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2019/02/01

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(14) 「諸國河童誌ノ矛盾」

 

[やぶちゃん注:以下のパートには二枚のキャプション附きの挿絵がある。最初のキャプションは(右から左へ表記)、「水ノ海ニテ捕ヘタル河童」(水(みと)の海にて捕へたる河童)、次のそれは、「相撲ヲ好ム筑後川ノ河童」(相撲(すまふ)を好む筑後川の河童)である。思うに、孰れも以下の本文に出る、昌平坂学問所の儒者古賀侗庵(こがどう(とう)あん 天明八(一七八八)年~弘化四(一八四七)年:名は煜(いく)、字は季曄(きよう)、通称は小太郎。侗庵は号。古賀精里(せいり:佐賀藩士で藩主鍋島治茂に仕え、藩校弘道館教授)の三男。幼少より父について学び、寛政八(一七九六)年、父に従って江戸に移住後、文化六(一八〇九)年に幕府儒者見習に抜擢され、父子ともに昌平黌に出仕し、文化十四年に儒者に昇進、天保一二(一八四一)年に布衣(ほい)を許された(六位叙位者相当の認可を言う)。家学の朱子学を奉じ、西洋事情・海防問題にも深い関心を示し、しばしば建言した。主著に「劉子論語管窺記」「海防臆測」「学迷雑録」等)が、同門下で、関東・東海の代官を歴任した羽倉用九(はくらようきゅう)や、幕臣で「寛政譜」編纂に携わった中神君度(なかがみくんど)から提供された、河童遭遇者からの聞取情報に、和漢の地誌や奇談集から集めた河童情報を合わせて、文政三(一八二〇)年に一冊に纏めた、本邦初の河童考証資料集「水虎考略」が原図とは思われる。なお、後にこれには、江戸城御殿医で著名な本草学者でもあった栗本丹洲(宝暦六(一七五六)年~天保五(一八三四)年:私はサイトの「心朽窩旧館」で「栗氏千蟲譜」の水族パートや、ブログ・カテゴリ「栗本丹洲」で彼の諸作の電子化注を行っている)が、各地で捕獲・目撃されたとされる河童の写生図などを多数付け加えている(ここまでは諸辞書及び「岩瀬文庫コレクション」の「水虎考略の解説等に拠った)。「水虎考略」は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」のこちらで宮内庁書陵部蔵本全篇を画像で視認出来る。但し、一枚目は明らかに、それの三十四コマ目の図であるが、後者のそれは、七コマ目図に似ているものの、両手の手先の描き方や、頭部の皿の周囲の頭髪(「水虎考略」のそれは有意に長く、ふさふさしている)に有意な違いが認められるので、少なくともそれを元に描き直したものと推定する(出所不明)さて、底本の国立国会図書館デジタルコレクションのものは画像がひどく粗く、提示するに躊躇する代物である。しかし、宮内庁書陵部蔵本の画像は掲載には宮内庁書陵部の許可が必要で(実際には許可を示さずに掲げているページを散見するが)、ここにそれらを代わりに示すのは面倒なので、しない。その代わり、一枚目は、恐らく上記の丹洲が多色で描き直したものがウィキの「河童」にパブリック・ドメインそして添えてあるので、それを代わりに掲げた。しかし、二枚目は同一と思われる無許可で使用可能な鮮明な絵図を見出し得ないので、仕方なく、まだマシな(但し、顔つきや柳田の言う「華美ナル」褌(ふんどし)等は識別が全く出来ない)「ちくま文庫」版柳田國男全集第五巻(一九八九年刊)に載るものを、OCRで取り込んで示した。前者は申し分ない(但し、文章が周囲に配されていて、原図とははっきりと異なる)ない画像であるが、後者は是非とも「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の七コマ目を視認されたい。細部までよく判る。

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ノ海ニテ捕ヘタル河童

 

Tikugogawa

相撲ヲ好ム筑後川ノ河童

 

《原文》

諸國河童誌ノ矛盾  サテモ此世ノ中ニ河童ト云フ一物ノ生息スルコト、既ニ動カスべカラザル事實ナリトスレバ、次デ起ルハ其河童ハ動物ナリヤ、ハタ又鬼神ナリヤト云フ一問題ナリ。此問題ノ解決ニ付キテモ、諸國ニ於ケル河童捕獲ノ記錄ハ尚且ツ有力ナル資料ナリ。今ヨリ僅カニ百餘年ノ前、卽チ文化文政ノ頃ハ、人間ト河童トノ交涉最モ頻繁ナル時代ナリキ。露西亞ノ「ガローニン」ガ遭厄日本記事ニスラ、河童ノ題目ヲ看過セズ。【河童硏究】天下ノ一奇書水虎考略ガ世ニ公ニセラレタルモ亦此前後ノ事ナリ。所謂太平ノ餘澤ナリシカ否カ、九州地方ノ河童ニ就キ系統的ノ硏究ヲ試ミシ人アリ。此書ハ則チ其人ノ手ニ成リシモノ也。ソレヨリ少シ以前ニ常陸水ノ海濱ニ於テ漁夫ノ網ニ掛リテ一頭ノ河童捕殺セラル。其又數十年ノ前ニハ越前某村ニ於テ河童ヲ生擒シ之ヲ將軍家ニ獻上セシ者アリ。河童ノ生メル子ハ頗ル人間ノ赤兒トヨク似タリト謂ヘリ。更ニ寬永某歳ノ昔ニ於テモ、豐後ノ日田ニテ捕ヘタリト云フ河童アリ。此等ハ何レモ立派ナル寫生ノ繪圖アリテ今日ニ傳ハリ、殆ド疑ヲ容ルべキ餘地無キニモ拘ラズ、何分ニモ合點ノ行カザル一點アリ。卽チ諸國ノ河童ノ形狀及ビ生活ニハ地方ニヨリ餘程ノ相違アルコト是ナリ。【河童ノ毛】例ヘバ九州筑後川流域ノ河童ハ肌膚褐色ニシテ總身ニ毛アルニ反シテ、三河越前等ノモノハ靑黑クシテ毛無ク、所謂「オカツパ」ノ部分ニノミ人間ノ小兒ト同ジキ毛ヲ頂ケリ。豐前北部ニ於ケル報告ニ依レバ、河童ハ海月又ハ白魚ノ如ク、水中ニ在ツテハ透明ニシテ形ヲ見ル能ハズト云フニ、【甲良】常陸ノ海ノ河童ハ眞黑ニシテ而モ背ニハ頑丈ナル甲良ヲ被レリ。琉球ニテハ河童ヲ「カムロー」ト云フ。水陸兩棲ノ動物ニシテ形三四歳ノ童子ノ如ク、面ハ虎ニ似テ鱗甲アリト云フニ〔沖繩語典〕、和漢三才圖會ニ記述スル九州中國ノ川太郞ハ、十歳バカリノ小兒ノ如ク裸形ニシテ能ク立行シ人語ヲ解ストアリ。【顏色】予ハ河童ノ顏色ハ靑黑キモノト信ジ居タルニ、陸中其他ニ於テハ其面朱ノ如ク赤シト言傳フ〔遠野物語〕。越後新潟ノ河童ニ至ツテハ常ニ龜ト同ジク匍行スル怪物ナルニ反シテ、九州ノ河童ノ人ト相撲ヲ取ル事ヲ好ム者ハ往々ニシテ華美ナル犢鼻褌ヲヒケラカシテ闊步スルアリ。此等ハアマリニ顯著ナル差異ニシテ、到底單ニ河童文明ノ地方的優劣ノミヲ以テ之ヲ明シ去ルコト能ハザルニ似タリ。而シテ右ノ如キ記述ノ矛盾ヲ解決スルノ方法ハ唯一ツアルノミ。卽チ今迄ノ人ガ河童ナリト認メテ寫生シタル物ノ一二又ハ全部ハ正眞ノ河童ニテハ非ザリシコト是ナリ。例ヘバ常陸ノ漁夫ガ海上ニ於テ打殺セシ動物ノ河童ナリシコトハ如何ニシテ之ヲ知リタルカ。何レノ地方ニテモ予ハ河童ト云フ者ナリト名乘リタル河童ハ有ルマジケレバ、此ノ如キ誤リタル想像ハ有リ得べキ道理ナリ。總體此物ノ特性又ハ生活狀態ニ關スル吾人ノ視察ハ、未ダ十分ニ精細ナリト言フコト能ハズ。河童ノ記錄ハ諸國共ニ豐富ナルニモ拘ラズ、此ニモ亦頗ル著シキ相違ノアリ。故ニ若シ記述ノ些カニテモ區々ニ亙レル部分ヲ不確實ナリトシテ排除ストセバ、此物ノ存在ハ次第ニ茫漠トナリ行クヲ免レ難シ。【記錄乏シ】殊ニ河童出現ノ事實ノ書史ニ見ユルモノ、甚シク近世ノ二三百年間ニ偏レルコトハ、誠ニ凡庸ノ歷史家ニ取リテハ大ナル疑ノ種ナリトス。下學集以前倭名鈔以後、歷代ノ語彙ニ其名目ヲ揭ゲズ、渡來發現等ノソレラシキ記事ヲ見出ス能ハザルガ爲ニ、今後尚幾多ノ臆ヲ存立セシメ得べキ餘地アリ。併シナガラ前ニ列擧セル多クノ馬引失敗記ヲ見テモ明瞭ナルガ如ク、何人モ認メザルべカラザル一事アリ。何ゾヤ。曰ク、諸國ノ碧潭ニ棲ミテ、時々馬又ハ人ノ子ヲ水ニ引込マントスル物ハ河童ナリ。

 

《訓読》

諸國河童誌の矛盾  さても、此の世の中に「河童」と云ふ一物の生息すること、既に動かすべからざる事實なりとすれば、次いで起こるは、「其の河童は動物なりや、はた又、鬼神なりや」と云ふ一問題なり。此の問題の解決に付きても、諸國に於ける河童捕獲の記錄は、尚ほ且つ、有力なる資料なり。今[やぶちゃん注:本書の刊行は大正三(一九一四)年。]より僅かに百餘年の前、卽ち、文化・文政[やぶちゃん注:一八〇四年~一八三〇年。]の頃は、人間と河童との交涉、最も頻繁なる時代なりき。露西亞の「ガローニン」が「遭厄日本記事」にすら、河童の題目を看過せず。【河童硏究】天下の一奇書「水虎考略」が世に公にせられたるも亦、此の前後の事なり[やぶちゃん注:冒頭注で示した通り、文政三(一八二〇)年成立で本書刊行の九十四年前。]。所謂、太平の餘澤なりしか否か、九州地方の河童に就き、系統的の硏究を試みし人あり[やぶちゃん注:冒頭に注した通り、古賀侗庵は佐賀出身。]。此の書は、則ち、其の人の手に成りしものなり。それより少し以前に、常陸(ひたち)水の海濱に於いて、漁夫の網に掛りて、一頭の河童、捕り殺せらる。其の又、數十年の前には、越前某村に於いて、河童を生擒(いけど)りし、之れを將軍家に獻上せし者あり。河童の生める子は頗る人間の赤兒(あかご)とよく似たりと謂へり。更に、寬永某歳[やぶちゃん注:寛永は一六二四年から一六四五年まで。]の昔に於いても、豐後(ぶんご)の日田(ひた)[やぶちゃん注:現在の大分県日田市(グーグル・マップ・データ)。]にて捕へたりと云ふ河童あり。此等(これら)は何(いづ)れも立派なる寫生の繪圖ありて、今日に傳はり、殆ど疑ひを容(い)るべき餘地無きにも拘らず、何分にも合點の行かざる一點あり。卽ち、諸國の河童の形狀及び生活には地方により餘程の相違あること、是れなり。【河童の毛】例へば、九州筑後川流域の河童は肌膚(きひ)、褐色にして、總身に毛あるに反して、三河・越前等のものは、靑黑くして、毛、無く、所謂「おかつぱ」の部分にのみ、人間の小兒と同じき毛を頂(いただ)けり。豐前北部[やぶちゃん注:現在の福岡県東部と大分県北部。]に於ける報告に依れば、河童は海月(くらげ)又は白魚(しらうを)のごとく、水中に在つては透明にして、形を見る能はずと云ふに、【甲良(かふら)[やぶちゃん注:「甲羅」。「ら」は恐らく「そのような状態にあること」を示す接尾語であるので、「良」「羅」も当て字。]】常陸の海の河童は、眞黑にして、而(しか)も、背には頑丈なる甲良を被れり。琉球にては「河童」を「カムロー」と云ふ。水陸兩棲の動物にして、形(なり)、三、四歳の童子のごとく、面(おもて)は虎に似て、鱗甲(りんかふ)[やぶちゃん注:鱗を伴った或いは鱗状の甲羅の意。]あり、と云ふに〔「沖繩語典」〕、「和漢三才圖會」に記述する九州・中國の「川太郞(かはたらう)」は、十歳ばかりの小兒のごとく、裸形(らぎやう)にして、能く立行(りつかう)し、人語を解す、とあり[やぶちゃん注:私の寺島良安漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の「川太郎(かはたらう)」の項を参照されたい。私の膨大な注を附してある。なお、同書は正徳二(一七一二)年頃の成立であり、河童の博物学的記載としては先駆的なものである]。【顏色】予は河童の顏色は靑黑きものと信じ居(ゐ)たるに、陸中其の他に於いては、其の面(おもて)、朱(しゆ)のごとく赤し、と言ひ傳ふ〔「遠野物語」[やぶちゃん注:私が先般行った『佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 五五~五九 河童』の「五九」を指しているようだが、そこでは、『外(ホカ)の地にては河童の顏は靑しと云ふやうなれど、遠野の河童は面(ツラ)の色(イロ)赭(アカ)きなり』であって「朱(しゆ)のごとく赤し」などとはなっていない。或いは佐々木喜善が語った時にはそう言ったのを柳田は記憶していて、かく書いたものかも知れない。]〕。越後新潟の河童に至つては、常に龜と同じく匍行(ほかう)する[やぶちゃん注:這いずって(匍匐(ほふく)して)歩く。但し、この語は「土壌がわずかずつ、斜面の下方へ移動すること」を指す語である。]怪物なるに反して、九州の河童の、人と相撲を取る事を好む者は、往々にして、華美なる犢鼻褌(たふさぎ)[やぶちゃん注:褌(ふんどし)。]をひけらかして闊步するあり。此等は、あまりに顯著なる差異にして、到底、單に河童文明の地方的優劣のみを以つて、之れを明し去ること、能はざるに似たり。而して、右のごとき記述の矛盾を解決するの方法は唯一つあるのみ。卽ち、今までの人が「河童なり」と認めて寫生したる物の一、二、又は全部は、正眞(しやうしん)の河童にては非ざりしこと、是れなり。例へば、常陸の漁夫が海上に於いて打ち殺せし動物の河童なりしことは、如何にして之れを知りたるか。何れの地方にても、「予は河童と云ふ者なり」と名乘りたる河童は有るまじければ、此(か)くのごとき誤りたる想像は有り得べき道理なり。總體、此の物の特性又は生活狀態に關する吾人(ごじん)[やぶちゃん注:我々。]の視察は、未だ十分に精細なりと言ふこと、能はず。河童の記錄は諸國、共に豐富なるにも拘らず、此(ここ)にも亦、頗る著しき相違のあり。故に、若(も)し、記述の些(わづ)かにても區々(くく)に亙(わた)れる部分を「不確實なり」として排除すとせば[やぶちゃん注:ここは「小さなこと・細部のとるに足らない部分にまで拘わって、全体を『不確実なものだ』と批判することを言っている。]、此の物の存在は、次第に茫漠となり行くを免(まぬか)れ難し。【記錄乏し】殊に河童出現の事實の書史に見ゆるもの、甚しく近世の二、三百年間に偏(かたよ)れることは、誠に凡庸の歷史家に取りては大いなる疑ひの種なりとす。「下學集(かがくしふ)」以前、「倭名鈔(わみやうせう)」以後、歷代の語彙に其の名目を揭げず、渡來・發現等のそれらしき記事を見出だす能はざるが爲に、今後、尚ほ、幾多の臆を存立せしめ得べき餘地あり。併しながら、前に列擧せる多くの馬引(うまひき)失敗記を見ても明瞭なるがごとく、何人(なんぴと)も認めざるべからざる一事あり。何ぞや。曰はく、「諸國の碧潭(へきたん)に棲みて、時々、馬又は人の子を水に引き込まんとする物は河童なり。」。

[やぶちゃん注:『露西亞の「ガローニン」が「遭厄日本記事」』ロシア帝国(ロマノフ朝)の海軍軍人で探検家学者ヴァシーリー・ミハーイロヴィチ・ゴロヴニーン(Василий Михайлович Головнин:ラテン文字転写:Vasilii Mikhailovich Golovnin 一七七六年~一八三一年)の著になる作品にオランダ語重訳の「遭厄日本紀」。ウィキの「ヴァシーリー・ゴロヴニーンによれば、彼は一八〇七年から一八〇九年にかけて、『ディアナ号で世界一周航海に出て、クリル諸島の測量を行な』ったが、一八一一(文化八)年、『軍により』、『千島列島の測量を命じられ、自らが艦長を務めるディアナ号で択捉島・国後島を訪れ』たところ、『国後島にて幕府役人調役奈佐瀬左衛門に捕縛され、箱館で幽閉され』てしまった。『ゴロヴニーンは幽閉中に間宮林蔵に会見し、村上貞助や上原熊次郎にロシア語を教えたりもした』。その二年後、文化一〇(一八一)三年、『ディアナ号副艦長ピョートル・リコルド』『の尽力により、ロシア側が捕らえた高田屋嘉兵衛らの日本人を解放するのと引き換えに』、『ゴロヴニーンは解放された(ゴローニン事件)。帰国後の』一八一六年、『日本での幽閉生活を』「日本幽囚記」『という本にまとめ、この本は欧州広範囲で読まれた』。文政八(一八二五)年には』、『日本でもオランダ本から訳された「遭厄日本紀」が出版された。同書は、ニコライ・カサートキンが日本への正教伝道を決意するきっかけとなったことでも知られる』とある。私は当該訳書を持たないので、「河童」がどのように書かれているのかは知らない。

 

「白魚」原典にルビはない。「ちくま文庫」版は『シラウオ』と編者が振る。現行では条鰭綱新鰭亜綱原棘鰭上目キュウリウオ目シラウオ科 Salangidae のシラウオ Salangichthys microdon(体長八センチメートル。日本では北海道から九州北部に分布)・イシカワシラウオ Salangichthys ishikawae(日本固有種。同じく北海道から九州北部に分布。シラウオに似ており、体長も同じほどで、特に前記のシラウオと区別せずに漁獲・流通がなされている)・アリアケシラウオ Salanx ariakensis(体長十五センチメートルほどにもなる大きな種で、有明海と朝鮮半島に分布する。有明海沿岸域では漁獲し食用にされていたが、現在は漁獲が激減し、絶滅が心配されている)・アリアケヒメシラウオ Neosalanx reganius(体長5cmほどの小型種で、丸い頭部とずんぐりした体型をしており、後に挙げるシロウオに似ている。世界でも有明海に注ぐ筑後川と熊本県の緑川及び緑川支流の浜戸川だけにしか分布しない固有種である。さらに二つの生息地では、体長や鰭の大きさなどに差があり、それぞれが独立した地域個体群と考えられている。川の下流域に生息するが、食用にされていないにもかかわらず、個体数が減り続けている。減少の理由は筑後大堰などの河川改修や汚染などによる河川環境の変化と考えられている)が本邦産種であるが、全くの別種で、しかもシラウオ類に見た目が似ている条鰭綱スズキ目ハゼ亜目ハゼ科ゴビオネルス亜科 Gobionellinae シロウオ属シロウオ Leucopsarion petersii と混同されるので、それも挙げておく必要がある。孰れも半透明であるが、死ぬと白くなるところから「白魚」をである。但し、九州地方では前者のシラウオ(報告は豊前北部であり、注した通り、現在の福岡県東部と大分県北部に当たるので、シラウオかイシカワシラウオである)を指すとまず考えてよい。

『琉球にては「河童」を「カムロー」と云ふ』非常に不愉快である。後の部分を見ても「河童」の異名を出すに、頭書を掲げている。この沖縄のケースでは、川ではなく井戸に住む妖怪で、形象が語られておらず(残っていない)、私は河童との有意な差を見出せるようにも思われる点でも、これは【カムロー】と頭書に出すのが当然である。日文研「怪異・妖怪伝承データベース」のこちらによれば、金城朝永氏の「琉球妖怪変化種目(一)」(『郷土研究』昭和六(一九三一)年五月発行所収)からの要約として、『カムワーは井戸に住んでいて、子供などが井戸をのぞくと引き入れてしまう。古井戸をのぞくと水面の影をカムローに取られ』、『病気になる』とあり、「カムワー」という別呼称があることが判る。さらに、柳田國男が、この呼称に冷たい理由を推測するに、「カムロー」を安易に「川郎」辺りの転訛と思い込んでいる節が感じられるのであるが、沖縄移住ブログ」の「沖縄妖怪」の「カムローによれば、『目撃例がほとんどないのに、名前だけは知られている妖怪がカムローです』。『カー(井戸)に住んでいる妖怪といわれていて、子供が井戸の中を覗いていると、井戸の奥へ引きずり落してしまうという恐ろしい妖怪です』。『カムローは、それ以外にもいたずらをします。たとえば、古い井戸を覗くと、中に潜んでいたカムローが、水面に映る影を奪い取ってしまうため、その子供は病弱になってしまうといいます』。『昔は、産湯から生活用水、死後には湯灌(ゆかん)の水としても使われた井戸水ですから、そこにカムローのような不思議な妖怪が住んでいたとしても当然なのかもしれません』とあるのだ。柳田さんよ、「川」じゃあねえよ! 「井戸」なんだよ! その点でも頭書が必要だよ!

「下學集」著者は「東麓破衲(とうろくはのう)」という名の自序があるが、未詳。全二巻。室町中期の文安元(一四四四)年に成立したが、刊行は遅れて江戸初期の元和三(一六一七)年(徳川秀忠の治世)。意義分類体の辞書。室町時代の日常語彙約 三千語を「天地」・「時節」などの十八門に分けて簡単な説明を加えたもの。その主要目的はその語を表記する漢字を求めることにあった。室町時代のみならず、江戸時代にも盛んに利用され、その写本・版本はかなりの数に上る。類似の性格をもつ同じ室町中期の辞書「節用集」に影響を与えていると考えられている(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「倭名鈔」「和名類聚鈔(抄)(わみょうるいじゅ(う)しょう)」の略。平安中期の歌人(三十六歌仙の一人)で文人学者であった源順(みなもとのしたごう)の撰になる本邦初の漢和辞書。承平年間(九三一年~九三八年)に醍醐天皇の皇女勤子内親王に献じられた。十巻本と二十巻本の二種がある。意義分類により「天地部」より「草木部」に至る部類別に漢語を標出し、出典を示し、類音字や反切によって音注を施した上で、漢文で説明を加え、和名を万葉仮名で記す。項目は事物の名称(名詞)が大部分で、百科事典的性格をも備えている。完成以後、広く知られてかなり汎用されていたらしく、後の辞書類にも大きな影響を与え、江戸時代の本草書等でも、対象物名称や同定をこれに溯って記載するものも多い。国語学的には勿論、古代文化の研究にも重要な資料である(以上は諸辞書等を綜合して記した)。]

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