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2019/02/02

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(16) 「河童ニ異名多シ」(2)

 

《原文》

 【カハノトノ】九州ノ或地方ニテハ、河童ヲ「カハノトノ」ト呼ブト聞ク。南ハ日向大隅邊ニテハ之ヲ「ヒヤウスヘ」ト云ヒ、【水神】又「スヰジン[やぶちゃん注:ママ。]」(水神)ト云フ。此等ハ何レモ尊敬ヲ極メタル稱號ニシテ、正シク一般ノ河童動物ヲ否定スルニ足ルモノナリ。【ガメ】之ニ反シテ越中富山ニ於テ河童ヲ「ガメ」ト稱スルハ、卽チ之ヲ龜又ハ鼈ノ部類ニ屬スルモノト認メタルガ爲ナルコト、曾テ越後新潟ニ於テ捕ヘタリト云フ河童ノ寫生ヲ見テモ想像ニ難カラズ。【カハツソウ】佐賀縣ニテハ河童ヲ「カハツソウ」ト云フ由〔佐賀縣方言辭典〕。「カハツソウ」ハ川ノ僧ノ義ニモ非ズ、【川濯神】水ノ神タル川濯神(カハスソガミ)トモ直接ノ關係無ク、全ク河童ヲ以テ川獺(カハウソ)ノ類ト考ヘタル爲ノ名稱ナルガ如シ。出雲ニテ昔ノ「エンコウ」ヲ今ハ川獺ト爲セルコトハ前ニ述べタリ。川獺ハ小獸ナレドモ亦淵ノ底ニ住ミテ惡事ヲ爲ス。馬ヲ害セシ話ハ未ダ聞カザルモ、人ヲ騙カシテ水ニ引込ムナドト傳ヘラル。海ニモ亦獺ノ住ム地方アリ。【ウミカブロ】佐渡ノ兩津町附近ニテハ、海瀨ハケシカラヌ詐術ヲ以テ人ノ命ヲ奪フト信ゼラレ、其一名ヲ「ウミカブロ」、卽チ海ノ童兒ト云フトアレバ〔佐渡志〕、通稱ニ於テモ亦河童ト相似タリ。播州明石ノ海岸ナドニテハ、今日「ガタロ」ト云フ物ハ河童ニハ非ズシテ鮫ノ事ナリト云フ〔内藤吉之助君談〕。【ガウライ】此外ノ異名ニシテ由來ノ尚不明ナルハ、熊野又ハ但馬ニテ「ガウライ」、【テガワラ】北陸ノ或地方ニテ「カワラ」、「ガワラ」又ハ「テガワラ」。此ハ或ハ「川ワラハ」ノ義ナランカ。【ミヅシ】加賀能登其他ニ於テ河童ヲ「ミヅシ」ト云フコト〔本草啓蒙〕、【メドチ】サテハ陸中陸奧ニ於テ之ヲ「メドチ」ト云フニ至リテハ〔南部方言集〕、猶數段ノ討究ヲ重ヌルニ非ザレバ其理由ヲ明白ニスルコト難シ。【ミンツチ】「アイヌ」ノ古言ニハ、河童トヨク似タルモノヲ「ミンツチ」ト云フ由ハ次ニ言ハントス。【コマヒキ】而モ江差、松前ノ舊城下ニ於テハ、又河童ヲ「コマヒキ」ト呼ビシ時代アリ〔サヘヅリ草〕。此事ニ就テモ後ニ猶考察ヲ加フべキ機會アルナリ。

 

《訓読》

 【カハノトノ】九州の或る地方にては河童を「カハノトノ」と呼ぶと聞く。南は日向・大隅邊にては之れを、「ヒヤウスヘ」と云ひ、【水神】又、「スヰジン[やぶちゃん注:ママ。]」(水神)と云ふ。此等は何(いづ)れも、尊敬を極めたる稱號にして、正(まさ)しく一般の河童動物を否定するに足るものなり。【ガメ】之れに反して、越中富山に於いて河童を「ガメ」と稱するは、卽ち、之れを、「龜(かめ)」又は「鼈(すつぽん)」の部類に屬するものと認めたるが爲なること、曾て、越後・新潟に於いて捕へたりと云ふ河童の寫生を見ても、想像に難からず。【カハツソウ】佐賀縣にては河童を「カハツソウ」と云ふ由〔佐賀縣方言辭典〕。「カハツソウ」は「川の僧」の義にも非ず、【川濯神(かはすそがみ)】水の神たる「川濯神(かはすそがみ)」とも直接の關係無く、全く、河童を以つて「川獺(かはをそ)」の類ひと考へたる爲の名稱なるがごとし。出雲にて昔の「エンコウ」を、今は「川獺」と爲せることは前に述べたり。川獺は小獸なれども、亦(また)、淵の底に住みて、惡事を爲す。馬を害せし話は未だ聞かざるも、人を騙(たぶら)かして水に引き込むなどと傳へらる。海にも亦、「獺(をそ)」の住む地方あり。【ウミカブロ】佐渡の兩津町附近にては、「海瀨(ウミヲソ)[やぶちゃん注:私の推定訓で妖怪名と捉え、カタカナ表記した。]」は「けしからぬ詐術(さじゆつ)を以つて、人の命を奪ふ」と信ぜられ、其の一名を「ウミカブロ」、卽ち、「海の童兒」と云ふ、とあれば〔「佐渡志」〕、通稱に於いても亦、河童と相似たり。播州明石の海岸などにては、今日、「ガタロ」と云ふ物は河童には非ずして、鮫の事なりと云ふ〔内藤吉之助君談〕。【ガウライ】此の外の異名にして由來の尚ほ不明なるは、熊野又は但馬にて「ガウライ」、【テガワラ】北陸の或る地方にて「カワラ」、「ガワラ」又は「テガワラ」。此れは或いは「川わらは」の義ならんか。【ミヅシ】加賀・能登其の他に於いて河童を「ミヅシ」と云ふこと〔「本草啓蒙」〕、【メドチ】さては、陸中・陸奧に於いて之れを「メドチ」と云ふに至りては〔「南部方言集」〕、猶ほ、數段の討究を重ぬるに非ざれば、其の理由を明白にすること、難し。【ミンツチ】「アイヌ」の古言(こげん)には、河童とよく似たるものを「ミンツチ」と云ふ由(よし)は次ぎに言はんとす。【コマヒキ】而(しか)も江差・松前の舊城下に於いては、又、河童を「コマヒキ」と呼びし時代あり〔「さへづり草」〕。此の事に就きても、後(のち)に、猶ほ、考察を加ふべき機會あるなり。

[やぶちゃん注:「カハノトノ」『九州の或る地方にては河童を「カハノトノ」と呼ぶと聞く』もと一九八八年三一書房刊「日本民俗文化資料集成」の第八巻「妖怪」所収の千葉幹夫「全国妖怪語辞典」には、福岡県(同辞典は県別表示)の項に「カワトノ」があり、『水の怪。川殿。久留米市、河童を川殿、コウラウワロウ、ガッパ、カワッパなどといっていた(『浜萩』/『民俗語彙』)』とあり、「大分」の項には「カワノモノ」という類似する水怪の名が出、その中に『玖珠』(くす)『郡で河童のこと』とする(玖珠郡は大分の中西部。ここ(グーグル・マップ・データ))。同じ「日本民俗文化資料集成」第八巻所収の丸山学の「河童考」には、大分県の平坦な地区で「カワントン」「カワンヒト」「カワンモン」「カワンヌシ」という類似呼称があるとあるから、九州山脈の河川周辺の一部でこの「川の殿」系の河童異名があったことが判る。

「ガメ」私は富山に六年間いたが、「ガメ」なんて言う呼称は聴いたことがない。河童は「カッパ」であった。千葉幹夫「全国妖怪語辞典」にも「カッパ」(上新川郡大田村採取)と「ミズチ」(羽咋郡堀松村)が挙がるだけで、「ガメ」は載らない。後者「ミズチ」には『河童のこと』。『河辺に淵端某という旧家で疳の薬を売っていた。この家の先祖が駒引に失敗した河童から助命の礼として製法を伝授されたものという(「郷土研究」一 - 四/石川純一郎『河童の世界』)』とさえあった。柳田はこれを見落としていたか、或いは「ミズチ」という名では都合が悪かったのか? しかし、これはもう、立派な駒引失敗製薬法伝授譚ではないか。ここより前に出すべき立派な一例じゃあないか! 「ガメ」で「富山に河童はいない」と断じて富山を早々に煩瑣な探索対象から外した〈柳田國男の嘘〉が見えた。なお、同辞典には石川県の項に「ガメ」を挙げ、『河童のこと』とする。採取地を『能美郡中海村遊船泉寺』とする。【2019年2月4日追記】いつもお世話になっているT氏よりメールを頂戴した。「日文研」の「怪異・妖怪伝承データベース」のこちらに、高崎正秀「河童俗伝」(『民族』昭和三(一九二八)年七月発行所収)に、富山県上新川郡太田村採取の『河童をこの辺ではガメという。ガメの親方をカーラボーズという。昔、便所で尻を撫でるやつがいたので引捕らえると腕が抜けた。カーラボーズの腕だった。返す代わりに薬の製法を教えてもらった』とあること(言うまでもないが「カーラボーズ」は「甲羅坊主」であろう)、昭和二(一九二七)年郷土研究社刊の岡田建文(けんぶん)著「動物界靈異誌」が、国立国会図書館デジタルコレクションの画像で読めるが、その「河童」の章の「二」に、『河童の呼稱くらゐに各地さまざまである動物は他に無い。一番普通なのが川太郎、カツパ、カハコ、などである。越中では「ガメ」と云ひ、美作ではゴンガメと呼んで居る。河童には甲羅があると云ふとあるが、ガメと云ひゴンガメと云ふ上はその地方の河童は甲羅があるのであらう。』(太字は原本では傍点「」)とある。T氏はメールに『ともに「山東民潭」後のものですが、柳田は越中の河童の呼称である「ガメ」を何処(書物又は人)で知ったのでしょうか』? とされておられる。因みに、岡田建文(生没年未詳)なる人物は、柳田國男とかなり親しかった、相当に変わった人物のようで(恐らくは柳田より年上)、SIGNAL-9ブログ野菊のハッカーによれば、島根県松江出身で、『松陽新聞』の記者を経て、心霊関係の雑誌『彗星』を発行していた心霊主義者で、出口王仁三郎の大本教に傾倒し、『彗星』でもその普及に務めたが、『柳田國男の証言に依れば(柳田自身は断言していないのだが)、おそらく東京の空襲』(昭和一九(一九四四)年から翌年にかけてのそれ)『で死亡したのだろう』言っているとあり、その情報元は柳田國男のエッセイ「作之丞と未来」(昭和二四(一九四九)年・旧全集には不載で私は未見)で、別な箇所で『柳田は「空襲のさなかに別れたまま、消息不明になった旧友の岡田蒼溟翁」』(岡田の雅号)『の思い出を哀切を持って懐かしんでいる』とあり、柳田の「炭燒日記」に出る彼の訪問を抜粋されている(これは全集で確認した)。但し、国立国会図書館デジタルコレクションの書誌を見ると、冒頭画像では、著作権者不明による文化庁長官裁定の記載があるものの、画面左コンテンツの「公開範囲」では、『保護期間満了』の明記がなされていることから、何らかの形で死亡確認がなされているものかとも思われる。T氏に感謝するとともに、続けて本書刊行(大正三(一九一四)年)以前の越中での河童呼称「ガメ」の情報を俟つものである。

「龜(かめ)」爬虫綱カメ目潜頸亜目 Cryptodira に属するカメ類(カメ目 Testudines の中には本邦に棲息しない曲頸亜目 Pleurodira のヘビクビガメ科 Chelidae・ヨコクビガメ科 Pelomedusoidae が含まれる)。

「鼈(すつぽん)」潜頸亜目スッポン上科スッポン科スッポン亜科キョクトウスッポン属ニホンスッポン Pelodiscus sinensis。本種の、噛みついたらなかなか離さないという危険な習性を考えると、河童と同様の危険生物として腑に落ちる。それにあまり知られていないが、スッポンは地上では恐るべき速さで走ることが出来、それはなかなかドキッとするものなのである。なお、ウィキの「スッポン」によれば、『かつて日本ではキツネやタヌキといった動物と同様、土地によってはスッポンも妖怪視され、人間の子供をさらったり血を吸ったりするといわれていた』ともあった。

「曾て、越後・新潟に於いて捕へたりと云ふ河童の寫生を見ても、想像に難からず」例の「水虎考略」の『越後國新潟鄕所出寛政甲寅秋』に実見したとする『水乕』(すいこ:「水虎」で河童の異名。なお、引用は部分)とある図であろう(リンク先は前に出した「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」のそれ)。こりゃ、確かにスッポンだわ。

「川濯神」(かはすそがみ)」「川濯」は「川の水で濯(すす)ぐ」で、本来は川で行われる「禊(みそぎ)」を司る神のこと。河川の神・治水の神などの「水の神」ともなる。代表的な神は瀬織津姫(せおりつひめ)であろう。ウィキの「瀬織津姫」によれば、『神道の大祓詞』(おおはらえのことば)『に登場する神である。瀬織津比咩・瀬織津比売・瀬織津媛とも表記される』が、「古事記」「日本書紀」には『記されていない』。『水神や祓神、瀧神、川神である。九州以南では海の神ともされる。祓戸四神の一柱で祓い浄めの女神。人の穢れを早川の瀬で浄めるとあり、これは治水神としての特性である』。「倭姫命世記」「天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記」「伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記」「中臣祓訓解」に『おいては、伊勢神宮内宮別宮荒祭宮』(あらまつりのみや)『の祭神の別名が「瀬織津姫」であると記述される』。『饒速日命(にぎはやひのみこと)との関連もあると言われる。また、瀬織津姫は天照大神と関係があり、天照大神の荒御魂(撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ))とされることもある。「西宮」の地名由来の大社である廣田神社(兵庫県西宮市)は、天照大神荒御魂を主祭神としているが、戦前の由緒書きには、瀬織津姫を主祭神とすることが明確に記されていた。天照大神との関わりは、謎が多い』。他に『宇治の橋姫神社では橋姫と習合(同一視)されている』。『祇園祭鈴鹿山の御神体は鈴鹿権現として、能面をつけ、金の烏帽子をかぶり』、『長刀と中啓を持つ瀬織津姫を祀る。伊勢の鈴鹿山で人々を苦しめる悪鬼を退治した鈴鹿権現の説話に基づく』。『熊野神社を遡り調べると』、『熊野権現は瀬織津姫なりという説がある。大和政権がエミシ征伐の際、熊野権現を守り神とし』、『北へ向かった。制圧した後、気仙沼市唐桑町に瀬織津姫神社、熊野神社などが鎮座した』とある。

「川獺(かはをそ)」既出既注の、もとはキツネ・タヌキ・アナグマ(ムジナ)同様、実在する生物としてのカウワソを妖異を成す妖怪(妖獣)として捉えたもの。但し、そこでは柳田は「河獺」と表記している。前に出た、室町中期の文安元(一四四四)年に成立した著者未詳の百科事典的国語辞書「下學集」には、既に、

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(獺)老而二河童一也(卷之上「氣形門」獺の項)

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とあることが、增子和男氏の論文「獺怪譚の盛衰をめぐって(上)」に出る(この非常に興味深い論文全三篇(上・中・下)は「早稲田大学リポジトリ」のこちらで総てをダウン・ロード出来る)。そこで增子氏も引いておられるが、江戸前期の俳人で仮名草子作家でもあった国学者山岡元隣(げんりん 寛永八(一六三一)年~寛文一二(一六七二)年)の遺稿による怪談本「古今百物語評判」の「卷之四 第二 河太郞附丁初が物語の事」(リンク先は私が昨年終えた「古今百物語評判」全電子化注の一つ)で、山岡は、

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「河太郞も河瀨(かはをそ)の劫(こう)を經たるなるべし。河獺は正月に天を祭る事七十二候の一つにして、よく、魚をとる獸(けだもの)なり。狀(かたち)、ちいさき狗(いのこ)のごとく、四足(しそく)、みぢかく、毛色は、うす靑ぐろく、はだへは、蝙蝠(かうふり)のごとしと云へり。此物、變化(へんげ)せしこと、もろこしにもあり。丁初と云(いひ)し者、長塘湖(ちやうとうこ)の堤(つゝみ)を行(ゆき)しに、後(うしろ)より、しきりによぶ聲のおそろしく、身の毛よだちければ、あやしくかへり見るに、容顏(ようがん)たへなる女房、二八(にはち)[やぶちゃん注:十六歳。]あまりにして、靑ききる物を着て、靑き絹がさを、きたり。『いかさまにも變化の物ならん』と、足ばやに逃去(にげさ)りて、猶も、かへり見れば、彼(かの)女房、沼のなかにとび入(いり)て、大きなる河獺となれり。さて、絹がさや、きる物とみしは、蓮(はす)の葉にして、やぶれ散りたると、「太平廣記」にのせたり。これ、獺(をそ)のばけにしためしなれば、太郞も其一門なるべし。太郞といふは河邊に長(ちやう)じたる稱にこそ。」

   *

評している。即ち、カワウソが人を騙すルーツは增子氏も指摘されている通り、中国の伝奇小説「搜神記」辺りに求められるわけである(前のリンクの私の注で「太平廣記」の「搜神記」を出典とする当該原典本文も全文示してある)……因みに、現代に河童が居なくなったのは、或いは、我々日本人が、ネコ目イタチ科カワウソ亜科カワウソ属ユーラシアカワウソ亜種ニホンカワウ Lutra lutra nippon 絶滅させたからかも、知れないな……

『出雲にて昔の「エンコウ」を、今は「川獺」と爲せることは前に述べたり』前のリンク先と同じ「河童ノ詫證文」の冒頭。

「ウミカブロ」「カブロ」は「禿(かむろ)」で髪を短く切りそろえた子供の標準的な髪型で、転じて「子ども・児童」の意となった。

「海瀨(ウミヲソ)」古くからしばしば、哺乳綱食肉(ネコ)目イヌ亜目鰭脚下目アシカ科アシカ亜科 Otariinae のアシカ類にこの漢字を当てる。「海禿」も極めてアシカに相応しい。表情も人間的なミミクリーがある。本草学者小野蘭山口述の名著「本草綱目啓蒙」(享和三(一八〇三)年刊)にも「海獺」を「アシカ」に同定している(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの当該原典の当該ページの画像)。他にも哺乳綱食肉目イタチ科カワウソ亜科ラッコ属ラッコ Enhydra lutris にもこの漢字を当て、難読問題で出したりするが、北海道ならまだしも、対馬暖流が包む佐渡にはラッコは無理である。

「内藤吉之助」昭和三二(一九五七)年に神戸新聞社が翌年の創立六十周年を迎えるに当たって、兵庫県出身で当時八十二歳であった柳田國男に回顧談を求め、柳田はこれを快諾し、全二十五回に亙って聞き書きが行われ、二百回に亙る連載記事となった。これは聞き書きであるからか、「ちくま文庫」版全集には載らない(その後の一九九七年刊の新しい「柳田國男全集」第二十一巻に載っているようだ)が、「青空文庫」で柳田國男「故郷七十年」として電子化されてある。その「明石のカワカムロ」という回に、この名前が出る。

   *

 

    明石のカワカムロ

 

 京都はガタロウで通用するとして、丹波の由良川あたりでは何というか。中部地方では河童(かわらべ)の系統でカワランベ、カラランベというのが多く、九州では少し発音を違えてガラッパ、またはカワッパ、カワトノなどと呼ぶ所が多い。

 面白いことに、東西の中間にエンコというのが入りまじっている。すなわち瀬戸内海の両側、山陰、山陽、四国ではエンコという所がある。猿(えん)の字をあてているが、淵猴とも書くことがある。

 その他に、カワゴ(川子)という所がある。エンコを使わない所ではゴウゴとか、カワゴとかいって、これが大分多く行われている。カワゴは河童と同じで、童が児になっただけの違いである。今では川の字をあてたり、河の字を書いたりしているが、漢字の概念ではこれは解釈できないことである。なぜなら日本ではカワというのは水汲み場、水使い場のことをいうのである。水の流れている所、どうどう流れている所ではない。今でも九州あたりでは、流れている筑後川などという方はカワラといい、水汲み場の方をカワとよんで区別している。沖縄あたりでは川がちっともないが、カワという言葉はあり、それは水使い場を指している。

 水使い場を意味するカワという言葉と、童子という言葉を結びつけた河童の名称が、全国に少しずつ違えて三十幾つかある。関東地方の東部のようにカワガッパとはっきりいっている所もある。つまり「水の童子」「水汲み場にあらわれる怪童」といった心持は、全部に共通し、非常にひろく行われているのである。

 河童の名前の中で今も探している名前が一つある。神崎郡の名家で、川辺(かわなべ)(神崎郡市川町)に近い屋形(やかた)出身の、かつて京城大学教授をしていた内藤吉之助という人があった。この人のお父さんは久三郎といって、私を大変世話してくれた人であった。その内藤教授がまだ東大の学生だったころ、「明石の河童は海にいるんです」と話したことがあった。何というのかきくと「カムロ、カワカムロといっています」ということだった。それ以来私は、明石の人にあうといつも聞いてみるが、今以て内藤君の話を裏書きする証拠をつかめずにいるのである。

 なぜこの言葉に心をひかれるかというと、遠く離れた沖縄にあるのである。沖縄では河童のことをカワカムロともインカムロともよんでいる。カムロというのは禿だから、頭を小さめにした毛髪の短い子供、切り髪にした童子にほかならない。沖縄のカワは水汲み場のことであるから、水汲み場にいる子供という意味になる。またインカムロのインというのはこちらの海ということだから、沖縄では海にも河童がいるということになる。所によっては沖縄でもいろいろによぶが、童子(どうじ)と見ている点と、それから九州と同じように、たくさん集まっていたずらをするという点はよく似ているのである。

 海に河童のいる話は、この明石のカワカムロと、もう一つ常陸の那珂(なか)の港の海で河童をとった話が『善庵随筆』に書いてある。

 この方はいつもうつむいて、四つ足で歩いているので、まるで亀みたいなものということになっている。

   *

内藤吉之助(明治二七(一八九四)年~昭和二一(一九四六)年)は法学者で、訳書にエンゲルスの「家族・私有財産及び国家の起源」がある。詳しい事蹟は私が参照した法制史学者著作目録選(WEBにある、「内藤吉之助教授」(PDFを参照されたい。しかし、これを読むと、なんだか変だ。ここではっきり柳田國男は「内藤吉之助は明石では軟骨魚類の鮫(サメ)のことを河童と呼ぶ」と語ったことになっているではないか? 柳田、呆けたか? 私は人の命を奪うことがある危険なサメを時に馬や人を襲うことがある「河童」と呼ぶのは腑に落ちることなのだ。しかも、今も覚えているのだ、一九九二年月八日、瀬戸内海で貝(タイラギか)の潜水漁をしていた方が襲われている。回収された潜水服の一部の咬み痕と当時の水温から、襲ったのは体長五メートルほどの、サメの中でも人を襲った記録が多いホホジロザメ(軟骨魚綱板鰓亜綱ネズミザメ目ネズミザメ科ホホジロザメ属ホホジロザCarcharodon carchariasと結論されているのだ。因みに、引用した柳田國男の「故郷七十年」の「明石のカワカムロ」は、前後にも河童関連の話が語られており、河童の異名を問題としているここの有意な参考ともなるので、以下に引用しておく(この文章は私は所持しておらず、今回初めて読んだ)。「明石のカワカムロ」の直前の「河童考」。

   *

 

    河童考

 

 この間漫画家の清水崑君に会ったとき、「清水君、君はよくないね。白い女河童なんか描いて、河童をとうとうエロチックなものにしてしまって……。河童には性別はないはずだよ」というと「いや議論をすると長くなりますから……」と逃げ口上で話を避けてしまった。

 河童という言葉はもともと仮名でカワランベ、即ち川の子供ということなのだから、男女があってはおかしいのではないかと思う。しかし九州などには河童が婿入りをしたという話もあるが、大体において性の問題はないように思う。

 私の河童研究は非常に古く、明治四十一年九州へ行ったころから、二、三年位が絶頂であった。今でも崑君なんかが利用している『水虎考略』、これは必ずしも珍しい本ではないが、「河童は支那にいわゆる水虎なり」という説からこの本が出来、写本も出ている。その中に大変値打があると思う話も四つか五つある。麹町の外堀で見つけたのはこんなのだとか、どこそこのはこうだとか、みんな違った河童が描いてある。幕末に朝川善庵という学者があって、この人の本から引用しているものもある。頭がお河童で、背中に甲羅のある、まるで亀の子のようなものから、褌をしめて素裸になってつっ立っているものなど、五つくらいあったと思う。

 後に内閣文庫を探していたら、同じ『水虎考略』といいながら四冊本になったのが見つかった。一冊はもとのそれを入れ、あとの三冊は九州の書生さんが、興に乗じて方々からの話を集めたもので、書翰体になっていた。多くは九州の話だったが、それは面白い本であった。九州のは群をなしていて、一匹で独立しているのではない。極端な場合には、馬の足型だけの水溜りがあれば、千匹もいるなどという。とにかく狭い所に群をなしているものらしい。東北や関東では九州とは違って一匹ずつの話が多い。河童はこんなに種類は違いながら、名前はどこでも全部、童児、ワラワという言葉がついているのである。

 私の郷里の方ではガタロウ(河太郎)とよぶが、この区域は存外広くない。大阪あたりでも通用しないことはないが、例の『東海道中膝栗毛』が出たころから、河太郎という名称に、差障りが出来たらしい。大阪に河内屋太郎兵衛という豪奢な者が出て、通称河太郎といっていたので、それに気兼ねをしたため、ガタロウといいにくくなったものであろう。京都あたりでは何といっていたか、やはりガタロウといっていたのではないかと思う。

   *

次に、「明石のカワカムロ」の次の「駒ヶ岩の河太郎」と「二篇を続けて引用する。

   *

 

    駒ヶ岩の河太郎

 

 私が『民族』という雑誌を出していたころ、亡くなった早川孝太郎君が、天竜川と大井川との流れについて調べたことがあった。ことに天竜の流れの水の神様のことは丹念に報告してあった。その中に、水の神様から保護を受けている家が、何かの折に神様と縁切れになるという話がある。

 この家では年に一度だけ川から来る人に助けてもらっていたが、その人ははじめに、「俺は蓼が嫌いだから、決して蓼を食わしてくれるな」と固く申入れがしてあった。ところが、あの付近では、ゴンゲノボウといって田植のすんだ時、客を招いてご馳走をするが、ちょうどそのころ蓼がよく育っていて、何処の家でも食膳につけていた。この家でもうっかり蓼をご馳走の中に入れて出したので、川の客も口にしてしまった。するとそれを喰べるや否やとび上って、大声を張りあげ、何か怒鳴ったまま川へとび込んでしまい、それっきりその家へは寄りつかなくなった。それからは今までのように融通してもらえなくなって、とうとう旧家が一軒亡びてしまったという話である。川から来る人は河童だというのである。天竜川辺では河童のことをカワランベとよんでいるが、カワランベは信州の北部の方まで、こういう所が多い。松本の田中磐君という若い民俗学者の調査によると、信州ではどの流れにも必ずといってよいほど椀貸伝説があり、その中には河童から品物を借りる話もあるということである。水の神様から特別に恩恵をうけていたが、たった一つの条件を守らなかったために、幸せを失ってしまったという話の筋で、昔話の重要な趣向である。

 辻川あたりでは河童はガタロというが、随分いたずらをするものであった。子供のころに、市川で泳いでいるとお尻をぬかれるという話がよくあった。それが河童の特徴なわけで、私らの子供仲間でもその犠牲になったものが多かった。毎夏一人ぐらいは、尻を抜かれて水死した話を耳にしたものである。市川の川っぷちに駒ヶ岩というのがある。今は小さくなって頭だけしか見えていないが、昔はずいぶん大きかった。高さ一丈もあったであろう。それから石の根方が水面から下へまた一丈ぐらいあって、蒼々とした淵になっていた。そこで子供がよく死ぬのである。私ももう少しで死にかかった経験がある。水が渦を巻いているので引き込まれるが、あわてないで、少しじっとしていると、流れのまにまに身体が運ばれ、浅瀬へ押し流されて、浮び上ることができる。そこであまりバタバタすると、渦の底へ引きこまれてしまうのだった。鰻のたくさんとれる所で、枝釣りをよくしたものであった。

 最近の写真でみると、市川べりの駒ヶ岩の頭がほんの少ししか見えなくなっている。岩の頭を欠いで火打石を採ったりしたため、小さくなったのでもあろう。あるいは市川の流れが変って岩が砂に蔽われたものか、子供のころの流れはもっと川幅が広かったことを憶えている。あの付近の人は今でもガタロがいるといっているであろうか。

 

    河童と虬

 

 河童の名前は全国を通じて、河の字と子供という意味の言葉をつけたカワランベ(河童)とかカワコゾウ(河小僧)カワタロ(河太郎)などというのが三十何種かあるが、それ以外に能登半島の東海岸と鹿児島県の南端薩摩湾の指宿あたり、それからとんで北には津軽の北端から北海道へかけて、別系統の名前が残っている。すなわちM音ではじまる河童の呼名である。

 能登ではミズシンといい、土地の人は水の神様だからミズシン(水神)というのはあたり前だといった気持で呼んでいるらしい。鹿児島ではミツドンといい、これは虬(みずち)のことだといっている。虬は何だかわからないけれども、虫扁の字を書くので蛇の一種だと思っているらしいが、ミズシンと関係あるものであろう。

 北の青森県にはメドチという言葉が残っている。外南部あたりではいわないらしいが、津軽のことを書いた古いものの中に平尾魯仙という人の本がある。明治のごく近くになって出来た本だが、この中にメドチのことが詳しく書いてある。河童とは違うなどということもあり、メドチという一種の動物がいるように思っているらしい。ところがこのメドチ、ミズシン、ミツドンは、他地方の河童と同じような性格や話をもっているのである。日本の北と南と真中と、三カ所離れたところに同じようにM音ではじまる似たような名前があって、お互の間に往き来がない。それでこの三つが別々のところにあるというだけでも、かつて河童のことを水神(みずしん)といった時代があるだろうということが証明できるように思っているのである。

 メドチ、ミズチ等の「ち」は、「霊あるもの」の意で、虬は「水の霊」のことをいうのであろう。しかしまだ形がはっきりしていないのに、虫扁に書いてしまったので、この漢字に影響せられて、これは蛇に違いないということになった。蛇は水の中で棲息しないが、虬(みずち)、蛟(みずち)は水中に棲む。土の底に虬がいるといったりする。また日本人はよく間違えて、大蛇も水の底にいるようにいう。この問題はもう少し手掛りを見つけたいと思うが、まだ解決するに至らない。

 河童でもう一つ、戦の時に人手が足りなくて、藁人形を拵え、手の代りに横に竹を一本通して、人間にし、戦に勝ったという話がアイヌにも残っている。飛騨では大工仕事に手が足りなくて藁人形を作り、使って用がなくなると、そこらあたりのものに、とってよいといって水の中に放したという話になっている。そのために、そこらあたりにいる子供までとってしまうのだというのである。虬の手は行き抜けだというが、これもミズチすなわち河童であろうという一つの例である。

 足利時代に流行った「猿猴月をとる」という猿が片手を極端に伸ばしている画題があるが、これが中間にあって、そんな極端な藁人形の行き抜けの手が考え出されたものではなかろうか。

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因みに、「みずち」(歴史的仮名遣「みづち」。古くは「みつち」で清音。「み」は「水」、「つ」は格助詞、「ち」は「霊」の意とされ「水の霊」「水の神」の意)は他に「蛟」「虯」「螭」と書いたりする(但し、これらはそれぞれ異なった龍の種類を指す漢字で本来は別箇なものである)。古代人が恐れた想像上の動物で、水中に棲息し、蛇に似た形をしており、角と四肢をもち、毒気を吐いて、人を害するという、龍の一種である。

『熊野又は但馬にて「ガウライ」』河童に似ており、河童の変異体ともされる、紀伊南部(現在の和歌山県)などで伝承される、妖怪カシャンボ(「カシャボ」とも)がいるが、ウィキの「カシャンボ」によれば、『山に移り住んだ河童が進化したものとする説が有力』で、六、七『歳ほどの子供程度の背丈で』、『頭に皿をかぶり(頭は芥子坊主のようともいう』『)、青い衣を身に着けており』、『犬はその姿を見ることができるが、人間の目には見えない。人間の唾を嫌うらしい』。『和歌山県東牟婁郡高田村(現・新宮市)のある家では、毎年新宮川を遡って来た河童が挨拶に訪れ、姿は見えないが』、『家に小石を投げ込んで知らせ、山へ入ってカシャンボになるという』。『性質は河童と変わらず』、『悪戯者で、山中で作業をしている馬を隠したり、牛小屋にいる牛に涎のようなものを吐きかけて苦しめるという。牛小屋の戸口に灰を撒いておいたところ、そこに残されていたカシャンボの足跡は水鳥のようだったという』。『和歌山県西牟婁郡富里村(現・田辺市)では、カシャンボは雪の降った翌朝に一本足の足跡を残すもので、人に相撲をとろうと持ちかけるが、唾をつけてやると勝つことができるなどと』、『河童と一本だたらが混同されたかのように伝承されている』。二〇〇四年の『春、和歌山県白浜町富田の田畑で謎の足跡が発見され』、四『本足の動物では有り得ない足跡であったことから、カシャンボの仕業と地元の新聞などで報道された』。『國學院大學民俗学研究会が』昭和五二(一九七七)年に『発刊した『民俗採訪』によれば、紀伊では河童のことをゴウライ、あるいは五来法師と呼び、冬の間は山篭りをしておりその間はカシャンボと呼ばれる』とある(下線太字やぶちゃん)。『カシャンボの名称は、悪戯者であることから「くすぐる」を意味する方言の「かしゃぐ」』、『火車 (妖怪)、頭(かしら)などを由来とする説がある』とある。

「ミヅシ」先の柳田の「河童と虬」に出た「虬(ミヅチ)」のようにも見えるが、寧ろ、御霊的神名をわざと欠損させることでそれを封ずる手法から見れば、「これは水神(ミヅシン)」のそれであろうという気がする。しかし引用を「本草啓蒙」とするが、これは先に出した小野蘭山の「本草綱目啓蒙」としか思えないのだが、調べ方が悪いのか、どこに載っているのか判らぬ。

「メドチ」千葉幹夫「全国妖怪語辞典」の青森県の項に「メドチ」と出、『河童のこと。十和田――猿のような顔で体が黒く髪をさらった被った十歳位の子供という。女の子に化けて水中に誘う。人間に子を生ませる』。『紫尻の人を好む』(「日文研」の「怪異・妖怪伝承データベース」の青森県八戸市の「河童」・「メドチ」の記載によれば、「紫尻(むらさきけつ)」とは『紫いろの斑点が比較的濃く尻に見える』人を指すという。蒙古斑の残存する人か?)『相撲が好きだが』、『腕を下に引くと抜ける、麻幹(おがら)』(皮をはぎ取った麻の茎。これは高い確率で、それが、お盆の迎え火・送り火を焚くのに用いられ、供物に添える苧殻箸とすることと関係があると私は見た)『にとける』。『左甚五郎が木屑に人の尻でも食えといって水に話したという伝説がある。八戸市櫛引では七日盆』(なぬかぼん:七月七日に墓掃除・井戸替え・女の髪洗いなどをして、盆を迎える準備とすること。「盆始め」「七日日(なぬかび)」とも呼ぶ)『には馬をとるという。駒引に失敗、もう取らぬと約束したが』、『生きていけないので滝の明神様に』、『この日だけと願って許されたという』。『一旦見こまれると逃げられず、友達や親戚に化けてきて必ず川に連れ込む。生まれつきの運命だという』とあって、その後に、幕末の万延元(一八六〇)年成立の、画家で国学者であった平尾魯僊(ひらおろせん 文化五(一八〇八)年~明治一三(一八八〇)年:「魯仙」とも表記)が弘前(ひろさき)藩(陸奥国津軽郡(現在の青森県西半部)にあった藩で通称で津軽藩とも呼んだ)領内の神霊・妖魔を採集記録した「谷(たに)の響(ひびき)」の一節が紹介されているが、これは私が電子化注している「谷の響 五の卷 七 メトチ」であるので、是非、原文を読まれたい。私はその注で「メトチ」は底本の森山泰太郎氏の以前の補註に、『津軽では河童のことをメドチといった。ミヅチ(水の霊)の訛語』とあるとし、しかし、ウィキの「河童」によれば、『水蛇(ミヅチ)の訛りと思われるメンドチ、メドチ、ドチガメ、北海道ではミンツチカムイなどがある』とあるとした。

『「アイヌ」の古言(こげん)には、河童とよく似たるものを「ミンツチ」と云ふ由(よし)』ウィキの「ミントゥチ」によれば、『ミントゥチ(mintuci)またはミントゥチカムイ(mintuci kamuy)は、アイヌに伝わる半人半獣の霊的存在』。『河童に類する妖怪ともいわれる』。『方言によってはミムトゥチ(mimtuci)』、『ミントチ(mintoci)』『と発音される。日本語の文献では「ミンツチ」と表記されることも多い』。『伝説によれば、江戸時代に本土の人々がアイヌと交易を行うために船で北海道を訪れたとき、その船に乗って疱瘡神(疱瘡を司る疫病神)が北海道へやって来て』、『多くのアイヌの人々が病死した』。『当時』、『アイヌの世界を治めていた神・オキクルミは』、六十一『体のチシナプカムイ(ヨモギを十字に組んだ人形)を作り、それらに命を与えて疱瘡神と戦わせた(この人形はオキクルミではなくアイヌの人々が作ったという説もある』『)。この』六十一『体の内の』六十『体は戦死したが、最後に残ったチシナプカムイの大将によって、疱瘡神は全滅した。この戦いで水死したチシナプカムイがミントゥチになったという』。『背格好は』三『歳から』十二、三『歳の人間の子供と同程度で』、『頭には髪があって河童のような皿はなく、肌の色は紫か赤に近く、足型は鳥か鎌の形に似ている』。『両腕が体内でつながっており、片腕を引っ張ると両腕ともに抜けてしまうという、河童と同じ身体的特徴もある』。『土地によって多少の容姿の違いがあるともいい、石狩川では頭が禿げて男女の区別があるもの、十勝平野東部の池田町では小さな老婆だか』、『老爺だか』、『わからない姿で、ときどき「フンッ」という大きな音をたてるという』。『ミントゥチは魚族を支配する神でもあり、漁師たちに漁運を授けるが、それと引き換えに水死者の犠牲も増えるという』。『石狩地方ではミントゥチが魚をたくさん捕らせてくれたが、その代わり』、『毎年必ず何人かを殺すので、人々が日高の静内(現・新ひだか町)のほうへ移って欲しいと頼んだところ、水死者はなくなったが、魚も捕れなくなったという』。『山の狩猟で獲物をもたらすものとも信じられている』。『ミントゥチが若者に化けて』、『若い娘のいる家に婿入りし、その家に猟運や幸をもたらすともいうが、怒らせると』、『その地域一帯の食料の霊を一緒にさらって行ってしまうという、恐ろしい面もある』。『旭川や沙流川』(さるがわ:北海道日高振興局管内を流れ、太平洋に注ぐ一級河川。ここ(グーグル・マップ・データ)。二〇〇四年には国土交通省が行っている全国一級河川の水質調査で一位に選ばれている)『では、ミントゥチが人を守護するという話もある』。『本土の河童と同じように悪戯者ともいわれ、人間や牛馬を水中に引き込んだり、人に憑いたり』、『女に憑いて男を誘惑するという』。『釧路では、濃霧の夜などに不意に前方に人影が現れ、呼びかけにも答えずに前へ歩いていくことがあり、その足跡が鳥のようなので妙だと思っていると、その人影が消えて背後に回り、ミントゥチが隙をついて水中に引きずり込んでしまうという』。『ミントゥチという呼称は、本土の伝承にある蛟(ミヅチ)が由来といわれる』。『アイヌの古老によれば、ミントゥチとは本土の人間が河童種として呼ぶ呼称であり』、『アイヌは「山側の人」の意で「シリシャマイヌ」と呼ぶという』。『禿頭という特徴や「山側の人」という異名から、山の神の性質も兼ね備えているとの説もある』とある。千葉幹夫「全国妖怪語辞典」の北海道の項に「ミンツチ」として出、『湖または川に棲む半人半獣の霊物』で、『三尺ほどの芥子坊主頭を煙管ででも打てば死ぬという』とある。

「さへづり草」原則、引用書名の注は附さないことにしているが、題名の表記も内容も知らない書物なので、注する。ウィキの「さへづり草」その他によれば、「さへづり草」は『和漢の故事、地名人名の由来、俳諧俳人についての噂話、芝居の役者の伝記、動植物の名義、世間の風俗、風評、地理などを書きつづった』随筆で、江戸末期から明治に生きた俳人加藤昶(「えい」と読んでおく。名前では「あきら」「とおる」「いたる」「ひさし」等と読める。なお、もとは田中弥二郎であったものを母方の姓にし、名も改めたもの。恐らく彼は江戸幕府の下級官吏であったと推定されている。後の別な引用を参照)で、『号は雀庵のほかに堤隣翁、千声などが存在し、俳諧では升金、篠廼舎、白鴎などの号を持つ』。明治八(一八七五)年十二月に数え八十一歳で没した。『天保年間から文久』三(一八六三)年までの約三十年間に『雀庵が「見聞に任せて座右消閑にものしたるもの」を』明治四三(一九一〇)年に『室松岩雄編・雀庵長房著「さへづり草 むしの夢」として一致堂書店より刊行された』とある。「西尾市岩瀬文庫 古典籍書誌データベース」の「筆蔵」(加藤が執筆に関わっている)の書誌の備考には、『加藤雀庵/本名田中弥二郎後加藤昶と改む、明治八乙亥年十二月十日歿す、行年』(ぎょうねん:満年齢に同じ)『八十、辞世、花七日人も七日のひと流れ、南千住真養寺に葬る』とあり、別に「さへづり草」は『十一(以上火にやけたり)より二百三十七巻マ』デ『アリ』、『皆』、『二冊ヨセナリ、大抵』、『抄録ニ自考ヲ加ヘタルモノ多』シ『ト雖モ』、『取ル』ベ『キモノハ幾多モナシ、今』、『売物トナリタルヲ』、『井上頼圀』、『買得タリ、雀菴ハ幕府ノ軽』(かろ)『キ給人ナル』ベ『シ』。『俳諧師也』。『加藤昶』、『雀菴ト号ス』。「藤の長房」ナド『種々ノ名アリ、地震ノ記ナ』ド『ハ実際ノコト多シ、大風』(たいふう)『ノ記モアリ』「コロリ」『モアリ、明治五年ノ記アリ、其年七十七才ナリ、初メ深川ニ居リ、其後』、『三ノ輪、橋辺、等ニ移リ、明治ノ後ハ』、『又』、『三ノ輪ニ居テ、此ノ没シタルニヤ』、『其後ノコト見ヘ』ズ」と記す。]

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