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2019/01/17

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 自然の背後に隱れて居る

 

  自然の背後に隱れて居る

 

僕等が藪のかげを通つたとき

まつくらの地面におよいでゐる

およおよとする象像(かたち)をみた

僕等は月の影をみたのだ。

僕等が草叢をすぎたとき

さびしい葉ずれの隙間から鳴る

そわそわといふ小笛をきいた。

僕等は風の聲をみたのだ。

 

僕等はたよりない子供だから

僕等のあはれな感觸では

わづかな現はれた物しか見えはしない。

僕等は遙かの丘の向ふで

ひろびろとした自然に住んでる

かくれた萬象の密語をきき

見えない生き物の動作をかんじた。

 

僕等は電光の森かげから

夕闇のくる地平の方から

烟の淡じろい影のやうで

しだいにちかづく巨像をおぼえた

なにかの妖しい相貌(すがた)に見える

魔物の迫れる恐れをかんじた。

 

おとなの知らない希有(けう)の言葉で

自然は僕等をおびやかした

僕等は葦のやうにふるへながら

さびしい曠野に泣きさけんだ。

「お母ああさん! お母ああさん!」

 

[やぶちゃん注:「僕等は遙かの丘の向ふで」の「向ふ」はママ。萩原朔太郎の癖である。大正一一(一九二二)年二月号『婦人公論』初出。初出は総ルビで、

「象像(かたち)」が「形像(かたち)」

「僕等は月の影をみたのだ。」は句点がなく、さらに次が一行空けとなっている(都合、全篇は四連れはなく五連構成となっている

「密語」には「密語(さゝやき)」のルビがある(これは個人的には欲しいルビだった。「みつご」は響きが生硬で生理的に厭だ)

「夕闇のくる地平の方から」は「夕闇(ゆふやみ)のくる地方(ぢかた)の方(はう)から」とルビする高い確率で「方」は誤植であろうし、以前から繰り返し言っているようにこの時代の総ルビはまず校正者が勝手に附したものであるから「ぢかた」で真剣に考えるのは馬鹿馬鹿しい

「烟の淡じろい影のやうで」は「烟(けむり)の淡(うす)じろい影(かげ)のやうで」とルビする(近代文学では比較的普通にお目にかかるが、現代人が「うすじろい」をこう書くのは滅多に見ない。さればこそこれも個人的には向後は必ず欲しいルビである。「あはじろい」が変な読みだと感じなくなる日本人が私は怖ろしい)

「曠野」には「曠野(あらの)」のルビがある(これは私もこう読む。今までの日本人なら、圧倒的に「こうや」ではなく、「あらの」と読む。未来の日本人の読者は「あらの」と読めなくなる者が有意に増えるだろうが、それは語彙力の病的疾患と言わざるを得ない)

以外は、歴史的仮名遣の誤用と誤植を除けば、他には有意な違いはないと判断する。

 「定本靑猫」には再録されていない。

 私は個人的に、中学時代にこの詩篇を読んで以来、忘れられない一篇である。自然とはそういうものであり、我々はその「ささやき」を少しだけ聴き取るだけの「たよりない子供」である(否、自負のある大人にはその「ささやき」はもっと聴こえなくなる)。だから恐くなって叫ぶのだ! お母ああさん! お母ああさん!

 以上を以ってパート「意志と無明」は終わっている。]

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