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2019/02/12

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(19) 「河童ト猿ト」(2)

 

《原文》

 猿ガ河童ニ勝ツト云フコトハ今ハアマリ聞カヌ話ナレド、其由來ハ中々複雜ナルモノアルニ似タリ。此事ハ獨リ西國地方ノ俗信ナリシノミニアラズ、江ニテモ河童ノ災ヲ避クル爲ニハ猿ヲ飼ヒ置クヲ可トスルノ説アリキ〔竹抓子四〕。【厩ノ猿】自分ノ推測ニ依レバ、是レ厩ニ猿ヲ飼ヒテ牛馬ノ災ヲ拂フ古來ノ慣習ト因緣アルモノヽ如シ。仍テ今少シク其問題ヲ講究セント欲ス。【河猿】蓋シ近代ノ河童ニモ頗ル猿ニ似タル特徵ハアリシナレド、中古ハ猶一段此二ツノ物ガ接近シ居タリト覺シク、或ハ今ナラバ直ニ河童ト呼ブべキ水底ノ怪物ヲ、河猿又ハ淵猿ト名ヅケタリシ例アリ。例ヘバ遠江榛原郡ニハ河猿ト云フ怪獸住ス。水ノ岸ニ現レ出ル物ニテ、馬之ニ遭ヘバ忽チ斃レ死ス。何レノ川筋ニテモ河猿出レバ馬ノ種ハ絶ユ。恐ラクハ馬ノ疫病神ナランカト云ヘリ〔三河雀〕。【釜淵】【釜猿】毛利公爵ノ祖先ガマダ藝州ノ吉田ニ在リシ頃、其臣下ニ井上元重通稱ヲ荒(アラ)源三郞ト云フ武士アリ。時ハ天文三年ノ八月、吉田川ノ釜淵ノ水底ニ入ツテ、人畜ヲ害スル淵猿ト云フ怪物ヲ退治シ、武勇ノ名ヲ天下ニ施セリ。源三郞七十人力アリシモ淵猿ニハ百人力アリ。【頭ノ皿】唯幸ニシテ怪物ノキハ全ク頭ノ中央ノ窪ミニ水ノアル爲ナルコトヲ前以テ知リシガ故ニ、取敢ズ其首ヲ摑ミテ左右ニ振リ廻ハシ、水ヲ翻シテ之ヲ無力トシタル後、容易ニ生擒シ得タルハ最モ智慮アル手段ナリキ〔老媼茶話〕。但シ此淵猿ハ所謂怠狀立ヲシテ釋放セラレタリヤ否ヤ、後日譚ノ傳ハラヌハ遺憾ナリ。【虬】此話ハ大昔仁德天皇ノ御代ニ、吉備ノ川島河ノ淵ニ於テ笠臣ノ祖縣守ト云フ勇士ガ虬(ミヅチ)ヲ退治セシ顚末トヨク似タレドモ多分ハ偶合ナルべシ。武家高名記陰德太平記志士淸談等ニモ之ヲ載錄ス〔南方熊楠氏報〕。藝藩通志ノ高田郡吉田村釜淵ノ條ニハ、荒源三郞ガ猳摑(カハタラウ)ヲ生獲シタル故跡ナリト見エタリ。

 

《訓読》

 「猿が河童に勝つ」と云ふことは、今はあまり聞かぬ話なれど、其の由來は、中々、複雜なるものあるに似たり。此の事は、獨り、西國地方の俗信なりしのみにあらず、江にても河童の災ひを避くる爲めには猿を飼ひ置くを可とするのありき〔「竹抓子」四〕。【厩の猿】自分の推測に依れば、是れ、厩に猿を飼ひて牛馬の災を拂ふ古來の慣習と因緣あるものゝごとし。仍つて、今少しく、其の問題を講究せんと欲す。【河猿(カハザル)】蓋し、近代の河童にも頗る猿に似たる特徵はありしなれど、中古は、猶ほ一段、此の二つの物が接近し居(ゐ)たりと覺しく、或いは今ならば直ちに「河童」と呼ぶべき水底の怪物を、河猿又は淵猿と名づけたりし例あり。【釜猿(カマザル)】例へば、遠江榛原(はいばら)郡には「河猿」と云ふ怪獸、住す。水の岸に現れ出づる物にて、馬、之れに遭へば、忽ち、(たふ)斃れ死す。何れの川筋にても「河猿」出づれば、馬の種は絶ゆ。恐らくは「馬の疫病神」ならんか、と云へり〔「三河雀」〕。【釜淵】毛利公爵の祖先が、まだ藝州の吉田に在りし頃、其の臣下に井上元重、通稱を荒(あら)源三郞と云ふ武士あり。時は天文三年の八月、吉田川の釜淵の水底(みなそこ)に入つて、人畜を害する「淵猿」と云ふ怪物を退治し、武勇の名を天下に施せり。源三郞、七十人力ありしも、「淵猿」には百人力あり。【頭の皿】唯だ、幸ひにして怪物のきは、全く頭の中央の窪みに水のある爲なることを、前以つて知りしが故に、取り敢へず其の首を摑みて、左右に振り廻はし、水を翻(ひるがへ)して、之れを無力としたる後(のち)、容易に生け擒(ど)りし得たるは、最も智慮ある手段なりき〔「老媼茶話」〕。但し、此の淵猿は、所謂、怠狀立てをして釋放せられたりや否や、後日譚の傳はらぬは遺憾なり。【虬(みづち)】此の話は、大昔、仁德天皇の御代に、吉備の川島河の淵に於いて、笠臣(かさのおみ)の祖、縣守(あがたもり)と云ふ勇士が虬(みづち)を退治せし顚末と、よく似たれども、多分は偶合(ぐうがふ)なるべし。「武家高名記」「陰德太平記」「志士淸談」等にも之れを載錄す〔南方熊楠氏報〕。「藝藩通志」の高田郡吉田村釜淵の條には、荒源三郞が「猳摑(カハタラウ)」を生獲したる故跡なり、と見えたり。

[やぶちゃん注:「遠江榛原(はいばら)郡」静岡県榛原郡は現存するが、近代の郡域は遙かに広域。ウィキの「榛原郡」で確認されたい。

「河猿」ウィキの「川猿によれば、『川猿(かわざる)は、遠州(静岡県)の榛原郡に伝わる妖怪。その名の通り、川辺に住む妖怪で』、『名前は「猿」だが、猿よりむしろカワウソや河童に近い種とされ』、『体中に魚の臭気がある』。『子供の姿となって人を化かすこともある他、馬は川猿に会っただけで倒れて死んでしまうと言われ、馬の疫神として恐れられていた』。『また人間から害を加えられた際には、相手の体中の皮膚や肉をかきむしって重傷を負わせてしまう』。『弱点は目と股で、ここに矢を受ければたちまち力が弱まってしまう』。『性格的には本来は臆病者だが、自分を助けてくれた人間の顔は忘れないという』とある。

『「馬の疫病神」ならんか』私はここを読みながら、嘗て電子化注した「想山著聞奇集 卷の壹 頽馬(だいば)の事」を思い出していた。そこでは、『馬に「頽馬(だいば)」と云ふ病ひ有りて卒死(そつし)するが、尾張・美濃邊にては是を「ギバ」と云ひ、「斃(たふ)るゝ」を「かける」と云ふ。土俗は、此の「ギバ」と云(いふ)は、一種の魔物(まぶつ)有りて、馬の鼻より入りて、尻に出づれば、馬、忽ち斃ると云ひ傳ふる事也』で始まるのであるが、そこで私は実際の馬の病気、有毒植物の摂取や吸血性昆虫及びウィルス感染症の可能性を指摘した。是非、一読されたい。

「毛利公爵の祖先が、まだ藝州の吉田に在りし頃」ウィキの「毛利氏」によれば、鎌倉末期に『越後国刈羽郡(旧称:三島郡)佐橋庄(さはしのしょう)南条(みなみじょう)』『の南條館を領した毛利経光は、四男の時親に安芸国高田郡吉田荘(よしだのしょう』:『高田郡吉田村吉田』、現在の広島県安芸高田市吉田町吉田(ここ(グーグル・マップ・データ))『)を分与し』、『分家を立てる』。『時親の子・貞親、孫の親衡は越後に留まり』、『安芸の所領は間接統治という形をとったが』、『南北朝時代に時親の曽孫・元春は安芸に下向し、吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)において領地を直接統治』『するようになる。吉田荘に移った毛利氏は、室町時代に安芸国の有力な国人領主として成長し、山名氏および大内氏の家臣として栄えた』。『戦国時代、毛利元就が出ると』、『一代で国人領主から、大内氏の所領の大部分と尼子氏の所領を併せ、最盛期には山陽道・山陰道』十『か国と九州北部の一部を領国に置く最大級の戦国大名に成長した』。『元就の死後、孫の毛利輝元は将軍・足利義昭を庇護し、織田信長と激しく争ったが、のちに豊臣秀吉に従属して、安芸ほか』八『か国を安堵された。また、本拠を吉田郡山城からより地の利の良い広島城に移す』。『しかし』、慶長五(一六〇〇)年、輝元が「関ヶ原の戦い」で『西軍の総大将となったことで、敗戦後に毛利氏は周防国・長門国の』二『か国に減封される』。『江戸時代には、萩に居城を新たに築城し、長州藩(萩藩)になり、外様大名ながら』、『国主(国持ち)大名として官位や江戸城の席次などで幕府から厚遇を得た』。『江戸時代末期には、藩主毛利敬親の改革が功』を『奏し』、『長州藩から数々の志士が現れ、明治維新を成就させる原動力となった。明治維新後は公爵、貴族院議員などを輩出している』とある。

「井上元重」井上氏は毛利家の有力家臣の一族であったが、後に元就によって、多くが粛清された。この元重はその中の一人である。ウィキの「井上就澄」の記載に粛清の経緯と彼が殺されたことが出るので、引用すると、井上就澄(?~天文一九(一五五〇)年)『は、戦国時代の武将。毛利氏の家臣。父は安芸井上氏当主・井上元兼』(系図を調べると、この父の前当主井上光兼の弟に、後に出る元重の兄井上元有がいる)、『兄に井上就兼』。『毛利氏の家臣で安芸井上氏当主である井上元兼の次男として生まれる。名前の「就」の字は毛利元就の偏諱とされる』。『安芸井上氏は元々は安芸国の国人であったが、就兼の祖父・光兼の代に毛利弘元に仕えて以後、毛利氏において重要な位置を占める一族となった。その後も安芸井上氏の権勢は増していき、就兼の父・元兼をはじめとして毛利興元の死後』三十『余年に渡って傍若無人な振る舞いをしていたと元就は述べており、安芸井上氏をそのままにしておくことは毛利氏の将来の禍根となると元就は考えていた』。『天文年間に安芸国と備後国の経略が着々と進行し、吉川元春と小早川隆景の吉川氏・小早川氏相続問題が概ね解決したことで安芸井上氏粛清の好機であると元就は判断。毛利隆元に命じて大内氏家臣の小原隆言を通じて、予め大内義隆の内諾を得た上で、密かに安芸井上氏粛清の準備を進めた』。天文一九(一五五〇)年七月十二日、『井上元有が安芸国竹原において小早川隆景に殺害された事を皮切りに』、『安芸井上氏の粛清が始まり』、翌七月十三日、『兄の就兼は元就の呼び出しを受けて吉田郡山城に来たところを、元就の命を受けた桂就延によって殺害された』。『就兼の殺害と同時に、福原貞俊と桂元澄が』三百『余騎を率いて井上元兼の屋敷を襲撃。元兼の屋敷は包囲され、屋敷にいた元兼と就澄は防戦したものの』、『力尽きて自害した。さらに、井上元有の子の井上与四郎、元有の弟の井上元重、元重の子の井上就義らはそれぞれ各人の居宅で誅殺されており、最終的に安芸井上氏の一族のうち』三十『余名が粛清されることとなった』(太字下線はやぶちゃん)とある。

「天文三年の八月」一五三四年。同旧暦八月一日はユリウス暦九月八日。

「老媼茶話」三坂春編(みさかはるよし 元禄一七・宝永元(一七〇四)年?~明和二(一七六五)年)が記録した会津地方を中心とする奇譚(実録物も含む)を蒐集したとされる寛保二(一七四二)年の序(そこでの署名は「松風庵寒流」)を持つ奇談集。私は既にブログ・カテゴリ「怪奇談集」で全篇を電子化注している。その「老媼茶話 釜渕川猿(荒源三郎元重、毛利元就の命に依り、川猿を素手にて成敗す)」を参照されたい。

「虬(みづち)」の柳田國男の別記事の記載で既出であるが、ここでちゃんと注しておくと、本来は中国で、龍の一種(或いは幼体)を指し、「虯」が正字とされる。龍の子で、二本の角を有するとも、幼体ではなく、龍の一種で逆に角がないものを言うとも、また龍総体の異名ともする。本邦では「蛟」などと一緒くたにされて、広く、水怪の異名として用いられる。

「仁德天皇の御代」在位は仁徳天皇元年~仁徳天皇八十七年とする。機械的換算では三一三年から三九九年とする。

「吉備の川島河」現在の岡山県西部を貫流する高梁川に比定されている。の流域(グーグル・マップ・データ)。

「笠臣(かさのおみ)」吉備氏の後裔。ウィキの「吉備氏」によれば、七『世紀後半に笠臣と下道臣が中央貴族として立身した』とあるが、『小野里了一は、吉備氏の祖として同氏の伝説に残されていたのは吉備武彦であり、吉備津彦命・稚武彦命弟は王家系譜とのつながりを作為するために吉備武彦の名前を割って作った創作上の人物とする。また、笠臣と下道臣と上道臣が吉備武彦を祖と仰ぐ集団(吉備勢力)であったのは事実だが、元々「吉備氏」と称する同一の氏族集団であった裏付けも不確かで、下道真備(吉備真備)が初めて「吉備」姓を名乗った人物であった可能性すらあるとする』とある。

「縣守(あがたもり)と云ふ勇士」以下に掲げる、この「日本書紀」に載る虬(みづち)を退治の一節以外には確かな情報はない模様である。

   *

、於吉備中國川嶋河派、有大虬、令苦人。時路人、觸其處而行、必被其毒、以多死亡。於是、笠臣祖縣守、爲人勇悍而力、臨派淵、以三全瓠投水曰「汝屢吐毒令苦路人、余殺汝虬。汝沈是瓠則余避之、不能沈者仍斬汝身。」。時、水虬化鹿、以引入瓠、瓠不沈、卽舉劒入水斬虬。更求虬之黨類、乃諸虬族、滿淵底之岫穴。悉斬之、河水變血、故號其水曰縣守淵也。當此時、妖氣稍動、叛者一二始起。於是天皇、夙興夜寐、輕賦薄斂、以寬民萌、布德施惠、以振困窮、弔死問疾、以養孤孀。是以、政令流行、天下太平、廿餘年無事矣。

   *

国立国会図書館デジタルコレクションの黒板勝美編「日本書紀 訓読 中巻」を参考に訓読してみる。

   *

 是の[やぶちゃん注:仁徳天皇六十七年。三七九年。]、吉備の中つ國、川嶋河の派(かはまた)に、大なる虬(みづち)有りて、人を苦しましむ。時に路人(みちゆきひと)、其の處に觸れて行けば、必ず、其の毒(あしきいき)に被(をかさ)れて、以つて多く死亡せぬ。是(ここ)に、笠臣(かさのおこ)の祖縣守(あがたもり)、人と爲(なり)、勇-悍(たけ)くして、力、(こは)し。派-淵(ふち)に臨みて、三つの全瓠(おほしひさご)[やぶちゃん注:欠損のない瓢簞(ひょうたん)の意か。]を以つて水に投げて曰はく、

「汝、屢々毒を吐きて路人を苦しましむ。余、汝、虬を殺さむに、汝、是の瓠を沈めば、則ち、余、避(さ)らむ。不--沈(えじづめざ)れば、仍りて、汝の身を斬らむ。」

と。時に、水虬、鹿に化(な)りて、以つて、瓠を引き入る。瓠、沈まず。卽ち、劒(つるぎ)を舉げて水に入りて虬を斬る。更に、虬の黨類(ともがら)を求む。乃ち、諸虬の族、淵底の岫穴(ゆきかふいはや)に滿(いは)めり。悉く、之れを斬る。河水、血に變りぬ。故に其の水を號(な)づけて「縣守の淵」と曰ふ。此の時に當りて、妖-氣(わざはひ)、稍(やや)動きて、叛(そむ)く者、一二(ひとりふたり)、始めて起こる。是に天皇、夙(はや)くに興(お)き、夜(おそ)く寐(い)ねて、賦(みつぎ)を輕くし、斂(をさめもの)を薄くして、以つて民-萌(おほみたから)を寬(ひろ)くし、德を布(し)き惠(うつくしび)を施して、以つて困窮(くるしくたしな)きを振ひ、死(も)を弔ひ、疾(やむもの)を問ひ、以つて孤孀(やもをやもめ)を養ふ。是れを以つて、政令(まつりごと)、流行(しきなが)れて、天下、太平(たひら)ぎぬ。廿餘年(はたとせあまり)、事、無し。

   *

「南方熊楠氏報」平凡社版選集別巻の柳田國男との往復書簡集を縦覧したが、今のところ、見出せない。発見したら、電子化する。

「高田郡吉田村」現在の広島県安芸高田市吉田町吉田(グーグル・マップ・データ)。

「猳摑(カハタラウ)」この「猳」は豚を意味するから、豚を摑み奪うという意に見える。ただ、少し気になるのは、中国の伝説上の動物で、猿に類した妖獣で、人間の女性を攫(さら)って犯すとされる、「玃猿(かくえん)」には「猳国(かこく)」という異名があることである。他に「馬化(ばか)」とも言うのが気になる。一応、ウィキの「玃猿を引いて参考に供しておく。「本草綱目」に『よれば、猴(こう。サルのこと』『)より大きいものと』し、「抱朴子」では、八百年生きた獼猴(みこう:現在の哺乳綱獣亜綱霊長目直鼻猿亜目オナガザル科オナガザル亜科マカク属アカゲザル Macaca mulatta に比定)『が「猨」となり、さらに』五百年『生きて玃猿になるとある』。「本草綱目」では『「玃」「猳玃」「玃父」の名で記載されて』おり、『玃は老いたサルであり、色は青黒い。人間のように歩き、よく人や物をさらう。オスばかりでメスがいないため、人間の女性を捕らえて子供を産ませるとある』。一方「捜神記」や「博物志」には、『「玃猿」「猳国」「馬化」の名で、以下のようにある。蜀の西南の山中には棲むもので、サルに似ており、身長は』七尺(約一・六メートル)『ほどで、人間のように歩く。山中の林の中に潜み、人間が通りかかると、男女の匂いを嗅ぎ分けて女をさらい、自分の妻として子供を産ませる。子供を産まない女は山を降りることを許されず』、十『年も経つと姿形や心までが彼らと同化し、人里に帰る気持ちも失せてしまう。子を産んだ女は玃猿により子供とともに人里へ帰されるが、里へ降りた後に子供を育てない女は死んでしまうため、女はそれを恐れて子供を育てる。こうして玃猿と人間の女の間に生まれた子供は、姿は人間に近く、育つと常人とまったく変わりなくなる。本来なら姓は父のものを名乗るところだが、父である玃猿の姓がわからないため、仮の姓として皆が「楊」を名乗る。蜀の西南地方に多い「楊」の姓の者は皆、玃猿の子孫なのだという』。『このような玃猿の特徴は、中国の未確認動物である野人と一致しているとの指摘もある』。『南宋時代の小説集』「夷堅志」には、『「渡頭の妖」と題し、以下のような話がある。ある谷川の岸に、夜になると男が現れ、川を渡ろうとする者を背負って向こう岸に渡していた。人が理由を尋ねても、これは自分の発願であり理由はないと、殊勝に返事をしていた。黄敦立という胆勇な男が彼を怪しみ、同じように川を渡してもらった』。三『日後、お礼に自分がその男を渡そうと言い、拒む男を無理に抱えて川を渡り、大石に投げつけた。悲鳴を上げたその男を松明の明かりで照らすと、男の姿は玃猿に変わっていた。玃猿を殺して焼くと、その臭気は数里にまで届いたという』。「神異経」に『よれば、西方にいる「𧳜」』(とりあえず「チュウ」と読んでおく。以下に出る「和漢三才図会」の「玃(やまこ)」にも記す)『はロバほどの大きさだが』、『猴に似ており、メスばかりでオスがいないので、人間男性を捕えて性交して子を孕むとあり』、『(玃猿と同じ行動をするが性別が逆である)、玃猿に類するものと考えられている』。『日本では、江戸時代に玃猿が日本国内にもいるものと信じられ』、「和漢三才図会」にも『「玃(やまこ)」の名で説明されており、同項の中で日本の飛騨・美濃(現・岐阜県)の深山にいる妖怪「黒ん坊(くろんぼう)』『」の名を挙げ「思うに、これは玃の属だろうか」と述べられている。黒ん坊とは黒く大きなサルのようなもので、長い毛を持ち、立って歩く。人語を解する上に人の心を読むので、人が黒ん坊を殺めようとしても、黒ん坊はすばやく逃げるので、決して捕えることはできないという』。『また』、江戸後期の随筆「享和雑記」にも『「黒ん坊」の名がある。それによれば、美濃国根尾(現・岐阜県本巣市)の泉除川に住む女のもとには、夜になると幻のような怪しい男が訪れ、しきりに契ろうとしていた。村人たちはその者を追い払おうと家を見張ったが、見張りのいる夜には現れず、見張りをやめると現れた。そこで女は鎌を隠し持っておき、例の男が現れるや鎌で斬りつけると、男は狼狽して逃げ去った。村人たちが血痕を辿ると、それは善兵衛という木こりの家のもとを通り、山まで続いていた。善兵衛のもとには以前から黒ん坊が仕事の手伝いに来ており、それ以降は黒ん坊が現れなくなったため、この事件は黒ん坊の仕業といわれた』。但し、「享和雑記」の『著者は、これを』「本草綱目」に『ある玃猿に類するものとし、その特徴について』、「和漢三才図会」と『ほぼ同じことを述べているため』、「享和雑記」は「和漢三才図会」を『参考に書かれたものと見られている』、『しかし』、「和漢三才図会」では、『前述のように「玃の属だろうか」と書いてあるにすぎないため、黒ん坊と玃猿を同一のものとは言い切れないとの指摘もある』とある。「和漢三才図会」の「玃(やまこ)」は私の和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類で電子化注しているので、参照されたい。]

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