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2019/01/17

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(6) 「羅城門」

 

《原文》

羅城門 肥前ト甲斐常陸トノ河童談ヲ比較シテ、最初ニ注意シ置クべキコトハ、【馬】後者ニハ馬ト云フ第三ノ役者ノ加ハリテアルコト也。但シ釜無川ノ川原、又ハ手奪川(テバヒガハ)ノ橋ノ上ニ在リテハ、馬ハマダ單純ナル「ツレ」ノ役ヲ勤ムルニ過ギザレドモ、追々硏究ノ步ヲ進メ行クトキハ、此系統ノ物語ニ於テハ、馬ガ極メテ重要ナル「ワキ」ノ役ヲ勤ムべキモノナルコトヲ知ル。ソレニハ先ヅ順序トシテ羅城門ノ昔話ヲ想ヒ起ス必要アリ。昔々源氏ノ大將軍攝津守殿賴光ノ家人ニ、渡邊綱通稱ヲ箕田源二ト云フ勇士アリ。武藏ノ國ヨリ出タル人ナリ。或夜主人ニ命ゼラレテ羅城門ニ赴キ、鬼ト鬪ヒテ其片腕ヲ切取リテ歸リ來ル。【伯母】其腕ヲ大事ニ保存シ置キタルニ、前持主ノ鬼ハ攝津ノ田舍ニ住ム綱ノ伯母ニ化ケテ訪問シ來リ、見セヌト云フ腕ヲ強ヒテ出サシメ之ヲ奪ヒ還シテ去ル。事ハ既ニ赤本乃至ハ凧ノ繪ニ詳カナリ。【鬼】羅城門ニハ古クヨリ樓上ニ住ム鬼アリテ惡キ事バカリヲ爲シ居タリシガ、一旦其毛ダラケノ腕ヲ箕田源ニ切ラレシ頃ヨリ、頓ニ其勢力ヲ失ヒシガ如クナレバ、多分ハ夫ト同ジ鬼ナランカ。而シテ其取戾シタル腕ハ歸リテ後之ヲ接ギ合セタリヤ否ヤ、後日譚ハ此世ニ傳ハラズト雖、兎ニモ角ニモ近代ノ河童冒險談ト頗ル手筋ノ相似タルモノアルハ爭フべカラズ。羅城門及ビ腕切丸ノ寶劍ノ話ハ、予ノ如キハ四歳ノ時ヨリ之ヲ知レリ。賴光サント太閤サントヲ同ジ人カト思ヒシ頃ヨリ之ヲ聞キ居タリ。全國ニ於テ之ヲ知ラヌ者ハアルマジト思ヘリ。然ルニ、海ヲ越エテ佐渡島ニ行ケバ、此話ハ忽チ變ジテ駄栗毛(ダクリゲ)左京ノ武勇談トナリテ傳ヘラル。左京ハ佐渡ノ本間殿ノ臣下ナリ。或年八月十三日ノ夜、河原田ノ館ヨリノ歸リニ、諏訪大明神ノ社ノ傍ヲ通ルトキ俄ノ雨風ニ遭フ。乘リタル馬ノ些シモ進マザルニ不審シテ後ノ方ヲ見レバ、雨雲ノ中カラ熊ノ如キ毛ノ腕ヲ延バシテ馬ノ尾ヲ摑ム者アリ。大刀ヲ拔キテ之ヲ斬拂ヘバ鬼女ノ形ヲ現ジテ遁レ行キ、其跡ニ一本ノ逞シキ腕ヲ落シテ在リ。之ヲ拾ヒテ我家ニ藏シ置キタルニ、其後每晚ノヤウニ彼ノ處ニ來テヲ叩キ哀願スル者アリ。【老女】九月モ中旬ニ及ビテ終ニ對面ヲ承諾シタル處、這奴ハ又化ケズトモ既ニ本物ノ老婆ナリキ。羅城門ノ鬼ノ如ク詐欺拐帶ヲモセズ、又何等ノ禮物ヲモ進上セザリシ代リニハ、散々ニ油ヲ取ラレテ閉口シ、悉ク其身上ヲ白狀シタル後、イトヾ萎ビタル右ノ古腕ヲ貰ヒ受ケテ歸リタリ。彼女ノ言ニ依レバ、以前ハ越後國彌彦山(イヤヒコサン)附近ノ農夫彌三郞ナル者ノ母ナリ。惡念增長シテ生キナガラ鬼女トナリシ者ナルガ、駄栗毛氏トノ固キ約束モアリテ、再ビ此島ニハ渡ラヌ筈ニテ國元へ還リ、後ニ名僧ノ教化ヲ受ケテ神樣トナル。【妙虎天】今ノ彌彦山ノ妙虎天(ミヤウトラテン)ト云フ祠ハコノ彌三郞ガ老母ナリ〔佐渡風土記〕。越後方面ニ傳ヘタル噂ニ依レバ、神ノ名ハ妙多羅天(ミヤウタラテン)トアリ。【姥神脇侍】岩瀨ノ聖了寺ノ眞言法印之ヲ濟度シ、今ハ柔和ナル老女ノ木像ト成ツテ[やぶちゃん注:ママ。]阿彌陀堂ノ本尊ノ脇ニ安置セラル。但シ話ノ少シク相違スルハ、腕ハ我子ノ爲ニ斬ラレタリト云フコト也。越後三島郡中島村ニ彌三郞屋敷ト云フ故迹アリ。鬼女ハ此地ノ出身ナリト云フ。彌三郞或夜鴨網ニ出掛ケテ鳥ヲ待チ居タルニ、不意ニ空中ヨリ彼ノ頭ノ毛ヲ摑ム者アリ。【鎌】持ツタル[やぶちゃん注:ママ。]鎌ヲ振ヒテ其腕ヲ斬取リ家ニ歸リシガ、母親ハ腹ガ痛ムト言ヒテ納ニ臥シ起キ出デズ。翌朝ノ外ヲ見レバ鮮血滴リテ母ノ窻ニ入レリ。老婆ハ片腕無キ爲ニ鬼女ナルコト露顯シ、終ニ家ヲ飛出シテ公然ト惡行ヲ營ムコトヽナリタリト云フ〔越後名寄四〕。此話ニハ言フ迄モ無ク前型アリ。今昔物語ノ中ニモ之ト似タル鬼婆ノ腕ノ話アリテ、忰ガ「スハ此カ」ト切リタル片腕ヲ母ノ寢處ニ擲ゲ込ミタリトアル話ナリ。而モ彌三郞婆ノ話ハ越後ニハ甚ダ多シ。【狼】刈羽郡中鯖石村大字善根(ゼコン)ニテハ、狼ニ成ツテ[やぶちゃん注:ママ。]漆山ト云フ處ニテ人ヲ食ヒ、後ニ我子ノ爲ニ退治セラレテ八石山(ハチコクサン)ニ入ルト傳フ。赤キ日傘ニ赤キ法衣ノ和尚ガ葬式ニ立ツトキハ、サテサテ有難イトムライヂヤト云ヒテ棺ヲ奪ヒ中ノ屍骸ヲ食フ故ニ、飛岡ノ淨廣寺ノ上人ノ代ヨリ靑キ日傘ニ靑キ法衣ト改メタリ〔日本傳説集〕。或ハ又妙太郞婆ノ話トナリテモ傳ヘラル。妙虎妙多羅妙太郞ノ名ノ由來ハ未ダ之ヲ明カニスルコト能ハズ。【火車】從ツテ[やぶちゃん注:ママ。]鬼カ火車カ、本體ヲ究ムルコト難ケレドモ、狼ノ老女トナル話ハ古クシテ且ツ弘シ〔鄕土硏究一ノ十二〕。【犬】越中婦負(ネヒ)郡櫻谷村大字駒見ノ古傳ニ依レバ、昔此里ニ「ユウユウ」ト云フ老尼アリ。【山伏】夜ハ犬トナリテ樣々ノ妖怪ヲ爲シケルガ、或時山伏ニ足ヲ斫ラレ、ソレヨリ此里ニ住マズ。【手紙】其後三年ホド經テ射水(イミヅ)郡ノ荒山ト云フ所ヨリ駒見ノ八右衞門ナル者ノ家へ書面ヲオコセタリ。犬ノ手跡トテ、人皆之ヲ見タリト云フ〔越中舊事記〕。然ルニ此話ニハ又一異傳アリ。此ヨリモ時代稍古ク且ツ土地ノ人ノ手ニ成リシ著書ニハ、之ヲ狼ナリト云ヘリ。昔駒見村ノ「ヨウユウ」ナル者ノ家ニ年久シク召使ヒシ姥ハ、狼ノ化ケテ人トナリシ者ナリキ。或山伏夜更ケテ呉服山(クレハヤマ)ノ古阪ヲ通リシニ、狼群レ來ツテ[やぶちゃん注:ママ。]附キ纏フ。山伏怖レテ喬木ニ攀上リケレバ、狼アマタ打重ナリ其上ニ姥跨ガリテ彼ヲ引下サントス。【片腕】山伏短刀ヲ拔キ其姥ノ肘ヲ打落セバ、下ノ狼モ散々ニナリテ遁去リタリ。夜明ケテ山伏樹ヨリ降リ、駒見村ヲ見掛ケテ暫ク憩ハント、カノ「ヨウユウ」ガ家ニ立寄リシニ、姥ハ傷痛ミテ叫キ號ビ打臥シ居タリシ處ニテ、山伏ノ姿ヲ見ルヤ否、逃ゲ出シソレヨリ行方ヲ知ラズ。此事御郡ノ舊記ニ出デタリトアリ〔肯構泉達錄十五〕。【赤岩一角】サレバカノ八犬傳ノ赤岩一角ノ如キモ、不運ナル化物ニハ相違ナキモ、其決シテ天下唯一ノ例ニ非ザリシコトハ、此等ノ話ニ由リテ十分ニ明白ニテアルナリ。

 右ノ駄栗毛左京ノ話ハ、妻鹿(メガ)孫三郞ノ話又ハ大森彦七ノ話ナドト同樣ニ、勿論羅城門或ハ一條戾橋(モドリバシ)ノ怪談ノ一變形ナルべキモ、二箇ノ極メテ肝要ナル點ニ於テ、甲州下條及ビ常州芹澤ノ河童ノ話ト相接近シ、二種類ノ昔話ノ中間ニ立ツ者トシテ大ナル價値アリ。其二點ト言フハ、一ハ鬼ガ馬ニ向ツテ惡戲ヲ試ミ失敗シタルコトナリ。【化物謝罪】二ニハ閉口謝罪ノ後腕ノ平穩ナル還付ヲ受ケテ退散シタルコトナリ。此二點ハ共ニ羅城門系統ノ話ニハ見ル所ナクシテ、多數ノ河童談ニハ皆之ヲ具フ。【鬼】但シ河童ト鬼トハ如何ニモ緣遠キノミナラズ、此等ノ話ニ在リテハ、馬ハ未ダ重大ナラザル端役ヲ勤ムルニ過ギズ。猶追々ト話ノ筋ノ進ムニ從ヒテ、始メテ其關係ニ非ザルヲ知リ得ルナリ。

 

《訓読》

羅城門 肥前と甲斐・常陸との河童談を比較して、最初に注意し置くべきことは、【馬】後者には馬と云ふ、第三の役者の加はりてあることなり。但し、釜無川の川原、又は手奪川(てばひがは)の橋の上に在りては、馬は、まだ、單純なる「ツレ」の役を勤むるに過ぎざれども、追々、硏究の步(あゆみ)を進め行くときは、此の系統の物語に於ては、馬が極めて重要なる「ワキ」の役を勤むべきものなることを知る。それには先づ、順序として、羅城門の昔話を想ひ起こす必要あり。昔々、源氏の大將軍攝津守殿賴光の家人(けにん)に、渡邊綱、通稱を箕田(みだ)源二と云ふ勇士あり。武藏の國より出でたる人なり。或る夜、主人に命ぜられて羅城門に赴き、鬼と鬪ひて、其の片腕を切り取りて歸り來たる。【伯母】其の腕を大事に保存し置きたるに、前(さきの)持主の鬼は攝津の田舍に住む綱の伯母に化けて訪問し來り、「見せぬ」と云ふ腕を、強ひて出さしめ、之れを奪ひ還して、去る。事は既に赤本乃至(ないし)は凧(たこ)の繪に詳かなり。【鬼】羅城門には古くより樓上に住む鬼ありて惡(あし)き事ばかりを爲し居(ゐ)たりしが、一旦、其の毛だらけの腕を箕田源二に切られし頃より、頓(とみ)に其の勢力を失ひしがごとくなれば、多分は夫(それ)と同じ鬼ならんか。而して其の取り戾したる腕は、歸りて後、之れを接(つ)ぎ合はせたりや否や、後日譚は此の世に傳はらずと雖、兎にも角にも近代の河童冒險談と頗る手筋の相似たるものあるは爭ふべからず。羅城門及び「腕切丸(うできりまる)」の寶劍の話は、予のごときは四歳の時より、之れを知れり。「賴光さん」と「太閤さん」とを同じ人かと思ひし頃より、之れを聞き居たり。全國に於いて之れを知らぬ者はあるまじと思へり。然るに、海を越えて佐渡島に行けば、此の話は忽ち變じて駄栗毛(だくりげ)左京の武勇談となりて傳へらる。左京は佐渡の本間殿の臣下なり。或る年、八月十三日の夜、河原田(かはらだ)の館(たち)よりの歸りに、諏訪大明神の社の傍を通るとき、俄かの雨風に遭ふ。乘りたる馬の、些(すこ)しも進まざるに不審して、後ろの方を見れば、雨雲の中から、熊のごとき毛の腕を延ばして、馬の尾を摑む者、あり。大刀(たち)を拔きて之れを斬り拂へば、鬼女の形を現じて、遁れ行き、其跡に一本の逞(たくま)しき腕を落して在り。之れを拾ひて、我が家に藏(かく)し置きたるに、其の後、每晚のやうに、彼(かれ)の處に來て、を叩(たた)き哀願する者、あり。【老女】九月も中旬に及びて、終に對面を承諾したる處、這奴(しやつ)[やぶちゃん注:「きやつ」「こやつ」でもよい(「ちくま文庫」版全集は「こやつ」。通常は第三者の者を罵って言う「そ奴」の変形した武士言葉。]は、又、化けずとも、既に本物も老婆なりき。羅城門の鬼のごとく詐欺・拐帶(かいたい)[やぶちゃん注:預けられた或いは他人の所有にある金品を持って行方を眩ますこと。持ち逃げ。]をもせず、又、何等の禮物をも進上せざりし代りには、散々に油を取られて閉口し、悉く其の身の上を白狀したる後、いとゞ萎(しな)びたる右の古(ふる)腕を貰ひ受けて歸りたり。彼女の言に依れば、以前は越後國彌彦山(いやひこさん)附近の農夫彌三郞なる者の母なり。惡念增長して、生きながら鬼女となりし者なるが、駄栗毛氏との固き約束もありて、再び此の島には渡らぬ筈(はず)[やぶちゃん注:向後の決め。]にて國元へ還り、後に名僧の教化を受けて、神樣となる。【妙虎天】今の彌彦山の「妙虎天(みやうとらてん)」と云ふ祠(ほこら)はこの彌三郞は老母なり〔「佐渡風土記」〕。越後方面に傳へたる噂に依れば、神の名は「妙多羅天(みやうたらてん)」とあり。【姥神脇侍(うばがみわきじ)】岩瀨の聖了寺の眞言法印、之れを濟度し、今は柔和なる老女の木像と成つて阿彌陀堂の本尊の脇に安置せらる。但し、話の少しく相違するは、腕は我が子の爲に斬られたりと云ふことなり。越後三島郡中島村に「彌三郞屋敷」と云ふ故迹(こせき)あり。鬼女は此の地の出身なりと云ふ。彌三郞、或る夜、鴨網(かもあみ)に出掛けて鳥を待ち居たるに、不意に、空中より、彼(かれ)の頭の毛を摑む者、あり。【鎌】持つたる鎌を振るひ、其の腕を斬り取り、家に歸りしが、母親は、「腹が痛む」と言ひて納(なんど)に臥し、起き出でず。翌朝、の外を見れば、鮮血、滴りて、母の窻(まど)に入(い)れり。老婆は、片腕無き爲に、鬼女なること、露顯し、終に家を飛び出(だ)して、公然と惡行を營むことゝなりたり、と云ふ〔「越後名寄(なよせ)」四〕。此の話には言ふまでも無く、前型(ぜんけい)あり。「今昔物語」の中にも、之れと似たる、鬼婆の腕の話ありて、忰(せがれ)が「すは。此れか」と切りたる片腕を母の寢處(ねどころ)に擲(な)げ込みたりとある話なり。而も「彌三郞婆(やさぶらうばば)」の話は、越後には甚だ多し。【狼(おほかみ)】刈羽(かりは)郡中鯖石(なかさばいし)村大字善根(ぜこん)にては、狼に成つて漆山(うるしやま)と云ふ處にて、人を食ひ、後に我が子の爲に退治せられて八石山(はちこくさん)に入ると傳ふ。赤き日傘に赤き法衣(はふえ)の和尚が葬式に立つときは、「さてさて有難いとむらいぢや」と云ひて、棺を奪ひ、中の屍骸を食ふ故に、飛岡(とびおか)の淨廣寺の上人の代より、靑き日傘に靑き法衣と改めたり〔「日本傳説集」〕。或いは又、「妙太郞婆」の話となりとも傳へらる。「妙虎」・「妙多羅」・「妙太郞」の名の由來は未だ之れを明らかにすること能はず。【火車】從つて「鬼」か「火車」か、本體を究むること難(かた)けれども、狼の老女となる話は古くして、且つ、弘(ひろ)し〔『鄕土硏究』一ノ十二〕。【犬】越中婦負(ねひ)郡櫻谷村大字駒見の古傳に依れば、昔、此の里に「ゆうゆう」と云ふ老尼あり。【山伏】夜は犬となりて、樣々の妖怪[やぶちゃん注:妖しい怪異。]を爲しけるが、或る時、山伏に足を斫(き)られ、それより、此の里に、住まず。【手紙】其の後(のち)三年ほそ經て、射水(いみづ)郡の荒山と云ふ所より、駒見の八右衞門なる者の家へ、書面を、おこせたり[やぶちゃん注:「おこす」は「遣(おこ)す・致(おこ)す」で「先方からこちらへ送ってくる・寄(よ)こす」の意。]。「犬の手跡」とて、人、皆、之れを見たり、云ふ〔「越中舊事記(くじき)」〕。然るに、此の話には、又、一(いち)異傳あり。此れよりも、時代、稍(やや)古く、且つ、土地の人の手に成りし著書には、之れを「狼なり」と云ヘり。昔、駒見村の「ようゆう」なる者の家に、年久しく召使ひし姥(うば)は、狼の化けて、人となりし者なりき。或る山伏、夜更けて呉服山(くれはやま)の古阪(ふるざか)[やぶちゃん注:地名かも知れぬが、確認出来ないので「旧道の坂」の意で採っておく。]を通りしに、狼、群れ來つて附き纏(まと)ふ。山伏、怖れて、喬木(けうぼく)[やぶちゃん注:高い樹。]に攀ぢ上りければ、狼、あまた打ち重なり、其の上に、姥、跨(また)がりて、彼(かれ)を引き下(おろ)さんとす。【片腕】山伏、短刀を拔き、其の姥の肘を打ち落せば、下の狼も、散々(ちりじり)になりて遁げ去りたり。夜明けて、山伏、樹より降り、駒見村を見掛(みか)けて、「暫く憩(いこ)はん」と、かの「ようゆう」が家に立ち寄りしに、姥は、傷、痛みて、叫(をめ)き號(さけ)び、打ち臥し居(ゐ)たりし處にて、山伏の姿を見るか否(いな)、逃げ出し、それより、行方(ゆくゑ)を知らず。此の事、御郡(みこほり)[やぶちゃん注:引用原本で読みを確認した。]の舊記に出でたり、とあり〔「肯構泉達錄(こうこうせんたつろく)」十五〕。【赤岩一角】されば、かの「八犬傳」の「赤岩一角」のこごときも、不運なる化物には相違なきも、其の決して天下唯一の例(ためし)に非ざりしことは、此れ等の話に由りて、十分に明白にてあるなり。

 右の駄栗毛左京の話は、妻鹿(めが)孫三郞の話、又は、大森彦七の話などと同樣に、勿論、羅城門、或いは、一條戾橋(もどりばし)の怪談の一變形なるべきも、二箇の極めて肝要なる點に於いて、甲州下條(げでう[やぶちゃん注:柳田國男は「しもでう」であるが、現行の読みを歴史的仮名遣で示した。])及び常州芹澤の河童の話と相ひ接近し、二種類の昔話の中間に立つ者として大なる價値あり。其の二點と言ふは、一(いつ)は鬼が馬に向つて惡戲(いたづら)を試み、失敗したることなり。【化物謝罪】二には閉口・謝罪の後(のち)、腕の平穩なる還付を受けて、退散したることなり。此の二點は共に羅城門系統の話には見る所なくして、多數の河童談には、皆、之れを具ふ。【鬼】但し、河童と鬼とは、如何にも緣遠きのみならず、此れ等の話に在りては、馬は、未だ、重大ならざる端役(はやく)を勤むるに過ぎず。猶、追々と話の筋の進むに從ひて、始めて其の關係に非ざるを知り得るなり。

[やぶちゃん注:「ツレ」「ワキ」能楽用語。ツレとは、主人公(シテ)や脇役(ワキ)に連れられる形で登場する人物で、「シテ」に連れられている場合は単に「ツレ」或いは「シテツレ」、「ワキ」に連れられている場合は「ワキツレ」と呼ぶ。一般には「シテ」「ワキ」に比して格の下がる補助的な脇役である(但し、「高砂」のように「シテ」が夫で、その妻として「ツレ」が登場する場合等は重要なキャラクターとなる)。「ワキ」は文字通りの「脇役」であるが、能では極めて重要な役回りを演ずる。人間の男の役が殆んどで、舞台の状況を観客に告げたり、「シテ」とは展開上の重要な会話を行い、主題への開口部を切り開く。複式夢幻能等の役柄によっては、「シテ」を諫めたり、祈禱・修法(ずほう)を行ったりして、鎮魂・調伏等といったアクロバティクな展開を自ら行う。

「源氏の大將軍攝津守殿賴光の家人(けにん)に、渡邊綱、通稱を箕田(みだ)源二と云ふ勇士あり……」渡辺綱(天暦七(九五三)年~万寿二(一〇二五)年)は源頼光(天暦二(九四八)年~治安元(一〇二一)年)四天王(他に坂田金時・碓井貞光・卜部季武)の筆頭とされる武人。嵯峨源氏で光源氏のモデルの一人である源融(みなもとのとおる)の子孫。だから、本名は源綱(みのもとのつな)である。通称は渡辺源次或いは源二とも。「箕田」は彼の生まれが武蔵国足立郡箕田(みだ)郷(現在の埼玉県鴻巣市箕田地区周辺)であったことに由る(但し、彼は摂津源氏の源満仲の娘婿であった源敦の養子となり、母方の里である摂津国西成郡渡辺に住んだ)。彼が鬼を退治した話は「平家物語」剣の巻や「源平盛衰記」「御伽草子」「太平記」「前太平記」及び歌舞伎「茨木」「戻橋」等に散見するが(そこには無名の鬼と「茨木童子」という名の別な鬼の話が誤って(というか確信犯で)混同されてもいる)、彼が羅城門(羅生門は後世の当て字)で鬼を退治した設定として人口に膾炙するのは、観世信光(永享七(一四三五)年又は宝徳二(一四五〇)年~永正一三(一五一六)年)作の能「羅生門」で、知られた「平家物語」では腕を斬り落とすのは「一条戻り橋」がロケーションで、羅城門ではないし、そもそも能ではここで肝心の腕を取り戻すシーンはなく、腕を斬り落とされた鬼は虚空に消え去る間際、『「時節をまちて又取るべし」と。呼ばはる聲もかすかに聞ゆる鬼神よりも恐ろしかりし。綱は名をこそ。あげにけれ』で終わるものなのである。後に鬼が綱の養母(伯母に当たるとする)に化けて腕を奪い去るのはである。少々長いが、示さないのも癪に障る(癪に障る理由はこの注の最後に示す)ので、当該パートのみを明治四三(一九一〇)年有朋堂書店刊の万治二(一六五九)年板行の流布本「平家物語」を参考にして引く(一部表記や読みは別本を用い、読み易さを考え、改行を施した)。「剣巻」は父満仲から源頼光に伝わった名剣二振り「鬚切」「膝丸」の奇異伝承譚で、同時に「宇治の橋姫」の後発系由来譚の一ヴァージョンとしても知られる。

   *

 かくて、嫡子攝津守賴光の代となりて、不思議、樣々多かりけり。

 中にも一つの不思議には、天下に人多く失する事あり。中にも一つの不思議には、天下に、人、多く失する事あり。死しても失せず。座敷に連なりて集り居たる中に、立つとも見えず、出づるとも見えずして、掻き消す樣にぞ、失せにける。行末も知らず、在所も聞えずありければ、怖しといふばかりなし。

 上一人(かみいちじん)より下萬民に至るまで、騷ぎ恐るる事、申すに及ばず。

 これを委しく尋ぬれば、嵯峨天皇[やぶちゃん注:在位は大同四(八〇九)年~弘仁一四(八二三)年。]の御宇に、或る公卿の娘、餘りに嫉妬深うして、貴船の社に詣でて七日籠りて申す樣、「歸命頂禮貴船大明神、願はくは七日籠もりたる驗(しるし)には、我を生きながら鬼神に成してたび給へ。妬(ねた)しと思ひつる女取り殺さん」とぞ祈りける。明神、哀れとや覺しけん、「誠に申す所、不便(ふびん)なり。實(まこと)に鬼になりたくば、姿を改めて宇治の河瀨に行きて三七日(みなぬか)[やぶちゃん注:二十一日。]漬(した)れ」と示現あり。女房、悅びて都に歸り、人なき處にたて籠りて、長(たけ)なる髮をば五つに分け五つの角にぞ造りける。顏には朱を指(さ)し、身には丹を塗り、鐵輪(かなわ)を戴きて三つの足には松を燃やし、續松(たいまつ)を拵へて、兩方に火を付けて、口にくはへ、夜更け、人定(しづ)まりて後、大和大路へ走り出で、南を指して行きければ、頭より五つの火燃え上り、眉太く、鐵漿(かねぐろ)にて、面赤く身も赤ければ、さながら鬼形(きぎやう)に異ならず。これを見る人、肝魂(きもたましひ)を失ひ、倒れ臥し、死なずといふ事なかりけり。斯の如くして宇治の河瀨に行きて、三七日漬りければ、貴船の社の計らひにて、生きながら鬼となりぬ。宇治の橋姫とはこれなるべし。さて妬しと思ふ女、そのゆかり、我をすさむ男の親類・境界(きやうがい)、上下をも撰ばず、男女をも嫌はず、思ふ樣(さま)にぞ取り失ふ。男を取らんとては女に變じ、女を取らんとては男に變じて人を取る。京中の貴賤、申の時より下(さがり)[やぶちゃん注:午後五時以後。]になりぬれば、人をも入れず、出づる事もなし。門を閉ぢてぞ侍りける。

 その頃、攝津守賴光の内に、綱・公時・貞道・末武とて四天王を仕はれけり。中にも綱は四天王の隨一なり。武藏國の美田(みた)といふ所にて生れたりければ、美田源次とぞ申しける。

 一條大宮なる所に、賴光、聊か用事ありければ、綱を使者に遣はさる。夜陰に及びければ鬚切を帶(は)かせ、馬に乘せてぞ遣はしける。

 彼處(そこ)に行きて尋ね、問答して歸りけるに、一條堀川の戾橋を渡りける時、東の爪[やぶちゃん注:「詰(つめ)」に同じい。]に齡(よはひ)二十餘りと見えたる女の、膚(はだへ)は雪の如くにて、誠に、姿、幽(いう)なり[やぶちゃん注:至って静かでそこはかとなく雅びな雰囲気であるさま。]けるが、紅梅の打着(うちき)に守(まもり)懸け、佩帶(はいたい)の袖に經(きやう)持ちて、人も具せず、只獨り南へ向いてぞ行きける。

 綱は橋の西の爪を過ぎけるを、はたはたと叩きつつ、

「やや、何地(いづち)へおはする人ぞ。我らは五條わたりに侍り、頻りに夜深けて怖ろし。送りて給ひなんや。」

と馴々しげに申しければ、綱は、急ぎ、馬より飛び下り、

「御馬に召され候へ。」

と言ひければ、

「悅(うれ)しくこそ。」

と言ふ間に、綱は近く寄つて女房をかき抱きて馬に打乘らせて、堀川の東の爪を南の方へ行きけるに、正親町(おほぎまち)へ、今、一、二段(たん)[やぶちゃん注:距離単位。「反」とも書く。凡そ一段は六間で約十一メートル。]が程、打ちも出でぬ所にて、この女房、後ろへ見向きて申しけるは、

「誠には、五條わたりにはさしたる用も候はず。我が住所(すみか)は都の外にて候ふなり。それ迄、送りて給ひなんや。」

と申しければ、

「承り候ひぬ。何處(いづく)迄も御座所へ送り進(まひ)らせ候べし。」

と言ふを聞きて、やがて、嚴(いかめ)しかりし姿を變へて、怖しげなる鬼になりて、

「いざ、我が行く處は愛宕(あたご)山ぞ。」

と言ふままに、綱が髻(もとどり)を摑みて提げて、乾(いぬゐ)[やぶちゃん注:北西。]の方(かた)へぞ飛び行きける。

 綱は少しも騷がず、件(くだん)の鬚切をさつと拔き、空樣(そらざま)に、鬼が手を、

「ふつ。」

と切る。

 綱は、北野の社の𢌞廊の星の上に、

「どう。」

と落つ。

 鬼は、手を切られながら、愛宕へぞ飛び行く。

 さて、綱は𢌞廊より跳り下りて、髻に附きたる鬼が手を取りて見れば、雪の貌(すがた)に引き替へて、黑き事、限りなし。白毛(しらが)隙(すき)なく生ひ繁り、銀の針を立てたるが如くなり。

 これを持ちて參りたりければ、賴光、大きに驚き給ひ、『不思議の事なり』と思ひ給ひ、「晴明を召せ。」

とて、播磨守安倍晴明を召して、

「如何あるべき。」

と問ひければ、

「綱は七日の暇を賜りて愼むべし。鬼が手をば能く能く封じ置き給ふべし。祈禱には仁王經(にんわうきやう)を講讀せらるべし。」

と申しければ、そのままにぞ行なはれける。

 既に六日と申しけるたそがれ時に、綱が宿所の門を敲く。

「何處(いづく)より。」

と尋ぬれば、

「綱が養母、渡邊にありけるが、上(のぼ)りたり。」

とぞ答へける。彼の養母と申すは、綱が爲には伯母なり。『人して言ふは、惡しき樣に心得給ふ事もや』とて、門の際(きは)まで立ち出でて、

「適々(たまたま)の御上りにて候へども、七日の物忌みにて候ふが、今日は六日になりぬ。明日ばかりは[やぶちゃん注:明日までは。]、如何なる事候ふとも、叶ふまじ。宿を召され候ふべし。明後日になりなば、入れ參らせ候ふべし。」

と申しければ、母はこれを聞きて、さめざめと打ち泣きて、

「力及ばぬ事どもなり。さりながら、和殿(わどの)を母が生み落ししより請け取りて、養ひそだてし志(こころざし)、如何(いか)ばかりと思ふらん、夜とて安く寢(い)ねもせず、濡れたる所に我は臥し、乾ける所に和殿を置き、四つや五つになるまでは、『荒き風にも當てじ』として、『いつか我が子の成長して、人に勝れて好からん事を見ばや聞かばや』と思ひつつ、夜晝、願ひし甲斐ありて、攝津守殿御内(みうち)には、美田源次といひつれば、肩を雙(なら)ぶる者もなし。上にも下にも譽められぬれば、『悅(よろこび)』とのみこそ思ひつれ、都鄙遼遠(とひれうゑん)の路なれば、常に上る事もなし。『見ばや見えばや』と、『戀し』と思ふこそ、親子の中の歎きなれ。この程、打ち續き、夢見も惡しく侍れば、覺束なく思はれて、渡邊より上りたれども、門の内へも入れられず。親とも思はれぬ我が身の、子と戀しきこそ、はかなけれ。」

 綱は道理に責められて門を開きて入れにけり。

 母は悅びて來し方行く末の物語し、

「さて七日の齋(ものいみ)と言ひつるは、何事にてありけるぞ。」

と問ひければ、隱すべき事ならねば、ありの儘にぞ語りける。

 母、これを聞き、

「扨は重き愼みにてありけるぞや。左程の事とも知らず、恨みけるこそ悔しけれ。さりながら、親は守りにてあるなれば、別の事は、よもあらじ。鬼の手といふなるは、何なる物にてあるやらん、見ばや」

とこそ申されけれ。

 綱、答へて曰はく、

「安き事にて候へども、固く封じて侍れば、七日過ぎでは叶ふまじ、明日暮れて候はば、見參に入れ候ふべし。」

 母の曰く、

「よしよし、さては、見ずとても事の缺くべき事ならず、我は又、この曉は夜をこめて下(くだ)るべし。」

と恨み顏に見えければ、封じたりつる鬼の手を取り出だし、養母の前にぞ置きたりける。

 母、打返し、打返し、これを見て、

「あな、怖しや、鬼の手といふ物は、かかる物にてありけるや。」

と言ひて、さし置く樣(やう)にて、立ちざまに、

「これは、我が手なれば。取るぞよ。」

と言ふままに恐ろしげなる鬼になりて、空に上りて破風(はふ)の下を蹴破りて、虛(sら)に光りて、失せにけり。

 それよりして、渡邊黨の屋造りには破風を立てず、東屋(あづまや)作りにするとかや。

 綱は鬼に手を取り返されて、七日の齋(ものいみ)破るといふとも、「仁王經」の力に依て別の子細なかりけり。

 この鬚切をば、鬼の手切りて後、「鬼丸」と改名す。

   *

 最後に。観世信光のロケ地の迫力をワイド・アップする演出で勝手に変えられた「羅城門」を、ここで柳田が太字見出し標題に用いているのは、正直言って全くピンと来ないのだ。「斬られし腕を取返しに來たる鬼」ぐらいにしておいて欲しいと私は思う。さても、ここで私は、柳田が意識的に南方熊楠の記述法を下手に真似ようとしたと言う「再版序」に思い至るのである。それはしかし、全く以って決定的な誤りであった。それは柳田國男自身が実際にそう感じていたのだ。だからこそこの記載表現や方式を二度とは彼は採らなかったのだ。南方は生来の稀有の真正の博物学者であったし、その天馬空を翔るが如き自在な叙述は、頗る適正確実で、一貫した近代的な、否、現代的な科学者の本質をそこに持っていた。ところが、柳田國男の本書は、冒頭「小序」の小ロマン主義的な詩歌染みたそれからも判る通り、どこかで、この時、彼は、自身が、学者であるよりも文学者たらんとする色気を感じてさえいたのではないかとさえ思うのである(私は彼の晩年の「海上の道」の非科学的ロマン主義的発想にもそれを覚える)。その誤謬が、この見出しの「羅城門」にはよく現われていると感ずる。遙かに溯る古典文学の饐えた香気を、これ見よがしに少年期の思い出まで総動員して漂わせつつ、読者を煙(けむ)に巻き、迂遠に語りだすという、正直、かったるい書法は、南方熊楠の、自然現象(民俗もその中に当然の如く包括される)を強烈な速度と脱線を交えながらも、着実に解析して厳密に収斂させてゆく手法とは、実は、全く似て非なるものであると感ずる。もしかすると、柳田は本質的に詩人・作家である或いはそうであろうとした同輩折口信夫に秘かに嫉妬していたのかも知れない。私は今、そんなことをここでうだうだと思っているのである。

「腕切丸(うできりまる)」聴いたことがない。改名した「鬼『切』丸」と別な一名刀「『膝』丸」を混同し、鬼女の腕切り・河童の腕切り伝承譚がごちゃごちゃになって誤ったものだろう。「再版序」で細部に気を使う癖を自嘲風に述べているが、どうして、杜撰だ。

「海を越えて佐渡島に行けば、此の話は忽ち變じて駄栗毛(だくりげ)左京の武勇談となりて傳へらる……」実は「羅城門」のこの辺りまでは私は以前、『柴田宵曲 續妖異博物館「羅生門類話」』で電子化している。日文研「怪異・妖怪伝承データベース」のこちら(妖怪(但し、これは特殊な人妖で精神疾患の一種の色彩が濃厚である)呼称名「弥三郎婆さん」「弥三郎の母」「鬼女」「老女」)によれば、昭和五四(一九八四)年新潟県刊「新潟県史 資料編二十三 民俗二」の要約によれば、佐渡郡佐和田町(現在の佐渡市の真野湾奧部沿岸の佐和田地区(グーグル・マップ・データ))の伝承として、『駄栗毛左京が主人の命で使いに行く。沢根まで来ると急に空がかき曇って風が出、諏訪社の森近くまで来ると雷が来て、何者かが馬をつかんで動かさないので後ざまに切ると手ごたえがある。そこに』一『丈余りもある鬼女が現れて黒雲に乗って逃げる。あとに腕が残されていたが、ある雨の晩老女が訪ね、自分は越後弥彦在の農夫弥三郎の母だといって許しを請い、以降悪事を改めると誓いを立てたので、腕を返す。それ以来弥三郎婆さんは二度と佐渡には姿をみせなかった』とある。また、主に新潟の鬼や妖怪を紹介している個人サイト「六華屋」の「弥三郎婆(やさぶろうばば)」には(これは新潟の伝承も一緒に全七篇を纏めておられ、ここを読解するに非常に重宝であり、ここに記されていない別ヴァージョンの興味深い伝承が載る。必読!)、「佐渡・佐和田に伝わる話」として以下のようなプレにヴァンパイア風の因縁が配されたものが載る(行空けを除去し、一部の行頭を一時下げ、読点・記号を追加した)。

   《引用開始》

 弥彦の弥三郎婆の子供が、佐渡に出稼ぎに行っていた。

 婆は子供に会うために、良く佐渡に渡って、そこでは姥ヶ沢という旧家の子守をしていた。

 ある時、その家の子供の足に膿ができ、手当てのために膿を吸い取り出してやった。

 その時に、血が混じり、血の味を忘れられなくなった。

 そのため、あちこちで子供を殺して血を吸ううちに、鬼になってしまった。

 さて、沢根には駄栗毛左京という武士がいて、用事で遠出したときに、帰りが遅くなってしまった。

 雷が鳴るような音とともに、体に何者かが触れたので、ただちに刀を抜き、斬りかかった。

 片腕を切り落としそれをそのまま家に持ち帰った。

 幾日か経って夜中、戸を叩く者がいる。

 出てみると老婆が立っていた。

 老婆は、礼儀正しく、「切られた腕は私のものなので返してほしい」と言った。

 左京が腕を返してやると、「以後は決して子供の血を吸う事はしない」と言って出て行った。

   《引用終了》

最後に、『佐和田では』九月二十日の『五十里(いかり)祭には弥三郎婆が雲に乗ってやって来るので』、『必ず雨が降るという』とある。サイト「福娘童話集」のこちらも参照されたい(ここでは「駄栗毛」を「たくも」と読んでいるが、以下に見る通り、後裔の方が「だくりげ」であられるから「だくりげ」が正しい)。

 実は、調べてみたところ、何と、この駄栗毛左京の後裔である駄栗毛寛氏がおられ、佐渡の新聞『島の新聞』の平成二二(一〇一〇)年十月二十八日附に小林祐玄氏の記事「佐渡金山と金銀山ロードの住人たち12」の「先祖は御林守 駄栗毛 寛さんがあったのである(PDF)。自身の先祖の史料を収集されており、この伝説は延享元(一七四四)年の「佐渡名勝志」には「駄栗毛左京太刀之事」、同じ延享三年の「佐渡風土記」には「駄栗毛左京鬼女を伐る事」という標題で載るとある。詳しくは記事を読まれたいが、地名と史実を綜合すると、この駄栗毛左京の鬼女の腕切伝承は江戸時代以前の話で、駄栗毛家は中世以来の家柄となるとある。

「佐渡の本間殿」ウィキの「本間氏」の「佐渡本間氏」によれば、『鎌倉時代から戦国時代まで佐渡国を支配した氏族。武蔵七党横山党海老名氏流。本間の名は相模国愛甲郡依知郷本間に由来』。『鎌倉時代初期、佐渡国守護となった大佛氏(執権北条氏の支流)の守護代として佐渡に入った本間能久より始まる。雑太城(さわだじょう)を本拠として勢力を伸ばし、いくつかの分家に分かれた』。永正(えいしょう)六(一五〇九)年の「永正の乱」では『関東管領上杉顕定に敗れた越後守護代の長尾為景と守護上杉定実を匿い』、翌永正七(一五一〇)年には『羽茂本間家・雑太本間家が為景に援軍を出し』、『寺泊から越後へ上陸』、「長森原の戦い」で『顕定を敗死させた。その功により』、『為景から越後に領地を与えられている』。『戦国時代になると』、『分家の河原田本間家、羽茂本間家の力が強ま』って、『度々』、『争うようになり、惣領家の雑太本間家は没落』した。『為景の子長尾景虎(上杉謙信)の代に河原田、羽茂両家の争いはいったん収ま』ったが、天正六(一五七八)年の『謙信の死後に再燃』し、『後に上杉景勝の代になると、会津の蘆名氏、出羽国の最上義光と結び』、『反上杉の姿勢を取るようになる』。『豊臣秀吉から許しを得た景勝は』、天正一七(一五八九)年に『佐渡へ侵攻』、『本間氏を討伐。抵抗する佐渡側の本間氏と決別して上杉側に就いた一部の本間氏は、討伐後に佐渡を離れて上杉家と共に越後、会津、米沢へと移転した』とある(先の『島の新聞』の小林祐玄氏の記事の考証では、この最後の部分が絡んでいる)。

「河原田(かはらだ)」現在の新潟県佐渡市河原田本町や、その隣りの河原田諏訪町附近であろう(グーグル・マップ・データ)。先の佐和田地区内である。

「諏訪大明神」現在の新潟県佐渡市鍛冶町にある「諏訪大明神」(グーグル・マップ・データ)であろう。別に「諏訪神社」が河原田諏訪町にあるが、ここでは「河原田の館」に直近過ぎるので違うと私は思う。

「後に名僧の教化を受けて、神樣となる。【妙虎天】今の彌彦山の「妙虎天(みやうとらてん)」と云ふ祠(ほこら)はこの彌三郞は老母なり〔「佐渡風土記」〕」幸いにして国立国会図書館デジタルコレクションに「佐渡風土記」の原典画像があった。当該箇所はここである。柳田のは勘所を押さえた梗概ではあるが、原話の方が遙かに堅実な(追記などは事実立証を添える)描写がなされていることが判る。是非、原典で読まれたい。但し、「妙虎天」に就いては詳しくは述べていない。

『越後方面に傳へたる噂に依れば、神の名は「妙多羅天(みやうたらてん)」とあり』先の「六華屋」「弥三郎婆」に「弥彦山の麓に伝わる話」があり、そこにこの神名が出る。先と同じ仕儀を施させて貰い、アラビア数字を漢数字に代えた。

   《引用開始》

 弥彦山の麓に里津という家があり、弥彦神社の鍛冶職を務めていた。

 一〇七九年[やぶちゃん注:承暦二年。]、弥彦神社造営の上棟式を催す事となり、工匠どちらが先に式を執り行うかで争いになった。

 里津一門の当主は弥三郎で、特にその母は、争いから一歩も引かなかった。

 結局、里津一門の主張は退けられ、数年間、深く恨み続けた母親は悪鬼となった。

 鬼女となった母親は天空を駆け巡って子供を攫い、墓を暴いては、屍を貪り食った。

 ある日、猟に出た弥三郎は、帰途、何者かに襲われたが、持っていた鎌で撃退し、その腕を切り落とした。

 その腕を持ち帰った晩、鬼と化した母親に息子の弥治郎を奪われそうになった。

 飛び掛って息子を取り戻したが、その隙に腕を取り返され、暗闇に消えてしまった。

 これ以来、弥三郎婆は家に寄り付かず、吹雪に乗って飛び回り、幼い子供を攫った。

 弥彦山・魚沼の権現堂山・加賀の白山・信濃の浅間山などを渡り歩いた。

 こうして七十八年間、悪事を続けたが、保元元(一一五六)年、弥彦の典海阿闍梨に呼び寄せられ、教えを受けた。

 改心し、「これまでの償いに」と、幼い子供を守り育てる誓いを立て、「妙多羅天女」の名を授けられた。

 いっそう変幻自在となり、天にあって、子供と神仏を守る鬼神となった。

   《引用終了》

なお、リンク先には弥彦に伝わる別な鬼婆系の話も載る(一番最後)ので参照されたい。また、ウィキの「妙多羅天」によれば、『妙多羅天(みょうたらてん)または妙多羅天女(みょうたらてんにょ)は、神仏、善人、子供の守護者、悪霊退散の神、縁結びの神とされる日本の神』で、『新潟県、山形県で祀られている』。『新潟県西蒲原郡弥彦村には、弥彦神社に隣接して妙多羅天が祀られており、以下のような伝承がある』。『佐渡国雑太郡(現・新潟県佐渡市)でのこと。ある夏の夕方、老婆が山で涼んでいると、老いたネコが現れた。ネコが地面に転がったので、老婆もそれを真似ると、なぜか急に体が涼しくなってとても気持ち良くなったので、毎日のように同じことを繰り返した。すると老婆の体がとても軽くなり、自在に空を飛ぶようになり、体に毛が生え、凄まじい形相となり、雷鳴を放ちながら空を舞い、海を渡って弥彦に至り、雨を降らせた。土地の者が困り、祠をもうけて老婆を崇めると、ようやくこの暴威はおさまった。ただし年に一度だけ、妙多羅天が佐渡に帰る際には、激しい雷鳴で国中を脅かすという』。『これは文化』(一八〇四年から一八一八年)年間の随筆「北国奇談巡杖記」に『あるもので、同書ではネコとの関連のためか、名称の「みょう」に「猫」の字を当てて「猫多羅天」と記述されている』これは明らかに先の「佐渡・佐和田に伝わる話」の別ヴァージョンである)。『ほかにも新潟の妙多羅天には、鬼または化け猫が弥三郎という者の母を喰って母に成り済ましたが、後に改心して妙多羅天として祀られた、など多くの異説がある』。『また、山形県東置賜郡高畠町一本柳にも「妙多羅天」という祠があり、これには以下の伝承がある』。『平安時代』、『源義家に敗れた安倍氏の武士の一子・弥三郎が、母と共に御家再興を願いつつ隠れ住んでいた。やがて弥三郎が修行の旅に出た後、母は悪病に侵されるが、悲願達成の想いの強さから死に切れずに鬼と化し、オオカミたちを率いて旅人を襲い、金品を奪って御家再興の資金を貯めていた。やがて帰って来た弥三郎も母に襲われるが、彼は母と知らずに鬼の手を斬り落とした。弥三郎が帰宅すると、家で寝込んでいた母は、弥三郎が持ち帰った鬼の手を奪い取るなり、弥彦山へと逃げ去った。弥三郎は家への想いのあまり鬼と化した母を哀れみ、母を妙多羅天として祀ったという』。『前述の新潟のような妙多羅天・弥三郎婆の伝承は、この山形の伝承がもととなり、化け猫やオオカミの怪異譚が混ざってできたものと考えられている』とあり、後の柳田の「狼」の話とリンクしている。

「姥神脇侍」この頭書はよろしくない。脇侍を言う場合、例えば、「阿彌陀如来脇侍は左脇侍(向かって右)が観世音菩薩、右脇侍(向かって左)が勢至菩薩。但し、真宗系では立像の阿弥陀如来一尊を本尊とし脇侍は配さない」とか「釈迦如来脇侍は左脇侍に獅子に乗る文殊菩薩、右脇侍に象に乗る普賢菩薩を配する例が多い」等と言うように、脇侍となる本尊を上に持ってくるのが常識で、「文殊脇侍」等とは絶対に言わないからである。ここは【(阿彌陀如來)脇侍姥神】とすべきところである。

「岩瀨の聖了寺」不詳。現在、新潟県十日町市岩瀬があるが、この寺は見当たらない。fumimalu takahashi氏のサイト「郁丸滄海拾珠」に二〇〇三年十月五日「日本民俗学会」第五十五回年会ポスターセッション参加発表とある『高橋郁子著「ヤサブロバサをめぐる一考察」』は、新潟を中心として全国の「弥三郎婆」或いは類似の伝承を総覧し、考証を加えた優れたものであるが、そこにもこの寺は出ない。ところが、あとの割注に示された「越後名寄」(寺泊出身の医師丸山元純(貞享四(一六八七)年~宝暦八(一七五八)年:京都で学び、郷里越後三島郡で開業、後に生地寺泊に移った)が医業の傍ら、越後の史料・口碑を蒐集した一種の百科全書。全三十一巻)の第四巻を調べていたところ、ここ(「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」内の同書原本画像)に、蒲原郡に真言宗の聖了寺とあり、そこには石瀬村とあるのを見出した。そこには寺の事蹟だけで、この話は載らないが、どうみても偶然の一致ではあるまいという気がした。取り敢えず、識者の御教授を乞うておく。【2019年1月19日追記】T氏より、また情報を頂戴した。これは柳田の割注の誤りで、「越後名寄」の第四巻ではなく、第五巻で、上記の早稲田画像で、ここここに当たる部分(「彌三郞屋敷 中村村」の項)に「彌三郞屋敷」と「岩瀨ノ聖了寺」のことが記されてあることをお伝え下さった。さらに、この「岩瀨の聖了寺」については、「馬琴書簡集成」第一巻(寛政頃~天保元年)の文政元年十一月八日牧之宛書簡の中に(リンク先はグーグルブックス)、この「越後名寄五後の彌三郞屋敷」が出るものの、そこに「岩瀬村ノ聖了寺」は(頭書)「石瀬邨也。聖了寺誤也、靑龍寺是也。」とあって、これは、牧之が誤り指摘したものと推定される、とご連絡下さった。この「石瀬村」の「青龍寺」ならば、現在の新潟市西蒲区石瀬に真言宗青龍寺として現存するここ(グーグル・マップ・データ)。いつもながら、感謝申し上げる。なお、この追記に合わせて、後の注の不要になった一部を除去した。

「眞言法印」真言宗の法印(「法印大和尚位」の略。僧位の最上位で、旧来の僧綱(そうごう)の「僧正」に相当する。この下に法眼(ほうげん)・法橋(ほっきょう)があった)という名を出さない一般名詞表現。

『越後三島郡中島村に「彌三郞屋敷」と云ふ故迹(こせき)あり』この表記に従って調べると、現在の新潟県長岡市越路地区(グーグル・マップ・データ)に相当する。ところが、個人ブログ「UFOアガルタのシャンバラ 日本は津波による大きな被害をうけるだろう」の『「弥三郎」の名は、かつての集団的記憶の底では、近江の伊吹童子弥三郎や柏原弥三郎伝説のイメージと、まず重なって響いた。(1)』には、『西蒲原郡分水町中島や、新津市古津字椀田など数ヵ所に、弥三郎の屋敷跡と伝えられる土地があったのは確かである』とあり、また『これと並行するように、新潟県燕市(旧、分水町)の中島と同じ町内の砂子塚の田の中に、酒呑童子誕生の屋敷跡なるものがあるのをはじめ、岩室村和納にも童子屋敷、童子田という地名が残されていることである。酒呑童子が越後で生まれたとの説は』、十七『世紀後半に』「甲陽軍鑑」・「渋川板御伽草子」「金平浄瑠璃いぶき山」「前太平記」『などを通じ、次第に流布、近松の浄瑠璃『酒呑童子枕言葉』で決定的に広まったように思われる』とある中に、別名地区の「中島」の地名が散見するのは大いに気になる。なお、酒呑童子が越後で生まれたという伝承は、既に北越奇談 巻之六 人物 其二(酒呑童子・鬼女「ヤサブロウバサ」)で考証しているので、参照されたい。

「鴨網(かもあみ)」はカスミ網を用いた鴨猟。

『「今昔物語」の中にも、之れと似たる、鬼婆の腕の話ありて……』これは「今昔物語集」でもよく知られた一話で、「巻第二十七」の「獵師母成鬼擬噉子語第二十二」(獵師の母、鬼と成りて子を噉(くら)はむと擬(す)る語(こと)第二十二)である。但し、柳田の梗概は解説を端折り過ぎていて、「忰(せがれ)」(これでは一人息子がそうするようにしか見えない)は兄弟二人である。私は既に「諸國百物語卷之三 十八 伊賀の國名張にて狸老母にばけし事」の注で電子化しているので参照されたい。

「刈羽(かりは)郡中鯖石(なかさばいし)村大字善根(ぜこん)にては、狼に成つて漆山(うるしやま)と云ふ處にて、人を食ひ、後に我が子の爲に退治せられて八石山(はちこくさん)に入ると傳ふ」現在の新潟県柏崎市大字善根Yahoo!地図)。「漆山」は地名で善根の南西直近の中鯖石与板地区内に現存することが、「柏崎市」公式サイト内の『柏崎伝統野菜「与板菜」』で判明した。八石山は善根の東方にある(標高五百十八メートル)。このかなり強烈で興味深い鬼婆の話はその生臭さ故か、ネット記載が乏しいが、二〇一二年三月発行の『国立歴史民俗博物館研究報告』第百七十四集の、勝田至氏の論文「火車の誕生」(PDFでダウンロード可能)に見出せた。

   《引用開始》

新潟県などに伝わる弥三郎婆の伝説では死体を食ったとするものがある。新潟県柏崎市久木太(くきぶと)[やぶちゃん注:ここは善根の小字である。]では弥三郎の母が鬼婆になり、弥三郎が山で狼に襲われたとき狼が鬼婆を呼んできたので鉈で斬りつける。家に帰ると母は鉢巻をして寝ている。その後赤ん坊を食ったので弥三郎が斬りかかると鬼になって破風から飛び出し、弥彦山へ行った。一説では弥三郎婆はその後八石山の岩屋に住み、赤い長柄の傘に赤の衣を見ると葬式だと知って棺をさらい、死人を食った。飛岡の浄広寺の和尚が一計を案じ、青の日傘に青の衣に改めたら、棺を奪われることがなくなったという(『柏崎市伝説集』)。この話は火車説話の一種といえるが、弥三郎婆の伝説は弥彦山周辺など新潟県各地に伝わるのを含めて「鍛冶屋の婆」型の話に中心があるので、この土地ではそれに火車が取り入れられたと思われ、死体を食うのは火車の一般的性格とはいえないだろう。もともとの悪人を地獄に連れて行くという設定は失われたが、それを補うような死人を奪う理由は考え出されなかった。他の多くの妖怪もそうだろうが、火車は「葬送のさい雷雨になる」という実際の現象および「葬送のさい死体が奪われる」という噂の中の現象を妖怪化したものであり、弥三郎婆のような別の話を取り入れない限り、独自の生活などの奥行きは本来持っていない。

   《引用終了》

とある。文中の「鍛冶屋の婆」は狼系伝承の有名なものの一つで、柳田の本文の直後に出る狼に跨った婆の話もその典型的な変形の一つである。総称を時に「千疋(匹)狼(せんびきおおかみ)」と呼ぶものの代表的な一型で、「鍛冶が嬶(かか)「鍛冶が媼(ばば)」等と呼び、代表的なものでは、高知県室戸市に伝わる説話である。ウィキの「千疋狼」の「鍛冶が嬶」によれば、『ある身重の女が奈半利(現・安芸郡奈半利町』(『なはりちょう))へ向かうために峠を歩いていた。夜になる頃に陣痛が起き、運悪くオオカミが襲って来たが、そこへ通りかかった飛脚に助けられ、木の上へ逃げることができた。オオカミたちは木の上へは爪が届かないので、梯子状に肩車を組んで木の上へ襲いかかろうとし、飛脚は脇差で必死に応戦した』。『その内にオオカミたちは「佐喜浜の鍛冶嬶を呼べ」と言い出した。しばらくすると、白毛に覆われた一際大きいオオカミが鍋をかぶった姿で現れ、飛脚に襲い掛かった。飛脚は渾身の力で脇差しを振り下ろすと、鍋が割れると共に人の叫びのような声が響き、オオカミたちは一斉に姿を消した』。『夜が明けて峠に人通りが出始めたので、飛脚は女を通行人に任せ、自分は血痕を辿って佐喜浜の鍛冶屋へ辿り着いた。お宅に嬶はいないかと尋ねると、頭に傷を負って寝込んでいるということだった。飛脚は屋内に入り込み、中で寝ていた嬶を斬り倒した。嬶の姿をしていたのはあの白毛のオオカミであり、床下には多くの人骨、そして本物の嬶の骨も転がっていたという』。『佐喜浜には現在でも鍛冶が嬶の供養塔が残っている。また佐喜浜を訪れた郷土史家・寺石正路によると、明治時代には鍛冶が嬶の墓石もあったとされ、鍛冶屋の子孫といわれる人々には必ず逆毛が生えていたという』。江戸時代の奇談集「絵本百物語」では『「鍛冶が嬶」と題し、オオカミに食い殺された女の霊がオオカミに憑いて人を襲う話となっており』、『千疋狼のような特徴は見られないが、挿絵ではオオカミの群れが樹上に向かって梯子状に肩車を組む姿が描かれている』。『多くは、夜間にオオカミの大群に襲われた人間が木の上に登り、オオカミたちが梯子のように肩車を組んで樹上の人間を襲おうとするものの後一歩で届かず、オオカミが自分たちの親玉の化け物を呼びつける、というものである。動物学者・平岩米吉はこれらを、オオカミが夜に活動する習性、指揮をとる者のもとに集団で行動する習性を意味するとし、オオカミが肩車を組むのは、オオカミの高く飛び上がる身の軽さを表現したものと指摘している』とある。

「飛岡(とびおか)の淨廣寺」新潟県柏崎市大字善根に現存する曹洞宗瑞瀧山浄広寺。飛岡は小字。

「火車」ブログ・カテゴリ「怪奇談集」でもさんざん出て、注も何度もしてきたが、ここではもう、決定版として先の勝田至氏の論文「火車の誕生」(PDFでダウンロード可能)を読まれるに若(し)くはない。

「越中婦負(ねひ)郡櫻谷村大字駒見」現在の富山市桜谷(さくらだに)見(こまみ)(グーグル・マップ・データ)。呉羽山東麓の神通川左岸。

「射水(いみづ)郡の荒山」思うに私はこれは、石川県鹿島郡中能登町と富山県氷見市との境にある荒山峠(標高三百八十七メートル)のことではないかと私は踏む。ここは古くから越中と能登を結ぶ峠の一つで、茶屋があり、能登からの石動山(いするぎやま)参詣者や越中の商人や和倉温泉客が頻繁に通行した。約一キロメートル北東に能登守護畠山氏一統の荒山城跡がある。氷見市は元射水郡である(現行では富山県側は氷見市小滝)。ここ(グーグル・マップ・データ)。私は富山県立伏木高等学校の出身であるが、この辺りはともかくも山奥で、老尼の妖しい野犬(のいぬ)に変じた者が姿を隠すには相応しいところと心得るのである。

『此れよりも、時代、稍(やや)古く、且つ、土地の人の手に成りし著書には、之れを「狼なり」と云ヘり……』これはまさに「千疋狼」の体裁を完全に具備しているものである。前の注でも引いたウィキの「千疋狼」の「小池婆(こいけばば)」によれば、『雲州松江(現・島根県松江市)に伝わる説話』。『松江の小池という武家に仕える男が、正月休みに里帰りし、主の登城日前日の朝、未明の内に家を発って主のもとへ向かった。檜山へ差し掛かった頃、オオカミの群れに出くわしてしまい、逃げ場を失って路傍の大木に登り、難を逃れようとした』。『すると』、『オオカミたちは梯子状に肩車を組んで男に近付いてきたが、あと少しのところで高さが足りない。一番上のオオカミが「小池婆を呼べ」と吠えたてた。それに応じて』、一『匹の巨大なネコがやって来て、オオカミの梯子を昇って来た。男はネコを待ち受け、腰の刀を抜いてネコの眉間を切りつけた。金属音が響き、ネコもオオカミの群も姿を眩ました』。『やがて夜が明けて人の声がするようになり、男は安心して木から降りると、足元に茶釜の蓋が落ちていた。良く見ると、それは見慣れた主の家の茶釜の蓋だった。不思議に思い、男はそれを持って主の家へ向かった』。『主の家へ着いたところ、主の母親が昨晩、厠で転んで額に大怪我をしたと大騒ぎになっていた。さらに家の茶釜の蓋がなくなり、探し回っているところだった。男は茶釜の蓋を主に見せて事情を話した。主が母の部屋を覗くと、母は布団をかぶって妙な声で呻いていた』。『主は母を怪しいと睨み、布団の上から刀で突き刺した。布団を剥いで見ると、そこには老いたネコの死骸があったという』。続いて「弥三郎婆」の項。『弥三郎婆(やさぶろうばば)は、新潟県弥彦山を始め、山形県』、『福島県、静岡県に伝わる説話』。『中でも、以下の弥彦山の伝説が知られている』。『弥彦山の麓に、弥三郎という男が老いた母親と共に暮していた。ある日、弥三郎は山の中でオオカミの群れに出くわしてしまい、大木に登って難を逃れようとした』。『すると』、『オオカミたちは梯子状に肩車を組んで男に近付いてきたが、あと少しのところで高さが足りない。一番上のオオカミが「弥三郎の婆を呼べ」と吠えたてた。すると空に暗雲が立ち込め、その中から毛むくじゃらの腕が現れて弥三郎を掴んだ。弥三郎は必死に刀でその上を斬りつけると、雲もオオカミも消えてしまった』。『弥三郎は、オオカミたちはなぜ自分の母を呼んだのだろうと不思議に思いつつ、斬り落とした腕を持って帰宅した。家では母が布団を被って妙な声で呻いていた。弥三郎が事情を話して件の腕を見せると、母は「これは俺の腕だ!」と叫び、肩口から血を滴らせつつ逃げ去った。この母の正体は鬼婆であり、本物の母は既に鬼婆に食べられてしまった後だったという』。『なおこの説話には、弥三郎婆は鬼ではなくオオカミたちを率いる老いたネコだった』とするものや、既に見たように、『鬼婆が後に改心して妙多羅天という神になったなどの多くの異説がある』。妙多羅天の名の祠は山形県東置賜郡高畠町にもあり、羽前国(現・山形県)の伝説では渡会弥三郎という者が母の変化した鬼女に襲われ、その腕を斬り落としたとされ』、『前述のような弥三郎婆の説話は、この弥三郎の話に小前述の「小池婆」のようなネコやオオカミの怪異が混ざって生まれたという説もある』とあり、これらには以上のように、鬼女とは別の異類変化譚との有意な混淆が見られる。これはリアルなカニバリストととしての鬼婆を民話としてソフトにする効果もあるのかも知れない。それは飢饉の際に実際に人肉を食った過去を持つ、或いはそうした伝承記憶を根の部分に持つ人々には、リアル過ぎる人食い婆の話はそう変化させようとする力学が働くものと私は考えている。

「呉服山(くれはやま)」現行の呉羽丘陵。

「肯構泉達錄(こうこうせんたつろく)」は富山藩第八代藩主前田利謙(としのり)及び第九代藩主利幹(としつよ)仕えた藩士・漢学者・藩校広徳館学正(教授)であった野崎雅明(宝暦七(一七五七)年~文化一三(一八一六)年)。祖父伝助及び父雅伯(まさのり)の成そうとした越中史の研究に努め、死去する前年の文化十二年に完成させた最初の越中通史。全十五巻。以上国立国会図書館デジタルコレクションの画像で引用元の本文を確認出来る。柳田國男はここで、わざと、中国にも同類の話があることを野崎が「諭愚隨筆」という書名まで挙げて附記しているのを、平然とカットしているのは実にイヤな感じである。

「八犬傳」「赤岩一角」滝澤馬琴の読本「南総里見八犬伝」の登場人物の一人である赤岩一角武遠(あかいわいっかくたけとお)。下野赤岩の郷士で八犬士の一人で、礼の珠を持つ犬村大角礼儀(いぬむらだいかくまさのり)の実父。武芸に秀で、庚申山の化け猫を退治しに出かけたが、逆に食い殺された。庚申山山頂の洞窟で八犬士の一人犬飼現八信道(いぬかいげんぱちのぶみち:信の珠を持つ)は一角の魂魄と出会い、妖猫を父と信じて疑わない大角に真実を知らせることと、その妖猫を退治することを託す。犬村大角は寛正元(一四六〇)年)生まれの設定で、上記の通り、父親を殺してなり代わった化猫(偽赤岩一角)に虐待されたため、母方の伯父犬村蟹守儀清(いぬむらかもりのりきよ)に引き取られた。犬村家の一人娘雛衣(ひなきぬ)と結婚するが、雛衣の腹部が妊娠したように膨らんだことを、自分以外の男と密通したためと誤解して離縁し、自らは返璧(たまかえし)の里の草庵に住まっている。犬飼現八が赤岩一角の霊の請託を受けて大角を訪問した時には、雛衣の弁解を聞きながら無言の行を続けていた。雛衣の腹部が膨らんだのは、大角の珠を飲み込んでしまったためであった。犬飼現八の助力と雛衣の犠牲により、父の仇である化猫を倒し、犬士の群れに加わる。八犬士中、最後に登場する犬士で、古今の書物に精通している。関東での大戦では「赤岩百中」と名乗り、敵地三浦に潜入して活躍した。後に里見義成の三女鄙木姫(ひなきひめ 文正二・応仁元(一四六七)年生まれの設定)と結婚した(大角にとっては再婚)。鄙木姫との間に二男二女を儲けた。私は「八犬伝」読んだことがないので(妻は大ファンで通して原本を三回も読んでいる!)、ウィキの「南総里見八犬伝の登場人物に拠った。

「妻鹿(めが)孫三郞」(生没年未詳)南北朝期の武将。播磨妻鹿の功山(こうやま)城主。「太平記」によれば、力が優れ、相撲では日本六十余州に無敵とし、正慶(しょうきょう)二/元弘三(一三三三)年の「元弘の乱」の際には、一族十七名とともに赤松則村方につき、北条勢と闘った。孫三郎は通称。

「大森彦七」(生没年未詳)南北朝期の北朝方の武士。名は盛長。足利尊氏が九州から都に攻め上ったとき、「湊川の戦い」で楠木正成を破った。「太平記」巻第二十三の「大森彦七の事」が唯一の記録で、『其の心飽まで不敵にして、力、尋常(よのつね)の人に勝れたり。誠に血氣の勇者と謂ひつべし』と称えられている。殊に、有名な「湊川の合戦」で足利方の細川定禅(じょうぜん)に従って活躍し、楠木正成を死地に追い込んだのは生涯の面目であった。彼が伝説的人物として後世に名を伝えることとなったのは、「太平記」に「湊川合戦」の直後、彦七の刀を奪い取ろうとする正成の亡霊たる鬼女に彼が遭遇し、錯乱状態に陥ったものの、「大般若経」の功徳によって救われたとする部分に拠るところが大きい。

「此の二點は共に羅城門系統の話には見る所なくして、多數の河童談には、皆、之れを具ふ」だからね、柳田先生! 見出しの「羅城門」はおかしいってえの!!!]

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