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2019/02/20

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(23) 「川牛」(3)

 

《原文》

 神ガ川牛ノ背ニ乘リテ出デラレタル話アリ。【水神】下總北相馬郡文(フミ)村大字押付ノ水神社ハ蠶養(コカヒ)川ノ岸ニ在リ。此神ノ正體ハ川牛ニ乘リタル木像ニシテ、其牛ノ右ノ角折レタリ。御影ノ版畫モ亦此ノ如シ。其由來ハ昔隣村ノ大字大平(タイヘイ)ニ御大平樣ト云フ異人アリ。今日大平權現(オホヒラゴンゲン)ト稱シテ村ニ祭ル者卽チ是ナリ。【神ノ爭】此御大平樣、アル日水神ノ社ノ下ニ來テ釣ヲ垂レタルヲ、水神怒リテ川牛ニ乘リテ出現シ其釣竿ヲ奪ヒ取ラントス。異人ハ驚キテ傍ノ藤蔓ヲ取リ之ヲ投附ケタルニ、川牛ノ頭ニ引掛リテ右ノ角折レタリ。ソレ故ニ神體ノ牛ニ片角無キナリ〔利根川國志二〕。日本ニテハ珍シキ話ナレド支那ニハ之ニ似タル川牛アリ。勾漏縣ト云フ地方ニハ大江ノ中ニ水牛ノ如キ獸住シ、水ヨリ出デテヨク鬪爭ス。其角ハ陸ニ在リテハ軟キコト押付水神社ノ川牛ノ如ク、江水ニ却リ入レバ角堅クナリテ復出ヅトアリ〔酉陽雜爼續集八〕。【石ノ窪】【鹽】東京小石川ノ牛天神ノ牛石ハ、石ノ上ニ窪ミアリテ昔ハ之ニ鹽ヲ供ヘタリト云フ。或ハ又海中ヨリ出現セシ天神ノ乘物ノ化石シタルニハ非ザルカ。同市向島ノ牛御前(ウシゴゼン)ナドハ川牛ノ記念トシテ一箇ノ牛ノ玉ヲ保存セリ。【牛鬼】若シ彼社ノ緣起ノ文ニ誤無シトスレバ、昔建長ノ二年ニ淺草川ノ底ヨリ牛鬼ノ如キ物飛ビ出シ、天下ニ疫病ヲ流行セシム。【牛頭天王】牛頭(ゴヅ)天王ノ降魔ノ力ニ由リテ、右牛鬼類似ノ物ハ此社ニ飛込ミ、一國忽チニシテ平穩ニ復スト云フ〔十方菴遊歷雜記第二編中〕。此社ノ神體ハ卽チ牛頭天王降魔ノ異形ト云フコトナルガ、ソレニシテハ被征服者ノ名ヲ以テ其御社ニ名ヅクルコト、聊カ解シ難キニ似タリ。

 

《訓読》

 神が川牛の背に乘りて出でられたる話あり。【水神】下總北相馬郡文(ふみ)村大字押付の水神社は蠶養(こかひ)川の岸に在り。此の神の正體は川牛に乘りたる木像にして、其の牛の右の角、折れたり。御影(みえい)の版畫も亦、此(かく)のごとし。其の由來は、昔、隣村の大字大平(たいへい)に御大平樣と云ふ異人あり。今日、大平權現(おほひらごんげん)と稱して村に祭る者、卽ち、是れなり。【神の爭(あらそひ)】此の御大平樣、ある日、水神の社の下に來(きたり)て、釣を垂れたるを、水神、怒りて、川牛に乘りて出現し、其の釣竿を奪ひ取らんとす。異人は驚きて、傍らの藤蔓(ふじづる)を取り、之れを投げ附けたるに、川牛の頭に引き掛りて、右の角、折れたり。それ故に、神體の牛に片角無きなり〔「利根川國志」二〕。日本にては珍しき話なれど、支那には、之れに似たる川牛あり。勾漏縣(こうろうけん)と云ふ地方には大江の中に水牛のごとき獸、住し、水より出でて、よく鬪爭す。其の角は、陸に在りては、軟(やはらか)きこと、押付水神社の川牛のごとく、江水(かはみづ)に却(かへ)り入れば、角、堅くなりて復(ま)た出づ、とあり〔「酉陽雜爼續集」八〕。【石の窪】【鹽(しほ)】東京小石川の牛天神の牛石は、石の上に窪みありて、昔は之れに鹽を供へたりと云ふ。或いは又、海中より出現せし天神の乘物の化石したるには非ざるか。同市向島の「牛御前(うしごぜん)」などは川牛の記念として一箇の牛の玉を保存せり。【牛鬼(うしおに)】若(も)し彼(か)の社の緣起の文(ふみ)に誤り無しとすれば、昔、建長の二年[やぶちゃん注:一二五〇年。]に淺草川(あさくさがは)の底より、牛鬼のごとき物、飛び出だし、天下に疫病を流行せしむ。【牛頭天王(ごづてんわう)】牛頭(ごづ)天王の降魔の力に由りて、右牛鬼類似の物は此の社に飛び込み、一國、忽ちにして平穩に復すと云ふ〔「十方菴遊歷雜記第二編」中〕。此の社の神體は、卽ち、牛頭天王降魔(がうま)の異形(いぎやう)と云ふことなるが、それにしては、被征服者の名を以つて其の御社に名づくること、聊か解し難きに似たり。

[やぶちゃん注:「下總北相馬郡文(ふみ)村大字押付の水神社」現在の茨城県北相馬郡利根町の北西部。この附近(グーグル・マップ・データ)。「利根町立文小学校」に名が残るのが確認出来る。ここで言う「水神社」は茨城県北相馬郡利根町布川(旧押付本田地区)に現存する押付本田水神宮と思われる。ここ(グーグル・マップ・データ)。直近には「水神宮」が複数あるが、tanupon氏のサイト「タヌポンの利根ぽんぽ」の「タヌポンの利根ぽんぽ行 押付本田の水神宮」(非常に緻密な考証と現地踏査を行っておられ、写真も豊富。この方のサイトは必見!)によって、ここに比定した。それによれば、押付本田水神宮の創立は不詳で、寛政七(一七九五)年の本殿再建の棟札が残っているとあり、『祭神は、水神宮すべての共通の神、水波能女命(みずはのめのみこと)』(「古事記」の神産みの段において、カグツチを生んで陰部を火傷し、苦しんでいたイザナミがした尿から、和久産巣日神(ワクムスビ)とともに生まれたとし、「日本書紀」では罔象女神(みつはのめのかみ)と表記し、同書第二の一書では、イザナミが死ぬ間際に、埴山媛神(ハニヤマヒメ)と罔象女神を生んだとする)とする。さて、同氏は別ページ「タヌポンの利根ぽんぽ行 大平神社1」で、ここに名の出る「御太平樣」についても、詳述されておられ、記載の関係上、そちらを先に引用させて貰う。「お大平様伝説」の項(一部の改行を連続させた貰った)。

   《引用開始》

さて、大平村を開拓し、大平神社に祀られているとされる「お大平様(おだいへいさま)」ですが、『利根町史』第5巻には、お大平様に関する言い伝えが4編ほど掲載されています。いずれも大平の五十嵐五郎さんという方からのものです。以下、その要旨をご紹介します。

.大平さまと水神さま

ある日、大平村の権現様が東の押付本田の沼で釣りをしていました。それを見た押付本田の水神様は「わしの沼の魚を勝手に・・・」と怒り、潜牛に乗ってやってきて権現様の釣竿を奪おうとしました。権現様は驚いて近くの藤づるを潜牛めがけて投げつけました。狙い通りそれは牛の右角に引っかかり、お互いに引っ張り合いとなりました。結局、牛の角が折れて両者とも後にひっくり返ったということです。大平の権現様はいいものが手に入ったと牛の角を手に走り帰っていきました。その後、大平様の死後も村の宝として大切に保管していたのですが、大平神社の祭礼の時だけお供えしていたそうです。しかし、そこでは盗まれそうだというので村人の持ち回りで預かることになりましたが、五十嵐角右衛門家が当番の時に、押付本田に返却したということです。

大平村の権現様とは、つまりお大平様のこと。東の押付本田の沼とは、現在のどの箇所かは不明です。現在、押付本田(布川)水神宮 には、右角のない河牛に乗った水神像が本殿に安置されているそうです。(タヌポン未確認)

.お大平様の遺言

お大平様が亡くなられるとき「我死なば、我が身を立てたまま埋葬せよ。しからば、この村に今後我同様の大男を3人ずつ絶やさずに出現させ、外敵より守らせるであろう」と遺言されました。しかし、村人たちは相談の結果、大平様のような大男が3人も絶やさずに現れたのでは死後の埋葬の折はたいへんだ、として結局、横にして埋葬してしまったということです。

.大平権現のご神体

祀られている人は、守永親王ではないかと言われています。親王は常陸の小田城にいたが、北朝との戦いに敗れ下野の栃木まで逃れたが安住できず、小貝川を下ってこの地に逃げ、大平村を開いたといいます。

守永親王というのも興味深いですが、次の最後の話はタヌポンにとってさらに興味深く思われました。

.玄慧法師

大平様の一行に玄慧法師という名僧がおり、大平様を助けて村を開いたと言われています。また彼はここで太平記を書き上げたと伝えられています。大平様の死後に法師は亡くなりましたが大平様の死後も守っていただこうと大平様の眠る権現塚に埋葬したということです。

これは驚きですね。玄慧法師とは、『奥州後三年記』を著したといわれている人ですよね? また、『太平記』は小島法師著という説がありますが、なんと、『利根町史』には続いて注釈で、玄慧法師は小島法師とも言ったそうである、としています。『太平記』とお大平様、字が少しちがいますが、もしかして何か関係あるのかしらん? これはもっと調べてみる価値がありますね。五十嵐さんという方の家にはもっと貴重な文献など残されていないのでしょうか。なんてタヌポンが言っても、もう利根町の教育委員会では調べているのでしょうね。タヌポンはゆっくりいきます。守永親王というのも調べてみたいですね。いったい大平様とはだれなのでしょう。小島法師のことなどが真実なら、歴史上、かなり有名な人である可能性が高いのではないでしょうか。ちなみに大平様が祀られた権現塚というのは、もえぎ野台のどこかにあったようなのですが、工事で崩されてしまったのかいまは見当たらないようです。何かもったいない話です。

.大平神社 vs 神社[やぶちゃん注:「」の字は『』となっているのを、私が訂した。以下、同じ。]

以前の『広報とね』におもしろい記事が載っているのを発見しました。以下、転記します。

大平神社・・・お大平さまとも呼ばれた南朝方の皇族浄光院さまを祭っています。しかし、明治の神礼法で届け出をした時、浄光院さまの詳細が分からないため、祭神は大国主命として届け出てしまったと伝えています。もとは現在地より百メートルほど西の氏神という所に鎮座しておりました。もっとも、お大平さまより古い時代から神社はあったようです。昔、大平の人はこの神社を、相馬一ノ宮にしようと考えていました。折しも延喜式神名帳が編さんされることになって、代表が都へのぼりました。ところが、伊勢のあたりで、あとから出発した立木の代表たちに先をこされてしまいました。こうして蛟神社が相馬郡一座の式内社になったのでした。南北朝期になると、前述のとおり大平は南朝方。一方、立木は地内から出土した板碑に貞和五年(1349)という北朝の年号が刻まれていたように、北朝方でありました。こんなことも原因になったのでしょう、大平の人は蛟神社の崇拝には熱心ではないのだそうです。参考資料 五十嵐五郎著『大平村の歩み』草稿その他(『広報とね』第245号「利根町の歴史散歩11-大平神社周辺」より)

なるほど、延喜式神名帳が編さんされたとき[延長5年(927年)]、すでに大平神社は存在していた、ということですか。『大平村の歩み』は貴重な文献のようです。読んでみたいですね。

   《引用終了》

なお、ここに出る「守永親王」とは、後醍醐天皇の孫で、中務卿尊良親王の王子に当たるという守永親王のことであろう。さて、元の「タヌポンの利根ぽんぽ行 押付本田の水神宮」に戻ると、「水神像」の項で、以下のように述べておられる(同じく改行の一部を繋げた)。

   《引用開始》

この押付本田の水神宮については、赤松宗旦の『利根川図志』に、「水神とお大平様の話」が紹介されています。この中には右角を折られた牛の話が出てきますが、現在も右角のない河牛に乗った水神像が本殿に安置されているとか。本殿の水神像を見てみたいですが、さて、どうしたら見られるのでしょうか。なお、お大平様に角を引っ張られたのは「藤つる」なので、押付本田では、藤を植えないし、ふじという名前もつけないとか。水神とお大平様の話については、当サイト「大平神社1」の お大平様伝説 参照[やぶちゃん注:前に引用させて戴いた部分である。]。

『利根川図志』と水神社

利根川図志巻2 水神社

『利根川図志』全6巻では、利根町に関しては主に巻3に記されているのですが、押付本田の水神社については、巻2の最後にあります(左参照[やぶちゃん注:原典画像が原ページにある。])。以下、読み下し文。[やぶちゃん注:当該画像を元に、一部の表記を代えさせて戴いた。]

水神社 田井渡の東、押付村に在り【この村、桃園多し、春花甚だ美なり。】土人曰く、この村の一里許(ばかり)東に、大平(だいへい)村あり。そこに住みける人を尊びて御大平樣といふ。一日此の處に來りて魚を釣りけるを、水神、甚(はなはだ)怒り、濳牛(かはうし)に乘り來たりて、釣竿(つりざを)を奪(うば)はむとせしかば、甚(いたく)驚(おどろ)きて、側なる藤蔓(ふぢづる)を投げゝるに、牛の右角に係(かか)りたるを、互に牽合ひたるに、終に、角、折れて、別(わか)れたりとぞ。されば、こゝの神體は右角なき濳牛に乘りたる木像なり。別當德滿寺より出づる御影も同じ。今も村人、水神の嫌ひ給ふとて、藤を用いず、又、大平村の人を嫌ふといふ。その御大平樣は、今もその村にて祭りて大平(おほひら)權現といふ。

右角のない河牛に乗った水神像は、先日、資料館でその写真を拝見しました。[やぶちゃん注:以下略。]

   《引用終了》

因みに、文小学校の東、二キロ半の位置の、利根町立木に先の引用に出た、蛟(こうもう)神社(「門(かど)の宮」と「奥の宮」の二殿から成る)が現存し、ここは名前から判る通り、やはり水神を祀っており、水神を祀る神社では関東最古とされる。「利根町」公式サイト内のこちらの解説によれば、『「延喜式神名帳」』延長五(九二七)年『に「相馬郡一座蛟』『神社とその名が記されているように』、『由緒ある古い神社で』、『「蛟神社由来記」は孝霊天皇』三 (紀元前二八八)年『に水神を』、『文武天皇』二(六九八)年『に土神を祀ったのがはじまりと伝え』、『地元の人は「文間大明神」と呼んでい』『た。門の宮のあるところは、立木貝塚の名でよく知られてい』る。『なお、現在の門の宮本殿は元禄』一一(一六九八)年『に、奥の宮本殿は元禄』一六(一七〇三)年『に再建されたもの』とあり、「蛟神社」公式サイトのこちらによれば、『蛟神社の始まりは』約二千三百年前(紀元前二八八年)『に現在の門の宮(かどのみや)の場所に水の神様の罔象女大神を祀ったのが始まりといわれています』とし、上記の文武天皇二(六九八)年に『土の神様の埴山姫大神を合祀』『し、水害や民家が近いという理由で詳しい年代は分かっておりませんが』、『社殿を東の高台(現在の奥の宮)に神社を建てました。門の宮を取り壊すはずでしたが』、『氏子崇敬者の声が上がり、御祭神の御魂(みたま)を分祀し門の宮にお祀り致しました』。明治四二(一九〇九)年『に立木地区にあった「八坂神社』『」「天神社』『」「稲荷神社(』『」「八幡神社』『」を合祀して現在もなお一層の御神徳』『をもって下総國相馬の郷を見守っておられます』とし、以下、「社名について」には、『文間明神祇碑の上部に描かれた龍神 「みつち=こうもう」の名に由来は諸説ありますが、はるか昔この辺りが海であったころの大地の形が蛟(みつち=伝説上の龍)に似ていたためといわれております』(リンク先に拡大出来る画像有り)。この由緒ある水神社については、wata氏のサイト「茨木見聞録」の「関東最古の水神様を祀る蛟神社〜例大祭(利根町)」にも詳しい。tanupon氏のサイトからは多くを引用させて戴いた。最後に改めて御礼申し上げる。

「蠶養(こかひ)川」現行では「小貝川(こかいがわ)」と表記する。関東平野を北から南へと流れる一級河川で利根川水系利根川の支流。全百十八・八キロメートルで、利根川の支流中、第二位の長さである。現在、先の押付本田水神宮の直近で、北から利根川に合流している。

「勾漏縣と云ふ地方には大江の中に水牛のごとき獸、住し、水より出でて、よく鬪爭す。其の角は、陸に在りては、軟(やはらか)きこと、押付水神社の川牛のごとく、江水(かはみづ)に却(かへ)り入れば、角、堅くなりて復(ま)た出づ、とあり〔「酉陽雜爼續集」八〕」中唐の詩人段成式(八〇三年?~八六三年?)の膨大な随筆「酉陽雑俎(ゆうようざっそ)」(正篇二十巻・続集十巻。八六〇年頃の成立)の「続集」の「巻八 支動」の以下の一節。

   *

潛牛。勾漏縣大江中有潛牛、形似水牛。每上岸斗、角軟還入江水、角堅復出。

(潛牛。勾漏縣の大なる江(かは)の中に潛牛有り、形、水牛に似る。每(つね)に岸に上がり、斗(たたか)ひ、角、軟らかになれば、江の水に還へり入り、角、堅くならば、復た出づ。)

   *

「勾漏縣(こうろうけん)」苟屚(こうろう)県。漢代に置かれ、隋代に廃された。現在のベトナム社会主義共和国の首都ハノイの東北にあるバクニン省(Tỉnh Bắc Ninh)内にあったと思われる。ここなら、哺乳綱ウシ目ウシ亜目ウシ科ウシ亜科アジアスイギュウ属スイギュウ Bubalus arnee がいる。

「東京小石川の牛天神の牛石」東京都文京区春日にある北野神社の別称。公式サイトのこちらによれば、元暦元(一一八四)年に源頼朝により創建され、牛に乗った菅原道真の神託により、牛を守護神として讃え、牛天神社として八百三十二年もの間、この地を鎮護しているとし、『黒牛は道真公の守護神として多くの天神社に祀られてい』るとあり、境内案内のページの「ねがい牛」には、『道真公は、御生前大変牛を可愛がられた事でも知られております。牛天神境内にある、なで石(自然石)は、源頼朝公が奥州へ東征の途中、此の地に休まれたとき、夢の中に牛に乗られた菅原道真公が現れ、願いが叶うことを告げられました。その後、ここにあった牛に似た石を御神体とされ、大宰府天満宮より御魂を勧請されたと伝えられており、これが撫で岩の発祥で牛天神の始まりです。(牛天神社と呼ばれていました。)』。『撫でると』、『ねがいが叶うと言われており、今日まで多くの人々に信仰されております』とある。

「海中より出現せし天神の乘物の化石したるには非ざるか」この柳田國男の言い添えは何を根拠にしているものか、不明。

『同市向島の「牛御前(うしごぜん)」』現在の墨田区向島にある本所総鎮守である牛天神の通称で知られる北野神社。ここ(グーグル・マップ・データ)。しばしばお世話になる東京都・首都圏の寺社情報サイト「猫の足あと」の本寺の解説によれば、貞観年間(八五九年~八七九年)頃、『慈覚大師が建立したと伝えられ』、『かつては牛御前社と称しており、その由来については、慈覚大師が一草庵で須佐之男命の権現である老翁に会った際の託宣により建立したと』ある。そこに「新編武蔵風土記稿」の牛島神社の由緒が電子化されてあるので、恣意的に正字化して引かさせて戴く。

   *

牛御前社

本所及牛嶋の鎭守なり。北本所表町最勝寺持。祭神素盞嗚尊は束帶坐像の畫幅なり。王子權現を相殿とす。本地大日は慈覺大師の作緣起あり信しかたきこと多し。其略に、貞觀二年慈覺大師當國弘通の時行暮て傍の草庵に入しに、衣冠せし老翁あり云。國土惱亂あらはれ首に牛頭を戴き惡魔降伏の形相を現し國家を守護せんとす。故に我形を寫して汝に與へん我ために一宇を造立せよとて去れり。これ當社の神體にて老翁は神素盞嗚尊の權化なり。牛頭を戴て守護し賜はんとの誓にまかせて牛御前と號し、弟子良本を留めてこの像を守らしめ、本地大日の像を作り釋迦の石佛を彫刻してこれを留め、大師は登山せり。良本これより明王院と號し、牛御前を渴仰し、法華千部を讀誦して大師の殘せる石佛の釋迦を供養佛とす。其後人皇五十七代陽成院の御宇聖和天皇第七の皇子故有て當國に遷され、元慶元年九月十五日當所に於て斃せられしを、良本祟ひ社傍に葬し參らせ其靈を相殿に祀れり。今の王子權現是なり。治承四年源賴朝諸軍を引率し下總國に至る時に、隅田川洪水陸地に漲り渡るへき便なかりしに、千葉介常胤當社に祈誓し船筏を設け大軍恙なく渡りしかば、賴朝感して明る養和元年再ひ社領を寄附せしより、代々國主領主よりも神領を附せらる。天文七年六月廿八日後奈良院牛御前と勅號を賜ひ次第に氏子繁榮せり。北條家よりも神領免除の文書及神寶を寄す其目後に出す。又建長年中淺草川より牛鬼の如き異形のもの飛出し、嶼中を走せめくり當社に飛入忽然として行方を知らず。時に社壇に一つの玉を落せり。今社寶牛玉是なりと記したれど、舊きことなれば造ならさること多し。[やぶちゃん注:以下「神寶幷神領免狀古碑一基」があるが、略す。但しその二条目に『牛玉一顆由來は本社の條に見ゆ』とある。なお、最後の『造ならさる』は「慥(たしか)ならざる」の意であろう。]

   *

なお、同神社には狛犬ならぬ、おどおどろしい狛牛一対が参拝者を迎えるらしい(私は訪れたことがない)。

「牛の玉」ここでは公式サイトの言う自然石の「なで石」と一応とっておくが、しかし、古い記載の、社宝としているというそれは、どうも違う気がする。但し、「牛天神」公式サイトにはそうしたものが別に存在するといったことは記されてはいない。なお、実際の漢方等で言うところのそれ(ウシの体内の結石等)は、たまたま昨日電子化した、「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 牛黃(ごわう・うしのたま)(ウシの結石など)」やそのリンク先の私の注を参照されたい。

「牛鬼(うしおに)」「如キ物」と言っているので、略注にするが、「ぎうき(ぎゅうき)」とも読む妖怪。ウィキの「牛鬼」によれば、『西日本に伝わる妖怪』で、『主に海岸に現れ、浜辺を歩く人間を襲うとされている』。『非常に残忍・獰猛な性格で、毒を吐き、人を食い殺すことを好む』。『伝承では、頭が牛で首から下は鬼の胴体を持つ。または、その逆に頭が鬼で、胴体は牛の場合もある』。『また、山間部の寺院の門前に、牛の首に人の着物姿で頻繁に現れたり、牛の首、鬼の体に昆虫の羽を持ち、空から飛来したとの伝承もある』。『海岸の他、山間部、森や林の中、川、沼、湖にも現れるとされる。特に淵に現れることが多く、近畿地方や四国には』、『この伝承が伺える「牛鬼淵」・「牛鬼滝」という地名が多く残っている』。「百怪図巻」など、『江戸時代に描かれた妖怪絵巻では、牛の首』で『蜘蛛の胴体を持っている姿』として『描かれることが多い』。「百鬼夜行絵巻」では『同様の絵が「土蜘蛛」という名で記され』『牛鬼(鳥山石燕』「画図百鬼夜行」に『似たものが描かれている)と区別されている例もいくつか見られる』。以下、「各地の伝承」が載るが、愛媛県の知られたそれを除いて略す。『宇和島地方の牛鬼伝説は、牛鬼の伝承の中でも特に知られている。かつて牛鬼が人や家畜を襲っており、喜多郡河辺村(現・大洲市)の山伏が退治を依頼された。村で牛鬼と対決した山伏は、ホラガイを吹いて真言を唱えたところ、牛鬼がひるんだので、山伏が眉間を剣で貫き、体をバラバラに斬り裂いた。牛鬼の血は』七日七晩『流れ続け、淵となった。これは高知県土佐山、徳島県白木山、香川県根来寺にそれぞれ牛鬼淵の名で、後に伝えられている』。『別説では、愛媛県に出没した牛鬼は顔が龍で体が鯨だったという』。西日本の各地に伝承があるが、『同じ「牛鬼」の名』『でも地域によって著しく姿形が異なる』という特徴がある。なお、『牛鬼の正体は老いたツバキの根という説もある。日本ではツバキには神霊が宿るという伝承があることから、牛鬼を神の化身とみなす解釈もあり、悪霊をはらう者として敬う風習も存在する』。『またツバキは岬や海辺にたどり着いて聖域に生える特別な花として神聖視されていたことや、ツバキの花は境界に咲くことから、牛鬼出現の場所を表現するとの説もある。共に現れる濡女も牛鬼も渚を出現場所としており、他の場所から出てくることはない』。『民間伝承上の牛鬼は西日本に伝わっているが、古典においては東京の浅草周辺に牛鬼に類する妖怪が現れたという記述が多い』。『鎌倉時代の』「吾妻鏡」『などに、以下の伝説がある』。建長三(一二五一)年、『浅草寺に牛のような妖怪が現れ、食堂にいた僧侶たち』二十四『人が悪気を受けて病に侵され』、七『人が死亡したという』。「新編武蔵風土記稿」でも、この「吾妻鏡」を『引用し、隅田川から牛鬼のような妖怪が現れ、浅草の対岸にある牛島神社に飛び込み、「牛玉」という玉を残したと述べられている』。『この牛玉は神社の社宝となり、牛鬼は神として祀られ、同社では狛犬ならぬ狛牛一対が飾られている。また「撫で牛」の像があり、自身の悪い部位を撫でると病気が治るとされている』。『この牛鬼を、牛頭天王の異名と牛鬼のように荒々しい性格を持つスサノオの化身とする説もあり、妖怪研究家』『村上健司は、牛御前が寺を襲ったことには宗教的な対立が背景にあるとしている』。実は既に「枕草子」においても『「おそろしきもの」としてその名があげられており』、また、「太平記」に『おいては源頼光と対決した様子が描かれている』。江戸初期の古浄瑠璃「丑御前の御本地」では、『平安時代の豪族・源満仲の妻が北野天神が胎内に宿るという夢をみたのち、三年三月と』いう『長い妊娠期間を経て、丑の年丑の日丑の刻に男児を出生した。この男児は源頼光の弟(原文では「らいくわうの御しやてい」「ただの満中が次男」)にあたるが、牛の角と鬼の顔を持つために殺害されかける。しかし、殺害を命じられた女官が救い出して山中で密かに育て、成長して丑御前と呼ばれるようになる。満仲は妖怪退治の勇者である息子の源頼光に丑御前の始末を命じる。丑御前は関東に転戦し』て、徹底抗戦を挑み、遂には『隅田川に身を投げ体長約』十丈(約三十メートル)も『の牛に変身して大暴れしたと』脚色している。最後に。鎌倉史の電子化を手掛けている私としては、「吾妻鏡」の建長三(一二五一)年三月六日記載の事件だけは電子化しておきたい。

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六日丙寅。武藏國淺草寺如牛者忽然出現。奔走于寺。于時寺僧五十口計。食堂之間集會也。見件之恠異。廿四人立所受病痾。起居進退不成。居風云云。七人卽座死云云。

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六日丙寅(ひのえとら) 武藏國淺草寺(せんさうじ)に、牛のごとき者、忽然と出現し、寺に奔走す。時に寺僧、五十口(く)計り、食堂(じきだう)の間に集會(しゆゑ)するなり。件(くだん)の恠異(かいい)を見て、二十四人、立所(たちどころ)に病痾(びやうあ)を受け、起居進退(ききよしんたい)成らず。居風(きよふう)と云々。七人、卽座に死すと云々。

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「居風」は不詳。流行性感冒か? 急死者が複数出ているところをみると、インフルエンザのようなものかも知れない。しかし、以下に示す「十方庵遊歴雑記」のそれでは、疱瘡としている。但し、「疱瘡」の語は既に平安時代に見られ、「吾妻鏡」にもその語で載るから、それをわざわざこのような別語としてここで記すとも思われない。不審。

「牛頭天王(ごづてんわう)」本邦の神仏習合神の一つ。もと祇園精舎の守護神とされ、薬師如来や素戔嗚命の垂迹とされた。祇園天神とも呼び、特に疫病を鎮める強い力を持つとされる。

「牛頭(ごづ)天王の降魔の力に由りて、右牛鬼類似の物は此の社に飛び込み、一國、忽ちにして平穩に復すと云ふ〔「十方菴遊歷雜記第二編」中〕」以上は同書の「巻の中」の第「六拾貮」の「牛嶋村牛の御前の始元」のこちら(同項の開始は前画像のこちら)であるが、原典では流行した「疫病」は「疫病疱瘡」であり、また、「病災悉く平癒し」再び起こらずなったのは、「是、牛の御前」、「牛頭を戴きて守護せんとの」古えの伝承の「誓ひあれば也、その時出現したる降魔(ゴウマ)の異形の」姿「を模(ウツ)し留めて、今、疱瘡神と」崇め(但し、原典は「祟む」であるが)、それ「より小兒の疱瘡輕からんが爲、此社の牛の繪馬を借」り「て疱瘡の恙なき後、繪馬を神前に返納せり」とあるので、これは一種の御霊信仰の変形と読める。

「被征服者の名を以つて其の御社に名づくること、聊か解し難きに似たり」先の引用の村上健司氏の寺社の対立の象徴という解釈(牛頭天王は天神の一つであり、牛御前神社との親和性が認められ、そこに暗に、多数の疫病による死傷者が出たとする浅草寺と、その化け物が逃げ込んだとする牛御前社の抗争関係を仮定し得る点で)が腑に落ちるようにも見えなくはないが、前注の御霊説の方が、遙かに私には自然であり、必ずしも、柳田のようにイチャモンを必要としない。

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