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2019/02/16

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(21) 「川牛」(1)

 

《原文》

川牛   淵ハ兎ニ角ニ怖シキ處ナリ。アノ紺靑ノ水ノ底ニハ動物學ノ光モ未ダ透徹シ得ザルガ如ク、此外ニモ非常ナル物之ニ住ムト云ヘリ。【犀】例ヘバ信濃ノ犀川ニハ犀ト云フ獸住ム。東筑摩郡片丘村牛伏寺(ゴフクジ)ノ古傳ニハ、此邊古クハ水湛ヘテ大ナル湖ナリシニ、神人犀ニ乘リテ下降シ、巖石ヲ切開キテ今ノ流ト爲シタリト云ヒ〔日本宗教風俗志〕、【蹴裂】或ハ又泉小太郞犀ニ乘リテ三淸路(サンセイヂ)ノ岩ヲ突破リ、又水内橋(ミノチバシ)ノ下ノ岩ヲモ蹴破リテ水ヲ千曲川ニ落シテ平地ヲ造ル。其犀ヲバ犀口ト云フ處ニ祀ルトモ語リ傳ヘタリ〔信濃奇勝錄〕。近江ニテハ今ノ愛知郡葉枝見(ハエミ)村大字新海ノ川尻ニ、昔ハ深キ淵アリテ犀龍住メリ。弘安中黑井覺海ナル者此地ニ來リテ件ノ犀龍ヲ亡シ、淵ヲ埋メテ田地ト爲シ新開村ト號シ、己モ新開氏ヲ稱セリ。【道ノ神】同ジク東淺井郡虎姫(トラゴゼ)村大字大寺、正八幡ノ境内ニ昔ヨリ犀ケ窪ト云フ處アリ。今ハ田地ノ字トナル。曾テハ此地大ナル淵ニシテ老犀住ミテ往來ノ人ヲ惱マス。淺井備前守ノ家士ニ入海彦之庄司ト云フ者、彼ノ犀ヲ捕ヘテ既ニ之ヲ殺サントス。犀誓ヒテ此地ヲ去ルトアレバ、此亦謝罪ヲ以テ助命ヲ得タルナルべシ。彦根町長光寺裏ノ外濠ヲ犀ケ淵ト云フ。【盡キヌ泉】水湧キ出デ大旱ニモユルコトナシ。北靑柳村大字長曾根等ノ堰水ト爲ス〔以上淡海木間攫〕。遠江濱松ノ北方ニモ、犀ト云フ獸ノ出デタルニ困ツテ犀ケ崖ト呼ブ處アリ。三方原南端ノ壁ニシテ樹木ニ隱レテ下ヲ流ルヽ水アリ。元龜ノ有名ナル古戰場ナリ〔遠江風土記傳〕。東京ニテハ早稻田ノ西北ニ亦一箇ノ犀ケ淵アリテ、現ニ百年バカリ前マデ、時々「サイ」ノ出現セシコトアリ。高田ノ面影橋ノーツ上流ニシテ但馬橋ノ下ナリ〔十方菴遊歷雜記三編中〕。今ハ附近ニ下宿屋ナド出來タレド、ツイ先頃マデハ物凄キ魔所ナリキ。薄暮ニ水中ヨリ半身ヲ顯ハスヲ遠ク望ミ見タル者アリト稱シ、或ハ幅三間バカリノ小川ナレバ獸トシテハ調子ガ合ハヌヨリ、「サイ」ト稱スル惡魚ナドトモ記載シタル者アリ。日本ニハ犀ハ居ラヌ筈ナリ。【水牛】犀ハ山野ニ住ム獸ナレドモ、別ニ水犀ト稱シテ三本ノ角アル者ハ水牛ニ似タリト支那ノ書ニ見ユル由、朝鮮ニテハ犀ヲ誤ツテ水牛ノコトヽ解スル者アリト云ヘリ〔雅言覺非三〕。日本ニテモ或ハ亦此誤訓ヲ傳ヘタルモノカ。但シ臺灣ノ外ニハ今ハ犀ト誤ルべキ水牛モ存在セザレバヨホド不思議ナリ。【道祖土】蓋シ「サヘ」又ハ「サヘト」ハ、往古境ノ神ヲ祭リシ畏ロシキ場處ノコトナレバ、或ハ此ガ爲ニ「サイ」ト云フ怖ルべキ一物ヲ作リ出シ、之ヲ處々ノ碧潭ニ住マシムルニ至リシヤモ亦測ルべカラズ。

 

《訓読》

川牛(かはうし)   淵は兎に角に怖しき處なり。あの紺靑(こんじやう)の水の底には動物學の光も未だ透徹(とうてつ)し得ざるがごとく、此の外にも非常なる物、之(ここ)に住む、と云へり。【犀】例へば、信濃の犀川には「犀」と云ふ獸(けもの)、住む。東筑摩郡片丘村牛伏寺(ごふくじ)の古傳には、此の邊り、古くは水湛(たた)へて大なる湖なりしに、神人(しんじん)、犀に乘りて下降(げかう)し、巖石を切り開きて、今の流れと爲したりと云ひ〔「日本宗教風俗志」〕、【蹴裂】或いは又、泉小太郞、犀に乘りて三淸路(さんせいぢ)の岩を突き破り、又、水内橋(みのちばし)の下の岩をも蹴破りて、水を千曲川に落して、平地を造る。其の犀をば犀口と云ふ處に祀るとも語り傳へたり〔「信濃奇勝錄」〕。近江にては、今の愛知(えち)郡葉枝見(はえみ)村大字新海(しんがい)の川尻に、昔は深き淵ありて、「犀龍」、住めり。弘安中[やぶちゃん注:一二七八年~一二八七年。]、黑井覺海なる者、此の地に來りて件(くだん)の犀龍を亡ぼし、淵を埋(うづ)めて田地と爲し、新開村と號し、己(おのれ)も新開氏を稱せり。【道の神】同じく東淺井(ひがしあざい)郡虎姫(とらごぜ)村大字大寺、正八幡(しやうはちまん)の境内に昔より犀ケ窪(さいがくぼ)と云ふ處あり。今は田地の字(あざ)となる。曾つては此の地、大なる淵にして、「老犀」住みて、往來の人を惱ます。淺井(あざい)備前守の家士に入海彦之庄司と云ふ者、彼(か)の犀を捕へて、既に、之れを殺さんとす。犀、誓ひて、「此の地を去る」とあれば、此れ亦、謝罪を以つて助命を得たるなるべし。彦根町長光寺裏の外濠(そとぼり)を犀ケ淵(さいがふち)と云ふ。【盡きぬ泉】水、湧き出いで、大旱(おほひでり)にもゆることなし。北靑柳村大字長曾根等の堰水(せきみづ)[やぶちゃん注:人為的に水を堰き止めて灌漑用の水とすること。]と爲す〔以上、「淡海木間攫(あふみこまざらへ)」〕。遠江濱松の北方にも、「犀」と云ふ獸の出でたるに困つて犀ケ崖(さいががけ)と呼ぶ處あり。三方原(みかたはら)南端の壁にして樹木に隱れて下を流るゝ水あり。元龜[やぶちゃん注:一五七〇年~一五七三年。]の有名なる古戰場なり〔「遠江風土記傳」〕。東京にては、早稻田の西北に亦、一箇の犀ケ淵ありて、現に百年ばかり前まで、時々、「サイ」の出現せしことあり。高田の面影橋のーつ上流にして、但馬橋の下なり〔「十方菴遊歷雜記」三編中〕。今は附近に下宿屋など出來たれど、つい先頃までは、物凄き魔所なりき。薄暮に、水中より半身を顯はすを、遠く望み見たる者ありと稱し、或いは、幅三間[やぶちゃん注:約五メートル四十五センチメートル。]ばかりの小川なれば、獸としては調子が合はぬより、「サイ」と稱する惡魚などとも記載したる者あり。日本には犀は居らぬ筈なり。【水牛】犀は山野に住む獸なれども、別に「水犀(すいさい)」と稱して、三本の角ある者は水牛に似たりと、支那の書に見ゆる由、朝鮮にては犀を誤つて水牛のことゝ解する者ありと云へり〔「雅言覺非」三〕。日本にても、或いは亦、此の誤訓を傳へたるものか。但し、臺灣の外には、今は犀と誤るべき水牛も存在せざれば、よほど不思議なり。【道祖土(だうそど)】蓋し、「さへ」又は「さへと」は、往古、境(さかひ)の神を祭りし畏ろしき場處のことなれば、或いは此れが爲に「サイ」と云ふ怖るべき一物(いちもつ)を作り出し、之れを處々の碧潭(へきたん)に住ましむるに至りしやも、亦、測るべからず。

[やぶちゃん注:「信濃の犀川」長野県内を流れる信濃川水系の一級河川。これ(グーグル・マップ・データ)。一般に、松本市島内で奈良井川と合流して以降の、下流部から長野市での千曲川との合流部までを指し、上流部(上高地に至る)は「梓川(あずさがわ)」と呼ばれる。

『「犀」と云ふ獸(けもの)』残念ながら、具体的な形状を記したものが殆んど見当たらない。引用元の「日本宗教風俗志」(加藤咄堂(とつどう 明治三(一八七〇)年~昭和二四(一九四九)年:仏教学者で作家)著で明三五(一九〇二)年森江書店刊)の当該部は(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)。ここの関連叙述や寺の由来(次注参照)からは牛に似ている妖獣という感じは臭ってはくるが、以下の説話では、俄然、龍である

「東筑摩郡片丘村牛伏寺(ごふくじ)」現在の松本市大字内田のに現存(グーグル・マップ・データ)する。真言宗の古刹で、金峯山(きんぽうさん)牛伏寺(ごふくじ:「うしぶせ寺」とも呼ぶ)。同寺公式サイトのこちらによれば、『信州松本の南東、鉢伏山の中腹、海抜千メートルの幽谷の地に位置し』、『寺号は、その昔、本尊十一面観世音菩薩の霊力により経典を積んだ二頭の牛が、この地で同時に倒れたことに由来』するとある。以下、「牛伏寺縁起物語」より引く。『寺伝によると、天平勝宝七』(七五六)年、『唐の玄宗皇帝が善光寺へ大般若経六百巻を納経の途中、経巻を積んだ赤・黒二頭の牛が、この地で同時に斃れ、その使者たちが本尊十一面観世音菩薩の霊力を知り、その経巻を当山に納め、二頭の霊を祀って帰京し』たと伝え、『この不思議な因縁により』、『寺号を牛伏寺と改め、参道途中の牛堂に阿弥陀仏を中心に、赤黒二頭の牛像を』祀るとする。『古来より』、『牛伏厄除観音と称し、厄除霊場として県内外に知られ、また、信濃三十三番中第二十七番札所となっており、法燈壱千三百年を今日に継承』しているとある。一方、ウィキの「牛伏寺には別に、『寺伝では聖徳太子が』四十二『歳の時』、『自ら刻んだ観音像を本尊として鉢伏山に安置したのが始まりという』とあり、また、『以上はあくまでも伝承であって、牛伏寺創建の時期や事情については確たる史料がなく、鎌倉時代以前の沿革は定かでない。牛伏寺が位置する鉢伏山の山頂には』、『牛伏権現と称して蔵王権現を祀っており、元来、山岳修行、修験道の山だったと思われる。寺はもとは裏山に位置し、現在地に移ったのは』天文三(一五三四)年のことと記す。公式サイトがそれや、以下の「此の邊り、古くは水湛(たた)へて大なる湖なりしに、神人(しんじん)』(不詳。但し、次注に引用する童話との親和性が強い)、『犀に乘りて下降(げかう)し、巖石を切り開きて、今の流れと爲したり」という伝承を記さないのは、やや不審ではある。現在の犀川からは南東に十二キロメートル近く離れているが、その伝承に拠るなら、その間に大きな湖(次注の童話引用も参照のこと)があったとなら、頷けることは頷ける。しかし、加藤咄堂の叙述には誤魔化があり、ここは犀川(その上流の梓川)から東へ分岐した奈良井川及び田川の上流から東へずれた位置で、彼の犀川の上流にこの牛伏寺があるというのは、地理的に正しくない。

「泉小太郞、犀に乘りて三淸路(さんせいぢ)の岩を突き破り、又、水内橋(みのちばし)の下の岩をも蹴破りて、水を千曲川に落して、平地を造る。其の犀をば犀口と云ふ處に祀る」こちらの『伝説「犀龍と泉小太郎」のあらすじ』によれば、『昔、安曇野から松本平にかけては、まんまんと水をたたえた湖であった。そこの主の犀龍と山向こうの池の白龍王との間に生まれた日光泉小太郎は、湖のほとりに住む老夫婦に人間の子として育てられた。小太郎は、湖の水をなくして豊かな郷土をつくりたいと願っていた。その後、ここ、ダムの地尾入沢で再び逢った親子は心が通じ合い、犀龍は背中に小太郎を乗せ、山清路の岩盤を打ち破って湖の水を日本海へ落とし、この地を豊かな平野にした。小太郎は年老いてこの平が一望できる仏崎の洞穴へかくれ、今も里人をあたたかく見守っているということです』とある。同リンク先には詳しい童話がこちらから四回に渡って記されてあるので読まれたいが、そこには、大きな湖について、『安曇平(あずみだいら)は、高い山から落ちる水がたくさん集まって、まるで海のような、大きな大きな湖で』、『北は佐野坂(さのさか)から、南は塩尻(しおじり)まで、十何里』もある巨大なものであったとあり、そこに『犀竜(さいりゅう)という主の女神様が、水の底深くに住んでいました』とし、『また、はるか高井(たかい)のむこうの高梨(たかなし)の池には、白竜王(はくりゅうおう)という、同じように竜の姿をして、口に立派なひげをはやした神様が住んでいました』。『この二人の神様が雲を呼んで行ったり来たりしているうちに、いつしか一人の男の子をもうけました』。『男の子は、きれいな泉のほとりで生まれたので、泉の小太郎(こたろう)と名付けられ、ぜひ人間の子として育てたいという白竜王の願いで、放光寺山(ほうこうじさん)に住む正直者のおじいさんとおばあさんにあずけられました』とあって、犀龍とは龍の姿をした女神であるとする。そのコーダ部分では、『自分を育ててくれた大切なおじいさんとおばあさんをなくしてしまった小太郎』『の悲しみを知った犀竜』『は、自分勝手な考えで、ひどいことをしてしまった』(彼らの糧であった魚を獲れなくしてしまったことが前に記される)『私をゆるしておくれとわびると、「お前はやっぱり人間の子。おじいさんの言いつけどおり世のため、人のために生きておくれ。わたしも力になります」と、小太郎を自分の背に乗せて、天高く舞い上がりました』。『そして、湖をつっきり、屏風のような山清路(さんせいじ)』(本文と表記違い)『の巨岩をぶちやぶり、白竜王(はくりゅうおう)と一緒に次々と山をくずし、越後(えちご)のむこうまで川道を作りました。湖の水は、海にむかってながれこみ、ついに底があらわれ、ここに広い安曇平(あずみだいら)が生まれました』。『湖がなくなり、すむ場所がなくなった犀竜(さいりゅう)と白竜(はくりゅう)は、残った力をみんな小太郎(こたろう)にさずけ、「わたしたちはいつまでもお前とこの土地の人々を守っていますよ」と言い残し、松本平(まつもとだいら)をひとめで見わたせる仏崎(ほとけざき)の岩穴に姿を消してしまいました』。『山をもくずす力をもらった小太郎(こたろう)は、有明山(ありあけやま)のふもとに家をつくり、湖の底を平らにならして、田んぼをつくりました。それ以来、安曇野(あずみの)の里ではたくさんのお米がとれるようになり、村人は犀竜と小太郎(こたろう)のおかげで豊かな土地になったことを喜び、小太郎(こたろう)もいつまでも幸せにくらしました』という豊饒起源説話となっている優れた伝承である。是非、全篇を読まれたい。因みに、もうお分かりであろうが、松谷みよ子の昭和三五(一九六〇)年作の「龍の子太郎(たつのこたろう)」は、この信州・上田に伝わる民話「小泉小太郎」と安曇野に伝わる民話「泉小太郎」を中心に、秋田の民話など日本各地に伝わる民話を組み合わせて再話したものである(ウィキの「龍の子太郎」を参照されたい)。

「信濃奇勝錄」(井出道貞・井出通(とおる)著。明二〇(一八八七)年刊)の当該箇所はここ(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)。

「愛知(えち)郡葉枝見(はえみ)村大字新海(しんがい)」現在の滋賀県彦根市新海浜(しんがいはま)(グーグル・マップ・データ)。「新海浜自治会」公式サイト内のこちらの「新海<しんがい>の名前の由来」によれば、『愛知川(えちがわ)の川口右岸にあり、西は琵琶湖に面した平たんな地。集落は浜堤上にある。新開村とも書く。村名は、新たに開いた村という意味。愛知川の河尻に深淵があって竜が住んでいた。弘安年中、黒井氏覚懐』(本文と表記違い)『という人物がこの竜を滅ぼし淵を埋めて田地を開き、新開村と名付け、また自らも新開氏と称したという地名伝説があ』るとある。

「新開氏を稱せり」但し、サイト「戦国大名探究」の「新開氏」によれば、『新開氏の祖先は、天武・持統朝以後、辺地の開発のために移住させられた新羅系渡来氏族の秦氏だという。秦氏は農・工技術集団として信濃に入り、佐久・更級・東筑摩地方に広がり、地方豪族として成長したものと考えられている。そして、その一派が武蔵国の新戒(榛沢郷大寄郷)に移住し』、『開発領主になったのは、平安末期のころと思われる』とある。

「東淺井(ひがしあざい)郡虎姫(とらごぜ)村大字大寺、正八幡」現在の滋賀県長浜市五村(ごそん)附近がこの地名に当たる(グーグル・マップ・データ。以下、同じ。「虎姫」はJR西日本北陸本線の駅「虎姫駅(とらひめえき)」として滋賀県長浜市大寺町細田に残る)が、この周辺には「八幡神社」を呼称する現存神社が多数あり、限定比定は難しい。「境内に昔より犀ケ窪と云ふ處あり。今は田地の字(あざ)となる」というのがヒントであるが、ネットでは網に掛かってこない。現地の郷土史研究家の御教授を切に乞うものである。

「淺井(あざい)備前守」かの北近江の戦国武将浅井長政(天文一四(一五四五)年~天正元(一五七三)年)。

「入海彦之庄司」読みさえも不詳。ネット検索にも掛からないのでお手上げ。「入海」姓は「いるみ」・「にゅうかい」・「いりうみ」等の読み方がある。柳田はルビを振っていないし、「ちくま文庫」版全集も振らないから、取り敢えず、「いりうみのひこのしょうじ」(現代仮名遣)と読んでおく。

「彦根町長光寺裏」現在の滋賀県彦根市錦町にある真言宗薬王山長光寺。伊賀忍者所縁の寺で、開山は能賢。井伊家老臣で駿河武士の名門の出であった三浦與右衛門元貞の勧めにより、元和二(一六一六)年十月に薬師如来を奉じて、二間口七間の薬師堂を建立したのを創建とする。フェイスブックの「薬王山長光寺」の公式ページによれば(当然ながら、リンク先は Facebook に入っていないと見られない)、『二世玄英の時、薬師堂が善利川の洪水で大破したため、寛永三年に二代城主井伊直孝の命により、元彦根山上の觀音堂を移し、薬師堂を改築、四世玄雄の時、寺を医王寺と改め、六世玄廣に至り、長光寺と改稱し』たとある。『三浦與右衛門元貞(彦根藩老臣三浦内膳家先祖)は、徳川家康の戦忍びとして、伊賀組(伊賀十人組、伊賀忍者隊)の元締めとなり』、『戦場を駆け抜けた忍術上手として知られており、最後は井伊家で』三千五百『石の知行を得て』おり、『元貞は、井伊家の初代直政がたいへん可愛がった重臣で』、もとは『与三郎元貞と』称して、『今川義元に仕えてい』た『が、義元が桶狭間の一戦で織田信長に敗れてのち、徳川家康に召し抱えられ』たとある。天正一〇(一五八二)年、『家康は、配下に掌握した伊賀衆の内、井伊直政付属分と足軽』二十『人組の支配を元貞に命じ』、翌天正十一年十一月には、『甲州若子原の戦功が認められ、家康は元貞を井伊直政に与え』『た。以降、元貞は身命を惜しまずに直政に忠勤を励み、長久手、小田原、九戸、関ケ原、大阪夏の陣に参戦して活躍し』たとある。忍者所縁の寺なればこそ、「外濠(そとぼり)」があるのが腑に落ちたと思ったら、地図を拡大して見ると、境内の西北と東北部分に水路が現存することが判り、更に、境内の南西の外の直近に彦根城土塁跡なるものがあるので、これは彦根城自体の外堀であったのであろう

「北靑柳村大字長曾根等」現在の琵琶湖東岸にある滋賀県彦根市長曽根町。長光寺の南西一キロメートル強の位置にある。

『遠江濱松の北方にも、「犀」と云ふ獸の出でたるに困つて犀ケ崖と呼ぶ處あり。三方原(みかたはら)南端の壁にして樹木に隱れて下を流るゝ水あり。元龜の有名なる古戰場なり』最後の部分は「三方ヶ原の戦い」を指す。「浜松市」公式サイト内のこちらに、『犀ヶ崖は浜松城の北側およそ』一キロメートルの位置『にある断崖。三方ヶ原古戦場として』昭和一四(一九三九)年『に、静岡県の史跡に指定されて』おり、『現在は長さおよそ』百十六メートル、『幅およそ』二十九〜三十四メートル、『深さおよそ』十三メートルとある。但し、「三方ヶ原の戦い」当時のスケールは、『はっきり』とは『分か』らないとする。元亀三年十二月二十二日(一五七三年二月四日)の「三方ヶ原の戦い」で『武田信玄に大敗した徳川家康は命からがら浜松城に逃げ込』んだが、『家康は、攻め返すように見せかけて、なんとか武田軍の城攻めを免れ』た。『その夜、家康はどうにか一矢を報いようと犀ヶ崖近くで野営する武田軍を急襲』、『地理に詳しくない武田軍は混乱し、崖に転落して多くの死者を出したという物語として知られてい』るという。また、『遠州大念仏はこの戦没者の供養のためとされてい』るともある。

『東京にては、早稻田の西北に亦、一箇の犀ケ淵ありて、現に百年ばかり前まで、時々、「サイ」の出現せしことあり。高田の面影橋のーつ上流にして、但馬橋の下なり〔「十方菴遊歷雜記」三編中〕』国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで発見した。「十方庵遊歴雑記三編」(十方庵敬順(じっぽうあんけいじゅん 宝暦一二(一七六二)年~天保三(一八三二)年:小日向水道端(現在の文京区小日向一丁目)のる浄土真宗本法寺の地中にある廓然寺の四代目住職。本書は隠居後の約十八年間を費やして廻った江戸市中や東海方面の紀行文。全五編)の卷の中」の第「六拾四」の「拾遺高田の十景」の三条目で、なかなか興味深い。何故なら、ここではその『もの凄』き『惡魚』の様態がつぶさに語られているからである。目撃したのは神田川のこの橋附近に釣に来た楽山翁なる人物とその家族で、日時は文化一一(一八一四)年の夏であった(読点・記号を追加し、読みは私が勝手に振った(カタカナのそれは原本のルビ)。踊り字「〲」は「々」に代えた。必ず、原本を確認されたい)。

   *

一、 「犀が淵の月光」といふは、田島橋の下にして、此淵に惡魚住(すみ)て、今も猶(なほ)もの凄し、左(さ)はいへ、逆流(ぎやくりふ)[やぶちゃん注:「げきりふ」と読んで「激流」の意ではあるまいかと疑ったが、或いは、蛇行する川を「逆流」ととったものかも知れぬ。当時の神田川がこの辺りで蛇行していたことは後の注と引用を参照されたい。]に目明(めあきらか)の胗朧[やぶちゃん注:これは恐らく「朎朧(れいろう)」の誤りであろう。月の光で明るく照らされること。]たる風色、又、一品たり、去(いに)し文化十一年甲戌(きのえいぬ)の夏、楽山翁は、家族六、七輩を同道し、此(この)川筋に釣せんとして不圖(ふと)爰(ここ)に來(きた)り、川端に彳(たたずみ)して逆流の一際(ひときは)すさまじく渦(うづ)まくよ、と見えしが、忽然として、水中より、怪獸、あらはれたり、その容體、年經し古猫(ふるねこ)に似て、大(おほき)さ、犬に等しく、惣身(そうみ)白毛(しろげ)の中に赤き處ありて、班に[やぶちゃん注:「斑(はだら)に」(まだらに)の誤記か?]、兩眼、大きく、尤(もつとも)丸(まる)し、口、大きなる事、耳と思ふあたりまで裂(さけ)、口をひらき、紅(うれなゐ)の舌を出(いだ)し、兩手を頭上へかざし、怒氣、顏面にあらはれ、人々に向ひて白眼(ニラミ)し樣なり。水中と間と、隔(へだつ)といへども、その間、纔(わづか)、三間[やぶちゃん注:約五メートル四十五センチメートル。]餘(あまり)、頭上、毛髮永く[やぶちゃん注:ママ。]垂下(たれさが)りて目を蔽ひ、腹と覺しきあたり迄、半身w水上へ出(いだ)し、しばらく、彼(かの)人々を見詰(みつめ)、にらみしかば、思ひもふけず[やぶちゃん注:「意想外に」の意でとっておく。]、恐怖せし事、いふべからず。耳はありや、なしや、毛髮、垂覆(たれおほ)ひし故、見へ[やぶちゃん注:ママ。]ざりしが、頓(やが)て、水中へ身を隱し失せたりしと、若(もし)此時、樂山翁のみならば、件(くだん)の妖怪、飛(とび)かゝりやせんと彌(いよいよ)恐怖し、宿所へ歸りて、件の怪物を見しまゝ𤲿(ゑが)きとゞめ、文をも作り、詩を賦して、筥(はこ)に收めたり、蓋(けだし)、彼(かの)怪獸の容體を𤲿きし樣は、獺(カワウソ)の功(カウ)[やぶちゃん注:漢字はママ。「劫」が正しく、歴史的仮名遣は「コウ」である。]を經しものか、又、世に傳ふ川童(カツパ)などといふものにや、𤲿(ゑ)にて見るさへ、身の毛彌(いよいよ)立(たつ)ばかりぞかし、况や、思はず眞(まこと)怪物にあひたる人をや、珍といふべし、然るに、岡田多膳老人は如是(によぜ)と稱して佛學を好めり、性(しやう)として、斯(かか)る怪談を好(このめ)るが、物好(ものずき)にも、心づよく、彼(かの)怪獸を見屆(みとどけ)んと兩度まで獨行(どくかう)し、彼處(かしこ)の川端に躊躇(ちうちよ)せしかど[やぶちゃん注:この場合は「待機していたけれども」の意。]、出遇(であは)ざりしと咄(はな)されき、是(これ)によつて、土人、惡魚栖(すめ)りと巷談(かうだん)す[やぶちゃん注:噂話をするようになってしまった。]、しかれども、月光の晴明(せいめい)にして雅景なるは一品なるものおや[やぶちゃん注:ママ。]、

   *

この「但馬橋」は現在の高田馬場駅の南西直近の神田川に架かる田島橋の前身。ChinchikoPapa氏のブログ「落合道人 Ochiai-Dojin」の「落合の歴史を見つめる田島橋」に当時のこの橋の附近の様子が細かに語られてあるので、必見。それによれば、『田島橋から上流の落合土橋にかけては、江戸時代に「落合蛍」の名所として有名だった』とあり、『いまからは想像もつかない、清冽な上水(水道水)が開渠のまま流れる田島橋界隈は、そこかしこで蛍川が観られたのだろう。雑司ヶ谷の金子直德が編集した』、「富士見茶屋抄」『という句集が残って』おり、『その中に、田島橋はこう詠まれている』として、

     田島橋の鶴

  田鶴(たづ)啼(なく)や尾花にわたる浪の色

  かげろうにねぶりこけるな橋の田鶴

が掲げられている。則ち、ツルがやってきてもいたのである! 以下、『神田上水の両岸に拡がる一面の田圃で、鶴が舞っていた田島橋は』、今はアブラコウモリ(脊索動物門脊椎動物亜門哺乳綱獣亜綱真獣下綱ローラシア獣上目 Laurasiatheria 翼手(コウモリ)目小翼手(コウモリ)亜目ヒナコウモリ上科ヒナコウモリ科 Vespertilioninae 亜科 Pipistrellini 族アブラコウモリ属アブラコウモリ亜属アブラコウモリ Pipistrellus abramus:日本に棲息する中で唯一の住家性コウモリで、最も身近なコウモリである)『の格好の営巣地となっている』とある。因みに、先の注を終わった直後に発見したのだが(残念! 視認電子化が大幅に短縮出来たのに)、ChinchikoPapa 氏は同ブログの「下落合の犀ヶ淵にひそむUMAの謎」で「十方庵遊歴雑記」のそれを引用(但し、一部、判読を誤っておられるようだ)され、詳細な検証を行っておられた。江戸時代の地図も示されて、淵の位置をさえ、ある程度、限定されておられ、』『少なくとも』、『犀ヶ淵は田島橋の下流域に存在したことになる。位置的には、田島橋から下流へ神田上水が大きく北へとカーブを描く、どこかの』「淵」『ということになるのだろう』。『川の流れが急激なカーブを描くと、水流が岸辺に突き当たって乱れ、場所によっては渦を巻く危険な流れができることは知られている。江戸期の田島橋の位置をみると、まるでバイオリズムの波形のように湾曲を繰り返す神田上水(旧・平川』:『ピラ川=崖川)の、ちょうど波底のような位置にあった。現在の田島橋は、昭和初期にスタートした旧・神田上水の整流化工事により、上流・下流ともに直線状になっているが、江戸期には大きく蛇行を繰り返す上水道専用の河川だった』。『田島橋の少し上流には』、『水車小屋があり、この水車は昭和初期まで製粉工場として機能していた。この水車をすぎるあたりから、神田上水は大きく南へと湾曲し、田島橋のある波形の』「波底」『へと激突する。そして、今度は北へと急激に蛇行し、旧・高田馬場仮駅』『のあった西側あたりで再びカーブを描いて、清水川方面へと南下している。つまり、田島橋は蛇行する神田川の大きなふたつの波形の』「波底」『に位置していることになる。そう考えると、流れに危険な渦巻きができるのは、田島橋をすぎて次のカーブへとさしかかるあたり、昔の地番でいえば』、『田島橋のすぐ下流の下落合』六十七『番地、あるいは下落合』三十六『番地あたりの流域ということになるだろうか』。――『犀ヶ淵は、「サイ」という怪獣が住むから怖いところだ』――『という伝承は』――『この流域は流れが複雑で危険な場所だから近寄るな』――『という、江戸期以前からの教訓から生まれたフォークロアであり、代々の地名ではなかったか。「サイ」(サイェ:saye)は、原日本語(アイヌ語に継承)で「巻・渦」の意味そのものだ。つまり、流れが渦巻く「サイ」の場所だから気をつけろという教訓が、後世に伝説の霊獣「犀」と結びついて付会伝説が生まれた』――『そんな気が強くするのだ』。『しかし、それではバンザイする化けネコ』『のような生物は、はたしてなんだったのだろう? 枝つきの腐った流木が、渦に巻きこまれて直立し』、『怪獣サイに見えたのだろうか。それとも、田島橋から誤って落ちた大きな白ネコが身体を岩にぶつけて出血し、それが「助けてニャ!」と前脚をあげて水中でもがいていた』……『とでもいうのだろうか? それにしては、耳が見えずに長髪だったのが解せないのだが』……。『楽山翁が描いたという怪獣サイの絵は、いまどこにあるのだろう』と記しておられる。アイヌ語にまで及ぶ智のドライヴが素晴らしい。ただ、ここらで言っておきたいのだが、柳田國男の言い方は、この但馬橋の近くの「犀ケ淵」に出現したものが「サイ」「犀」と呼ばれた、と断言しているのであるが、少なくとも、十方庵敬順は、それを「犀」・「サイ」という化け物だ、とは実は一言も言っていないのである。確かに、「十方庵遊歴雑記」のエンディング部分は流言飛語となって、淵の名をとってそう呼ばれていたかも知れぬが、しかし正確さこそは考証の一大事だ。柳田に騙されてはいけない。そもそもが、ここで十方庵敬順は「河童」の名さえ出しているのである。何故、柳田はここでこの貴重な怪物の容姿描写を含め、こんなにオイシイ話の引用を異様なまでに端折ってしまったのか? 柳田は或いは、十方庵の考証に嫉妬したのではなかろうか? とさえ思えてくるのである。閑話休題。ここに出現した怪物の正体は何か? 私は、

哺乳綱食肉(ネコ)目イヌ亜目鰭脚下目アシカ科アシカ亜科アシカ属ニホンアシカ Zalophus japonicus

ではないかと認識している。因みに、同種はごく最近に絶滅したとされる。他に、

鰭脚下目アザラシ科 Phocidae のアザラシ類

や、

鰭脚下目アシカ科オットセイ亜科 Arctocephalinae のオットセイ類

であってもよい。

「小川」先の引用から、柳田國男のこの茶化した言い方は全く見当外れであることが判明してしまう。柳田らしからぬ、読者へのリップ・サーヴィスなんぞするから、こんな墓穴を掘るのだ。

「日本には犀は居らぬ筈なり」脊椎動物亜門哺乳綱奇蹄目有角亜目 Rhinocerotoidea 上科サイ科 Rhinocerotidae のサイ類。現生種は五種で、アフリカ大陸の東部と南部(シロサイ属シロサイ Ceratotherium simum・クロサイ属クロサイ Diceros bicornis)、インド北部からネパール南部(インドサイ属インドサイ Rhinoceros unicornis)、マレーシアとインドネシアの限られた地域(インドサイ属ジャワサイ Rhinoceros sondaicus・スマトラサイ属スマトラサイ Dicerorhinus sumatrensis)に分布している。

『「水犀(すいさい)」と稱して、三本の角ある者は水牛に似たりと、支那の書に見ゆる由、朝鮮にては犀を誤つて水牛のことゝ解する者ありと云へり』ウィキの「サイ」の「文化への影響によれば、「國語」の「越語 上」に、『今、夫差、衣水犀之甲者億有三千』とあるのに対して韋昭が附した注に、『犀形似豕而大。今徼外所送』、『有山犀、水犀』とあるとする(注部分から引用)。本文では、『日本や中国』『では、水犀(みずさい)と呼ばれる動物が絵画などに見られる。頭には角、背中に甲羅、足には蹄を持つとされる』(但し、ここには要出典要請がかけられている)。『平安末期の国宝』「鳥獣人物戯画」の『乙巻には、虎・象・獅子・麒麟・竜といった海外の動物や架空の動物とともに』、『水犀が描かれている。江戸末期の北斎漫画にも』、『水犀が描かれている。世界遺産』『日光東照宮の拝殿東面、妻虹梁下にも水犀(通天犀とも)が彫刻されている』とある。明の李時珍の偉大な本草書「本草綱目」の「獸之二」「犀」の「集解」には、

   *

時珍曰、犀出西番・南番・滇南・交州諸處。有山犀・水犀・兕犀三種、又有毛犀似之。山犀居山林、人多得之。水犀出入水中、最爲難得。並有二角、鼻角長而額角短。水犀皮有珠甲、而山犀無之。

   *

と出る。

「臺灣の外には」本書が刊行された大正三(一九一四)年時点では、台湾は日本領であった。一八九五年(明治二十八年)に日清戦争の結果として下関条約が締結されると、台湾島・澎湖諸島は清から日本に割譲されて台湾総督府が統治する日本領台湾となっていた。太平洋戦争で敗北した日本が「サンフランシスコ講和条約」及び「日華平和条約」締結によって、台湾の権利・権限・請求権を正式に放棄するまでそれは続いたのである。

「犀と誤るべき水牛」ウシ目ウシ亜目ウシ科ウシ亜科アジアスイギュウ属スイギュウ Bubalus arneeウィキの「スイギュウによれば、インド・タイ・ネパール・バングラデシュ・ミャンマーに自然分布』し、『家畜と交雑したと考えられている個体群がインド』・インドネシア・カンボジア・スリランカ・タイ・バングラデシュ・ベトナム・マレーシア・ミャンマー・『ラオスに分布』する。また、『家畜が野生化した個体群がアルゼンチン』・オーストラリア(ノーザンテリトリー)・チュニジア・『ヨーロッパなどに分布』するとし、但し、『有史以前はアフリカ大陸北部から黄河周辺にかけて分布していたと考えられている』とある。いずれにしても、言わずもがな、本邦には分布しない。

「道祖土(だうそど)」道祖神を祀る場所の意であろう。

『蓋し、「さへ」又は「さへと」は、往古、境(さかひ)の神を祭りし畏ろしき場處のことなれば、或いは此れが爲に「サイ」と云ふ怖るべき一物(いちもつ)を作り出し、之れを處々の碧潭(へきたん)に住ましむるに至りしやも、亦、測るべからず』この見解は非常に興味深い。先のChinchikoPapa氏が、アイヌ語に継承された原日本語とする「サイ」(サイェ)が「巻・渦」の意とするのとも驚くほどよく一致するからである。塞の神や道祖神は村の辺縁部の辻に置かれる場合が多い。これはつまり、運命共同体である村と、別な世界(他村・異国・外国・幽明界)との通路が複数ある場所であり、そこはそうした異界から漂ってきた、いろいろな妖気・邪気が渦を巻くところでもあるからである(それを逆手に利用したものが本来の辻占なのである)。

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