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2019/01/15

南方熊楠と柳田國男の往復書簡三通(明治四五(一九一二)年四月二十九日~同年五月一日)

 

[やぶちゃん注:これは現在、ブログ・カテゴリ「柳田國男」で進行中の「山島民譚集」の「河童駒引」のこちらのパートの最後の注のために緊急電子化する。緊急なれば、必要最小限度の注に留めた。

 底本は所持する一九八五年平凡社刊の「南方熊楠選集」の「別巻」の両者の往復書簡集に拠る。これは新字新仮名であるが、仕方がない。

 クレジットは底本では一字上げ下インデントであるが、上に引き上げた。割注風の部分はポイント落ちであるが、同ポイントで出した。]

 

 

 柳田国男より 南方熊楠宛

   明治四十五年四月二十九日

『雪の出羽路』巻十二、羽後平鹿郡栄村大字大屋寺内の条に、この国秋田、能代、横手、河口等に河童相伝という接骨の薬あり、その主剤はいずれも「扛板帰(こうはんき)」なり。この扛板帰を、地方によりては「河童の尻ぬぐい」といい、または河童草というと有之候が、この植物につきて何か御心当りは無之や伺い上げ候。

 また今西氏説に、朝鮮に「揚水尺」と称する一種の民種あり、妓生もとこれより出で、柳器を製して生を営みしもののよし。水尺とは水を探す杖かと考え候が如何。

 

 

 南方熊楠より 柳田国男宛

   明治四十五年五月一日夜一時

 小生、四月三十日朝より今に眠らず、顕微鏡を捻し、はなはだ疲れたれどもこの状認め、明朝下女をして出さしむ。

 滕成裕の『中陵漫録』巻六に、川太郎のことをいうとて、奥州にこの害なけれども、西国には時々この害に遇う、云云、とあり。しかるに、貴書によれば羽後にある由なり。また『遠野物語』によるも、奥州にあるなり。ひとえに書を信ずべからざること、かくのごとし。

 さて同書(『中陵漫録』巻一三)に、万病回春に扛板帰あり、和名イシミカワという草に充つ、今時薬肆にもこの草を売る、よく折傷、打傷を治すこと妙なり、という。按ずるに、日向国より出づる河白(かっぱ)相伝正左衛門薬というあり、よく骨を接(つ)ぎ死肉を治す妙薬なり。この由来を尋ぬるに、日向国に古池あり、毎歳河白のために人命を失う。ある人、薄暮この池の辺を過ぐ、河白手を出して足踵を引く。この人鎌(かま)をもって河白の手を切り取って帰る。この人梁下に釣り置く。これより毎夜来て板戸を叩いてその手を請う。この人、大いに罵って追いちらす。およそ来ること一七(いちしち)夜、この人河白に請いていわく、この手乾枯して用に立つことなしと言えば、河白対えていわく、われに妙薬あり、妙薬をもって生活(いけいか)すという。これによって、この人戸を開きてその手を投じ去る。この夜のうちに一草を持ち来たり置く。この人考うるに、妙薬と言いしはこの草なるべしとて、乾し置き、人の金瘡および打傷の人に施すにはなはだ妙なり。これによって毎歳採って打傷の薬とす。これを名づけて河白相伝正左衛門薬という。はなはだ流行するに至って、その近隣の人々この草を知らんとすることを恐れて、今は黒霜となすなり。余案ずるに、毎夜来て板を扛いて帰るという、回春に扛板帰という意に暗に相合す。おそらくは、扛板帰の名はなはだ解しがたし、河白はすなわちカッパなり、この草湿草にして河白の住むべきところに多く生うる草なり、その理その自然に出づるなり。

 扛は『康熙字典』に「横関(かんぬき)を対拳(さしあ)ぐるなり、また挙ぐるなり」 とあり、成裕はたたくの意にこじつけたり。似たことながらはなはだ正しからず。板をかつぐもの筋ちがうて板を持つに堪えざりしに、この草の即効にてたちまちふたたび板を扛(あ)げかついで帰れりというような意、山帰来に似たことと察し侯。この草をイシミカワということ分かりがたし。『塩尻』(帝国書院刊本、巻六)に、イシミカワという草、河内国錦部郡石見村のみにあり、他所になしとその所の者の話、とあり。これは石見(いしみ)という名よりこじつけたる説と存じ候。なにか乱世のころ、この草を用い薬とし、威神膏とか一心膏とか名づけたるより、イシンコウ、イシミカワと転訛したるかと察し申し候。

 多紀安良(?)の『広急赤心済方』(今の『家庭漢一療類典』[やぶちゃん注:「一」の横に編者の不審を表わす記号が右に打たれてある。]ごときもの)にもこの事を図し、その神効を説きあり。扛板帰(いしみかわ)をカッパグサまたカッパノシリヌグイと言う由は今始めて承る。ただし、イシミカワと同じく蓼属中のもので、ママコノシリヌグイというものあり。未熟な採集家はよく間違うなり。田辺辺すべて熊野にはママコノシリヌグイ多きも、イシミカワは見当たらず、和歌山近在にはイシミカワ多く、ママコノシリヌグイ少なし。右『塩尻』に一村にしかなき由いうところを見ると、なにか薬用に使いしらしく候。全く無用のものなら、そんなことに気を付けぬはずなり。

Isimikawatomamakonosirinugui

[やぶちゃん注:南方熊楠直筆の挿絵。右側が「山島民譚集」の「河童駒引」「イシミカハ」(イシミカワ)で、上部に学名「Persicaria perfoliata L.」、左側が「マヽコノシリヌグヒ」(ママコノシリヌグイ)で、上部に学名「Polygonum senticosum Fr. et Sav.」(これは同種の現行の学名 Persicaria senticosa (Meisn.) H.Gross のシノニムである)。ナデシコ目タデ科イヌタデ属ママコノシリヌグイはウィキの「ママコノシリヌグイによれば、「継子の尻拭い」で、「トゲソバ」(棘蕎麦)の別名を持つ一年草で、『和名は、この草の棘だらけの茎や葉から、憎い継子の尻をこの草で拭くという想像から来ている。韓国では「嫁の尻拭き草」と呼ばれる。漢名は刺蓼(シリョウ)』。『他の草木などに寄りかかりながら』、『蔓性の枝を伸ばし、よく分岐して、しばしば藪状になる。蔓の長さは』一~二メートルで、『茎は赤みを帯びた部分が多く、四稜があり、稜に沿って逆向きの鋭い棘が並んでいる』。『柄のある三角形の葉が互生し、さらに茎を托葉が囲む。葉柄と葉の裏にも棘がある』。五~十月頃、『枝先に』十『個ほどの花が集まって咲く。花弁に見えるのは萼片で』、『深く』五『裂し、花被の基部が白色で、先端が桃色。花後には黒色の痩果がつく』。『東アジアの中国、朝鮮半島から日本の全土に分布』し、『やや湿り気のある林縁や道端などに生える』とある。南方熊楠のキャプションは右から、

「葉柄葉裏(ウラ)ニツク」

「花短キ穗ヲナス」

「花雄藥八」(「雄花を薬に入れる」の意かと思ったが、違う。「八」不詳)

「實南天ノ實ノ

 如ク開(「同」かも知れぬ)ク緑碧白

 紅紫黑■(「抔」か?)異色ニテ

 一寸見事ナリ。」

(以上が「イシミカワ」のキャプションで、以下は「ママコノシリヌグイ」)

「花球顆ヲナス

  花雄藥七」(「七」不詳)

「葉柄葉ノ端ニツク

 表ニツカズ」

「實ハソバノ乾果ノ如シ。」

「托葉莖ヲ抱キ込ムノミ莖托

         葉ノ中心

         ヲ貫カズ」

とある。]

 ウナギツカミ。これはこの辺の田間にはなはだ多き草なり。他に異品あり。アキノウナギツカミ、ナガバノウナギツカミ等なり。

Unagitukami

[やぶちゃん注:ウナギツカミの図。上に学名「Polygonum sagittatum L.」が記されてある。ウナギツカミは「鰻摑み」でシノニムに「Polygonum sieboldii Meisn.」がある、タデ科タデ亜科タデ属 Polygonum の一年草。異名に「ウナギヅル」がある。茎の下部は地を這って、節から根を下ろし、上部は分枝して立ち上がり、稜角と逆向きの刺(とげ)があって、他物に絡みつき、高さ一メートル余となる。葉は披針形で、先は鈍く時に鋭く、長さ四~八センチメートル、幅一・五~三センチメートルで、基部は心臓形を成し、並行する葉耳(ようじ:岡山理科大学生物地球学部生物地球学科植物生態研究室(波田研)サイトを参照されたい)がある。質は薄く、やや粉白を帯び、無毛。裏面の葉脈上に逆向きの刺がある。葉鞘の縁(へり)は斜めに切れる。花穂は頭状、花は上半部が帯紅色で長さ三ミリメートル、花被は五枚、雄しべは八本、花柱は三本。痩果は卵状三稜形、黒色で、光沢はない。水辺に生え、日本全土、朝鮮、中国、東シベリアに分布する。夏開花するものを「ウナギツカミ」といい、秋開花するものを「アキノウナギツカミ」として区別することがある(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。]

 右三品いずれも蓼属に属する草なり。㈠㈡[やぶちゃん注:ここに編者注があり、イシミカワとママコノシリヌグイのこととする。]はやや蔓草の体あり、㈢[やぶちゃん注:同前。ウナギツカミのこととする。]はまず偃地[やぶちゃん注:「えんち」。地面に伏せて広がること。]し後に直上す。

 ウナギツカミはこれをもってウナギ、ナマズ等すべっこいものをつかむに、鈎刺(かぎばり)あるゆえ難なく摑み得るなり。ママコノシリヌグイ、イシミカワ、いずれも鈎刺一層強し、人を傷つけるなり。ママコを悪(にく)む継母、これをもってその尻を拭うて傷つくという意なり。イシミカワはカッパ人の尻ぬく返報に、人がその尻をこの草でぬぐい苦しめやるべしという義にて、カッパノシリヌグイというも同意と存じ候。河童身滑りて捕えがたきゆえ、この草をもって執え得[やぶちゃん注:「とらえう」。]と信ぜるより、カッパ草(ぐさ)ということと存じ候。

 さて支那の扛板帰に充てて薬効ありと信ぜるより、和俗の名にちなみてカッパよりこの薬法を伝えたと言い出せしことと存じ候。田辺辺の屠児[やぶちゃん注:差別用語。中世・近世に於いて家畜などの獣類を殺すことを業とした人。]、牛黄をゴインと申す。これは牛黄と熊野の牛王と同音なるゆえ、牛王=牛王印にちなんで牛黄を牛印というに似たることと存じ候。マタタビは、貝原の説に、真の実Matatabinomi と、御承知のごとく猫に食わす実(み)のごときもの実は寄生虫の巣Matatabinokiseityuuno と、二様の実を結ぶゆえ「再実(またたみ)」の義の由、真偽は知らず、とにかくマタタビという名古くよりありしなり。しかるに、牟婁・日高郡の山民の話に、むかし旅人あり、霍乱にて途上に死せんとす、たまたまマタタビを得てこれを舐(ねぶ)り霍乱愈(い)え、再びまた旅に上り行きしゆえ、復旅(またたび)というと言い伝え候は、一層似たることなり。(『和名抄』に、和名ワタタビとあれば、貝原の説ははなはだ疑わし。)

 前便申し上げ候『訓蒙図彙大成』に見え候、京の猿舞(まわ)し、伏見より出づるということ、黒川道祐の『遠碧軒記』上の三に、猿牽は京に六人あり、所々にありて外のは入らず。京にては因幡薬師町に住す、山本七郎右衛門という。子供あれども一人ずつはまた拵ゆ[やぶちゃん注:「こしらゆ」。室町時代から、ハ行下二段動詞「こしらふ」がヤ行に転じて使われた古語。]。伏見のも京へば入らず、他所のは入らざるはずなり。伏見のは装束をさせて舞わす。京のは内裏方へ行く時は急度(きっと)装束す。正月五日に内裏へ行き、その外は親王様誕生の時は内裏に行く、姫宮のときは参らず。常も町をありきて他処のは入らざるなり。この六人のもの猿を六疋使う、内裏にて官をあがる、銀一貫ほどずつなり。

 猿舞しのことは『嬉遊笑覧』に多くかきあり、御存知のことゆえ今ここに抄せず。

 北村季吟の『岩つつじ』という書、貴下見しことありや、承りたく候。『続門葉和歌集』ごとく男色に関する物語の歌を集めたるものの由、平田篤胤の『妖魅考』に見え申し候。小生多年捜せども見当たらず、今も存するものにや。

 オポのこと、Burtonの『メジナとメッカ記行[やぶちゃん注:ママ。]』によれば、アフリカおよびアラビアにも似たものある由なり。しかし、別に抄するほどのことなき略註なれば、ここに抄せず。

 すこぶる睡たきにつき擱筆す。以上

[やぶちゃん注:以下、追伸風で、全体が底本では二字下げとなっている。]

本書封せんとして『和漢三才図会』蔓草類を見るに、赤地利をイシミカワに充てたり(今はミゾソバに当つ)。「骨を接ぐこと膠(にかわ)のごとし(堅固にするゆえ)、石膠(いしみかわ)と名づく」、ミカワはニカワの訛りなり、と。

 

 

 南方熊楠より 柳田国男宛

   明治四十五年五月二日夜十一時

 拝啓。小生、今午前三時貴方への状認めおわり眠たく、それより臥し今夕眼さめ、かれこれするうち一、二町内の当地第一の旅館失火全焼。かの毛利氏の妻の里方にて、毛利氏は今夜中村啓次郎等来たり、山口熊野の選挙運動大気焰最中の全焼ゆえ、大狼狽のことと存じ申し候。小生は近ごろ合祀一条は全く放棄し、顕微鏡学にのみかかりおり、目悪く、さりとて中止するわけにも行かず、一昨日来眠らず、今暁よりようやく今夕まで眠り候。そんなことゆえ精神弱り、考えも鈍り候ゆえか、「カッパの尻拭い」の義、今朝差し上げ候状のはちと考え過ぎた説と存じ申し候。すなわちこの名義は「カッパの尻をこの草の刺(はり)でぬぐいこまらせやり復讐することならん」と申せしは考え過ぎにて、「カッパの体は尻また糞までも滑るゆえ、尻の拭い料なきゆえ、かのウナギツカミでウナギをつかむごとく、この草の刺ありて物にひっかかるを利用してカッパがこの草もて自分の尻を拭う」という義と存じ申し候。右訂正候なり。故に、ママコノシリヌグイと鉤刺は等しくありあがら[やぶちゃん注:ママ。「ながら」か。]、カッパノシリヌグイのはその鈎刺を利用、ママコノシリヌグイのは害用することと存じ候。

[やぶちゃん注:底本、「旅館失火全焼」に注して、『明治四十五年五月二日夜、中屋敷町にありし旅館兼料亭五明楼焼く。建坪百十余坪(二階あり)焼失、損害一万余円。(『田辺町史』)』とある。]

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