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2019/01/24

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(9) 「馬ニ惡戲シテ失敗シタル河童」(3)

 《原文》

Kappanotokuri

[やぶちゃん注:途中に挿入される『河童ノ德利 寶曆現來集卷廿一ヨリ』の挿絵をここに掲げておく。国立国会図書館デジタルコレクションの画像を補正して示した。]

 【和尚慈悲】東京近傍ニ於テハ武藏北足立郡志木町、舊稱ヲ館村(タテムラ)ト稱スル地ニ於テ、引又(ヒキマタ)川ノ河童寶幢院ノ飼馬ヲ引カントシテ失敗ス。馬ノ綱ニ搦メラレテ厩ノ隅ニ倒レ馬ニ蹴ラレテ居リ、和尚ノ顏ヲ見テ手ヲ合ハス故ニ、同ジ誓言ヲサセテ後之ヲ宥ス。此河童モ甲斐飛驒其他ノ同類ノ如ク、翌日ノ夜明ニ大ナル鮒ヲ二枚和尚ノ枕元ニ持來リ、當座ノ謝意ヲ表シタリト云ヘリ〔寓意草上〕。僧侶ニ魚ヲ贈ルガ如キ、無意味ナル因習ニ拘束セラルヽヲ見テモ、河童ガ決シテ新奇ナル妖怪ニ非ザリシヲ察シ得べシ。相模ノ大山街道間角(マカド)川ノ河童ハ、馬ニ對スル惡計露顯シテ打殺サレントセシヲ、間角村ノ三輪堀五郞左衞門ノ先祖、例ノ如ク命乞ヲシテ放還ス。鎌倉時代ノ出來事ナリト傳フ。【德利】【打出小槌】此時ノ禮物モ鱸ガ二本ト酒德利ニシテ、其德利ノ酒ハ酌メドモ盡クルコト無カリシ由。今ハ既ニ空德利トナリ、魚ノ圖ト共ニ永ク家ニ傳ヘタリシヲ、天保二年四月ニ至リ、江戸本所ノ彫物師猪之助ナルモノ、實見シ來タリテ人ニ語ルトイフ〔寶曆現來集廿一〕。【養老酒】其末孫三輪堀啓助君ハ今高坐郡茅ケ崎町ニ居住シ、家寶ノ河童ノ德利ヲ縣ノ民政資料展覽會ニ出品シ、先祖孝行ノ賞トシテ酒ヲ入レテ河童ノ贈リシモノト稱ス。此ハ大正二年ノ傳ナリ〔神奈川縣民政資料小鑑〕。【四十九】東海道ハ駿州ノ吉原ガ未ダ今ノ地ニ移ラザル前、瀧川ノ押出シト稱スル物凄キ落合ノ淵ニ河童四十九匹住ス。【厩ノ柱】或大名此宿ニ一泊シ乘馬ノ足ヲ川水ニ冷サシム。河童其馬ノ尾ヲ搦メテ之ヲ水底ニ引入レントセシガ、馬恐レテ往還マデ馳セ出シ、河童ハ尻尾ニ纏ハレテ引出サレ、土地ノ者之ヲ捕ヘテ厩ノ柱ニ一夜縛リ附ク。此河童ノ謝罪條件ハ不明ナリ。翌日大將立(タイシヤウダテ)ヲサセ之ヲ放ツトアリ〔田子乃古道〕。三河ノ河童ノ話ハ後ニ之ヲ述ブべシ。近江ノ河童ハ犯情異ナレドモ刑罰ハヨク似タリ。【葛ノ葉】此國野洲郡北里村江頭ニテ、或百姓ノ留守宅へ河童亭主ニ化ケ來リテ其妻ト合宿ス。後ニ眞ノ夫還リ爭ヒテ化ケタルコト現ハレ打殺サントセシヲ、色々ト詫言シテ宥シテ貰ヒ、其恩報ジニ德附ケ得サセント、大鮒ヲ二枚ヅツ二日目三日目ニ持來リ、被害者此ガ爲ニ身上良クナレリ。十年ホドノ後、河童來リテ曰ク、近頃ハ新田多クナリ魚ヲ捕ルコト殊ノ外不自由ナリ。モハヤ宥シ給ヘト言ヒ其後ハ持來タラズ〔觀惠交話下〕。【野飼】山城宇治ノ龜ノ茶屋ハ最初ハ幸齋ト云フ百姓ノ家ナリ。或夕馬ヲ川端ニ野飼シテ置キシニ、河童之ヲ水中ニ引入レントシテ綱ヲ幾重ニモ身ニ卷附ケ、惣身ノ力ヲ以テ曳キケレドモ、却ツテ馬ニ曳キ勝タレテ幸齋ガ家ノ厩ニ轉ガリ込ミテ遁グルコトナラズ。【河童怠狀】近所ノ人々モ出合ヒテ打殺サントセシガ、或者仲ニ立チテ幸齋ニ詫言シ、以來此家ノ者ハ申スニ及バズ、宇治中ノ者ニ仇ヲスマジキ由ノ怠狀立(タイジヤウタテ)ヲ、自問自答ノヤウニサセテ宥スト云ヘリ。之ヲ以テ推セバ、元吉原ノ河童ノ大將立ト云フハ此ニ謂フ怠狀立卽チ宣誓ヲ爲サシムルコトナランカ。サテ右ノ宇治川ノ河童モ他國ノ例ト同ジク、其翌朝ヨリ三箇年ノ間每朝未明ニ魚ヲ二ツ三ツヅツ幸齋ガ口へ持來リ置キテ恩報ジヲ爲セシガ、其後ハモハヤ來ラズ。或時幸齋大阪へ下ラントテ夜船ニ乘リ鵜殿ノ邊ヲ過ギシニ、幸齋々々ト喚ブ者アリ。夜中不思議ナリト思ヒツヽ篷ヲ擧ゲテ見レバ、川除(カハヨケ)ノ上ニ五六歳ノ小兒ホドノ者アリ、【河童引越】彼ニ向ヒテ言フニハ、何時ゾヤ命ヲ御宥シアリシ恩ヲ三年ハ報ジ候ヘドモ、宇治邊ニ居リ候テハ水早クテ魚ヲ捕ルコト易カラズ、我身ノ養ヒサヘナリ難ク候故、此處へ住居ヲ換へ候、此ヨリ宇治へハ程遠ク候程ニ心ナラズ無沙汰ニナリ候、モハヤ御宥シ候ヘト斷リヲ言ヒテ川へ入リケルト也〔落穗餘談四〕。【ガタラウ】阿波那賀郡平島村大字赤池ノ庄屋ニ勝瀨某ト云フ者アリ。二百年ホド以前、此家ノ奴僕馬ヲ那珂川ノ滸(ホトリ)ニ飮(ミヅカ)ヒ川端ニ繋ギテ家ニ還ル。【馬駿足】此川ノ河太郞其綱ヲ解キテ身ニ纏ヒ引込マントセシガ、馬ガ駿足ナリシカ却ツテ河童ヲ引摺リテ厩ニ歸ル。人々集リテ殺サントスルヲ、主人制止シテ之ヲ解キ放チ去ラシム。其夜主人ノ夢ニ河太郞來テ言フニハ、命ノ恩ニハ每朝井ノ側ラノ竹棚ニ鮮魚ヲ捧ゲ置キ申スべシ。【刃物ノ忌】但シ刃物ヲ忌メバ決シテ之ヲ棚ニ置キ給フナ云々。ソレヨリ久シク言フ所ノ如クナリシヲ、二三年ノ後新參ノ下女アリテ菜刀ヲソコニ置キ忘レシヨリ、終ニ河童ノ貢物ハエタリ。【水難禁呪】サレド河邊ノ者川ヲ渡リ水ヲ泳グニ、自ラ勝瀨氏ノ子孫ナリト名乘レバ河太郞害ヲ爲スコトナカリシト云ヘリ〔阿州奇事雜話二〕。土佐ニハ予ガ知ル限リニ於テ此話三アリ。其一ハ元祿年中ノ出來事ナリ。長岡郡五臺山ノ麓ナル下田ト云フ所ノ百姓、野飼ノ爲馬ニ三十尋バカリノ繩ヲ附ケテ川ノ岸ニ放シ置キシニ、四邊ニ人ノ居ラヌヲ見スマシ、河童其繩ヲ端ノ方ヨリ身ニ卷キ、殘リ六尺ホドニナリシ時之ヲ川ノ中へ曳ク。最初ハ馬モ之ニ附キテ行キシガ、深ミニナリテ驚キテ跳リ上リ、河童ハ川原ノ上ニ投出サル。百姓等之ヲ發見シ多勢打寄リテ散々打擲シ既ニ殺スバカリナリシヲ、老人タチ先ヅ了簡ヲ爲シ、將來コノ下田村ニ於テ人ニハ勿論牛馬鷄犬ニ至ル迄決シテ害ヲ加ヘヌカト、十分ニ念ヲ押シテ放シ遣リ、【河童ノ祭】其代リニ每年六月十五日ニ河童ノ祭ヲ村ニテ營ムコトニ定メ、愈以テ此地ニハ河童ノ害ヲ見ヌコトヽナレリ〔土州淵岳志〕。河童ヲ祭ルト云フ一段ハ外ノ地方ニハ見エザルモ注意スべキコト也。此ト略同ジ時代ニ、土佐ノ西部幡多郡津大村大字川ノ今城八兵衞方ニ於テモ、川端ニ繫ギ置キシ飼馬同樣ノ厄ニ遭ヘリ。此河童ハ兩三日ノ間厩ノ前ニ繫ギ捨テタル後、以來人馬ヲ傷フべカラザル由ヲ固ク戒メテ川へ放ス。其翌朝ヨリ何人ノスルトモ知ラズ軒ニ釣リタル手水桶ノ鍵ニ每日魚ヲ持來リ引掛ケ置ク者アリ。【鹿ノ角】年月ヲ經テ此鍵損ジ鹿ノ角ヲ以テ之ニ換ヘタルニ、河童ハ性トシテ鹿角ヲ畏ルル故ニ、之ヲ見テ遁ゲ去リシモノカ、其邊ニ魚ヲ棄テヽ行キシマヽ以後其事止ミタリト云フ〔土佐海〕。又吾川郡御疊瀨(ミマセ)村ノ千屋(チヤ)惣之進ガ家ニハ、先代ガ河童ノ命ヲ助ケ還セシ時彼ガ報謝トシテ持來レリト云フ一ノ珍器ヲ傳フ。越後島崎ノ桑原氏ノトハ異ナリ、此ハ皿ノ如キ一物ナリ。【疱瘡除】水難除ノ外ニ疱瘡平癒ノ厭勝(マジナヒ)トモナルト稱シ非常ニ有名ナル物ナリキ〔同上〕。【河童ノ皿】右ノ河童ノ皿ハ些シク我々ガ聞ク所ノ物ト異ナリ、通例皿ト云フハ彼ガ頭ノ頂ノ窪ミノコトナリ。河童ニ取リテハ大切ノ物ナルハ同ジケレド、引放シテ人ニルルコト能ハズ。此窪ミニ水溜レル間ハ強力人ニ數十倍スルコト「サムソン」ノ髮毛ノ如シ。【駒繫木】曾テ肥前佐賀郡ノ三溝(ミツミゾ)ト云フ地ニ於テ、農民其馬ヲ樹ニ繫ギ置キシニ、河童水ヨリ出デ其綱ヲ解キテ身ニ絆(マト)ヒ之ヲ水際マデ引行キケレバ、馬驚キテ大ニ跳ネ、乃チ河童ノ皿ノ水ヲ覆(コボ)ス。河童忽チ力弱リ却ツテ馬ニ引摺ラレテ厩ニ至ル。【厩ノ柱】主之ヲ厩ノ柱ニ繫ギ其由ヲ母ニ語ル。母ハ洗濯ヲシテアリシガ、大ニ罵リテ盥ノ水ヲ河童ニ打掛ケタレバ、其水少シク皿ノ中ニ入リ、河童力ヲ復シテ馬ノ綱ヲ引切リテ逸シ去リ、終ニ片手ヲ失フニモ及バズ、又詫狀モシクハ藥ノ祕傳ノ沙汰ニモ立チ至ラズ〔水虎考略後篇三〕。從ツテ此地方ニハ河童ノ侵害後世ニ至ルマデ中々多カリキ。九州ノ河童ハ一般ニ智巧進ミタリト見エテ、人間ノ逆襲ヲ受ケタリト云フ記錄アマリ多カラザルモ、古キ昔ノ物語トシテハ同種ノ事蹟ヲ傳フルモノナキニ非ズ。【女ノ被害】例ヘバ薩州川邊(カハナベ)郡川邊村大字淸水(キヨミヅ)ノ一部落モ、亦河童トノ約束アリテ水ノ災ニ罹ル者決シテ無シ。昔此村淸水川ノ櫻淵ノ上ニ川邊(カハナベ)家ノ館アリシ時代ニ、河童此家ノ女ヲ引込ミタルコトアリ。【河童頭目】主人大ニ怒リ早速其淵ヲ埋メテ水ヲ涸シ之ヲ退治セントセシカバ、河童ノ頭目閉口シテ謝罪ニ來リ、永ク邑人ニ害ヲ爲スマジキ旨ヲ誓ヒテ漸ク宥サルヽコトヲ得タリシ也〔三國名勝圖會〕。肥後ノ加藤モ小姓ヲ河童ニ取ラレテ大討伐ヲ企テシコトアリ。後段ニ之ヲ述べントス。淸正ホドノ鬼將軍ニ瞰マレテハ勿論河童ハ之ニ楯突クコトノ出來ル者ニ非ザル也。

《訓読》

 【和尚慈悲】東京近傍に於いては、武藏北足立郡志木町、舊稱を館村(たてむら)と稱する地に於いて、引又(ひきまた)川の河童、寶幢院(ほうどうゐん)の飼馬(かひば)を引かんとして、失敗す。馬の綱に搦められて、厩の隅に倒れ、馬に蹴られて居り、和尚の顏を見て手を合はす故に、同じ誓言(せいげん)をさせて後、之れを宥(ゆる)す。此の河童も甲斐・飛驒其の他の同類のごとく、翌日の夜明けに、大なる鮒を二枚、和尚の枕元に持ち來たり、當座の謝意を表したりと云へり〔「寓意草」上〕。僧侶に魚を贈るがごとき、無意味なる因習に拘束せらるゝを見ても、河童が決して新奇なる妖怪に非ざりしを察し得べし。相模の大山街道間角(まかど)川の河童は、馬に對する惡計、露顯して、打ち殺されんとせしを、間角村の三輪堀(みわぼり)五郞左衞門の先祖、例のごとく、命乞ひをして放ち還へす。鎌倉時代の出來事なりと傳ふ。【德利】【打出小槌】此の時の禮物も、鱸(すずき)二本と酒德利(さかどつくり)にして、其の德利(とつくり)、酒は酌(く)めども、盡くること、無かりし由(よし)。今は既に空德利(からどつくり)となり、魚の圖と共に、永く家に傳へたりしを、天保二年四月[やぶちゃん注:一八三二年五月。]に至り、江戸本所の彫物師猪之助(ゐのすけ)なるもの、實見し來たりて人に語るといふ〔「寶曆現來集(ほうれきげんらいしふ)」廿一[やぶちゃん注:冒頭の図を参照。なお、宝暦は一七五一年から一七六四年に相当。]〕。【養老酒】其の末孫(ばつそん)三輪堀啓助君は、今、高坐郡茅ケ崎町に居住し、家寶の河童の德利を縣(けん)の民政資料展覽會に出品し、先祖孝行の賞として、酒を入れて、「河童の贈りしもの」と稱す。此れは大正二年[やぶちゃん注:一九一三年。]の傳なり〔「神奈川縣民政資料小鑑(しやうかん)」〕。【四十九】東海道は駿州の吉原が、未だ今の地に移らざる前、「瀧川の押出(おしだ)し」と稱する、物凄き落合(おちあひ)の淵に、河童、四十九匹、住す。【厩の柱】或る大名、此の宿に一泊し、乘馬の足を川水に冷さしむ。河童、其の馬の尾を搦めて、之れを水底(みなそこ)に引き入れんとせしが、馬、恐れて、往還まで馳せ出だし、河童は、尻尾に纏(まと)はれて引き出だされ、土地の者、之れを捕へて、厩の柱に、一夜、縛り附く。此の河童の謝罪條件は不明なり。翌日、「大將立(たいしやうだて)」をさせ、之れを放つ、とあり〔「田子乃古道」〕。三河の河童の話は、後に之れを述ぶべし。【「葛の葉」。】近江の河童は、犯情、異なれども、刑罰は、よく似たり。此の國、野洲(やす)郡北里村江頭(えがしら)にて、或る百姓の留守宅へ、河童、亭主に化け來たりて、其の妻と合宿(あひやど)す[やぶちゃん注:共寝した。]。後に眞(まこと)の夫、還り、爭ひて、化けたること、現はれ、打ち殺さんとせしを、色々と詫言して宥して貰ひ、其の恩報(おんほう)じに、「德(とく)附け得させん」と、大鮒を二枚づつ、二日目、三日目に持ち來たり、被害者、此れが爲に身上(しんしやう)良くなれり。十年ほどの後、河童、來たりて曰はく、「近頃は新田多くなり、魚を捕ること、殊の外、不自由なり。もはや、宥し給へ」と言ひ、其の後は持ち來たらず〔「觀惠交話(くわんけいこうわ)」下〕。【野飼】山城宇治の「龜の茶屋」は、最初は幸齋(こうさい)と云ふ百姓の家なり。或る夕べ、馬を川端に野飼して置きしに、河童、之れを水中に引き入れんとして、綱を幾重(いくへ)にも身に卷き附け、惣身(そうしん)の力を以つて曳きけれども、却つて馬に曳き勝たれて、幸齋が家の厩に轉がり込みて、遁(に)ぐること、ならず。【河童怠狀(たいじやう)】近所の人々も出で合ひて、打ち殺さんとせしが、或る者、仲に立ちて、幸齋に詫言し、以來、此の家の者は申すに及ばず、宇治中の者に仇(あだ)をすまじき由の「怠狀立(たいじやうたて)」を、自問自答のやうにさせて、宥す、と云へり。之れを以つて推(お)せば、元吉原の河童の「大將立」と云ふは、此(ここ)に謂ふ「怠狀立」、卽ち、宣誓を爲さしむることならんか。さて、右の宇治川の河童も他國の例と同じく、其の翌朝より三箇年の間、每朝、未明に魚を二つ、三つづつ、幸齋が口へ持ち來たり置きて、恩報じを爲せしが、其の後は、もはや、來らず。【河童引越】或る時、幸齋、大阪へ下らんとて、夜船に乘り、鵜殿(うどの)の邊りを過ぎしに、「幸齋々々」と、喚(よ)ぶ者、あり。『夜中、不思議なり』と思ひつゝ、篷(とま)を擧げて見れば、川除(かはよけ)の上に、五、六歳の小兒ほどの者あり、彼に向ひて言ふには、「何時(いつ)ぞや、命を御宥(おゆる)しありし恩を、三年は報じ候へども、宇治邊りに居り候ては、水、早くて、魚を捕ること、易(やす)からず、我が身の養ひさへ、なり難く候故、此處(ここ)へ住居を換へ候、此れより宇治へは程遠く候程に、心ならず、無沙汰(ぶさた)になり候、もはや、御宥し候へ」と斷(ことわ)りを言ひて、川へ入りけるとなり〔「落穗餘談」四〕。【ガタラウ】阿波那賀(なか)郡平島村大字赤池の庄屋に勝瀨某と云ふ者あり。二百年ほど以前、此の家の奴僕(ぬぼく)、馬を那珂川の滸(ほとり)に飮(みづか)ひ、川端に繋ぎて、家に還る。【馬(うま)駿足(しゆんそく)】此の川の河太郞(ガタラウ)、其の綱を解きて、身に纏(まと)ひ引き込まんとせしが、馬が駿足なりしか、却つて河童を引き摺りて、厩に歸る。人々、集りて、殺さんとするを、主人、制止して、之れを解き放ち、去らしむ。其の夜、主人の夢に、河太郞來て言ふには、「命の恩には、每朝、井の側(かたは)らの竹棚(たけだな)に鮮魚を捧げ置き申すべし。【刃物の忌(いみ)】但し、刃物を忌めば、決して、之れを棚に置き給ふな」云々。それより久しく、言ふ所のごとくなりしを、二、三年の後、新參の下女ありて、菜刀(ながたな)[やぶちゃん注:菜切包丁。]をそこに置き忘れしより、終(つひ)に河童の貢物(みつぎもの)はえたり。【水難禁呪】されど、河邊の者、川を渡り、水を泳ぐに、自(おのづか)ら「勝瀨氏の子孫なり」と名乘れば、河太郞、害を爲すことなかりし、と云へり〔「阿州奇事雜話」二〕。土佐には、予は知る限りに於いて、此の話、三(みつつ)あり。其の一(ひとつ)は元祿年中[やぶちゃん注:一六八八年~一七〇四年。]の出來事なり。長岡郡五臺山(ごだいさん)の麓なる、下田と云ふ所の百姓、野飼の爲、馬に三十尋(ひろ)[やぶちゃん注:通常、一尋は六尺(約一メートル八十二センチメートル弱)とされたから、五十四メートル半強となる。]ばかりの繩を附けて、川の岸に放し置きしに、四邊に人の居らぬを見すまし、河童、其の繩を端の方(かた)より身に卷き、殘り六尺ほどになりし時、之れを川の中へ、曳く。最初は、馬も之れに附きて行きしが、深みになりて、驚きて跳(をど)り上り、河童は川原の上に投げ出さる。百姓等(ら)、之れを發見し、多勢、打ち寄りて、散々、打擲(ちやうちやく)[やぶちゃん注:打ち殴り、叩くこと。]し、既に殺すばかりなりしを、老人、たち、先づ、了簡(りようけん)を爲(な)し[やぶちゃん注:許してやり。]、「將來、この下田村に於いて、人には勿論、牛・馬・鷄・犬に至るまで、決して、害を加へぬか」と、十分に念を押して、放し遣り、【河童の祭】其の代りに、每年、六月十五日に「河童の祭」を村にて營むことに定め、愈(いよいよ)以つて、此の地には、河童の害を見ぬことゝなれり〔「土州淵岳志」〕。河童を祭ると云ふ一段は、外の地方には見えざるも[やぶちゃん注:誤り。本電子化の(4)で示した通り、現在の茨城県小美玉市与沢に死んだ河童を祀ったとされる稀有の手接神社が存在する。]、注意すべきことなり。此れと略(ほぼ)同じ時代に、土佐の西部、幡多(はた)郡津大(つだい)村大字川の今城[やぶちゃん注:高知に多い姓では「いまじやう」の可能性が高いか。]八兵衞方に於いても、川端に繫ぎ置きし飼馬、同樣の厄(やく)に遭へり。此の河童は、兩三日(りさうさんにち)[やぶちゃん注:二、三日。]の間、厩の前に繫ぎ捨てたる後、以來、人馬を傷(そこな)ふべからざる由を固く戒めて、川へ放す。其の翌朝より、何人(なんぴと)のするとも知らず、軒(のき)に釣りたる手水桶(てうづをけ)の鍵(かぎ)[やぶちゃん注:河童は金属をも忌むので、この「かぎ」(鉤)は木製でなくてはならない。]に、每日、魚を持ち來たり、引つ掛け置く者、あり。【鹿の角(つの)】年月を經て、此の鍵、損じ、鹿の角を以つて之れに換へたるに、河童は性(しやう)として鹿角(しかづの)を畏るる故に、之れを見て遁げ去りしものか、其の邊りに魚を棄てゝ行きしまゝ、以後、其の事、止みたり、と云ふ〔「土佐海(とさのうみ)」〕。又、吾川(あがは)郡御疊瀨(みませ)村の千屋(ちや)惣之進が家には、先代が河童の命を助け還(かへ)せし時、彼(かれ)が報謝として持ち來たれりと云ふ一(ひとつ)の珍器を傳ふ。越後島崎の桑原氏のと[やぶちゃん注:「(8)」参照。双六の駒状の白黒の小石で血止め・骨接(ほねつぎ)の能力を持っていた。]は異なり、此れは、皿のごとき一物(いちもつ)なり。【疱瘡除(はうさうよけ)】水難除の外に疱瘡平癒の厭勝(まじなひ)ともなると稱し、非常に有名なる物なりき〔同上〕。【河童の皿】右の「河童の皿」は些(すこ)しく我々が聞く所の物と異なり、通例、皿と云ふは、彼(かれ)が頭の頂きの窪みのことなり。河童に取りては大切の物なるは同じけれど、引き放して人に(く)るること、能はず。此の窪みに、水、溜(たま)れる間は、強力(ごうりき)、人に數十倍すること、「サムソン」の髮毛のごとし。【駒繫木(こまつなぎのき)】曾て肥前佐賀郡の三溝(みつみぞ)と云ふ地に於いて、農民、其の馬を樹に繫ぎ置きしに河童、水より出で、其の綱を解きて身に絆(まと)ひ、之れを水際(みづぎは)まで引き行きければ、馬、驚きて大いに跳(は)ね、乃(すなは)ち、河童の皿の水を覆(こぼ)す。河童、忽ち、力(ちから)弱り、却つて馬に引き摺られて、厩に至る。【厩の柱】主(あるじ)、之れを厩の柱に繫ぎ、其の由(よし)を母に語る。母は洗濯をしてありしが、大いに罵(ののし)りて、盥(たらひ)の水を河童に打ち掛けたれば、其の水、少しく皿の中に入り、河童、力を復して、馬の綱を引き切りて、逸(いつ)し去り、終に片手を失ふにも及ばず、又、詫狀もしくは藥の祕傳の沙汰にも立ち至らず〔「水虎考略」後篇三〕。從つて、此の地方には河童の侵害、後世に至るまで、中々、多かりき。九州の河童は一般に、智巧(ちかう)[やぶちゃん注:物事を成す才知に優れていること。]、進みたりと見えて、人間の逆襲を受けたりと云ふ記錄、あまり多からざるも、古き昔の物語としては、同種の事蹟を傳ふるもの、なきに非ず。【女の被害】例へば、薩州川邊(かはなべ)郡川邊村大字淸水(きよみづ)の一部落も、亦(また)、河童との約束ありて水の災(わざはひ)に罹(かか)る者、決して、無し。昔、此の村、淸水川の櫻淵の上の川邊(かはなべ)家の館(たち)ありし時代に、河童、此の家の女を引き込みたることあり。【河童頭目】主人、大いに怒り、早速、其の淵を埋(うづ)めて水を涸し、之れを退治せんとせしかば、河童の頭目、閉口して謝罪に來たり、永く邑人(むらびと)に害を爲すまじき旨を誓ひて、漸(やうや)く、宥さるゝことを得たりしなり〔「三國名勝圖會」〕。肥後の加藤も、小姓を河童に取られて、大討伐を企(くはだ)てしことあり。後段に之れを述べんとす。淸正ほどの鬼將軍に瞰(にら)まれては、勿論、河童は之れに楯突(たてつ)くことの出來る者に非ざるなり。

[やぶちゃん注:「武藏北足立郡志木町、舊稱を館村(たてむら)と稱する地」地名としては現在の埼玉県志木市館(たて)(グーグル・マップ・データ)が残る。

「引又(ひきまた)川」現在の新河岸川、或いは、その支流で先の「館村」の北を流れる柳瀬川の別称であろう。ここ(両河川の分岐点)に引又観音堂(グーグル・マップ・データ。以下同じ)があり、この辺りは江戸時代には「引又河岸」と呼ばれる水運拠点であった。さらに地図上を調べると、綾瀬川沿いの、の川岸の水の中に「柳瀬川かっぱ流ちゃん」という像があることが判り、画像もある。今もここの河童が人々に親しまれているのは嬉しい。

「寶幢院(ほうどうゐん)」地王山地蔵院宝幢寺。志木市柏町のここに現存する。現在は新義真言宗。祐円上人が建武元(一三三四)年に創建したとも伝えるが、創建年代は不詳。永禄四(一五六一)年に現在地へ移転し、慶安元(一六四八)年には第三代将軍家光から寺領十石の御朱印状を拝領、末寺を三ヶ寺を擁していたとされる。私が非常にお世話になってきている東京都・首都圏の寺社情報サイト「猫の足あと」の「宝幢寺」を参照した。リンク先にはより詳しい寺蹟が記されてある。そこには『この寺には「お地蔵さんとカッパ」という伝説』(志木市教育委員会掲示より)があるとも記されてある。位置的にも「館村」と「引又河岸」との間(後者寄り)に当たる。

「僧侶に魚を贈るがごとき、無意味なる因習に拘束せらるゝを見ても、河童が決して新奇なる妖怪に非ざりしを察し得べし」これが近世以降に創作された比較的新しい噂話であるならば、仏教の殺生禁忌に拘らずに話柄を作ることはよほど迂闊な者でない限り、有り得ず、聴いた者は馬鹿げた嘘の後日談とし、話柄全体を一笑に附して後世へ伝承しないかも知れぬ(そういうオチを確信犯で創るというのは実は信仰を失った我々のような現代人の仕儀ということなのかも知れぬ)。ということは、ここの新河岸川を始めとする河川に古来より河童が棲息していると考えられていたこと、河童が駒引きに失敗し、その罪を許された恩返しに魚を捧げた、という内容の核心部分は、かなり古形に属するものであることを柳田國男は言っているのである。

「相模の大山街道間角(まかど)川」現在の神奈川県茅ケ崎市西久保の北のこの辺り。「門角川」は「間門川」が正しいらしいが、現存しない。この地図の小出川の支流でその左岸に南西方向に並行して流れており、池があったらしい。以上は、ブログ「あなたは読者から著者になる」のエッセイスト佐藤繁氏の「間門川(まかどがわ)の河童伝説《茅ケ崎市西久保》」に拠ったもので、現地の池跡の写真もある。同記事では、以下に記される「河童の德利」のリアル・タイムの追跡談が載る! これはもう、引用させて戴くしかない! だって、凄いリアルなんだもん! 筆者佐藤氏の友達が「三輪堀(みわぼり)五郞左衞門」の後裔なんだもん!(行空けは詰め、改行の一部を繫げ、一部の行頭を一字下げ、一部の記号を代えた)

   《引用開始》

2】伝説の河童徳利はどうなっているのであろうか。

 河童徳利の伝説は、小学校のころより村の人より聞いて知っていた。

西久保の河童徳利の発祥地が、同級生の三堀良一君の家が伝えていることを同君からも聞いた。

 その徳利が、後に茅ケ崎市の展示会に出品されていたのを見た。

ひび割れたごく普通の形の徳利であった。

 その徳利がどこにあるのかと言えば、『茅ケ崎市史』(5・概説編)によれば、静岡の個人の所有となっている。

写真を見ると、口細で細長いウスキーのリザーブのボトルに似ている。

 私が見た河童徳利と現有する静岡の人の所有するものとは全く別物ある。西久保の三堀家から流れ出た河童徳利は、どうなったのであろうか。

 茅ケ崎市役所の文化財保護課で、三堀家のものと静岡の個人所有のものとの違いを聞いたら、

「伝説ですからねえ~」

と、笑っていて相手にしてくれない。

 西久保の河童徳利の伝説は、江戸末期の天保年間から始まったが、その時代にウイスキイーのびんのような徳利を日本では作っていたであろうか。

 伝説の徳利は壊れてしまったとも言われているし、三堀家から流れ出た経過も三堀君に聞いても分からない。

3】西久保の河童徳利伝説の話。

 西久保の河童徳利の元になっている話は、『宝暦現来集』(巻21・近世風俗見聞集に第3集、大正2年図書刊行会編)にあり、天保2年4月、江戸本所に住む彫刻師の猪之助が大山参詣のの時、間門村(西久保)の百姓、三輪堀(後の三堀)五郎左衛門方に立ち寄り、とっくりの絵を見て尋ねたという。

 話の内容を要約すれば

「西久保の小さい川で、河童が馬を引き込む所を大勢で打ち殺そうとした時、三輪堀五郎左衛門が助けたるその夜、河童が礼にとっくりに酒を入れたのを持ってくる。少しずつ残しておけばいつまでも絶えることはないのに、その意を知らない者が残らず飲んでしまった。それ以来、一滴も出なくなってしまった」。

 これは鎌倉時代ころの話という。

 現在に伝えられている話は、昭和の初期、地元の鶴嶺小学校の佐藤万吉先生によるものである。西久保の二人の古老から伝説を聞き取り、「郷土伝説紙芝居河童徳利」としてまとめられている。

 「今は昔、西久保の間門に五郎兵衛というおじいさんがいた。馬の青を引いては仕事に出掛け、夕方、間門川に連れてきてはいたわっていた。

 ある夜、かやの茂みから怪物が躍り出て馬の尻にしがみついた。村の人々が寄ってたかって打ちのめし、生け捕りにした。大木の根元にくくりつけられた怪物は、間門川に古くからすむ河童だった。

 情け深い五郎兵衛さんは、なわを解いてやったのでした。その夜、お礼にとっくりを持ってきた。いくらでも酒は出るが、とっくりのお尻をたたくと出なくなる。

 それからは五郎兵衛は酒びたりの毎日となってしまった。

 ある日のこと、これではいけないと悟った。馬小屋の青はすっかりやせてしまった。とっくりのお尻を、二つ三つたたいたら、もう一滴も出ない。また青と一緒に働く、元の五郎兵衛さんになった」。

 紙芝居として作られたので、元の話とはかなり違って脚色され、教訓化されている。この話が、「間門川の河童伝説」として知られている。河童の話は全国的であり、至る所に残されていて、柳田国男の著作にも西久保の河童の話は出てくる。

   《引用終了》

ああ、この最後の教訓化されたヴァージョンは暗澹となるなぁ。「フジパン」公式サイト内の「民話の部屋」の「河童徳利」は(語り・井上瑤氏/再話・六渡邦昭氏)、これはまた、エンディングが優等生化されており、これもまた「何だかな~」と呟きたくなる代物であった。

「鱸(すずき)」条鰭綱棘鰭上目スズキ目スズキ亜目スズキ科スズキ属スズキ Lateolabrax japonicus。海水魚であるが、春から秋の水温の高い時期は、浸透圧調整能力が高いことから、内湾河口や河川の中・上流域まで、かなり自由に回遊する。個体が現在のように堰やダムのなかった時代には、淀川から琵琶湖に遡上した個体もいたと言われる。現在でも河口から百キロメートル以上溯った利根川でも観察される。私は春三月の戸塚駅そばの柏尾川で、数十匹の多量の三十センチメートル超えた成魚のスズキの群れが水しぶきを上げて遡上するのを見たことがある。

「【打出小槌】」「【養老酒】」という頭書は生ぬるいロマン主義風の、やや誇大広告的なもので、私は気に入らない。

「東海道は駿州の吉原」ウィキの「吉原宿によれば、最初の東海道五十三次第十四番目の宿場であった「吉原宿」は当初、田子の浦湾奧の、現在のJR吉原駅付近にあった(「元吉原」。ここ)が、寛永一六(一六三九)年の高潮により、壊滅的『被害を受けたことから、再発を防ぐため』、『内陸部の現在の富士市依田原』(よだはら)『付近に移転した』(「中吉原」。ここ)。しかし延宝八(一六八〇)年八月六日、また、高潮により、再度、『壊滅的な被害を受け、更に内陸部の現在の吉原本町』(「吉原商店街」。ここ『に移転した。このため原宿吉原宿間で海沿いを通っていた東海道は吉原宿の手前で海から離れ、北側の内陸部に大きく湾曲する事になり、それまで(江戸から京に向かった場合)右手に見えていた富士山が左手に見えることから』「左富士」と『呼ばれる景勝地となった。往時は広重の絵にあるような松並木であったが、現在は』一『本の松の木が残るのみである』とある。二年前の秋、私はそこを始めてバスで通った。

「瀧川の押出(おしだ)し」国土地理院地図で「元吉原」の北を西に流れる沼川の右岸の直近に北から合流する滝川があることが判る。グーグル・マップ・データではここで、ここは地図上から見ても、「物凄き落合(おちあひ)の淵」が出来そうであるから、この合流部分を、かく言っているものと私は判断する。

「大將立(たいしやうだて)」不詳だが、柳田が後で推理するように、古くからある詫び状である「怠状(たいじやう)」の訛ったものか、ここでは被害対象者が大名であることから、権威ある「大將」に対して特定の内容を絶対誓約して詫びることと採ってよいであろう。

「野洲(やす)郡北里村江頭(えがしら)」現在の滋賀県近江八幡市江頭町(ちょう)(グーグル・マップ・データ)。

「德(とく)附け得させん」「経済的に豊かにしてやろう」の意。

「大鮒を二枚づつ、二日目、三日目に持ち來たり、被害者、此れが爲に身上(しんしやう)良くなれり」たった二回の四尾の大きなフナで金持ちになったものとは思われないので、間を省略して述べたものであろう。

『山城宇治の「龜の茶屋」』不詳。この当時、宇治で知られた茶屋らしいが、引用元の「落穗餘談」が不詳(但し、「続国史大系」第九巻の引用書目中に書名は見出せ、国立国会図書館の書誌データにも三巻本とは出る)なので、その時期も特定出来ない。

「幸齋(こうさい)と云ふ百姓の家なり」百姓らしからぬ名であるから、庄屋・名主クラスか。

「怠狀(たいじやう)」古くは、平安後期から鎌倉時代にかけて罪人に提出させた謝罪状。「過状(かじょう)」とも言った。後に、自分の過失を詫びる旨を書いて人に渡す文書を指すようになった。「詫び状」。「謝り証文」。

「仇(あだ)」危害。

「鵜殿(うどの)」現在の大阪府高槻鵜殿(グーグル・マップ・データ)。ここの淀川右岸河川敷は「鵜殿の葭(よしはら)」(単子葉植物綱イネ目イネ科ダンチク亜科ヨシ属ヨシ Phragmites australis の群生地)で知られる。

「川除(かはよけ)」人工堤防。

「阿波那賀(なか)郡平島村大字赤池」現在の徳島県阿南市那賀川町西原地区の南部に相当する(グーグル・マップ・データ)。那賀川左岸。

「長岡郡五臺山(ごだいさん)」高知県高知市五台山にある標高百四十六メートルの山。高知市のここ(グーグル・マップ・データ)。

「下田」地名としては見出せないが、五台山の南麓を下田川が流れる。

「河童の祭」上記の下田川を溯った、高知市の隣りの南国市稲生(いなぶ)に、河泊(かはく)神社が現存する。サイト「Web高知」の「稲生のエンコウ祭河泊様の解説によれば、旧暦六月十二日に「エンコウ祭り」が今も行われている。位置はサイトの別ページで、ここ。判り難い方のために。正規のグーグル・マップ・データのこの中央辺りである。サイト「日本伝承大鑑」の「河泊神社」によれば、『この神社の来歴は未詳であるが、かつてこの地にあった円福寺の境内に漂須部(ひょうすべ)明神という社があり、それが改称されて存続したのではないかとも考えられる』(「ひょうすべ」『も河童の異称である)』。『毎年』七『月に河泊祭りがおこなわれており、地元の人も「河泊様(かあくさま)」と呼んで崇敬しているという。祭りでは、近くの小学生による奉納相撲がおこなわれ』る、とある。但し、ここで柳田が言っている「下田」村で行われていたという「河童の祭」と同一のものかどうかは定かではない。

「土佐の西部、幡多(はた)郡津大(つだい)村大字川」現在の高知県四万十市の北部山間で、西土佐橘に四万十川に架かる「津大橋」(グーグル・マップ・データ)を確認出来る。

「河童は性(しやう)として鹿角(しかづの)を畏るる」それが何故なのか? 一説に本邦では古来、神使として鹿が挙げられていたからだともっともらしく書いたものがある。しかしであれば、猪・狐・蛇と挙げたらキリがないが、河童がそれらを嫌うというのは聴かない。都合のいいところだけを採ったいい加減な説だと私は思う。

「吾川(あがは)郡御疊瀨(みませ)村」現在の高知県高知市御畳瀬(みませ)(グーグル・マップ・データ)。瀬戸大橋の内側、浦戸湾に面した海岸地区だが(別に河童は淡水産ばかりではなく、北九州では海棲例の伝承もある)、南端が東流してきた新川川の河口に当たるので、淡水好きならば、ここから上流に棲める。

「疱瘡」天然痘。私のの耳囊 卷之三 高利を借すもの殘忍なる事」の私の注を参照されたい。

「厭勝(まじなひ)」意味からの当て訓。「あつしよう(あっしょう)」とも読むが、この音も当て読みで、「厭」が「壓(圧)」に通じるところから出た読み方。「えんしよう(えんしょう)」種々の呪(まじな)いによって、対象からの邪気をを抑え鎮め、破ること。

『「サムソン」の髮毛』「サムソン」(ラテン語:Samson)は、「旧約聖書」の「士師(しし)記」十三章から十六章に登場する古代イスラエルの士師(王制以前の古代イスラエル民族の指導者や英雄の総称)の一人で、怪力の持ち主として有名。名前には「太陽の(人)」、「(神に)仕えるもの」という意味があるとされる。ペリシテ人を撃ったイスラエル民族の英雄。サムソンの個人的な英雄物語には、ただ単に、イスラエルとその敵のペリシテ人とのさし迫った闘争の予告が示されているだけではなく、初期のイスラエル人の諸慣習やペリシテ人の生活についてのさまざまな資料が含まれている。彼はペリシテ人の娘との計略的結婚を契機として、多くのペリシテ人を殺し、のち、おそらくペリシテの女であるデリラに欺かれ、奇跡的怪力の源であった髪を切られて囚われの身となったが、やがて、頭髪も伸び、力を回復した彼は、多くのペリシテ人を殺し、自らも死んだとされる。私は小学生の時に見たアメリカ映画「サムソンとデリラ」(Samson
and Delilah
:セシル・B・デミル(Cecil Blount DeMille)監督・一九四九年公開)の彼を演じたヴィクター・マチュア(Victor Mature 一九一三年~一九九九年)のエンディングのシーンが忘れ難い。

「肥前佐賀郡の三溝(みつみぞ)」古地図などから見て、佐賀市内のこの辺広域と思われる(グーグル・マップ・データ)。西に田布瀨川が流れており、拡大して見ると、水路も非常に多いことが判るので、河童が棲むにはもってこいの一帯である。

「薩州川邊(かはなべ)郡川邊村大字淸水(きよみづ)」現在の鹿児島県南九州市川辺町(かわなべちょう)水(きよみず)(グーグル・マップ・データ)。

「淸水川の櫻淵」同地区を東北から南西に貫流している現在の万之瀬(まのせ)川(昭和初期までは上流部は清水川と呼ばれていた)のどこかであることは確か。但し、上流に川辺ダムが出来ているので、流域には変化が起こっている可能性が大きい。この川の途中には「清魂水(せいこんすい)」(グーグル・マップ・データのここ)という名水もあり、河童には住み易そうだ。

「川邊(かはなべ)家」現在の南九州市附近を支配した薩摩平氏の一族。南西直近の川辺町平山には平安末頃に川辺道房が築いたとされる平山城址がある。鎌倉初期の「承久の乱」で川辺氏は没落したが、その後、室町時代に入って島津氏に討伐されるまでは、ここを本拠としたらしいから、この話柄は、史実に基づくなら、その閉区間の中世に設定は出来よう(ここは、なお氏のブログ「なぽのブログ」の「平山城/鹿児島県南九州市」を参考にさせて戴いた)。

「肥後の加藤」「淸正」加藤清正(永禄五(一五六二)年~慶長一六(一六一一)年)。史実に則るなら、清正の晩年の出来事なろう。

「瞰(にら)まれては」「俯瞰」の「瞰」で「高い位置から下を見おろす」の意。「にらむ」は柳田國男の当て読みである。]

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