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2019/02/17

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 不安

 

  不 安

 

人(ひと)は今(いま)地(ち)に俯(ふ)してためらひゆけり、

疎(うと)ましや、頸垂(うなだ)るる影(かげ)を、軟風(なよかぜ)

搔撫(かいな)づるひと吹(ふき)に、桑(くは)の葉(は)おもふ

蠶(かいこ)かと、人(ひと)は皆(みな)頭(かうべ)もたげぬ。

 

何處(いづこ)より風(かぜ)は落(お)つ、身(み)も戰(おのゝ)かれ、

我(われ)しらず面(おも)かへし空(そら)を仰(あふ)げば、

常(つね)に飢(う)ゑ、饜(あ)きがたき心(こゝろ)の惱(なや)み、

物(もの)の慾(よく)、重(おも)たげにひきまとひぬる。

 

地(ち)は荒(あ)れて、見(み)よ、ここに「饑饉(ききん)」の足穗(たりほ)、

うつぶせる「人(ひと)」を誰(た)が利鎌(とがま)の富(とみ)と

世(よ)の秋(あき)に刈(か)り入(い)るる、噫(ああ)、さもあれや、

畏(おそ)るるはそれならで天(あめ)のおとづれ。

 

たまさかに仰(あふ)ぎ見(み)る空(そら)の光(ひかり)の

樂(がく)の海(うみ)、浮(うか)ぶ日(ひ)の影(かげ)のまばゆさ、

戰(おのゝ)ける身はかくて信(しん)なき瞳(ひとみ)

射(い)ぬかれて、更(さら)にまた憧(あくが)れまどふ。

 

何處(いづこ)へか吹(ふ)きわたり去(い)にける風(かぜ)ぞ、

人(ひと)は皆(みな)いぶせくも面(おもて)を伏(ふ)せて、

盲(めし)ひたる魚(うを)かとぞ喘(あへ)げる中(なか)を

安(やす)からぬわが思(おもひ)、思(おもひ)を食(は)みぬ。

 

失(うしな)ひし翼(つばさ)をば何處(いづく)に得(う)べき、

あくがるる甲斐(かひ)もなきこの世(よ)のさだめ、

わが靈(たま)は痛(いた)ましき夢(ゆめ)になぐさむ、

わが靈(たま)は、あな、朽(く)つる肉(しゝむら)の香(か)に。

 

[やぶちゃん注:「蠶(かいこ)」及び「戰(おのゝ)かれ」と「戰(おのゝ)ける」のルビは孰れもママ。

 第一連の後半はやや判り難いが、「軟風(なよかぜ)」が「搔撫(かいな)づるひと吹(ふき)に」→「人(ひと)は皆(みな)頭(かうべ)もたげ」、それは「桑(くは)の葉(は)おもふ」「蠶(かいこ)」のようではない「かと」思う、という比喩である。後の「有明詩抄」では、この一連目を次のように改変している。

   *

人は今地(ち)に俯(ふ)してためらひ行けり。

鈍(おぞ)ましや、そよと吹く風の一吹(ひとふき)、

それにだに怯(おび)えつる蠶(かひこ)の如く、

人はひとむきに頭(かしら)擡(もた)げぬ。

   *

達意の表現になっていて意味としては腑に落ちるものの、シンボリックな自在に振り回すようなカメラ・ワークが、凡庸な定点カメラのリアリズムに変質してしまい、人(=「我」)の心の電気ショックのように感じ怯える感覚が、全く伝わって来ない。この一連だけでも全体が散文的にしか感知できなくなって瘦せ細っていることがお判り戴けるものと思う。これが有明の致命的な改悪癖の実態である。

 第三連は全体に意味がとり難いのであるが、要は、本詩篇が純粋に詩人の落魄(おちぶ)れた魂の心象風景であると割り切って見渡せば、腑に落ちる。そのために有明は「饑饉(ききん)」(=詩人独りの絶対の心の飢え)と「人(ひと)」(=孤独な詩人である自分)に鍵括弧を附したのである。「誰(た)が地(ち)は」誰のものでもない自分一人の孤独な「心」という土地の「荒」蕪であり、「饑饉」なのである。そうしたイマージュの中なれば、「飢饉」の畑に「足穗(たりほ)」が垂れていてよい。しかしその稲穂には実など一かけらもないのではないか――私の空ろな心のように――そんなにまで打ちひしがれて「うつぶせる」「人(ひと)」である惨めな「我」「を誰(た)」れが「利鎌(とがま)の富(とみ)と」呼ぶというのか? 私の精神の土地は不毛なのだ、「世(よ)の秋(あき)に刈(か)り入(い)るる」秋の稔りだって?! 「噫(ああ)、さもあれや」、それはそれ、私の心の土地の〈絶対の飢え〉とは無縁のことだ。そうさな、農夫の「畏(おそ)るる」の「は」、「それ」(魂の枯渇)ではなくて「天(あめ)のおとづれ」、二百十日の大雨と嵐の来襲か。私の心にもそれは来る、いや、もう来ている、と詩人は言うのではないか? だからこそ「わが靈(たま)は、あな、朽(く)つる肉(しゝむら)の香(か)に。」とコーダするのではないかと私は読む。大方の御叱正を俟つものではある。]

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 坂路

 

  坂 路

 

喘(あへ)ぎて上(のぼ)るなだら坂(ざか)――わが世(よ)の坂(さか)の中路(なかみち)や、

並樹(なみき)の落葉(おちば)熱(あつ)き日(ひ)に燒(や)けて乾(かは)きて、時(とき)ならで

痛(いた)み衰(おとろ)へ、たゆらかに梢(こずゑ)離(はな)れて散(ち)り敷(し)きぬ。

 

落葉(おちば)を見(み)れば、片焦(かたこ)げて鏽(さ)び赤(あか)らめるその面(おもて)、

端(はし)に殘(のこ)れる綠(みどり)にも蟲(むし)づき病(や)める瘡(きず)の痕(あと)、

黑斑(くろふ)歪(ひず)みて慘(いた)ましく鮮明(あざやか)にこそ捺(お)されたれ。

 

また折々(をりをり)は風(かぜ)の呼息(いき)、吹くとしもなく辻卷(つぢま)きて、

燒(や)け爛(たゞ)れたる路(みち)の砂(すな)、惱(なやみ)の骸(から)の葉(は)とともに、

燃(も)ゆる死滅(しめつ)の灰(はい)を揚(あ)ぐ、噫(あゝ)、わりなげの悲苦(ひく)の遊戲(ゆげ)。

 

一群每(ひとむらごと)に埃(ほこり)がち憩(いこ)ふに堪(た)へぬ惡草(あくさう)は

渴(かはき)をとめぬ鹽海(しほうみ)の水(みづ)にも似(に)たり。ひとむきに

心(こゝろ)焦(い)られて上(のぼ)りゆく路(みち)はなだらに盡(つ)きもせず。

 

夢(ゆめ)の萎(しな)への逸樂(いつらく)は、今(いま)、貴人(あてびと)の車(くるま)にぞ

搖(ゆ)られながらに眠(ねぶ)りゆく、その車(くるま)なる紋章(もんしやう)は

倦(うん)じ眩(くる)めくわが眼(め)にも由緖(よし)ありげなる謎(なぞ)の花(はな)。

 

身(み)も魂(たましひ)も頽(くづ)をれぬ、いでこのままに常闇(とこやみ)の

餌食(ゑじき)とならばなかなかに心安(こゝろやす)かるこの日(ひ)かな、

惱(なやみ)盡(つ)きせぬなだら坂(ざか)、路(みち)こそあらめ涯(はて)もなし。

 

2019/02/16

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 朱のまだら

 

  朱のまだら

 

日射(ひざ)しの

綠(みどり)ぞここちよき。

あやしや

並(な)みたち樹蔭路(こかげみち)。

 

よろこび

あふるる、それか、君(きみ)

彼方(かなた)を、

虛空(こくう)を夏(なつ)の雲(くも)。

 

あかしや

枝(えだ)さすひまびまを

まろがり

耀(かがや)く雲(くも)の色(いろ)。

 

君(きみ)、われ、

二人(ふたり)が樹蔭路(こかげみち)、

綠(みどり)の

匂(にほ)ひここちよき。

 

軟風(なよかぜ)

あふぎて、あかしやの

葉(は)は皆(みな)

たゆげに飜(ひるがへ)り、

 

さゆらぐ

日影(ひかげ)の朱(しゆ)の斑(まだら)、

ふとこそ

みだるれわが思(おもひ)。

 

君(きみ)はも

白帆(しらほ)の澪入(みをい)りや、

わが身(み)に

あだなる戀(こい)の杙(かし)。

 

軟風(なよかぜ)

あふぎて澪(みを)逸(そ)れぬ、

いづくへ

君(きみ)ゆく、あな、うたて。

 

思(おも)ひに

みだるる時(とき)の間(ま)を

夏雲(なつぐも)

重(おも)げに崩(くづ)れぬる

 

綠(みどり)か、

朱(しゆ)か、君(きみ)、あかしやの

樹(こ)かげに

あやしき胸(むね)の汚染(しみ)。

 

[やぶちゃん注:初出は『月刊スケッチ』明治三八(一九〇五)年八月号で、中央公論社「日本の詩歌」第二巻の解説によれば、本詩集「有明集」『所収の作品では、最初期のものに属する』とある。その解説では、先行する詩集「春鳥集」(明治三十八年七月本郷書院刊)の自序から以下を引く(恣意的に漢字を正字化した)。『時としては諸官能倦じ眠りて、ひとり千を癈墟に埋もれし古銅のごときを覺ゆることあり。あるいは〈朱を看て碧と成し〉て美を識(し)ることあり』。また、後の「有明詩集」大正一一(一九二二)年アルス刊)の自注の以下も引く。『アカシヤという植物を全く誰も注意しないが、なかなか好い風情のものである。明治何年ごろのことか、ゴムの木と違って、はじめて東京に輸入されてから、よく見附内などにごたごたと植えられてあった。それが何時(いつ)の間にか引き抜かれてしまった』。解説では最後に、比較文学者・英米文学者で北原白秋門下でもあった『島田謹二は白秋の詩篇「片恋」』の論考『の中で、東京の詩人有明がいち早くアカシヤを歌ったことが、木下杢太郎や白秋たちに、都会美の象徴としてこの木を採り上げさせるきっかけとなった、という(『近代比較文学』)』ともあった。

「あかしや」マメ目マメ科ネムノキ亜科アカシア属 Acacia に属するアカシア類。ウィキの「アカシアでは、『日本では関東以北では栽培が困難であるものが多い。比較的温暖な所で栽培されるもの』として七種を挙げているのでそちらを見られたい。

「白帆(しらほ)の澪入(みをい)りや、」では「澪」(河川や海で船が航行する水路・航路)に入るの意の熟語として採り、かく読みを附したが、次の連の「あふぎて澪(みを)逸(そ)れぬ、」では、二行後の「君(きみ)ゆく、あな、うたて。」の韻律と対になっており、熟語ではないので、かく分けて読みを振った。]

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(21) 「川牛」(4)

 

《原文》

川牛   淵ハ兎ニ角ニ怖シキ處ナリ。アノ紺靑ノ水ノ底ニハ動物學ノ光モ未ダ透徹シ得ザルガ如ク、此外ニモ非常ナル物之ニ住ムト云ヘリ。【犀】例ヘバ信濃ノ犀川ニハ犀ト云フ獸住ム。東筑摩郡片丘村牛伏寺(ゴフクジ)ノ古傳ニハ、此邊古クハ水湛ヘテ大ナル湖ナリシニ、神人犀ニ乘リテ下降シ、巖石ヲ切開キテ今ノ流ト爲シタリト云ヒ〔日本宗教風俗志〕、【蹴裂】或ハ又泉小太郞犀ニ乘リテ三淸路(サンセイヂ)ノ岩ヲ突破リ、又水内橋(ミノチバシ)ノ下ノ岩ヲモ蹴破リテ水ヲ千曲川ニ落シテ平地ヲ造ル。其犀ヲバ犀口ト云フ處ニ祀ルトモ語リ傳ヘタリ〔信濃奇勝錄〕。近江ニテハ今ノ愛知郡葉枝見(ハエミ)村大字新海ノ川尻ニ、昔ハ深キ淵アリテ犀龍住メリ。弘安中黑井覺海ナル者此地ニ來リテ件ノ犀龍ヲ亡シ、淵ヲ埋メテ田地ト爲シ新開村ト號シ、己モ新開氏ヲ稱セリ。【道ノ神】同ジク東淺井郡虎姫(トラゴゼ)村大字大寺、正八幡ノ境内ニ昔ヨリ犀ケ窪ト云フ處アリ。今ハ田地ノ字トナル。曾テハ此地大ナル淵ニシテ老犀住ミテ往來ノ人ヲ惱マス。淺井備前守ノ家士ニ入海彦之庄司ト云フ者、彼ノ犀ヲ捕ヘテ既ニ之ヲ殺サントス。犀誓ヒテ此地ヲ去ルトアレバ、此亦謝罪ヲ以テ助命ヲ得タルナルべシ。彦根町長光寺裏ノ外濠ヲ犀ケ淵ト云フ。【盡キヌ泉】水湧キ出デ大旱ニモユルコトナシ。北靑柳村大字長曾根等ノ堰水ト爲ス〔以上淡海木間攫〕。遠江濱松ノ北方ニモ、犀ト云フ獸ノ出デタルニ困ツテ犀ケ崖ト呼ブ處アリ。三方原南端ノ壁ニシテ樹木ニ隱レテ下ヲ流ルヽ水アリ。元龜ノ有名ナル古戰場ナリ〔遠江風土記傳〕。東京ニテハ早稻田ノ西北ニ亦一箇ノ犀ケ淵アリテ、現ニ百年バカリ前マデ、時々「サイ」ノ出現セシコトアリ。高田ノ面影橋ノーツ上流ニシテ但馬橋ノ下ナリ〔十方菴遊歷雜記三編中〕。今ハ附近ニ下宿屋ナド出來タレド、ツイ先頃マデハ物凄キ魔所ナリキ。薄暮ニ水中ヨリ半身ヲ顯ハスヲ遠ク望ミ見タル者アリト稱シ、或ハ幅三間バカリノ小川ナレバ獸トシテハ調子ガ合ハヌヨリ、「サイ」ト稱スル惡魚ナドトモ記載シタル者アリ。日本ニハ犀ハ居ラヌ筈ナリ。【水牛】犀ハ山野ニ住ム獸ナレドモ、別ニ水犀ト稱シテ三本ノ角アル者ハ水牛ニ似タリト支那ノ書ニ見ユル由、朝鮮ニテハ犀ヲ誤ツテ水牛ノコトヽ解スル者アリト云ヘリ〔雅言覺非三〕。日本ニテモ或ハ亦此誤訓ヲ傳ヘタルモノカ。但シ臺灣ノ外ニハ今ハ犀ト誤ルべキ水牛モ存在セザレバヨホド不思議ナリ。【道祖土】蓋シ「サヘ」又ハ「サヘト」ハ、往古境ノ神ヲ祭リシ畏ロシキ場處ノコトナレバ、或ハ此ガ爲ニ「サイ」ト云フ怖ルべキ一物ヲ作リ出シ、之ヲ處々ノ碧潭ニ住マシムルニ至リシヤモ亦測ルべカラズ。

 

《訓読》

川牛(かはうし)   淵は兎に角に怖しき處なり。あの紺靑(こんじやう)の水の底には動物學の光も未だ透徹(とうてつ)し得ざるがごとく、此の外にも非常なる物、之(ここ)に住む、と云へり。【犀】例へば、信濃の犀川には「犀」と云ふ獸(けもの)、住む。東筑摩郡片丘村牛伏寺(ごふくじ)の古傳には、此の邊り、古くは水湛(たた)へて大なる湖なりしに、神人(しんじん)、犀に乘りて下降(げかう)し、巖石を切り開きて、今の流れと爲したりと云ひ〔「日本宗教風俗志」〕、【蹴裂】或いは又、泉小太郞、犀に乘りて三淸路(さんせいぢ)の岩を突き破り、又、水内橋(みのちばし)の下の岩をも蹴破りて、水を千曲川に落して、平地を造る。其の犀をば犀口と云ふ處に祀るとも語り傳へたり〔「信濃奇勝錄」〕。近江にては、今の愛知(えち)郡葉枝見(はえみ)村大字新海(しんがい)の川尻に、昔は深き淵ありて、「犀龍」、住めり。弘安中[やぶちゃん注:一二七八年~一二八七年。]、黑井覺海なる者、此の地に來りて件(くだん)の犀龍を亡ぼし、淵を埋(うづ)めて田地と爲し、新開村と號し、己(おのれ)も新開氏を稱せり。【道の神】同じく東淺井(ひがしあざい)郡虎姫(とらごぜ)村大字大寺、正八幡(しやうはちまん)の境内に昔より犀ケ窪(さいがくぼ)と云ふ處あり。今は田地の字(あざ)となる。曾つては此の地、大なる淵にして、「老犀」住みて、往來の人を惱ます。淺井(あざい)備前守の家士に入海彦之庄司と云ふ者、彼(か)の犀を捕へて、既に、之れを殺さんとす。犀、誓ひて、「此の地を去る」とあれば、此れ亦、謝罪を以つて助命を得たるなるべし。彦根町長光寺裏の外濠(そとぼり)を犀ケ淵(さいがふち)と云ふ。【盡きぬ泉】水、湧き出いで、大旱(おほひでり)にもゆることなし。北靑柳村大字長曾根等の堰水(せきみづ)[やぶちゃん注:人為的に水を堰き止めて灌漑用の水とすること。]と爲す〔以上、「淡海木間攫(あふみこまざらへ)」〕。遠江濱松の北方にも、「犀」と云ふ獸の出でたるに困つて犀ケ崖(さいががけ)と呼ぶ處あり。三方原(みかたはら)南端の壁にして樹木に隱れて下を流るゝ水あり。元龜[やぶちゃん注:一五七〇年~一五七三年。]の有名なる古戰場なり〔「遠江風土記傳」〕。東京にては、早稻田の西北に亦、一箇の犀ケ淵ありて、現に百年ばかり前まで、時々、「サイ」の出現せしことあり。高田の面影橋のーつ上流にして、但馬橋の下なり〔「十方菴遊歷雜記」三編中〕。今は附近に下宿屋など出來たれど、つい先頃までは、物凄き魔所なりき。薄暮に、水中より半身を顯はすを、遠く望み見たる者ありと稱し、或いは、幅三間[やぶちゃん注:約五メートル四十五センチメートル。]ばかりの小川なれば、獸としては調子が合はぬより、「サイ」と稱する惡魚などとも記載したる者あり。日本には犀は居らぬ筈なり。【水牛】犀は山野に住む獸なれども、別に「水犀(すいさい)」と稱して、三本の角ある者は水牛に似たりと、支那の書に見ゆる由、朝鮮にては犀を誤つて水牛のことゝ解する者ありと云へり〔「雅言覺非」三〕。日本にても、或いは亦、此の誤訓を傳へたるものか。但し、臺灣の外には、今は犀と誤るべき水牛も存在せざれば、よほど不思議なり。【道祖土(だうそど)】蓋し、「さへ」又は「さへと」は、往古、境(さかひ)の神を祭りし畏ろしき場處のことなれば、或いは此れが爲に「サイ」と云ふ怖るべき一物(いちもつ)を作り出し、之れを處々の碧潭(へきたん)に住ましむるに至りしやも、亦、測るべからず。

[やぶちゃん注:「信濃の犀川」長野県内を流れる信濃川水系の一級河川。これ(グーグル・マップ・データ)。一般に、松本市島内で奈良井川と合流して以降の、下流部から長野市での千曲川との合流部までを指し、上流部(上高地に至る)は「梓川(あずさがわ)」と呼ばれる。

『「犀」と云ふ獸(けもの)』残念ながら、具体的な形状を記したものが殆んど見当たらない。引用元の「日本宗教風俗志」(加藤咄堂(とつどう 明治三(一八七〇)年~昭和二四(一九四九)年:仏教学者で作家)著で明三五(一九〇二)年森江書店刊)の当該部は(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)。ここの関連叙述や寺の由来(次注参照)からは牛に似ている妖獣という感じは臭ってはくるが、以下の説話では、俄然、龍である

「東筑摩郡片丘村牛伏寺(ごふくじ)」現在の松本市大字内田のに現存(グーグル・マップ・データ)する。真言宗の古刹で、金峯山(きんぽうさん)牛伏寺(ごふくじ:「うしぶせ寺」とも呼ぶ)。同寺公式サイトのこちらによれば、『信州松本の南東、鉢伏山の中腹、海抜千メートルの幽谷の地に位置し』、『寺号は、その昔、本尊十一面観世音菩薩の霊力により経典を積んだ二頭の牛が、この地で同時に倒れたことに由来』するとある。以下、「牛伏寺縁起物語」より引く。『寺伝によると、天平勝宝七』(七五六)年、『唐の玄宗皇帝が善光寺へ大般若経六百巻を納経の途中、経巻を積んだ赤・黒二頭の牛が、この地で同時に斃れ、その使者たちが本尊十一面観世音菩薩の霊力を知り、その経巻を当山に納め、二頭の霊を祀って帰京し』たと伝え、『この不思議な因縁により』、『寺号を牛伏寺と改め、参道途中の牛堂に阿弥陀仏を中心に、赤黒二頭の牛像を』祀るとする。『古来より』、『牛伏厄除観音と称し、厄除霊場として県内外に知られ、また、信濃三十三番中第二十七番札所となっており、法燈壱千三百年を今日に継承』しているとある。一方、ウィキの「牛伏寺には別に、『寺伝では聖徳太子が』四十二『歳の時』、『自ら刻んだ観音像を本尊として鉢伏山に安置したのが始まりという』とあり、また、『以上はあくまでも伝承であって、牛伏寺創建の時期や事情については確たる史料がなく、鎌倉時代以前の沿革は定かでない。牛伏寺が位置する鉢伏山の山頂には』、『牛伏権現と称して蔵王権現を祀っており、元来、山岳修行、修験道の山だったと思われる。寺はもとは裏山に位置し、現在地に移ったのは』天文三(一五三四)年のことと記す。公式サイトがそれや、以下の「此の邊り、古くは水湛(たた)へて大なる湖なりしに、神人(しんじん)』(不詳。但し、次注に引用する童話との親和性が強い)、『犀に乘りて下降(げかう)し、巖石を切り開きて、今の流れと爲したり」という伝承を記さないのは、やや不審ではある。現在の犀川からは南東に十二キロメートル近く離れているが、その伝承に拠るなら、その間に大きな湖(次注の童話引用も参照のこと)があったとなら、頷けることは頷ける。しかし、加藤咄堂の叙述には誤魔化があり、ここは犀川(その上流の梓川)から東へ分岐した奈良井川及び田川の上流から東へずれた位置で、彼の犀川の上流にこの牛伏寺があるというのは、地理的に正しくない。

「泉小太郞、犀に乘りて三淸路(さんせいぢ)の岩を突き破り、又、水内橋(みのちばし)の下の岩をも蹴破りて、水を千曲川に落して、平地を造る。其の犀をば犀口と云ふ處に祀る」こちらの『伝説「犀龍と泉小太郎」のあらすじ』によれば、『昔、安曇野から松本平にかけては、まんまんと水をたたえた湖であった。そこの主の犀龍と山向こうの池の白龍王との間に生まれた日光泉小太郎は、湖のほとりに住む老夫婦に人間の子として育てられた。小太郎は、湖の水をなくして豊かな郷土をつくりたいと願っていた。その後、ここ、ダムの地尾入沢で再び逢った親子は心が通じ合い、犀龍は背中に小太郎を乗せ、山清路の岩盤を打ち破って湖の水を日本海へ落とし、この地を豊かな平野にした。小太郎は年老いてこの平が一望できる仏崎の洞穴へかくれ、今も里人をあたたかく見守っているということです』とある。同リンク先には詳しい童話がこちらから四回に渡って記されてあるので読まれたいが、そこには、大きな湖について、『安曇平(あずみだいら)は、高い山から落ちる水がたくさん集まって、まるで海のような、大きな大きな湖で』、『北は佐野坂(さのさか)から、南は塩尻(しおじり)まで、十何里』もある巨大なものであったとあり、そこに『犀竜(さいりゅう)という主の女神様が、水の底深くに住んでいました』とし、『また、はるか高井(たかい)のむこうの高梨(たかなし)の池には、白竜王(はくりゅうおう)という、同じように竜の姿をして、口に立派なひげをはやした神様が住んでいました』。『この二人の神様が雲を呼んで行ったり来たりしているうちに、いつしか一人の男の子をもうけました』。『男の子は、きれいな泉のほとりで生まれたので、泉の小太郎(こたろう)と名付けられ、ぜひ人間の子として育てたいという白竜王の願いで、放光寺山(ほうこうじさん)に住む正直者のおじいさんとおばあさんにあずけられました』とあって、犀龍とは龍の姿をした女神であるとする。そのコーダ部分では、『自分を育ててくれた大切なおじいさんとおばあさんをなくしてしまった小太郎』『の悲しみを知った犀竜』『は、自分勝手な考えで、ひどいことをしてしまった』(彼らの糧であった魚を獲れなくしてしまったことが前に記される)『私をゆるしておくれとわびると、「お前はやっぱり人間の子。おじいさんの言いつけどおり世のため、人のために生きておくれ。わたしも力になります」と、小太郎を自分の背に乗せて、天高く舞い上がりました』。『そして、湖をつっきり、屏風のような山清路(さんせいじ)』(本文と表記違い)『の巨岩をぶちやぶり、白竜王(はくりゅうおう)と一緒に次々と山をくずし、越後(えちご)のむこうまで川道を作りました。湖の水は、海にむかってながれこみ、ついに底があらわれ、ここに広い安曇平(あずみだいら)が生まれました』。『湖がなくなり、すむ場所がなくなった犀竜(さいりゅう)と白竜(はくりゅう)は、残った力をみんな小太郎(こたろう)にさずけ、「わたしたちはいつまでもお前とこの土地の人々を守っていますよ」と言い残し、松本平(まつもとだいら)をひとめで見わたせる仏崎(ほとけざき)の岩穴に姿を消してしまいました』。『山をもくずす力をもらった小太郎(こたろう)は、有明山(ありあけやま)のふもとに家をつくり、湖の底を平らにならして、田んぼをつくりました。それ以来、安曇野(あずみの)の里ではたくさんのお米がとれるようになり、村人は犀竜と小太郎(こたろう)のおかげで豊かな土地になったことを喜び、小太郎(こたろう)もいつまでも幸せにくらしました』という豊饒起源説話となっている優れた伝承である。是非、全篇を読まれたい。因みに、もうお分かりであろうが、松谷みよ子の昭和三五(一九六〇)年作の「龍の子太郎(たつのこたろう)」は、この信州・上田に伝わる民話「小泉小太郎」と安曇野に伝わる民話「泉小太郎」を中心に、秋田の民話など日本各地に伝わる民話を組み合わせて再話したものである(ウィキの「龍の子太郎」を参照されたい)。

「信濃奇勝錄」(井出道貞・井出通(とおる)著。明二〇(一八八七)年刊)の当該箇所はここ(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)。

「愛知(えち)郡葉枝見(はえみ)村大字新海(しんがい)」現在の滋賀県彦根市新海浜(しんがいはま)(グーグル・マップ・データ)。「新海浜自治会」公式サイト内のこちらの「新海<しんがい>の名前の由来」によれば、『愛知川(えちがわ)の川口右岸にあり、西は琵琶湖に面した平たんな地。集落は浜堤上にある。新開村とも書く。村名は、新たに開いた村という意味。愛知川の河尻に深淵があって竜が住んでいた。弘安年中、黒井氏覚懐』(本文と表記違い)『という人物がこの竜を滅ぼし淵を埋めて田地を開き、新開村と名付け、また自らも新開氏と称したという地名伝説があ』るとある。

「新開氏を稱せり」但し、サイト「戦国大名探究」の「新開氏」によれば、『新開氏の祖先は、天武・持統朝以後、辺地の開発のために移住させられた新羅系渡来氏族の秦氏だという。秦氏は農・工技術集団として信濃に入り、佐久・更級・東筑摩地方に広がり、地方豪族として成長したものと考えられている。そして、その一派が武蔵国の新戒(榛沢郷大寄郷)に移住し』、『開発領主になったのは、平安末期のころと思われる』とある。

「東淺井(ひがしあざい)郡虎姫(とらごぜ)村大字大寺、正八幡」現在の滋賀県長浜市五村(ごそん)附近がこの地名に当たる(グーグル・マップ・データ。以下、同じ。「虎姫」はJR西日本北陸本線の駅「虎姫駅(とらひめえき)」として滋賀県長浜市大寺町細田に残る)が、この周辺には「八幡神社」を呼称する現存神社が多数あり、限定比定は難しい。「境内に昔より犀ケ窪と云ふ處あり。今は田地の字(あざ)となる」というのがヒントであるが、ネットでは網に掛かってこない。現地の郷土史研究家の御教授を切に乞うものである。

「淺井(あざい)備前守」かの北近江の戦国武将浅井長政(天文一四(一五四五)年~天正元(一五七三)年)。

「入海彦之庄司」読みさえも不詳。ネット検索にも掛からないのでお手上げ。「入海」姓は「いるみ」・「にゅうかい」・「いりうみ」等の読み方がある。柳田はルビを振っていないし、「ちくま文庫」版全集も振らないから、取り敢えず、「いりうみのひこのしょうじ」(現代仮名遣)と読んでおく。

「彦根町長光寺裏」現在の滋賀県彦根市錦町にある真言宗薬王山長光寺。伊賀忍者所縁の寺で、開山は能賢。井伊家老臣で駿河武士の名門の出であった三浦與右衛門元貞の勧めにより、元和二(一六一六)年十月に薬師如来を奉じて、二間口七間の薬師堂を建立したのを創建とする。フェイスブックの「薬王山長光寺」の公式ページによれば(当然ながら、リンク先は Facebook に入っていないと見られない)、『二世玄英の時、薬師堂が善利川の洪水で大破したため、寛永三年に二代城主井伊直孝の命により、元彦根山上の觀音堂を移し、薬師堂を改築、四世玄雄の時、寺を医王寺と改め、六世玄廣に至り、長光寺と改稱し』たとある。『三浦與右衛門元貞(彦根藩老臣三浦内膳家先祖)は、徳川家康の戦忍びとして、伊賀組(伊賀十人組、伊賀忍者隊)の元締めとなり』、『戦場を駆け抜けた忍術上手として知られており、最後は井伊家で』三千五百『石の知行を得て』おり、『元貞は、井伊家の初代直政がたいへん可愛がった重臣で』、もとは『与三郎元貞と』称して、『今川義元に仕えてい』た『が、義元が桶狭間の一戦で織田信長に敗れてのち、徳川家康に召し抱えられ』たとある。天正一〇(一五八二)年、『家康は、配下に掌握した伊賀衆の内、井伊直政付属分と足軽』二十『人組の支配を元貞に命じ』、翌天正十一年十一月には、『甲州若子原の戦功が認められ、家康は元貞を井伊直政に与え』『た。以降、元貞は身命を惜しまずに直政に忠勤を励み、長久手、小田原、九戸、関ケ原、大阪夏の陣に参戦して活躍し』たとある。忍者所縁の寺なればこそ、「外濠(そとぼり)」があるのが腑に落ちたと思ったら、地図を拡大して見ると、境内の西北と東北部分に水路が現存することが判り、更に、境内の南西の外の直近に彦根城土塁跡なるものがあるので、これは彦根城自体の外堀であったのであろう

「北靑柳村大字長曾根等」現在の琵琶湖東岸にある滋賀県彦根市長曽根町。長光寺の南西一キロメートル強の位置にある。

『遠江濱松の北方にも、「犀」と云ふ獸の出でたるに困つて犀ケ崖と呼ぶ處あり。三方原(みかたはら)南端の壁にして樹木に隱れて下を流るゝ水あり。元龜の有名なる古戰場なり』最後の部分は「三方ヶ原の戦い」を指す。「浜松市」公式サイト内のこちらに、『犀ヶ崖は浜松城の北側およそ』一キロメートルの位置『にある断崖。三方ヶ原古戦場として』昭和一四(一九三九)年『に、静岡県の史跡に指定されて』おり、『現在は長さおよそ』百十六メートル、『幅およそ』二十九〜三十四メートル、『深さおよそ』十三メートルとある。但し、「三方ヶ原の戦い」当時のスケールは、『はっきり』とは『分か』らないとする。元亀三年十二月二十二日(一五七三年二月四日)の「三方ヶ原の戦い」で『武田信玄に大敗した徳川家康は命からがら浜松城に逃げ込』んだが、『家康は、攻め返すように見せかけて、なんとか武田軍の城攻めを免れ』た。『その夜、家康はどうにか一矢を報いようと犀ヶ崖近くで野営する武田軍を急襲』、『地理に詳しくない武田軍は混乱し、崖に転落して多くの死者を出したという物語として知られてい』るという。また、『遠州大念仏はこの戦没者の供養のためとされてい』るともある。

『東京にては、早稻田の西北に亦、一箇の犀ケ淵ありて、現に百年ばかり前まで、時々、「サイ」の出現せしことあり。高田の面影橋のーつ上流にして、但馬橋の下なり〔「十方菴遊歷雜記」三編中〕』国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで発見した。「十方庵遊歴雑記三編」(十方庵敬順(じっぽうあんけいじゅん 宝暦一二(一七六二)年~天保三(一八三二)年:小日向水道端(現在の文京区小日向一丁目)のる浄土真宗本法寺の地中にある廓然寺の四代目住職。本書は隠居後の約十八年間を費やして廻った江戸市中や東海方面の紀行文。全五編)の卷の中」の第「六拾四」の「拾遺高田の十景」の三条目で、なかなか興味深い。何故なら、ここではその『もの凄』き『惡魚』の様態がつぶさに語られているからである。目撃したのは神田川のこの橋附近に釣に来た楽山翁なる人物とその家族で、日時は文化一一(一八一四)年の夏であった(読点・記号を追加し、読みは私が勝手に振った(カタカナのそれは原本のルビ)。踊り字「〲」は「々」に代えた。必ず、原本を確認されたい)。

   *

一、 「犀が淵の月光」といふは、田島橋の下にして、此淵に惡魚住(すみ)て、今も猶(なほ)もの凄し、左(さ)はいへ、逆流(ぎやくりふ)[やぶちゃん注:「げきりふ」と読んで「激流」の意ではあるまいかと疑ったが、或いは、蛇行する川を「逆流」ととったものかも知れぬ。当時の神田川がこの辺りで蛇行していたことは後の注と引用を参照されたい。]に目明(めあきらか)の胗朧[やぶちゃん注:これは恐らく「朎朧(れいろう)」の誤りであろう。月の光で明るく照らされること。]たる風色、又、一品たり、去(いに)し文化十一年甲戌(きのえいぬ)の夏、楽山翁は、家族六、七輩を同道し、此(この)川筋に釣せんとして不圖(ふと)爰(ここ)に來(きた)り、川端に彳(たたずみ)して逆流の一際(ひときは)すさまじく渦(うづ)まくよ、と見えしが、忽然として、水中より、怪獸、あらはれたり、その容體、年經し古猫(ふるねこ)に似て、大(おほき)さ、犬に等しく、惣身(そうみ)白毛(しろげ)の中に赤き處ありて、班に[やぶちゃん注:「斑(はだら)に」(まだらに)の誤記か?]、兩眼、大きく、尤(もつとも)丸(まる)し、口、大きなる事、耳と思ふあたりまで裂(さけ)、口をひらき、紅(うれなゐ)の舌を出(いだ)し、兩手を頭上へかざし、怒氣、顏面にあらはれ、人々に向ひて白眼(ニラミ)し樣なり。水中と間と、隔(へだつ)といへども、その間、纔(わづか)、三間[やぶちゃん注:約五メートル四十五センチメートル。]餘(あまり)、頭上、毛髮永く[やぶちゃん注:ママ。]垂下(たれさが)りて目を蔽ひ、腹と覺しきあたり迄、半身w水上へ出(いだ)し、しばらく、彼(かの)人々を見詰(みつめ)、にらみしかば、思ひもふけず[やぶちゃん注:「意想外に」の意でとっておく。]、恐怖せし事、いふべからず。耳はありや、なしや、毛髮、垂覆(たれおほ)ひし故、見へ[やぶちゃん注:ママ。]ざりしが、頓(やが)て、水中へ身を隱し失せたりしと、若(もし)此時、樂山翁のみならば、件(くだん)の妖怪、飛(とび)かゝりやせんと彌(いよいよ)恐怖し、宿所へ歸りて、件の怪物を見しまゝ𤲿(ゑが)きとゞめ、文をも作り、詩を賦して、筥(はこ)に收めたり、蓋(けだし)、彼(かの)怪獸の容體を𤲿きし樣は、獺(カワウソ)の功(カウ)[やぶちゃん注:漢字はママ。「劫」が正しく、歴史的仮名遣は「コウ」である。]を經しものか、又、世に傳ふ川童(カツパ)などといふものにや、𤲿(ゑ)にて見るさへ、身の毛彌(いよいよ)立(たつ)ばかりぞかし、况や、思はず眞(まこと)怪物にあひたる人をや、珍といふべし、然るに、岡田多膳老人は如是(によぜ)と稱して佛學を好めり、性(しやう)として、斯(かか)る怪談を好(このめ)るが、物好(ものずき)にも、心づよく、彼(かの)怪獸を見屆(みとどけ)んと兩度まで獨行(どくかう)し、彼處(かしこ)の川端に躊躇(ちうちよ)せしかど[やぶちゃん注:この場合は「待機していたけれども」の意。]、出遇(であは)ざりしと咄(はな)されき、是(これ)によつて、土人、惡魚栖(すめ)りと巷談(かうだん)す[やぶちゃん注:噂話をするようになってしまった。]、しかれども、月光の晴明(せいめい)にして雅景なるは一品なるものおや[やぶちゃん注:ママ。]、

   *

この「但馬橋」は現在の高田馬場駅の南西直近の神田川に架かる田島橋の前身。ChinchikoPapa氏のブログ「落合道人 Ochiai-Dojin」の「落合の歴史を見つめる田島橋」に当時のこの橋の附近の様子が細かに語られてあるので、必見。それによれば、『田島橋から上流の落合土橋にかけては、江戸時代に「落合蛍」の名所として有名だった』とあり、『いまからは想像もつかない、清冽な上水(水道水)が開渠のまま流れる田島橋界隈は、そこかしこで蛍川が観られたのだろう。雑司ヶ谷の金子直德が編集した』、「富士見茶屋抄」『という句集が残って』おり、『その中に、田島橋はこう詠まれている』として、

     田島橋の鶴

  田鶴(たづ)啼(なく)や尾花にわたる浪の色

  かげろうにねぶりこけるな橋の田鶴

が掲げられている。則ち、ツルがやってきてもいたのである! 以下、『神田上水の両岸に拡がる一面の田圃で、鶴が舞っていた田島橋は』、今はアブラコウモリ(脊索動物門脊椎動物亜門哺乳綱獣亜綱真獣下綱ローラシア獣上目 Laurasiatheria 翼手(コウモリ)目小翼手(コウモリ)亜目ヒナコウモリ上科ヒナコウモリ科 Vespertilioninae 亜科 Pipistrellini 族アブラコウモリ属アブラコウモリ亜属アブラコウモリ Pipistrellus abramus:日本に棲息する中で唯一の住家性コウモリで、最も身近なコウモリである)『の格好の営巣地となっている』とある。因みに、先の注を終わった直後に発見したのだが(残念! 視認電子化が大幅に短縮出来たのに)、ChinchikoPapa 氏は同ブログの「下落合の犀ヶ淵にひそむUMAの謎」で「十方庵遊歴雑記」のそれを引用(但し、一部、判読を誤っておられるようだ)され、詳細な検証を行っておられた。江戸時代の地図も示されて、淵の位置をさえ、ある程度、限定されておられ、』『少なくとも』、『犀ヶ淵は田島橋の下流域に存在したことになる。位置的には、田島橋から下流へ神田上水が大きく北へとカーブを描く、どこかの』「淵」『ということになるのだろう』。『川の流れが急激なカーブを描くと、水流が岸辺に突き当たって乱れ、場所によっては渦を巻く危険な流れができることは知られている。江戸期の田島橋の位置をみると、まるでバイオリズムの波形のように湾曲を繰り返す神田上水(旧・平川』:『ピラ川=崖川)の、ちょうど波底のような位置にあった。現在の田島橋は、昭和初期にスタートした旧・神田上水の整流化工事により、上流・下流ともに直線状になっているが、江戸期には大きく蛇行を繰り返す上水道専用の河川だった』。『田島橋の少し上流には』、『水車小屋があり、この水車は昭和初期まで製粉工場として機能していた。この水車をすぎるあたりから、神田上水は大きく南へと湾曲し、田島橋のある波形の』「波底」『へと激突する。そして、今度は北へと急激に蛇行し、旧・高田馬場仮駅』『のあった西側あたりで再びカーブを描いて、清水川方面へと南下している。つまり、田島橋は蛇行する神田川の大きなふたつの波形の』「波底」『に位置していることになる。そう考えると、流れに危険な渦巻きができるのは、田島橋をすぎて次のカーブへとさしかかるあたり、昔の地番でいえば』、『田島橋のすぐ下流の下落合』六十七『番地、あるいは下落合』三十六『番地あたりの流域ということになるだろうか』。――『犀ヶ淵は、「サイ」という怪獣が住むから怖いところだ』――『という伝承は』――『この流域は流れが複雑で危険な場所だから近寄るな』――『という、江戸期以前からの教訓から生まれたフォークロアであり、代々の地名ではなかったか。「サイ」(サイェ:saye)は、原日本語(アイヌ語に継承)で「巻・渦」の意味そのものだ。つまり、流れが渦巻く「サイ」の場所だから気をつけろという教訓が、後世に伝説の霊獣「犀」と結びついて付会伝説が生まれた』――『そんな気が強くするのだ』。『しかし、それではバンザイする化けネコ』『のような生物は、はたしてなんだったのだろう? 枝つきの腐った流木が、渦に巻きこまれて直立し』、『怪獣サイに見えたのだろうか。それとも、田島橋から誤って落ちた大きな白ネコが身体を岩にぶつけて出血し、それが「助けてニャ!」と前脚をあげて水中でもがいていた』……『とでもいうのだろうか? それにしては、耳が見えずに長髪だったのが解せないのだが』……。『楽山翁が描いたという怪獣サイの絵は、いまどこにあるのだろう』と記しておられる。アイヌ語にまで及ぶ智のドライヴが素晴らしい。ただ、ここらで言っておきたいのだが、柳田國男の言い方は、この但馬橋の近くの「犀ケ淵」に出現したものが「サイ」「犀」と呼ばれた、と断言しているのであるが、少なくとも、十方庵敬順は、それを「犀」・「サイ」という化け物だ、とは実は一言も言っていないのである。確かに、「十方庵遊歴雑記」のエンディング部分は流言飛語となって、淵の名をとってそう呼ばれていたかも知れぬが、しかし正確さこそは考証の一大事だ。柳田に騙されてはいけない。そもそもが、ここで十方庵敬順は「河童」の名さえ出しているのである。何故、柳田はここでこの貴重な怪物の容姿描写を含め、こんなにオイシイ話の引用を異様なまでに端折ってしまったのか? 柳田は或いは、十方庵の考証に嫉妬したのではなかろうか? とさえ思えてくるのである。閑話休題。ここに出現した怪物の正体は何か? 私は、

哺乳綱食肉(ネコ)目イヌ亜目鰭脚下目アシカ科アシカ亜科アシカ属ニホンアシカ Zalophus japonicus

ではないかと認識している。因みに、同種はごく最近に絶滅したとされる。他に、

鰭脚下目アザラシ科 Phocidae のアザラシ類

や、

鰭脚下目アシカ科オットセイ亜科 Arctocephalinae のオットセイ類

であってもよい。

「小川」先の引用から、柳田國男のこの茶化した言い方は全く見当外れであることが判明してしまう。柳田らしからぬ、読者へのリップ・サーヴィスなんぞするから、こんな墓穴を掘るのだ。

「日本には犀は居らぬ筈なり」脊椎動物亜門哺乳綱奇蹄目有角亜目 Rhinocerotoidea 上科サイ科 Rhinocerotidae のサイ類。現生種は五種で、アフリカ大陸の東部と南部(シロサイ属シロサイ Ceratotherium simum・クロサイ属クロサイ Diceros bicornis)、インド北部からネパール南部(インドサイ属インドサイ Rhinoceros unicornis)、マレーシアとインドネシアの限られた地域(インドサイ属ジャワサイ Rhinoceros sondaicus・スマトラサイ属スマトラサイ Dicerorhinus sumatrensis)に分布している。

『「水犀(すいさい)」と稱して、三本の角ある者は水牛に似たりと、支那の書に見ゆる由、朝鮮にては犀を誤つて水牛のことゝ解する者ありと云へり』ウィキの「サイ」の「文化への影響によれば、「國語」の「越語 上」に、『今、夫差、衣水犀之甲者億有三千』とあるのに対して韋昭が附した注に、『犀形似豕而大。今徼外所送』、『有山犀、水犀』とあるとする(注部分から引用)。本文では、『日本や中国』『では、水犀(みずさい)と呼ばれる動物が絵画などに見られる。頭には角、背中に甲羅、足には蹄を持つとされる』(但し、ここには要出典要請がかけられている)。『平安末期の国宝』「鳥獣人物戯画」の『乙巻には、虎・象・獅子・麒麟・竜といった海外の動物や架空の動物とともに』、『水犀が描かれている。江戸末期の北斎漫画にも』、『水犀が描かれている。世界遺産』『日光東照宮の拝殿東面、妻虹梁下にも水犀(通天犀とも)が彫刻されている』とある。明の李時珍の偉大な本草書「本草綱目」の「獸之二」「犀」の「集解」には、

   *

時珍曰、犀出西番・南番・滇南・交州諸處。有山犀・水犀・兕犀三種、又有毛犀似之。山犀居山林、人多得之。水犀出入水中、最爲難得。並有二角、鼻角長而額角短。水犀皮有珠甲、而山犀無之。

   *

と出る。

「臺灣の外には」本書が刊行された大正三(一九一四)年時点では、台湾は日本領であった。一八九五年(明治二十八年)に日清戦争の結果として下関条約が締結されると、台湾島・澎湖諸島は清から日本に割譲されて台湾総督府が統治する日本領台湾となっていた。太平洋戦争で敗北した日本が「サンフランシスコ講和条約」及び「日華平和条約」締結によって、台湾の権利・権限・請求権を正式に放棄するまでそれは続いたのである。

「犀と誤るべき水牛」ウシ目ウシ亜目ウシ科ウシ亜科アジアスイギュウ属スイギュウ Bubalus arneeウィキの「スイギュウによれば、インド・タイ・ネパール・バングラデシュ・ミャンマーに自然分布』し、『家畜と交雑したと考えられている個体群がインド』・インドネシア・カンボジア・スリランカ・タイ・バングラデシュ・ベトナム・マレーシア・ミャンマー・『ラオスに分布』する。また、『家畜が野生化した個体群がアルゼンチン』・オーストラリア(ノーザンテリトリー)・チュニジア・『ヨーロッパなどに分布』するとし、但し、『有史以前はアフリカ大陸北部から黄河周辺にかけて分布していたと考えられている』とある。いずれにしても、言わずもがな、本邦には分布しない。

「道祖土(だうそど)」道祖神を祀る場所の意であろう。

『蓋し、「さへ」又は「さへと」は、往古、境(さかひ)の神を祭りし畏ろしき場處のことなれば、或いは此れが爲に「サイ」と云ふ怖るべき一物(いちもつ)を作り出し、之れを處々の碧潭(へきたん)に住ましむるに至りしやも、亦、測るべからず』この見解は非常に興味深い。先のChinchikoPapa氏が、アイヌ語に継承された原日本語とする「サイ」(サイェ)が「巻・渦」の意とするのとも驚くほどよく一致するからである。塞の神や道祖神は村の辺縁部の辻に置かれる場合が多い。これはつまり、運命共同体である村と、別な世界(他村・異国・外国・幽明界)との通路が複数ある場所であり、そこはそうした異界から漂ってきた、いろいろな妖気・邪気が渦を巻くところでもあるからである(それを逆手に利用したものが本来の辻占なのである)。

タイワンリスの子「かんちゃん」

恐らく、今年になって生れて、先月来、母リスと一緒に家(うち)の金柑を食べに来ていた子がこんなに大きくなって、親離れして、家の金柑の木を専ら自分の餌場としていましたが、今朝、ありったけの金柑を食べ尽くして、山へ帰って行きました(妻写す)。

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蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 甕の水

 

  

 

甕(かめ)の水(みづ)濁(にご)りて古(ふる)し、

このゆふべ、覆(くつが)へしぬる、

甕(かめ)の水(みづ)、

惜(を)しげなき逸(はや)りごころに。

 

音(おと)鈍(にぶ)し、水(みづ)はあへなく、

あざれたる溝(みぞ)に這(は)ひ寄(よ)り、

音(おと)鈍(にぶ)し、

呟(つぶ)やける「夢(ゆめ)」のくちばみ。

 

去(い)ねよ、わが古(ふる)きは去(い)ねよ、

水甕(みづがめ)の濁(にご)き底(そこ)濁(にご)り、

去(い)ねよ、わが――

噫(あゝ)、なべて澱(をど)めるおもひ。

 

耀(かゞや)きぬ雲(くも)の夕映(ゆふばえ)、

いやはての甕(かめ)の雫(しづく)に、

耀(かゞや)きぬ、――

わがこころかくて驚(おどろ)く。

 

「戀(こひ)」なりや、雫(しづく)の珠(たま)は、

げに淸(きよ)し、ふるびぬにほひ、

「戀(こひ)」なりや、

珠(たま)は、あな、闇(くら)きに沈(しづ)む。

 

夜(よ)となりき、嘆(なげ)くも果敢(はか)な、

空(むな)しかる甕(かめ)を抱(いだ)きて、

夜(よ)となりき、

あやなくもこころぞ渴(かは)く。

 

[やぶちゃん注:「あざれたる溝」臭いを放っているような汚い溝。

「くちばみ」古語として、毒蛇の「蝮(まむし)」(有鱗目ヘビ亜目クサリヘビ科マムシ亜科マムシ属ニホンマムシ Gloydius blomhoffii:語源は、蝮は卵胎生であるが、それを母蛇の腹を食い破って生まれてくると見たことからとも言う)のことを「くちはみ」「くちばみ」と呼ぶ。ここは盛り上がり、うねりながら、「溝に這ひ寄」って行った「甕の水」が、水面に滴り落ちて音を立てるその様態を『呟(つぶ)やける「夢(ゆめ)」の』蝮として象徴的に隠喩したものであろう。音数律に合わせるために「口遊(くちずさ)む」の意で「口齒(くちば)む」を名詞化した造語ととるのには甚だ無理があり、そんな自分勝手な造語感覚を有明は持っていないし、そもそもそれでは「呟(つぶ)やける」の屋上屋となってしまう。

「あやなくも」「文無くも」で「理由(わけ)も判らず」の意。]

2019/02/15

和漢三才圖會卷第三十七 畜類 黃羊(きひつじ) (モウコガゼル)

 

Kihituji

 

きひつし 璽耳羊

 

黃羊

バアン ヤン

 

本綱黃羊生西番諸處有四種狀與羊同但低小細肋腹

下帶黃色角似羖羊喜臥沙地生沙漠能走善臥獨居而

尾黑者名黑尾黃羊

生野草内或羣至數十者名曰黃羊

出南方者深褐色黒脊白斑與鹿相近也

甚大而尾似麞鹿者名洮羊其皮皆可爲衾褥【出於臨州洮州故名】

 

 

きひつじ 蠒耳羊〔(けんじよう)〕

 羊〔(はんよう)〕

黃羊

バアン ヤン

 

「本綱」、黃羊、西番〔(せいばん)の〕諸處に生ず。四種有り。狀、羊と同じ。但だ、低く小さく、細き肋〔(あばら)にて〕、腹の下に黃色を帶ぶ。角、羖羊〔(くろひつじ)〕に似たり。喜〔(この)〕んで沙地に臥し、沙漠に生ず。能く走り、善〔(よ)〕く臥し、獨居して、尾、黑き者を「黑尾黃羊」と曰ふ。

野草の内に生じ、或いは、羣〔(むれな)〕し、數十に至れる者を名づけて、「黃羊」と曰ふ。

南方に出づる者〔は〕、深褐色〔にして〕黒〔き〕脊、白〔き〕斑〔(まだら)なり〕。鹿と相ひ近きなり。

甚だ大にして、尾、麞鹿〔(のろじか)〕に似る者、「洮羊(てうよう)」と名づく。其の皮、皆、衾-褥〔(しとね)〕と爲すべし【臨州・洮州に出づ、故に名づく。】

[やぶちゃん注:これはヒツジの仲間ではなく、哺乳綱鯨偶蹄目鯨反芻亜目ウシ目ウシ亜目ウシ科 Bovidae の、ブラックバック亜科 Antilopinae ブラックバック族 Antilopini チベットガゼル属モウコガゼル Procapra gutturosa であろうと思われる。挿絵は角があるので同種のであるウィキの「ウコガゼルによれば、中国の内モンゴル自治区・モンゴル・ロシア(ネルチンスク周辺)に分布し、体長は一メートル十から一メートル四十八センチメートル、尾長は五~十二センチメートル、肩高六十二~七十六センチメートルで、体重は二十八~四十キログラム。『前肢の』、『人間でいう手首(手根)に』、『わずかながら』、『房状に体毛が伸長する』。『頭骨の長さ』は二十二・五センチメートル『以上に達』し、『耳介は中程度で先端が尖る』。『眼下部(眼下腺)や後肢内側基部(鼠蹊腺)に臭腺がある』。『オスにのみ』、『基部から上方に向かい』、『外側に湾曲し』、『先端が内側へ向かう細く短い角がある』。角長は三十二~三十九センチメートルで、『角の表面の節は』、『あまり発達しない』また、『繁殖期のオスは喉が膨らむ』。『夏季は短い体毛で被われ、毛衣は黄褐色』。『冬季は長い体毛で被われ、毛衣は灰褐色や淡黄褐色』。『砂漠や乾燥した草原、ステップに生息する』とある。

 

「西番」「西蕃」とも書く。明代から中華民国期にかけて、甘粛・四川・雲南地方の漢民族が、隣接するカム地方のチベット系民族を指して用いた蔑称。

「四種有り」現在、チベットガゼル亜族 Procaprina チベットガゼル属 Procapra には、モウコガゼルの他に、

プシバルスキーガゼル(Przewalski's gazelleProcapra przewalskii

チベットガゼル Procapra picticaudata

がいる。しかし、これでは三種なので、或いは別種の何かを数えているか、その三種の中の見た目の他個体群と異なって見えるグループを別種としているのかも知れない。

「尾、黑き者を「黑尾黃羊」と曰ふ」グーグル画像検索「Procapra gutturosa」を見ると、尾が黒く見える個体がいる。

「麞鹿〔(のろじか)〕」反芻亜目シカ科オジロジカ亜科ノロジカ属ノロジカ Capreolus capreolusウィキの「ノロジカより引く。『ヨーロッパから朝鮮半島にかけてのユーラシア大陸中高緯度に分布する。中国では子と呼ばれる』。体長約一~一・三メートル、尾長約五センチメートルの『小型のシカ。体毛は、夏毛は赤褐色で、冬毛は淡黄色である。吻に黒い帯状の斑があり、下顎端は白い。喉元には多彩な模様を持つのが』、『この種の特徴である。臀部に白い模様があるが、雌雄で形は異なる。角はオスのみが持ち、表面はざらついており、先端が三つに分岐している。生え変わる時期は冬』。『夜行性で、夕暮れや夜明けに活発に行動する。食性は植物食で、灌木や草、果実などを食べる』とある。

「洮羊(てうよう)」如何なる種を指しているか、不詳。上記のガゼル類画像を幾つか見たが、ノロジカと似ているというのは、正直、解せない。識者の御教授を乞う。

「衾-褥〔(しとね)〕」布団や敷物。

「臨州・洮州」孰れも現在の甘粛省南部の旧地方名。]

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 大河

 

  大 河

 

ゆるやかにただ事(こと)もなく流(なが)れゆく

大河(たいが)の水(みづ)の薄濁(うすにご)り――邃(ふか)き思(おも)ひを

夢(ゆめ)みつつ塵(ちり)に同(どう)じて惑(まど)はざる

智識(ちしき)のすがたこれなめり、鈍(おぞ)しや、われら

面澁(おもしぶ)る啞(おし)の羊(ひつじ)の輩(ともがら)は

堤(つゝみ)の上(うへ)をとみかうみわづらひ步(あり)く。

しかすがに聲(こゑ)なき聲(こゑ)の力(ちから)足(た)り、

眞晝(まひる)かがよふ法(のり)を布(し)く流(ながれ)を見(み)れば、

經藏(きやうざう)の螺鈿(らでん)の凾(はこ)の葢(ふた)をとり、

悲願(ひぐわん)の手(て)もて智慧(ちゑ)の日(ひ)の影(かげ)にひもどく

卷々(まきまき)の秘密(ひみつ)の文字(もじ)の飜(こぼ)れ散(ち)る、――

げに晴(は)れ渡(わた)る空(そら)の下(もと)、河(かは)の面(おもて)の

紺靑(こんじやう)に黃金(こがね)の光(ひかり)燦(きら)めくよ、

かかる折(をり)こそ汚(けが)れたる身(み)も世(よ)も薰(かを)れ、

時(とき)さらず、癡(し)れがましさや、醜草(しこぐさ)の

毒(どく)になやみて眩(めくるめ)き、あさり食(は)みぬる

貪(むさぼり)の心(こゝろ)を悔(く)いてうち喘(あえ)ぎ、

深(ふか)くも吸(す)へる河水(かはみづ)の柔(やはら)かきかな、

母(おも)の乳(ちゝ)、甘(あま)くふくめる悲(かなし)みは

醉(ゑひ)のここちにいつとなく沁(し)み入(い)りにけり。

源(みなもと)は遠(とほ)き苦行(くぎやう)の山(やま)を出(い)で、

平等海(びやうどうかい)にそそぎゆく久遠(くをん)の姿(すがた)、

たゆみなく、音(おと)なく移(うつ)る流(ながれ)には

解(と)けては結(むす)ぶ無我(むが)の渦(うづ)、思議(しぎ)の外(ほか)なる

深海(ふかうみ)の眞珠(しんじゆ)をさぐる船(ふね)の帆(ほ)ぞ

今(いま)照(てり)りわたる、――智(さとり)なき身(み)にもひらくる

心眼(しんがん)の華(はな)のしまらくかがやきて、

さてこそ沈(しづ)め、靜(しづ)かなる大河(たいが)の胸(むね)に。

 

[やぶちゃん注:実は八行目「眞晝(まひる)かがよふ法(のり)を布(し)く流(なが)を見(み)れば、」は、底本では、

眞晝(まひる)かがよふ法(のり)を布(し)く流(なが)を見(み)れば、

となっている。しかし音数律から見ても、「流(ながれ)」でなくてはならず、ここも脱字と捉え、特異的に訂した。但し、その根拠はあくまで音数律上の推定でしかなく、校合すべきものはない。敢えて言えば、後の行の「たゆみなく、音(おと)なく移(うつ)る流(ながれ)には」が推定正当性の証左の一つではある。別に参考にした後の岩波文庫の自選「有明詩抄」では、「流(ながれ)」となってはいるものの、例の改悪を施したもので、この行は、

霑(うる)ほし足らふ法(のり)を(と)く流(ながれ)と知れば、――

と致命的に改変された部分なので、決定的校合材料足りえない。大方の御叱正を俟つ。

なお、「喘(あえ)ぎ」のルビはママである。

「智識(ちしき)」仏道に教え導く指導者・導師・善知識のこと。無論、大河に比喩されたイメージである。

「とみかうみ」「と見かう見」。連語。「あっちを見たり、こっちを見たり」の意の平安以来の古語。

「しかすがに」「然すがに」。副詞。「そうはいうものの・そうではあるが、しかしながら」で万葉以来の古語。

「母(おも)」万葉以来の古語としての読み。

「平等海(びやうどうかい)」善知識によって速やかに導かれる、総ての衆生が平等な真如の大海に流れ入るという比喩。

「思議(しぎ)」凡夫があれこれ思いはかろうとし、下らぬ考えを廻らすこと。それも「迷い」に他ならない。

「しまらく」「暫く」の万葉時代に溯る古形。]

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 秋のこころ

 

  秋のこころ

 

黃(きば)みゆく木草(きぐさ)の薰(かを)り淡々(あはあは)と

野(の)の原(はら)に、將(は)た水(みづ)の面(も)にただよひわたる

秋(あき)の日(ひ)は、淸(きよ)げの尼(あま)のおこなひや、

懺悔(ざんげ)の壇(だん)の香(かう)の爐(ろ)に信(しん)の心(こゝろ)の

香木(かうぼく)の膸(ずゐ)の膏(あぶら)を炷(た)き燻(く)ゆし、

きらびやかなる打敷(うちしき)は夢(ゆめ)の解衣(ときぎ)、

過(す)ぎし日(ひ)の被衣(かつぎ)の遺物(かたみ)、――靜(しづ)やかに

垂(た)れて音(おと)なき繡(ぬひ)の花(はな)、また襞(ひだ)ごとに、

ときめきし胸(むね)の名殘(なごり)の波(なみ)のかげ、

搖(ゆら)めきぬとぞ見(み)るひまを聲(こゑ)は直泣(ひたな)く――

看經(かんぎん)の、噫(あゝ)、秋(あき)の聲(こゑ)、歡樂(くわんらく)と

悔(くい)と念珠(ねんじゆ)と幻(まぼろし)と、いづれをわかず、

ひとつらに長(なが)き恨(うらみ)の節(ふし)細(ほそ)く、

雲(くも)の翳(かげり)にあともなく滅(き)えてはゆけど、

窮(きは)みなき輪廻(りんね)の業(ごふ)のわづらひは

落葉(おちば)の下(もと)に、草(くさ)の根(ね)に、潜(ひそ)みも入(い)るや、――

その夕(ゆふべ)、愁(うれひ)の雨(あめ)は梵行(ぼんぎやう)の

亂(みだ)れを痛(いた)みさめざめと繁(しじ)にそそぎぬ。

 

[やぶちゃん注:実は六行目「きらびやかなる打敷(うちしき)は夢の解衣(ときぎ)、」は、底本では、

きらびやかなる打敷(うちしき)は夢の解衣(とき),

となっている。則ち、ルビ「とき」はママ(但し、「解」の右にのみ附されてあり、音数律からも脱字であることは容易に類推出来る)で、末尾の「コンマ」もママなのである。しかし、それでは流石に私の電子化を読まんとされる読者はここで躓いてこけてしまう。されば、諸本を確認し、以上の文字列の誤植(脱字)であることを確認した上で、「正規表現版」と名打ってはいるが、特異的に訂することとした。

なお、本詩篇は、明治四〇(一九〇七)年十一月号初出である。

「看經(かんぎん)」(「キン」は唐音)禅宗などで、声を出さないで経文を読むこと。後に声を出して経文を読むこと、読経と同義になったが、私は原義で採る。則ち、後の「秋(あき)の聲(こゑ)、歡樂(くわんらく)と/悔(くい)と念珠(ねんじゆ)と幻(まぼろし)と、いづれをわかず、/ひとつらに長(なが)き恨(うらみ)の節(ふし)細(ほそ)く、/雲(くも)の翳(かげり)にあともなく滅(き)えてはゆけど、/窮(きは)みなき輪廻(りんね)の業(ごふ)のわづらひは/落葉(おちば)の下(もと)に、草(くさ)の根(ね)に、潜(ひそ)みも入(い)るや、――」は総てが、詩人にとっての「秋」という季節の持つ寂滅のイメージの「聲」「音」なのだと思うのである。

「梵行(ぼんぎやう)」淫欲を断つ修行。本は一般に仏道修行をも指すが、ここは前者で採る。]

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 偶感

 

  偶 感

 

寄(よ)せては返(かへ)す浪(なみ)もなく、ただ平(たひ)らかに

和(なご)みたる海(うみ)にも潮(しほ)の滿干(みちひ)あり、

げにその如(ごと)く騷(さは)だたぬ常(つね)の心(こゝろ)を

朝夕(あさゆふ)に思(おもひ)は溢(あふ)れ、また沈(しづ)む。

 

[やぶちゃん注:本篇は先の「豹の血(小曲八篇)」が終わったことを示すように、十八ページ(右ページ)一ページ分を白紙(ノンブルは有る)として、左ページに印刷されている。思うに、有明は出来上がった詩集のページ組みにも非常に気を使っているおとが窺われる。意想外の方もおられるであろうが、近代詩集初版で、完成品のそうした細かな部分(例えば、連の切れ目が改頁となるのは私は極力避けるべきと思うが、そうしたことを意識している詩人は実は殆んどいない)まで気配りしている詩人は、私の管見する限り、挿絵を多く入れた北原白秋が浮かぶ程度で、そう多くはないのである。]

2019/02/14

和漢三才圖會卷第三十七 畜類 羊(ひつじ) (ヒツジ)

 

Hituji

 

ひつじ 羖【牡羊又名羝】

 𦍺【牝羊又名牂】

【音陽】

 【白】 羭【黑】

★   羖【多毛】 羯【去勢】

ヤン  【和名比豆之】

[やぶちゃん注:★の個所に上図の下部左にあるヒツジの首の形に象った篆文が入る。

 

本綱羊字象頭角足尾之形胡羊䍲羺無角曰※【曰】羊

[やぶちゃん注:「※」=「翔」-「羽」+「童」。]

子曰羔其五月曰羜六月曰𦎦七月曰羍生江南者爲

羊頭身相等而毛短生秦晉者爲夏羊頭小身大而毛長

而剪其毛以爲氊物謂之綿羊諸羊皆孕四月而生

其目無神其腸薄而縈曲在畜屬火故易繁而性熱在卦

屬兌故外柔而内剛其性惡濕喜燥食鉤吻草肥食仙茅

而肪食仙靈脾而食躑躅而死物理之宜忌不可測也

其皮極薄南番以書字羊外腎曰羊石子

肉【苦甘大熱】 治虛勞補中益氣安心止兒驚癇【銅噐煑之男子損陽女子暴下反半夏菖蒲忌蕎麥麵豆醬及醋】

乳【甘溫】 治虛勞潤心肺乾嘔及反胃解蜘蛛咬毒【有人爲蜘蛛咬

腹大如姙徧身生絲其家棄之乞食有僧教啖羊乳未幾其疾愈也】

                  有房

 新勑程もなく隙行く駒を見ても猶哀羊のあゆみをそ思ふ

△按自華來牧之未蓄息戯食紙卽喜食之羊乳番語名

 介伊辞

陸佃云羊善群行故羣字从羊羊以瘦爲病故羸字从羊

羊貴大故羊大爲美羊有角而不用類仁執之不鳴殺之

不嘷類死義飮其母必跪類知禮也本草所載羊類甚多

大尾羊 凡羊尾皆短而哈密及大食國有大尾羊細毛

 薄皮尾上旁黄重一二十斤行則以車載之【唐書謂之靈羊】

胡羊 大食國出胡羊高三尺餘其尾如扇每春月割

 取脂再縫合之不取卽脹死

地生羊 出西域以羊臍種于土中漑以水聞雷而生羊

 臍與地連及長驚以木聲臍乃斷便能行齧草至秋可

 食臍内復有種名瓏種羊

 土之精也其肝土也有雌雄不食季桓子曾掘土

 得之 又千樹精亦爲青羊

 

 

ひつじ 羖(をひつじ)【牡羊、又、「羝」と名づく。】

 𦍺(めひつじ)【牝羊、又、「牂」と名づく。】

【音、「陽」。】

 (しろひつじ)【白。】

    羭(くろひつじ)【黑。】

★   羖(むくげのひつじ)【多毛。】

    羯(へのこなしのひつじ)【勢を去る〔もの〕。】

ヤン  【和名、「比豆之」。】

[やぶちゃん注:★の個所に上図の下部左にあるヒツジの首の形に象った篆文が入る。]

 

「本綱」、「羊」の字、頭の角・足・尾の形に象どる。胡羊を「羺䍲〔(げいどう)〕」と曰ひ、角無きを「※〔とう)〕」と曰ふ【「〔(た)〕」〔とも〕曰ふ。】[やぶちゃん注:「※」=「翔」-「羽」+「童」。]。羊の子を「羔〔こう)〕」と曰ひ、其の五つ月〔(づき)〕なるを「羜〔ちよ)〕」と曰ひ、六つ月なるを「𦎦〔(ぶ)〕」と曰ひ、七つ月なるを「羍〔(たつ)〕」と曰ふ。江南に生ずる者を「羊」と爲し、頭身相ひ等しくて、毛、短し。秦・晉[やぶちゃん注:現在の陝西省・山西省。]に生ずる者を「夏羊」と爲し、頭、小さく、身、大にして、毛、長し。二にして、其の毛を剪りて、以つて、氊〔(せん)の〕物[やぶちゃん注:毛織りの敷物。毛氈(もうせん)。]と爲す。之れを綿羊と謂ふ。諸羊、皆、孕〔みて〕四月〔(よつき〕)にして生まる。其の目、神〔(かがやき)〕、無く、其の腸、薄くして、縈曲〔(えいきよく)〕[やぶちゃん注:ぐるぐるとめぐって曲がりくねっていること。]なり。畜に在りては、「火〔(くは)〕」に屬す。故に繁〔(しげ)〕り易くして[やぶちゃん注:繁殖し易くて。]、性〔(しやう)〕、熱す。卦に在りては、「兌〔(だ)〕」に屬す。故に外柔にして内剛〔なり〕。其の性、濕を惡〔(にく)〕み、燥を喜〔(この)〕む。鉤吻草〔(こうふんさう)〕を食ひて肥へ[やぶちゃん注:ママ。]、仙茅〔(せんばう)〕を食ひて肪(あぶらつ)き、仙靈脾〔(せんれいひ)〕を食ひて(たわ)け[やぶちゃん注:淫乱となり。]、躑躅(もちつゝぢ)を食ひて死す。物〔の〕理〔(ことわり)〕の宜忌〔(よしあし)〕[やぶちゃん注:良し悪し。]、測かるべからざるなり。其の皮、極めて薄し。南番〔→南蠻〕〔にては、これを〕以つて字を書く。羊の外腎を羊石子(たけり)と曰ふ[やぶちゃん注:この言いから見て、「外腎」とは♂の外生殖器(或いは陰茎)のことのように思われる。]。

肉【苦、甘。大熱。】 虛勞[やぶちゃん注:「虚損労傷」の略で、各種の過労のために肉体が衰弱し、精神も困憊している状態を指す。]を治し、中(ちゆう)[やぶちゃん注:漢方で言う「脾胃」。二つが三焦(現代医学のリンパ系相当とされる)の中焦の系に属することによる。]を補し、氣を益し、心〔(しん)〕を安ず。兒の驚癇[やぶちゃん注:漢方で言う癲癇症状のこと。]を止〔(とど)〕む【銅噐にて之れを煑れば、男子は陽を損じ[やぶちゃん注:ここは狭義の重い精力減退を指すか。]、女子は暴下す[やぶちゃん注:激しい下痢症状を呈す。]。半夏・菖蒲に反し、蕎麥・麵・豆醬〔(みそ)〕及び醋〔(す)〕を忌む。】。

乳【甘、溫。】 虛勞〔を治し〕、心肺を潤ほし、乾嘔〔(からえずき)〕[やぶちゃん注:漢方で吐き気がして吐こうとするが、その音だけがあって実際には嘔吐物がない症状を指す。]及び反胃〔(はんい)〕[やぶちゃん注:食ったものを吐き戻す症状。]を治す。蜘蛛の咬みたる毒を解す【人、有り、蜘蛛の爲めに咬まるるに、腹、大〔となりて〕姙〔(はらみめ)〕のごとく〔なりて〕、徧身〔(へんしん)に〕、絲を生ず。其の家、之れを棄(す)つ。〔棄てられし者は〕乞食〔(こつじき)〕す。僧、有り、羊乳を啖〔(の)まんことを〕教ふ。未だ幾〔(いくばくな)ら〕ずして其の疾ひ、愈〔ゆる〕なり。】。

                  有房

 「新勑」

   程もなく隙〔(ひま)〕行く駒〔(こま)〕を見ても猶ほ

      哀〔(あは)れ〕羊のあゆみをぞ思ふ

△按ずるに、華[やぶちゃん注:中国。]より來たり、之れを牧(か)へども[やぶちゃん注:飼ってはいるが。]、未だ蓄息〔(ちくそく)〕せず[やぶちゃん注:繁殖していない。]。戯れに紙を食はしむる〔に〕、卽ち、喜びて之れを食ふ。羊の乳、番語〔→蠻語〕に「介伊辞(ケイジ)」と名づく。

陸佃が云はく、『羊は善く群行す。故に「羣」の字、「羊」に从〔(したが)〕ふ。羊は、瘦るを以つて病ひと爲る。故に「羸」[やぶちゃん注:音「ルイ」。「瘦せる・疲れる・弱る」また「弱い」の意。]の字、「羊」に从ふ。羊は大〔なるを〕貴ぶ。故、「羊」に「大」〔にて〕「美(うつく)し」と爲す。羊、角、有りて、用ひず。〔これ、〕「仁」に類す。之れを執〔(と)〕るに[やぶちゃん注:捕まえても。]鳴かず、之れを殺すに、嘷(ほ)へず[やぶちゃん注:ママ。「吠えず」。]。〔これ、〕「義」に死するに類す。〔子羊の、〕其の母〔の乳を〕飮むときは、必ず、跪〔(ひざまづ)〕く。〔これ、〕「禮」を知るに類す』〔と〕。「本草」に載する所の羊の類、甚だ多し。

大尾羊 凡そ、羊の尾は、皆、短く、而るに、哈密〔(ハミ)〕[やぶちゃん注:ハミ王国、クムル汗(ハン)国などとも呼ばれた、現在の中国の新疆ウイグル自治区の最東部にあるクムル(現在のハミ)を中心に展開したウイグル人の国。一六九六年から一九三〇年まであった。]及び大食(だいし)國[やぶちゃん注:アラビアの旧漢名。]に「大尾羊」有り。細〔き〕毛、薄〔き〕皮にして、尾の上の旁〔(かたはら)〕、黄に〔して〕、重さ一、二十斤[やぶちゃん注:明代の一斤は五百九十六・八二グラムであるから、六キログラム弱から十一キロ八百五十六グラムとなる。]。行〔くに〕、則ち、車を以つて、之れを載す【「唐書」之れを「靈羊」と謂ふ。】。

胡羊 大食國に「胡羊」を出だす。高さ三尺餘。其の尾、扇のごとし。每〔(まいとし)〕春月、脂を割り取り、再び之を縫〔ひ〕合〔はす〕。〔脂を〕取らざれば、卽ち脹〔(は)れて〕死す。

地生羊〔(ぢせいよう)〕 西域に出づ。羊の臍〔(へそ)〕を以つて土中に種〔(う)〕ゑ、漑(そゝ)ぐに水を以つてす。雷〔(かみなり)〕を聞きて羊を生ず。臍と地と連る。長ずるに及び、驚かすに木の聲〔(おと)〕を以つてすれば[やぶちゃん注:木を叩く音で驚かすと。]、臍、乃〔(すなは)〕ち斷〔(き)れ〕て、便〔(すなは)〕ち、能く行きて、草を齧(は)む。秋に至れば、食ふべし。臍の内〔に〕、復た、種、有り。「瓏種羊〔(ろうしゆよう)〕」と名づく。

羊〔(ふんよう)〕 土〔(つち)〕の精なり。其の肝は土なり。雌雄、有り。食はず。季桓子〔(きかんし)〕といふもの、曾つて土を掘りて、之れを得〔と〕。 又、千の樹の精も亦、「青羊」と爲〔ると〕。

[やぶちゃん注:哺乳綱鯨偶蹄目ウシ亜目ウシ科ヤギ亜科ヒツジ属ヒツジ Ovis aries (所謂、家畜化された綿羊(メンヨウ))及びヒツジ属に属する種群ウィキの「ヒツジ」によれば、『ヒツジは反芻動物としては比較的体は小さく、側頭部のらせん形の角と、羊毛と呼ばれる縮れた毛をもつ』。『原始的な品種では、短い尾など、野生種の特徴を残すものもある』。『家畜のヒツジは』五十四『本の染色体をもつが、野生種は』五十四本から五十八『本の染色体を有し、交雑可能である。自然状態の雑種の中には』五十五『本や』五十七『本の染色体をもつ個体も存する』。『品種によって』、全く角を持たないもの、『雄雌両方にあるもの、雄だけが角を持つものがある。螺旋を巻きながら直状に伸びた角をラセン角、渦巻き状に丸く成長する角をアモン角と称する。角のある品種のほとんどは左右に』一『対だが、古品種には』、『ヤギのように後方に湾曲しながら伸びる』二、三対(四~六本)の『角をもつものもいる』。『野生のヒツジの上毛の色合いには幅広いバリエーションがあり、黒、赤、赤褐色、赤黄色、褐色などがある。毛用のヒツジは主に染色に適した白い羊毛を産するように改良が加えられているが、ほかにも純白から黒色まであり、斑模様などもある。白いヒツジの群れのなかに有色の個体が現れることもある』。『ヒツジの体長や体重は品種により大きく異なり、雌の体重はおよそ』四十五~百キログラムで、『雄はより大きく』、四十五~百六十キログラムほどある。『成熟したヒツジは』三十二『本の歯を持つ。ほかの反芻動物と同じように、下顎に』八『本の門歯がある一方、上あごには歯がなく、硬い歯茎がある。犬歯はなく、門歯と臼歯との間に大きな隙間がある』。四『歳になるまで(歯が生え揃うまで)は、前歯は年に』二『本ずつ生えるため、ヒツジの年齢を前歯の数で知ることができる。ヒツジの平均寿命は』十『年から』十二『年であるが』、二十『年生きるものもいる』。『前歯は齢を重ねるにつれ失われ、食べるのが難しくなり、健康を妨げる。このため、通常放牧されているヒツジは』四『歳を過ぎると』、『徐々に数が減っていく』。『同じヤギ亜科に属するヤギと違い、草だけを食べる(ヤギは木の芽や皮も食べる)。食草の採食特性は幅広いとされる』。『ヒツジの聴力はよい。また視力については、水平に細い瞳孔を持ち、優れた周辺視野をもつ。視野は』二百七十度から三百二十度で、『頭を動かさずに自分の背後を見ることができる。しかし、奥行きはあまり知覚できず、影や地面のくぼみにひるんで』、『先に進まなくなることがある』。『暗いところから明るいところに移動したがる傾向がある』。『通常は、妊娠期間』百五十『日ぐらいで仔を』一『頭だけ産む』のが普通であるが、二頭或いは三頭『産むときもある』。『ヒツジは非常に群れたがる性質をもち、群れから引き離されると』、『強いストレスを受ける。また、先導者に従う傾向がとても強い(その先導者はしばしば単に最初に動いたヒツジであったりもする)。これらの性質は家畜化されるにあたり極めて重要な要素であった』。『なお、捕食者がいない地域の在来種は、強い群れ行動をおこさない』。『群れの中では、自分と関連あるもの同士が一緒に動く傾向がある。混種の群れの中では同じ品種で小グループができるし、また雌ヒツジとその子孫は大きな群れの中で一緒に動く』。『ヒツジにとって、危険に対する防御行動は単純に危険から逃げ出すことである。その次に、追い詰められたヒツジが突撃したり、蹄を踏み鳴らして威嚇する。とくに新生児を連れた雌にみられる。ストレスに直面すると』、『すぐに逃げ出し』、『パニックに陥るので、初心者がヒツジの番をするのは難しい』。『ヒツジは非常に愚かな動物であるというイメージがあるが、イリノイ大学の研究によりヒツジのIQがブタよりは低く』、『ウシと同程度であることが明らかになった。人や他のヒツジの顔を何年も記憶でき、顔の表情から』、『心理状態を識別することもできる』。『ヒツジは非常に食べ物に貪欲で、いつもエサをくれる人にエサをねだることもある。羊飼いは牧羊犬などで群れを動かす代わりに、エサのバケツでヒツジを先導することもある。エサを食べる順序は身体的な優位性により決定され、他のヒツジに対してより攻撃的なヒツジが優勢になる傾向がある』。『オスのヒツジは角のサイズが群れでの優位を決める重要な要素となっていて、角のサイズが異なるヒツジの間ではエサを食べる順番をあまり争わないが、同じような角のサイズを持つもの同士では争いが起こる』。以下、「家畜化の歴史」の項。『新石器時代から野生の大型ヒツジの狩猟がおこなわれていた形跡がある。家畜化が始まったのは古代メソポタミアで、紀元前』七〇〇〇~六〇〇〇年頃の『遺跡からは野生ヒツジとは異なる小型のヒツジの骨が大量に出土しており、最古のヒツジの家畜化の証拠と考えられている』。「臀部に脂肪を蓄えるヒツジ」の項。本文の「胡羊」はこれであろう。『家畜化されたヒツジの祖先は、モンゴルからインド、西アジア、地中海にかけて分布していた』四『種の野生ヒツジに遡ることができる。中央アジアのアルガリ』(Ovis ammon)、『現在の中近東にいるアジアムフロン』(Ovis orientalis)、『インドのウリアル』(Ovis orientalis vignei)、『地中海のヨーロッパムフロン』(Ovis aries musimon)『がこれにあたる。これら』四『種は交雑が可能であり、遺伝学的手法によっても現在のヒツジの祖を特定するには至っていないが、いくつかの傍証からアジアムフロンが原種であるとの説が主流となっている』。『ヒツジを家畜化するにあたって最も重要だったのは、脂肪と毛であったと考えられている。肉や乳、皮の利用はヤギが優れ、家畜化は』一千から二千年程度『先行していた。しかし山岳や砂漠、ステップなど乾燥地帯に暮らす遊牧民にとって、重要な栄養素である脂肪はヤギからは充分に得ることができず、現代でもヒツジの脂肪が最良の栄養源である。他の地域で脂肪摂取の主流となっているブタは、こうした厳しい環境下での飼育に適さず、宗教的にも忌避されている。こうした乾燥と酷寒の地域では尾や臀部に脂肪を蓄える品種が重視されている。それぞれ、脂尾羊、脂臀羊と分類される』。以下、「日本の羊の歴史」の項。『日本列島には古来より、旧石器・縄文時代のイヌや弥生時代のブタ・ニワトリ、古墳時代のウマ・ウシなど家畜を含め様々なものが海を越えて伝わったが、羊の飼育及び利用の記録は乏しい。寒冷な土地も多く防寒用に羊毛が利用される下地はあったが、動物遺体の出土事例も報告されていないことから、ほとんど伝わらなかったものと考えられている』。『考古資料では鳥取県鳥取市の青谷上地遺跡において弥生時代の琴の部材と考えられている木板に』、『頭部に湾曲する二重円弧の角を持つ動物が描かれており、ヒツジもしくはヤギを表現したものとも考えられている』。『文献史料においては』、「魏志倭人伝(「魏書」の「東夷伝倭人」の条)では弥生末期(三世紀前半代)に於いては『日本列島にはヒツジがいなかったと記されている』。八『世紀初頭に成立した』「日本書紀」には、推古天皇七(五九九)年の条に、『推古天皇に対し』、『百済(朝鮮半島南西部)からの朝貢物として駱駝(らくだ)、驢馬(ろば)各』一『頭、白雉』一『羽、そして羊』二『頭が献上されたという』。『西域の動物であるラクダやロバとともに献上されていることから、当時の日本列島では家畜としてのヒツジが存在していなかったとも考えられている』とある(以上の原文は、

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七年夏四月乙未朔辛酉、地動、舍屋悉破。則令四方俾祭地震神。秋九月癸亥朔、百濟貢駱駝一匹・驢一匹・羊二頭・白雉一隻。

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である)。『奈良時代、天武天皇の時代に関東で活躍した人物に「多胡羊太夫(たご ひつじだゆう)」という人物がいると伝わり、関連して地元に羊神社などが残る程度であり、羊自体の存在や飼育記録は確認できない』。八『世紀には、奈良県の平城宮跡や三重県の斎宮跡から羊形の硯(すずり)が出土している』。八『世紀中頃には、正倉院宝物に含まれる「臈纈屏風(ろうけちのびょうぶ)」にヒツジの図像が見られる』。「日本紀略」に『よれば、嵯峨天皇の治世の』弘仁一一(八二〇)年には、『新羅からの朝貢物として鵞鳥』二『羽、山羊』一『頭、そして黒羊』二『頭、白羊』四『頭が献上されたという』。『さらに、醍醐天皇の治世の』延喜三(九〇三)年には、唐人が「羊、鵞鳥を献ず」『とあり、他の記録も含め』、『何度か』、『日本に羊が上陸した記録はあるが、その後』、『飼育土着された記録はない。故に日本の服飾は長く、主に植物繊維を原料とするものばかりであった』。『仏教の影響を色濃く受けた故に』m『肉食があまり推奨されてこなかったことから』、『食肉用はともかく、羊毛製品には全く需要がなかったわけではなく、貿易品としての羊の毛織物は人気は高』かった。しかし、『高額であり、長らく一部の有力者や富裕層のみに珍重されていた』に過ぎなかった。『江戸時代』になって、文化二(一八〇五)年、『江戸幕府の長崎奉行の成瀬正定が羊を輸入し、唐人(中国人)の牧夫を使役して肥前浦上で飼育を試みたが、失敗』している(本「和漢三才図会」はそれに先立つ九十三年も前の正徳二(一七一二)年の成立であるから、以上の話よりも百ほど前に既にそうした飼養を試みた人間がいたことが本文の記載から判る)。『幕府の奥詰医師であった本草学者の渋江長伯は行動的な学者であったらしく、幕命により蝦夷地まで薬草採集に出向いたりしていた。長伯は幕府医師だけではなく、江戸郊外にあり幕府の薬草園であった広大な巣鴨薬園の総督を兼ねていたが』、文化一四(一八一七)年から『薬園内で綿羊を飼育し、羊毛から羅紗織の試作を行った』。そのことから、「巣鴨薬園」は、当時、『「綿羊屋敷」と呼ばれていた』。『明治期に入ると』、『お雇い外国人によって様々な品種のヒツジが持ち込まれたが、冷涼な気候に適したヒツジは日本の湿潤な環境に馴染まず、多くの品種は定着しなかった。日本政府は牛馬の普及を重視したが、外国人ル・ジャンドル』(チャールズ・ウィリアム・ジョセフ・エミール・ルジャンドル(Charles William (Guillaum) Joseph Émile Le Gendre 一八三〇年~一八九九年:フランス生まれのアメリカの軍人で外交官。明治五(一八七二)年から明治八年まで、明治政府外交顧問、明治二三(一八九〇)年から明治三十二年までは朝鮮王高宗(一八九七年からは大韓帝国皇帝)の顧問を務めた)『が軍用毛布のため』、『羊毛の自給の必要性を説き、明治八(一八七五)年に『大久保利通によって下総に牧羊場が新設された。これが日本での本格的なヒツジの飼育の始まりである』。『民間では』、明治九(一八七六)年に、『蛇沼政恒』(じゃぬままさつね 弘化二(一八四五)年~大正九(一九二〇)年)『が岩手県で政府から』百『余頭の羊と牧野を借りて始めたのが先駆で、以後、数百頭規模の牧場が東日本の各地に開かれた』。『ただ、生産された羊毛を買い上げるのは軍用の千住製絨所に限られ、品質で劣る日本産羊毛の販売価格は低く、羊肉需要がないこともあって、経営的には成功しなかった』。明治二一(一八八八)年には『政府の奨励政策が打ち切りになり、官営の下総牧羊場も閉鎖され』てしまう。『しかし、国内の羊毛製品需要は軍需・民需ともに旺盛で、しだいに羊毛工業が発達した。戦前から戦後間もない時期までの日本にとって毛織物は重要な輸出品だったが、その原料はオーストラリアとニュージーランドなどからの輸入に頼っていた。一度は失敗を認めた政府にも、国産羊毛を振興したいという意見が根強くあり、大正七(一九一八)年から『「副業めん羊」を普及させた。農家が自家の農業副産物を餌にして』一『頭だけ羊を飼い、主に子供が世話をして家計の足しにするという方法である』。『副業めん羊は東日本の山間地の養蚕農家の間に広まった』とある。

 

『羖(をひつじ)【牡羊、又、「羝」と名づく。】「漢字林」には、「羖」は、牡の夏羊(かよう:黒い色をした羊の名)の意とし、『牝は「羭」』とある。

𦍺(めひつじ)【牝羊、又、「牂」と名づく。】』「牂」は「漢字林」には三歳に達した牝の羊とする。

「羖(むくげのひつじ)」「」は「漢字林」には、やはり、『ヤギ(山羊)の一種、夏羊』とする。

『「羊」の字、頭の角・足・尾の形に象どる』正しい。

『胡羊を「䍲羺〔(げいどう)〕」と曰ひ』「本草綱目」では、「䍲羺」と文字列が逆である。良安の引用ミスの可能性が高い。東洋文庫訳は断りなしで『羺䍲(どうげい)』とする。冒頭注参照。

「孕〔みて〕四月〔(よつき〕)にして生まる」先の引用では妊娠期間を約百五十日とするから、事実からは一ヶ月も短め目。

「神〔(かがやき)〕」東洋文庫のルビを援用した。現在の「神」の字に「輝き」の意味はないのだが、そもそも「神」という漢字は中国古代にあっては激しい神鳴りを伴う天の神を意味したから、こう当て訓しても、必ずしも突拍子もないものではないと心得る。恐らくは、精神・心というニュアンスであろう。因みに、私の妻などが「ヒツジやヤギの眼が空ろで恐い」という(私は全くそう思わないが)のも、そうした目の印象(人間が見て)が彼らにはあるのやも知れぬ。

「仙茅〔(せんばう)〕」単子葉植物綱キジカクシ目キンバイザサ科Curculigo 属キンバイザサ Curculigo orchioides「田辺三菱製薬」公式サイト内の「生薬について」の「仙茅」を見ると、「仙茅」の「茅」は葉が茅(カヤ)の葉に似ていることに由来し(ヒツジが食うのであるから、本種の葉である)、「仙」はこの根茎を久しく服すると、体が軽くなって、仙人のようになるからであると、宋の「開宝本草」(九七三年成立)には記されているとあり、『古くから中国では仙薬とされていたのですが、実はこれを』中国人が『知ったのはインドからだったのです。インドでは「タラムリ」と称され、強精薬として使われていました。中国に伝来したのは』、『西域の婆羅門僧が玄宗皇帝にこれを用いる方法を教えたのが始まりだといわれています。発する効果が人参のようなので「婆羅門参」ともいわれているそうです』。『仙茅は「温腎壮陽、寒除湿」の効果があり、インポテンツの治療薬としては代表的な生薬です。お年寄りの夜間尿、婦人の更年期による諸症状にも応用されています。この中にクルクリゴシド(CurculigosideC21H24O11)という少し変わった成分が含有されており、これが強精作用の主役で』、『免疫力を賦活したり、興奮性機能も報告されてい』る、とある。

「仙靈脾〔(せんれいひ)〕」まさに別名を「淫羊藿(いんようかく)」「千両金」といった別名を持つ強精剤の原材料とし知られるもので、モクレン亜綱キンポウゲ目メギ科イカリソウ属イカリソウ Epimedium grandiflorum var. thunbergianum(生薬となるのは全草)。ウィキの「イカリソウ」によれば、『日本の東北地方南部より南の太平洋側と四国など各地の丘陵や山裾の雑木林など山野に分布し、樹陰に自生する』。『イカリソウ属は』二十五『種ほどがアジアから南ヨーロッパにかけて分布する』。『春の』四月から五月に『かけ、吊り下がった薄紅紫色の花が咲き』、四『枚の花弁が、中に蜜をためる距を突出し、ちょうど船の錨のような形をしているため』、『この名がある』。『根茎は横にはって多数のひげ根を出す』。『数本の茎を出し、茎部には鱗片がある』。『根出葉には長い葉柄がつ』く。『茎の先が』三『本の葉柄に分かれ、それぞれに』三『枚の小葉がつくため、三枝九葉草(さんしくようそう)の別名がある』。『小葉は全体が卵形で、先が尖って基部は心臓型をしており、葉縁に刺毛状の細かい鋸歯がある』。『園芸用や薬用に栽培されることもある。浅根性で乾燥に弱く、半日陰の肥沃土を好む性質があり、繁殖は秋から初冬にかけて株分けにより行われる』。『薬効は、インポテンツ(陰萎)、腰痛のほか』、『補精、強壮、鎮静、ヒステリーに効用があるとされる』。『全草は淫羊霍(いんようかく、正確には淫羊藿)という生薬で精力剤として有名で』、この「淫羊霍」は、五~六月頃の『開花期に茎葉を刈り取って』、『天日干しにしたもので、市場に流通している淫羊霍は、イカリソウの他にも、トキワイカリソウ』Epimedium sempervirens や『キバナイカリソウ』Epimedium koreanum 及び『海外品のホザキノイカリソウ』Epimedium sagittatum『も同様に使われる』。『本来の淫羊霍は中国原産の』、その『ホザキノイカリソウ』『(常緑で花は淡黄色)』が原料で、『名はヒツジがこれを食べて精力絶倫になったという伝説による』(注に「本草綱目」に『「西川(せいせん、地名)に淫羊(発情した羊)あり、この藿(かく、花蕾)を食べて、一日百編交合す。」と記され、これ故に淫羊藿と名付けたとされる』とある、これは「巻十二下 草之一」の『淫羊藿【「本經中品」】』で、そこでは異名を「仙靈脾」「放杖草」「棄杖草」「千兩金」「乾雞筋」「黄連祖」「三枝九葉草」とし、『弘景曰、服之使人好爲隂陽。西川北部有淫羊、一日百遍合蓋食此藿所致、故名淫羊』とあるのに基づく)。『ホザキノイカリソウの淫羊霍に対して、イカリソウの方を和淫羊霍とすることもある』。『イカリソウの茎葉には有効成分としてはイカリインというフラボノイド配糖体と、微量のマグノフィリンというアルカロイドなどが含まれ、苦味の成分ともなっている』。『充血を来す作用があり、尿の出を良くする利尿作用もあるとされている』『イカリインには実際に』『平滑筋が弛緩し』、『陰茎などの血流が増えると考えられる』効果があるとし、『マウスを用いた実験で、男性ホルモン様の作用が報告されている』とある。『体を温める作用があることから、手足の冷え症や、冷えから来る腰痛症、下半身が疲れやすい人のインポテンツによいとされる一方で、火照りやすい人やのぼせやすい人への服用は禁忌である』とする。

「躑躅(もちつゝぢ)」ビワモドキ亜綱ツツジ目ツツジ科ツツジ属ツツジ亜属ツツジ節モチツツジ列モチツツジ Rhododendron macrosepalum。黐躑躅。通常のツツジのタイプ種はツツジ属アルペンローゼ Rhododendron ferrugineumであるが、本邦のツツジ類は他種に亙る。ツジ科ツツジ属に属する植物。落葉(半落葉)低木で本州(静岡県・山梨県~岡山県)と四国に分布する。ウィキの「モチツツジ」によれば、『主に低山地や丘陵地に自生し、高さ』一~二メートルに『なる。明るい林(アカマツ林など)のなかで多くみられ、通常』、四~六月に開花するが、『散発的に年間を通して咲いているのも見られる』。『花びらは五』で、『濃紅色の斑点などがみられる。葉は秋を迎えると』、『紅葉し、芽を囲む一部を除き、大きく茂った葉は落葉する。また、樹皮は暗褐色または暗灰色をしている』。和名の如く、『花の萼や柄、葉(両面)、若枝、子房、果実に腺毛が多く見られ、そこから分泌される液滴によって粘着性を持つ。野外ではここに多くの昆虫が粘着してとらえられているのが観察される。この腺毛は花にやってくる、花粉媒介に与る以外の昆虫を捕殺して、花を昆虫に食害されるのをふせぐために発達したものらしく、実験的に粘毛を剃ると、花は手ひどく食害される』。『また、ここに捕らえられた昆虫を餌とする昆虫も知られる。ヤニサシガメ』(脂刺亀:昆虫綱半翅目異翅亜目サシガメ科アカサシガメ亜科ヤニサシガメ属ヤニサシガメ Velinus nodipes:体長十二~十五ミリメートルで、体は黒色でやや光沢があり、触角と脚に黄白色紋がある。頭部は長く、複眼は頭部中央より前方に位置し、目の後部は丸みが強い。腹部の側縁は大きく張り出し、波状を呈する。体の表面は松脂状の粘着物質で覆われる。マツ樹上で生活し、幹上などに静止し、アリなどほかの昆虫を捕食する。幼虫はマツやスギの幹の窪みや樹皮下で小集団を形成して越冬する。本州・四国・九州及び朝鮮半島・中国に分布する)『などのサシガメ類がよくここに居ついている他、モチツツジカスミカメ』(異翅亜目カスミカメムシ科アオナガカスミカメムシ属モチツツジカスミカメ Orthotylus (Kiiortotylus) gotohi:必ずモチツツジにおり、モチツツジの若芽や若葉・花柄には一面に粘毛が密生しているが、この種はその部分におり、素早く移動するのが見られる。モチツツジは若葉や花の粘毛には、多くの昆虫が粘着して捕らえられるが、本種にとってはよく保護された逃げ場になっていると見られる。但し、何故、粘毛に捕まらないかは不明である。食性は基本的には草食性で、モチツツジを食草としているが、同時に昆虫も食うことが確認されている。上記のようにツツジの粘毛にはよく昆虫が捕まっているが、それらの昆虫に近づいて口吻を刺すことが観察されている。体長は四・五ミリメートルと非常に小さい)『という、ここに専門に居つく』『カメムシも知られて』いる。『花柄の粘りが鳥もちなどに似ているとして、名前の由来となっている。また、餅が由来として餅躑躅と書かれる場合もある』。『園芸用ツツジの交配親としても用いられ、園芸種にはハナグルマ(花車)などがある』。『そのほか、野外では花を折り取って、衣服や帽子にくっつける、という楽しみもある』とある。

「其の皮、極めて薄し。南番〔南蠻〕〔にては、これを〕以つて字を書く」羊皮紙のこと。「図書館情報学用語辞典」(日本図書館情報学会が編集した図書館情報学の専門用語を収録した用語辞典)によれば(ピリオド・コンマを句読点に代えた)。『子牛や羊、ときには山羊やその他の獣皮の毛や脂肪などを除去して作られた書写材あるいは製本材。パーチメント』Parchment『ともいう。子牛の皮で作ったものをベラム』vellum『として区別する場合もある。製法は、生皮を石灰水でよくさらし、毛や汚れを取るため』、『こすって薄くする。さらに表面にチョークを塗り、軽石でなめらかに仕上げる。前』二『世紀頃からパピルス』: papyrus『に代わる書写材として小アジアの古代都市ペルガモン(Pergamum)を中心に使用されるようになった。一説には、ペルガモンのエウメネス二世』(Eumenēs:在位:紀元前一九七年~紀元前一五九年)『とエジプトのプトレマイオス五世(Ptolemaios V』紀元前二一〇年~紀元前一八一年)『との間の図書収集をめぐる確執から、エジプトのパピルスが禁輸となった。この事件からペルガモンでは、以前から使用されていた動物の皮革の書写材に改良が加えられ、優れた書写材となった.パーチメントの語も Pergamum の形容詞形から転じたもの。羊皮紙やベラムは、パピルスに比べ』、『耐久性や柔軟性に富み扱いやすい。そのため』、四『世紀頃から、中近東やヨーロッパではパピルスに代わる書写材として』使われ、十五『世紀以降、活版印刷術の普及による刊本の時代を迎え』、『その地位を紙に譲るまで、主流となっていた』とある。

羊の外腎を羊石子(たけり)と曰ふ[やぶちゃん注:この言いから見て、「外腎」とはの外生殖器(或いは陰茎)のことのように思われる。]。

「腹、大〔となりて〕姙〔(はらみめ)〕のごとく〔なりて〕、徧身〔(へんしん)に〕、絲を生ず」前半は腹水と読めるが、とすれば、クモ毒ではない、人獣感染症の性質の悪い寄生虫の可能性が高いように思われる。後半はトンデモ症例でどのような症状を言っているのか、よく判らぬ。一種の黴のように見える皮膚疾患か?

「有房」「新勑」「程もなく隙〔(ひま)〕行く駒〔(こま)〕を見ても猶ほ哀〔(あは)れ〕羊のあゆみをぞ思ふ」「新勅撰和歌集」(鎌倉時代の勅撰和歌集。全二十巻。貞永元(一二三二)年、後堀河天皇の勅により、藤原定家が撰し、文暦二(一二三五)年成立。定家の「仮名序」があり、歌数約千三百七十首。代表歌人は藤原家隆・藤原良経・藤原俊成・慈円など)の「巻十八 雑三」にある。「日文研」の「和歌データベース」で校合した。

「介伊辞(ケイジ)」オランダ語かとも思ったが、ピンとくる一致語が見当たらなかった。識者の御教授を乞う。

「陸佃が云はく」北宋の陸佃(りくでん 一〇四二年~一一〇二年:字は農師、越州山陰(現在の浙江省紹興市)出身で、王安石の門人であったが、王安石の改革には必ずしも賛成でなかったが、改革が失敗に終わった後も忠誠を尽くした。神宗・哲宗・徽宗に仕え、官は尚書左丞にのぼった。なお、南宋の政治家で著名な詩人陸游は陸佃の孫)によって編集された辞典「埤雅(ひが)」。全二十巻。主に動植物について説明した本草書。

『羊は善く群行す。故に「羣」の字、「羊」に从〔(したが)〕ふ』正しい解字である。

『羊は、瘦るを以つて病いと爲る。故に「羸」の字、「羊」に从ふ』嘘。カタツムリが伸び縮みするさまが原義。

『羊は大〔なるを〕貴ぶ。故、「羊」に「大」〔にて〕「美(うつく)し」と爲す』正しい解字。

「羊、角、有りて、用ひず。〔これ、〕「仁」に類す。……」以下、典型的な載道派の何だかなの牽強付会説である。

「大尾羊」堀内勝氏のブログ「夜の旅人 研究ブログ」の素晴しい羊の脂尾に載るのがその品種であろう。巨大な脂尾を持つ羊の画像やスケッチ、及び『動きやすく車を後ろに付け、巨大な脂尾を乗せる』図等、ここで言っている不審顚が一気に解決する。必見!

「唐書」唐一代の歴史を記したもので「旧唐書(くとうじょ」と「新唐書」の二種があるが、孰れか不詳。

「每〔(まいとし)〕春月、脂を割り取り、再び之を縫〔ひ〕合〔はす〕。〔脂を〕取らざれば、卽ち脹〔(は)れて〕死す」これが事実かどうか、確認は出来なかった。

「地生羊〔(ぢせいよう)〕」キタ!!! って感じ! 植物と羊のハイブリッド奇怪生物「スキタイの羊」じゃん! ウィキの「バロメッツを引く。『バロメッツ(Barometz)は、黒海沿岸、中国、モンゴル、ヨーロッパ各地の荒野に分布するといわれた伝説の植物である。この木には、羊の入った実がなると考えられていた』。『スキタイの羊』(Scythian Lamb)『ダッタン人の羊』(Agnus Tartaricus)『リコポデウム』(Lycopodium)『とも呼ばれるこの木は、本当の名を「プランタ・タルタリカ・バロメッツ」』(Planta Tartarica Barometz)『といい、ヒョウタンに似ているものの、引っ張っても曲がるだけで折れない、柔軟な茎をもっているとされた』。『時期が来ると実をつけ、採取して割れば』、『中から肉と血と骨をつ子羊が収穫できるが、この羊は生きていない。実が熟して割れるまで放置しておくと』「ゥメー」と』『鳴く生きた羊が顔を出し、茎と繋がったまま、木の周りの草を食べて生き、近くに畑があれば食い散らかしてしまう。周囲の草がなくなると、やがて飢えて、羊は木とともに死ぬ。ある時期のバロメッツの周りには、この死んだ羊が集中して山積みになるので、それを求めて狼や人があつまって来るのだと言う。この羊は蹄まで羊毛なので無駄な所がほとんど無く、その金色の羊毛は重宝された。肉はカニの味がするとされた』。『この伝説は、ヨーロッパ人の誤解から生まれた物だと考えられている。バロメッツから採れる羊毛とされた繊維は木綿の事で、木綿を知らなかった当時のヨーロッパ人は「綿の採れる木」を「ウールを産む木」だと解釈して、この植物の伝説が産まれたとされる』とある。なお、一名の「リコポデウム」は現在のヒカゲノカズラ植物門ヒカゲノカズラ綱ヒカゲノカズラ目ヒカゲノカズラ科ヒカゲノカズラ属 Lycopodium の属名となっている。同種は広義のシダ植物に属するが、その姿は、寧ろ、巨大な苔(こけ)を思わせるものである。

羊〔(ふんよう)〕 土〔(つち)〕の精なり。其の肝は土なり。雌雄、有り。食はず。季桓子〔(きかんし)〕といふもの、曾つて土を掘りて、之れを得〔と〕」これは「捜神記」の第十二巻の以下に出るこれ。但し、そこでは「羊」はなく、「賁羊」である。訓読は自然流。

   *

季桓子穿井、獲如土缶、其中有羊焉、使問之仲尼、曰、「吾穿井其獲狗、何耶。」。仲尼曰、「以丘所聞、羊也。丘聞之、木石之怪、夔、『魍魎』。水中之怪、龍、『罔象』。土中之怪曰『賁羊』。」。夏鼎志曰、「『罔象』如三兒、赤目、黑色、大耳、長臂、赤爪。索縛、則可得食。」王子曰、「木精爲『遊光』、金精爲『淸明』也。」。

(季桓子[やぶちゃん注:春秋時代の魯(紀元前一〇五五年~紀元前二四九年)の大夫。]井を穿ち、土の缶(かめ)のごときを獲(え)、其の中に、羊、有り。使問之れを仲尼[やぶちゃん注:孔子の字(あざな)。]をして問はしむ。曰はく、「吾、井を穿つに、其れ、狗を獲る。何んぞや。」と。仲尼曰はく、「丘の聞く所を以つてせば、羊なり。丘、之れを聞くに、木石の怪、夔(き)[やぶちゃん注:古い伝承によれば一本足で、音楽と関わる神獣とするが、後に零落して概ね妖怪となった。]にして、『魍魎』といふ。水中の怪、龍にして、『罔象(まうしやう)』といふ。土中の怪、曰はく、『賁羊』と。」と。「夏鼎志(かていし)」[やぶちゃん注:不詳の書。]に曰はく、「『罔象』は三兒のごとく、赤き目、黑き色、大いなる耳、長き臂(ひ)、赤き爪たり。索縛せば、則ち、食ふを得べし。」と。「王子」[やぶちゃん注:不詳の書。]に曰はく、「木の精は『遊光』と爲し、金の精は『淸明』と爲すなり。」と。)

   *

「青羊」中文辞書では「黒い羊」とか、木の精霊とが、伝説上の凶神とある。]

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 晝のおもひ

  晝のおもひ

 

晝(ひる)の思(おもひ)の織(お)り出(い)でし紋(あや)のひときれ、

歡樂(くわんらく)の緯(ぬき)に、苦悶(くもん)の經(たて)の絲(いと)、

縒(よ)れて亂(みだ)るる條(すじ)の色(いろ)、あるは叫(さけ)びぬ、

あるはまた醉(ゑ)ひ痴(し)れてこそ眩(めくる)めけ。

 

今(いま)、夜(よる)の膝(ひざ)、やすらひの燈(ともし)の下(もと)に、

卷(ま)き返(かへ)し、その織(お)りざまをつくづくと

見(み)れば朧(おぼろ)に危(あやふ)げに、眠(ねぶ)れる獸(けもの)、

倦(う)める鳥(とり)――物(もの)の象(かたち)の異(こと)やうに。

 

裁(た)ちて縫(ぬ)はさむかこの巾(きれ)を、宴(うたげ)のをりの

身(み)の飾(かざり)、ふさはじそれも、終(つひ)の日(ひ)の

棺衣(かけぎぬ)の料(れう)、それもはた物狂(ものぐる)ほしや。

 

生(せい)にはあはれ死(し)の衣(ころも)、死(し)にはよ生(せい)の

空炷(そらだき)の匂(にほ)ひをとめて、現(うつつ)なく、

夢(ゆめ)はゆらぎぬ、柔(やはら)かき火影(ほかげ)の波(なみ)に。

 

[やぶちゃん注:目次」で判る通り、ここまでが、本詩集では「豹の血(小曲八篇)」とパート題された詩篇群である。八篇総てが四連構成の、七五七・五七五調交互調のソネット(Sonnet:十四行詩)であり、ここまでは、標題を含めて見開きで各一篇が読み終える、非常に読み易く心地よい版組となっている。

「空炷(そらだき)」「空薰き」とも書く。「炷(た)く」は別表記でも判る通り、「香をたく」の意に用いる。前もってたくか、別室でたくかなどして、人に知られぬよう、どこからともなく薫ってくるように香をたきくゆらすこと。或いは、どこからともなく匂ってくる良い香りを指す、平安以来の古語である。]

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 寂靜

 

  寂 靜

 

熟(つ)えて落(お)ちたる果(このみ)かと、噫(あゝ)見(み)よ、空(そら)に

日は搖(ゆら)ぎ、濃くも腐(あざ)れし光明(くわうみやう)は

喘(あへ)ぎ黃(き)ばみて灣(いりうみ)の中(なか)に滴(したた)り、

波(なみ)に溶(と)け、波(なみ)は咽(むせ)びぬたゆたげに。

 

磯回(いそわ)のすゑの圓石(まろいし)はかくれてぞ吸(す)ふ、

飽(あ)き足(た)らひ耀(かゞや)き倦(う)める夕潮(ゆふじほ)を、

石(いし)の額(ひたへ)は物(もの)うげの瑪瑙(めなう)のおもひ、

かくてこそ暫時(しばし)を深(ふか)く照(て)らしぬれ。

 

風(かぜ)にもあらず、浪(なみ)の音(おと)、それにもあらで、

天地(あめつち)は一(ひと)つ吐息(といき)のかげに滿(み)ち、

沙(いさご)の限(かぎ)り彩(あや)もなく暮(く)れてゆくなり。

 

たづきなさ――わが魂(たましひ)は埋(うづも)れぬ、

こゝに朽(く)ちゆく夜(よる)の海(うみ)の香(にほひ)をかぎて、

寂靜(じやくじやう)の黑(くろ)き眞珠(またま)の夢(ゆめ)を護(まも)らむ。

 

[やぶちゃん注:「熟(つ)えて」「熟(つ)える」は「熟しきって潰れる」の意。]

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 茉莉花

 

  

 

咽(むせ)び嘆(なげ)かふわが胸(むね)の曇(くも)り物憂(ものう)き

紗(しや)の帳(とばり)しなめきかかげ、かがやかに、

或日(あるひ)は映(うつ)る君(きみ)が面(おも)、媚(こび)の野(の)にさく

阿芙蓉(あふよう)の萎(ぬ)え嬌(なま)めけるその匂(にほ)ひ。

 

魂(たま)をも蕩(た)らす私語(さゝめき)に誘(さそ)はれつつも、

われはまた君(きみ)を擁(いだ)きて泣(な)くなめり、

極祕(ごくひ)の愁(うれひ)、夢(ゆめ)のわな、――君(きみ)が腕(かひな)に、

痛(いた)ましきわがただむきはとらはれぬ。

 

また或宵(あるよひ)は君(きみ)見(み)えず、生絹(すずし)の衣(きぬ)の

衣(きぬ)ずれの音(おと)のさやさやすずろかに

ただ傳(つた)ふのみ、わが心(こゝろ)この時(とき)裂(さ)けつ、

 

茉莉花(まつりくわ)の夜(よる)の一室(ひとま)の香(か)のかげに

まじれる君(きみ)が微笑(ほほゑみ)はわが身(み)の痍(きず)を

もとめ來(き)て沁(し)みて薰(かを)りぬ、貴(あて)にしみらに。

 

[やぶちゃん注:中央公論社「日本の詩歌」第二巻の解説によれば、本篇は明治四〇(一九〇七)年十月号『新思潮』創刊号(小山内薫による第一次)初出とある。

「茉莉花」(まつりか)はジャスミン茶として知られる、被子植物門双子葉植物綱シソ目モクセイ科ソケイ(素馨)属マツリカ Jasminum sambac。常緑半蔓性灌木で、インド・スリランカ・イラン・東南アジアなどに自生する。参照したウィキの「マツリカによれば、『サンスクリットのマリカー』『が語源』で、『中国語では(双瓣)茉莉、インドネシア語・マレー語ではムラティ』、『フィリピン語ではサンパギータ』、『ヒンディー語ではモグラ』、『ハワイ語ではピカケ』『で、日本でもこれらの名で呼ばれることがある』。『花は香りが強く、ジャスミン茶(茉莉花茶)などに使われる。ジャスミン茶は、マツリカの花冠で茶葉を着香する。ハーブオイルやお香などにも使われる』とある。「夜の一室の」とあるから、鉢植えのそれである。

「阿芙蓉」キンポウゲ目ケシ科ケシ属ケシ Papaver somniferum 或いはその仲間のケシ(芥子・opium poppy)類の別名。所謂、極めて危険な麻薬「アヘン」(阿片/鴉片/opium(オピウム))を採取する(実から採取される果汁を乾燥させたもの)あれである。ウィキの「アヘンによれば、『アヘンの名の由来は、英語名opiumの中国語の音訳である阿片(拼音:a piàn』(アー・ピエン)『を音読みしたもので』、『明代の中国、江戸時代の日本では』、「阿芙蓉(あふよう)」『と書いた』とある。ここは表現上はその生花の萎び饐えた匂いなのであるが、そこには陰(いん)にアヘンの匂いも漂うよう、確信犯でこの花が選ばれていると読むべきであろう。

「蕩(た)らす」誑(たぶら)かす。「誑す」も「たらす」と訓ずる。

「われはまた君(きみ)を擁(いだ)きて泣(な)くなめり」かつて大学の国語学の講義や、高校の古文を教えていて、激しく不満であり、今も不満であり続けるのは、「なめり」はそう書いてあっても「なんめり」と読まなければならない、という奇妙な鉄則である。ここでそう読んだら、その輩はインキ臭い教条主義に溺れた鼻高の糞アカデミストでしかなく、死ぬまで永久に詩や文学は判らぬであろう。

「ただむき」「腕(ただむき)」で、これは肘(ひじ)から手首までの間の部分を指す、狭義の「腕(うで)」である。「腕」を「かいな(歴史的仮名遣:かひな)と読んだ場合は、狭義には、その上部である「肩から肘までの二の腕」を指す(広義には「肩から手首までの間」の用法もある)。

「しみらに」「繁みらに」。副詞で「ひまなく連続して・一日中」の意。「しめらに」とも書き、万葉以来の古語。]

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 蠱の露

 

  蠱 の 露

 

文目(あやめ)もわかぬ夜(よる)の室(むろ)に濃(こ)き愁(うれ)ひもて

釀(か)みにたる酒(さけ)にしあれば、唇(くちびる)に

そのささやきを日(ひ)もすがら味(あぢは)ひ知(し)りぬ、

わが君(きみ)よ、間(たえま)もあらぬ誄辭(しぬびごと)。

 

何(なん)の痛(いた)みか柔(やはら)かきこの醉(ゑひ)にしも

まさらむや、嘆(なげ)き思(おも)ふは何(なに)なると

占問(うらど)ひますな、夢(ゆめ)の夢(ゆめ)、君がみ苑(その)に

ありもせば、こは蜉蝣(かげろふ)のかげのかげ。

 

見(み)おこせたまへ盞(さかづき)を、げに美(うる)はしき

おん眼(め)こそ翅(つばさ)うるめる乙鳥(つばくらめ)、

透影(すいかげ)にして浮(うか)び添(そ)ひ映(うつ)り徹(とほ)りぬ、

 

いみじさよ、濁(にご)れる酒(さけ)も今(いま)はとて

輝(かゞや)き出(い)づれ、うらうへに、靈(たま)の欲(ほ)りする

蠱(まじ)の露(つゆ)。――いざ諸共(もろとも)に乾(ほ)してあらなむ。

 

[やぶちゃん注:「蠱」(まじ)とは、「蠱じ物」の略(「厭魅」とも書く)。第一義では「呪(まじな)いをして対象のものを呪(のろ)うことやその邪悪な呪詛や修法を指すが、ここは、二義的な広義の「人を惑わすもの・魔性のもの」の謂いである。

「誄辭(しぬびごと)」「偲(しぬ)び言(ごと)」で、上代には「しのひこと」と清音であった。死者の生前の功徳を讃えて哀悼の意を述べる言葉。「誄詞(るいし)」。

「蜉蝣(かげろふ)」かく普通に一般人が用いた場合は真正の「カゲロウ」類である、

 

有翅亜綱旧翅下綱 Ephemeropteroidea 上目蜉蝣(カゲロウ)目 Ephemeroptera の仲間

に、その成虫の形状に非常によく似ている、真正でない「蜉蝣」である、

有翅昆虫亜綱内翅上目脈翅(アミメカゲロウ)目脈翅亜(アミメカゲロウ)亜目クサカゲロウ科 Chrysopidae に属するクサカゲロウ類

及び、

脈翅(アミメカゲロウ)目ウスバカゲロウ上科ウスバカゲロウ科 Myrmeleontidae に属するウスバカゲロウ類

を加えたものを指す。この「カゲロウ」の真正・非真正の問題は、私はさんざんいろいろなところで注してきたので、ここでは繰り返さない。未読の方は、最も最近にその決定版として詳細に注した、「生物學講話 丘淺次郎 第十九章 個體の死(4) 三 壽命」の私の冒頭注『「かげろふ」の幼蟲は二年もかかつて水中で生長する』以下をお読み戴きたい。

「うらうへ」「杪上」。梢やそこの葉の上。]

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 月しろ

 

  月 し ろ

 

淀(よど)み流(なが)れぬわが胸(むね)に憂(うれ)ひ惱(なや)みの

浮藻(うきも)こそひろごりわたれ黝(くろ)ずみて、

いつもいぶせき黃昏(たそがれ)の影(かげ)をやどせる

池水(いけみづ)に映(うつ)るは暗(くら)き古宮(ふるみや)か。

 

石(いし)の階(きざはし)頽(くづ)れ落ち、水際(みぎは)に寂(さ)びぬ、

沈(しづ)みたる快樂(けらく)を誰(たれ)かまた讃(ほ)めむ、

かつてたどりし佳人(よきひと)の足(あ)の音(と)の歌(うた)を

その石(いし)になほ慕(した)ひ寄(よ)る水(みづ)の夢(ゆめ)。

 

花(はな)の思(おも)ひをさながらの禱(いのり)の言葉(ことば)、

額(ぬか)づきし面(おも)わのかげの滅(き)えがてに

この世(よ)ならざる緣(えにし)こそ不思議(ふしぎ)のちから、

 

追憶(おもひで)の遠(とほ)き昔(むかし)のみ空(そら)より

池(いけ)のこころに懷(なつ)かしき名殘(なごり)の光(ひかり)、

月(つき)しろぞ今(いま)もをりをり浮(うが)びただよふ。

 

[やぶちゃん注:「浮(うが)びただよふ」はママ。「うが」の植字ミスであろう。

「月しろ」は「月白」「月代」で、熟語としては、「月が登る頃おい、東の空が白んで明るく見えること」を指す。但し、中央公論社「日本の詩歌」第二巻の解説によれば、本篇は明治四〇(一九〇七)年六月号『文庫』初出であるが、そこでの標題は「月魂(つきしろ)」とあるから、ここは薄白い月の姿を限定的に挿していると読んだ方が、全体から見てもしっくりくる。

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 靈の日の蝕

 

  靈の日の蝕

 

時(とき)ぞともなく暗(くら)うなる生(いのち)の扃(とぼそ)、――

こはいかに、四方(あたり)のさまもけすさまじ、

こはまた如何(いか)に我胸(わがむね)の罪(つみ)の泉(いづみ)を

何(なに)ものか頸(うなじ)さしのべひた吸(す)ひぬ。

 

善(よ)しと匂(にほ)へる花瓣(はなびら)は徒(あだ)に凋(しぼ)みて、

惡(あ)しき果(み)は熟(つ)えて墜(お)ちたりおのづから

わが掌底(たなぞこ)に、生溫(なまぬる)きその香(か)をかげば

唇(くちびる)のいや堪(た)ふまじき渴(かは)きかな。

 

聞(き)け、物(もの)の音(おと)、――飛(と)び過(す)がふ蝗(いなご)の羽音(はおと)か、

むらむらと大沼(おほぬ)の底(そこ)を沸(わ)きのぼる

毒(どく)の水泡(みなわ)の水(みづ)の面(も)に彈(はじ)く響(ひゞき)か、

 

あるはまた疫(えやみ)のさやぎ、野(の)の犬(いぬ)の

淫(たはれ)の宮(みや)に叫(さけ)ぶにか、噫(あゝ)、仰(あふ)ぎ見(み)よ、

微(かす)かなる心(こゝろ)の星(ほし)や、靈(たま)の日(ひ)の蝕(しよく)。

 

[やぶちゃん注:「淫(たはれ)の宮(みや)」これは単なる淫祠邪教の神の意ではなく、詩篇のニュアンスからも「淫宮」で、漢音訳「彌那」、古代インドの性愛的豊饒神ミトゥナのことを指していよう。インドのマディヤ・プラデーシュ州のカジュラーホー村にあるジャイナ教のパールシュバナータ寺院などにある、非常にエロティクな男女の交合像で表わされる神で、ウィキの「ミトゥナ」によれば、『男女一対の神像は』、『一日の時を支配する昼と夜』又は『月の神々として崇拝された。性愛の体位を多種多様に表現しており、ラクシュマン寺院の壁面彫刻では一男三女の組み合わせの性交図もある』とある。ウィキの画像をリンクさせておく。孰れのリンク先も自己責任でクリックされたい。]

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 若葉のかげ

 

  若葉のかげ

 

薄曇(うすぐも)りたる空(そら)の日(ひ)や、日(ひ)も柔(やは)らぎぬ、

木犀(もくせい)の若葉(わかば)の蔭(かげ)のかけ椅子(いす)に

靠(もた)れてあれば物(もの)なべておぼめきわたれ、

夢のうちの歌(うた)の調(しらべ)と暢(の)びらかに。

 

獨(ひとり)かここに我(われ)はしも、ひとりか胸(むね)の

浪を趁(お)ふ――常世(とこよ)の島(しま)の島(しま)が根(ね)に

翅(つばさ)やすめむ海(うみ)の鳥(とり)、遠(とほ)き潮路(しほぢ)の

浪枕(なみまくら)うつらうつらの我(われ)ならむ。

 

半(なかば)ひらけるわが心(こゝろ)、半閉(なかばと)ぢたる

眼(め)を誘(さそ)ひ、げに初夏(はつなつ)の芍藥(しやくやく)の、

薔薇(さうび)の、罌粟(けし)の美(うま)し花(はな)舞(ま)ひてぞ過(す)ぐる、

 

艷(えん)だちてしなゆる色(いろ)の連彈(つれびき)に

たゆらに浮(うか)ぶ幻(まぼろし)よ――蒸(む)して匂(にほ)へる

蘂(ずゐ)の星(ほし)、こは戀(こひ)の花(はな)、吉祥(きちじやう)の君(きみ)。

 

[やぶちゃん注:「浪」と「夢」のルビがないのはママ。これは意図したものではなく、校正・植字工のミスと思われる。

「趁(お)ふ」「追ふ」に同じい。「趁」は音「チン」で、「」は「人+彡(たくさん)」の会意文字で、「人の髪の毛がびっしりと詰っていること」を意味し、「前の人にぴったりとついて追うこと」が原義である。

蒲原有明 有明集 正規表現版 始動 口絵・中扉・献辞・目次 智慧の相者は我を見て

 

[やぶちゃん注:蒲原有明の名詩集「有明集」の正規表現版を始動する。

 蒲原有明(かんばらありあけ 明治八(一八七五)年(戸籍上は翌年)~昭和二七(一九五二)年)東京府麹町区(現在の千代田区)隼(はやぶさ)町生まれ。本名隼雄(はやお)。父忠蔵は佐賀県出身の官吏で、生母ツネは有明八歳のときに離別され、継母のもとで育った。東京府立尋常中学校(現在の日比谷高等学校)卒業後、神田錦(にしき)町の国民英学会で英文学を学ぶ。明治三一(一八九八)年『読売新聞』の懸賞小説(尾崎紅葉選)に一等当選したが、小説は二作を以ってやめ、以後、詩作に専念した。明治三五(一九〇二)年、第一詩集「草わかば」を新声社より刊行、薄田泣菫(明治一〇(一八七七)年~昭和二〇(一九四五)年と並ぶ新しい時代の詩人として世に迎えられた。第二詩集「獨絃哀歌」(明治三五(一九〇二)年白鳩社刊)では、「独絃調」とよばれる独特の詩律を創始し、一時代の流行を生み、また、第三詩集「春鳥集」(明治三八(一九〇五)年本郷書院刊)は、わが国で初めて象徴主義的志向を表明した詩集として知られる。その「自序」では、詩形の革新を図り、「邦語の制約を寬(ひろ)う」しながら、諸官能の交錯を通じて「近代の幽致」を表現すべきことが主張されている。しかし、有明の真に最高の詩的達成は、次の本詩集「有明集」であって、この詩集は、自ら言う、「感覺の綜合整調」の世界を十全に見せた、わが国象徴詩の一頂点と言われる。これ以後、彼は詩壇の第一線から退いてしまったが、生涯自作の改作推敲を続けた(私はしかし彼の改作は概ね改悪であると考えている。本注末にリンクした「牡蠣の殼」を見られたい)。ほかに随筆集「飛雲抄」(昭和一三(一九三八)年書物展望社刊)、自伝小説「夢は呼び交す」(昭和二三(一九四七)年東京出版刊)等がある(以上は概ね小学館「日本大百科全書」に拠った)。

 彼の第四詩集「有明集」は明治四一(一九〇八)年一月一日に易風社(東京市麹町区飯田町)より刊行された。平凡社「世界大百科事典」によれば、前に述べた通り、有明の詩業の頂点を成す詩集で、ソネット形式の「豹の血」八編を始め、孰れも文語定型による創作詩四十八編及び訳詩四編を収める。中でも「豹の血」に含まれる「智慧の相者は我を見て」・「月しろ」・「茉莉花」等は特に知られ、視覚・聴覚・嗅覚などさまざまな感覚が複雑に絡み合い、交響し合う〈感覚の総合整調〉の世界を実現している。掉尾に配された長編バラードの傑作「人魚の海」や、仏教的理念を基調として繊細幽暗な世界を歌った「秋のこころ」・「滅の香」などを含め、象徴詩の典型であるとともに,日本近代詩の記念碑的詩集の一つである、とする。但し、ウィキの「有明によれば、『近代詩の一つの到達点を示し、現在でこそ象徴詩の傑作とされているが、自然主義が詩壇の主流となり始めていた当時はさほど高く評価され』ず、『蒲原は』これを以って『詩作を断念する事になる』ともある。

 使用底本は所持する昭和五八(一九八三)年刊の日本近代文学館刊行・名著復刻全集編集委員会編・ほるぷ発売の「名著復刻 詩歌文学館 紫陽花セット」内の、明治四一(一九〇八)年一月月一日発行(印刷は前年明治四〇年十二月二十五日)の同詩集初版本を用いた。但し、加工用データとして「青空文庫」の「有明集」のテキスト・ファイル(底本:昭和四三(一九六八)年講談社刊「日本現代文学全集」第二十二巻「土井晚翠・薄田泣菫・蒲原有明・伊良子清白・横瀬夜雨集」/入力・広橋はやみ氏/校正・荒木恵一氏/登録二〇一四年七月/最終更新二〇一五年十月)を使用させて戴いた。ここに示して謝意を表する。但し、同テクストは旧字旧仮名を謳っているものの、「青空文庫」の文字コード規定により、新字のままの漢字が散見し、さらに同テクストの底本の関係上からか、ほぼ総ルビに近い原本がパラルビとなってしまっていて、失礼乍ら、私には納得のいかない不十分なものである(ルビの一部には歴史的仮名遣の誤りも認められる)。無論、私のこれも Unicode や中文フォントの示し得る範囲内で不完全とは言えるが、今までの各種の正規表現版同様、原詩の表字に近いものとする覚悟ではある。

 初版本の雰囲気を再現するために、活字は明朝とし、不審な箇所には詩篇の後にストイックに注を附した。踊り字「〱」は正字化した。一部で底本の画像を配した。但し、本詩篇中、読点の後に文字の詩句が続くケースでは、読点の後にほぼ一字分の空隙が配されてあるのであるが、これは再現すると、電子テクストでは間の抜けた感じになるので、再現しなかった。なお、初版本は四六判、丸背上製クロス製である。

 私は高校時代に読み、激しい衝撃を受けた、有明の「草わかば」の「牡蠣の殻」を愛唱し、永遠(とわ)に愛する人間である(私の古い記事「牡蠣の殻 蒲原有明《2バージョン》」を参照されたい)。【2019年2月14日始動 私の六十一歳の最後の日に 藪野直史】]

 

Ariake1

Ariake4

 

[やぶちゃん注:表紙と背。底本セットの解説書によれば、『装幀は斎藤松洲と思われる』とし、『表紙の墨色クロスには理念調エンボスがあり』、表紙と『背は金箔押しで、背の天地には子持罫の空押がある』とある。斎藤松洲(しょうしゅう明治三(一八七〇)年~昭和九(一九三四)年)は日本画家で、明治末期から昭和初期にかけて、本の装丁家・挿絵家として活躍したが、残念ながら、現在、目にすることの出来る画集は大正五(一九一六)年刊の「仰山閣画譜」のみで、事蹟資料は残っていない(ここは羊羹で知られる和菓子「とらや」公式サイト内の『斎藤松洲と「目食帖」』に拠った)。なお、本文と背の綴目の天地には綴じ布の組目が見えていて、実にお洒落である。上部のそれを部分画像で示した。]

 

Ariake2

 

[やぶちゃん注:口絵。同前解説書によれば、上質紙にコロタイプ印刷。この時代の著者近影としてはピントもよく、エッジも利いていて非常によい写真である。]

 

Ariake3

 

[やぶちゃん注:扉。著書近影の見開き左頁(ハトロン紙を挟む)。上質紙に赤色印刷。本文も上質紙である。]

 

 

   この歌のひと卷を亡き父の

   み靈の前にささぐ。

 

[やぶちゃん注:底本では中扉(左頁)の中央下方に下一字上げインデント二行で大きい活字で記されてあるが、ブログのブラウザの不具合を考えて引き上げて示した。底本のそれは個人的にはバランスが少しよくないように感ずる。今少しポイントを落とした方がよかった。

 以下、目次。リーダと『頁』数は略した。「プレエク」はママ。当該詩篇で注するが、これはイギリスの詩人ウィリアム・ブレイク(William Blake 一七五七年~一八二七年)の“The Fly”の訳詩である。]

 

 

   目   次

 

豹の血(小曲八篇)

 智慧の相者は我を見て

 若葉のかげ

 靈の日の蝕

 月しろ

 蠱の露

 茉莉花

 寂靜

 畫のおもひ

 偶感

 秋のこころ

 大河

 甕の水

 朱のまだら

 坂路

 不安

 

 燈火

 草びら

 孤寂

 この時

 音もなし

 夏の歌

 秋の歌

 苦惱

 癡夢

 滅の香

 底の底

 灰色

 われ迷ふ

 穎割葉

 沙は燬けぬ

 海蛆

 大鋸

 淨妙華

 信樂

 惡の祕所

 どくだみ

 碑銘

 かかる日を冬もこそゆけ

 橡の雨

 皐月の歌

 晚秋

 序のしらべ

 やまうど

 鐘は鳴り出づ

 水のおも

 おもひで

 眞晝(ロセチ)

 聖燈(ロセチ)

 『ルバイヤツト』より

 蠅(プレエク)

 人魚の海

 

 

  豹 の 血(小曲八篇)

 

[やぶちゃん注:パート標題。左頁の左位置に配されてある。ノンブルはここから新たに『――( 1 )――』となる。]

 

 

  智慧の相者は我を見て

 

智慧(ちゑ)の相者(さうじや)は我(われ)を見(み)て今日(けふ)し語(かた)らく、

汝(な)が眉目(まみ)ぞこは兆(さが)惡(あ)しく日曇(ひなぐも)る、

心弱(こゝろよは)くも人(ひと)を戀(こ)ふおもひの空(そら)の

雲(くも)、疾風(はやち)、襲(おそ)はぬさきに遁(のが)れよと。

 

噫(あゝ)遁(のが)れよと、嫋(たを)やげる君(きみ)がほとりを、

綠牧(みどりまき)、草野(くさの)の原(はら)のうねりより

なほ柔(やはら)かき黑髮(くろかみ)の綰(わがね)の波(なみ)を、――

こを如何(いか)に君(きみ)は聞(き)き判(わ)きたまふらむ。

 

眼(め)をし閉(とづ)れば打續(うちつゞ)く沙(いさご)のはてを

黃昏(たそがれ)に頸垂(うなだ)れてゆくもののかげ、

飢(う)ゑてさまよふ獸(けもの)かととがめたまはめ、

 

その影(かげ)ぞ君(きみ)を遁(のが)れてゆける身(み)の

乾(かは)ける旅(たび)に一色(ひといろ)の物憂(ものう)き姿(すがた)、――

よしさらば、香(にほひ)の渦輪(うづわ)、彩(あや)の嵐(あらし)に。

 

[やぶちゃん注:本詩篇は、所持する中央公論社「日本の詩歌」第二巻の解説によれば、明治四〇(一九〇七)年六月号『文章世界』で、後の「若葉のかげ」「靈の日の蝕」『そのほかと共に』(この「そのほか」が何をを指すかは今のところ、私は不明。判ったら、追記する)、「皐月野」という総代で発表された、とある。

[やぶちゃん注:「綰(わがね)」ナ行下二段活用の動詞「綰ぬ」の連用形或いは連用形が名詞化したもの。集めて一つに纏めたもの。撓(たわ)めて輪にしたもの。

 因みに、冒頭注で述べ、「牡蠣の殻 蒲原有明《2バージョン》」でも後年の改悪例を示しているが、それは後の大正一一(一九二二)年刊の「有明詩集」で旧作の殆どに対して断行され、その後も亡くなるまで改変をやり続けた(一部の詩篇は最終的に旧の形に戻したものもある)。例えば(私は彼の改作の殆どを認めないので、総てについては示すつもりはない。それは寧ろ、有明のミューズへの配慮のためである)、本篇の場合を、後の彼の自選詩集「有明詩抄」(昭和三(一九二八)年岩波文庫刊)から引いてみよう。

   *

 

  智慧の相者は我を見て

 

「智慧(ちゑ)」の相者(さうじや)は我を見て警(いまし)めていふ。

汝(な)が眼(まみ)は兆(さが)惡(あ)しく日曇(ひなぐも)れ、

心弱くも他人(あだしびと)戀(こ)ひわたりなば、

夜(よ)の疾風(はやち)やがて襲(おそ)はむ、遁(のが)れよと。

 

噫、遁れよと、嫋(たを)やげる君がほとりを、

綠牧(みどりまき)、草野(くさの)の原のうねりよりも

なほ柔(やはら)かき黑髮の綰(わがね)の波を、――

そを如何に君は聞き判(わ)きたまふらむ。

 

眼(め)をし閉(とづ)れば黃昏(たそがれ)の沙(いさご)の涯(はて)を

頸垂(うなじた)れ辿(たど)りゆく影の浮かび來(く)る、――

飢(う)ゑてさまよふ獸(けもの)かと、咎(とが)めたまはじな。

 

これぞわがうらぶれ姿(すがた)、惡醜(いなしこ)め。

今は惑はず、渦潮(うづしほ)の戀におもむき、

湍(たぎ)ち湧(わ)く海に禊(みそ)がむ。溺(おぼ)るるもよし。

 

   *

「惡醜(いなしこ)め」は形容詞ク活用の語幹の詠嘆用法として一語で採って読みを振った。「いな」は嫌悪の感情を表わす感動詞由来で、「しこめ」は「醜(しこめ)し」で、合わせて「なんと醜悪であることか!」「穢れているものよ」の意である。既に「古事記」の「上つ巻」の、知られた伊耶那岐の黄泉国(よみのくに)から帰還した後、日向の海岸で禊をする直前に「吾は伊那志許米上志許米岐(イナシコメシコメキ)穢き國に到りて在りけり」と出る上代語である(最終連はまたそのシークエンスをも有明は意識している)。にしても! 《変性した脳による自己改竄》とでも言うべき《惨憺たる〈壊変〉》ではないか! 中央公論社「日本の詩歌」第二巻の解説には、日夏耿之介の批判を以下のように載せている(太字は底本では傍点「ヽ」)。

   《引用開始》

『有明詩集』では、第一行目の「今日し語らく」を「警(いまし)めていふ」と改訂し、その後『定本』にいたるまで、これを踏襲しているが、この点について日夏耿之介はつぎのように批判する。「簡勁[やぶちゃん注:「かんけい」は、詩文が簡潔で力強いこと。]の一句がけふというカ行を頭にした堅い言葉と〈語らく〉というカ、タ、ラというような烈しい語音からなる言葉をつなぐに、という力強い一語をもって緊迫してあり、〈警めていふ〉というような力の弱い(略)しかも説明的な余情に乏しい語句になっている点、到底旧作の神韻に及ばないのである」(『明治大正詩誌史』)

   《引用終了》

この日夏の指摘は正鵠を射ている。]

2019/02/13

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(20) 「河童ト猿ト」(3)

 

《原文》

 【猿猴淵】猿ノ水中ニ住ムト云フコトハ何分ニモ信ジ難キ話ナレドモ、兎ニ角昔ノ人ハ此ノ如キ一種ノ猿ヲ見聞セシ者多カリキト覺シク、今モ府縣ノ地名ニ猿ケ淵又ハ猿猴淵ナドト云フモノ少ナカラズ。例ヘバ

  石見美濃郡匹見下村大字落合矢尾小字猿猴ケ淵

  同 邑智郡長谷村大字長谷山中小字猿猴淵

  土佐長岡郡天坪村大字北瀧本エンコウ淵

  同 幡多都下川口村大字宗呂エンコウ淵

  下野下都賀郡富山村大字富田猿淵

  武藏入間郡南高麗村大字下直竹猿淵

  越前足羽郡東鄕村大字下昆沙門猿ケ淵

  美作苫田郡東一宮村大字東一宮猿淵

等ノ如シ。【エンコザル】我々ノ幼時ニハ、文人畫ニ畫カルヽ一種手ノ長キ猿ノミヲ「エンコザル」ト呼ビタリキ。猿猴ノ月ヲ捉フル話ハ必ズシモ物ノ譬ニハアラズ。大和ノ猿澤池ノ如キハ昔多クノ猿集リ手ト手ヲ組ミテ梢ヨリ水ノ月ヲ取ラントセシガ、最初ノ猿手ヲ放チシ爲悉ク池ニ落チテ死ス。其猿共ヲ埋メテ驗ノ松ヲ栽ヱ今モ存スト云ヘリ〔所歷日記〕。其顚末ノ越中駒見(マミ)ノ狼婆ト似タルハ一奇ナリ。【水ノ月】右ノ猿猴淵ト云フ地名ノ由來モ、恐クハ亦此物水底ノ月ヲ採ラントセシ故跡ナドト明スル老人アルべケレド、實際ハヤハリ他ノ地方ノ河童淵又ハ川子淵ト同樣ニ、其地ニハ曾テ此ノ如キ猿ノ住ミシ時代アリシモノト解スべキナリ。【中山神】美作ノ猿淵ハ一宮中山神社ノ猿ナルべシ。此社ノ猿ハ今昔物語以來有名ナリ。今モ明神ノ神使トシテ崇敬セラレ、一宮村ノ贄殿谷(ニエドノダニ)又ハ同郡西苫田村大字小原ニ猿ノ祠アリ。每月十二日ノ夜ニ宮ノ靈猿必ズ黑澤山ニ登リ佛殿ノ中ニ宿ス。風雨霜雪ノ夜ト雖缺クコトナシ。【通夜猿】之ヲ名ヅケテ通夜猿ト云フ。一宮村大字東田邊ノ石原川ニモ猿淵アリ(或ハ前ノ猿淵ト同ジキカ)。一宮神社ノ使ノ猿此村ノ湯原山王ニ來ルトキ、每ニ此淵ニ入リテ齋浴スル故ニ此名アリト云フ〔作陽志〕。若狹遠敷(ヲニフ)郡宮川村大字加茂ト、同郡野木村大字上野木トノ境ノ山ノ麓ニ、猿陪淵ト云フ處アリ。【賀茂明神】太古賀茂明神降臨ノ折ニ之ニ供奉シタル白猿此淵ニ姿ヲ現ハス。淵ノ底ニハ明神ノ冠石(カンムリイシ)ト云フ一箇ノ小石アリ。【雨乞】旱魃ノ年ニハ雨乞トシテ水中ヨリ右ノ小石ヲ抱キ上グレバ驗アリ〔若狹郡縣志〕。此等ノ白猿又ハ靈猿ハ御伽噺ノ中ノ猿ノ如ク、水ノ中ニ入ルコトヲ意トセズ。恐クハ卽チ安藝ノ淵猿ヤ三河ノ河猿ト同族ニシテ、其昔何カ然ルべキ由緖アリテ、土地ノ者ヨリ永ク尊崇ヲ受クルニ至リシナランカ。而シテ其尊崇ノ起原ニ至リテハ後ニ猶アリ。

 

《訓読》

 【猿猴淵】猿の水中に住むと云ふことは、何分にも信じ難き話なれども、兎に角、昔の人は此(かく)のごとき一種の猿を見聞(みきき)せし者多かりきと覺しく、今も府縣の地名に「猿ケ淵」又ハ「猿猴淵」などと云ふもの、少なからず。例へば、

  石見美濃郡匹見下(ひきみしも)村大字落合矢尾小字猿猴ケ淵

  同 邑智(おうち)郡長谷村大字長谷山中小字猿猴淵

  土佐長岡郡天坪(あまつぼ)村大字北瀧本エンコウ淵

  同 幡多都下川口村大字宗呂(そうろ)エンコウ淵

  下野(しもつけ)下都賀(しもつが)郡富山村大字富田(とみだ)猿淵

  武藏入間郡南高麗(みなみこま)村大字下直竹(しもなほたけ)猿淵

  越前足羽(あすは)郡東鄕村大字下昆沙門猿ケ淵

  美作(みまさか)苫田(とまた)郡東一宮村大字東一宮猿淵

等のごとし。【エンコザル】我々の幼時には、文人畫に畫(ゑが)かるゝ、一種、手の長き猿のみを「エンコザル」と呼びたりき。猿猴の月を捉ふる話は、必ずしも物の譬へにはあらず。大和の猿澤の池のごときは、昔、多くの猿、集り、手と手を組みて、梢より水の月を取らんとせしが、最初の猿、手を放ちし爲め、悉く池に落ちて死す。其の猿共を埋めて驗(しるし)の松を栽ゑ、今も存すと云へり〔「所歷日記」〕。其の顚末の越中駒見(まみ)の狼婆(おほかみばば)と似たるは一奇なり。【水の月】右の猿猴淵と云ふ地名の由來も、恐らくは亦、此の物、水底(みなそこ)の月を採らんとせし故跡などと明する老人、あるべけれど、實際は、やはり他の地方ノ河童淵又は川子淵と同樣に、其の地には、曾て此(かく)のごとき猿の住みし時代ありしものと解すべきなり。【中山神】美作の猿淵は一宮中山神社の猿なるべし。此の社(やしろ)の猿は「今昔物語」以來、有名なり。今も「明神の神使」として崇敬せられ、一宮村の贄殿谷(にえどのだに)又は同郡西苫田村大字小原に猿の祠(ほこら)あり。每月十二日の夜に、宮の靈猿、必ず、黑澤山に登り、佛殿の中に宿す。風雨霜雪の夜と雖も、缺(か)くことなし。【通夜猿】之れを名づけて「通夜猿」と云ふ。一宮村大字東田邊(ひがしたなべ)の石原川にも猿淵あり(或いは前の猿淵と同じきか)。一宮神社の使ひの猿、此の村の湯原山王に來たるとき、每(つね)に此の淵に入りて齋浴(さいよく)する故に此の名あり、と云ふ〔「作陽志」〕。若狹遠敷(をにふ)郡宮川村大字加茂と、同郡野木村大字上野木との境の山の麓に、猿陪淵(さるべのふち)と云ふ處あり。【賀茂明神】太古、賀茂明神、降臨の折りに、之れに供奉したる白猿、此の淵に姿を現はす。淵の底には「明神の冠石(かんむりいし)」と云ふ一箇の小石あり。【雨乞(あまごひ)】旱魃の年には雨乞として、水中より右の小石を抱き上ぐれば、驗(しるし)あり〔「若狹郡縣志」〕。此等の白猿又は靈猿は、御伽噺(おとぎばなし)の中の猿のごとく、水の中に入ることを意とせず。恐らくは、卽ち、安藝の淵猿や三河の河猿と同族にして、其の昔、何か然るべき由緖ありて、土地の者より永く尊崇を受くるに至りしならんか。而して、其の尊崇の起原に至りては、後に、猶ほ、あり。

[やぶちゃん注:「石見美濃郡匹見下(ひきみしも)村大字落合矢尾」現在の島根県益田市匹見町落合矢尾(グーグル・マップ・データ。以下同じ。なお、以下もそうだが、淵名が残るかどうかまでは調べていない。悪しからず)。

「同 邑智(おうち)郡長谷村大字長谷」現在の島根県江津市桜江町長谷か。但し、北の区域外に「山中」の地名が別に残る。

「土佐長岡郡天坪(あまつぼ)村大字北瀧本」現在の土佐山田町北滝本

「同 幡多都下川口村大字宗呂(そうろ)」現在の高知県土佐清水市宗呂

「下野(しもつけ)下都賀(しもつが)郡富山村大字富田(とみだ)」現在の栃木県栃木市大平町富田か。ただ、現行のこの附近には河川がない。二キロほど東に永野川があるが。

「武藏入間郡南高麗(みなみこま)村大字下直竹(しもなほたけ)」現在の埼玉県飯能市下直竹

「越前足羽(あすは)郡東鄕村大字下昆沙門」現在の福井県福井市下毘沙門町(ちょう)

「美作(みまさか)苫田(とまた)郡東一宮村大字東一宮」現在の岡山県津山市東一宮

「文人畫に畫(ゑが)かるゝ、一種、手の長き猿」グーグル画像検索「手長猿 文人画」を見られたい。

「猿猴の月を捉ふる話は、必ずしも物の譬へにはあらず。大和の猿澤の池のごときは、昔、多くの猿、集り、手と手を組みて、梢より水の月を取らんとせしが、最初の猿、手を放ちし爲め、悉く池に落ちて死す。其の猿共を埋めて驗(しるし)の松を栽ゑ、今も存すと云へり〔「所歷日記」〕」書名注は付けない原則だが、この「所歷日記」というのは、江戸小伝馬町牢屋奉行で国学者でもあった石出吉深(いしでよしふか 元和元(一六一五)年~元禄二(一六八九)年)が書いたもので、寛文四(一六六四)年に成立した。官務の疲れを癒すために有馬温泉に湯治した際の紀行見聞記である。ウィキの「猿沢池」によれば、この池は『興福寺が行う「放生会」の放生池として』、天平二一(七四九)年に『造られた人工池である。放生会とは、万物の生命をいつくしみ、捕らえられた生き物を野に放つ宗教儀式である』とし、『猿沢池のほとりにある采女神社(うねめじんじゃ)は、帝の寵愛が衰えたことを嘆き悲しんで入水した采女を慰めるために建てられたという』とあり、『猿沢池の名前の由来は、インドのヴァイシャーリー国』(毘舎離(びしゃり)・吠舎離とも表記し、古代インドの十六大国の一つであったヴァッジ国内にあった商業都市国家。『リッチャヴィ族(離車族)の住んでいた地域で、自治制・共和制が敷かれ、通商貿易が盛んで、自由を尊ぶ精神的雰囲気があったと言われている』。『釈迦の時代においてもよく知られた商業都市であり、仏典にも数多くその名が見られ、仏教教団自体にも強い影響を与えており、仏教僧団を意味する「サンガ」(僧伽)という言葉は、元々はこの地域に発生した商工業者の同業組合や共和制を意味する言葉であり、その仕組みを仏教教団側が採用したことから、仏教僧団がこの名で呼ばれるようになった』。『初期仏教教団における特異な在家信徒(後に出家)である遊女アンバパーリーが住んでいたことや、仏教経典の第』二『回結集が行われたことで有名。ここはウィキの「毘舎離」に拠った)『の猴池(びこういけ)から来たものと言われている。猴の字義としては、尾の短い種類のサルをさしている』とする。放生池で入水自殺した采女もなんだかなと思うが、ここで柳田が言っているのはその入水した采女塚なのではないかなどと考えてみたりもしたが、笹本正治氏の論文「猿沢池が血に染まる――伝承と場のイメージ――PDF)の猿沢の池の「名前の由来解釈」によれば、『元禄九(一六九六)年の自序を持つ『行嚢抄』[やぶちゃん注:江間氏親の旅の見聞を記した紀行文。]は、猿沢池の名称由来の一つを、昔この池の辺に猿が多く集まり、池の水に映っていた月影を見て、影を取ろうと手に手を取って組み、池に臨んだが、一疋の猿が手を離したので、猿が多く池の水の中に入って溺死した。それから猿沢と名づけた。溺死した猿を埋めたしるしとして、池の傍に松があると説明する(『古事類苑地部一二』一三一二頁)』とあった。柳田の記載はこれに基づくものであろう。

「越中駒見(まみ)の狼婆(おほかみばば)」既出既注。なお、現行の地名は「こまみ」であり、「ちくま文庫」版でも『こまみ』と振る。但し、サイト「日本姓氏語源辞典」の「万見(まんみ)」には、『富山県富山市。富山県富山市駒見(コマミ(旧:万見))発祥。室町時代から記録のある地名。地名と姓はマミと発音した』。この「万見」姓は『戦国時代・安土桃山時代の武将である織田信長の家臣として安土桃山時代に記録』があり、『古くは「まみ」と読んだのかも知れぬ』とあるので、柳田のルビが正統。ただ、既出部では柳田はルビを振っていない

「實際は、やはり他の地方ノ河童淵又は川子淵と同樣に、其の地には、曾て此(かく)のごとき猿の住みし時代ありしものと解すべきなり」無論、言うまでもなく、霊長目直鼻亜目真猿下目狭鼻小目ヒト上科テナガザル科 Hylobatidae のテナガザル類(通臂猴のモデル)は本邦には今も昔も棲息せず、『インド東端を西限、中国最南端を北限とし、バングラデシュ・ミャンマー・インドシナ半島を経て、マレー半島からスマトラ島、ジャワ島西部、ボルネオ島に至る地域』を分布域とする。但し、『千年ほど前には黄河以北にも生息していたことが中国の文献に記載されて』は『いる』とウィキの「テナガザルにはある。

「一宮中山神社」現在の岡山県津山市一宮にある、美作国一宮中山神社。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「中山神社」によれば、『社名は現在』は『「なかやま」と読むが、かつては「ちゅうぜん」「ちゅうざん」と音読みしていた。別称として「仲山大明神」や「南宮」とも』呼んだ。ここには境内に「猿神社」があり(リンク先は同ウィキの画像)、祭神は猿多彦神で『本殿裏に鎮座』し、「今昔物語集」等の『記述は』、『この猿神社に由来するものと伝える』とあり(次の注のリンク先の方が詳細)、柳田も「此の社(やしろ)の猿は「今昔物語」以來、有名なりと記すが、その「今昔物語集」の「巻第二十六」の「美作國神依獵師謀止生贄語第七」((美作(みまさか)の國の神、獵師の謀(はかりごと)に依りて生贄(いけにへ)を止(とど)めし語(こと) 第七(しち))は、既に私の「柴田宵曲 妖異博物館 人身御供」で電子化しているので、そちらを参照されたい

「一宮村の贄殿谷(にえどのだに)又は同郡西苫田村大字小原」個人サイト「戸原のトップページ」の中の「中山神社」に、『当地には猿にかかわる伝承が幾つかあり、管見したものとして』と前振りをなさって、柳田が示す「作陽志」の「苫南郡神社部」からとして、『猿休 華表を去ること十三町、石有りて猿の腰懸と名づく。往年、津山の士人、採りて仮山に安ず、其の夜怪異無数、其の人大いに怖れ本拠に還す』(「猿休」は「さるやすみ」と読むか。以下を含め、国立国会図書館デジタルコレクションの「作陽志」の当該部の画像が見られる。但し、一部(画面左端の「贄殿谷」(以下、後のページに続く)の条の「宇治拾遺物語」の引用等)を除き、総て漢文)。『旧説によれば、猿を以て一宮(当社)の使獣と為す。是故、贄殿谷に猿祠有り。小原村亦之有り。今、道祖神と為す、蓋し道祖神は猿田彦命に因みて付会し名付けしものにて笑ふべし』。『又、黒沢山の僧云、曾て一宮に異猿有り、毎月十二日夜』、『黒沢山に上りて仏殿に寝る。雨風霜雪の夜と雖も之に関わらず。名づけて通夜猿と云』ふ、とあり、また、「美作風土略」(宝暦一二(一七六二)年成立)の「中山神社」の項には、『此宮の使者は猿也。吉備の宮(吉備津神社)に使いする事』、『ままあり。さだまれる休所ありて、稀に見たる人も有り』とある。また、サイト主は、この中山神社及び周辺地域の猿神伝承について、『猿は山の神の使いであり(日吉神社等)、古代象形文字で、神を』「申」『(シン・サル)と記すように神(ここでは山の神)そのものともされる』『また、山の神は農耕に必要な水をもたらす水の神でもあり、里にあっては田の神・農耕の神となるという』。『この説話の原姿は、里の女(巫女)が神(山神=水神)を迎えて豊かな水の供給と穀物の豊饒を祈願し、その妻となって御子を産むというもので、時代が下るにつれて、到来する神が生贄を求める邪神に、巫女が生贄となる女性へと変化したものという』。『当社の猿神祭神説は、伝承にいう神顕現以前の素朴な山の神信仰をあらわしているのかもしれない』と述べておられ、極めて肯んぜられる見解と思う。「贄殿谷」という地名は、この中山神社本殿裏手にある「猿神社」のある旧地名ではあることが、サイト主は、『社殿左手に立つ猿神社と染め抜かれた赤い幟から、細い地道を約』五『分ほど進んだ左手の山腹に鎮座する小祠』で、『道から祠までは、折れ曲がった参道(山道)を登るが、手すりがあり』、『難路ではない』とされ、『栞によれば、「今昔物語』二十六『巻にみえる中山の猿の霊を祀るとされ、現在、猿田彦神として祀られる。牛馬の安産守護の神として信仰をうけ、今も尚、ぬいぐるみの小猿を奉納する風習が残る」』とする。「同郡西苫田村大字小原」の方は、岡山県津山市小原に「西苫田公民館」の名を現認出来る(グーグル・マップ・データ)。但し、こちらに猿の祠が現存するかどうかは判らぬ。

「一宮村大字東田邊の石原川」岡山県津山市一宮東田辺(グーグル・マップ・データ)。但し、現行のここは中山神社の北西一・七キロメートルの位置にあり、大きな河川は周辺にない。柳田は「或いは前の猿淵と同じきか」というのは、ずっと手前の中山神社近くにあった猿淵で沐浴したと推定したことを指すものである。

「湯原山王」不詳。「作陽志」のこちらに(返り点は省略した)。

   *

山王權現 在東田邊村此村之氏神也祭祀九月八日封内方廿間

   *

とあるのがそれか? 但し、柳田の引用は同書の「部」の「石原川」(返り点は省略した)。

   *

石原川 在東田邊村此川有猿淵俗獼猴者一宮使獸也爲神奉使湯原山王【在此村】則每浴齋于此因名源出於黑澤又遠保谷惠比谷【出於黑澤山硯岩】等溪水會此川入田邊川

   *

「若狹遠敷(をにふ)郡宮川村大字加茂と、同郡野木村大字上野木との境の山の麓」中心部附近であろう(グーグル・マップ・データの航空写真)。現在の福井県小浜市加茂及び福井県三方上中郡若狭町武生の間に丘陵がある。

「賀茂明神」上記のリンクの地図に「加茂神社」を現認出来る。因みに、南方熊楠の「十二支考 猴に関する伝説」(大正九(一九二〇)年)に、

   *

 猴を神使とせる例、『若狭(わかさ)郡県志』に上中郡賀茂村の賀茂大明神降臨した時白猿供奉(ぐぶ)す、その指した所に社を立てた。飛騨宕井戸村山王宮は田畑の神らしい。毎年越中魚津村山王より一両度常のより大きく薄白毛の猴舟津町藤橋を渡りてここへ使に参る(『高原旧事』)、江州(ごうしゅう)伊香(いか)郡坂口村の菅山寺は昔猴が案内して勅使に示した霊地の由(『近江輿地誌略』九〇)、下野(しもつけ)より会津方面にかけて広く行わるる口碑に、猿王山姫と交わり、京より奥羽に至り、勇者磐次磐三郎を生む、猿王二荒神を助け赤城神を攻めて勝ち、その賞に狩の権を得、山を司ると(『郷土研究』二の一、柳田氏の説)。

   *

「明神の冠石(かんむりいし)」不詳。]

アリス蘇生夢

今朝方の夢――

私は妻と、蟻地獄の底のような場所の古びた一つの民家に住んでいる。
 
[やぶちゃん注:阿部公房の「砂の女」(一九六二年発表)の勅使河原宏監督の映画版(一九六四年公開)によく似ていた。しかし全体は黒澤明の「どん底」(一九五七年)のそれに近い。]

底の地中には温泉があって、気がつくと、私の家の脇には大きな古びた湯治宿も建っていたりする。温かく、その引火性のガスが宿部屋に配された筒状の人工の噴気孔から噴き出していたりするのである。私はその大部屋に入って行くのだが、その焰を強くし過ぎて、その脇にあった布団の白いカバーの一部を黒焦げにしてしまった。私はそれを仲居の、和服日本髪の少女に謝りながら告げると、少女は、
「そういうことはよくあるのであります。」
と言って微笑して、手際よく、そのカバーを外して、取り替えて呉れるのであった。
 
[やぶちゃん注:それはもう、言わずもがな、つげ義春の漫画にそっくりな少女とシチュエーションの映像なのであった。]

私は私の家を改築をしようと、建具などを出し入れしている。合間に、外に出した古いレコード・プレイヤーのカートリッジを替えて(途中、ウェイトが重過ぎて、針が上がり気味なのが気になるのだが、レコードはかけられた)何かのレコードをかけて聴いたりもしている。
 
[やぶちゃん注:残念なことに、そのレコードが誰の何だったのかをどうしても思い出せない。因みに、私のレコード・プレーヤーは、十年以上前、ターン・テーブルの回転ムラが起こるようになって以来、一度も使っていない。七百枚以上はあるレコードはそのまま死蔵している。これは昨日の夕刻、レコードを売らないかというその手の業者から電話があったのが直接には起因であろう。無論、断った。]

私は崩れた外周の一部の斜面を掘っている。上部にはアスファルトの断面がある。してみれば、ここは地震によって生じた陥没地帯であるらしい。

――そのアスファルトと砂の間から、一昨年、埋葬した三女のアリスの姿が見えた。
 
[やぶちゃん注:実際には動物葬祭業者に火葬にして貰っている。但し、二女のアリスは私の家の梅の木の脇の枇杷の下に、母と私と二人で埋葬した。]

しかし、彼女の姿は遺体ではなく、生きているのであった。

私が手を添えると、眼を開き、首を回して、私の手を舐めるのであった。

傍で穴掘りを手伝って呉れていた獣医の先生が応急処置をして、彼女はすっかり元のアリスに戻ったのであった。
[やぶちゃん注:この実在する家の近くの先生が、私が望んだ三女アリスの安楽死の処置をして下さった。]

この蟻地獄のような場所は実は「砂の女」のような出られぬ地獄ではなかった。

最後のシーンで私は、そこを出て、アリスを散歩させていたから。

アリスは、まだ、勘が戻らないのか、時々、無暗に突進して人家の壁にぶつかって、コロンと転げては、尻尾を振って、私の元へと走って来たりするのであった……

 

2019/02/12

和漢三才圖會卷第三十七 畜類 鮓荅(へいさらばさら・へいたらばさら) (獣類の体内の結石)

 

Heisa

 

へいさらばさら

へいたらばさら

       【二名共蠻語也】

鮓荅

 

 タ

 

本綱鮓荅生走獸及牛馬諸畜肝膽之間有肉囊裹之多

至升許大者如雞子小者如栗如榛其狀白色似石非石

似骨非骨打破層疉可以祈雨輟耕録所載鮓荅卽此物

也曰蒙古人禱雨惟以浄水一盆浸石子數枚淘漉玩弄

密持咒語良久輙雨石子名鮓荅乃走獸腹中所産獨牛

馬者最妙蓋牛黃狗寶之類也鮓荅【甘鹹平】治驚癇毒瘡

△按自阿蘭陀來有平佐羅婆佐留其形如鳥卵長寸許

 淺褐色潤澤似石非石重可五六錢目研磨之有層層

 理如卷成者主治痘疹危症解諸毒俗傳云猨爲獵人

 被傷其疵痕成贅肉塊也蓋此惑也乃爲鮓荅也明

 矣

 

 

へいさらばさら

へいたらばさる 【二名共に蠻語なり。】

鮓荅

 

 タ

 

「本綱」、鮓荅〔(さたふ)〕[やぶちゃん注:今までのやり方では標題の読み「へいさらばさら」或いは「へいたらばさる」で読むことになるが、それは如何にも面倒であるので、通常のこちらの読みで統一する。]は走獸及び牛馬諸畜の肝膽の間に生ず。肉嚢有りて、之れを裹〔(つつ)〕む。多きは升〔(しやう)〕許りに至る。大なる者は雞子〔(にはとりのたまご)〕のごとく、小なる者は栗のごとく、榛(はしばみ)のごとし。其の狀〔(かた)〕ち、白色〔にして〕、石に似て、石に非ず。骨に似て、骨に非ず。打ち破れば、層疉〔(さうでふ)〕す。以つて、雨を祈るべし。「輟耕録」に載する所の「鮓荅」は、卽ち、此の物なり。曰く、蒙古(むくり)の人、雨を禱〔(いの)〕るに、惟だ淨水一盆を以つて、石子〔(せきし)〕[やぶちゃん注:小石。]數枚を浸し、淘-漉〔(すすぎこ)〕し、玩弄し[やぶちゃん注:水で何度も洗い濯(すす)いでは、水の中で転がし、という意。]、密〔(こまや)か〕に咒語〔(じゆご)〕[やぶちゃん注:呪(まじな)いの呪文。]を持〔(じ)〕すれば[やぶちゃん注:呪文を用いて唱えれば。]、良〔(やや)〕久しくして、輙〔(すなは)〕ち、雨(〔あめ〕ふ)る。〔この〕石子を鮓荅と名づく。乃〔(すなは)〕ち、走獸の腹中に産する所〔のものなり〕。獨り、牛馬の者〔は〕、最も妙なり』〔と〕。蓋し、「牛黃〔(うしのたま)〕」・「狗寶〔(いぬのたま)〕」[やぶちゃん注:。]の類ひなり。鮓荅【甘鹹、平。】は驚癇[やぶちゃん注:漢方で言う癲癇症状のこと。]・毒瘡を治す。

△按ずるに、阿蘭陀〔(オランダ)〕より來たる「平佐羅婆佐留〔(へいさらばさら)〕」有り。其の形、鳥-卵(たまご)のごとく、長さ、寸許り、淺〔き〕褐(きぐろ)色、潤澤〔たり〕[やぶちゃん注:ある程度の水気を帯び、光沢があることを言う。]。石に似て、石に非ず。重さ、五、六錢目可(ばか)り[やぶちゃん注:日本の単位ではないので、明代のそれとすれば、一銭は三・七三グラムであるから、十八・六五から二十二・三八グラムで、二十グラム前後となる。]。之れを研磨すれば、層層たる理(すぢ)有りて、卷き成す者のごとし。痘疹の危症[やぶちゃん注:天然痘の重篤化したもの。]を治すを主〔(つかさど)〕る。諸毒を解すと〔いふ〕。俗傳に云はく、『猨〔(さる)〕、獵人の爲に傷せられ、其の疵-痕(きづ)、贅(こぶ)と成りて〔→たる〕肉-塊(かたまり)なり』と。蓋し、此れ、惑なり。乃ち、鮓荅たること、明らけし。

 [やぶちゃん注:私は既に十年前の二〇〇九年に、「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の「猨」で本項の電子化注を行っているが、今回はそれを加工データとしつつ、リニュアルしたものを示す。この「鮓荅」は各種の記載を総合してみると、良安の記すように、日本語ではなく、ポルトガル語の「pedra」(「石」の意。ネイティヴの発音をカタカナ音写すると「ペェードラ」)+「bezoar」(「結石」ブラジルの方の発音では「ベッゾア」)の転であるとする。また、古い時代から、一種の解毒剤として用いられており、ペルシア語で「pādzahr」、「pad (expelling) + zahr (poison) 」(「毒を駆逐する」の意)を語源とする、という記載も見られる。本文にある通り、牛馬類から出る赤黒色を呈した塊状の結石で、古くは解毒剤として用いたとある。別名を当該の獣類の名に繋げて「~のたま」と呼び、「鮓答(さとう)」とも書いた。但し、例えば大修館書店「廣漢和辭典」の「鮓」を引いても、この物質に関わる意味も熟語示されていない。現代中国音では「鮓荅」は「zhǎ dā」(ヂァー・ダァー)で、やや「ペェードラ」に近い発音のように思われるから、それを漢音写したものかも知れない(但し、以下の引用ではモンゴル語説が示されてある)。良安が前の「狗寳(いぬのたま)」で「本草綱目」を引いている通り、『牛の黃(たま)・狗の寶・馬の墨(たま)・鹿の玉・犀の通-天(たま)、獸の鮓-荅(たま)、皆、物の病ひにして、人、以つて寳と爲す』であって、各種獣類の胎内結石或いは悪性・良性の腫瘍や免疫システムが形成した異物等を称するものと思われ、漢方では現在でも高価な薬用とされているらしい。そこの注でも引いた、「中国の怪情報」というサイトのこちら(記者は編集長妙佛大爺氏)によれば、『古くから珍重されて来た希少な漢方薬の中に三宝と呼ばれるものがある。三宝とは馬宝、牛黄、狗宝の』三『種の漢方薬の総称』であるとされ、『いずれも動物の体内にごく稀に存在する』病変『物質である』。「狗宝」は既に前項で示したが、他の二つについてリンク先では以下のように説明されてある。『馬宝の正体は馬の腸内にできる結石であると言われている。結石の形成は偶然に左右されるので、ひとつひとつの形状や品質は全て異なる。それに応じて価格も変動する』。『オークションでの落札価格を見ると、高いものは日本円で数千万円の値段がついている』。『牛黄』niú huáng『は日本語で「ごおう」と読まれる』。『牛黄は現在の中国では比較的使用頻度が高い漢方薬だ。ただし』、『本物の牛黄ではなく』、『牛の胆汁で代用しているのだ。本物の牛黄はあまりにも高価なので通常は薬として使われることはない』。『牛黄の正体は牛の胆結石である。天然の牛黄は非常に高価である。特に大きなものは珍し』く、三百『グラムを超える牛黄に日本円で』一『億円以上の値段がついたこともある。やはりオークションでの価格だ』。一方、『馬宝』mǎ bǎo『は馬の体内に形成される石のような物体である。馬糞石、黄薬、鮓答(さとう)などの別名で呼ばれることもある』とある。因みに、リンク先には鶏のそれも記されてあり、『動物の体内から得られる希少な漢方薬は三宝だけではない。実はニワトリの体内にも石のような物体が生成されることがあるのだ』。『それを鶏宝』jī bǎo『という』。『鶏宝の正体については諸説ある。ひとつは馬宝や狗宝と同じように結石であるという説だ』。『もうひとつの説は卵胞の異常発育説である』。『本来なら卵巣内で育つはずの卵胞が腹腔内に侵入し、そこで大きく発育したものが鶏宝だというのだ。卵の黄身の部分に相当するものが腹腔内に形成され、それが硬化すると鶏宝になるということだ』。『このような現象は結石ができるよりもさらに発生頻度が少ないだろう。それだけ珍しいということになる』。『鶏宝には卵の黄身とそっくりな色と形のものがある一方で、石のようなものもあると言われている』。『恐らく鶏宝には卵胞から形成されるものと、結石と同じメカニズムで形成される』二『つのタイプがあるのだろう』。『福建省に恵安県(けいあんけん)という土地がある。世界史でも習う港町・泉州(せんしゅう)に属する街だ。花崗岩の産地であり、日本に墓石などを輸出している』。『その恵安県で鶏宝が発見されたというニュースが報道されたことがある。鶏宝の発見はそれほど大きなできごとなのだ。その概略を紹介しよう』。『恵安県の螺陽鎮(らようちん)という小さな村でのことだ』。『ある女性がニワトリを絞めて解体したところ、腹の中から』、『卵の形をした不思議な物体が現れた』。『それは内臓のようにも見えるが、普段からニワトリを解体している女性は、これはただの内臓ではないと気が付いた』。『その女性は以前新聞で鶏宝の記事を読んだことがあった。それはニワトリの腹の中にある非常に珍しく高価な薬であり、城ひとつと同じ価値があるとすら言われるほどの宝だというのだ』。『女性はさっそく上海のオークション業者』四『社に写真を送って鑑定を依頼した。その結果、女性が発見した不思議な物体が鶏宝である可能性はおよそ』九十『%であるとの結論を得たのだ』。『もしこれが本物の鶏宝であれば、最高』千七百五十『万元(日本円換算でおよそ』二億八千万円『)の価格がつく可能性があるという』。『高価な漢方薬の発見は中国ならではのチャイニーズ・ドリームだ。中国の田舎には家畜を捌くたびに一攫千金の夢がある』とある。

 それにしても、この「ヘイサラバサラ」「ヘイタラバサル」という発音は、かの「ケサランパサラン」と何だか雰囲気が似ていないだろうか? 私はふわふわ系の未確認生物のイメージしかなかったから、偶然かと思ったら、どっこい、これを同一物とする説があった。サイト「ん」の中の『けさらんぱさらん』の正体に関する諸説の『「家畜動物の腸内結石」説』に詳しい(リンクも再現した。一部に記号を挿入させて貰い、改行も施した)。

   《引用開始》

腸内結石に関しては岩手大学農学部獣医学科のHPの説明では、

腸結石 Intestinal Concretion:糞便内の小石、釘、針金、釦などの異物に無機物が沈着して出来たもので主として馬の大腸、特に結腸内に見られる。

とある。

同じく岩手大学農学部獣医学科のHPの説明では、毛球と呼ばれる牛・羊・山羊などの動物の消化器内で発生する物質について書かれている。

毛球 Hair Ball:牛、羊、山羊などの反芻類が嚥下した被毛あるいは植物繊維より成るもので第一胃及び第二胃に、稀に豚や犬の胃腸に見られることもある。表面に被毛の見えるものを粗毛球、表面が無機塩類で蔽われ硬く滑かで外部から毛髪の見えないものを平滑毛球 というとの事。

(毛球と腸結石の写真が同HPに載っています。)

また、毛球に関しては犬からも発生する場合もあるとの事。

この説によると、「動物タイプ」はこのうち粗毛球を指し、「鉱物タイプ」は平滑毛球や腸内結石を指す事になるわけです。

「馬ん玉」や「へいさらぱさら」はまさしく「ケサランパサラン 鉱物タイプ」の別名であり、「ケサランパサラン 動物タイプ」の別名として「きつねの落とし物」があるのもうなずけます。

おそらく、きつねが糞といっしょに粗毛球を排泄したのを見た方がつけたのでしょう。

また、[やぶちゃん注:中略。]「鉱物タイプ」を雨乞いに用いた事に関して、[やぶちゃん注:中略、]日本の雨乞いの方法の一つに,牛馬の首を水の神様に供える、或いは水神が棲む滝壷などにそれらを放り込む、という方法があります。これは、不浄なものを嫌う水の 神を怒らせることによって、水神=龍が暴れて雨が降るという信仰から来ているようです。以下は(この説を教えてくれた方の)私見ですが、「へいさらばさら」は、その不浄な牛馬の尻[やぶちゃん注:体内と読み換えたい。]から出てくるものですから、神様が怒るのも当然という理屈で用いられたのではないでしょうか。ただし、これは日本における解釈であり、馬と共に暮らす遊牧民族であるモンゴル人が、同じ考えでそれを行ったかどうかは不明です。[やぶちゃん注:中略。]

「その後の調査で、「輟耕録」に記載されている雨乞いの方法(盥に水を入れ呪を唱えながら水中で石を転がす)が『ケサランパサラン日記』のそれと酷似しており[やぶちゃん注:西君枝と言う方が草風社から一九八〇年に刊行した著作であるらしいが、未見であり、指示する当該記載が判らないので、この部分、何と酷似しているのかは不明である。]、また、このように水の中で転がして原形をとどめていられるのは硬い球形の馬玉タイプであることや、モンゴル語で雨を意味する「jada」という語に漢字を当てたものが「鮓荅」であると考えられることなどから、「へいさらばさら」の雨乞いのルーツは、中国の薬物書である「本草綱目」によって伝えられたモンゴル人の祈雨方法にあり、それに用いられたのは白い球状の鮓荅であると考えた方がよいようです。ついでに言えば「毛球」については、反芻をする動物(ウシやシカなど)に特に多いようですが、毛づくろいの際に飲み込んだ毛でできるため,犬以外のペット小動物、例えばウサギ、猫などでもメジャーな病気のようです。ペットに多いのは、野生の場合、毛が溜らないようにするための草を動物が知っていて、これを時々食べることによって防いでいるためで、ペット用に売られている「猫草」も、毛球症予防に効果があるようです。」[やぶちゃん注:中略。]

 また、水神=龍から、龍の持つ玉のイメージが想起されることから、雨乞いに用いられた「へいさらばさら」は、主に白い球状のタイプだったのではないかと推測されます。」[やぶちゃん注:この最後の部分は最後に鍵括弧があるので、これもその情報提供者の追伸かとも思われる。]

   《引用終了》

 

「肉囊」肉状の軟質に包まれていることを指す。胆嚢結石とすれば、これは胆嚢自体を指すとも考えられるが、実は馬や鹿等の大型草食類には胆嚢が存在しない種も多い。その場合は胆管結石と理解出来るが、ある種の潰瘍や体内生成された異物及び体外からの侵入物の場合、内臓の損傷リスクから、防御のための抗原抗体反応の一種として、それを何等かの組織によって覆ってしまう現象は必ずしも特異な現象ではないものとも思われる。

「榛」ブナ目カバノキ科ハシバミ Corylus heterophylla var. thunbergii の実。ドングリ様の大きな実のようなものを想定すればよいか。へーゼルナッツはこのハシバミの同属異種である。

「層疉」立体同心円(球状)の層状結晶を言うか。

「輟耕録」明代初期の学者陶宗儀(一三二九年~一四一〇年)撰になる随筆集。先行する元代の歴史・法制から書画骨董・民間風俗といった極めて広範な内容を持ち、人肉食の事実記載等、正史では見られない興味深い稗史として見逃せない作品である。記載は「巻四」の「禱雨」。

   *

往往見蒙古人之禱雨者、非若方士然、至於印令旗劍符圖氣訣之類、一無所用。惟取淨水一盆、浸石子數枚而已。其大喪者若雞卵、小者不等。然後獸默持密咒、將石子淘漉玩弄、如此良久。輒有雨、豈其靜定之功已成、持假此以愚人耳。抑果異物耶。石子名曰鮓答、乃走獸腹中所、獨牛馬者最妙。恐亦是牛黃・狗寶之屬耳。

   *

「蒙古(むくり)」蒙古(もうこ)はモンゴルの中国語による音写で、古く鎌倉時代に「もうこ」のほかに「むくり」「むこ」などと呼称した、その名残りである(因みに、鬼や恐ろしいものの喩えとして泣く子を黙らせるのに使われる「むくりこくり」とは「蒙古高句麗」で蒙古来襲の前後に「蒙古(むくり)高句麗(こくり)の鬼が来る」と言ったことに由来する)。遊牧民であるから、牛馬の結石は、我々に比べたら、稀ではあるが、遙かに入手可能なものであったものかも知れない

「牛黃」牛の胆嚢や胆管に生ずる胆石で、日本薬局方でも認められている生薬である。解熱・鎮痙・強心効果を持つ。この後、「牛」の項の後に「牛黄」の項があるので、そこでまた詳述する。

「毒瘡」瘡毒と同じか。ならば梅毒のことである。もっと広範な重症の糜爛性皮膚炎を言うのかも知れない。

「俗傳に云はく、『猨〔(さる)〕、獵人の爲に傷せられ、其の疵-痕(きづ)、贅(こぶ)と成りて〔たる〕肉-塊(かたまり)なり』と。蓋し、此れ、惑なり。乃ち、鮓荅なること、明らけし」ここの部分、東洋文庫版では、『世間一般では猿の身体にある鮓荅をさして、これは猿が猟人のために傷つけられ、その傷の痕(あと)が贅肉(こぶ)となったものであるという。しかしこれは間違いで、鮓荅であることは明らかである』と訳しているが、これはおかしな訳と言わざるを得ない。ここは、『俗説に言うには、「猿が猟師に傷つけられ、その傷の痕が瘤となった、その肉の塊が鮓荅である」とする。しかし、これはとんでもない妄説である。以上、見てきたように、鮓荅というものはそのような人が猿に及ぼした傷由来の瘤なんぞではなく、人及び獣類の体内に生ずるところの結石であることは、最早、明白である』と言っているのである。]

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(19) 「河童ト猿ト」(2)

 

《原文》

 猿ガ河童ニ勝ツト云フコトハ今ハアマリ聞カヌ話ナレド、其由來ハ中々複雜ナルモノアルニ似タリ。此事ハ獨リ西國地方ノ俗信ナリシノミニアラズ、江ニテモ河童ノ災ヲ避クル爲ニハ猿ヲ飼ヒ置クヲ可トスルノ説アリキ〔竹抓子四〕。【厩ノ猿】自分ノ推測ニ依レバ、是レ厩ニ猿ヲ飼ヒテ牛馬ノ災ヲ拂フ古來ノ慣習ト因緣アルモノヽ如シ。仍テ今少シク其問題ヲ講究セント欲ス。【河猿】蓋シ近代ノ河童ニモ頗ル猿ニ似タル特徵ハアリシナレド、中古ハ猶一段此二ツノ物ガ接近シ居タリト覺シク、或ハ今ナラバ直ニ河童ト呼ブべキ水底ノ怪物ヲ、河猿又ハ淵猿ト名ヅケタリシ例アリ。例ヘバ遠江榛原郡ニハ河猿ト云フ怪獸住ス。水ノ岸ニ現レ出ル物ニテ、馬之ニ遭ヘバ忽チ斃レ死ス。何レノ川筋ニテモ河猿出レバ馬ノ種ハ絶ユ。恐ラクハ馬ノ疫病神ナランカト云ヘリ〔三河雀〕。【釜淵】【釜猿】毛利公爵ノ祖先ガマダ藝州ノ吉田ニ在リシ頃、其臣下ニ井上元重通稱ヲ荒(アラ)源三郞ト云フ武士アリ。時ハ天文三年ノ八月、吉田川ノ釜淵ノ水底ニ入ツテ、人畜ヲ害スル淵猿ト云フ怪物ヲ退治シ、武勇ノ名ヲ天下ニ施セリ。源三郞七十人力アリシモ淵猿ニハ百人力アリ。【頭ノ皿】唯幸ニシテ怪物ノキハ全ク頭ノ中央ノ窪ミニ水ノアル爲ナルコトヲ前以テ知リシガ故ニ、取敢ズ其首ヲ摑ミテ左右ニ振リ廻ハシ、水ヲ翻シテ之ヲ無力トシタル後、容易ニ生擒シ得タルハ最モ智慮アル手段ナリキ〔老媼茶話〕。但シ此淵猿ハ所謂怠狀立ヲシテ釋放セラレタリヤ否ヤ、後日譚ノ傳ハラヌハ遺憾ナリ。【虬】此話ハ大昔仁德天皇ノ御代ニ、吉備ノ川島河ノ淵ニ於テ笠臣ノ祖縣守ト云フ勇士ガ虬(ミヅチ)ヲ退治セシ顚末トヨク似タレドモ多分ハ偶合ナルべシ。武家高名記陰德太平記志士淸談等ニモ之ヲ載錄ス〔南方熊楠氏報〕。藝藩通志ノ高田郡吉田村釜淵ノ條ニハ、荒源三郞ガ猳摑(カハタラウ)ヲ生獲シタル故跡ナリト見エタリ。

 

《訓読》

 「猿が河童に勝つ」と云ふことは、今はあまり聞かぬ話なれど、其の由來は、中々、複雜なるものあるに似たり。此の事は、獨り、西國地方の俗信なりしのみにあらず、江にても河童の災ひを避くる爲めには猿を飼ひ置くを可とするのありき〔「竹抓子」四〕。【厩の猿】自分の推測に依れば、是れ、厩に猿を飼ひて牛馬の災を拂ふ古來の慣習と因緣あるものゝごとし。仍つて、今少しく、其の問題を講究せんと欲す。【河猿(カハザル)】蓋し、近代の河童にも頗る猿に似たる特徵はありしなれど、中古は、猶ほ一段、此の二つの物が接近し居(ゐ)たりと覺しく、或いは今ならば直ちに「河童」と呼ぶべき水底の怪物を、河猿又は淵猿と名づけたりし例あり。【釜猿(カマザル)】例へば、遠江榛原(はいばら)郡には「河猿」と云ふ怪獸、住す。水の岸に現れ出づる物にて、馬、之れに遭へば、忽ち、(たふ)斃れ死す。何れの川筋にても「河猿」出づれば、馬の種は絶ゆ。恐らくは「馬の疫病神」ならんか、と云へり〔「三河雀」〕。【釜淵】毛利公爵の祖先が、まだ藝州の吉田に在りし頃、其の臣下に井上元重、通稱を荒(あら)源三郞と云ふ武士あり。時は天文三年の八月、吉田川の釜淵の水底(みなそこ)に入つて、人畜を害する「淵猿」と云ふ怪物を退治し、武勇の名を天下に施せり。源三郞、七十人力ありしも、「淵猿」には百人力あり。【頭の皿】唯だ、幸ひにして怪物のきは、全く頭の中央の窪みに水のある爲なることを、前以つて知りしが故に、取り敢へず其の首を摑みて、左右に振り廻はし、水を翻(ひるがへ)して、之れを無力としたる後(のち)、容易に生け擒(ど)りし得たるは、最も智慮ある手段なりき〔「老媼茶話」〕。但し、此の淵猿は、所謂、怠狀立てをして釋放せられたりや否や、後日譚の傳はらぬは遺憾なり。【虬(みづち)】此の話は、大昔、仁德天皇の御代に、吉備の川島河の淵に於いて、笠臣(かさのおみ)の祖、縣守(あがたもり)と云ふ勇士が虬(みづち)を退治せし顚末と、よく似たれども、多分は偶合(ぐうがふ)なるべし。「武家高名記」「陰德太平記」「志士淸談」等にも之れを載錄す〔南方熊楠氏報〕。「藝藩通志」の高田郡吉田村釜淵の條には、荒源三郞が「猳摑(カハタラウ)」を生獲したる故跡なり、と見えたり。

[やぶちゃん注:「遠江榛原(はいばら)郡」静岡県榛原郡は現存するが、近代の郡域は遙かに広域。ウィキの「榛原郡」で確認されたい。

「河猿」ウィキの「川猿によれば、『川猿(かわざる)は、遠州(静岡県)の榛原郡に伝わる妖怪。その名の通り、川辺に住む妖怪で』、『名前は「猿」だが、猿よりむしろカワウソや河童に近い種とされ』、『体中に魚の臭気がある』。『子供の姿となって人を化かすこともある他、馬は川猿に会っただけで倒れて死んでしまうと言われ、馬の疫神として恐れられていた』。『また人間から害を加えられた際には、相手の体中の皮膚や肉をかきむしって重傷を負わせてしまう』。『弱点は目と股で、ここに矢を受ければたちまち力が弱まってしまう』。『性格的には本来は臆病者だが、自分を助けてくれた人間の顔は忘れないという』とある。

『「馬の疫病神」ならんか』私はここを読みながら、嘗て電子化注した「想山著聞奇集 卷の壹 頽馬(だいば)の事」を思い出していた。そこでは、『馬に「頽馬(だいば)」と云ふ病ひ有りて卒死(そつし)するが、尾張・美濃邊にては是を「ギバ」と云ひ、「斃(たふ)るゝ」を「かける」と云ふ。土俗は、此の「ギバ」と云(いふ)は、一種の魔物(まぶつ)有りて、馬の鼻より入りて、尻に出づれば、馬、忽ち斃ると云ひ傳ふる事也』で始まるのであるが、そこで私は実際の馬の病気、有毒植物の摂取や吸血性昆虫及びウィルス感染症の可能性を指摘した。是非、一読されたい。

「毛利公爵の祖先が、まだ藝州の吉田に在りし頃」ウィキの「毛利氏」によれば、鎌倉末期に『越後国刈羽郡(旧称:三島郡)佐橋庄(さはしのしょう)南条(みなみじょう)』『の南條館を領した毛利経光は、四男の時親に安芸国高田郡吉田荘(よしだのしょう』:『高田郡吉田村吉田』、現在の広島県安芸高田市吉田町吉田(ここ(グーグル・マップ・データ))『)を分与し』、『分家を立てる』。『時親の子・貞親、孫の親衡は越後に留まり』、『安芸の所領は間接統治という形をとったが』、『南北朝時代に時親の曽孫・元春は安芸に下向し、吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)において領地を直接統治』『するようになる。吉田荘に移った毛利氏は、室町時代に安芸国の有力な国人領主として成長し、山名氏および大内氏の家臣として栄えた』。『戦国時代、毛利元就が出ると』、『一代で国人領主から、大内氏の所領の大部分と尼子氏の所領を併せ、最盛期には山陽道・山陰道』十『か国と九州北部の一部を領国に置く最大級の戦国大名に成長した』。『元就の死後、孫の毛利輝元は将軍・足利義昭を庇護し、織田信長と激しく争ったが、のちに豊臣秀吉に従属して、安芸ほか』八『か国を安堵された。また、本拠を吉田郡山城からより地の利の良い広島城に移す』。『しかし』、慶長五(一六〇〇)年、輝元が「関ヶ原の戦い」で『西軍の総大将となったことで、敗戦後に毛利氏は周防国・長門国の』二『か国に減封される』。『江戸時代には、萩に居城を新たに築城し、長州藩(萩藩)になり、外様大名ながら』、『国主(国持ち)大名として官位や江戸城の席次などで幕府から厚遇を得た』。『江戸時代末期には、藩主毛利敬親の改革が功』を『奏し』、『長州藩から数々の志士が現れ、明治維新を成就させる原動力となった。明治維新後は公爵、貴族院議員などを輩出している』とある。

「井上元重」井上氏は毛利家の有力家臣の一族であったが、後に元就によって、多くが粛清された。この元重はその中の一人である。ウィキの「井上就澄」の記載に粛清の経緯と彼が殺されたことが出るので、引用すると、井上就澄(?~天文一九(一五五〇)年)『は、戦国時代の武将。毛利氏の家臣。父は安芸井上氏当主・井上元兼』(系図を調べると、この父の前当主井上光兼の弟に、後に出る元重の兄井上元有がいる)、『兄に井上就兼』。『毛利氏の家臣で安芸井上氏当主である井上元兼の次男として生まれる。名前の「就」の字は毛利元就の偏諱とされる』。『安芸井上氏は元々は安芸国の国人であったが、就兼の祖父・光兼の代に毛利弘元に仕えて以後、毛利氏において重要な位置を占める一族となった。その後も安芸井上氏の権勢は増していき、就兼の父・元兼をはじめとして毛利興元の死後』三十『余年に渡って傍若無人な振る舞いをしていたと元就は述べており、安芸井上氏をそのままにしておくことは毛利氏の将来の禍根となると元就は考えていた』。『天文年間に安芸国と備後国の経略が着々と進行し、吉川元春と小早川隆景の吉川氏・小早川氏相続問題が概ね解決したことで安芸井上氏粛清の好機であると元就は判断。毛利隆元に命じて大内氏家臣の小原隆言を通じて、予め大内義隆の内諾を得た上で、密かに安芸井上氏粛清の準備を進めた』。天文一九(一五五〇)年七月十二日、『井上元有が安芸国竹原において小早川隆景に殺害された事を皮切りに』、『安芸井上氏の粛清が始まり』、翌七月十三日、『兄の就兼は元就の呼び出しを受けて吉田郡山城に来たところを、元就の命を受けた桂就延によって殺害された』。『就兼の殺害と同時に、福原貞俊と桂元澄が』三百『余騎を率いて井上元兼の屋敷を襲撃。元兼の屋敷は包囲され、屋敷にいた元兼と就澄は防戦したものの』、『力尽きて自害した。さらに、井上元有の子の井上与四郎、元有の弟の井上元重、元重の子の井上就義らはそれぞれ各人の居宅で誅殺されており、最終的に安芸井上氏の一族のうち』三十『余名が粛清されることとなった』(太字下線はやぶちゃん)とある。

「天文三年の八月」一五三四年。同旧暦八月一日はユリウス暦九月八日。

「老媼茶話」三坂春編(みさかはるよし 元禄一七・宝永元(一七〇四)年?~明和二(一七六五)年)が記録した会津地方を中心とする奇譚(実録物も含む)を蒐集したとされる寛保二(一七四二)年の序(そこでの署名は「松風庵寒流」)を持つ奇談集。私は既にブログ・カテゴリ「怪奇談集」で全篇を電子化注している。その「老媼茶話 釜渕川猿(荒源三郎元重、毛利元就の命に依り、川猿を素手にて成敗す)」を参照されたい。

「虬(みづち)」の柳田國男の別記事の記載で既出であるが、ここでちゃんと注しておくと、本来は中国で、龍の一種(或いは幼体)を指し、「虯」が正字とされる。龍の子で、二本の角を有するとも、幼体ではなく、龍の一種で逆に角がないものを言うとも、また龍総体の異名ともする。本邦では「蛟」などと一緒くたにされて、広く、水怪の異名として用いられる。

「仁德天皇の御代」在位は仁徳天皇元年~仁徳天皇八十七年とする。機械的換算では三一三年から三九九年とする。

「吉備の川島河」現在の岡山県西部を貫流する高梁川に比定されている。の流域(グーグル・マップ・データ)。

「笠臣(かさのおみ)」吉備氏の後裔。ウィキの「吉備氏」によれば、七『世紀後半に笠臣と下道臣が中央貴族として立身した』とあるが、『小野里了一は、吉備氏の祖として同氏の伝説に残されていたのは吉備武彦であり、吉備津彦命・稚武彦命弟は王家系譜とのつながりを作為するために吉備武彦の名前を割って作った創作上の人物とする。また、笠臣と下道臣と上道臣が吉備武彦を祖と仰ぐ集団(吉備勢力)であったのは事実だが、元々「吉備氏」と称する同一の氏族集団であった裏付けも不確かで、下道真備(吉備真備)が初めて「吉備」姓を名乗った人物であった可能性すらあるとする』とある。

「縣守(あがたもり)と云ふ勇士」以下に掲げる、この「日本書紀」に載る虬(みづち)を退治の一節以外には確かな情報はない模様である。

   *

、於吉備中國川嶋河派、有大虬、令苦人。時路人、觸其處而行、必被其毒、以多死亡。於是、笠臣祖縣守、爲人勇悍而力、臨派淵、以三全瓠投水曰「汝屢吐毒令苦路人、余殺汝虬。汝沈是瓠則余避之、不能沈者仍斬汝身。」。時、水虬化鹿、以引入瓠、瓠不沈、卽舉劒入水斬虬。更求虬之黨類、乃諸虬族、滿淵底之岫穴。悉斬之、河水變血、故號其水曰縣守淵也。當此時、妖氣稍動、叛者一二始起。於是天皇、夙興夜寐、輕賦薄斂、以寬民萌、布德施惠、以振困窮、弔死問疾、以養孤孀。是以、政令流行、天下太平、廿餘年無事矣。

   *

国立国会図書館デジタルコレクションの黒板勝美編「日本書紀 訓読 中巻」を参考に訓読してみる。

   *

 是の[やぶちゃん注:仁徳天皇六十七年。三七九年。]、吉備の中つ國、川嶋河の派(かはまた)に、大なる虬(みづち)有りて、人を苦しましむ。時に路人(みちゆきひと)、其の處に觸れて行けば、必ず、其の毒(あしきいき)に被(をかさ)れて、以つて多く死亡せぬ。是(ここ)に、笠臣(かさのおこ)の祖縣守(あがたもり)、人と爲(なり)、勇-悍(たけ)くして、力、(こは)し。派-淵(ふち)に臨みて、三つの全瓠(おほしひさご)[やぶちゃん注:欠損のない瓢簞(ひょうたん)の意か。]を以つて水に投げて曰はく、

「汝、屢々毒を吐きて路人を苦しましむ。余、汝、虬を殺さむに、汝、是の瓠を沈めば、則ち、余、避(さ)らむ。不--沈(えじづめざ)れば、仍りて、汝の身を斬らむ。」

と。時に、水虬、鹿に化(な)りて、以つて、瓠を引き入る。瓠、沈まず。卽ち、劒(つるぎ)を舉げて水に入りて虬を斬る。更に、虬の黨類(ともがら)を求む。乃ち、諸虬の族、淵底の岫穴(ゆきかふいはや)に滿(いは)めり。悉く、之れを斬る。河水、血に變りぬ。故に其の水を號(な)づけて「縣守の淵」と曰ふ。此の時に當りて、妖-氣(わざはひ)、稍(やや)動きて、叛(そむ)く者、一二(ひとりふたり)、始めて起こる。是に天皇、夙(はや)くに興(お)き、夜(おそ)く寐(い)ねて、賦(みつぎ)を輕くし、斂(をさめもの)を薄くして、以つて民-萌(おほみたから)を寬(ひろ)くし、德を布(し)き惠(うつくしび)を施して、以つて困窮(くるしくたしな)きを振ひ、死(も)を弔ひ、疾(やむもの)を問ひ、以つて孤孀(やもをやもめ)を養ふ。是れを以つて、政令(まつりごと)、流行(しきなが)れて、天下、太平(たひら)ぎぬ。廿餘年(はたとせあまり)、事、無し。

   *

「南方熊楠氏報」平凡社版選集別巻の柳田國男との往復書簡集を縦覧したが、今のところ、見出せない。発見したら、電子化する。

「高田郡吉田村」現在の広島県安芸高田市吉田町吉田(グーグル・マップ・データ)。

「猳摑(カハタラウ)」この「猳」は豚を意味するから、豚を摑み奪うという意に見える。ただ、少し気になるのは、中国の伝説上の動物で、猿に類した妖獣で、人間の女性を攫(さら)って犯すとされる、「玃猿(かくえん)」には「猳国(かこく)」という異名があることである。他に「馬化(ばか)」とも言うのが気になる。一応、ウィキの「玃猿を引いて参考に供しておく。「本草綱目」に『よれば、猴(こう。サルのこと』『)より大きいものと』し、「抱朴子」では、八百年生きた獼猴(みこう:現在の哺乳綱獣亜綱霊長目直鼻猿亜目オナガザル科オナガザル亜科マカク属アカゲザル Macaca mulatta に比定)『が「猨」となり、さらに』五百年『生きて玃猿になるとある』。「本草綱目」では『「玃」「猳玃」「玃父」の名で記載されて』おり、『玃は老いたサルであり、色は青黒い。人間のように歩き、よく人や物をさらう。オスばかりでメスがいないため、人間の女性を捕らえて子供を産ませるとある』。一方「捜神記」や「博物志」には、『「玃猿」「猳国」「馬化」の名で、以下のようにある。蜀の西南の山中には棲むもので、サルに似ており、身長は』七尺(約一・六メートル)『ほどで、人間のように歩く。山中の林の中に潜み、人間が通りかかると、男女の匂いを嗅ぎ分けて女をさらい、自分の妻として子供を産ませる。子供を産まない女は山を降りることを許されず』、十『年も経つと姿形や心までが彼らと同化し、人里に帰る気持ちも失せてしまう。子を産んだ女は玃猿により子供とともに人里へ帰されるが、里へ降りた後に子供を育てない女は死んでしまうため、女はそれを恐れて子供を育てる。こうして玃猿と人間の女の間に生まれた子供は、姿は人間に近く、育つと常人とまったく変わりなくなる。本来なら姓は父のものを名乗るところだが、父である玃猿の姓がわからないため、仮の姓として皆が「楊」を名乗る。蜀の西南地方に多い「楊」の姓の者は皆、玃猿の子孫なのだという』。『このような玃猿の特徴は、中国の未確認動物である野人と一致しているとの指摘もある』。『南宋時代の小説集』「夷堅志」には、『「渡頭の妖」と題し、以下のような話がある。ある谷川の岸に、夜になると男が現れ、川を渡ろうとする者を背負って向こう岸に渡していた。人が理由を尋ねても、これは自分の発願であり理由はないと、殊勝に返事をしていた。黄敦立という胆勇な男が彼を怪しみ、同じように川を渡してもらった』。三『日後、お礼に自分がその男を渡そうと言い、拒む男を無理に抱えて川を渡り、大石に投げつけた。悲鳴を上げたその男を松明の明かりで照らすと、男の姿は玃猿に変わっていた。玃猿を殺して焼くと、その臭気は数里にまで届いたという』。「神異経」に『よれば、西方にいる「𧳜」』(とりあえず「チュウ」と読んでおく。以下に出る「和漢三才図会」の「玃(やまこ)」にも記す)『はロバほどの大きさだが』、『猴に似ており、メスばかりでオスがいないので、人間男性を捕えて性交して子を孕むとあり』、『(玃猿と同じ行動をするが性別が逆である)、玃猿に類するものと考えられている』。『日本では、江戸時代に玃猿が日本国内にもいるものと信じられ』、「和漢三才図会」にも『「玃(やまこ)」の名で説明されており、同項の中で日本の飛騨・美濃(現・岐阜県)の深山にいる妖怪「黒ん坊(くろんぼう)』『」の名を挙げ「思うに、これは玃の属だろうか」と述べられている。黒ん坊とは黒く大きなサルのようなもので、長い毛を持ち、立って歩く。人語を解する上に人の心を読むので、人が黒ん坊を殺めようとしても、黒ん坊はすばやく逃げるので、決して捕えることはできないという』。『また』、江戸後期の随筆「享和雑記」にも『「黒ん坊」の名がある。それによれば、美濃国根尾(現・岐阜県本巣市)の泉除川に住む女のもとには、夜になると幻のような怪しい男が訪れ、しきりに契ろうとしていた。村人たちはその者を追い払おうと家を見張ったが、見張りのいる夜には現れず、見張りをやめると現れた。そこで女は鎌を隠し持っておき、例の男が現れるや鎌で斬りつけると、男は狼狽して逃げ去った。村人たちが血痕を辿ると、それは善兵衛という木こりの家のもとを通り、山まで続いていた。善兵衛のもとには以前から黒ん坊が仕事の手伝いに来ており、それ以降は黒ん坊が現れなくなったため、この事件は黒ん坊の仕業といわれた』。但し、「享和雑記」の『著者は、これを』「本草綱目」に『ある玃猿に類するものとし、その特徴について』、「和漢三才図会」と『ほぼ同じことを述べているため』、「享和雑記」は「和漢三才図会」を『参考に書かれたものと見られている』、『しかし』、「和漢三才図会」では、『前述のように「玃の属だろうか」と書いてあるにすぎないため、黒ん坊と玃猿を同一のものとは言い切れないとの指摘もある』とある。「和漢三才図会」の「玃(やまこ)」は私の和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類で電子化注しているので、参照されたい。]

2019/02/11

和漢三才圖會卷第三十七 畜類 狗寳(いぬのたま) (犬の体内の結石)

 

Inunotama

 

いぬのたま

狗寳

 

ウハ

 

本綱狗寶生癩狗腹中狀如白石帶青色其理層疊亦難

得之物也昔任丘縣民家一犬甚惡後病衰爲衆犬所噬

而死剖之其心已化似石非石其重如石而包膜絡之如

寒灰觀其脈理猶是心不知何緣到此

甞聞人患石淋有石塊刀斧不能破又甞見龍脛骨中髓

皆是白石虎目光落地亦成白石星之光氣落地則成石

松亦化石蛇蠏蠶皆能成石萬物變化如此不可一槩斷

時珍静思之牛之黃狗之寶馬之墨鹿之玉犀之通天獸

之鮓荅皆物之病而人以爲寳人靈於物而猶不免此病

况物乎人之病淋有沙石者非獸之鮓答乎人之病癖有

心似金石者非狗之寳乎此皆囿於物而不能化者故禽

鳥有生卵如石者焉

程氏遺書載云有波斯人發古塚棺内俱盡惟心堅如石

鋸開觀之有山水青碧如畫傍有一女靚粧凭欄葢此女

有愛山癖朝夕注意故融結如此又浮屠法循行般舟三

昧法示寂後火焚惟心不化出五色光有佛像高三寸非

骨非石百體具足此皆志𡱈於物用志不分精靈氣液因

感而凝形正如孕女感異像而成鬼胎之類非祥也病也

有情之無情也

 

 

いぬのたま

狗寳

 

ウハ

 

「本綱」、狗寶、癩狗の腹中に生ず。狀、白石のごとくにして、青色を帶ぶ。其の理〔(きめ)〕、層疊して、亦、得難き物なり。昔、任丘縣[やぶちゃん注:現在の河北省滄州市任丘市(グーグル・マップ・データ)。]の民家に一犬あり。甚だ惡〔(あしき)〕なり[やぶちゃん注:身体が悪かった。]。後、病衰して衆犬の爲めに噬(か)まれて死す。之れを剖〔(さ)〕くに、其の心〔(しん)〕[やぶちゃん注:漢方で名指す心臓。]、已に化して石に似て、石に非ず。其の重さ、石のごとくにして、包膜、之に絡〔(まと)〕ひ、寒灰〔(かんくわい)〕[やぶちゃん注:火が燃え尽きた後に残る灰。冷たい灰。]のごとし。其の脈-理〔(すぢ)〕[やぶちゃん注:肌理(きめ)。]を觀るに、猶ほ、是れ、心のごとし。何に緣〔(よ)り〕て此れを〔に〕到〔れる〕ことを、知らず。

甞つて聞く、人、石淋を患ひて、石の塊(かたまり)有り、刀・斧〔を以つてしても〕破ること、能はず〔と〕。又、甞つて龍〔の〕脛骨の中の髓を見〔しが〕、皆、是れ、白石なり。虎の目の光、地に落ちて、亦、白石と成り、星の光氣、地に落つるときは、則ち、石と成り、松も亦、石に化し、蛇・蠏〔(かに)〕[やぶちゃん注:蟹。]・蠶〔(かひこ)〕、皆、能く石と成る。萬物の變化、此くのごとし。一槩[やぶちゃん注:「槪」の異体字。]に斷ずるべからず。

時珍、静かに之れを思ふに、牛の黃(たま)・狗の寶・馬の墨(たま)・鹿の玉・犀の通-天(たま)、獸の鮓-荅(たま)、皆、物の病ひにして、人、以つて寳と爲す。人は物の靈[やぶちゃん注:万物の霊長の類。]にして、猶ほ此の病ひを免れず。况んや、物をや。人の、淋を病むに、沙石[やぶちゃん注:小石状の結石。]有るは、獸の鮓答(たま)に非ざるか[やぶちゃん注:反語。同じであると言っているのである。以下も同じ。]。人の癖〔(へき)〕を病み[やぶちゃん注:性癖が極端に偏頗し、精神上、病的な状態となり。]、心、有りて、金石に似たるは、狗の寳(たま)に非ざるか。此れ、皆、物に囿〔(こだは)り〕て[やぶちゃん注:拘泥して。]、化する能はざる者なり。故に禽-鳥〔(とり)〕の卵を生むに、石のごとくなる者、有る〔なり〕。

「程氏遺書」に載せて云はく、『波斯(ハルシヤ[やぶちゃん注:ママ。或いは「パルシヤ」のつもりかも知れない。])に、人、有り、古塚を發(ひら)く。棺〔の〕内、俱に盡きて、惟だ、心、堅くして石のごとし。鋸〔(のこぎり)〕をもつて開けて、之れを觀るに、山水、有り、青碧にして畫(ゑが)くがごとし。傍らに、一女、有り。靚粧〔(せいさう)〕[やぶちゃん注:現代仮名遣「せいそう」。「靚」は「飾りよそおう」の意で、美しく飾りよそおうこと。綺麗に化粧すること。めかしこむこと。]して、欄〔(おばしま)〕に凭(よりか)ゝる。葢〔(けだ)〕し、此の女、山を愛する癖、有りて、朝夕、意を注す。故に、融結して此くのごとし。又、浮屠〔(ふと)〕[やぶちゃん注:仏僧。]〔の〕法循は、「般舟三昧法〔(はんじゆざんまいはう)〕」を行ひしが、寂を示して後、火〔に〕焚〔くに〕、惟だ、心、化せず、五色の光を出だし、佛像、有り。高さ三寸。骨に非ず、石に非ず、百體具足す。此れ、皆、志、物に𡱈〔(きよく)〕して[やぶちゃん注:「局」の異体字。一つの対象に集まること。]、志しを用ふること、分かた〔ざるが故に〕精靈・氣液、感〔ずる〕に因つて、形を凝らす。正に孕(はらみ)女〔の〕異像に感じて鬼胎を成すの類ひのごとし。祥[やぶちゃん注:祥瑞。]に非ずして、病ひなり。有情〔(うじやう)〕の無情なり[やぶちゃん注:有情の存在が無情の物体に変化した異常な生成機序に過ぎない。]。

[やぶちゃん注:日中辞書によれば、イヌの胆嚢や腎臓・膀胱内に生ずる結石を言うとする。Q&Aサイトの回答では、犬の結石で青白い現在でも漢方で高級品として需要があるらしく、天然物で約百グラムくらいで十万元(今現在で百六十二万円相当)ほどとし、人工のものは天然物の十分の一の値段としつつ、天然と比べると薬効は低いとする。画像があるものでは、「中国の怪情報」というサイトのこちらで(サイトの名前の妖しさのわりには、記載はかなりしっかりしている)、そこには、『狗宝』(gǒu bǎo)『は犬の胃の中などで生成される石のような物体だ。通常は』一~五センチメートルほどの『オリーブ形をして』おり、『表面はなめらかで』、『爪で傷がつくほどの硬さである』とし、『価値があるのは中心のわずかな部分だけであり、その重量はせいぜい』二グラムから七グラム『程度しかないという。高齢の犬ほど大きな狗宝を持っている確率が高いそうだ』とし、『天然の狗宝のオークション落札価格を見ると、やはり日本円で数千万円の値段がついている』とある。

 

「石淋」腎臓(腎盂・腎杯)・尿管・尿道。膀胱に結石が生ずる疾患。結石の約八十%はシュウ酸(蓚酸)カルシウム CaC2O4 又は(COO)2Ca)・リン酸(燐酸)カルシウム(狭義にはリン酸三カルシウム:Ca3(PO4)2)などのカルシウム結石で、その他ではリン酸マグネシウムアンモニウム(MgNH4PO46H2O)や尿酸(C5H4N4O3)の結石などがある。

「龍〔の〕脛骨」思うに、脊索動物門脊椎動物亜門顎口上綱爬虫綱双弓亜綱主竜形下綱恐竜上目 Dinosauria に属する、所謂、恐竜、中生代三畳(現在から約二億五千百万年前から一億九千九百六十万年前)に現われ、約六千六百万年前の白亜紀と新生代との境に多くが絶滅したそれらの化石である可能性が極めて高い。古くから、それらの化石が龍の骨とされ、漢方で薬剤として用いられてきた歴史がある。但し、生物化石ではなく、全くの鉱物由来のものである可能性を除外は出来ない。

「蠶〔(かひこ)〕、」「能く石と成る」これについては「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 雪蠶」に「石蠶」と出るものを私が考証した注、及び、「大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 石蠶」等を参照されたい。何故、ここで簡単に語らないかというと、リンク先を見て戴ければ判る通り、カイコ(鱗翅(チョウ)目カイコガ科カイコガ亜科カイコガ属カイコガ Bombyx mori とは全く別の生物を想定している可能性が多分に含まれること(例えば、昆虫綱毛翅上目トビケラ目 Trichoptera に属する昆虫類の水棲幼虫)の他に、カイコの病気(特にカビに感染されることでカビに水分を奪われ、乾燥して硬いミイラ状態になるケース)等の複数の可能性を時珍が言っている可能性があるからであり、しかもそれをこの注で語ることは、かなりの脱線(私の注は常に脱線だらけだが)となるからである。

「牛の黃(たま)・狗の寶・馬の墨(たま)・鹿の玉・犀の通-天(たま)、獸の鮓-荅(たま)」総てそれぞれの、或いは、他の四足獣類の体内結石及び悪性・良性の結節性腫瘍等を指す。次に「鮓荅」(通常はこれで「さとう」と読む。牛・馬・豚・羊などの胆石や腸内の結石で、古来、諸毒の解毒剤とされたり、雨乞いの呪(まじな)いの呪具として用いられた。「石糞」「馬の玉」「ヘイサラバサラ」「ドウサラバサラ」等、異名が多い)の独立項があり、後には「牛黃」も独立項なのでここでは特に注しない。「犀」は無論、脊椎動物亜門哺乳綱奇蹄目有角亜目 Rhinocerotoidea上科サイ科 Rhinocerotidae のサイ類(現生種は五種で、アフリカ大陸の東部と南部(シロサイ・クロサイ)、インド北部からネパール南部(インドサイ)、マレーシアとインドネシアの限られた地域(ジャワサイ・スマトラサイ)に分布している)を指す。次巻の「獸類」に「犀」があるので待たれたい。

「人の癖〔(へき)〕を病み、心、有りて、金石に似たるは、狗の寳(たま)に非ざるか。此れ、皆、物に囿〔(こだは)り〕て、化する能はざる者なり」ここは時珍が精神医学的なかなり肯んずることの出来る、なかなか鋭いことを比喩で言っているようにも思われ、非常に興味深い。但し、最後の「化する能はざる者なり」は、私は「化する能はざる無き者なり」とあるべきではないか、と思う。東洋文庫訳はここを、『人が癖を病めば心が金石のようになるのも狗の宝と同じではないか。これはみな心が物に拘泥(こうでい)すると整理の循環が阻害され、身体の器官が円滑に機能しなくなるのである』と訳している。美事だと思うし、そういう意味で時珍は書いているのであろうと確かに思うけれども、私には、逆立ちしても、この原文をこのように訳すことは不可能である。「化」を正常な精神作用の意で採ることは、この文脈では無理であると考えるからである。なお、原文の文字列も「此皆囿於物而不能化者」でこのまんまではある。大方の御叱正を俟つものではある。

「程氏遺書」北宋の思想家で朱子学・陽明学のルーツとされる程顥(ていこう 一〇三二年~一〇八五年:号を「明道」と称した)と程頤(ていい 一〇三三年~一一〇七年:号を「伊川」と称した)兄弟(この二人をして「二程子」と称した)の語録集。南宋の朱熹(しゅき)が編纂したもの。二十五巻・附録一巻。以下の引用の原文を調べ得なかったが、これはどうなんだろう? これ、人工物じゃないんじゃないかなぁ? 堆積岩や火成岩玄武岩内部に形成された空洞である「晶洞」、ギリシア語で「大地に似た」の意の「ジオード」(英語:Geode)、内部に熱水や地下水のミネラル分によって美しい(「青碧」はまさにそれらしいのだ)自形結晶が形成されたそれを見て、シミュラクラ(Simulacra)を起こしたのではないか? 大方の御叱正を俟つ。

「波斯(ハルシヤ)」ペルシャ。現在のイランを表わす漢訳古名。

に、人、有り、古塚を發(ひら)く。棺〔の〕内、俱に盡きて、惟だ、心、堅くして石のごとし。鋸をもつて開けて、之れを觀るに、山水、有り、青碧にして畫(ゑが)くがごとし。傍らに、一女、有り。靚粧〔(せいさう)〕[やぶちゃん注:現代仮名遣「せいそう」。「靚」は「飾りよそおう」の意で、美しく飾りよそおうこと。綺麗に化粧すること。めかしこむこと。]して、欄〔(おばしま)〕に凭(よりか)ゝる。葢〔(けだ)〕し、此の女、山を愛する癖、有りて、朝夕、意を注す。故に、融結して此くのごとし。又、浮屠〔(ふと)〕[やぶちゃん注:仏僧。]〔の〕

「法循」不詳。

「般舟三昧法」小学館「日本国語大辞典」の「般舟三昧」によれば、サンスクリット語「pratyutpanna samādhi」の音訳で、「諸仏現前三昧」「仏立三昧」等と漢訳し、阿彌陀仏を念じて諸仏の現前を見る三昧法(修法)で、この三昧を修して成就した際には、一切の諸仏が悉く行者の眼前に立つというところからの命名とある。天台宗では「常行三昧」と称する、とある。

「百體具足す」「百體」は「総て」の意。仏の姿の特徴を数え上げた「三十二相八十種好」が総て備わっていたというのである。私は読みながら、直ちに想起したのは、「仏像真珠」である。中国の南部に於いては十三世紀には行われていた工芸で、貝殻の内壁に真珠層を持つ淡水産の斧足綱古異歯亜綱イシガイ目イシガイ超科イシガイ科イケチョウ亜科カラスガイ Cristaria plicata 等の貝殻と外套膜の間に、土や鉛で作った仏像の型を挿入し、真珠層で覆わせるものである。鴻阜山人氏のサイト『「購入者の側に立った」入門シリーズ』の真珠パートの真珠の養殖と加工に画像がある。]

和漢三才圖會卷第三十七 畜類 狗(ゑぬ いぬ) (イヌ)


Inu


ゑぬ    犬【音圏】 地羊

いぬ    【厖同多毛之犬】

【音苟】

      獒【高四尺犬】

      猗【去勢犬】

ウ     【和名惠沼俗伊沼】

 

本綱狗叩也吠聲有節如叩物犬字象巻尾懸蹄之形狗

類甚多其用有三田犬【一名獫】長喙善獵吠犬【一名猲】短喙善

守食犬體肥供饌【凡本艸所用皆食犬也】

狂犬曰猘一子𤢭【又曰】二子曰獅三子𤡆

凡犬以三月而生在畜屬木在卦屬艮在禽應婁星豺見

之跪虎食之醉犬食番木鼈則死物性制伏如此

肉【鹹酸溫】 治五勞七傷益氣力安腎補胃氣【黃犬爲上黒犬白犬次之】

 凡食犬不可去血去血則力少不益人【但因食穢不食者衆】術家

 以犬爲地厭能禳辟一切邪魅妖術故道家不食犬【商陸

 蒜菱與犬同不可食】

乳汁【白犬者良】 治十年青盲取白犬生子目未開時乳頻

 之狗子目開卽瘥又赤禿髮落者頻塗甚妙

                  京極

  月淸主しらぬ岡部の里をきてとへはこたへぬ先に犬そとかむる

文犬鳴曰吠【訓保由】王符論云一犬吠形百犬吠聲

左傳使犬聲曰嗾牽犬繩曰緤【訓岐豆奈】一名攣維犬鏁曰鋂

廣博物志云白犬烏頭白犬黒尾黒犬白耳黒犬白前足

黃犬白尾此等犬畜之共吉祥也

按犬性喜雪怕暑惡濕知恩酬仇鼻利能齅氣能守家

 不入非常人於内嚴吠防竊盜官家賤民共不可不畜

 之者也其田犬則狩獵時先放入山野令齅禽獸所在

 乃官家之寶獸也凡犬離栖家遠走則數遺尿於路傍

 至歸齅其尿氣雖數十里不失己栖猶山行之栞也不

 苦創傷如被小疵則自舐卽瘥若傷耳鼻則不能舐而

 不易治急煑小豆令食則癒性喜肉腥而不害生物吃

 糞穢而不舐鮾腐多食魚膓則却皮毛禿爛故魚肆癩

 狗多焉常不遺糞於四壁閒却不畜犬門外犬糞多矣

 凡犬子等寒暑不假人手自育早壯而速衰其一歳當

 人十歳乎過十歳者希也至病死不令見其屍

 如中馬錢毒者急令水吞則解

 治猫犬病以烏藥汁灌之【以下藥方出竹堂簡便方】

 治猫犬生癩用桃樹葉搗爛遍擦其皮毛隔少時洗去

 之

 治狗猫生虱用白色朝腦滿身擦之以桶或箱覆蓋之

 少時放出其虱俱落生癬疥者好茶濃煎通夜冷洗之

 凡狗舌出而尾埀者卽風狗也人被之咬用木鱉子七

 個檳榔二錢水二鍾煎七分服【祕笈云碎杏仁納傷處卽愈】

 所謂風狗卽猘犬也保嬰全書云凡猘犬之狀必吐舌

 流涎尾埀眼赤誠易辨如所咬則毒甚

 凡犬忠功勝于人者所載于史不少舉其一二

搜神記云孫權時有李信純家養一狗字曰黒龍愛之

一日大醉臥於草中遇太守鄭瑕出獵見草深遣人爇之

[やぶちゃん注:「爇」は底本では「「熱」が(上)「執」で、その(下)が「火」である。これは「爇」の異体字であるが、表示出来ないし、現行の「捜神記」の同話でもこの漢字を用いているので、これに代えた。]

信純不知火之來犬見乃以口拽衣而純不動臥處有一

溪相去三五十步犬卽奔往入水濕身走來臥處周迴以

身灑之獲免主人火難犬運水困乏致斃于側信純醒來

見犬已死遍身濕毛甚訝太守聞而慟哭之憫之曰犬之

報恩甚於人卽命具棺槨衣衾葬之今紀南有義犬

[やぶちゃん字注:「」=(上)「苑」+(下)「土」。]

十餘丈

述異記云陸機有後仕洛戯語犬【名黃耳】曰家無音汝

能馳往否犬揺尾作聲似應之機爲書盛以竹筩繫頸犬

出驛路走向饑則食草經水輙依渡者上船到機家取

書看畢又向人作聲如有所求其家作書納筩仍馳還洛

後犬死葬之呼黃耳塚

本朝於河内餌香川原有被斬人數百頭身既爛姓字難

 知但以衣色収取其身者爰有櫻井田部連膽渟所養

 之犬嚙續身頭伏側固守使収已至乃起行之

守屋家臣捕鳥都萬之白犬亦拾主之屍頭能守飢死於

 其側【載日本紀於詳河内名所】

畑六郞左衞門之犬名獅子暗夜侵敵軍犬先入陣中伺

警衞之隙速歸而掉尾告之以故得捷【詳太平記】

播州牧夫之二犬救主急難而囓殺其敵【詳播州犬寺下】

宇都右衞門五郞之犬誤所斬而其頭飛囓殺蛇救主

 危難【詳參州犬頭社下】

 

 

ゑぬ    犬【音、「圏」。】 地羊

いぬ    (むくいぬ)【「厖」も同じ。

        多毛の犬。】

【音、「苟〔(コウ)〕」。】

      獒(たうけん)[やぶちゃん注:闘犬。]

      【高さ、四尺の犬。】

      猗(へんこなしのいぬ)

       【勢〔(せい)〕を去れる犬。】

ウ     【和名、「惠沼」。俗に「伊沼」。】

 

「本綱」、狗は叩〔(コウ)〕なり。吠(ほ)ゆる聲、節〔(ふし)〕有りて、物を叩(たゝ)くがごとし〔なればなり〕。「犬」の字、巻きたる尾・懸-蹄(かけづめ)の形に象〔(かたど)〕る。狗の類ひ、甚だ多し。其の用、三つ、有り。「田犬〔(でんけん)〕」【一名「獫〔(けん)〕」。】は長き喙〔(くちさき)〕〔にして〕善く獵〔(か)〕る。吠犬〔(はいけん)〕【一名、「猲〔けつ)〕。】短き喙〔にして〕善く守る。「食犬〔(しよくけん)〕」は、體、肥え、饌〔(せん)〕[やぶちゃん注:神への供え物。]に供ふ【凡そ、本艸に用ふる所の〔もの〕、皆、食犬なり。】。

狂犬なるを「猘〔(せい)〕」と曰ふ。一子〔(ひとりご)〕を「𤢭〔(がう)〕」【又、「〔(き)〕」と曰ふ。】、二子〔(ふたご)〕を「獅」と曰ひ、三子〔(みつご)〕を「𤡆〔そう〕」と曰ふ[やぶちゃん注:この読みについては、前の「豕(ぶた)」の同様(但し、(へん)が異なる)の呼び名についての私の注を参照されたい。]。

凡そ、犬、三月〔(みつき)〕を以つて生ず。畜〔(ちく)〕[やぶちゃん注:家畜。]に在りては、「木〔(もく)〕」に屬し、卦〔(け)〕に在りては、「艮〔(こん)〕」に屬し、禽〔(きん)〕[やぶちゃん注:星座の動物(配当)の意である。]に在りては、「婁星〔(ろうせい/たたらぼし)〕」に應ず。豺〔(やまいぬ)〕、之れを見て、跪(ひざまづ)き、虎、之れを食へば、醉〔(ゑ)〕ふ。犬、番--鼈〔(マチン)〕を食ふときは、則ち、死す。物〔の〕性〔(しやう)の〕制伏〔(せいふく)〕[やぶちゃん注:征服・服従に於ける当事者関係。]此くのごとし。

肉【鹹、酸。溫。】 五勞七傷を治し、氣力を益し、腎を安〔(やす)〕じ、胃の氣を補す【黃犬を上と爲し、黒犬・白犬、之れに次ぐ。】。凡そ、犬を食〔ふに〕、血を去るべからず。血を去れば、則ち、力〔(ちから)〕少くして、人に益あらず【但し、食穢〔(しよくゑ)〕に因りて食はざる者、衆〔(おほ)〕し。】術家[やぶちゃん注:道教の方士。]は、犬を以つて地厭〔(ぢおん)〕[やぶちゃん注:地の邪気を払う呪術。]を爲し、能く一切〔の〕邪魅・妖術を禳-辟(はら)ふ。故に道家不に〔ては〕犬を食はず【商陸〔やまごばう〕[やぶちゃん注:後注を必ず参照のこと。]・蒜〔(のびる)〕・菱〔(ひし)〕〔は〕犬と同〔じうして〕食ふべからず。[やぶちゃん注:薬用併用及び食い合わせが極めて悪いことを言っている。]】。

乳汁【白犬の者、良し。】 十-年〔(ながねん)[やぶちゃん注:長年。]の〕青盲(あきめくら)を治す。白犬、子、生まれて、目、未だ開〔かざる〕時の〔母犬の〕乳を取り、頻りに之れをず。狗の子、目、開〔かば〕、卽ち、瘥〔(い)〕ゆ。又、赤禿(〔あか〕はげ)〔て〕、髮、落〔つる〕者に頻りに塗る。甚だ妙〔なり〕。

                  京極

  「月淸〔(げつせい)〕」

    主〔(ぬし)〕しらぬ岡部〔(をかべ)〕の里をきてとへば

       こたへぬ先に犬ぞとがむる

文」に、『犬の鳴くを、「吠(ほ)ゆ」と曰ふ【訓、「保由」。】』〔と〕。「王符論」に云はく、『一犬、形〔(かたち)〕に吠ゆれば、百犬、〔その〕聲に吠ゆといへり。』〔と〕。

「左傳」に、『犬を使ふ[やぶちゃん注:調教する際の。]聲を「嗾〔(さう)〕」と曰ひ、犬を牽〔(ひ)〕く繩を「緤(きづな)」と曰ひ【訓、「岐豆奈」。】、一名〔を〕「攣〔(れん)〕」〔とも曰ふ〕。犬を維(つな)ぐ鏁(くさり)を「鋂〔(ばい)〕」と曰ふ。』〔と〕。

「廣博物志」に云はく、『白犬にして烏〔(くろ)〕き頭〔(かしら)〕、白犬にして黒き尾、黒犬にして白き耳、黒犬にしてい白き前足、黃犬〔(わうけん)〕にして白き尾、此等(これら)の犬、之れを畜〔(か)〕へば、共に吉祥なり。』〔と〕。

按ずるに、犬の性、雪を喜び、暑さを怕(をそ[やぶちゃん注:ママ。])れ、濕を惡〔(にく)〕む。恩を知り、仇を酬ふ。鼻、利〔(と)〕くして、能〔(よ)〕く氣〔(かざ)〕を齅(か)ぐ。能く家を守りて、非常の人[やぶちゃん注:普段、見かけない人。]を内に入れず、嚴しく吠えて、竊盜〔(せつたう)〕を防ぐ。官家・賤民、共に、畜はずんばあるべからざるの者なり。其の田犬、則ち、狩獵の時、先づ、山野に放ち入れ、禽獸の所在を齅(か)ゞせしむ。乃〔(すなは)ち〕、官家の寶獸なり。凡そ、犬、栖-家(すみか)を離れて、遠く走るときは、則ち、數々、尿(ゆばり)を路傍に遺し、歸るに至れば、其の尿の氣(かざ)を齅ぐ。數十里と雖も、己〔(おの)〕が栖を失はず。猶ほ、山行の栞(しをり)のごときなり。創傷を苦しまず、如〔(も)〕し、小さき疵を被むる〔ときは〕、則ち、自ら舐(ねぶ)りて、卽ち、瘥〔(い)〕ゆ〔やす〕。若〔(も)〕し、傷、耳・鼻、則、舐ること能はずして、治〔すること〕易から〔ざるは〕、急ぎ小豆〔(あづき)〕を煑て、食はしめば、則ち、癒ゆ。性、肉〔の〕腥〔(なまぐさき)〕を喜(この)めれども、生〔き〕物を害(こそな)はず、糞穢〔(ふんゑ)〕を吃(く)へども鮾-腐〔(だいふ)〕[やぶちゃん注:腐った魚肉。]を舐らず。多く魚の膓〔(わた)〕を食〔へば〕、則ち、却つて、皮毛、禿(は)げ、爛〔(ただ)〕る。故に、魚の肆(たな)[やぶちゃん注:「店(たな)」に同じ。]に癩狗〔(らいく)〕[やぶちゃん注:単に毛が抜けたり、激しい炎症を起こした犬のことを指す。「癩」には業病として激しく差別された(天罰によって生きながら地獄の業火に焼かれている等とされた)ハンセン病以外に、「薬負け・傷・疥癬(かいせん)」の意があり、ここもそれ。直ぐ後に猫や犬の後者の「癩」を治す方法が出てくることからもそれが判る。]多し。常に糞を〔栖家(すみか)の〕四壁の閒〔(あひだ)〕に遺さず。〔されば〕却つて犬を畜はざる〔家の〕門外には、犬の糞、多し。

凡そ、犬--等(ゑのころ)は寒暑〔に關はらず〕、人の手假(か)らずして自ら育ち、早く壯(そう)じて、速く衰ふ。其の一歳、人の十歳に當るか。十歳を過〔(すぐ)〕る者、希れなり。病死するに至りて、其の屍〔(かばね)〕を見せず。

如〔(も)〕し、馬錢(マチン)の毒に中〔(あた)〕者〔あれば〕、急ぎ水を吞ませば、則ち、解〔(げ)〕す[やぶちゃん注:解毒出来る。]。

猫・犬の病ひを治す〔には〕、烏藥〔(うやく)〕の汁を以つて、之れに灌〔(そそ)〕ぐ〔べし〕【以下の藥方は「竹堂簡便方〔(ろくちくだうかんべんはう)〕」に出づ。】。

猫・犬の癩を生ずるを治する〔には〕、桃〔の〕樹〔の〕葉を用ひ、搗き爛らして、遍〔(あまね)〕く其の皮毛を擦〔(す)〕る。少時を隔てて、之れを洗ひ去る〔べし〕。

狗・猫〔の〕虱を生ずるを治す〔には〕、白色の朝腦[やぶちゃん注:不詳。「てうなう」と読んでおく。東洋文庫訳も『不詳』とする。但し、防虫剤に用いるクスノキの木片を水蒸気蒸留して製する「樟脳」(C10H16O)っぽい感じが私はするのだが。]滿身に之れを擦る。〔後、〕桶或いは箱を以つて之れを覆〔ひ〕蓋〔(ふた)〕す。少-時(しばら)くして、放〔ち〕出〔(いだ)〕せば、其〔の〕虱、俱に落つ。癬疥〔(せんかい)〕[やぶちゃん注:ヒトの感性症としても知られる疥癬(かいせん)。皮膚に穿孔して寄生する、節足動物門鋏角亜門蛛形(クモ)綱ダニ目無気門亜目ヒゼンダニ科 Sarcoptidae ヒゼンダニ Sarcoptes scabiei var. hominis による皮膚感染症。「湿瘡」「皮癬」とも称する。知られている皮膚疾患の中では掻痒は最高度。]を生ずる者は、好〔(よ)き〕茶〔を〕濃(こ)く煎じ、通夜、冷して、之れを〔以つて〕洗ふ〔べし〕。

凡そ、狗、舌を出だして、尾を埀るる者、卽ち、「風狗」[やぶちゃん注:狂犬。]なり。之れに咬まらるれば、木鱉子〔(もくべつし)〕七個・檳榔〔(びんらう)〕二錢[やぶちゃん注:一銭は三・七五グラムであるから、七・五グラム。]・水二鍾〔(しよう)〕[やぶちゃん注:一鍾(しょう)は四十九・六六四リットルであるから、九十九リットル強。かなり多い。]を用ひ、七分〔(しちぶ)〕に煎じて服す【「祕笈〔(ひきゆう)〕」に云はく、『杏仁〔(きやうにん)〕を碎き、傷の處に納〔むれば〕、卽ち、愈ゆ』〔と〕。】

所謂、「風狗」は、卽ち、「猘犬(せいけん)」[やぶちゃん注:狂犬。]なり。「保嬰〔(ほえい)〕全書」に云はく、『凡そ、猘犬の狀、必ず、舌を吐き、涎れを流し、尾を埀らし、眼、赤く、誠に辨じ易し。如〔(も)〕し咬まるれば、則ち、毒、甚だし。』〔と〕。[やぶちゃん注:狂犬病に罹患した動物は噛みつき、騒ぐ「狂騒型」(或いは狂騒期)と、空ろな目でしょんぼりとしまう「沈鬱型」(或いは狂騒期の後の麻痺期)の二種の症状(期)があるという。]

凡そ、犬の忠功〔なるものは〕、人に勝〔(すぐ)〕る。史〔書〕に載する所、少なからず。其の一、二を舉ぐ。

「搜神記」に云はく、『の孫權の時、李信純といふもの有り、家に一狗を養ふ。字(あざな)を「黒龍」と曰ひ、之れを愛す。一日、大いに醉ひて草の中に臥す。遇(たまたま)、太守の鄭瑕〔(ていか)〕、出でて獵りす。草の深きを見て、人をして之れを爇(や)かしむ。信純、火の來たるを知らず。犬、見て、乃〔(すなは)ち〕、口を以つて衣を拽(ひ)く。而〔(しか)れど〕も、純、臥し處〔(どころ)〕を動かず。一〔つの〕溪(たに)有り、相ひ去ること、三、五十步あり。犬、卽ち、奔り往〔(ゆ)〕きて、水に入り、身を濕(ひた)し、臥し處に走り來りて、周迴〔(しうくわい)〕し、身を以つて之れに灑(そゝ)ぐ。主人の火難を免〔(まぬか)〕ることを獲〔(う)〕。犬は、水を運(はこ)んで、困-乏し、側〔(そば)〕に斃〔(へい)〕するに致る[やぶちゃん注:倒れてしまった。]。信純、醒-來〔(めざ)め〕て、犬、已に死して、遍身、濕(ぬ)れたる毛を見、甚だ訝(いぶか)る。太守、聞きて慟-哭(な)き、之れを憫(あはれ)みて「犬の恩を報ふこと、人卽(より)も甚だし。」。〔とし〕、命じて棺槨〔(かんかく)〕[やぶちゃん注:柩(ひつぎ)。]・衣衾〔(いきん)〕[やぶちゃん注:遺体を覆う衣類や蒲団。帷子(かたびら)。]を具(そな)へ、之れを葬る。今、紀南[やぶちゃん注:現在の湖北省荊州区紀南鎮。ここ(グーグル・マップ・データ)。]に「義犬〔の〕〔はか〕」有り。高さ、十餘丈[やぶちゃん注:「捜神記」は東晋の干宝が著した志怪小説集であるから、当時の「一丈」は二・四四五メートルであるが、それでも二十五メートルほどになる巨大な墓だ。但し、残念なことに、現存はしないようだ。]。』〔と〕。

[やぶちゃん字注:「」=(上)「苑」+(下)「土」。]

「述異記」に云はく、『陸機、に有り。後、洛[やぶちゃん注:西晋の首都であった洛陽。]に仕(つか)へ、戯れに犬に語りて【「黃耳〔(くわうじ)〕」と名づく。】曰はく、「家と(た)へて[やぶちゃん注:ママ。]音(をとぶれ)無し。汝、能く馳〔(は)せ〕て往かんや否や」〔と〕。犬、尾を揺らし、聲を作〔(な)〕して、之れに應(こた)ふるに似たり。機、書を爲し、盛〔(も)〕るに[やぶちゃん注:犬に持たせるのに。]、竹の筩(つゝ)を以つて、頸に繫ぐ。犬、驛路に出でて走りて、に向ふ。饑〔(うう)〕るときは、則ち、草を食〔(は)み〕、水を經(わた)れば、輙〔(すなは)〕ち、渡者(わたしもり)に依〔(より)〕て船に上(の)り、機が家に到り、〔家の者、〕書を取り〔て〕看〔(み)〕畢〔(おは)〕れば又、人に向ひ、聲を作し、求むる所、有るがごとし。其の家〔の者〕、書を作〔(な)し〕て、筩〔(つつ)〕に納(い)れしかば、仍つて、馳せて洛に還る。後、犬、死す。之れを葬る。「黃耳塚」と呼ぶ。

本朝、『河内〔(かはち)の〕餌香川原(〔ゑが〕の〔かはら〕)に於いて、斬らるる人、有り、數百の頭-身(むくろ)、既に爛(たゞ)れて、姓字〔(せいじ)〕、知れ難し[やぶちゃん注:「姓字」は「名字と名前」の意であるが、要は腐乱が進んで、誰が誰だか判らなくなっていたのである。]。但〔(ただ)〕、衣の色を以つて、其の身(むくろ)を収め取る。爰〔(ここ)〕に櫻井田部連膽渟(〔さくらゐ〕の〔たべ〕のむらじいぬか)、養ふ所の犬、身頭(むくろ)を嚙み續け、側に伏し、固く守りて、収めしむ。已に至〔れば、〕乃〔(すなは)〕ち起きて之れと行く』〔と〕。

守屋が家臣、捕鳥都萬(とつとり〔べ〕の〔よろ〕づ)が白犬も亦、主〔(あるじ)〕の屍頭〔(むくろ)〕を拾(いろ)いて[やぶちゃん注:ママ。]、能く守り、其の側に飢死す【「日本紀」に載る。河内の名所に詳らかなり。】。

[やぶちゃん挿入注:この二条の話は「田部連膽渟」(桜井田部胆渟(さくらいの たべの いぬ ?~用明天皇二(五八七)年:飛鳥時代の武人で物部守屋の家臣。連(むらじ)は正式な姓。桜井田部氏は河内国河内郡(大阪府東大阪市近辺)に起源を持つ豪族伴造(とものみやつこ)の一族。彼は河内国餌香河原(えがのがわら)で戦死している)や「守屋が家臣」の「捕鳥都萬」の名によって、用明二(五八七)年七月に、蘇我馬子や厩戸皇子(うまやどのみこ:聖徳太子)らの蘇我軍の主力が、物部守屋軍の先鋒と激戦の末に突破したとされる「餌香川原の戦い」の後の光景であることが判る。そこでは両軍ともに多くの戦死者を出している(物部軍を突破した後、難波宮の守屋の私邸の占拠に成功した)。この川は、現在の石川で、大和川水系の支流で藤井寺市の東に接して流れる。大阪府の東南部の、奈良県境にある金剛山地の西側斜面と丘陵地の水を集めて北へ流れ、市の北東部で大和川と合流する。この辺りでは、石川の中程が隣りの柏原市との境界ともなっている。この「餌香川原の戦い」の場所は、まさにその合流地点の南の部分、現在の大阪府藤井寺市国府付近の石川に比定されているらしい。ここ(グーグル・マップ・データ)。ここは主に「藤井寺南小学校」公式サイト内の「大和川と石川」に拠った。以上は、「日本書紀」の崇峻天皇即位前紀用明天皇二(五八七)年七月の条の「平亂之後」のパートの、以下の部分が引用元である。

   *

爰有萬養白犬、俯仰𢌞吠於其屍側、遂嚙舉頭收置古冢、橫臥枕側、飢死於前。河内國司、尤異其犬、牒上朝庭。朝庭哀不忍聽、下苻稱曰、「此犬、世所希聞、可觀於後。須使萬族作墓而葬。」。由是、萬族、雙起墓於有眞香邑葬萬與犬焉。河内國言、「於餌香川原有被斬人、計將數百。頭身既爛、姓宇難知、但以衣色收取其身者。爰有櫻井田部連膽渟所養之犬、嚙續身頭伏側固守、使收己主乃起行之。」。

   *]

畑六郞左衞門の犬、「獅子」と名づく[やぶちゃん注:ママ。名は「犬獅子(けんじし)」が正しい。]。暗夜に敵軍を侵す。犬、先づ、陣中に入りて、警衞の隙〔(す)〕きを伺ひ、速やかに歸りて、尾を掉(ふ)りて之れを告ぐ。故を以つて、捷を得。【「太平記」に詳らかなり。】

[やぶちゃん挿入注:「畑六郞左衞門」は南北朝時代の南朝方新田義貞の側近であった武将畑時能(はたときよし 正安元年九(一二九九)年~興国二/暦応四(一三四一)年)のこと。ウィキの「畑時能」によれば、『武蔵秩父郡出身。義貞に従って各地を転戦し』、延元三/建武五(一三三八)年、『義貞が藤島の戦いで平泉寺勢力に敗死すると、義貞の弟脇屋義助に従い、坂井郡黒丸城、千手寺城、鷹栖城を転戦、足利方の斯波高経と激戦を繰り返したが、ついには追い詰められ、鷲ヶ岳に郎党』十六『騎で立て籠った。高経は、平泉寺が再び南朝に味方したと勘違いし、伊知地(現福井県勝山市伊知地)へ』三『千の軍勢を差し向け』、十月二十二日、『斯波勢へ突撃した時能は数時間に及ぶ激闘の末、肩口に矢を受け、三日間苦しんだ後に亡くなったという』とある。同ウィキには『江戸時代に描かれた畑時能のイメージ』として歌川国芳の「武勇見立十二支・畑六良左エ門」の犬を連れた彼の絵が載り、「太平記」には、『時能が犬「犬獅子」と「所大夫房快舜」、「悪八郎」の二人の従者とともに足利氏の砦を陥とす物語がある』とキャプションがある。後注で「太平記」の当該箇所を掲げる。]

播州牧夫〔(ひらふ)〕[やぶちゃん注:「牧夫」はママ。後注参照。]が二犬、主の急難を救ひ、而も其の敵を囓み殺すと。【播州犬寺の下に詳らかなり。】

宇都(うつ)右衞門五郞が犬、誤りて斬らる。而〔(しか)れど〕も、其の頭〔(かうべ)〕、飛びて、蛇(うはばみ)を囓み殺し、主の危難を救ふ【參州犬頭〔(けんづ)〕の社〔(やしろ)〕の下に詳らかなり。】。

[やぶちゃん注:哺乳綱 Mammalia獣亜綱 Theria 真獣下綱 Eutheria ローラシア獣上目 Laurasiatheria 食肉(ネコ)目 Carnivora イヌ亜目 Fissipedia イヌ下目 Cynoidea イヌ科 Canidae イヌ亜科 Caninae イヌ族 Canini イヌ属タイリクオオカミCanis lupus 亜種イエイヌ Canis lupus familiarisウィキの「イヌ」によれば、『属名 Canis、種小名 lupus はラテン語でそれぞれ「犬」「狼」の意。亜種名 familiaris はやはりラテン語で、「家庭に属する」といった意味。また、英語: familiar、フランス語: familier など「慣れ親しんだ」を意味する現代語の語源でもある』。『古く日本ではヤマイヌ(狼)に対して「イエイヌ」とも言っていた。英語名 domestic dog は、伝統的な学名』Canis familiaris『(家族の-犬)を英訳にしたもので、日本では domestic dog の訳語として古来からのイエイヌの語をあてるようになった』。『また、広義の「イヌ」は広くイヌ科に属する動物(イエイヌ』・(タイリク)オオカミ・コヨーテ(イヌ属コヨーテ Canis latrans)・ジャッカル(現生種は四種で、イヌ属キンイロジャッカル Canis aureus(南アジア・中央アジア・西アジア・東南ヨーロッパ・北アフリカ・東アフリカに棲息)・アビシニアジャッカル Canis simensis(エチオピアに棲息。「アビシニアオオカミ」などとも呼び、「ジャッカル」に含めない説もある)・セグロジャッカル Canis mesomelas(南部アフリカに棲息)・ヨコスジジャッカル Canis adustus(中部アフリカに棲息)・キツネ(イヌ科キツネ属アカギツネ亜種ホンドギツネ Vulpes vulpes japonica ほか)・タヌキ(タヌキ属タヌキ Nyctereutes procyonoides)・ヤブイヌ(ヤブイヌ属ヤブイヌ Speothos venaticus)・リカオン(リカオン属リカオン Lycaon pictus)『など)の総称でもあるが、日本ではこちらの用法はあまり一般的ではなく、欧文翻訳の際、イヌ科動物を表す dogs canine の訳語として当てられるときも』、『「イヌ類」などとしてイエイヌと区別するのが普通である』。『イエイヌは人間の手によって作り出された動物群である。最も古くに家畜化されたと考えられる動物であり、現代でも、ネコ Felis silvestris catus と並んで代表的なペット』『として、広く飼育され、親しまれている』。『野生化したものを野犬といい、日本語ではあたかも標準和名であるかのように片仮名で「ノイヌ」と表記されることも多いが、野犬(やけん)を誤って訓読したため』に『生じた新語であり、分類学上は種や亜種としてイエイヌと区別される存在ではない』。『犬種については』『ジャパンケネルクラブ(JKC)では、国際畜犬連盟(FCI)が公認する』三百三十一『犬種を公認し、そのうち』、百七十六『犬種を登録してスタンダードを定めている。なお、非公認犬種を含めると』、約七百から八百の犬種がいるとされている』。『また、世界全体では』四『億匹の犬がいると見積もられている。血液型は』八『種類』ある。『イヌの染色体は』七十八『本(2n)あり、これは』三十八『対の常染色体と』一『対の性染色体からなる。これは同じイヌ』科『のドール』(ドール属ドール Cuon alpinus)・リカオン・ジャッカル類・『コヨーテ類などとも共通である。これらの種は交配可能であり、この雑種は生殖能力をもつ。ただし、これらは行動学的に生殖前隔離が起こり、また、地理的にも隔離されている。ジャッカル類は主にアフリカに、(アジアに分布の及ぶキンイロジャッカルはジャッカル類では』なく、『オオカミに近縁だとされる)、コヨーテ類は北アメリカ大陸に分布する』、『また、オーストラリア大陸と周辺地域に生息するディンゴ』(イヌ属タイリクオオカミ亜種ディンゴ Canis lupus dingo)『と、ニューギニア島に生息するニューギニアン・シンギング・ドッグ』(New Guinea Singing Dog:パプアニューギニア原産の野生化した犬種。現在、絶滅寸前。ウィキの「ニューギニアン・シンギング・ドッグを参照されたい)『は、人類によって約』四千『年前に持ち込まれたイヌであり、かつては別種とされていたが、現在はイエイヌとともに、タイリクオオカミの』一『亜種とされている』。『イヌの属するイヌ科は、森林から開けた草原へと生活の場を移して追跡型の狩猟者となった食肉類のグループである。待ち伏せ・忍び寄り型の狩りに適応したネコ科』Felidae『の動物に対して、イヌ科の動物は、細長い四肢など、持久力重視の走行に適した体のつくりをしている』。『また、イヌは古くから品種改良が繰り返されて、人工的に改良された品種には、自然界では極めて珍しい難産になるものも多く、品種によっては、出産時に帝王切開が必要不可欠となる(主にブルドッグ)』(以下、「生態的・形態的特徴」として「骨格」に始まり、「知能」までの十四項目がある。それぞれ、本文の叙述のよき科学的補説となるが、キリがないので総て省略する。各自で参照されたい)。以下、「イヌの起源」の項。『イヌは最も古くに家畜化された動物であり、手に仔犬(イヌかオオカミかはっきりしない)を持たせて埋葬された』一万二千年ほど『前の狩猟採集民の遺体がイスラエルで発見されている。分子系統学的研究では』一万五千年位上前に『オオカミから分化したと推定されている。イヌの野生原種はタイリクオオカミ Canis lupus)の亜種のいずれかと考えられている。イヌのDNAの組成は、オオカミとほとんど変わらない。イヌがオオカミと分岐してからの』一万五千年という『期間は種分化としては短く、イヌを独立種とするか』、『オオカミの亜種とするかで議論が分かれているが、交雑可能な点などから』、『亜種とする意見が優勢となりつつある』。以下、「イヌと歴史・文化」の「世界におけるイヌの歴史」。『古代メソポタミアや古代ギリシアでは彫刻や壷に飼いイヌが描かれており、古代エジプトでは犬は死を司る存在とされ(アヌビス神)、飼い犬が死ぬと埋葬されていた。紀元前』二千『年頃の古代メソポタミアの説話』「エンメルカルとアラッタ市の領主」では、『アラッタ領主が「黒でなく、白でなく、赤でなく、黄でなく、斑でもない犬を探せ」と難題を命じる場面がある。つまり、既にこれらの毛並みの犬が一般的だったわけである。紀元前に中東に広まったゾロアスター教でも犬は神聖とみなされるが、ユダヤ教では犬の地位が下り、聖書にも』十八『回登場するが、ここでもブタとともに不浄の動物とされている。イスラム教では邪悪な生き物とされるようになった』。『イスラム圏では牧羊犬以外にイヌが飼われることは』今でも少ないようだが、』『欧米諸国では多くの犬が家族同然に人々に飼われている。日本でも』五『世帯に』一『世帯がイヌを飼っているといわれている。中世ヨーロッパの時代には、宗教的迷信により、魔女の手先(使い魔)として忌み嫌われ虐待・虐殺されたネコに対し、犬は邪悪なものから人々を守るとされ、待遇は良かった』。『古代中国では境界を守るための生贄など、呪術や儀式にも利用されていた』。『「けものへん(犬部)」を含む「犬」を部首とする漢字の成り立ち』を見ても、そうした呪的機能を担ったであろう『ことが窺われる。古来、人間の感じることのできない超自然的な存在によく感応する神秘的な動物ともされ、死と結びつけられることも少なくなかった(地獄の番犬「ケルベロス」など)。漢字の成り立ちとして、「犬」の「`」は、耳を意味している』。『中央アジアの遊牧民の間では、家畜の見張りや誘導を行うのに欠かせない犬は、大切にされた。モンゴル帝国のチンギス・カンに仕えた側近中の側近たちは、四駿四狗(』四『頭の駿馬と』四『頭の犬)と呼ばれ』、『讃えられた』。『ヨーロッパ人に「発見」される前のアメリカ大陸では、犬は唯一とも言える家畜であり、非常に重要な存在であった。人間にとってなくてはならない労働力であり、狩猟、番犬、犬ぞり、祭りでの生贄やご馳走として様々に利用された。ユイピの儀式など、祭りにおいて犬の肉は重要な存在である。また、白人によって弾圧されたインディアン諸部族の中で、シャイアン族の徹底抗戦を選んだ者たちは、Hotamétaneo'o(ドッグ・ソルジャー、犬の戦士団)という組織を作り、白人たちと戦った』。『欧米諸国では、古代から狩猟の盛んな文化圏のため、猟犬としての犬との共存に長い歴史がある。今日では特に英国と米国、ドイツなどに愛犬家が多い。英国には「子供が生まれたら』、『犬を飼いなさい。子供が赤ん坊の時、子供の良き守り手となるでしょう。子供が幼年期の時、子供の良き遊び相手となるでしょう。子供が少年期の時、子供の良き理解者となるでしょう。そして子供が青年になった時、自らの死をもって子供に命の尊さを教えるでしょう。」という諺がある』。『一方』、十九『世紀後半のイギリスでは狂犬病の原因を巡って大きな論争が起きた。狂犬病はイヌに噛まれることによる感染症であるという主張が流布し、不潔な下層階級の飼う犬、気性の荒い狩猟犬が特に疑いの目を向けられた。人々のヒステリックな対応により、何万匹ともいわれるイヌが』、『狂犬病予防の名目で殺されたが』、アメリカの『歴史家のハリエット・リトヴォ』(Harriet Ritvo  一九六四年~)『によれば』、十九『世紀に殺されたイヌのうち、精神に異常をきたしていたイヌは』五『パーセントに過ぎず、そのうちの四分の三は』癲癇(てんかん)或いは『風変わりな外見』であったに過ぎなかったという。『犬は欧米や日本など世界の広い地域で一般的に親しまれている』『一方で、犬を忌み嫌ったり、虐げたりする文化圏や民族もある。サウジアラビアでは一般に嫌悪の対象である』。『コンゴのムブティ族は、犬を狩りに必要な「貴重な財産」と見なしつつも』、『忌み嫌っており、彼らの犬は馬鹿にされ』、『殴る蹴るなどされる』。『欧米では犬をペット・家族の一員と考えるため』、『犬肉食はタブー視されるが、一方、インドや中東で犬肉を食べる習慣がないのは、古代ヒンドゥー教やイスラム教では犬を卑しく汚らわしい害獣と見なしているためだと考えられる』。『犬は一般に出産が軽い(安産)とされることから、日本ではこれにあやかって戌の日に安産を願い、犬張子や帯祝いの習慣が始まるようになる』。『「人間の最良の友(Man's best friend)」と言われるように、飼い主やその家族に忠実なところはプラスイメージが強い。近代日本では忠犬ハチ公の逸話が多くの国民に愛されたほか、江戸時代以前にも主人の危機を救おうとした伝説・民話も多い(秋田県大館市の老犬神社など)。他方、東西の諺や、日本語にある「犬死に」「犬侍」』『「負け犬」といったネガティブ成語・熟語に使われることも多い。また、忠実さを逆手にとって、権力や体制側に順従に従っている人物や特定の事物(思想や団体・有名人など)を盲目的に支持・信奉する人物やスパイの意味でも「犬」が用いられる。また「雌犬」は女性への侮辱語として使われる。植物の和名では、イヌタデ』(ナデシコ目タデ科ミチヤナギ亜科 Persicarieae Persicariinae 亜連イヌタデ属イヌタデ Persicaria longiseta。本種は薬味として使用される、同じイヌタデ属ヤナギタデ Persicaria hydropiper に対して(ヤナギタデは異名で「マタデ」「ホンタデ」とも呼ぶ)、役に立たないものとしての「イヌ」である。しかし私はあの「あかのまんま」の花がとても好きだ)のように、本来、『その名をもつ有用な植物と』は、『似て非なるものを指すのにしばしば用いられる』。以下、「日本におけるイヌの歴史」。『日本列島においては犬の起源は不明であるが、家畜化された犬を飼う習慣が日本列島に渡ってきたと考えられている。縄文時代早期からの遺跡から犬(縄文犬)が出土している。その一部は埋葬された状態だが、多数例は散乱状態で出ており、家族の一員として飼われた犬と、そうでない犬がいたと考えられる』(縄文犬の埋葬遺跡の最初期の発見者の一人は、私の父の考古学の師であった酒詰仲男先生(明治三五(一九〇二)年~昭和四〇(一九六五)年)である。私はサイトで「土岐仲男」名義で書かれた詩集「人」を電子化注している)。『縄文早期から中期には体高』四十五『センチメートル前後の中型犬、縄文後期には体高』四十『センチメートル前後の小型犬に変化し、これは日本列島で長く飼育されたことによる島嶼化現象と考えられている』。『なお』一九九〇『年代に縄文人と犬との関係の定説に再考を迫る発見があった。霞ヶ浦沿岸の茨城県麻生町(現:行方市)で発掘調査された縄文中期から後期の於下貝塚から、犬の各部位の骨が散乱した状態で出土。犬の上腕骨』一『点に、解体痕の可能性が高い切痕が確認された。調査報告では、犬を食用として解体していた物的証拠と評価しており、日本列島における犬食の起源がさらに遡る可能性が高い』。『弥生時代に犬の埋葬例は激減する』。『また、墓に供えられた壺の中に、犬の骨の一部が入っていることがあり、犬が人間の墓の供え物になったことがわかる』。『長崎県の原の辻遺跡などでは、解体された痕のある犬の骨が発見され、食用に饗されたことも窺える。遺跡からは縄文犬と形質の異なる犬も出土しており、大陸から連れてこられたと考えられる』。「日本書紀」には、『日本武尊が神坂峠を超えようとしたときに、悪神の使いの白鹿を殺して道に迷い、窮地に陥ったところ、一匹の狗(犬)が姿を現し、尊らを導いて窮地から脱出させたとの記述がある。そして、同書の天武天皇五(六七五)年四月十七日の条には、四月一日から九月三十日までの『期間、牛・馬・犬・猿・鶏の、いわゆる肉食禁止令を出しており、犬を食べる人がいたことは明らかである。なお、長屋王邸跡から出土した木簡の中に子を産んだ母犬の餌に米(呪術的な力の源とされた)を支給すると記されたものが含まれていたことから、長屋王邸では、貴重な米を犬の餌にしていたらしいが、奈良文化財研究所の金子裕之は、「この米は犬を太らせて食べるためのもので、客をもてなすための食用犬だった」との説を発表し』ている、とある。『奈良時代・平安時代には貴族が鷹狩や守衛に使う犬を飼育する職として』、『犬養部(犬飼部)が存在した』。『平安京では、犬が人間の残飯や排泄物を食べていた。また、埋葬されない人の死体が放置され、犬に食われることが珍しくなかった』。『鎌倉時代には』、『武士の弓術修練の一つとして、走り回る犬を蟇目矢(ひきめや。丸い緩衝材付きの矢)で射る犬追物や犬を争わせる闘犬が盛んになった』。『肉食忌避の観念がある一方で、犬を食べる風習も廃れてはおらず、室町時代の草戸千軒町遺跡』(広島県福山市内)『からは食用にした跡が残る犬の骨が見つかっ』ている。『浄土真宗の宗祖親鸞は』、「大般涅槃経」を『参考に浄肉(食べてもよい肉)・不浄肉(食べてはいけない肉)の区別を行った際、犬肉を猿肉などとともに不浄肉に分類するなど、犬肉食を忌避する考え方も生まれた』。『南北朝時代以降には軍用犬として犬を活用する武将も現』われ、本文にも出る通り、「太平記」には『越前国鷹巣城(現・福井県高須山)攻防戦に於いて、南朝方の守将、畑時能が愛犬「犬獅子」と』二『人の従者と共に寄せ手の北朝方の砦を攻め落とす逸話が記述されており、江戸時代に歌川国芳が干支の動物と縁の深い歴史上の人物を浮世絵に描いた』、「武勇見立十二支」にて戌年に畑時能と犬獅子が描かれるなど、人々に広く知られる存在となった』(この絵の画像は以下でリンクしてある)。『戦国時代には武蔵国の武将太田資正が、岩槻城と松山城の緊急連絡手段として伝令犬を用い、北条氏康方の包囲を突破して援軍要請に成功し、度々撃退していた逸話が』「関八州古戦録」や「甲陽軍鑑」に『記述されている。太田資正の伝令犬戦術は「三楽犬の入替え」と呼ばれ、日本における軍用犬運用の最初の例とされている』。江戸『中期、江戸では野犬が多く、赤ん坊が食い殺される事件もあった』。第五『代将軍』『徳川綱吉は戌年の戌月の戌の日の生まれであったため、彼によって発布された「生類憐れみの令」』(貞享二(一六八五)年~宝永六(一七〇九)年とリンク先はするが、同令は波状的に細かく出されたもので、当初から非人間的な厳罰処置が行われたわけではなかった)『において、犬は特に保護』(「生類憐れみの令」は『人間を含む全ての生き物に対する愛護法令)され』、元禄九(一六九六)年には、『犬を殺した江戸の町人が獄門という処罰まで受けている。綱吉は当時の人々から「犬公方」(いぬくぼう)とあだ名された。綱吉自身大の愛犬家で狆を百匹飼い、駕籠(かご)で運ばせていた。この法令が直接適用されたのは幕府直轄領であったが、間接的に適用される諸藩でも』、『将軍の意向に逆らうことはできなかった。綱吉の後を継いだ徳川家宣の治世当初に生類憐れみの令は廃止された。天明の大飢饉により』、『米価が高騰し』、『深刻な米不足が起こった際、江戸北町奉行・曲淵景漸がイヌやネコの肉の価格を示して「米がないなら』、『イヌやネコの肉を食え」と発言し町人の怒りを買い、江戸市中で打ちこわしまで引き起こす結果となった』。他にもリンク先は諸事項の記載があるが、後一つだけ、「歴史に名を残した犬」一番古い部分だけを引いて終りとする。垂仁天皇八十七(五〇年?)頃、『足往(あゆき)』(『名前が記録に残る日本最古の犬』である)が、『むじな』(イヌ型亜目クマ下目イタチ小目イタチ上科イタチ科アナグマ属ニホンアナグマ Meles anakuma 或いはイヌ科タヌキ属タヌキ Nyctereutes procyonoides)『を殺して出て来た勾玉が献上された』と、「日本書紀」の垂仁天皇の条に出る』とある。これは垂仁天皇八十七年二月五日の記事中に出るもので、

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昔丹波國桑田村有人。名曰甕襲。則甕襲家有犬。名曰足徃。是犬咋山獸名牟士那而殺之。則獸腹有八尺瓊勾玉。因以獻之。是玉今有石上神宮。

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である。……どうもいけない……一昨年逝った三女アリスのことが思い出されてしまうのだ……注をしながら、そこここでもの狂ほしくなってゆく……ばかり…………

 

「ゑぬ」小学館「日本国語大辞典」によれば、この語源説は、『ヱはイハ(家)の約音。ヌは詞助〔東雅〕。ヱイヌ(飼犬)の約。古代に専ら犬の子を鷹、鶏の飼』(やしなう相手の意か)『にしたということからか〔大言海〕。ワヌワヌという鳴声に基づいた語か〔言元梯・大言海・国語の語根と分類=大島正雄〕ヱヌスミ(餌盗)の略〔名言通〕』とあるが、私は「ゑぬ」というのを初めてここで見た。

「地羊」これは犬食を隠すための換字のように私には思われる。

「懸-蹄(かけづめ)」「ケンテイ」は、本来は牛・羊などの偶蹄類の蹄(ひづめ)のうちで、

「食犬〔(しよくけん)〕」ウィキの「犬食文化」を参照されたい。私は引用に堪えない。因みに、私の妻は南京大学に日本語派遣教員として出向した折り、教え子が取り寄せて作ったそれを食べている。食には保守的な女性であるが、非常に美味しかったと告白している。

「凡そ、犬、三月〔(みつき)〕を以つて生ず」犬の妊娠期間は交配日から数えて約六十三日(九週間)と言われているので、科学的に正しい。

「婁星〔(ろうせい/たたらぼし)〕」現在の「おひつじ座」の西の頭部分に相当する三つの星を指す。二十八宿(前項で既注)の一つで、西方白虎七宿の第二宿で、距星(きょせい:各宿の基準点となる星)はおひつじ座β(ベータ)星。「婁」には「群衆、または天獄。塿(小さい丘)」の意がある。

「番--鼈〔(マチン)〕」「馬錢」。リンドウ目マチン科マチン属マチン Strychnos nux-vomicaウィキの「マチン」によれば、『アルカロイド』(alkaloid:窒素原子を含み、ほとんどの場合、塩基性を示す天然由来の有機化合物の総称)『のストリキニーネ』(strychnine(オランダ語):C21H22N2O2無色の針状結晶で、猛毒。硬直痙攣を起こさせるが、微量では神経興奮剤となる)『を含む有毒植物及び薬用植物として知られる。種小名(ヌックス-フォミカ)から、ホミカともいう』。『インド原産と言われ、インドやスリランカ、東南アジアやオーストラリア北部などに成育する。高さは』十五メートルから三十メートル以上になる高木。『冬に白い花を付け、直径』六~十三センチメートルの『橙色の果実を実らせる。果実の中には数個の平らな灰色の種子がある。マチンの学名』は、一六三七年に『マチンがヨーロッパにもたらされたとき、カール・フォン・リンネにより命名された。種小名の』nux-vomica『は「嘔吐を起こさせる木の実」という意味だが、マチンの種子には催嘔吐作用は無いとされている』。『マチンの毒の主成分はストリキニーネ及びブルシン』(brucineC23H26N2O4 )『で、種子一個でヒトの致死量に達する。同じマチン属の』Strychnos ignatia『の種子(イグナチア子、呂宋果(るそんか))にもストリキニーネ及びブルシンが含まれる。こちらはフィリピン原産。マチン科』Loganiaceae『には他に、ゲルセミウム属』Gelsemium『(代表種はカロライナジャスミン』Gelsemium sempervirens『)などがある』。『漢方では生薬としてマチンの種子を馬銭子(まちんし)、蕃木鼈子(ばんぼくべつし、蕃は草冠に番)、またはホミカ子と称し』、『苦味健胃薬として用いられる。インドでは、木部を熱病、消化不良の薬に用いる。日本薬局方では、ホミカの名で収録されている。ただし、前述の通り』、『マチンは有毒であり』、『素人による処方は慎むべきである』とある。

「五勞七傷」東洋文庫注に「五勞」とは『心労・肝労・脾労・肺労・腎労の五臟の病』いとし、「七傷」『は五臟の他、身體と志とを加えて、この七つを傷めることとも、また、陰寒・陽萎・裏急・精漏・精少・精清・小便数を七傷とするという説もある。いずれも、過労の積み重なりにより発病する内臓の慢性疾患である』とある。

「商陸〔やまごばう〕」被子植物門双子葉植物綱ナデシコ目ヤマゴボウ科ヤマゴボウ属ヤマゴボウ Phytolacca esculenta 或いは同属の総称。本種は中国原産の薬用植物で、本邦にも帰化し植生するが(他にマルミノヤマゴボウ Phytolacca japonica・ヨウシュヤマゴボウ Phytolacca americana(別名:アメリカヤマゴボウ)も分布する)、ヤマゴボウ属は有毒であり、食用には供してはいけない。本属の根には多量の硝酸カリウムや有毒な配糖体のフィトラッカトキシン(phytolaccatoxin)・サポニンであるフィトラッカサポニン(phytolaccasaponin)が含まれている。硝酸カリウムには利尿作用があり、古くから利尿薬として利用されてきたが、有毒成分のフィトラッカトキシンのため、食べると、嘔吐や下痢が発症し、さらには中枢神経麻痺から痙攣や意識障害が生じ、重い場合は、呼吸障害や心臓麻痺によって死亡することもある。では何故、ここに出るのかと言えば、毒を以って毒を制す式のそれで、漢方では、この根に逐遂・消腫の効能があり、水腫・腹水・脚気・腫れ物などに用いるからである(「逐水」とは瀉下と利尿作用によって腹水・胸水・浮腫などを治療することを指す)。全身性浮腫を伴う喘息症状には木通・沢瀉などと配合し、肝硬変などに起因する腹水には牡蠣・沢瀉などと配合して用いる。但し、毒性が強いため、慎重に投与する必要がある。外用薬としては、新鮮な商陸に塩を加えて搗き潰したものを頑固な腫れ物に用いたりする。アメリカでは嘗て、ヨウシュヤマゴボウの根を扁桃炎・耳下腺炎・乳腺炎・水腫などの治療に用いていたとされる。さても! ここからが肝心! では、本邦で我々が山菜として「山牛蒡」(やまごぼう)と呼称している漬物は何か? これはこの標準和名ヤマゴボウの根なんぞではなく、モリアザミ(キク目キク科アザミ属モリアザミ(森薊)Cirsium dipsacolepis)・オニアザミ(アザミ属オニアザミ Cirsium borealinipponense)・オヤマボクチ(雄山火口:キク科ヤマボクチ属オヤマボクチ Synurus pungens:和名は茸毛(じょうもう:葉の裏に生える綿毛状のもの)が嘗ては火起こし時の火口(ほくち)として用いられたことに由る)・ヤマボクチ(山火口:ヤマボクチ属ヤマボクチ Synurus palmatopinnatifidus var. indivisus)の根、及び、本物の牛蒡(ゴボウ)であるキク目キク科ゴボウ属ゴボウ Arctium lappa (余り知られていないの言っておくと、本種ゴボウは紫色のアザミによく似た、総苞に棘のある花を咲かせる)の根の通称総称なのであり、先のヤマゴボウ属ヤマゴボウ Phytolacca とは一切の類縁関係がない、全くの別物だということである。ご用心! ご用心!(以上は実は既に「和漢三才圖會第四十三 林禽類 杜鵑(ほととぎす)」の注で既注済なのであるが、私の周囲には勘違いしている人が多数いるので再掲した)。

「蒜〔(のびる)〕」野蒜。ヒガンバナ科ネギ亜科 Allieae 連ネギ属ノビル Allium macrostemon。小さな頃、母と一緒に裏山でよく採って食べたのを思い出す。

「菱〔(ひし)〕」フトモモ目ミソハギ科ヒシ属ヒシ Trapa japonica。池沼に生える一年草で、葉が水面に浮く浮葉水草。花は両性花で、夏から秋の七~十月にかけて、葉の脇から伸びた花柄が水面に顔を出し、花の直径が一センチメートルほどの可憐な白い花を咲かせる。花期が終わると、二つある胚珠のうちの一方だけが発育し、大きなデンプンを蓄えた種子となる。食用(私の大好物である)。実を横から見ると、菱形を成し、両端に逆向きの二本の鋭い刺(とげ:蕚(がく)由来)を有する。秋に熟した果実が水底に沈み、冬を越す。私は母の実家のあった大隅半島の中央の岩川の山の池で、天然のそれを取って食べた。私の年齢で、自然の菱を採取して食べたことがあるひとは少ない。少なくとも、私は未だかってそういう私以外の思い出を持つ私から下の他人に逢ったことが、哀しいことに、ない。「青盲(あきめくら)」「明き盲」で、外見上、眼球に何らの変性を認めないにも拘らず、目が見えない症状を言うのであろう。

「子、生まれて、目、未だ開〔かざる〕時の〔母犬の〕乳」ヒトの場合、初乳には免疫システム上の、重要な成分が含まれているとされるので、それと関連するか。但し、「狗の子、目、開〔かば〕、卽ち、瘥〔(い)〕ゆ」という辺りは、フレーザーの言う、類感呪術的な非科学的なもののようにも思われる。

「京極」「月淸」「主〔(ぬし)〕しらぬ岡部〔(をかべ)〕の里をきてとへばこたへぬ先に犬ぞとがむる」「秋篠月清集(あきしのげっせいしゅう)」の「巻一 十題百首」の中の一首。同歌集は九条良経(嘉応元(一一六九)年~元久三(一二〇六)年)の家集。良経は鎌倉初期の公卿で、九条家の祖で太政大臣に上り詰めた九条兼実の次男。母は藤原季行の娘。「後京極殿」とも呼ばれる。治承三 (一一七九) 年に元服し、文治四(一一八八)年、兄良通が二十二で夭折してしまい、九条家を継いだ。翌年、権中納言、次いで権大納言兼左大将、建久六(一一九五)年には内大臣に進んだが、同七年、父関白兼実が失脚したため(ウィキの「九条兼実」によれば、後白河院崩御後、新たな「治天の君」となった『後鳥羽天皇や上級貴族が厳格な兼実の姿勢に不満を抱き、一方』、『院近臣への抑圧は宣陽門院』(後白河院の末の皇女覲子(きんし)内親王が宣下された院号名)『を中心に』した『反兼実派の結集』を齎し、『門閥重視で故実先例に厳格な姿勢は中・下級貴族の反発を』も『招いた』。また、『頼朝も』長女『大姫入内のために丹後局』(宣陽門院の生母)『に接近し、兼実への支援を打ち切った』。『後鳥羽天皇との対立は深刻化し』、彼の娘で後鳥羽帝の中宮であった任子が『皇子を産まなかったことで廷臣の大半から』も『見切りをつけられ』、遂に建久七(一一九六)年十一月に『関白の地位を追われ』たとある)良経も籠居した。正治元(一一九九) 年に左大臣、建仁二 (一二〇二)年に土御門天皇の摂政となり、元久元(一二〇四)年には従一位、次いで太政大臣とはなったものの、同三年、寝所で急死した(後代、刺殺されたという説も生まれている)された。良経について、叔父慈円(同母弟)は著書「愚管抄」で「能芸、群ニヌケタリキ、詩歌・能書、昔ニハヂズ、政理・公事、父祖ヲツゲリ」と記している。「新古今和歌集」の仮名序の作者で、代表的歌人の一人であり、漢詩集「詩十体」などがある。書家としても著名で、その書風は「後京極流」と称された。一方、有職故実の研究にも力を入れ、「大間成文抄(除目大成抄)」「春除目抄」「秋除目抄」等の著書を残しているほか、日記「殿記」がある。因みに藤原定家は、もと、この良経の家司(けいし:家政を掌る職員)であった(以上は複数の信頼出来る辞書の記載をジョイントした。私は珍しく古典の歌人の中で特に好きな一人であるので、詳注させて貰った)。「日文研」の「和歌データベース」で校合した。

文」既出既注

「王符論」後漢末の儒者王符の「潜夫論」のこと。十巻。「潜夫」とは在野の士という意で、王符は当時(二世紀中頃)の学者であったが、官僚として栄進することが出来ずに隠棲して本書を著わし、時勢を批判した。その立場は学問・道徳を重んじ、徳による人民教化を政治の眼目とするもので、当時の社会や政治を強く批判し、また、迷信・占いなどを排撃した(「ブリタニカ国際大百科事典」の拠る)。

「一犬、形〔(かたち)〕に吠ゆれば、百犬、〔その〕聲に吠ゆ」「一犬、形に吠ゆれば、百犬、声に吠ゆ」「一犬、虚に吠ゆれば、万犬(ばんけん)実(じつ)を伝う」等で人口に膾炙する故事成句。「一人がいいかげんなことを言うと、世間の多くの人は、それを真実のこととして広めてしまう」ということの喩え。

「左傳」「春秋左氏傳」。「春秋公羊伝」「春秋穀梁伝」と合わせて春秋三伝の一つ。孔子と同時代の左丘明が孔子の「春秋」の正しい意味が失われることを恐れ、本書を作り、また「国語」を著わしたと伝えられているが、実際は漢代の学者が「国語」その他の伝承史料により、「春秋」の編年体に合せて編集したものと考えられている。「公羊伝」の政教主義を捨て、「春秋」の背景の史実をのびのびとした文章で記述し、これに義例を加えて倫理道徳の教えを展開したもの(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「犬を使ふ」調教する。

「廣博物志」明の董斯張(とうしちょう)撰になる古今の書物から不思議な話を蒐集したもの。全五十巻。

「其の一歳、人の十歳に當るか」ペットフード・ペット用品通販の「日優犬高松」公式サイト犬の「犬の年齢を人間に換算」によれば、孰れの品種も生後一年で十五歳(私は嘗ては十七歳と聴いた記憶があるが)となり、生後二年で二十四歳で、以下、小型犬は、三年目で二十八歳、中型犬は三年目で二十九歳、大型犬は三年目で三十歳、超大型犬は三年目は三十二歳とする。、小型犬は一年ごとに四歳ずつ、歳を取るような感じで、中型犬・大型犬はもう少しペースが速くなるとある。一昨年の十月二十六日に脳腫瘍で安楽死させた私の三女のアリスは十二年と一ヶ月生きたが、この計算だと、六十五歳を越えていたことになる。そんなおばあさんじゃなかったよね、可愛いアリス……六十の僕の方が……もっとずっと爺さんだったよ…………

「猫・犬の病ひを治す〔には〕」東洋文庫ではこの訳文相当の箇所に注して、『ここは一般的な犬や猪という意味にもとれるが、狆(ちん)(猫犬』(ねこいぬ)『とも狗猫(いぬねこ)ともいう)のことかもしれない。狆は外來種の犬で特別扱いされた唯一の室内犬であった』とする。

「烏藥〔(うやく)〕」クスノキ目クスノキ科クロモジ属クロモジ節 Lindera の常緑低木。中国原産で日本の暖地の山地にも野生する。高さ約三メートル。葉は薄い革質の広楕円形で先がすぼまっており、三本の主脈がはっきりしている。若葉のころは長くて柔らかい毛がある。雌雄異株で、春、淡黄色の小さい花が葉腋(ようえき)にかたまって咲く。実は長さ一センチメートルほどの楕円形で、緑色から赤褐色を経て、黒く熟し、油がとれる。根は暗褐色の長い塊状で香気をもち、健胃剤とする(ここまでは小学館「日本国語大辞典」に拠る)。テンダイウヤク Lindera strychnifolia が知られ、この「烏」というのは本種の根がカラスの頭に似ているため、或いは果実がカラスのように黒いことからとされる。また、和名「天台烏薬」の「天台」とは、中国南部の浙江省の天台地方で良い品質のものがとるためで、ボルネオール(borneolC10H18O:「竜脳」「ボルネオショウノウ」とも呼ばれる二環式モノテルペン(MonoterpeneC10H16:テルペンの分類の一つで、二つのイソプレン単位からなり、環を持つタイプ。テルペン(terpene)とはイソプレン(isoprene:二重結合を二つ持つ炭化水素を構成単位とする炭化水素)を構成単位とする炭化水素で、植物・昆虫・菌類などによって作り出される生体物質の一つ)などの成分を含み、整腸作用があり、一般用漢方製剤二百九十四処方のうち、「烏薬順気散」・「烏苓通気散」など、五処方に配合されている、と「武田薬品工業株式会社」の「京都薬用植物園」公式サイト内のこちらにあった。

竹堂簡便方〔(ろくちくだうかんべんはう)〕」東洋文庫版の「書名注」では、「竹堂簡便諸方」『か。全二巻。明の徐陟』(じょちょく)『撰。医書』とする。

「木鱉子〔(もくべつし)〕」ウリ目ツルレイシ属ナンバンカラスウリ Momordica cochinchinensisウィキの「ナンバンカラスウリ」より引く。『中国南部からオーストラリア北東部、タイ王国、ラオス、ミャンマー、カンボジア、ベトナムに分布する』蔓『植物で』、『別名ナンバンキカラスウリ、モクベツシ(木鼈子)。ベトナム語の名称からガック』『とも呼ばれる』。『雌雄異株の』蔓『植物で、果実は普通』、長さ十三センチメートル、直径十センチメートル『ほどの球形から楕円形』で、『熟した果実の表面は暗橙色で短い刺におおわれ、内部の仮種皮は暗赤色である。収穫期は比較的短く』、十二月から一月が『最盛期となる。農村部の家の玄関や庭園の垣にからんで生えているのが』、『よく見られる』。『ナンバンカラスウリの実は垣根に這わせている植物や自生している植物から収穫される。利用されるのは仮種皮と種子で、もち米と炊き込んでソーイ・ガック』『という濃い橙色の甘いおこわにすることが多い』。『ソーイ・ガックは、旧正月(テト)や結婚式などの慶事に供される料理で』、『米などと混ぜる前に、仮種皮と種子を取り出し、度数の高い酒をふりかけて下処理をすると』、『仮種皮の赤色がより鮮やかになり、種子が外れやすくなる』。『ナンバンカラスウリの果実は薬用としても利用される』。『ナンバンカラスウリの果実はビタミンAの前駆体であるβ-カロテン』(β-carotene)『のようなカロテノイド』(carotenoid:黄・橙・赤色などを示す天然色素の一群)『を豊富に含む』。『ナンバンカラスウリ由来のβ-カロテンを含む米料理を食べたベトナムの子供たちは、対照群と比較してβ-カロテンの血中濃度が高かった』。『ナンバンカラスウリの仮種皮に含まれる油脂には高濃度のビタミンEが溶けている』。『仮種皮の油に含まれる脂肪酸には、カロテノイドのような脂溶性の栄養素の吸収を促進する効果があるかもしれない』。『仮種皮はβ-カロテンとリコペン』(lycopene:カロテンの一種で鮮やかな赤色を呈す有機化合物)『を豊富に含むため』、『ナンバンカラスウリの抽出物はソフトカプセルに入ったサプリメントやミックスジュースとして販売されている。ナンバンカラスウリの果実はリコペンとβ-カロテンの他にも、ガン細胞の増殖を抑える効果がある可能性を持つタンパク質を豊富に含んでいる』とある。

「檳榔〔(びんらう)〕」単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科ビンロウ属ビンロウ Areca catechu の種子を原材料とした漢方薬剤であろう。アルカロイドを含み、一般には「檳榔子(びんろうじ)」と呼ばれる。ウィキの「ビンロウ」によれば、『檳榔子の粉は単独では歯磨剤や虫下しに使用される。漢方方剤では、女神散(にょしんさん)、九味檳榔湯(くみびんろうとう)などに配合される。日本では薬局方にも記載されている』とある。

「祕笈〔(ひきゆう)〕」東洋文庫の割注に、『明の陳眉公の叢書の名』とある。

「杏仁〔(きやうにん)〕」ウィキの「杏仁」によれば、バラ目バラ科サクラ亜科サクラ属アンズ Prunus armeniaca の『種子の中にある仁(さね)を取り出したもの。長さは』一・一~一・五ミリメートルと極小で、『形状は扁平の先の尖った卵円形』を成すが、『基部は左右対称ではない』。『古くからバラ科植物の仁は生薬や食用に利用され、杏仁(アンズ)のほか、桃仁(モモ)、梅仁(ウメ)、アーモンドなど』のそれがある。『杏仁には苦みの強い苦杏仁(くきょうにん』『Prunus maximowiczii)と、甘みのある甜杏仁(てんきょうにん)があり、前者は薬用に、後者は杏仁豆腐(あんにんどうふ)、アマレットなどの材料として用いられている』。生薬としての『杏仁は、三国時代(三世紀)頃に編纂されたもっとも古い漢方薬書である』「傷寒論」に載り、「麻黄湯」「大青竜湯」等の『重要な処方に配剤されている大切な薬味である』。『古くから「毒のある薬味」とされており、処方する際は分量を慎重に決めるものとされていた。現在では、分解されると』、『青酸を発生するアミグダリン』(amygdalinC20H27NO11:青酸配糖体の一種。梅干の種にも含まれる)『が含まれていることがわかっている』。『漢方では鎮咳剤として多く用いられている』。『なお、バラ科植物の仁の区別はアーモンドなどを除き』、『極めて』難しく、「本草辨疑」には『桃仁は見分けやすいが、杏仁と梅仁はよく似ているため、杏仁と梅仁が混じって売られていることがあると記されている』。『現実の生薬市場では』前掲書で『見分けやすいとされている桃仁にも』、『杏仁が混入している場合がある』とある。

「保嬰全書」東洋文庫の「書名注」に、医学書「保嬰撮要」『二十巻のことか。明の薛鎧(せつがい)撰。小児の諸種の病状と原因、治療について述べたもの。伝本は稀』とある。

「搜神記」六朝時代の文語志怪小説集。四世紀の晋の干宝の著になる志怪小説集。神仙・道術・妖怪などから、動植物の怪異・吉兆・凶兆の話等、奇怪な話を記す。著者の干宝は有名な歴史家であるが、身辺に死者が蘇生する事件が再度起ったことに刺激され、古今の奇談を集めて本書を著したという。もとは 三十巻あったと記されているが、現在伝わるものは系統の異なる二十巻本と八巻本である。当時、類似の志怪小説集は多く著わされているが、本書はその中でも、比較的、時期も早く、歴史家らしい簡潔な名文で、中国説話の原型が多く記されており、後の唐代伝奇など、後世の小説に素材を提供し、中国小説の萌芽ということが出来る(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。以下の話は、「第二十巻」の以下。

   *

孫權時李信純、襄陽紀南人也、家養一狗、字曰黑龍、愛之尤甚、行坐相隨、飲饌之間、皆分與食。忽一日、於城外飮酒、大醉。歸家不及、臥於草中。遇太守鄭瑕出獵、見田草深、遣人縱火爇之。信純臥處、恰當順風、犬見火來、乃以口拽純衣、純亦不動。臥處比有一溪、相去三五十步、犬卽奔往入水、濕身走來臥處、周囘以身灑之、獲免主人大難。犬運水困乏、致斃於側。俄爾信純醒來、見犬已死、遍身毛濕、甚訝其事。睹火蹤跡、因爾慟哭。聞于太守。太守憫之曰、「犬之報恩、甚於人、人不知恩、豈如犬乎。」卽命具棺槨衣衾葬之、今紀南有義犬葬、高十餘丈。

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なお、同書では、これに続いて、今一件の忠犬譚が載るので、それも引いて、自己流の訓読を附しておく。

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太興中、民華隆、養一快犬、號的尾、常將自隨。隆後至江邊伐荻、爲大蛇盤繞、犬奮咋蛇、蛇死。隆僵仆無知、犬彷徨涕泣、走還舟、復反草中。徒伴怪之、隨往、見隆悶。將歸家。犬爲不食。比隆復蘇、始食。隆愈愛惜、同于親戚。

(太興中[やぶちゃん注:東晋の元帝の年号。三一八年から三二一年。]、の民に華隆あり。一快犬[やぶちゃん注:賢い犬。]を養ひ、「的尾」と號し、常に自づから隨はせて將(ひきゆ)く。隆、後、江邊(かはべ)に至りて荻を伐るに、大蛇、盤繞(ばんねう)を爲す。犬、奮として蛇を咋(は)み、蛇、死す。隆、僵-仆(たふ)れて、知る無し[やぶちゃん注:昏倒して意識がない。]。犬、彷徨し、涕泣して、舟に走り還り、復た、草中に反(か)へる。徒伴(とはん)のもの[やぶちゃん注:舟中にいたこの日の華隆の連れの者。]、之れを怪しみ、隨ひ往き、隆の悶せるを見る。家に將きて歸る。犬、食(ものく)はず[やぶちゃん注:主人のことを心配して物を食おうとしない。]。隆、復た蘇(よみがへ)れる比(ころ)、始めて食ふ。隆、愈々、愛惜し、親戚に同じうす[やぶちゃん注:肉親同様に扱った。]。)

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本文の最後で良安も挙げる、「諸國里人談卷之一 犬頭社(けんとうのやしろ)」(リンク先は私の電子化注)等で知られる、大蛇から主人を救う話柄の最も古形の(ハッピー・エンドの)一つである。

「孫權」(一八二年~二五二年)は三国時代の呉の第一代皇帝(在位:二二二年~二五二年)。呉郡富春(現在の浙江省富陽県)の人。孫堅の子。二〇〇年、兄孫策の急死により、跡を継いだ。孫権は土着豪族及び北から南下した名士の支持を得て、巧みな政治的外交的手腕を揮(ふる)い、遂に江南支配を達成した。劉備と連合して曹操の南下を食止めた「赤壁の戦い」はその間に起ったものである。二二二年、呉王となり、建元して黄武といったが、その時は実際にはまだ、魏の封策を受けていた。二二九年には皇帝の位について独立、建業を首都とした。

「述異記」南斉の祖沖之が撰したとされる志怪小説集。以下が原文。

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陸機少時、頗好游獵、在豪盛客獻快犬名曰黃耳、機後仕洛、常將自隨。此犬黠慧能解人語、又嘗借人三百里外、犬識路自還、一日至家。機羈旅京師、久無家問、因戲語犬曰、「我家無書信、汝能齎書馳取消息不。」。犬喜搖尾、作聲應之。機試爲書、盛以竹筒、系之犬頸。犬出驛路、疾走向、飢則入草噬肉取飽。每經大水、輒依渡者弭耳掉尾向之、其人憐愛、因呼上船。裁近岸、犬卽騰上、速去如飛。逕至機家、口銜筒作聲示之。機家開筒取書、看畢、犬又向人作聲、如有所求、其家作答書筒、複系犬頸。犬既得答、仍馳還洛。計人程五旬、而犬往還裁半月。後犬死、殯之、遣送還葬機屯南、去機家二百步、聚土爲墳、屯人呼爲「黃耳塚」。

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「陸機」三国時代から西晋にかけての文学者・政治家・武将であった陸機(二六一年~三〇三年:呉(江蘇省呉県)の人。祖父遜は呉の宰相、父抗は大司馬となった名門の出身 二十歳の時、呉が滅びると、暫く別荘に引き籠っていたが、太康の末に、弟の陸雲とともに晋に仕えた。宰相張華に認められ、また賈謐(かひつ)のもとに集まる文学集団にも加わり、北方文人とも交わった。やがて恵帝の代となって政局が不安定となり、八王の乱が起ったとき、そのなかに巻込まれ、陸雲とともに殺された。その詩は修辞に重きを置き、華麗な言葉や対句の技巧を用い、六朝の華美な詩風の先駆けとなった。また、「文賦」は彼の文学批評の方法を述べたものとして著名である。作品は「陸士衡集」十巻に纏められている。ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)の家は呉の都建業(現在の江蘇省南京市)の南や、祖父の封地であった華亭(雲間とも。現在の上海市松江区)等にあったらしいウィキの「陸機」に拠る)建業は嘗ての呉の首都であったから、取り敢えず上海よりは洛陽に近いこことしても、その距離は、直線でも、六百五十キロメートルを超える。また、「『三国時代の文学スレッド』まとめサイト」のこちらに、「晉書」の「陸機伝」及び、良安が参照したと思われるものとほぼ同じ(より詳しい)、「芸文類聚」巻九十四の原文・書き下し文・訳が贅沢に載るので、必見。そこの「スレッド」の書き込みでは、陸機の故郷である華亭(上海市松江県)までの直線距離を示してあり、ざっと一千キロメートルとする。なお、「黃耳塚」も残念なことに現存しないようである。

『「太平記」に詳らかなり』「太平記」の巻第二十二の巻頭にある「畑六郎左衞門事」であるが、全体はかなり長い。冒頭から彼の「犬獅子」に関わる所までを以下に引く。底本は新潮日本古典集成版を参考に、恣意的に漢字を正字化して示し、一部の注は同書の傍注や頭注を参照した。

   *

 さる程に京都の討手大勢にて攻下しかば、杣山城(そまやまのしろ)も落とされ、越前・加賀・能登・越中・若狹五箇國の間に、宮方(みやがた)[やぶちゃん注:南朝方。]の城、一所も無かりけるに、畑六郞左衞門時能(ときよし)、僅に二十七人籠りたりける鷹巢城(たなのすのしろ)ばかりぞ相殘りたりける。一井兵部少輔(いちのゑひやうぶのせう)氏政は、去年、杣山城より平泉寺へ越えて、衆徒(しゆと)を語ひ、旗を擧げんと議せられけるが、國中(こくちゆう)、宮方、弱うして、與力する衆徒も無かりければ、これも同く鷹巢城へぞひき籠りける。

「時能が勇力(ゆうりよく)、氏政が機分(きぶん)、小勢なりとてさしおきなば、いかさま天下の大事に成るべし。」

とて、足利尾張守高經・高(かうの)上野介師重、兩大將として、北陸道七箇國の勢七千餘騎を率して、鷹巢城の四邊を千、百重(ひやくぢゆう)に圍まれ、三十餘箇所の向ひ城(じろ)をぞ取つたりける。

 かの畑六郞左衞門と申すは、武藏國の住人にてありけるが、歳十六の時より相撲を好んで取りけるが、坂東八箇國に更に勝つ者、無かりけり。腕の力、筋(すぢ)太うして、股のむら肉(じし)厚ければ、かの薩摩の氏長[やぶちゃん注:薩摩隼人で後に平氏を名乗った、仁明天皇の御代(天長一〇(八三三)年~嘉祥三(八五〇)年)の相撲の名人。]もかくやと覺えておびただし。その後、信濃國に移住して、生涯、山野江海、獵り・漁(sなど)りを業(げふ)として、年久しくありしかば、馬に乘つて惡所・岩石を落とす事、あたかも神變を得るが如し。ただ、造父(ざうほ)[やぶちゃん注:周の穆(ぼく)王に仕えた馬術の名人。]が御(ぎよ)を取つて、千里に疲れざりしも、これには過ぎずとぞ覺えたる。水練は、また、憑夷(ふい)[やぶちゃん注:「憑夷」が正しい。中国の治水神の名。]が道を得たれば、驪龍頷下(りりようがんか)の珠(たま)[やぶちゃん注:黒龍の顎の下にあるとされた宝珠。]をもみづから奪ふべし。弓は養由(やういう)[やぶちゃん注:春秋時代の弓の名人。]が迹を追ひしかば、弦(つる)を鳴して、遙なる樹頭(じゆとう)の栖猿(せいゑん)をも落しつべし。謀(はかりごと)巧みにして、人を眤(むつ)び、氣、すこやかにして心たわまざりしかば、戰場に臨むごとに敵を靡(なび)け、堅きに當たる事、樊噲(はんくわい)・周勃[やぶちゃん注:漢の高祖に従い、漢建国に功績があった。]が得ざる道をも得たり。されば、物は類を以つて聚まる習ひなれば、彼が甥に所大夫房快舜(ところのだいふばうくわいしゆん)とて、少しも劣らざる惡僧あり。また、中間(ちゆうげん)に惡八郞とて、缺脣(いぐち)[やぶちゃん注:兎口(みつくち)。]なる大力(だいりき)あり。又、「犬獅子(けんじし)」と名を付けたる不思議の犬、一疋、有りけり。此三人の者ども、闇にだになれば、或いは帽子冑(ばうしかぶと)[やぶちゃん注:鉢が丸く、帽子のように見える兜。]に鎖を著て、足輕に[やぶちゃん注:素早く。]出で立つ時もあり。或いは大鎧(おほよろひ)に七つ物持つ時もあり。さまざまに質(だて)[やぶちゃん注:方法。]を替へて敵の向ひ城に忍び入る。先づ、件(くだん)の犬を先立てて、城の用心の樣(さま)を伺ふに、敵の用心きびしくて、隙(ひま)を伺ひ難き時は、此の犬、一吠、吠えて、走り出で、敵の寢入り、夜𢌞りも止む時は、走り出でて、主に向ひて尾を振つて告げける間、三人ともに此の犬を案内者にて、屛(へい)をのり越え、城の中へ打ち入つて、喚(をめ)き叫んで、縱橫無碍(むげ)に切りて𢌞りける間、數千の敵軍、驚き騷いで、城を落されぬは無りけり。「夫(それ)、犬は守禦(しゆぎよ)を以つて人に養はる」といへり。誠に心無き禽獸も、報恩・酬德の心有るにや、斯かる事は先言(せんげん)にも聞きける事あり。昔、周の世衰へんとせし時、戎國(じゆうこく)亂れて王化に隨はず、兵を遣はして是れを責む雖も、官軍、戰ひに利無く、討たるる者、三十萬人、地を奪はるる事、七千餘里、國、危く、士、辱しめられて、諸侯、皆、彼に降(くだ)らん事を乞ふ。爰(ここ)に周王、是を愁へて、扆[やぶちゃん注:玉座。元は王座の後ろに立てた屏風。]を安じ給はず。折節、御前に犬の候ひけるに、魚肉を與へ、

「汝、若(も)し心有らば、戎國に下つて、竊かに戎王を喰ひ殺して、世の亂(みだれ)を靜めよ。然らば、汝に三千の宮女を[やぶちゃん注:「から」の意。]一人下して、夫婦となし、戎國の王たらしめん。」

と戲れて仰せられたりけるを、此の狗、勅命を聞きて、立つて、三聲、吠えけるが、則ち、萬里の路を過ぎて、戎國に下りて、偸(ひそ)かに戎王の寐所へ忍び入りて、忽ちに戎王を喰ひ殺し、其の頸を咆(くは)へて、周王の御前へぞ進(まゐ)りける。等閑(なほざり)に戲れて勅定(ちやうぢやう)ありし事なれども、

「綸言(りんげん)改め難し。」[やぶちゃん注:皇帝の仰せを覆すことは出来ない。]

とて、后宮(こうきゆう)を一人、此の狗に下されて、夫婦と爲(な)し、戎國を其の賞にぞ行はれける。后(きさき)三千の列に勝(すぐ)れ、一人(いちじん)の寵(ちよう)厚(あつ)かりし其の恩情を棄てて、勅命なれば力無く、かの犬に伴ひて、泣々、戎國に下りて、年久しく住み給しかば、一人の男子を生めり。其の形、頭(かしら)は犬にして、身は人に變はらず。子孫相續いて戎國を保ちける間、之れに依つて、かの國を「犬戎國」とぞ申しける。彼(かれ)を以つて之れを思ふに、此の「犬獅子」が行くをも、珍しからずとぞ申しける。されば、此の犬、城中に忍び入りて、機嫌[やぶちゃん注:攻め込むに相応しい時機。]を計りける間、三十七箇所に城を拵へ分かつて、逆木(さかもぎ)を引き、屛(へい)を塗りたる向ひ城ども、每夜、一つ二つ打ち落され、物具(もののぐ)を捨て、馬を失ひ、恥をかく事多ければ、敵の強きをば顧みず、御方(みかた)に笑はれん事を恥ぢて、偸(ひそ)かに兵粮(ひやうらう)を入れ、忍び忍び、酒・肴を送りて、

「然るべくは、我が城を夜討になせそ。」

と、畑を語(かた)らはぬ者[やぶちゃん注:頼んで懇請をしない者。]ぞ無かりける。[やぶちゃん注:以下、略。]

   *

『播州牧夫〔(ひらふ)〕が二犬、主の急難を救ひ、而も其の敵を囓み殺すと』本邦の犬塚(義犬墓)を渉猟した非常に優れた考察である必見の日本獣医史学会理事長小佐々学氏の論文「日本愛犬史 ヒューマン・アニマル・ボンドの視点からPDF。なお、「Human Animal Bond」は「人と動物の絆」の意。略して「HAB(ハブ)」とも呼ばれる)に、「播州犬寺(いぬでら)の義犬塚」として(ピリオド・コンマを句読点に、アラビア数字を漢数字に代えさせて戴いた)、

   《引用開始》

 蘇我入鹿に従軍した播磨の長者枚夫(ひらふ)(または秀夫(しゅうふ))を殺そうとした下僕を咬み殺して主人を救った白犬と黒犬の二頭を弔うために、枚夫が犬寺(金楽山法楽寺)と墓碑を建立したとされている。福本の義犬墓〔七世紀初期〕の話、兵庫県神河町福本〕は、「白犬石塔」という梵字以外無銘の宝筺印塔(ほうきょういんとう)と「黒犬石塔」という無銘の五輪塔がある。また、長谷の義犬塚〔同時代の話、同県神河町長谷〕には、枚夫の二頭の義犬のうち一頭がこの地で死んだため弔ったとされる無銘の犬塚がある。これらの墓は後世の作で犬の墓とする確証はなく、二頭の犬に三カ所の墓があることになる。

   《引用終了》

とある。「播州犬寺」の異名を自称される兵庫県神崎郡神河町中村にある真言宗法楽寺(ここ(グーグル・マップ・データ))の公式サイトのこちらにも「縁起」と、詳しい「播州犬寺物語」が載るので参照されたい。それによれば、事件は大化年間(六四五年~六五〇年)とする。但し、そこで枚夫が入鹿の要請で都に上ったとする解説部分では、これは蘇我入鹿が斑鳩宮の聖徳太子の子山背大兄王を襲撃させた時の出陣命令かと推定している。だとすると、それは皇極天皇二年十一月一日(六四三年十二月二十日)であるから、ズレがある。なお、以上から良安の「牧夫」は「枚夫」の誤認と考えられる。次注も参照されたい。

「播州犬寺の下に詳らかなり」本「和漢三才図会」の「第七十七巻」の「播磨」の「犬寺」の項を指す。以下に電子化する。

   *

犬寺   在書寫山之奥

 播州牧夫【蘇我入鹿之從者】之妻與僕密通僕却欲弑主語曰

 山中有鹿猪集處不令他人知君與我潜往獵之牧夫

 大喜行焉有二黑犬相從入深山僕上高處彎弓曰我

 紿倡來今奪命而能濟君身後牧夫解所帶畋粮與犬

 曰我死於此汝等囓其屍莫令有遺餘矣二犬埀耳聴

 已一犬躍行囓斷僕之弓絃一犬嚼僕之喉斃之牧夫

 將二犬還家乃逐其妻又以爲二犬如猶子我資財皆

 是二犬之有也然畜齡短不幾二犬自斃牧夫歎曰前

 言不可渝也便捨田貨建伽藍安千手大悲像薦冥福

 祠二犬爲地主神桓武帝聞之勑爲官寺

犬寺(いぬでら)   書寫山の奥に在り

播州の牧夫(かみが)[やぶちゃん注:総てママ。]【蘇我入鹿の從者。】の妻、僕(めしつかひ)と密かに通づ。僕、却つて主〔(あるじ)〕を弑(し)せんと欲し、語りて曰はく、「山中に、鹿・猪の集まる處、有り。他人をしてしらしめずして、君と我と、潜〔(ひそか)にに往きて之れを獵〔(と)〕牧らん」〔と〕。牧夫、大いに喜んで行く。二つに黑犬、有り。相ひ從へて深山に入る。僕、高〔き〕處に上り、弓を彎(ひ)いて、曰はく、「我、紿(あざ)むき、倡〔(ともな)〕い[やぶちゃん注:ママ。]來たる。今、命を奪ひて、能く君の身後〔(しんご)〕を濟(すく)はん[やぶちゃん注:後生を弔って差し上げましょうぞ。]」〔と〕。牧夫、帶ぶる所の畋-粮〔ゑさ〕[やぶちゃん注:狩りの際に携帯する糧食。]を解き、犬に與へて曰はく、「我れ、此に死す。汝等、其の屍(しかばね)を囓(うはへ)て、遺餘有らしむること莫〔(なか)〕れ」と。二犬、耳を埀れて聴き、已に一犬、躍り行くには、僕が弓の絃〔(つる)〕を囓(く)ひ斷(き)る。一犬、僕が喉を嚼(か)みて之れを斃〔(たふ)〕す。牧夫、二犬を將〔(ひきい)〕て家に還りて、乃〔(すなは)〕ち、其妻を逐(をひや)り、又、以爲(おもへ)らく、『二犬、猶子のごとし。我が資財、皆、是れ、二犬の有(ゆう)なり』〔と〕。然れども、畜の齡(よはひ)、短く、幾(いくばく)ならず〔して〕、二犬、自-斃(し)す。牧夫、歎して曰はく、「前言、渝(かは)るべからず」と。便〔(すなは)〕ち、田貨を捨て[やぶちゃん注:寺に喜捨し。]伽藍を建てて、千手大悲の像を安じ、冥福を薦〔(ささ)げ〕、二犬を祠り、地主の神と爲す。桓武帝、之れを聞き、勑して官寺と爲す。

   *

東洋文庫訳では、割注で二匹の犬の名を『大黒・小黒』とし、また、最後に以上の良安の解説は「元亨釈書」(げんこうしゃくしょ:鎌倉後期の仏教書。全三十巻・目録一巻。虎関師錬(こかんしれん)著。元亨二(一三二二)年成立。仏教渡来から七百年間の高僧四百余名の伝記と史実を漢文体で記したもの)に拠る旨の割注が附されてある。

「宇都(うつ)右衞門五郞が犬、誤りて斬らる。而〔(しか)れど〕も、其の頭〔(かうべ)〕、飛びて、蛇(うはばみ)を囓み殺し、主の危難を救ふ」先にも掲げた「諸國里人談卷之一 犬頭社(けんとうのやしろ)」の本文及び注で、人物やロケーションを仔細に述べてあるので参照されたい。なお、次の注も見られたい。

「參州犬頭〔(けんづ)〕の社〔(やしろ)〕の下に詳らかなり」本「和漢三才図会」の「第七十七巻」の「參河」の「犬頭社(けんづのやしろ)」の項を指す。以下に電子化する。

   *

犬頭社   在上和田森崎

 犬尾社在下和田天正年中領主宇津左門五郞忠茂

[やぶちゃん注:「左門」はママ。訓読では「衞」を補った。]

 一時獵入山家有白犬從走行到一樹下忠茂俄爾催

 睡眠犬在傍咬衣裾引稍寤復寐犬頻吠于枕頭忠茂

 怒妨熟睡拔腰刀切犬頸頭飛于樹梢嚙着大蛇頸主

 見之驚切裂蛇而還家感犬忠情埋頭尾於兩和田村

 立祠祭之 家康公聞之甚感嘆焉且以有徃徃靈驗

 賜采地蓋宇津氏大久保一族先祖也【犬有忠功也多詳于狗之下】

犬頭(けんづの)   上和田森崎に在る

 犬尾〔(けんび)の〕社は下(しも)和田に在り。天正年中[やぶちゃん注:ユリウス暦一五七三年からグレゴリオ暦一五九三年。]に、領主宇津左衞門五郞忠茂、一時(あるとき)、獵(かり)して山に入る。家に白犬有りて從ひて走り行く。一樹の下に到りて、忠茂、俄-爾(にはか)に睡眠を催(もよほ)し、犬、傍に在っりて、衣の裾(すそ)を咬(くは)へて、引く。稍〔(やふや)〕く寤(さ)めて〔むるも〕、復た、寐(ね)る。犬、頻(しきり)に枕頭に吠ゆ。忠茂、熟睡を妨(さまたぐ)ることを怒りて、腰刀を拔きて、犬の頸(くび)を切る。頭〔(かしら)〕、樹の梢に飛んで、大蛇の頸(くびすぢ)に嚙(く)ひ着(つ)く。主、之れを見て驚き、蛇を切り裂き、家に還る。犬の忠情を感じ、頭尾を兩和田村に埋(いづ)み、祠(ほこら)を立て、之れを祭る。 家康公、之れを聞(きこしめ)して、甚だ感嘆あり。且(そのうへ)、徃徃(わうわう)靈驗〔(れいげん)〕有るを以つて采地を賜ふ。蓋し、宇津氏は大久保一族の先祖なり【犬、忠功有るや、多し。詳狗の下に詳(つまびら)かなり。】。

   *

ここで忠茂が俄かに眠くなってしまうのは、樹上の蟒蛇(うわばみ)が邪悪な霊力を以ってしたことであることは言うまでもない。また、ここで忠茂が首を刎ねたことを、暗愚と思うのは読みが浅いと言わざるを得ない。寧ろ、この犬は、主人に首を刎ねてもらうために、敢えて裾を引いたのかも知れぬ、ということに気づかねばならない。そうでなくては、樹上の高い位置に潜む大蛇の、その急所たる首筋に咬みつくことは、犬には到底、不可能だからである。急所を押えれば、死にはせずせずとも、主人に掛けた麻酔の術は中断されて解けるからである。さても、既にお判りの方もあろう。これは中国の「干将莫耶(かんしょうばくや)の剣と眉間尺(みけんじゃく)」に纏わる、かの数奇異様な伝奇伝承のエンディングの首が闘う凄惨な(一面からはブットビ過ぎて滑稽とも言える)シークエンスが淵源にあるのではないかと私は踏むからである。この話を御存じない方は、私の柴田宵曲 續妖異博物館「名劍」(その1)の本文や私の注を参照されたい。


 ―本電子化注を亡き三女アリスに捧ぐ―

 
 

2019/02/09

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(18) 「河童ト猿ト」(1)

 

《原文》

河童ト猿ト  【エンコウ】河童ヲ「エンコ」又ハ「エンコウ」ト云フ地方ハ、出雲石見周防長門伊豫土佐等ナリ。九州ニテモ河童ニ出逢ヘリト云フ者ニシテ、其大サモ形モ共ニ猿ノ如クナリシト報告スル者多シ。【河童言語】或ハ又全身ニ短キ毛アリ、人間ヲ詭カサントスル時ハ最初ニハ人ノ如ク物ヲ言ヘドモ、之ヲ聞返セバ二度目ニハ「キイキイ」ト云フバカリニテ、何ノ事カ判ラズトモ云ヒ、又悲シミテ泣ク聲マルデ猿ナリキト傳フル地方アリ〔水虎考略〕。然ルニ一方ニハ又河童ト猿トハ仇敵ナリト云フアリ。河童ハ猿ヲ見レバ自然ニ動クコトガ不能トナル。【猿牽】猿モ此物ヲ見レバ捕ヘズニハ承知セヌ故ニ、猿牽ガ川ヲ渡ル時ニハ用心ノ爲是非トモ猿ノ顏ヲ包ムト云フ事ナリ〔笈挨隨筆二。加藤淸正ガ肥後ノ領主タリシ時寵愛ノ小姓ヲ八代川ノ河童引込ミテ殺ス。淸正大ニ之ヲ憤リ、早速令ヲ領内ニ下シテ多數ノ猿ヲ集メ、河童討伐ヲ計畫ス。【河童首領】河童ハ到底猿ノ敵ニ非ザリケレバ、之ヲ聞キテ大恐慌ヲ引起シ、中ニモ河童九千ノ頭目ニ其名ヲ九千坊卜呼ブ者、一族ヲ代表シテ或僧ニ仲裁ヲ賴ミ、永ク人間ニ害ヲ加フマジキ旨ヲ約束シテ、僅カニ鬼將軍ノ怒リヲ解クコトヲ得タリト云フ〔本朝俗諺志〕。

 

《訓読》

河童ト猿ト  【エンコウ】河童を「エンコ」又は「エンコウ」と云ふ地方は、出雲・石見・周防・長門・伊豫・土佐等なり。九州にても「河童に出逢へり」と云ふ者にして、「其の大きさも形も共に猿のごとくなりし」と報告する者、多し。【河童言語】或いは又、「全身に短き毛あり、人間を詭(たぶら)かさんとする時は、最初には人のごとく物を言へども、之れを聞き返せば、二度目には『キイキイ』と云ふばかりにて、何の事か判らず」とも云ひ、又、「悲しみて泣く聲、まるで猿なりき」と傳ふる地方あり〔「水虎考略」〕。然るに、一方には又、「河童と猿とは仇敵なり」と云ふあり。河童は、猿を見れば、自然に動くことが不能となる。【猿牽】猿も、此の物を見れば、捕へずには承知せぬ故に、猿牽(さるひき)が川を渡る時には、用心の爲、是非とも猿の顏を包む、と云ふ事なり〔「笈挨(きゆうあい)隨筆」二〕。加藤淸正が肥後の領主たりし時、寵愛の小姓を、八代川の河童、引き込みて殺す。淸正、大いに之れを憤り、早速、令を領内に下して、多數の猿を集め、河童討伐を計畫す。【河童首領】河童は、到底、猿の敵に非ざりければ、之れを聞きて、大恐慌を引き起こし、中にも河童九千の頭目に其の名を「九千坊」と呼ぶ者、一族を代表して或る僧に仲裁を賴み、永く人間に害を加ふまじき旨を約束して、僅かに鬼將軍の怒りを解くことを得たりと云ふ〔「本朝俗諺志」〕。

[やぶちゃん注:「笈挨隨筆」は、京都室町の豪商「万家(よろづや)」の次男であったが、蓄財に関心なく、安永初年から天明末年まで(一七七二年~一七八一年)、身を六部に窶(やつ)し、笈(おい)を背負って諸国を遍歴して諸国を漫遊、寛政六(一七九四)年に没した(生年は不詳)百井塘雨(ももいとうう)が書いた諸国奇談集。柳田のそれは、その「巻之一」の「水虎」(「かつぱ」と訓じておく)で、引用部分は短い(下線部)が、結構、百井は全体を力を入れて書いている。以下に吉川弘文館随筆大成版を参考に、漢字を恣意的に正字化して示す。一部に読点や記号を追加し、私の推定で読みを附した(底本は一部にカタカナで振る他は一切ルビがない)。踊り字「〱」は正字化した。

   *

   ○水 虎

右の佐伯の曰[やぶちゃん注:前話「山神の怪異」の末の附記に出る。「豐後杵築」の出身の「佐伯玄仙」なる人物。幸い、私はそれを総て「柴田宵曲 妖異博物館 そら礫」の注で電子化している。お暇な方は読まれたい。]、「田舍人は心猛く、加樣(かやう)の事をもものともせず、豐前の國中津の府と云ふ城醫(じやうい)の家に、書生たりし時、其家の次男、或時川岸を通りけるに、水虎(かつぱ)の水上に出て遊び居たり。思ふに此ものを得んは獺肝(かはうそのきも)などの及べきかはとて、頓(やが)て手ごろなる石をひとつ提げ、何氣なく後(あと)の出る所をばねらひ濟(すま)して打落(うちおと)しけるに、何かはもつてたまるべき。キャツトと叫び沈みけり。扨は中(あた)りぬる事と見𢌞すに、水中動搖して、水、逆卷(さかまき)、怖しかりしかば、逃(にげ)て歸りぬ。夫(それ)より、彼(か)のものに取付(とりつき)て物狂はしくなり、家根(やね)にかけり、木にのぼりて、種々(いろいろ)と狂ひて手に合(あは)ず、細引(ほそびき)もて括(くく)り置けれども、すぐに切(きり)てければ、鐵(かね)の輪を首に入れて、鐵鎖(かなぐさり)をもて牛部屋の柱にしばり付たり。既に一月餘(ひとつきあまり)に成(なり)しかば、鐵輪(かなわ)にて首筋も裂破(さけやぶれ)たりしが、さらに退(たちのく)べき氣色なし。彼是(かれこれ)五十日計(ばかり)なり。或時、近き寺に大般若[やぶちゃん注:大般若会(だいはんにゃえ)。「大般若波羅蜜多経」を講読・転読する法会。古くは国家鎮護が目的で奈良・京都の大寺院で行われた。]有(あり)て、其札を家每に受たり。此家にも受來たり、先(まづ)彼(かの)ものに戴かせければ、身震ひして、卽時に除(のぞけ)たり。誠に不思議の奇特(きどく)、尊(たつと)き事いふ計りなし。始(はじめ)て此經廣大の功德を目前覽たりし」と語りける。もまた、まのあたり知たりしは、日向下北方村の常右衞門といふ人、十二三才の頃、川に遊びて、「河童に引込れし」と、連(つれ)の子供走り來て、親に告げたり。おりふし、神武の官の社人、何の河内と云(いふ)人、其(その)座に聞て、頓(やが)て其川に走り行(ゆき)、裸に成て、脇差を口にくはへて、彼(かの)空洞(ほら)[やぶちゃん注:後文から深い淵のことである。]に飛入り、水底(みなそこ)に暫く有(あり)て、其子を引出し來り、水を吐かせ、藥を與へ、やうやうにして常に返り、今に存命也。然るに、翌日、其空洞の所、忽ち淺瀨と成りにけり。所々の川には必ず空洞の所あり。深さを知らぬほどなり。そこには必ず鯉鮒も夥しく集れども、捕(とる)事を恐る。また、卒爾(そつじ)に石などを打込(うちこむ)事を禁ずるなり。彼邊(かのあたり)の川渡らんとするものは、河童の來りたる、往(ゆき)たるを能く知るなり。又曰、此ものは誠に神變(しんぺん)なるものなり。生(いき)たる逢へば必(かならず)病む。知らずといへども、身の毛立(だつ)なり。たとへ石鐵砲など不意に打當(うちあつ)る事有れど、其死骸を見たるもの、なし。常に其類を同して行來(ゆききた)り、又は一所に住(ゆく)ものと見ゆ。死せざる事もあるまじきに、つゐに人の手に渡らざると覺えたりと語る。かく恐ろしきものなれど、又、それを壓(ヲス)ものあり。猿を見れば、自ら動く事、能はず。猿もまた、そのものありと見れば、必ず、捕(とらへ)んとす。故に猿引(さるひき)川を渡るときは、是非に猿の顏を包(つつむ)といへり。日薩[やぶちゃん注:日向国と薩摩国。]の間にては水神と號して誠に恐る。田畑の實入(みいり)たる時、刈取(かりとる)るに、初(はじめ)に一かま[やぶちゃん注:刈った一鎌分。]ばかり除置(のけおき)、是を水神に奉るといふ。彼邊は水へん[やぶちゃん注:「水邊」。]計(ばかり)にあらず。夜は田畑にも出るなり。土人ヒヤウズエとも云(いふ)。是は菅神(かんじん)の御詠歌なるよし、此歌を吟じてあれば、その障りなしといふ。

    兵揃に川立せしを忘れなよ川立男われも菅はら

肥前諫早兵揃村に鎭座ある天滿宮の社家に申傳へたり。扨此社を守る人に澁江久太夫といふ人あり。都(かつ)て水の符を出す故に、もし川童の取付たるなれば、此人に賴みて退(しりぞく)るなり。こゝに一奇事有(あり)。然れども、我、慥(たしか)に、その時、其所(そこ)にあらず。後年、聞傳へたるなれば、聊か附會の疑心なきにもあらず。彼飛彈山の天狗桶の輪にはぢかれし類ひにも近ければ[やぶちゃん注:原話を示せないが、天狗は人の思惑等を事前に察知してしまうものだが、たまたま人のそばにあった桶の箍(たが)が錆びて緩んだか、パンと外れたのに、全く気付くことが出来ず、それに当たって弾き飛ばされたというシチュエーションの話であろう。山男の酷似した話なら、ごまんとある。]、云(いは)ずしてやまん事、勝(まさ)らんとおもへども、又、よき理(ことわり)の一條あり。見ん人、是を以て其餘の虛説とする事なかれ。只、この一事、氣機[やぶちゃん注:五行の気の運動。]の發動は鬼神も識得せず、一念の心頭に芽(めばえ)すは、我も不ㇾ知(しらざる)の理(ことわり)をとりて、無念無想の當體(たうたい)[やぶちゃん注:ありのままの本性。]を悟入すべし。同州宮崎花が島[やぶちゃん注:現在の宮崎県宮崎市花ケ島町(グーグル・マップ・データ)。]の人語りしは、先年、佐土原の家中何某、常々殺生を好みて、鳥獸を打步(うちあり)きて山野を家とせり。或日、例の鳥銃を携て、水鳥を心がけ、山間の池に行。坂を上りて池を見れば、鳥多く見ゆ。『得たり』と心によろこび、矢頃(やごろ)よき所に下居(くだりゐ)て、既にねらひをかけるに、かの水神、水上(みづのうへ)に出(いで)て、餘念なく、人ありとも知らず、戲れ遊び居たり。『扨は折あしき事哉(かな)』と、にがにが敷(しく)おもひ、頓(やが)て鐵砲をもち待居(まちゐ)たり。きせるをくはへながら、筒先を當て、『此(この)矢先ならんには、たとひ惡鬼邪神、もしは、龍虎の猛(たけ)きとても、何かははづすべき』と獨り念じて居たりしが、『いやいや、よしなき事也(なり)』と取直(とりなほ)すに、如何はしけん。[やぶちゃん注:句点は底本のママ。]計らずも、「ふつ」と引がねに障(さは)るや否や、「どう」と響きて、ねらひ、はづれず。かのものゝ胴腹(どうばら)へ中(あた)りしと見えて、「はつ」と、火煙、立のぼる。「こは叶(かな)はじ」と、打捨(うちすて)て、飛(とぶ)がごとくに立歸りけり。歸宅の後も、さして異變も無りしかば、心に祕して人にも語らず。又、彼(かの)地へも年を越しても行ざりけり。かくて何の障りもなく、或時、友連打(つれうち)よりて、酒吞み遊びて、たがひに何かの物語りに、此人、思はず此事を語り出し、「世にはおそろしき事も有ものかな。夫より、二、三年、一向、彼所へ至らず。さらに打(うつ)べき心もなかりけるに、不運なる水神かな。自然(おのづ)と引がねにさはり、放(はなた)れ出(で)たるには、我も驚きたり」と語るや否、「ウン」とのつけに反返(そりかへ)り、又、起直りて云樣(いふやう)、「扨々、今日唯今はいかなるものゝ所爲(しよゐ)なる事を知らざりしに、此者の仕業と聞て、其仇(あだ)を報ずるなり」と罵りかゝり、終(つひ)に病(やまひ)と成りて死したりと云。誠に此事は論ぜずして口外にせざれば、人も知らず、況んや鬼においてをや。かの豆を握つて鬼に問(とふ)に、問ふ人其數を知れば、鬼も知り、無心に摑んで人其數を知らざれば、鬼もまた其數を知らずといふも、同日の談なり。

   *

「九千坊」筑後川の河童の頭目として人口に膾炙しており、火野葦平「河童曼陀羅」にも多くに(十一篇ほど)その名が登場している(リンク先は私のブログ・カテゴリ。全篇電子化注済み)。]

2019/02/08

和漢三才圖會卷第三十七 畜類 豕(ぶた) (ブタ)

 

和漢三才圖會卷第三十七

      攝陽 城醫法橋寺島良安尚順

 

   畜類

 

Buta

 

ぶた     豭【牡】  彘【牝】

       豶【去勢】 𤜸【大豕】

       猪【豕子豬同豚𣫔並同】

【音詩】

      豕【和訓井俗云布太】

スウ     猪【和訓井乃古】

[やぶちゃん注:の個所に上図の下の篆書風の文字が入る(これは今まで通り、東洋文庫の挿絵を読み込み、編集権に抵触しないように、印字された大標題の活字「豕」及び左端の「スウ」を消去したものである。即ち、実際には、標題「豕」の右手に、この左印の「豕」の字が入る、特異点なのである(「スウ」は「」への左ルビなのではなく、今まで通り、大標題である「豕」への中国語カタカナ音写である)。私の言っている意味が判らない方のために、私が訓点の判読に迷う際や図版を清拭する時の汚れの確認等の参考にしている、国立国会図書館デジタルコレクションの明三四(一九〇二年中外出版社刊「和漢三才圖會」の当該部分の画像をトリミングして以下に掲げておく。

 

Butasankou

 

この画像で、今までの私の標題部の電子化の仕儀が納得いかれることであろう。なお、参考画像の下部が二重罫線になっているのは同書が二段組で、当該画像は、その下部記事であるための大枠の下部罫線であるためである。原典の罫線は下部も並の一本線である。]

 

本綱豕高大有重百餘斤食物至寡甚易畜養之甚易生

息天下畜之而各有不同或耳有大有小足有長有短皆

從土地異其孕四月而生在畜屬水在卦屬坎應室星其

性趨下喜穢也文豕字象毛足而後有尾形牡曰豭牝

曰彘【又曰豝曰】去勢曰豶四蹄白曰猪高五尺曰𤜸豕之

子曰豬【猪同】一子曰特二子曰師三子曰豵末子曰么生三

月曰六月曰凡豬骨細筋多

肉【苦微寒有小毒】 傷寒瘧痢痰痼痔漏諸疾食之必再發【反烏梅桔

梗黃連胡黃連令人潟痢合生薑食生靣合蕎麥食落毛髮】

脂膏【俗云末牟天伊加】 通小便黃疸水腫治皸裂及諸瘡

猪膽 治大便不通【以葦筒灌入膽汁立下】 小兒五疳殺蟲

 西戎人用猪膽作藥名底野迦似久壞丸藥赤黑色胡

 人甚珍重之主治百病中惡心腹積聚

猪頭 五月戊辰日以之祀竃所求如意以臘猪耳懸梁

 上令人豊足此亦厭禳之物也

按豕以易畜長崎及江戸處處多有之然本朝不好肉

 食又非可愛翫者故近年畜之者希也且豕猪共有小

 毒不益于人而華人及朝鮮人以雞豕爲常食

字彙云犬者喜雪馬者喜風豕者喜雨天將雨則豕進渉

 

 

ぶた     豭(をいのこ)【牡。】

       彘(めいのこ)【牝。】

       豶(へのこなしのい)

        【勢を去〔れるもの〕。】

 𤜸〔(やく)〕【大豕。】

       猪(いのこ)

        【豕の子なり。「豬」〔も〕同じ。

         「豚」「𣫔」、並〔びに〕同じ。】

【音、「詩」。】

      豕(ぶた)【和訓、「井〔(ゐ)〕」。

         俗に云ふ、「布太」。】

スウ     猪(ゐのこ)【和訓、「井乃古」。】

[やぶちゃん注:読み(原典ルビ)の「い」は総てママ。「へのこ」は通常は「陰茎」を指すが、ここは去勢することであるから、睾丸を含むの生殖器のこと。]

 

「本綱」、豕は高大にして重さ百餘斤有り。物を食ふ〔こと〕至つて寡(すくな)く甚だ畜〔(か)〕ひ易く、之れを養〔ふも〕、甚だ生-息(そだ)ち易し。天下、之れを畜(か)いて、而〔(しか)〕も、各々、不同〔(どう)〕をせざる有り、或いは、耳に、大、有り、小、有り、足に長き有り、短き有り、皆、土地に從〔(より)〕て異なり。其〔れ、〕孕(はら)むこと、四月〔(よつき)〕にして生ず。畜〔(ちく)〕[やぶちゃん注:家畜。]に在りては、「水(すい)」に屬し[やぶちゃん注:五行の「水」。]、卦〔(けい)〕に在りては、「坎(かん)」に屬し[やぶちゃん注:八卦(はっけ)の一つ。]、「室星〔(しつせい/はつゐぼし)〕」に應ず。其の性〔(しやう)〕、趨下(すうげ)[やぶちゃん注:ある存在の下方に向かうことを言う。]にして穢〔(けがれ)〕を喜〔(この)〕む。「文」、「豕」の字、毛足ありて後ろに尾有る〔ものの〕形に象(かたど)る。牡を「豭〔(か)〕」と曰ひ、牝を「彘〔(てい)〕」と曰ふ【又、「豝〔(は)〕」と曰ひ、「〔(らう)〕」と曰ふ。]】勢(へのこ)を去るを「豶〔(ふん)〕」と曰ひ、四つの蹄〔(ひづめ)〕の白〔き〕を「猪〔(がいちよ)〕」と曰ふ。高さ五尺なるを「𤜸〔(やく)〕」と曰ふ。豕の子「豬〔(ちよ)〕」と曰ふ【「猪」に同じ。】。一子を「特」と曰ひ、二子を「師」と曰ひ、三子を「豵〔そう〕」と曰ひ、末子を「么〔(えう)〕」と曰ふ。生じて三月〔(みつき)〕なるを「〔(けい)〕」と曰ひ、六月〔(むつき)〕なるを「〔(そう)〕」と曰ふ。凡そ、豬〔(ぶた)〕は、骨、細く、筋〔(すぢ)〕、多し。

肉【苦、微寒。小毒、有り。】 傷寒・瘧痢〔(ぎやくり)〕・痰痼〔(たんこ)〕・痔漏〔などの〕諸疾、之れを食へば、必ず、再發す【烏梅〔(うばい)〕・桔梗・黃連〔(わうれん)〕・胡黃連に反し[やぶちゃん注:以上の特定の薬物と相性が極めて悪いことを言う。]、人をして潟痢〔(しやり)〕[やぶちゃん注:下痢。]せしむ。生薑〔(しやうが)〕と合して食へば、靣[やぶちゃん注:顔に生ずる著しい吹き出物。]、生ず。蕎麥〔(そば)〕と合〔はせ〕食へば、毛髮を落とす。】。

脂膏〔(しかう/あぶら)〕【俗に云ふ、「末牟天伊加〔(マンテイカ)〕」。】 小便・黃疸・水腫を通じ、皸裂〔(ひびわれ)〕及び諸瘡を治す。

猪膽〔(ちよたん)〕 大便〔の〕不通を治す【葦(よし)の筒を以つて、膽汁を灌〔(そそ)〕ぎ入〔るれば〕、立ちどころ〔に〕下〔(くだ)れり〕。】。 小兒の五疳〔の〕蟲を殺す。

西戎〔(せいじゆう)〕の人、猪膽を用ひて、藥を作り、「底野迦〔(テリアカ)〕」と名づく。久-壞(ふる)き丸藥に似て赤黑色〔なり〕。胡人、甚だ之れを珍重す。百病中〔の〕惡心〔(おしん)〕・腹〔の〕積聚〔(せきじゆ)〕[やぶちゃん注:腹の中のしこり。]を治することを主〔(つかさど)〕る。

猪頭〔(ちよとう)〕 五月戊辰〔の〕日、之れを以つて、竈〔(かまど)〕を祀〔(まつ)〕れば、求むる所、意のごとし。臘猪〔(らうちよ)〕[やぶちゃん注:臘月(ろうげつ:旧暦十二月の異名)に屠殺した豚。]の耳(みゝ)を以つて梁(うつばり)の上に懸くれば、人をして豊足〔(はうそく)〕ならしむ[やぶちゃん注:「豊衣足食」の略。衣服も食べ物も満ち足りて、豊かな生活が出来ること。]。此れも亦、厭禳〔(えんじやう)〕[やぶちゃん注:祝祭することで邪気を払う呪(まじない)をなすこと。]の物なり。

按ずるに、豕は、畜ひ易きを以つて、長崎及び江、處處に、多く之れ有り。然れども、本朝、肉食を好まず、愛翫すべき者に非ず。故に、近年、之れを畜ふ者、希なり。且つ、豕〔(ぶた)〕・猪(ゐのこ)共に小毒有りて、人に益〔(えき)〕あらず。而か〔れど〕も、華人及び朝鮮人、雞・豕を以つて常食と爲す。

「字彙」に云はく、『犬は、雪を喜び、馬は風を喜び、豕は雨を喜ぶ。天、將に雨〔(あめふ)〕らんとするに、則ち、豕、進みて水を渉〔(わた)〕る』〔と〕。

[やぶちゃん注:動物界 Animalia 脊索動物門 Chordata 脊椎動物亜門 Vertebrata 哺乳綱 Mammalia 鯨偶蹄目 Cetartiodactyla イノシシ亜目 Suina イノシシ科 Suidae イノシシ属 Susイノシシ亜種ブタ Sus scrofa domesticus。イノシシ(Sus scrofa)を家畜化したもの。なお、イノシシの方は次の巻第三十八の「獸類」に「野豬(ゐのしし)」として出るから、この条の字には「猪」「豬」などあり、「いのこ」などとも読んでいるが、一部(最後の方の良安の「猪(ゐのこ)」は原種であるイノシシのことであろう)を除き、総て「イノシシ」ではなく、「ブタ」を指している点を注意して読まれたい。余りに馴染みのある動物であるので(因みに、私は物心ついた頃から、生きているブタが大好きな人間で、出来れば、飼いたいと思ったことさえある)、ウィキの「ブタ」からは、「ブタの飼育史」の「東アジア」の項のみを引く。『東アジアでは中国の新石器時代からブタは家畜化されていた。中国南部を発祥地とするオーストロネシア語族は南太平洋にまでブタを連れて行った。満州民族の先祖である挹婁人、勿吉人、靺鞨人は寒冷な満州の森林地帯に住んでいるので、ブタを盛んに飼育し、極寒時にはブタの脂肪を体に塗って寒さを防いでいた』。『豚は現代中国や台湾でもよく食べられ、中華料理で重要な食材となっている。中国語で単に「肉」といえば豚肉を指すほどで、飼育量も世界最大である。これに対して、中国で牛肉は農耕用に使われた廃牛や水牛を利用する程度で、食用としては硬すぎたり』、『筋張ったりし、それほど好まれなかった』。『朝鮮半島(特に韓国)では、縁起の良い動物とされている。漢字の「豚」を朝鮮語読みした「トン』『」が、「お金」を意味する朝鮮語(固有語)と綴りが同じためである。ブタ型の貯金箱に人気があり、「ブタの夢を見るとお金が貯まる」と言われ、宝くじを買ったりする。なお、朝鮮語の固有語では「豚」は「テジ』『」といい、イノシシは「メッテジ』『」という』。『ベトナム料理でも祝い事や廟への供物などに子豚の丸焼きを用意したり、ティット・コー(豚の角煮』『)や、焼豚を載せたライスヌードルであるブン・ティット・ヌオン』『が日常的に食べられたりするなど、中国文化を受けて』、『ブタは食材として重要である。中国語同様、ベトナム語でも単に「肉』『」といえば豚肉』『を指す』。『現代中国語では、「ブタ」は「豬(=繁体字)/猪(=簡体字)」と表記され、チュー(zhū)と呼ぶ。古語では「豕」(シー shǐ)が使われた』。「西遊記」に『登場する猪八戒は』、『ブタに天蓬元帥の魂が宿った神仙で、「猪(豬)」は「朱」(zhū、中国ではよくある姓)と音が通じるために姓は「朱」にされていた。しかし明代に皇帝の姓が「朱」であったため、これを憚って』、『もとの意の通り「猪(豬)」を用い、猪八戒となった』。『韓国やベトナムを含め、日本を除く東アジア漢字文化圏では、原則として亥年は「豚年」である』。

「百餘斤」明代の一斤は五百九十六・八二グラムであるから、六十キログラム弱。

「室星〔(しつせい/はつゐぼし)〕」二十八宿(中国古代の星座の区分。黄道(こうどう)を二十八に分けて、星座の所在を示した)の一つ。現在のペガスス座のαβ星に相当する。 

「彘(めいのこ)【牝。】」なるほど。「鴻門の会」で樊噲(はんかい)が出されて食った生の豚肉の硬い肩の肉はの豚のそれだったのだな。漢の高祖の死後に呂后(りょこう)が高祖の愛妾戚(せき)夫人の手足を切って、目を抉り、耳を焼き、厠に入れて「人彘(じんてい)」と名づけたのも、これでしっくりくるというものか。なお、そこで便所に入れたのは、古くから、豚が便所の下で飼われており、人糞を有効にリサイクルして餌としていたからであって、その部分は異常な仕儀なのではないので、念のため。「圂」があり、これは字を見れば一目瞭然で、元は「豚小屋」の意であるが、その上には概ね、人が便所あったわけで、後に「圂」は厠の意ともなったのである。

「豶(へのこなしのい)」陰茎去勢した牡豚普通に牡の豚の意もある。

𣫔」は前に出た「黃腰獸」という異獣の別名でもあるので注意されたい。

文」「説文解字」。既出既注

『牡を「豭〔(か)〕」と曰ひ、牝を「彘〔(てい)〕」と曰ふ【又、「豝〔(は)〕」と曰ひ、「〔(らう)〕」と曰ふ』「本草綱目」(「巻五十上」の「獸之一畜類二十八種 附七種」の巻頭の「豕」)の釈名では、単に「牡曰豭曰牙牝曰彘曰豝曰」と並べるだけであるので、これらの「豝」と「」をどのような豚(性別・形状)に当たるかを述べていない。ところが、調べてみると、「豝」は二歳の豚を指すともあり(「漢字林」)、中文サイトの辞書では「」は「母猪」とある。よく判らぬ。

『一子を「特」と曰ひ、二子を「師」と曰ひ、三子を「豵〔そう〕」と曰ひ、末子を「么〔(えう)〕」と曰ふ』これは中国の人間の長幼の序の呼称の比定呼称だろうから(載道派の文人は好んで人に比喩するものである)、そうなると、「一子」は「いつし」で第一子で、以下、順に「二子」は「にし」、「三子」は「さんし」、「末子」(「ばつし・まつし」)は末っ子ということになると私は読んだ。ところが、東洋文庫訳は原文の「一子」を『ひとつ子』と訳し、「二子」に『ふたご』とルビする。とすれば、ルビはないが、「三子」は「みつご」だ。それはそれで文句はないが、だとすると、最後の「末子」だけが呼称がおかしいことになる。こういう文章で最後だけが属性が異なるというのは、漢文学の表現では稀ではないかと思う。しかし、現行の豚(改良されいるから何とも言えないが)は一度に十匹以上は産むのが普通だ。明代(ここはやはり「本草綱目」の「釈名」に出ている)のブタが、産頭数が少なかったのかも知れぬ(この叙述をそのように読むなら、四頭生むのが普通だったとも読める)。以上、私には不審なので特に言い添えておく。なお、最後の「么」は現代仮名遣で音「ヨウ」「小さな・幼い」の意で腑に落ちる。「豵」は「漢字林」には一歳の豚とする。【2019年2月9日追記】いろいろな記事で小生の疑問に答えて下さるT氏より、メールを戴いた。以下、整理させて貰うと、まず、この記載の最も古いものは「爾雅」の「釋獸」で、

   *

豕、子豬。、豶。幺幼。奏者。豕生三豵、二師、一特。所寢、檜。

   *

とある。この「爾雅」にはいろいろな注釈があるが、知られた郭璞の「爾雅注疏」の「巻十」「釋獸第十八」の中に、

   *

豕子、豬。[やぶちゃん注:中略。]么、幼【最後生者、俗呼爲么豚。么、音腰。】。[やぶちゃん注:中略。]豕生三豵、二、師、一、特。豬生子常多、故別其少者之名。

   *

とあり、また、宋の羅願撰の「爾雅翼」の「巻二十三」の「豵」の釈文に、

   *

豕、生三子謂之「豵」、生二則謂之「師」、生一則謂之「特」。郭氏以爲、豕生子、常多故、別其少者之名「豵」。從「從」義、猶「從」也。

   *

 

とあることをお教え下さり、この『一子を「特」と曰ひ、二子を「師」と曰ひ、三子を「豵〔そう〕」と曰ひ、末子を「么〔(えう)〕」と曰ふ』のは、中国で『昔から多産の豚が』、『少子しか生まなかった時に』、『特別に名づけ』た名『との事』で、『「末子曰么」は』先の『「爾雅」の「 幺幼。」の変奏と思います』とお伝え下さった。私は返信で、『少ない産児に対する呼称でしたか。少ないからこそ名を付けて大事にしたのでしょうか。或いは、その呼称に呪的な意味があり、ちゃんと成豚となり、子を増やすような呪的意味があったのかも知れませんね』と記した。因みに、T氏はこの「么」の字を良安が使用していることに着目され、『この「末子曰么」ですが、日本で刊行された国会図書館で公開の「本草綱目」を見ると、寛文一六三二本草綱目(以下、総て当該頁リンクといた)が「么」、寛永一四(一六三七)が「公」、承應二(一六五三)も「公」、正徳 (一七一四)も「公」、刊期不明の江戸版の「本草綱目」でも「公」と、寛永十四年以降のものは「末子曰公」となっています(爾雅から言って校正ミスか?)。良庵先生は中国舶載版「本草綱目」をもっていたか、寛文九年またはそれ以前の日本版(?)を持っていたと推定されます。ちなみに、貝原益軒の「大和本草」以降は、中国でしか役に立たない知識として、この手の記述は完全無視となります』とあった。これも、良安の記載と「本草綱目」を比較する際の重要な指標となるものと思うので、特にここに追記させて戴き、T氏に心より御礼申し上げるものである。しかし、ということは、前の三つはやはり、東洋文庫の「ひとつ子」「ふたご」「みつご」の訳が正しいということになり、和訓するなら「ひとりご」「ふたご」「みつご」で、最後の「末子」のみが、それまでの並びとは別に、最後に生まれた子の意の「すゑつこ」ということになる(そこが、若干、やはり気にはなるが)。

「筋〔(すぢ)〕、多し」困ったもんや! で、「五雑組」では『豚(ゐのこ)には筋〔(すぢ)〕は無』し、と言っとったやん!

「傷寒」漢方では高熱を伴う急性疾患を指し、腸チフスなどとされる。

「瘧痢〔(ぎやくり)〕」「おこり」(概ね現在のマラリア)による高熱に起因する消化器不全による下痢症状を指す。

「痰痼〔(たんこ)〕」東洋文庫訳の割注は『慢性の喘息』とする。

「烏梅〔うばい)〕」梅の未熟な実を干して燻製(くんせい)にしたもので、漢方で下痢止めや駆虫などの薬とする。

「桔梗」正双子葉植物綱キク目キキョウ科キキョウ属キキョウ Platycodon grandifloras は根根にサポニン(saponin)を多く含むことから生薬「桔梗根(キキョウコン)」として利用される。去痰・鎮咳・鎮痛・鎮静・解熱作用があるとされ、消炎排膿薬・鎮咳去痰薬などに使われる。

「黃連〔(わうれん)〕」小型の多年生草本である、キンポウゲ目キンポウゲ科オウレン属オウレン Coptis japonica 及び同属のトウオウレン Coptis chinensisCoptis deltoidea の根茎を乾燥させたもの。『体のほてり(熱)を抑える性質が』ある『とされ、胃や腸を健やかに整えたり、腹痛や腹下りを止めたり、心のイライラを鎮めたりする働き』を持つ。『この生薬には抗菌作用、抗炎症作用等があるベルベリン(berberine)というアルカロイドが含まれている』とウィキの「オウレンにあった。

「胡黃連」上記のオウレンとは全く異なる、高山性多年草の、シソ目ゴマノハグサ科コオウレン属コオウレン Picrorhiza kurrooa(ヒマラヤ西部からカシミールに分布)及びPicrorhiza scrophulariiflora(ネパール・チベット・雲南省・四川省に分布)の根茎を乾かしたもの。古代インドからの生薬で、健胃・解熱薬として用い、正倉院の薬物中にも見いだされる。根茎に苦味があり、配糖体ピクロリジン(picrorhizin)を含むものの、薬理効果は不明である。

「脂膏〔(しかう/あぶら)〕」「末牟天伊加〔(マンテイカ)〕」スペイン語「manteca」。猪・豚などの脂肪。江戸時代、膏薬に加えたり、器機の錆止めに用いたりした。

「猪膽〔(ちよたん)〕」豚の胆嚢。まあ、イノシシでもいいだろう。

「葦(よし)」単子葉植物綱イネ目イネ科ダンチク(暖竹)亜科ヨシ属ヨシ Phragmites australis。「アシ」は同一植物の異名。漢字の「葦」「芦」「蘆」「葭」も生物学的には総て同一種。

「小兒の五疳〔の〕蟲」、小児の身体の中にいて「心疳」・「肺疳」・「脾疳」・「腎疳」・「肝疳」の「五疳」の症状(時代や学派によって解釈が異なるが、症状としては夜泣き・乳吐き・ひきつけなどの現在の小児性の神経症的疾患を多く含んだ)を引き起こすと信じられていました「蟲」、所謂、「疳の虫」のことで、実際のヒト感染性の寄生虫を特に指すものではない(但し、極端に多数の寄生虫が寄生している場合には、小児の場合、嘔吐(古くは虫体を吐き出す「逆虫」という症状が記録されている)や腹痛を訴える症状は出たであろうが、通常では無症状である)。

「西戎〔(せいじゆう)〕」古代中国人がトルコ族・チベット族など西方の異民族を言った蔑称。

「底野迦〔(テリアカ)〕」「theriaca」でオランダ伝来の薬。色の赤い練り薬で毒蛇などの有毒動物の咬傷に効くとされた解毒剤。テリアギア(以上は小学館「日本国語大辞典」)。次に「ブリタニカ国際大百科事典」の記載。解毒薬。紀元五〇年から紀元六〇年頃、ローマ皇帝ネロの侍医アンドロマクスが発明したとされ、当初は毒蛇咬傷の解毒薬で、約七十種もの薬物からなる薬方であった。東洋には七世紀に伝わり、中国の「新修本草」(六五九年成立中国の本草書。唐の高宗が蘇敬らに書かせた中国最古の勅撰本草書)に外国渡来の薬方として記載されている。中世には黒死病(ペスト)など感染症の特効薬として使われ、以来、十九世紀まで、洋の東西で万能薬として珍重された。材料の薬種や数は国・時代によって多種多様であったが、蛇は必ず入っていた。次に平凡社「マイペディア」の解説がらの引用。『中国や日本にも底野迦の名で伝わったが』、『これは特に獣類にかまれたときの解毒に用いられたという』。

「長崎及び江戸」長崎は出島があり、西洋人が食すから判るが、何故、江戸なのだろう? 識者の御教授を乞う。

「豕〔(ぶた)〕・猪(ゐのこ)共に」この後者はイノシシである。

「字彙」明の梅膺祚(ばいようそ)の撰になる字書。一六一五年刊。三万三千百七十九字の漢字を二百十四の部首に分け、部首の配列及び部首内部の漢字配列は、孰れも筆画の数により、各字の下には古典や古字書を引用して字義を記す。検索し易く、便利な字書として広く用いられた。この字書で一つの完成を見た筆画順漢字配列法は、清の「康煕字典」以後、本邦の漢和字典にも受け継がれ、字書史上、大きな意味を持つ字書である(ここは主に小学館の「日本大百科全書」を参考にした)。]

2019/02/07

和漢三才圖會卷第三十七 畜類 起動 / 総論部・目録

 
 

寺島良安「和漢三才図会」の「巻三十七 畜類」の電子化注を、新たにブログ・カテゴリ「和漢三才圖會 畜類」を起こして始動する。

私は既に、こちらのサイトHTML版で、

卷第四十  寓類 恠類

及び、

卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類

卷第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類

卷第四十七 介貝部

卷第四十八 魚部 河湖有鱗魚

卷第四十九 魚部 江海有鱗魚

卷第五十  魚部 河湖無鱗魚

卷第五十一 魚部 江海無鱗魚

及び

卷第九十七 水草部 藻類 苔類

を、また、ブログ・カテゴリ「和漢三才圖會 蟲類」で、

卷第五十二 蟲部 卵生類

卷第五十三 蟲部 化生類

卷第五十四 蟲部 濕生類

を、更に最も新しいものとして、ブログ・カテゴリ「和漢三才圖會 鳥類」で、

卷四十一 禽部 水禽類

卷四十二 禽部 原禽類

卷四十三 禽部 林禽類

卷四十四 禽部 山禽類

を完全電子化注している。余すところ、同書の動物類は「卷三十七 畜類」「卷三十八 獸類」「卷三十九 鼠類」となった。思えば、私が以上の中で最初に電子化注を開始したのは、「卷第四十七 介貝部」で、それは実に十二年半前、二〇〇七年四月二十八日のことであった。当時は、偏愛する海産生物パートの完成だけでも、正直、自信がなく、まさか、ここまで辿り着くとは夢にも思わなかった。それも幾人かの方のエールゆえであった。その数少ない方の中には、チョウザメの本邦での本格商品化飼育と販売を立ち上げられながら、東日本大地震によって頓挫された方や、某国立大学名誉教授で日本有数の魚類学者(既に鬼籍に入られた)の方もおられた。ここに改めてその方々に謝意を表したい。

 総て、底本及び凡例は以上に準ずる(「卷第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類」を参照されたい)が、HTML版での、原文の熟語記号の漢字間のダッシュや頁の柱、注のあることを示す下線は五月蠅いだけなので、これを省略することとし、また、漢字は異体字との判別に迷う場合は原則、正字で示すこととする(この間、文字コードの進歩で多くの漢字を表記出来るようになったのは夢のようだ)。また、私が恣意的に送った送り仮名の一部は特に記号で示さない(これも五月蠅くなるからである。但し、原典にない訓読補塡用の字句は従来通り、〔 〕で示し、難読字で読みを補った場合も〔( )〕で示した。今までも成した仕儀だが、良安の訓点が誤りである場合に読みづらくなるので、誤字の後に私が正しいと思う字を誤った(と判断したもの)「■」の後に〔→□〕のように補うこともしている(読みは注を極力減らすために、本文で意味が消化出来るように、恣意的に和訓による当て読みをした箇所がある。その中には東洋文庫版現代語訳等を参考にさせて戴いた箇所もある)。原典の清音を濁音化した場合(非常に多い)も特に断らない)。ポイントの違いは、一部を除いて同ポイントとした。本文は原則、原典原文を視認しながら、総て私がタイプしている。活字を読み込んだものではない(私は平凡社東洋文庫版の現代語訳しか所持していない。但し、本邦や中文サイトの「本草綱目」の電子化原文を加工素材とした箇所はある)。【2019年2月7日始動 藪野直史】

 

和漢三才圖會卷第三十七目録

  畜類

按四足而毛者總名曰獸【和名介毛乃】豢養者曰畜【和名介太毛乃】

 周禮曰庖人掌六畜【馬牛羊豕犬雞】六獸【麋鹿狼麕野豕免】辨其死生

 鮮薨之物也鮮者【與鱻同】新肉也薨【音考】乾肉也

日本紀云天武天皇四年四月詔曰自今以後莫食牛馬

 犬猿雞之完以外不在禁例若有犯者罰罪之

五雜組云馬無膽麋亦無膽兔無脾猿亦無脾豚無筋猬

 亦無筋

 獸莫仁於麟莫猛於狻猊【卽獅子】莫巨於貐【其長百尺】莫速

 於角端【日行一萬八千里】莫力於𥜿𥜿莫惡於窮奇【食善人不食悪人】

麟之長百獸也以仁獅子之服百獸也以威鳳之率羽族

 也以德鸇之懾羽族也以鷙然麟鳳爲王者之祥獅鸇

 禁禦之玩也 獅子畏鉤戟虎畏火象畏鼠狼畏鑼

苑云鵲食猬猬食鵕䴊鵕䴊食豹豹食駮駮食虎

 玄龜食蟒飛鼠斷猨狼虱喫鶴黃腰獸食虎皆以小制

 大也

文云犬性獨也羊性羣也鹿性麤也狐性孤也埤雅云

 狐性疑疑則不可以合類故從孤省

抱朴子云千歳之狐豫知將來千歳之貍爲好友千歳

 之猿變爲老人

 

 

和漢三才圖會卷第三十七目録

  畜類

按ずるに、四足にして毛ある者、總名を「獸(けもの)」と曰ふ【和名、「介毛乃」。】。豢(やしな)ひ養(か)ふ者を「畜(けだもの)」と曰ふ【和名、「介太毛乃」。】「周禮〔(しうらい)〕」に曰はく、『庖人〔(はうじん)〕、六畜〔(りくちく)〕【馬・牛・羊・豕〔(ぶた)〕・犬・雞〔(にはとり)〕】・六獸【麋〔おほじか/へらじか〕・鹿・狼・麕〔(のろじか)〕・野豕〔(ゐのこ/ゐのしし〕・免〔(うさぎ)〕】を掌(つかさど)る。其の死生鮮薨〔(しせいせんこう)〕を〔の〕物を辨〔(わきま)〕ふるなり』〔と〕。「鮮」とは【「鱻」と同じ。】「新しき肉」なり。「薨」【音、「考」。】は「乾肉」なり。

「日本紀」に云はく、『天武天皇四年[やぶちゃん注:六七五年。]四月、詔(みことのり)して曰〔(のたま)〕はく、今より以後、牛・馬。犬・猿・雞の完(しゝ)[やぶちゃん注:肉。]を食ふこと莫〔(な)〕かれ。以(こ)の外〔(ほか)〕は禁例に在らず。若〔(も)〕し、犯す者有らば、之れを罪(つみな)へ』〔と〕。

「五雜組」に云はく、『馬には膽〔(たん)〕無く、𪋛〔くじか〕も亦、膽、無し。兔〔(うさぎ)〕には脾〔(ひ)〕無く、猿も亦、脾、無し。豚(ゐのこ)には筋〔(すぢ)〕は無く、猬(はりねずみ)も亦、筋、無し』〔と〕。

獸は「麟(りん)」より仁〔(じん)〕なる莫〔(な)〕く、「狻猊(からじゝ)」【卽ち、獅子〔なり〕。】より猛(たけ)きは莫し。「貐〔(あつゆ)〕」より巨〔(おほ)〕きなるは莫く【其の長〔(た)〕け百尺[やぶちゃん注:「五雜組」の記載であるから(但し、この注は原文(にはないから良安のそれか後代の注である。文末の注を参照)、明代の一尺は三十一・一センチメートルなので、三十一メートル十センチとなる。]。】、「角端」より速(はや)きは莫し【日に行くこと、一萬八千里[やぶちゃん注:同じように(これは注として確認出来たが、そこでは「一萬里」とあった)、明代の一里は五百五十九・八メートルしかないから、一万七十六キロメートル相当。]。】。𥜿𥜿(ひひ)より力あるは莫く、窮奇〔きゆうき〕より惡なるは莫し【善人を食ひ、悪人を食はず。】。

麟の百獸に長たるは、仁を以つてなり。獅子の百獸を服するや、威を以つてなり。鳳の羽族を率(ひきふ)るは、德を以つてなり。鸇(たか)の羽族を懾(おひかく)るは、鷙〔(しつ)〕[やぶちゃん注:猛禽。]を以つてなり。然るに、麟・鳳は、王者の祥〔(きざし)〕なり。獅・鸇は禁禦〔(きんぎよ)〕[やぶちゃん注:禁裏。宮廷。]の玩(もてあそ)びなり。 獅子は鉤戟〔(こうげき)〕を畏れ、虎は火を畏れ、象は鼠を畏れ、狼は鑼〔(どら)〕を畏る。

苑〔(ぜいゑん)〕」に云はく、『鵲〔(かささぎ)〕は猬(けはりねずみ)を食ひ、猬は-(にしきどり)を食ひ、鵕䴊は豹を食ひ、豹は駮(はく)を食ひ、駮は虎を食ふ』〔と〕。

玄龜〔(げんき)〕は蟒〔(うはばみ)〕を食ひ、飛鼠〔(ひそ)〕は猨〔(さる)〕・狼を斷(た)ち、虱〔(しらみ)〕は鶴を喫〔(きつ)〕し、黃腰獸〔(こうようじう)〕を虎を食ふは、皆、小を以つて大を制すなり』〔と〕。

文〔(せつもん)〕」に云はく、『犬〔の〕性〔(しやう)〕は獨(ひとり)なり。羊の性は羣(むらが)るなり。鹿の性は麤(あらけ)きなり。狐の性は孤(ひとり)なり』〔と〕。「埤雅〔(ひが)〕」に云はく、「狐の性、疑〔なり〕。疑ふときは、則ち、以つて合類〔(がふるい)〕すべからず。故に、「孤」の省(はぶ)くに從ふ』〔と〕。[やぶちゃん注:最後の部分は「孤」の字を省く(「子」を取って(けものへん)を添えた字としたのである、の意。]

「抱朴子」に云はく、『千歳の狐は、豫(あらかじ)め、將-來(ゆくすゑ)を知る。千歳の貍(たぬき)は、好-友(ともだち)と爲〔(な)〕る。千歳の猿は變じて老人と爲る』〔と〕。

[やぶちゃん注:「獸(けもの)」「毛つ(の)物」「毛生る物」等の略という。

『豢(やしな)ひ養(か)ふ者を「畜(けだもの)」と曰ふ』本義は「けもの」と同じであるが、小学館「日本国語大辞典」の「けだもの」の意の二番目に『特に家畜をいう』とあり、典拠を源順の「和名類聚鈔」等を挙げているから、古くからこの使用区別はあったものらしい。「豢」は「養」と同じで「やしなう」であるが、特に「家畜を飼う」の意がある。

「周禮」中国最古の礼書の一つ。「しゆらい(しゅらい)」とも読み、「周官」とも書く。「礼記(らいき)」「儀礼(ぎらい)」と合わせて「三礼(さんらい」と称し、周公旦の撰と伝え、周代の行政制度を記述したもの。秦の焚書に遇ったが、漢代に五編が発見され、「考工記」を補って六編とした。

「庖人〔(はうじん)〕」王の食用に供するものを調理する官人。

「麋〔おほじか/へらじか〕」「大きな鹿」の意の他に、種としての哺乳綱獣亜綱鯨偶蹄目反芻亜目シカ科オジロジカ亜科ヘラジカ属ヘラジカ(箆鹿)Alces alces をも指す。同種は別名を「オオジカ」と称し、中国東北部にも棲息するので、同種と採っても問題はないが、まあ、見た目の大鹿でよかろうか。

「鹿」シカ科 Cervidae に属するシカ類の現生種は世界で約十七から十九属に、三十数種がいる。

「狼」哺乳綱食肉(ネコ)目イヌ亜目イヌ科イヌ亜科イヌ属タイリクオオカミ Canis lupusウィキの「オオカミによれば、現存する亜種は、長く、三十三(絶滅含めて三十九亜種)に分類されてきたが、近年の研究では、現存十三亜種・絶滅二『亜種への統合が提案されている』とある。中国産亜種はユーラシア北端部に分布するとされる、Canis lupus albus(ツンドラオオカミ/シベリアオオカミ)・Canis lupus lupus(ヨーロッパオオカミ/チョウセンオオカミ:シベリアオオカミとも呼ぶので前者と同一と主張する考えがあるか)を挙げておけばよいか。

「麕〔(のろじか)〕」シカ科オジロジカ亜科ノロジカ属ノロジカ Capreolus capreolus。漢字表記は多数あり、「麞鹿」「麇鹿」「獐鹿」(或いはそれらから「鹿」を取った単漢字)等がある。「ノロ」「ノル」とも呼び、これは朝鮮語で同属のシベリアノロジカ Capreolus pygargusを指す「노루」(ノル)に基づく。ノロジカ属の現生種はこの二種のみである。

「野豕〔(ゐのこ/ゐのしし〕」鯨偶蹄目イノシシ亜目イノシシ科イノシシ属イノシシ Sus scrofa。先の「五畜」の「豕」は本種が家畜化された、イノシシ属イノシシ亜種ブタ Sus scrofa domesticus である。

「免〔(うさぎ)〕」兎形(ウサギ)目ウサギ科ウサギ亜科 Leporinae

「死生鮮薨〔(しせいせんこう)〕」対象獣類の生死の判別と、その肉の状態(生の新鮮な肉か、干し肉(脯)か)の識別。

『「日本紀」に云はく……』以下は、「日本書紀」の天武天皇四(六七五)年四月庚寅十七日の条。

   *

庚寅。詔諸國曰。自今以後、制諸漁獵者。莫造檻穽及施機槍等之類。亦四月朔以後、九月三十日以前。莫置比滿沙伎理梁。且莫食牛・馬・犬・猿・鷄之完。以外不在禁例。若有犯者罪之。

   *

「罪(つみな)へ」「つみなふ」は「罪なふ」という他動詞ハ行四段活用で、「処罰・処刑せよ」の意。

「五雜組」「五雜俎」とも表記する。明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で遼東の女真が、後日、明の災いになるであろうという見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになるという数奇な経緯を持つ。同所の「九 物部一」に、

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獐無膽、馬亦無膽、兔無脾、猴亦無脾、豚無筋、猬亦無筋。

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とある。また、「五雜組」の「巻七」に、

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獸莫仁於麟、莫猛於被視【師。】、莫巨於貌輪關、莫速於角端爛【一萬里。】、莫力於萬嵩、莫惡於亨了食【蓋言八不。】。

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ともあった。

「膽〔(たん)〕」漢方では肝臓(相当機能の臓器)或いは胆嚢を指すが、後者で採っておく。

𪋛〔くじか〕」シカの古名。

「筋〔(すぢ)〕」所謂、腱(けん)のことか? よく判らぬ。

「麟(りん)」霊獣とされる架空の幻獸である麒麟の別名。

『「狻猊(からじゝ)」【卽ち、獅子〔なり〕。】』狻猊(さんげい)は中国の伝説上の生物で、しばしば「獅子」(ライオンがモデルとなった伝説上の生物。神社の左右の狛犬のうちで角が無いもの、或いは獅子舞の獅子)と同一視される。ウィキの「狻猊」によれば、古くは、「爾雅」の「釈獣」に『「狻麑」として見え、猫』(さんびょう)『(トラの一種)に似て、虎豹を食うとしている。郭璞の注では』「獅子」『のこととしている』、「穆天子伝」(ぼくてんしでん:周の穆王の伝記を中心とした全六巻からなる歴史書。成立年代も作者も不詳。西晋(二六五年~三一六年)の時に魏の襄王の墓が盗賊により盗掘された際、竹簡として発見された。一部では奇書とされる)では、『「狻猊は五百里を走る」と』ある。『漢訳仏典でも狻猊は獅子の別名として使われる。玄奘訳』の「大菩薩蔵経」(「大宝積経」菩薩蔵会)に『「喬答摩(ガウタマ)種狻猊頷、無畏猶如師子王。」と』あり、「玄応音義」では『「狻猊は獅子のことで、サンスクリットでは僧訶(シンハ)という」とする』。『仏陀はしばしば獅子にたとえられるため、仏陀のすわる場所を「獅子座」と呼ぶことがある』。『ここから高僧の座る場所も「獅子座」あるいは「猊座」といい、「猊座の下(もと)に居る者」という意味で、高僧の尊称や、高僧に送る手紙の脇付けは「猊下」となった』。『銅鏡、各神獣鏡の意匠、特に唐の時代に作られた「海獣葡萄鏡」に多数見受けられる瑞獣を海獣または狻猊と呼ぶことがある。なお、海獣とは砂漠の向こうに住む「海外の獣」という意味であるという』。『明代には竜が生んだ九匹の子である竜生九子(りゅうせいきゅうし)の一匹とされ』、楊慎(一四八八年~一五五九年)の「升庵外集」に『よれば、獅子に似た姿で煙や火を好み、故に香炉の脚の意匠にされるという』とある。なお、『「狻」の読みは、しばしばつくりの「夋」に引かれて』、百姓読(ひゃくしょうよ)み(漢字が結合した熟語の誤読であり、形声文字の音符(旁や脚の部分)につられた読み方をすること)で『「シュン」との表記が散見されるが、反切は』「唐韻」で「素官切」、「集韻」などでは「蘇官切」と』『あり、「サン」が正しい(酸と同音)』とある。

貐〔(あつゆ)〕」所持する実吉達郎(さねよしたつお)氏の「中国妖怪人物事典」によれば、本来は「窳」と書き(同じく「あつゆ」と読む)、もとは天界の神々の一人であったが、弐負(じふ)という悪神によって殺され、黄帝によって蘇生したものの、精神に異常をきたし、崑崙山の下を流れる弱水(じゃくすい:「西遊記」の沙悟浄の住んでいた流沙河がそれとする)に飛び込んで水棲の食人性の怪物に変じたとする(「貐」の名はそれ以降)。牛に似るが、顔は人に酷似し、脚は馬(蹄が一つ)であった。その鳴き声は赤子のようで、数えきれないほどの人間を食った。形態は説によりまちまちで、半ばは龍に似ているとも、虎の爪を持つとも、足が速いなどとも言われる。後に太陽を射落したとされる弓の名人羿(げい)に退治されたとある。調べてみると。「述異記」(南朝梁(五〇二年~五五七年)の任昉(にんぼう)が撰したとされる志怪小説集)には、巨大で、竜の頭、馬の尾、虎の爪を持ち、全長は四百尺(当時の一尺は二十四・二四センチメートルで、約九キロ七百メートル)であったと記す。

「角端」個人ブログ「プロメテウス」の角端:甪端(ろくたん)とも呼ばれる翼を持つ中国の祥瑞の神獣によれば(一部の括弧記号を変更させて戴いた)、『角端は中国の古代伝説中の祥瑞の獣名で、形状は鹿に似て翼を持ちパンダほどの大きさです。鼻に角が一本ついており、一日に一万八千里を行くことができ、さらに四方の言語に精通していると言います。このため邪を避ける目的も兼ねて芸術作品にも多く登場しており、またの名を甪端(ろくたん)とも言い』、『漢代頃からその名が見られるようになっています。「宋書」の「符瑞志下」には、「甪端は日に一万八千里行き、四方の言語を知り名君の在位に明るく、遠方の物事にも明るく則ち書を奉ると現れる」』とあり、『甪端は端端、端とも言います。獬豸、豸莫、独角獣などと形状は似ていますが、これらは別々の神獣です。麒麟の頭に獅子の体で翼があり、独角、長尾、四爪で、上唇が特に長く前に伸びている者上向きに巻いている者など様々なタイプがいます。甪端は宋代の神獣の彫刻を代表する形状であり、様々な皇帝の陵墓にその姿が見られています。彫刻に見られる甪端は』、『重厚で』、『胸が突き出ており』、『鼻の端にある一本の角が誇張されて』、『獅子が吠えているように見え』、『気勢を上げています』。『翼を持つ神獣の形状は古くはペルシャやギリシャなどで見られています。翼は飛行のためと言うよりも神性を示すための象徴として用いられています。この翼を持った神獣は歴代の皇帝たちに愛されました。ある文献によると、頭に角が一本ある神獣を麒麟と言い、二本あると避邪、角がないものを天禄と呼ぶ、と記載されています。しかし、彫刻に用いられる形状にはそれほど厳格な規則はなく、宋の時代の甪端の形状は南北朝から唐にかけて』、『麒麟や天禄、翼馬などの特徴が加えられて変化していきました。この甪端の特徴は明、清の諸陵石に刻まれた麒麟にも継承されています』。『史書中の甪端の記述には外見に関して三種類の記述があります。一つは豚型で、二つ目は麒麟が田、三つめは牛型です。実際には、「史記・司馬相如列伝」には「獣則ち麒麟、甪端」とあり、昔の人たちは甪端を古くから祥瑞の神獣として用いてきました』。『甪端は麒麟に似ていますが』、『麒麟ではなく、形状は豚や牛に近いです。麒麟自体は毛皮を持った動物の長であるとされています。漢代や唐代には甪端は様々な効能をもたらすとされていましたが、神格化は行われておらず』、『宋代になると』、『甪端はさらに神秘的な存在にされていきました。この時期に祥瑞の属性を付加された上に翼や巻いた唇などが付け加えられるようになりました』。『甪端の造形は天禄や避邪などとの共通点が見て取れ、工芸ではその特徴が脈々と継承されています。明清時代になると宋代に変化して独特になってしまった形状の漢や唐代への回帰が起こり』、『元の麒麟に近い形状に戻っていきました。つまり、宋代の甪端はその形状のみならず地位も独特で、この時代特有のものとなっています』。『甪端に加えて歴代の麒麟、避邪、天禄、獬豸などは中国の各王朝で祥瑞の象徴として用いられてきました』。また、『甪端の角を用いて弓を作ったと言う話が残っており、「後漢書・鮮卑伝」には、「野馬、原羊、甪端牛の角を以って弓を為し、俗にいう角端弓である。」とあります。この場合、甪端は牛として描かれています。甪端牛は古代の鮮卑の異獣名であり、形状は牛に似ており』、『角は鼻の上にあったので甪端牛の名前はこれに因んでいます』とある。

𥜿𥜿(ひひ)」これは実在する『オナガザル科ヒヒ属の哺乳類の総称』と「漢字林」にはある。哺乳綱霊長目直鼻猿亜目高等猿下目狭鼻小目オナガザル科オナガザル亜科ヒヒ属 Papio であるが、しかしこれ以外が総て幻獣であるからには、これは強力な臂力を持った妖猿とした方がよかろう。

「窮奇〔きゆうき〕」ウィキの「窮奇」によれば、『中国神話に登場する怪物あるいは霊獣の一つ。四凶』(古代の聖帝舜によって中原の四方に流されて、魑魅(妖怪)の侵入を防がせた四つの悪神(獣)。「書経」「春秋左氏伝」に記されてあるが、内容はそれぞれ異なり、後者のそれが一般的で、文公十八年(紀元前六〇九年)の条で、他は「渾敦(沌)(こんとん)」(一説に大きな犬の姿)・「饕餮(とうてつ)」(一説に羊身人面で眼は脇の下にあるとする)・「檮杌(とうこつ)」(一説に人面虎脚で猪の牙を持つとする)である)『の一つとされる』。「山海経」では、『「西山経」四の巻で、ハリネズミの毛が生えた牛で、邽山(けいざん)という山に住み、イヌのような鳴き声をあげ、人間を食べるものと説明しているが、「海内北経」では人食いの翼をもったトラで、人間を頭から食べると説明している。五帝の』一『人である少昊』(しょうこう)『の不肖の息子の霊が』、邽山(けいざん)に『留まってこの怪物になったともいう』。「山海経」に倣って『書かれた前漢初期の』「神異経」では、『前述の「海内北経」と同様に有翼のトラで、現在ではこちらの姿の方が一般的となっている。人語を理解し、人が喧嘩していると正しいことを言っている方を食べ、誠実な人がいるとその人の鼻を食べる。悪人がいると』、『野獣を捕まえてその者に贈るとしている』。『善人を害するという伝承がある反面、宮廷でおこなわれた大儺(たいな)の行事に登場する十二獣(災厄などを食べてくれる』十二『匹の野獣)の中にも』「窮奇」という『名の獣がおり、悪を喰い亡ぼす存在として語られている』(下線太字やぶちゃん)。「淮南子」では、『「窮奇は広莫風』『(こうばくふう)』(「北風」の意)『を吹き起こす」とあり、風神の一種とみなされていた。因みに、『日本の風の妖怪である鎌鼬(かまいたち)を「窮奇」と漢字表記してよませることがあるが、これは窮奇が「風神」と見なされていたことや、かつての日本の知識人が中国にいるものは日本にもいると考えていたことから、窮奇と鎌鼬が同一視されたために出来た熟字訓であると考えられている』とある。リンク先に清の汪紱(おうふつ)の「山海経存」の「窮奇」がある。

「鸇(たか)」現行、本邦ではこの漢字には、タカ目タカ科サシバ属サシバ Butastur indicus を当てている。サシバ(差羽)については、私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 隼(はやぶさ)(ハヤブサ・サシバ)」の注を参照されたい。

「玩(もてあそ)び」専ら、王者のシンボルとし、さらに鷹狩りに飼養されたことを指すのであろう。

「鉤戟〔(こうげき)〕」当初、私は本文内に「返しの付いた矛」と注したのであるが、東洋文庫の注に、『一般には先の曲ったほこをいうが、ここはあるいは獸の名かも知れない』とあるので、こちらに移した。

「鑼〔(どら)〕」あの金属製の楽器のそれである。

苑〔(ぜいゑん)〕」前漢末の学者劉向(りゅうきょう)の撰になる前賢先哲の逸話集。全二十巻。「君道」・「臣術」等二十篇(一篇一巻)からなり、各篇の初めに序説があって、その後に逸話を列挙してある。元来が先秦及び漢代の書物から天子を戒めるに足る遺聞逸事を採録したもので、現存する諸子百家の書と、かなり重複する。但し、すでに佚して本書にしか見えないものもあり、今日から見ると、貴重な古代説話集である(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「鵲〔(かささぎ)〕」スズメ目カラス科カササギ属カササギ亜種カササギ Pica pica sericea。雑食性だが、生きたハリネズミはちょっと食いそうもないと私は思うが……。

「猬(けはりねずみ)」哺乳綱 Eulipotyphla ハリネズミ科ハリネズミ亜科 Erinaceinae のハリネズミ類。日本を除く東アジアにも棲息する。雑食性で鳥類の雛や動物の死骸を食いはするようではあるが……。

-(にしきどり)」「錦鳥」ならば、本邦では、キジ科 Chrysolophus 属キンケイ(金鶏)Chrysolophus pictus の異名である。しかし、中文サイトでは「鵕䴊」(シュンギ)を「神鳥」とか記すものもあることはある。だったら、豹(食肉(ネコ)目ネコ科ヒョウ属ヒョウ Panthera pardus:中国にも棲息する)を食うかも。でも、ここに並ぶのは殆んどが実在種だからなぁ……。いやいや! キンケイの黄色は、食った豹のヒョウ柄なのかも?!

「駮(はく)」これは確実に幻獣。馬に似て、しかも虎や豹を食う、と大修館書店「廣漢和辭典」に載る。「山海経」の、まず「西山経」に、

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又西三百里、曰中曲之山、其陽多玉、其陰多雄黃、白玉及金。有獸焉、其狀如馬而白身黑尾、一角、虎牙爪、音如鼓音、其名曰駮、是食虎豹、可以禦兵。有木焉、其狀如棠、而員葉赤實、實大如木瓜、名曰櫰木、食之多力。

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と出、また、「海外北経」でも、

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北海内有獸、其狀如馬、名曰騊駼。有獸焉、其名曰駮、狀如白馬、鋸牙、食虎豹。有素獸焉、狀如馬、名曰蛩蛩。有靑獸焉、狀如虎、名曰羅羅。

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前者では、白い馬に似るが、角が一本あり、尾は黒く、虎の牙と爪を有し、吠える声は太鼓を叩くようだ、とする。また、武具の難を防ぐ能力を有するともある。

「玄龜〔(げんき)〕」先にも引かさせて戴いた「プロメテウス」の「玄亀(旋亀):山海経に出てくる妖怪怪物は実在する種もあった」に、『日本では亀は万年と言いますように、亀は長寿の象徴となる生き物として扱われる場合があります。中国では長寿の象徴に加えて』、『亀の甲羅は殷の時代以前から亀甲占いに使用されていたため、古くは冥界の使いとみなされていました。火にくべた亀の甲羅の割れ方が神の意志という意味で、亀が神様に合って受けた神託を甲羅の割れ方で知らせた、という訳です』。『亀をモチーフにした有名な神獣に四象の一柱である玄武がいますが、玄武のもともとの名前は玄冥といい、冥界へ行き神託を得ることができる神聖な生き物とされていました。このため、後世では朱雀や青龍などよりも一歩とびぬけて』、『真武大帝として祀られるようになりました』。『ちなみに玄は黒という意味です。五行説では色の属性がありますので』、『赤龍や白龍などのように赤、青、白、黄、黒の五色が割り当てられます。すなわち』、『玄亀は黒い亀という意味になります』。『玄亀はまたの名を旋亀(せんき)、元亀、大亀などと呼ばれます。玄武は亀と蛇とが合わさった形状をしていますが、同じ亀をモチーフとした玄武と異なる点は玄亀は純粋な亀の形状をしている点です』。「太玄宝典」には、「『北方には滄海があり、滄海は玄亀を生み、玄亀は真気を吐き、真気は神水に変わり、神水は腎を生む。』」『とあります。真気とは生命活動を維持する根源のことです』。『玄亀は黒と赤の亀です』「山海経」には、「『怪水出て憲翼の水に注ぐ。その中に玄亀多し、その形状亀の如く鳥の首と毒蛇の尾を持っており、その名を旋亀と言い、その音木が裂ける如く、これを使用すると聾にならず、足のたこを治療するのによい』」『とあります』。『玄亀は神獣や妖怪の類であると思われていましたが』「山海経」の『描写に非常に似た亀が吉林省の松花江及びその上流の支流で見つかり、希少生物となっています』。『また、玄亀の別名である旋亀の名前は』、『有名な禹の治水工事の中にも見られます。この治水工事では応龍が尾で地を掃き』、『水道を作り、洪水で溢れそうになった水を逃がして海へと注がせました。そして旋亀は背中に息壌を乗せて禹の後について回りました。そして、禹は少し歩くと』、『息壌の小さな塊を』摑『んで大地に投げ入れました。息壌とは自分自身で成長して大きくなる神土の事です。地面に投げられた息壌はすぐに大きくなって洪水を埋め尽くしてしまいました。この記述から旋亀は治水工事の際に重要な地位を占めていることが判ります』とある。「山海経」のそれは「南山経」の以下。

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又東三百七十里、曰杻陽之山、其陽多赤金、其陰多白金。有獸焉、其狀如馬而白首、其文如虎而赤尾、其音如謠、其名曰鹿蜀、佩之宜子孫。怪水出焉、而東流注于憲翼之水。其中多玄龜、其狀如龜而鳥首虺尾、其名曰旋龜、其音如判木、佩之不聾、可以爲底。

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引用に出た、「山海経」の描写によく似た亀というのは、これか? 何だか、恐ろしくデカい、ゴッツゴツのゾッとしないカメの画像の上に、

 

長春2002812日在吉林省吉林市出現了一個身似龜、嘴似鷹、背似恐龍的不知名怪物。多年從事古文化研究的原長春光機學院宮玉海教授認為,根據《山海經》記載,它應是《山海經》中記載的"旋龜"。但還沒有自然科學家對此怪物做出最後鑑定。

 

とあるわ! 写真の背中の三つのキールや、口刎がタカに似ているというのは、カメ目ワニガメ属ワニガメ Macrochelys temminckii にそっくりだと思うが、しかし……吉林市(ここ(グーグル・マップ・データ)だよね? ワニガメはアメリカ固有種だしなぁ……。ただ、同じような記事が中文報道サイトにもある。でも、やっぱ……この写真のカメは、もう、モロ、ワニガメやろ?……

「蟒〔(うはばみ)〕」これは伝説の大蛇でよかろう。

「飛鼠〔(ひそ)〕」これは哺乳綱ローラシア獣上目翼手(コウモリ)目 Chiroptera のオウモリ(蝙蝠)類の別名である。「斷(た)ち」というのを「噛み破る・咬みつく」という意味にとり、例えば、その感染症(狂犬病は有名だが、他にも媒介する)で「猨〔(さる)〕」(=猿)や狼が死ぬ可能性はないとは言えない。吸血性コウモリ(哺乳類の血を吸血するのはコウモリ目陽翼手亜目ウオクイコウモリ下目ウオクイコウモリ上科チスイコウモリ科チスイコウモリ属ナミチスイコウモリDesmodus rotundus一種のみである)を想起する人もいようが、彼らは中南米にしか存在しないし、殆んどのコウモリ類は昆虫や花の蜜を吸うだけである

「虱〔(しらみ)〕は鶴を喫〔(きつ)〕し」「喫〔(きつ)〕し」は「吸い」の意味でマッチする。《シラミの類い》は全種が血液や体液を吸うからである。但し、ここではツルを出している(これは大型の鳥の代表として劉向が出したものである)が、実は、鳥類に寄生する「羽蝨・羽虱(はじらみ)」は咀顎目目 Psocodea の、ホソツノハジラミ亜目 Ischnocera・ゾウハジラミ亜目 Rhynchophthirina・マルツノハジラミ亜目 Amblycera に属するハジラミ類(Menoponidae:英文で調べてみても亜目レベルの分類が明確でないようなので以下の追加した学名は概ね単独で出す)で、ウィキの「シラミ」によれば、前者の通常のシラミ類(節足動物門昆虫綱咀顎目シラミ亜目 Anoplura )のは、この『ハジラミ類』から『分化したと考えられるが、化石上の証拠はな』く、『シラミはハジラミ類同様』、『外部寄生虫として哺乳類の被毛の中で生活するが、ハジラミ類と異なり鳥類からはまったく知られていない』とあるのである。ウィキの「ハジラミ」によれば、上記の三亜目の『うち、マルツノハジラミ亜目は他の』二『亜目より系統的に離れていて、ハジラミは多系統である。他の』二『亜目はシラミとも近縁である』とあり、『鳥の羽毛や獣の体毛の間で生活し、小型で扁平、眼は退化し翅は退化している。成虫の体長は』〇・五~十ミリメートル『で、雄は雌より少し小さい。体色は白色、黄色、褐色、黒色と種によってさまざまである。大部分が鳥類の外部寄生虫で鳥類のすべての目に寄生し、一部は哺乳類にも寄生する。全世界で』二千八百『種ほどが知られ、うち』、二百五十『種が日本から記録されている』。『ハジラミは全体の形はシラミに似るが、細部では多くの点で異なっている。胸部の各節は完全に癒合することはなく前胸部は明らかに分かれる。肢の転節は』一、二節『で、先端に』一『個または』一『対の爪がある。体表は剛毛に覆われ、多いものと比較的少ないものがある。また口器はシラミと違って吸収型でなく』、『咀嚼型で』、『大顎が発達している。宿主の羽毛、体毛と血液を摂取するが、フクロマルハジラミ』Menacanthus stramineus『のように血液を成長中の羽毛の軸からとる種もある。ペリカンやカツオドリの咽喉の袋にはペリカンハジラミ属』Pelecanus『やピアージェハジラミ属やピアージェハジラミ属』Piagetiella『が寄生し、大顎で皮膚を刺し、血液や粘液を摂取する』。『不完全変態で、卵若虫成虫となる。卵は長卵型でふつう白く、宿主の大きさに対応し』一ミリメートル以下から二ミリメートルに『近いものまである。卵は宿主の羽毛か毛に産みつけられるが、羽軸内に産みこむものもある。若虫は成虫に似ており』、一『齢若虫では小さく色素をもたないが、脱皮ごとにしだいに大きくなり着色し』、三『齢を経て』、『成虫となる』。『ハジラミは温度や宿主のにおいに敏感で、適温は宿主の体表温度である。宿主が死に』、『体温が下がると』、『ハジラミは宿主から脱出しようとする。そのままでいれば、宿主が死ぬと』、『ハジラミも数日内に死ぬ』。『ハジラミの感染は交尾、巣づくり、雛の養育』、砂浴びなど、『宿主間の接触で起こる。もう一つの方法は翅のある昆虫に便乗することで、吸血性のシラミバエ』(双翅(ハエ)目短角(ハエ)亜目ハエ下目シラミバエ上科シラミバエ科 Hippoboscidae)『の体に大顎でしがみつき』、『他の鳥に運ばれる。自然の集団では雌が多く、ある種では雄がほとんど見つからない。ウシハジラミ』(ホソツノハジラミ亜目ケモノハジラミ科ウシハジラミ Bovicola bovis)『では処女生殖が知られている。前胃にハジラミの断片が見つかることがあるが、この共食いの現象は個体数の調節に役だつと考えられている』。『ハジラミの最大の天敵は宿主であって、ついばみ、毛づくろい』砂浴びに『よって殺される。また鳥の蟻浴も同様の効果がある。くちばしを痛めた鳥は十分毛づくろいができないので、非常に多数のハジラミの寄生をうけ弱る。哺乳類のハジラミは有袋類、霊長類、齧歯類、食肉類、イワダヌキ類』(哺乳綱イワダヌキ目 Hyracoidea であるが、同目の現生種はハイラックス科 Procaviidae のみである。アフリカ大陸と中東にのみ棲息し、耳を小さくしたウサギのような感じの動物だが、驚くべきことに、ゾウ目 Proboscidea や海牛(ジュゴン)目 Sirenia と類縁関係にあり、足に蹄に似た扁爪(ひらづめ)がある、原始的な有蹄類の仲間らしい。ウィキの「ハイラックスを見られたい)『および有蹄類に寄生し』、『皮膚の分泌物や垢を食べているが、トリハジラミほど多くはない』。『ハジラミの祖先はチャタテムシのコナチャタテ亜目Nanopsocetae下目であると見られる』(引用元のネコハジラミ Felicola subrostratus の拡大画像を見た瞬間に確かに「チャタテムシだ!」と叫んだ私がいた)。『自然の中で地衣類やカビを食べ』、『自由生活をしていたチャタテムシが、三畳紀、ジュラ紀といった中生代初期から新生代の初期である古第三紀の間に羽毛を持つ動物の巣に寄生する生活を経て、生きた鳥の羽毛にとりつき寄生するようになったと考えられるが、化石は発見されていない。ちなみに、近年では羽毛は鳥の祖先の恐竜の一部の系統で既に発達していたことが知られるようになってきているので、初期のハジラミは鳥の出現以前に恐竜に寄生していた可能性もある』。『系統学的解析により、ハジラミは』二『つの系統が別々に進化したことがわかっている。哺乳類・鳥類に外部寄生するという特徴的な生態により、収斂進化が進んだ。うち』、一『つの系統は、咀嚼性から吸収性へと進化したシラミを生み出した』。『ある種のハジラミは』二『種以上の鳥に寄生することがあるが、それは鳥の進化の速さがハジラミのそれを上まわったためと考えられている。つまり、宿主が環境に適応して変化しても、ハジラミにとっての生活環境である鳥体表面の条件、つまり食物の栄養や、温度条件などはあまり変化しないからだ』、『というのである。これをVL・ケロッグは遅滞進化と名付けた。例えばアフリカのダチョウ』(ダチョウ目ダチョウ科ダチョウ属ダチョウ Struthio camelus)『と南アメリカのレア』(レア目レア科レア属レア Rhea americana)『には共通のハジラミが寄生しており、今日では形態も分布も異なっているとしても、これらのダチョウは共通の祖先から分化したことを物語っている。ミズナギドリ』(ミズナギドリ目ミズナギドリ科 Procellariidae:現生種は十四属八十六種)『の仲間には』十六『属』百二十四『種のハジラミが知られているが、ハジラミの知見は大筋において』、『ミズナギドリの分類系と一致するといわれている』。『アジアゾウ』(哺乳綱長鼻目ゾウ科アジアゾウ属アジアゾウ Elephas maximus)や『アフリカゾウ』(ゾウ科アフリカゾウ属アフリカゾウ Loxodonta africana)『などに寄生するゾウハジラミ』(ゾウハジラミ亜目ゾウハジラミ科ゾウハジラミ属 Haematomyzus)『は体長』三ミリメートル『足らずの小さなシラミで、長い吻をもち吸血するが、その先端に大顎をもち』、『完全にハジラミの形態をそなえており、ハジラミとシラミの間を結ぶ中間型とされる』。『人間に直接に加害するものはいないが、家畜や家禽につくものがある。ハジラミが多数寄生すると、鳥や獣はいらだち、体をかきむしり体を痛め、食欲不振や不眠をきたす。家禽は産卵数が減り太らなくなり、ヒツジは良質の羊毛をつくらなくなる。ニワトリハジラミはニワトリに寄生するハジラミ類の総称で、畜産上はニワトリナガハジラミ』Lipeurus caponis・『ハバビロナガハジラミ』Cuclotogaster heterographus・『ニワトリマルハジラミ』(この和名では見当たらない)・『ヒメニワトリハジラミ』Goniocotes hologaster『の』四『種が重要である。そのほか、ニワトリハジラミ』Menopon gallinae『やニワトリオオハジラミ』Menacanthus stramineus『も寄生する。これらはいずれも世界共通種である。キジ目の中には家禽となるものが多いが、同目のニワトリと近縁であるからいっしょに飼えば』、『ハジラミの混入が生ずる。シチメンチョウオオハジラミ』(この和名では見当たらない)『はその一例である。多数寄生すれば』、『ニワトリは羽毛がたべられかゆみのため』、『体力が弱まり、成長が遅れ』、『産卵率の低下をみる。防除には殺虫剤を使い、鶏舎内を清潔に保つことが必要である』。『また』、『イヌハジラミ』Trichodectes canis や『ネコハジラミはウリザネジョウチュウ』(要するに、「サナダムシ」の一種。扁形動物門条虫綱多節条虫(真正条虫)亜綱円葉目ディフィリディウム科 Dipylidiidae ウリザネジョウチュウ(瓜実条虫=犬条虫)Dipylidium caninum で、イヌやネコの小腸に普通に見られ、体長五十センチメートルに達する。頭節に近い片節は短くて幅広いが、後方になるにつれ幅より長さを増し、所謂、「瓜の実」(種(たね))型になる。各片節には二組の生殖器を備えている。老熟片節は排出された後、しばらく、動きながら、卵を放出する。このため、人の目にとまりやすい。卵は中間宿主のノミの幼虫に食べられ、ノミの体内で発育して、ノミが成虫に変態した後、擬嚢尾虫(ぎのうびちゅう)という幼虫になる。このような幼虫を宿したノミは運動が不活発になり、イヌやネコに食べられやすくなる。感染しても殆、んど無症状のことが多い。成虫の駆除とともに、中間宿主となるノミの駆除も必要となる。ヒト(とくに幼児)に寄生することもある。ここは小学館「日本大百科全書」に拠った。すんまへんなぁ、寄生虫は私のフリーク対象の最たるものなんですねん。「生物學講話 丘淺次郎 四 寄生と共棲 四 成功の近道~(2)」とか、「生物學講話 丘淺次郎 第十七章 親子(7) 四 命を捨てる親」にも、この子、登場しますによって、見とおくれやす)『の中間宿主となる』とある。

「黃腰獸〔(こうようじう)〕」豹とか羆(ひぐま)に似た獣らしいが、どうもよく判らぬ。「本草綱目」の「虎」に、

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黃腰、「蜀志」、名黃腰獸。鼬身貍、首長則食母。形雖小而能食虎及牛鹿也。又孫愐云、音斛似豹而小腰以上黃、以下黑、形類犬食獼猴名黃腰。

   *

等とあるのが、それらしい。この後の「卷三十八 獸類」の「𣫔」(音「コク・カク」)があるので、そこで再度、考証する。

文〔(せつもん)〕」現存する中国最古の部首別漢字字典「説文解字」。後漢の許慎の作で、西暦一〇〇年)に成立、一二一年に許慎の子許沖が安帝に奉納した。本文十四篇・叙(序)一篇の十五篇からなり、叙によれば、小篆の見出し字九千三百五十三字、重文(古文字及び篆書体や他の異体字等)千百六十三字を収録する(現行本では、これより少し字数が多い)。漢字を五百四十の部首に分けて体系づけ、その成立を解説し、字の本義を記してある。

「埤雅〔(ひが)〕」北宋の陸佃(りくでん)によって編集された辞典。全二十巻。主に動植物について記す。

「抱朴子」東晋の葛洪(かつこう)の著で、内篇二十巻、外篇五十巻。内篇は神仙・方薬・鬼怪・変化・養生・長生・悪魔払い・厄除け等、道教乃至神仙道の理論と実践(道術)を説く。理論面では嵆康(けいこう)からの影響が顕著であり、道術の中では左慈(さじ)に由来する錬金・練丹術が最も重視されている。外篇は政治・社会・文明の批判の書であって、当時の世相を窺う好材料である(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。ただ、以下に引かれる部分は、ある中文サイトで、晉朝葛洪「抱朴子」の「對俗篇」に「玉策記」を引いて「狐狸豺狼皆壽八百、滿五百則善變爲人形」とし、さらに「玉策記」には佚文が有り、そこでは「千之狐、豫知將來、千之狸、變爲好女」とある、とある。即ち、「好-友(ともだち)と爲〔(な)〕る」というのは「好女」の誤りで、「婀娜っぽい女」の謂いである。東洋文庫訳も修正注で「友」を「女」としてある。その方が確かにしっくりくることは、くる。

 

 

 

   卷之三十七

    畜類

[やぶちゃん注:以下は原典では三段組。ここではルビも一緒に示し、句句読点は振らなかった。本章は、家畜動物の間に、当該家畜動物の臓器や生成物・当該動物を原料にした製品物、及び、疾患によって発生した体内異物等がやたらに混在している。なお、それらは各項で考証するので、ここでは一部の不審を持たれるであろう箇所を除いて、注をしてない。]

(ぶた)  【猪】

(いぬ)

狗寳(いぬのたま)

鮓荅(へいさらばさら)

(ひつじ) 【羊乳(ケイジ)】

[やぶちゃん注:「羊乳」のルビ「けいじ」はママ。「羊」の項に「羊乳」の条はあるが、このようなルビは振られていない。「羊」の音に「ケイ」はなく(「乳」には「ジユ」はあるが「ジ」はない)、また、中国音でも「yáng rǔ」(イァン・ルゥー)で全く合わない。一つのヒントは、この目録ページのルビは本文と異なり(本文は標題和名のみがひらがなでルビは総てカタカナである)、「ひらがな」と「カタカナ」が判然と区別されて振られている(標題は総てひらがな)ことと、後の「牛乳(ボウトル)」である。後者の「ボウトル」とは英語の「butter」のカタカナ音写に酷似することが判然とする(後の開国後の横浜で「バター」は「ボウトル」と呼ばれた。ただ「牛乳」にそれを振るのは誤りではあるが)。従って、この「羊乳(ケイジ)」も外来語である可能性が高いと考え、調べてみると、「チーズ」(cheese)のことを、ポルトガル語で「ケイジョ」(Queijo)と呼ぶことが判った。半可通な部分はあるが、羊の乳で作ったチーズの意を、羊の乳の意と誤認したのではあるまいか? せめて「酪」があるんだから、そっちに割注してほしかったなぁ、良安先生! とまあ、確定ではないので、識者の御教授を乞う。]

黃羊(きひつじ)

(うし)  【牛乳(ボウトル)】

牛黃 【いしのたま】

阿膠(あきやう) 【にかは】

黃明膠(すきにかは)

(にゆうのかゆ) 【酥 醍醐 乳腐】

(むま)

(むらさきむま)

(ら)

[やぶちゃん注:、雄のロバと雌のウマの交雑種である騾馬(らば)(哺乳綱奇蹄目ウマ科ウマ属ラバ Equus asinus × Equus caballus)のこと。]

駱駝(らくだ)


 

2019/02/06

南方熊楠より柳田国男宛(明治四四(一九一一)年九月二十二日書簡)

 

[やぶちゃん注:本電子化は、本日公開した『柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(17) 「河童ニ異名多シ」(3)』の注の必要上から急きょ電子化したものである。

 底本は所持する一九八五年平凡社刊の「南方熊楠選集」の「別巻」の両者の往復書簡集に拠った。クレジットは底本では一字上げ下インデントであるが、上に引き上げた。割注風の部分はポイント落ちであるが、同ポイントで出した。

 詳注を附す気はないが、私の躓いた部分を先に冒頭で示すと、

・『Ursus pruinosus 西蔵熊(チベタンベヤー)』というのは、哺乳綱食肉目クマ科クマ亜科クマ属ヒグマ亜種ウマグマ Ursus arctos pruinosus である。チベットに棲息し、和名は走る様子が「馬」に似ることに基づく。

・「燧(すい)を鑚(き)りて」は、例の木同士の揉みきりや火打ち石を用いて発火することを指す。

・「籙字」は「ろくじ」でその言語を記すための特殊な符号(文字)のこと。

・「黿」現行ではこれは、爬虫綱カメ目潜頸亜目スッポン上科スッポン科スッポン亜科マルスッポン属マルスッポン Pelochelys cantorii を指し、スッポン亜科キョクトウスッポン属ニホンスッポン Pelodiscus sinensis とは異なるマルスッポン属の模式種で、我々の知っている本邦のスッポンの三倍弱の大きさがある。

「越張の封泥」不詳。「封泥」古代中国に於いて、貴重品を収めた箱や竹簡や木簡文書の封緘に用いた粘土塊(縛った紐の結び目などに柔らかいうちに押印して開封の有無を確認した)を指すが、「越張」は不明。軽々に「越の張」という地名とも断じ得ない。

・「格殺(かくさつ)」手で打ち殺すこと。殴り殺すこと。

・「葫蘿蔔」そう訓じているかどうかは別として、「大根」と並列されており、「にんじん」(野菜のニンジン)のことと思う。

・「シビトバナ」「石蒜」「シタマガリ」「カウラバナ」最後の異名を除いて、単子葉植物綱キジカクシ目ヒガンバナ科ヒガンバナ亜科ヒガンバナ連ヒガンバナ属ヒガンバナ Lycoris radiata の異名である。私の「曼珠沙華逍遙」を見られたい。

・「吹弾」(すいだん)とは、笛などを吹き、琴などを弾くこと。音楽を演奏すること。]

 

 

  南方熊楠より柳田国男宛

    明治四十四年九月二十二日

‘The Travels of Athanasius Nikitin’(原本は魯語なり、魯国 Tver 市の人、一四七〇年ごろベルシアとインドに旅せし人なり) は Count Wieihorsky 氏の英訳なり(‘India in the 15th Century’に出づ。発刊の年は忘る。その中に収めたり)。この書の一三頁に左の記あり。

[やぶちゃん注:以下の一段落の引用は、底本では全体が二字下げ。]

 インドの森中に猴(さる)棲み、王あり。群猴、兵具を持って侍衛す。もし人、猴を捕るときは、これを王に報じ、王猴、軍を起こしてこれを尋ぬ。よって市に入り、家を倒し、人を打つ。猴群に特別の言語あり、子多く産む。もし子生まれて父母に似ぬ時は、これを公道に捨つ。インド人これを捉え、諸手工を教え、また夜中これを売る。これ昼これを売らば元の家に帰るゆえなり。あるいはこれに踊舞を教ゆ。註にいう、古ギリシア人も猴を人の一種とせり、イブン・バッタ(アラビアの大旅行家、一三〇四年生まれ、一三七八年死す)、インドの人に聞くところを書せるに、猴群に王あり、猿猴卒、棒を手にして常侍し、種々の食を供す、と。

 これらは猴を山男と混ぜるようなり。また狒々の前説を補うべきは、N.Prizhezalsky, ‘Mongolia, the Tangut Country and the Solitude of Nothern Tibet,’Londonm 1876,vol.ii, p. 249 に、予輩甘粛に着せる前に蒙古人より聞きしは、甘粛州に非常の獣あり、Kung-guressu クングーレッス(人熊の義)と言う。顔扁たくして人のごとく、たびたび両足で歩す。体に良く厚き黒毛を被り、足に長大なる爪あり。力強きことはなはだしく、狩人これを怖るるのみならず、その来たるをおそれて村民住を移すに至る。甘粛に入ってTangutans(タングタン人輩)に聞くに、みないわく、山中にこれあり、ただし稀なり、と。また熊のことでなきかと問うに、熊にあらずと言う。一八七二年夏、甘粛に着きしとき、五両金を懸けて求めしも獲ず、云々。ある寺にその皮ありときき、行き見しに、小さき熊の皮を藁でつめたるなり。人々いわく、人熊は足跡を見るのみ、決して人に見られず、と。今藁で詰めたる能皮を見るに、高さ四フィート半、喙挺(ぬき)んで、頭と前体は暗白色、背はそれより一層暗く、手ほとんど黒く、後部長く狭く、爪長さおよそ一寸、鈍にて黯色なり、と。

 熊楠いわく、これは Ursus pruinosus 西蔵熊(チベタンベヤー)なり、大英博物館にあり。支那の熊なり。「人に遇えば、すなわち人のごとく立ってこれを攫(つか)む。故に俗呼んで人熊となす。けだし熊羆(ゆうひ)は壮毅の物にして陽に属す。故に書して、二心あらざるの臣をもってこれに誓う」と『本草綱目』に出づ。

 右書き終わりしところへ貴書状着、および刊行物も着、また松村教授よりも葉書着、御厚志ありがたく存じ奉り候。前日新任知事当地へ来たりし際、毛利清雅氏、知事を訪い、神社、森林等の一条を述べ、とにかく知事もその説に傾聴されおりし由。(毛利は只今県会議員に出る競争中にて、合祀反対の町村民ことごとくこれに付和し、はなほだ猛勢なり。)しかして、別に河東碧梧桐氏より小生の意見書を三宅雄次郎氏一見すべしとのことにつき、さらに一文を草し差し出すべく候。(只今菌類の好季節にて、小生はなはだ多事で、画をかき夜に入ること多し。)

 御下問の三条のうち、河童のことは多少しらべ置けり。神馬とはその意味不詳、ただただ神が馬に乗るということにや、また祥兆を示すに天に馬像現ずる等のことにや。ちょっと御明答を乞う。馬蹄石のことは、小生、前年故中井芳楠氏(ロンドン正金銀行支店主任にて、日清合戦の金受け取り、また松方侯が蔵相たりしとき金借り入れに力ありし人)の出資で、「神足考」[やぶちゃん注:名論文「神跡考」の誤り。]という長篇を刊行し、英国で頒布せしことあり。非常に長いものなる上、その後書き加えたることも多きが、これを読まばあるいは貴下のしらぶるほどのことは十の九その中に包有されあるかとも存ぜられ候。一度に事行かぬべきも、小生の意見書刊行下されし御礼に、幾回にも分かち訳出し、細目に懸くべく候。この長篇は外国にてオーソリチーに引かるることしばしばなる物に候間(例のダイラ法師の足跡のことも含めり)、梗概のみでも貴下の「馬蹄石考」のついでに御付刊下されたく候。

 オボのこと、いろいろ尋ねしも、単にオボというものあり、石をつむなり、というほどの短解以上の物見当たらず。ロシア文学に達せる人に頼み、かの語の風俗彙纂などを見出だすのほかなしと存ぜられ候。一つ珍なこと見当たり候ゆえ、ついでに書き付け申し候。本年六月二十二日の‘Nature’(英国でもっとも広く読まるる科学雑誌にて、ダーウィン、スペンセル、ヘッケル、以下高名の寄書家多し。小生二十六歳のとき一文を投じ、その翌年の五十巻祝賀の節、特別寄書家の名を列せるうちに、日本より伊藤篤太郎博士と小生二人列名せり)五五八-五五九頁によれば、ボルネオ島のダイヤクス Dyaks の正直なる例は、tugong bula(虚言者塚)の設けあるにて知らる。この塚もて虚言を表せらるるときは、その人死するも塚は容易に滅せず。大虚言家あるときその紀念として木枝を積み後人を戒む。虚言で詐(あざむ)かれし人々、両村間の道側顕著なる地点に、木枝を積んで通行く者おのおのその虚言家を誚(そし)りながら枝を加え積む。一たびこれを築かるるときはこれを滅するに方なし。セラトクとセベタンの間にかかる塚ありしが、あまりに道の邪魔になるほど枝がくずれかかりしゆえ、記者燧(すい)を鑚(き)りてこれに火を点じ焼亡せしことたびたびありしも、少時間にしてたちまち枝の塚灰上に起こされたり。かかる次第ゆえ、土人いかなる刑よりもこの種の塚を築かるるを怖る。諸他の刑は、たちまちにして忘失さるるも、この塚は後世まで残り、子孫の辱となること酷し、とあり。わが国にかかることを聞かねども、塚のうちには崇拝、祭典等のほかに、異常の事蹟を記念のために建てしものはあるべしと存ぜられ候。

 備前辺にドウマンというものあり(朱鼈と書く)、河太郎様のものと聞く。たしか蘭山の『本革綱目啓蒙』にもありし。前年、石坂堅壮氏の令息何とかいう軍医、日本の食品を列挙したる著書ありし中にドウマンを列したるを、かかる聞えのみありて実物の有無確かならぬものを入れしは杜撰なりとかで、新聞で批評され、またこれを反駁せし人ありしよう覚え候(二十年ばかり前のこと)。小生も鼈が人を噬(か)むことのほかに、かかる怪物の存在をはなはだ疑うものなり。(ただし、小亀の腹の甲が多少赤黄を帯ぶるものは見しことあり。決して害をなすものにはあらず。)

 しかし、亀が怪をなし人を害すということはずいぶん外国にもあることにて、上に引けるプルゼヴァルスキ氏の書く vol. I, pp. 201-202 に、蒙古のタヒルガなる河にて洗浴するとき、随従のコッサックス輩、その水中の鼈を恐れて浴せず。蒙古人いわく、この鼈の腹下甲にチベットの籙字あり、よく人を魅す。この鼈俗人の体にかきつくとき[やぶちゃん注:ママ。]、いかにするも離れず。ただ一つこれを離す方とては、白駱駝もしくは白山羊をつれ来たれば鼈を見て叫ぶ、その声聞きて鼈みずから落つるなり、と。(熊楠申す、日本にも鼈にかまるるもの、いかにするも離れず、雷鳴を聞かば落つるという。『嬉遊笑覧』に、たしかその弁ありしと存じ候。)蒙古人またいわく、このタヒルガ河にむかし鼈なかりしに、忽然として生ぜり。住民大いに怖れ、近所のギゲン(活仏)に問いしに、これ河の主にて神物なり、という。それより月に一度ずつ近所の寺より喇嘛(ラマ)僧来たりこれを祭る、と。支那の古書に、黿怪をなすこと多く見え、『録異記』に、腹の下赤きものは黿(げん)となし、白きものは鼈(べつ)となす」、「『抱朴子』にいわく、在頭水に大黿あって常に深き潭(ふち)にあり、号(なづ)けて黿潭となす。よく魅を作(な)し病を行(はや)らす。戴道柄(たいどうへい)なる者あり、よくこれを視見(うかが)い、越張の封泥をもってあまねく潭中に擲つ。やや久しくして大黿あり、径長(わたり)丈余なり、浮き出でてあえて動かず。すなわちこれを格殺(かくさつ)するに、病める者は立ちどころに愈ゆ。また小黿あり、出でて列び渚上に死するもの、はなはだ多し」(その他怪事多く『淵鑑類函』巻四四一、黿の条に出でたり)。

 当町にいろいろのこと知れる人あり。その話に、むかし信州に大亀あり、深淵に怪をなせしを一勇者討ち取り、その甲今に存せり、と。委細は聞き糺(ただ)した上申し上ぐべし。『明良洪範』に、徳川忠輝、箱根の湖主たる大亀をみずから刺殺せし話あり。Budge, ‘The of the Egyptians,’1904m vol. ii, p.376 によれば、古エジプト人は亀を怖れて神物とせり。亀神アーペッシュは闇黒(ダークネス)の諸力、および夜叉邪 evil の神なり。‘Book of the Dead’(死人経)には、これを日神ラーの敵とし、「ラー生き、亀死す」という呪言あり、云々。

 当田辺町から二里ばかり朝来(あつそ)村大字野田より下女を置きしに、その者いわく、カウホネをその辺でガウライノハナと呼ぶ。この花ある辺に川太郎あり、川太郎をガウライという、と。またいわく、茄子の臍を去らずに食えば川太郎に尻抜かる、と。Nasinoheso この点の辺をいう。小生は臍と勝手に書くが、実は何というか知らず。

 神社合祀大不服の高田村(東牟婁郡、那智より山深く踰(こ)えてあり。まことに人少なき物凄き地なり)に高田権(ごん)の頭(かみ)、檜杖(ひづえ)の冠者などという旧家あり。そのいずれか知らず、年に一度河童多く川を上り来たり、この家に知らすとて石を

なげこむ由なり。熊野では、夏は川におり河太郎、冬は山に入りカシャンボとなるという。カシャンボはコダマのことをいうと見えたり。

 山男、鋸の目をたつる音忌むということば、前に申し上げたと思う。

 四十二年二月の『大阪毎日』に、峰行者の「飛騨の鬼」と題せる一項あり。

[やぶちゃん注:以下の引用一段落は、底本では全体が二字下げ。]

野尻を去ること四里、立町(たちまち)の駅の家々の門口に、松の薪の半面を白く削りて、大根、葫蘿蔔などと記した物が立て懸けてある。聞くところによれば、新春(旧暦)を寿ぐ儀式の一つとか。今年もかかる大根できよかしと豊作を禱る心より、さては尺五寸余の薪を大根に型った物である。その横に、これは(十三月)としたる薪が二本添えてある、云々。むかしこの駅を荒らしに、一疋の鬼が飛彈の山奥から出て来た。村人おそれ、さまざまの難題を持ち出してその鬼を苦しめやられしが利目がない。一番終りの村人が「ここは一年が十三カ月でござるが、その名は」と問うた。鬼、十二月までは答えたが、残りの一月を夜明くるまでに言い当つることができず、おのれがすみかへ立ち帰る。今も十三月と呼びさえすれば魔除になる、と里人は信じておる。

 これは本条に関係なきが、川太郎のことひかえたものより見出でたゆえ、ついでに記す。

 dorit de cuissage (腿の権利)すなわちスコットランド、仏国、伊国、またインド等に古え一汎に行なわれし、臣下妻を迎うるとき初夜必ずその君主の試を経るを常例とせし風俗、日本には全くなかりしものにや。御教示を乞うなり。

 貴人宿せらるるとき、娘また妻婢を好みのままに侍せしめたことは、『古事記』その他にもその痕跡を(ロンドンで徳川頼倫侯の前でこのことを話し、西アジア、欧州、インドにもむかしはこの風盛んなりし由言いしに、今海軍中将なる阪本一そのころ中佐なりしが、小生に向かいし謹んで述べしは、何とぞこの風だけは復古と願いたいものです)見る。しかし、臣下の初嫁(はつよめ)を君主必ず破素する権利などいうこと、本邦には見当たらず、漢土にもなかりしようなり。(支那の書に鳴呼の国人妻を娶りて美なれば兄に薦めたなどのことは、外国の例ゆえ別として。)

 拙妻および悴、とかくすぐれず、小生今に山中へ出かけずにおり候。長文の「神足考」[やぶちゃん注:後の「神跡考」。]はおいおい三、四回または六、七回に訳出し差し上ぐべく候。

 神島は五、六日前、保安林になり候。しかし、日数もかかりしゆえ、保安林になる前に、小生村長に話し二百五十円ほど林の下木買ったものに村より払わせ、下木伐ることは止めさせ候。

[やぶちゃん注:以下の一行空けはママ。]

 

 前文のガウライ(河童) はカワワラワ、カワラ、カウラ、ガウライという風に転じ来たれるかと存じ候。

 この辺にて一汎にシビトバナ(石蒜、伊勢辺でシタマガリ、唯今満開)をカウラバナと言う。しかし、河童のことに関係なきようなり。河原辺にさくゆえ河原花の義か。

[やぶちゃん注:以下の一段落は底本では何故か全体が二字下げである。]

この花をむかし英人か蘭人かが日本で見出だし、奇麗なをほめ、根をつみ英国へ送る。その船ガーンゼイ Guernsey (英と仏の間の海峡にある小島)で破れ、その根漂いて島に着し盛んにはえるを、英人はなはだ美として今もガーンゼイ・リリーと称す。むかしは野生ありしが、今は栽培品のみの由。二百年ばかり前のことと見ゆ。しかるにはや、この花この島に自生せしように設けられたる古語を生じあり。その古話今は忘れたれどひかえたものあり。

 当町に広畠岩吉という人、五十四、五なり。この人多芸にて立花の宗匠なり。歌舞、吹弾より網打ち、彫刻、押し絵、縫箔、通ぜざるところなし。この狭い所にもかかる人あるなり。古志、佳談を知ることおびただし。小生この人に聞き書きせるうち一つ左に書しつく。

 当郡富田村のツヅラ(防己)という大字の伊勢谷にカシャソボあり(河童をいうなり)。岩吉氏の亡父馬に荷付くるに、片荷付くれば他の片荷落つること数回にて詮方(せんかた)なし。ある時馬をつなぎ置きて木を伐りに行き、帰り見れば馬見えず。いろいろ尋ねしに腹被いを木にかけ履を脱いですてなどしあり。いろいろ捜せしに馬喘々として困臥せり。よって村の大日堂に之き護摩の符を貿い腹おおいに結び付けしに、それより事なし。この物人の眼に見えず、馬よくこれを見る。馬につきて厩に到るとき馬ふるえて困しむ、と。

 また丸三(まるさん)という男、右の岩吉氏方にてあう。その人いわく、ある友人富田坂に到りしに、樹の上に小児乗りあり、危きことと思い、茶屋主人に語るに、このころ毎度かくのごとし、カシャンボが戯れに人を弄するなり、と。

 またカシャンボは青色の鮮やかな衣を著る。七、八歳にて頭をそり、はなはだ美なるものなり、と。

 小川孝七という男、日高郡南部(みなべ)奥の山に石をとりにゆきしに、無人の境にたちまちかかる小童来たり傍に立つ。身の毛いよ立ち無言にしてにげ帰りし、と。

 四十一年の春なりしと覚ゆ、当町近き万呂(まろ)村の牛部屋へ、毎夜川よりカシャンボ上がり到る。牛に涎ごときものつき湿い、牛大いに苦しむ。何物なるを試みんとて灰を牛部屋辺にまきしに、水鳥の大なる足趾ありしとのことにて、そのころたしか四十一年四月の『東洋学芸雑誌』へ「幽霊に足なしということ」という題で三頁ばかり、小生出したることあり。これは見出だして別に写し申し上ぐべく候。

 支那にも馬絆というもの河より出て馬を困しますこと、『酉陽雑爼』等に見えたり。馬絆は蛟なりという説もあり。貴下『酉陽雑爼』手近になくば抄して進ずべく候。

 ロシアにも水魔を祭るに馬屍を水に按ずる、と露国の昆虫学大家で小生と合著二冊ある故オステン・サッケン男より聴けり。以上

 

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(17) 「河童ニ異名多シ」(3)

 

《原文》

 九州ノ河童ニ付テハ更ニ一異アリ。曰ク河童ハ夏バカリノ物ナリ、冬ハ山中ニ入リテ「ヤマワロ」(山童)トナルト〔西遊記其他〕。山童ヲ目擊シタル者ハ愈少ナケレド、昔ハ往々ニシテ之ニ遭遇シタル者ノ記事アリ。【足跡】山ニ入リテ其足跡ヲ見ルガ如キハ殆ド普通ノ不思議ナリキ。山童ハ童ト謂フハ名ノミニシテ隨分ノ大男ナリ。川小僧輩ノ中々企ツルコト能ハザル大入道ナリシナリ。【木ノ子】但シ此トハ或ハ別種カト思ハルヽ山ノ神ノ部類ニ、「セココ」〔觀惠交話〕、又ハ木ノ子ナドト稱スル物アリ〔扶桑恠異實記〕。愛ラシキ童形ニシテ群ヲ爲シテ林中ニ遊ビ杣木地挽(キヂヒキ)ノ徒ニ惡戲ス。山男ト同ジク木ノ葉ヲ綴リテ着ルトモアレド、或ハ又靑色ノ衣服ヲ着テアリトモ云ヒ、ヨホド動物バナレノシタル者ナリ。【カシヤンボ】紀州熊野ニテハ、河童ハ冬ハ山ニ入ツテ「カシャンボ」[やぶちゃん注:ここの拗音表記はママ(頭書は拗音表記ではない)。以下総て同じ。]ト云フ物ニナルト云フ。「カシャンボ」ハ六七歳ホドノ小兒ノ形、頭ハ芥子坊主ニシテ靑キ衣ヲ着ス。姿ハ愛ラシケレドモ中々惡事ヲ爲ス。同國東牟婁郡高田村ニ高田權頭(ゴンノカミ)・檜杖(ヒヅエノ)冠者ナド云フ舊家アリ。此中ノ或家へ每年ノ秋河童新宮川ヲ上リテ挨拶ニ來ル。姿ハ見エザレドモ一疋來ル每ニ一ノ小石ヲ投込ミテ著到ヲ報ジ、ソレヨリ愈山林ニ入リテ「カシャンボ」ト成ルトイヘリ〔南方熊楠氏報〕。「カシャンボ」牛馬ノ害ヲ爲スコト多シ。或ハ木ヲ伐リニ山ニ入リシ者、樹ニ繋ギ置キタル馬ヲ取隱サレ、漸クニシテ之ヲ見出デタレドモ、馬苦惱