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2019/02/06

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(17) 「河童ニ異名多シ」(3)

 

《原文》

 九州ノ河童ニ付テハ更ニ一異アリ。曰ク河童ハ夏バカリノ物ナリ、冬ハ山中ニ入リテ「ヤマワロ」(山童)トナルト〔西遊記其他〕。山童ヲ目擊シタル者ハ愈少ナケレド、昔ハ往々ニシテ之ニ遭遇シタル者ノ記事アリ。【足跡】山ニ入リテ其足跡ヲ見ルガ如キハ殆ド普通ノ不思議ナリキ。山童ハ童ト謂フハ名ノミニシテ隨分ノ大男ナリ。川小僧輩ノ中々企ツルコト能ハザル大入道ナリシナリ。【木ノ子】但シ此トハ或ハ別種カト思ハルヽ山ノ神ノ部類ニ、「セココ」〔觀惠交話〕、又ハ木ノ子ナドト稱スル物アリ〔扶桑恠異實記〕。愛ラシキ童形ニシテ群ヲ爲シテ林中ニ遊ビ杣木地挽(キヂヒキ)ノ徒ニ惡戲ス。山男ト同ジク木ノ葉ヲ綴リテ着ルトモアレド、或ハ又靑色ノ衣服ヲ着テアリトモ云ヒ、ヨホド動物バナレノシタル者ナリ。【カシヤンボ】紀州熊野ニテハ、河童ハ冬ハ山ニ入ツテ「カシャンボ」[やぶちゃん注:ここの拗音表記はママ(頭書は拗音表記ではない)。以下総て同じ。]ト云フ物ニナルト云フ。「カシャンボ」ハ六七歳ホドノ小兒ノ形、頭ハ芥子坊主ニシテ靑キ衣ヲ着ス。姿ハ愛ラシケレドモ中々惡事ヲ爲ス。同國東牟婁郡高田村ニ高田權頭(ゴンノカミ)・檜杖(ヒヅエノ)冠者ナド云フ舊家アリ。此中ノ或家へ每年ノ秋河童新宮川ヲ上リテ挨拶ニ來ル。姿ハ見エザレドモ一疋來ル每ニ一ノ小石ヲ投込ミテ著到ヲ報ジ、ソレヨリ愈山林ニ入リテ「カシャンボ」ト成ルトイヘリ〔南方熊楠氏報〕。「カシャンボ」牛馬ノ害ヲ爲スコト多シ。或ハ木ヲ伐リニ山ニ入リシ者、樹ニ繋ギ置キタル馬ヲ取隱サレ、漸クニシテ之ヲ見出デタレドモ、馬苦惱スルコト甚シク、大日堂ノ護摩札ヲ請ヒ受ケテ、僅カニ助ケ得タルコトアリ。或ハ水邊ヨリ出デ來タリテ夜々牛小屋ヲ襲ヒ、涎ノ如キ物ヲ吐キテ牛ノ身ニ塗リ附ケ之ヲ苦シム。【足跡】試ミニ小屋ノ口ニ灰ヲ撤キ置ケバ、水鳥ノ如キ足趾一面ニ其上ニ殘レリ〔同上〕。「カシャンボ」ハ火車ヨリ轉ジタル名稱カト南方(ミナカタ)氏ハ言ハルレドモ末ダ確證ヲ知ラズ。兎ニ角夏ノ間里川ノ水ニ住ム者ヲモ同ジク「カシャンボ」トモ呼ブト見ヘタリ。之ニ反シテ九州ノ南部ニテハ、冬季山ニ住スル彼ヲモ亦河童ト稱ス。薩州出水鄕ノ獵師八右衞門、夜山ニ入リテ辨當ヲ使ヒテアリシトキ、闇ノ中ヨリ四五本ノ手出デテ食ヲ求ム。【鰯】八右其河童ナルコトヲ知リ持チ來タリシ海鰮(イワシ)ヲ與ヘテ其禮ニ猪ヲ追ヒ出サシメ、結局僅カナル食物ヲ以テ大キニ利得ヲシタリ。次ノ夜モ亦此通リナリシガ、手多クシテ海鰮足ラズ、乃チ戲レニ榾(ホダ)ノ火ヲ最後ノ者ノ掌ニ載セタルニ、聲ヲ放チテ走リ去リ、ソレヨリ山ドヨミ樹木ノ折レ倒ルヽ音頻リニシテ物凄ジクナリタレバ遁ゲ還ル。其後山ニ入レドモ河童百方妨ヲ爲シ、獵物無ケレバ終ニ其業ヲ罷メタリト云ヘリ〔水虎錄話〕。【山男】此話ハ他ノ諸國ニテハ常ニ山男ニ就キテ語リ傳ヘラル。奧州ニテ有名ナル白髮水ノ傳ニモ、白キ石ヲ燒キテ餅ヲ求ムル山男又ハ山姥ニ食ハセシト云フコトアリ〔遠野物語〕、山稼ギノ者ノ焚火ノ傍ニ立寄ルト云フ話ハ、山人トシテハ決シテ珍シキ例ニ非ズ。唯之ヲ名ヅケテ河童ト云フヲ以テ奇ナリトス。又日向地方ニ於テモ、河童冬ハ山ニ入リテ棲ムト云ヒ之ヲ山童トハ言ハズ。其形狀宛モ熊野ノ「カシャンポ」ノ如ク、又「セココ」木ノ子ナド呼バルヽ物ニ似タリ。【墨斗】杣人ノ墨斗(スミツボ)ヲ欲シガルコト甚シク、天壺ト云フ物ヲ怖ル。天壺トハ高鍋邊ノ方言ニテ苧ヲ編ミテ造リタル器ナリ。山ニ入ル者常ニ之ヲ肩ニシテ行ク。墨斗ヲ天壺ノ上ニ載セテ差出セバ河童驚キテ飛ビ退クト云ヘバ〔水虎錄話〕、彼縣ニテハ之ヲ見タル人多キナルべシ。然ルニ一方ニハ同ジ地方ニテ、河童ハ夏ニナルト海邊ヨリ山手ニ向フガ如ク語ル者アリ。初夏ノ雨ノ夜ニ數百群ヲ爲シ、ヒヨウヒヨウト鳴キテ空ヲ行ク者ヲ河童ノ山ニ入ルナリト言ヒ、秋ノ央ニナリテ同ジ聲ヲシテ海ノ方ニ鳴キ過グルヲ、河童山ヲ出デ來ルト云フ。曾テ其姿ヲ見タル者無シト云ヘバ、思フニ二種ノ渡鳥ナルべシ〔鄕土硏究二卷三號〕。【那羅延坊】筑肥海岸地方ノ河童ハ、每年四五月ノ頃筑後川ノ流ヲ溯リ、豐後ノ日田ヲ經テ阿蘇ノ社僧那羅延坊(ナラエンバウ)ガ許ニ伺候スト云フ。是モ亦同ジ鳥ノ聲ナドニ由リテ起リタルナランカ。那羅延坊ハ古クヨリ俗ニ河童ノ司ト稱ス。代々人ニ賴レテ河童ヲ鎭ムル祈禱ヲ爲シ、又折々近國ノ田舍ヲ巡回ス〔水虎考略後篇所引蓬生談〕其由緖ハ久留米ノ尼御前ヨリモ古キガ如シ。何ハトモアレ九州ノ河童ハ、眷屬大群ヲ爲シ且ツ移動性ニ富ムコトヲ以テ一特色トス。佐賀白山町ノ森田藤兵衞ナル者、曾テ對馬ニ渡リ旅宿ニ在リ。夜分家ノ前ヲ通行スル者ノ足音曉ニ至ルマデ止マザルヲ怪シミ、明日亭主ニ向ヒテ何故ニ斯ク人通リ多キヤト問ヘバ、亭主ノ答ニアレハ皆河童デゴザリマス。【海ト河童】河童日中ハ山ニ居リ夜ニ入レバ海ニ行キテ食物ヲ求ムルニテ、人間ニハ害ヲ爲サズト云ヘリ〔水虎新聞雜記〕。今ヨリ八九十年以前、日高謙三ト云フ人日向ノ耳川ノ上流ナル一山村ニ往キテ滯在セシニ、每夜四更ノ頃ニ及べバ恠シキ聲川上ニ起リ、暫クアリテ對岸ニ達シ忽チ又下流ニ去ル。曙ノ比ハ復ビ岸ニ沿ヒテ還ルガ常ナリ。土地ノ人ノ明ニ、是ハ河童ガ山ヲ下リ海ニ浴スルナリト也〔日州水虎新話〕。此輩ハ何レモ山ノ方ヲ本居トスル河童ナルカ、然ラザレバ亦何ゾノ鳥ノ聲ノ誤リテ斯ク信ゼラレタルモノ也。河童群ヲ爲シテ來去スト云フ者ハ、末ダ曾テ其姿ヲ見タリト言ハズ。高鍋附近堤ノ番人、永年此河童ノ聲ヲ聞キテ曾テ之ヲ見シコト無シ。或士ノ勇氣アル者深夜ニ物陰ニ之ヲ覗ヒ、聲ヲ的ニシテ闇ニ鐵砲ヲ放シタルニ、一發ニシテ忽チ行方ヲ知ラズト云フナド〔水虎錄話〕、如何ニモ鳥ラシキ話ナリ。【ヒヤウスヘ】サレバ河童ヲ「ヒヤウスヘ」ト云フハ其鳴ク聲ノヒヤウヒヤウト聞ユル爲ト云フノ如キ、未ダ何分ニモ信ヲ執ル能ハズ。某地方ノ山中ニ住スル「セコ子」ハ、二三十群ヲ爲シテ往來シ、其語音ヒウヒウトノミ聞ユト云ヘリ〔觀惠交話〕。但シ此「セコ子」ハ、顏ノ眞中ニ大キナ眼ガ一ツナリト云ヘバ、アマリ當ニモナラヌ話ナリ。

 

《訓読》

 九州の河童に付きては、更に一異あり。曰はく、『河童は夏ばかりの物なり、冬は山中に入りて「ヤマワロ」(山童)となる』と〔「西遊記」其の他〕。山童を目擊したる者は愈(いよいよ)少なけれど、昔は往々にして之れに遭遇したる者の記事あり。【足跡】山にいりて、其の足跡を見るがごときは殆んど普通の不思議なりき。山童(ヤマワロ)は「童(わろ)」と謂ふは名のみにして、隨分の大男なり。「川小僧(カハコゾウ)」輩(やから)の、中々、企(くはだ)つること能はざる、大入道なりしなり。【木ノ子】但し。此れとは或いは別種かと思はるる山の神の部類に、「セココ」〔觀惠交話〕、又は「木ノ子」などと稱する物、あり〔「扶桑恠異實記」〕。愛らしき童形(どうぎやう)にして、群れを爲して林中に遊び、杣(そま)・木地挽(きぢひき)の徒に惡戲(いたづら)す。「山男」と同じく、木の葉を綴(つづ)りて着るともあれど、或いは又、靑色の衣服を着てありとも云ひ、よほど動物ばなれのしたる者なり。【カシヤンボ】紀州熊野にては、河童は冬は山に入つて「カシャンボ」[やぶちゃん注:ここの拗音表記はママ(頭書は拗音表記ではない)。以下総て同じ。]と云ふ物になると云ふ。「カシャンボ」は、六、七歳ほどの小兒の形(なり)、頭は芥子坊主(けしばうず)にして、靑き衣を着(ちやく)す。姿は愛らしけれども、中々、惡事を爲す。同國東牟婁郡高田村に高田權頭(ごんのかみ)・檜杖(ひづえの)冠者など云ふ舊家あり。此の中の或る家へ、每年の秋、河童、新宮川を上(のぼ)りて、挨拶に來たる。姿は見えざれども、一疋來たる每(ごと)に、一つの小石を投げ込みて著到を報じ、それより愈(いよいよ)山林に入りて、「カシャンボ」と成る、といへり〔南方熊楠氏報〕。「カシャンボ」、牛馬の害を爲すこと、多し。或いは、木を伐りに山に入りし者、樹に繋ぎ置きたる馬を取り隱され、漸くにして之れを見出でたれども、馬、苦惱すること甚しく、大日堂の護摩札を請ひ受けて、僅かに助け得たることあり。或いは、水邊より出で來たりて、夜々(よなよな)牛小屋を襲ひ、涎(よだれ)のごとき物を吐きて、牛の身に塗り附け、之れを苦しむ。【足跡】試みに、小屋の口に灰を撤き置けば、水鳥のごとき足趾(あしあと)、一面に其の上に殘れり〔同上〕。「カシャンボ」は「火車(カシヤ)」より轉じたる名稱かと南方(みなかた)氏は言はるれども、末だ確證を知らず。兎に角、夏の間、里川(さとがは)の水に住む者をも、同じく「カシャンボ」とも呼ぶ、と見へたり。之れに反して、九州の南部にては、冬季、山に住する彼をも、亦、「河童」と稱す。薩州出水(いづみ)鄕の獵師八右衞門、夜(よ)、山に入りて辨當を使ひてありしとき、闇の中より、四、五本の手、出でて、食を求む。【鰯】八右(やう[やぶちゃん注:私の勝手な読み。])、其の河童なることを知り、持ち來たりし海鰮(いわし)を與へて、其禮に猪を追ひ出さしめ、結局、僅かなる食物を以つて、大きに利得をしたり。次の夜も亦、此(この)通りなりしが、手、多くして、海鰮、足らず、乃ち、戲れに、榾(ほだ)[やぶちゃん注:焚き物にする木の切れ端。]の火を最後の者の掌に載せたるに、聲を放ちて走り去り、それより山どよみ、樹木の折れ倒(たふ)るゝ音、頻りにして、物凄じくなりたれば、遁げ還る。其の後(のち)、山に入れども、河童、百方、妨(さまたげ)爲し、獵物(えもの)無ければ、終に其の業を罷めたり、と云へり〔「水虎錄話」〕。【山男】此の話は他の諸國にては常に「山男」に就きて語り傳へらる。奧州にて有名なる「白髮水(しらがみづ)」の傳にも、白き石を燒きて、餅を求むる「山男」又は「山姥(かまうば)」に食はせし、と云ふことあり〔「遠野物語」〕、山稼ぎの者の焚火(たきび)の傍らに立ち寄ると云ふ話は、「山人」としては決して珍しき例に非ず。唯、之れを名づけて「河童」と云ふを以つて、奇なり、とす。又、日向地方に於いても、河童、冬は山に入りて棲むと云ひ、之を「山童」とは言はず。其、形狀、宛(あたか)も熊野の「カシャンポ」のごとく、又、「セココ」・「木ノ子」など呼ばるゝ物に似たり。【墨斗】杣人(そまびと)の墨斗(すみつぼ)を欲しがること甚しく、天壺(てんつぼ)と云ふ物を怖る。天壺とは高鍋邊(あたり)の方言にて苧(からむし)を編みて造りたる器なり。山に入る者、常に之れを肩にして行く。墨斗を天壺の上に載せて差し出せば、河童、驚きて飛び退く、と云へば〔「水虎錄話」〕、彼(か)の縣にては、之れを見たる人、多きなるべし。然るに、一方には同じ地方にて、河童は夏になると海邊より山手に向ふがごとく語る者あり。初夏の雨の夜(よ)に、數百、群れを爲し、「ひようひよう」と鳴きて、空を行く者を「河童の山に入るなり」と言ひ、秋の央(なかば)になりて同じ聲をして海の方に鳴き過(す)ぐるを、「河童、山を出で來たる」と云ふ。曾て其の姿を見たる者無しと云へば、思ふに、二種の渡り鳥なるべし〔『鄕土硏究』二卷三號〕。【那羅延坊】筑肥海岸地方の河童は、每年四、五の頃、筑後川の流れを溯り、豐後の日田(ひた)を經て、阿蘇の社僧那羅延坊(ならえんばう)が許に伺候すと云ふ。是れも亦、同じ鳥の聲などに由りて起りたるならんか。那羅延坊は古くより俗に河童の司(つかさ)と稱す。代々、人に賴れて、河童を鎭むる祈禱を爲し、又、折々、近國の田舍を巡回す〔「水虎考略後篇」所引・蓬生談〕其の由緖は、久留米の尼御前(あまごぜ)よりも古きがごとし。何はともあれ、九州の河童は、眷屬、大群を爲し、且つ、移動性に富むことを以つて、一特色とす。佐賀白山町の森田藤兵衞なる者、曾て對馬に渡り、旅宿に在り。夜分、家の前を通行する者の足音、曉(あかつき)に至るまで止まざるを怪しみ、明日(あくるひ)、亭主に向ひて、「何故(なにゆゑ)に斯(か)く人通り多きや」と問へば、亭主の答へに、「あれは、皆、河童でござります。【海と河童】河童、日中は山に居り、夜に入れば、海に行きて食物(くひもの)を求むるにて、人間には害を爲さず」と云へり〔「水虎新聞雜記」〕。今より八、九十年以前、日高謙三と云ふ人、日向の耳川(みみかは)の上流なる一山村に往きて滯在せしに、每夜、四更[やぶちゃん注:凡そ現在の午前一時又は二時から二時間。]の頃に及べば、恠(あや)しき聲、川上に起こり、暫くありて、對岸に達し、忽ち、又、下流に去る。曙(あけぼの)の比(ころ)は、復(ふたた)び岸に沿ひて還るが常なり。土地の人の明に、「是れは、河童が山を下り海に浴するなり」と也〔「日州水虎新話」〕。此の輩(やから)は、何れも、山の方を本居とする河童なるか、然らざれば亦、何ぞの鳥の聲の誤りて、斯く信ぜられたるものや。河童、群れを爲して來去(らいきよ)すと云ふ者は、末だ曾て其の姿を見たりと言はず。高鍋附近堤の番人、永年、此の河童の聲を聞きて、曾て之れを見しこと、無し。或る士の、勇氣ある者、深夜に物陰に之れを覗(うかが)ひ、聲を的(まと)にして闇に鐵砲を放したるに、一發にして忽ち行方を知らずと云ふなど〔「水虎錄話」〕、如何にも鳥らしき話なり。【ヒヤウスヘ】されば、河童を「ヒヤウスヘ」と云ふは、其の鳴く聲の「ひやうひやう」と聞ゆる爲(ため)と云ふのごとき、未だ何分にも信を執る能はず。某地方の山中に住する「セコ子」は、二、三十、群れを爲して往來し、其の語音、「ひうひう」とのみ聞ゆ、と云へり〔「觀惠交話」〕。但し、此の「セコ子」は、顏の眞中に大きな眼が一つなりと云へば、あまり當(あて)にもならぬ話なり。

[やぶちゃん注:『「ヤマワロ」(山童)』ウィキの「山童」を引く。『山童(やまわろ、やまわらわ)は、九州をはじめとする西日本に伝わる山に出る妖怪。河童(かっぱ)が山の中に入った存在であるとも言い伝えられている。熊本県芦北郡では』、「やまわろ」のほかに、「やまんもん」「やまんと」「やまんわっかし(山の若い衆)」「やまんおじやん(山の伯父やん)」など、また、『同県球磨郡では』「山ん太郎」「やまんぼ(山ん坊)」『とも呼ばれる』。「山𤢖(やまわろ)」『とも記される。「山𤢖」(さんそう)とは本来、中国に伝わる妖怪の名である』(次のリンク先の「山𤢖(やまわろ)」も参照のこと)。寺島良安の和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」には(リンク先は私の電子化注。但し、「𤢖」の字を当時は表記出来なかったので「やまわろ」でページ内検索されたい)、本邦産のそれについては、『九州の山奥に住み、姿は』十『歳程度の子供のようで、頭には柿褐色の長い頭髪を生やし、全身が細かい毛に覆われている。胴は短く』、二『本の長い脚で直立して歩き、人の言葉を話すという特徴の記述がある。同書(杏林堂版)では筑前国(福岡県)や五島列島に山童がいるとも記されており、姿は人のようで顔はまるく、髪は赤くて長く目にまでかかり、耳は犬のようにとがり、鼻の上に目が一つあり、カニやトコロ、コウゾの根を食すという特徴も記されている』。『熊本県では、山童は大工仕事に使われる墨壺(すみつぼ)が嫌いで、山の仕事場の周囲に墨壺をつかって墨の線を打っておくと近寄って来ることはないとされている』(本記載の内容にある)。『山中で樵(きこり)の仕事を手伝ってくれることがあり、そんな時に礼として酒やにぎり飯をあげると繰り返し手伝ってくれるという。山童に渡す礼の品物は、必ずはじめに約束した物でなければならず、違う物を渡すと山童は非常に怒る。また、仕事前に礼を渡すと食い逃げをされてしまう事もあったという。熊本県葦北郡では山仕事が多いとき「山の若い衆に頼むか」と言って山童に頼むという』。『河童と同じく、相撲をとったり、牛や馬に悪戯を働くことを好むともいう。また、人家に勝手にあがりこんで風呂に入ってゆくこともあったという』。『山童などが入浴をした湯船には脂(あぶら)が浮いて汚れ、とても臭かったという』。『天狗倒しや山中での怪異は、東日本では山の神や天狗の仕業とされることが多いが、西日本では山童の仕業とされることもある。天狗倒しのような現象(大きな木が倒れて来るような音を発する)は山童自身が発しているとされ、熊本県では倒木や落石の音のほかに、人間の歌を真似たり、畚』(もっこ)『から土を落とす音や、ダイナマイトによる発破の音までもさせたという話がある』。『ただし、天狗の仕業さとれる事が皆無というわけではなく熊本県小国など、山童の伝承が無く、天狗の仕業であるとしている地域も見られる』。以下、本文の記載に出る「山童と河童の渡り」の項。『西日本各地で、河童(かっぱ)が山に移り住んで姿を変えたのが山童(やまわろ)であるという伝承が確認されている。多くは、秋の彼岸どきに河童が山に入って山童となり、春の彼岸どきに川に戻って河童になるとされている』(これは思うに「田の神」が「山の神」と成る民俗学で知られたライフ・サイクルの零落変形譚であろう。後の引用で柳田もそれを指摘している)。『熊本県 ガラッパは秋の彼岸に山に入って山童になり、春の彼岸に川に戻ってガラッパになる』。『熊本県球磨郡 川ん太郎と山ん太郎とは』、二月一日(太郎朔日(たろうついたち):中国・四国・九州などで古く旧暦二月朔日を指す語。一月十五日の小正月から起算して、初めての朔日であるところから言う。「ひとひ正月」「初ついたち」とも呼ぶ)『に入れ替わる』。『熊本県水俣 ガラッパは』、六月一日(氷朔日(こおりのついたち)陰暦六月一日。昔、宮中で冬にできた氷を氷室(ひむろ)から取り出して群臣に賜はる儀式がこの日行われた。民間では、正月の餅を凍(し)み餅にしておいて、この日に炒って食した。「氷室の朔日」とも呼ぶ)『に山から川へと入れ替わる』。『和歌山県』では、『ガオロは秋の彼岸に山に入ってカシャンボになり、春の彼岸に川に戻ってガオロになる』と言い、『奈良県吉野』では、『川太郎は秋の彼岸に山に入って山太郎になり、春の彼岸に川に戻って川太郎になる』と言う。『民俗学者・柳田國男は「川童の渡り」』(『野鳥』昭和九(一九三四)年十月発行に初出し、後に「妖怪談義」に収録)『という文章などで、このような河童と山童の季節による変化を、田の神(里・川)と山の神の信仰が季節ごとに変化をしたこと、また、そのとき多くの地域で鳥のような声が聴かれることから、渡り鳥などに関連した日本の季節の変化を示しているものではないかと論じている』(後注参照)。『河童や山童は山へ行き来する際』、「オサキ」(後文参照)『を通って集団で移動をすると言われる。河童や山童は人間がこの通り道に家を建てると怒り、壁に穴をあけてしまったりしたという。また、川に戻る山童たちを見に行こうとすると病気になると言われていた』。「オサキ」とは「尾先(おさき)」で、『山から下ってくる地形や場所を意味しており、家を建設するのに向かない土地とされている』。『熊本県阿蘇郡小峰村では山童たちが移動する通り道を「通り筋」(とおりすじ)と表現している』。『飛騨地方(岐阜県)ではヤマガロともいい、山に入って来る樵から弁当を奪うなどの悪戯を働くという』。『また、山童に類する妖怪には』「セコ」・「カシャンボ」。「木ノ子」『などがある。宮崎県西米良村に伝わるセコは夕方に山に入り、朝になると川に戻るという』。『また、熊本県阿蘇郡小峰村では山童に対して「ヤマワロ」と呼ぶと山童が怒ると考えられており、「セコ」という敬称を使うものであると言い伝えられていた』とある。

「西遊記」は江戸後期の医者で紀行家橘南谿(たちばななんけい 宝暦(一七五三)年~文化二(一八〇五)年)の紀行記(寛政七(一七九五)年初版刊行後、三年後には続篇も書いている。「東遊記」と合わせて、優れた奇事異聞集となっている)。当該記事は「巻之五」冒頭の「山童(やまわろ)」。以下に、岩波新古典文学大系版を元に、恣意的に漢字を正字化して示す。読みは一部を除き、除去し、記号を追加した。

   *

   山童

 九州、極西南の深山に俗に「山わろ」といふものあり。薩摩にても聞しに、彼(かの)國の山の寺といふ所にも「山わろ」多しとぞ。其(その)形、大なる猿のごとくにして、常に人のごとく立(たち)て步行(あり)く。毛の色、甚(はなはだ)黑し。此(この)[やぶちゃん注:「このところの」の意であろう。]寺などには每度來りて食物を盜みくらふ。然れども鹽(しほ)ケ有ものを甚嫌へり。杣人など山深く入りて木の大きなるを切出す時に、峯を越へ谷をわたらざれば出(いだ)しがたくて、出しなやめる時には、此山わろに握り飯をあたへて賴めば、いかなる大木といへども輕〻と引かたげて、よく谷峯をこし、杣人のたすけとなる。人と同じく大木を運ぶ時に、必ずうしろの方に立て人より先に立行(たちゆく)事を嫌ふ。飯をあたへて是をつかへば、日〻來り手傳ふ。先ヅつかい終りて後に飯をあたふ。はじめに少しにても飯をあたふれば、飯を食し終りて迯(にげ)去る。常には人の害をなす事なし。もし此方より是を打ち、或ひは殺さんとおもへば、不思議に祟りをなし、其人發狂し、或ひは[やぶちゃん注:ママ。]大病に染み、或は其家俄に火もへ出など、種〻の災害起りて、祈禱醫藥も及(およぶ)事なし。此ゆへに人みな大(おほい)におそれうやまひて、手ざす事なし。

 此もの、只、九州の邊境にのみ有りて、他國に有る事を聞(きか)ず。冬より春、多く出(いづ)るといふ。冬は山にありて「山操[やぶちゃん注:ママ。]」といひ、夏は川に住みて「川太郞」といふと、或人語りき。然れば川太郞と同物にして、所によりて名の替れるものか。

   *

「木ノ子」ウィキの「木の子」によれば、『木の子(きのこ)は、近畿地方に伝わる妖怪』。『奈良県の吉野地方や兵庫県の山間部や森の中にいるとされる妖怪で、同じく山にいる妖怪である山童の一種』。『外観は』二、三歳から三、四歳『ほどの子供のような姿で、木の葉で作った衣服、または青い色の衣服を着ている』。『人間がその姿を見るとまるで影のようで、いるかいないかはっきりしないという』。『普段は群をなして遊んでいる』。『樵や山で仕事をしている人々にはその姿をたびたび見かけられており、彼らにとってはそれほど珍しくない存在という』。『しかし油断をしていると、弁当を盗まれるなどの悪戯をされてしまい、そんなときには棒を持って追い払うという』とある。

「セココ」小学館「大辞泉」に「セコ」の見出しで載り、『日本の妖怪。子供の姿で人々に悪戯をする。九州地方を中心とする伝承で、河童が山に登ったものとされ、「セココ」「セコドン」「セコンボ」「カリコボ」「ヤマンタロウ」などとも呼ばれる』とある。

「杣(そま)」木樵(きこり)。

「木地挽(きぢひき)」木地を粗挽(あらび)きし、その木地のままで、盆・椀・玩具などの細工をする職人。「木地屋」「きじびき」。

「芥子坊主」頭髪を真ん中だけ残して周囲を剃そり落とした乳幼児の髪形。ケシ(キンポウゲ目ケシ科ケシ属ケシ Papaver somniferum)の果実に似ていることに由来する。

「南方熊楠氏報」明治四四(一九一一)年九月二十二日附の南方熊楠の柳田國男宛書簡に拠る。直接の当該部分は後半であるが、全体が河童と密接な関係を持ち、柳田は他の部分からも南方から与えられた情報を恰も自分がオリジナルに見出したかのように流用していることから、やや長いが、全文をこちらで電子化したので、読まれたい。

「大日堂」南方熊楠の前記書簡に出る。和歌山県西牟婁郡にあった旧富田(とんだ)村(現在は白浜町内。ここ(グーグル・マップ・データ))にある、大日如来を安置してある堂。熊楠は『村の大日堂』と書いているので、村持ちのもので、現行、確認は出来ない。

『「カシャンボ」は「火車(カシヤ)」より轉じたる名稱かと南方(ミナカタ)氏は言はるれども、末だ確證を知らず』上記の書簡の後の翌月、同明治四十四年十月八日発信の南方熊楠の柳田國男宛書簡の中に、

   *

前書申し上げしカシャンボ(河童)は火車のことなるべし。火車の伝、今も多少熊野に残るにや、一昨年南牟婁郡辺に死せる女の屍、寺で棺よりおのずから露われ出て(生きたる貌にて)、葬送の輩駭(おどろ)き逃げしということ、『大阪毎日』で見たり。河童と火車と混ずること、ちょっと小生には分からず。

   *

とあるのに基づく。「火車」は「化車」とも書き(私はこの「化」は後代の当て字と思っている)、悪行を積み重ねた末に死んだ者の遺体を葬場や墓場から奪うとされる妖怪で、全国的に分布する。正体を妖怪「猫又(ねこまた)」とすることが多い。以前に注で述べた通り、ブログ・カテゴリ「怪奇談集」でもさんざん出て、注も何度もしてきたが、ここではもう、決定版として先に示した勝田至氏の論文「火車の誕生」(PDFでダウンロード可能)を読まれるに若(し)くはない。

「薩州出水(いづみ)鄕」現在の鹿児島県出水市(グーグル・マップ・データ)。

「鰯」「海鰮(いわし)」「イワシ」という種はいない。本邦では条鰭綱ニシン目ニシン亜目 Clupeoidei に属する、

ニシン科 Clupeidae ニシン亜科マイワシ属マイワシ Sardinops melanostictus

ニシン科ウルメイワシ亜科ウルメイワシ属ウルメイワシ Etrumeus teres

及び、

カタクチイワシ科
Engraulidae カタクチイワシ亜科カタクチイワシ属カタクチイワシ Engraulis japonicus

の三種を「イワシ」と非生物学的に通称総称している。

『奧州にて有名なる「白髮水(しらがみづ)」の傳』「遠野物語」「白髮水」伝説というのは、中古にあったとされる大洪水に纏わる怪奇伝承。私の「佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 二四~三〇 家・山中の異人」の「二八」話と注を参照されたい。

「天壺」どうも形状がイメージできない。識者の御教授を乞う。

「高鍋」現在の宮崎県の中央部の太平洋側にある現在の児湯(こゆ)郡高鍋町(グーグル・マップ・データ)。

「苧(からむし)」イラクサ目イラクサ科カラムシ属ナンバンカラムシ変種カラムシ Boehmeria nivea var. nipononiveaの皮から採った靭皮繊維。ウィキの「カラムシ」によれば、『麻などと同じく非常に丈夫で』、『取り出した繊維を、紡いで糸とするほかに、糾綯(あざな)って紐や縄にし、また』、『荒く組んで網や漁網に用い、経(たていと)と緯(よこいと)を機(お)って布にすれば』、『衣類や紙としても幅広く利用できる。分布域では自生種のほかに』六千『年前から』、『ヒトの手により』、『栽培されてきた。日本において現在自生しているカラムシは、有史以前から繊維用に栽培されてきたものが野生化した史前帰化植物であった可能性が指摘されている。古代日本では朝廷や豪族が部民(専門の職業集団)として糸を作るための麻績部(おみべ)、布を織るための機織部』(はとりべ・はとり・服部)『を置いていたことが見え』、「日本書紀」の持統天皇七(六九三年)の『条によれば、天皇が詔を発して』、『役人が民に栽培を奨励すべき草木の一つとして「紵(カラムシ)」が挙げられている』。『中世の越後国は日本一のカラムシの産地だったため、戦国大名として有名な上杉謙信は』、『衣類の原料として青苧座を通じて京都などに積極的に売り出し、莫大な利益を上げた。新潟県の魚沼地方で江戸時代から織られていた伝統的な織物、越後縮はこれで織られていた。また』、『上杉氏の転封先であった出羽国米沢藩では藩の収入源のひとつであった』し、『この他、江戸時代の有名な産地に陸奥国会津や出羽国最上地方があった』。『国の重要無形文化財に指定されている「小千谷縮・越後上布」の原料であり、福島県会津地方の昭和村で栽培され、本州唯一の産地となっている』とある。

「阿蘇の社僧那羅延坊(ならえんばう)」神仏習合期の社僧とするが、修験道の山伏である。由来は判らぬが、ここにある通り、彼らは古くから河童の司・主(あるじ)とも言われ、代々、河童を鎮める力を持っているとして、河童封じの呪符などをも発行していたらしい。名前は仏教の那羅延天(ならえんてん:漢訳仏典に於けるバラモン教・ヒンドゥー教の最高神の一人ヴィシュヌの異名「ナーラーヤナ」の音写)由来であろう。「是れも亦、同じ鳥の聲などに由りて起りたるならんか」とは、旧暦四、五月という初夏の季節に、那羅延坊のいる阿蘇神社に元に集まるという設定には、ある種のこの広域地域をルートとする「渡り鳥」の大きな群れの鳴き声が関係しているのではないかという推理である。実は本書が刊行される二ヶ月前の、大正三(一九一四)年五月発行の『郷土研究』に柳田國男は「川童の話」という短い記事を書いており(後の「妖怪談義」に収録。後の注で電子化する)、先に出した「川童の渡り」(『野鳥』昭和九(一九三四)年十月発行に初出し、後に「妖怪談義」に収録)でもそうなのだが、「ヒョウスヘ」という河童の異名の一つを、実在する渡鳥ムナグロ(胸黒:チドリ目チドリ科ムナグロ属ムナグロ Pluvialis fulva Gmelinウィキの「ムナグロによれば、本邦へは『旅鳥として春と秋の渡りの時期に全国に飛来する。本州の中部以南の地域では、越冬する個体もある。南西諸島や小笠原諸島では、普通に越冬している』とある。鳴きYou Tube MankoMizudoriムナグロ Pacific Golden Plover が鳴くを聴かれたい。う~ん、さて?)に比定する説(但し、柳田は非常に用心深くそれを支持することを留保してはいる)が示されてあるのである。

「蓬生」は恐らく情報提供者の姓と思われる(読みは「よもぎう」(現代仮名遣)か)。「水虎考略後篇」は正篇完成の十九年後の天保一〇(一八三九)年に、再び古賀侗庵が、より多くの文献から河童譚を集めたものである。

「久留米の尼御前(あまごぜ)」久留米に伝承される尼御前(あまごぜ)と呼ばれる女河童で、筑後川(古くは千歳川とも言った)の河童を総支配していたという女傑河童で、伝承の一つでは、平清盛の正妻時子、二位の尼が変じたものともされるらしい。これは、古賀勝氏のサイト「筑紫次郎の世界」の「伝説紀行」にある「巨瀬川の尼御前カッパ」に詳しいが、福岡県宗像郡東郷村(現在の宗像市)、北九州市門司区大積に伝わる海の妖怪に「海御前」(うみごぜん/あまごぜ)という河童の女親分の伝承もあり、これは同じ平家の剛将能登守教経の妻(或いは母親という説もある)が変じたとするもので、藪野直史野人周年記念+ブログ・アクセス六十七万突破記念 火野葦平 海御前 附やぶちゃん注は彼女を主人公とした一人称小説である。未読の方は、是非、どうぞ。因みに火野作品集「河童曼荼羅」全篇電子化注てあ

「佐賀白山町」現在の佐賀県佐賀市白山。地図はいらないだろう。

「水虎新聞雜記」思うに、これは「すいこしんぎきざつき」と読むのではなかろうか。この本については、柳田國男は大正三(一九一四)年五月発行の『郷土研究』に発表した「川童の話」という短い記事なので、総て以下に電子化する(底本は「ちくま文庫」版全集を使用した。読みは一部に留めた)。

   *

   川童の話

 以前数年間鹿児島におられた石黒忠篤氏は、鳥の声に詳しい人であるが、親しくこのヒョンヒョンを聴いてその話をせられたことがある。その説ではムナグロ(胸黒?)という大きな千鳥の類の群だということである。『水虎考略』後篇の巻三に、日向高鍋の某村において、土堤普請(どてぶしん)の番小屋の側を、夜分になると水虎数百群をなして通る。ある人ぜひその姿を見んと思い、樹蔭に隠れ窺いたれどもどうしても見ることならず。次の夜鉄砲を持参し程を見定めて一発すれば忽然として声を潜めた。水虎の鳴声は飄々(ひょうひょう)と聞える。日州で川童をヒョウスエと呼ぶのはこのためだとある。尾花・石黒二君の説と合致しているが、ヒョウスエの称呼の由来に至ってはいまだただちには信じがたい。

 右の『水虎考略』は後篇の方はあまり世に流布しておらぬ。第三巻の新聞雑記というのは天保年間にある書生が下手な漢文で筆録した三十篇の川童話である。このついでにその中から二三耳新しい箇条を書き抜いておこう。(一)肥後の天草には川童多く住み常に里の子供を海へ連れて行き水泳を教えてくれる。その言う通りにすれば何の害もせぬが、機嫌を損じるとはなはだ怖しい。子供等は時々親に頼み川童を喚んで御馳走をする。その姿小児等の目には見えて父母には見えず。ただ物を食べる音ばかりして帰る時には椀も茶碗も皆空である。これは佐賀の藩士の宅へ奉公に来ていた天草の女中の談。(二)佐賀白山町の森田藤兵衛なる者かつて対馬に渡り宿屋に泊っていると、夜分に宿の附近を多人数の足音がして終夜絶えなかった。翌朝亭主にどうしてこう夜歩きする者が多いのかと聞くと、あれは皆川童です、人ではありません。川童は昼は山におり夜は海へ出て食を求めるので、このごとく多くいても別に害はせぬものだと語った。(三)肥前では人の川童のために殺さるる者あれば、その葬(とむらい)には火を用いしめず。衣類から棺まで白い物を用いさせぬ。これを黒葬といい、黒葬をすればその川童は目潰れ腕腐って死ぬものだという。(四)佐賀高木町の商家の娘十一二歳の者、寺子屋の帰りに隣家の童子に遇い、観成院の前の川で遊ぼうと約束しておいて、家へ戻って食事をし出て行こうとする時、親がこれを聞いて用心のために竈(かまど)の神様を拝ませ、荒神様(こうじんさま)守りたまえとその子の額に竈の墨を塗って出した。約束の童子つくづくと娘の額を見て、お前は荒神の墨を戴いて来たからもう一緒に泳ぎたくないといって憮然として去ったとある。それで川童であることが顕われた。この本にはまだ数十件の川童の話が載せてある。

   *

「今より八、九十年以前」「日州水虎新話」の書誌が不明で、「日高謙三」なる人物も判らぬが、柳田國男のこの書き方からみて、本書刊行(大正三(一九一四)年七月)から逆算でよいようだ。とすれば、一八二四(文政七)年から一八三四(天保五)年でとなる。

「日向の耳川(みみかは)」河口は(グーグル・マップ・データ)。

『「セコ子」は、顏の眞中に大きな眼が一つなり』柳田國男の「一目小僧」の「三」に、以下のようにある(引用は目小僧その他 柳田國男 附やぶちゃん注 始動 / 自序及び「一目小僧」(一)~(三)より。私の注もそのまま引いた)。

    *

 又國は何處であるか知らぬが、有馬左衞門佐殿領分の山には、セコ子といふ物が住んで居た。三四尺程にて眼は顏の眞中に只一つある。其他は皆人と同じ。身に毛も無く何も着ず。二三十づゝ程連れ立ちありく。人之に逢へども害を爲さず。大工の墨壺を事の外欲しがれども、遣れば惡しとて遣らずと杣共は語りけり。言葉は聞えず聲はヒウヒウと高くひびく由なりと、觀惠交話と云ふ書に出て居る。是も同じ時代の事である。

[やぶちゃん注:「有馬左衞門佐殿」「ありまさゑもんのすけどの」と読む。不詳。

「セコ子」「せここ」と読むようだ。それにしても、ウィキもたいしたもんだ。柳田が「國は何處であるか知らぬ」とうっちゃらかしたものが、ちゃんと判る。ィキの「セコ」から引く。「セコ」とは二、三歳ほどの『子供の妖怪で、河童が山に登ったものとされ』、『鹿児島県以外の九州地方と島根県隠岐郡に伝わっている』。『外観は一般には、頭を芥子坊主にした子供のようだとも、猫のような動物とも、姿が見えないともいう。島根の隠岐諸島では』一歳ほどの『赤ん坊のような姿で、一本足ともいう。古書『観恵交話』では、一つ目で体毛がないが、それ以外は人間そっくりとされる。但し民間伝承上においては、セコが一つ目という伝承は見受けられない』。『妖怪漫画家・水木しげるによる妖怪画では、一つ目と二つ目のものが存在する。夜中に、山を歩いていると、楽しそうな声や音が聞こえるのは、このセコによるものとされる。夜は木の周りで踊っているという』(以下注記号を省略した)。『人に対して様々な悪戯を働くともいう。島根県では石を割る音や岩を転がす音をたてるという。宮崎県では山中で山鳴りや木の倒れる音をさせたり、山小屋を揺すったりするという。大分県では山道を歩く人の手や足をつかんでからかう、牛馬に憑く、人をだまして道に迷わせる、怪我を負わせる、人が山に入るときに懐に焼き餅を入れていると、それを欲しがるなどといわれる』。前述の観恵交話では二十~三十人ほどで『連れ立ち、大工の墨壺を欲しがるという。基本的にこちらから手を出さない限り直接的な害はないが、悪戯を受けた際は鉄砲を鳴らす、経を読む、「今夜は俺が悪かった」などと言い訳をするなどの方法が良いという。セコはイワシが嫌いなため「イワシをやるぞ」と言うのも効果があるという』。『山と川を移動するとき「ヒョウヒョウ」「キチキチ」「ホイホイ」などと鳴くという。この「ホイホイ」は、狩猟で獲物を刈り出す勢子(せこ)の掛け声「ほーい ほーい」を真似ており、セコの名はこの勢子が由来とされる。大分では日和の変わり目に群れをなして「カッカ」と鳴きながら山を登るといい、セコが通る道に家を建てると、家の中には入ってこないがその家が揺すられたり、石を投げつけられたりするという』。『熊本県では、セコは老人のような声から子供のような声まで出し、木こりはその声によってセコの機嫌を知るという』。『島根県隠岐諸島では、セコはカワコ(河童)が秋の彼岸に山に入ったものとされる。「ヨイヨイ」「ホイホイ」「ショイショイ」などと鳴き、イタチのように身が軽いので、こちらで鳴き声が聞こえたかと思えば、すぐに別のほうからも鳴き声が聞こえるという。足跡は』一歳ほどの『赤ん坊のものに似ているという。また、セコは年老いた河童のことで、川や溝を一本足で歩くともいわれる』とある。この一歳児の足跡というのは「座敷童子(ざしきわらし)」との連関性を私は強く感じる。

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