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2019/01/15

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 蒼ざめた馬

 

 

 

  

        觀念(いでや)もしくは心像(いめえぢ)の世界に就いて

 

 

 

だまつて道ばたの草を食つてる

みじめな 因果の 宿命の 蒼ざめた馬の影です。

 

[やぶちゃん注:以上はパート標題「意志と無明」(左ページ)の裏(右ページ)に記された献辞。「無明」(むみやう(むみょう))とは、「真理を知らないという無知」を指す仏教用語。サンスクリット語で「アビドヤー」。原始仏教に於いては、四諦(したい:四つの真理(諦:サティヤ)のこと。釈迦はブッダガヤーの菩提樹下でこの四諦の真理を悟ったとされ、四つの真理とは「苦諦」・「集諦(じったい)」・「滅諦」・「道諦」の四つを指し、「苦」とは人間の生が苦しみであること、「集(じゅ)」とは煩悩による行為が集まって苦を生みだすこと、「滅」とは煩悩を絶滅することで涅槃に達すること、「道」とはそのために八正道(はっしょうどう:「正見」(正しい見解)・「正思」(正しい思惟)・「正語」(正しい言語行為)・「正業(しょうごう)」(正しい行為)・「正命(しょうみょう)」(正しい生活)・「正精進」(正しい努力)・「正念」(正しい想念)・「正定(しょうじょう)」(正しい精神統一)の八つの徳目)に励むことを指す)の理或いは縁起の理を知らないことが「無明」であると定義される。大乗仏教に於いては「真如の理を知らない」或いは「有を無と見、無を有と見る」誤りと定義される。「貪(とん)」・「瞋(しん)」・「癡(ち)」の三大煩悩の内の「癡」に相当し、「貪」と「瞋」とが情的煩悩であるのに対し、「無明」=「癡」は知的煩悩であり、煩悩の中でも最も根本的な煩悩とされる。

 

 

 

  蒼ざめた馬

 

冬の曇天の 凍りついた天氣の下で

そんなに憂鬱な自然の中で

だまつて道ばたの草を食つてる

みじめな しよんぼりした 宿命の 因果の 蒼ざめた馬の影です

わたしは影の方へうごいて行き

馬の影はわたしを眺めてゐるやうす。

 

ああはやく動いてそこを去れ

わたしの生涯(らいふ)の映畫幕(すくりん)から

すぐに すぐに外(づ)りさつてこんな幻像を消してしまへ

私の「意志」を信じたいのだ。馬よ!

因果の 宿命の 定法の みじめなる

望の凍りついた風景の乾板から

蒼ざめた影を逃走しろ。

 

[やぶちゃん注:「外(づ)りさつて」のルビ「づ」はママ。「ず」が正しい。初出も「づ」であるから萩原朔太郎の誤りである。大正一〇(一九二一)年十月号『日本詩人』(創刊号)初出。初出では

「すくりん」のルビが「すくりーん」

『私の「意志」を信じたいのだ。馬よ!』が「私の意志信じたいのだ。馬よ」(太字は傍点「●」(大きな黒丸)

となっており、詩篇の最後に、字下げポイント落ちで、

   ――宿命の不可抗力に就いて――

という添書きがある。「定本靑猫」は以下。

   *

 

  蒼ざめた馬

 

冬の曇天の 凍りついた天氣の下で

そんなに憂鬱な自然の中で

だまつて道ばたの草を食つてる

みじめな しよんぼりした 宿命の 因果の蒼ざめた馬の影です。

わたしは影の方へうごいて行き

馬の影はわたしを眺めてゐるやうす。

ああはやく動いてそこを去れ

わたしの生涯(らいふ)の映畫膜(すくりん)から

すぐに すぐに 外(ず)りさつてこんな幻像を消してしまへ。

私の「意志」を信じたいのだ。馬よ!

因果の 宿命の 定法の みじめなる

望の凍りついた風景の乾板から

蒼ざめた影を逃走しろ。

 

   *

筑摩書房版全集は例の消毒をして、「映畫膜」を「映畫幕」とし、そのルビ「すくりん」を「すくりーん」にし、「外(づ)りさつて」を「外(ず)りさつて」と直している。しかし、少なくとも「すくりん」は他の再録でも一貫して長音符を打っていないのだから、この校訂は絶対に不当であるし、「定本靑猫」でも「映畫膜」はママである。「定本靑猫」ではその「卷尾に」で、『この「定本」のものが本當であり、流布本に於ける誤植一切を訂正し、倂せてその未熟個所を定則に改定した。よつて此等の詩篇によつて、私を批判しようとする人人や、他の選集に拔粹しようとする人人は、今後すべて必ずこの「定本」によつてもらひたい』と述べている以上、「幕」の消毒も不当であると言える。

「定法」「ぢやうはふ(じょうほう)」と読む。「決まっている規則・決まった法式」或いは「いつものやりかた・しきたり」であるが、前者の意。

乾板」「かんぱん」は写真用語「dry plate」の訳語。透明なガラス板に写真乳剤を塗布し、乾燥させた写真感光材料の一種。最初期のゼラチン乾板は一八七一年にイギリスの医師で写真家でもあったリチャード・リーチ・マドックス(Richard Leach Maddox 一八一六年~一九〇二年) が発明した。乳剤の湿潤中に撮影し、乾燥すると感度を失ってしまう湿板に対し、乾燥後も撮影が可能なので「乾板」と呼んだ。現在では、特殊な精密科学分野等を除くと、殆んどがまずフィルムに置き換えられ、さらにそれも電荷結合素子(CCDCharge-Coupled Device)にとって代わった。ここは「生涯(らいふ)の映畫膜(すくりん)」の一コマ一コマを写真乾板に置き換えて比喩したものであるが、以上から、若い諸君には、こうした注が不可欠となってしまったのは、萩原朔太郎にはちょっと淋しい気がするであろう。

「蒼ざめた影を逃走しろ」いいコーダだ。にしても、これも如何にも、私の嫌いなフューチュアリスモ風ではあるなあ……]

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