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2019/01/12

ブログ・アクセス1180000突破記念 柳田國男 山島民譚集(河童駒引・馬蹄石) 原文・訓読・附オリジナル注始動 / 小序・再版序・「河童駒引」(1)



柳田國男 山島民譚集(河童駒引・馬蹄石)

 

[やぶちゃん注:本「山島(さんとう)民譚集」の初版は大正三(一九一四)年に甲寅(こういん)叢書刊行会から「甲寅叢書」第三冊として甲寅叢書刊行所から発行された日本の民譚(民話)資料集で、特に河童が馬を水中に引き込む話柄である河童駒引(かっぱこまびき)伝承と、馬の蹄(ひづめ)の跡があるとされる岩石に纏わる馬蹄石(ばていせき)伝承の二つを大きな柱としたものである。書名にある「山島」は、「魏志倭人伝」の中に出る本邦の記載、「倭人在帶方東南大海之中 依山㠀爲國邑」(倭人は帯方[やぶちゃん注:帯方(たいほう)郡。二〇四年から三一三年の百九年間、古代中国によって朝鮮半島の中西部に置かれた郡名。]の東南、大海の中に在り。山㠀[やぶちゃん注:「山島」。]に依り、國邑(こくいう)を爲(な)す)という、日本の地形的立地形状を示す語で、イコール、「日本」の意で柳田國男は用いている。

 底本は同書の再版版である、正字正仮名の、昭和一七(一九三二)年創元社刊(「日本文化名著選」第二輯第十五)を国立国会図書館デジタルコレクションのこちら画像で、視認して用いたが、「ちくま文庫」版全集(擬古文のままの新字新仮名という気持ちの悪い代物)をOCRで読み込んだものを加工用に使用した。但し、本書は漢字カタカナ混じりの擬古文でかなり読み難い。柳田國男自身が後に掲げる「再版序」で『斯んな文章は當世には無論通じない』と断じ『筆者自らも是を限りにして』『この文體を』『罷めてしまつた』と言っているほどで、ルビのない漢字や熟語でも若い読者が読みを戸惑う箇所もしばしばあるように思う。

 そこで、まず、

原文を掲げ(《原文》と頭に附す)

て、

その後にカタカナをひらがなに直し、読みに含まれる送り仮名の一部を送ったり、句読点や記号をさらに挿入したり、変更したりし、さらに推定(「ちくま文庫」版を参考にした)で歴史的仮名遣で読みを増やしたものを《訓読》として配し

て、若い読者の便宜を図った。その場合、漢文訓読の規則に従い、助詞・助動詞相当の漢字はこれをひらがなに直すこととした(但し、太字の文中標題部ではそれを適応しなかった)。

 なお、本書は、上部に頭書き用の罫があり、その上に本文内容を示す小見出しがポイント落ちで示されてある。これをブログで再現することは不可能なので、その小見出しは本文注に目立つように、【 】で適切と思われる箇所に本文と同ポイントで挿入した。本文内のポイント落ち割注は底本に従い、〔 〕でやはり同ポイントで示した。踊り字「〱」は正字化した。

 さらに、その後や文中にオリジナルにストイックに注を附したが、今までのように手取足取りはしない(例えば書名注は私が聴いたことのない、全く知らないもの以外は原則として附さないこととする)。特に、以下に示す「再版序」の最後の方で、柳田國男が『地名稱呼の改廢で、是を今日の行政區劃に引き當てておけば便利だらうと思つたが、もうその中にはわからなくなつて居るものも若干ある。やはり必要の生じた際に、利用者自らが個々の土地について、もう一度調べるより他はなからうと思ふ。古い書物に載錄せられたものは言ふに及ばず、自分が直接に見たり聞いたりした事實でも、再び尋ねて見るともう誰も知つて居ないといふ場合は多い』と心配している、河童及び馬蹄石関連の本文中の旧地名の所在地については、旧地名でも判然と判る場所は注しないが、私自身が全く分からない、しかも気になる旧地名は柳田國男の思いを受けて、探索して注しておきたいと考えている。そこで最後に彼は『假に多少の改訂增補をして見たところで、到底この一卷を現代の書とすることは出來ない』と述べている地名稱呼の改廢で、是を今日の行政區劃に引き當てておけば便利だらうと思つたが、もうその中にはわからなくなつて居るものも若干ある。やはり必要の生じた際に、利用者自らが個々の土地について、もう一度調べるより他はなからうと思ふ。古い書物に載錄せられたものは言ふに及ばず、自分が直接に見たり聞いたりした事實でも、再び尋ねて見るともう誰も知つて居ないといふ場合は多い。假に多少の改訂增補をして見たところで、到底この一卷を現代の書とすることは出來ない』と述べている。さても柳田先生、八十七年後の今、遅ればせながら、不肖私が、その暴虎馮河を致さんとせんとしております。お許しあれ。だらだらとした文章でなかなか切れないが、なるべくソリッドな形で分割公開する。

 なお、本電子化は、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが昨日、2019年1月11日午後3時半に1180000アクセスを突破した記念として始動するものである。今回公開する分だけで、実働九時間を要した。また、永い戦いとなりそうだ。【2019年1月12日 藪野直史】]

 

 

  山島民譚集

 

 

《原文》


    小 序

 

橫ヤマノ 峯ノタヲリニ

フル里ノ 野邊トホ白ク 行ク方モ 遙々見ユル

ヨコ山ノ ミチノ

一坪ノ  淸キ芝生ヲ  行人(ギヤウニン)ハ  串サシ行キヌ

永キ代ニ コヽニ塚アレ

イニシヘノ神 ヨリマシ 里ビトノ ユキヽノ栞

トコナメノユル勿レト カツ祈リ 占メテ往キツル

此フミハ ソノ塚ドコロ 我ハソノ 旅ノ山伏

ネモゴロニ我勸進(クワンジン)ス

旅ビトヨ 石積ミソヘヨ コレノ石塚

 

《訓読》

 

    小 序

 

橫やまの 峯のたをりに

ふる里の 野邊とほ白(じろ)く 行く方(かた)も 遙々見ゆる

よこ山の みちの(と)に

一坪の  淸き芝生(しばふ)を  行人(ぎやうにん)は  串さし行きぬ

永き代に こゝに塚あれ

いにしへの神 よりまし 里びとの ゆきゝの栞(しほり)

とこなめのゆる勿(なか)れと かつ祈り 占(し)めて往きつる

此ふみは その塚どころ 我はその 旅の山伏(やまぶし)

ねもごろに我(われ)勸進(くわんじん)す

旅びとよ 石積みそへよ これの石塚

 

[やぶちゃん注:柳田國男にして珍しくロマン主義的文学的序である。

「橫やま」「よこ山」起伏が少ないが、横にずっと連なっている山々。

「たをり」「撓り」で、山の稜線の窪んで低くなっている鞍部のこと。ここは往々にして複数の方向や部落への辻を形成し、そこは異界との通路であり、塞ノ神や道祖神といった石神が祀られた。

「ふる里」「古里」。故郷。但し、以下の「行く方」を考えれば、「經る里」(行き過ぐる田舎)の意も掛けていよう。

「とほ白(じろ)く」「遠白く」。ぼんやりと白く霞んではっきり見えないさま。

(と)」両側の山の迫った狭い、二つの広い地域(異界)を繫ぐ門のように感じられる場所。前の「たをり」の地勢をその場に立って別に表現したものと採ってよい。

「行人」そこを行く人や旅の人。

「串さし」これは恐らく「櫛占(くしうら)」などと酷似した辻占(つじうら)の一種であろうと思われる。後世には、女や子どもが遊び半分に行なった占いの一つとなったもので、後世のそれは、黄楊(つげ)の櫛を持って、異界からの霊気が滞留する辻に立ち(故に妖魔が跳梁する場所であると同時に、予言等の超自然の霊的な力が普通以上に作用する場でもある)、「逢ふ事を問ふや夕(ゆふ)げの占相(うらまさ)に黃楊(つげ)の小櫛(おぐし)も驗(しるし)見せなむ」(「黃楊(つげ)」は「告げ」を掛けた呪言)という古歌を三度唱え、結界を作って米を播(ま)き、櫛の歯を鳴らし、その境界内をたまたま通行した人の口にした言葉を聞いて吉凶を占った。これは恐らく非常に古くからあったれっきとした大人たちの詞占(ことうら)の一種の変形である。「串さし」は正に「神聖な櫛の歯を折って地面に刺す」のであって、邪気の侵入を防いで、正しい結界形成をし、正確な「告げ」を得るためのボーダー設定行為を言っているのかも知れない。

「永き代に こゝに塚あれ」後の「ゆる勿(なか)れ」と対構造を成すから、「未来永劫に渡ってここに神聖な塚として、あれかし!」と一応は採れる。しかし「こゝに塚あれ」は、「今は埋もれてしまってないように見えるけれども、ここには確かにそうした神聖な塚があったし、今も地の中にある!」という謂いの強調形、或いは命令形であると同時に、「已に過去に於いてより在(あ)ったのだ!」という、已然形の本来の意味をも示すものかも知れない。

「よりまし」「依り座し」。動詞。神霊が依り宿り。

「ゆきゝの栞(しほり)」道途の道標(みちしるべ)。この「行き來」は未知の危険を孕んだ旅路と同時に、同様な「人生行路」の意でもある。

「とこなめの」「とこなめ」(常滑)は「河床や谷道の岩などに水苔が附いて常に滑らかなこと」の意であるが、その「途絶えることなく続く」ことを言うか。しかしちょっとしっくりくる感じはしない。寧ろ、屋上屋であるが、「とこしなへに」(未来永劫に)「ゆる勿(なか)れ」の意と採りたくなる。これ、或いは「万葉集」巻第一「雑歌」の「吉野宮に幸(いでま)せる時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌」長歌(三十七番)の反歌(三十八番)、

見れど飽かぬ吉野の川の常滑(とこなめ)のゆる事なくまたかへり見む

を元に「ゆる」を引き出すために配した、柳田國男の造った枕詞かも知れぬ。

「占(し)めて」占いを成して。

「此ふみ」まさに柳田國男の本書「山島民譚集」を指す。

「その塚どころ」その古来より辻占を成し、未来の安全を祈願したのと同じ民草のための習俗を封じた塚そのものなのである、というのである。

「我はその 旅の山伏(やまぶし)」柳田國男自身を民俗社会のそうした風俗を体現し「山島民譚集」という「塚」を設けた、名も無き、これもまた日本の特殊な宗教史を象徴する神仏(密教系)習合の修験道の山伏に擬えたのである。

「ねもごろに」「懇(ねもごろ)に」懇(ねんご)ろに。心を籠めて。熱心に。

「勸進(くわんじん)す」本来は仏教に限定された、仏道修行に励むことが功徳になるということを人に教え、仏道に入ることを勧めるという意であるが、神仏習合後は、広く寺社の堂塔や祠を造営したり、その修理のために必要な寄付を募ることを指すようになった。失われつつある民草の話を後世に伝える一里塚として「こ」「の石塚」の「山島民譚集」を勧進した、と柳田は宣言するのである。本書購入の利益(りやく)広告の宣伝っぽいニュアンスである。

「旅びと」「石積みそへよ」で、本書以降の次代の資料や研究を本書の購読たちに希望してコーダとする。]

 

 

 再 版 序

 山島民譚集を珍本と呼ぶことは、著者に於ても異存が無い。それは今から三十年も昔に、たつた五百部を印刷して知友同好に頒つたといふ以上に、この文章が又頗る變つて居るからである。斯んな文章は當世には無論通じないのみならず、明治以前にも決して御手本があったわけで無い。大げさな名を附けるならば苦悶時代、即ち俗に謂ふ雅文體が段々と行き詰まつて、今見る「である文」はまだ思ひ切つて出あるけない一つの過渡期に、何とかして腹一ぱいを書いて見たいといふ念願が、ちやうど是に近い色々の形を以て表示せられたので、言はばその數多い失敗した試みの一例なのである。無論誰一人この文體を採用した者は無いのみか、筆者自らも是を限りにして罷めてしまつたのだが今日となつては歷史的な興味が、他人で無いだけに自分には特に深い。何が暗々裡の感化を與へて、斯んな奇妙な文章を書かせたかといふことが、先づ第一に考へられるが、久しい昔になるのでもう是といふ心當りは無い。たゞほんの片端だけ、故南方熊楠氏の文に近いやうな處のあるのは、あの當時濶達無碍[やぶちゃん注:「かつたつむげ」。心が広くて物事に拘らず、思うままにのびのびとしているさま。「闊達無礙」とも書く。]の筆を揮つて居た此人の報告や論文を羨み又感じて讀んで居た名殘かとも思ふ。但し南方氏の文は、勿論是よりも遙かに自由で、且つさらさらと讀みやすく出來て居る。私の書いたものが變に理窟つぽく、又隅々[やぶちゃん注:「すみずみ」。]の小さな點に、注意を怠らなかつたといふことばかりを氣にして居るのは、多分は吏臭とでも名づくべきものだらう。今はさうとも言へまいが、あの頃はいはゆる御役所の文章が衰頽を極めて居た。讀まずに居られぬから人が讀むといふだけで味も鹽氣も無く又冗漫で措辭の誤りが多かつた。私たちは自身も刀筆の吏[やぶちゃん注:「たうひつのり」。「刀筆」は、古代中国で紙の発明以前に用いた竹簡に文字を記す筆及びその誤りを削り取るのに用いた小刀を指し、そこから転じて、筆・記録の意となった。ここはそうした記録を掌る小官吏。但し、当時の柳田國男は法制局参事官で宮内書記官と内閣書記官記録課長兼任しており、本書刊行の大正三(一九一四)年四月には貴族院書記官長に就任している。これを「小吏」とは逆立ちしても言わない。]でありながら、是が厭で厭でたまらなかつた。さうして事情の許す限り、努めて每日の氣持に近い、意見書や復命書を書かうとして居たのである。それは或程度まで成功したかも知れぬが、その應用にはおのづから限度がある。一たび職掌を越えて河童や馬蹄石の問題を取り扱はうとすると、日頃の練習が却つて惡い癖となつて、忽ちお里を顯はしてしまつたのは苦笑の他は無いのである。それからもう一つ、是も氣が咎めるから白狀して置くが、ちやうど此本を書いた頃、私は千代田文庫の番人[やぶちゃん注:「千代田文庫」は明治以降内閣によって保管されてきた古書・古文書のコレクションである「内閣文庫」のこと。現在は内閣府所管の独立行政法人「国立公文書館」に移管されて同館が所蔵している。先に示した内閣書記官記録課長がここで言う「番人」である。]をして居た。さうしていろいろの寫本類を、勝手に出し入れをして見ることが出來たのである。斯んなにまで澤山の記錄を引用しなくとも、もつと安々と話は出來たのであるが、それが驅け出しの學徒の悲しさであり、又實は内々の味噌でもあった。お蔭で河童論などは何だか重くるしく、且つ妙に齒切れの惡いものになつて居る。今から考へると決して利益だつたとは言へない。たゞそのために愈々世に遠く、珍本と呼ばるゝ條件を具へるようになつたことだけは、筆者の爲にも好い記念ではあつた。

 この書に揭げた二つの問題のうち、一方の水の神の童子が妖恠と落ちぶれるに至つた顚末だけは、あの後の三十年に相應に論究が進んで居る。最初自分がやゝ臆病に、假定を試みたことが幾分か確かめられ、これと關聯して又新たなる小發見もあつた。今少し具體的な結論を下しても、反對をする人はもうあるまいといふまでになつて居る。他の一方の馬の奇跡についても、別な解を下す人はまだ現はれず、しかも私が引用したのと同じ方向の證據資料が、永い間には次々と集積して、何れも倍以上の數に達して居る。一度はこの本を解きほぐして、書き改めて見ようとしたこともあつたが、其時間も無かつたのみならず、又その必要も無いやうな感がある。その上にこのやゝ奇を好んだ一卷の文は、日本民俗學の爲にもあとの港の燈の影のやうなものである。是をもう一度そつくりと本の形で、世に殘して奥ことも意味が有るかと思ふ。少し氣になるのは地名稱呼の改廢で、是を今日の行政區劃に引き當てておけば便利だらうと思つたが、もうその中にはわからなくなつて居るものも若干ある。やはり必要の生じた際に、利用者自らが個々の土地について、もう一度調べるより他はなからうと思ふ。古い書物に載錄せられたものは言ふに及ばず、自分が直接に見たり聞いたりした事實でも、再び尋ねて見るともう誰も知つて居ないといふ場合は多い。假に多少の改訂增補をして見たところで、到底この一卷を現代の書とすることは出來ない。たゞ著者たる自分が後世人の中にまじつて、もう一度三十年後の新たなる批判を聽く機會を得たことを幸ひとするのみである。

   昭和十七年七月

             柳 田 國 男

 

 

      

 

 

  河   駒  

 

《原文》

【溫泉】鷺之湯鶴之湯鹿之湯貉之湯其ノ他  溫泉ハ我ガ邦ノ一名物ニシテ兼ネテ又多クノ傳説ノ源ナリ。溫泉ノ名ヲ呼ブニ、都會ノ人又ハ遠方ヨリ往ク人ハ、有馬ノ湯或ハ草津ノ湯ナドト所在町村ノ名ヲ以テスレドモ、諸國ノ溫泉ニハ大抵別ニ其ノ名前アリ。一ノ山村ニ二箇所以上ノ湯ガ湧クトキ、之ヲ一ノ湯二ノ湯ト謂ヒ元湯(モトユ)新湯(シンユ)ト名ヅケ若シクハ熱湯(アツユ)溫湯(ヌルユ)ナドト區別スルハ常ノ事ナレドモ、唯一箇所ノ湯ニテモ亦名前アリ。ソレガ又鷺之湯鹿之湯貉之湯(ムジナノユ)ナドト、動物ノ名ヲ用ヰシモノノミ多キハ、異國ノ旅人等ニハ定メテ奇妙ニ感ゼラルヽコトナルべシ。

 サテ何故ニ諸國ノ溫泉ニ鷺鶴鹿ノ類ヲ名乘ル者此ノ如ク多キカ。之ヲ土地ノ人ニ訊ヌルニ其ノ答モ亦略一樣ナリ。今其ノ二三ノ實例ヲ語ランカ、【白鷺】先ヅ東北ニハ陸奧下北郡川内村蠣崎ノ鷺之湯ハ、昔火箭(ヒヤ)ニ中ツテ脛碎ケタル白鷺アリテ此ノ泉ニ來タリ浴シ、日ヲ經ルマヽニ癒エテ飛ビ去リシガ故ニ斯ク名ヅク〔眞澄遊覽記六〕。【鸛】羽後仙北郡峯吉川村ノ鴻之湯ハ昔鴻ノ鳥角鷹(クマタカ)ト鬪ヒテ脛折レタルヲ此ノ溫泉ニ溫メテ之ヲ治セリ〔月之出羽路二〕。羽前西田川郡湯田川村湯田川ノ溫泉ハ和銅五年ニ始メテ湧出ス。手負(テヲヒ)ノ白鷺此ノ湯ニ浸リテ傷平癒シテ飛ビ去リシヨリ效驗ヲ知ルコトヲ得タリ。故ニ鷺之湯ト稱ス。【鶴】同郡溫海(アツミ)村溫海ノ溫泉ハ大同二年ニ白鶴來タツテ之ニ浴シ足ノ痛ミヲ癒シテ飛ビ去リシカバ之ヲ鶴之湯ト謂リ。今源助ト云フ者ノ家ノ後ニ此ノ湯アリ〔三郡雜記下〕。而シテ右ノ大同二年ト云フハ奧羽ノ傳説ニ於テ最モ有名ナル昔ナリ。【鳩】越前大野郡五箇(ゴカ)村上打波(カミウツナミ)鳩ケ瀨(ハトガセ)ノ鳩ト云フ冷泉ハ、每朝鳩ノ來タリ浴スルニ心附キテ之ヲ發見シ、【鹿】同郡小山(ヲヤマ)村深井場(フカヰバ)ノ炭酸冷泉ノ一ヲ古來鹿井之湯(シカノヰノユ)ト稱セシハ領主斯波義種(シバヨシタネ)獵ニ出デテ手負鹿ノ泉ニ浴スルヲ見出セシニ基クト云フ〔大野郡誌〕。但馬ノ城崎(キノサキ)ニモ鸛之湯(コウノユ)アリ。舒明天皇ノ御時ニ脚ヲ病メル鸛鳥(コウノトリ)常ニ此處ノ水ニ立ツヲ怪シミ、其ノ鳥飛ビ去ツテ後其ノ水ニ手ヲ入レテ見ルニ暖カキ靈湯ナリ云云ト語リ傳フ〔日本轉地療養誌〕。【蛇】武藏ニテモ多摩川ノ上流ナル小河内(ヲガウチ)ノ溫泉ハ同樣ノ理由ヲ以テ之ヲ蛇之湯ト名ヅク〔十方庵遊歷雜記初篇上〕。同ジ西多摩郡平井村字鹽澤(シホザハ)ニモ寶光寺ノ境内ニ鹿之湯ト云フ溫泉アリキ。寺ノ開山文濟禪師ガ天文六年ニ始メテ庵ヲ此ノ山ニ結ビシ頃、朝每ニ足ヲ傷ツケタル一鹿ノ庵ノ前ヲ往復スルヲ見ル。其ノ跡ヲ繋ゲバ麓ノ谷ニ溫泉ノ湧キ出ヅルアリ。【權現】即チ藥師佛ヲ安置スル外ニ、鹿湯權現(ロクタウゴンゲン)ヲ勸請シ來タツテ此ノ地ノ守護神トス〔新篇武藏風土記稿〕。【有馬】攝州有馬ノ湯ノ梶原ニ就テハ有馬大鑑ニ左ノ如キ説アリ。【蜘蛛】建久二年二月半、吉野ノ僧仁西(ニンサイ)熊野權現ノ御告ニ由リ此ノ地ニ來タリ、御神ノ教ニ任セ蜘蛛ノ引ク絲ヲシルベニ山ニ分ケ入リツヽ、古キ跡ヲ尋ネテ十二坊舍ヲ建ツ云云〔古名錄四〕。【三輪】此話ハ此ノ山ニ三輪明神ヲ祀リシコトヽ關係アルべシ。美作勝田郡湯之鄕(ユノガウ)村ノ鷺之湯モ、圓仁法師白鷺ニ由リテ溫湯ノ所在ヲ知ルト、元龜元年ノ藥師堂緣起ニ見ユ〔東作誌〕。【金掘】豐後北海部郡下北津留(シモキタツル)村藤河内(フジカワチ)村鷺來ケ迫(ロクガサコ)ノ炭酸泉ニモ文字ニ因ミテ同種ノアリ。昔此ノ山ニ金ヲ採ラントスル者、圖ラズ坑中ニ靈泉ノ迸リ出ヅルヲ見ル。時ニ脚ヲ傷メタル鷺來タリテ其ノ泉ニ浸リ忽チ疵癒エテ飛ビ去ル。依ツテ始メテ其ノ驗ヲ知リ且ツ其處ヲ鷺來ケ迫ト名ヅクルニ至レリ云云〔豐後溫泉誌〕。白鷺鹿ノ輩ハ古來皆靈物ナリ。溫泉ノ發見者ガ神主又ハ僧侶ナリシ場合ニ、必ズ其動物ガ土地ノ神佛ノ使者傳令ナリシコトヲ附加スルハ誠ニ當然ノ事ニシテ、是ダケノ偶合ナラバ未ダ怪シムニ足ラズトス。

 今日ノ溫泉ハ半ハ避暑地、遊覽地也。サホド病人デモ無キ者ガ所謂保養ノ爲ニ出掛ケテ行ク場處トナレリ。然シナガラ二三百年前迄ノ湯ノ宿ハ不自由ヲ極メタルモノナリキ。難儀ヲシテ山ノ中へ往ク昔ノ湯治客ハ決シテ今ノ紳士ノ如キ氣樂人ニ非ズ。殊ニハ戰爭頻繁ニシテ外科醫術ノ進步セザリシ時代ニハ、溫泉ハ言ハヾ天然ノ病院ナリ。亂世ハ戰場ニテ命ヲ殞ス者モ勿論今ヨリハ遙カニ多カリシナランガ、一旦助カリタル手負人モ傷養生ハ中々面倒ナリキ。【隱家】良醫ヲ求メテ其ノ治癒ヲ受クルヨリモ、先ヅ以テ五體ノ利カヌ間ハ敵ニ發見セラレヌ爲、靜カニ山中ニ隱レ居ルコトノ必要ナリシハ、全ク右ノ鷺鹿ノ類ト同ジ。若シ領分内ノ深山ナドニ右ノ如ク金創ニ效アル溫泉アレバ、ソレコソ誠ノ天ノ惠ナリシナリ。有馬草津ハ千年來ノ名湯ナレド、其靈驗ノ十分ニ發揮セラレテ終ニ日本ノ一名物トナリシハ、恐ラクハ亦後世鷺之湯鹿之湯等ノ傳ガ發生セシ時代、即チ略戰國ノ斬合時代以後ノ事ナルべシ。世ノ中太平ニ及ブト共ニ、箭ノ傷、刀ノ創ガ早ク平癒スルト云フノミニテハ廣告トナラヌ故ニ、是等ノ話モ少シヅツ變形シテ、鳥獸マデガ脚氣血ノ道「リウマチス」ヲ、苦ニシテ居タルガ如ク語リ傳ヘザレバ、折角ノ理窟ガ段々不明ニナリ行ク也。

《訓読》

【溫泉】鷺之湯・鶴之湯・鹿の湯・貉之湯・其の他  溫泉は我が邦の一名物にして、兼ねて又、多くの傳説の源(みなもと)なり。溫泉の名を呼ぶに、都會の人又は遠方より往く人は、「有馬の湯」或いは「草津の湯」などと、所在町村の名を以つてすれども、諸國の溫泉には、大抵、別に其の名前あり。一(ひとつ)の山村に二箇所以上の湯が湧くとき、之れを「一の湯」・「二の湯」と謂ひ、「元湯(もとゆ)」・「新湯(しんゆ)」と名づけ、若(も)しくは「熱湯(あつゆ)」・「溫湯(ぬるゆ)」などと區別するは常の事なれども、唯(ただ)一箇所の湯にても、亦、名前あり。それが又、「鷺(さぎ)の湯」・「鹿の湯」・「貉の湯(むじなのゆ)などと、動物の名を用ゐしもののみ多きは、異國の旅人等には定めて奇妙に感ぜらるゝことなるべし。

[やぶちゃん注:「鷺(さぎ)」鳥綱新顎上目ペリカン目サギ科 Ardeidae のサギ類の総称。イメージに登り易いのは「白鷺(しらさぎ)」であるが、これも種名ではく、上記のサギ類の内で羽毛が白色の種群を指す。詳しくは私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鷺(総称としての「白鷺」)」の私の冒頭注を参照されたい。

「鶴」ツル目ツル科 Gruidae のツル類。現行ではツル科はカンムリヅル属 Balearica・ツル属 Grus・アネハヅル属 Anthropoides・ホオカザリヅル属 Bugeranus に別れる。同じく私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鶴」を参照されたい。

「鹿」本邦ではこれで「しし」と読んで猪(哺乳綱鯨偶蹄目イノシシ亜目イノシシ科イノシシ属イノシシ Sus scrofa)を意味することが有意に多いが、ここは狭義の「しか」、鯨偶蹄目シカ科シカ属ニホンジカ Cervus nippon でよい。本邦には、北海道固有亜種エゾシカ Cervus nippon yesoensis・本州固有亜種 Cervus nippon centralis・四国及び九州固有亜種キュウシュウジカ Cervus nippon nippon(江戸時代にヨーロッパで分類に使用された亜種として命名されてしまったために亜種名が「nippon」(基亜種)になってしまっている)・対馬固有亜種ツシマジカ Cervus nippon pulchellus・種子島の沖の馬毛島(まげしま)産で阿久根大島と臥蛇島に移入した日本固有亜種マゲシカ Cervus nippon mageshimae・屋久島固有亜種ヤクシカCervus nippon yakushimae・慶良間諸島固有亜種ケラマジカ Cervus nippon keramae の全七亜種が棲息する。

「貉(むじな)」は本邦では、狭義には主に哺乳綱食肉(ネコ)目イヌ亜目クマ下目イタチ小目イタチ上科イタチ科アナグマ属ニホンアナグマ Meles anakuma Temminck を指す語であるが、民俗社会ではニホンアナグマはイヌ亜目イヌ下目イヌ科タヌキ属タヌキ Nyctereutes procyonoides と有意に混同、一緒くたにされているので、両種と採ってよい(なお、これに食肉目ネコ亜目ジャコウネコ科パームシベット亜科ハクビシン属ハクビシン Paguma larvata をも含める記載を散見するが、ハクビシンは近世・近代の外来種である可能性を排除出来ず、それらよりも時制的には溯るケースが多い民俗社会の存在を肯定し得ないので、私は民俗学的にはハクビシンを「貉」に含めるべきではない、含めない方が無難であると考えている。]

 さて、何故に諸國の溫泉に鷺・鶴・鹿の類(たぐひ)を名乘る者、此くのごとく多きか。之れを土地の人に訊ぬるに、其の答へも亦、略(ほぼ)一樣なり。今、其の二、三の實例を語らんか、【白鷺】先づ、東北には陸奧下北郡川内村蠣崎(かきざき)の「鷺の湯」は、昔、火箭(ひや)に中(あた)つて、脛(すね)、碎けたる白鷺ありて、此の泉に來たり浴し、日を經(ふ)るまゝに、癒えて飛び去りしが故に、斯(か)く名づく〔「眞澄遊覽記」六〕。【鸛(こふのとり)】羽後仙北郡峯吉川村の「鴻(こう)の湯」は、昔、鴻の鳥、角鷹(くまたか)と鬪ひて、脛、折れたるを、此の溫泉に溫めて、之れを治(なほ)せり〔「月之出羽路」二〕。羽前西田川郡湯田川村湯田川の溫泉は、和銅五年[やぶちゃん注:七一二年。]に始めて湧出す。手負(てをひ)の白鷺、此の湯に浸りて、傷、平癒して飛び去りしより、效驗(かうげん)を知うことを得たり。故に「鷺の湯」と稱す。【鶴】同郡溫海(あつみ)村溫海の溫泉は、大同二年[やぶちゃん注:八〇七年。]に、白鶴、來たつて、之れに浴し、足の痛みを癒(いや)して飛び去りしかば、之れを「鶴の湯」と謂へり。今、源助と云ふ者の家の後(うしろ)に、此の湯あり〔「三郡雜記」下〕。而して右の大同二年と云ふは、奧羽の傳説に於いて最も有名なる昔なり。【鳩】越前大野郡五箇(ごか)村上打波(かみうつなみ)字(あざ)鳩ケ瀨(はとがせ)の「鳩」と云ふ冷泉は、每朝、鳩の來たり浴するに心附きて、之れを發見し、【鹿】同郡小山(をやま)村深井場(ふかゐば)の炭酸冷泉の一(ひとつ)を、古來、「鹿井の湯(しかのゐのゆ)」と稱せしは、領主斯波義種(しばよしたね)、獵(かり)に出でて、手負鹿(てをひじか)の、泉に浴するを見出せしに基づくと云ふ〔「大野郡誌」〕。但馬の城崎(きのさき)にも「鸛の湯(こうのゆ)」あり。舒明天皇の御時[やぶちゃん注:在位は六二九年~六四一年。この時期、元号はない。]に脚を病める鸛鳥(こうのとり)、常に此處の水に立つを怪しみ、其の鳥、飛び去つて後、其の水に手を入れて見るに、暖かき靈湯なり云云(うんぬん)と語り傳ふ〔「日本轉地療養誌」〕。【蛇】武藏にても、多摩川の上流なる小河内(をがうち)の溫泉は同樣の理由を以つて之れを「蛇の湯」と名づく〔「十方庵遊歷雜記」初篇上〕。同じ西多摩郡平井村字鹽澤(しほざは)にも寶光寺の境内に「鹿の湯」と云ふ溫泉ありき。寺の開山文濟禪師が天文六年に始めて庵を此の山に結びし頃、朝每に足を傷つけたる一鹿(いちろく)の庵の前を往復するを見る。其の跡を繋(つな)げば、麓の谷の溫泉の湧き出するあり。【權現】即ち、藥師佛を安置する外に、鹿湯權現(ろくたうごんげん)を勸請し來たつて、此の地の守護神とす〔「新篇武藏風土記稿」〕。【有馬】攝州有馬の湯の梶原に就ては「有馬大鑑」に左のごとき説あり。【蜘蛛】建久二年[やぶちゃん注:一一九一年。]二月半(なかば)、吉野の僧仁西(にんさい)、熊野權現の御告に由り、此の地に來たり、御神の教(おしへ)に任せ、蜘蛛の引く絲をしるべに、山に分け入りつゝ、古き跡を尋ねて、十二坊舍を建つ云云〔「古名錄」四〕。【三輪】此の話は此の山に三輪明神を祀りしことゝ關係あるべし。美作勝田郡湯之鄕(ゆのがう)村の「鷺の湯」も、『圓仁(ゑんにん)法師、白鷺に由りて溫湯の所在を知る』と、元龜元年[やぶちゃん注:一五七〇年。]の「藥師堂緣起」に見ゆ〔「東作誌」〕。【金掘(きんほり)】豐後北海部郡下北津留(しもきたつる)村藤河内(ふじかわち)村鷺來ケ迫(ろくがさこ)の炭酸泉にも文字に因みて同種のあり。昔此の山に金(きん)を採らんとする者、圖らず、坑中に靈泉の迸(ほとばし)り出づるを見る。時に、脚を傷めたる鷺、來たりて、其の泉に浸り、忽ち、疵(きず)、癒えて、飛び去る。依つて始めて其の驗(しるし)を知り、且つ、其の處を「鷺來が迫(ろくがさこ)」と名づくるに至れり云云〔「豐後溫泉誌」〕。白鷺・鹿の輩(やから)は、古來、皆、靈物なり。溫泉の發見者が、神主又は僧侶なりし場合に、必ず、其の動物が土地の神佛の使者・傳令なりしことを附加するは、誠に當然の事にして、是だけの偶合ならば、未だ怪しむに足らずとす。

[やぶちゃん注:「陸奧下北郡川内村蠣崎(かきざき)」現在の青森県むつ市川内町蛎崎。ここ(グーグル・マップ・データ)。ブログ「ライター斎藤博之の仕事」の二〇〇九年六月の「蠣崎(むつ市川内)~菅江真澄の歩いた下北」という記事によれば、ここの「鷺の湯」は現存する。「蠣崎(むつ市川内)」の記事によれば、江戸後期の旅行家で博物学者でもあった『菅江真澄』(すがえますみ 宝暦四(一七五四)年~文政一二(一八二九)年)『が蠣崎を訪れたのは』、寛政五年五月朔日(一七九三年六月四日)のことで、『下北半島に来る以前の数年間を「蝦夷が島」(北海道)で過ごしていた真澄は、松前領主の先祖にあたる蠣崎氏の城跡に触れ、こう書いている。「古城の址に木立ふりたるは、いつの頃にや、松前のおほんつかさの遠つみおやの、柵し給ひしところといへり」』(引用元を「奥の浦々」とされる。これが柳田が「眞澄遊覽記」と記すものである)。『この城に蠣崎蔵人信純という武将がいた。安藤氏の水軍を後ろ盾に、南部氏の本家である八戸根城の政経に戦を挑む。安藤水軍と北方民族・それに天台修験を味方に付けて、かなりの勢力となった。しかし、陣営の中に南部氏を手引きする者がいて、奥戸(大間町)から上陸した南部方に背後を突かれ、安藤氏の拠点があった渡島半島の上ノ国に逃れたと云う。南部側の資料に従えば』、康正二(一四五六)年の『ことである。のちに、上ノ国花沢城の蠣崎季繁は下ノ国家政の娘を養女とし、武田信広を婿に迎えた。その子孫が松前領主となった。松前領主の祖先は、下北半島の蠣崎氏なのであった』。『「蠣崎の里を過なんとすれば行人の云、ここに鷺の湯といふよき湯あり。むかし火矢にあたりて、はぎのくだかれたる鷺の、湯に入って日をふれるまま、いゑてとび去ぬ。さりければしか名づけて、身をうちたる人に、わきてめぐりよしなどいへり」。鷺の湯は、蠣崎の集落から北へ外れたところにある。いまは湯は温(ぬる)くなったが、眼に効くと言い、湧き出る丘の上に薬師を祀って、むらびとが護(まも)っている』とある。また、小堀光夫氏の論文「伝説研究と菅江真澄―柳田國男『山島民譚集(一)をめぐって―」PDF)には、柳田が元にした菅江の原典が示されている

「火箭(ひや)」敵方の建築物に遠距離から火を放つために放つ矢。現代の焼夷弾に相当する。既にして戦闘が日常的に行われていたロケーションを柳田が出していることに注意。「鸛(こふのとり)」「鴻(こう)の湯」「鸛(こふのとり)」と「鴻(こう)」では漢字も異なり、歴史的仮名遣もかく違うだけでなく、実は生物学的には別種を指すので柳田の頭書き【鸛】は実はよろしくない。「鴻(こう)の湯」は「鴻(こう)」である以上、まず第一にこれは「大型の水鳥」を指す漢語で、本邦の代表種はオオハクチョウ(カモ目カモ亜目カモ科 Anserinae 亜科オオハクチョウCygnus cygnus である(私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 天鳶(はくちやう)〔ハクチョウ〕」も参照されたい)。次に「鴻(こう)」はもっと小型のガンの仲間であるヒシクイ(カモ科マガン属ヒシクイ Anser fabalis serrirostris本邦に渡り鳥として南下してくるのは他に、オオヒシクイ Anser fabalis middendorffii がいる)の異名でもある(私の和漢三才圖會第四十一 水禽類 鴻(ひしくひ)〔ヒシクイ・サカツラガン〕」を参照。寺島良安は「鴻」をヒシクイに同定していることが判る)。私は、オオハクチョウもいいが、ちょっとデカ過ぎてお湯につかっている画像がしっくりこない。全長七十八センチメートルから一メートル、翼開長で一・四二~一・七五メートルのヒシクイが丁度、いいだろう。さても、柳田は「鴻(コウ)」の音の類似性から「鸛(コフ)」=コウノトリをここに誤って当ててしまうというトンデモナイことを仕出かしてしまったのである。鸛はコウノトリ目コウノトリ科コウノトリ属コウノトリ Ciconia boyciana で、そもそもが日本では野生はまず見かけることはない。分布域は東アジアに限られ、中国東北部(満州)地域やアムール・ウスリー地方で繁殖し、中国南部で越冬する。渡りの途中に少数が日本を通過することがあり、その時に稀に見かける程度であって、本邦の温泉にわざわざ湯治には、まず来ないだろう(絶対ないとは言えないが)。因みに、コウノトリは現在、総数で二千から三千羽と推定され、絶滅の危機にある種なのである。

「羽後仙北郡峯吉川村」現在の秋田県大仙市協和峰吉川峰吉川。ここ(グーグル・マップ・データ)。「鴻の湯」の名では現認出来ない。

「角鷹(くまたか)」森林性猛禽類の一種である、タカ目タカ科クマタカ属クマタカ Nisaetus nipalensisウィキの「クマタカ」によれば、『食性は動物食で森林内に生息する多種類の中・小動物を獲物とし、あまり特定の餌動物に依存していない。また森林に適応した短めの翼の機動力を生かした飛翔で、森林内でも狩りを行う』。『大型で攻撃性が強いため、かつて東北地方では飼いならして鷹狩りに用いられていた』。『クマタカは、「角鷹」と「熊鷹」と』二『通りの漢字表記事例がある。歴史的・文学上では双方が使われてきており、近年では、「熊鷹」と表記される辞書が多い。これは「角鷹」をそのままクマタカと読める人が少なくなったからであろう。なお、鳥名辞典等学術目的で編集された文献では「角鷹」の表記のみである』。因みに、『近年』、『繁殖に成功するつがいの割合が急激に低下しており、絶滅の危機に瀕している』とある。総論であるが、私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鷹(たか)」も参照されたい。

「月之出羽路」先に出た菅江真澄が出羽六郡を探勝した地誌の一書。「雪の出羽路」と図絵集「勝地臨毫」と合わせて、先に出た「菅江真澄遊覧記」と総称しているのである。本書は菅江の著作からの引用が有意に多い。

「羽前西田川郡湯田川村湯田川」山形県鶴岡市湯田川。ここ(グーグル・マップ・データ)。御覧通り、湯田川温泉として現存している。

「同郡溫海(あつみ)村溫海」現在の山形県鶴岡市湯温海甲附近(グーグル・マップ・データ)。「あつみ温泉」として現存。ウィキの「あつみ温泉」には、『開湯は約』千三百『年前とされ、役小角が発見したと伝えられる。但し』、『弘法大師による発見説や』、ここにあるように、『鶴が傷ついた脛を浸していたところを発見したなどの説もある。温海川の川底から湧出した温泉が、河口に流れ』、『日本海を温かくしていたことが温泉名の由来となっている』。『鎌倉時代後期には既に湯治場が形成されており、江戸時代には庄内藩の湯役所が設けられ、浴客を収容する宿屋が並び温泉地の情景を見せるようになった。湯治客が食材を買うための朝市は約』二百六十『年前から始まり、今日も続いている』とある。

「源助と云ふ者の家」同温泉の公式サイトで湯本を探してみたが、現認出来ない。

「大同二年と云ふは、奧羽の傳説に於いて最も有名なる昔なり」柳田國男はここにかく書いた時、「遠野物語」の一節を思い出していたに違いない。私の最近の仕儀である『佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 二四~三〇 家・山中の異人』の冒頭二四で、『村々の舊家を大同と云ふは、大同元年に甲斐國より移り來たる家なればかく云ふとのことなり。大同は田村將軍征討の時代なり。甲斐は南部家の本國なり。二つの傳を混じたるに非ざるか』で全く同じ言い回しを使っているからである。そちらの注も参照されたいが、但し、その詳細を読まれれば、柳田が「大同二年」に限定するのは実は的を射ていないことが判る

「越前大野郡五箇(ごか)村上打波(かみうつなみ)字(あざ)鳩ケ瀨(はとがせ)」現在の福井県大野市上打波(かみうちなみ)に「鳩ケ湯温泉」として一軒宿として現存する。同公式サイトによれば、『山鳩がここに湧き出る泉で傷を癒しているのを見た地元の農民は、この泉が温泉であることを知る。江戸時代には集落の公衆浴場になり、明治時代には温泉宿としてもスタート、大正時代には現在の位置に離れも作り人々を癒してきた。しかし昭和』三六(一九六一)年に『「北美濃地震」が発生、周辺の集落の人々は里に降り、結果』、『この宿だけが残った』。『この宿を明治時代より営んでいたのは森嶋家』で、五代目であった『宏さんはこの家族経営の後継者として若い時分から働いていた。秘湯ブームやトレッキングブームもあり、宿の名は口コミで広まっていた。が、平成』二五(二〇一三)『年、宏さんは山菜採りの最中、足を滑らせて不慮の死を遂げる』百『年続いた宿は突然閉鎖を余儀なくされたの』であったとあり、大雪による建物の崩壊から鳩ヶ湯温泉が復活するまでの記事を是非、読まれたい

「同郡小山(をやま)村深井場(ふかゐば)」現在の福井県大野市深井地区と思われる(グーグル・マップ・データ)。こちら(『浅井くんの趣味のページ』とあるが、さらに上位アドレスを探ると、税理士であられるようだ)の方がまさに『大野市深井地区』を訪れておられるが、目当てであった『深井鉱泉旅館は廃墟で』あったとあるので、炭酸冷泉の鉱泉場自体は現存しないようである。その下にその足で上記の「鳩ヶ湯温泉」を訪れて、写真を添えておられる。

「斯波義種(しばよしたね)」(正平七/文和元(一三五二)年~応永一五(一四〇八)年)は南北朝から室町時代の武将で守護大名。室町幕府管領斯波義将の弟。加賀・越前・若狭・信濃・山城の有力地の守護を歴任した。

『西多摩郡平井村字鹽澤(しほざは)にも寶光寺の境内に「鹿の湯」と云ふ溫泉ありき』現在の東京都西多摩郡日の出町平井にある、新しく建てた露座の「鹿野(ろくや)大仏」の名で称される、曹洞宗塩澤山(えんたくざん)寳光寺内に鉱泉跡が残る。同寺は文明一〇(一四七八)年に開山である以船文済(いせんもんさい)和尚がこの塩澤の地に来たって、もとあった天台宗の寺菩提院を改宗し、曹洞宗の寺院として寳光寺を建立したもので、「鹿の湯」もこの開山の和尚が発見したもので、その経緯は、『ある日、一頭の鹿がご開山様の草庵前を行き来していたそうです。その鹿をよく見ると、なんと足に怪我をしていました。鹿は次の日も、その次の日も同じように行き来を繰り返していたため』、『ご開山様は不思議に思って後をつけました。すると、鹿は草庵の北側の谷間に湧き出る泉で傷ついた足を癒していたというのです。暫くすると』、『鹿は怪我も治り』。『山へ消えていったそうです』。『ご開山様はこの泉を「鹿の湯」と命名し、怪我で苦しんでいる人のために草庵を建て、浴室を作ったそうです。そして、この評判が人から人へ伝わり、多くの人が来るようになりました』。『この「鹿の湯」は怪我や皮膚病によく効くとされ、明治のころまで大変繁盛し、多摩七湯の一つとしても有名だったそうです』とある。(ここまでは総て同寺の公式サイトに拠る遠近孝一氏のブログ「戦国ネット すきらじ」の『戦国武士も癒された幻の「鹿の湯」』が非常に優れており、必見(「鹿の湯」跡もヴァーチャルに見られる!)必読!

「藥師佛を安置」調べて見ると、寳光寺の本尊は聖観世音菩薩である。因みに、曹洞宗でこの本尊というのは異例で、普通は釈迦如来である。調べて見たところ、これは先に示した改宗前の天台宗だった頃の本尊を粗末には出来ないということで、そのままお祀りしているためであることが判った。さすれば、この薬師如来は何かと考えれば、これはその霊泉の湧き出たところに祀ったのが、病気平癒に親和性のある薬師如来であったということである。前の遠近孝一氏のブログの写真、にも小祠がある。そこに薬師仏と鹿湯権現が祀られているものと考えてよい(遠近氏曰く、『祠には「鹿の湯大権現」が祀られているそうです』とある。工事中のために中を覗くことは出来なかったのである)。

「權現」仏教では、仏が衆生を救うために神・人など仮の姿となってこの世に現れること及びその現れた化身を指し、「権化」とも言うが、それよりも本邦では神仏習合による本地垂迹(ほんじすいじゃく)説での、仏(本地)が衆生を救うために日本の各種の神の姿となって仮にこの世に現れた(垂迹)とする考え方に及びその仮に化身した神を指す。ここでは鹿がまさに垂迹したそれなのである。

「有馬大鑑」生白堂行風撰の有馬の地誌・紀行「迎湯有馬名所鑑」か? 同書は目録題を「有馬大鑑迎湯抄」と称する。延寶六(一六七八)年大坂伊勢屋山右衛門刊で全五巻五冊。

「仁西(にんさい)」「有馬温泉」公式サイトのこちらによれば、『有馬温泉の守護神として名高い湯泉神社の縁起によれば、泉源を最初に発見したのは、神代の昔、大已貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)の二柱の神であったと記されています。この二神が有馬を訪れた時、三羽の傷ついたカラスが水たまりで水浴していました、ところが数日でその傷が治っており、その水たまりが温泉であったと伝えられています』。『温泉のありかを教えてくれたこの三羽のカラスだけが有馬に住むことを許されたと伝えられており、「有馬の三羽からす」と呼ばれています』。『有馬温泉の存在が知られるようになったのは、第』三十四『代舒明天皇』(五九三年〜六四一年)、第三十六代『孝徳天皇』(五九六年〜六五四年)の『頃からで』、『両天皇の行幸がきっかけとなり』、『有馬の名は一躍有名になりました。日本書紀の「舒明記」には』、舒明三(六三一)年九月十九日から十二月十三日までの八十六日間にも亙って『舒明天皇が摂津の国有馬(原文は有間)温湯宮に立ち寄り』、『入浴を楽しんだという記述があり、それを裏付けています』。「釈日本紀」に『よると、孝徳天皇も同じく有馬の湯を愛され、大化の改新から』二年後の大化三(六四七)年十月十一日から『大晦日還幸までの』八十二日もの『間、左大臣(阿部倉梯麿)・右大臣(蘇我石川麿)をはじめとする要人達を多数おつれになり』、『滞在されたとの記述があります』。『「有馬温泉史話」によれば、舒明天皇・孝徳天皇の度重なる行幸により世間に名をしられるようになった有馬温泉ではありますが、その後』、『徐々に衰退に向かっていったといわれ』、『これを再興し』、『有馬温泉の基礎を開いたのが名僧行基で』、『行基は聖武天皇』(七〇一年〜七五六年)『の信任あつく、主に池を築き、溝を掘り、橋をかけ、お堂を築くことなどに力を発揮し』、『大きな業績を残した高僧といわれています』。『行基が大坂平野の北、伊丹の昆陽に大池(昆陽池)を掘っていたときのこと、一人の人に会いました。その人は「私は体の中に悪いはれ物ができて、数年来苦しんでおります、聞くところによりますと、有馬の山間には温泉があり、病気にはたいそう良いそうです。私をそこへなんとか連れて行ってくださいませんか。」と頭を地に付けて懇願しました。哀れに感じた行基はその人の望みを叶えるため、有馬に連れて行く途中、さらにあれこれと望みごとを頼むその人の願いをかなえてやると、不思議なことにその人は金色荘厳なみ仏の姿となり、有馬温泉を復興するようにと言って』、『紫雲に乗って東方へ飛び去ってしまいました』(これも垂迹)。『行基は感嘆のあまり、如法経を書写して泉底に埋め、等身大の薬師如来像を刻み、一宇の堂を建て、そこへ尊像を納めたといわれています。これは、行基の徳に感じた薬師如来が温泉を復興させ、有馬温泉発展の基礎を行基に築かしめることとなったとされております、事実、行基がここに堂を建立して以来、約』三百七十『年の間、有馬は相当な賑わいを見せたと伝えられています』。『平安時代に入ると、各種の文献にも散見されるようになり、多くの文人や天皇、また重臣たちも有馬を訪れたとされており、清少納言も枕草子のなかで「出湯は、ななくりの湯、有馬の湯、那須の湯、つかさの湯、ともに湯」と書いております、つまり、当時すでに伊勢の榊原温泉とならんで有馬温泉が天下三大名湯の一つとして高い評価を受けていたわけです』。以下が「中興の仁西」のパート。『時代は流れて、承徳元』(一〇九七)『年、天災が有馬を襲いました。「温泉寺縁起」によると、「堀川天皇の承徳元年、有馬に洪水があって、人家を押し流し、温泉も壊滅した」とあります。諸説はありますが、この大洪水以後』、九十五『年間の有馬はほとんど壊滅状態のまま推移したものだと考えられています』。『荒廃しきっていた有馬を救ったのは、仁西(にんさい)という僧で、源平合戦で平家が滅亡した直後、吉野(奈良県)からやってきた仁西が有馬の再興を果たすこととなりました』。『仁西は大和の国・吉野にあった高原寺の住僧でありましたが、ある時』、『紀伊の国・熊野権現に詣でた折、夢のお告げをうけました、それは「摂州有馬の山間に温泉がある。近頃、はなはだしく荒廃しているにつき、行って再興せよ」というものでありました』。『仁西は謹んで受けましたが、有馬への道筋がわかりませんでした、そこで熊野権現に訪ねてみたところ、「庭の木の葉にくもがいる。その糸のひくところに従っていけ」とのことであり、翌朝目覚めて庭にでてみると、確かに夢のお告げ通りで、仁西はくもの糸に従い、有馬へと向かいました。しかし、中野村の二本松まで来たところで、くもの糸を見失い』、『途方にくれていると、突然』、『老人が現れ』、『仁西を山上まで案内し、一枚の木の葉を投げ』、『「この葉が落ちたところが霊地である」と教えてくれました』(これも垂迹)。『さっそくその教えに従い葉の落ちたところを探してみると、そこには行基が開いた温泉があったということです。そこで、里人を集め泉源をさらえ、承徳の洪水より』、『一世紀に及ぶときを経て』、『有馬温泉の復興に成功したのでありました』。『温泉の復活とともに、仁西は温泉寺を改修し』、十二の『宿坊を営みました。これは源頼朝が鎌倉幕府を開く』一『年前、すなわち建久』二(一一九一)年の『ことと伝えられています』。なお、十二『の宿坊の管理は仁西が吉野からつれてきた』、河上・余田氏らの平家の残党であったといわれております』。『現在、有馬において「坊」の文字がつく宿が多いのは、このときの流れをくむか、あるいはそれにあやかってつけられたものといわれております』とある。

「此の話は此の山に三輪明神を祀りしことゝ關係あるべし」現在の神戸市北区有馬町にある温泉神社には、「摂津國名所圖會」によれば、「湯山三所權現と稱す。祭神三座。中央熊野權現、左三輪明神、右鹿舌(かじた)明神なり。此神は郡内羽束(はつか)山香下(かした)明神にて、神躰は少彦名命(すくなびこなのみこと)なり。三座の中、三輪明神を當山の地主神とす」と記してある(「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」のこちらの画像を判読した)。柳田が言っている関係するという部分は、活玉依毘売(いくたまよりひめ)のもとに、毎夜、美麗な男が夜這いに来、それから直ちに身籠った。不審に思った父母が彼女を質すと、「名も知らぬ立派な男が夜毎にやって来る」と告げ、父母は、その男の正体を知ろうと、糸巻きに巻いた麻糸を、針に通し、針をその男の衣の裾に通すように教えた。翌朝、針に附けた糸は、戸の鍵穴から抜け出ており、糸を辿ると、三輪山の社(やしろ)で続いていた。糸巻きには糸が三回り分だけ残っていたので、「三輪」と呼ぶようになったという三輪山伝承と糸が親和性があるからという意味であろうか。

「美作勝田郡湯之鄕(ゆのがう)村」現在の岡山県美作市湯郷(ゆのごう)(グーグル・マップ・データ)。湯郷温泉として現存。し、その中に「湯郷 鷺温泉館」というのもある。

「圓仁法師」(延暦一三(七九四)年~貞観六(八六四)年)は第三代天台座主。大師号は慈覚大師。入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。下野国の生まれで、出自は壬生(みぶ)氏。十五才の時に最澄の弟子となり、入唐後、五台山・大興善寺などで学び、帰朝後、延暦寺三世座主に任ぜられ、天台宗山門派の祖となった。彼によって天台宗は著しく密教化したとされる。

「豐後北海部郡下北津留(しもきたつる)村藤河内(ふじかわち)村鷺來ケ迫(ろくがさこ)」現在の大分県臼杵市藤河内(ふじかわち)にある「六ヶ迫(ろくがさこ)温泉」(グーグル・マップ・データ)。「鷺来ヶ迫温泉 源泉 俵屋」公式サイトの「歴史」によれば、江戸の元文年間(一七三六年~一七四一年)に、『一羽の傷ついた白鷺が、山奥にある一つの泉(現在、俵屋の中にある白鷺泉)に、毎日毎日』、『傷を癒しに来ており、数日後』、『完治したといわれる。不思議に思った里人は、臼杵町の禅師にこの事を告げた。それを聞いて禅師は驚いた』。『数日前、夢枕に白鷺となった御山明神から「これより北方向二里の地に薬水あり、この薬水をもって広く病人を救うべし」とお導きを受けていたからだ。思いがけぬ『不思議な一致』を稲葉公にお伝えし長年の探索の末、ついに薬水を発見した』(これも垂迹)。『この白鷺の奇跡のことから地名を、鷺が来た谷(迫)ということで鷺来ヶ迫(ろくがさこ)という名になった』。「迫(さこ)」は山間(やまあい)の小さな谷を言い、岡山県以西の中国地方と九州地方に多く見られる。同様の語として千葉県などでは「さく」がある。また「狭間(はざま)」も同様の意味で使用される地形語でもある。このような小さな谷に開かれた田が「迫田(さこた)」であり、「俚言集覧」に『美作(みまさか)にて山の尾と尾との間を「さこ」と云ふ。其處に小水ありて田有るを「さこ田」と云ふ』とある。迫田は谷田・棚田と同様に一枚一枚の耕地は零細であり、労働力の投入量に比して収穫量は決して多いものではなかった(ここは平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「炭酸泉」同前サイトに『含炭酸ナトリウム・カルシウム炭酸水素塩・塩化物泉』とあり、さらにこの鷺来ヶ迫温泉の源泉である「俵屋旅館」は「白鷺泉」の名を持っているから、この伝承の本家本元ということになる。

「其の動物が土地の神佛の使者・傳令なりしこと」「古事記」の倭建命(やまとたけるのみこと)に致命傷を与えることとなる伊吹山の神は彼の前に牛ぐらいの大きさの白い大猪(倭建命はこれをただの使者と誤認して、言挙げしてしまう)が神の正身(しょうしん)であったように、もともとは使者や伝令などではなく、神そのものの垂迹した化身なのである。それはここまでの垂迹ケースを見れば、一目瞭然である。後代に至るに従い、神が獣に成るのは不遜という下らぬ考えが侵入したものと私は思っている。]

 今日の溫泉は半(なかば)は避暑地、遊覽地なり。さほど病人でも無き者が、所謂、保養の爲に出掛けて行く場處となれり。然しながら、二、三百年前までの湯の宿は不自由を極めたるものなりき。難儀をして山の中へ往く昔の湯治客は、決して今の紳士のごとき氣樂人に非ず。殊には、戰爭、頻繁にして外科醫術の進步せざりし時代には[やぶちゃん注:室町末期から戦国・安土桃山時代を想定していよう。]、溫泉は言はゞ「天然の病院」なり。亂世ハ戰場にて命を殞(おと)す者も、勿論、今よりは遙かに多かりしならんが、一旦、助かりたる手負人も傷養生は、中々、面倒なりき。【隱家(かくれが)】良醫を求めて其の治癒を受くるよりも、先づ以て、五體の利(き)かぬ間は敵に發見せられぬ爲(ため)、靜かに山中に隱れ居(を)ることの必要なりしは、全く右の鷺・鹿の類と同じ。若(も)し、領分内の深山などに右のごとく金創(きんさう)[やぶちゃん注:刃物による切り傷。]に效ある溫泉あれば、それこそ誠の天の惠(めぐみ)なりしなり。有馬草津は千年來の名湯なれど、其の靈驗(れいげん)の十分に發揮せられて、終(つゐ)に日本の一名物となりしは、、恐らくは亦、後世、「鷺の湯」・「鹿の湯」等の傳が發生せし時代、即ち、略(ほぼ)戰國の斬合(きりあひ)時代以後の事なるべし。世の中、太平に及ぶと共に、箭(や)の傷、刀の創(きず)が早く平癒すると云ふのみにては、廣告とならぬ故に、是等の話も少しづつ變形して、鳥獸までが脚氣・血の道・「リウマチス」を、苦にして居(ゐ)たるがごとく語り傳ヘざれば、折角の理窟が、段々、不明になり行くなり。

[やぶちゃん注:「血の道」月経、則ち、婦人の血に関係のある病態を総合したもので、月経時・月経前・月経後・妊娠時・分娩後(産褥(さんじょく)時)・流産後・妊娠中絶後・避妊手術後・「更年期の血の道症」に分けられる。症状としては、のぼせ・顔面紅潮・身体の灼熱感・冷え・眩暈(めまい)・耳鳴り・肩こり・頭痛・動悸・発汗・興奮・不眠・月経不順・不正出血・肝斑(かんはん・かんぱん:両頬骨に沿って左右対称にほぼ同じ形・大きさで出現するシミ。比較的広い範囲で、輪郭がはっきりしないもやっとした形で広がる。額や口の周辺にも出現するものの、目に近い周囲には発生しない)・痺れ・脱力感などがあり、更年期障害類似の自律神経失調症と言える(主に小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「リウマチス」関節痛や関節変形を生じる関節リウマチ(Rheumatoid ArthritisRA)のことであろう。病因は現在でも判然とはしていないが、概ね自己の免疫システムが誤認を起こし、主に手足の関節を侵すところの炎症性自己免疫疾患で、遺伝的素因も疑われる代表的な膠原病の一つである。しばしば血管・心臓・肺・皮膚・筋肉といった全身臓器にも障害が及ぶ(以上はウィキの「関節リウマチ」に拠る)。]

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