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2019/02/02

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(15) 「河童ニ異名多シ」(1)

 

《原文》

河童ニ異名多シ  河童トハ本來何物ナルカ。少クモ我々ノ多數ハ之ヲ何物ナリト信ジツヽアルカ。此問題ニ答ヘンガ爲ニハ、是非トモ順序トシテ河童ノ別名又ハ方言ヲ比較セザルべカラズ。予ハ此迄ハ便宜上東京語ヲ用ヒテ之ヲ「カツパ」ト呼ビタレドモ、是レ單ニ此物ノ名稱ノ一種ニシテ、比較的弘ク採用セラレテアル者ト云フニ過ギザルナリ。【ガタロ】予ガ如キモ幼時之ヲ「ガタロ」ト稱ヘタリ。「ガタロ」ハ恐クハ川太郞ノ義ナラン。「カツパ」ハ卽チ川童(カハワツパ)ニシテ、「ワツパ」トハ小兒ヲ意味スル近世ノ俗語ナリ。【カハタロウ[やぶちゃん注:ママ。以下、同じ。]】畿内及ビ九州ノ一部ニテハ「カハタロウ」、【カワランべ[やぶちゃん注:ママ。以下、同じ。]】【川小僧】尾張ニテハ「カワランべ」又ハ川小僧、【川小法師】伊勢ノ山田ニテ川小法師、【川原小僧】同ジク白子ニテ川原小僧ト云ヒ〔物類稱呼二、本草綱目釋義四十二其他〕、【カウラワロウ】筑前ニ「カウラワロウ」、【ガアラツパ】肥後ニ「ガアラツパ」ナドト云フモ同ジ事ニテ、要スルニ此物ノ人間ニ比シテ形小ナルコトヲ意味スルノミ。【カウゴ】備前・備中等ニ於テ之ヲ「カウゴ」ト呼ブハ、出雲ニ於テ河子ト稱スルニ同ジク、川ノ子ト云フ義ナルコト疑ナシ。備中ニテモ松山ニテハ「カハコウ」ト云ヒ、岡田ニテハ「ガウコ」ト云フ。同國吉備郡川邊村ノ川邊川ノ流レニ河子(カハコ)岩アリ。元ノ名ハ吉田岩、元龜年中松山落城ノ際ニ、吉田左京ガ腹ヲ切ツタル岩ナレドモ、後世ニハ「カハコ」ガ出テ引クゾナドト小兒ヲ嚇スヤウニナリテ、終ニ此名ニ改マリシナリ〔備中話十一〕。同ジ地名ハ遠近ノ諸國ニモ亦多ク存ス。

  備前兒島郡藤大字天城川子石小字川子石

  美作久米郡鶴田村大字和田南年貢田小字川子岩

  丹後熊野郡久美谷村大字栃谷カハゴ石

  信濃北安曇郡八阪村川古石

  甲斐南都留郡船津村大字大富土堀小字川子石

  相模中郡大磯町大字大磯高麗道下小字川子石

  武藏比企郡七鄕村大字越畑川後石

ノ如キハ其例ナリ。【神護石】近年評判ノ「カウゴ」石ナル者ハ、勿論悉ク河童ノ故跡ナリトハ云フ能ハズ。或者ハ革籠石(カハゴイシ)ト書シ又ハ香合石(カウゴフイシ)ト書シテ、其形狀ノ革籠又ハ香合ニ似タルガ故ノ名稱トシ、【神功皇后】或者ハ皇后石ト書キテ神功皇后ノ御遺跡ナドト言ヒ、其他ニモ區々ノアレド要スルニ古クヨリ土地ノ人ノ注意シ尊敬シ居タル石ニシテ、尋常ノ場所ニ非ザリシコトノ外、何等確乎タル明ヲ見出ス能ハズ。而シテ神籬(ヒモロギ)對山城ノ八釜シキ石ノ圓形ノ圍障ハ、此「カウゴ石」ト無關係ナルコトハ次第ニ明白トナレリ。

 

《訓読》

河童に異名多し  河童とは、本來、何物なるか。少くも、我々の多數は、之れを何物なりと信じつゝあるか。此の問題に答へんが爲には、是非とも、順序として、河童の別名、又は方言を比較せざるべからず。予は此れまでは、便宜上、東京語[やぶちゃん注:東京方言。]を用ひて之れを「カツパ」と呼びたれども、是れ、單に此の物の名稱の一種にして、比較的弘(ひろ)く採用せられてある者と云ふに過ぎざるなり。【ガタロ】予がごときも、幼時、之れを「ガタロ」と稱へたり。「ガタロ」は、恐くは「川太郞(かはたらう)」の義ならん。「カツパ」は、卽ち、「川童(カハワツパ)」にして、「わつぱ」とは「小兒」を意味する近世の俗語なり。【カハタロウ[やぶちゃん注:ママ。以下、同じ。]】畿内及び九州の一部にては「カハタロウ」、【カワランべ[やぶちゃん注:ママ。以下、同じ。]】【川小僧】尾張にては「カワランべ」又は「川小僧」、【川小法師】伊勢の山田にて「川小法師」、【川原小僧】同じく白子(しろこ)[やぶちゃん注:現在の鈴鹿市白子(しろこ)。ここ(グーグル・マップ・データ)。]にて「川原小僧」と云ひ〔「物類稱呼」二、「本草綱目釋義」四十二其の他〕、【カウラワロウ】筑前に「カウラワロウ」、【ガアラツパ】肥後に「ガアラツパ」などと云ふも、同じ事にて、要するに、此の物の、人間に比して、形、小なることを意味するのみ。【カウゴ】備前・備中等に於いて、之れを「カウゴ」と呼ぶは、出雲に於いて「河子(カハゴ)」[やぶちゃん注:私の推定訓で、カタカナ書きとした。]と稱するに同じく、「川の子」と云ふ義なること疑ひなし。備中にても松山にては「カハコウ」と云ひ、岡田にては「ガウコ」と云ふ。同國吉備郡川邊(かはべ)村の川邊川の流れに「河子(かはこ)岩」あり。元の名は「吉田岩」、元龜年中[やぶちゃん注:一五七〇年~一五七三年。]、松山落城の際に、吉田左京が腹を切つたる岩なれども、後世には、『「カハコ」が出て引くぞ』などと小兒を嚇(おど)すやうになりて、終(つひ)に此の名に改まりしなり〔「備中話」十一〕。同じ地名は遠近(をちこち)の諸國にも亦、多く存す。

  備前兒島郡藤大字天城(あまき)川子石小字川子石

  美作久米郡鶴田(たづた)村大字和田南年貢田小字川子岩

  丹後熊野郡久美谷(くみたに)村大字栃谷(とちだに)カハゴ石

  信濃北安曇郡八阪村川古石

  甲斐南都留郡船津村大字大富土堀小字川子石

  相模中郡大磯町大字大磯高麗道下(こまみちした)小字川子石

  武藏比企郡七鄕(ななさと)村大字越畑(おつぱた)川後石

のごときは其の例なり。【神護石(かうごいし)】近年評判の「かうご」石なる者は、勿論、悉く河童の故跡なりとは、云ふ能はず。或る者は「革籠石(かはごいし)」と書し、又は「香合石(かうごふいし)」と書して、其の形狀の革籠又は香合に似たるが故の名稱とし、【神功皇后(じんぐうくわうごう)】或る者は、「皇后石」と書きて「神功皇后の御遺跡」などと言ひ、其の他にも區々の[やぶちゃん注:さまざまな。]あれど、要するに、古くより土地の人の注意し尊敬し居(をり)たる石にして、尋常の場所に非ざりしことの外、何等、確乎たる明を見出だす能はず。而して神籬(ひもろぎ)對(たい)山城(やまじろ)の八釜(やかま)しき石の圓形の圍障(ゐしやう)、此の「かうご石」と無關係なることは次第に明白となれり。

[やぶちゃん注:この章、「ちくま文庫」版は読むに堪えない。何故なら、新仮名に否応なしに変換しているため、河童の地方名を平然と変換しているからである。それこそ柳田國男が見たら、淋しそうに微苦笑するだろう。例えば(「→」の下が「ちくま文庫」版で書き直された表記)、

カハタロウ→カワタロウ

カウラワロウ→コウラワロウ

ガアラツパ→ガアラッパ

カウゴ→コウゴ

ガウコ→ゴウコ

である。例えば、最後の「カウゴ」の「コウゴ」、「ガウコ」の「ゴウコ」への書き換えは無条件に本当に正しい(歴史的仮名遣の機械的な現代仮名遣への変換を絶対真理定則とすること。にしたって柳田國男自身が「カハタラウ」とすべきを「カハタロウ」としている誤りを変換者はどうするのか? これは取りも直さず、実は確かに「かはたろう」(「かわ」ではなく、だ)と当地の人間が発音していた可能性を排除できないぞ?!)と言えるのだろうか? 「ちくま文庫」の編者は実際にそれぞれの現地に赴いて、その発音を実地に聴取して変換したのだろうか? 私は、こうして民俗資料は変形してゆくのかも知れぬと、そら恐ろしい気がしたものである。

「白子(しろこ)」現在の鈴鹿市白子(しろこ)。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「備中」「松山」現在の岡山県高梁(たかはし)市内山下(うちさんげ)ここ。にあった備中松山城に由来する古地名。

「岡田」現在の岡山県倉敷市真備町岡田か。ここ

「同國吉備郡川邊村」岡山県倉敷市真備町川辺。ここ

「松山落城の際に、吉田左京が腹を切つたる岩なれども」「高梁市」公式サイト内の「備中松山城の沿革」に、永禄四(一五六一)年に『安芸の毛利元就の支援を得た成羽鶴首城』(なりわかくしゅじょう)『(現高梁市成羽町)城主の三村家親(みむらいえちか)が備中松山城を攻め、尼子氏の加番吉田左京亮(よしださきょうのすけ)を討ち破り、備中松山城主とな』ったとある人物であろうか。

「備前兒島郡藤大字天城(あまき)川子石小字川子石」現在の岡山県倉敷市藤戸町天城。ここ。その倉敷川左岸のどこかと思われる。

「美作久米郡鶴田(たづた)村大字和田南年貢田小字川子岩」岡山県岡山市北区建部町鶴田。ここ。但し、地図を拡大して見て戴けば判る通り、同地区の中心部で旭川は堰き止められて、上流部に旭川湖が出来ているから、この地区は大きく変化しているものと思われる。「年貢田」の地名の読みは不明。「ねんぐだ」と一応は読んではおく。

「丹後熊野郡久美谷村(くみたに)大字栃谷(とちだに)カハゴ石」京都府京丹後市久美浜町栃谷。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「信濃北安曇郡八阪村川古石」長野県大町市八坂ここ。この地区内の現在の狭義の八坂地区は、地区東端の犀川の方ではなく、中央の国土地理院図のここで、この八坂地区の西を南流する川が流れており、推理するに、この川辺附近ではなかろうか。但し、ウィキの「八坂村(長野県)」を見ても、明治八(一八七五)年二月に『筑摩県安曇郡大平村・相川村・切久保村・大塚(だいづか)村・野平村・舟場村・左右村・槍平(うつぎだいら)村および丹生子村の一部(枝郷菅の窪)が合併して八坂村となる』とあり、「八阪」の表記は見られない。柳田國男の誤記の可能性もある。

「甲斐南都留郡船津村大字大富土堀小字川子石」山梨県南都留郡富士河口湖町船津は河口湖南岸のここ「山梨日日新聞社 YBS山梨放送」の共同サイト「富士山NET」の「地名の由来は?=大富村(おおとみむら)」によれば、近世、富士北麓の河口湖南岸にあった船津村と小立村の二村が、明治八(一八七五)年に合併して大富村となった。この村名は、『往古』、『この地方を流れていたといわれている大田川(おおたがわ)の』「大」『と、南』の『空にそびえる富士山の』「富」『を合成したと伝えている』。当初は『都留郡に属し』、明治一一(一八七八)年から、『郡名変更により』、『南都留郡に所属』し、明治二二(一八八九)年には『分村して船津村、小立村とな』ったが、昭和三一(一九五六)年には』、『再度』、『合併して河口湖町の地区となる』。その後、二〇〇三年十一月、『河口湖町、勝山村、足和田村が合併して富士河口湖町とな』ったとある。この記載からは、柳田の記す「船津村大字大富」という地名は、実は大富村時代の近代に新たに与えられた大字地名であることが判る。さて、上記リンク先の船津地区は、国土地理院図で見ても、小流れ一つ、見出せない。その遠い昔にここに流れていたという幻しの川「大田川」の河童だったのか? いや、待てよ? しかし、河口湖があるぞ? 池に住む河童が大きな湖に住んでいたっておかしか、ない。そこで調べてみると、河口湖には河童伝承があることが判った。しかも、腕を取られたのでもなく、咎められたのでもないのに、家内の炙り魚を盗んだお詫びに、自発的に! 万能膏薬の製法書きを置いて行ったという驚天動地の話が載るのである! 「富士五湖観光連盟」の公式サイト富士五湖ぐるっとつながるガイド」の「かっぱめし」のページから引く。『昔々、河口湖には河童が住んでいて、人間ともうまくやっていた。人々は、河童には神通力があり、何にでもよく効く万能薬を持っているとも信じていたという。河口湖には、河童にまつわるいくつもの伝説が、今も伝えられている』。『ある年のこと、湖畔の庄屋さんの家に誰かが忍び込み、保存用のあぶり魚を持ち去っていくという出来事が続いたそうな。あぶり魚が無くなった日は、決まって辺りが濡れているので、庄屋さんの家では「どうやら河童の仕業らしい」と、諦めていたそうな』。『ある晩のこと、庄屋さんは、囲炉裏のそばで巻紙を見つけたそうな。「こんなところに誰が置きっぱなしにしたんだろう?」不思議に思って広げてみると、河童膏の作り方が書いてあったそうな。「さては、河童があぶり魚を盗んだお礼にと、置きみやげをしていったのだな」。そう思った庄屋さん、試しに作ってみたところ、病気や傷、腫れものにも、効果てきめん!』 『庄屋さんはこの薬のおかげで、大金持ちになったとさ』。『これは、河口湖に伝わる河童伝説のひとつ、「河童の膏薬」というお話。実際に、かつて河口湖周辺では、はまぐりの貝殻に入れられた塗り薬「河童膏」が売られていて、名薬として人気を博したと言う』というのだ! これ、この地名を出す以上、柳田國男は河童伝説を知っていたはずだ。だのに、何故、書かなかったのか? 人も怒らず、腕も斬られず、自身の謝罪意識から秘薬の製法を人間に伝えたというコンセプトが、今までの骨接ぎコンセプトの定式と、全然、マッチしないからだ。こういう都合の悪い例を除去するのは彼の得意とするところで、「蝸牛考」の「方言周圏論」でも、合致しないカタツムリの呼称をわざと採録していなかったりするのだ。これはそれこそ現在、データ操作や捏造で科学論文を書いて指弾されるのと、全く同等なのであって、柳田國男の「民俗学」なるものが、フロイトの汎性論的「精神分析学」のように、今一つ、どこか、胡散臭いものを感じさせる所以である。

「相模中郡大磯町大字大磯高麗道下(こまみちした)小字川子石」神奈川県中郡大磯町高麗(こま)の花水川右岸のどこかであろう。

「武藏比企郡七鄕(ななさと)村大字越畑(おつぱた)川後石」埼玉県比企郡嵐山町越畑(おっぱた)。ここ。地区の南西端を市野川が流れる。さても。「ちくま文庫」版全集の編者がいい加減な仕儀で読みを振っていることが判った。この「越畑」にはルビがない。誰がこれをルビ無しで「おっぱた」と読むか? 現地を知る人以外は「こしはた」としか読まんだろ!

「神護石(かうごいし)」『近年評判の「かうご」石』「神籠石」とも書き、現代仮名遣では「こうごいし」。福岡県久留米市高良大社を廻(めぐ)る切石(きりいし)列石を、古く「神籠石」と呼んでおり、九州から瀬戸内一帯に見られる山を廻る列石遺跡を、この名で呼ぶようになった。高良大社のそれから、神域を示す施設、ここに言う「神籬(ひもろぎ)」とする説もあったが、近年の調査により、古代の山城であることが判明した。福岡・佐賀・山口・岡山・香川で十三ヶ所が判明している。山の尾根や斜面に数キロメートルにも亙って列石や土塁を築き、門が設けられている。朝鮮式山城(やまじろ)との密接な関係があると考えられ,時代も同じ六世紀後半から七世紀頃に構築されたものと推定されている(以上は平凡社の「マイペディア」と「世界大百科事典」をカップリングした)。

「神功皇后」記・紀にみえる仲哀天皇の皇后。名は気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)。父は開化天皇の曾孫である気長宿禰(おきながのすくね)王。「日本書紀」によれば、仲哀天皇八年に、天皇の熊襲(くまそ)征討に従い、筑紫に赴いたが、天皇が急死、翌年には、自ら、兵を率いて新羅(しらぎ)を征服、百済(くだら)・高句麗(こうくり)をも帰服させたとする。帰国後に応神天皇を出産、国政を六十九年に亙ってとりしきり、百歳で没したという伝説の女傑。彼女に纏わる伝承地や遺跡とするものは西日本に数多く見られる。

「革籠」「かわご」(現代仮名遣)は、竹や籐(とう)などで編んだ上に皮革を張った蓋付きの籠。後には紙張りの箱や行季なども、かく称した。

「香合」「こうごう」(現代仮名遣)は、香を収納する蓋付きの小さな丸い円盤状の容器。

「神籬(ひもろぎ)對(たい)山城(やまじろ)の八釜(やかま)しき石の圓形の圍障(ゐしやう)」:「神籬(ひもろぎ)」とは、「ひ」は「霊」を、「もろぎ」は「籬(まがき)によって神を守る」の意とされ、神霊が憑依している山・森・老木などの周囲に常磐木を植え。玉垣を結んで、神の座、「神籬(ひもろぎ)」とした(或いはそう見なされた)ものを指す。「山城(やまじろ)」は古代から中世辺りまでの実用的な山寨(さんさい)、防衛装置として山の地形を利用したり、植林したり、石垣を積んで「山城(やまじろ)」・砦としての主に実用的軍略上の目的で建造されたもの。古くより、各地の山や丘陵地に存在する遺跡を神道家や国学者は何かというと、そうした遺跡を「神籬」と断じてきたが、近世・近代以降、その中の有意なものが、欠損した古墳や実用的な住居、特に城砦跡であることが判明してきた。そうした議論や発掘による論争を指して言っているものであろう。]

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