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2019/01/01

迎春 * 佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 一一五~一一八 人食いヤマハハ・糠穂と紅皿

 

一一五 御伽話(オトギバナシ)のことを昔々(ムカシムカシ)と云ふ。ヤマハヽの話最も多くあり。ヤマハヽは山姥(ヤマウバ)のことなるべし。其一つ二つを次に記すべし。

[やぶちゃん注:「ヤマハヽは山姥(ヤマウバ)のことなるべし」「やまんば」とも呼ぶ。本邦の奥山に棲む老女の妖怪。人を食らうと考えられていた。「鬼婆」「鬼女」と同義的であるが、これもやはり零落した山の神の成れの果てで、金太郎の母としての彼女にはそうしたユングの言う原母(グレート・マザー)としての「山母」の原形の名残が感じられる。私の老媼茶話巻之五 山姥の髢(カモジ)及びそこの「山姥」の私の注を参照されたい。但し、以下に語られる二話は極悪のそれであり、二話目は一読判るが、知られた「瓜子姫と天邪鬼」の話の天邪鬼を「ヤマウバ」にキャラクター変換したものである。]

 

一一六 昔々あるところにトヽとガヾとあり。娘を一人持てり。娘を置きて町へ行くとて、誰が來てもを明けるなと戒しめ、鍵を掛けて出でたり。娘は恐ろしければ一人爐にあたりすくみていたりしに、眞晝間(マヒルマ)にを叩きてこゝを開けと呼ぶ者あり。開かずば蹴破るぞと嚇(オド)す故に、是非なくを明けたれば入り來たるはヤマハヽなり。爐の橫座(ヨコザ)に蹈みはたかりて[やぶちゃん注:ママ。なお、「橫座」は既に述べた通り、主人のみの座れる最上席。]火にあたり、飯をたきて食はせよと云ふ。其言葉に從ひ膳を支度してヤマハヽに食はせ、其間に家を遁げ出したるに、ヤマハヽは飯を食ひ終りて娘を追ひ來り、追々に其間(アヒダ)近く今にも背(せな)に手の觸(フ)るゝばかりになりし時、山の蔭にて柴を苅る翁に逢ふ。おれはヤマハヽにぼつかけられてあるなり、隱してれよと賴み、苅り置きたる柴の中に隱れたり。ヤマハヽ尋ね來たりて、どこに隱れたかと柴の束(タバ)をのけんとして柴を抱(カヽ)えたるまゝ山より滑(スベ)り落ちたり。其隙(ヒマ)にここを遁(ノガ)れて又萱[やぶちゃん注:「かや」。]を苅る翁に逢ふ。おれはヤマハヽにぼつかけられてあるなり、隱してれよと賴み、苅り置きたる萱の中に隱れたり。ヤマハヽは又尋ね來りて、どこに隱れたかと萱の束をのけんとして、萱を抱へたるまゝ山より滑り落ちたり。其隙に亦こゝを遁れ出でゝ大きなる沼の岸に出でたり。此よりは行くべき方も無ければ、沼の岸の大木の梢に昇りゐたり。ヤマハヽはどけえ行つたとて遁がすものかとて、沼の水に娘の影の映(ウツ)れるを見てすぐに沼の中に飛び入りたり。此間に再び此所を走り出で、一つの笹小屋のあるを見付け、中に入りて見れば若き女ゐたり。此にも同じことを告げて石の唐櫃(カラウド)のありし中へ隱してもらひたる所へ、ヤマハヽ又飛び來たり娘のありかを問へども隱して知らずと答へたれば、いんね來ぬ筈はない、人くさい香がするものと云ふ。それは今雀を炙(アブ)つて食つた故なるべしと言へば、ヤマハヽも納得(ナツトク)してそんなら少し寢(ネ)ん、石のからうどの中にしやうか、木のからうどの中がよいか、石はつめたし木のからうどの中にと言ひて、木の唐櫃の中に入りて寢たり。家の女は之に鍵を下(オロ)し、娘を石のからうどより連れ出し、おれもヤマハヽに連れて來られたる者なれば共々に之を殺して里へ歸らんとて、錐(キリ)を紅(アカ)く燒きて木の唐櫃の中に差し通したるに、ヤマハヽはかくとも知らず、只二十日鼠(ハツカネヅミ)が來たと言へり。それより湯を煮立(ニタ)てゝ燒錐[やぶちゃん注:「やききり」。]の穴より注(ソヽ)ぎ込みて、終に其ヤマハヽを殺し二人共に親々の家に歸りたり。昔々の話の終りは何(イヅ)れもコレデドンドハレと云ふ語を以て結ぶなり。

[やぶちゃん注:「ドンドハレ」遠野の語り部の常套句として知られるようになった東北地方の昔話(遠い昔に起こったあり得ない話≠比較的近い時制或いは現在起っている事実らしさを持った「噂話」:本「遠野物語」には有意にこちらの「噂話」が多く含まれていることに注意が必要である。「遠野物語」は単なる古民話集ではない、当時の直近の時制の都市伝説集としての体裁部分も持っているである)の結語として知られる。Tateyaブログ「遠野世間話の「どんど晴れには、今少し達意でこれは『昔、野良仕事を終えて家に入る前に体に付いた塵や埃を掃う事から来ていると言う』とされ、『ゴミは「ドンゴ」といい、それを払い落とすから「ドンゴハライ」→「ドンドハレ」』で、『つまり』は『家に入る前に行う最後の仕事の事を指して』「これでお終い」と『いうニュアンス』で添えるらしいとある。また、東北では「頑張れ」を「ドンドハレ」とも言うともあった。私は「ハレ」は「祓ふ」或いは「晴れ」で、異界の話を含む内容を語った後にそれを聴いた者たちにその「穢(けが)れ」が至らぬように、「祓った」或いは「晴れよ!」と穢れを去る呪文として認識していたが、どうもそんなのは私の深読みに過ぎなかったらしい。

 

一一七 昔々これもあるところにトヽとガヽと、娘の嫁に行く支度を買ひに町へ出で行くとてを鎖(トザ)し、誰が來ても明けるなよ、はアと答へたれば出でたり。晝の頃ヤマハヽ來たりて娘を取りて食ひ、娘の皮を被(カブ)り娘になりて居(ヲ)る。夕方二人の親歸りて、おりこひめこ居たかと門の口より呼べば、あ、ゐたます、早かつたなしと答へ、二親は買ひ來たりし色々の支度の物を見せて娘の悅ぶ顏を見たり。次の日夜(ヨ)の明けたる時、家の鷄羽(ハ)ばたきして、糠屋(ヌカヤ)【○糠屋は物おきなり[やぶちゃん注:籾糠(もみぬか)などを貯蔵して置く場所の意である。]】の隅(スミ)ツ子(こ)見ろぢや、けゝろと啼(な)く。はて常に變りたる鷄の啼きやうかなと二親は思ひたり。それより花嫁を送り出すとてヤマハヽのおりこひめこを馬に載せ、今や引き出さんとするとき又鷄啼く。其聲は、おりこひめこを載せなえでヤマハヽのせた、けゝろと聞(キコ)ゆ。之を繰り返して歌ひしかば、二親も始めて心付き、ヤマハヽを馬より引き下(オロ)して殺したり。それより糠屋の隅を見に行きしに娘の骨あまた有りたり。

 

一一八 紅皿缺皿(ベニザラカケザラ)の話も遠野鄕に行(オコナ)はる。只缺皿の方はその名をヌカボと云ふ。ヌカボは空穗(ウツボ)のことなり。繼母(マヽハヽ)に惡(ニク)まれたれど神の惠ありて、終に長者の妻となると云ふ話なり。エピソードには色々の美しき繪樣(ヱヤウ)あり。折あらば詳しく書記すべし[やぶちゃん注:「かきしるすべし」。]。

[やぶちゃん注:「紅皿缺皿(ベニザラカケザラ)」所謂、「継子(ままこ)いじめ」の昔話の一つ。姉の「欠皿」(名前)は継子で美貌、妹の「紅皿」は実子で醜かったので、継母は姉を憎み、これを殺そうとするが果たせず、姉は高貴な人の妻となり、母と妹は哀れな死を遂げるという話。江戸時代には多くの小説や浄瑠璃・歌舞伎などの題材となった。ツイッター情報では、遠野では「糠んぼ紅ざら」という名で広く伝わり、『継母に憎まれているヒロインの糠んぼが』、『神のめぐみによって最後には長者の妻になるという話で、歌の才能を競ったり』、『山姥から大小のつづらをもらうなど、話には少しバリエーションがある』るとあったが、当該話を探し出すことが出来なかった。判ったら、追記する。

「ヌカボは空穗(ウツボ)のことなり」よく意味が判らぬ。「うつぼ」で継子いじめの「宇津保物語」を暗に指すというのは如何にもという感じだ。「ヌカボ」は単子葉植物綱イネ科イチゴツナギ亜科カラスムギ連ヌカボ属ヌカボ Agrostis clavata var. nukabo で、これは小穂が小さく、糠(ぬか)のように微細であることに由来する和名であるから、中身がないように見える穂で「空穂」と言っているとすれば、それは食用にならない役立たずの子の名なのではあるまいか?

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