フォト

カテゴリー

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 吾輩ハ僕ノ頗ル氣ニ入ツタ教ヘ子ノ猫デアル
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から
無料ブログはココログ

« 柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(2) | トップページ | 萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 艶めかしい墓場 »

2019/01/13

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(3)

 

《原文》

河童家傳ノ金創藥 サテ此カラガ本論ナリ。今若シ河童ヲ以テ一種ノ獸類トスルナラバ、正シク前ニ揭ゲシ傳ノ一例ト見ルべキ昔話アリ。即チ非常ニ效能ノ大ナル金創藥(キンサウヤク)ヲ河童ヨリ傳授セラレタリト云フ多クノ物語是ナリ。自分十二三歳ノ頃世ニ公ニセラレシ書物ニ、石川鴻齋翁ノ夜窻鬼譚(ヤソウキダン)ト云フ者アリ。自分ノ耳ヲ悅バセシ最初ノ話ハ此文集ノ中ニ在リキ。奇拔ナル插畫アリシ事ヲ記憶ス。【片手】袴ヲ著ケタル立派ナル若衆ガ奧方ノ前ニ低頭シ一本ノ手ヲ頂戴スルノ圖ニシテ、其手ハ恰モ天竺德兵衞ガ蝦蟆(ガマ)ノ手トヨク似タリ。此少年コソハ即チ河童ノ姿ヲ變へタル者ニシテ、奧方ノ爲ニ斬取ラレタル自分ノ片手ヲ返却シテ貰フ處ナリ。タシカ九州ハ柳河(ヤナガハ)ノ城下ニ於テ、河童或強勇ナル奧樣ニ無禮ヲ働キテ手ヲ斫ラル。泣イテ[やぶちゃん注:ママ。]其罪ヲ謝スルガ故ニ、憐愍ヲ以テ其手ヲ返シ與ヘタルニ、禮物ニ川魚ヲ持參セリト云フ話ナリシカト思フ。此同ジ話ノ異傳カトオボシキモノ、少クモ九州ニ二ツアリ。其一ハ博多細記ニ見ユ。筑前黑田家ノ家臣ニ鷹取運松庵ト云フ醫師アリ。妻ハ四代目ノ三宅角助ガ娘、美婦ニシテ膽力アリ。或夜厠ニ入リシニ物蔭ヨリ手ヲ延バシテ惡戲ヲセントスル者アリ。【河童ノ手】次ノ夜短刀ヲ懷ニシテ行キ矢庭ニ其手ヲ捉ヘテ之ヲ切リ放シ、主人ニ仔細ヲ告ゲテ之ヲ燈下ニ檢スルニ、長サハ八寸バカリニシテ指ニ水搔アリ、苔ノ如ク毛生ヒテ粘リアルハ、正シク本草綱目ニアル所ノ水虎(スヰコ[やぶちゃん注:ママ。])ノ手ナリト珍重スルコト大方ナラズ。然ルニ其夜モ深更ニ及ビテ、夫婦ガ寢ネタル窻ニ近ク來リ、打歎キタル聲ニテ頻ニ訴フル者アリ。私不調法ノ段ハ謝リ入ル、何トゾ其手ヲ御返シ下サレト申ス。河童ナドノ分際ヲ以テ武士ノ妻女ニ慮外スルサヘアルニ、手ヲ返セトハ長袖ト侮リタルカ、成ラヌ成ラヌト追返ス。斯クスルコト三夜ニ及ビ、今ハ々ニ泣沈ミテ憫ヲ乞ヒケレバ、汝猶我ヲ騙カサントスルカ、我ハ外治ノ醫家ナルゾ。冷エ切ツタル手足ヲ取戾シテ何ニセント言フゾト罵ル。御疑ハ御尤モナレドモ、人間ノ療治トハ事カハリ、成程手ヲ繼グ法ノ候ナリ。【腕ノ共通】三日ノ内ニ繼ギサヘスレバ、假令前ホドニハ自由ナラズトモ、コトノ外殘リノ腕ノ力ニナリ候。偏ニ御慈悲ト淚ヲコボス。【鯰】此時運松庵モ稍合點シ、然ラバ其藥法ヲ我ニ傳授セヨ、腕ハ返シ與フべシト云ヘバ、河童是非ニ及バズトテ障子越ニ一々藥法ヲ語リテ書キ留メサセ、片手ヲ貰ヒテ罷リ還リ、更ニ夜明ケテ見レバ大ナル鯰ノマダ生キタルヲ、庭前ノ手洗鉢ノ邊ニサシ置キタリシハ、誠ニ律義ナリケル話ナリ。【ヒヤウスへ】次ニ笈埃(キウアイ)隨筆ノ中ニハ、肥前諫早(イサハヤ)在ノ兵揃(ヒヤウスヘ)村天滿宮ノ神官澁江久太夫ノ家ノ歷史トシテ此話ヲ傳ヘタリ。事ノ顚末ハ全ク博多ノ鷹取氏ノト同ジク、唯彼ハ醫師ナルニ反シテ此ハ本草ニモ緣ナキ普通ノ神主ナレドモ、利害の打算ト外交的手腕トニ於テハ甲乙アルコトナク、有利ナル交換條件ヲ以テ安々ト河童手繼ノ祕法聞取リ、永ク之ヲ一子相傳ノ家寶トシテ、近國ノ怪我人ニ河童藥ノ恩惠ヲ施シタリト云へリ。

 【澁江氏】右三書ノ傳フル所、果シテ何レヲ眞トスべキカヲ知ラザルモ、要スルニ澁江氏ハ河童ト淺カラザル緣故アリ。肥後ニモ河童ノ退治ヲ職トスル一箇ノ澁江氏アリキ。今ノ菊池神社ノ澁江公木氏ナド或ハ其沿革ヲ承知セラルヽナランカ。但シ自分ノ知ル限リニ於テハ、肥前ニハ兵輔(ヒヤウスヘ)ト云フ村ノ名無シ。恐クハ亦傳聞ノ誤ナラン。【水神】九州ノ南半ニ於テハ河童ノ別名ヲ水神(スヰジン[やぶちゃん注:ママ。])ト謂ヒ或ハ又「ヒヤウスヘ」ト謂フ〔サヘヅリ草〕。狩野探幽ノ筆ト稱スル百化物(ヒヤクバケモノ)ノ畫卷ノ中ニモ、「ヒヤウスヘ」ト云フ物アリ。太宰府天滿宮ノ末社ノ一ニ、「ヒヤウスべ」ノ宮アリ。此ハ俗ニ謂フ河太郞ノコトナリト稱ス〔南蘭草下〕。【菅公】昔菅公ガ筑紫ノ配處ニテ詠マレタリト云フ歌ニ

  イニシヘノ約束セシヲ忘ルナヨ川立チ男氏ハ菅原

ト云フ一首アリ〔和漢三才圖會四十〕。此歌ハ僅ナル變更ヲ以テ又左ノ如クモ傳ヘラル〔同上八十〕。

  ヒヤウスヘニ約束セシヲ忘ルナヨ川立チ男我モ菅原

之ヲ以テ觀レバ、「ヒヤウスヘ」ハ本來河童ノコトニハ非ズシテ、化物退治ヲ以テ專門トシタル神ナリシカト思ハル。【守札】諫早(イサハヤ)附近ノ澁江氏ガ同ジク天滿宮ノ祠官ナリシコト、及ビ一説ニハ長崎ノ邊ニ住スル澁江文太夫ナル者、能ク水虎ヲ治シ護符ヲ出ス、河ヲ涉ル者之ヲ携ヘ行ケバ害ナシト云ヒ、或ハ若者等海ニ小石ヲ投ジテ戲レトセシヲ怒リ、河童此澁江氏ニ托シテ其ノ憤リヲ述べタリト云フコトヲモ考フレバ〔同上〕、村ノ名ヲ兵揃(ヒヤウスヘ)ト誤リ傳ヘタル仔細ハ必ズシモ想像ニ難カラズ。而シテ右ノ一首ハ、此男ハ菅原氏ノ一族ノ者ナレバ川ニ立チテモ害ヲ加フルコトナカレ、以前「ヒヤウスヘ」神ト結ビタル約束ヲ嚴守セヨト云フツモリニテ、拙(ツタナ)キナガラニヨク要領ヲ得、河童硏究上有力ナル一史料ナリ。

 

《訓読》

河童(かつぱ)家傳の金創藥(きんさうやく) さて、此れからが、本論なり。今、若(も)し、河童を以つて一種の獸類とするならば、正(まさ)しく前に揭げし傳の一例と見るべき昔話あり。即ち、非常に效能の大なる金創藥(きんさうやく)を、河童より傳授せられたりと云ふ多くの物語、是れなり。自分、十二、三歳の頃、世に公にせられし書物に、石川鴻齋(いしかはこうさい)翁の「夜窻鬼譚(やそうきだん)」と云ふ者あり。自分の耳を悅ばせし最初の話は、此の文集の中に在りき。奇拔なる插畫ありし事を記憶す。【片手】袴を著(つ)けたる立派なる若衆が、奧方の前に低頭し、一本の手を頂戴するの圖にして、其の手は恰(あたか)も天竺德兵衞が蝦蟆(がま)の手と、よく似たり。此の少年こそは、即ち、河童の姿を變へたる者にして、奧方の爲に斬り取られたる自分の片手を返却して貰ふ處なり。たしか、九州は柳河(やながは)の城下に於いて、河童、或る強勇なる奧樣に無禮を働きて手を斫(き)らる。泣いて其の罪を謝するが故に、憐愍(れんびん)を以つて其手を返し與へたるに、禮物に川魚を持參せりと云ふ話なりしかと思ふ。此の同じ話の異傳かとおぼしきもの、少くも、九州に二つあり。其の一つは「博多細記」に見ゆ。筑前黑田家の家臣に、鷹取運松庵と云ふ醫師あり。妻は四代目の三宅角助が娘、美婦にして膽力あり。或る夜、厠(かはや)に入りしに、物蔭より手を延ばして、惡戲をせんとする者、あり。【河童の手】次の夜、短刀を懷(ふところ)にして行き、矢庭(やには)に其の手を捉へて、之れを切り放し、主人に仔細を告げて、之れを燈下に檢(けみ)するに、長さは八寸ばかりにして、指に水搔(みづかき)あり、苔(こけ)のごとく、毛、生(お)ひて粘りあるは、『正(まさ)しく「本草綱目」にある所の「水虎(すゐこ)」の手なり』と珍重すること、大方ならず。然るに、其の夜も深更に及びて、夫婦が寢ねたる窻(まど)に近く來たり、打ち歎きたる聲にて頻(しき)りに訴ふる者あり。『私、不調法の段は謝り入る、何とぞ、其の手を御返し下され』と申す。『河童などの分際(ぶんざい)を以つて武士の妻女に慮外するさへあるに、「手を返せ」とは長袖(ちやうしう)と侮りたるか、成らぬ、成らぬ』と追ひ返す。斯(か)くすること三夜に及び、今は々(たえだえ)に泣き沈みて憫(あはれみ)を乞ひければ、『汝、猶、我を騙(たぶら)かさんとするか、我は外治(がいち)の醫家なるぞ。冷え切つたる手足を取り戾して何にせんと言ふぞ』と罵(ののし)る。『御疑ひは御尤もなれども、人間の療治とは事かはり、成程、手を繼(つ)ぐ法の候(さふらふ)なり。【腕の共通】三日の内に繼ぎさへすれば、假令(たとひ)前ほどには自由ならずとも、ことの外、殘りの腕の力になり候。偏(ひとへ)に御慈悲』と淚をこぼす。【鯰】此の時、運松庵も稍(やや)合點(がてん)し、『然らば、其の藥法を我れに傳授せよ、腕は返し與ふべし』と云へば、河童、『是非に及ばず』とて障子越しに、一々、藥法を語りて、書き留めさせ、片手を貰ひて罷(まか)り還り、更に、夜明けて見れば、大なる鯰(なまづ)の、まだ生きたるを、庭前の手洗鉢(てうづばち)の邊(あたり)にさし置きたりしは、誠に律義(りちぎ)なりける話なり。【ひやうすへ】次に「笈埃(きうあい)隨筆」の中には、肥前諫早(いさはや)在(ざい)の兵揃(ひやうすへ)村天滿宮の神官澁江久太夫の家の歷史として此の話を傳へたり。事の顚末は全く博多の鷹取氏のと同じく、唯、彼は醫師なるに、反して、此れは本草にも緣なき普通の神主なれども、利害の打算と外交的手腕とに於ては甲乙あることなく、有利なる交換條件を以つて安々(やすやす)と河童手繼(てつぎ)の祕法、聞き取り、永く、之れを一子相傳の家寶として、近國の怪我人に河童藥の恩惠を施したりと云へり。

 【澁江氏】右三書の傳ふる所、果して何れを眞とすべきかを知らざるも、要するに、澁江氏は河童と淺からざる緣故あり。肥後にも河童の退治を職とする一箇の澁江氏、ありき。今の菊池神社の澁江公木(しぶえきみき)氏など、或いは其の沿革を承知せらるゝならんか。但し、自分の知る限りに於いては、肥前には「兵輔(ひやうすへ)」と云ふ村の名、無し。恐くは亦、傳聞の誤りならん。【水神】九州の南半(みなみはん)に於いては河童の別名を「水神(すゐじん)」と謂ひ、或いは又、「ひやうすへ」と謂ふ〔「さへづり草」〕。狩野探幽の筆と稱する「百化物(ひやくばけもの)」の畫卷(ゑまき)の中にも、「ひやうすへ」と云ふ物、あり。太宰府天滿宮の末社の一(ひとつ)に、『「ひやうすべ」の宮』あり。此れは『俗に謂ふ、「河太郞(かはたらう)」のことなり』と稱す〔南蘭草下〕。【菅公(かんこう)】昔、菅公が筑紫(つくし)の配處にて詠まれたりと云ふ歌に

  いにしへの約束せしを忘るなよ川立(かはだ)ち男氏(うぢ)は菅原

と云ふ一首あり〔「和漢三才圖會」四十〕。此の歌は僅かなる變更を以つて、又、左のごとくも傳へらる〔同上八十〕。

  ひやうすへに約束せしを忘るなよ川立ち男我も菅原

之れを以つて觀(み)れば、「ひやうすへ」は、本來、「河童」のことには非ずして、化物退治を以つて專門としたる神なりしか、と思はる。【守札】諫早(いさはや)附近の澁江氏が、同じく天滿宮の祠官なりしこと、及び、一説には、長崎の邊(あたり)に住する澁江文太夫なる者、能く水虎を治(じ)し[やぶちゃん注:統治し。]、護符を出だす、河を涉(わた)る者、之れを携へ行けば、害なし、と云ひ、或いは若者等(ら)、海に小石を投じて戲(たはむ)れとせしを、怒り、河童、此の澁江氏に托して、其の憤りを述べたりと云ふことをも考ふれば〔同上〕、村の名を兵揃(ひやうすへ)と誤り傳へたる仔細は必ずしも想像に難からず。而して右の一首は、『此の男は菅原氏の一族の者なれば、川に立ちても害を加ふることなかれ、以前「ひやうすへ」神と結びたる約束を嚴守せよ』と云ふつもりにて、拙(つたな)きながらに、よく要領を得(え)、河童硏究上、有力なる一史料なり。

[やぶちゃん注:やっと迂遠な枕が終わって河童が登場する。柳田先生、温泉からここまで、こんな枕が必要でしょうかねぇ?

「石川鴻齋」(天保四(一八三三)年~大正七(一九一八)年)は三河(愛知県)豊橋の商家に生まれた幕末から近代の儒者・漢学者。西岡翠園に師事し、詩文の他、文人画にも優れた。明治一〇(一八七七)年、四十四で東京に転居し、同じ三河出身の和泉屋市兵衛が経営していた書店に勤め、編集に携わった。また、芝増上寺の浄土宗学校の開校に際しては漢学の教師に就任。同年、清国の全権公使何如璋(かじょしょう)を始めとする副使・随員らが宿所として増上寺に滞在した際には筆談を以って会談に加わった。翌明治十一年に詩文集「芝山一笑」を刊行、漢学者としての名声が高まり、この時期に注釈本など数多くの著作を手がけた。小野湖山・前田黙鳳・依田学海・富岡鉄斎などとも親交があった。

「夜窻鬼譚(やそうきだん)」「夜窗鬼談」が正しい(窻」「窗」は孰れも「窓」の異体字)。上巻は明治二二(一八八九)年、下巻は明治二七(一八九四)年に東京の東陽堂から出版された、完全に漢文で書かれた非常に優れた怪異小説集。私の偏愛する怪談集であり、何時かはオリジナルに訓読を試みたいと思っている名著である。上巻四十四篇、下巻四十二篇、都合、計八十六篇から成る。小泉八雲の「果心居士の話」(The story of Kogi the Priest)(「日本雑記」(A Japanese Miscellany)・明治三四(一九〇一)年)・「お貞の話」(The Story of O-Tei)及び「鏡と鐘」(Of A Mirror And A Bell)(「怪談」(Kwaidan)・明治三十七年)の三篇は、本書の「果心居士」・「怨魂借體」・「祈得金」から素材や着想を得ている。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像で全篇(下巻はこちら)が読める。柳田國男が言っているのは上巻の「河童」で、ここから。右手にはその挿絵も見られる

「天竺德兵衞」(てんじくとくべえ 慶長一七(一六一二)年~?)は江戸前期に実在した商人で探検家。ウィキの「天竺徳兵衛」によれば、『播磨国加古郡高砂町(現在の兵庫県高砂市)に生まれる。父親は塩商人だったという』。寛永三(一六二六)年、十五歳の時、『京都の角倉』(すみのくら)『家の朱印船貿易に関わり、ベトナム、シャム(現在のタイ)などに渡航。さらに』ヤン・ヨーステンヤン・ヨーステン・ファン・ローデンステイン(Jan Joosten van LodensteynLodensteijn) 一五五六年?~一六二三年:オランダの航海士で朱印船貿易家。日本名は「耶楊子(やようす)」。『教科書などで知られている「ヤン・ヨーステン」は名で、姓は「ファン・ローデンステイン」』。『オランダ船リーフデ号に乗り込み、航海長であるイギリス人ウィリアム・アダムス』(William Adams 一五六四~元和六(一六二〇)年:江戸初期に徳川家康に外交顧問として仕えたイングランド人航海士で貿易家。三浦按針(みうらあんじん)の日本名で知られる)『とともに』慶長五(一六〇〇)年四月に『豊後に漂着』した。『徳川家康に信任され、江戸城の内堀内に邸を貰い、日本人と結婚した。屋敷のあった場所は現在の八重洲のあたりだが、この「八重洲」の地名は彼自身の名に由来する。「ヤン=ヨーステン」が訛った日本名「耶楊子」(やようす)と呼ばれるようになり、これがのちに「八代洲」(やよす)となり、「八重洲」(やえす)になったとされる』。『やがて東南アジア方面での朱印船貿易を行い、その後帰国しようとバタヴィア(ジャカルタ)に渡ったが』、『帰国交渉がはかどらず、結局』、『あきらめて日本へ帰ろうとする途中、乗船していた船がインドシナで座礁して溺死した)『とともに天竺(インド)へ渡り、ガンジス川の源流にまで至ったという。ここから「天竺徳兵衛」と呼ばれるようになった』。『帰国後、江戸幕府が鎖国政策をしいた後』、自身の見聞録「天竺渡海物語」(「天竺聞書」とも)を『作成し、長崎奉行に提出した。鎖国時に海外の情報は物珍しかったため世人の関心を引いたが、内容には信憑性を欠くものが多いとされる』。『高砂市高砂町横町の善立寺に墓所が残っている』。『死去した後に徳兵衛は伝説化し、江戸時代中期以降の近松半二の浄瑠璃』「天竺徳兵衛郷鏡(てんじくとくべえさとのすがたみ)」(宝暦一三(一七六三)年四月竹本座初演。尾崎光弘氏のコラム「本ときどき小さな旅」のこちらにシノプシスがある)や、四代目鶴屋南北の歌舞伎「天竺徳兵衛韓噺(てんじくとくべえいこくばなし)」(文化元(一八〇四)年江戸河原崎座夏芝居初演。先の「天竺徳兵衛郷鏡」を下敷きにした作で、天竺帰りの船頭徳兵衛が自分の素姓を吉岡宗観(そうかん)、実は大明(だいみん)の臣木曽官の子と知り、父の遺志を継いで日本転覆の野望を抱き、蝦蟇(がま)の妖術を使って神出鬼没、将軍の命をねらうが、巳の年月揃った人の生き血の効験によって術を破られるというストーリー)で『主人公となり、妖術使いなどの役回しで人気を博した』とある。「蝦蟆(がま)の手」というのは、その歌舞伎化されたものの妖術シーンに基づく。

「たしか、九州は柳河(やながは)の城下に於いて」先のリンクの冒頭は、「筑後柳川邊。古多河童」(筑後柳川邊り、古へ、河童多し)と始まる。

「斫(き)らる」「斬」に同じい。

「憐愍(れんびん)」憐れみ、情けをかけること。同情。

「博多細記」不詳。

「鷹取運松庵」「九州の東方を往く」(第一巻・二〇一七年五月発行・PDFサンプル)の「特集1 カッパ王国九州」の地図に福岡県福岡市中央区に「鷹取運松庵屋敷跡」というのが示されてある。

「三宅角助」本山一城氏のサイト「黒田武士の館」内の「黒田騒動講談本の登場人物の実名と変名の比較」というページに、本名は三宅角左衛門、変名が三宅角助で、『加藤清正旧臣の子』とある。

『「本草綱目」にある所の「水虎(すゐこ)」』李時珍の「本草綱目」の、あろうことか、「蟲之四 濕生類」の「溪鬼蟲」の「附錄」に、

   *

附錄水虎。時珍曰、「襄沔記」云、中廬縣有涑水、注沔。中有物如三四歳小兒、甲如鱗鯉、射不能入。秋曝沙上。膝頭似虎掌爪。常没水出膝示人。小兒弄之便咬人。人生得者、摘其鼻、可小小使之、名曰水虎。

   *

と出る。寺島良安は「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類(かいるい)」で「水虎」を掲げて、この本文を引き、

   *

Suiko

すいこ

水虎
       【本草蟲部附

        錄出水虎蓋

        此非蟲類今

シユイ フウ  改出于恠類】

 

本綱水虎襄沔記注云中廬縣有涑水注沔中有物如三

四歳小兒甲如鯪鯉射不能入秋曝沙上膝頭似虎掌爪

常没水出膝示人小兒弄之便咬人人生得者摘其鼻可

小使之

按水虎形狀本朝川太郎之類而有異同而未聞如此

 物有乎否

 

 

すいこ

水虎
       【「本草」蟲の部の附錄に

        水虎」を出だす。蓋し

        此れ、蟲類に非ず。今、

シユイ フウ  改めて恠類に出だす。】

 

「本綱」に、『水虎は「襄沔記」〔(じやうべんき)〕注に云はく、中廬(ちうろ)縣に涑水(そくすい)有りて、沔中〔(べんちう)〕に注(そゝ)ぐ。物有り、三~四歳の小兒のごとく、甲(かう)は鯪鯉〔(りやうり)〕のごとく、射(ゆみい)ても入ること能はず。秋、沙上に曝す。膝の頭、虎〔の〕掌・爪に似たり。常に水を〔に〕没し、膝を出だして、人を〔に〕示す。小兒、之を弄〔(もてあそ)〕べば、便〔(すなは)〕ち、人を咬(か)む。人、生(いき)ながら得ば、其の鼻を摘(つま)んで、之れを小使〔(こづかひ)〕にすべし。

按ずるに、水虎の形狀、本朝「川太郎」の類〔(たぐひ)〕にして、異同有り。而〔れども〕未だ聞かず、此くのごとき物、有るや否や。

   *

と述べている。私は「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」を遠い昔に総て電子化注しているが、古い仕儀なので、漢字の正字化を徹底して読みも増やし、図も添えた。私の詳細注も附してあるのでそちらも見られたい。しかし、水搔きがあるなんてどこにもかいてありませんぜ!

「長袖(ちやうしう)」袖括(そでくく)りして鎧を装着する武士に対し、長袖の衣服を着ているところから、公卿・僧・神官・学者・医師(江戸時代の医者は圧倒的に僧形(そうぎょう)の者が多かった)などを指した蔑称。

「外治(がいち)の醫家」「外科医」に同じい。

「成程」ここは「確かに」「実際、本当に」の意。

「繼(つ)ぐ」「接ぐ」。

「殘りの腕の力になり候」残っている方の腕に、ある程度まで、力添えが出来るようなレベルにまでは回復致すので御座います。但し、後に示した「和漢三才図会」の「川太郎」の叙述を見ると、所謂、「通臂」で左右の腕の骨が左右どちらにもそのまま移動して用を足せる意が記されているのは、非常に興味深い。

「是非に及ばず」仕方がない。

「ひやうすへ」現代仮名遣表記では「ひょうすえ」地域によっては「ひょうすべ」とも呼ばれており、現行では九州を中心に伝承される河童に類似した人型妖怪の名である。ウィキの「ひょうすべ」によれば、『ひょうすべは、日本の妖怪の一種。佐賀県や宮崎県をはじめとする九州地方に伝承されている』。『河童の仲間と言われ、佐賀県では河童やガワッパ、長崎県ではガアタロの別名ともされるが』、『河童よりも古くから伝わっているとも言われる』。『元の起源は古代中国の水神、武神である兵主神であり、日本へは秦氏ら帰化人と共に伝わったとされる』。『元々武神ではあるが日本では食料の神として信仰され、現在でも滋賀県野洲市、兵庫県丹波市黒井などの土地で兵主』(ひょうず:八千矛神(やちほこのかみ))『神社に祀られている』。『名称の由来は後述の「兵部大輔」のほかにも諸説あり、彼岸の時期に渓流沿いを行き来しながら「ヒョウヒョウ」と鳴いたことから名がついたとも言われる』。『佐賀県武雄市では』、嘉禎三(一二三七)年に武将橘公業(たちばなのきみなり)が『伊予国(現・愛媛県)からこの地に移り、潮見神社の背後の山頂に城を築いたが、その際に橘氏の眷属であった兵主部(ひょうすべ)も共に潮見川へ移住したといわれ、そのために現在でも潮見神社に祀られる祭神・渋谷氏の眷属は兵主部とされている』。『また、かつて春日神社の建築時には、当時の内匠工が人形に秘法で命を与えて神社建築の労働力としたが、神社完成後に不要となった人形を川に捨てたところ、人形が河童に化けて人々に害をなし、工匠の奉行・兵部大輔(ひょうぶたいふ)島田丸がそれを鎮めたので、それに由来して河童を兵主部(ひょうすべ)と呼ぶようになったともいう』。『潮見神社の宮司・毛利家には、水難・河童除けのために「兵主部よ約束せしは忘るなよ川立つをのこ跡はすがわら」という言葉がある。九州の大宰府へ左遷させられた菅原道真が河童を助け、その礼に河童たちは道真の一族には害を与えない約束をかわしたという伝承に由来しており、「兵主部たちよ、約束を忘れてはいないな。水泳の上手な男は菅原道真公の子孫であるぞ」という意味の言葉なのだという』。『別名には』他に、『ひょうすぼ、ヒョウスンボ、ひょうすんべなどがある』。『河童の好物がキュウリといわれることに対し、ひょうすべの好物はナスといわれ、初なりのナスを槍に刺して畑に立て、ひょうすべに供える風習がある』。『人間に病気を流行させるものとの説もあり、ひょうすべの姿を見た者は原因不明の熱病に侵され、その熱病は周囲の者にまで伝染するという』。『ナス畑を荒らすひょうすべを目撃した女性が、全身が紫色になる病気となって死んでしまったという話もある』。『また、ひょうすべはたいへん毛深いことが外観上の特徴とされるが、ひょうすべが民家に忍び込んで風呂に入ったところ、浸かった後の湯船には大量の体毛が浮かんでおり、その湯に触れた馬が死んでしまったという』。『似た話では、ある薬湯屋で毎晩のようにひょうすべが湯を浴びに来ており、ひょうすべの浸かった後の湯には一面に毛が浮いて臭くなってしまうため、わざと湯を抜いておいたところ、薬湯屋で飼っていた馬を殺されてしまったという話もある』。『鳥山石燕らによる江戸時代の妖怪画では、伝承の通り毛深い姿で、頭は禿頭で、一見すると人を食ったようなユーモラスな表情やポーズで描かれている』。『これは東南アジアに生息するテナガザルがモデルになっているともいわれる』とある。以下に、同ウィキのパブリック・ドメインの「ひょうすべ」の画像を掲げておく。

Suushi_hyosube

佐脇嵩之(さわきすうし 宝永四(一七〇七)年~明和九(一七七二)年):英一蝶晩年の弟子)の「百怪図巻」(元文二(一七三七)年作)に描かれた「へうすへ」の図

Sekienhyousube

鳥山石燕(とりやませきえん 正徳二(一七一二)年或い同四年~天明八(一七八八)年)の「画図百鬼夜行」(安永五(一七七六)年板行)より「ひやうすべ」の図

「笈埃(きうあい)隨筆」江戸中期の旅行家で俳人でもあった百井塘雨(ももいとうう ?~寛政六(一七九四)年)紀行随筆。私は既に『柴田宵曲 妖異博物館 「河童の執念」』の注で同書の当該の「水虎」の部分(結構な分量がある)を電子化しているので参照されたい

「澁江久太夫」竹村匡弥(まさや)氏の論文『「河童が相撲を取りたがる」という伝承に関する研究――野見宿禰と河童の別称である「ひょうずべ」の関係を中心として――(『スポーツ史研究』第二十一号(平成 二〇(二〇〇八)年発行)PDF)という非常に優れた論考の、「3-1 河童を自在に統御する渋江家」で、「北肥戰誌」(馬瀬俊継編・享保五(一七二〇)年成立。肥前を中心とした戦記物)『には、「渋江家由来の事」として、以下の記述がみられる』として(以下、恣意的に漢字を正字化した)、

   *

抑々彼の鹽見城主澁江家の先祖を如何にと尋ねるに、人王三十一代敏達天皇には五代の孫、左大臣橘諸兄の末葉なり。此の諸兄才智の譽世に高く、聖武天皇の御宇既に政道の補佐たりしより後、其孫從四位下兵部大輔島田丸猶朝廷に仕え奉る。然るに神護景雲[やぶちゃん注:七六七年~七七〇年。]の頃、春日の社常陸國鹿島より今の三笠山へ移らせ給う[やぶちゃん注:ママ。]の時、此島田丸匠工の奉行を勤めけるに、内匠頭何某九十九の人形を造りて匠道の祕密を以て加持したる程に、忽ち彼の人形に火便り風寄りて童の形に化し、或時は水底に入り或時は山上に到りて神力を播し[やぶちゃん注:「はし」。行き渡らせ。]、精力を勵し被召仕[やぶちゃん注:「めしつかふまつられ」。]ける間、思の外大營の功早速成就成りけり。斯て御社の造營成就の後、彼の人形を川中に捨てけるに、動くこと尚前如前[やぶちゃん注:衍字か。「なほまへのごとく」と訓じておく。]、人馬六畜を侵して甚世の禍となりけり。今の河童是也。此事稱德天皇遙に叡聞ましまし、其時の奉行人なれば兵部大夫島田丸急ぎ彼の化人[やぶちゃん注:「けにん」。]の禍を鎭め可申旨詔を被下けり。斯て兵部大夫勅命を蒙り、則其趣を河中水邊に觸れ𢌞りしかば、其後は河伯の禍なかりけり。從是[やぶちゃん注:「これより」。]して彼の河伯を兵主部[やぶちゃん注:「ひやうすべ」]と名く。主は兵部という心成べし。夫れより兵主部を橘氏の眷屬とは申す也。

   *

とあって、非常に判り易く、また、腑に落ちる伝承であることが判る。

「菊池神社の澁江公木(きみき)氏」天保四(一八三三)年~大正三(一九一四)年)幕末から明治期の肥後出身の神職。神職で国学者であった渋江松石の孫。木下犀潭(さいたん)に学び、肥後熊本藩の重臣小笠原氏の子弟の教育に当たった。維新後、現在の熊本県菊池市隈府(わいふ)にある菊池神社(ここ(グーグル・マップ・データ)。南北朝時代に南朝側で戦った菊池氏三代を祀る)の宮司となり、私塾遜志堂を開いた。公木(きみき)は本名

『狩野探幽の筆と稱する「百化物(ひやくばけもの)」の畫卷(ゑまき)』引用元の「南蘭草(ならんそう)」は幡国鳥取藩支藩若桜藩第五代藩主池田定常(明和四(一七六七)年~天保四(一八三三)年)が「松平冠山」名で書いた考証随筆で、そこには「狩野探幽が書ける百怪物といふ軸を見つるに、ひやうすべといふもの有」とあるらしい(ツイッター情報)。しかし、現物は聴いたことも見たこともない。識者の御教授を乞う。

「太宰府天滿宮の末社の一(ひとつ)に、『「ひやうすべ」の宮』あり」同じくツイッター情報で同じ「南蘭草」の上記引用の直後に「此を荻野梅塢に問ひしに、太宰府天滿宮の末社に『ひやうすべの宮』あり。これは俗にいふ河太郎を祭れるなり」とあるらしい。但し、当該末社を調べて見たが、見当たらない。識者の御教授を乞う。

「昔、菅公が筑紫(つくし)の配處にて詠まれたりと云ふ歌に……私は既に「諸國里人談卷之二 河童歌」の注で、本「山島民譚集」のこの前後を引いて考証しているので参照されたい

『「和漢三才圖會」四十〕』先に示した私の「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の「水虎」の次で電子化注してあるが、古い仕儀なので、漢字の正字化を徹底して、読みも増やし、図も添えた。私の詳細注も附してあるのでそちらも見られたい

   *

Kawatarou

かはたらう  一名川童

      【深山有山童同

       類異物也

       性好食人舌忌

       見鐵物也】

川太郎

 

按川太郎西國九州溪澗池川多有之狀如十歳許小

 兒裸形能立行爲人言髮毛短少頭巓凹可盛一匊水

 每棲水中夕陽多出於河邊竊瓜茄圃穀性好相撲見

 人則招請比之有健夫對之先俯仰搖頭乃川太郎亦

 覆仰數囘不知頭水流盡力竭仆矣如其頭有水則力

 倍於勇士且其手肱能通左右滑利故不能如之何

 也動則牛馬引入水灣自尻吮盡血也渉河人最可愼

   いにしへの約束せしを忘るなよ川たち男氏は菅原

 相傳菅公在筑紫時有所以詠之於今渡河人吟之則無

 川太郎之災云云偶雖有捕之者恐後崇〔祟〕放之

 

 

かはたらう  一名「川童(かはらう)」

      【深山に「山童〔(やまわろ)〕」

       有り。同類〔にして〕異なり。

       性〔(しやう)〕、好みて人の舌

       を食ふ。鐵物〔(かなもの)〕を

       見るを忌むなり。】

川太郎

 

按ずるに、川太郎は西國九州溪澗池川に多く之れ有り。狀(かた)ち、十歳許りの小兒のごとく、裸-形(はだか)にて、能く立行〔(りつかう)〕して人言〔(じんげん)〕を爲(な)す。髮毛短く、少頭の巓〔(てん)〕、凹〔(へこ)み〕、一匊水〔(いちきくすい)〕を盛る。每〔(つね)〕に水中に棲(す)みて、夕陽に多く河邊に出でて、瓜・茄〔(なすび)〕・圃-穀(はたけもの)を竊〔(ぬす)〕む。性〔(しやう)〕、相撲(すまひ)を好み、人を見れば、則ち、招きて之れを比〔(くら)〕べんことを請ふ。健夫有りて之れに對するに、先づ、俯仰〔(ふぎやう)〕して頭を搖〔(ゆら)〕せば、乃〔(すなは)〕ち、川太郎も亦、覆仰(うつふきあをむ)くこと數囘にして、頭の水、流れ盡〔(つき)〕ることを知らず、力竭〔(つ)き〕て仆〔(たを)〕る。如〔(も)〕し其の頭、水、有れば、則ち、力、勇士に倍す。且つ、其の手の肱(かひな)、能く左右に通(とほ)り(ぬけ)て、滑-利(なめら)かなり。故に之れを如何(いかん)ともすること能はざるなり。動(ややも)すれば、則ち、牛馬を水灣〔(すいわん)〕に引〔き〕入れて、尻より血を吮(す)ひ盡くすなり。渉-河(さはわたり)する人、最も愼むべし。

   いにしへの約束せしを忘るなよ

      川だち男氏(うぢ)は菅原

相傳ふ、『菅公、筑紫に在りし時に、所以(ゆゑん)有りて之れを詠せらる。今に於いて、河を渡る人、之れを吟ずれば、則ち、川太郎の災〔(わざはひ)〕無しと』云云と。偶々〔(たまたま)〕、之れを捕ふる有ると雖も、後の祟(たゝり)を恐れて、之れを放つ。

   *

「此の歌は僅かなる變更を以つて、又、左のごとくも傳へらる〔同上八十〕」「ひやうすへに約束せしを忘るなよ川立ち男我も菅原」これは「和漢三才図会」の地誌パートの中の「大日本国」パートの、巻八十にある「肥前」の部の「菅原第明神」の箇所で、以下に電子化するが、柳田の記載は、これより前の部分から総てが、良安のこの記載に拠っていることが判る。但し、一首の表記は柳田の引用とは違いがある

   *

菅原大明神  在兵揃村 【自諫早十里南】

  祭神 菅丞相

   ひやうすへに川たちせしを忘るなよ川立ち男我も菅原

 此邊多有水獸而捕人渉河人書件唄於竹葉投川則

 水虎不爲害

――――――――――――――――――――――

又長崎之邊有稱澁江文太夫者能治水虎而嘗出符渉

 河人携其符則不害矣或時有壯士等戲飛礫於海中

 若干也於是水虎來于澁江家告曰從長崎管令黒田

 家西泊營向我栖投礫若累日不止則爲對彼家災害

 也因澁江訴上件趣人咸以爲奇

菅原大明神  兵揃(ひやうすべ)村に在り。【諫早より、十里、南。】

  祭神 菅丞相

   ひやうすべに川たちせしを忘るなよ川立ち男我も菅原

此の邊りに、多く、水獸(かはたろう[やぶちゃん注:ママ。以下、同じ。])有りて、人を捕る。渉河(かちわたり)の人、件〔(くだん)〕の唄を竹の葉に書きて、川に投ずれば、則ち、水虎(かはたろう)、害を爲さずといふ。

――――――――――――――――――――――

又、長崎の邊りに、澁江文太夫と稱する者、有り。能く水虎を治〔(をさ)〕む。嘗て、符を出だす。河を渉る人、其の符を携(たづさ)へれば、則ち、害、あらず。或る時、壯士等有り、戲れに礫〔(つぶて)〕を海中に飛ばす〔こと〕若干(そこそこ)たり。是に於いて、水虎、澁江が家に來りて、告げて曰はく、「長崎管令黒田家の西泊の營〔(えい)〕[やぶちゃん注:陣屋。]より、我が栖〔(すみか)〕に向けて礫を投げり。若〔(も)〕し、累日〔(るいじつ)〕[やぶちゃん注:「何時まで経っても」の意。]止まずんば、則ち、爲めに、彼〔(か)〕の家に對して災害(わざはひ)せん」〔と〕なり。因りて、澁江、上件〔(じやうけん)〕の趣きを訴ふ。人、咸(みな)[やぶちゃん注:皆。]、以つて奇と爲す。

   *

さて、柳田は前で「自分の知る限りに於いては、肥前には「兵輔(ひやうすへ)」と云ふ村の名、無し。恐くは亦、傳聞の誤りならん」と言っているのであるが、ここにははっきりと「兵揃(ひやうすべ)村に在り」とし、しかも「諫早より、十里、南」とまで記している。これは如何にも不審である。そこで調べてみたところ、個人ブログ「仮称リアス式「肥前諌早の兵揃村」で、長崎県長崎市多以良町に「兵頭」(読み不明だが、「ひょうず」と読みたくなること請け合い)という地名があり、ここは現在の長崎市内で『俗に東長崎と呼ばれている』が、この『地域は昔は諌早領だった』と記されてある。諫早市街からは、西で二十五キロメートルほどしか離れてはいないけれど、これは気になる。そこに示された「電子国土ポータル」には確かに「兵頭」の地名を確認出来、しかも近くのごくごく川沿いにぽつんと神社があるではないか。いよいよ気になるが、この神社、よく判らぬ。まんず、私の力ではここまでだ。]

« 柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(2) | トップページ | 萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 艶めかしい墓場 »