミズク)が、武内宿禰の子の産屋には鷦鷯(さざき:ミソサザイ』(スズメ目ミソサザイ科ミソサザイ属ミソサザイ Troglodytes troglodytes)『)がそれぞれ飛び込んだので、その鳥の名を交換して各々の子に名付けたという』(原文「初天皇生日。木菟入于産殿。明旦、譽田天皇喚大臣武内宿禰。語之曰。是何瑞也。大臣對言。吉祥也。復當昨日、臣妻産時。鷦鷯入于産屋。是亦異焉。爰天皇曰。今朕之子与大臣之子、同日共産。並有瑞。是天之表焉。以爲、取其鳥名。各相易名子。爲後葉之契也。則取鷦鷯名。以名太子。曰大鷦鷯皇子。取木菟名號大臣之子。曰木菟宿禰。是平群臣之始祖也。是年也。太歳癸酉」)とある

「兄鷂(このり)」既出タカ目タカ科ハイタカ属ハイタカ Accipiter nisus の、よりも小型で、体色も異なるの呼称(一説に「小鳥に乘り懸くる」で「小乗(このり)」とも)。

「怒るときは、則ち、毛角、竪〔(た)〕つに、起こりこと、一寸許り」冒頭注の終りを参照。「怒る」は注意・緊張・昂奮と読み換える。

「傳毛(つたいげ[やぶちゃん注:ママ。])」この呼称は現在、確認出来ない。フクロウ類は鳥類の中では実は脚が有意に長い

「矮雞(ちやぼ)」ニワトリの品種チャボ(矮鶏)。独立項で既出

「連聲」連続して啼き続けること。

「其の尾、短く、十二枚」フクロウ類の本邦の代表種であるフクロウ科フクロウ属フクロウ Strix uralensis の尾羽は十二枚で、これはフクロウ類の基本のようで、良安の言うように一様に尾羽は短い。夜間の低空滑走では長い尾は不要というのは、何となく腑に落ちる気がする。

「之れを畜〔(か)〕ひて、囮(をとり)と爲し、目を縫〔ひ〕閉〔じ〕、架の頭に繫(つな)ぎ、側〔(かたはら)〕に羅-擌(あみばこ)を設〔(まう)〕く。則ち、諸鳥、來〔り〕集〔(つど)ひ〕、噪噪〔(さは)ぎ〕、猶を[やぶちゃん注:ママ。]、木兔(みゝづく)の盲(めくら)の形を笑ふがごとく〔しつつ〕、羅-擌〔(あみばこ)〕に罹(かゝ)る者、數を知らず、以つて勞せずして、鳥を捕る」「木菟(づく)びき」という。個人と思われるフクロウの総合サイト内の「古典」(よく渉猟されており、本書も東洋文庫版現代語訳が「みみずく」「ふくろう」ともに載る)の「木菟びき(ずくびき)」に以下のようにある(行空けを詰めた)。

   《引用開始》

 木菟びき(ずくびき)は、ミミズクを囮にして、小鳥を捕る猟法です。

 武器を持たない小鳥たちは、天敵である鷲や鷹やフクロウの仲間を見付けると、集団で囃し立てる習性があります。「わー怖い怖い、ここにこんな奴がいるぞー」とばかり何十羽もの群で抗議行動をするのです。

 これをモビング[やぶちゃん注:mobbing。小鳥が捕食者であるフクロウやタカなどに対して集団で行う行動。喧しく鳴き立て、突撃するような仕草で飛び回ることを指す。「擬攻」「擬攻撃」等とも訳す。]と呼びます。バードウォッチングでは、「モビングしたら鷲鷹疑え」という格言があるほどです。

 フクロウに限らず、鷲や鷹にも、いつもカラスが付いています。

 こうして囮のミミズクを見付けた小鳥たちが騒ぎ立て寄ってくる木の枝にトリモチを置いておくのですから、そこにとまった小鳥はトリモチにくっついてしまうというわけです。

 木菟びきは江戸時代からやっている猟法で、記録があるのが上記の本(本朝食鑑)[やぶちゃん注:リンク先参照。本電子化でも複数回既出既注。]で、これの出版が元禄十年[やぶちゃん注:一六九七年。]ですから綱吉の時代です。といえば云わずと知れた生類憐れみ令です。元禄九年には大坂の与力、同心十一人が鳥を捕らえて町人に売ったかどで切腹になっていますし、旗本の息子が吹き矢でツバメを撃ったというので斬罪になっています。

 ですから元禄時代に、命がけで木菟びきをやっていたかどうかは判りませんが、当然猟法そのものはもっと以前からあったと考えられます。

 近代になると、昭和十七年[やぶちゃん注:一九四二年。]発行の「日本鳥類狩猟法」に、この頃、大坂の弁護士で木菟牽びきの名人がいて、一度に200羽の小鳥を集めていたとありますし、著者は木菟牽に同行しています。

 木菟びきは、戦後もしばらくやる人がいましたが、もちろん今はいません。今は、木菟牽よりも綱吉が必要な時代です。

 アメリカでは現在もモビングの習性を利用したクローシューティング(カラス猟)があります。デコイのフクロウとカラスを使い、カラス笛を吹いて集まってくるカラスを撃つ猟法です。

 実物はコレクションでご覧下さい[やぶちゃん注:引用元通りにリンクを張った。]

 参考までに「狩猟図説」という本から江戸時代の木菟びきの詳しい方法を紹介します。

 木菟牽(ずくびき)は、籤黐(ひごもち-竹ひごにとりもちをつけたもの)を多く作り、大なる竹筒に入れ、宿木(とまりぎ)になすべき樹枝とコノハズクとを携えて山に至れり、樹木茂りて小鳥多く集まるところを選んで設くべし。但しコノハズクを最良とすれどもオヅク(オオコノハズク)[やぶちゃん注:コノハズク属コノハズク Otus scops。後の狩猟対象の鳥の学名は略す。総て本電子化で既出。]にても可なり。その法山麓その他樹木の生茂したる地を撰み、宿木を建て、これにオヅクを繋ぎ、足皮に細き絲を附け、籤黐をその近傍の樹枝に配置し、而して数十歩を隔てて身を叢間に潜匿し、雀笛(ことり笛)を吹けば、たちどころに小鳥は群をなし、ヒヨドリ、カシドリ、シジュウカラ、ホオジロ、ヒタキ、アカハラ、アトリ、メジロ、ウグイスの類皆来たりてオヅクを取り囲み、喃喃[やぶちゃん注:「なんなん」で「口数が多く、喋り続けるさま。]喧叫す。その状夜間の恨みを報いんとするものの如し。この時猟者は絲を牽き適宜に緩急をなすときはオヅクは宿木の揺動に驚き、羽翼を張り目を開き、頗る恐怖の態をなす。是に於いて諸鳥は愈(いよいよ)之を侮り狂へる如く酔へるが如く、オヅクの傍に飛翔して終には黐にかかるものなり。之を捕へ又処を転じて前法の如くして捕ふ可[やぶちゃん注:べし。]。但し竹宿木[やぶちゃん注:「たけやどりぎ」か。竹作りの仮小屋であろう。]を造り、篠、小枝等を以てオヅクの周辺を囲い、絲を宿木に結びつけ之を牽けばオヅクその篠中に隠れ、之を緩めれば、オヅク篠上に顕出するよう装置し、猟者そのところを離れ絲を以てオヅクを篠中より出没せしむれば諸鳥はオヅクを侮翫[やぶちゃん注:「ぶがん」。侮(あなど)り馬鹿にすること。この場合の「翫」も「あなどる」の意。]する殊に甚だしくして多く黐にかかるものなり。

   《引用終了》

「人、之れを賞す」この謂い方は気に食わぬ。眼を縫われた哀れなミミヅクを褒めるとなら、お門違い、そうした卑劣で残酷な「木菟(づく)びき」をする鳥師を称賛などするのも、遙かにおぞましい。

「周伯溫」東洋文庫の注に『周伯琦(はくき)。元の人。官は参知政事。博学で文章をよくした。著に『説文(せつもん)字源』『六書正譌(せいぎ)』などがある』とある。

「觜」「廣漢和辭典」には確かに大きな一番目の最初に『けづの。みみづくの頭上にあるけづの』として、「説文」を引き、『觜、鴟舊[やぶちゃん注:二字で「鴟鵂」に同じく「ミミズク」のこと。]頭上角觜也』とある。大きな二番目で『くちばし。くちさき』とし、「廣韻」から、『觜、喙也』と引く。

「喙(くちばし)」「廣漢和辭典」では、の㋐で『口。くちさき』、㋑で『獣の口』、㋒でやっと『鳥のくちばし』する(「喙」(音「クワイ(カイ)」)の字は「猪の口」の意を意味するものである)。但し、実は良安は本書で「くちばし」とルビしたり、その意味で引用したり、使用したりする場合に、有意に「啄」の字に誤記しているのを何度も経験しているので注意されたい。

」「廣漢和辭典」に不載中文サイトに最初から番号が振られた順に「識」・「藏」・「口;鳥嘴」・「石針」と意義が記されてあり、三番目に「鳥のくちばし」の意が示されてある。]

2019/01/24

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(9) 「馬ニ惡戲シテ失敗シタル河童」(3)

 《原文》

Kappanotokuri

[やぶちゃん注:途中に挿入される『河童ノ德利 寶曆現來集卷廿一ヨリ』の挿絵をここに掲げておく。国立国会図書館デジタルコレクションの画像を補正して示した。]

 【和尚慈悲】東京近傍ニ於テハ武藏北足立郡志木町、舊稱ヲ館村(タテムラ)ト稱スル地ニ於テ、引又(ヒキマタ)川ノ河童寶幢院ノ飼馬ヲ引カントシテ失敗ス。馬ノ綱ニ搦メラレテ厩ノ隅ニ倒レ馬ニ蹴ラレテ居リ、和尚ノ顏ヲ見テ手ヲ合ハス故ニ、同ジ誓言ヲサセテ後之ヲ宥ス。此河童モ甲斐飛驒其他ノ同類ノ如ク、翌日ノ夜明ニ大ナル鮒ヲ二枚和尚ノ枕元ニ持來リ、當座ノ謝意ヲ表シタリト云ヘリ〔寓意草上〕。僧侶ニ魚ヲ贈ルガ如キ、無意味ナル因習ニ拘束セラルヽヲ見テモ、河童ガ決シテ新奇ナル妖怪ニ非ザリシヲ察シ得べシ。相模ノ大山街道間角(マカド)川ノ河童ハ、馬ニ對スル惡計露顯シテ打殺サレントセシヲ、間角村ノ三輪堀五郞左衞門ノ先祖、例ノ如ク命乞ヲシテ放還ス。鎌倉時代ノ出來事ナリト傳フ。【德利】【打出小槌】此時ノ禮物モ鱸ガ二本ト酒德利ニシテ、其德利ノ酒ハ酌メドモ盡クルコト無カリシ由。今ハ既ニ空德利トナリ、魚ノ圖ト共ニ永ク家ニ傳ヘタリシヲ、天保二年四月ニ至リ、江戸本所ノ彫物師猪之助ナルモノ、實見シ來タリテ人ニ語ルトイフ〔寶曆現來集廿一〕。【養老酒】其末孫三輪堀啓助君ハ今高坐郡茅ケ崎町ニ居住シ、家寶ノ河童ノ德利ヲ縣ノ民政資料展覽會ニ出品シ、先祖孝行ノ賞トシテ酒ヲ入レテ河童ノ贈リシモノト稱ス。此ハ大正二年ノ傳ナリ〔神奈川縣民政資料小鑑〕。【四十九】東海道ハ駿州ノ吉原ガ未ダ今ノ地ニ移ラザル前、瀧川ノ押出シト稱スル物凄キ落合ノ淵ニ河童四十九匹住ス。【厩ノ柱】或大名此宿ニ一泊シ乘馬ノ足ヲ川水ニ冷サシム。河童其馬ノ尾ヲ搦メテ之ヲ水底ニ引入レントセシガ、馬恐レテ往還マデ馳セ出シ、河童ハ尻尾ニ纏ハレテ引出サレ、土地ノ者之ヲ捕ヘテ厩ノ柱ニ一夜縛リ附ク。此河童ノ謝罪條件ハ不明ナリ。翌日大將立(タイシヤウダテ)ヲサセ之ヲ放ツトアリ〔田子乃古道〕。三河ノ河童ノ話ハ後ニ之ヲ述ブべシ。近江ノ河童ハ犯情異ナレドモ刑罰ハヨク似タリ。【葛ノ葉】此國野洲郡北里村江頭ニテ、或百姓ノ留守宅へ河童亭主ニ化ケ來リテ其妻ト合宿ス。後ニ眞ノ夫還リ爭ヒテ化ケタルコト現ハレ打殺サントセシヲ、色々ト詫言シテ宥シテ貰ヒ、其恩報ジニ德附ケ得サセント、大鮒ヲ二枚ヅツ二日目三日目ニ持來リ、被害者此ガ爲ニ身上良クナレリ。十年ホドノ後、河童來リテ曰ク、近頃ハ新田多クナリ魚ヲ捕ルコト殊ノ外不自由ナリ。モハヤ宥シ給ヘト言ヒ其後ハ持來タラズ〔觀惠交話下〕。【野飼】山城宇治ノ龜ノ茶屋ハ最初ハ幸齋ト云フ百姓ノ家ナリ。或夕馬ヲ川端ニ野飼シテ置キシニ、河童之ヲ水中ニ引入レントシテ綱ヲ幾重ニモ身ニ卷附ケ、惣身ノ力ヲ以テ曳キケレドモ、却ツテ馬ニ曳キ勝タレテ幸齋ガ家ノ厩ニ轉ガリ込ミテ遁グルコトナラズ。【河童怠狀】近所ノ人々モ出合ヒテ打殺サントセシガ、或者仲ニ立チテ幸齋ニ詫言シ、以來此家ノ者ハ申スニ及バズ、宇治中ノ者ニ仇ヲスマジキ由ノ怠狀立(タイジヤウタテ)ヲ、自問自答ノヤウニサセテ宥スト云ヘリ。之ヲ以テ推セバ、元吉原ノ河童ノ大將立ト云フハ此ニ謂フ怠狀立卽チ宣誓ヲ爲サシムルコトナランカ。サテ右ノ宇治川ノ河童モ他國ノ例ト同ジク、其翌朝ヨリ三箇年ノ間每朝未明ニ魚ヲ二ツ三ツヅツ幸齋ガ口へ持來リ置キテ恩報ジヲ爲セシガ、其後ハモハヤ來ラズ。或時幸齋大阪へ下ラントテ夜船ニ乘リ鵜殿ノ邊ヲ過ギシニ、幸齋々々ト喚ブ者アリ。夜中不思議ナリト思ヒツヽ篷ヲ擧ゲテ見レバ、川除(カハヨケ)ノ上ニ五六歳ノ小兒ホドノ者アリ、【河童引越】彼ニ向ヒテ言フニハ、何時ゾヤ命ヲ御宥シアリシ恩ヲ三年ハ報ジ候ヘドモ、宇治邊ニ居リ候テハ水早クテ魚ヲ捕ルコト易カラズ、我身ノ養ヒサヘナリ難ク候故、此處へ住居ヲ換へ候、此ヨリ宇治へハ程遠ク候程ニ心ナラズ無沙汰ニナリ候、モハヤ御宥シ候ヘト斷リヲ言ヒテ川へ入リケルト也〔落穗餘談四〕。【ガタラウ】阿波那賀郡平島村大字赤池ノ庄屋ニ勝瀨某ト云フ者アリ。二百年ホド以前、此家ノ奴僕馬ヲ那珂川ノ滸(ホトリ)ニ飮(ミヅカ)ヒ川端ニ繋ギテ家ニ還ル。【馬駿足】此川ノ河太郞其綱ヲ解キテ身ニ纏ヒ引込マントセシガ、馬ガ駿足ナリシカ却ツテ河童ヲ引摺リテ厩ニ歸ル。人々集リテ殺サントスルヲ、主人制止シテ之ヲ解キ放チ去ラシム。其夜主人ノ夢ニ河太郞來テ言フニハ、命ノ恩ニハ每朝井ノ側ラノ竹棚ニ鮮魚ヲ捧ゲ置キ申スべシ。【刃物ノ忌】但シ刃物ヲ忌メバ決シテ之ヲ棚ニ置キ給フナ云々。ソレヨリ久シク言フ所ノ如クナリシヲ、二三年ノ後新參ノ下女アリテ菜刀ヲソコニ置キ忘レシヨリ、終ニ河童ノ貢物ハエタリ。【水難禁呪】サレド河邊ノ者川ヲ渡リ水ヲ泳グニ、自ラ勝瀨氏ノ子孫ナリト名乘レバ河太郞害ヲ爲スコトナカリシト云ヘリ〔阿州奇事雜話二〕。土佐ニハ予ガ知ル限リニ於テ此話三アリ。其一ハ元祿年中ノ出來事ナリ。長岡郡五臺山ノ麓ナル下田ト云フ所ノ百姓、野飼ノ爲馬ニ三十尋バカリノ繩ヲ附ケテ川ノ岸ニ放シ置キシニ、四邊ニ人ノ居ラヌヲ見スマシ、河童其繩ヲ端ノ方ヨリ身ニ卷キ、殘リ六尺ホドニナリシ時之ヲ川ノ中へ曳ク。最初ハ馬モ之ニ附キテ行キシガ、深ミニナリテ驚キテ跳リ上リ、河童ハ川原ノ上ニ投出サル。百姓等之ヲ發見シ多勢打寄リテ散々打擲シ既ニ殺スバカリナリシヲ、老人タチ先ヅ了簡ヲ爲シ、將來コノ下田村ニ於テ人ニハ勿論牛馬鷄犬ニ至ル迄決シテ害ヲ加ヘヌカト、十分ニ念ヲ押シテ放シ遣リ、【河童ノ祭】其代リニ每年六月十五日ニ河童ノ祭ヲ村ニテ營ムコトニ定メ、愈以テ此地ニハ河童ノ害ヲ見ヌコトヽナレリ〔土州淵岳志〕。河童ヲ祭ルト云フ一段ハ外ノ地方ニハ見エザルモ注意スべキコト也。此ト略同ジ時代ニ、土佐ノ西部幡多郡津大村大字川ノ今城八兵衞方ニ於テモ、川端ニ繫ギ置キシ飼馬同樣ノ厄ニ遭ヘリ。此河童ハ兩三日ノ間厩ノ前ニ繫ギ捨テタル後、以來人馬ヲ傷フべカラザル由ヲ固ク戒メテ川へ放ス。其翌朝ヨリ何人ノスルトモ知ラズ軒ニ釣リタル手水桶ノ鍵ニ每日魚ヲ持來リ引掛ケ置ク者アリ。【鹿ノ角】年月ヲ經テ此鍵損ジ鹿ノ角ヲ以テ之ニ換ヘタルニ、河童ハ性トシテ鹿角ヲ畏ルル故ニ、之ヲ見テ遁ゲ去リシモノカ、其邊ニ魚ヲ棄テヽ行キシマヽ以後其事止ミタリト云フ〔土佐海〕。又吾川郡御疊瀨(ミマセ)村ノ千屋(チヤ)惣之進ガ家ニハ、先代ガ河童ノ命ヲ助ケ還セシ時彼ガ報謝トシテ持來レリト云フ一ノ珍器ヲ傳フ。越後島崎ノ桑原氏ノトハ異ナリ、此ハ皿ノ如キ一物ナリ。【疱瘡除】水難除ノ外ニ疱瘡平癒ノ厭勝(マジナヒ)トモナルト稱シ非常ニ有名ナル物ナリキ〔同上〕。【河童ノ皿】右ノ河童ノ皿ハ些シク我々ガ聞ク所ノ物ト異ナリ、通例皿ト云フハ彼ガ頭ノ頂ノ窪ミノコトナリ。河童ニ取リテハ大切ノ物ナルハ同ジケレド、引放シテ人ニルルコト能ハズ。此窪ミニ水溜レル間ハ強力人ニ數十倍スルコト「サムソン」ノ髮毛ノ如シ。【駒繫木】曾テ肥前佐賀郡ノ三溝(ミツミゾ)ト云フ地ニ於テ、農民其馬ヲ樹ニ繫ギ置キシニ、河童水ヨリ出デ其綱ヲ解キテ身ニ絆(マト)ヒ之ヲ水際マデ引行キケレバ、馬驚キテ大ニ跳ネ、乃チ河童ノ皿ノ水ヲ覆(コボ)ス。河童忽チ力弱リ却ツテ馬ニ引摺ラレテ厩ニ至ル。【厩ノ柱】主之ヲ厩ノ柱ニ繫ギ其由ヲ母ニ語ル。母ハ洗濯ヲシテアリシガ、大ニ罵リテ盥ノ水ヲ河童ニ打掛ケタレバ、其水少シク皿ノ中ニ入リ、河童力ヲ復シテ馬ノ綱ヲ引切リテ逸シ去リ、終ニ片手ヲ失フニモ及バズ、又詫狀モシクハ藥ノ祕傳ノ沙汰ニモ立チ至ラズ〔水虎考略後篇三〕。從ツテ此地方ニハ河童ノ侵害後世ニ至ルマデ中々多カリキ。九州ノ河童ハ一般ニ智巧進ミタリト見エテ、人間ノ逆襲ヲ受ケタリト云フ記錄アマリ多カラザルモ、古キ昔ノ物語トシテハ同種ノ事蹟ヲ傳フルモノナキニ非ズ。【女ノ被害】例ヘバ薩州川邊(カハナベ)郡川邊村大字淸水(キヨミヅ)ノ一部落モ、亦河童トノ約束アリテ水ノ災ニ罹ル者決シテ無シ。昔此村淸水川ノ櫻淵ノ上ニ川邊(カハナベ)家ノ館アリシ時代ニ、河童此家ノ女ヲ引込ミタルコトアリ。【河童頭目】主人大ニ怒リ早速其淵ヲ埋メテ水ヲ涸シ之ヲ退治セントセシカバ、河童ノ頭目閉口シテ謝罪ニ來リ、永ク邑人ニ害ヲ爲スマジキ旨ヲ誓ヒテ漸ク宥サルヽコトヲ得タリシ也〔三國名勝圖會〕。肥後ノ加藤モ小姓ヲ河童ニ取ラレテ大討伐ヲ企テシコトアリ。後段ニ之ヲ述べントス。淸正ホドノ鬼將軍ニ瞰マレテハ勿論河童ハ之ニ楯突クコトノ出來ル者ニ非ザル也。

《訓読》

 【和尚慈悲】東京近傍に於いては、武藏北足立郡志木町、舊稱を館村(たてむら)と稱する地に於いて、引又(ひきまた)川の河童、寶幢院(ほうどうゐん)の飼馬(かひば)を引かんとして、失敗す。馬の綱に搦められて、厩の隅に倒れ、馬に蹴られて居り、和尚の顏を見て手を合はす故に、同じ誓言(せいげん)をさせて後、之れを宥(ゆる)す。此の河童も甲斐・飛驒其の他の同類のごとく、翌日の夜明けに、大なる鮒を二枚、和尚の枕元に持ち來たり、當座の謝意を表したりと云へり〔「寓意草」上〕。僧侶に魚を贈るがごとき、無意味なる因習に拘束せらるゝを見ても、河童が決して新奇なる妖怪に非ざりしを察し得べし。相模の大山街道間角(まかど)川の河童は、馬に對する惡計、露顯して、打ち殺されんとせしを、間角村の三輪堀(みわぼり)五郞左衞門の先祖、例のごとく、命乞ひをして放ち還へす。鎌倉時代の出來事なりと傳ふ。【德利】【打出小槌】此の時の禮物も、鱸(すずき)二本と酒德利(さかどつくり)にして、其の德利(とつくり)、酒は酌(く)めども、盡くること、無かりし由(よし)。今は既に空德利(からどつくり)となり、魚の圖と共に、永く家に傳へたりしを、天保二年四月[やぶちゃん注:一八三二年五月。]に至り、江戸本所の彫物師猪之助(ゐのすけ)なるもの、實見し來たりて人に語るといふ〔「寶曆現來集(ほうれきげんらいしふ)」廿一[やぶちゃん注:冒頭の図を参照。なお、宝暦は一七五一年から一七六四年に相当。]〕。【養老酒】其の末孫(ばつそん)三輪堀啓助君は、今、高坐郡茅ケ崎町に居住し、家寶の河童の德利を縣(けん)の民政資料展覽會に出品し、先祖孝行の賞として、酒を入れて、「河童の贈りしもの」と稱す。此れは大正二年[やぶちゃん注:一九一三年。]の傳なり〔「神奈川縣民政資料小鑑(しやうかん)」〕。【四十九】東海道は駿州の吉原が、未だ今の地に移らざる前、「瀧川の押出(おしだ)し」と稱する、物凄き落合(おちあひ)の淵に、河童、四十九匹、住す。【厩の柱】或る大名、此の宿に一泊し、乘馬の足を川水に冷さしむ。河童、其の馬の尾を搦めて、之れを水底(みなそこ)に引き入れんとせしが、馬、恐れて、往還まで馳せ出だし、河童は、尻尾に纏(まと)はれて引き出だされ、土地の者、之れを捕へて、厩の柱に、一夜、縛り附く。此の河童の謝罪條件は不明なり。翌日、「大將立(たいしやうだて)」をさせ、之れを放つ、とあり〔「田子乃古道」〕。三河の河童の話は、後に之れを述ぶべし。【「葛の葉」。】近江の河童は、犯情、異なれども、刑罰は、よく似たり。此の國、野洲(やす)郡北里村江頭(えがしら)にて、或る百姓の留守宅へ、河童、亭主に化け來たりて、其の妻と合宿(あひやど)す[やぶちゃん注:共寝した。]。後に眞(まこと)の夫、還り、爭ひて、化けたること、現はれ、打ち殺さんとせしを、色々と詫言して宥して貰ひ、其の恩報(おんほう)じに、「德(とく)附け得させん」と、大鮒を二枚づつ、二日目、三日目に持ち來たり、被害者、此れが爲に身上(しんしやう)良くなれり。十年ほどの後、河童、來たりて曰はく、「近頃は新田多くなり、魚を捕ること、殊の外、不自由なり。もはや、宥し給へ」と言ひ、其の後は持ち來たらず〔「觀惠交話(くわんけいこうわ)」下〕。【野飼】山城宇治の「龜の茶屋」は、最初は幸齋(こうさい)と云ふ百姓の家なり。或る夕べ、馬を川端に野飼して置きしに、河童、之れを水中に引き入れんとして、綱を幾重(いくへ)にも身に卷き附け、惣身(そうしん)の力を以つて曳きけれども、却つて馬に曳き勝たれて、幸齋が家の厩に轉がり込みて、遁(に)ぐること、ならず。【河童怠狀(たいじやう)】近所の人々も出で合ひて、打ち殺さんとせしが、或る者、仲に立ちて、幸齋に詫言し、以來、此の家の者は申すに及ばず、宇治中の者に仇(あだ)をすまじき由の「怠狀立(たいじやうたて)」を、自問自答のやうにさせて、宥す、と云へり。之れを以つて推(お)せば、元吉原の河童の「大將立」と云ふは、此(ここ)に謂ふ「怠狀立」、卽ち、宣誓を爲さしむることならんか。さて、右の宇治川の河童も他國の例と同じく、其の翌朝より三箇年の間、每朝、未明に魚を二つ、三つづつ、幸齋が口へ持ち來たり置きて、恩報じを爲せしが、其の後は、もはや、來らず。【河童引越】或る時、幸齋、大阪へ下らんとて、夜船に乘り、鵜殿(うどの)の邊りを過ぎしに、「幸齋々々」と、喚(よ)ぶ者、あり。『夜中、不思議なり』と思ひつゝ、篷(とま)を擧げて見れば、川除(かはよけ)の上に、五、六歳の小兒ほどの者あり、彼に向ひて言ふには、「何時(いつ)ぞや、命を御宥(おゆる)しありし恩を、三年は報じ候へども、宇治邊りに居り候ては、水、早くて、魚を捕ること、易(やす)からず、我が身の養ひさへ、なり難く候故、此處(ここ)へ住居を換へ候、此れより宇治へは程遠く候程に、心ならず、無沙汰(ぶさた)になり候、もはや、御宥し候へ」と斷(ことわ)りを言ひて、川へ入りけるとなり〔「落穗餘談」四〕。【ガタラウ】阿波那賀(なか)郡平島村大字赤池の庄屋に勝瀨某と云ふ者あり。二百年ほど以前、此の家の奴僕(ぬぼく)、馬を那珂川の滸(ほとり)に飮(みづか)ひ、川端に繋ぎて、家に還る。【馬(うま)駿足(しゆんそく)】此の川の河太郞(ガタラウ)、其の綱を解きて、身に纏(まと)ひ引き込まんとせしが、馬が駿足なりしか、却つて河童を引き摺りて、厩に歸る。人々、集りて、殺さんとするを、主人、制止して、之れを解き放ち、去らしむ。其の夜、主人の夢に、河太郞來て言ふには、「命の恩には、每朝、井の側(かたは)らの竹棚(たけだな)に鮮魚を捧げ置き申すべし。【刃物の忌(いみ)】但し、刃物を忌めば、決して、之れを棚に置き給ふな」云々。それより久しく、言ふ所のごとくなりしを、二、三年の後、新參の下女ありて、菜刀(ながたな)[やぶちゃん注:菜切包丁。]をそこに置き忘れしより、終(つひ)に河童の貢物(みつぎもの)はえたり。【水難禁呪】されど、河邊の者、川を渡り、水を泳ぐに、自(おのづか)ら「勝瀨氏の子孫なり」と名乘れば、河太郞、害を爲すことなかりし、と云へり〔「阿州奇事雜話」二〕。土佐には、予は知る限りに於いて、此の話、三(みつつ)あり。其の一(ひとつ)は元祿年中[やぶちゃん注:一六八八年~一七〇四年。]の出來事なり。長岡郡五臺山(ごだいさん)の麓なる、下田と云ふ所の百姓、野飼の爲、馬に三十尋(ひろ)[やぶちゃん注:通常、一尋は六尺(約一メートル八十二センチメートル弱)とされたから、五十四メートル半強となる。]ばかりの繩を附けて、川の岸に放し置きしに、四邊に人の居らぬを見すまし、河童、其の繩を端の方(かた)より身に卷き、殘り六尺ほどになりし時、之れを川の中へ、曳く。最初は、馬も之れに附きて行きしが、深みになりて、驚きて跳(をど)り上り、河童は川原の上に投げ出さる。百姓等(ら)、之れを發見し、多勢、打ち寄りて、散々、打擲(ちやうちやく)[やぶちゃん注:打ち殴り、叩くこと。]し、既に殺すばかりなりしを、老人、たち、先づ、了簡(りようけん)を爲(な)し[やぶちゃん注:許してやり。]、「將來、この下田村に於いて、人には勿論、牛・馬・鷄・犬に至るまで、決して、害を加へぬか」と、十分に念を押して、放し遣り、【河童の祭】其の代りに、每年、六月十五日に「河童の祭」を村にて營むことに定め、愈(いよいよ)以つて、此の地には、河童の害を見ぬことゝなれり〔「土州淵岳志」〕。河童を祭ると云ふ一段は、外の地方には見えざるも[やぶちゃん注:誤り。本電子化の(4)で示した通り、現在の茨城県小美玉市与沢に死んだ河童を祀ったとされる稀有の手接神社が存在する。]、注意すべきことなり。此れと略(ほぼ)同じ時代に、土佐の西部、幡多(はた)郡津大(つだい)村大字川の今城[やぶちゃん注:高知に多い姓では「いまじやう」の可能性が高いか。]八兵衞方に於いても、川端に繫ぎ置きし飼馬、同樣の厄(やく)に遭へり。此の河童は、兩三日(りさうさんにち)[やぶちゃん注:二、三日。]の間、厩の前に繫ぎ捨てたる後、以來、人馬を傷(そこな)ふべからざる由を固く戒めて、川へ放す。其の翌朝より、何人(なんぴと)のするとも知らず、軒(のき)に釣りたる手水桶(てうづをけ)の鍵(かぎ)[やぶちゃん注:河童は金属をも忌むので、この「かぎ」(鉤)は木製でなくてはならない。]に、每日、魚を持ち來たり、引つ掛け置く者、あり。【鹿の角(つの)】年月を經て、此の鍵、損じ、鹿の角を以つて之れに換へたるに、河童は性(しやう)として鹿角(しかづの)を畏るる故に、之れを見て遁げ去りしものか、其の邊りに魚を棄てゝ行きしまゝ、以後、其の事、止みたり、と云ふ〔「土佐海(とさのうみ)」〕。又、吾川(あがは)郡御疊瀨(みませ)村の千屋(ちや)惣之進が家には、先代が河童の命を助け還(かへ)せし時、彼(かれ)が報謝として持ち來たれりと云ふ一(ひとつ)の珍器を傳ふ。越後島崎の桑原氏のと[やぶちゃん注:「(8)」参照。双六の駒状の白黒の小石で血止め・骨接(ほねつぎ)の能力を持っていた。]は異なり、此れは、皿のごとき一物(いちもつ)なり。【疱瘡除(はうさうよけ)】水難除の外に疱瘡平癒の厭勝(まじなひ)ともなると稱し、非常に有名なる物なりき〔同上〕。【河童の皿】右の「河童の皿」は些(すこ)しく我々が聞く所の物と異なり、通例、皿と云ふは、彼(かれ)が頭の頂きの窪みのことなり。河童に取りては大切の物なるは同じけれど、引き放して人に(く)るること、能はず。此の窪みに、水、溜(たま)れる間は、強力(ごうりき)、人に數十倍すること、「サムソン」の髮毛のごとし。【駒繫木(こまつなぎのき)】曾て肥前佐賀郡の三溝(みつみぞ)と云ふ地に於いて、農民、其の馬を樹に繫ぎ置きしに河童、水より出で、其の綱を解きて身に絆(まと)ひ、之れを水際(みづぎは)まで引き行きければ、馬、驚きて大いに跳(は)ね、乃(すなは)ち、河童の皿の水を覆(こぼ)す。河童、忽ち、力(ちから)弱り、却つて馬に引き摺られて、厩に至る。【厩の柱】主(あるじ)、之れを厩の柱に繫ぎ、其の由(よし)を母に語る。母は洗濯をしてありしが、大いに罵(ののし)りて、盥(たらひ)の水を河童に打ち掛けたれば、其の水、少しく皿の中に入り、河童、力を復して、馬の綱を引き切りて、逸(いつ)し去り、終に片手を失ふにも及ばず、又、詫狀もしくは藥の祕傳の沙汰にも立ち至らず〔「水虎考略」後篇三〕。從つて、此の地方には河童の侵害、後世に至るまで、中々、多かりき。九州の河童は一般に、智巧(ちかう)[やぶちゃん注:物事を成す才知に優れていること。]、進みたりと見えて、人間の逆襲を受けたりと云ふ記錄、あまり多からざるも、古き昔の物語としては、同種の事蹟を傳ふるもの、なきに非ず。【女の被害】例へば、薩州川邊(かはなべ)郡川邊村大字淸水(きよみづ)の一部落も、亦(また)、河童との約束ありて水の災(わざはひ)に罹(かか)る者、決して、無し。昔、此の村、淸水川の櫻淵の上の川邊(かはなべ)家の館(たち)ありし時代に、河童、此の家の女を引き込みたることあり。【河童頭目】主人、大いに怒り、早速、其の淵を埋(うづ)めて水を涸し、之れを退治せんとせしかば、河童の頭目、閉口して謝罪に來たり、永く邑人(むらびと)に害を爲すまじき旨を誓ひて、漸(やうや)く、宥さるゝことを得たりしなり〔「三國名勝圖會」〕。肥後の加藤も、小姓を河童に取られて、大討伐を企(くはだ)てしことあり。後段に之れを述べんとす。淸正ほどの鬼將軍に瞰(にら)まれては、勿論、河童は之れに楯突(たてつ)くことの出來る者に非ざるなり。

[やぶちゃん注:「武藏北足立郡志木町、舊稱を館村(たてむら)と稱する地」地名としては現在の埼玉県志木市館(たて)(グーグル・マップ・データ)が残る。

「引又(ひきまた)川」現在の新河岸川、或いは、その支流で先の「館村」の北を流れる柳瀬川の別称であろう。ここ(両河川の分岐点)に引又観音堂(グーグル・マップ・データ。以下同じ)があり、この辺りは江戸時代には「引又河岸」と呼ばれる水運拠点であった。さらに地図上を調べると、綾瀬川沿いの、の川岸の水の中に「柳瀬川かっぱ流ちゃん」という像があることが判り、画像もある。今もここの河童が人々に親しまれているのは嬉しい。

「寶幢院(ほうどうゐん)」地王山地蔵院宝幢寺。志木市柏町のここに現存する。現在は新義真言宗。祐円上人が建武元(一三三四)年に創建したとも伝えるが、創建年代は不詳。永禄四(一五六一)年に現在地へ移転し、慶安元(一六四八)年には第三代将軍家光から寺領十石の御朱印状を拝領、末寺を三ヶ寺を擁していたとされる。私が非常にお世話になってきている東京都・首都圏の寺社情報サイト「猫の足あと」の「宝幢寺」を参照した。リンク先にはより詳しい寺蹟が記されてある。そこには『この寺には「お地蔵さんとカッパ」という伝説』(志木市教育委員会掲示より)があるとも記されてある。位置的にも「館村」と「引又河岸」との間(後者寄り)に当たる。

「僧侶に魚を贈るがごとき、無意味なる因習に拘束せらるゝを見ても、河童が決して新奇なる妖怪に非ざりしを察し得べし」これが近世以降に創作された比較的新しい噂話であるならば、仏教の殺生禁忌に拘らずに話柄を作ることはよほど迂闊な者でない限り、有り得ず、聴いた者は馬鹿げた嘘の後日談とし、話柄全体を一笑に附して後世へ伝承しないかも知れぬ(そういうオチを確信犯で創るというのは実は信仰を失った我々のような現代人の仕儀ということなのかも知れぬ)。ということは、ここの新河岸川を始めとする河川に古来より河童が棲息していると考えられていたこと、河童が駒引きに失敗し、その罪を許された恩返しに魚を捧げた、という内容の核心部分は、かなり古形に属するものであることを柳田國男は言っているのである。

「相模の大山街道間角(まかど)川」現在の神奈川県茅ケ崎市西久保の北のこの辺り。「門角川」は「間門川」が正しいらしいが、現存しない。この地図の小出川の支流でその左岸に南西方向に並行して流れており、池があったらしい。以上は、ブログ「あなたは読者から著者になる」のエッセイスト佐藤繁氏の「間門川(まかどがわ)の河童伝説《茅ケ崎市西久保》」に拠ったもので、現地の池跡の写真もある。同記事では、以下に記される「河童の德利」のリアル・タイムの追跡談が載る! これはもう、引用させて戴くしかない! だって、凄いリアルなんだもん! 筆者佐藤氏の友達が「三輪堀(みわぼり)五郞左衞門」の後裔なんだもん!(行空けは詰め、改行の一部を繫げ、一部の行頭を一字下げ、一部の記号を代えた)

   《引用開始》

2】伝説の河童徳利はどうなっているのであろうか。

 河童徳利の伝説は、小学校のころより村の人より聞いて知っていた。

西久保の河童徳利の発祥地が、同級生の三堀良一君の家が伝えていることを同君からも聞いた。

 その徳利が、後に茅ケ崎市の展示会に出品されていたのを見た。

ひび割れたごく普通の形の徳利であった。

 その徳利がどこにあるのかと言えば、『茅ケ崎市史』(5・概説編)によれば、静岡の個人の所有となっている。

写真を見ると、口細で細長いウスキーのリザーブのボトルに似ている。

 私が見た河童徳利と現有する静岡の人の所有するものとは全く別物ある。西久保の三堀家から流れ出た河童徳利は、どうなったのであろうか。

 茅ケ崎市役所の文化財保護課で、三堀家のものと静岡の個人所有のものとの違いを聞いたら、

「伝説ですからねえ~」

と、笑っていて相手にしてくれない。

 西久保の河童徳利の伝説は、江戸末期の天保年間から始まったが、その時代にウイスキイーのびんのような徳利を日本では作っていたであろうか。

 伝説の徳利は壊れてしまったとも言われているし、三堀家から流れ出た経過も三堀君に聞いても分からない。

3】西久保の河童徳利伝説の話。

 西久保の河童徳利の元になっている話は、『宝暦現来集』(巻21・近世風俗見聞集に第3集、大正2年図書刊行会編)にあり、天保2年4月、江戸本所に住む彫刻師の猪之助が大山参詣のの時、間門村(西久保)の百姓、三輪堀(後の三堀)五郎左衛門方に立ち寄り、とっくりの絵を見て尋ねたという。

 話の内容を要約すれば

「西久保の小さい川で、河童が馬を引き込む所を大勢で打ち殺そうとした時、三輪堀五郎左衛門が助けたるその夜、河童が礼にとっくりに酒を入れたのを持ってくる。少しずつ残しておけばいつまでも絶えることはないのに、その意を知らない者が残らず飲んでしまった。それ以来、一滴も出なくなってしまった」。

 これは鎌倉時代ころの話という。

 現在に伝えられている話は、昭和の初期、地元の鶴嶺小学校の佐藤万吉先生によるものである。西久保の二人の古老から伝説を聞き取り、「郷土伝説紙芝居河童徳利」としてまとめられている。

 「今は昔、西久保の間門に五郎兵衛というおじいさんがいた。馬の青を引いては仕事に出掛け、夕方、間門川に連れてきてはいたわっていた。

 ある夜、かやの茂みから怪物が躍り出て馬の尻にしがみついた。村の人々が寄ってたかって打ちのめし、生け捕りにした。大木の根元にくくりつけられた怪物は、間門川に古くからすむ河童だった。

 情け深い五郎兵衛さんは、なわを解いてやったのでした。その夜、お礼にとっくりを持ってきた。いくらでも酒は出るが、とっくりのお尻をたたくと出なくなる。

 それからは五郎兵衛は酒びたりの毎日となってしまった。

 ある日のこと、これではいけないと悟った。馬小屋の青はすっかりやせてしまった。とっくりのお尻を、二つ三つたたいたら、もう一滴も出ない。また青と一緒に働く、元の五郎兵衛さんになった」。

 紙芝居として作られたので、元の話とはかなり違って脚色され、教訓化されている。この話が、「間門川の河童伝説」として知られている。河童の話は全国的であり、至る所に残されていて、柳田国男の著作にも西久保の河童の話は出てくる。

   《引用終了》

ああ、この最後の教訓化されたヴァージョンは暗澹となるなぁ。「フジパン」公式サイト内の「民話の部屋」の「河童徳利」は(語り・井上瑤氏/再話・六渡邦昭氏)、これはまた、エンディングが優等生化されており、これもまた「何だかな~」と呟きたくなる代物であった。

「鱸(すずき)」条鰭綱棘鰭上目スズキ目スズキ亜目スズキ科スズキ属スズキ Lateolabrax japonicus。海水魚であるが、春から秋の水温の高い時期は、浸透圧調整能力が高いことから、内湾河口や河川の中・上流域まで、かなり自由に回遊する。個体が現在のように堰やダムのなかった時代には、淀川から琵琶湖に遡上した個体もいたと言われる。現在でも河口から百キロメートル以上溯った利根川でも観察される。私は春三月の戸塚駅そばの柏尾川で、数十匹の多量の三十センチメートル超えた成魚のスズキの群れが水しぶきを上げて遡上するのを見たことがある。

「【打出小槌】」「【養老酒】」という頭書は生ぬるいロマン主義風の、やや誇大広告的なもので、私は気に入らない。

「東海道は駿州の吉原」ウィキの「吉原宿によれば、最初の東海道五十三次第十四番目の宿場であった「吉原宿」は当初、田子の浦湾奧の、現在のJR吉原駅付近にあった(「元吉原」。ここ)が、寛永一六(一六三九)年の高潮により、壊滅的『被害を受けたことから、再発を防ぐため』、『内陸部の現在の富士市依田原』(よだはら)『付近に移転した』(「中吉原」。ここ)。しかし延宝八(一六八〇)年八月六日、また、高潮により、再度、『壊滅的な被害を受け、更に内陸部の現在の吉原本町』(「吉原商店街」。ここ『に移転した。このため原宿吉原宿間で海沿いを通っていた東海道は吉原宿の手前で海から離れ、北側の内陸部に大きく湾曲する事になり、それまで(江戸から京に向かった場合)右手に見えていた富士山が左手に見えることから』「左富士」と『呼ばれる景勝地となった。往時は広重の絵にあるような松並木であったが、現在は』一『本の松の木が残るのみである』とある。二年前の秋、私はそこを始めてバスで通った。

「瀧川の押出(おしだ)し」国土地理院地図で「元吉原」の北を西に流れる沼川の右岸の直近に北から合流する滝川があることが判る。グーグル・マップ・データではここで、ここは地図上から見ても、「物凄き落合(おちあひ)の淵」が出来そうであるから、この合流部分を、かく言っているものと私は判断する。

「大將立(たいしやうだて)」不詳だが、柳田が後で推理するように、古くからある詫び状である「怠状(たいじやう)」の訛ったものか、ここでは被害対象者が大名であることから、権威ある「大將」に対して特定の内容を絶対誓約して詫びることと採ってよいであろう。

「野洲(やす)郡北里村江頭(えがしら)」現在の滋賀県近江八幡市江頭町(ちょう)(グーグル・マップ・データ)。

「德(とく)附け得させん」「経済的に豊かにしてやろう」の意。

「大鮒を二枚づつ、二日目、三日目に持ち來たり、被害者、此れが爲に身上(しんしやう)良くなれり」たった二回の四尾の大きなフナで金持ちになったものとは思われないので、間を省略して述べたものであろう。

『山城宇治の「龜の茶屋」』不詳。この当時、宇治で知られた茶屋らしいが、引用元の「落穗餘談」が不詳(但し、「続国史大系」第九巻の引用書目中に書名は見出せ、国立国会図書館の書誌データにも三巻本とは出る)なので、その時期も特定出来ない。

「幸齋(こうさい)と云ふ百姓の家なり」百姓らしからぬ名であるから、庄屋・名主クラスか。

「怠狀(たいじやう)」古くは、平安後期から鎌倉時代にかけて罪人に提出させた謝罪状。「過状(かじょう)」とも言った。後に、自分の過失を詫びる旨を書いて人に渡す文書を指すようになった。「詫び状」。「謝り証文」。

「仇(あだ)」危害。

「鵜殿(うどの)」現在の大阪府高槻鵜殿(グーグル・マップ・データ)。ここの淀川右岸河川敷は「鵜殿の葭(よしはら)」(単子葉植物綱イネ目イネ科ダンチク亜科ヨシ属ヨシ Phragmites australis の群生地)で知られる。

「川除(かはよけ)」人工堤防。

「阿波那賀(なか)郡平島村大字赤池」現在の徳島県阿南市那賀川町西原地区の南部に相当する(グーグル・マップ・データ)。那賀川左岸。

「長岡郡五臺山(ごだいさん)」高知県高知市五台山にある標高百四十六メートルの山。高知市のここ(グーグル・マップ・データ)。

「下田」地名としては見出せないが、五台山の南麓を下田川が流れる。

「河童の祭」上記の下田川を溯った、高知市の隣りの南国市稲生(いなぶ)に、河泊(かはく)神社が現存する。サイト「Web高知」の「稲生のエンコウ祭河泊様の解説によれば、旧暦六月十二日に「エンコウ祭り」が今も行われている。位置はサイトの別ページで、ここ。判り難い方のために。正規のグーグル・マップ・データのこの中央辺りである。サイト「日本伝承大鑑」の「河泊神社」によれば、『この神社の来歴は未詳であるが、かつてこの地にあった円福寺の境内に漂須部(ひょうすべ)明神という社があり、それが改称されて存続したのではないかとも考えられる』(「ひょうすべ」『も河童の異称である)』。『毎年』七『月に河泊祭りがおこなわれており、地元の人も「河泊様(かあくさま)」と呼んで崇敬しているという。祭りでは、近くの小学生による奉納相撲がおこなわれ』る、とある。但し、ここで柳田が言っている「下田」村で行われていたという「河童の祭」と同一のものかどうかは定かではない。

「土佐の西部、幡多(はた)郡津大(つだい)村大字川」現在の高知県四万十市の北部山間で、西土佐橘に四万十川に架かる「津大橋」(グーグル・マップ・データ)を確認出来る。

「河童は性(しやう)として鹿角(しかづの)を畏るる」それが何故なのか? 一説に本邦では古来、神使として鹿が挙げられていたからだともっともらしく書いたものがある。しかしであれば、猪・狐・蛇と挙げたらキリがないが、河童がそれらを嫌うというのは聴かない。都合のいいところだけを採ったいい加減な説だと私は思う。

「吾川(あがは)郡御疊瀨(みませ)村」現在の高知県高知市御畳瀬(みませ)(グーグル・マップ・データ)。瀬戸大橋の内側、浦戸湾に面した海岸地区だが(別に河童は淡水産ばかりではなく、北九州では海棲例の伝承もある)、南端が東流してきた新川川の河口に当たるので、淡水好きならば、ここから上流に棲める。

「疱瘡」天然痘。私のの耳囊 卷之三 高利を借すもの殘忍なる事」の私の注を参照されたい。

「厭勝(まじなひ)」意味からの当て訓。「あつしよう(あっしょう)」とも読むが、この音も当て読みで、「厭」が「壓(圧)」に通じるところから出た読み方。「えんしよう(えんしょう)」種々の呪(まじな)いによって、対象からの邪気をを抑え鎮め、破ること。

『「サムソン」の髮毛』「サムソン」(ラテン語:Samson)は、「旧約聖書」の「士師(しし)記」十三章から十六章に登場する古代イスラエルの士師(王制以前の古代イスラエル民族の指導者や英雄の総称)の一人で、怪力の持ち主として有名。名前には「太陽の(人)」、「(神に)仕えるもの」という意味があるとされる。ペリシテ人を撃ったイスラエル民族の英雄。サムソンの個人的な英雄物語には、ただ単に、イスラエルとその敵のペリシテ人とのさし迫った闘争の予告が示されているだけではなく、初期のイスラエル人の諸慣習やペリシテ人の生活についてのさまざまな資料が含まれている。彼はペリシテ人の娘との計略的結婚を契機として、多くのペリシテ人を殺し、のち、おそらくペリシテの女であるデリラに欺かれ、奇跡的怪力の源であった髪を切られて囚われの身となったが、やがて、頭髪も伸び、力を回復した彼は、多くのペリシテ人を殺し、自らも死んだとされる。私は小学生の時に見たアメリカ映画「サムソンとデリラ」(Samson
and Delilah
:セシル・B・デミル(Cecil Blount DeMille)監督・一九四九年公開)の彼を演じたヴィクター・マチュア(Victor Mature 一九一三年~一九九九年)のエンディングのシーンが忘れ難い。

「肥前佐賀郡の三溝(みつみぞ)」古地図などから見て、佐賀市内のこの辺広域と思われる(グーグル・マップ・データ)。西に田布瀨川が流れており、拡大して見ると、水路も非常に多いことが判るので、河童が棲むにはもってこいの一帯である。

「薩州川邊(かはなべ)郡川邊村大字淸水(きよみづ)」現在の鹿児島県南九州市川辺町(かわなべちょう)水(きよみず)(グーグル・マップ・データ)。

「淸水川の櫻淵」同地区を東北から南西に貫流している現在の万之瀬(まのせ)川(昭和初期までは上流部は清水川と呼ばれていた)のどこかであることは確か。但し、上流に川辺ダムが出来ているので、流域には変化が起こっている可能性が大きい。この川の途中には「清魂水(せいこんすい)」(グーグル・マップ・データのここ)という名水もあり、河童には住み易そうだ。

「川邊(かはなべ)家」現在の南九州市附近を支配した薩摩平氏の一族。南西直近の川辺町平山には平安末頃に川辺道房が築いたとされる平山城址がある。鎌倉初期の「承久の乱」で川辺氏は没落したが、その後、室町時代に入って島津氏に討伐されるまでは、ここを本拠としたらしいから、この話柄は、史実に基づくなら、その閉区間の中世に設定は出来よう(ここは、なお氏のブログ「なぽのブログ」の「平山城/鹿児島県南九州市」を参考にさせて戴いた)。

「肥後の加藤」「淸正」加藤清正(永禄五(一五六二)年~慶長一六(一六一一)年)。史実に則るなら、清正の晩年の出来事なろう。

「瞰(にら)まれては」「俯瞰」の「瞰」で「高い位置から下を見おろす」の意。「にらむ」は柳田國男の当て読みである。]

2019/01/23

和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鵟(くそとび) (ノスリ或いはチョウゲンボウ)

 

Kusotobi

 

くそとび  馬糞鷹【俗稱】

      長元坊【同】

【音狂】

      【和名久曾止比】

グハ

 

△按鵟狀似鳶而羽毛疎飛翔不能鷙鳥但攫牛馬枯糞

 或魚物鳥雛食之漢語抄云鵟喜食鼠而大目者是也

 

 

くそとび  馬糞鷹(まぐそだか)【俗稱。】

      長元坊〔(ちやうげんぼう)〕【同。】

【音、「狂」。】

      【和名、「久曾止比」。】

グハ

 

△按ずるに、鵟の狀〔(かたち)〕、鳶に似て、羽毛、疎(あら)く、飛び翔る〔→ては〕鳥を鷙(と)ること、能はず。但〔(ただ)〕、牛馬の枯糞、或いは魚物〔(うをもの)〕・鳥の雛(ひな)を攫(つか)みて、之れを食ふ。「漢語抄」に云はく、『鵟、喜んで鼠を食ひ、而して大目〔(だいもく)〕なり[やぶちゃん注:眼が大きい。]』とは、是れなり。

[やぶちゃん注:種々の点で記載に問題があるものの、直前の「鷸子(つぶり・つぐり)(チョウヒ・ハイイイロチョウヒ)」の注で比較対象として出、現行も「鵟」の漢字を本邦で当てている(中国では「東方鵟」)、タカ目タカ科ノスリ属ノスリ Buteo japonicus に取り敢えず同定する。「糞鳶」という蔑称は恐らくは「鷹狩り」に使えない鷲鷹類であったためかと思われる(但し、後注で出すハヤブサ目ハヤブサ科ハヤブサ属チョウゲンボウ Falco tinnunculus も含んでいるか、或いはノスリでなく、チョウゲンボウである可能性も充分にあるので注意されたい)ウィキの「ノスリ」によれば、中央シベリア・南シベリア・モンゴル・中国・日本に棲息し、『夏季は亜寒帯や温帯域で繁殖し、冬季は熱帯や温帯への渡りを経て』、『越冬する』。『日本では亜種ノスリ』Buteo japonicus japonicus・『亜種ダイトウノスリ』Buteo japonicus oshiroi(大東諸島固有亜種。但し、絶滅したとされる)・『亜種オガサワラノスリ』Buteo japonicus toyoshimai(小笠原諸島固有亜種)『が生息する。亜種ノスリは、北海道、本州中部以北、四国の山地で繁殖し、繁殖地では留鳥である。この他南西諸島を除く全国に冬鳥として飛来する』。『亜種オガサワラノスリは小笠原諸島に留鳥として周年』、『生息する』。全長五十~六十センチメートルで、翼開長は一メートルから一メートル四十センチメートル。体重は五百~千三百グラム。例によって『オスよりもメスの方が大型になる。背面は褐色、腹面は淡褐色の羽毛に覆われる。喉の羽毛は黒い』。『虹彩は褐色』。『平地から山地の森林に生息する。群れは形成せず、単独もしくはペアで生活する』。『食性は動物食で、昆虫類、節足動物、陸棲の貝類、ミミズ、両生類、爬虫類、鳥類、小型哺乳類等を食べる』。『繁殖期には縄張りを形成する。樹上や断崖の上に木の枝を組み合わせた巣を作り、日本では』五『月に』二~四『個の卵を産む。主にメスが抱卵(雌雄とも抱卵することもある)し、抱卵期間は』三十三~三十五『日。雛は孵化後』五十~五十五『日で飛翔できるようになり、その』四十~五十五『日後に独立する。生後』二~三『年で性成熟する』とある。

 

「くそとび」「糞鳶」であるが、この異名自体が問題で、本邦ではこのノスリの他に、ヨタカ目ヨタカ科ヨーロッパヨタカ亜科ヨタカ属ヨタカ Caprimulgus indicus の別名としても広く昔から使われている。さらに面倒臭いことに「鵟」の漢字は「のすり」以外に「よたか」とも読ませるのである。しかし、記載とは食性が全く異なる(ヨタカは動物食であるが、特に昆虫を好み、彼らは口を大きく開けながら飛翔しつつ、そのまま獲物を捕食する飛翔型を得意とする)ので、これはヨタカではない

「長元坊〔(ちやうげんぼう)〕」この和名(漢字表記も同じ)では、ハヤブサ目ハヤブサ科ハヤブサ属チョウゲンボウ Falco tinnunculus がいる。ノスリとともに鷹狩りに使えない猛禽類として「糞鳶」の名を冠せらていたようであるウィキの「チョウゲンボウ」によれば(下線太字はやぶちゃん)、『語源は不明だが、吉田金彦は、蜻蛉(トンボ)の方言の一つである「ゲンザンボー」が由来ではないかと提唱している』。『チョウゲンボウが滑空している姿は、下から見るとトンボが飛んでいる姿を彷彿とさせることがあると言われ』、『それゆえ、「鳥ゲンザンボー」と呼ばれるようになり、いつしかそれが「チョウゲンボウ」という呼称になったと考えられている』。『ユーラシア大陸とアフリカ大陸に広く分布する。寒冷地で繁殖した個体は、冬季に南方へ渡り越冬する。北米には亜種のアメリカチョウゲンボウ American Kestrel 学名』Falco sparverius が広く分布する。小型である』。『日本では、夏季に本州の北部から中部で繁殖する。北海道や四国、九州でも夏季に観察されたことがあり、繁殖している可能性もある。冬季は繁殖地に残る個体と暖地に移動する個体に分かれる。また、日本全国各地に冬鳥として渡来する』。『ハトくらいの大きさで全長』三十~四十センチメートル、翼開長は六十五~八十センチメートルとなり、体重はで百五十グラム、で百九十グラム『程度である。雌の方が大型である。羽毛は赤褐色で黒斑がある。雄の頭と尾は青灰色。雌は褐色で翼の先が尖っている』。『「キィキィキィキィ」と聞こえる声で鳴く』。『農耕地、原野、川原、干拓地、丘陵地帯、山林など低地、低山帯から高山帯までの広い範囲に生息する。単独かつがいで生活する。立ち枯れ木の洞に巣をつくる』。『齧歯類や小型の鳥類、昆虫、ミミズ、カエルなどを捕食する。素早く羽ばたいて、体を斜めにしながらホバリングを行った後』、『急降下して地上で獲物を捕らえることが多いのが特徴。ハヤブサ類だが、飛翔速度は速くない』。しかし、『その視力は紫外線を識別することが可能で、この能力は主食である齧歯類の尿が反射する紫外線を捕捉し、捕食を容易にさせていると推測されている。ハヤブサと異なり、捕らえた獲物は周囲が安全ならばその場で食べる』。『日本では』四~五『月に断崖の横穴や岩棚、樹洞などに小枝を作って営巣するか直接卵を産む。カラス類の古巣を流用することもある。産卵数は』一『腹』四~六『個である。抱卵日数は』二十七~二十九『日で、主に雌が抱卵する。雛は』二十七~三十二『日で巣立つが、親から独立するにはさらに』一『ヶ月以上かかる』。一『年で成熟する』。『近年、市街地でもよく見かけるようになった。これは、獲物となる小鳥類が豊富なこと、天敵が少ないこと、ビルなどの構築物がねぐらや繁殖場である断崖の代わりになっていることなどが理由とされている』とあり、食性の点でノスリとタメ張りの最大有力候補の一鳥である。特に主摂餌対象として鼠を始めとする齧歯類(哺乳綱真主齧上目グリレス大目 Glires 齧歯(ネズミ)目 Rodentia)となると、実はこっちの方が分(ぶ)がいい。特に「漢語抄」「(東洋文庫版の「書名注」に『『楊氏漢語抄』十巻。楊梅(やまもも)大納言顕直撰。源順の『和名抄』の中に多く引用されている書であるが、いまは佚して伝わらない。漢語を和訳したもの。『桑家(そうか)漢語抄』とは別本』とある)の『鵟、喜んで鼠を食ひ』というのはノスリよりチョウゲンボウである。なお、『大目〔(だいもく)〕なり』で張り合うと、ノスリの方が図体がデカい分、チョウゲンボウは分が悪いかとは思う。]

「羽毛、疎(あら)く」ばさばさしていて、如何にもみすぼらしいのは、圧倒的にノスリであると私は思う。チョウゲンボウは、汚れていなければ、翼の赤褐色に黒斑するそれは私は美しいと言ってもよいと思っている。

「飛び翔る〔ては〕鳥を鷙(と)ること、能はず」「る」の送り仮名では続きが悪い。「飛び翔(かけ)ては、鳥を鷙(と)ること、能(あた)はず」で、飛びながら同時に捕食のために他の小鳥を捕獲することは出来ない、の意。ノスリもチョウゲンボウも地上表面の獲物を狙うが、飛びながらの狩りが出来ないなどとは孰れも書いてない。また、孰れも小鳥が摂餌対象の中に入っている。

「魚物〔(うをもの)〕」広義の水産動物類を指していよう。]

和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鷸子(つぶり・つぐり) (チョウヒ・ハイイイロチョウヒ)

 

Tuburi

 

つぶり

つぐり

鷸子

    【和名都布利

     俗云都具利】

 

△按鷸子鷂之屬也形色似鳶而小有白彪

白鷸子 狀稍小而頭背灰色有白彪腹白翮本白末黒

 尾灰色有白黑斑彪共造箭羽

於乃宇倍【正字未勘】 鷸子之屬狀似鳶而翮有白彪尾淡赤

 有黑彪

 

 

つぶり

つぐり

鷸子

    【和名、「都布利」。

     俗に云ふ、「都具利」。】

 

△按ずるに、鷸子〔(つぶり)〕は鷂(はいたか)の屬なり。形・色、鳶に似て、小さく、白彪(しらふ)有り。

白鷸子〔(しろつぶり)〕 狀〔(かた)〕ち、稍〔(やや)〕小にして、頭・背、灰色、白彪有り。腹、白く、翮〔(はねくき)〕の本〔(もと)は〕白、末〔(さき)は〕黒。尾〔は〕灰色〔にして〕白黑斑〔(しろくろまだら)〕の彪〔(ふ)〕有り。共に箭羽〔(やばね)〕に造る。

於乃宇倍〔(おのうへ)〕【正字、未だ勘〔(かんが)へず〕。】 鷸子の屬。狀、鳶に似て、翮〔(はねくき)〕に白き彪〔(ふ)〕有り。尾、淡赤〔にして〕、黑き彪、有り。

[やぶちゃん注:幾つかの事項を綜合すると、これは、主文部分はタカ目タカ科チュウヒ属チュウヒ Circus spilonotus ではないかと推定する。属名「キルクス」はラテン語由来のギリシャ語でタカの一種を指すが、これは「circus」(「輪」)の意で、円を描いて飛ぶことに由来している。ウィキの「チュウヒ」によれば、漢字表記は「沢鵟」、和名は『「宙飛」が由来とされているが、実際は低空飛行を得意とし、一方』、『「野擦」が由来とされているノスリ』((タカ科ノスリ属ノスリ Buteo japonicus)『)『はチュウヒよりも高空を飛翔することが多いため、この両者は名前が入れ替わって記録されているという説がある』。『主な繁殖地は北アメリカ大陸北部やユーラシア大陸北部。冬になると』、『越冬のために南下する』。『日本には越冬のために飛来する冬鳥。かつては北海道や本州北部で繁殖していたが、現在では中部地方・近畿地方・中国地方でも繁殖が確認されている』。オスは全長四十八センチメートル、メスは五十八センチメートルで、他の鷲鷹類と同様に『メスの方が大型になる』(タカ科トビ亜科トビ属トビ亜種トビ Milvus migrans lineatus の全長は六十~六十五センチメートルで明らかにトビよりもチュウヒは遙かに小さい)。『体色は地域や個体による変異が大きい』(太字下線やぶちゃん。以下同じ)。『オスは頭部、背面、雨覆、初列風切羽の先端は黒い。腹部の羽毛は白い。尾羽の背面(上尾筒)には白い斑紋がある。メスや幼鳥は全身が褐色の羽毛に覆われる。腹面は淡褐色で褐色の斑紋が入る』。『草原や湿地、ヨシ原等に生息する』。『食性は肉食性で、魚類、両生類、爬虫類、鳥類やその卵、小型哺乳類等を捕食する。地上付近を低空飛行し、獲物を探す』。『ヨシ原等の地上に枯れ草を積み重ねた巣を作り』五~六月に四~六『個の卵を産む。抱卵日数は約』三十五『日で、主にメスが抱卵する。雛は孵化後、約』三十七『日で巣立つ』。『なお、冒頭でチュウヒとノスリの名が入れ替わっている可能性の説がある旨』を述べたが、『一方で』、『以下の理由から』、『それぞれ生態通りの名の可能性も高い。まず』、『チュウヒは、狩りの際にはV字翼で低空を低速で飛行する事が多いが、繁殖期のペアリングの際に中空を舞うように飛行する(宙飛)事が知られている。 一方でノスリは、通常の際にはチュウヒより高空を飛ぶが、狩りの際には野を擦る様に地表すれすれを匍匐飛行して攻撃する(野擦)事が知られている』。『チュウヒは、垂直離着陸可能な唯一の猛禽であるともされている。イギリスのBAE(旧ホーカーシドレー)製の、ハリアーVTOL(垂直離着陸)戦闘爆撃機の名前は、このチュウヒの能力から名づけられたと思われる』とある。チュウヒは高くなく、低空でもない高度を飛ぶ「中飛」かも知れない。

 

「鷂(はいたか)」タカ目タカ科ハイタカ属ハイタカ Accipiter nisus既に独立項で出た。しかし、面倒なことに(同種は古くは「はしたか」と呼んだ)、ハイタカには「つぶり」の異名があった。これは小学館の「日本国語大辞典」で確認した(なお、「つぶり」は御察しの通り、全くの別種であるカイツブリ目カイツブリ科カイツブリ属カイツブリ亜種カイツブリ Tachybaptus ruficollis poggei の別称ともする)。

「白鷸子〔(しろつぶり)〕」これはタカ目タカ科チュウヒ属ハイイロチュウヒ亜種ハイイロチュウヒ Circus cyaneus cyaneusである(種小名「キュアネウス」は「青色の」の意)。サイト「馬見丘陵公園の野鳥」の「ハイイロチュウヒ」を見ると、体長は♂で四十三センチメートル、♀で五十三センチメートルで、『ヨーロッパ・アジア北部・北アメリカ北部で繁殖し、冬季は南方へ渡る』。『日本では、亜種ハイイロチュウヒ』『が冬鳥として全国に渡来するが』、『局地的で、個体数はチュウヒより少ない。特に雄の成鳥は少ない。平地から山地の草原、農耕地、芦原、干拓地に生息し、翼をV字型に保って、羽ばたきと滑翔(グライディング)を繰り返し、草や葦の上を低く飛ぶことが多い。停空飛翔(ホバリング)もよく行う。主に齧歯類などを捕食するが、小鳥類も捕食する。時に上昇気流にのって高く飛ぶことがあり、そのときは尾を広げている』。『亜種ハイイロチュウヒの他、亜種キタアメリカハイイロチュウヒ』Circus cyaneus hudsonius『の記録がある』とされ、声は『「ピイヨピイヨ」「ケッケッ」などと鳴く』とある。そして、異名として「コシジロタカ」「ヲノウヘ」「オジロ」を掲げられた最後に「シロツブリ」とあるのである。『ハシボソガラス』(スズメ目カラス科カラス属ハシボソガラス Corvus corone)『と同大かやや小さい』。♂の成鳥は『頭部からの上面と顔から胸までが灰色で、体下面は白い。翼下面は外側初列風切が黒く、翼後縁は帯状に灰黒色。それ以外は白いため、飛翔時はコントラストがあり』、『特徴的』で、♀の成鳥は『全体に暗灰褐色で、頭頸部、腹に褐色の縦斑がある。眉斑と頬は白く、顔盤にそって白線がある。風切と尾は灰褐色で、明瞭な暗褐色の横帯が』三~五『本ある。体下面はバフ色で、暗褐色の縦斑がある』。『♀♂とも』に『上尾筒が白色で虹彩が黄色』。幼鳥は♀の『成鳥に酷似するが、上面がより暗色で体下面や下雨覆などは橙色味を帯びる。翼下面の横帯は不明瞭で、虹彩が暗褐色』とある。この記載から見るに、良安が記載しているのはハイイロチョウヒの♂の成鳥ではないかと私は思う。なお、同サイト主もここで「チュウヒ」を「中飛」としておられる。

「於乃宇倍〔(おのうへ)〕」前注参照。ハイイロチュウヒの異名である。ここは大きさと色からみて、ハイイロチュウヒの♀の成鳥ではなかろうか。

「正字、未だ勘〔(かんが)へず」ハイイロチュウヒは上尾筒が白色であることから、この和名はその色を指した「尾上」ではなかろうか(但し、その場合は「をのうへ」になるから、漢字は「於」では誤りとなるから違うか)。]

和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鳶(とび) (トビ)

 

Tobi

 

とび     鴟【音笞】

【音員】

      【俗云止比】

       阿黎耶【梵書】

ユヱ

 

本綱鴟似鷹而稍小也其尾如舵極善高翔專捉雞雀其

攫物如射

三才圖會云鳶鳴則將風朝鳴卽大雨暮鳴卽小雨

酉陽續集云相傳鴟不飮泉及井水惟遇雨濡翮得水

△按鴟狀似鷹而赤黃色羽毛婆娑而尾如披扇其尾羽

 亦造箭羽名之礒鷲羽最下品也脚灰青色爪黑風吹

 則高飛舞毎捉鳥雛猫兒等或攫人所提擕魚物豆腐

 等總鳶鴉有害無益而多有之鳥爲人所憎也然俗傳

 曰愛宕之鳶熊野之烏以爲神使未知其據也鳴聲如

 曰比伊與呂與呂朝鳴卽雨暮鳴即晴【三才圖會之異】

                  仲正

  夫木鳶のゐる井杭の柳なはへしてめくみにけりな春を忘れす

 或書云天人熊命化成三軍幡而後神武天皇與長髓

 彦戰不勝于時金色鳶飛來止皇弓弭狀如流電光由

 敵軍皆迷眩天皇悅問何神也奏曰奉勅 天照大神

 化鳶來吾住此國護軍戰業又問曰欲住何處卽奏曰

 山背國怨兒山可住仍住其山領天狗神【雖小説附會記之】

 

 

とび     鴟〔(し)〕【音、「笞〔(シ)〕」。】

【音、「員」。】

      【俗に云ふ、「止比」。】

       阿黎耶〔(あれいや)〕【梵書。】

ユヱン

 

「本綱」、鴟は鷹に似て、稍〔(やや)〕小なり。其の尾、舵(かぢ)のごとし。極めて善く高く翔〔(か)〕ける。專ら雞〔(にはとり)〕・雀を捉ふる。其の物を攫(つか)むこと、射(ゆみゐる[やぶちゃん注:ママ。])がごとし。

「三才圖會」に云はく、『鳶、鳴くときは、則ち、將に風(かぜふ)かんとす。朝、鳴くは、卽ち、大雨、ふる。暮れに鳴くときは、卽、小雨、ふる』〔と〕。

「酉陽續集」に云はく、『相ひ傳ふ、鴟、泉及び井の水を飮まず、惟だ雨に遇ひて、翮〔(つばさ)〕を濡らし、水〔を〕飮〔むこと〕を得』〔と〕。

△按ずるに、鴟、狀〔(かたち)〕、鷹に似て赤黃色、羽毛、婆娑(ばしや)として、尾、扇を披〔(ひら)〕くがごとし。其の尾羽〔も〕亦、箭羽〔(やばね)〕に造り、之れを「礒鷲羽(いそわしの(は)」と名づく。〔しかれども〕最も下品なり。脚、灰青色、爪、黑し。風、吹けば、則ち、高く飛び舞ふ。毎〔(つね)〕に鳥の雛(ひな)・猫の兒〔(こ)〕等〔(など)〕を捉(と)る。或いは、人、提(ひつさ)げ擕(たづさ)へる所の魚物〔(うをもの)〕・豆腐等〔(など)〕を攫(つか)む。總(すべ)て鳶・鴉は、害、有りて、益、無し。而(しか)も、多く、之の鳥、有り。人の爲めに、憎(にく)まる[やぶちゃん注:ママ。]所(〔とこ〕ろ)なり。然るに、俗傳に曰はく、「愛宕(あたご)の鳶」・「熊野の烏」、以つて神使と爲す。未だ、其の據〔(よるところ)〕を知らざるなり。鳴く聲、「比伊與呂與呂(ひいよろよろ)」と曰ふがごとし。朝、鳴けば、卽ち、雨、ふり、暮、鳴けば、即ち、晴る【「三才圖會」のと少し異〔なれり〕。】。

                  仲正

 「夫木」鳶のゐる井杭(ゐぐひ)の柳なばへして

        めぐみにけりな春を忘れず

 或る書に云はく、『天人熊命(〔あま〕の〔ひとくま〕のみこと)、化〔(け)〕して、「三軍(〔みむろ)〕の幡〔(はた)〕」と成る。而して後〔(のち)〕、神武天皇、長髓彦(〔なが〕すね〔ひこ〕)と戰ひて、勝たず。時に、金色の鳶、飛び來たりて、皇〔(わう)〕の弓弭(つのゆみ)[やぶちゃん注:通常は「弭」一字で「ゆはず」と読む。弓の両端の弦をかけるところ。ここは無論、その上に上げた部分。]に止まり、狀〔(かたち)〕、流〔るる〕電光〔(いなびかり)〕のごとし。由〔(より)〕て、敵軍、皆、迷-眩〔(めくら)み〕、天皇、悅びて問〔(のたま)〕はく、「何れの神や」〔と〕。奏して曰はく、「天照大神〔より〕勅を奉り、鳶に化して來たる。吾、此の國に住みて、軍戰の業(わざ)を護〔(まも)〕らん」〔と〕。又、問〔(のたま)ひ〕て曰はく、「何くの處に住まんと欲す」〔と〕。卽ち、奏して曰はく、「山背國〔(やましろのくに)〕怨兒(あたごの)山に住むべし」と。仍りて、其の山に住む。天狗神〔(てんぐがみ)〕を領〔(りやう)〕せしむ』〔と〕【小説と雖も、附會〔なれども〕、之〔(ここ)〕に記す。】。

[やぶちゃん注:声も姿も小さな時から私のお気に入りの「トンビ」、タカ目タカ科トビ亜科トビ属トビ亜種トビ Milvus migrans lineatus。属名の「ミルウス」は「猛禽」の意のラテン語で、和名は、一説では「遠く高く飛ぶ」の意の古語「遠(とほ)く沖(ひひ)る」(とおくひいる:「沖」(「冲」とも書く)は「広々とした海や田畑・野原の遠い所」の転訛とも言う。)ウィキの「トビ」より引く。『ほとんど羽ばたかずに尾羽で巧みに舵をとり、上昇気流に乗って輪を描きながら上空へ舞い上がる様や、「ピーヒョロロロロ」』(リンク先に音声データがあるが、雑音が多い)『という鳴き声はよく知られており、日本ではもっとも身近な猛禽類である』(本邦では全国に分布する)。『タカ科の中では比較的大型であり、全長は』六十~六十五センチメートル『ほどで、カラスより一回り大きい。翼開長は』一メートル五十から一メートル六十センチメートル『ほどになる。体色は褐色と白のまだら模様で、眼の周囲が黒褐色になっている。地上や樹上にいるときは尾羽の中央部が三角形に切れ込んでいるが、飛んでいるときは尾羽の先端が真っ直ぐに揃う個体もいる。また、飛んでいる時は翼下面の先端近くに白い模様が見える』。『主に上昇気流を利用して輪を描くように滑空し、羽ばたくことは少ない。視力が非常に優れていると言われ、上空を飛翔しながら餌を探し、餌を見つけると』、『その場所に急降下して捕らえる』。『飛翔中、カラスと争う光景をよく見かけるが、これは、トビとカラスは食物が似ており』、『競合関係にあるためと考えられている。特にカラスは近くにトビがいるだけで集団でちょっかいを出したり、追い出したりすることもある』。『郊外に生息する個体の餌は主に動物の死骸やカエル、トカゲ、ネズミ、ヘビ、魚などの小動物を捕食する。都市部では生ゴミなども食べ、公園などで弁当の中身をさらうこともある』。『餌を確保しやすい場所や上昇気流の発生しやすい場所では』、『多くの個体が飛ぶ姿が見られることがあるが、編隊飛行を行うことは少ない。ねぐらなどでは集団で群れを作って寝ることもある。海沿いに生息するものは、カモメの群れに混じって餌を取り合うこともある』。『通常、樹上に営巣するが、まれに断崖の地上に営巣することもある』。『ユーラシア大陸からアフリカ大陸、オーストラリアにかけて広く分布しているが、寒冷地のものは冬には暖地に移動する。生息地は高山から都市部までほとんど場所を選ばず、漁港の周辺などは特に生息数が多い。アフリカ大陸に生息するものは、ニシトビとして別種とする見解もある』全六亜種で、本邦に棲息するそれは、『留鳥で』『中央アジア』『亜種』『で、冬季は南へ渡りを行う』。『警戒心が強いので、人間には近寄らないことが多いのがトビの本来の生態である。しかし、古来から「鳶に油揚げをさらわれる」のことわざがある通り、人間に慣れた場合、隙を狙って人間が手に持っている食べ物などまで飛びかかって奪うことがあり、最近このような事例が増えて問題となっている』。我が家からも近い江ノ島周辺や由比ガ浜などでよく観光客がやられている。『トビは日本においてはごく身近な猛禽であり、大柄で目立つ上、その鳴き声がよく響くことから親しまれている』。『他方、他のタカ類に比べ、残飯や死骸をあさるなど狩猟に頼らない面があることから、勇猛な鳥との印象が少なく、いわばタカ類の中では一段低い印象もある。ことわざの「鳶が鷹を産む」はこのような印象に基づき、平凡な親から優れた子が生まれることをこう言う』。『トビに関する日本の伝説としては、『日本書紀』の金鵄がある。金色のトビが神武天皇の前に降り立ち、その身から発する光で長髄彦率いる敵軍の目を眩ませ、神武天皇の軍勢に勝利をもたらしたという伝説である』(本文にある話)。以下、「トビに関係する語」の項。

   《引用開始》

・鳶色(トビの羽の色に似た暗い茶褐色)

・鳶職(建設業において、高所での作業を専門とする職人)

・鳶口(トビのくちばしの様な形状の鉤を棒の先に取り付けた器具)

・鳶が鷹を産む(平凡な親が優れた子が生む事を指すことわざ)

・鳶に油揚げをさらわれる(大切なものや、本来自分のものになる筈のものを突然横取りされ、呆気にとられる様子を指すことわざ)

・鳶も居ずまいから鷹に見える(立ち居振舞いが上品であれば、どんな人間でも立派に見・えるという意味のことわざ)

・とんび(和装用の外套の一種。インバネスコートのケープ部分の形状からこのように呼ばれた)

   《引用終了》

なお、トビ亜科 Milvinaeには世界的に見ると、トビ属 Milvus の他に、ハバシトビ属 Harpagus(系統的には別系統で、より基底群に近い種とされる)にハバシトビHarpagus bidentatus・モモアカトビHarpagus diodon・アカトビMilvus milvus、ハリアストゥル属 Haliastur にフエナキトビHaliastur sphenurus・シロガシラトビHaliastur indus 等がおり、また、別種ながら、ノスリ亜科 Buteoninae Rostrhamus 属のタニシトビ Rostrhamus sociabilis Helicolestes 属にハシボソトビ Helicolestes hamatus、ムシクイトビ属 Ictinia のミシシッピートビ Ictinia mississippiensis・ムシクイトビIctinia plumbea 等の和名に「トビ」がつく

 

「阿黎耶〔(あれいや)〕」東洋文庫訳は『ありや』と振るが、「黎」は呉音が「ライ」、漢音が「レイ」で、中国語原音に近い「リ」の音もあるにはあるが、本邦の古来の読みは圧倒的に「レイ」であり、二〇一二年科学書院刊の堀田正敦「近世植物・動物・鉱物図譜集成」の「観文禽譜 索引篇・解篇」でも、「アレイヤ」と読んでいるので、そちらを採用した。

「梵書」この場合は、広義の漢訳したインドの仏典の意。

「射(ゆみゐる)」弓矢を射る。

『「三才圖會」に云はく……」「鳥獸二巻」の「鳶」。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のこちら(左ページ)。

「酉陽續集」中唐の詩人段成式(八〇三年?~八六三年?)の膨大な随筆「酉陽雑俎(ゆうようざっそ)」(正篇二十巻・続集十巻。八六〇年頃の成立)の「続集」の「巻八 支動 動植物纂拾遺」にある以下。

   *

世俗相賣、落鴟不飮泉及幷水惟遇南濡翮方得水飮。

   *

「翮〔(つばさ)〕」私の推定訓。を濡らし、水〔を〕飮〔むこと〕を得』〔と〕。

「婆娑(ばしや)」良安のルビ。通常は「ばさ」で一種のオノマトペイアであろう。原義は「舞う人の衣の袖が翻るさま」で、そこから「物の影などが揺れ動くさま」が生まれたが、ここは原義で比喩したと読む。だからこそ「尾、扇を披〔(ひら)〕くがごとし」が生きるからである。

「礒鷲羽(いそわしの(は)」「礒」は「磯」に同じで、餌を確保し易い海岸でよく見かけるから「磯鷲」で、トビの異名である。「やまぐち弓具」のサイト内の「羽根の柄一覧」の一番下を見られたい。このページ、スゴ! 但し、希少になったワシタカ類の実際の羽ではなく、冒頭にもある通り、これらは七面鳥(キジ目キジ科シチメンチョウ亜科シチメンチョウ属シチメンチョウ Meleagris gallopavo)の羽を黒色・茶色に染色して、古式のそれらの鷲・鷹類の羽根に似せて作ったものである(弓道家の中には実際のものを使っていて、飛びが違うなどと自慢しているのを読んだが、何だかな、と思った。弓術の基本精神からしたら、私は数少ないワシタカ類の羽根を使うなんて風上にも置けぬという気がしたのである)。そういった輩の会話を覗くと、デザインとしては磯鷲の方が良いとかのたもうていた。良安先生は、最下級の矢羽と言ってますがね?

「魚物〔(うをもの)〕」広義の水産動物類を指していよう。

「豆腐」硬めに制した豆腐は縄で縛ってぶら下げて運ぶ。私は実際に、岐阜の山の中の妻の父の実家で、そうした強烈に硬くしかも美味い豆腐を食ったことがある。まあ、油揚げの方がトビにとってはよかろうが。

「愛宕(あたご)の鳶」愛宕神社は全国に約九百社ほどあるが、その総本社は京都府京都市右京区嵯峨愛宕町にある愛宕神社(旧称は阿多古神社)。サイト「神使の館」の鳶~トビ() 愛宕社(大豊神社内)と鳶によれば(大豊神社は京都市左京区鹿ヶ谷宮ノ前にある)、総社である愛宕神社は『迦遇土槌命(カグツチノミコト)を主祭神として、広く全国に火伏せ(防火)の神として知られている』。この『大豊神社の末社「愛宕社」には「鳶」の像がある』が、『元来、愛宕神社(本社)の神使は、神社の創建者である和気清麻呂が猪に助けられたとの故事などに因んで、「猪」とされている』。『しかし、この大豊神社では、先代の宮司が境内の末社「愛宕社」に、愛宕山の天狗がかぶる鳶帽子から、鳶を神使として像を建てたとされる』(写真有り。但し、そのキャプションによれば、昭和四七(一九七二)年と恐ろしく新しい)『すなわち、鳶像は、新しい由縁が創られて、それに基づいて建てられた』。『それなら、『愛宕社が防火鎮火にご利益のある社であることに因んで、「火消し衆」のことを「とび」ともいうので、防火を祈って鳶像が奉納された』としても勘弁してもらえるかもしれない』とある。同サイトの「鳶~トビ(2) 神武天皇の金鵄(キンシ~金色の鳶)」には、『神武天皇が東征の折、弓の先に金色の鳶(金鵄)が飛来して勝利をもたらした』とし、福岡県福岡市博多区月隈にある八幡神社の『境内に、「神武天皇」と彫られた石柱上に鳥がとまっている碑があ』り、『この鳥は、日本書紀に載る「金鵄(キンシ)」と呼ばれる「金色の鳶(トビ)」』とあって、『神武天皇(カムヤマトイワレビコノミコト)が日向(宮崎県)から東征の途次、長髄彦(ナガスネヒコ)との戦いで苦戦していると、金鵄が天皇の弓の上端に飛来し、金色のまばゆい光を発して敵兵の目をくらまして勝利をもたらしたという』。『神武天皇は、その後、大和を平定して橿原(かしはら)で初代天皇として即位されたとされる』。『現在は廃止されているが』、明治二三(一八九〇)年に(引用元は一年誤っている)『制定された軍人の最高位の勲章、「金鵄勲章」(キンシクンショウ)はこの伝承に由来する』とし、『この碑は、皇紀』二千六百『年を記念して昭和』一五(一九四〇)『年に建てられたものと思われる』とはある。しかし中村和夫氏のサイト「鳥のことわざ」の「鳶(トビ)」によれば、「愛宕殿鳶となるれば鳶の心あり」「太郎坊も鳶となりては鳶だけの知惠」という二つの諺が紹介されており、『京都市上嵯峨北部の愛宕山の山頂には愛宕神社があり、雷神を祭られ、防火の神として信仰されている。ここには愛宕太郎坊と云う大天狗に率いられた天狗たちが住んでいるとされた』が、『「愛宕殿」とはこの天狗を指して、これがトビになってしまえば、それなりの心』しか持たない、『つまらぬものなってしまうという意で、いずれもトビを軽蔑している』ともあるのだ。愛宕と鳶の関係は良安の言う(前半は「日本書紀」の記載に基づく)の俗伝に基づくとは考えられるが、「金鵄」がトビに同定比定されて種としてのトビが「愛宕の神の使い」とされるようになったのが、いつの時代からなのかが、よく判らぬ(「とび」という呼称自体(但し、本当に本種に限定していたかどうかは私は怪しいとは思う)は奈良時代に既にある)。江戸時代よりも前の、どこまで溯れるのか、御存じの方は御教授願いたい。

「熊野の烏」日本神話に於いて、神武東征の際に高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)によって神武天皇のもとに遣わされ、熊野国から大和国橿原への道案内をしたとされる「八咫烏(やたがらす)」がそれで、「導きの神」として信仰され、また、中国神話の影響か、「太陽の化身」ともされるのがルーツ。一般的に「三本足のカラス」として知られ、古くよりその姿絵が伝わる。後は「林禽類 慈烏(からす)(ハシボソガラス)」の「烏は熊野の神使なり」の私の注(但し、ウィキの「八咫烏」の引用)を参照されたい。

「未だ、其の據〔(よるところ)〕を知らざるなり」良安先生、どうもこの手の伝承には触手が動かぬらしい(というか、良安は自身、現実のトビやカラスを、とんでもない害鳥として捉えており、好きでもなかったのであろう。『「神使」などとんでもない!』といった感情的な口吻が珍しく伝わってくる文章となっているのがその証左である)。後の俗伝でさえ、最後の割注で「小説と雖も、附會〔なれども〕之〔(ここ)〕に記す」(下らぬ信ずるに値しない世間話の牽強付会であるけれども、話し序でに書き添えておく)と言っているぐらいだから。

「朝、鳴けば、卽ち、雨、ふり、暮、鳴けば、即ち、晴る【「三才圖會」のと少し異〔なれり〕。】」先に示した、中村和夫氏のサイト「鳥のことわざ」の「鳶(トビ)」によれば、「鳶が空に輪を描けば晴天の兆し」は『各地で広くいわれる民間気象予知の俗説』とされ、「鳶の朝鳴きは雨」、「朝鳶に蓑を着よ、夕鳶に笠をぬげ」は『朝、鳶が鳴くのは雨になるしるし、夕方鳶が鳴くのは晴れになるしるしだということ』で(これが良安のそれ)、「昼鳶は日笠着る、朝鳶は蓑を着る」は『昼間にトビが鳴くのは晴れるしるし、朝鳴くのは雨になるしるし』とある。因みに、このページの冒頭で中村氏は『西洋や中国では古くから意地汚い鳥・物忘れの象徴と悪いイメージで考えられて』おり、『日本でも、ことわざなどに登場する鳶は良いイメージのものは上記以外ほとんどない』とされ、末尾では、『中国の粛宗の皇后は』、『帝にこっそりトビの脳を混ぜた酒を飲ませていたという。この酒を飲むと、長く酔いが覚めず物忘れがひどくなると信じられたようである。この結果、皇后は好きなように帝を操っていたという』。『このことから、鳶は中国では「物忘れの象徴」とされたようだ』とされた後、まさに本書をヤリ玉に挙げられて、『江戸時代の図解入りの百科事典「和漢三才図会」の中でトビについて、こう書かれている。「鳶の尾羽で矢羽を造りこれを磯鷲羽(いそわしは)というが、もっとも下級品である。風が吹けば高く飛び舞い、つねに鳥の雛、猫の児などを捉え、あるいは人が手に持っている魚物や豆腐などを掴む。すべて鳶、鴉は害あって益なく、しかも多くいる鳥で、人に憎まれるものである」と』。『こんなに悪く書かれると、何かかわいそうになる』(私も個人的にはそう思った)。『スカベンチャー(掃除屋)』(scavenger:生物学用語の「腐肉食性動物」のこと)『は嫌われるかも知れぬが、リサイクルシステムの担い手として環境の浄化復元に果たす役割をクールに評価してやりたいものだ』。『なによりも、のどかな、いかにものんびりと独特な鳴き声で、空を舞いやさしい顔つきをした鳶は、きぜわしい今の世の癒しのような気がして、私は好きだ』と擱筆しておられる。私も同感!

「仲正」「夫木」「鳶のゐる井杭(ゐぐひ)の柳なばへしてめぐみにけりな春を忘れず」「仲正」は源仲正(生没年不詳)平安末期の武士で歌人。清和源氏。三河守源頼綱と中納言君(小一条院敦明親王の娘)の子。六位の蔵人より下総、下野の国司を経て、兵庫頭に至った。父より歌才を受け継ぎ、「金葉和歌集」以下の勅撰集に十五首が入集している。しかしこの一首、「日文研」の「和歌データベース」で見ると、「夫木和歌抄」の「巻三 春三」に載るものの、

 そひのゐるゐくひのやなきなはへしてめくみにけりなはるをわすれす

となっている。「そひ」は「とび」ではない。これは「鴗」で「そにどり」、ここでは「そび」と読んで、「翡翠(かわせみ)」(ブッポウソウ目カワセミ科カワセミ亜科カワセミ属カワセミ Alcedo atthis)の別名である。だいたいからして、井戸の目印或いは井桁の柱である杭にとまっている鳥と柳の様子が春らしいという主題からして、トビでは相応しいとは思えぬ(飛んで鳴いているならまだしも)。これは「鳶」ではなく「鴗(そび)」でカワセミの誤りである。ただ、「なはへして」の意味が判らぬ。「名映え」ならば「なはえ」でなくてはいけない。識者の御教授を乞う。

「或る書に云はく」出典不詳。識者の御教授を乞う。なお、ここから全文が後の(四十六年後)大朏東華(おおでとうか:人物不詳)の「斉諧俗談(せいかいぞくだん)」(宝暦八(一七五八)年刊)の「巻之一」の終りの方にある、「愛宕山鳶(あたごやまのとび)」にほぼ丸ごと引用されている。以下に引く(吉川弘文館随筆大成版を参考に、恣意的に漢字を正字化して示す。〔 〕は私が読みを補った部分)。

   *

   ○愛宕山鳶(あたごやまのとび)

或書に云。天人熊命(あまのひとくまのみこと)、化(け)して、三軍の幡と成る。その後神武天皇、長髓彦と戰ひて、勝〔(かち)〕たまはず。時に金色の鳶飛來〔(きたり)〕て、天皇の弭〔(ゆはず)〕に止〔(とま)〕る。其かたち流電の如し。因〔(より)〕て敵軍みな迷眩〔(めくらみ)〕す。天皇よろこびたまひて曰〔(のたまはく)〕、いづれの神ぞ。奏して云〔(いはく)〕、「天照大神の勅を奉り、鳶に化〔(け)〕して來〔(きた)〕る。吾此國に住〔(すみ)〕て、軍戰を守らんと、また問〔(とひ)〕たまふは、何くの所に住むと思ふ。奏して云、「山背國怨兒(やましろのくにあたご)の山に住むべし」と。因て、其山に住せしめ、天狗神〔(てんぐがみ)〕を領〔(りやう)〕せしむと。

   *

「天人熊命(〔あめ〕の〔ひとくま〕のみこと)」「日本書紀」の「巻第一 神代上」に出る天熊人命(あめのくまひとのみこと)。天照大神の命を受けて、葦原中国の保食神(うけもちいのかみ:女神)の死を確認した人物(この前段で、彼女は月読命(つくよみのみこと)に保食神の支配の様子を見てくるよう命じ、月読が保食神の所へ行くと、彼女は陸を向いて口から米飯を吐き、海を向いて口から魚を吐き、山を向いて口から獣を吐いて、それらを料理して彼を饗応したのだが、月読命はその生み出す様子を見てしまい、「吐き出したものを食べさせるとは汚らわしい」と怒って保食神を斬ってしまう。それを聞いた天照大神は怒り、「もう月夜見尊とは会わぬ」と言ったため、太陽と月が昼と夜とに別れて出るようになったとする(所謂、星系運行神話の元))。彼女の遺体の頭頂部から牛馬が生まれ、額の上から粟が、眉の上から繭が、目の中から稗が、腹の中から稲が、陰部からは麦・大豆・小豆が生まれており、彼はこれら総て取って、持ち帰って進上し、天照大神は大いに喜んだとする。所謂、食物起源神話である。

「三軍(〔みむろ)〕の幡〔(はた)〕」「三軍」(さんぐん)は古兵法の先陣・中堅・後拒、または左翼・中軍・右翼を指すが、ここは転じて「全体の軍隊・全軍」の意で、「幡」は上り旗で軍隊のシンボル。しかし、天熊人命がそれに変じたとは「日本書紀」には、ない。

「神武天皇」第一代に数えられる天皇。名は「神日本磐余彦(かんやまといわれひこのみこと)」で「神武」は諡号。「記紀」によれば「瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)」の曾孫、鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)の子で母は妃玉依姫(たまよりひめ)。日向を出発して瀬戸内海を東進し、難波に上陸したが、長髄彦(ながすねひこ)の軍に妨げられ,迂回して吉野を経て、大和に攻め入り、遂に大和一帯を平定し、紀元前六六〇年(機械的換算)に大和畝傍橿原宮に都して元旦に即位、「媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)」を立てて皇后とし、百二十七歳で没したと伝えられる。これは「日本書紀」の紀年法の誤りからきたもので、考古学的にみれば、原始社会の段階に於ける大和の一土豪として喧伝されてきた話を、このような形で描いたものであろうとされ、その東征説話も大和朝廷の発展期に於ける皇室の淵源を恣意的に悠遠の彼方に置き、九州と大和との連係の必然性を謳おうとしたものであろうとされる。また、崇神天皇こそが第一代天皇であり、神武天皇はその投影に過ぎないとする説もある(以上は主文を「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。以下、この部分に用いられている「日本書紀」の神武記の部分を示す。私は「日本書紀」を所持しないので、国立国会図書館デジタルコレクションの昭和一四(一九三九)岩波文庫刊黒板勝美訓読 日本書紀を参考にしつつ、一部を読み易く変更した

   *

皇師(みいくさ)[やぶちゃん注:神武天皇。]、遂に長髓彦を擊ちて、連(しきり)に戰へども、取-勝(か)つこと、能(あた)はず。時に忽然(たちまち)に、天(ひ)、陰(し)けて、雨氷(ひさめ)ふる。乃(すなは)ち、金色(こがねいろ)の靈(あや)しき鵄(とび)有りて、飛び來たりて、皇弓(みゆみ)の弭(はず)に止まれり。其の鵄(とび)、光り曄-煜(てりかかや)きて、狀(かたち)、流電(いなびかり)の如し。是に由りて、長髓彦が軍卒(いくさびとども)、皆、迷--之(まどまきて)、復(ま)た力(きは)め戰はず。長髓は、是れ、邑(むら)の本(もと)の號(な)なり。因りて亦、以つて人の名と爲す。皇軍(みいくさ)の、鵄(とび)の瑞(みづ)を得るに乃(よ)りて、時の人、仍りて鵄邑(とびのむら)と號(なづ)く。今、鳥見(とみ)と云ふは、是れ、訛れるなり。

   *

「長髓彦(〔なが〕すね〔ひこ〕)」ウィキの「長髄彦より引く。『神武天皇に抵抗した大和の指導者』。『神武天皇に降伏しようとするも、ニギハヤヒ(物部氏、穂積氏、熊野国造らの祖神)に殺されたという』。「古事記」『では那賀須泥毘古と表記され、また登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ)、登美毘古(トミビコ)とも呼ばれる。神武東征の場面で、大和地方で東征に抵抗した豪族の長として描かれている人物。安日彦(アビヒコ)という兄弟がいるとされる』。『饒速日命の手によって殺された、或いは失脚後に故地に留まり死去したともされているが、東征前に政情不安から太陽に対して弓を引く神事を行ったという東征にも関与していた可能性をも匂わせる故地の候補地の伝承、自らを後裔と主張する矢追氏による自死したという説もある』。『旧添下郡鳥見郷(現生駒市北部・奈良市富雄地方)付近、あるいは桜井市付近に勢力を持った豪族という説もある。なお、長髄とは記紀では邑の名であるとされている』。『登美夜毘売(トミヤヒメ)、あるいは三炊屋媛(ミカシキヤヒメ)ともいう自らの妹を、天の磐舟で、斑鳩の峰白庭山に降臨した饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の妻とし、仕えるようになる』。『神武天皇が浪速国青雲の白肩津に到着したのち、孔舎衛坂(くさえのさか)で迎え撃ち、このときの戦いで天皇の兄の五瀬命は矢に当たって負傷し、後に死亡している』。『その後、八十梟帥や兄磯城を討った皇軍と再び戦うことになる。このとき、金色の鳶が飛んできて、神武天皇の弓弭に止まり、長髄彦の軍は眼が眩み、戦うことができなくなった』。『ここに長髄の名前が地名に由来すると記されているが、その一方で鳥見という地名が神武天皇の鳶に由来すると記されている。さてその後、長髄彦は神武天皇に「昔、天つ神の子が天の磐船に乗って降臨した。名を櫛玉饒速日命という。私の妹の三炊屋媛を娶わせて、可美真手という子も生まれた。ゆえに私は饒速日命を君として仕えている。天つ神の子がどうして二人いようか。どうして天つ神の子であると称して人の土地を奪おうとしているのか」とその疑いを述べた。天皇は天つ神の子である証拠として、天の羽羽矢と歩靱を見せ、長髄彦は恐れ畏まったが、改心することはなかった。そのため、間を取り持つことが無理だと知った饒速日命(ニギハヤヒノミコト)に殺された』とある。

「流〔るる〕電光〔(いなびかり)〕のごとし」東洋文庫訳は『流電のように光りかがやいた』とするが、如何にも生硬で熟れていない。原文そのままの方が遙かに判り易い。訳を見た瞬間、私しゃ、長髄彦が東宝の殺獣兵器メーサー光線車によって撃たれたのかと思いましたワン!

「迷-眩〔(めくら)み〕」この読みは東洋文庫版のそれを援用した。

「軍戰の業(わざ)を護〔(まも)〕らん」「戦さの際に於ける守護神となりましょう」。

 

「山背國〔(やましろのくに)〕」山城国の古称はこう書いた。

「怨兒(あたごの)山」愛宕山。

「天狗神〔(てんぐがみ)〕を領〔(りやう)〕せしむ」当山に棲息する天狗らの神・眷属を支配させた。「天狗」という語は中国では「凶事を知らせる流星」を指した。ウィキの「天狗」によれば、本邦に於ける初出は、「日本書紀」の舒明天皇九(六三七)年二月二十三日の条の、『都の空を巨大な星が雷のような轟音を立てて東から西へ流れた。人々はその音の正体について「流星の音だ」「地雷だ」などといった。そのとき唐から帰国した学僧の旻』(みん)『が言った。「流星ではない。これは天狗である。天狗の吠える声が雷に似ているだけだ」』であるとする。原文は以下。

   *

九年春二月丙辰朔戊寅。大星從東流西。便有音似雷。時人曰。流星之音。亦曰。地雷。於是。僧旻僧曰。非流星。是天狗也。其吠聲似雷耳。

   *

『飛鳥時代の日本書紀に流星として登場した天狗だったが、その後、文書の上で流星を天狗と呼ぶ記録は無く、結局、中国の天狗観は日本に根付かなかった。そして舒明天皇の時代から平安時代中期の長きにわたり、天狗の文字はいかなる書物にも登場してこない。平安時代に再び登場した天狗は妖怪と化し、語られるようになる』とあるから、この良安が引く怪しげな書物は古くても平安中後期より前には溯れないと考えてよかろう。]

2019/01/22

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(8) 「馬ニ惡戲シテ失敗シタル河童」(2)

 《原文》

 先ヅ舊日本ノ北端ヨリ始ムべシ。【山伏】羽後仙北郡神宮寺町ノ花藏院(カザウヰン)神宮密寺ハ八幡宮ノ別當寺ナリ。京ヨリ快絲法師一名ヲ咽(ノド)法印ト云フ山伏下リテ此寺ニ住ム。或時河童ヲ生捕ニシテ嚴シク之ヲ戒メシニ、手ヲ合セ淚ヲ流シテ詫ヲスル故ニ放シ遣ル。其德ニ因ツテ以來此一鄕ニハ決シテ河童ノ災ナシ〔月乃出羽路六〕。此話ニハ馬ハ出デ來ラズ、又何故ニ捕ヘ且ツ戒メラレタルカハ舊記ニハ見エズ。岩代河沼郡ノ繩澤ハ不動川ノ岸ニ在ル村ナリ。昔喜四郞ト云フ農夫、此川ノ盲淵(メクラブチ)ト云フ處ニ於テ馬ヲ引込マントシタル河童ヲ捕ヘシガ、他日再ビ惡戲ヲセザルコトヲ誓ハシメテ一命ヲ宥シ放シタリ。ソレヨリ後ハ村ニ水ノ災ニ死ヌ者一人モ無シト云フ〔新編會津風土記〕。【水死】此邊ニテハ人ノ水ニ死スヲ悉ク河童ノ所業ト考ヘタリシガ如シ。【野飼】越後三島郡桐島村大字島崎ノ農家ニテ、馬ヲ野ニ放シ置キタルニ、例ナラズ馳セ還リテ厩ニ飛ビ込ミ大ニ嘶キケレバ、家ノ者怪シミテ近ヨリ見ルニ、馬槽伏セアリテ口取綱ノ端ヲ其下へ引入レタリ。馬槽ヲ引起セバ河童アリ、馬ノ綱ヲ身ニ卷附ケテ小サクナリテ居ル。【桑原】村ニ桑原嘉右衞門ト云フ剛膽ナル男アリ、之ヲ引捉ヘテ直ニ其腕ヲ拔ク。河童悲シミテ曰ク、命ヲ助ケ腕ヲ返シ給ハルナラバ、今後ハ永ク此里ノ人ヲ取リ申スマジキ上ニ、血止骨接ノ妙術ヲ御傳ヘ申サント。因ツテ其願ヒニ任セテ拔キタル腕ヲ返却シ、桑原ハ勇氣ノ獲物トシテ件ノ妙術ヲ以テ代々ノ家ノ寶ト爲スコトヲ得タリ。【如意石】此ハ藥劑ニハ非ズ、何カ雙六石ノ如キ七八分ノ一物ナリ。金創ノ血ガ止ラズ百計盡キタル際ニ桑原ヲ招ケバ、彼ノ物ヲ懷中シ來タリテ席ニ著クヤ否ヤ血ノ出ヅルコトヲ止ム。多クノ場合ニハ取出シテ示スニモ及バヌ位ナレバ、從ツテ現物ヲ見タリト云フ人モ無シ。此村ノ者ガ其後決シテ河童ニ取ラレザリシハ勿論ノコト也〔越後名寄三十一〕。【ハヾ】信濃上伊那郡ノ天龍川端ニ羽場(ハバ)ト云フ村アリキ。今ノ何村ノ中ナルカ知ラズ。「ハバ」トハ川ノ岸ノ如キ傾斜地ヲ意味スル地名ナリ。天正ノ頃此村ニ柴河内ト稱スル地侍住居ス。【名馬】或時此家祕藏ノ名馬ニ害ヲ加ヘントシタル不心得ノ河童アリ。此モ結局失敗ニ終リ大イニ詫言シテ他所ニ立退キタリト云フ〔小平物語〕。【池】飛驒大野郡淸見村大字池本ノ農家ニテ、或日今ノ鬼淵ト云フ處ノ邊ニ馬ヲ繫ギ置キシニ、暫クシテ其馬一散ニ走リテ家ニ歸ル。【河童赤シ】何故ゾト見レバ馬ノ綱ノ先ニ身體赤キ異樣ノ物、腰ニ其綱ヲ卷附ケタルマヽ引カレ來ル。【ガオロ】大ニ驚キテ之ヲ捉ヘ何物ゾト問ヘバ、我ハ「ガオロ」ト云フ物ナリ。馬ヲ捕ヘントシテ却リテ捕ヘラル。速カニ助ケタマヘ、助ケ給ハヾ其禮トシテ每朝川魚ヲ持來ルべシ。【鐡器ノ忌】但シ其處ニ刄物ヲ置キ給ハヾ我來ルコト能ハズト云フ。此約束ニテ之ヲ赦シテ後、每朝川魚ノ貢ユルコトナカリシガ、或時農夫誤リテ鎌ヲ其處ニ置キケレバソレヨリ其事止ミタリ。其「ガオロ」ノ住ミシ所ヲ鬼淵ト名ヅケ今モ金屬ヲ忌ムト云フ〔日本宗教風俗志補遺〕。【鬼】「ガオロ」ハ河童ノ事ナルニ、此ニテハ之ヲ鬼ト恐レシガ如シ。少々ノ魚ヲ貰フヨリハ寧ロ刄物ヲ置クヲ以テ安全ナリト考ヘシ者アリシヤモ測ラレズ。【葦毛馬】美濃惠那郡付知(ツケチ)町ノ豪農田口氏ノ祖先ハ遠山玄蕃ト云フ武士ナリ。曾テ飼フ所ノ葦毛ノ駒ヲ、夏ノ日川ノ淵ノ邊ニ放シ置キシニ、俄ニ走リテ厩ニ歸リ入ル。下人等出デテ見レバ、一人ノ小兒其馬ノ側ニ踞リ居タリ。ヨク見レバ則チ河童ナリ。水中ヨリ手ヲ延バシテ馬ノ足ヲ摑ミシニ、馬驚キテ一目散ニ馳セ歸リ之ニ引摺ラレシモノト見エタリ。下人等ノ打殺サント云フヲ制止シ、他日重ネテ人畜ヲ害セザルコトヲ約セシメテ玄蕃之ヲ宥ス。其淵ノ名ヲソレヨリ驄馬淵(アシゲノフチ)ト云フ。葦毛ノ馬ガ高名シタル場處ナレバ其名譽ヲ表彰スル爲ノ地名カト思ハル〔濃陽志略〕。口綱ナラバ兎ニ角、馬ノ脚ナラバ直ニ手ヲ放セバ可ナランニ、思ヘバ不細工ナル河童ナリ。シカシ此モ足ハ誤傳ニシテ、他ノ多クノ例ト共ニ手綱ノ端ヲ以テ自縛セシモノカモ知レズ。 

 

《訓読》

 先づ、舊日本の北端より始むべし。【山伏】羽後仙北郡神宮寺町の花藏院(かざうゐん)神宮密寺は八幡宮の別當寺なり。京より、快絲(かいし)法師、一名を咽(のど)法印と云ふ山伏、下りて此の寺に住む。或る時、河童を生け捕りにして、嚴しく之れを戒めしに、手を合せ、淚を流して詫びをする故に、放し遣る。其の德に因つて、以來、此の一鄕には決して河童の災(わざはひ)なし〔「月乃出羽路」六〕。此の話には、馬は出で來らず、又、何故に捕へ、且つ、戒(いまし)められたるかは、舊記には見えず。岩代河沼郡の繩澤は不動川の岸に在る村なり。昔、喜四郞と云ふ農夫、此の川の盲淵(めくらぶち)と云ふ處に於いて馬を引き込まんとしたる河童を捕へしが、他日再び惡戲(いたづら)をせざることを誓はしめて、一命を宥(ゆる)し、放したり。それより後は村に水の災に死ぬ者、一人も無しと云ふ〔「新編會津風土記」〕。【水死】此の邊りにては、人の水に死すを、悉く、河童の所業と考へたりしがごとし。【野飼】越後三島郡桐島村大字島崎の農家にて、馬を野に放し置きたるに、例ならず馳せ還りて、厩(うまや)に飛び込み、大いに嘶(いなな)きければ、家の者、怪しみて、近より見るに、馬槽(うまふね)、伏せありて、口取綱(きちとりなは)の端を其の下へ引き入れたり。馬槽を引き起せば、河童あり、馬の綱を身に卷き附けて、小さくなりて居(を)る。【桑原】村に桑原嘉右衞門と云ふ剛膽(がうたん)なる男あり、之れを引き捉(とら)へて、直(ただち)に、其の腕を、拔く。河童、悲しみて曰はく、「命を助け、腕を返し給はるならば、今後は永く、此の里の人を取り申すまじき上に、血止(ちどめ)・骨接(ほねつぎ)の妙術を御傳へ申さん」と。因つて、其の願ひに任せて、拔きたる腕を返却し、桑原は勇氣の獲物(えもの)として、件(くだん)の妙術を、以つて、代々の家の寶(たから)と爲(な)すことを得たり。【如意石(によいせき)】此れは藥劑には非ず、何か、雙六石(すごろくいし)のごとき、七、八分[やぶちゃん注:二~二・五センチメートル弱。]の一物(いちもつ)なり。金創(きんさう)の、血が止まらず、百計盡きたる際に、桑原を招けば、彼(か)の物を懷中し來たりて、席に著(つ)くや否や、血の出づることを止(とど)む。多くの場合には、取り出だして示すにも及ばぬ位(くらゐ)なれば、從つて、現物を見たりと云ふ人も無し。此の村の者が、其の後(のち)、決して河童に取られざりしは、勿論のことなり〔「越後名寄」三十一〕。【はゞ】信濃上伊那郡の天龍川端に羽場(はば)と云ふ村ありき。今の何村の中なるか知らず。「ハバ」とは川の岸のごとき傾斜地を意味する地名なり。天正[やぶちゃん注:ユリウス暦一五七三年からグレゴリオ暦一五九三年(ユリウス暦一五九二年)。]の頃、此の村に柴河内と稱する地侍(ぢざむらひ)、住居す。【名馬】或る時、此の家祕藏の名馬に害を加へんとしたる不心得の河童あり。此れも、結局、失敗に終り、大いに詫言(わびごと)して、他所(よそ)に立ち退(の)きたりと云ふ〔「小平物語」〕。【池】飛驒大野郡淸見村大字池本の農家にて、或る日、今の「鬼淵(おにふち)」と云ふ處の邊りに馬を繫ぎ置きしに、暫くして其の馬、一散に走りて、家に歸る。【河童赤し】「何故(なにゆゑ)ぞ」と見れば、馬の綱の先に、身體赤き、異樣の物、腰に其の綱を卷き附けたるまゝ、引かれ來(く)る。【「ガオロ」】大いに驚きて、之れを捉(とら)へ、「何物ぞ」と問へば、『我は「ガオロ」と云ふ物なり。馬を捕(とら)へんとして却りて捕へらる。速かに助けたまへ、助け給はゞ、其の禮として、每朝、川魚を持ち來たるべし。【鐡器の忌(いみ)】但し、其の處に刄物を置き給はゞ、我、來(く)ること能はず」と云ふ。此の約束にて、之れを赦(ゆる)して後(のち)、每朝、川魚の貢(みつぎ)、ゆることなかりしが、或る時、農夫、誤りて、鎌を其處(そこ)に置きければ、それより、其の事、止みたり。其の「ガオロ」の住みし所を「鬼淵」と名づけ、今も金屬を忌むと云ふ〔「日本宗教風俗志」補遺〕。【鬼】「ガオロ」は河童の事なるに、此(ここ)にては之れを鬼と恐れしがごとし。『少々の魚を貰ふよりは、寧(むし)ろ、刄物を置くを以つて安全なり』と考へし者、ありしやも測られず。【葦毛馬(あしげのうま)】美濃惠那郡付知(つけち)町の豪農田口氏の祖先は遠山玄蕃(げんば)と云ふ武士なり。曾つて飼ふ所の葦毛の駒(こま)を、夏の日、川の淵の邊りに放し置きしに、俄かに走りて、厩に歸り入る。下人等、出でて、見れば、一人の小兒、其の馬の側(そば)に踞(うづくま)り居(ゐ)たり。よく見れば、則ち、河童なり。水中より、手を延ばして、馬の足を摑みしに、馬、驚きて、一目散に馳せ歸り、之れに引き摺(ず)られしものと見えたり。下人等の「打ち殺さん」と云ふを、制止し、「他日重ねて人畜を害せざること」を約せしめて、玄蕃、之れを宥(ゆる)す。其の淵の名を、それより「驄馬淵(あしげのふち)」と云ふ。葦毛の馬が高名(こうみやう)したる場處なれば、其の名譽を表彰する爲の地名かと思はる〔「濃陽志略」〕。口綱(くちづな)ならば兎に角、馬の脚ならば、直(ただち)に手を放せば可ならんに、思へば、不細工なる河童なり。しかし、此れも足は誤傳にして、他の多くの例と共に手綱(たづな)の端を以つて自縛せしものかも知れず。

[やぶちゃん注:「羽後仙北郡神宮寺町の花藏院(かざうゐん)神宮密寺」恐らくは、現在の秋田県大仙市神宮寺神宮寺三十三にある八幡神社の近辺か、それを里宮とする雄物川を挟んだ南東に位置する神宮寺岳山頂(神宮寺落貝七)にある嶽六所(だけろくしょ)神社の近くに存在したものと推測される(グーグル・マップ・データ)。「秋田の昔話・伝説・世間話 口承文芸検索システム」の「半道寺と神宮寺」には、『神岡町神宮寺は楢岡の莊副川の郷といったところで、神宮寺という村名は、華蔵院という寺の寺号よりきたものという。華蔵院は平鹿郡の八沢木村より移ってきた三輪宗の寺である。(神岡町神宮寺)』とある(『三輪宗』は「三論宗」の誤りかと思う。インド「中観」派の龍樹の「中論」と「十二門論」及び彼の弟子提婆の「百論」を合わせた「三論」を典拠とする仏教宗派。「空」の思想を説き、鳩摩羅什(くまらじゅう)によって中国に伝えられ、隋末・唐初の頃に僧吉蔵が中国十三宗の一つとして完成。日本には推古天皇三三(六二五)年に吉蔵の弟子慧灌(えかん)によって伝えられ、智蔵・道慈が入唐帰朝して南都六宗の一つとなった。実践より思弁的要素が強く、平安時代以後は衰退した。別に「空(くう)宗」「中観宗」とも呼ぶ)。但し、現存しない(少し西南西に離れた神宮寺地区内に曹洞宗宝蔵寺(グーグル・マップ・データ)はあるが、ここではあるまい)。諸記事を見ると、八幡神社境内に付属して模様である。

「快絲(かいし)法師、一名を咽(のど)法印と云ふ山伏」不詳。山伏で法印を名乗る奴は胡散臭い。

「岩代河沼郡の繩澤」現在の福島県耶麻(やま)郡西会津町(まち)睦合(むつあい)縄沢つなざわこう)(グーグル・マップ・データ)と思われる。この南を流れる川が「不動川」であることは確認出来た。次注参照。

「盲淵(めくらぶち)」個人サイト「時空散歩」の「西会津 会津街道散歩 その;上野尻から野澤宿を抜け、束松峠を越え片門に(西会津町縄沢・束松峠)」によって判明。いちは同ページのこの地図の左で、先に示したグーグル・マップ・データの直ぐ東側に当たる。この地図には、この差別地名と非難されかねない「盲淵」が普通に記されてある。「盲淵」の解説には、『道すがら、ガイドの先生より「盲淵」のお話』とあって、『縄沢村の民が不動川の「盲淵」の辺りで馬に水を呑ます。そのとき、何故か』は『知らねど、河童も掬い上げ、胡乱な姿に』、『打ち殺そうとする。が、命乞いを聞き届け、河童を淵に返すと、それ以降水難に遭うことはなくなった、と』。『伝説は伝説でいいのだが、気になったのは、淵で馬に水を呑ませた、という件(くだり)。現在国道は不動川から少し離れたところを進んでいるが、かつての道・街道は、現在よりずっと川寄りの地を通っていた、ということだろう。地図を見ても、両岸に岩壁、間隔の狭い等高線が谷筋に迫る。土木技術が進めば道もできようが、それ以前は、ほとんど沢筋を進む、または大きく尾根を進むしか術(すべ)はない。実際、国道と不動川の間には会津三方道路の痕跡も残るという』とある。

「越後三島郡桐島村大字島崎」現在の新潟県長岡市島崎(グーグル・マップ・データ)。

「桑原嘉右衞門」不詳。ただ、現在、嫌なことや災難を避けようとして唱える呪(まじな)いに「くわばらくわばら」があるが、これは一説に、死後に雷神となったとされる菅原道真の領地であった桑原には落雷がなかったところからこの呪いが出来たとされるのは、かなり知られた話であり、道真が九州の河童を鎮圧したとする伝承との親和性のある姓であり、柳田が頭書でこれを出したのは、それを意識してのことのように私には思われる。

「其の腕を、拔く」この話柄では素手で引き千切ったことになる。河童は一説に通臂であった(左右の手が繋がっている)という話譚もあり、或いは、関節部分で、自切的に部分的或いは全部がすっぽ抜け易いようになっていた可能性が考えられる。なお、次の次の注も参照のこと。

「雙六石(すごろくいし)」平安期に中国から移入された賭博ゲームの「双六」に用いた駒。白黒二種であるが、碁石よりも大きく、かつ厚く上下は平たいのが普通。

『「越後名寄」三十一』ここのところ、柳田國男の図書の巻数には何度も煮え湯を飲まされきたので、用心したところ、頭に当たった。これは「二十九巻」の誤りである。「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」の「越後名寄」の、ここの「血止」(ちどめ)の見出し部分と、ここそこでは「嘉右衞門」ではなく「喜右衞門」とする)に出る。写本であるが、非常に読み易い字体である。

「信濃上伊那郡の天龍川端に羽場(はば)と云ふ村ありき」「今の何村の中なるか知らず」と言っているが、現在の長野県上伊那郡辰野町大字伊那富羽場である。この中央附近(グーグル・マップ・データ)。

『「ハバ」とは川の岸のごとき傾斜地を意味する地名なり』所持する松永美吉「民俗地名語彙事典」(一九九四年三一書房刊「日本民俗文化資料集成」版)によれば、「羽場」は『美濃で高地と低地の境というべき傾斜地で、樹木または芝草の生じている所』を意味する地名で、『幅と書くものが多く、高地を幅上、低地を幅下とい』い、『羽場とも書く』。『信濃、越中でも使われる』。『ハバは崖を指すが、濃尾地方およびそれ以東に多い。能美平野周辺の山麓台地のへりにつづく崖地などによく見うけられ、それからずっと東北地方へ連続している』とある。

「柴河内」読み不詳。暫く「しばかわち」(現代仮名遣)と読んでおく。以下の記載からこれが「河内守」由来と思われるからである。サイト「Local History Archive Project 新蕗原拾葉」の「柴氏」に、『伊那十三騎』の『柴氏』とし、その『本拠地』をまさに『辰野町羽場』とする。以下、篠田徳登著「伊那の古城」(昭和三九(一九六四)年から昭和四四(一九六九)年執筆)によれば、『郡記などに依ると、甲州源氏の小笠原が、伊那の地頭になり貞宗の時、貞和年間』(一三四五年~-一三四九年)『(北朝、尊氏のころ)松本の井川に移って信濃の守護となった』。『その貞宗の四男にあたる重次郎というのが、羽場に移り、ここに築城して羽場姓を名のり、代々この地を相続してきたが、弘治二年』(一五五六年)『のころ、武田軍の侵入にあって』、『没落してしまった。そのあとは柴河内守が入っていたが、天正十年』(一五八二)、『織田氏の侵入にあって没収された』。『また、沢の門屋大槻氏方に伝わっていた「大出沢村根元記」によると、(略)この城(羽場城)の北、北丿沢をへだてて柴河内守の居城の跡がある。弘治年中』(一五五五年~一五五七年)『まで、ここに居住していたが、その子孫は保科氏に属し、物頭格となり、五百石を賜り』、『今もそのまま残って居る』(リンク先には以下に詳細な史実が編年で記されてある)。ところが、このサイト、彼と「河童」のことも豊富に資料が示されてあり、「街道物語5 伊那街道」(一九八八年三昧堂刊木村幸治ほか)より、「しくじった河童」という話をまず引用して、『伊那谷を流れくだる天竜川は、名のとおりの暴れ川で、雨期になるとかならず氾濫して川ぞいの家や畑をおし流し、村に多くのわざわいをもたらしたものだった』。『そんな暴れ天竜だが、ところどころには淵もあり、またそれがかえって村びとに不気味を思わせる場所でもあった。天竜川のほとりに、柴河内という一介の百姓がすんでいた。河内は、畑でとれた作物を納屋へ運んだり、市へだしたりするときのために、一匹の馬を飼っていたが、用のないときはたいてい馬は野に遊ばせておいた』。『馬もこころえたもので、河内のおよびがかからないかぎり、かってに野にでて草をはみ、日が暮れるとまた小屋にもどってくるのだった』。『ある日、河内がひと仕事すませて家へもどると、なにやら馬小屋のほうがさわがしい。はて?』 『と河内がいってみると、ふだんはおとなしい馬が興奮してはねている。河内がみると、藁のなかで河童が死んでいた』(「仮死状態」「気絶していた」の意)。『「ははん」河内がとびこんで河童をつかみあげると、河童は目をあけた。が、あとのまつり』で、『「煮てくうぞ、焼いてくうぞ、日干しにして柿の木につるしておくぞ」』と『河内がおどすと、河童は目になみだをためてぺこぺこと頭をさげる。河内は、腹の中で大笑いしながらさんざんおどかしたすえに、河童を天竜川の淵にはなしてやった』。『その後、河内の家の門口に、ときどき魚がおいてあったという』とある。次に「かわらんべ」(「天竜川総合学習館」の「天竜川 川の旅」の「第十三回 懐かしい遊び場羽場下(はばした) 広報誌『かわらんべ』百三十三号掲載分より)として、昭和三十『年代後半、羽場淵辺りは子供たちの遊び場でした』。『戦国時代に築かれた羽場城址が淵直上にあり、その縁に立つ巨木の根元の空洞を秘密基地にしていました。羽場淵に注ぐ北の沢川は、伊那谷最北の田切地形をつくり、旧国道』百五十三『号(三州街道)が渡る煉瓦造りの眼鏡橋を抜けて淵へと行きました』。『この淵は深くて渦を巻き、気をつけないと河童に引き込まれるぞ』、『と親によく言われたものでしたが、昭和』五七(一九八二)年の『災害後の改修工事により、その姿は大きく変わりました。河童伝説(蕗原拾葉「柴太兵衛 河童を捕まえること」)は遠い昔のこととなりました』。『下流の河原では、花崗岩の礫を割って水晶をとり、その大きさや形を自慢し合いました。また、洪水後に出現したワンドに魚がたくさん泳いでいたことを今も鮮明に覚えています』(NPO法人「川の自然と文化研究所」松井一晃氏)とある。最後にサイトの管理人の方の考察として、「小平物語」(柳田の引用元。サイト主によれば小平向右門尉正清入道常慶の著で貞享三(一六八六)年刊とし、何と、同サイト内に読み易くした梗概(?)がに電子化されてある。但し、河童と柴河内の部分は見つけられなかった)『にも柴河内守と河童の物語が収録されているが、「街道物語」の同エピソードはさらに物語調に脚色されている。柴河内守が百姓だったり、河童が死んだ様な状態で見つかったり』というのは、『他にはない要素なので、やはり他地域の同様な河童伝説が混じっているような気がしてならない』。『また羽場柴氏が羽場にいたのは何年までか。保科氏の配下であったので』、天正一八(一五九〇)『年の関東移封=多胡への移住には従ったのではないか?』 その十年後の慶長五(一六〇〇)『年に保科は高遠に復帰するのだが、そのとき柴氏は再び羽場に戻ったのか、それとも高遠城下に屋敷を作ってそこに住まったか』。『これから調査が必要である』とされて、

・河童伝説は関東移封の一五九〇年まで。

・もし、保科高遠復帰後も羽場に戻ったのなら、一六〇〇年以降も候補に。

・一五九〇年以降、羽場の墓守として残った柴一族、または柴氏関係の別系統が羽場に存在したとしたら、彼等の事かもしれない。

・柴河内という名があるが、「河内守」という記録が正確であるとすれば、人物は二名程に絞られる(柴家家系図参照)。

と纏めておられる。もの凄い厳密な考証!!!

「飛驒大野郡淸見村大字池本」現在の岐阜県高山市清見町池本Yahoo!地図)。以下の話は、飛騨の忍者 ぼぼ影ブログ飛騨のかっぺたん飛騨の民話 藤蔵渕(とうぞうぶち)とガオロ 飛騨の民話が、かなり詳しい近くの類話(但し、ここの河童は赤くはない)を紹介されておられるので、必見! 最後に『清見町には、これと同類の伝説として、池本の鬼渕(おにふち)、楢谷の椀貸岩(わんかせいわ)、上小鳥直井彦三郎とガオロ、福寄入り川のカッパ、大原の水屋渕などがあり順にご紹介していきます』とあって、柳田國男が涎を流しそうなラインナップなのだが、『池本の鬼渕』未だはアップされておっれるようだ。因みに、この方のルビで、本文は「おにふち」と清音にした

「ガオロ」私は似非の生物和名表記、学術ぶったカタカナ表記には実は激しい違和感を持つのであるが、ひらがなに直すと、これはどうも迫力を欠くように思われた。向後は河童の異名表記は原則、カタカナとするしかないか。「河郎」の訛りと思ったが、研」妖怪伝承データベースによると、『河童のことをガオロという。キュウリが好きなので、キュウリを食べてすぐに川で遊ぶと、引っ張られるという。ガオロと河童は別のものだともいう。尻の穴から腸などを引っ張り出してしまうともいう』(国学院大学民俗学研究会『民俗採訪』昭和五五(一九八〇)年十月発行から梗概)ともあった。

「鐡器の忌(いみ)」先にも出たが、河童の嫌う物として鉄や金属はよく語られ、他に鹿の角や猿が挙げられる。サイト「不思議チカラ」の「好き嫌いがはっきりしている妖怪・河童(2)金属・猿・鹿の角によれば、『河童が嫌う物のなかでも一番は「金属(金物)」です。金属のなかでも特に鉄を嫌うとされています』。『どうしてかというとこれも諸説あるようなのですが、まず一般的に水に棲む妖怪・妖物は概ね金属を嫌うと言われます。これは世界各地でも共通した話のようで、古代より産鉄(製鉄)は水や燃料の木材を大量に必要とすることから、農耕にとって最も大切である水を汚し森林の消失によって洪水を起こすとされ、金属=鉄と農耕の水や治水とは対立するものと言われています』。『実際に古代から中国や朝鮮半島では、製鉄による伐採で森林が消失していきました。水神は農耕の神ですから、その眷属(けんぞく=その神の配下または関係するモノ・動物)やしもべである水の妖怪や妖物も、鉄などの金属を嫌うということのようです。水神として代表的な龍蛇も鉄を嫌いますし、龍の棲むと言われる泉や池などの水場で鉄製品を水に浸すのは禁忌とされています』。『河童には全国各地に「駒引き伝説」というものがあって、これは馬を水の中に引込もうとする河童を人間がこらしめ、もう決してそういうことはしないという証文を河童が人間に渡すといった話ですが、このとき河童をこらしめるために連れて行くのが金属のたくさんある鍛冶屋だという話があります』。『また河童は人家の戸口にある鋤や鎌、軒下から吊るされた鉤(かぎ)を見て姿を消すとも言われていますから、よほど鉄製品が嫌いなのでしょう。鋤や鎌など、農耕には鉄製品が欠くことのできないものとなりますが、水の妖怪である河童はいつまでたっても鉄が苦手ということのようです』。『鉄などの金属のほかに河童が苦手なものといえば、「猿」と「鹿の角」です』。『江戸中期の百科事典である「和漢三才図』会『」では、河童はサルの類いの未確認動物に分類されているのに、なぜ同類かも知れない猿が嫌いなのでしょうか』。『はっきりとはわかっていませんが、猿を操る「猿曳き(猿回し)」が馬や馬主に祝いを述べて猿を舞わすことから、猿が馬の守り神と考えられ、先ほどの「駒引き伝説」のように水中に馬を引込もうとする河童と対立したという説があります。犬猿の仲ならぬ、河童と猿の仲になったというわけですね。河童はいつも相撲で猿に負けるから嫌いになった、という説もあるようです』。『鹿の角がなぜ嫌いなのかについては、その由来がどうもよくわかりません。鹿は神の使いであり、そのことから鹿の角を苦手とするといった説があるようですが、理由としてはざっくりしすぎてもうひとつです』。『そのほか、瓢箪やヘチマは水の中に引込もうとしてもすぐに浮いてしまうので嫌いです。主に東北地方などの東日本では河童を「みずち」と呼ぶことから』、「日本書紀」の仁徳六十七年(機械的計算では三七九年)の条の『ヒサゴ(瓢=ひょうたん)を水に投げ入れて「ミズチ(蛟)」を退治したという記述がその根拠とされることがありますが』「日本書紀」の『「ミズチ(蛟)」は龍蛇のことで直接的には河童とは関係がないと思われます』。『そのほかにも河童が嫌いな物としては、これを食べれば河童との相撲に勝てるという仏様に供える「仏飯」、盂蘭盆(うらぼん)の門火(かどび)を焚くときに用いる「おがら」という皮を剥いだ麻の茎など、仏教に関わる物も嫌います。人間の「唾」も嫌いで、唾を吐きかけると逃げるとも言われています』とある。本書でもこれらは追々語られることになるので、サイト主には失礼ながら、冒頭を除き、ほぼ全文を引用させて戴いた。問題があれば削除する。

「葦毛馬(あしげのうま)」「葦毛」は馬を区別する最大の指標である毛色の名。栗毛(地色が黒みを帯びた褐色で、鬣(たてがみ)と尾が赤褐色のもの)・青毛(濃い青みを帯びた黒色のもの)・鹿毛(かげ:体は鹿に似た褐色で、鬣・尾・足の下部などが黒いもの)の毛色に、年齢につれて、白い毛が混じってきたもの。さらに白葦毛・黒葦毛・連銭(れんぜん)葦毛(葦毛に灰色の丸い斑点の混じっているもので、「虎葦毛」「星葦毛」とも呼ぶ)などに分ける。

「美濃惠那郡付知(つけち)町」現在の岐阜県中津川市付知町(グーグル・マップ・データ)。

「遠山玄蕃(げんば)」記載に、戦国から安土桃山時代の美濃国飯羽間城(飯場城)及び苗木城城主であった武将遠山友忠(生年不詳:正室は織田信長の姪)の一族とある。]

さっき見た夢

私は高校国語教師最後の私の、理系クラスの試験の回答用紙を抱えて職員室に戻って来た。
[やぶちゃん注:私の見知らぬ学校である。]

私の出題は変わっていた。論文試験で、その問題は以下であった。
[やぶちゃん注:これは異様に覚えている。]

   *

 ある時空間で、君は、一見、君と全く同じ姿・顔形・音声をした生命体「x」と遭遇した。
 しかし、君が「x」と会話し、観察し、非破壊の諸検査装置を用いて(非破壊であれば、如何なる機器を使用しても構わない)、「x」の体内構造・生態・習性及び思考方法等を可能な限り、観察してみたところ、その結果は総てが、鏡像のような反転を示していることが判明した。体内の脳を含む臓器の総てが、左右反対であり(「内臓逆位」(Situs inversus:サイタス・インヴァーサス)といい、実際の人体の変異として存在する)、それだけでなく、運動も思考方法までも明らかに自分とは反転していることが次々と判ってきた。
 それは言わば、何か存在や観念全体の現象自体が、位相数学で言う「メビウスの帯」(Möbiusband)か「クライン管」(Kleinsche Fläche)のような印象を与えるのである(例えば、我々の外皮と消化管は一続きであることを想起せよ)。
 君はその自分そっくりのしかし鏡像体である生命体「x」を記述して、後世に資料として残したいと考えた。

問題:そうした生命体「x」の存在様態を、最も正確に表現し得ると考える方式で自由に記録をせよ。解説の途中、或いは、総てを、論理式又は数式で表記して構わない(但し、改行せず、五百字以上。五百字に満たないものは採点対象としない)。

   *

見ると、生徒たちは一人残らず、論理式と数式のみで、みっちり回答用紙の裏まで書いている。

それを覗いたそのクラスの担任の物理教師が、「何だか、一杯、書いてますねぇ。」と揶揄した。

私はそれに応えず、しかし『これを私は二週間後の退職までに読み解いて返却出来るだろうか?』と不安に思いながらも、生徒全員が真剣に挑んでくれたことを嬉しく思うのでああった…………

[やぶちゃん注:私は遠い昔、一度だけ、総てを横書で、似非物の論理式を挟んで無謀な授業したことがある。私の好きな三木清「旅について」で、その「授業ノート」も公開している。覚醒した時、そんな昔を思い出していた。]

2019/01/21

和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鶚(みさご) (ミサゴ/〔附録〕信天翁(アホウドリ))

 

Misago

 

みさご   魚鷹 鵰鷄

      雎鳩 沸波

𪀝

      下窟鳥 王雎

      【和名美佐古】

      覺賀鳥【日本紀】

クワァヽ

 

本綱鶚乃鵰類也似鷹而土黃色深目好峙雄雌相得鷙

而有別交則雙翔別則異處能翔水上扇魚令出捕之

食禽經鳩生三子一爲鶚鳩乃此也其尾上白者名白

  後京極

  鶚ゐる汀の風にゆられ來て鳰のうきすは旅ねしてけり

△按雎鳩毎捕魚食之飽則潜置于石間密處而經宿入

 穴食之謂之鶚鮓人知其所在取食

 日本紀云景行天皇至上總從海路渡淡水門聞覺賀

 鳥聲覺賀之字義未詳

――――――――――――――――――――――

天翁 不能捕魚立沙灘上俟魚鷹所得偶墜則拾食

 之

 

 

みさご   魚鷹〔(ぎよよう)〕

      鵰鷄〔(てうけい)〕

      雎鳩〔(しよきう)〕

      沸波〔(ひは)〕

【「𪀝」、同じ。】

      下窟鳥〔(かくつてう)〕

      王雎〔(わうしよ)〕

      【和名、「美佐古」。】

      覺賀鳥〔(かくかのとり/みさご)〕【「日本紀」。】

クワァヽ

 

「本綱」、鶚は乃〔(すなは)〕ち鵰〔(わし)〕の類なり。鷹に似て土黃色、深き目〔にして〕好みて峙〔(そばだ)〕つ。雄雌、相ひ得て、鷙〔(しふ)なれども〕、別、有り。交はるとき、則ち、雙〔(なら)び〕翔〔び〕、別るるときは、則ち、處を異にす。能く水上を翔〔(こうしよう)〕し、魚を扇(あふ)ぎて、出ださしめ、之れを捕へて食ふ。「禽經〔(きんけい)〕」に、『鳩、三子を生む。一〔(いつ)〕は鶚鳩〔(がくきう)〕と爲る』とは、乃ち、此れなり。其の尾の上、白き者を「白〔(はくけつ)〕」と名づく。

                後京極

  鶚〔(みさご)〕ゐる汀〔(なぎさ)〕の風にゆられ來て

     鳰〔(にほ)〕のうきすは旅ねしてけり

△按ずるに、雎鳩〔(みさご)〕は毎〔(つね)〕に魚を捕へて之れを食ふ。飽くときは、則ち、潜〔(ひそか)〕に石間〔(せきかん)〕の密處〔(みつしよ)〕に置きて、宿を經て[やぶちゃん注:何日かしてから。]、穴に入りて、之れを食ふ。之れを「鶚〔(みさご)〕の鮓〔(すし)〕」」と謂ふ。人、其の所在を知りて、取りて食ふ。

「日本紀」に云はく、『景行天皇、上總に至り、海路より淡水門(あはのみなと)を渡り、覺賀(みさご)鳥の聲を聞く云云〔(うんぬん)〕』〔と〕。「覺賀」の字義、未だ詳かならず。

――――――――――――――――――――――

信天翁(あほうどり) 魚を捕ること、能はず。沙-灘〔(さす)[やぶちゃん注:私の「砂洲」の当て読み。]〕の上(ほとり)に立ちて、俟〔(ま)〕つ。魚鷹(みさご)、得る所を、偶(たまたま)墜つるときは、則ち拾(ひろ)いて[やぶちゃん注:ママ。]、之れを食ふ。

[やぶちゃん注:タカ目タカ亜目タカ上科ミサゴ科ミサゴ属ミサゴ Pandion haliaetusウィキの「ミサゴ」によれば、『極地を除くほぼ全世界に分布する。ユーラシア大陸と北アメリカ大陸の亜寒帯から温帯地域とオーストラリアの沿岸部で繁殖し、北方の個体はアフリカ大陸中部以南と南アメリカに渡って越冬する』。『日本では留鳥として全国に分布するが、北日本では冬季に少なく、南西諸島では夏に少ない。西日本では冬季普通に見られる鳥だったが、近年やや数が減少している。北海道ではほとんどの個体が夏鳥として渡来している』。全長は五十四~六十四センチメートル、翼開長は一メートル五十から一メートル八十センチメートル、体重は一・二~二キログラム。『雄雌ほぼ同じ色彩で、背中と翼の上面は黒褐色、腹部と翼の下面は白色で、顔も白く、眼を通って首に達する太い黒褐色の線が走る。後頭部に小さな冠羽がある。嘴は黒く、脚は青灰色』。『タカ科と区別される特徴として、spicule』(スピキュール)『と呼ばれる足の外側にある魚を捕らえるための棘、反転する第』一『趾(猛禽類ではミサゴだけである)、鼻孔の弁、密生し』、『油で耐水された羽毛があげられる』。『主に海岸に生息するが、内陸部の湖沼、広い河川、河口等にも生息する。水面をゆっくりと低空飛行し獲物を探す。春・秋の渡りの季節には長野県などの内陸部を移動する個体が観察される。単独かつがいで生活する』。『食性は肉食性で主に魚類を食べるが、爬虫類、鳥類、貝類を食べることもある。獲物を見つけると』、『素早く翼を羽ばたかせて空中に静止するホバリング飛行を行った後』、『急降下し、水面近くで脚を伸ばし』、『両足で獲物を捕らえる。和名の由来は様々な説があり』、『水を探るが転じたとする説や、獲物を捕らえる時の水音が由来とする説(西日本では水面に突入する音から、本種のことを「ビシャ」、または「ビシャゴ」と呼んでいる地域がある)等がある』。五~七月に『水辺の岩や樹上に木の枝を組んだ巣を作り』、二、三『個の卵を産む。抱卵日数は約』三十五『日。抱卵は主にメスが行い、オスはメスに獲物を運ぶ。雛は孵化後』五十二~五十三『日で巣立ちし、その後』一~二『ヶ月後に親から独立する。成熟するのに』三『年かかる』。『単型のミサゴ科を作り、姉妹群はタカ科 Accipitridae である。合わせてタカ上科 Accipitroidea とすることもある』。『タカ科に含めることもあり、それでも単系統性からは問題ない。しかし、形態、核型、遺伝子距離、化石記録の古さから、科レベルに相当する差異があるとされる』。『タカ科に含める場合、ミサゴ亜科 Pandioninae とし、タカ科の』二『つまたはより多くの亜科の』一『つとする』。『ミサゴ属には』一種 Pandion haliaetus (Linnaeus, 1758) 『のみを置く説と』、Pandion cristatus (Vieillot, 1816) 『を分離する説とがある』。Pandion cristatus『はスラウェシ島以東のオーストラリア区に分布』し、Pandion haliaetus よりも『小型で、渡りはしない』。『日本において、ミサゴは魚を捕るタカとして古来より知られ』、「日本書紀」では『覺賀鳥』と記されているほか、「太平記」・「看聞日記」(かんもんにっき:、室町時代の皇族伏見宮貞成(さだふさ)親王の日記。一部は散逸しているが、応永二三(一四一六)年)から文安五(一四四八)年までの三十三年間に渡る部分が現存する)・「古今著聞集」など、『様々な文献で記述が確認できる』。以下、「ミサゴ鮨」の項。「本草綱目啓蒙」に於いて、『ミサゴは捕らえた魚を貯蔵し、漁が出来ない際にそれを食すという習性が掲載され、貯蔵された魚が自然発酵(腐敗でもある)することによりミサゴ鮨となると伝えられていた。ミサゴ鮨については』、他にも松浦静山の「甲子夜話」、滝澤馬琴の「椿説弓張月」、大正期から昭和期にかけて宮内省(のち宮内庁)で主厨長を務めた料理人秋山徳蔵(明治二一(一八八八)年~昭和四九(一九七四)年)の「味」(昭和三〇(一九五五)年東西文明社刊・序文・吉川英治)『などにも登場』し、『ミサゴが貯蔵したことにより発酵し、うまみが増した魚を人間が食したのが寿司の起源であると伝承される』が、『この逸話に対して反論者もいる。動物研究家實吉達郎は自著』「動物故事物語」で、『ミサゴにそのような習性もなければ十分な魚を確保する能力もないとし、この話を否定している』。『なお、類似した伝説としては、サルがサルナシなどの果実を巣穴に貯めて「製造した」猿酒や養老の滝がある』と記す。少なくとも、ウィキのこの項を書いた人物は「猿酒や養老の滝」伝承を最後に引っ張る以上、本説を否定しているものと考えられる。どうもこれは現在、肯定派には分(ぶ)が悪そうな気がする。何故かって? そういう保存状態にしたものをどんな鳥類学者も報告していないし、そうした貯蔵場所の実例も語られていない。山の方に遙かに運ぶのを見たという記載がネット上にあったが、これは寧ろ、抱卵しているへ運ぶため、或いは少し大きくなった雛に、餌の味を覚えさせるためと考える方が、私は自然な気がした。私は「みさご鮓」は、ない、と思う。それにさ……いやいや、何より……ミサゴの英名は“Osprey”……今や悪名高き、米軍のVTOL機なんだから、ねぇ…………

「雎鳩〔(しよきう)〕」因みに「詩経」の「周南」には「関雎(かんしょ)」という詩があり、「関」は「関関」の略で、和らいだ鳴き声の意、「雎」は「雎鳩(しょきゅう)」の略で古来、雌雄の仲の良いとされる本種ミサゴで、そこから「関雎」は「夫婦仲が良く、礼儀正しいこと」の謂いとなった。

「沸波〔(ひは)〕」「沸」を「フツ」とするのは慣用音で、呉音も漢音も「ヒ」である。

「下窟鳥〔(かくつてう)〕」「みさご鮓」からの命名っぽい。

「日本紀」「日本書紀」。

「深き目〔にして〕好みて峙〔(そばだ)〕つ」頭部の黒褐色の羽の線色が強いアイライン効果を齎して、眼球を殊更に目立たせ、そのラインに従って、眼が峙つ、強く引き攣ったような強烈さを与えることからの謂いであろう。

「雄雌、相ひ得て、鷙〔(しふ)なれども〕、別、有り」雌雄ともに獰猛な性質を所持しているが、自然、雌雄の別はちゃんとある、の意。

「交はるとき、則ち、雙〔(なら)び〕翔〔び〕、別るるときは、則ち、處を異にす」この謂いだと、交尾をする際には並んで飛びかいながら交尾を行い、それがすむと、別々な塒(ねぐら)へ戻って居所は異にする、としか読めないが、ウィキにあるように、それは事実ではない。

翔〔(こうしよう)〕」高く広くあちこちと飛び翔けること。

「魚を扇(あふ)ぎて、出ださしめ」急降下で水面直下の魚を捕獲する生態から、こう表現した気持ちは確かに腑に落ちる。

「禽經」春秋時代の師曠(しこ)の撰になるとされる鳥獣事典であるが、偽書と推定されている。全七巻。

「後京極」「鶚〔(みさご)〕ゐる汀〔(なぎさ)〕の風にゆられ來て鳰〔(にほ)〕のうきすは旅ねしてけり」「後京極」は九条良経(嘉応元(一一六九)年~元久三(一二〇六)年)で、彼の「秋篠月清集」の「巻一 十題百首」で確認した。「鳰〔(にほ)〕」はカイツブリ目カイツブリ科カイツブリ属カイツブリ亜種カイツブリ Tachybaptus ruficollis poggei「水禽類 鸊鷉(かいつぶり)」を参照。流石に、良経、いい一首である。

『「日本紀」に云はく……』「日本書紀」景行天皇五十三年(単純換算で紀元一二三年)の十月の条に、

   *

冬十月。至上總國。從海路渡淡水門。是時聞覺賀鳥之声。欲見其鳥形。尋而出海中。仍得白蛤。於是。膳臣遠祖。名磐鹿六鴈。以蒲爲手繦。白蛤爲膾而進之。故美六鴈臣之功。而賜膳大伴部。

   *

と出る。

「信天翁(あほうどり)」ミズナギドリ目アホウドリ科アホウドリ属アホウドリ Phoebastria albatrus。ロケーションからも名前からもそれしかないが、「山禽類」に附録するのは、お門違いも甚だしいと言わざるを得ないウィキの「アホウドリ」によれば、『信天翁の漢字を音読みにして、「しんてんおう」とも呼ばれる。尖閣諸島の久場島にはこの名にちなんだ「信天山」という山がある。長崎県で古くから呼ばれているオキノタユウ(沖の太夫、沖にすむ大きくて美しい鳥)に改名しようとする動きもある』。『北太平洋に分布』し、『夏季はベーリング海やアラスカ湾、アリューシャン列島周辺で暮らし、冬季になると』、『繁殖のため』、『日本近海への渡りをおこない』、『南下する』。『鳥島と尖閣諸島北小島、南小島でのみ繁殖が確認されていた』。全長は八十四センチメートルから一メートル、翼開長は一メートル九十から二メートル四十センチメートル、体重三・三~五・三キログラム。『全身の羽衣は白い』。『後頭から後頸にかけての羽衣は黄色い』。『尾羽の先端が黒い』。『翼上面の大雨覆の一部、初列風切、次列風切の一部は黒く、三列風切の先端も黒い』。『翼下面の色彩は白いが外縁は黒い』。『嘴は淡赤色で』、『先端は青灰色』、『後肢は淡赤色』・『青灰色で』『水かきの色彩は黒い』。『雛の綿羽は黒や暗褐色、灰色。幼鳥は全身の羽衣が黒褐色や暗褐色で、成長に伴い白色部が大きくなる』。『以前はDiomedea属に分類されていたが、ミトコンドリアDNAのシトクロムbの分子解析からPhoebastria属に分割された』。『種内ではミトコンドリアDNAの分子解析から、鳥島の繁殖個体群のうち』、『大部分を占める系統と、鳥島の一部(約』七%『)と尖閣諸島で繁殖する系統の』二『系統があると推定され』ている。『約』一千『年前の礼文島の遺跡から発掘された本種の骨でも同様の解析を行ったところ、同じ』二『系統が確認されたため』、『少なくとも』一千『年以上前には分化していたと推定されている』。この二『系統の遺伝的距離はアホウドリ科』Diomedeidae『の別属の姉妹種間の遺伝的距離と同程度なため、将来的には別種として分割される可能性もある』。『尖閣諸島で繁殖する系統は手根骨が短いため』、『翼長も短く、鳥島の系統と比較して巣立ちが』二『週間早いとされる』。『海洋に生息』し、『魚類、甲殻類、軟体動物、動物の死骸を食べる』。『集団繁殖地(コロニー)を形成する』。『頸部を伸ばしながら嘴を打ち鳴らして(クラッタリング』:clattering)『求愛する』。『斜面に窪みを掘った巣に』、十~十一月に一個の『卵を産む』。『巣を作るのは、通常、雄の役目であるが、雌が作る様子も確認されている』。『雌雄交代で抱卵し、抱卵期間は』六十四~六十五日。生後十年『以上で成鳥羽に生え換わる』。『羽毛目的の乱獲、リン資源採取による繁殖地の破壊などにより』、『生息数は激減した』。『和名は』、『人間が接近しても地表での動きが緩怠で、捕殺が容易だったことに由来する』。明治二〇(一八八七)年から『羽毛採取が始まり』、昭和八(一九三三)年に鳥島、諸和二一(一九三六)年に聟島(むこじま)列島が『禁猟区に指定されるまで乱獲は続けられた』、『当初は主に輸出用だったが』、明治四三(一九一〇)年に、『羽毛の貿易が禁止されてからも』、『日本国内での流通目的のために採取され』、実に六百三十万羽ものアホウドリが『捕殺されたと推定されている』。『以前は小笠原諸島・大東諸島・澎湖諸島でも繁殖していたとされるが、繁殖地は壊滅している』。昭和一四(一九三九)年には『残存していた繁殖地である鳥島が噴火し』、昭和二四(一九四九)年の『調査でも発見されなかったため絶滅したと考えられていた』が、昭和二六(一九五一)年に『鳥島で繁殖している個体が再発見された』。その後、一九七六年から『調査や保護活動が再開し』、『繁殖地の整備』や『崩落の危険性が少ない斜面に模型(デコイ)を設置し』て『鳴き声を流す事で新しい繁殖地を形成する試みが進められ』、『繁殖数および繁殖成功率は増加している』現在、特別天然記念物及び国内希少野生動植物種に指定されている。一九九九年に於ける生息数は約千二百羽と推定され、二〇〇六年から二〇〇七年度に於ける繁殖個体数は約二千三百六十羽(鳥島で八十%、尖閣諸島で二十%)と推定されており、二〇一八年の『調査では鳥島集団の総個体数は』五千百六十五『羽と推定され』ている。絶滅危惧 VU)。『鳥島で火山活動が活発化する兆しがあるため、小笠原諸島の聟島に繁殖地を移す計画が』二〇〇六『年から進められている』(その結果的経緯はリンク先を見られたい)。]

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(7) 「馬ニ惡戲シテ失敗シタル河童」(1)

 

《原文》

馬ニ惡戲シテ失敗シタル河童  明治四十三年ニ出版セシ遠野物語ノ中ニ左ノ如キ一話アリ。【姥子】陸中遠野ノ町ニ近キ小烏瀨(コガラセ)川ノ姥子(ウバコ)淵ノ邊ニ新屋ノ家ト云フ家アリ。【厩】或日馬ヲ淵へ冷シニ行キ馬曳ノ兒ハ外へ遊ビニ行キテアリシ間ニ、河童川ヨリ出デテ其馬ヲ引込マントシ、却ツテ馬ニ引キズラレテ家ノ厩ノ前ニ來リ馬槽ニ覆ハレテアリキ。家ノ者馬槽ノ伏セテアルヲ怪シミ、些シク之ヲモタゲ見ルニ河童ノ手見エタリ。村中ノ者寄集マリ殺サンカ宥サンカト評議セシガ、結局今後ハ村ノ馬ニ惡戲ヲセヌト云フ堅キ約束ヲサセテ之ヲ放シタリ。其河童今ハ村ヲ去リテ相澤ノ瀧壺ニ行キテ住メリ〔以上〕。此ノ話ノ中ニテ新シキ部分ハ河童ノ引キタルハ馬ノ尻尾ニ非ズシテ口綱ナリシコト、及ビ途中ニテ手ヲ切ラレシ代リニ厩ノ口ニ於テ不覺ノ生恥ヲ晒セシコトナリ。【口碑ノ爭】此類ノ話ハ諸國ノ村里ニ何程モ傳ハリ、而モ何レノ村ニ於テモ皆之ヲ我ガ處ノ歷史ナリト信ジ居リ、偶同ジ傳ノ他地方ニ存スルヲ聞ケバ、互ニソレハ我村ノヲ持去リシナラント言フ。多クノ中ニハ旅人ナドガ他國ニテ聞キ歸リテ話シタルヲ、子孫ノ者之ヲ村内某地ノ出來事ナリト誤リタルモ無シトハ言ヒ難ケレド、元來此傳ノ如キハ實ハ夙クヨリ全國ノ共有物タリシナリ。仍テ茲ニハ如何ナル程度ニマデ此話ノ分布シテアルカヲ明白ニセント欲ス。

 

《訓読》

馬に惡戲(いたづら)して失敗したる河童  明治四十三年に出版せし「遠野物語」の中に左のごとき一話あり。【姥子(をばこ)】陸中遠野の町に近き小烏瀨川(こがらせがは)の姥子淵(をばこふち)の邊りに「新屋(しんや)の家」と云ふ家あり。【厩(うまや)】或る日、馬を淵へ冷しに行き、馬曳(うまひき)の兒は外へ遊びに行きてありし間に、河童、川より出でて、其の馬を引き込まんとし、却つて馬に引きずられて、家の厩の前に來たり、馬槽(うまふね)に覆はれてありき。家の者、馬槽の伏せてあるを怪しみ、些(すこ)しく之をもたげ見るに、河童の手、見えたり。村中の者、寄り集まり、「殺さんか、宥(ゆる)さんか」と評議せしが、結局、「今後は村の馬に惡戲をせぬ」と云ふ堅き約束をさせて、之れを放したり。其の河童、今は村を去りて、相澤の瀧壺に行きて、住めり〔以上〕。此の話の中にて新しき部分は、河童の引きたるは馬の尻尾に非ずして口綱(くちづな)なりしこと、及び、途中にて手を切られし代りに、厩の口に於いて不覺の生恥(いきはぢ)を晒(さら)せしことなり。【口碑の爭(あらそひ)】此の類の話は、諸國の村里に何程(いかほど)も傳なり、而も、何れの村に於いても、皆、之れを「我が處の歷史なり」と信じ居り、偶々(たまたま)同じ傳の、他地方に存するを聞けば、互に、「それは我が村のを持ち去りしならん」と言ふ。多くの中には、旅人などが、他國にて聞き歸りて、話したるを、子孫の者、之れを「村内某地の出來事なり」と誤りたるも、無しとは言ひ難(がた)けれど、元來、此の傳のごときは、實は夙(はや)くより、全國の共有物(きよういうぶつ)たりしなり。仍(より)て、茲(ここ)には如何なる程度にまで此の話ノ分布してあるかを明白にせんと欲す。

[やぶちゃん注:「明治四十三年」一九一〇年。「遠野物語」は同年六月十四日に『著者兼發行者』を『柳田國男』として東京の聚精堂より刊行された。本書刊行の四年前。

『「遠野物語」の中に左のごとき一話あり』私は本年元旦に、本ブログ・カテゴリ「柳田國男」で『佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版)』の全電子化を終わっている。ここで柳田國男が引いているのは、その「五八」である。

「小烏瀨川(こがらせがは)の姥子淵(をばこふち)」サイト「川の地図」のこちらで位置情報を確認出来る。東方聖地@ ウィキの「カッパ淵もよく、解説や資料提示が後者は豊富である。画像は「遠野物語」の強力な個人サイトである dostoev氏の『不思議空間「遠野」-「遠野物語」をwebせよ!-』の『遠野不思議 第三百九十三話「姥子淵」』がよく、その解説によれば、『この姥子淵には道は無いので、密林とまではいかないけれど、藪を掻き分け進まないと辿り着けない。また湿地帯でもあるので、足元には気を付けないといけない』し、蛇もいるとあり、しかし、『遠野にある河童淵の中において、一番』、『佇まいは美しいかもしれない』と評されておられる。]

2019/01/20

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版)附錄「自由詩のリズムに就て」~靑猫(初版・正規表現版)~完遂

 

  附  錄

 

[やぶちゃん注:。以上の「附錄」は前の「詩集 靑猫 完」(この注では字配・ポイントは無視した)とあったページの見開き左ページ(ノンブル無し。中央に一行で配されてある。なお、以下の「自由詩のリズムに就て」はノンブルを新たに「1」から起こして振ってある。附録とは言うものの、この標題「附錄」を含めて全五十一ページにも亙る長大な代物である。詩集本文が内表紙を含めて二百二十ページ、その前に扉「序」「凡例」「目次」で二十九ページ分があるから、全部で三百ページ(挿絵四葉を除く)となるから、実に詩集の六分の一がこの「自由詩のリズムに就て」というくだくだしい評論で占められていることになる。

 

 

自由詩のリズムに就て

 

 

    自由詩のリズム

 

 歷史の近い頃まで、詩に關する一般の觀念はかうであつた。「詩とは言葉の拍節正しき調律卽ち韻律を踏んだ文章である」と。この觀念から文學に於ける二大形式、「韻文」と「散文」とが相對的に考へられて來た。最近文學史上に於ける一つの不思議は、我々の中の或る者によつて、散文で書いた詩――それは「自由詩」「無韻詩」又は「散文詩」の名で呼ばれる――が發表されたことである。この大膽にして新奇な試みは、詩に關する從來の常識を根本からくつがへしてしまつた。詩に就いて、世界は新らしい槪念を構成せねばならぬ。」

[やぶちゃん注:・「拍節」音楽理論用語。音楽のリズム構造に於いて、何度も繰り返される等時的な最小単位、つまり「拍」が存在し、しかもその拍が二個以上結合して纏まりを有する際の性質を「拍節」と称し、その音楽を「拍節的である」とか「拍節が明確である」などと表現する。言い換えれば、拍節とは継起する固定的なリズム・パターンであり、リズムそのものと混同してはならない。リズムの中には非拍節的なものも存在する(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

・最後の鍵括弧閉じるはママ。萩原朔太郎の誤記或いは誤植。]

 勿論、そこでは多くの議論と宿題とが豫期される。我我の詩の新しき槪念は、それが構成され得る前に、先づ以て十分に吟味せねばならぬ。果して自由詩は「詩」であるかどうか。今日一派の有力なる詩論は、毅然として「自由詩は詩に非ず」と主張してゐる。彼等の哲學は言ふ。「散文で書いたもの」は、それ自ら既に散文ではないか。散文であつて、同時にまたそれが詩であるといふのは矛盾である。散文詩又は無韻詩の名は、言語それ自身の中に矛盾を含んで居る。かやうな槪念は成立し得ない。元來、詩の詩たる由所――よつて以てそれが散文から類別される由所――は、主として全く韻律の有無にある。韻律を離れて尚詩有りと考ふるは一つの妄想である。けだし韻律(リズム)と詩との關係は、詩の起元に於てさへ明白ではないか。世界の人文史上に於て、原始民族の詩はすべて明白に規則正しき拍節を踏んでゐる。言語發生以前、彼等は韻律によつて相互の意志を交換した。韻律は、その「規則正しき拍節の形式」によつて我等の美感を高翔させる。詩の母音は此所から生れた。見よ、詩の本然性はどこにあるか。原始の純樸なる自然的歌謠――牧歌や、俚謠や、情歌や――の中に、一つとして無韻詩や自由詩の類が有るか。

[やぶちゃん注:・二箇所の「由所」は「由緖」の誤記であろうから、「ゆいしよ(ゆいしょ)」と読んでおく。なお「所由」で「しよいう(しょゆう)」と読み、「基づくところ・物事の由って来たるところ・所以」の意があり、妙な熟語には見えるが、意味は通る。筑摩書房版全集校訂本文(ここでは向後は「筑摩版」と略す)は否応なしに二箇所とも『所以』と消毒している。

・「起元」ママ。筑摩版は『起原』と消毒。]

 我我の子供は、我我の中での原始人である。彼等の生活はすべて本然と自然とにしたがつて居る。されば子供たちは如何に歌ふか。彼等の無邪氣な卽興詩をみよ。子供等の詩的發想は、常に必ず一定の拍節正しき韻律の形式で歌はれる。自然の狀態に於て子供等の作る詩に自由詩はない

[やぶちゃん注:・太字は底本では傍点「・」(少しだけ大きめの黒点)。以下、この「自由詩のリズム」の章内では最後まで同じなのでこの注は略す

 そもそも如何にして韻律(リズム)がこの世に生れたか。何故に詩が、韻律(リズム)と密接不離の關係にあるか。何故に我等が――特に我等の子供たちが――韻律(リズム)の心像を離れて詩を考へ得ないか。すべて此等の理窟はどうでも好い。ただ我等の知る限り、此所に示されたる事實は前述の如き者である。詩の發想は本然的に音樂の拍節と一致する。そして恐らく、そこに人間の美的本能の唯一な傾向が語られてあるだらう。宇宙の眞理はかうである。「原始(はじめ)に韻律があり後に言葉がある。」この故に、韻律を離れて詩があり得ない。自由詩とは何ぞや、無韻詩とは何ぞや、不定形律の詩とは何ぞや。韻律の定まれる拍節を破却すれば、そは卽ち無韻の散文である。何で此等を「詩」と呼ぶことができやうぞ。

[やぶちゃん注:・最後の「できやうぞ」はママ。]

 かくの如きものは、自由詩に對する最も手(てごは)い拒である。けれどもその論旨の一部は、單なる言語上の空理を爭ふにすぎない。そもそも自由詩が「散文で書いたもの」である故に、同時にそれが詩であり得ないといふ如き理窟は、理窟それ自身の詭辯的興味を除いて、何の實際的根據も現在しない。なぜといつて我等の知る如く、實際「散文で書いたもの」が、しばしば十分に詩としての魅惑をあたへるから。そしていやしくも詩としての魅惑をあたへるものは、それ自ら詩と呼んで差支へないであらう。もし我等にして、尚この上この點に關して爭ふならば、そは全く「詩」といふ言葉の文字を論議するにすぎない。暫らく我等をして、かかる槪念上の空論を避けしめよ。今、我等の正に反省すべき論旨は別にある。

 しばしば淺薄な思想は言ふ。「自由詩は韻律の形式に拘束されない。故に自由であり、自然である。」と。この程度の稚氣は一笑に價する。反對に、自由詩に對する非難の根柢はそれが詩として不自然な表現であるといふ一事にある。この論旨のために、我我の反對者が提出した前述の引例は、すべて皆眞實である。實際、上古の純樸な自然詩や、人間情緖の純眞な發露である多くの民謠俗歌の類は、すべて皆一定の拍節正しき格調を以て歌はれて居る。人間本然の純樸な詩的發想は、歸せずして拍節の形式と一致して居る。不定形律の詩は決して本然の狀態に見出せない。ばかりでなく、我我自身の場合を顧みてもさうである。我我の情緖が昂進して、何かのい詩的感動に打たれる時、自然我々の言葉には抑揚がついてくる。そしてこの抑揚は、心理的必然の傾向として、常に音樂的拍節の快美な進行と一致する故に、知らず知らず一定の韻律がそこに形成されてくる。一方、詩興はまたこの韻律の快感によつて刺激され、リズムと情想とは、此所に互に相待ち相助けて、いよいよ益々詩的感興の高潮せる頂に我等を運んで行くのである。かくて我等の言葉はいよいよ滑らかに、いよいよ口調よく、そしていよいよ無意識に「韻律の周期的なる拍節」の形式を構成して行く。思ふにかくの如き事態は、すべての原始的な詩歌の發生の起因を明する。詩と韻律の關係は、けだし心理的にも必然の因果である如く思はれる。

[やぶちゃん注:・「見出せない。ばかりでなく」の句点はママで、一種の強調形である。ここは流石に筑摩版もママである。]

 然るに我等の自由詩からは、かうした詩の本然の形式が見出せない。音樂的拍節の一定の進行は、自由詩に於て全く缺けてゐる者である。ばかりでなく、自由詩は却つてその「規則正しき拍節の進行」を忌み、俗語の所謂「調子づく」や「口調のよさ」やを淺薄幼稚なものとして擯斥する。それ故に我等は、自由詩の創作に際して、しばしば不自然の抑壓を自らの情緖に加へねばならぬ。でないならば、我等の詩興は感興に乘じて高翔し、ややもすれば「韻律の甘美な誘惑」に乘せられて、不知不覺の中に「口調の好い定律詩」に變化してしまふ恐れがある。

[やぶちゃん注:・「擯斥」「ひんせき」と読み、「しりぞけること・のけものにすること」で、「排斥」に同じい。]

 元來、詩の情操は、散文の情操と性質を別にする。詩を思ふ心は、一つの高翔せる浪のやうなものである。それは常に現實的實感の上位を跳躍して、高く天空に向つて押しあげる意志であり、一つの甘美にして醱酵せる情緖である。かかる種類の情操は、決して普通の散文的情操と同じでない。したがつて詩の情操は、自然また特種な詩的表現の形式を要求する。言ひ換へれば、詩の韻律形式は、詩の發想に於て最も必然自由なる自然の表現である。然り、詩は韻律の形式に於てこそ自由である。無韻律の不定形律――卽ち散文形式――は、詩のために自由を許すものでなくして、却つて不自由をゐるものである。然らば「自由詩」とは何の謂ぞ。所謂自由詩はその實「不自由詩」の謂ではないか。けだし、「散文で詩を書く」ことの不自然なのは、「韻文で小を書く」ことの不自然なのと同じく、何人(なんぴと)にも明白な事實に屬する。

[やぶちゃん注:・「ゐる」はママ。]

 自由詩に對するかくの如き論難は、彼等が自由詩を「散文で書いたもの」と見る限りに於て正當である。そしてまた此所に彼等の誤謬の發端がある。なぜならば眞實なる事實として、自由詩は決して「散文で書いたもの」でないからである。しかしながらその辯明は後に讓らう。此所では彼等の言にしたがひ、また一般の常識的觀念にしたがひ、暫らくこの假を許しておかう。然り、一般の觀念にしたがふ限り、自由詩は確かに散文で書いた「韻律のない詩」である。故にこの見識に立脚して、自由詩を不自然な表現だと罵るのは當を得て居る。我等はあへてそれに抗辯しない。よしたとへ彼等の見る如く、自由詩が眞に不自然な者であるとした所で、尚且つあへて反駁すべき理由を認めない、なぜならばこの「自然的でない」といふ事實は、この場合に於て「原始的でない」を意味する。しかして文明の意義はすべての「原始的なもの」を「人文的なもの」に向上させるにある。されば大人が子供よりも、文明人が野蠻人よりも、より價値の高い人間として買はれるやうに、そのやうにまた我等の成長した叙情詩も、それが自然的でない理由によつてすら、原始の素樸な民謠や俗歌よりも高價に買はるべきではないか。けだし自由詩は、近世紀の文明が生んだ<