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2019/01/14

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(4)

 

《原文》

 併シ何レニシテモ右ノ河童藥ノ話ニハ少カラズ御伽噺的分子ヲ含メリ。如何ニ妙藥ナレバトテ切ラレシ手ノ繼ガルべキ道理アルコトナシ。但シ靈藥ノ靈藥タル所以トシテ、最初ノ程ハ先ヅ先ヅソレ位奇妙ナル效能アリシモノトシテ置クナリ。然ルニ此ノ如キ奇談モ九州以外ニヤハリ多クノ類例アリ。何事ニヨラズ天下一品ト云フ物ハ此ノ世ニ無シト言ヒテ可ナリ。試ミニ其一二例ヲ揭グレバ、【馬】甲斐北巨麻郡[やぶちゃん注:「巨摩」はかくも書いた。]下條(シモデウ)村ニ昔ハ下條ノ切疵藥トテ有名ナル妙藥アリ。此モ釜無川ノ河童ノ傳授ナリト稱ス。農夫アリ、或年ノ冬薪ヲ馬ニ附ケテ甲府ノ町へ賣リニ行キシ歸リニ、此川ノ川原ニシテ日暮レ霙降リ來ル。其時曳キタル馬ノ少シモ動カザルヲ怪シミテ振返リ見レバ、十二三歳ノ男ノ兒ガ馬ノ尾筒ニ縋リ居ル。如何ニ叱リテモ手ヲ放サズ、アマリ憎ラシケレバ年甲斐モ無ク少々腹ヲ立テ、腰差ノ刀ヲ拔キテ切拂フ眞似ヲシタルニ始メテ遁ゲ去レリ。【馬洗】然ルニ其ノ夜宅ニ歸リテ馬ヲ洗ハントスルニ、尻尾ノ根モトニ猿ノ手ノ如キ物一ツブラ下リテアリ。不思議ニ思ヒツツモ之ヲ藏ヒ置クニ、其ノ夜中ニ戸ノ外ニ來テ小兒ノ如キ聲ニテサモ悲シゲニ旦那旦那ト呼ブ者アリ。私ハ河童デアリマス、ドウゾアノ手ヲ返シテ下サレト言ヒ、且ツ切ラレテ萎ビタル手足ニテモ、元ノ通リニ繼ギ得ルコトヲ告ゲタリ。此河童モ性來好人物ノ河童ナリト思シク、主人ノ掛引ニ逢ヒテハタト當惑ハシタルモ、元々自分ノ方ガ理窟モ惡ク且ツ弱味モアルコト故、終ニ其ノ祕法ヲ傳授シテ腕ト交換シテ去リシノミナラズ、翌朝ハ別ニ澤山ノ鯉鮒ナドヲ戸口ノ盥ノ中ニ入レテ行キタリ。主人ハ慨然トシテ曰ク、我豈(アニ)獸類ヲシテ其ノ食ヲ分タシメンヤト、悉ク魚ヲ川ニ放ス。而モ一包二十四文ノ切疵藥ノミハ河童ノ餘德トシテ盛ニ賣レタルガ故ニ、結句一鄕ノ分限者ト成リスマシ、更ニ又河童退治ノ高名ハ國中ニ響キ渡リシ次第ナリ〔裏見寒話六〕。【橋ノ怪】常陸行方(ナメカタ)郡現原(アラハラ)村大字芹澤ト大字捻木(ネヂキ)トノ間ヲ流ルヽ手奪(テバヒ)川ハ梶無(カヂナシ)川ノ上流ナリ。橋アリ手奪橋(テバヒバシ)ト云フ。寬正六年夏ノ頃芹澤俊軒ト云フ人此ノ邊ヲ逍遙シ、日暮レテ此ノ橋ヲ過ギテ歸ラントスルニ馬前(スヽ)マズ。怪シミテ後ヲ顧ミレバ怪物アリテ馬ノ尾ヲ捉フルヲ見ル。乃チ刀ヲ拔キテ其ノ腕ヲ斫リ之ヲ携ヘ還ル。然レドモ其ノ何物タルヲ知ラズ。其ノ夜俊軒ガ寢所ニ入リ來タリ拜伏シテ訴フル者アリ。吾ハ前川(ゼンセン)ニ住メル河童ナリ。公ノ爲ニ一手ヲ斬ラル。願ハクハ腕ヲ返セ、吾ニ金創接骨ノ妙藥アリ、幸ニ以テ我ガ腕ヲ接ギ且ツ奇方ヲ君ニ傳ヘテ謝意ヲ表セント言フ。俊軒愍然トシテ腕ヲ返ス。河童大ニ悅ビテ其ノ祕傳ヲ授ケ且ツ曰ク、爾後日々魚ヲ獻ゼン。若シ魚ヲ獻ゼザルニ至ラバ吾命ノ終レルヲ知リタマヘ云々。明日果シテ魚一雙ヲ庭上ノ梅ノ枝ニ懸ケ、久シキヲ經テ斷スルコト無シ。數年ノ後一日魚ヲ見ズ。仍テ下男ヲシテ前川ヲ搜ラシムルニ、河童果シテ死シ其ノ屍ハ逆流シテ今ノ東茨城郡橘村與澤(ヨザハ)ノ地ニ止マル。【手接】乃チ其地ニ葬リ祠ヲ建テ手接明神ト謂フ。水旱疾疫ニ際シ之ニ禱ルニ驗アリ。手奪川(テバヒガハ)ノ名ハ此ニ起リ、芹澤氏金創藥家傳ノ妙方亦之ヲ祖トス。今遠孫芹澤潔ト云フ人此地ニ住シテ尚接骨ノ藥ヲ販ギツヽアリ〔茨城名勝誌〕。

 

《訓読》

 併(しか)し、何れにしても、右の河童藥(かつぱやく)の話には、少からず、御伽噺(おとぎばなし)的分子を含めり。如何に妙藥なればとて、切られし手の繼がるべき道理あることなし。但し、靈藥の靈藥たる所以として、最初の程は、先づ先づ、それ位(くらゐ)奇妙なる效能ありしものとして置くなり。然るに、此くのごとき奇談も、九州以外に、やはり多くの類例あり。何事によらず、天下一品と云ふ物は此の世に無しと言ひて可なり。試みに、其の一、二例を揭(あ)ぐれば、【馬】甲斐北巨麻(きたこま)郡下條(しもでう)村に、昔は「下條の切疵藥(きりきずやく)」とて有名なる妙藥あり。此れも、釜無川の河童の傳授なりと稱す。農夫あり、或る年の冬、薪を馬に附けて、甲府の町へ賣りに行きし歸りに、此の川の川原にして、日、暮れ、霙(みぞれ)降り來たる。其の時、曳きたる馬の少しも動かざるを怪しみて、振り返り見れば、十二、三歳の男の兒(こ)が、馬の尾筒(をづつ)[やぶちゃん注:獣の尾の付け根の丸く膨れた部分を指す。「ちくま文庫」版全集『ビトウ』と振るが、採らない。]に縋(すが)り居(を)る。如何に叱りても、手を放さず、あまり、憎らしければ、年甲斐も無く、少々、腹を立て、腰差(わきざし)の刀を拔きて、切り拂ふ眞似をしたるに、始めて、遁げ去れり。【馬洗(うまあらひ)】然るに、其の夜、宅に歸りて、馬を洗はんとするに、尻尾の根もとに猿の手のごとき物、一つ、ぶら下りてあり。不思議に思ひつつも、之れを藏(しま)ひ置くに、其の夜中に、戸の外に來て、小兒のごとき聲にて、さも悲しげに、「旦那、旦那」と呼ぶ者あり。「私は河童であります、どうぞ、あの手を返して下され」と言ひ、且つ、切られて萎(しな)びたる手足にても、元の通りに繼ぎ得ることを告げたり。此の河童も、性來(しやうらい)、好人物の河童なりと思(おぼ)しく、主人の掛引(かけひき)に逢ひて、はた、と當惑はしたるも、元々、自分の方が、理窟も惡く、且つ弱味もあること故、終に其の祕法を傳授して腕と交換して去りしのみならず、翌朝は別に澤山の鯉・鮒などを戸口の盥(たらひ)の中に入れて行きたり。主人は慨然(がいぜん)として曰はく、「我れ、豈(あ)に獸類をして其の食を分たしめんや」と、悉く、魚を川に放す。而(しかれど)も[やぶちゃん注:私の勝手訓。「ちくま文庫」版は『而(しか)も』。]、一包二十四文の切疵藥のみは河童の餘德として盛んに賣れたるが故に、結句、一鄕の分限者[やぶちゃん注:金持ち。]と成りすまし[やぶちゃん注:ここではフラットに「結果として成り果(おお)せた」の意。]、更に又、河童退治の高名は國中に響き渡りし次第なり〔「裏見寒話」六〕。【橋の怪】常陸行方(なめかた)郡現原(あらはら)村大字芹澤ト大字捻木(ねぢき)との間を流るゝ手奪(てばひ)川は梶無(かぢなし)川の上流なり。橋あり、手奪橋(てばひばし)と云ふ。寬正六年[やぶちゃん注:一四六五年。「応仁の乱」勃発の二年前。]夏の頃、芹澤俊軒と云ふ人、此の邊を逍遙し、日暮れて、此の橋を過ぎて歸らんとするに、馬、前(すゝ)まず。怪しみて、後ろを顧みれば、怪物ありて、馬の尾を捉(とら)ふるを見る。乃(すなは)ち、刀を拔きて、其の腕を斫(き)り、之れを携へ還る。然れども、其の何物たるを知らず。其の夜、俊軒が寢所に入り來たり、拜伏して訴ふる者、あり。「吾は前川(ぜんせん)[やぶちゃん注:家の真向かいを流れる川の意。]に住める河童なり。公の爲に一手を斬らる。願はくは、腕を返せ。吾に金創(きんさう)・接骨(ほねつぎ[やぶちゃん注:ずっと後の方でこの読みが振られている。])の妙藥あり、幸ひに以つて我が腕を接ぎ、且つ、奇方(きはう)を君に傳へて、謝意を表せん」と言ふ。俊軒、愍然(びんぜん)[やぶちゃん注:憐れむべきさま。]として、腕を返す。河童、大いに悅びて、其の祕傳を授(さづ)け、且つ曰はく、「爾後(じご)[やぶちゃん注:これより後。]、日々、魚(うを)を獻ぜん。若(も)し、魚を獻ぜざるに至らば、吾(わが)命の終れるを知りたまへ」云々(うんぬん)。明日(みやうじつ)、果して、魚一雙[やぶちゃん注:二尾。二つで一組のものを「雙」(双)と言う。]を庭上の梅の枝に懸け、久しきを經て、斷すること、無し。數年の後、一日、魚を見ず。仍(より)て、下男をして前川を搜らしむるに、河童、果して、死し、其の屍は逆流して、今の東茨城郡橘村與澤(よざは)の地に止(とど)まる。【手接(てつぎ)】乃(すなは)ち、其地に葬り、祠(ほこら)を建て、「手接明神(てつぎみやうじん)」と謂ふ。水旱(すいかん)[やぶちゃん注:洪水と干魃(かんばつ)。]・疾疫(しつえき)[やぶちゃん注:悪性の流行病(はやりやまい)。]に際し、之れに禱(いの)るに、驗(しるし)あり。「手奪川(てばひがは)」の名は此(ここ)に起り、「芹澤氏金創藥家傳の妙方」亦、之れを祖とす。今、遠孫・芹澤潔(せりざはきよし)と云ふ人、此の地に住して、尚(なほ)接骨(ほねつぎ)の藥を販(ひさ)ぎつゝあり〔「茨城名勝誌」。〕。

[やぶちゃん注:「甲斐北巨麻(きたこま)郡下條(しもでう)村」現在の韮崎市藤井町北下條げじょう・藤井町南下條(げじょう)に相当する地域(北下條はここで、南下條はここ。孰れもグーグル・マップ・データ)。西直近を釜無川が流れる。工夫の南西約十キロほどの位置にある。

「下條の切疵藥(きりきずやく)」現存はしない模様である。

「猿の手のごとき物」ここで「猿」が出て来たことは記憶しておく必要がある。ご存じの方も多いと思うが、ずっと後に出るように、永く、猿は厩を守る神として、その頭蓋骨が厩に祀られたりしてきた民俗習俗があるからである。

「慨然(がいぜん)」憤り嘆くさま。嘆き憂えるさま。

「我れ、豈(あ)に獸類をして其の食を分たしめんや」反語。「儂は、しがない農夫の身にてはあれど、畜生の上に、人として、生まれた身じゃて、どうして、異類たる獣どもの食い扶持までも割かさせて食うなどということが、出来ようか、いや、出来ぬ!」。これは人と畜生や異類(河童)との差別的認識ではなく、生きとし生けるもの(献上された魚のそれ及び生物としての河童)に対する素朴な仏教的な慈悲心の表われと読むべきである。而してその判り易い殺生戒の遵守を以ってしても、彼には分限者に成るべき資格が既にここで与えられてあるのである。

「而(しかれど)も」文中で注した通り、私が意図的に勝手に訓じたものであるが、かく読んでこそ、「結句」(結局)、「一鄕の分限者」成り果(おお)せたとする後日談が腑に落ちると考えるからである。

「常陸行方(なめかた)郡現原(あらはら)村大字芹澤ト大字捻木(ねぢき)との間を流るゝ手奪(てばひ)川は梶無(かぢなし)川の上流なり。橋あり、手奪橋(てばひばし)と云ふ。」現在の茨城県行方市芹沢と同捻木の間に架かる橋がここYahoo地図。二つの大字地名が確認出来る)。サイト「茨城妖怪探検隊」の「手奪橋の河童伝説で画像も見られ、痒いところに手が届くで、河童(リンク先では現地では「七郎河童」という名を持っていることが判る)の死後、それを祀ったとされる場所、本文の「手接明神(てつぎみやうじん)」、現在の手接神社(本文の「東茨城郡橘村與澤(よざは)」は現在の茨城県小美玉市与沢。先の手奪橋から直線で三・六キロメートル北西の梶無川の右岸(南側)にある。(グーグル・マップ・データ))を訪問した手接神社の河童伝説の別ページもある! 河童の神社!! 必見!!! また、Romanブログまほらにふく風に乗っての「手接神社(小美玉市)を見ると、つげ義春並みにドキッとくる手形の奉納写真もあるぞ!

「芹澤俊軒」上記のページ等を見ると、なんと! 「新撰組」の初代筆頭局長であった芹沢鴨の先祖であるらしく、この手接神社附近で城持ちの豪族であったともする。

「其の屍は逆流して」何故、逆流出来るのか? それは恐らく、妖怪としての河童が完全な陰気に基づく生物という認識があったからであろうと私は思う。

「芹澤潔」不詳。この片の製造した薬も現存はしない模様である。]

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