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2019/01/12

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(2)

 

《原文》

非類靈藥ヲ知ル  鹿狐ノ徒ガ山中ニ於テ手療治ヲ試ミ居タリト云フ口碑ハ、モト靈泉ノ奇特ガ天然ニ具備スル者ニシテ、自ラ無知ノ鳥獸ヲ感應セシムルニ足リ、世ノ常ノ醫藥ノ如ク人間ノ智巧ヲ以テ作リ上ゲタル者ニ非ザルコトヲ意味シ、素朴單純ナル前代ノ人ヲシテ容易ニ其ノ有難味ヲ悟ラシムルコトヲ得。始メテ此ノ噂ヲ立テタル人若シ有リトスレバ物ノ分ツタ人ナリ。イヅレ御寺ノ和尚カ何カニテ、カノ行基菩薩弘法大師性空上人ナドヲ日本國ノ隅々マデモ引張リマハシ、終ニ之ヲ世界ニ稀ナル大旅行家トシタル人々ノ所業ナルカモ知レズ。但シ人間ガ非類ノ物ヨリ生活方法ノ一部ヲ模倣シタリト云フ話ハ外ニモアリ。獨リ鷺之湯鹿之湯等ノ由來記ニ限リシコトニハ非ズ、昔ノ日本人ニハ耳馴レタル物語ナリシナリ。【淺瀨】例ヘバ下總ノ鴻ノ臺ハ、曾テ小田原北條ノ軍勢攻メ寄セシ時、搦手ノ備薄キ處ヲ突カント欲シテ川ノ瀨ヲ知ルニ苦シム。時ニ中流ニ鴻ノ立ツヲ見テ漸ク渡ルコトヲ待タルガ故ニ此ノ地名ハ起リシニテ、之ヲ國府臺トスルハ誤リナリト云リアリ〔十方庵道産雜記初篇上〕。【薤】鷺ニ就テモ古クヨリ一ノ話ヲ傳フ。丹波國ニ住ム者靑鷺ヲ射ル。後ニ家ノ薤(ニラ)畠ヲ來テ荒ス者アリ。暗中ニコレヲ射止ムレバ前ニ遁ゲタル鷺ナリ。薤ノ葉其ノ傷ノ矢ノ板ニ卷キ附キテアリ。矢創ヲ癒ヤサンガ爲ニ薤ヲ摘ミシヲ知リ、之ヲ憫ミテ佛門ニ入ル云々〔三國傳記〕。薤ノ金創(キンサウ)ニ效アルコトハ兎ニ角動物ヨリ教ヘラレタリト見ユ。【雀】下野雀宮(スヾメノミヤ)ノ由來ニ、曾テ針ヲ包ミタル饅頭ヲ人ニ欺カレテ丸吞ニシ大イニ苦シミ居タル男、庭前ノ雀ガ草ヲ口ニシテ弱リタル友雀(トモスヾメ)ニ食ハスヲ見ル。ヤガテ其ノ雀尻ヨリ光レル物ヲ出シ元氣快復ス。光ル物ハ針ニシテ草ハ即チ薤ナリ。男モ之ニ習ヒテ薤ヲ食ヒテ針ヲ出シ雀ノ恩ヲ謝シテ神ニ祀ルトアリ〔東國旅行談〕。【無名異】佐渡ノ島ニハ無名異(ムミヤウイ)ト云フ一種ノ鑛物ヲ出ス。今日ハ茶碗ヤ盃ヲ燒ク原料ナレド、本來ハ血止ノ妙藥ナリ。【雉】始メテ其ノ效能ヲ知リタルハ、或時網ノ爲ニ足ヲ損ジタル一羽ノ雉、小石ヲ以テ傷所ヲ摩擦シ程無ク飛去ルヲ見テ、其ノ石ノ外科ノ治療ニ用立ツヲ知リ得タルナリト云フ。此ノ話ハ支那ノ書ニモ之ヲ揭ゲタレド〔本草綱目〕、【佐渡島】佐渡ニテハ此ヲ彼島ノ出來事ナリト傳フ。此ノ島ニハ黃金ヲ産スル故ニ金ノ隣ノ土マデモ何ト無ク價値ヲ認メラルルニ至リシナラン。雉ハ桃太郞以來ヨク色々ノ援助ヲ與ヘタリ。或人獵ニ出デ如何ニ狙ヒテモ鐵砲ノ中ラヌ雉ヲ見ル。不思議ニ思ヒテ網ヲ以テ之ヲ生捕リ、翼ノ下ヲ檢スレバ小サキ紙アリ。1抬2(シヤクコウシヤクカク)ノ四字ヲ書ス[やぶちゃん注:「1」=「扌」+{(つくり)(上)「合」+(下)「辛」}。「2」-「扌」+{(つくり)(上)「巳」+(下)「力」}]。即チ仙人道士ノ祕傳タル護身ノ符字(フジ)ナリ〔難波江六〕。鐵砲ノ玉ヲ除ケテ網ノ厄ヲ免レシムルコト能ハザリシ矛盾ハ、自分ノ明シ得ザル點ナレド、兎ニ角ニ是ガ百年前ノ稀有ノ出來事ニハ非ズシテ、現ニ日露戰爭ノ際ニモ、右ノ雉ノ守札ヲ身ニ帶ビテ出陣セシ勇士多カリシコトハ事實ナリ。

 

《訓読》

非類靈藥を知る  鹿・狐の徒(と)[やぶちゃん注:輩(やから)。]が、山中に於いて手療治(てりやうじ)[やぶちゃん注:(医者にかからずに)自分で治療すること。]を試み居たりと云ふ口碑は、もと、靈泉の奇特(きどく)が天然に具備する者にして、自(みづか)ら無知の鳥獸を感應せしむるに足(た)り、世の常の醫藥のごとく、人間の智巧(ちかう)[やぶちゃん注:物事を成す才知に優れていること。]を以つて作り上げたる者に非ざることを意味し、素朴單純なる前代の人をして容易に其の有難味を悟らしむることを得。始めて此の噂を立てたる人、若(も)し有りとすれば、物の分つた人なり。いづれ、御寺の和尚か何かにて、かの行基菩薩・弘法大師・性空(しやうくう)上人なども、日本國の隅々までも、引つ張りまはし、終(るゐ)に之れを世界に稀れなる大旅行家としたる人々の所業なるかも知れず。但し、人間が非類[やぶちゃん注:人間以外の禽獣などを指す。]の物より、生活方法の一部を模倣したり、と云ふ話は外にもあり。獨り、「鷺の湯」・「鹿の湯」等の由來記に限りしことには非ず、昔の日本人には耳馴れたる物語なりしなり。【淺瀨】例へば下總の「鴻の臺(こうのだい)」は、曾つて、小田原北條の軍勢、攻め寄せし時、搦手(からめて)の備(そなへ)薄き處を突かんと欲して、川の瀨を知るに、苦しむ。時に中流に鴻(こう)の立つを見て、漸(やうや)く渡ることを待たるが故に、此の地名は起りしにて、之れを「國府臺(こふのだい)」とするは誤リナリト云ふアリ〔「十方庵道産雜記」初篇上〕。【薤(にら)】鷺に就きても古くより一(ひとつ)の話を傳ふ。丹波國に住む者、靑鷺を射る。後に、家の薤(にら)畠を、來て荒す者、あり。暗中にこれを射止むれば前に遁げたる鷺なり。薤の葉、其の傷の矢の板に卷き附きて、あり。矢創(やきず)を癒やさんが爲に薤を摘みしを知り、之れを憫(あはれ)みて、佛門に入る云々〔「三國傳記」〕。薤の金創(きんさう)に效あることは兎に角、動物より教へられたりと見ゆ。【雀】下野(しもつけ)雀宮(すゞめのみや)の由來に、曾つて針を包みたる饅頭(まんじう)を人に欺(あざむ)かれて丸吞(まるのみ)にし、大いに苦しみ居たる男、庭前の雀が、草を口にして、弱りたる友雀(ともすゞめ)に食はすを見る。やがて、其の雀、尻より光れる物を出(いだ)し、元氣、快復す。光る物は針にして、草は、卽ち、薤なり。男も之れに習ひて、薤を食ひて、針を出(いだ)し、雀の恩を謝して神に祀る、とあり〔「東國旅行談」〕。【無名異】佐渡の島には「無名異(むみやうい)」と云ふ一種の鑛物を出(いだ)す。今日は茶碗や盃を燒く原料なれど、本來は血止(ちどめ)の妙藥なり。【雉】始めて其の效能を知りたるは、或る時、網の爲に足を損じたる一羽の雉、小石を以つて傷所(きずどころ)を摩擦し、程無く飛び去るを見て、其の石の外科の治療の用立(ようだ)つを知り得たるなりと云ふ。此の話は支那の書にも之れを揭(かか)げたれど〔「本草綱目」〕、【佐渡島】佐渡にては此れを彼(か)の島の出來事ナリト傳ふ。此の島には黃金を産する故に、金の隣の土までも、何と無く、價値を認めらるるに至りしならん。雉は桃太郞以來、よく、色々の援助を與へたり。或る人、獵に出で、如何に狙ひても、鐵砲の中らぬ雉を見る。不思議に思ひて網を以つて之れを生け捕り、翼の下を檢(けみ)スレバ小さき紙あり。「1抬2(しやくこうしやくかく)」の四字を書(しよ)す[やぶちゃん注:「1」=「扌」+{(つくり)(上)「合」+(下)「辛」}。「2」-「扌」+{(つくり)(上)「巳」+(下)「力」}]。卽ち、仙人道士の祕傳たる護身の符字(ふじ)なり〔「難波江」六〕。鐵砲の玉を除(よ)けて、網の厄(やく)を免(まぬか)れしむること能はざりし矛盾は、自分[やぶちゃん注:柳田國男。]の明し得ざる點なれど、兎に角に、是れが百年前の稀有(けう)の出來事には非ずして、現(げん)に日露戰爭の際にも、右の雉の守札(まもりふだ)を身に帶びて出陣せし勇士、多かりしことは事實なり。

[やぶちゃん注:「性空上人」(延喜一〇(九一〇)年~寛弘四(一〇〇七)年)は平安中期の天台僧。父は従四位下橘善根。俗名は橘善行。京都生まれ。「書写上人」とも呼ばれる。三十六の時、慈恵大師(元三大師)良源に師事して出家、霧島山や筑前国脊振山で修行し、康保三(九六六)年に播磨国書写山に入山し、国司藤原季孝の帰依を受けて圓教寺(西国三十三所霊場の一つ)を創建、花山法皇・源信(恵心僧都)・慶滋保胤の参詣を受けている。天元三(九八〇)年(年)には蔵賀上人とともに比叡山根本中堂の落慶法要に参列している。早くから、山岳仏教を背景とする聖(ひじり)の系統に属する法華経持経者として知られ、存命中から多くの霊験があったことが伝えられている(以上はウィキの「性空」に拠った)。

『下總の「鴻の臺(こうのだい)」』現在の千葉県市川市国府台(グーグル・マップ・データ)。戦国時代、国府台城があった。この城は扇谷上杉家の家臣であった太田道灌が文明一〇(一四七八)年十二月に武蔵千葉氏を継承した千葉自胤(よりたね)を助けて、下総国境根原(現在の千葉県柏市酒井根付近)での合戦を前に、国府台の地に仮陣を築いたことに始まるものであるが(ウィキの「国府台城」に拠る)、古くは下総国国府が置かれていたと、ウィキの「国府台(市川市)」にはある。そうなると、この「鴻の台」説は分が悪い。なお、国府台城址は現在、「里見公園」となっている。

「小田原北條の軍勢、攻め寄せし時」戦国時代、小田原北条氏と、里見氏を始めとする房総諸将との間で戦われた「国府台合戦」(天文七(一五三八)年の第一次合戦と、永禄六(一五六三)年と翌七年の第二次合戦に分けられる)の戦場で、第一次のそれは、江戸川沿いにあった国府台城に天文七年十月に足利義明(第二代古河公方足利政氏の子)が里見義堯(よしたか)・真里谷信応(まりやつのぶまさ)らの軍兵一万を従えてに入り、対する北条氏綱も嫡男氏康や、弟の長綱ら、二万の軍兵を率いて、江戸城に入って、十月七日、緖戦が開始されたが、足利義明は戦死し、里見義堯は義明戦死の報を受けるや、一度も交戦することなく戦線を離脱、北条軍は真里谷信応を降伏させた上で、彼の異母兄信隆を真里谷氏当主とした。これによって勢力地図が一変して権力の「空白域」と化した上総国南部には、この戦いで殆んど無傷であった里見義堯が進出、真里谷氏の支配下にあった久留里城・大多喜城などを占領して房総半島の大半を手中に収めることになった。第二次は第一次合戦後に国府台は千葉氏重臣小金城主高城胤吉の所領になったが、千葉氏が北条氏の傘下に入ったため、同地も事実上、北条領となっていた。永禄六(一五六三)年になって北条氏康と武田信玄が、上杉謙信方の武蔵松山城を攻撃した際、謙信の要請を受けた里見義堯が、嫡男義弘を救援に向かわせた際、この国府台で、これを阻止しようとする北条軍と衝突したとされる戦いを指す。結局、里見軍は上杉派の太田資正らの支援を受けて武蔵には入ったものの、松山城が陥落したため、両軍ともに撤退して終わった。その他詳しくは参考にしたウィキの「国府台合戦を見られたい。

「鴻(こう)」既出既注。これも私はヒシクイ(カモ科マガン属ヒシクイ Anser fabalis serrirostris。本邦に渡り鳥として南下してくるのは他に、オオヒシクイ Anser fabalis middendorffii がいる)で採りたい。中型クラス(孰れも七十八センチメートルから一メートル程度)の彼ら雁(がん)が立っているから、浅瀬だと読む方がシークエンスとしては洒落れていると判断するからである。

「薤(にら)」「韮」「韭」とも書く。単子葉植物綱キジカクシ目ヒガンバナ科ネギ属ニラ Allium tuberosum。種子は「韮子(きゅうし)」という生薬として腰痛・遺精・頻尿に使い、葉は「韮白(きゅうはく)」という生薬で強精・強壮作用がある、とウィキの「ニラ」にはあるが、外傷に効くとは、ない。

「靑鷺」私の好きな哲人、ペリカン目サギ科サギ亜科アオサギ属亜アオサギ亜種アオサギ Ardea cinerea jouyi。私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 蒼鷺(アオサギ)」を参照されたい。

「下野(しもつけ)雀宮(すゞめのみや)」現在の栃木県宇都宮市雀宮町(ちょう)にある雀宮神社(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「雀宮神社」によれば、『旧社格は郷社』。『歴史と趣のある神社として、地元民に敬愛されている。この地域を治めていた宇都宮氏の信仰は篤く、雀宮神社を、城を守る四神の内、南の『朱雀』と位置づけ、城主がしばしば遠乗りをしてお参りに来たと』伝え、『雀宮神社は皇族である御諸別王』(みもろわけのおう:「日本書紀」等に伝わる古代日本の皇族で、豊城入彦命(とよきいりひこのみこと:崇神天皇皇子)の三世孫で彦狭島王(ひこさしまおう)の子)『を祭神としていることから』、正徳三(一七一三)年、『東山天皇から金文字で『雀宮』と書かれた勅額が掲げられていたため、日光社参をする将軍家をはじめとして、諸大名は下馬して参拝したと』もいう。『この神社の創建年代などについては不詳であるが、この神社の周辺の地名の由来ともなった神社であり、日光街道・日光東往還の雀宮宿が置かれた』。『伝承によれば、由緒は、平安時代に遡る。かつて台新田村雀宮宿と称しており』、長徳三(九九七)年に『創建されたと伝わる』。『一条天皇』『の御代、藤原実方が陸奥守(むつのかみ)に任ぜられ、陸奥国へと赴く途中、当地に滞在したのち、任国へと下ったという』。『実方の妻、綾女(あやめ)が、実方を慕って任国に向かおうとした。綾女姫が当地まで来たところ、重篤な病に伏せり、臨終の床で、次のように遺言したとされる』。『「われ、夫中将実方を陸奥国にまで尋ね参らせんとせしが、病のため、此処にて死す。われの持てるこの宝珠は、大日孁尊(だいにちれいそん=天照大神)と、素盞嗚命(すさのおのみこと)との盟約の折の宝珠な』る『が、藤原家に預け置かれり。藤原家の宝珠なれど、この地に止めさせ、産土神(うぶすながみ)と斎き祀り(いつきまつり)せば、当地は長く繁栄なるべし。」』と。『郷人等はその遺言を奉じて、その宝珠を土地の産土神として尊く祀ったという』。『その後、長徳三』(九九七)年九月十九日、『藤原実方がこの地を訪れて、神社を創建し、後に自身も合祀されたとも伝わる』。明治三五(一九〇二)年に記された「下野神社沿革誌」に『よると、雀宮神社と綾女神社は元来』、『それぞれに』、祭神 素戔嗚命 相殿一座藤原實方朝臣命(雀宮神社) 祭神宇賀御魂命(綾女神社)『とされている。境内社として祀られていた綾女神社は』、明治四二(一九〇九)年『五月、湯殿神社とともに雀宮神社に合祀された記録がある。現在』、『境内社として祀られている綾女稲荷神社と同一とは判然されないが、綾女姫の伝承から祀られたものとみられる』。『また、この地に伝えられる言説に、御諸別王(みもろわけのきみ)を祭神とする説がある』。『御諸別王が、東国を治めた際に、雀宮周辺を本拠地とされ』、「日本書紀」の『「早くより善政を得たり」とした記述があるとされている。そのため、後に人々から「鎮(しずめ)の宮」と尊称されたという。雀宮神社の祭神として祀られたという御諸別王を実質的な祖とした毛野氏一族は東国第一の豪族である。そうした関連性からであろうと思われるが、八幡太郎義家(源義家)が御諸別王を祭神として祀ったという』とある。小学館「日本国語大辞典」の「雀宮」を引くとに、(は上記の神社のある地名・宿駅)まさにここに書かれた逸話が、『伝説的昔話』として記されてある。『間男した妻に謀られて、男が針がはいった餠を食べさせられて苦しんでいると』、『やはり一羽の雀が苦しんでいる。別な雀が来て草を食わせると尻から針が出たのを見て、男は韮(にら)を食べると』、『針が出たので、雀を大明神にまつったという』とある。この雀と針の由来譚は後付けであろう。「鎮めの宮」の転訛の方がまだ信じられる。

「無名異(むみやうい)」佐渡で産する硫化鉄を多量に含んだ赤色の粘土。ウィキの「無名異焼によれば、この土は『止血のための漢方薬でもあった。また、佐渡金山採掘の際に出土したため、その副産物を陶土に利用して焼かれ』始めた。文政二(一八一九)年に『伊藤甚平が無名異を使って楽焼を焼いたのが始まりで、安政四(一八五九)年に『伊藤富太郎が本格化させた』のが、現在に「無名異焼(むみょういやき)」として伝承されてある。

「此の話は支那の書にも之れを揭(かか)げたれど〔「本草綱目」〕」「本草綱目」「金石之三」に「無名異」が載る。

   *

無名異【宋「開寶」。】

釋名時珍曰、無名異、瘦詞也。

集解志曰、無名異出大食國、生於于上、狀如黑石炭。番人以油煉鍊如石、嚼之如餳。頌曰、今廣州山石中及宜州南八里龍濟山中亦有之。黑褐色、大者如彈丸、小者如黑石子、采無時。曰、無名異形似石炭、味別。時珍曰、生川、廣深山中、而桂林極多、一包數百枚、小黑石子也、似蛇黃而色黑、近處山中亦時有之。用以煮蟹、殺腥氣、煎煉桐油、收水氣、塗剪剪燈、則燈自斷也。

氣味甘、平、無毒。頌曰、鹹、寒。伏硫黃。

主治金瘡折傷内損、止痛、生肌肉【「開寶」】。消腫毒癰疽、醋磨敷之【蘇頌】。收濕氣【時珍】。

發明時珍曰、按「雷炮炙論序」云、無名止楚、截指而似去甲毛。崔昉「外丹本草」云、無名異、陽石也。昔人見山雞被網損其足、去、銜一石摩其損處、遂愈而去。乃取其石理傷折、大效、人因傅之。

[やぶちゃん注:「附方」は略す。]

   *

太字下線は私が引いたが、「山雞」とは中国南部に棲息するキジ目キジ科コシアカキジ属 Lophura のことだ。まさにそのまんまではないか。これは民俗学上の平行進化ではあり得ないことだと思う。

「雉の守札」佐渡にはもう三度も行っているが、この話は知らない。今度行ったら、調べてみよう。]

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