フォト

カテゴリー

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 吾輩ハ僕ノ頗ル氣ニ入ツタ教ヘ子ノ猫デアル
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から
無料ブログはココログ

« 2019年2月 | トップページ | 2019年4月 »

2019/03/31

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(1) 「葦毛ノ駒」(1)

 

《原文》

 

    馬  蹄  石

 

葦毛ノ駒  美濃ノ加子母(カシモ)ニ於ケル河童駒引ノ故跡ハ、其地名ヲ葦毛淵ト云フコトハ既ニ述べ了ンヌ。カノ猿神ガ馬ノ保護者ニシテ更ニ馬ノ害敵ナリシト同ジク、葦毛ハ馬ノ最モ靈異ナルモノナルト同時ニ、又最モ災厄ニ罹リ易キモノト考ヘラレシ時代アリ。【ダイバ】例ヘバ馬ヲ襲フ魔物ニ、「ダイバ」又ハ「ギバ」ト云フ物アリ。今ノ今マデ達者ニ步キシ馬モ、此物ニ遭フトキハ忽然ト狂ヒ騰リテ死ス。江州大津ノ穢多ノ娘死シテ「ダイバ」トナルト云ヒ、大津馬仕合吉(シアハセヨシ)ト染拔キタル腹掛ヲ馬ニサセルト、其災ヲ防ギ得ト傳フ。美濃・尾張邊ニテハ、「ダイバ」ニ懸ケラルヽハ白馬ニ限ルトモ、又ハ葦毛ノ駒ガ懸ケラレヤスシトモ謂フトナリ〔想山著聞寄集一〕。【瓶】美作苫田郡二宮村ノ瓶淵(カメガフチ)ニハ、河童ノ話ハ傳ヘザレド、往昔此邊ガ街道ナリシ時、瓶ヲ負ヒタル葦毛ノ馬水底ニ落チ沈ミタルヨリ土地ノ名トス。【雨乞】寬永二年ノ旱魃ニハ國中ノ僧此淵ノ邊ニ集リテ雨乞ヲ爲セシコトアリ〔山陽美作上〕。前ニ擧ゲタル武藏荏原郡駒澤村大字馬引澤ニハ、目黑村大字上目黑トノ境ニ葦毛塚アリ。【ヤチ】是レ例ノ右大將賴朝ノ愛馬ニシテ、將軍巡歷ノ節此村ノ沼地(ヤチ)ノ中ニ陷リテ斃ルト云フ。今ノ葦毛田ハ即チ其故跡ナリ。【駒繋松】同村子神丸ニハ駒繋松アリ。曾テ其葦毛ヲ繋ギタリト稱ス。豐多摩郡代々幡村大字代々木一本松ニモ、以前鞍掛松、一名ヲ駒繋松ト云フ名木アリ。八幡太郞奧州征伐ノ折此地ニ於テ七日ノ物忌ヲ爲ス。此松ハ當時葦毛ノ馬ヲ繋ギ置キシ木ナリト云フ〔以上新編武藏風土記稿〕。此等ノ「コマツナギ」ハ共ニ馬ノ野牧ノ祈禱場ナリシコト、諸處ノ馬洗モシクハ「牛クヽリ」ト同ジカルべシ。而モ葦毛ノ斃レタリシ因緣ト稱シテ馬引澤ノ一村ニハ今モ猶葦毛ノ馬ヲ養ハズ〔四神地名錄〕。【馬上咎メ】同ジ荏原郡ノ蒲田村大字蒲田新宿ニ於テハ、八幡社ノ境内ニ以前靈アル物ヲ埋メシト云フ古塚アリ。葦毛ニ乘リテ此塚ノ前ヲ過グレバ必ズ落馬ス〔新編武藏風土記稿〕。如何ナル理由アルカヲ傳ヘズト雖、恐クハ亦之ト似タル口碑ヲ有セシ馬塚ナラン。

 

《訓読》

 

    馬  蹄  石

 

葦毛の駒  美濃の加子母(かしも)に於ける河童駒引の故跡は、其の地名を葦毛淵と云ふことは既に述べ了(をは)んぬ。かの猿神が馬の保護者にして更に馬の害敵なりしと同じく、葦毛は馬の最も靈異なるものなると同時に、又、最も災厄に罹り易きものと考へられし時代あり。【ダイバ】例へば馬を襲ふ魔物に、「ダイバ」又は「ギバ」と云ふ物あり。今の今まで達者に步きし馬も、此の物に遭ふときは、忽然と狂ひ騰(たけ)りて死す。江州大津の穢多の娘、死して「ダイバ」となると云ひ、大津馬仕合吉(しあはせよし)と染拔きたる腹掛を馬にさせると、其の災ひを防ぎ得と傳ふ。美濃・尾張邊にては、「ダイバ」に懸けらるゝは白馬に限るとも、又は葦毛の駒が懸けられやすしとも謂ふとなり〔「想山著聞寄集」一〕。【瓶(かめ)】美作(みまさか)苫田(とまた)郡二宮村の瓶淵(かめがふち)には、河童の話は傳へざれど、往昔、此の邊りが街道なりし時、瓶を負ひたる葦毛の馬、水底に落ち沈みたるより、土地の名とす。【雨乞(あまごひ)】寬永二年[やぶちゃん注:一六二五年。]の旱魃には國中の僧、此の淵の邊に集まりて雨乞を爲せしことあり〔「山陽美作」上〕。前に擧げたる武藏荏原郡駒澤村大字馬引澤には、目黑村大字上目黑との境に葦毛塚あり。【ヤチ】是れ、例の右大將賴朝の愛馬にして、將軍巡歷の節、此の村の沼地(やち)の中に陷りて斃(たふ)ると云ふ。今の葦毛田は、即ち、其の故跡なり。【駒繋松(こまつなぎまつ)】同村子神丸(ねのかみまる)には駒繋松あり。曾つて其の葦毛を繋ぎたりと稱す。豐多摩郡代々幡(よよはた)村大字代々木一本松にも、以前、鞍掛松、一名を駒繋松と云ふ名木あり。八幡太郞、奧州征伐の折り、此の地に於いて、七日の物忌(ものいみ)を爲す。此の松は、當時、葦毛の馬を繋ぎ置きし木なりと云ふ〔以上「新編武藏風土記稿」〕。此等の「こまつなぎ」は、共に馬の野牧(のまき)の祈禱場なりしこと、諸處の「馬洗(うまあらひ)」もしくは「牛くゝり」と同じかるべし。而も葦毛の斃れたりし因緣と稱して、馬引澤の一村には、今も猶ほ、葦毛の馬を養はず〔「四神地名錄」〕。【馬上咎め】同じ荏原郡の蒲田村大字蒲田新宿に於いては、八幡社の境内に、以前、靈ある物を埋(うづ)めしと云ふ古塚あり。葦毛に乘りて此の塚の前を過ぐれば、必ず、落馬す〔「新編武藏風土記稿」〕。如何なる理由あるかを傳へずと雖も、恐らくは亦、之れと似たる口碑を有せし馬塚ならん。

[やぶちゃん注:「美濃の加子母(かしも)に於ける河童駒引の故跡は、其の地名を葦毛淵と云ふことは既に述べ了(をは)んぬ」先行する「河童駒引」の「馬ニ惡戲シテ失敗シタル河童」のここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)であるが、謂いが杜撰。そこでは、「美濃惠那郡付知(ツケチ)町」とし、淵の名を「驄馬淵(アシゲノフチ)」と柳田國男は記しているからである。「付知町」は現在の岐阜県中津川市付知町でここ「加子母(かしも)」はその西北で接する現在の岐阜県中津川市加子母でここである。同一の伝承地を違った地名で呼んでいる上に淵の漢字表記も異なるというのは、読者に対して頗る不親切と言わざるを得ない。

『例へば馬を襲ふ魔物に、「ダイバ」又は「ギバ」と云ふ物あり。今の今まで達者に步きし馬も、此の物に遭ふときは、忽然と狂ひ騰(たけ)りて死す。江州大津の穢多の娘、死して「ダイバ」となると云ひ、大津馬仕合吉(しあはせよし)と染拔きたる腹掛を馬にさせると、其の災ひを防ぎ得と傳ふ。美濃・尾張邊にては、「ダイバ」に懸けらるゝは白馬に限るとも、又は葦毛の駒が懸けられやすしとも謂ふとなり〔「想山著聞寄集」一〕』ハイ! これは、もう二年前にテツテ的に電子化注している「想山著聞奇集 卷の壹 頽馬(だいば)の事」である。そこでは「ダイバ」の科学的な正体の可能性もオリジナルに探っており、柳田の以上の梗概に対応する注もしてあるので、是非、参照されたい。付け加えるべきものは何もない。それほど、リキを入れてやった仕事ではある。

「美作(みまさか)苫田(とまた)郡二宮村」岡山県津山市二宮であろう。因みに、前に「河童ト猿ト」のところの「猿猴淵」の例として出た「美作苫田郡東一宮村大字東一宮猿淵」、現在の岡山県津山市東一宮は、ここの東北凡そ四キロメートルと近い。

「前に擧げたる武藏荏原郡駒澤村大字馬引澤には、目黑村大字上目黑との境に葦毛塚あり」「駒引錢」の「駒澤村の馬引澤には賴朝の愛馬の塚あり」で注した、祐天寺駅の西北に当たる東京都世田谷区下馬と、東京都目黒区五本木の境に現存する「葦毛塚」のこと。ここ(以下はリンク先の私の注を読まれたい)。

「ヤチ」「沼地(やち)」湿地・沼沢地を指す民俗語彙で、アイヌ語でも「湿地」の意であると、所持する松永美吉著「民俗地名語彙事典」にある。

「葦毛田」今回、新たに調べたところ、個人ブログ「古墳なう」の「葦毛塚」を発見、そちらに、

   《引用開始》

 この葦毛塚の由来については諸説あるようで、古くは江戸時代の地誌、『新編武蔵風土記稿』には「葦毛塚 下馬引沢ノ内、上目黒村ノ境ニアリ。凡二間四方ノ塚ナリ。土人ノ説ニ、昔頼朝卿葦毛ノ馬ニ乗テ此塚ヲスギ給フ時、馬驚キテ沢中ニ陥リ、忽チ死シタリシヲ埋メシ所ト云。コノ塚目黒村ノ境ナルユへ、カノ村民アヤマリテ己ガ村内トオモヒ、コノ塚ヲ半ウガチシニヨリ、当村ヨリ来由ヲ語リテトドメシトゾ。今モ塚ノ形半面ハ損セリ。又此側ニ葦毛田ト云所アリ。コレハ馬ノ陥リシ沢ヲ新墾シテ水田トナセシガ、後水モカレタレバ、今ノゴトク陸田トナレリト。」とあり、また昭和37年(1962)に東京都世田谷区より発行された『新修 世田谷区史 上巻』には、「葦毛塚 文治の昔源頼朝が奥州征伐に向った時、葦毛の馬に乗って此の地を通った時、騎馬何者かに驚いてあばれ、遂に沼沢に深く陥った。近侍の武士がようやく其の馬を引上げたが、まもなく死んでしまった。今の葦毛塚は、其の馬を埋めた所であるといっている。また葦毛田の小字は其の故事に因んだ名であると伝えられ、それから馬引沢の名が起ったという」と書かれています。

   《引用終了》

とある。地図でもこの「葦毛塚」、不思議な場所――道のど真ん中――にあることが判るが、引用元には判り易い写真があり、その現在の車道の異様な感じがよく判る。必見!

「同村子神丸(ねのかみまる)には駒繋松あり」これは現在の世田谷区下馬にある駒繋神社のこと(同地図内で東北東五百八十メートルほどの位置に前の「葦毛塚」を確認出来る)。東京都・首都圏の寺社情報サイト「猫の足あと」の「駒繋神社」によれば、創建年代は不詳であるが、天喜四(一〇五六)年、源八幡太郎義家が父頼義とともに朝命を受けて奥州安部氏征討(「前九年の役」)に向かった折り、当社で戦勝祈願をしたと伝えられ、また、源頼朝も「葦毛塚」とは別に、奥州藤原泰衡征伐の際、当社の松の木に馬を繋いで戦勝祈願をしたと伝えられるとあり、引用されてある「せたがや社寺と史跡」の駒繋神社の由緒書きに、この社は昔から「子の神」と呼ばれていたとし、源義家の武運を記した後、『少なくとも』、『これ以前に里人たちによって出雲大社の分霊を勧請し』、『守護神として祀ったことは明らかである』とし、源頼朝の奥州征伐に向かう途次、『この地を通過する時、祖先義家が本社に参拝したのを回想し、愛馬』葦『毛を境内の松の木に繋いで参拝したので、駒繁神社とも称するようになった』とする。『以上は社伝によったものであるが、江戸時代の様子は「江戸名所図会」に』、『「正一位子明神社、二子街道、下馬引沢邑道より左の方、耕田を隔てて丘の上にあり、別当は天台宗宿山邑寿福寺兼帯、子明神の前、今田畑となれる地は、旧名馬引沢といえども、今は上中下と三つに分れたる邑名となれり」とあ』り、さらに『「武蔵風土記稿」には』、『「子ノ神社、除地五段、下馬引沢ノ内小名子ノ神丸ニアリ、ソノ処ノ鎮守ナリ。コノ社ノ鎮座ノ年歴ヲ詳カニセズ。本地仏ハ文殊菩薩ノ由イエリ。本社九尺ニ二間、拝殿二間ニ三間、社地ノ入口ニ柱間八尺ノ鳥居ヲ建、コレヨリ石段二十五級ヲ歴テ社前ニ至ル。又本社ノ未ノ方ニモ同ジ鳥居一基アリ。末社稲荷社、本社ノ左右ニワヅカナル祠、一祠ヅツアリ」』『と記されているので、この時代にも有名な神社であったことがわかる』(太字下線は私)とある。さても本神社の祭神は現在も大国主命であるが、彼の使いは鼠であることから、多くの彼を祭神とする神社は、甲子(きのえね)の日に祭事を行ってきた。そこから「子(ね)の神様」と呼ばれたのである。「丸」は一説に「村(むら)」の転訛ともされ、また、鎌倉時代の「名田(みょうでん)」(平安時代から中世に於いて荘園・国衙領(公領)の内部を構成した基本単位・徴税単位)の名残ともされ、ここがハイブリッドに正統直系の源氏所縁の場所であることを考えると、特にそうした霊験あらたかな場所として幕府から特別な扱いをされていたのかも知れない。ともかくも、以上が、私がこれを「ねのかみまる」と訓じた理由である。万一、読みが違うようであれば、御教授戴きたい。

「豐多摩郡代々幡(よよはた)村大字代々木一本松」現在の東京都渋谷区代々木附近であるが、調べたところ、直近北の東京都渋谷区富ケ谷一丁目31−1にあったことが判明した。個人サイト「東京都渋谷区の歴史」の「鞍掛の松 伝承地」に、渋谷区教育委員会の記載として、『現在では道路となっていますが、この付近には、かつて「鞍掛の松」と呼ばれていた名木がありました』。『この松については、江戸時代でも早い時期に編纂された「江戸鹿子」には、「所の人ハ古ヘ右大将源頼朝奥州征伐の時、此野に来、土肥月毛と云馬を此木につなき、同く鞍を此木に懸給ふ云、此木枝たれて木形面白く又比類なき松なり、」と記され、頼朝が欧州征伐の折、鞍をかけた松として紹介しています』。『また、「江戸鹿子」よりのちに書かれた「江戸砂子」では、頼朝でなく義家が奥州征伐(後三年の役)に行ったときの話としています。いずれにしても区兄にある伝承地(旗洗池・勢揃坂)と同じく、関東地方特有の源氏伝承のひとつといえましょう』。『松は、幕末・明治の激動期に枯死し、新しい松が昭和』一七(一九四二)年か翌年『頃まで存在していたようですが、道路(山手通り)の拡幅工事のため取り払われてしまいました』とある。間違いない。但し、こうした義家或いは頼朝が馬を繫いだとする松は、江戸及びその周縁に複数存在したことも判った。

「荏原郡の蒲田村大字蒲田新宿」「八幡社」現在の東京都大田区蒲田にある蒲田八幡神社かと思われる。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの左頁の「古塚」の記載が柳田國男の引用の「新編武藏風土記稿」のそれこの神社の境内には小さな古墳(円墳)があったとウィキの「蒲田八幡神社」にある。それがこの塚の正体に違いないと私は思う。しかし、柳田は「如何なる理由あるかを傳へずと雖も、恐らくは亦、之れと似たる口碑を有せし馬塚ならん」と言っているが、本当にそうだろうか? 柳田は「一目小僧その他」(私は全篇電子化オリジナル注をここで完遂している)の椀貸伝説の論考の中でも、実在する古墳と椀貸伝承を結びつけることを異様なほどに厭がっている(近代西欧的な考古学が自分の創建した民俗学に侵犯するのを生理的に嫌悪した非学術的意識の結果であると私は思っている)。ここも考古学的な古墳であった可能性(現在は事実。蒲田八幡神社境内古墳として認定されている)を完全に隠蔽し、無理矢理、民俗伝承としての馬を埋めた謂われのある「馬塚」なのだと強引に言っているように私には思えてならない。

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 山羊(やまひつじ) (ヤギ・パサン)

Yamahituji

 

 

 

やまひつし 野羊 羱羊

 

山羊

 

サンヤン

 

本綱山羊【羊在原野者故名】似羚羊而色青大如牛善鬪至死其

角長惟一邊有節節亦疎大不入藥用堪爲鞍橋其皮厚

硬其肉頗肥有大小二種大者角盤環肉至百斤

 

 

やまひつじ 野羊 羱羊〔(げんやう)〕

 

山羊

 

サンヤン

 

「本綱」、山羊【原野に在る羊なり。故に名づく。】羚羊〔(かもしか)〕に似て、色、青。大いさ、牛のごとし。善く鬪ひて、死に至る。其の角、長く、惟だ一邊に〔のみ〕節〔(ふし)〕有り。節も亦、疎大にして[やぶちゃん注:大きいが粗雑であるから。]、藥用に入れず。鞍橋(〔くら〕ぼね)に爲〔(す)〕るに堪へたり。其の皮、厚く硬し。其の肉、頗る肥え、大小二種有り、大なる者は、角、盤環し、肉、百斤[やぶちゃん注:明代の一斤は五百九十六・八二グラムであるから、五十九・六八キログラム。]に至る。

[やぶちゃん注:既出の畜類の「羊」(哺乳綱鯨偶蹄目ウシ科ヤギ亜科ヤギ族ヤギ属 Capra)は古くから家畜化されていたので(ウィキの「ヤギ」によれば、『新石器時代の紀元前』七『千年ごろの西アジアの遺跡から遺骨が出土しており、家畜利用が始まったのはその頃と考えられている。従って、ヤギの家畜化はイヌに次いで古いと考えられる。しかしながら、野生種と家畜種の区別が難しく、その起源については確定的ではない。またパサン(ベゾアール)が家畜化されたと考えられているが、ヤギ属他種との種間雑種に由来する説もある』とある)、ここはそれが野生化したものととってよかろう。現行では、前に出た家畜のヤギの原種として現生するヤギ属パサン(ノヤギ・野山羊)Capra aegagrus が考えられているが、同種は、現在、中国には棲息しない。しかし、アゼルバイジャン・アルメニア・イラン・グルジア・トルクメニスタン・トルコ・イラン東部・パキスタンといった中国の西方一帯が棲息地であり、同種の繁殖期の♂は♂同士で直立して角を強調して威嚇したり、角を激しく打ちつけ合って争うので、これを同定種に挙げても問題はないかも知れない。本文では「大なる者は、角、盤環」、大きな個体では角が輪のように廻っている、と言っており、パサンは♂♀ともに有角で、半月状を成し、先端が内側へ向かう♂では最大一メートル三十センチメートルを超すサーベル状を成し(♀の角は約二十~三十センチメートルで短い)、ウィキの「パサン」によれば、『角の断面は扁平な三角形』で、『角の基部から上部後方にかけて稜状の隆起があり、先端方向の稜には瘤がある』。『角の表面にはわずかに横皺が入る』とあって、本文の「節」の叙述とも類似性があるように思われる。

 

「羚羊〔(かもしか)〕」前項

「善く鬪ひて、死に至る」単に闘争の様子が激しいことを指し、ヤギ類では相手を死に至らせるまでの闘争をすることは、まずない。人間とは違う。

「大小二種有り」パサンには亜種が三種(カフカスパサンCapra aegagrus aegagrus・シンドパサンCapra aegagrus blythi・クレタパサンCapra aegagrus cretica。但し、最後のそれはクレタ島のみなので外れる)いるが、これは恐らく雌雄や年齢差の違いであろうと思われる。

「鞍橋」実際に和語でこれで「くらぼね」と読む。馬具の一種。鞍の主要部分を指すが、鞍橋を単に「鞍」という場合もある。前輪 ・後輪(しずわ)・居木(いぎ)から成る。本来は革製であったが、獣骨も使ったのであろう。本邦の一般的なそれは木製であったようで、正倉院に朝鮮鞍式 (大陸系) のものと和鞍式の二種類が残る。]

本日の原民喜はこれまで

後、二篇を原民喜の忌月に電子化するつもりであったが、「夜景」の衝撃が激し過ぎ、それは後日とすることとした。

原民喜 夜景

 

[やぶちゃん注:昭和一四(一九三九)年五月号『三田文學』初出。

 底本は一九七八年青土社刊原民喜全集「Ⅰ」を用いたが(底本では「拾遺作品集Ⅰ」のパートに配してある)、以上の書誌データや歴史的仮名遣表記で拗音・促音表記がないという事実及び原民喜の幾つかの自筆原稿を独自に電子化してきた私の経験に照らして(彼は戦後の作品でも原稿では歴史的仮名遣と正字体を概ね用いている)、漢字を概ね恣意的に正字化することが、原民喜自身の原稿原型に総体としてより近づくと考え、今までの私のカテゴリ「原民喜」のポリシー通り、そのように恣意的に処理した。

 因みに、本篇は現在、ネット上では公開されていないものと思われる。

 それにしても――このブラック・ユーモアの幻想譚は、後の、驚くべき忌まわしいカタストロフの予言の書となっているではないか!?!

【2019年3月31日公開 藪野直史】]

 

 夜 景

 

 深夜の街の上には、南風が煽り出す眞綿のやうな白い薄雲が、三日月の光に照らされてふわふわと動いてゐた。塀から突出たポプラの枯木が、淡い影を落してゐる往來を、輕い塵が街燈の下へ流されてゐた。街燈の燈は睦むたさうに微かな瞬をした。その、ひよろひよろの柱を、小さな蜘蛛が這ひ登つて行つた。蜘蛛が這ひ登つて行く柱の裏側には、糸屑のやうな蟲が弱々しげにぢつと留まつてゐた。遠くの方で猫の妖しげな呼聲が聞えた。もつと遠くの方では犬の狂ほしげな聲が、時々休止をおいては續いてゐた。

 しかし、今耳を澄すと、誰か人間の跫音がこちらへ近づいて來る。草履を穿いてゐる人間らしいのだが、どうも陀しげな跫音だ。と思ふうちに、その人間の姿は向の角から現れた。そして今度は何か決然たる調子に跫音が變つた。ポプラの影の突出たコンクリートの塀の處まで來ると、彼はちよつと頭を上にあげて頤で、塀の高さを見計つてゐた。が、やがて事もなげにするすると身を飜へして、巧みに塀に登つて行つた。泥棒らしくもない細つそりした優男なのだが、到頭、塀のてつぺんに腰を下したかと思ふと、どうしたものかそれからさきは身動きをしなくなつてしまつた。もう向側へ飛降りさへすればよささうなものを、急に安心でもしたのか悠々と兩足を塀のてつぺんに掛けたまま動かないのである。ところが更に奇妙なのは、さうしてゐるうちに、塀の上の泥棒は微かに鼾をかき出した。その鼾ほ始めは靜かに絃を搖さぶるやうな響であつたのが、忽ち熟睡へ陷つたのか、轟然たる砲聲の如くあたりに鳴渡つた。その時には、しかし、もう四方八方から鳴渡つて來る家々の鼾の渦卷のために、泥棒の鼾も卷込まれてしまつた。今、鼾といふ鼾、屋根といふ屋根が、この街に棲む人間達の吐く物凄い鼾によつて搖れ出してゐた。

 そして、泥棒が熟睡してゐる塀から三〇米と離れてゐない角の交番でも、そこでも、四角な小さな建物が一人の巡査の發する鼾によつて滿たされてゐた。交番の硝子窓は四方八方から響いて來る鼾のために、メリメリと壞れさうになつてゐた。ここのテーブルに打伏せてゐるお巡りさんは、さつきまでは頻りに大きな帳面を繰つてペンで何事かを書入れてゐたのだつたが、不意と趾の方からこみ上げて來るあくびをした拍子に、まるで頤がもげさうな大あくびになつてしまひ、それからさきは、どうにもかうにも、不可抗力の魔睡に襲はれてしまつた。

 交番から東の方へ一直線の道路が停車場へ走つてゐたが、途中にコンクリートの橋が架けられてゐた。その橋の中程では、ダツトサンが一臺、橋の欄杆に衝突したまま留まつてゐた。運轉臺には若い男が手袋を嵌めた兩手をだらりとハンドルの上に投出して、圓い肩を波打たせながら鼾をかいてゐた。その鼾を叱陀するやうに、坐席の方からはもつとすさまじい鼾が發せられてゐた。鼻の尖つた、尖鋭な顎をした醫者が、端然として坐席に於いて熟睡してゐるのだつた。彼は急病人のために呼起されてさつき家を出た時から、うつらうつらし勝ちであつたので、睡氣を覺ますために端然とした姿勢で腰掛けてゐたのであるが、自動車が橋の手前まで來かかつた頃どうやら運轉が怪しげになつたと意識するうちにも、何時の間にか氣分は朦朧となつてしまつたので、ここで欄杆に衝突してゐるのを知つてゐなかつた。ダツトサンから發する二人の鼾は互に應呼して物凄かつたが、しかし外部の鼾に比べればものの數ではなかつた。今、橋の下を流れてゐる水は、兩岸の家々から洩れ出した鼾を湛へて、それはまるで洪水のやうに轟々と橋桁に突當つて渦を卷いた。また橋の上を通過する鼾の大群は、押合へしあひして橋から墜ちると、一種異樣な悲鳴をあげてゐた。

 橋の上をうまく乘越した鼾の群は一直線に停車場の廣場の方へ走つて行つた。そこには旅客を待ちうけてゐた自動車の一列が、てんでに好きな恰好をして、鼾を發散してゐるのだつた。驛の白堊の二階建の外壁に嵌められてゐる時計のダイアルの燈も、それらの鼾の溫氣のためにか茫と霞んで魘れてゐた[やぶちゃん注:「うなされてゐた」。]。そして驛の建物の内部は、天井が高くて音響がよくとほるために、ここでは鼾どもが自在に飛廻つてゐるのだつた。次々に壁を這登る鼾は天井にとどくと電燈の下をぐるぐる駈づり廻り、天井は絕えず雷鳴のやうな響を發した。改札口の方に吊されてゐる黑板の時間表は、それにも鼾が絡みつくために、今は白い文字が飴のやうにだらりと溶けてしまつてゐた。その下では一人の驛員が立つたまま熟睡してゐた。餘程最後まで魔睡と爭つたものらしく、彼の指は自分の瞼を摘んであけようとしてゐるのだつた。

 待合室の中央の大テーブルにはトランクや行李が積まれてゐたが、それらの間に頭を投出して、いろんな人物の姿態があつた。赤い鞣革の大きなトランクを大切さうに兩肘で庇ひながら[やぶちゃん注:「かばひながら」。]熟睡してゐるのは、肥滿した紳士だが、常にいい場所を獨占し、一秒と雖も自分の權利を主張することを怠らない、大變逞しい人格の持主らしかつた。その紳士のチヨツキのポケツトから金時計がぶら下つてゐるのに、さつきまで氣を奪られてゐた人相のよくないハンチングの男も、その男ときたら、まるで今は鐵槌で首を捻られてゐるやうな哀れな恰好で熟睡してゐた。口紅を圓く塗つた若い女は、鼻を天井の方へ向けてのびのびと睡つてゐたが、その隣にゐる母親らしい女は、萎れた夕顏の花のやうな顏であつた。二人は手と手を握り合つてゐるところをみると、娘の方が母親に甘え、母親が多少それをもてあました折、魔術に陷つたものらしかつた。この親子と向ひ合つたところに、眼鏡をかけた神經質さうな男が一人忙しさうに腕組して睡つてゐた。見たところ失業者でもなささうだが、さりとて歲もあんまり老けてはゐないのに、生活に疲れはてたやうな顏附をしてゐるのはあらそはれなかつた。そのほか、景氣のよささうな商人や、無意味にハリキルことを好むらしい若い三人づれの會社員や、神信心に凝りすぎて多少氣が變になつてゐる學生など、どれもこれも、今は正體もなく睡らされてゐた。

 全體として、それらの人間の寢顏は、黃色な深夜の電燈の下で、陶器のやうに佗しかつた。けれども、彼等の放つ鼾は、彼等とはまるで別個の存在のやうに、てんでにすさまじく活躍してゐた。それはまるで喧嘩のやうであつた。赤い揉革のトランクの肥滿した紳士の鼾がガガアと突進すると、圓く口紅を塗つた若い娘の鼾がキキとこれと衝突した。かと思ふと、三人づれの會社員の三種三樣の鼾の如きは、機關銃の音に似てしまつて、終に周圍を壓倒した。

 この華やかな待合室にひきくらべて、そこの窓口から向に見えるところの線路の方は、いささか見おとりする風景であつた。幾條もの軌道が闇の地面を匐つてゐて、電燈がしよんぼりと點在してゐた。一番近くの線路の上に、一人の驛員が懷中電燈を持つたまま、栗石[やぶちゃん注:「くりいし」。鉄道の床部分に用いる小石。]の上に蹲つてゐた。懷中電燈の明りは彼の靑い上着のポケツトの邊を照明してゐた。ところが今、彼の全身にパツと強烈な光線の洪水が襲つた。と見るや否や、何か黑い塊りが彼の上を通過し、やがていくつもの窓のある箱が次々に見え出した。そして、その列車はどうしたものか、そこの驛には留まらうとしないで、矢のやうな速力で素通りしてしまつた。その上、不思議なことには列車が素通りして暫くたつてから後始めて、線路の上に轟然たる鼾の大群が反響して來た。忽ち鼾は線路の上空に龍卷を生じ、さつき通過した列車の乘客達の殘して行つた鼾は、一頻り荒れ狂つた。鼾と鼾の摩擦する度に發する音は無數の蛙の啼聲のやうに、せつぱつまつて物狂ほしさうだつたが、やがて騷ぎは一つ減り一つ減り終に雨滴のやうに杜絕え勝ちになつて、何時ともなしに飮んでしまつた。すると線路の上は闇と靜寂が領した。[やぶちゃん注:このシークエンスは原民喜の最期の映像と異様に重なる。民喜はこの十二年後の昭和二六(一九五一)年三月十三日、吉祥寺・西荻窪間の鉄路に身を横たえ、鉄道自殺を遂げた。同日午後十一時三十一分のことであった。]

 しかし街の方では今、鼾は增々たけなはになつて行くばかりだつた。屋根も道路も電信柱も、人々の發する鼾によつて、ぐらぐらと煮えくり返つてゐた。つまり街全體が今は大きな鼾の坩堝の底に投げやられた相(かたち)であつた。一番物凄いのは街の中央にある練兵場だつた。そこにはすぐ脇に兵營があつたが、兵舍の屋根は巨大な馬の胴腹のやうに、ふわりふわりと伸縮してゐた。練兵場の一角にある紀念碑の邊には、市民の鼾が押寄せて來て、もう立錐の地もない程であつた。鼾はてんでに紀念碑の石のてつぺんへ登つたり、松の木の枝に引懸つたりしてゐた。

 練兵場の砂原では、濠々として砂塵が渦卷いた。立昇るその砂塵の底では、喇叭や馬の嘶きや、大砲の炸裂する音、劍銃のかち合ふ響に混つて、ワワワワと突貫の聲が聞えた。そして、砂塵は增々大きく、いよいよ濃くなつて、練兵場の上の空に擴がつて行つた。遠くから見ると、それは眞白な大入道の顏に似てゐた。

 そして街全體の吐く鼾のために、溫度は刻々に高騰して行つた。そのためにであらうか、羽蟲や蛾が何處からともなしに現れて來ると、見る見るうちに數を增し、辻から辻へ眞白な流れとなつて擴がつて行つた。それらの群は鼾の大群のために追捲られて、苦しまぎれに卵を産むので、アスフアルトの道路は粉雪のやうに白くなつた。街が茹つて來るに隨つて、鼾はいよいよ金屬的な音響となり、それは救ひを求めてゐる悲鳴や、癲癇のあまり發する咆哮と化してゐた。[やぶちゃん注:このシークエンスも驚くほど、六年後に広島を襲う原爆の地獄絵を予感させているではないか! ロケーションは示されていないものの、「練兵場」とは明らかに、原民喜の作品群に馴染みの場所として登場する、広島の陸軍西練兵場(現在の広島市民病院や広島県庁から東の八丁堀京口門公園・広島YMCA附近までの一帯を占めていた)に違いないからである。]

 

 しかし、この切羽語つた鼾の大群のなかにも、やはり氣の輕い、いたづら好きな連中がゐることはゐた。彼等は自分達が單なる鼾である分限をも忘れて、あべこべに睡つてゐる人間を一つ調弄つてやらう[やぶちゃん注:「からかつてやらう」。]と相談し始め、その揚句、四五の輕卒なる鼾どもは、あらうことか、片目の新一の家へ飛込んだのである。

 鼾どもは新一の枕頭をとりまいて、新一の耳をビリビリ引張つたり、塞いでゐる方の目の上を撫でてみたりしたが、新一も今は岩のやうに堅固な睡りをつづけてゐた。そのうちに身輕な鼾は新一の鼻の腔へ潛り込んで、そのなかでサクラ音頭を踊り出した。到頭、新一は口をひらいて、ハックショイ! と一喝した。それに誘はれて嚏[やぶちゃん注:「くしやみ」。]はたてつづけに放たれた。新一はギロリと片目を開いて、闇のなかに坐り直つた。まるで自分が何處に居るのやら、今何時頃なのやら、一切がわからなくなるほど轟々たる音響であつた。

 新一はたつた今、塞いでゐる方の眼が遠かにパツと開く夢をみてゐたのだが、どうも氣持が浮々して、これはほんとにさうなつたのではないかと思はれた。そこで電燈をつけて、柱の方の鏡に自分の顏を持つて行つた。そして慇懃な表情で、恐る恐る鏡のなかの自分を覗いた。すると忽ち、耳許にワイワイワイと猛烈な嘲笑が襲つて來た。新一はびつくりして、部屋の中央に立ちはだかつた。依然としてワイワイワイと嘲笑は煩さく[やぶちゃん注:「うるさく」。]聞えて來た。

「默れ!」と新一は咽喉から血走る聲を發した。けれども、さつきからひきつづいてゐる何者ともわからぬ喚きは一向に歇まなかつた。それは、すぐ隣の襖越しに聞えて來るかと思へば、また屋根の上や床の下からも洩れて來るのであつた。この正體の解らない音響は到頭、新一を滅茶苦茶に苛々させた。

「どうしようつてのだ!」と、新一は天井に對つて[やぶちゃん注:「むかつて」。]呶鳴つてみた。と、音響は今、ドカンドカンドカンと攻擊して來た。「ああ、耳がもげる」と、新一は悲鳴をあげて、兩手で耳朶を塞いでしまつた[やぶちゃん注:「耳朶」は「みみたぶ」(音なら「じだ」)であるが、ここは二字で「みみ」と当て訓していると読む。]。

 暫くして、もう止んだかしらと、恐る恐る耳にあてた掌を緩めてみると、忽ちザザザザと響は大海原の波のやうに搖れてゐるのだつた。新一はぼんやり向の襖に目を留めてゐたが、ふと氣がつくと、襖紙の破れて新聞紙のはみ出してゐる部分が、不思議なことに風船玉のやうに脹らんだり縮んだりしてゐるのだつた。こいつだな、と新一は音の發源地を發見したやうに前へ乘出して、その新聞紙へ指を突込んでみた。すると、忽ち小さな旋風が新一の指に突當つて、それと同時にガガガガ……と雜音が突擊して來た。新一はあわてて、そこの襖を開放つた。

 隣室には新一の母が睡つてゐたが、年寄つた母親は何の異狀もなく今も睡つてゐた。しかし、この大騷動のなかで睡つてゐられるのはどうも合點がゆかなかつた。その時、何だか生溫かい響が新一の足許へやつて來た。それはどうやら母の鼻から出たものらしいのであつた。

「お母さん、お母さん」と新一は母の寢顏に呼掛けてみた。すると、また烈しい音響がゴロゴロと生じた。新一はびつくりして壁の方へ身を寄せた。どうしてもこれは母を起さなければいけなかつた。

「お母さん、どうしたのです」と新一は母の肩に手をかけて搖さぶつてみた。けれども母は何の反應もみせなかつた。その癖音響ばかりは新一の頭上でパリパリと火花を發した。新一は段々手荒く母の瘦せた肩を小突いて行つた。

「起きて下さい、起きて」と、口調とともに怒りがこみ上げて來た。母はまるで新一を嬲りものにするやうに目を閉ぢてゐた。

「何故、起きないのだ」と新一はとうとう母の肩に鐵拳を加へた。「こいつめ、こいつめ、誰が、俺を片輪者にしたのだ」と、新一は片方の目からパラパラと淚を落しながら、亂打を續けて行つた。それでも母は眞白な顏で睡つてゐた。「これでもか、これでもか」と新一は母の肩に馬乘りになつて、無我夢中で母の頭を撲りつづけた。

 そのうちに草臥れて、暫く手を休めようとすると、その時になつて、ハツと新一は大變なことをしでかしてゐるのに氣づいた。今、轟々と咆哮する嵐の底から、「やつたな!」といふ聲が聞えた。新一はそれが死んだ父親の聲に似てゐるので、びつくりして、ガタガタと戰き出した。「違ふ、違ふ、違ふよ」と新一は必死の聲をあげて辯解しようとした。それから、ぐるぐると母のまはりを步いてゐたが、恐る恐る母の顏を覗くと、新一は母の胸許に手をやつて、そつと心臟の上を探つてみた。心臟はまだ溫かく、ドキドキと動いてゐた。それで新一は急に嬉しくなつた。

「とんでもない心配させて」と、新一は睡つてゐる母にむかつて苦情を云つた。ワハハハハと若々しい笑聲が新一の耳にはいつた。それは母の鼾にちがひなかつた。新一はこの強情な鼾には呆れ返つて、もうものが云へなかつた。

 この時玄關の方に何かどかりと重いものがぶつかる音響とともに、けたたましい犬の啼聲や、馬の嘶きや、鳥の叫びが一時に家のまはりを取卷いた。して、玄關の硝子戶はガタガタと搖れ、「開けろ! 開けろ! 開けろ!」と、一齊に人々が叫んでゐるのであつた。新一は遠かに怕くなつて、寢床のなかに潛り込んで、頭からすつぽり夜具を被つてしまつた。しかし、外の騷ぎはいよいよ大きくなつた。玄關の戶や雨戶は人々の手に手に亂打され、時々ワーワーと歡聲があがつた。

「開けろ! 開けろ! 開けろ!」と、今度は誰か一人の代表者が呶鳴つた。「開けなきや壞してはいるぞ!」と他の人が云つた。「火事だ、火事だ、火事だ」と彌次馬らしい聲もした。「出ておいでよ、新ちやん」と馴々しげに呼ぶ女の聲もあつた。はじめ新一はビクビクしてそれらの聲を聞いてゐたが、段々度胸が据つて來た。いい加減なことを云つて冷やかしてるな、と新一は却つて腹立たしくなつた。何だい、畜生、と新一は遂に起上つて、玄關の戶を開けた。

 すると、新一の顏をめがけて、澤山の羽蟲がむんと飛掛つて來た。新一は兩手でそれを拂ひ退けながら、あたりを見廻したが、人間は愚か猫の子一匹もゐなかつた。しかも、さつきから耳に馴れてゐる、ギヤギヤギヤといふ不可解な叫びは一層たけなはに續いてゐた。ふと、屋根の彼方の空を眺めると、恰度練兵場の上あたりに、大きな大入道の顏がにたにた笑つてゐた。

 ハハハハと新一は不意に大聲で笑つてみた。しかし大入道は消えなかつた。そこで大入道の方へむかつて拳固を擬し、「これでもかつ!」と呶鳴つてみた。すると大入道は眼玉をぐるぐる動かして急に怖氣づいたやうな顏に變つた。「それみろ」と新一は得意さうに呟いたが、その時また目の前を羽蟲がうるさく衝當つて來た。新一はあわてて片目を庇つた。と、今、新一のすぐ頭上を何か飛行機のやうな唸り聲がぐわんと通過して行つた。見ると、隣の塀の上に誰か腰掛けてゐて、唸りはそこから發してゐるのだつた。

「おーい、おーい」新一は塀を見上げてその男に聲を掛けてみた。が、相手は身動もせず頻りに爆音を發してゐる。

「君は誰だ、泥棒かい」と、新一は不審に耐へず猶も塀の男を凝視してゐた。

 そのうちに暫くすると、何か白い膜のやうなものが、その男の身體全體を包んでしまつた。と、思ふと、その膜はふわりと男の身體から離れて、路上に降りてゐた。

「えへん、君は誰だい」と、いま白い膜が落ちたところに入替つて正服の巡査が立つてゐた。新一はちよつとびつくりしたが、直ぐ氣をとりなほして、

「馬鹿にするな……」と呶鳴りつけた。すると、巡査はキヨトンとして鬚を捻つてゐたが、とうとう指で口鬚を捩ぎとると[やぶちゃん注:「もぎとると」と訓じていよう。]今度は新一の方へ手を差伸べて、

「御面倒さまです、切符を拜見させて戴きます」と、車掌になつて調弄つて來た。

「切符なんかない」と新一はそつぽを向いて相手にしなかつた。すると、相手は急に無賴漢の姿に變つて腕組みした。

「やいやいやい、一つ目小僧、面白くもねえ面しやがつて!」と、相手は凄さうな聲で新一に迫つて來た。

「やるか!」と、新一はさう叫ぶや否や、塀のところにある大きなポプラの枯木を片手でひつこ拔いた。新一は身の丈數倍もある枯木を輕々と縱橫振廻した。もう相手はすつかり氣を吞まれてしまつたらしく、パタパタ羽擊きながら路上を逃惑つた。

 新一が相手の頭上目掛けてポプラの枯木をパツと叩き据ゑると、その怪物はすーつすーつと空氣枕のやうに息が拔けて縮まり始めたが、やがてコトリと小さな響とともに路上に轉がつて落ちたのは、蝸牛であつた。しかし、猛りたつた新一はそれを眺めても氣は收まらなかつた。足で蹈拉かうか[やぶちゃん注:「ふみしだかうか」。]と思つたが、ふと、向の露次にある塵芥車を片手で引寄せると、箱の蓋を開けて、そのなかに蝸牛を放り込んでしまつた。それから彼は片手で大きな荷車を牽き、片手でポプラの枯木を背負ひながら、大きな地響をたてて進んで行つた。

 すると向の角から市會議員の松村氏がやつて來た。新一の親類にあたる男だつたので、選擧の時には彼が極力應援してやつたのだが、相手は當選してしまふと、もう新一なんかには見向もしてくれなかつた。ところが今は何の風の吹き廻しか、松村氏は大變にこにこと笑ひながら遠くから新一の方へ近寄つて來る。どうも樣子が變だと、新一が疑つてゐると、はたして相手の步き振りはまるで女のやうになつてしまつた。そして、顏もそつくり今は女だつた。その奇妙な女は一生懸命しなを作つて、厚釜しさを押包んでゐる。何が面白くて松村氏は今やこんな女になりはてたのか、新一は啞然として立疎んでゐた。すると相手は得々として、新一の傍までやつて來ると、

「お兄さま」と、甘つたれた聲を放つた。

「馬鹿にするな」と、新一は片手の枯木を大上段に振落した。ポプラの枯木で叩き伏せられた女は暫くは、じたばたやりながら、種々雜多の罵詈雜言を世にも恐しい早口で喚き立ててゐたが、やがて、おとなしくなつたと思ふと、其處にはまた蝸牛が轉つてゐた。新一はそれを拾ひあげると、塵芥車の箱に放り込んだ。

 それから再び片手で荷車を引き、片手で枯木を背負つた姿勢にかへると、もう目の前には新たな怪物が現れかけてゐた。新一は片目にちよつと笑みを浮べて相手を眺めた。隣の家の若い娘が拔足差足でこちらを覘つてゐるのであつた。娘はハンチングなんか目深にかむつて、刺客めいた上衣を着てゐる。と、いよいよ機會は到來したやうに眉をピクリと釣上げたかと思ふと、後に隱し持つたピストルを新一にむけて擬したのである。新一は娘の思ひあがつた恰好がをかしくて、にこにこ笑つてゐたが、娘はそれでも眞劍だつた。忽ちピストルの彈丸は新一の方へ飛來したと見るより、それは一匹の蝸牛と化し、娘の姿はもう吹消されてゐた。新一は樂々とその蝸牛を掌に取上げた。

「暫く待つた」と屋根の上で聲がした。見上げると、そこには街でよく出喰はす乞食の躄(ゐざり)が、兩脚でピンと瓦をふんまへて、大きな梯子を振上げながら新一に挑み掛らうとしてゐた。

「相手にとつて不足はあるまい」と乞食は勝手に決めてしまふと、梯子を薙刀のやうに構へた。新一がづしんと枯木で打込んで行くと、梯子はミシミシと音をたてて折れさうになつた。「龍虎相搏つ」と乞食はのん氣なことを喋つてゐる。新一はこいつも早く蝸牛にしてしまひたいので、猛然とポプラの鉾先で相手の胸許を突刺した。

「遺憾千萬」と乞食は目を白黑させながら、まだそんなことを喋つてゐたが、終にころりと屋根から墜落すると、もう小さな蝸牛になつてゐた。

 新一がそれを拾つて箱に投入れるや否や、もう彼の前には別の相手が現れてゐた。今、蹄の音もかつかつと白い駿馬に跨りながら彼の方へ驀進して來るのは、金光教教會の裏に棲んでゐる盲者の按摩だつた。盲者はかつと兩眼を見開いてゐて、偉風堂々と帽子には雞の羽根を著けてゐるので、これは屈強な敵のやうに思へ、新一は何故とも知れず無性に腹が煮えくり返つた。

「目をつむれ、目を、卑怯だぞ」と、新一は大聲で叫んだ。

「默れ、新一、さあどうだ」と、相手はバツと外套を脫捨てると、細長い劔を夢中で振廻した。しかし、どうしたはずみか、やがて相手の劔はポキリと折れてしまつた。すると、按摩は「おやつ」と呟いて、不審さうに折れた劔に見入つてしまつた。そのうちに鞍上の主人が弱つたためか、馬は見るまに四本の脚がぐにやりとなり、長い首をだらりと垂れて、馬はぺつたりと路上に坐つてしまつた。新一は難なく相手を蝸牛にしてしまつた。

 片手に抱へ持つポプラを路上に下して、新一が一息ついてゐると、今、彼方から水母のやうな塊りがふわりふわり[やぶちゃん注:ママ。]と飛んで來るのだつた。それはたしか、新一の姪の高子がこの間産んだ赤ん坊にちがひなかつた。新一ははたと困惑の表情で相手を睥んだ[やぶちゃん注:「にらんだ」。]。しかし、この半透明な怪物は新一の顏の前まで來ると、オワア、オワア、オワアと奇聲をあげて煩さかつた。新一は片手で相手を拂ひ退けようとしたが、赤ん坊は新一の肩の上に留まつてしまつて、頻りにオワア、オワアと喚きつづけた。

「やかましいぞ」と、突然新一は兩肩を震はせて、地蹈鞴[やぶちゃん注:「ぢたたら」「ぢただら」「ぢだたら」と読むが、これで「ぢたんだ」と当て訓しているかも知れない。]を踏んだ。と、赤ん坊は猫のやうに新一の肩から滑り降りると、今度は荷車の上に留まつてミヤオミヤオ、ミヤオと啼き出した。新一は荷車を搖すつて、赤ん坊を振落したが、相手はまだ逃げ出さうともしないで路上に蟒局[やぶちゃん注:「とぐろ。]を卷いてしまつた。そして今度はコケコツコオと雞の啼き聲を發した。

「馬鹿にするな」と、とうとう[やぶちゃん注:ママ。]新一の怒りは爆發して、ポプラの枯木をむんずと振上げた。すると相手はすーつと靑白い光を放つて飛立つたかと思ふと、振上げたポプラの枝に留まつてしまつた。

「えツ、いまいましい」と、新一はポプラの木を自棄に[やぶちゃん注:「やけに」。]振り動かせたが[やぶちゃん注:ママ。]、ポプラの梢にゐる相手は今は螢に化けてしまつてゐた。新一が暫く口惜しさを我慢して、手を休めてゐると、梢にゐる赤ん坊はジジジジジと蟬の啼聲を放ち出した。それでも新一は今は相手に油斷さすために素知らぬ顏をしてゐた。蟬は新一をじらすやうに、いよいよ調子づいて啼きつづけた。新一は突然飛上つて、梢の蟬を掌で押へつけた。掌に捕へた蟬はまるで茹卵のやうに熱かつた。新一はもう少しでびつくりして放すところだつたが、顏を顰めてぐつと掌で握り潰した。急に掌のなかの物體が冷たくなつたと氣づいた時、それはやはり蝸牛にされてゐた。

 しかし、新一が赤ん坊との戰爭で夢中になつてゐる隙に、他の強敵が今のそのそと彼の方へ匐つて來てゐた。新一はビクリとして今度は少し靑ざめてしまつた。山ほどもある大きさの蜘蛛が、無數の足を擴げて、今刻々と新一の方へ接近して來る。あんなに巨大な腹をしてゐるのは、子持蜘蛛にちがひなかつたが、何よりも困つたことには、新一は生れつき蜘蛛が怖かつたのである。暫く息苦しい睥み合ひを續けてゐたが、怖さに堪へかねて、今はキヤツと叫ぶと同時に、無我夢中で枯木を叩きつけた。と、簡單に手應へはあつたのか、蜘蛛はぐらぐらと山嶽の崩れ落ちるやうな音響とともに消え失せてしまつた。そして路上は見渡すかぎり蝸牛の群で滿たされてゐた。殘念なことに、その時、新一の姿はもうなかつた。

原民喜 夢の器

 

[やぶちゃん注:昭和一三(一九三八)年十一月号『三田文學』初出。

 底本は一九七八年青土社刊原民喜全集「Ⅰ」を用いたが(底本では「拾遺作品集Ⅰ」のパートに配してある)、以上の書誌データや歴史的仮名遣表記で拗音・促音表記がないという事実及び原民喜の幾つかの自筆原稿を独自に電子化してきた私の経験に照らして(彼は戦後の作品でも原稿では歴史的仮名遣と正字体を概ね用いている)、漢字を概ね恣意的に正字化することが、原民喜自身の原稿原型に総体としてより近づくと考え、今までの私のカテゴリ「原民喜」のポリシー通り、そのように恣意的に処理した。

 幾つかの気になる語に先に注を附す。

 第一段落。

「米搗螇蚸」は「こめつきばつた(こめつきばった)」と読む。コメツキバッタは、①捕まえて後脚を揃えて持つと、体を上下に動かすのが、米を搗く姿を思わせることから、お馴染みのショウリョウバッタ(昆虫綱直翅(バッタ)目雑弁(バッタ)亜目バッタ下目バッタ上科バッタ科ショウリョウバッタ亜科Acridini 族ショウリョウバッタ属ショウリョウバッタ Acrida cinerea)の別名であるが、一方で、②やはりお馴染みの、仰向けにすると、頭部と胸部の関節を急速に動かしてパチンと振り上げて跳ね、元に戻る能力を有する小型甲虫コメツキムシ類(鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目コメツキムシ上科コメツキムシ科 Elateridae。この動作が米を搗くそれに似ていることに由来するが、種群の総称通称であってコメツキムシという種はいない)に属する多数のコメツキムシ類の別名でもある。ここでは孰れとも判然としないが、私はコメツキムシ類をコメツキバッタと呼んだことは経験上無く、一読した際は前者のショウリョウバッタととった。複数の個人記事を確認すると、広島地方では後者コメツキムシは、恐らくその音から「ペキン」と呼ばれることが多いこと、やや西の福岡ではショウリョウバッタを「コメツキバッタ」と呼ぶとする記載を確認出来たので、私はやはりショウリョウバッタでとることとする。

・その直後に出る「孩子」は中国語で「子供」の意で、サイト「ふりがな文庫」の「孩子」では「あかご」「わらし」「おさなご」「がいし」の複数の著名作家の用例を掲げるが、文脈上、後の二つはそぐわず、「あかご」もおかしい感じがする。「わらし」は主に東北地方の方言であり(同用例の作者佐左木俊郎は宮城出身)、これもピンとこない。私はシークエンスからも「こども」と読んでおく

・やはりその直後に出る「膃肭臍」は「おつとせい(おっとせい)」で、哺乳綱食肉(ネコ)目イヌ亜目鰭脚下目アシカ科オットセイ亜科 Arctocephalinae のオットセイ類を指す。因みに、本邦で現認し得る(日本海及び太平洋側は銚子沖辺りから以北)野生のそれは、キタオットセイ属キタオットセイ Callorhinus ursinus のみである。

・「ボイル」voile。強撚糸(きようねんし)で粗く織った薄地の布。夏服やシャツに使用する。

 最終段落。

・「セル」「セル地」のこと(但し、「地」は当て字)。「セル」はオランダ語「serge」の略で、布地の「セルジ」のこと(「セル地」という発音の偶然から「セル」と短縮された)。梳毛糸(そもうし:ウールをくしけずって長い繊維にし、それを綺麗に平行にそろえた糸)を使った、和服用の薄手の毛織物。サージ。

 因みに、本篇は現在、ネット上では公開されていないものと思われる。【2019年3月31日公開 藪野直史】]

 

 夢の器

 

 露子は廊下の曲角で靑木先生と出違つた。先生は「ホウ」と輕い息をして露子の前に立留まつた。すると廊下に添つた左右の教室のドアが遠くまで花瓣のやうに開いて、そこからひとりづつ女學生の顏が覗いた。みんな露子を珍しさうに眺めてゐるらしかつた。もう私はとつくに結婚して居るのに、と思ふと露子は何だか無性に腹立たしく、恥しかつた。それで耳の附根まで眞赫になりながら先生の前にもぢもぢしてゐた。「あのひとよ」と誰かが囁いた。その聲は近所のおかみさんの聲だつた。急に露子は嚇として、「あなたがいけないからです」と靑木先生の兩肩を押へつけると、ぐらんぐらん左右に搖すぶつた。先生はべらべらの紙人形のやうに搖さぶられて居た。そのうちに露子は先生を苦しめてゐるのに喫驚して[やぶちゃん注:「びつくりして」。]手を緩めた。靑木先生の眼球はほんとうに辛らさうに黑く顫へて居た。恰度、小さな弟が死ぬる時の眼つきだつた。それに紙人形になつてゐる顏から眼ばかり圓々と生きてゐるのだから。露子は半信半疑で、これは夢をみてゐるらしいとおもつた。しかし動悸が高まつてゆくと、どこかで鐘の音が聞えて來て、やがて廊下は女學生の顏で一杯になつてしまつた。もう露子もそのなかの一人になりきつて居た。露子の友達がキヤツキヤツと叫んで我勝ちに走つて行くのは、誰かが運動場の處に氣違が來てると云つたからだ。その氣違なら露子も同窓會の時一度見たのだつたが、皆が走つて行くのに誘はれて露子も走り續けた。氣違はもう一同を待兼ねて居たとみえて、皆の姿が集まると、ニコニコ笑つてお叩儀をした。これが一級上の優等生の林さんの變り果てた姿かと思ふと、露子は淚が出さうになるのだつた。ところが林さんの方は如何にも得意で嬉し相に、皆の方へ秋波を送りながら、「學校、面白いわね」と片言を喋つた。忽ち、皆はキヤツ! と大袈裟な笑ひに捲込まれ、どの生徒も、どの生徒も米搗螇蚸のやうに腰を折つては笑ひ狂つた。すると林さんはもの靜かに笑ひながら、もう次に云ふ言葉を想ひ着いてゐるらしい。一同の笑ひが靜まつたのを見計らつて、「皆さんは、孩子産みますか」と眞顏で訊ねた。そして懷から小さな枕を取出して、大切さうに抱へてみせるので、もう皆は笑はなくなつた。「あのひとも結婚してから苦勞が重なつて、到頭あんなになつたのです」と、露子の側に立つてゐる光子が話しかけた。何時の間にか女學生達は消えて、光子と二人きりで眺めてゐるのだつた。……氣違の女は運動場の砂の上に膃肭臍の恰好で蹲つてしまつた。そして、もう動かうとしないので、それは海岸の巖のやうに想はれ出した。いくらか靑味をおびた硝子が嵌められてゐるのは額緣の景色かもしれなかつた。ふと露子は自分の今居る病室の壁に掛けられてゐる額を眺めてゐるのに氣附いた。それは新綠の丘の上に茫と圓味をおびた紫色の山が姿を顏はしてゐる繪だつた。が、今、山の後にあたる靑空が時々、晴くなつて慄へるので、露子はまだ氣が遠くなるやうだつた。たしかに、山の裏側から白い靄のやうなものが匐ひ出して來た。視ると、それは彼女がむかし愛玩してゐた西洋人形とそつくりの、ボイルの服着てゐて、顏は櫻んぼうのやうに小さかつたが、限界がきちんと見え、何ともいへない優しい素振りで、今ふわりと額緣の中から二三寸拔け出して來た。露子は何だか相手が不吉な使ひのやうに思はれて、ぢつとりと汗ばみながら怕く悲しくなつた。しかし相手は恍惚とした小さな貌で露子に微笑を投げかけてゐるのだ。そして、まるで鞦韆[やぶちゃん注:「ぶらんこ」。]の綱が伸びて來るやうに無造作に露子の顏へ對つて走つて來た。

 はつと愕いた時には、もう相手は消えてゐたが、眼の前には附添の看護婦の白衣の袖が近づいて居た。看護婦の香川さんは何時ものやうに默つて檢溫器を露子の脇の下に差入れたが、ふと彼女の額を掌で輕く撫でながら、「大分汗をおかきですね」と呟いた。「ああ」と富子は少し靑ざめた聲で應へた。「さつき私は何か唸つてゐなかつた」「いいえ、靜かにおやすみで御座いました、何か怕い夢でも御覽でしたの」「ああ」と露子は子供のやうな聲で頷いた。「あのね、あそこの額緣から小さな魔法使がすーつと出て來たの」と、露子は看護婦の顏を視凝めた。看護婦は急に何かはつと驚いた容子であつたが、「その魔法使の顏はこんな顏ですか」と露子を覗き込むと、看護婦はさつきの魔法使になつてしまつた。あああ、と露子は悶絕した。すると、すぐ近くで樂隊の音がして、魔法使の鞦韆は嵐のなかの舟のやうに左右に搖られてキリキリ舞つた。その苦痛が露子にも直接響いて來るので、あああと彼女は唸りつづけた。私はまだ夢をみて魘れて[やぶちゃん注:「うなされて」。]ゐるのにちがひない……香川さんの意地わる……。露子はきれぎれにそんなことを思ひつきながら、苦しみが鎭まるのを祈つた。……やがて、不思議な鞦韆は後を絕つて、遠くの方から頻りに彼女の名を呼ぶものがあつた。今度こそほんとに目が覺めたやうな氣持だつた。しかし、眼の前がまだ雨降のやうに薄暗く、體もぐつたり疲れてゐた。そこへ光子が大變怒つた顏でふらりと現れて來た。「何處へ行つてゐたのです、人が折角話しかけてゐると、すーつと消えてしまつて」と光子は云つた。露子も喫驚して、さいぜんからの續きを憶ひ出さうとしたが、あたりの樣子からしてもう變つて居た。光子は苦情云つてしまふと[やぶちゃん注:ママ。「苦情を」の「を」の脱字であろう。]、すぐに氣が輕くなつて、今度は露子の機嫌をとらうとするのだつた。「あれ、あんな綺麗な露が」と、光子は廊下の窓から半身を乘出して、外の方を指差した。露子が光子の肩の脇から覗き込むと、そこは講堂の入口の庭で、若竹の纖細い[やぶちゃん注:「かぼそい」。底本は「纖」は「繊」で、経験上から言うと、民喜はその「繊」の字体を使用しているかも知れない。]枝に小糠雨が降灑いでゐて、枝に宿る露の玉は螢に似た光を放つてゐた。「露つてあんなに美しいものかしら、まるで生れて始めて見るやうな氣が致しますわ」と光子は柔かな聲で話しかけた。露子は不思議に惱ましく、何か胸の邊が茫として、頭も柔かくなりすぎた。すると、ふわふわの[やぶちゃん注:ママ。]靄のなかに膃肭臍の姿が閃いた。露子ははつとして林さんのことを憶ひ出した……。

 ところが、其處へ級長の林さんが先頭になつて、一級上のクラスが整列して進んで來たので、露子は茫然としてしまつた。級長の林さんはきつと薄い唇を結んで、脇目も振らず講堂の方へ步いて行き、それに續く上級生達が露子の脇を通り過ぎると、少し冷たい風が過ぎて行くやうであつた。列が杜切れたかと思ふと、暫くして、今度は露子のクラスの生徒がやつて來て、くすくす笑ふ聲が洩れた。見ると列のなかにほ、ちやんと光子の顏まである。そのうちに何時の間にか露子も列のなかに加はつてゐて、後から光子に肩を叩かれた。もう列は講堂の入口へ來てゐた。遠くの白い壁に掛けてある額が、それは露子の死んだ父の肖像だつた。ピアノの上には露子が飼つてゐた白猫が蹲つてゐた。室内は生徒の顏で一杯になり、何かそはそはと愉快さうな空氣が漾つた。氣がつくと、先生達の椅子の列のなかに、露子の夫が澄し込んで腰掛けてゐた。中央の壇上の大きな臂掛椅子の上には露子の叔父の今中さんが毛皮の外套を着て腰掛けてゐた。今中さんは行儀惡く長靴の膝を組合はせてゐて、それに外套の上に大きなダリアに似た勳章を吊下げてゐたが、露子は叔父が勳章なんか持つてはゐない筈だし、また何かいたづらをするのではないかと冷々した。しかし叔父さんは如何にも欣しさうに皆の方へ時々、懷しげな笑ひを投げかけた。すると、生徒達はもう待ちきれなくなつたやうにパチパチと盛んに拍手を送つた。到頭、叔父は椅子から巨體を浮上がらせて、テーブルの處へやつて來た。拍手はいま割れるばかりになつた。叔父は悠々と水差からコップに水を汲んで飮み、ポケツトからハンカチを出さうとしたがなかなか出て來ず、何か黑い塊りをテーブルの上に置いた。「ピストルよ、ピストル」と生徒達の囁きがあちこちで聞えた。やつと叔父はハンカチを取出して、それで口髭を一拭きすると、ちらつと惡戲氣[やぶちゃん注:「いたづらけ(いたずらっけ)」。]の笑みを浮べた。「さて、皆さん、私は本校から派遣されて、遠く、かのアフリカへ行つて來たものであります」皆はそれだけ聽くと、くすくす笑ひ出した。露子は叔父がいよいよ出鱈目を喋り出すので恥しくなつた。「アフリカと申しますと、ライオンや、虎や、獅子や、象、水牛、河馬……」と、叔父は愈[やぶちゃん注:「いよいよ」。]圖に乘つて、「ところが、なかんづく、特に、面白い動物中の動物、白熊を生捕にして持つて歸りましたから、只今卽刻御覽に入れます」……その時、ピアノ上の白猫が立上つて、叔父のテーブルの前に來た。白猫はゴロゴ咽喉を鳴らしながら頻りに叔父に對つて笑ひかけてゐる。それは何だか亡くなつた叔母の顏に似て來て、露子は奇妙にもの哀しくなつた。叔父は叔父で、白猫の動作を默つて視守つた儘、もう剽輕な表情を引込めてしまつた。次第に叔父の額には思慮の皺が寄り、瞳はしょぼしょぼと瞬いた。猫は懷しさうに叔父の胸許に身をすり寄せ、「あなた樣」と、はつきり人間の言葉を放つた。叔父はすつかり感動したらしく、「ううん」と重苦しい聲を洩らした。「お前でも人間の言葉がわかるのか」「ええ、私も立派に人間と會話が出來ます」「儂は今迄それを知らなかつた、ああ、さうだ、これも神樣の御意といふものだ」さう云つて叔父は兩手を空に擧げて祈るやうな恰好をした。講堂は今、しーんとしてしまつて、誰ももう居なかつた。……露子はすつかり叔父の動作に惹きつけられて、靜かに壇上の叔父を視凝めた。すると今迄叔父だと思つてゐたのは、先日ここの病室に訪れて呉れた牧師の今中さんだつた。牧師の方でも、露子の熱心な瞳に氣づいた。「あなたはその儘にしてゐらつしやい、起上らなくとも寢たままでもお祈りは出來ます」と、牧師は露子を靜かに瞰下し[やぶちゃん注:「みおろし」。「かんかしながら」でもよいが、硬過ぎる。]ながら語つた。「あああ、私は一體どうなるのでせう」と、露子は自分が依然としてベツトに橫はつてゐるのを知つて、悲しくなつた。「靜かな氣持でゐらつしやい、懷疑や焦躁は惡魔の侶[やぶちゃん注:「とも」。]です」牧師はゆつくりと太い眉に力を籠めて應へた。「あなたがゐらして下さる間は私も救はれたやうな氣持になれます。ですけれどお歸りになつたすぐ後で、もう私は駄目になつてしまふのです、駄目ですわ、駄目ですわ、こんなに私は弱つてしまつてゐて、淋しいのです」と露子は聲をあげて泣き出してしまつた。相手は無言のまま凝と彼女の歔欷[やぶちゃん注:「きよき(きょき)」。すすり泣き。むせび泣き。]を聞いて居て呉れた。露子は段々氣持が宥められて[やぶちゃん注:「なだめられて」。]、今はただ甘えて泣いてゐるやうに思へた。相手はまだ立去らうとしないで露子を瞰下してゐた。もう露子は泣いてはゐなかつた、むしろ何かを期待するやうな心地だつた。すると、相手は傍にゐる看護婦に輕く合圖した。檢溫器が露子から取上げられ、醫者の掌に渡された。醫者は體溫表をちよつと眺めてゐたが、やがて、露子を勞はるやうな口調で云つた。「だんだん快方へ向つてゐます、もう一週間もすれば退院出來ませう」露子は急に淚が出るほど嬉しくなつた。何も彼もが胸に痞へて[やぶちゃん注:「つかへて」。]、それで容易に言葉は出なかつた。すると看護婦が、「もう一週間すれば櫻が咲いて恰度お花見頃ですわね」と云つた。露子は目の前が眩しく、櫻の模樣がちらついた。それでは退院する時の晴着を母に云つて取寄せて貰はうかしら……と思ふと、變なことに、その着物なら既に以前からこの病室へ取寄せてあり、今も壁に掛けられてゐるのだつた。

 露子はがつかりして氣持が崩れ、息の根も塞がりさうになつてしまつた。今、病室には誰も居なくて、廊下の方も森としてゐた。夜なのか晝なのか時刻も不明で、生暖かい空氣が頻りに藻搔いてゐた。時々、キヤツ! と叫び聲がすると、後はまたしーんとしてしまふ。突然、寢てゐる寢臺が鐵の腕を伸して、後から彼女に飛掛つて來た。そして寢臺は鐵の腕を縮め、ぐんぐん彼女を締めつけて行つた。もう救ひを求めようにも、聲は出なかつた。いいえ、これはやつぱし夢にちがひない、それなら何も怕がらなくてもいいはずだ……露子はぐつたりと疲れた頭で考へてゐた。こんな氣持の惡い夢でなく、もつと面白い綺麗な夢を、あのさつきの講堂で叔父さんがお話して呉れるやうな夢でもいいし、もう一度學校へ後戾りしてみたい、……學校の講堂の、さつきは雨が降つて、笹の葉がまるで螢みたいだつた……。何時の間にか露子の背中に嚙みついてゐた寢臺は力を失つて、それと氣づいた時には、彼女の體は石塊のやうにぐらぐらした闇の底へ墜ちて行くのだつた。

 やがて、房子の體は實家の二階の瓦の上に墜ちてしまつた。非常に睡むたかつたが、彼女は瓦を踏んで窓から六疊の部屋の方へ這入つて行つた。そして疊の上に寢轉ぶと、すぐ睡れさうになつた。今度の夢はここから始まるらしく、何だか自分でそれを知つてゐるのが氣持惡く、どうにもならないことのやうであつた。ぢつと寢轉んでゐると、額の方に窓の靑空が眩しく感じられ、すぐ近所の鑄掛屋でブリキを叩く音がだるさうに響いて來た。時折、表の通りを地響をたてて自動車が通つた。隣の庭の赤松の枝で雀が頻りに囀り出したのは夕方に近づいたしるしらしかつた。そして露子はいくらか饑じく[やぶちゃん注:「ひもじく」。]なつて來た。寢轉んでゐるすぐ枕頭の方には勉強机があつて、その机の上にスケツチブツクが放つてあつた。そのスケツチブツクの白い頁がすぐ露子の瞼の上に漾つて來た。露子は寢轉んだまま、一生懸命その白い頁の上に日記を書き出した。大變みごとな文章がすらすらと綴られて行き、自づと彼女の睫[やぶちゃん注:「まつげ」。]には淚が溢れて來た。もう頁はすつかり塞がつて行つた。が、ふと彼女はこの儘その日記を夢の中で失ふのが惜しく思はれて來た。これは早く目を覺して、枕頭の日記帳へ書きとめておきたかつた。……暫く藻搔いた揚句、彼女はベットの枕頭へ手を伸して、漸く日記帳を取出した。それは入院以來つけて來た日記だつたが、もう久しく忘れられた儘になつてゐるのだつた。彼女は寢たままで、胸の上の日記帳を展げて、ぼんやり眺めた。氣がつくと、何時の間にか誰かが亂暴な文字で一杯にいたづら書をしてゐるのだ。妙に腹立たしく、頰まで火照つて來たが、亂暴な文字の意味は一向に讀めなかつた。それで氣持は惑つて來たが、ふと兩手で支へてゐる日記帳に重みがないのがをかしく思へた。すると、今迄日記帳だと思つてゐたのは、小さな玩具の草履だった。それに露子の兩手はちやんと蒲團の下に在つて、草履は勝手に彼女の顏の上に浮いてゐるのだつた。もしかすると、天井の電燈が熱の所爲で草履に見えるのかもしれない。だが草履の表にははつきりと苺の模樣が着いてゐて、緖は水色だつた。ぼんやりとも靄のやうなものが草履の後に見え出して、速かに草履は誰かの指で動かされた。「氣がついたかね」と夫の聲がした。何時の間にか夫は彼女のベツトの側の椅子に腰掛けてゐた。夫は玩具の草履をポケツトに收めると、タバコを取出して火を點けた。「あなたは何時上陸なさつたのです」と露子は訝しげに眼を細めた。夫はそれには應へないで、ぼんやりと煙草を銜へたまま、何かうつろな面持だつた。すぐ目の前に居ながら、まるで氣持は無限に離れてゐる、ただ拔け殼だけが今もここにある……その日頃からの想ひが仄かに露子に甦つて來た。すると夫も露子の氣持を覺つたのか、更に他所他所しい表情になつて行く。このままではもう間もなく消えて行くに違ひないと露子は思つた。非常に濟まない氣持がこの時になつて彼女に湧いた。しかし、既に形を失ひかけた人物は今、最後の光芒を放ちながら、ヂリヂリと蠟燭の燃え盡きる音をたてた。急に彼女の胸は高く低く波打ち出した。寢臺のまはりには暗黑の海の波が荒れ狂つた。すると、彼女の寢臺はビユーと唸りを發するとともに、高く高く天井の方へ舞上つた。それから暫くはぐるぐると病室のなかを飛移つてゐたが、やがて再び元の位置に据つた[やぶちゃん注:「すはつた(すわった)」。]。その時には夫の姿はもう完全に失はれてゐた。

 彼女は荒れ狂ふ寢臺にすつかり脅え、眼は虛しく天井を瞻あげた[やぶちゃん注:「みあげた」。]。すると今、病室はさながら水槽の底のやうに想へて、露子は刻々に溺れゆく自分を怪しんだ。物凄い速力で水は流れ、そのなかにもう體は木の葉のやうに押流された。次第に水の流れは緩くなつた。そして露子はどうやら、橋の下を今潛つてゐるやうに思へた。橋杙[やぶちゃん注:「はしぐひ(はしぐい)」。「杙」は「杭」に同じい。]の影が靑い水の層から伸び上つてゐる方は、眩しい靑空で、石崖のまはりの水は冷んやりとして渦捲いてゐた。しかし、仄かに靑い水を透して眺められる橋の姿は、何だか病室の寢臺の脚に似てゐた。さう思ふと、川底までが病室の黑光りする床に異らなかつた。だが、頭の上の方をゴロゴロと荷車が通つたり、下駄の行替ふ[やぶちゃん注:「ゆきかふ(ゆきかう)」。行き交う。]音がするのは、橋の下にゐるやうだつた。……暫くすると、露子の眼の前に小さな鮒が泳いで來た。鮒は露子の鼻先に來てとまり、それから、ひらりと身をかはして、壁に掛けてある着物の裾へ泳いで行つた。見ると、露子の晴着は小さな水の泡が一杯ついてゐて、海草のやうにゆるやかに搖らいでゐた。鮒は袂の下を潛り拔けると、まつすぐ露子の方へ泳いで來た。その眼球がたしか、友達の光子だつた。「氣がついて」と相手の鮒は話しかけた。どうやら露子も鮒になつてゐるらしいのに氣づいた。すると、全身から白い膜のやうなものが、ふわりと脫ち[やぶちゃん注:「ぬけおち」。或いは「おち」。]、急に露子は身輕さを覺えた。光子はずんずん面白さうに泳ぎ續けた。露子は自分も泳げるものかしらとまだ躊躇してゐたが、光子の後を追はうと決心すると、案外樂に泳げ出した。すると急に嬉しくなつたので、態と斜に泳いでみたり、くるりと廻轉してみたり、嬉しさはいよいよ募り、もう凝として居られなくなつた。「早く早く外へ出てしまひませう」と、光子に囁き二人は囘轉窓から廊下の方へ飛出した。廊下の向から恰度回診の醫者が看護婦や助手を連れてぞろぞろやつて來た。見つかりはすまいかしらと露子は一寸心配したが、光子は一向平氣でお醫者の鼻先を掠めて行つた。それで露子も皆の頭の上を泳ぎ拔け、早速光子の後を追つた。廊下は既に盡きて、バルコニーに來てゐた。そこからは往來の一部が見渡せるのだつた。露子はもう夢中で明るい往來の方へ跳出した[やぶちゃん注:「をどりだした」。]。後から光子の何か云ふ聲が聞えた。が、露子はもうそれに耳を貸してゐる暇はなかつた。早く、早く、逃げ出して、と風が耳朶[やぶちゃん注:「みみたぶ」(音なら「じだ」)であるが、ここは二字で「みみ」と当て訓していると読む。]で唸る。嬉しくて嬉しくて、何しろもう急がなければならなかつた。後から光子が追駈けて來るらしいことまで頻りに面白く、そして體はいよいよ速かに泳げて行けるのだつた。

 風が後から彼女を押すやうに吹いて來ると、彼女の鰭はふわふわ[やぶちゃん注:ママ。]搖れて、身は輕く街の上を飛んだ。あんまり上に浮いてはまだ心細いので、お腹の浮袋を調節すると、今度はずんずん下に沈めた。それで、もうすつかり自信がつき、また空高く舞上つた。街はそこから一目に見渡せた。煙突や高いビルがすぐ下に、そしてアスフアルトの路は遠くに、人は豆粒のやうに緩く步いて居た。もう連れの光子は何處にも見えなかつた。彼女はやつぱし浮々して、頻りに嬉しく、向に自分の實家の庭の綠が見えて來ると、一直線に突進して行つた。だが門の少し手前まで來た時、急に呼吸切[やぶちゃん注:「いきぎれ」。]がして、動悸が烈しくなつた。まだ病氣なのに無理しなきやよかつたと思ふうちに、目が眩んで、體が石のやうになると、溝の中へ墮ちてしまつた。……やがて溝の上に人の顏が覗いた。次第に胸は烈しく痛み、露子は今、醫者に注射されてゐるやうな氣持だつた。しづかに眼をひらいて見ると、しかし、溝の上に居るのは弟だつた。露子は喘ぎながら弟の名を呼んでみたが、弟は亂暴に彼女を握締めると、家の内へ駈込んだ。それから臺所の處で彼女をバケツの中に放り込むと、家の中から皆が出て來て、てんでにバケツを覗き込んだ。皆がガヤガヤ騷ぎながらバケツを取圍むと、バケツは下の三和土[やぶちゃん注:「たたき」。]に響いて搖れた。搖れてゐる水を隔てて、母の顏や弟達の姿や亡くなつた父の顏が朧に見えた。小さな弟はバケツの柄を把へて、ガチヤガチヤ鳴らして居たが、ふと掌を突込んで水の中の露子を摑へようとし出した。露子は一生懸命逃げ廻つたが、紅葉ほどの掌はなかなか小癪に追駈けて來た。「こらツ、こらツ」と、弟の指は刃物のやうであつた。露子はぐつたり疲れて、情なくおろおろして身を縮めてゐた。すると、こんな風な身の上は何かの物語で以前讀んだことがあるのをふと憶ひ出した。それから何でもずつと昔やはりこれに似たことがあつたやうに思へた。さう思ひながら縮み上つた眼で、上の方を覗ふと、バケツの緣の處には、確かにもう一人別の露子が覗き込んでゐるのだつた。そのもう一人の露子は娘のやうなセルの着物着てゐて、何だか昔撮した寫眞に似てゐた。露子はその女が頻りに氣になり、ひそかに妬ましく感じた。そのうちに弟達が何か喧嘩し出した。下の弟はワーと大聲で泣き喚くと同時にバケツをひつくりかへしてしまつた。あつと思つた時、水はだだーと流れ去り、もう自分は何處へ消えて行つたのかわからなくなつた。……が、暫くして氣がつくと、顚覆したバケツを取圍んで、皆と臺所の處に居るのだつた。露子はそこに居る自分が何だか幻のやうな氣持がして、どうなるのやら心許なかつた。やはり露子は病院のベツトに寢てゐるらしく思へた。が、さう思ふうちにも、臺所の樣子は次第に變り、さつきから騷いでゐた人々の姿も可也異つて來た。何時の間にか中央には大きなテーブルが据ゑてあり、人々はそのまはりを取圍んで立つてゐるのだつた。テーブルの上の大きなガラスの器を長い火箸で搔き廻してゐるのは靑木先生だつた。先生はさつきから頻りに講義をしてゐたらしかつたが、ふと露子の方に目をやると、はたと口を噤んでしまつた。それからもう困つたらしく、片手で首のあたりを撫でて暫く俯向いてゐた。あちこちで忍び笑ひが生じ、靑木先生は愈まごついてしまつた。ところが、先生の後に何時の間にか校長先生がのそつと現れて來た。今度は校長先生が代つて喋り出すらしく思へた。「今度はそれではいよいよ結婚式の實習に移ります」と校長先生は氣取つて挨拶した。すると、皆はパチパチと拍手を送つた。露子は何だか羞しく、胸騷が生じてゐると、カーネーシヨンの花束を持たされた。拍手はまた頻りに湧いて、周圍が一層浮々して來た。すると彼女の前に盛裝の女が現れて、淑やかにお叩儀をした。露子は眼を伏せて自分の襟もとを視ると、白い衣裳を着せられてゐた。生徒達は一勢に讚美歌を合唱し出した。一人俯向いて、露子はテーブルの方を眺めた。テーブルの上の器からは頻りにブクブクと泡が立つてゐた。合唱はいよいよ高潮し、房子はそれを聽いてゐると、次第に昏倒しさうになるのだつた。それで彼女は一心にテーブルの方のガラスの器を眺めた。器から泡立つ液體は今、大方盡きようとしてゐた。しかし、耳許の騷ぎは愈盛んになり、彼女の名を呼ぶ聲や、笑ひ聲や、啜り泣きが入混つて聞かれた。そのうちに天井から、さーつと萬國旗が張られると、再び割れるばかりの拍手が起つた。「神樣、神樣、いいえ、私は……」露子は胸のうちで呟いたかと思ふと、忽ち全身の力が消えて行つた。

2019/03/30

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 麢羊(かもしか・にく)・山驢 (カモシカ・ヨツヅノレイヨウ)


 

Kamosika

 

 

かもしか  羚羊 麙羊

にく    九尾羊

麢羊

      【和名加

       萬之介】

      【俗云尓久】

リンヤン

 

本綱麢羊似羊而青色毛粗兩角短小有節大如人手指

又有一角者常獨棲懸角於木枝不着地而夜宿以遠害

可謂霊也故字從靈角有其掛痕其角極堅能碎金剛石

金剛石出西域狀如紫石英百鍊不消物莫能擊惟羚羊

角扣之卽自然氷泮也又貘骨僞充佛牙物亦不能破用

此角擊之卽碎皆相畏耳其皮以作座褥

角【鹹寒或云苦寒】 入肝經甚捷【羊屬火而羚羊屬木】同氣相求也明目治

 小兒驚癇大人中風搐搦等肝膽之病又能噎塞不通

 【屑爲末飮方寸匕幷以角摩噎上】辟邪氣不祥解諸毒

肉【甘平】 治惡瘡强筋骨免蛇蟲毒

                  慈圓

 拾玉松か枝に枕定るかもしゝのよそ目あたなる我庵哉

△按麢半似羊及鹿而灰青色腹白微黃眼畧大也於吉

 野山中捕之畜養而不食糓肉等未知常所好食者試

 投諸草及菓子止食榧葉竹嫩葉薊葉而不多食故難

 育其屎亦如鹿屎

――――――――――――――――――――――

山驢

[やぶちゃん注:以下は原典では上記標題項大字の下に一字下げで二行で記されてある。]

身似驢角似羚羊但稍大而節疎慢耳尾似馬

有岐蹄用其角僞羚羊一名羭

 

 

かもしか  羚羊〔(れいやう)〕

にく    麙羊〔(かんやう)〕

      九尾羊

麢羊

      【和名、「加萬之介〔(かもしか)〕」。】

      【俗に云ふ、「尓久〔(にく)〕」。】

リンヤン

 

「本綱」、麢羊は、羊に似て、青色。毛、粗なり。兩角、短く、小〔にして〕、節、有り。大いさ、人の手の指のごとし。又、一角の者、有り。常に獨棲〔(ひとりづみ)〕して、角を木の枝に懸け、〔身を〕地に着けずして、夜宿〔(よじゆく)〕し、以つて、害を遠ざく。〔これ〕霊〔妙〕なりと謂ふべきなり。故に、字、「靈」に從ふ。角に其の掛けたる痕(きづ[やぶちゃん注:ママ。])有り。其の角、極めて堅し。能く金剛石[やぶちゃん注:ダイヤモンド(diamond)。]を碎(くだ)く。金剛石は西域より出づ。狀、紫石英[やぶちゃん注:紫水晶。アメジスト(amethyst)。]のごとく、百たび鍊〔(ねり)〕て〔も〕消〔(しやう)〕ぜず[やぶちゃん注:磨滅消滅することがない。]。物、能く擊つ莫し。惟だ、羚羊の角で之れを扣〔(たた)く〕時は、卽ち、自然に氷のごとく泮〔(と)くる〕なり。又、貘〔(ばく)〕の骨を僞りて佛牙に充つる物も亦、破る能はざる〔も〕、此の角を用ひて之れを擊つときは、卽ち、碎く〔る〕。皆、相ひ畏るるのみ[やぶちゃん注:ここは「それを実見する者は、ただただその神妙なる力に讃嘆するばかりである」の意。]。其の皮、以つて座褥(しきがは)に作る。

角【鹹、寒。或いは、云ふ、苦、寒。】 肝經に入ること、甚だ捷なり。【羊、火に屬し、羚羊は木に屬す。】同氣〔は、これ〕、相ひ求〔むれば〕なり。目を明〔らかにし〕、小兒の驚癇・大人の中風・搐搦〔(ちくじやく)〕等、肝膽の病ひを治す。又、能く噎塞〔(いつさい)して〕[やぶちゃん注:噎(む)せて咽喉が塞がった感じの症状。]通らざるを〔治す〕【屑を末と爲し、方--匕〔(ひとさじ)〕[やぶちゃん注:一匙。]を飮み、幷びに、角を以つて噎〔(ふさ)ぐる〕上を摩す[やぶちゃん注:閉塞している感じがする部位の肌を角で撫ぜる。]。】。邪氣不祥を辟〔(さ)〕き〔→け〕、諸毒を解す。

肉【甘、平。】 惡瘡[やぶちゃん注:悪性の腫れ物。]を治し、筋骨を强くし、蛇・蟲毒を免かる。

                  慈圓

 「拾玉」

   松が枝に枕定〔む〕るかもしゝの

      よそ目あだなる我が庵哉

△按ずるに、麢、半ばは羊及び鹿に似て、灰青色。腹、白く、微〔かに〕黃なり。眼、畧〔(やや)〕大なり。吉野山中に於いて之れを捕へ、畜養すれども、糓・肉等〔は〕食はず、未だ常に好んで食ふ所の者を知らざれば、試みに諸草及び菓子(このみ)を投〔ぜしに〕、止(たゞ)、榧〔(かや)〕の葉・竹の嫩葉〔(わかば)〕・薊(あざみ)の葉を食ふ。而れども、多食はせず。故に育て難し。其の屎〔(くそ)〕も亦、鹿の屎のごとし。

――――――――――――――――――――――

山驢〔(さんろ)〕

身、驢〔(ろば)〕に似、角、羚羊に似る。但し、稍〔(やや)〕大にして、節、疎慢〔(そまん)〕なるのみ。尾、馬も似る。岐〔(また)の〕蹄〔(ひづめ)〕有り。其の角を用ひて、羚羊に僞る。一名「羭〔(ゆ)〕」。

[やぶちゃん注:ここは、狭義の羚羊(かもしか)としての、獣亜綱偶蹄目反芻亜目ウシ科ヤギ亜科カモシカ(シーロー(英名:serow))属 Capricornis の、

シーロー亜属スマトラカモシカ(シーロー・ヒマラヤカモシカ)Capricornis sumatraensis(パキスタン北部・インド北部・中国南部・タイ・ミャンマー・スマトラ島などに分布。本種には別に Capricornis milneedwardsiiCapricornis rubidusCapricornis thar の三亜種がいるらしい)

カモシカ亜属 の、

ニホンカモシカ Capricornis crispus(日本固有種。京都府以東の本州・四国・九州(大分県・熊本県・宮崎県に分布)

タイワンカモシカ Capricornis swinhoei(台湾に分布。本種をニホンカモシカの亜種とする説もある)

を挙げておく。まず、ウィキの「スマトラカモシカ」を引く。体長は百四十~百七十センチメートル、肩高は八十五~九十五センチメートル、尾長は九~十一センチメートルで、体重は百~百二十キログラム。『全身は黒茶の毛で覆われている。体毛は粗く固い。背中に黒の縞模様がある』。四『本の脚の毛は茶褐色』。『頭部は羊や牛に似ているが』、『やや短い。広がった耳を持つ。首には長いたてがみがある。頭頂部にやや後ろに湾曲した角を持つ。メスよりオスの角のほうが大きい。蹄は短く丈夫で、岩の上を歩くのに適している』。『海抜』三千五百メートル『以下の亜熱帯の山地及び温帯地区の森に生息する。多くは』一千メートル『以上の山地に住み、冬季になると』、『海抜の低い地域に移動する。単独もしくはペアで生活する。朝と夕方に行動する』。『食性は植物食で、草、木の葉等を食べる』。『晩秋に交配し、初夏に出産する』。一『回の出産で生むのは』概ね一『匹。繁殖能力は低い』。『身の危険が及ぶと絶壁に逃げることがあるが、これがかえって目立ち、猟師の射撃の的になることが多い。そのため数が減り、現在中国では保護動物に指定されている』とある。

 次にウィキの「ニホンカモシカ」を引く。体長は百五 ~百十二センチメートル、肩高は六十八~七十五センチメートル、尾長は六~七センチメートルで、体重三十~四十五キログラム。『全身の毛衣は白や灰色、灰褐色』であるが、『毛衣は個体変異や地域変異が大きい』。『頭骨の額は隆起する』。角の長さは八~十五センチメートルで、『円錐形』を成し、『やや後方へ湾曲し、基部に節がある』。耳の長さは九~十一センチメートルで、『耳介は幅広く、やや短いため』、『直立しても』、『耳介の先端と角の先端が同程度の高さにある』。『眼窩はやや小型で、涙骨の窪みは前頭骨に達しない』。『四肢は短い』。『低山地から亜高山帯にかけてのブナ、ミズナラなどからなる落葉広葉樹林や混交林などに生息する』。『以前は高山に生息すると考えられていたが、生息数の増加に伴い』、『低地にも出没するようになり、下北半島では海岸線付近でみられることもある』。『季節的な移動は行わない』。十~五十『ヘクタールの縄張りを形成して生活し、地域や環境により変異があるが』、『オスの方が広い縄張りを形成する傾向がある』。『眼下腺を木の枝などに擦り付け縄張りを主張する(マーキング)』。『縄張りは異性間では重複するが』、『同性間では重複せず、同性が縄張りに侵入すると』。『角を突き合わせて争ったり』して『追い出す』。『単独で生活し』、四『頭以上の群れを形成することはまれ』である。『木の根元・斜面の岩棚・切り株の上などで休む』。『広葉草本、木の葉、芽、樹皮、果実などを食べる』。『下北半島では』百十四『種、飛騨山脈では』ササ属Sasa やスゲ属Carex『を含む』九十五『種の植物種を食べていた報告例がある』。『積雪時には前肢で雪を掘り起こして食物を探す』。十~十一『月に交尾を行う』。『妊娠期間は』二百十五日で、五~六月に主に一回に一『頭の幼獣を産むが』、『複数頭を出産することや毎年出産することは少ない』。『幼獣は生後』一『年は母親と生活する』。『生後』一『年以内の幼獣の死亡率は約』五十%の高率で、『特に積雪が多い年は死亡率が高くなる』。『オスは生後』三『年で性成熟し、メスは生後』二~五年(平均四年)で『初産を迎える』。『寿命は』十五『年だが、雌雄共に』二十『年以上生きた個体もいる』。『飼育下での記録は』三十三『歳(館山博物館カモシカ園「クロ」)』。『崖地を好み、犬に追われた場合など崖に逃げる傾向が強い。好奇心が強く、人間を見に来ることもあると言う。「アオの寒立ち」としても知られ、冬季などに数時間、身じろぎもせずじっとしている様子が観察される。理由は定かではないが、山中の斜面を生活圏としていることから、反芻(はんすう)をするときに、寝転ぶ場所がないからともいわれている』。『カモシカの糞はシカの糞とほぼ同じ形で、楕円形である。野外において、この両者を見分けるのは簡単ではない。一つの目安はシカは糞を少数ずつ散布するが、カモシカは塊を作ることである。盛り上がった糞塊が作られていれば、カモシカの可能性が高い。これは、シカは歩きながら糞をするのに対し』、『カモシカは立ち止まって糞をする傾向があるからである』。「日本書紀」の皇極天皇二(六四三)年十月二日の条に『童謡(わざうた)が歌われており、「岩上に 小猿米焼く 米だにも たげてとおらせ 山羊(カマシシ)の老翁(おじ)」と記され、老人の踊りをカマシシ=カモシカに例えている』。『カモシカという名称は昔、その毛を氈(かも)と呼んでいたことによる。「氈鹿」のほかに「羚羊」という漢字を宛てることがある。別名を「アオジシ」と言い、マタギのあいだでは単に「アオ」とも呼ばれ、青色の汗をかくと言われる。他にニク、クラシシなどの別名もあり、鬼のような角をもつことから、「牛鬼」と呼ぶ地方もあるとされる』とある。因みに、私は二十六歳の時、顧問をしていたワンダーフォーゲル部の夏の合宿で、槍から下る、徳本(とくごう)の手前で、夕刻、四、五メートル先の藪の中にいる♀と出逢ったのが、野生のそれとの邂逅の最初であった。

 

「にく」『俗に云ふ、「尓久〔(にく)〕」』これは動物の敷き革を指す「褥」「蓐」の音を当てたもので、本種の皮がそれに適していたことに拠る。

「麢羊」『常に獨棲〔(ひとりづみ)〕して、角を木の枝に懸け、〔身を〕地に着けずして、夜宿〔(よじゆく)〕し、以つて、害を遠ざく。〔これ〕霊〔妙〕なりと謂ふべきなり。故に、字、「靈」に從ふ』大修館書店「大漢和辭典」の「麢」(かもしか・かもしし)の解字に事実、「靈」に通じ、「優れる」の意とある。

「泮〔(と)くる〕なり」「泮」の字には「氷が溶ける」の意がある。

「貘〔(ばく)〕」独立項で既出既注

「肝經」五臓の「肝」「膽」に関わる重要な経絡。そもそもが肝臓と胆嚢はともに五行で「木」に属するため、密接な関係を持っているが、ここで割注している「羊、火に屬し、羚羊は木に屬す」と後の「同氣〔は、これ〕、相ひ求〔むれば〕なり」というのは、この羚羊が漢字表記上で「羊」の同類であるから「火」で、「羚羊」は「木」に属すが、実は五行説の相生説では「木生火(もくしょうか)」(木は燃えて火を生む)であるから、「火」の「羊」は「木」の「羚羊」を生み出す(相性がよい)のであり、しかも肝胆を司る「肝胆」は「木」に属せばこそ、速やかに本種の角が作用するのであるというのであろう。

「小兒の驚癇」小児性癲癇。

「大人の中風」中気とも呼ぶ。後天的な半身不随や、顔面・腕・脚等の麻痺及び運動障害などの症候群をいう。脳・脊髄の炎症や外傷など器質的病変によっても発生するが、通常現在では脳卒中の後遺症として現れるものを指す。

「搐搦〔(ちくじやく)〕」「ひきつけ」や痙攣の症状を指す。

「慈圓」「拾玉」「松が枝に枕定〔む〕るかもしゝのよそ目あだなる我が庵哉」「慈圓」は「慈鎭」に同じ。「獅子」の注を参照。「拾玉集」は彼の私歌集。

「榧〔(かや)〕」裸子植物門マツ綱マツ目イチイ科カヤ属カヤ Torreya nucifera

「薊(あざみ)」キク目キク科アザミ亜科アザミ連アザミ属 Cirsium のアザミ類。

「山驢〔(さんろ)〕」「山海経」の郭璞注に、「閭卽羭也、似驢而岐蹏、角如麢羊、一名山驢」と出るが、既に私は「驢(うさぎむま)(ロバ)」の注で、ウシ亜科ニルガイ族ヨツヅノレイヨウ(四角羚羊)属ヨツヅノレイヨウTetracerus quadricornisインドネパール:ウシ亜科の中でも原始的な種と考えられているが、画像を見る限り、本種は牛ではなく如何にも鹿っぽい。ウィキの「ヨツヅノレイヨウ」ヨツヅノレイヨウの画像をリンクさせておく)に同定比定した。]

原民喜 動物園

 

[やぶちゃん注:昭和一三(一九三八)年十月号『慶應クラブ』初出。

 底本は一九七八年青土社刊原民喜全集「Ⅰ」を用いたが(底本では「拾遺作品集Ⅰ」のパートに配してある)、以上の書誌データや歴史的仮名遣表記で拗音・促音表記が殆んどないという事実及び原民喜の幾つかの自筆原稿を独自に電子化してきた私の経験に照らして(彼は戦後の作品でも原稿では歴史的仮名遣と正字体を概ね用いている)、漢字を概ね恣意的に正字化することが、原民喜自身の原稿原型に総体としてより近づくと考え、今までの私のカテゴリ「原民喜」のポリシー通り、そのように恣意的に処理した。

 二段落目の「矢野動物園といふ巡囘興行」についは、吉村大樹氏の論文(卒業論文)「江戸時代の見世物小屋―見世物となった舶来鳥獣―」のこちらによれば、後の「矢野サーカス」の前身である「矢野巡回動物園」のこととする。『矢野巡回動物園は一八九〇年代半ばに、矢野岩太が創立し、香川県を拠点にヤマネコ一匹の見世物から始まった』。『阿久根巖(一九八八年)によると、矢野動物園を本格的にするために、矢野岩太は、ライオンを買い付けるためにドイツ行きを決意して神戸まで行くが、中田和平という動物商の紹介で、ベルグマン商会を経て、ハーゲンベック動物園からライオン購入の商談がまとまり渡航しなくても、輸入できるようになり、このライオンによって、矢野巡回動物園は大当たりするのであると言っている』。『それは、明治四十年(一九〇七年)の話で、それまでの矢野巡回動物園は、ヒョウや虎などを購入して、本格的な動物園へとしてきたが、ドイツから来たライオンにより』、『全国で人気が出て、当時の人々もライオンをいままで見た人が少なく』。『このライオンの人気によって矢野巡回動物園は第二の動物園を組織して、日本列島を二手に分けて巡回してい』った。『第二の動物園の方は、矢野岩太の甥にあたる矢野庄太郎が館主としてまかされ、本部の動物園と区別するために動物館という名称にして、看板の猛獣にキリマンジャロ産のライオンがいたのであったが』、『この二つの巡回動物園が存在したのは、明治四十二年初めから、四十五年頃までのようだった』。『この、明治四十二年から四十五年の間に本部の動物園の方は朝鮮へ渡って興行をしたとされ、第二の動物園の方は長崎の出島などで興行をしたが』、『その他に関する資料が残っていないのである』(明治四五(一九一二)年当時、原民喜は満六~七歳で、同年四月に広島師範付属小学校に入学しているから、辛うじて辻褄が合う)。『そして、大正五年(一九一六年)に矢野巡回動物園のサーカス部門をスタートをさせる』。『この矢野巡回動物園のサーカス部門は、矢野サーカスとして活動し、初代団長に第二の動物園の館主であった矢野庄太郎であり、彼を団長に置いたのは、 木下サーカス』『の団長で庄太郎の兄である木下唯助であった』。『その後、矢野巡回動物園は矢野岩太が大正十五年(一九二六年)五月七日にこの世を去ったため』、『木下唯助、矢野庄太郎の長兄の金助が動物園を継ぐことにな』ったが、『動物の死など』、『不運が重なった矢野巡回動物園は昭和三年(一九二八年)に解散してしまった』。『残った矢野サーカスの方は』、『戦後になって徐々に衰退の道を歩み』、『平成八年(一九九六年)に八十年の歴史に幕を下ろした』とある。

 また、六段落目の「二度日に動物園へ行つたのはハーゲンベツク・サーカスが來た春」とあるのは、野生動物を扱うドイツ人商人でヨーロッパ各地の動物園やサーカスなどに動物を提供し、柵のない放養式展示の近代的動物園を作ったことでも知られるカール・ハーゲンベック(Carl Hagenbeck 一八四四年~一九一三年)の名を冠したサーカス、「ハーゲンベック・サーカス」(Hagenbeck-Wallace Circus)の来日を指し、これは昭和八(一九三三)年のことであった(同年三月十七日から五月十日まで芝区芝橋(芝浦製作所跡)に於て興行が行われた。原民喜満二十七歳。貞恵との結婚はまさにこの年の三月であった)。なお、日本で「サーカス」の名が使われるようになるのは、この時以後のことである。

 最終段落にある「上野科學博物館」は関東大震災の復興事業の一環として、昭和六(一九三一)年九月に「東京科學博物館本館」として竣工したもの。現在の国立科学博物館上野本館。

 因みに、本篇は現在、ネット上では公開されていないものと思われる。【2019年3月30日公開 藪野直史】]

 

 

 動物園

 

 先日、鄕里の兄の許へ行くと「子供達が強請むから[やぶちゃん注:「せがむから」。]、この春休みには皆を連れて東京見物に行くぞ」と兄は云つてゐた。子供といふのは尋常六年と二年と一年生の三人だが、「どうして東京へ行つてみたいのか」と試みに私が尋ねたら、「動物園が見たいのだ」とたちどころに答へた。そんなに動物園が見たいかなあと私は今更のやうに感心した。

 尤も私も子供の頃には、矢野動物園といふ巡囘興行が街に來たのを、眼を輝かしながら、狹苦しい檻と板の間の通路を人混に押されて行つたものだが、夜のことで檻の動物はよく觀察出來ず、ただ動物のいきれと啼聲に滿足して歸つた。殊にライオンの啼聲は氣に入つて、その後しばしば模倣し、ある晚も往來に面した戶の處で、メガホンでそれをやつてゐると、親類の人が通りかかつて、ほんとにライオンがゐるのかと思つて呉れた。それと前後して、私はサーカスで縞馬といふものを始めて見たが、あの夏、裸で遊んでゐると急に寒氣がして目が昏み、白い湯氣のなかをその縞馬が走り出したので大變苦しかつた。

 二年生の甥は廣島から宮島まで自動車に乘せられたら、ふらふらになつて醉つてしまつたといふから、東京まで十五時間の旅はさぞ難儀だらうと思へる。六年生の甥も汽車に弱いので、「誰が今度は一番に醉ふかな」と云はれても、子供達は動物園のことで氣持は一杯らしい。さう云へば、日曜日の省線電車に、父親の手に縋つて、眼を輝かしてゐる神經質の子供は、あれは大抵、動物園へ行くのかもしれない。

 

 私も久しく東京へ住んでゐたが、その間、二度しか上野動物園を訪れなかつた。今は、千葉の方へ住んでゐるので、動物園行きも容易でないが、何故、學生時代、氣持が鬱屈した折など、單純に眼を輝かして、動物園へ行くことを思ひつかなかつたのだらう。すればきつと、動物達の素直なまなざしによつて慰められたにちがひない。

 私が最初、上野動物園見物をしたのは、受驗に上京した歲でその春塾を卒業した兄に連れられて行つた譯なのだが、――一時に受ける東京の印象が過剩だつたため――ただ池のところに金網が張つてあつて、澤山の鳥類がやかましく啼いてゐたのだけが頭に殘つてゐる。たしか、櫻が滿開だつたと思ふ。

 二度日に動物園へ行つたのはハーゲンベツク・サーカスが來た春で、恰度東京見物に來た妹を連れて、萬國婦人子供博覽會を見た序に立寄つたのだつた。嫁入前の妹は、それでなくても彼女はものごとを笑ふ癖があつたが、大槪の動物を見てはくすくす笑ふのだつた。河馬が水槽のなかで大きな口をぱくりと開いて、生のキヤベツの塊りを受取ると、忽ちキヤベツは齒間に碎かれ破片が顎から水に落ちるのを、私は面白く眺めた。それから、あの麗かな春の陽を受けて、岩の上を往つたり來たり、一定の距離を同じ動作で繰返してゐる白熊を見ると、妹はまた噴き出したが、私ははからずも或る舊友を連想してしまつた。その友は昔、私の下宿を訪れる度に、廊下のところで一度私の部屋の障子をピシヤリと開け、ピシヤリと閉ぢ、七八囘開けたり閉ぢたり、廊下と疊を交互に踏んでみて、それから始めて、部屋に道入つて來るのだがすぐには疊の上に坐らうとしないで、神祕的な眼をしながら暫く足踏をして兩手を痙攣させるのであつた。

 いろんな動物のなかでも、狐の眼は燃えてゐて凄かつた。やはり狐は化けることが出來るのかもしれないと私は思つた。妹は白い蛇がゐるのを見て笑つたが、私は『雨月物語』を想ひ出して、それもー寸不思議な感銘だつた。――私達はその日、人と動物と砂挨に醉つてしまつた。

 

 去年、私ははじめて上野の科學博物館を見物したが、あそこの二階に陳列してある剝製の動物にも私は感心した。玻璃戶越しに眺める、死んだ動物の姿は剝製だから眼球はガラスか何かだらうが、凡そ何といふ優しいもの靜かな表情をしてゐるのだらう、ほのぼのとして、生きとし生けるものが懷しくなるのであつた。

原民喜 狼狽

 

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年十月号『作品』初出。

 底本は一九七八年青土社刊原民喜全集「Ⅰ」を用いたが(底本では「拾遺作品集Ⅰ」のパートに配してある)、以上の書誌データや歴史的仮名遣表記で拗音・促音表記が殆んどないという事実及び原民喜の幾つかの自筆原稿を独自に電子化してきた私の経験に照らして(彼は戦後の作品でも原稿では歴史的仮名遣と正字体を概ね用いている)、漢字を概ね恣意的に正字化することが、原民喜自身の原稿原型に総体としてより近づくと考え、今までの私のカテゴリ「原民喜」のポリシー通り、そのように恣意的に処理した。

 太字は底本では傍点「ヽ」。踊り字「〱」は正字化した。

 因みに、本篇は現在、ネット上では公開されていないものと思われる。【2019年3月30日公開 藪野直史】]

 

 狼 狽

 

 數學の教師、山根高彦は或る朝日が覺めてみると何の異狀もなかつた。彼は何時もの癖でラヂオ體操をやり、朝飯を食べると、元氣に溢れた顏で登校し、朝禮でまた體操をやり、教員室で幾何の教科書を取ると、第一時間目の三年生の教室へ颯爽と出向いた。彼は二階の階段を昇るのに二段づつ一呼吸にやつて、そこの教室のドアの引手に指が觸れるまでに何秒かかるか計算して知つてゐたが、それはこれまで殆ど一秒も狂はなかつたほど正確な動作だつた。で、今もその正確な動作でさつと引手を引き、教壇に登ると、顎をカラーの方へ引寄せ眼をパチりと瞬くと、一勢に生徒が立上つてお叩頭(じぎ)をした。そこで彼はチヨークを執つて、黑板の方へ對つた。彼はピタゴラスの定理を教へるつもりで定規を黑板にあてがつて新しいチヨークを勢よく引いた。すると、あんまり勢がよかつたので、チョーク[やぶちゃん注:拗音表記ママ。]がポキリと折れ、定規が歪んだ。

「誰だ、今舌を出したのは、高橋だらう」と彼は電光石火の早技(わざ)で皆の方へ向きかはつた。高橋と名指された生徒は眞赤になつてぶるぶる慄へた。この生徒はクラスでもおとなしい、ごく眞面目な男なのだが、どう云ふ譯でその時舌を出したのかわからなかつた。いや、それよりも山根高彦の背中に眼が着いてゐない限り、黑板に對つて[やぶちゃん注:「むかつて」。]ゐながら後の方の樣子が手にとる如く解るはずがない。それだのに高橋あさつき片方の眼を塞ぎなから舌を出したのを見た。

「君はどうも陰日向があるね、先生が黑板の方を向いてゐれば何したつてわからないと思ふと大間違ひだよ。僕にはちやんと靈感で以てわかる」と彼はいささか得意さうに生徒達を見渡した。と、皆の顏に奇妙な感嘆の色が浮んで、一瞬水を打つたやうにあたりが靜まつた。急に彼はとんでもないことを喋り出したのに氣が着いて、また黑板の方へ向き直つた。しかし、どうも如何云ふ[やぶちゃん注:「どういふ」。]譯でああ云ふことが解つたのか、皆目彼にも解らなかつたので、實に變てこな氣分がした。彼はその考へを追拂ふつもりで、今度は靜かにチョーク[やぶちゃん注:拗音表記はママ。]でもつて線を描き始めた。ところが、それもほんの二三秒で、彼はまた不思議なことを口走つた。

「今また舌を出してるのは森田だな、先生を試(ため)さうとしたつて駄目だよ」さう云ひながら、今度は向きかはりもせず、悠々と線を引いて行つた。すると、森田と云はれる生徒は今迄出してゐた舌を氣まりわるげに引込めると、呆然として山根先生の背中を視凝めた。その背は着古されて少し光り出した黑の背廣で覆はれてゐたが、そこには何の變哲もなかつた。そのうちに山根先生は三角形を描き了へると、皆の方へ向き直つた。そして、もうその時にはすつかり平素の態度にかへつた樣子で、ピタゴラスの定理を喋り出した。その時間はこれで何ごともなく過ぎた。

 山根高彦先生はけろりとした顏で教員室へ戾り、バツトを一服やりながら運動場の方を眺めてゐた。恰度その時、博物の教師が近づいて來て、マツチを貸して呉れと手眞似をした。この教師は日頃から山根高彦を若僧扱ひにしてゐたが、今手眞似でやつたのは輕蔑からではなく、實は彼の子供が大病で昨夜も碌に睡れなかつたためひどく疲勞してゐたのだつた。博物の教師は味氣ない表情でチエリーに火を點けると、山根高彦に對つて淋しい微笑を送つた。その微笑の底には何かぞつとするものが漾つてゐるやうに想はれた。

 

「お疲れでせうね、坊ちやんが病氣では……」と山根高彦はごく平凡なことを云つて相手を慰めるつもりらしかつた。

「しかしもう追つきませんよ、お宅の坊ちやんはたつた今亡くなられましたもの」。

「え……君は……」と博物の教師は二三步後ずさりしながら、親指と人差指の間に挾んでゐた煙草に力を入れたため、煙草は折れて曲つた。その半分折れてぶらぶらしてゐる煙草を慄はせながら、彼は相手を視凝めたまま口がこはばつて言葉がきけなかつた。と、その時小使が現れた。

「大村先生、お電話です」。

 電話と聞いてこの教師の表情はさつと變つた。そこで忌々しげに煙草を放ると、彼はあたふたと出て行つた。ところがものの二三分もたたぬうちに、博物の教師はがつかりした顏で教員室へ戾つて來た。それから風呂敷包を纏めながら、一生懸命で何度も結び目を結び替へてゐるのは、淚を隱さうと努めてゐるためらしかつた。

「御愁傷でせう」と山根高彦は背後からしんみりした口調で話しかけた。すると、相手はヒヒヒヒと、鋭い笑聲を立てながら眼からパラパラと淚を落した。恰度その時授業のベルが鳴つた。

 山根高彦は心殘りの儘、廊下へ飛出したが、今度は階段を一呼吸に二段づつ昇つては行かなかつた。何故かわからないが、山根高彦は憂鬱な顏つきであつた。しかし、教壇へ立つと彼はまた顎をカラーの方へ引寄せて、眼をパチクリさせた。そして普通の顏つきで授業を開始した。幸にその時間は自分で自分に呆れたり、驚くやうな變なことがらもなく過ぎて行つた。そして、その次の時間も、また次の時間も、無事であつたため、終に山根高彦は、今朝ほどの不思泰な靈感なぞ全く何かのはずみに過ぎなかつたのだ、と安心して差程氣に留めないやうになつた。

 彼が授業が終ると、とにかく晴々して、大股ですつすつと步きながら、今始めて呼吸をするやうに樂しさうに、午後のひんやりした日蔭の空氣を吸つてみた。すると何時もながら牛肉屋の看板や、自動車のガレージなどのある見馴れた巷の光景が、何か人生の意義に充滿してゐるやうに山根高彦には感じられるのであつた。彼はそこで、戀人のことを想ひ出し、その想ひを獨樂のやうに頭のなかで廻しながら下宿屋へ戾つた。

 下宿屋の二階で山根高彦は暫くの間疊の上に寢轉んだ儘、ぼんやり天井を眺めてゐた。ところが、そこから四五丁さきの道路を今彼のところへ對つて、吉井と云ふ彼の舊友が鳥打帽を被つて、時々所在無さげに頰を撫でながら、何故か控へ目に步いて來るのが、山根高彦にははつきり感じられた。で、何故吉井がああ云ふ姿でやつて來るのかと云ふに、つまり吉井は煙草錢を借りに彼のところへ來る筈なのだが、三十錢貸して欲しいと云ふに違ひなかつた。突然、吉井はついでに五十錢借らうかなと考へたが、吉井の後からやつて來た洋裝の女が彼を追越すと、チエと舌打ちして、やはり三十錢でいいな、と決めてしまつた。――かう云ふ風に山根高彦の腦裡には一つ一つ吉井の樣子が映つて來たが、彼はここでまた自分がとんでもない狀態に陷つてゐるのを意識した。が、相手が吉井であるだけに多少の安心と興味に牽かれて、なほもさうした觀察を續けて行くと、吉井は靴の先で小石を蹴りながら速かに足並みを早めて、さつきの女を追越すと、もう彼の下宿の玄關のところまで來てしまつたのだつた。で、山根高彦はともかく起上つて、玄關先まで出て行つた。

 彼が玄關へ行つたのと、吉井が其處の格子戶を開けたのが同時だつたので、吉井は一瞬面喰つた。が、山根高彦はにこにこ笑ひながら云つた。

「今、君が來るだらうと思つてたところなのだ、まあ上り給へ」。

 吉井は部屋に入ると、默つて鳥打帽を弄(いじく)つてゐたが、眼は絕えず山根高彦の机の上にあるバットの箱に注がれてゐた。山根高彦が煙草に火を點けたのをきつかけに吉井は始めて口をきいた。

「僕にも一本呉れ給へ」。

「いや、始めからそのつもりで來たのだらう、遠慮し給ふな。それから……」と云つて、山根高彦は財布を取出すと、机の上に三十錢並べた。

「これ、とつてをき給へ」。

「? 的中だ、どうも僕この頃不景氣でね」。

「噓つき給へ、君は先週競馬へ行つて損したのだよ」。

「ハハハハ、僕がそれやつてるのをもう知つてたのか、でも妙だなあ、何處から考へたつて君に知れる筈なんかないと思つてたのに。」

「フン――」と、この時山根高彦は深い吐息をついて、何かに感嘆したやうな顏をした。するとその感嘆は忽ち吉井にも傳染した。

「フン――君には神通力が出來たな、君は神樣だよ」。

 神樣と聞くや否や、山根高彦は赫と顏面に朱を注いで怒鳴つた。

「馬鹿野郞、神樣とは何事だ! 神樣が君、中等教員の、それもこんな若僧であつて耐るか[やぶちゃん注:「たまるか」。]、神樣が君、下宿の四疊半で南京豆食つてるなぞと云ふ例[やぶちゃん注:「ためし」。]が何處にあるか」。

「いや、少くとも君は神憑[やぶちゃん注:「かみつき」と訓じておく。]になつたのだよ」。

「何だと! 神憑ぢや! 僕は巫女のやうなものになつたのか。僕は數學の教師だからさう云ふことは望んでないのだ。あんまり變なこと云ひ觸らしでもすると承知しないぞ。それでなくてもこの頃は世間がうるさくて何事も控へ目にすべき時勢だらう。それを君、僕が神憑なぞになつてるなんて、大それたことを想像してもらひたくないな、一つや二つ當推量が的中したからつて、それは君、偶然の一致と云ふものさ。とにかく、面白くないから今日はこれで歸つて呉れ給へ」と、山根高彦は不思議に怒り出した。

「まあ、さう怒らないで一勝負やらうぢやないか」と吉井は碁盤を顎で指差した。が、山根高彦は一そう嚴(いか)つい顏に化してしまつた。

「ねえ、久し振りぢやないか」と、吉井はヂヤラヂヤラ碁石を並べて彼の氣を惹かうとした。

「駄目だ、君が負けるのは解つてるから今日はもう歸れ」。

「へえ、君も妙な男だなあ」と吉井も少しむつとして座を立上つた。

 相手が去ると、山根高彦は大急ぎで抽匣[やぶちゃん注:「ひきだし」」。]から懷中鏡を出すと、自分の顏を調べ出した。山根高彦の容貌はごく類型的な、親しみ易い、賴母しさうな顏で、右の眼の下に黑子(ほくろ)があつたが、それとても無いよりかましにちがひなかつた。しかし彼が調べ出したのはそんな既知の事柄ではなかった。何か奇蹟的な變化がもしや顏に現れてはゐまいかと、暫くは呼吸を殺して鏡と睥み合つた[やぶちゃん注:「にらみあつた」。]。ところが、山根高彦は急に鏡を放ると、あツと叫んでしまつた。それは彼の顏に奇蹟が現れてゐたからではなかつた。いや、何の奇蹟も起つてゐないための恐怖であつた。これがこの際、假りに鼻が三インチ[やぶちゃん注:七・六センチメートル。]も突起してゐたとか、頭に後光が射したとか云ふのなら、山根高彦も頷けただらう。事實は平々凡々な、何の神聖さもない人間の面で、しかも、それがさつき吉井を怒鳴りつけたため額に浮んだ靜脈の跡が、みつともなくも消えてゐなかつた。

 ――これがこれとは何ごとか! と山根高彦は再び興奮しながら怒り出した。

 ――全然五里霧中だ。第一僕は一介の數學の教師で、微塵も僭越な氣持は持ち合はせてゐない。それが、かう云ふ平凡な面で神樣にならうものなら、それは神聖を瀆すと云ふものだ。神樣と云ふものは偉大な、何と云ふか、つまりその、名稱を超越し給ふ存在なのだ。ところで、今日はその自分に魔がさすとでも云ふのか、他人の餘計な事柄が見えたり、聞こえたりして困るが、どうもああ云ふ癖はよくないから徹頭徹尾抑制しなきやいかん。ああ云ふ癖が募りつのると、今に自分はとんでもない破目に陷る……。

 山根高彦が一通り自分の氣持を整理しかけた時、一人の婦人が訪れて來た。彼はその大柄な、派手な顏をした婦人を一瞥した時、奇妙に自分を恥しく思つたが、ははあ、また困つたことが出來たなと呟いた。勿論、彼にはその婦人が、今日彼が教壇から二回目に叱りつけた森田と云ふ生徒の母親であることも、彼女が息子から今日の話を開いて早速やつて來たことも、一體何を相談に來たのかも、すつかり前以て感知されてしまつたので、非常な努力を以て呆け面を粧はなければならなかつた。で、知れきつたことを尤らしい顏で、ハア、ハアと聞かされてゐるのが、如何にも彼女に氣の毒してるやうに思へたので、そいつを意識すまいと、山根高彦は相手の膝に纏(まつは)る友禪模樣の曲線を一つ一つ丹念に眺めてゐた。そのうちに森田の母親はいよいよ相談の本筋へ入つて來た。

「實は私の主人の話で御座いますが、どうもこの頃商賣が思はしくないので株に手を出してゐるので御座います。それで一つ是非先生に御智惠を拜借致したいと思ひまして今日お伺ひしたやうな次第なのです。」

「そいつは困りますなあ。僕は御存知の通り數學の教師ですが、そのことなら一つ經濟學の先生にでもお聞きになつたら如何がです」。

「いいえ、もうそんな呑氣なこと云つてはゐられないので御座います。主人はこれまで損ばかりやり通して來ましたのに、まだ性懲りもなく、今に芽を出すなんて申してゐるので御座いますが、このまま行つたら一體私達はどうなるので御座いませうか。一そのこと破産するならするでしてしまへばさつぱり致しますが、今のやうにぢりぢりと落目になつて行つたのでは何だかあんまり殘酷ぎるやうで御座います。ほんとにこの頃では先生の前でお話しするのも恥しう御座いますが、そのため私は時々癇癪が起きて自殺したくなるので御座います。」

 それから彼女は今にも癇癪を起しさうな氣配を見せながら喋り續けた。

「恰度幸なことに今日子供から先生のお話を伺ひましたので、これこそは神樣の救ひだと信じました。何でも先生は不思議な神通力をお持ちださうですが、どうかこの憐れな私どもにも少し分けてやつて下さいまし。この際のことですから私はもう絕對先生の御言葉を信賴致したう御座います」。

「ハハハ、今日のあれですか、あれはほんの座興ですよ」。

「いいえ、あれが座興なら、なほさらのことです。とにかく今私のお縋り申したい方は先生一人なので御座います。先生はつまり神樣なので御座います」。

「僕が神樣? そんな輕卒なことは云はないで下さい」。

「いいえ、いいえ、先生は神樣です。隱したつて逃げたつて、神樣は神樣です」。

「違ひます、そいつは人違ひと云ふものですよ。僕はつまり數學の先生ですよ」。

「いいえ、數學の話では御座いません。私は今こんなにお願ひしてゐるのではありませんか、どうか神樣になつ下さいまし。」

「さう矢鱈に神樣になれる筈がない」。

「いいえ、なれます、なれます、現に現に先生は神樣ぢやありませんか」。

 彼女はもう少しで泣き出しさうで、もう眼頭は興奮のために淚が潤つてゐた。その有樣を見ると、山根高彦は何時までもかうして婦人と爭つてゐるのが增々氣の毒になつた。それにもう山根高彦にはこの婦人の主人が今度は株で大儲けすることがちやんと解つてゐたので、どうしても一言云つてやり度くなつた。

「よろしい、ぢやあこれだけ申上げませう。あなたの御主人は今にきつと大成功なさいますよ、大成功、さうですね、正確なところ三十二萬圓は儲かりませう。」

 三十二萬圓と聞くと、この婦人は暫くきよとんとした顏で山根高彦を視凝めてゐたが、ハラハラと淚を落すと、急に彼の肩に抱きついて山根高彦をまるで戀人のやうに搖さぶつた。「ああ、神樣、ああ、神樣」と、彼女は恰度猫のやうに咽喉を鳴らして喚いた。そのうちにこの婦人はやつと普通の樣子にかへると、

「さきほどはどうも御無理を申上げたり、取亂したりして失禮致しました。でもどうかお許し下さいませ、ほんとに有難う御座いました。いづれ成功の曉にはきつとお禮に伺ひますとして、早速このことは早く主人の耳に入れて勵ましてやりたいと思ひますので、今日はこれで失禮させて戴きます」と、何度もお叩頭しながらいそいそと歸つて行つた。

 その婦人が殘して行つた、なまめかしい化粧品の香ひを空氣のなかに嗅いで、山根高彦は甚だ不機嫌であつた。到頭強制的に神樣にされてしまつたことや、自分の意志に反して彼女に助言を與へたことが、思へば思ふほど殘念であつた。そこで彼は窓を開けて空氣を入れ替へると、深呼吸をして、机の前に正座した。

 ――神樣! と彼は祈り出した。これは一體、どう云ふ譯なので御座いませうか。どう云ふ譯で私が神樣にならなきやならぬので御座いませうか、そいつからして解せない次第です。第一に、その、いや、どうも順序なぞ立てないで申上げたい。小生は數學の教師で因數分解とか、軌跡とか云ふことに就いてなら誰にも教授出來ます。それに小生はもともと大して大それた野心は抱かない男だと云ふことも神樣じゃ夙に御存知の筈である。もつとも、これまで折疊式下駄箱とか、ライター附蝙蝠傘とか云ふ品を發明して特許を獲らうとしましたが、どちらも間が拔けてゐると云ふので一笑に附せられたが、あれは考へてみると成程間が拔けてゐました。しかし大體に於きまして、小生は今の生活に滿足し、撥溂たる氣分で暮してゐるのであります。ただ、あそこの中學の教頭が、象像先生のことですが[やぶちゃん注:「象像」は一応、「しやうざう(しょうぞう)」と読んでおく。但し、そんな姓や名があるとは知らぬが。]、その多少、皮肉屋で黑を赤だと云つたり、猫を犬だと云つて強情で困りものですが、それもまあ比較的小生なんかには當つて來ないので感謝してゐる次第です。小生はまだ獨身ですが、その一寸恥しいやうな氣持も致しますが、つまり、その、誰にもあることで、一人の戀人が御座いまして、その娘と小生は既に婚約の間柄なので御座います。一寸こましやくれた可愛い娘で、それが小生のまあ、謂はば永遠の女性なので御座います。で、まあまあ、之を要するに、どうやら神樣のお蔭で以つてこれまでは順調にものごとが進行してゐましたので、行々は彼女の産んだ子供の教育費だけは出せるやうに精出して貯金するつもりであつたので御座います。ところが、どうも今日起りました數々の不可解な現象は一體、これはどう解釋したらいいのでせう。あれは神樣の御意志で御座いませうか。どうも、さうとは信じかねる點が多いやうに小生には感じられますが、……。第一、神樣が誰か人間の形體に於いて現はれたくおぼしめしになるなら、何も小生如き靑二才をお選びになる必要はないかと愚考致します。しかし假りそめにも神樣の御意志を拜得した以上、あくまでこの惱み多き人生に光明を與へるべく努力するのが男子の義務で御座いませうが、どうも小生は御免蒙りたいのであります。何? それが卑怯だ? いや、卑怯と云はれたつて、何と云はれたつて、小生は既に申上げた通り、つまりその、微分析分[やぶちゃん注:ママ。]とか、タンゼン[やぶちゃん注:ママ。]・コタンゼントとか云ふことを取扱つて、嬶と仲よく暮したい以上に何の野心もないので御座います。

 それに小生として最も理解に苦しみまする點は、突飛な豫感が忽ち實現すると云ふことです。大體背中に眼がない以上、後の樣子が微細に解るなぞと云ふことは、どうも穩かでない現象かと思ひます。どう云ふ譯でああしたことが解るのか自分で了解出來ない以上、結局僕はぞつとするばかりです。さうです、何だかこの人生にはぞつとするものが視え始めました。神樣、かうしてお祈りしてゐる最中にも小生には今ここの下宿屋の臺所で夕餉の支度に何を拵へてゐるかが、ありありと眼に浮んで來ます。今晚は大根の煮附に揚がついてゐて、いや、それは今焚いてゐる匂ひがするから解るのではないのです。それならもう一つ別の皿に、殼のままの卵が出る筈ですが、あれなんか解らない筈ですし、それから、ほら、今、おかみさんが頭髮が痒くなつて、簪で自棄に突(つつ)いてゐるのが見えますが、疊や天井が小生の視線を遮つてゐる以上、何と云つても不合理なことだと思ひます。とにかく、かう何もかも微に入り細に亘り、直感され出しては小生は全く神經衰弱になりさうです。病的な男なら、さうしたことも喜ぶかも知れませんが、小生としてはむしろ迷惑千万の話です。小生は既に何度も申上げました通り、全智全能なぞにはなりたくないのです。第-、いや、もう祈りだか愚痴だか、しどろもどろになつてしまひましたが、何卒この心の狼狽のほどをお察し下さい。

 山根高彦が一通り祈禱を了へたところへ、女中が夕餉の膳を運んで來た。それはさつき彼が神樣に云つてのけた通り、大根の煮附と生卵であつた。が、山根高彦はもうかうした惡魔の飜弄には多少あきらめを感じた。たつた今も、女中がその食膳を持つて來る途中、廊下の廻り角で、如何云ふ[やぶちゃん注:「どういふ」。]わけでか、その女中はぺろりと舌を出して皿の大根を舐めたのであるが、山根高彦は何だか嚴肅な顏つきをして、その女中が舐めたところの大根をむしやむしや食べ始めた。

 

 山根高彦先生は間もなく世間から神樣にされた。噂は噂を呼んで彼の豫言の名聲は赫々と輝きはじめた[やぶちゃん注:「赫々」は「かくかく」或いは「かつかく(かっかく)」で、「華々(はなばな)しい功名を挙げるさま」「光り輝くさま」を言う。]。もとより豫言は百發百中であつたが、彼はそれ故鬱陶しかつた。もともと親切な先生で、人から賴まれては餘儀なく相談相手になるのではあつたが、やれ私の姪が今度産むはずの兒は男か女かと云ふ質問や、世間にはどうも好奇心のありあまる男女が多いものとみえて、私の隣りの家の主人の顏は高慢ちきで癪で耐らないが、あいつを何とかして監獄へぶちこむ方法はないものか――なぞと云ふ猛烈なものもあつた。さう云ふ豫言を求められる度に、山根高彦は何か罪惡を犯してゐるやうな、呵責を感じ、非常に面白くない不安に惱まされるのであつた。そして人々は彼の顏や態度が嚴肅になるに隨ひ、增々彼を信仰し出すやうになつた。

 さて、人々はみな山根高彦の豫言を信賴し、利用し、感謝するのであつたが、ここに最も悲しむべきたつた一人の例外があつた、それは誰あらう、山根高彦の永遠の女、つまり彼の許嫁であつた。彼女は山根高彦の名聲が高まれば高まるほど、彼を信じなくなつた。いや、この女は始めから山根高彦先生を信じても、愛してもゐなかつたらしいのである。彼女が彼と交際し出す以前に、彼女は既に他の男達を知つてゐた。それだから彼女は非常に輕薄な氣分で彼と婚約を結んだまでで、何も山根高彦を本氣で愛してなぞゐなかつたのだ。「もし、あの男がほんとに神樣なら、私の本心がわからないなんて變だわ」と彼女は鼻に輕蔑の小皺を寄せて笑ふのであつた。ところが、既にさうした一切のことがらは、山根高彦にはすつかり遠くから透視されてゐたのであるが、彼は暫く、ぢつとその屈辱に堪へた。さうした間にも結婚の日はどしどし近づいて來た。彼は時々その女の家を訪問しては、出來るだけ彼女の魂を正しい方向へ導かうとしむけたのであるが、彼女は心にもない甘い言葉や、笑顏で彼を嘲弄するばかりであつた。山根高彦はここでもまた人生のぞつとするものに觸れ、人の世の罪深かきに泣かされるのであつたが、結婚の日はあと一日となつた。すると、彼女はどうでもかうでもあの男がこの婚約を履行しようとするなら、するで、私には考へがある、と決心してしまつた。彼女の頭にその考へが閃いたのと同じ瞬間に山根高彦はそれを知つたので、あツと聲を放つて轉倒しさうになつた。あの女は俺と結婚して、そしてゆくゆくはこの俺をそつと殺さうと考へたな! 實に恐しいことだ。何と云ふ滅茶苦茶な思想だ、もはやこれは絕體絕命の現實だ。俺はさて何處へ逃げたらいいのか、この己れ故、人一人に罪を犯さすよりか、己は己の故鄕が戀しくなつた。

 そして、翌朝、美しい秋の朝日が射す物干棚で、山根高彦は首を縊つてゐた。

原民喜 獨白

 

[やぶちゃん注:昭和一七(一九四二)年十月号『三田文學』初出。

 底本は一九七八年青土社刊原民喜全集「Ⅰ」を用いたが(底本では「拾遺作品集Ⅰ」のパートに配してある)、以上の書誌データや歴史的仮名遣表記で拗音・促音表記がないという事実及び原民喜の幾つかの自筆原稿を独自に電子化してきた私の経験に照らして(彼は戦後の作品でも原稿では歴史的仮名遣と正字体を概ね用いている)、漢字を概ね恣意的に正字化することが、原民喜自身の原稿原型に総体としてより近づくと考え、今までの私のカテゴリ「原民喜」のポリシー通り、そのように恣意的に処理した。

 因みに、本篇は現在、ネット上では公開されていないものと思われる。【2019年3月30日公開 藪野直史】]

 

 獨 白

 

 あなたの夢は山道の出來事から始まります。あなたが息をひきとられてから、まだ三時間とたたない時、あなたの死體を乘せた自動車が夜道で故障を起してしまつたのです。それが氣も轉倒してゐる私にはただの出來事とは思へなかつたのです。兄と運轉手と私のほかには誰もゐない深夜の山道で、齒の根もカチカチ慄へる寒さでした。あなたをくるんだ毛布がかすかに私の方にずり下る氣配がして、ぢつと息を潛めてゐると、たしかにあなたは毛布を隔てて私にだけ分る合圖をなさつてゐるのでした。

 思はず私は、あなたの掌を捉へ、それを固く握り締めたまま、戰く胸のところに當ててをりました。そして、ガタガタ慄へだしました。急に底知れない怕さが漲つて來るやうでした。次いて、何か途轍もない力によつて私たちは天空高く舞上るやうな心持がしました。あなたの力が、あなたを滅ぼしたものの力が、ぎりぎりと私の額のところを捩ぢ伏せてゐました。悶絕の姿勢のまま、私はある限りの奇蹟を待ち望んでゐたのでせう。

 ……しかし、自動車は夜明前に修繕が整ふと、やがてあなたの生家の方へ向つて走り出しました。それから後はふらふらとした悲嘆の風景です。

 夢では、……あなたはいつもみごとに生きてをられます。眞暗な處で、自動車が停まつてしまつても、あなたはすつと座席を立つて車の外へ出て行かれるのです。それから、運轉手と何か二こと三こと話しあつてゐて、あなたは何時の間にかそんなことも硏究なさつたのか、せつせと修繕の指圖をなさるのです。それが、まだ退院したばかりの身で無理ではないかしらと心配すれば、わざわざあなたは窓の方へ顏を寄せて、「大丈夫だよ」と斷られるのです。……と思ふと、もう私たちは家へ歸つてをります。何もかも新規蒔直だ、と、あなたは押入の中の書物を取出し、あるじの留守の間そつとその儘つつましく待つてゐた机の上に一つ一つ積み重ねて行かれます。すると、もう父親の顏をよく憶えてゐる薰が、「お父さん、お父さん」と嬉しげに附纏ひ、次男の耿二はこれも兄に眞似て珍しげに何か片ことを喋るのです。あなたは二人の子供を膝にあやしながら、視線はぼんやりと穴だらけの障子にとどまつてゐます。天井も柱も煤けて歪んだこのボロボロの家屋が、しかし今では一寸も心細くなくなるのです。……あなたは疊の上に放り出されてゐる玩具のタンクを一寸弄つてゐられると、ふと思ひ出したやうに、うんと一人で頷かれます。「入院中素晴しい考が浮んだよ、あれをつきつめて行けば吃度ものになるんだ、糸口だけはもう見つかつてゐるのだから……」と、あなたは早速ノートを出して、私には解らない公式を書込んでをられます。あなたの指さきは忙しさうに鉛筆を運んでをられますが、眼は奧深く澄んで無限を視凝めてゐるもののやうです。……その姿を見てゐると、泉のやうに湧き出すあなたの計畫の實現を信じないではゐられません。それでゐて、少しつつ、不安になつて來るのは、どうしてなのでせう。やはり以前の悲しい記憶が忍びこんで來るのでせうか。

「もう大丈夫だよ」とあなたはその頃よく云はれました。實際誰の眼にもあなたは圓々と肥えて元氣さうでした。母の葬式の時も、あなたは大勢の人にうち混じって努めて人並に振舞はれました。そして葬ひが濟むと、萎れてゐる私を引立てるために、あなたはもう就職のことやら轉居やら、いろんな計畫で心を奪はれました。それまでの不安な生活はほとほと私達を疲れさせてゐましたが、遽かにあなたは奇蹟のやうに若々しく晴れやかになられました。

 そして、あれは大學の方への復職がほぼ決まりかけた時です。何となく苛々する朝、あなたは起きがけにかすれた聲で私の名を呼ばれました。そして、それを知つた時の私はただ「大丈夫よ」と繰返し、體はづしんと地の底に沈んで行くやうでした。それにもまして、あなたは石のやうに默したまま、絕對安靜の姿勢で天井を視つめてゐられました。まるで私達を呪ふものがそこの天井にゐるかのやうに、私はあなたの視線の跡を追つてみました。失望に塗りつぶされた私の眼に、その煤けた天井は夜のやうに眞暗でした。

 あの朝の不吉な印象はこの頃でも、そつと夢の中に紛れ込みます。……私はくたくたに疲れて、身も魂も呻きとほしてゐます。さうすると、譯のわからぬ怒りが押寄せて來て、見るまに私の體は浮び上り、自分ながらおそろしい感覺で魘されます[やぶちゃん注:「うなされます。]。高く高く宙に浮上つた私の體のはるか向うに、あなたの姿が小さく儚なく見えます。それは海の中の絕對安靜の島。狂つてうはづつた風景です。

 

 あの朝の打擊が段々鎭まると、あなたの健康はまた順調になつてゆかれたやうです。やがて、私達は郊外の川に近い借家へ引越しました。あなたの計畫は挫折しましたが、あなたはまた新しい方針を立て、心は碎けてゐなかつたのです。旅先に託けてあつた家財道具も取寄せ、久振りに家らしい場所を得ました。そこでは靜臥椅子を備へたり、療養書を讀み漁つたりして、あなたは自分の病氣をすつかり硏究されました。……靜かな環境の中に月日は水のやうに流れてゆきました。あなたはよく無念無想の顏で、緣側の椅子の上に橫臥したまま、夕ぐれの近づく空を見つめてをられます。あなたのまはりの空氣は甘くゆるやかに流れ、そこには何か恍惚としたものが、あなたにだけ感じられるものが漾つてゐます。……あの頃があなたの生涯のうちでは一番穩かないい時期だつたのではないでせうか。愚かな私はあなたの安らかさうな姿に、時折、どうにもならぬ怒りを感じました。久しく收入の途が絕たれ、その上賴みとなる母を失ひ、僅かばかりの貯金を下し下し暮してゐる身は、だんだん大きくなつてくる子供を見ても、ぢりぢりと苛立つのでした。ぢりぢりといら立つ火の上に坐つてゐるやうな氣がして、それを考へると堪らないのでした。しかし、今では、……今ではあの頃を追慕するばかりです。いら立つ火を背負つてゐたのはあなたも同じだつたに相違ありません。はじめてあなたと知つた頃から、あなたは愁はしげな口調で「われわれは不幸な日を生きぬいてゐるのだ」と、よくそんな風に云はれたものです。

 

 よくよく、あの家があなたには氣に入つたとみえて、どうかするとあなたは夢ではあそこの家に舞戾つて來られるのです。それは朝餉が濟んで、あなたが緣側の椅子に移り、もの音が杜絕えた一時、玄關の戶が開いて、郵便と何か放る音がするので何だらうと思つて出てみると、大學の雜誌なのです。こんなものを見せてはあなたは又夕方熱を出されるだらうと、躊躇してゐるうちに、あなたはもう側からその雜誌を奪ひ取られます。あなたの友達の消息が出てゐるところを覗き込むと、をかしなことに次の頁には私の女學校の友達の安否が載つてゐて△印を附けたのは未亡人のしるしだとあるのです。と思ふと、あなたはやにはに後の方の頁をめくつて見て、「出た、出たぞ」と面白さうに云ほれます。見ればあなたの下手な俳句が一句、薰といふ號で載つてゐるのです。そこへ薰はあわただしげに外から走つて來て、「お母さん、雙葉屋に食パンを賣出したよ、早く、早く」と急き立てるので、私も夢中で走り出し、つい目が覺めてしまふのです。

 

 あなたの健康は少しつつ良くなつて行くやうでした。やがて凉しい季節が來ればもう散步にも出られさうでした。その時あの支那事變が始まつたのでした。あなたは容易ならぬ面持で、何ごとかをきびしく豫想されました。「さうだ、かうしてはゐられない」と、あなたは事變の進展する度にさう呟かれました。ほんとに、あなたにとつて、もし健康さへ許されてをれば、今はどんなに澤山の仕事が待つてゐたことでせう。あなたがそれを一つ一つ說明されると、目には見えなくても、到る處の工場や發電所が猛烈な勢で唸つてゐるやうに想はれるのでした。しかし、あなたは興奮して話された後はいつも翼を奪はれた鳥のやうに、力なく椅子に橫臥されてしまひます。凉しい季節が訪れても、あなたの熱は退かうともしませんでした。秋風の中を汽車の響がして、風にひきちぎられて、萬歲! 萬歲! 萬歲! といふ聲が、軒近く緣側の椅子のところまで漾つて來ます。それは聞く人の心を遠くへ持去つて行くやうでした。そんな日がいく日もいく日も續いてゐました。……あなたの顏はひどく動搖してゐるやうでしたが、やがて、眼の色がだんだん深く澄んで來ました。あなたは以前の落着をとりかへされ、それに一層何か偉大なものがつけ加はつたやうでした。病氣はあなたの意志で再び克服されて行くやうでした。その頃のことです、あなたは專門の學問の外に俳句や土いぢりに興味を持たれ始めました。あなたは日常生活の一寸したことにも面白い工夫や新しい發見をなさいます。しかし、俳句はをかしいほど下手でしたが、あなたは生活の單調に屈托されることはありませんでした。何か素晴しい代用品を考案してみせるぞと、よく冗談半分に云はれます。あなたの話を聞いてゐると、私にはもうそれが出來上つたやうに思へるのでした。病氣さへ恢復すればと、私の祈ることはそればかりでした。……あなたが二番目の子供の父親になられたことが判つた時、あなたはまたひどく動搖されました。「是が非でも早く治つてみせる」と、あなたは低く引締つた聲で云はれました。そして、一層悲痛なことには、その翌日から輕微ながらよくない徴候があらはれました。

 あなたはまた前にも增して、激しい鬪病精神に燃え立たれました。そして、それは次第に貫徹されて行きました。二番目の子供の顏を見られた時、あなたは殆ど健康に辿り着かれたやうでした。もう子供はそろそろ匐ひ出すやうになりました。二人の子供の父親となられたあなたは、更に大きな計畫を夢みながら、おもむろに身をいたはつてをられました。越して來た頃は靜かだつた環境も、その頃になると遽かに家が建込んで、だんだん暮し難くなりました。子供を連れて、ぶらぶら散步してゐるあなたの姿が心ない人の口の端にのばり、後指をさされることもありました。そんな時も、あなたはじつと堪へ忍んでをられました。そして、遂に忍苦の報いられる日が來ました。醫者の保證も得て、就職の決定した日、そんな日が到頭やつて來たのでした。「少しづつ、少しつっだ」と、あなたはその日、自信を籠めて呟かれました。

 ――それから後のことは、今も私は苦痛なしには囘想出來ません。あれは長い療養中に蓄積されてゐた、仕事に對するあなたの情熱が逸散に塞を切つて[やぶちゃん注:「いつさんにせきをきつて」。]溢れ出したのでした。それはあなたの短かい生涯に輝きを放つた最後の虹だつたのでせうか。その虹はあえなく消え失せたのでせうか。いいえ、今も、どこかに、大きな虹は交錯してをります。その虹をひそかに誰かが仰ぎみるのです。

 

 あなたにとつても、私にとつても、あの土地はまだまざまざと生殘つてゐます。汽船がはじめて、あそこの港に入つた時、小さな街は一眸[やぶちゃん注:「いちぼう」。「一望」に同じい。]のうちに收まり、その丘の端に新設された高等工業の校舍が、あなたを招くやうに見えました。二人の子供を連れて、(-人はまだ私の胸に抱かれてゐましたが)にこやかに甲板に降り立たれた時のあなたは……、それが半年後、看護婦に助けられて、よろよろと甲板を步む姿に變らうとは誰が想像したでせう。……その土地は氣候も穩かだつたし、あなたは高等工業の敎授として、病後の保養を續けながら、少しづつ硏究を積まれて行くはずだつたのです。その土地の借家へ落着いた時、あなたは新郞のやうに若々しく、道はおもむろに開かれてゆくやうでした。しかし、あなたは殆ど凝と心を休息させてはをられませんでした。そこへ越す少し前から始まりさうだつたヨーロッパの戰爭も遂に火蓋が切られましたが、あなたは新聞に眼を走らせながら、これからさきの世の中はどうなると細かなことまで豫想されるのでした。……今になつてそれらを思ひ出してみると、あなたの豫見は大槪的中してゐるやうです。あなたのすぐれた眼の中には、そんなに未來のことがらがよく見えてゐながら、どうして、あなた自身のことがらは見えなかつたのでせう。それとも、やはり私のあなたに對する注意が足りなかつたのでせうか。

 とめても、とめても、あなたは忙しさうに勉强なさいました。遲くまで、あなたの部屋に灯が點いてゐて、その影法師を見てゐると、以前大學で助手をしてをられた頃の姿とそつくりでした。あの頃、あなたは先生の硏究を本に纏める仕事を引請けられ、身を損ねるまで夢中で働いてをられました。私はふと今度はその姿に怯氣[やぶちゃん注:「おぢけ」と読んでいよう。「怖気」に同じい。]を感じましたが、しかし、晝間出勤から戾られた時のあなたの姿はまるで疲勞を知らない人のやうに快活でした。……あなたは新設の學校に用件が多いのを寧ろ喜んでをられるやうな風でした。そしてあなたは餘計な仕事までわざわざ引請けて來られました。就任されてまだ一ケ月も經たないうちに、あなたは學校の用件で東京へ出張され、まだその疲れも休まらないのに今度は京都の方へ出掛けられました。長途の旅から戾られると、あなたは頻りに何かわからないものに對して張合ひを感じてゐられるやうでした。……そして、私達親子四人で秋晴の日曜日をピクニツクに出掛けた時、私は川のほとりで、やはりあなたと同じやうに何かわからないものに對して限りなく滿ちたりたものを感じてゐました。ところが、ふと、その時感謝の氣持を隱しながら、あなたの方を振向くと、あなたの姿はどこか肩のあたりが何かしーんとした寂しさに溢れてゐるのでした。その姿を思ひ出すと、今でも泣けてなりません。

 あなたが肺炎に罹られたのは、その年の暮です。打續く高熱のうちに、あなたは昏々として頑張れてゐました。病氣が峠を越した時、あなたはいつものやうに、「なあにすぐよくなる」と、もう學校のことなど氣にされてゐました。しかし、醫者は苦しい口調で絕對安靜を言渡しました。あなたの健康はすつかり駄目になつてゐたのです。レントゲンの寫眞を示されて、醫者からそれを云はれた時、私は何もかも當分諦めねばならぬと決心しました。それから私達は汽船に乘つて、鄕里の方へ引返したのでした。

 

 こんどの打擊はすぐにもう私たちを根こそぎにしてしまひさうでした。しかし、あなたは「またやり直しだね」と、氣輕に療養所へ入院されました。それは殆ど絕望を知らない人のやうでした。「すぐにまたおうちへ歸つて行くよ」とあなたは薰に對つて[やぶちゃん注:「むかつて」。]さう仰るのでした。……「少しづつ良くなつてゐるらしい」――あなたは見舞に行くたびに吟味するやうな顏で、暫くためらひながら、ふと明るい眼つきをなさいました。容易ならぬところまで行きついてゐる體も、どこかから奇蹟の救ひがさづかりさうでした。「少しづつ良くなつてゐるらしい」その言葉はいつも奇蹟のひびきが籠つてゐるやうでした。さうして、あなたはあそこで一年近くも鬪病を續けて行かれました。

 ……そのうちにあなたは見舞に來る人のうち、お母さんに對して、妙に腹を立てられるやうになりました。もともと性のあはない間柄のやうでしたが、その頃になると、何故かあなたはお母さんをひどく呪つてゐられるのでした。そして、あなたは短歌を作り始められました。以前の俳句とは違つて、悲しい心魂を打込んだやうな歌が、いくつも枕頭のノートに書込まれてゐました。さうかと思ふと、あなたは博い知識を病院中に振り撒いて、お醫者をとらへては滔々と議論をなさるのでした。そんなにあなたは淋しかつたのでせう。

 ……その朝、あなたは食事を終つて、恰度誰も室内に人がゐない時、突然無慘な徴候が襲つて來ました。人々に助けられて、やがて、いくらか人心地に戾られた時、あなたはすつかり晴々した顏で、「助かつた、助かつた、有難う、有難う」と頻りみんなに感謝なさいました。電報で知つて私が駈けつけた時、その時にはただ昏々とあなたは睡り續けてをられました。あれがあなたの最後の姿だつたのでせうか。

 

 あなたを喪つてからの私はいつも死の影に包まれてゐるやうです。眼に映るものの姿が死の相を帶びても、それが今ではごく普通のことのやうに親しめて參りました。それに、あなたはやはり死んではゐられないやうにも思へるのです。あなたといふ人の不思議な力や、あなたと結ばれた七年間の暮しが、時ととも意味を增し陰を深めて來るやうです。……はじめから、私といふ女は不幸な星の下に生れついてゐたのでせうか。豐かな家庭に育ちながら、幼い時から素直な氣持と云ふものに惠まれてゐませんでした。七つ違ひの姉が人からちやほや可愛がられるのにひきかへ、私は皆から疏んじ[やぶちゃん注:「うとんじ」と読んでいよう。「疎んじ」に同じ。]られてゐました。そして私は人に愛されることに激しい輕蔑と反撥を持ち續けました。誰をも寄せつけない、冷やかな蕊[やぶちゃん注:「しべ」ではなく「しん」と読んでおく。]が凝と固まつて行きました。それでも年頃になると、かうした態度も表面だけは緩和されてゐましたが、皮肉な心はひそかに硏ぎ澄まされてゐました。と、いふのも、私の姉の愚かな結婚が油を注いだのです。姉は殆どとる足りない俗惡な男を神樣のやうに崇拜しながら、その酷使に甘んじて三年目に病死してしまひました。その死際に至るまで、姉は自分の幸を疑はず、夫の名を呼びつづけてゐました。私は人間といふものの愚かさを、それから男といふものの恃むに足りないことを、その時はつきり見せつけられたと思ひました。自然と私は自分の未來の結婚にも暗影を描き出しました。どんな男と結婚したところで、私といふ人間は惠まれないと決めてしまつたのです。……ですから、あなたとの緣談が持上つた時も、私は何の期待も持つてはゐなかつたのです。母が勸めるままに、その人なら安心出來ると云ふので、承諾したまでのことです。

 ……こんな告白を今あなたに對つてしてゐると、私の心は自分ながら不可解になつて參ります。殆どあなたの生前には私は自分の心の底を割つて見せたことは無かつたやうです。あなたの誠實に溢れる愛情すら私はいつも疏ましく受け流してゐたやうです。そして、その氣持は、ひそかにあなたの死の瞬間に到る迄續いてゐたのではないでせうか。……貧苦の裡に育てられ、苦學に近い生活を續けて、大學を卒業されたといふあなたは、初めてお目にかかつた時、吃驚するほど素直で純粹さうに見えました。さうして、私達が所帶を持つてからの、あなたの親切な態度は、それがあなたの生れつきの性質だつたのに、私は境遇の相違から來るものではないかと疑つたりしてゐました。不貞腐れたり、橫着な性質と出逢ふ度に、あなたは逆にそれを珍しさうに勞はり憐んで下さいました。思へば、辛苦つづきの生活でしたが、私はあなたに甘えつづけてゐたのではないのでせうか。

 ……さう云へば、何だかこの獨白も、あなたに呼び掛けてゐるのでせうか、それともあなたがわたしに呼び掛けてゐられるのでせうか。この頃の有樣や、私の日々の氣持も、あなたはもうとつくに、みんな知つてゐられるのに違ひありません。それなのに、それをあなたは私から引出さうとなさるのですか。……あなたと死別れてからもう三年になりますが、今は己の背負はされた境遇にもどうやら馴れて參りました。娘の頃は何不自由なく育つた私でも、この頃は人並以上の不自由を凌いでをります。そして、今ではそれを不幸とも幸福とも何とも感じなくなりました。そんなことより、ただ生きて行くことで手一杯のやうです。それも夢中で、賑やかに子供たちに勵まされてゐるばかりなのです。薰はあなたに生寫[やぶちゃん注:「いきうつし」。]で、もう國民學校の一年生ですが、素直で、悧巧で、人懷つこく、虛弱なところまであなたに似てゐます。耿二はまだ頑ぜない年頃で、なかなか手が懸ります。それに兄と違つて、敏捷で、强情で、喧嘩好きです。先達て二ケ月ばかり幼稚園を手傳に通勤した際も、この子が足手纏になつてどれだけ困らされたかわかりません。今日も薰が獲つて來た蟬を耿二が奪ひとり、夕餉前の一時を大騷動でした。……晝間はあれこれと忙しく、子供の聲に紛れて、過ぎ去つたことがらもつい忘れ勝ちです。夜が靜まつて秋風が吹いて來ると、靜まつてゐたものが搖れ動くのです。

2019/03/29

甲子夜話卷之五 30 厭離穢土の御旗幷參州大樹寺閂の事

 

5-30 厭離穢土の御旗參州大樹寺閂の事

[やぶちゃん注:以下、長い二箇所の漢文体部分には訓点があるが、それを排除して、まず、白文で示し、後に( )で、訓点に完全に従った訓読文を添える形とする。やや読み難いので、訓読文では今まで本「甲子夜話」の電子化では一回もやっていないのだが、例外的に句読点を変更・増加し、送り仮名の一部を追加して送り、難読と思われる字には、これも極めて例外的に歴史的仮名遣で推定読みを添え、鍵括弧も添えた。静山の文はこれも特異的に改行した。

參州大樹寺登譽和尚傳云。永祿三年、東照神君出師不利、脫身奔走入大樹寺。時隨之者僅十八人。神君謂師曰。今日事急矣。當如之何。師曰。男兒當於死中求生計。豈可坐受窘辱乎。鳴呼檀越之有難者、係我法門之厄也。我雖沙門頗解兵策。能捨身命爲擁護、則敵不足懼矣。卽遣使近村招募兵士、得緇素五百人。乃設方略防守寺門。又以白布遽裁爲旗、大書之曰。厭離穢土欣求淨土。乃自揭旗、規度軍營處所。其指揮籌策、殆如宿將。神君見而壯焉。又云。從此之後、神君用兵、則必揭是旗而出、戰則必勝、攻則必取。平居無事、則納之烏漆匝、未嘗離其傍云。

(參州大樹寺の登譽和尚の傳に云ふ、『永祿三年、東照神君、師を出でて、利あらず、身を脫して奔走し、大樹寺に入る。時に之れに隨ふ者、僅に十八人。神君、師に謂ひて曰はく、「今日、事、急なり。當に之れを如何(いか)んとかす。」。師、曰はく、「男兒、當に死中に於いて生計を求むべし。豈に坐(ざ)ながら窘辱(くんにく)を受くべけんや。鳴呼、檀越(だんおつ)の難(なん)有るは、我が法門の厄に係れり。我れ、沙門と雖も、頗る兵策を解す。能く身命(しんみやう)を捨てゝ擁護を爲さば、則ち、敵、懼るるに足らず。」。卽ち、使ひを近村に遣はし、兵士を招き募るに、緇素(しそ)五百人を得。乃ち、方略を設け、寺門を防ぎ守らしむ。又、白布を以つて遽(には)かに裁して旗と爲し、大に之れを書きて曰はく、「厭離穢土欣求淨土」。乃(すなは)ち、自ら旗を揭げ、軍營の處所を規度(きど)す。其の指揮・籌策(ちうさく)、殆んど宿將のごとし。神君、見て、「壯なり。」とす。又、云はく、此れよりして後、神君、兵を用ひるとき、則ち、必ず、是の旗を揭げて出するに、戰へば、則ち、必勝、攻むれば、則ち、必取。平居、事は無きとき、則ち、之れを烏漆(うしつ)の匝(はこ)に納め、未だ嘗つて其の傍らを離さず、と云ふ。)

件の御旗のことは世普く所ㇾ知なり。御他界の後は、日光の神庫に納て、世々崇寶ありしと云。然にこの六七年前か、日光の何院とか火を失し、神庫も延燒して、此御旗も祝融の患に罹れりと聞く。又前書に云く。

寺有一僧。號曰祖同。勇悍多力能敵八十夫。時祖同介冑帶刀、爲神君御馬。敵兵方至已逼寺門。緘扃甚固欲入無從。神君曰、閉門拒之事似怯弱。言未訖、拔刀斫門關。祖同曰、此豈足以煩於君手耶。便進破鎖、奓戶而立。神君上馬。祖同執其馬勒而先登。從者十八人亦隨突出。雄壯威猛無敢近者。敵兵大潰神君得捷。其所斫門關、至今尚在大樹寺、刀痕宛然而存。

(寺に、一僧、有り。號して祖同と曰ふ。勇悍多力にして、能く八十夫に敵す。時に祖同、介冑(かいちう)して刀を帶び、神君の爲めに馬を御す。敵兵、方(まさ)に至りて已に寺門に逼(せま)る。緘扃(かんけい)、甚だ固くして入らんと欲すに從(よ)し無し。神君、曰はく、「門を閉(とざ)して之れを拒(ふせ)ぐは、事、怯弱(けふじやく)に似たり。言ふこと、未だ訖(をは)らざるに、刀を拔きて、門關を斫(き)る。祖同、曰はく、「此れ、豈に以つて君手(くんしゆ)を煩はすに足らんや。」。便ち、進みて鎖を破り、戶を奓(ひら)きて立つ。神君、馬に上る。祖同、其の馬の勒(くつわ)を執りて先登(せんとう)す。從ふ者、十八人、亦、隨ひて突き出づ。雄壯威猛、敢へて近づく者、無し。敵兵、大いに潰れて、神君、捷を得たり。其の斫る所の門關、今に至りて、尚ほ、大樹寺に在り、刀痕、宛然として存す。)

この門關も、亦五六年前大樹寺より持出たるとき、增上寺の方丈に於て拜見せり。このときの大僧正は敬譽典海と云て、予が少時より相識れる人なりし。因て見ることを得たり。凡木口にては三寸ばかり、長さは一間にもたらずと覺ゆ。神君の御太刀痕と云ものもさまで顯然たるにもあらず。然れば其時の有さまは、此門關にては知れず。唯急難の御時に、御勇氣の盛なるを以て相傳たる者ならん。因て予、僧正に言しは、此物は今幕下の歷々總て拜見すべきもの也。冀は其形狀を模寫ありて開梓せらるべし。然らば各遠く參州龍興の跡を拜觀し、英氣を長ぜんと申置たりしが、僧正も尋で遷化せしかば其事いかゞなりしにや。

■やぶちゃんの呟き

「參州大樹寺」現在の愛知県岡崎市鴨田町広元にある浄土宗成道山松安院(じょうどうさんしょうあんいん)大樹寺(だいじゅじ/だいじゅうじ)(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「大樹寺」によれば、『寺の言い伝えによれば』、永禄三(一五六〇)年の「桶狭間の戦い」で、『総大将義元を失った今川軍は潰走、拠点の大高城で織田方の水野信元の使者からの義元討死の報を聞いた松平元康(徳川家康)は、追手を逃れて手勢』十八『名とともに当寺に逃げ込んだ。しかし』、『ついに寺を囲んだ追撃の前に絶望した元康は、先祖の松平八代墓前で自害して果てる決意を固め、第』十三『代住職登誉天室に告げた。しかし登誉は問答の末』、「厭離穢土 欣求浄土」の教え(絶対他力で只管、阿彌陀の大慈大悲の誓願を信じて来世の極楽浄土を冀(こいねが)う浄土宗の教えを「穢れた世の中は清浄な世の中に変えなくてはならない」という自力的意味に読み換えたもので、『登誉は浄土宗徒でもあった元康に、この努めを果たすよう説得したとされる』)『を説いて諭した。これによって元康は、生き延びて天下を平定し、平和な世を築く決意を固めたという』。『元康は奮起し、教えを書した旗を立て、およそ』五百『人の寺僧とともに奮戦し郎党を退散させた。以来、家康はこの言葉を馬印として掲げるようになる。こうして元康は、今川軍の元での城代山田景隆が打ち捨てて空城となった古巣の岡崎城にたどりついたとされる』。『しかし』、「桶狭間の戦い」『の直後、三河へ撤退する松平勢に対し、織田勢が追撃戦を行ったという記録を有する資料は存在しない』とある。慶長七(一六〇二)年には『勅願寺とな』り、『家康の死に際しては』、第十七『代住職の了譽(りょうよ)が同席した。家康の死後は、遺言に従い、位牌が収められた。以降、歴代徳川将軍の等身大位牌が大樹寺に収められた』とある。

「閂」「かんぬき」。

「窘辱(くんにく)」辱めを受ける苦しみ。

「檀越(だんおつ)」檀家。

「緇素(しそ)」「緇」は出家者の衣の色である「黒」色を指し、「素」は在家者の衣の色である「白」色をいう。転じて、出家者と在家者の意。

「裁して」裁断して。

「規度(きど)す」奮起を促すための規範評語とし、軍紀を守ったということであろう。

「籌策(ちうさく)」計略。策略。

「宿將」経験に富んだ優れた将軍。老練なる武将。

「平居」非戦時。

「烏漆(うしつ)」烏の羽毛のように黒く、光沢を帯びた黒漆塗りのこと。

「祝融」祝融(しゅくゆう)は中国神話の「火の神」。炎帝の子孫とされ、火を司るとする。そこから、「火災に遇う」ことを「祝融に遇う」と喩える。

「介冑(かいちう)」鎧と兜。ここはそれらを装着すること。

「御す」「馭す」に同じい。

「緘扃(かんけい)」門を閉ざして堅く封じること。

「從(よ)し無し」「由無し」の同じ意でルビを振った。

「怯弱(けふじやく)」臆病。怯懦(きょうだ)。

「奓(ひら)きて」「開きて」に同じ。「奓」には「開ける」の意がある。

「勒(くつわ)」「轡」に同じい。

「捷を得たり」獲得するの意であるが、ここは戦に勝利することを指す。

「敬譽典海」浄土宗学僧にして増上寺第五十六世となった典海教誉のことかと思われる。俗姓は出島、号は演蓮社・教誉・光阿・義円。紀伊生まれ。大阪天満大信寺で剃髪、三田林泉寺の禀誉説典に師事、後、増上寺に入り、内外の経典を学び、増上寺学頭・連馨寺住職から、光明寺に転住、その後、増上寺住職となり、大僧正に叙された。文化六(一八〇九)年八十で入寂している(ここまで思文閣「美術人名辞典」に拠る)から、時期的にも合う。

「凡」「およそ」。

「木口」「こぐち」。木材を横切りにした面。

「一間」一メートル八十二センチメートル弱。

「御太刀痕」「おんたちあと」。

「開梓」「かいし」。公に板行(出版)すること。

「各」「おのおの」。

「龍興」これは本来は天子が国を起こして興隆させることを指すが、ここはそれを実質的に日本を収めた家康の出現に擬えたもの。

「申置たり」「まうしおきたり」。

「尋で」「ついで」。その時から間もなく。静山が「甲子夜話」の執筆に取り掛かったのは、文化三(一八〇六)年に三男熈(ひろむ)に家督を譲って隠居した後の、文政四(一八二一)年十一月十七日甲子の夜であるから、典海教誉の入寂とも矛盾がない。

譚海 卷之三 樂器の家々 琴

樂器の家々 琴[やぶちゃん注:字空けはママ。]

○樂器の内(うち)三絃はみな其(その)家有(あり)。和琴(わごん)は四辻殿(どの)、琵琶は菊亭殿、筝(さう)は藪(やぶ)殿其家也、門弟免許なき人は猥(みだり)に彈ずる事ならぬわざ也。持明院殿は朗詠・催馬樂(さいばら)其家也。和歌披講發聲等も門入(もんにふ)してならふ事也、私(わたくし)にはうたふ事成(なり)がたし。廣橋家は書法式の家也、世尊寺殿も文字法式免許を出さるゝ家也、又勅額を彫刻せらるゝ家もありとぞ。

[やぶちゃん注:「三絃」三味線。ウィキの「三味線」によれば、十六『世紀末、琉球貿易により堺に中国の三弦がもたらされ、短期間の内に三味線へと改良された』。『現存する豊臣秀吉が淀殿のために作らせた三味線「淀」は、華奢なもののすでに基本的に現在の三味線とほとんど変わらない形状をしている。伝来楽器としての三弦は当道座』(とうどうざ:中世から近世にかけてあった男性盲人の自治的互助組織)。仁明(にんみょう)天皇(在位:天長一〇(八三三)年~嘉祥三(八五〇)年)の子である人康(さねやす)親王は盲目(眼疾による中途失明)であったが、山科に隠遁し、盲人を集め、琵琶・管弦・詩歌を教えた。人康親王の死後、そばに仕えていた者に検校と勾当の官位を与えたとする故事により、当道座の最高の官位は検校とされた。鎌倉時代に「平家物語」が流行し、多くの場合、盲人がそれを演奏した。その演奏者である平家座頭は、源氏の長者である村上源氏中院流の庇護、管理に入ってゆき、室町時代に検校明石覚一が「平家物語」のスタンダードとなる覚一本をまとめ、また足利一門であったことから室町幕府から庇護を受け、当道座を開いて、久我(こが)家が本所(名目上の権利所有者)となった。江戸時代にはその本部は「職屋敷(邸)」と呼ばれ、京都の佛光寺近くにあり、長として惣検校が選出され、当道を統括した。官位を得るためには、京都にあった当道職屋敷に多額の金子を持っていく必要があった。以上はウィキの「当道座』」に拠った)『の盲人音楽家によって手が加えられたとされ、三弦が義爪を使って弾奏していたのを改め』、『彼らが専門としていた「平曲(平家琵琶)」の撥を援用したのも』、『そのあらわれである。彼らは琵琶の音色の持つ渋さや重厚感、劇的表現力などを、どちらかといえば軽妙な音色を持つ三味線に加えるために様々な工夫を施したと思われる。とくに石村検校は三味線の改良、芸術音楽化、地歌の成立に大きく関わった盲人音楽家であろうと言われる』とある。

「四辻殿」室町家の別名。花亭家とも呼ぶ。藤原北家閑院流。西園寺家一門。家業は和琴と箏。江戸時代の家禄は二百石。

「菊亭殿」今出川家の別名。藤原北家閑院流、西園寺家庶流。家業は琵琶。江戸時代の家禄は初めは千三百五十五石。

「藪(やぶ)殿」高倉家の別名。藤原北家閑院流、四辻家支流。藤原南家の祖藤原武智麻呂の子孫である藤原範季を祖とする。江戸時代の家禄は初めは百八十石。

「持明院殿」持明院家。藤原北家中御門流。藤原道長の次男藤原頼宗の曾孫藤原俊家の子である基頼の流れを汲む。家学は鷹匠・書道(筆道宗家)・神楽。江戸時代の石高は二百石。

「廣橋家」藤原北家日野流。家業は文学。江戸時代の家禄は八百五十石。

「世尊寺殿」世尊寺家。藤原北家九条流嫡流の摂政藤原伊尹の孫行成を祖とし、「三跡」「四納言」として知られた初代行成以降、代々、入木道(書道)の家系として知られ、その流派は世尊寺流として受け継がれた。以上、それぞれの家の内容はウィキのそれぞれに拠った。]

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 羆(しくま)・魋(しやぐま) (ヒグマ・ウスリーツキノワグマ?)

 

Sikuma

  

 

 

しくま   人熊 馬熊

【音碑】

      【和名之

       久萬】

ピイ   【蓋白熊畧稱也】

 

本綱羆似熊而大色黃白其頭長脚高猛憨多力能拔樹

木虎亦畏之遇人則人立而攫之故俗呼爲人熊蓋熊羆

壯毅之物屬陽故書以不二心之忠臣譬之

――――――――――――――――――――――

【音頽】

[やぶちゃん注:原典では上記標題下に二行で以下の本文が記されてある。]

本綱魋似熊而小色黃赤或赤或呼爲赤熊蓋熊羆

魋三種一類也【如豕色黒者熊也大而色黃白者羆也小而色黃赤者魋也】

 

 

しくま   人熊〔(じんゆう)〕 馬熊

【音、「碑〔(ヒ)〕」。】

      【和名、「之久萬」。】

ピイ   【蓋し、「白熊」の畧稱なり。】

 

「本綱」、羆は熊に似て、大。色、黃白。其の頭、長く、脚、高し。猛憨〔(まうかん)〕[やぶちゃん注:暗愚(憨)乍らも猛々しいこと。]・多力、能く樹を拔く。虎も亦、之れを畏る。蓋し、熊・羆、壯毅〔(さうき)〕[やぶちゃん注:意気盛んで勇ましいく、強いこと。]の物〔にして〕陽に屬す。故に、書に、二心(〔ふ〕た〔ごころ〕)あらざるの忠臣を以つて之れに譬ふ。

――――――――――――――――――――――

(しやぐま)【音、「頽〔(タイ)〕」。】

「本綱」、魋は熊に似て、小さく、色、黃赤、或いは、赤。或いは、呼びて、「赤熊」と〔も〕爲す。蓋し、熊・羆・魋、三種一類なり【豕〔(ぶた)〕のごとく、色、黒き者は「熊」なり。大にして色〔の〕黃白なる者は羆なり、小にして色〔の〕黃赤なる者は魋なり。】。

[やぶちゃん注:本記載は「本草綱目」の前後孰れも抜書きで、「熊」の「附錄」部の以下の分割である寺島良安が参考にした可能性が高い寛文九(一六六九)年風月莊左衞門(京都)刊の「本草綱目」ここ(国立国会図書館デジタルコレクション)を視認して訓読し、電子化した)

   *

附錄 羆・魋 【音は頽。時珍曰、熊・羆・魋、三種一類なり。豕のごとく、色、黑き者、熊なり。大にして、色、黃白なる者は羆なり。小にして、色、黃赤なる者は魋なり。建平[やぶちゃん注:現在の遼寧省朝陽市建平県(グーグル・マップ・データ)。ここだと、ウスリーヒグマの分布限界の西外となる。]の人、魋を呼びて「赤熊」と爲す。陸機、羆を謂ひて、「黃熊」と爲〔すは〕、是れ〔なり〕。羆、頭、長く、脚、髙し。猛憨多力〔にして〕、能く樹木を拔く。虎も亦た、之れを畏る。人に遇ふときは、則ち、人のごとくに立ち、之れを攫ふ。故に、俗、呼びて「人熊」と爲す。闗西に〔ては〕「猳熊〔(かゆう)〕」と呼ぶ。羅願が「爾雅翼」に云はく、『熊、豬熊〔(ちよゆう)〕有り、形ち、豕のごとし。「馬熊」有り、形ち、馬のごとし。卽ち羆なり』〔と〕。或いは云はく、『羆は、卽ち、熊の雄なる者なり。其の白きこと、熊の白きがごとくして、理〔(きめ)〕粗に〔にして〕、味、減ず。功用、亦た同じ。】

   *

中国産のヒグマ(食肉目クマ科クマ亜科クマ属ヒグマ Ursus arctos)は、

ウマグマ(チベットヒグマ)Ursus arctos pruinosus(中国西部)

ウスリーヒグマ Ursus arctos lasiotus(エゾヒグマと同亜種ともする)

の二種が代表種となろうか。ヒグマについては、前項の「熊」の「松前に出づる者、最〔も〕多し」に既注なので、そちらを見られたい。「黃白」という標準体色はやや不審ではあるが、焼けた茶褐色を言っているととれば、ヒグマのそれと一致するから、腑に落ちる。

 

「白熊」これは単に黒い熊類の中でやや白っぽい体毛をしているという程度の意味であろう。本邦のエゾヒグマでもアルビノと推定される白色個体が目撃されているので、アルビノと断じてもよかろう。所謂、狭義の現在の「白熊」、クマ属ホッキョクグマ Ursus maritimus は、ユーラシア大陸では北極圏直近のロシア北部沿岸にしか棲息せず、言わずもがな、中国には分布しないので、論外である。

「書に、二心(〔ふ〕た〔ごころ〕)あらざるの忠臣を以つて之れに譬ふ」出典未詳。

「魋(しやぐま)」「赤熊」既に述べた通り、払子や舞台用の鬘(かつら)及び兜の飾りなどに用いた赤く染めた「赤熊(しゃぐま)」それは、ヤク(ウシ目ウシ亜目ウシ科ウシ亜科ウシ属ヤク(野生種の学名は Bos mutus。家畜化された種としての学名はBos grunniens)。「犛牛(らいぎう)(ヤク)」を参照)の尾の毛を赤色顔料で染めたもので、「赭熊」とも書くが、良安がここで「しやぐま」とルビしたのはそれに引かれた当て訓に過ぎず、それはこの「魋」の毛とは無縁である(なお、東洋文庫訳では『ししぐま』とルビする。別版本のそれか。不審)。「魋」が如何なる種を指すかは不詳だが、「本草綱目」の叙述を見るに、可能性としては、性的二型のウスリーヒグマの♀、或いは、チベットツキノワグマ Ursus thibetanus thibetanus(雲南省南西部・四川省北西部・青海省南部・チベット自治区南東部)・タイワンツキノワグマ Ursus thibetanus formosanus(台湾)・シセンツキノワグマ Ursus thibetanus mupinensis(青海省・甘粛省・陝西省・チベット自治区・広西チワン族自治区・広東省・浙江省)・ウスリーツキノワグマ Ursus thibetanus ussuricus(中国北東部及び朝鮮半島。先の「本草綱目」の建平がこの地域に該当するのでこれが有力か)の♀或いは赤色個体(実際にいる)か若年個体で、体毛が有意に赤茶けたそれを指すのではないかと私は思う。

2019/03/28

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 熊(くま) (ツキノワグマ・ヒグマ)

Kuma

 

 

くま

【音雄】

★     【和名久萬】

ヒヨン

[やぶちゃん注:★部分に上図の篆文が入る。]

 

本綱熊生山谷如大豕而竪目人足黒色性輕捷好攀縁

上高木見人則顛倒自投于地冬蟄入穴春乃出春夏臕

肥時皮厚筋弩毎升木引氣或墮地自快俗呼跌臕冬月

蟄時不食饑則舐其掌故其美在掌謂之熊蹯其行山中

雖數千里必有跧伏之所在石巖枯木謂之熊舘其性惡

穢物及傷殘捕者置此物于穴則合穴自死或爲棘刺所

傷出穴爪之至骨卽斃也性惡鹽食之卽死又云熊居樹

孔中人擊樹呼爲子路則起不呼則不動也

熊膽【苦寒】治時氣熱盛變爲黃疽者暑月久痢心痛治諸

 疳驚癇瘈瘲退熱清心平肝明目【惡防己地黃】

膽春近首夏在腹秋在左足冬在右足熊膽多僞以米粒

許㸃水中運轉如飛者眞餘亦轉但緩爾◦又眞者善辟塵

試之以浄水一噐塵幕其上投膽米許則凝塵豁然而開

                  爲家

 新六白雪のふる木のうつほすみかとてみ山の熊も冬篭る也

△按熊在深山中出於松前者最多全體黒而胸上有白

 毛如偃月俗稱月輪常以手掩之獵人窺其月輪刺之

 則斃若不然則挫刀鎗其强勢不可敵也其生子也甚

 容易以自手抓出故人用熊掌置臨産傍亦取安産之

 義矣

 陳眉公秘笈云熊得人輙搔人喉若腋令笑人仆舌舐

 靣血以爲快人屏氣陽乃棄去還視之再三人蘇欲起

 逃去追而扼之山民習其狀能脫于死

 近頃於津輕山中捕一大熊其掌徑三尺爪一尺許體

 毛脫兀希有之大熊也凡熊膽春夏則痩小黒色帶黃

 秋冬則肥大而深黒色也取之有數品鐵砲擊取者陷

 阬生捕者並膽全追捕者次之穴捕者又次之【投木撅於穴則

 能忿攫之取藉尻數木盈穴則終窮迫而出穴仍殺之謂之穴捕以勞倦其膽痩劣也】試法㸃水

 運轉徹底爲一線黃黒光色其味苦微辛甘氣腥也猿

 膽亦爲線然不能運轉且赤黒色而不光味苦氣惡也

 【又偽作者有數品】

 熊膽膜有八重穿取其膽肉盛身肉造成者難辯

 又有墨與油和煎染紙爲袋別用熊骨黃栢五倍子【三種】

 濃煎爲膏盛件袋晒檐閒如鉤柹漸乾而推扁作之

熊皮 造泥障坐褥及鞘袋等賞之正黒色美亞于獵虎

 其黃白色者最珍

 

 

くま

【音、「雄」。】

★     【和名、「久萬」。】

ヒヨン

[やぶちゃん注:★部分に上図の篆文が入る。]

 

「本綱」、熊、山谷に生ず。大なる豕〔(ぶた)〕のごとくにして、竪目〔(たてめ)〕[やぶちゃん注:意味不明。人のようでなく、丸いことを言っているか。]、人の足〔のごとし〕。黒色。性、輕捷にして[やぶちゃん注:身軽且つ敏捷で。]、好みて攀縁〔(はんえん)し〕[やぶちゃん注:物に縋って攀じ登り。]、高木に上〔(のぼ)〕る。人を見るときは、則ち、顛倒し、自ら地に投ず。冬は蟄(すごも)り、穴に入る。春は乃〔(すなは)ち〕出づ。春夏、〔身の〕臕(あぶら)[やぶちゃん注:「臕」は、肥えて肥っていることの形容で、ここは「脂」に同じ。]肥えたる時、皮、厚く、筋[やぶちゃん注:筋肉。]、弩〔(ど)たり〕[やぶちゃん注:意味不明。大きな弓の絃のごとくだぶついていることを指すか。]。毎〔(つね)〕に木に升〔(のぼ)〕る[やぶちゃん注:「登」に同じ。]ときは、氣を引き[やぶちゃん注:大気を身体全体に吸い込み。]、或いは、地に墮ち、自〔(おのづか)〕ら快〔(こころよ)〕しとす。俗に「跌-臕(くまのあそび)」[やぶちゃん注:「跌」(音「テツ」)は「躓く・足を踏み外す」の意で腑に落ちるものの、何故、先の意しかない「臕」をその後に使つてこの意とするかは不明。]と呼ぶ。冬月、蟄する時は、食(ものくら)はず。饑うるときは、則ち、其の掌(たなごゝろ)を舐(ねぶ)る。故に、其の美〔(うまし)は〕[やぶちゃん注:有意な栄養分は。]掌に在り。之れを「熊蹯(ゆうばん)」[やぶちゃん注:「蹯」は獣の足(ここは四肢ととってよかろう)の裏の意。]と謂ふ。其れ、山中を行くこと、數千里[やぶちゃん注:明代の一里は五百五十九・八メートルであるから、一千里は五百五十九・八キロメートル。]と雖も、必ず、跧伏〔(せんぶく)〕の所[やぶちゃん注:腹這うための場所。]を有〔し〕て、石巖・枯木〔、そこ〕に在り。之れを「熊舘〔ゆうかん)〕」と謂ふ。其の性、穢(けが)れたる物及び傷〔つき〕殘〔(そこな)ふこと〕を惡〔(にく)〕む。捕る者、此(これら)の〔穢れ物及び熊の身體を損傷し得る〕物を穴に置くときは、則ち、穴に〔てこれらのものに〕合〔ひて〕、自〔(おのづか)〕ら死す。或いは、棘刺〔(きよくし)〕の爲に[やぶちゃん注:鋭い棘(とげ)が刺さったために。]、傷〔つけらるれば〕、穴を出で、之れに爪〔を立てて、それ、〕骨に至れば、卽ち斃〔(たふ)〕る。性、鹽を惡〔(い)〕む。之れを食へば、卽ち、死す。又、云ふ、『熊、樹の孔〔(あな)〕の中に居〔(を)〕る〔に〕、人、樹を擊ちて、呼んで「子路。」と爲〔(す)〕れば、則ち、起つ。呼ばざれば、則ち、動かず』〔と〕。

熊膽(くまのゐ)【苦、寒。】時氣の熱、盛んにして、變じて、黃疽〔→黃疸〕と爲〔(な)〕る者、暑月〔(しよげつ)の〕久痢・心痛を治す。諸疳・驚癇・瘈瘲〔(けいしよう)〕を治し、熱を退〔(のぞ)〕き、心を清し、肝を平〔(たいら)かに〕し、目を明〔かにす〕【防已〔(ばうい)〕・地黃〔(ぢわう)〕を惡〔(い)〕む。】。

膽、春は首に近く、夏は腹に在り、秋は左足に在り、冬は右足に在る。熊の膽、僞〔(にせもの)〕多し。米粒許(ほど)を以つて水中に㸃ずるに、運〔(めぐ)り〕轉じて、飛ぶがごとき者、眞なり。餘は亦、轉〔(ころ)〕ぶ〔に〕但だ緩きのみ。又、眞なる者、善く塵を辟〔(さ)〕く。之れを試みるに、浄水一噐を以つて、塵を其の上に幕〔(ばく)〕し[やぶちゃん注:撒き。]、膽、米許(ほど)を投ずるときは、則ち、凝塵[やぶちゃん注:水面を蔽って固まっていた塵が。]、豁然として開く[やぶちゃん注:パッと周囲に散って、澄んだ水面が開く。]。

                  爲家

 「新六」

   白雪のふる木のうつぼすみかとて

      み山の熊も冬篭る也

△按ずるに、熊、深山の中に在り。松前[やぶちゃん注:松前藩の松前城城下町であった、現在の北海道南部の渡島半島南西部、渡島総合振興局管内の松前町(まつまえちょう)附近(グーグル・マップ・データ)。]に出づる者、最〔も〕多し。全體、黒くして胸の上に白毛有り、偃月〔(えんげつ/はんげつ)〕のごとし。俗に「月の輪」と稱す。常に手を以つて之れを掩〔(おほ)〕ふ。獵人、其の月の輪を窺ひ、之れを刺せば、則ち、斃〔(たふ)〕す。若〔(も)〕し、然らざれば、則ち、刀鎗を挫(くじ)く。其の强勢、敵すべからざるなり。其の子を生(う)むこと、甚だ容-易〔(やす)〕く、自〔らの〕手を以つて抓〔(つま)み〕出だす。故に、人、熊の掌を用ひて、臨産の傍らに置く。亦、安産の義を取る〔ものなり〕[やぶちゃん注:安産を祈る呪物・お守りという意味を持つものである。]。

 陳眉公〔が〕「秘笈〔(ひきふ)〕」に云はく、『熊、人を得れば、輙〔(すなは)〕ち、人の喉若し〔く〕は腋を搔きて、笑はせしめて、人、仆(たを[やぶちゃん注:ママ。])れば、舌にて〔人の〕靣〔(おもて)〕の血を舐〔(ねぶ)るを〕以つて快(こゝろよ)しと爲す。人、氣陽を屏(しりぞ)ければ[やぶちゃん注:呼吸が止まるか、ごく微かになってしまうと]、乃〔(すなは)ち〕、〔その人を〕棄(す)て去り〔→れども、又〕、還りて之れを視ること、再三なり。人、蘇(よみがへ)りて起ちて逃げ去らんと欲〔さば〕、追ひて之れを扼〔(つか)〕む。山民、其の狀(ありさま)を習ひて、能く死を脫す』〔と〕[やぶちゃん注:最後の部分は所謂、熊に襲われたら「死んだふり」をして死地を脱するという例の嘘っぱちの噂である。]。

 近頃、津輕の山中に於いて、一の大熊を捕へ、其の掌、徑り三尺、爪、一尺許り。體毛、脫け兀(は)げて、希有の大熊なり。凡そ、熊の膽、春夏、則ち、痩せ小さく、黒色〔に〕黃を帶ぶ。秋冬、則ち肥大して深黒色なり。之れを取〔る法に〕數品〔(すひん)〕[やぶちゃん注:数種類。]有り。鐵砲にて擊ち取る者、陷阬(をとしあな)にて生け捕る者、並びに、膽、全し。追ひ捕ふる者、之れに次ぐ。「穴捕〔(あなどり)〕」の者、又、之れに次ぐ【木・撅〔(くひ)〕[やぶちゃん注:杭。]を穴に投〔ずれば〕、則ち、能く忿〔(いか)り〕て之れを攫(〔つ〕か)み取りて尻に藉(し)き、數木、穴に盈(み)ち、則ち、終〔(つひ)〕に窮迫して、穴を出づ。仍つて、之れを殺す。之れを「穴捕」と謂ふ。勞〔れ〕倦〔(う)み〕するを以つて、其の膽、痩せて劣れるなり。】。〔熊の膽の眞贋を〕試みる法、水に㸃じ、轉〔び〕運〔(ゆ)きて〕底に徹〔(とほ)〕り、一線、黃黒〔に〕光〔れる〕色を爲す。其の味、苦くして微〔かに〕辛甘〔(しんかん)〕、氣〔(かざ)〕、腥〔(なまぐ)〕さし。猿の膽も亦、線を爲す。然れども、運轉〔すること〕能はず、且つ、赤黒色にして、光らず、味〔も〕苦く、氣、惡〔しき〕なり【又、偽り作る者、數品、有り。】。

熊〔の〕膽の膜、八重〔(やえ)〕有り[やぶちゃん注:八つの層がある。]。其の膽の肉を穿ち取りて、身の肉を盛りて造〔り〕成〔したる僞(にせ)〕者、辯〔(わきま)〕へ難し。

又、墨と油と〔を〕和(ま)ぜ煎じて、紙に染めて、袋と爲す。別に熊の骨・黃栢〔(わうばく)〕・五倍子〔(ぬるで)〕【三種。】を用ひて、濃く煎じて膏と爲して、件〔(くだん)〕の袋に盛り、檐(のき)の閒に晒〔(さら)〕し、鉤-柹〔(つるしがき)〕のごとく〔し〕、漸々(やうやう)乾きて推〔(お)して〕扁〔(たひら)にし〕、之れを作る。

熊皮 泥-障(あをり[やぶちゃん注:ママ。])・坐褥(しきがは)[やぶちゃん注:敷革。]及び鞘(さや)袋等に造りて、之れを賞す。正黒色〔にして〕美〔しく〕、獵虎(らつこ)に亞(つ)ぐ。其の黃白色なる者、最も珍し。

[やぶちゃん注:本邦に棲息するのは、

食肉目クマ科クマ属ツキノワグマ亜種ニホンツキノワグマ Ursus thibetanus japonicus(本州及び四国。九州では絶滅(最後の九州での捕獲は一九五七年で、二〇一二年に九州の絶滅危惧リストからも抹消されている。二〇一五年に二件の目撃例があったが、アナグマ或いはイノシシの誤認かとされる)

及び北海道に(本文の松前産はそれ)

クマ属ヒグマ亜種エゾヒグマ Ursus arctos yesoensis

が棲息する。但し、前半は「本草綱目」であるので、中国にはツキノワグマの亜種である、

チベットツキノワグマ Ursus thibetanus thibetanus((雲南省南西部・四川省北西部・青海省南部・チベット自治区南東部)

タイワンツキノワグマ Ursus thibetanus formosanus(台湾)

シセンツキノワグマUrsus thibetanus mupinensis(青海省・甘粛省・陝西省からチベット自治区・広西チワン族自治区・広東省・浙江省)

ウスリーツキノワグマUrsus thibetanus ussuricus(中国北東部)

が棲息し、さらに一部(極東の東北部と西方山岳地帯)にヒグマの亜種が棲むので、それらも挙げておく必要がある。冒頭では本邦産種の代表としてウィキの「ニホンツキノワグマ」を引いておく。体長は百二十~百五十センチメートル。尾長は六~十一センチメートル。体重は♂で六十~百二十キログラム、♀で四十~八十キログラム程度で、『大陸産に比べ』ると、『小型である。最大の記録は』一九六七『年に宮城県で捕獲された』二百二十『キログラムの個体で、近年にも』二〇〇一『年に山形県で体長』百六十五『センチメートル、体重』二百『キログラムの記録が報告されている。肩が隆起せず、背の方が高い。全身の毛衣は黒いが、稀に赤褐色や濃褐色の個体もいる。胸部に三日月形やアルファベットの「V」字状の白い斑紋が入り(無い個体もいる)、旧属名Selenarctos(月のクマの意)や和名の由来になっている』。『本州及び四国の森林に生息し、九州では絶滅したとされる』。『夜行性で、昼間は樹洞や岩の割れ目』や『洞窟などで休むが』、『果実がある時期は昼間に活動することもある』。『夏季には標高』二千『メートル以上の場所でも生活するが、冬季になると標高の低い場所へ移動し』、『冬眠する。食性は植物食傾向の強い雑食で、果実、芽、昆虫、魚、動物の死骸などを食べる』。『以前はヒグマと違い、大型動物を捕食することはほとんどないと考えられていたが、近年では猛禽類(イヌワシ)の雛や大型草食獣(ニホンカモシカやニホンジカ)などを捕獲して食べたりする映像が研究者や観光客により撮影されることから、環境により』、『動物を捕獲して食料とする肉食の傾向も存在すると考えられ』ており、秋田県鹿角(かづの)市熊取平(くまとりたい)一帯では二〇一六年の五~六月にかけてツキノワグマが次々と人を襲い、四人が死亡し、人体の一部が食われている(詳しくはウィキの「十和利山熊襲撃事件」を参照)。人肉の味を知った個体は再び人を餌として襲う可能性が頗る高く、本事件では複数の個体が人肉を食らっており、射殺された一頭(♀)の体内からは人肉が見つかっているが(研究家はこの人食い熊を鹿角のイニシャルをとって「スーパーK」と呼んでいる)、向後も高い警戒が必要である概ね、二『頭の幼獣を産む。授乳期間は』三『か月半。幼獣は生後』一『週間で開眼し、生後』二~三『年は母親と生活する。生後』三~四『年で性成熟する。寿命は』二十四『年で、飼育下の寿命は約』三十三『年である』とある。

 

「★」の篆文であるが、大修館書店「廣漢和辭典」の「熊」の解字によれば、「能」+「黑」の省略+「肱」の省略の音声などとするが、同時に『この字形は不明な点が多い』としつつ、『能はくまの象形』で、『黑はくろいの意、肱はひじの意。ひじを自由に動かし、木に登り、えさをとる黒くまの意か』と記す。

「熊、樹の孔の中に居る〔に〕、人、樹を擊ちて、呼んで「子路。」と爲〔(す)〕れば、則、起つ。呼ばざれば、則ち、動かず」サイト「Yoshimi Arts」内の、陶芸家上出惠悟氏の「熊について」によれば、「子路(しろ)」は熊の異名とし、陶淵明(一部或いは全部が偽作ともされる)の六朝時代の『志怪小説集「捜神後記(続捜神記)」の中に、「熊無穴有居大樹孔中者 東土呼熊子路」という記述があり、また』、『江戸時代の獣肉屋でも子路と書いて「くま」と読ませていた』『(寺門静軒著「江戸繁盛記」)』とあり、『論語に詳しい方はご存知と思いますが、子路とは孔門十哲の一人仲由のことで、子路という異称の由来は、熊が住処とした樹の「孔」と孔子の「孔」をもじった言葉遊びからの洒落です』と意味を解明されておられる。以下、上出氏の述懐がとてもしみじみとしていいので引用させて戴く。

   《引用開始》

子路のことなら中島敦の小説「弟子」(昭和十八年発表)で主人公として描かれており、私はこの小説を幾度と読み感動しています。子路は子供がそのまま大人になった様な直情径行な性格から度々孔子に叱られます。激越でしかし素直な子路はまこと獣のように美しく、これを読むと熊と子路を結びつけた人の気持ちが腹に落ちるように理解できます。物語の最後、子路は主君を救う為に反逆者のいる広庭へと単身跳び込み、気高くも無残に殺されてしまいます。孔門の後輩、子羔と共にその場から遁れることも出来た子路が子羔に声を荒げた「何の為に難を避ける?」という言葉が私の心の中で何度も反復されました。「何の為に難を避ける?」。里に現れる熊は一体どのような気持ちで里に降りて行くのだろう。私の中でその熊と子路の姿が妙に重なり始めました。日常生活でも植木を熊と見間違えたり、車のヘッドライトの影に熊を見たり、空に浮かぶ雲を見て熊を思ったり、実際に会えないかと山へ行ってみたり、北海道を旅したりと熊の痕跡をっています。結局のところ私はなぜ熊なのかと自分でも判らないまま熊を心に宿してしまったのです。

   《引用終了》

「捜神後記」のそれは「第十一巻補遺」の以下。

   *

熊無穴、居大樹孔中。東土呼熊爲子路。以物擊樹云、「子路可起。」。於是便下。不呼、則不動也。

   *

寺門静軒の「江戸繁盛記」のそれは「初編」のここ(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)の右頁の三行目。

「熊膽(くまのゐ)」ウィキの「熊胆」を引く。『熊胆(ゆうたん)は、クマ由来の動物性の生薬のこと。熊の胆(くまのい)ともいう。古来より中国で用いられ、日本では飛鳥時代から利用されているとされ、材料は、クマの胆嚢(たんのう)であり、乾燥させて造られる。健胃効果や利胆作用など消化器系全般の薬として用いられる。苦みが強い。漢方薬の原料にもなる。「熊胆丸」(ゆうたんがん)、「熊胆圓」(ゆうたんえん:熊胆円、熊膽圓)がしられる』。『古くからアイヌ民族の間でも珍重され、胆嚢を挟んで干す専用の道具(ニンケティェプ)がある。東北のマタギにも同様の道具がある』。『熊胆の効能や用法は中国から日本に伝えられ、飛鳥時代から利用され始めたとされる熊の胆は、奈良時代には越中で「調」(税の一種)として収められてもいた。江戸時代になると』、『処方薬として一般に広がり、東北の諸藩では熊胆の公定価格を定めたり、秋田藩では薬として販売することに力を入れていたという。熊胆は他の動物胆に比べ』、『湿潤せず』、『製薬(加工)しやすかったという』。『熊胆配合薬は、鎌倉時代から明治期までに、「奇応丸」、「反魂丹」、「救命丸」、「六神丸」などと色々と作られていた(現代は、熊胆から処方を代えている場合がある』『)。また、富山では江戸時代から「富山の薬売り」が熊胆とその含有薬を売り歩いた』。『北海道先住民のアイヌにとっても』、『ヒグマから取れる熊胆や熊脂(ゆうし)などは欠かせない薬であった。和人の支配下に置かれてからは、ヒグマが捕獲されると』、『松前藩の役人が』、『毛皮と熊胆に封印し、毛皮は武将の陣羽織となり、熊胆は内地に運ばれた。アイヌに残るのは肉だけであった。熊胆は、仲買人の手を経て』、『薬種商に流れ、松前藩を大いに潤した。明治期になっても、アイヌが捕獲したヒグマの熊胆は貴重な製薬原料とされた』。『昔から知られる熊胆の鑑定法、昔から知られる効能は』「一本堂薬選」に『詳しい』。『青森津軽地方でも、西目屋村の目屋マタギは「ユウタン」、鰺ヶ沢町赤石川流域の赤石マタギは「カケカラ」と呼んだ』。『熊胆に限らず、クマは体の部位の至る所が薬用とされ、頭骨や血液、腸内の糞までもが利用されていた』。『主成分は胆汁酸代謝物のタウロウルソデオキシコール酸』『の他、各種胆汁酸代謝物やコレステロールなどが含まれている』。『古来、日本は熊胆を利用しつつも』、『クマの個体数が維持されており、世界的にみても珍しい』とある。

「時氣の熱、盛んにして、變じて、黃疽と爲〔(な)〕る者」東洋文庫訳では『時気熱(はやりねつ)』(流行性感冒?)『が激しく変じて黄』疸(東洋文庫は「疳」と誤植している)『(おうだん)となったもの』と訳してある。

「暑月〔(しよげつ)の〕久痢」夏期の慢性的下痢症状。

「心痛」胸痛。前の「暑月」は「久痢」のみに係っていると読むべきであろう。

「諸疳」「疳の虫」によって発症するとされた、小児性の多様な疾患。夜泣きや「ひきつけ」などの発作を起こす小児性神経症や、身体が痩せて腹が膨満してくるような小児性慢性胃腸病。

「驚癇」癲癇。

「瘈瘲〔(けいしよう)〕」漢方で、外感熱病・癲癇・破傷風などの症状として見られる、筋肉が引き攣(つ)るような病態を指す。

「防已〔(ばうい)〕」落葉性蔓植物であるキンポウゲ目ツヅラフジジ(葛藤)科ツヅラフジ属オオツヅラフジ Sinomenium acutum から製した生薬名。ウィキの「オオツヅラフジ」によれば、『オオツヅラフジの蔓性の茎と根茎は生薬「防已」(ぼうい)(日本薬局方での定義)であり、鎮痛、利尿作用などがある』。『木防已湯(もくぼういとう)、防已茯苓湯(ぼういぶくりょうとう)などの漢方方剤に配合される。有効成分はアルカロイドのシノメニン(sinomenine)など。 作用が強力なので、用法を間違えると』、『中枢神経麻痺などの中毒を起こす』。『中国では防已をオオツヅラフジではなくウマノスズクサ科』(コショウ目ウマノスズクサ(馬の鈴草)科 Aristolochiaceae:本邦で一般的なのはウマノスズクサ科 Aristolochioideae 亜科ウマノスズクサ属ウマノスズクサ Aristolochia debilis)『の植物としていることがある。このウマノスズクサ科の植物の防已はアリストロキア酸という物質を含み、これが重大な腎障害を引き起こすことがある』(発癌性も認められる)。『このため』、『中国の健康食品や漢方薬には十分注意する必要がある』ともあるから、明珍の言っているのは後者の可能性もある。なお、東洋文庫訳は『防己(ぼうき)』としており、致命的な誤判読をやらかしている。

「地黃〔(ぢわう)〕」キク亜綱ゴマノハグサ目ゴマノハグサ科アカヤジオウ属アカヤジオウ Rehmannia glutinosa の根から製した生薬。カタルポールなどのイリドイド配糖体を多く含んでおり、内服薬としての利用では補血・強壮・止血作用が、外用では腫れ物の熱を取り、肉芽の形成作用を有する。

「惡〔(い)〕む」薬物として合わせて使ってはいけないことを指す。

「爲家」「新六」「白雪のふる木のうつぼすみかとてみ山の熊も冬篭る也」藤原定家の子藤原為家の「新撰六帖題和歌集」(「新撰和歌六帖」とも呼ぶ。六巻。藤原家良(衣笠家良:いえよし)・為家・知家・信実・光俊の五人が、仁治四・寛元元(一二四三)年から翌年頃にかけて詠まれた和歌二千六百三十五首を収めた、類題和歌集。奇矯で特異な歌風を特徴とする)の「第二 山」に載る。「日文研」の「和歌データベース」で校合済み。「うつぼ」は「うつほ」でもよい。漢字表記は「空」で、「岩・幹などの内部が空(から)になっている場所・部分、空洞の意。

「松前に出づる者、最〔も〕多し」ニホンツキノワグマは北海道には棲息しないので、この松前の個体はツキノワグマとは別種の、クマ属ヒグマ亜種エゾヒグマ Ursus arctos yesoensis である。但し、『全體、黒くして胸の上に白毛有り、偃月〔(えんげつ/はんげつ)〕のごとし。俗に「月の輪」と稱す』とあるのは誤りではない。ウィキの「ヒグマ」によれば、『頸部や前胸部に長方形様の白色がある個体』があり、ニホンツキノワグマと同じく『月の輪』と呼ばれているからである。以下、同ウィキを引く。『日本に生息する陸上動物としては最大の動物である』。『ヒグマの亜種であるウスリーヒグマ(Ursus arctos lasiotus)と同亜種とする説もある』。『北海道の森林および原野に分布する。夏季から秋季にかけての時期は中山帯と高山帯にも活動領域を広げる。石狩西部と天塩、増毛の地域個体群は、絶滅のおそれがある地域個体群(LP)に指定されている』。『江戸時代末期から明治時代初期』(一八六五年~一八六八年)『にかけては、集落などのように人が多い地域を除けば、北海道全域が本種の生息域であったといわれている』。『オホーツク文化期の末期』(十三世紀)『までは利尻島と礼文島にも生息していたようである』。『ヒグマ種の化石がブラキストン線(津軽海峡)以南の本州と四国、九州の約』一『万年前の更新世末期の地層から発掘されており、本州以南にもヒグマ種が生息していたようである』。『成獣の大きさはオスとメスとで異なり、オスの方が大き』い性的二型で、体長は♂が約一・九~二・三メートル、♀が約一・六~一・八メートル。体重は♂で約百二十~二百五十キログラム、♀で約百五十~百六十キログラム。四百八十キログラムの個体もいる。『近年の記録に残されている最大の個体では』、体重は♂の五百二十キログラム(二〇〇七年・えりも町・推定十七歳)、♀の百六十キログラム(一九八五年・推定八~九歳)で、体長では♂が二百四十三センチメートル(一九八〇年、推定十四~十五歳)、♀が百八十六センチメートル(一九八五年・推定八~九歳)である。『毛色は褐色から黒色まで個体により様々であり』、『その色合いごとに名称が付けられている。黄褐色系の個体は金毛』。『白色系の個体は銀毛。頸部や前胸部に長方形様の白色がある個体は月の輪。また夏毛は刺毛で構成されており、冬毛は刺毛と綿毛で構成されている』。『新生子の大きさは、体長が』二十五~三十五センチメートル、体重は三百~六百グラム。『視力はなく、歯も生えていない。体毛は、産毛がまばらに生えている』。『本種の行動は、発情期と子育て期以外は単独行動である。活動時間帯は昼夜を問わず一定していない。休息場所は特に決まっておらず、気に入った場所で休息する。本種は犬掻きによる泳ぎが得意である。若い本種は木登りも得意であるが』、『それは体重が軽いためである』。『本種は手をよく使い、手の爪が伸びる速さは足の爪が伸びる速さの約』二『倍である。これは手をよく使うために手の爪の摩耗が速く、摩耗した爪を補うために速く伸びるものと推考できる。また後肢で』二『本足立もする』。『活動期間は、春から晩秋・初冬にかけての期間で、活動地域は平野部から高山帯に至るまで様々な地域で活動する。餌となる植物を得られない残雪(春)や降雪による積雪(晩秋・初冬)の多い地域にはおらず、植物を採食できる地域に移動している。越冬のために巣穴に籠る時期は晩秋から初冬にかけての時期で、出産は越冬期間中に行われる』。『寿命は、野生下では約』三十『歳』。『食性は雑食性である。 植物性のものを食べる目的は二つあり、一つは栄養を摂取するため。もう一つは便秘予防や消化促進のためである。本種が前者の目的で摂取する植物は、栄養素を多量に含むフキやセリ科などの草と木の実である。本種は植物繊維を分解して栄養素に変換する機構を備えておらず、また草食動物のように植物繊維を分解して栄養素に変換する腸内細菌と共棲していない。そのため本種がスゲ類』『などの植物繊維の多い植物を摂取する目的は後者である。本種は様々な動物性のものを摂取するが、主に鳥類と哺乳類、昆虫類、水棲動物ではザリガニやサケ、その他の魚類である。鳥類と哺乳類の場合は既に死亡しているものを食べ、捕食することは珍しい。本種は共食いをすることがある。摂取した昆虫類やザリカニの外骨格、羽毛、獣毛などは分解できず、未消化のまま排泄される。本種の食性は非常に多様性に富み、人が食べることができるものは元より、それ以外のもの食べることができ、樹脂も食べる。草類は約』六十『種類、木の実が約』四十『種類、動物が約』三十『種類である』(中略)。『家畜や人を捕食することもある』。『本種がこれらを食べるときは内臓から食べ始めるという通説は誤りである。本種は最初に筋肉から食べ始め、最後に四肢を食べるが、肘から先の部分と膝から先の部分は食べないことが多い。頭部はなおのこと』、『食べないことが多い』(本邦でのヒグマの襲撃によるヒト死亡例でも首だけが残されていたケースが見られる)。『成獣は相手を威嚇する時に「ウオー」「グオー」「フー」などの鳴き声を発声する。鳴き声以外にも歯を鳴らしたり、足で地面を擦るなどして音を出して威嚇する』。『新生子や子グマは「ビャー」「ピャー」「ギャー」などと鳴く』。『発情期は初夏から夏にかけての期間。妊娠期間は約』八『ヶ月間で、翌年の越冬期間中に巣穴で出産する。産仔数は』一~三『頭。子育てはメスだけで行う』。『越冬期間中に出産と母乳による子育てをするため、春に巣穴から出る頃には母グマの体重は約』三十%『減少している』。『新生子は視力や歯などがない。生後』六『週目に聴力を得て』、七『週目に視力を得る。生後』四『ヶ月で乳歯が生え、母グマと同じものを食べるようになる』一~二『歳になると親離れする。子グマが繁殖できるようになるのは』四~五『歳で、最年少の記録は』三『歳』。三十『歳ぐらいまで繁殖が可能である』。『越冬用の巣穴は山の斜面に横穴を掘り、縦穴は掘らない。他の個体が前回の越冬に使用した穴を使用することもある。岩穴や樹洞を使うことは滅多にない。独立して行動する年齢になった本種は複数個の巣穴を持っており、その使い方は個体により様々』で、『巣穴に籠る時期は晩秋から初冬にかけての期間であるが、積雪とは関係がない』。『冬籠り中の体温は活動時期より』四~五『度下がる』。『動物園などでの飼育下では、本種を冬籠りさせないことができる』。『また、冬ごもりさせる動物園もある』。『本種は樹木に登って木の実を食べることがあるが、そのときに熊棚(くまだな)ができる場合がある』。『本種が樹上で木の実がなっている枝を手繰り寄せたときに枝が折れることがあり、折れた枝は本種の臀部の下に敷く習性があり、枝の数が多くなると棚のようになるので、これを熊棚という』。一九八〇『年代まではエゾヒグマが農作物を荒らすことは少なかったが』、一九九〇『年代後半から』二〇〇〇『年代にかけて農作物を食べるエゾヒグマが増加した』。『その理由として、農業従事者の減少によって畑などに人が入ることが少なくなったため、クマが畑や人を警戒しなくなったことが挙げられている』。『本種による農業被害額は年間で』一『億円を超えると推定されている』。但し、『ツキノワグマと違って』、『林業被害は報告されていない』。『家畜が襲われる被害は』一九七〇『年代以降』、『大きく減少している』。『エゾヒグマと遭遇することで人が襲われ、負傷もしくは死亡する事例もたびたび発生している』。「札幌丘珠(おかだま)事件」(明治一一(一八七八)年・死者四名(嬰児一名を含む))、「三毛別(さんけべつ)羆事件」(大正四(一九一五)年・死者七名(内一人は妊婦))、「石狩沼田(ぬまた)幌新(ほろしん)事件」(大正一二(一九二三)年・死者五名)、「福岡大学ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件」(昭和四五(一九七〇)年・死者三名)など(総ての事件で熊による食人が行われている。リンクは各ウィキ。なお、最後のリンク先には『野生動物研究家の木村盛武』の、山行中にヒグマに遭遇した場合の襲われないための『ヒグマがあさった荷物を取り返してはいけない』・『ヒグマに遭遇したらすぐに下山しなければいけない』・『ヒグマに背を向けて逃げてはいけない』・『事前にヒグマに出会った時の対処法をチェックしておかなければならない』・『ヒグマは時間や天候に関係無く行動する』という五箇条が示されてある)、『複数の被害を出した事例も少なくない』。『本州のツキノワグマの場合』、『偶発的に人間を殺傷してしまう例がほとんどであるが、ヒグマの場合、上記の事件では集団』としてのヒト個体群を『捕食対象として認識し、計画的に執念深く追尾し、捕らえ、捕食し、さらに遺体を持ち帰り』、『食用として保存までしている』。「駆除と保護」の項は略す。『駆除だけに頼らずに被害防止と共存を実現するためのさまざまな取り組みも』二〇〇〇『年代以降に北海道各地で行われ始め』、二〇〇〇『年には「渡島半島地域ヒグマ保護管理計画」が策定され、科学的なエゾヒグマの保護管理政策が実施されている』。『自然遺産に指定されている知床でも「知床ヒグマ保護管理計画」の策定に向けた取り組みが進められている』。しかし一方で、一九九〇『年に春熊駆除が廃止され』、『ヒグマを取り巻く環境が保護へと転換されてから』十五~二十年以上が経過した二〇〇〇年代には、逆に『人に対する恐怖経験が全くない世代のエゾヒグマが現れるようにな』り、『こうしたクマは「新世代クマ」と呼ばれ、大きな問題となっている』。『新世代クマとみられるエゾヒグマが住宅地に出没する事例も』、『季節を問わず』、『発生して』おり、『こうした状況になると、警察によるパトロールや周辺学校での集団下校、遊歩道や公園の閉鎖が行われたり、住民が外出を控えるようになったりと』、『物々しい騒然とした事態となる』。二〇一一年十月には、『千歳市や札幌市の市街地でクマが相次いで目撃され』、『大きく報道された』とある。なお、次項は「羆」である。

「常に手を以つて之れを掩〔(おほ)〕ふ。獵人、其の月の輪を窺ひ、之れを刺せば、則ち、斃〔(たふ)〕す」ニホンツキノワグマのもヒグマの「月の輪」にも、そのような習性や弱点はないと思われる。

「陳眉公」明末の書家・画家として知られる陳継儒(一五五八年~一六三九年)の号。同じ書画家董其昌(とうきしょう)の親友としても知られる。

「秘笈〔(ひきふ)〕」陳継儒が、収集した秘蔵書を校訂・刊行した叢書「宝顔堂秘笈」のことか。

「人の喉若し〔く〕は腋を搔きて、笑はせしめ」無論、こんな阿呆な習性も、勿論、ない。

「黃栢〔(わうばく)〕」落葉高木アジア東北部の山地に自生し、日本全土にも植生する、ムクロジ目ミカン科キハダ属キハダ Phellodendron amurense の樹皮から製した生薬。薬用名は通常は「黄檗(オウバク)」が知られ、「黄柏」とも書く。ウィキの「キハダ」によれば、『樹皮をコルク質から剥ぎ取り、コルク質・外樹皮を取り除いて乾燥させると』、『生薬の黄柏となる。黄柏にはベルベリンを始めとする薬用成分が含まれ、強い抗菌作用を持つといわれる。チフス、コレラ、赤痢などの病原菌に対して効能がある。主に健胃整腸剤として用いられ、陀羅尼助、百草などの薬に配合されている。また強い苦味のため、眠気覚ましとしても用いられたといわれているほか、中皮を粉末にし』、『酢と練って』、『打撲や腰痛等の患部に貼』り、『また』、『黄連解毒湯、加味解毒湯などの漢方方剤に含まれる。日本薬局方においては、本種と同属植物を黄柏の基原植物としている』。『アイヌは、熟した果実を香辛料として用いている』とある。

「五倍子〔(ぬるで)〕」東南アジアから東アジア各地に自生し、本邦のほぼ全土に植生する落葉高木、ムクロジ目ウルシ科ヌルデ(白膠木)属ヌルデ変種ヌルデ Rhus javanica var. chinensis の虫癭(ちゅうえい)から製した薬物。ウィキの「ヌルデ」等によれば、同種の葉にヌルデシロアブラムシ(昆虫綱半翅(カメムシ)目同翅(ヨコバイ)亜目吻亜目アブラムシ上科アブラムシ科ワタアブラ亜科ゴバイシアブラ属Schlechtendalia chinensis)が寄生すると、大きな虫癭が生じるが、その中には黒紫色のアブラムシが多数、詰まっており、その虫癭全体にタンニンが豊富に含まれていることから、それを以って「皮鞣(なめ)し」に用いられたり、黒色染料の原料とし(染め物では空五倍子色とよばれる伝統的な色を作り出す)、また、インキや白髪染の原料になる他、かつては既婚女性及び十八歳以上の未婚女性の一般的習慣であった「お歯黒」(鉄漿)にも使用され、『また、生薬として五倍子(ごばいし)あるいは付子(ふし)と呼ばれ、腫れ物、歯痛などに用いられた。但し、猛毒のあるトリカブトの根も「付子」』(ぶす)と書くので、『混同しないよう』、『注意を要する』。他に『ヌルデの果実は』「塩麩子(えんぶし)」『といい、下痢や咳の薬として用いられた。この実はイカル』(スズメ目アトリ科イカル属イカル Eophona personata)『などの鳥が好んで食べる』ともある。

「泥-障(あをり)」「障泥」とも書くが、歴史的仮名遣は「はふり」が正しい。馬具の付属具の名で、鞍橋(くらぼね)の四緒手(しおで)に結び垂らし、馬の汗や蹴上げる泥を防ぐためのもの。下鞍(したぐら)の小さい「大和鞍」や「水干鞍」に用い、毛皮や皺革(しぼかわ)で円形に作るのを例としたが、武官は方形とし、「尺(さく)の障泥(あおり)」と呼んで用いた。場所と形が頭に浮かばぬ方は、参照した小学館「デジタル大辞泉」の「あおり」の解説の下の画像をクリックされたい。

「獵虎(らつこ)」哺乳綱食肉目イタチ科カワウソ亜科ラッコ属ラッコ Enhydra lutrisウィキの「ラッコ」によれば、『日本では平安時代には「独犴」の皮が陸奥国の交易雑物とされており、この独犴が本種を指すのではないかと言われている。陸奥国で獲れたのか、北海道方面から得たのかは不明である。江戸時代の地誌には、三陸海岸の気仙の海島に「海獺」が出るというものと』、『見たことがないというものとがある』。嘗て、『千島列島や北海道の襟裳岬から東部の沿岸に生息していたが、毛皮ブームによ』『る乱獲によって』、『ほぼ絶滅してしまった。このため、明治時代には珍しい動物保護法「臘虎膃肭獣猟獲取締法」』(明治の末年の明治四五(一九一二)年)『が施行され、今日に至っている』とある。なお、本「獸類」(巻第三十八)の最終項は「獵虎」である。]

荒野吟 國木田獨步 /國木田獨步詩歌群電子化注~了

 

     ○荒 野 吟

 

   功名によりて進み利達の爲めに

                退く

   此の如き進退我はよくせず

我ニ祖母あり母あり弟あり知己あり亦愛人あり

   我が衷には靈動き

   いと高き處には神在す

 人生天職あり天意に遵ひて天功を亮スるのみ

  アヽ救主、四十日四十夜荒野の試み

 這般の苦心人知るや否や

 

[やぶちゃん注:「ニ」及び「ス」のカタカナはママ。以上の詩一篇は、学研の「國木田獨步全集」增訂版(全十卷+別卷)の「第九卷」(昭和五三(一九七八)三月刊)に「○荒野吟」として載るものである。底本解題によれば、『前田重氏の研究ノート中に挾まれてゐた「獨步筆跡」と裏書した寫眞草稿。』無署名ではあるが、筆蹟が獨步のものとみられるので掲げた』とある。詠吟時期や背景は一切不明のようである。老婆心乍ら、言っておくと、「我が衷」の「衷」は「うち」で「心裏」に等しく、「在す」は古語で「います」と読み、「遵ひて」は「したがひて」、「天功」は「天の成した技(わざおぎ)。人智を超えた大自然の働き」の意、「亮スる」は「りやうする(りょうする)」で「扶助する」の意であろう。「這般」は「しやはん(しゃはん)」と読み、「這」は中国語の俗語で「此」の意で、「これら・この辺・このたび・今般。通常、かく、格助詞「の」を伴って用いる。

 以上の他にも國木田獨步の詩歌(漢詩)等は散見されるが、底本全集が明確に抽出したものは以上であり、一先ず、これを以って國木田獨步詩歌群電子化注は終りとする。他に見い出し得、追記したいものが発見出来た場合はここで追加する。

2019/03/27

人形劇団ひとみ座の「どろろ」は必見!

本日、拝見。
 
手塚治虫の原作を知っている人も、全く知らない人も、文楽好きの人も、「ひとみ座」を「ひょっこりひょうたん島」ぐらいしか知らない人も、皆にお薦めする。
 
あの私の偏愛する作品が今現在の世界の状況にも複数の強いメッセージを放って止まない!

久し振りに真に祝祭的芝居を見た。必見!!!

追伸:虫プロの「人形劇『どろろ』開幕直前インタビュー!」も必見!

國木田獨步の日記「欺かざるの日記」及び書簡内の短歌群

 


○國木田獨步日記「欺かざるの記」所収の短歌


[やぶちゃん注:以下は学研の「國木田獨步全集」增訂版(全十卷+別卷)の「第九卷」(昭和五三(一九七八)三月刊)の解題で、日記・書簡中の短歌・俳句が抽出再録されている中から、短歌を抜き出し、同全集の当該日記(第六卷及び第七卷)で確認の上、電子化した。]


初春の花見る每に父母の
  傾く年を獨り寢に泣く、


[やぶちゃん注:明治二六(一八九六)年三月十四日の作(國木田獨步満二十一歳)。三月十五日の日記の冒頭に『昨夜歌一首を得。曰く、』として載せ、歌の後に、『アヽ天地悠々、歲月は逝』(ゆ)『いて止まず、明年は如何、明々年は如何、十年の後は如何、將た百年の後は如何、百年回顧しれば一夢の如く、千年回顧すれば一瞬のみ、人間の恩愛は萬古の情。』(太字は底本では傍点「◦」)と記している。彼の逝去はこの十五年後であった。]


今更らに此世の風の身に沁みて、
      いとゞ戀しき父母のひざ。


[やぶちゃん注:明治二六(一八九六)年三月二十二日の作。三月二十三日の日記の中に、『昨日自由社より歸や、書を裁して國もとに送る、收二』(國木田獨步の実弟)『宿舍入舎の相談也。其の他色々。』/(改行)『中に一首、』としてこの歌を記し、後に『あゝ「五年は經過せり」、』(この五年前、上京して東京専門学校(早稲田大学の前身)に入学した。後述は誕生起点の値)『二十年餘は經過せり、父老ひ[やぶちゃん注:以下とともにママ。]母老ひ吾亦た壯年に達して、尚ほ且つ父母を安ずる能はず、理想の責任徒らに重く、燈火の悲慨空しく深し、切に回顧して父母の膝下を懷ふ』と記している。]


弱ければ弱きに付けて猶ほ弱く、
     吾は迷へる羊なるかな。


[やぶちゃん注:明治二六(一八九六)年三月二十四日の条に出る。日記冒頭、『此の記を書するに先たちて左に一首、』として以上を掲げた上、歌の後に、
   *
アヽ昨朝は意志の冷靜健猛たらんことを自誡して、而も今は淚と共に此の歌を歌はざる可からざる吾の如何に弱きぞ。
若し斯くの如くして日一日を送らば、狂死にあらずんば堕落なり。
狂死か堕落か、狂死猶ほ可、堕落して生を放樂に偸むる[やぶちゃん注:ややおかしいが、「ぬすむる」。]に至りては、神明の罰終に如何。
思ふに精神靈性の弱きはたまたま以て身體の衰弱を招き、狂死に非ず、堕落に非ず、元より事業成功に非ず、何事も成し能はず、以て命を消さんとする如きに了らんも計る可からず。
   *
と記している。以上で当日の日記全文となる。]


こつこつとつとむる外に味もなく、
  望もわざもせんすべもなし。


[やぶちゃん注:明治二六(一八九六)年三月三十一日の日記の掉尾に、前書で『左の一首を三月に送る』と記して、載せる。]


しねとならば死ぬる此身は惜まねど
    生れし心あだに消す可き。


[やぶちゃん注:明治二六(一八九六)年七月六日の日記より。後に大久保余所五郞(よそごろう)宛の手紙に書き添えたものである旨の記載があり、書簡にも見える。]


冬枯れの野邊に主なく燃ゆる火の
   燈は月の光ならまし。


[やぶちゃん注:明治二六(一八九六)年十一月二十三日の作。三日後の二十六の日記に載せる。この前月、國木田獨步は先に注した大分県佐伯にあった私立鶴谷学館教頭に就任していた。日記より、歌に関わる箇所を抜き出す。
   *
木曜日二十三日の夜は月の光、夕の香をこめて僅に照りそめし頃、たまらず、家を出でぬ。弟を伴ひたり。
船頭河岸(せんどがし)に出でたり。晝間のさわがしきに似ずいと靜かなり。白馬一ツ繫ぎ居るを見たり。忽ち馬子乘りて牽て石階を下り渡船に乘らんとす。馬をそれてのらず、二三の人船と岸とに立ちて危ぶみて眺めぬ。馬よふよふ船に乘りたり。月已に川にみち居たりし也。海岸(かし)[やぶちゃん注:「海」はママ。]の石階の上に理髮所あり燈かゞやき居たり、其の前に四五人の見守り達集りて頻りに小兒を搖りつゝ唄ひ居たり。聲あはれなりき。渡船河の中流に出でし時、斜めに下流の峯より射す月の光を受けて馬白く人黑く舟危く、古色ありて、今眼前に眺め乍らも懷古の情と等しく一種の哀れを感じぬ。かゝる時人々の笑ふ聲、靜けさを破りて聞ゆるなどは却て哀れを增す者なり。
船廻りし時、吾等も乘りて渡りぬ。曩の[やぶちゃん注:「さきの」。]洪水に流されし橋の杭のこり立ちて趣きをそへぬ。
「渡」を渡れは堅田道なり。水田と河の入江とを貫きたる眞すぐの道にて家なし。此處野邊甚だ開けて山々のふもとを去るや、遠く、蒼煙はるかに地上をこめ月光白く空にみち、人なく聲なく、山默々、田の面に、くゞし火燃へ居たり。只だ獨り靜かにもへ[やぶちゃん注:ママ。]居たり煙低[やぶちゃん注:底本にここに編者により「く」の脱字を推定する割注有り。]はひて月の光これにこもりて 蒼く甚だ寂漠をたすけぬ。一首を得たり


[やぶちゃん注:「くゞし」は「くぶし」と言い、農作業で刈った草を燃やすこと及びその焚火を指す語。湿った生草のようなものを山のように積み、見た目では煙だけで燃やしているように見えることが多い。単に不要のそれを燃やすのであるから、炎や火の粉が舞い上がらぬよう、しかもこのシークエンスのように、夜、そばに人がおらずとも安全にごくゆっくりと燃えればよいのである。]


   *


として一首を掲げる。因みに歌の後には、時制がずれるから、この一首とは直接の関係はないが、


   *


昨夜友にやる書狀認め了はりし時は夜已に甚だ更けぬ、月の光のみ醒めたり。草あり、口笛なり。何處の少年ぞ、可憐なる。


   *


と書いて擱筆している。印象的なので言い添えておく。]


吹くからに柳の絲の亂るなれ、
    天の戶閉るその人もがな。


[やぶちゃん注:明治二七(一八九七)年三月十四日の作。十五日の日記に所収。それによれば、


    *


德富[やぶちゃん注:蘇峰。]氏一首の和歌、一篇の漢詩を寄せらる。曰く、
  吹く風に靡きそめたる靑柳の、
       絲の亂れをとく由もがな。
今日の政界を慷慨したるもの也。
吾返歌を作る。曰く、


    *


としてこの歌を掲げている。]


散にけり、いざ事問はん村びとよ
   花のさかりをいかに眺めし。


[やぶちゃん注:明治二七(一八九七)年三月三十一日の作であるが、翌四月一日の日記に所収する。それによれば(抹消線は底本編者のそれで復元した。太字は底本では傍点「◦」、下線は左傍線)、
   *
昨日の黑澤行を誌し置く可し。(二日朝認む)[やぶちゃん注:「黑澤」は現在の大分県佐伯市黒沢(グーグル・マップ・データ)。]
昨日は日曜日。教會の人々と共に黑澤と稱する處に櫻見物に出行きぬ。此黑澤の櫻と稱する云ふは、吾が佐伯に來りし時以茶己にしばく耳にする虛なりし也。佐伯町を去る三里半の山奧に在り。
拜禮終はりし後、同行者八人午前十時半頃出發す。歸宅したるは午後七時半なりし。
櫻花は已に散り居たり、只だ落花紛々の景を賞するを得たりしのみ。吾等それのみにても滿足したり。
櫻樹は二本あるのみ、されど何百年を經たりしとも知れざる老樹なり。なかなか世にめづらしき大木なり。立派なる庵あり、東光庵と稱す。
   散にけり、いざ事問はん村びとよ
        花のさかりをいかに眺めし。
此邊はまことに遠村なり、されど人は住み花は咲き、其處に人生あり。其處に老若男女あり、其處に吾あるなり
知りぬ、己れの吾を以て尤も大なる吾と心得、其の吾をのみ中心として齷齪[やぶちゃん注:「あくせく」。]することの極めて愚なることを。見よや、乾坤の間、人類至る處に生滅す。何れか其吾を保たざらん。希くは此の吾をして其等凡ての吾に住まはしめよ。
余は此の凡ての吾に同化するを得て天地悠々の哀感のうちに、神聖者の信仰に生き、以て他の吾達の爲めに美妙を發揮し得る文士となりて一生を幸福に送るが願のみ。
英勵風發、美妙何處にかある。[やぶちゃん注:「英勵」の右に底本では編者のママ注記がある。何の誤字か不明。]
美妙はシエクスピヤーの筆の上ぼりたる處にあり。ユーゴーの筆に上りたる方面に在り。ウオーツウオースの筆に上りたる處に在り。はた老子信仰の人生觀に在り。はたクリスト信仰の人生觀に在り。はた李白が詩の聲のうちに在り。はたシヨウペンハウエルが哲理のうちに在り。美妙は至る處に在り。大我同情の眼を以てすれば至る處に在るなり。人性の暗處も描けば美となる。社會の暗黑も寫せば美となる。自然の美勿論然り。
   *
と述べている。]


櫻花なれこそしらめ此のほかに眠りし人の花のかんばせ。


[やぶちゃん注:前と同じく明治二七(一八九七)年三月三十一日の作であるが、翌四月一日の日記に所収し、
   *
昨日、老櫻に別れて歸路につき、來ること一二丁ならずして路傍にいと古びたる墳墓四ツ五ツ並びて草のうちに立ち居たり。吾、人々を顧みて問ふて曰く此の墓と彼の老櫻といづれか老いた年を經たる。人々の曰く勿論老櫻こそと。然り。されど墓も已に其の形と云ひ其の朽碎せる樣と云ひ全然近代のものにあらず。今一首を得。
 櫻花なれこそしらめ此のほかに眠りし人の花のかんばせ。
   *
とある。]


鶯の啼なる方をふれされば
    木の間がくれに花の散るなり。


[やぶちゃん注:「ふれされば」はママ。「振りされば」(振り返ってみると)の意か。前と同じく明治二七(一八九七)年三月三十一日の作であるが、翌四月一日の日記に所収する。それによれば、
   *
黒澤にゆく路は常に溪流に伴ふて進むなり。此流れ曲折するにつれて路は或は時に其の岸に沿ひ或は之を橫る[やぶちゃん注:「よこぎる」。]、南側の山脈より分派せる山の尾にたちきられ村落各所に散在す。山櫻いたる處の谷に在り。鶯も亦た處々に啼く。農夫野に在り。のどかなる景色なり。若葉萌へ出ずる樣陽氣空にみつ。
  鶯の啼なる方をふれさけば
      木の間がくれに花の散るなり。
  櫻花なもなき山に咲き出でゝ
      ゆかしさまさる鶯の聲。
  茅の屋をみごしの山の花さきて
      春日のどかに翁眠れり。
     俗調一ツ。
  春の日に獨りぶらぶら山家を訪へば
      野邊の花まで迎へ顏。
   *
と四首を並べる。後の三首は改めて以下に掲げる。]


櫻花なもなき山に咲き出でゝ
    ゆかしさまさる鶯の聲


[やぶちゃん注:前歌注参照。]


茅の屋をみごしの山の花さきて
    春日のどかに翁眠れり。


[やぶちゃん注:前々歌注参照。なお、これは実景と見てよいが、実はこの前年の十一月に獨步は「竹取物語」を読んおり、この直近の四月三十日には詩「竹取」の改作第一章を書いているから、この一首はそれと強い親和性があると見てよいように思われる。無論、これは詩篇「かぐや姫」(明治三一(一八九八)年六月一日『反省雜誌』発表)のプロトタイプと考えられるものである。


   俗調一ツ。
春の日に獨りぶらぶら山家を訪へば
    野邊の花まで迎へ顏。


[やぶちゃん注:三首前の短歌注を参照されたい。そこに電子化したように所収する日記では前書風にある辞を添えて出した。]


世に生れ、貧しくそだち、哀れにも
        寂びしく暮す、一家なり。


[やぶちゃん注:明治二七(一八九四)年六月十三日の条に記されてあるが、これは短歌ではなく、既に『國木田獨步の日記「欺かざるの日記」及び書簡内の俳句群(一部は私は詩篇と推定する)』で示した通り、纏まったソリッドな五七調の一詩篇の部分と読む方が正しいと私は考えている。


伊豆相模、峰の白雪ふかけれど
     わがすむ庵は春雨の音


[やぶちゃん注:明治二九(一八九六)年二月二十七日の条に載る。歌の後に『春雨蕭々、閑居の思ひ長し。』と記している。短かった佐々城信子との結婚生活中の一首(結婚は前年明治二十八年十一月十一日)。この翌々月の四月十二日、教会礼拝からの帰途、信子は失踪し、同月二十四日に離婚を決した。]


わが戀の深き心は戀すてふ
  浮名も消えし苔の下かな。


[やぶちゃん注:明治二九(一八九六)年十月二十三日の条に載る。歌の後に『信子、信子、われは此の歌を愛吟して滿足するのみ』と記し、前文でも信子への未練を強く滲ませている。]


戀すてふ浮名や消えし後もなほ
   戀しきものは戀にぞありける


[やぶちゃん注:明治二九(一八九六)年十一月十九日の条に以下の三首とともに列載する。歌の前に(但し、歌群との間には罫線がある)『余が感情は再び荒れんとせり。再び昨年信子を知らざりし以前の余の感情に立ちかへらんとせり』と記している。]


朝な夕な身に沁みまさる秋風に
   さびしく獨り戀ひまさるかな


[やぶちゃん注:同前。]


花に狂ふ蝶の羽風のたよりだに
   君がことづて聞くよしもがな


[やぶちゃん注:同前。]


わぎもこの北にいませば北風の
   身に沁めかしと野邊路さまよふ


[やぶちゃん注:同前。]


 


○國木田獨步書簡所収の短歌(日記「欺かざるの記」と重出するものは除く)


[やぶちゃん注:以下は学研の「國木田獨步全集」增訂版(全十卷+別卷)の「第九卷」(昭和五三(一九七八)三月刊)の解題で、日記・書簡中の短歌・俳句が抽出再録されている中から、短歌を抜き出し、同全集の書簡(第五卷)で確認の上、電子化した。]


波風の荒き時のみ尊きかは
    まことの友は又たの吾が身ぞ


[やぶちゃん注:明治二三(一八九〇)年七月二十三日附大久保余所五郞宛(底本全集書簡番号四)より。大久保余所五郞については、『國木田獨步の日記「欺かざるの日記」及び書簡内の俳句群(一部は私は詩篇と推定する)』の注で既注。]


君を待つほの夕なぎに
  やくやもしほの身をこがしつゝ


[やぶちゃん注:明治二四(一八九一)年五月二十八日附水谷眞熊宛より(底本全集書簡番号補一一)。書簡では歌は丸括弧で括られてあるが、除去した。水谷眞熊(明治三(一八七〇)年~大正一四(一九二五)年)は熊本出身の友人。東京専門学校邦語政治科卒で、在学中、国木田独歩らと親交を結び、『靑年文學』同人となる。一時は雑誌編集の中心であった。後、郷里にて農政・社会事業に尽くした(ここは日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠った)。]


大言を吐て今年も過ぎたれど
   心細きは年の暮かな


[やぶちゃん注:明治二五(一八九二)年『正月元日』附大久保余所五郞宛より(底本全集書簡番号一五)。歌の前に一字下げで、『僕歲暮の感てふ一狂歌あり大兄の下に年玉として進呈致す事也曰く』と記す。]


 ○君に告ぐ
死して後やまん心のますらほのちかひしことの末を見よ君


[やぶちゃん注:明治二五(一八九二)年六月二十五日附河手忠宛より(底本全集書簡番号一九)。以下の三首と列挙する。歌にはそれぞれ前後に鍵括弧が附されてあるが、除去した。河手は山口での旧友と思われる。]


 ○獨り昂然として
うてばちる葉末の露の玉となるも瓦となりて何にながらへん君


[やぶちゃん注:同前。]


 ○出立の際
立てば行く行けば倒れんそれ迄ではいくるも死ぬも神のまにまに


[やぶちゃん注:同前。これより前の書簡内容からは、若き日、山口から上京した折りを追懐しての吟と推定される。]


 ○客舍の暮雨旅魂將に寂漠たるの際忽ち亡友古川兄を思ふて
友は逝きのこりし吾の此の命せめては國のためにさゝげん


[やぶちゃん注:同前。]


富士の山、いつの世にか崩れなん、
 雲の峰たへはせじ、


[やぶちゃん注:明治二六(一八九三)年七月六日附大久保余所五郞宛より(底本全集書簡番号三二)。前で『君が夏雲、富岳に秀づるを見ての秀咏に對へて』として、次の一首と併置する。]


雲の峰いつの世にかたへはてん
 美の心つきはせじ


[やぶちゃん注:同前。二首の後に『以上は歌なり之れにつぎて以下は文章なり。』/『かるが故につきせぬ心は美の心、吾が心は則ち美の心、之れを以て富岳大と雖も雲峰偉なりと雖も吾が方寸の中に在り』と記している。]


關留る柵ぞなき泪川
いかにながるゝ浮身
       なるらん


[やぶちゃん注:明治二六(一八九三)年七月二十五日附大久保余所五郞宛書簡(底本全集書簡番号三二)の末尾クレジット・署名前に配す。本書簡には既に出した「わが宿は星滿つ夜(よる)の琵琶湖かな」の俳句も前の方に記している。老婆心乍ら、上句は「せきとむるしがらみぞなきなみだがは」と読む。]


大神の御心われは知らねども
  日の本の民救はざらめや


[やぶちゃん注:明治二七(一八九四)年二月二十四日附田村三治宛書簡より(底本全集書簡番号六二)。書簡末尾(追伸位置)にあり、前には、
   *
人眠之時吾醒ナリ
夢漠々時、淚潛々
  *
という和漢文が記されて一行空けて短歌を記している。「潛々」は音で「センセン」か。訓じるなら「さめざめ」である。田村三治は「頭巾二つ 於千代田艦 國木田獨步」で既注。]


春くれバ草木をのづと萌へいづるに
何とて民の枯れまさるらん


[やぶちゃん注:「をのづと」はママ。明治二七(一八九四)年三月十日附大久保余所五郞宛書簡より(底本全集書簡番号六四)。後に『此失望的の口調あれども慷慨の餘りのみ 草々』と擱筆している。]


木の葉ちり秋も暮にしかた岡の
 さびしき杜に冬は來にけり


[やぶちゃん注:明治二七(一八九四)年九月二十七日附大久保余所五郞宛書簡より(底本全集書簡番号七九)。末尾追伸位置に次の歌と併置してある。次注も参照のこと。]


昔思ふ秋のねさめの床の上に
 ほのかにかよふ峯の秋風


[やぶちゃん注:同前。前の歌との間に『の時節には少しく間もある事ながら』と挟む。]

2019/03/26

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(41) 「虬は水神」(2) / 「河童駒引」~了

《原文》
「ミンツチ」ハ日本語ノ「ミヅチ」ト關係アルべキコト、「アイヌ」ノ音韻轉訛ノ法則ヨリ見テ露ホドモ疑ナシト、金田一君ハ言ハレタリ。奧州ノ「メドチ」ハ固ヨリナリ。加賀能登ノ「ミヅシ」ニ至リテモ、之ヲ「ミヅチ」ノ轉訛ト考フルノ外別ニ一案ノ存スル無シ。「ミヅチ」ハ我邦ニ於テハ古クヨリ之ヲ漢字ノ虬又ハ蛟ニ宛テタレドモ、單ニ其語原ヨリ見レバ未ダ之ヲ蛇類ニ屬スべキ理由ヲ知ラズ。本居氏ノ說ニハ、「ミヅチ」ノ「ミ」ハ十二支ノ巳又ハ「オカミ」、「へミ」、「ハミ」ナドノ「ミ」ニ同ジク、モト龍蛇ノ類ノ總稱ナリ。「ツ」ハ之ニ通フ辭ニシテ「チ」ハ尊稱ナリ。野槌ナドノ例ニ同ジトアレド、自分ハ其野槌ノ例ヨリ推シテ之ヲ水槌ノ義ナランカト思ヘリ。【足摩乳】【手摩乳】「ツチ」ノ靈物ヲ意味スルラシキ旁例ハ、出雲ノ國津神足摩乳(アシナツチ)手摩乳(テナツチ)アリ。【打出小槌】打出小槌ヲ如意ノ寶トスルコト、奧州ノ「イタコ」等ガ槌ノ子ニ由リテ巫術ヲ妨ゲラレシ話〔佐々木繁氏談〕、サテハ大地ヲ「ツチ」ト云フナドヲ思合セテ、此ノ如ク考フルナリ。歷代ノ文人タチ、其漢學ノ知識ヲ以テ頻リニ虬ノ字蛟ノ字ヲ以テ「ミヅチ」ニ宛テヽ止マザリシモ、水邊ニ住スル平民ハ一向之ニ頓著セズ、何カ有リ得べキ怪物ニ托シテ各自ノ水ノ神ヲ想像セシハ寧ロ正直ナリト云フべク、彼等ハ父祖十數代一タビモ遭遇セザル四脚ノ蛇ナドヲ、村ノ水中ニ養フコト能ハザリシナリ。而モ又否定スべカラザル一事ハ、每年夏月ニ入ルニ及ビ、小兒婦女牛馬ノ類往々ニシテ淵ニ入リテ死シ、恰モ物アリテ其獲物ヲ求ムルガ如クナリシヨリ、「ミヅチ」ノ恐怖ハ久シキヲ經テ愈深ク、神トシテ之ニ仕ヘ其意ヲ迎フルニ非ザレバ其災ヲ免ルヽ能ハズト信ズルニ至リシナリ。其時一人ノ英雄アリ、乃至ハ道力優レタル行者ノ村ヲ訪フ者アリ。法(カタ)ノ如ク出現シ來リ法ノ如ク兇神ヲ退治シ去ル。【傳說ノ發明】是レ卽チ我々ガ所謂傳說ノ東雲ナリ。傳說ハ恰モ春ノ野ノ陽炎ノ如シ。能ク我等ガ望ム所ニ向ヒテ發展ス。唯夫レ陽炎ノ如クナルガ故ニ、從前ノ信仰ハ少ナクモ其形式ノ上ニ於テハ此ガ爲ニ一朝ノ變革ヲ受クルコト無ク、永ク其痕跡ヲ故土ニ留ムルナリ。天然ノ神々ガ人間ノ便宜ニ抵抗スル能ハズシテ徐ロニ其威力ヲ收メ、終ニハ腑甲斐無キ魑魅魍魎ノ分際ニ退却スルコトハ何レノ民族ニ於テモ常ニ然リ。而モ彼等ガ既ニ其結界ヲ明渡シ其犧牲ヲ思切リテ後モ、責メテハ型バカリノ昔ノ祭ヲ要求シ、且ツハ氣味惡キ儀式ヲ繰返シテ畏怖ノ記念ヲ新ナラシメ、且ツハ之ニ由リテ敗北ノ失望ヲ慰メラレントスルモノ往々ニシテコレ有リ。【センゾク】【駒繫松】サレバ彼ノ馬ヲ水邊ノ杙ニ繫ギテ河童ノ祭ト稱スル土佐ノ例ノ如キモ、恐クハ又「ミヅチ」ニ對スル最少限度ノ養老金ノ類ニシテ、更ニ多クノ洗足池馬洗淵ノ地名ハ、由來不明ナル各地ノ駒繫松ナドト共ニ、年々馬ヲ水ノ神ニ供ヘタル上古ノ儀式ヲ、イツト無ク農民ノ好都合ニ解釋シテ、之ヲ以テ其馬ノ災害ヲ除却スル一手段ト見ルニ至リシモノ、久シキヲ經テ再ビ其理由ヲ忘ルヽニ至リシナルべシ。【雨乞】牛馬ノ首ヲ水ノ神ニ捧グル風ハ、雨乞ノ祈禱トシテハ永ク存シタリキ。朝鮮扶余縣ノ白馬江ニハ釣龍臺ト云フ大岩アリ。唐ノ蘇定方百濟ニ攻入リシ時、此河ヲ渡ラントシテ風雨ニアヒ、仍テ白馬ヲ餌トシテ龍ヲ一匹釣上ゲタリト云フ話ヲ傳ヘタリ〔東國輿地勝覽十八〕。白キ馬ハ神ノ最モ好ム物ナリシコト、舊日本ニ於テモ多クノ例アリ。 


《訓読》
『「ミンツチ」は日本語の「ミヅチ」と關係あるべきこと、「アイヌ」の音韻轉訛の法則より見て、露(つゆ)ほども疑ひなし』と、金田一君は言はれたり。奧州の「メドチ」は固(もと)よりなり。加賀・能登の「ミヅシ」に至りても、之れを「ミヅチ」の轉訛と考ふるの外、別に一案の存する無し。「ミヅチ」は我が邦に於ては、古くより之れを漢字の「虬」又は「蛟」に宛てたれども、單に其の語原より見れば、未だ之れを蛇類に屬すべき理由を知らず。本居氏の說には、「ミヅチ」の「ミ」は十二支の巳(み)、又は「オカミ」・「へミ」・「ハミ」などの「ミ」に同じく、もと、龍蛇の類の總稱なり。「ツ」は之れに通(かよ)ふ辭(じ)にして「チ」は尊稱なり。「野槌(のづち)」などの例に同じ、とあれど、自分は其の「野槌」の例より推して、之れを「水槌(みづづち)」の義ならんかと思へり。【足摩乳(あしなつち)】【手摩乳(てなつち)】「ツチ」の靈物(れいぶつ)を意味するらしき旁例(ばうれい)は、出雲の國津神(くにつかみ)足摩乳(あしなつち)手摩乳(てなつち)あり。【打出小槌(うちでのこづち)】打出小槌を如意(によい)の寶(たから)とすること、奧州の「イタコ」等が「槌(つち)の子(こ)」に由りて、巫術(ふじゆつ)を妨げられし話〔佐々木繁氏談〕、さては、大地を「ツチ」と云ふなどを思ひ合はせて、此(かく)のごとく考ふるなり。歷代の文人たち、其の漢學の知識を以つて、頻りに「虬」の字、「蛟」の字を以つて「ミヅチ」に宛てゝ止まざりしも、水邊に住する平民は、一向、之れに頓著(とんちやく)せず、何か有り得べき怪物に托して、各自の水の神を想像せしは、寧ろ、正直なりと云ふべく、彼等は父祖十數代一たびも遭遇せざる四脚の蛇などを、村の水中に養ふこと、能はざりしなり。而も又、否定すべからざる一事は、每年、夏月に入るに及び、小兒婦女・牛馬の類ひ、往々にして、淵に入りて死し、恰(あたか)も物ありて其の獲物を求むるがごとくなりしより、「ミヅチ」の恐怖は久しきを經て愈々(いよいよ)深く、神として之に仕へ、其の意を迎ふるに非ざれば、其の災ひを免るゝ能はず、と信ずるに至りしなり。其の時、一人の英雄あり、乃至(ないし)は道力(だうりき)優れたる行者の村を訪ふ者あり。法(かた)のごとく出現し來たり、法のごしく兇神を退治し去る。【傳說の發明】是れ卽ち、我々が所謂、「傳說の東雲(しののめ)」なり。傳說は、恰も春の野の陽炎(かげらふ)のごとし。能く我等が望む所に向ひて發展ス。唯だ、夫れ、陽炎のごとくなるが故に、從前の信仰は、少なくも其の形式の上に於ては、此れが爲に一朝の變革を受くること無く、永く其の痕跡を故土に留むるなり。天然の神々が人間の便宜に抵抗する能はずして、徐(おもむ)ろに其の威力を收め、終(つひ)には腑甲斐無き魑魅魍魎の分際に退却することは、何れの民族に於ても常に然り。而も彼等が既に其の結界を明け渡し、其の犧牲を思ひ切りて後も、責めては型ばかりの昔の祭りを要求し、且つは、氣味惡き儀式を繰り返して、畏怖の記念を新たならしめ、且つは、之れに由りて敗北の失望を慰められんとするもの、往々にして、これ、有り。【せんぞく】【駒繫松(こまつなぎまつ)】されば彼の馬を水邊の杙(くひ)に繫ぎて河童の祭りと稱する土佐の例のごときも、恐らくは又、「ミヅチ」に對する最少限度の養老金の類ひにして、更に多くの、「洗足池」「馬洗淵」の地名は、由來不明なる各地の「駒繫松」などと共に、年々、馬を水の神に供へたる上古の儀式を、いつと無く、農民の好都合に解釋して、之れを以つて其の馬の災害を除却(じよきやく)する一手段と見るに至りしもの、久しきを經て、再び其の理由を忘るゝに至りしなるべし。【雨乞(あまごひ)】牛馬の首(かふべ)を水の神に捧ぐる風は、雨乞ひの祈禱としては永く存したりき。朝鮮扶余縣(ふよけん)の白馬江(はくばこう)には釣龍臺(てうりようだい)と云ふ大岩あり。唐の蘇定方(そていはう)、百濟(くだら)に攻め入りし時、此の河を渡らんとして、風雨にあひ、仍(よつ)て、白馬を餌として、龍を一匹、釣り上げたりと云ふ話を傳へたり〔「東國輿地勝覽(とうごくよちしやうらん)」十八〕。白き馬は神の最も好む物なりしこと、舊日本に於いても、多くの例あり。


[やぶちゃん注:これを以って「山島民譚集」の「河童駒引」は終わっている。私は正直、「河童駒引」がこれでエンディングというのは、かなり消化不良を起こすものではある。まあ、そのお蔭で石田英一郎氏の名著「河童駒引考」(昭和二三(一九四八)年筑摩書房刊)が書かれたのであってみれば、よしとしよう。
「本居」本居宣長。
「オカミ」「龗」(音「レイ・リョウ」)で日本神話の神「淤加美神(おかみのかみ)」。「古事記」にも言及される、罔象女神(みづはのめのかみ)とともに水神とされる。ウィキの「淤加美神」によれば、『神産みにおいて伊邪那岐神が迦具土神を斬り殺した際に生まれたとしている』。「古事記及び「日本書紀」の『一書では、剣の柄に溜つた血から闇御津羽神(くらみつはのかみ)とともに闇龗神(くらおかみのかみ)が生まれ』たとし、「日本書紀」の『一書では』、『迦具土神を斬って生じた三柱の神のうちの一柱が高龗神(たかおかみのかみ)であるとしている』。『高龗神は貴船神社(京都市)の祭神である』。「古事記」では、『淤迦美神の娘に日河比売(ひかはひめ)がおり、須佐之男命の孫の布波能母遅久奴須奴神(ふはのもぢくぬすぬのかみ)と日河比売との間に深淵之水夜礼花神(ふかふちのみづやれはなのかみ)が生まれ、この神の』三『世孫が大国主神であるとしている。 また、大国主の』四『世孫の甕主日子神』(みかぬしひこのかみ)『は淤加美神の娘比那良志毘売』(ひならしびめ)『を娶り、多比理岐志麻流美神』(たひりきしまるみのかみ)『をもうけている』。漢字の「龗」は「龍」の古字であり、「神」「善」の意もある。
「野槌(のづち)」、本邦の妖怪。ウィキの「野槌」によれば、「野つ霊」「野椎」とも。「野の精霊」(「野つ霊(ち)」)の意『であるとも言われる』。『外見は蛇のようだが、胴は太く、頭部に口がある以外は目も鼻もなく、ちょうど柄のない槌(つち)のような形をしている』。『深山に棲み』、『子ウサギやリスを食べる』が、『時には人を喰うとされた』。『近畿地方・中部地方・北陸地方・四国地方を中心に伝承されているもので』、『シカを一飲みにする』、『転がってくる野槌に当たると死ぬ』、『野槌に見つけられただけでも病気を患ったり、高熱を発して死ぬともいう』。『昭和中期から未確認生物として知名度をたかめたツチノコは、野槌に用いられていた呼称のひとつ(槌の子・土の子)だったが、昭和』四十『年代以降』(一九六五年以降)『はマスメディアなどで多用された結果、野槌のような伝承上の特徴をもつ蛇の呼称も「ツチノコ」が定着していった』。寺島良安の「和漢三才図会」では、『大和国(現・奈良県)吉野山中の菜摘川(夏実川)や清明滝(蜻螟滝)でよく見かけるもので、野槌の名は槌に似ていることが由来とある。深山の木の穴に住み、大きいものでは体長』三『尺(約』九十『センチメートル)、直径』五『寸(約』十五『センチメートル)、人を見ると』、『坂を転がり下って』、『人の足に噛みつくが、坂を登るのは遅いので、出くわしたときには高いところへ逃げると良いという』とある。同原文・訓読と私の注は「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」の「野槌蛇(のづち)」を見られたい。『仏教説話の中にも「野槌」という名は見られ、鎌倉時代の仏教説話集』「沙石集」『には、徳のない僧侶は深山に住む槌型の蛇に生まれ変わるとされている。生前に口だけが達者で智慧の眼も信の手も戒めの足もなかったため、野槌は口だけがあって目や手足のない姿だとある』。『鳥山石燕は』「今昔画図続百鬼」で『全身毛だらけの野槌がウサギを食べる様子を描いているが、解説文でその形状を』「沙石集」を『引いて「目も鼻もなき物也といへり」と述べている』。「古事記」「日本書紀」に『登場している草の女神』『カヤノヒメの別名に野椎神(ノヅチノカミ)があり、「のづち」という言葉そのものは、草や野の精であるという解釈がとられている』。『鳥山石燕が野槌の解説文に「草木の精をいふ」』『とも述べているが、これはそれを受けたものである。記紀神話にはカヤノヒメを蛇とする記述は見られないものの、夫のオオヤマツミを蛇体とする説があることからカヤノヒメも蛇体の神だと考えられている』。『仏教が普及すると、カヤノヒメが霧の神、暗闇の神、惑わしの神を産んだとされることから、野槌は妖怪変化を産む神とみなされ、野槌自体も次第に妖怪視された』。『近代以前の辞書などではさまざまな虫について「のづち」と称している例も見ることも出来る。平安時代の漢和辞典』「新撰字鏡」では、『蝮(フク。マムシの漢字)に「乃豆知」』、『蠍(カツ。サソリの漢字)に「乃豆知」』『という訓読みを示している。江戸時代に編纂された源伴存』の「古名録」でも、『蝮の項目に』「新撰字鏡」等を引きつつ、『「乃豆知」「乃川知」という呼び方を示している他、「古書ノヅチト云ハ蚖(クソヘビ)ニノ長サ四五寸、首尾一般ノハビ也」としている』。『また、室町時代に編纂された』国語辞書「節用集」では、『「蝍蛆」(ムカデ、またはコオロギの事)に「ノヅチ」と読み仮名を当てたものもある』とある。『江戸時代の黄表紙』「妖怪仕内評判記(ばけものしうちひょうばんき)」にも『野槌が登場するが、こちらは』「のっぺらぼう」の如く、『目鼻のない人型の化け物で、頭の上の大きな口で物を食べる姿として描かれている』。この容貌は江戸初期の怪談集「奇異雑談集」の『「人の面に目鼻なくして口頂の上にありてものをくふ事」に描かれている、目鼻がなく口のみある「不思議の人」の図像を借用したもので、口のみ』を『器官として』持つ『とされる野槌にあわせて取られたものであると見られ』ている、とある。
「足摩乳(あしなつち)」「手摩乳(てなつち)」前者(「足」は「脚」とも、「なつち」は「名椎」とも書く)は「古事記」「日本書紀」に見える男神で後者はその妻。出雲の斐伊川の川上に住む老夫婦として登場し、二人の娘の奇稲田姫(くしなだひめ)が八岐大蛇(やまたのおろち)に食われるところを素戔嗚尊に救われ、新たに造営された宮の管理に当たるとともに、稲田宮主神(いなだみやぬしのかみ)の名を与えられる。記紀神話全体から見ると、天から降った神と初めて対面した国神となる。記紀の神界は、天上の神と地上の神に大別されており、また神話における「初め」には、その「典型」を示す働きがあるので、この神が素戔嗚に服従の態度をとったことは、天上の神が国神に対し、優勢であるのが基本的な在り方であるという構造を示そうとしているとも言う(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。
「旁例(ばうれい)」「傍例」に同じ。一般に見られる例のこと。
「如意(によい)」思うがままのことが成就するの意。
『奧州の「イタコ」等が「槌(つち)の子(こ)」に由りて、巫術(ふじゆつ)を妨げられし』不詳。
「責めては」せめても。
「除却(じよきやく)」取り除くこと。
「朝鮮扶余縣(ふよけん)」現在の大韓民国忠清南道扶余郡(グーグル・マップ・データ)。「白馬江(はくばこう)」は東北から南西に貫通している川の部分名であろう。「釣龍臺(てうりようだい)」の位置はハングルなので判らない。この伝承はサイト「龍学」の「白馬江と釣龍台」に詳しい。
「蘇定方(そていはう)」(五九二年~六六七年)は、初唐の軍人。名は烈、定方は字(あざな)。ウィキの「蘇定方」によれば、十五歳で『父の下で従軍し、しばしば先頭に立って敵陣を陥落させた』。『唐の貞観初年』(六二七年)、『匡道府折衝となり、李靖の下で二百騎を率いて突厥を攻撃する先鋒をつとめ、霧の中で牙帳を襲撃した。突厥の頡利可汗』(けつりかがん)『は狼狽して逃亡し、李靖がまもなく到着すると、取り残された突厥の一党はことごとく降伏した。凱旋すると、定方は左武候中郎将に任ぜられた。永徽』(えいき)『年間』(六五〇年~六五五年)『に左衛勲一府中郎将に転じた。程名振とともに高句麗を攻撃(唐の高句麗出兵)して、これを破った。右屯衛将軍に任ぜられ、臨清県公に封ぜられた』。その後も、異民族の制圧に功あって、彼の活躍によって、『唐の勢力圏は中央アジア』はもとより、『パミール高原より西の地方も唐の勢力圏に入った』。六六〇年、『熊津道(ようしんどう)大総管となり、軍を率いて百済の征討にあたった。城山から海をわたって熊津口に上陸』、『沿岸の百済軍を撃破して真都城に進軍すると、百済の主力と決戦して勝利をおさめ』、『百済王義慈や太子の隆は北方に逃走した。定方が泗沘』(しび)『城を包囲すると、義慈の子の泰が自立して王を称した。泰は抗戦を続けようとしたが、義慈は開門して降伏することを決意して、泰はこれを止めることができなかった。百済の将軍の禰植と義慈は唐軍に降り、泰も捕らえられ、ここに百済は平定された。百済王義慈や隆・泰らは東都洛陽に送られた』とあり、この中のワン・シークエンスが、以上の白馬江釣龍台での出来事なのである。『定方は三カ国を滅ぼし、いずれもその王を捕らえたため、賞与の珍宝は数えきれず、子の蘇慶節は尚輦奉御の位を加えられた。まもなく』、『定方は遼東道行軍大総管となり、また平壌道行軍大総管に転じた。高句麗の軍を浿江で破り、馬邑山の敵営を落とし、平壌を包囲した。大雪に遭って、包囲を解いて帰還した。涼州安集大使に任ぜられて、吐蕃や吐谷渾とも戦った』。七十六歳で『死去すると、高宗はかれの死をいたんで、左驍衛大将軍・幽州都督の位を追贈した』とあり、生涯、根っからの軍人であり続けた武人であることが判り、龍も釣るだろうという気がしてくる壮士である。

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(40) 「虬は水神」(1)

《原文》
虬ハ水神 河童ヲ猿ニ似タル物ト云フ說ノ、牛馬ノ保護ヲ祈禱スル信仰ニ出デタルコトハ、以上ノ解釋ニテ先ヅ明ラカニナリタリトシテ置クべシ。唯此ダケニテ濟マヌト感ゼラルヽハ、龜ダ川獺ダト主張スル他ノ地方ノ異說ナリ。更ニ退キテ考フルニ、猿ヲ水中ノ物トシタル理由モ單ニ竃ト馬トノ關係ヲ言フノミニテハ些シク不十分ナリ。故ニ今暫ク此問題ニ足ヲ駐ムルノ必要アラン。サテ河童ノ一名ヲ加賀又ハ能登ニテ「ミヅシ」ト呼ブコトハ前ニ唯一言セリ。能登ニテハ胡瓜ヲ食ヒテ水泳ギニ行ケバ「ミヅシ」ニ取ラルト云フ。【河童ノ藥】羽咋(ハクヒ)郡堀松村大字末吉ノ川ノ邊ニ、淵端某ト云フ疳ノ藥ヲ賣ル舊家アリ。其家ノ先祖或日門前ノ川ニテ馬ヲ洗ヒ居タルニ、「ミヅシ」來タリテ馬ノ脚ヲ纏ヒ陸ニ引揚ゲラル。捕ヘテ之ヲ殺サントスル時助命ヲ切ニ求メ、其禮トシテ疳ノ藥ノ製法ヲ教ヘタリト云フ。此藥今ハ遠ク北海道ニ迄モ販路ヲ有セリ〔鄕土硏究一ノ四號〕。コノ「ミヅシ」ハ南部地方ノ「メドチ」ト同ジキコト疑ナシ。南部ノ八戶邊ニテハ、川ニ泳ギテ「メドチ」ニ取ラレタリト云フ話、今モ每夏絕エズアリ〔石田收藏氏談〕。然ルニ蝦夷ノ土人ノ中ニテモ、河童ヲ「ミンツチ」ト呼ビ來レリ。【芥子坊主】金田一京助氏ノ話ニ、バチェラア氏ノ語彙ヲ見レバ、「ミンツチ」ハ單ニ湖又ハ川ニ棲ム半人半獸ノ靈物トノミアレドモ、「アイヌ」ガ之ニ就キテ語ルヲ聞ケバ、全ク奧州ノ河童ト同ジク、三尺バカリノ芥子坊主ニテ其オ芥子ヲ煙管デデモ打テバスグ死ヌ者ダナドト云フ。彼等ガ傳承ニ從ヘバ、「ミンツチ」ハ元ハ草人形(チシナプカムイ)[やぶちゃん注:これはルビではなく、本文。]ナリ。【疱瘡神】昔「オキクルミ」天降リテ人間世界ヲ支配セシ時代ニ、沖ヨリ疱瘡神渡リ來リ數多ノ「アイヌ」其爲ニ命ヲ殞ス。「オキクルミ」ハ乃チ六十一ノ草人形ヲ造リテ其疱瘡神ト戰ヒ之ヲ逐ヒ退ケシム。其折討死シタル草人形、化シテ「ミソツチ」ト成ル。【蓬】草人形ハ蓬ヲ十字ニ結ビテ人ノ形トシ、橫ノ一本ハ卽チ左右ノ手ナルガ故ニ、今モ「ミンツチ」ハ片手ヲ拔ケバ兩手トモ拔ケルナリト稱ス。又紫雲古津(シウンコツ)ノ「アイヌ」ノ中ニハ又「ミンツチ」ガ人ノ家ノ好キ娘ニ聟入シタル物語アリ。「アイヌ」語ニテハ又「シリシヤマイヌ」ト呼ビ、海川ノ漁獵ヲ掌ル神ナリト云ヘリ〔鄕土硏究一ノ十二號〕。【河童ノ腕】此記事ノ中ニテ殊ニ注意スべキハ亦例ノ河童ノ腕ノ話ナリ。内地ニテモ之ニ似タルコトヲ云フ。例ヘバ強力ナル武士河童ヲ捕ヘ其腕ヲ引拔キシニ、後ニテ見レバソハ唯一本ノ藁稈(ワラシベ)ナリト云ヒ〔日本傳說集〕、又ハ河童ト相撲ヲ取リテ甚シク取リニクキハ、其兩手ガ一本ニテ左右ニ貫キ伸縮自在ナルガ爲ナリト云フガ如キ是ナリ。豐前耶馬溪宮園村ノ庄屋次右衞門曰ク、河童ヲ捕ヘシ者ノ話ニ、其肩ノ骨一本ニシテ左右ニ通リ、譬ヘバ手拭掛ノ臺ニ手拭ヲカケタルヤウニアリシ云々〔水虎錄話〕。此等ノ話ノ奧羽ニ存セズシテ遙カニ九州ニ飛離レテアルハ殊ニ奇ト云フべシ。【手長猿】中國ニテモ「エンコザル」トハ手長猿ノコトニテ、此猿ノ左右ノ手ハ貫通シテ一本ナルガ故ニ、梢ヨリブラ下リテ水中ノ月ヲ探ルニ便ナリナド、老人ノ語リ聞カセシコトアルヲ記憶ス。而モ其由來ニ至ツテハ獨リ「アイヌ」ノミ之ヲ説明シ得テ、我々ハ未ダ之ヲ尋ネントモセザリシナリ。 


《訓読》
虬(みづち)は水神 河童を猿に似たる物と云ふ說の、牛馬の保護を祈禱する信仰に出でたることは、以上の解釋にて、先づ、明らかになりたりとして置くべし。唯だ、此れだけにて濟まぬと感ぜらるゝは、「龜だ」「川獺(かはをそ)だ」と主張する他の地方の異說なり。更に退(しりぞ)きて考ふるに、猿を水中の物としたる理由も單に竃(かまど)と馬との關係を言ふのみにては、些(すこ)しく不十分なり。故に今暫く此の問題に足を駐(とど)むるの必要あらん。さて、河童の一名を加賀又は能登にて「ミヅシ」と呼ぶことは前に唯だ一言せり。能登にては胡瓜を食ひて水泳ぎに行けば「ミヅシ」に取らると云ふ。【河童の藥】羽咋(はくひ)郡堀松村大字末吉の川の邊(ほとり)に、淵端(ふちはた)某と云ふ「疳(かん)の藥」を賣る舊家あり。其の家の先祖、或る日、門前の川にて馬を洗ひ居たるに、「ミヅシ」來たりて馬の脚を纏(まと)ひ、陸に引き揚げらる。捕へて、之れを殺さんとする時、助命を切に求め、其の禮として「疳の藥」の製法を教へたりと云ふ。此の藥、今は、遠く北海道にまでも販路を有せり〔『鄕土硏究』一ノ四號〕。この「ミヅシ」は南部地方の「メドチ」と同じきこと、疑ひなし。南部の八戶邊にては、川に泳ぎて「メドチ」に取られたりと云ふ話、今も每夏、絕えずあり〔石田收藏氏談〕。然るに、蝦夷(えぞ)の土人の中にても、河童を「ミンツチ」と呼び來たれり。【芥子坊主(けしばうず)】金田一京助氏の話に、バチェラア氏の語彙を見れば、「ミンツチ」は單に、「湖又は川に棲む半人半獸の靈物」とのみあれども、「アイヌ」が之れに就きて語るを聞けば、全く奧州の河童と同じく、三尺ばかりの芥子坊主にて、其の「お芥子」を煙管(きせる)ででも打てば、すぐ死ぬ者だ、などと云ふ。彼等が傳承に從へば、「ミンツチ」は元は草人形(チシナプカムイ)[やぶちゃん注:これはルビではなく、本文。]なり。【疱瘡神】昔「オキクルミ」、天降(あまくだ)りて人間世界を支配せし時代に、沖より、疱瘡神、渡り來たり、數多(あまた)の「アイヌ」、其の爲に命を殞(おと)す。「オキクルミ」は、乃(すなは)ち、六十一の草人形を造りて、其の疱瘡神と戰ひ、之れを逐(お)ひ退(の)けしむ。其の折り、討死(うちじに)したる草人形、化して「ミソツチ」と成る。【蓬(よもぎ)】草人形は、蓬を十字に結びて、人の形とし、橫の一本は、卽と、左右の手なるが故に、今も「ミンツチ」は、片手を拔けば、兩手とも拔けるなりと稱す。又、紫雲古津(しうんこつ)の「アイヌ」の中には又、「ミンツチ」が人の家の好(よ)き娘に聟入りしたる物語あり。「アイヌ」語にては又「シリシヤマイヌ」と呼び、海川の漁獵を掌る神なりと云へり〔『鄕土硏究』一ノ十二號〕。【河童の腕】此の記事の中にて、殊に注意すべきは、亦、例の河童の腕の話なり。内地にても之れに似たることを云ふ。例へば、強力なる武士、河童を捕へ、其の腕を引き拔きしに、後にて見れば、そは、唯だ一本の藁稈(わらしべ)なりと云ひ〔「日本傳說集」〕、又は、河童と相撲を取りて甚しく取りにくきは、其の兩手が一本にて、左右に貫き、伸縮自在なるが爲なり、と云ふがごとき、是れなり。豐前耶馬溪(やばけい)宮園村の庄屋次右衞門曰はく、「河童を捕へし者の話に、其の肩の骨、一本にして左右に通り、譬へば、手拭掛(てぬぐひか)けの臺(だい)に手拭をかけたるやうにありし」云々〔「水虎錄話」〕。此等の話の奧羽に存せずして、遙かに九州に飛び離れてあるは、殊に奇と云ふべし。【手長猿】中國にても「エンコザル」とは「手長猿」のことにて、此の猿の左右の手は貫通して一本なるが故に、梢よりぶら下りて水中の月を探(さぐ)るに便(びん)なりなど、老人の語り聞かせしことあるを記憶す。而も、其の由來に至つては、獨り「アイヌ」のみ之れを説明し得て、我々は、未だ之れを尋ねんともせざりしなり。


[やぶちゃん注:「川獺(かはをそ)」既出(但し、初回は「川獺」の表記)既注
「羽咋(はくひ)郡堀松村大字末吉の川の邊(ほとり)に、淵端(ふちはた)某と云ふ「疳(かん)の藥」を賣る舊家あり」現在の石川県羽咋郡志賀町(しかまち)末吉(グーグル・マップ・データ。以下同じ)はここで、さらに調べてみたところが、何と! 現在も薬草販売店「淵端本家薬店(ふちはたほんけやくてん)」として営業しておられる!
「疳」乳幼児の複数の異常行動を指す俗称。特に夜泣き・疳癪・ひきつけなどを指す。
『南部地方の「メドチ」』既出既注。そこでもリンクさせたが、私の「谷の響 五の卷 七 メトチ」も見られたい。
『蝦夷(えぞ)の土人の中にても、河童を「ミンツチ」と呼び來たれり』既出既注
「芥子坊主(けしばうず)」供の頭髪で、頭頂だけ毛を残し、廻りを全部剃ったもの。外皮そのままの球形のケシの果実に似ているところから、かく称する。
「金田一京助」(明治一五(一八八二)年~昭和四六(一九七一)年)は言語学者・民俗学者。日本のアイヌ語研究の本格的創始者として知られる。しかし、東京帝国大学教授・國學院大學名誉教授であったものの、かつて國學院大學のある教授が講義で、『金田一先生のの業績は石川啄木を経済援助したことと、ただ「ユーカラ」の研究一本のみだ』とのたもうたのを思い出す。一本で十分じゃないか。毒にも薬にもならないような論文を積み上げるよりは。
「バチェラア氏の語彙」イギリス人の聖公会宣教師ジョン・バチェラー(John Batchelor 一八五四年~一九四四年)は同時にアイヌの研究家で「アイヌの父」と呼ばれた人物。ウィキの「ジョン・バチェラー」によれば、『サセックス州アクフィールドに生まれる。最初園丁として働いていたが、インド宣教をしていた宣教師の説教を通して、東洋伝道の志を持つ。イギリス教会宣教会(CMS)に入会し』、一八七六年に『香港のセント・ポール学院に入学した』。『香港で学んでいる時』、『健康を害し』、翌年の明治一〇(一八七七)年、『静養のために函館に来た。函館で伝道している中で、アイヌ民族のことを知り、アイヌ伝道を志』した。二年後の明治十二年、『バチェラーは』『CMSの信徒伝道者に任命され、函館を拠点にアイヌへの伝道活動を始め』た。同年、『アイヌの中心地の一つである日高地方の平取』(びらとり)『を訪問した。ここでアイヌの長老ペンリウクの家に』三『ヶ月滞在して、アイヌ語を学んだ』。明治十五年には『イギリスに一時帰国し』たが、よく明治十六年に『再び函館に帰任した』。明治十七年、『ルイザ・アンザレスと結婚』、翌年、『幌別村(現在の登別市)を訪れ、アイヌへキリスト教教育のほか、アイヌ語教育をはじめる』。明治二一(一八八八)年、『金成太郎を校主としてキリスト教教育を行なうアイヌ学校設立構想の下、金成喜蔵が息子の太郎をアイヌに教育を行うアイヌ教師とするために私塾の相愛学校を設立』し、また明治二十五年には、『アイヌが無料で施療できるように、アイヌ施療病室を開設』している。明治二十四年の元日、『バチェラーは、伊藤一隆を中心とする北海道禁酒会の招聘に応え』、『函館を離れ、翌日』、『札幌に移転した』。『札幌に自宅を持ち、自宅で聖公会の日本人信徒のためにバイブル』・『クラスと日曜礼拝を始めた。また、札幌の自宅を拠点にアイヌ伝道を展開した』。明治二十五年に『札幌聖公会が正式に組織され』。明治二十八年『には、平取と有珠で教会堂を建設した』。明治三六(一九〇三)年時点で『北海道の聖公会信徒』二千八百九十五『人中アイヌ人が』二千五百九十五『人であった』という。『アイヌの向井八重子を養女』とした。大正六(一九一七)年に『江賀寅三』(えがとらぞう:アイヌ出身の聖公会牧師。後に聖公会を脱会して日本ホーリネス教会の牧師となったが、晩年は超教派の伝道師となり、静内に教会を建設した)『に洗礼を授ける。江賀は後に札幌に来て、アイヌ語辞典の編纂に協力して、バチェラーとの関わりで献身』している。大正一一(一九二二)年には、『アイヌの教育のために、アイヌ保護学園を設立』した。翌大正十二年、『バチェラーは』七十『歳になり、規定により』、『宣教師を退職した。しかし、その後も札幌に留まり、北海道庁の社会課で嘱託として働いた』。昭和八(一九三三)年には、『長年のアイヌのための活動が評価されて勲三等瑞宝章が授与された』が、昭和十六年)、『太平洋戦争が始まると、敵性外国人として、帰国させられ』、千九百四十四年に母国イギリスで九十一年の生涯を終えた』。『バチェラーは自身の遺稿の中で、アイヌと和人との混血が急速に進んでいることや、アイヌの子供が和人と同様に教育を受け、法の下に日本人となっていることから「一つの民族として、アイヌ民族は存在しなくなった』『」と記述している』。『バチェラーは、アイヌ語新約聖書』『の翻訳出版や』、『アイヌ語の言語学的研究と民俗学的研究に多くの業績を残した。アイヌに関する多くの著作を発表してアイヌ民族のことを広く紹介した。このことから、バチェラーは日本のアイヌ文化研究の重要な研究者の一人であるとされている』。『バチェラーの説には、現在では否定されている説もあり、「近江・アイヌ語由来説」を唱えたが、現代の語形で考えているため、無理があり、地名研究書の水準』としては『信頼度を低くしている一端と』も『される』とある。「バチェラア氏の語彙」というのは不詳。明治二二(一八八九)年に彼によって作られた「蝦和英三対辞書」(国立国会図書館デジタルコレクション)のことかと思って縦覧したが、それらしい記載は見つからなかった。
「オキクルミ」「アイヌラックル」「オイナカムイ」等の別名でも知られる、アイヌ伝承の創世神話における英雄神の名。ウィキの「アイヌラックル」によれば、『アイヌ民族の祖とされる地上で初めて誕生した神』で、『アイヌ語で』「人間のような神」『という意味。エピソードを通じて人々の日常生活を支える多くの品々の起源が語られることから、アイヌ神話の上での文化英雄の役割を持つ』という。生涯の伝承についてはリンク先を見られたい。
「蓬(よもぎ)」キク目キク科キク亜科ヨモギ属ヨモギ変種ヨモギ Artemisia indica var. maximowiczii
「紫雲古津(しうんこつ)」現在の北海道沙流郡平取町紫雲古津(さるぐんびらとりちょうしうんこつ)
「藁稈(わらしべ)」稲藁の芯。
「日本傳說集」の以上はここ(国立国会図書館デジタルコレクションの同書の当該ページ)。
「豐前耶馬溪(やばけい)宮園村」現在の大分県中津市耶馬溪町大字宮園。]

國木田獨步 短歌 三首

 


鳴きつれて行くかりかねの行へさへ
      知らではかなき懸にくちなんぬる。


こしかたの夢に焦るゝ現世の
      戀てふものは夢にぞありける


武士の心は何と人間はゝ碎けて後の玉と答へん


[やぶちゃん注:以上の三首の短歌は、学研の「國木田獨步全集」增訂版(全十卷+別卷)の「第九卷」(昭和五三(一九七八)三月刊)に「短歌」として載るものである。底本解題によれば、獨步の『短歌はかなりの數にのぼり、書簡、「明治二十四年日記」』、日記『「欺かざるの記」その他に散見する』が、前二首は「獨步遺文」の「韻文篇」の中の、『「戀緖」の總題を有する四首のうち、二首のみが他に見當らないので、こゝに收錄した。この四首には、本間久雄氏所藏の草稿がある。おそらくは、『遺文』に用ひられた原稿と思はれるが、總題の「戀緖」は獨步の筆ではないらしい。はじめの二首、「花に狂ふ……」と、「朝な夕な……」とは『欺かざるの記』の明治二十九年十一月十九日の記述中にある』(ブログでは後掲する)。『終りの二首を、本間氏の好意により、草稿を底本として收錄した』とし、最後の『「武士の心は……」は』の一首は、『水谷眞熊のノート『金蘭帖』中から採錄した』とある。一首目の抹消線は本文の注記に従って再現したものである。なお、俳句と同様、「欺かざるの記」と書簡内の短歌は別に後に電子化する。]

國木田獨步の日記「欺かざるの日記」及び書簡内の俳句群(一部は私は詩篇と推定する)

 


○國木田獨步日記「欺かざるの記」所収の俳句


[やぶちゃん注:以下は学研の「國木田獨步全集」增訂版(全十卷+別卷)の「第九卷」(昭和五三(一九七八)三月刊)の解題で、日記・書簡中の短歌・俳句が抽出再録されている中から、俳句を抜き出し、同全集の当該日記(第六卷及び第七卷)で確認の上、電子化した。]


朝な朝な起き出でゝみる冬景色


[やぶちゃん注:明治二六(一八九三)年十二月十七日の条の二行目に記す。國木田獨步満二十三歳。一行目は『近來天甚だ寒く、月漸く冷なり』と記し、この句を掲げた後、『ぶらぶらなすなく暮す此頃、なすなしと雖もなさんと欲するの熱情は愈〻燃ゆる也』と記し、続いて『昨日生徒を合手にナシヨナル第二を教へ居たる時、突然自ら客觀して思はず自笑せり。朽つる命、何を爲さんとするぞ。』(「合手」はママ)/(改行)『今朝めさめて頭を舉げてガラス越しに灘山の背後朝輝の天に漲ぎるを望む忽然として感ずらく嗚呼、大なる美なる確かなる此自然、吾は人なり、爾の中に生く、爾老ひず、吾豈老ひんや、吾あに死せんやと』(「老ひ」はママ)『然り「自然」は一致なり、古來幾億の生命、此自然が呑吐したる現象に非ずや、吾も人なり、安ぜよ、吾甚だ獨立を感ず然り吾甚だ吾がソールの獨立を感ず』(「ソール」は「soul」であろう)/『要するに吾ソールを此自然の中に見出す也』『ソールソール 汝は自由なり、自然なり、獨立なり。』(傍線は右)と記している。獨步はこの直前の同年十月、大分県佐伯(さえき:後に訛りの実発音の「さいき」に改称し、現在の公称も佐伯(さいき)市)町にあった私立鶴谷学館の英語と数学(代数学)の教師兼教頭として赴任していた(小学校卒業後の子弟を対象とした中等以上の教育を行う補助教育機関。德富蘇峰と矢野龍溪の紹介による。但し、十ヶ月後の翌年七月末を以って退職した)。]



野邊のすそ、川邊に一ツ
           住家あり。


月かげに、すかして見れば
           茅屋なり。


誰れが住む、住む人は誰れ
           問ふまでもなし。


名も知れぬ、名もなき(浮世の)
           人々ならめ。


[やぶちゃん注:以上《四句》は明治二七(一八九四)年六月十三日の条に記されてある。当日の日記冒頭には、『昨夜船を蕃匠の流に泛べ月光に掉[やぶちゃん注:ママ。]して、富永氏を灘村の校舍に訪ひぬ。同舟者は尾間、山口、收二の三人。吾を加へて四人。』/『月明、流れに滿ち山岳の影、倒さまに水に落ち來四顧寂々、ああかも湖面をゆくが如し。』/『歸來、此の美景、眼にのころ、心に生く』『吾は美を信ぜんことを欲す。』(太字は底本全集「第七卷」では傍点「◦」)/『わきには吾只た[やぶちゃん注:ママ。]美の力を信じたり、曰く美を信ず。と。是れ非なり。』/『寂漠、幽遠、光明、暗澹の世界。吾が生、こゝに在り。古人の生こゝに消へぬ[やぶちゃん注:ママ。]。吾、何處に適歸せん。』/『四顧茫々然。嗚呼吾信仰を欲す。』/『虛榮、小我、比較、焦念、束縛の衣よ去れ』/『信仰、自由、大我、眞實の生命よ來れ』とあった後に、実際には以上は、罫線に挟まれる形で、間に明らかな短歌風の一首を挟み、


   *


野邊のすそ、川邊に一ツ
           住家あり。
月かげに、すかして見れば
           茅屋なり。
誰れが住む、住む人は誰れ
           問ふまでもなし。
世に生れ、貧しくそだち、哀れにも
           寂びしく暮す、一家なり。
名も知れぬ、名もなき(浮世の)
           人々ならめ。


   *


となっているのである。全集「第九卷」の「解題」では、これらを五つに分離し、無理矢理、俳句と短歌に分けているのであるが、しかし、これはどう見ても、俳句+短歌一首、ではなく、纏まったソリッドな五七調の一詩篇と読む方が正しいとしか私には思えない。


「富永」は鶴谷学館の生徒富永德麿。独歩の退職帰京に伴い上京し、牧師となった。「收二」は獨步の実弟。なお、御存じない方のために言っておくと、獨步は熱心なクリスチャンであった。同学館では彼を尊崇する生徒がいた一方、その熱烈な信仰を毛嫌いする生徒も有意におり、後者は彼を排斥する運動行動に出たりしていた。そうした中、この時、獨步は既に学館を辞職して東京へ帰る意志を固めていた。


もぐらもち土をもたぐる狹霧かな。


[やぶちゃん注:明治二九(一八九六)年十一月二十六日の条に記されてある。句の前に『今日は終日狹霧たちこめて野も林も永久の夢に入りたらんごとく靜かなりき。午後獨り散步に出かけ犬を伴ひぬ。默視し、水流を睇視して空想に馳せたり。をりをり時雨の落葉の上をわたりゆく樣の靜けさ。』(「睇視」(ていし)は「目を細めて見ること」或いは「横目で見ること」であるが、前者でよかろう)。「林の奥に座して四顧)としてこの句が示され、後に『狹霧の靜寂を歌ひたる也』と記す。この年の四月、結婚から五ヶ月にして佐々城信子に逃げられて離縁しており、九月に渋谷(現在の渋谷駅の直近)に転居、この前月十月二十六日には名作「武藏野」の構想が既に成っていたことが日記から判る。一方、先の引用の後、には罫線を引いた後に、『信子を懷ふて和歌及び新體詩成れり。』と記している。和歌は後掲する当該首がある。「新體詩」は発表年月日の判っているものの中で、直近のものである「森に入る」「聞くや戀人」が、その一部に当たるのではないか、とは推理可能ではある。]


 


○國木田獨步書簡所収の俳句(日記「欺かざるの記」と重出するものは除く)


[やぶちゃん注:以下は学研の「國木田獨步全集」增訂版(全十卷+別卷)の「第九卷」(昭和五三(一九七八)三月刊)の解題で、日記・書簡中の短歌・俳句が抽出再録されている中から、俳句を抜き出し、同全集の書簡(第五卷)で確認の上、電子化した。]


東海の富士を枕にあくび哉


[やぶちゃん注:明治二三(一八九〇)年八月十五日相模小田原消印の田村三治宛書簡より(底本全集書簡番号六)。句に続けて『(まくらと云ふ題で)』(太字は底本では傍点「ヽ」)と記す。國木田獨步満二十九歳で、東京専門学校(現在の早稲田大学の前身)英語普通科第二年級。小田原は学年末休業中の旅行滞在(但し、底本全集年譜ではそれを八月四日から八日としており、不審)。前に『夏の暑さにつれ、堪へ兼て、うつらうつらの宵の間(ま)にあらうれしやな、うれしの□□□□、夢かまぼろし(三月あとに主のたよりをあらうれしやなあふぐ團扇の風で聞く、(うちわと云ふはうた)』(太字は底本では傍点「ヽ」。「うちわ」はママ。取消線は抹消部、□は底本の判読不能字と思われる)とあり、句の後に有意な字下げで、『こんなめそめそしき事は此れでよす!』とある。なお、底本では句を含め、一部が崩しの変体仮名であるが、表記出来ないので正字化した。]


わが宿は星滿つ夜(よる)の
      琵琶湖かな


[やぶちゃん注:明治二六(一八九三)年七月二十五日武蔵東京麹町消印の大久保余所五郞(よそごろう)宛書簡より(底本全集書簡番号三二)。書簡本文から、大久保が琵琶湖を綴った先行書簡に想を得た想像吟であることが判り、句の後に『僕が寓所の窓より滿天の星影輝〻たるを望み且つ遠く湖上の夜を想ふ時は心耳遙かに磯打つ波の音を聞くの思。眼底直ちに星空たれて水面に連なるの想ありとの意に候』とある。大久保は独歩の友人で後の第二次松方内閣で勅任参事を務めた。筆名を湖州と称し、「家康と直弼」など(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション)、文筆にも優れた。芥川龍之介に「大久保湖州」がある(リンク先は「青空文庫」。但し、新字旧仮名)。]


友なくば何が都の秋の月


[やぶちゃん注:明治二七(一八九四)年五月十六日附クレジットで、大分県佐伯町発信の中桐確太郞宛書簡より(底本全集書簡番号六九)。前に注した鶴谷学館教頭時代のもので、句の直後に学生の國木田獨步に対する排斥運動は『已にトツクニをさまり候今は八九名の有爲の靑年小生を愛し小生を信じ小生も亦た心を盡して職に當り、甚だ幸福の有樣に御座候間御安心あれ』と記しているが、実際にはこの二日前には上京の相談を知人・生徒らと行っており、既に辞任の意志は固まりつつあった。]

2019/03/25

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 豪豬(やまあらし) (ヤマアラシ)

Yamaarasi

 

 

やまあらし 山豬 蒿豬

      豲※1 ※2豬

      鸞豬

豪豬

      【俗云也末阿良之】

[やぶちゃん注:「※1」=「豕」+「兪」。「※2」=「豕」+「亘」。]

 

本綱豪豬深山中有之多者成群害稼狀如豬而頂脊有

刺鬣長近尺粗如筋其狀似笄及帽刺白本而黒端怒則

激去如矢射人自爲牝牡而孕也人取其刺毛以爲簪令

髮不垢或以其皮成鞾其肉【甘大寒】有毒

△按豪豬自外國來畜之以異毛賞之耳。

 

 

やまあらし 山豬 蒿豬〔(かうちよ)〕

      豲※1〔(くわんゆ)〕

      ※2豬〔(くわんちよ)〕

      鸞豬〔(らんちよ)〕

豪豬

      【俗に云ふ、「也末阿良之」。】

[やぶちゃん注:「※1」=「豕」+「兪」。「※2」=「豕」+「亘」。]

 

「本綱」、豪豬は深山の中に、之れ、有り。多くは、群れを成し、稼〔(こくもつ)〕[やぶちゃん注:「稼」は「実った穀物」の意で、穀物・穀類を指す。)]を害す。狀〔(かたち)〕、豬〔(ゐのしし)〕のごとくにして、頂・脊に刺〔(はり)〕の鬣〔(たてがみ)〕有り、長さ尺に近し。粗くして、筋(はし)[やぶちゃん注:箸。]のごとく、其の狀〔(かたち)〕、笄〔(かうがい)〕及び帽刺〔(ばうさし)〕[やぶちゃん注:被冠物を頭部に固定するために髪と一緒に刺し貫く器具の謂いであろう。]に似たり。白き本〔(もと)〕にして、黒き端。〔その刺、〕怒れるときは、則ち、激し去〔つて〕[やぶちゃん注:動詞についてその動作の方向を指す。]矢のごとく、人を射る。自〔(みづか)〕ら牝・牡を爲〔(な)〕して孕みす[やぶちゃん注:無論、誤認。刺があるから交尾不能と思った結果であろう。]。人、其の刺毛を取りて簪〔(かんざし)〕と爲す。髮〔に〕垢〔(あか)〕つかざらしむ。或いは、其の皮を以つて、鞾〔(くつ)〕[やぶちゃん注:「靴」に同じい。]と成す。其の肉【甘、大寒。】、毒、有り[やぶちゃん注:アフリカでは現に食用とされており、有毒ではないだろう。それこそ、猛獣も刺を恐れて襲わないところから起こった流言に違いない。]。

△按ずるに、豪豬、外國より來たりて、之れを畜ふ。異毛を以つて、之れを賞するのみ。

[やぶちゃん注:哺乳綱齧歯(ネズミ)目ヤマアラシ上科ヤマアラシ科 Hystricidae の中で、中国に棲息する種は、例えば、ヤマアラシ属マレーヤマアラシ Hystrix brachyura が挙げられるが、ここで良安が今までのように「中華」と言わずに「外國」と言っていることを考えれば、中国に棲息せず、中国を経由してか、或いは南蛮貿易のオランダ船が、経由してきたアフリカやインドや東南アジアに棲息する他の種(恐らく殆んど剥製)を持ち込んだものを指すとするなら、ここには以下のような複数の種を掲げることが可能である(他に別々に進化した全く独立の系統近縁にはない、南北アメリカ大陸に棲息するアメリカヤマアラシ科 Erethizontidae の種群がいるが、ここには表示する必要がない)。

アフリカフサオヤマアラシ Atherurus africanus

アジアフサオヤマアラシ Atherurus macrourus

アフリカタテガミヤマアラシ Hystrix cristata

ケープタテガミヤマアラシ Hystrix africaeaustralis

ヒマラヤヤマアラシ Hystrix hodgsoni

インドタテガミヤマアラシ Hystrix indica

ボルネオヤマアラシ Thecurus crassispinis

パラワンヤマアラシ Thecurus pumilis

スマトラヤマアラシ Thecurus sumatrae

ネズミヤマアラシ Trichys fasciculata

以下、ウィキの「ヤマアラシ」から引く。『草食性の齧歯類』で、『体の背面と側面の一部に鋭い針毛(トゲ)をもつことを特徴とする』。『ヤマアラシという名で呼ばれる動物は、いずれも背中に長く鋭い針状の体毛が密生している点で、一見よく似た外観をしている(針毛の短い種もある)。しかし』、《ヤマアラシ》『に関して最も注意すべきことは、ユーラシアとアフリカ(旧世界)に分布する』地上生活をするヤマアラシ科『と、南北アメリカ(新世界)に分布する』樹上性のアメリカヤマアラシ科『という』二『つのグループが存在すること』、しかも、『これらは齧歯類という大グループの中で、別々に進化したまったく独立の系統であり、互いに近縁な関係にあるわけではない』という点である。『両者で共有される、天敵から身を守るための針毛(トゲ)は、収斂進化の好例であるが、その針毛以外には、共通の特徴はあまり見られない。齧歯目(ネズミ目)の分類法には諸説があるが、ある分類法では、ヤマアラシ科はフィオミス型下目、アメリカヤマアラシ科はテンジクネズミ型下目となり、下目のレベルで別のグループとなる。つまりアメリカヤマアラシ科はヤマアラシ科よりも、テンジクネズミ科とのほうが系統が近い』。この二『群の』生物学的に縁が近くない『動物が、現在に至るまでヤマアラシという共通の名前で呼ばれているのは、そもそもヨーロッパから新大陸に渡った開拓者たちが、この地で新たに出会ったアメリカヤマアラシ類を、まったくの別系統である旧知のヤマアラシ類と混同して、呼称上の区別をつけなかった名残りに過ぎない。特に区別する必要があるときは、それぞれ「旧世界ヤマアラシ」「新世界ヤマアラシ」と呼び分けるのが通例である』。『ヤマアラシ科はアジアとアフリカ(およびヨーロッパのごく一部)に生息する地上性のヤマアラシで』、『夜行性で、昼間は岩陰や地中に掘った巣穴に潜んでいる。アメリカヤマアラシ科は北アメリカと南アメリカに生息するヤマアラシで、丈夫な爪をもち、木登りが得意である。こちらも夜行性で、昼間は岩陰や樹洞に潜んでいる』。『他にもハリネズミ目のハリネズミ』(哺乳綱ハリネズミ目Eulipotyphlaハリネズミ科ハリネズミ亜科 Erinaceinae)、『カモノハシ目のハリモグラ』(哺乳綱単孔目ハリモグラ科ハリモグラ属ハリモグラ Tachyglossus aculeatus)『など、体が針で覆われた哺乳類が知られているが、それぞれが独自に進化の過程において針を獲得してきた』。『通常、針をもつ哺乳類は外敵から身を守るために針を用いるが、ヤマアラシは、むしろ積極的に外敵に攻撃をしかける攻撃的な性質をもつ。肉食獣などに出会うと、尾を振り、後ろ足を踏み鳴らすことで相手を威嚇するだけでなく、頻繁に背中の針を逆立てて、相手に対し』、『後ろ向きに突進する。本種の針毛は硬く、その強度はゴム製長靴を貫く程であり、また捕食された場合でも針が相手の柔らかい口内や内臓を突き破り』、『感染症や疾患を引き起こさせ、場合によっては死亡させることが知られている。この』ため、『クマやトラといった大型の捕食動物でも』、『本種を襲うケースは少ない』。『ケープタテガミヤマアラシ Hystrix africaeaustralisなどの針は白黒まだらの目だつ模様をしている。これはスズメバチの腹の黄黒まだらの模様と同じく、警告色の役割をしていると考えられる』。『ヤマアラシは通常、頭胴長』は六十三~九十一センチメートル、尾長は二十~二十五センチメートル、体重は五・四~十六キログラム。『夜行性で、穀類、果実、木の葉、樹皮、草などの植物を食べる。群れをつくらず』、『単独行動で生活している』。一『度に出産する子供の数は』一、二『頭と少ない』とある。哲学や心理学で『「自己の自立」と「相手との一体感」という』二『つの欲求によるジレンマ』(二律背反)を「ヤマアラシのジレンマ」(Porcupine's dilemmaHedgehog's dilemma(ハリネズミのジレンマ))と呼ぶが、これは、『寒空にいるヤマアラシが互いに身を寄せ合って暖め合いたいが、針が刺さるので近づけないという、ドイツの哲学者、ショーペンハウアーの寓話に由来する』。――『ある冬の寒い日、たくさんのヤマアラシたちが暖を求めて群がったが、互いのトゲによって刺されるので、離れざるを得なくなった。しかし再び寒さが彼らを駆り立てて、同じことが起きた。結局、何度も群れては離れを繰り返し、互いに多少の距離を保つのが最適であるのを発見した。これと同様に、社会における必要に駆り立てられ、人間というヤマアラシを集まらせるが、多くのトゲや互いに性格の不一致によって不快を感じさせられる。結局、交流において許容できるような最適の距離感を発見し、それがいわゆる礼儀作法やマナーである。それを逸脱する者は、英語では「to keep their distance」(距離を保て)と乱暴に言われる。この取り決めによって、初めて互いに暖を取る必要が適度に満たされ、互いの針で刺されることも無くなる。とは言え、自らの内に暖かみを持つ人間は、人々の輪の外に居ることを好むであろう。そうすれば互いに針で突いたり突かれたりすることも無いのだから』。――『この概念について、後にフロイトが論じ』、同じオーストリアのウィーン生まれの精神科医で精神分析家のレオポルド・べラック(Leopol Bellak 一九一六年~二〇〇二年)が』『名付けた』。『心理学的には「紆余曲折の末、両者にとってちょうど良い距離に気付く」という肯定的な意味として使われることもある』。『なお、実際のヤマアラシは針のない頭部を寄せ合って体温を保ったり、睡眠をとったりして』おり、この譬えは生態上は正確と言えない。]

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 野馬(やまむま) (モウコノウマ或いはウマ)

Yamauma

やまむま


野馬


本綱野馬似馬而小今甘州肅州及遼東山中亦有之取

其皮爲裘食其肉云如家馬肉但落地不沾沙耳

騊駼 北地有獸狀如馬色青名曰騊駼此皆野馬類也

△按山馬皮自中華多來其皮比鹿麂等畧厚而肌不密

 最劣以作裘及韈爲下品



やまむま


野馬


「本綱」、野馬、馬に似て、小さし。今、甘州・肅州及び遼東の山中にも亦、之れ、有り。其の皮を取り、裘(かはごろも)[やぶちゃん注:革衣。]と爲す。其の肉を食ひて云はく、「家(つね)の馬(むま)の肉のごとし。但し、地に落〔ちても〕沙を沾(うるを)さざるのみ。」〔と〕。

騊駼〔(とうと)〕 北地、獸、有り、狀、馬のごとく、色、青。名ぢけて「騊駼」と曰ふ。此れ、皆、野馬の類ひなり。

△按ずるに、山馬の皮、中華より多く來たる。其の皮、鹿・麂(こびと〔じか)〕等に比(くら)ぶれば、畧(ち)と[やぶちゃん注:少し。]厚くして、肌、密[やぶちゃん注:緻密。稠密(ちゅうみつ)。]ならず。最も劣れり。以つて、裘〔(かはごろも)〕及び韈(たび)[やぶちゃん注:足袋。]に作る。下品たり。

[やぶちゃん注:「馬に似て、小さし」という点、それが永く「野馬」として認識されていたという点、「州・肅州及び遼東」(現在の甘粛省と遼東半島周辺)という中国北及び北内陸部に産するとする点から見て、「第三十七 畜類 馬(むま)(ウマ)」で示した哺乳綱奇蹄(ウマ)目ウマ科ウマ属ノウマ亜種ウマ Equus ferus caballus の野生化した種ではなく、以前は野生種であると考えられていた、

ウマ属ノウマ亜種モウコノウマ Equus ferus przewalskii

に同定してよいのではないかと考える。但し、現在はこの考え方は否定されつつあり、やはり非常に古い時代に家畜種であったものが野生化した個体群の末裔に過ぎないとする見解が主流になりつつあるウィキの「モウコノウマ」によれば、『かつてはシマウマ、ノロバ(野驢馬)を除いた唯一の現存する野生馬と考えられていたが、約』五千五百『年前に現在のカザフスタンで飼われていた家畜馬の子孫であることが』、『最近の研究で明らかにされた』。『その為に「本当の野生馬(家畜化されていないノウマ)はすでに絶滅している」との主張が現在の見解となりつつある』。頭胴長は二・二~二・六メートル、体高は一・二~一・四メートル、体重二百~三百キログラムほどで、『毛色はいわゆる薄墨毛で、全体的に淡い褐色、四肢と』鬣(たてがみ)、『尾は濃い褐色になる。冬になると』、『毛の色合いが薄くなり、かつ』、『毛が長くなる。たてがみは常に直立しており、家畜馬のように倒れない。口先に白いポイントがある。体型はがっしりとしており、サラブレッドなどの競走馬が持つ華奢なイメージはない。背中に「鰻線(まんせん)」という濃い褐色の帯がある』。『年長のメスに率いられた小規模の群れで暮らす。群れの構成はリーダー』の『メスを中心に数頭のメスと』、『その子供からなり、群れの周辺には』一『頭前後のオス個体がいる。草原の草を食べる典型的なグレイザー』(grazer:草食者)『である。ユーラシア大陸の草原に生息している。かつてアジア中央部、特にモンゴル周辺(アルタイ山脈周辺)に多数生息していたが、野生下では一度』、『絶滅し、飼育個体の子孫を野生に戻す試みが各地で続けられている。英語圏での別名は』「Asian Wild Horse」「Mongolian Wild Horse」で、『かつての原産地であるモンゴルでは、タヒまたはタキと呼ばれている』。『西洋諸国に知られるようになったのは』一八七九年(明治十二年)で、『ロシアの探検家ニコライ・プルツェワルスキー大佐によってモンゴルで発見され、広く知られるようになった(学名及び英名は発見者に対する献名)。しかし』、一九六六年に、『ハンガリーの昆虫学者によって目撃されたのを最後に野生下での目撃情報が確認されなくなり、恐らく』、一九六八『年頃に野生下では一度』、『絶滅したと見られている。だが』、『発見以後』、『多くの個体が欧米諸国の動物園に送られており、その子孫が生き残っていたことから、飼育下での計画的な繁殖が始められ、再野生化が試みられた。現在は、世界各地の動物園』千『頭以上が飼育されている。モンゴルのフスタイ=ヌルー保護区で再野生化が行われ』、百『頭以上に回復している。また、新疆ウイグル自治区の自然保護区等で、再野生化の目的で飼育個体の一部の導入が行われている』とある。こちらの「AFPBB News」の記事「中国の野生馬、世界の4分の1に相当 新疆、甘粛などに515頭」という記事では、甘粛省にある「甘粛絶滅危惧動物保護センター」で管理する野生馬の数は百頭を突破し、柵内で放牧されている四十三頭と、野に放たれた野生個体六十頭を合わせると百三頭に及ぶとあり、『同センターでは』一九九〇『年から、米国やドイツなどから』、十八『頭のモウコウマを引き入れ』、二〇一〇年と、二〇一二年には『それぞれ、シルクロードの一部分にあたる河西回廊』『の最西端に位置する敦煌』『西湖自然保護区に』二十八『頭が放たれた』とある。但し、同記事では『モウコウマは現在、地球上で生息する唯一の野生馬』であるとし、しかもモウコウマの原産地は『ウイグル・ジュンガル盆地の北塔山』と、甘粛省の粛北モンゴル自治県にある馬鬃山(ばそうざん:「鬃」は「鬣」と同義で原産地としては如何にもピッタりな名ではある)一帯であるとまで限定した上で、六千『万年の進化史と原始的ルーツを残しながら世界に約』二千『頭が生息している』と記す。


「家(つね)の」「常の」。普通の。良安の当て訓

「地に落〔ちても〕沙を沾(うるを)さざるのみ」肉から血や体液が砂に浸出してくることがないところだけが、通常の馬肉とは異なって異様である、の意。

「騊駼〔(とうと)〕」個人ブログ「プロメテウス」の「騊駼:大昔は神獣のことを指していた名馬の美称」によれば、拼音では「táo tú」(タァォ・トゥー)で、『騊駼は北方の青い毛の野生の馬のことですが、歴代の名馬を指すようになったため』、『騊駼という名称は人々に重要視されました。馬の他には騊駼と言う名を持った人もおり、東漢臨邑候の劉騊駼や隋朝官吏の李騊駼などがいます』。「逸周書」の「王会」には「禺氏、騊駼」『とあり、この一文に対して孔晁が』「騊駼とは馬の一種である」『と注釈を行っています。司馬遷の史記にも』「匈奴が乗る動物が騊駼である」と『言う一文がありますので、こちらも騊駼は馬の事を指しています。他の文献にも』、『騊駼に関して』、『北方にいる青色の馬の事を指しているという記述が多くみられます』。『しかし』、「山海経」の「海外北経」には「北海内に野獣がおり、その形状は一般的な虎のようで、名を騊駼と言った」と『あり、虎のような怪物として描かれています』「山海経」も、「山海経」のやや後に書かれた「史記」も、『同じ漢代に書かれた書物ですが、一方では虎に似た怪物、一方では馬と同時期でも解釈は判れてしまっています』。「山海経」の『注釈を行ったことで有名な郭璞は』、「山海経」の『この虎のような怪物の一文を引用して』、「北海内に獣がいた。形状は馬のようで名を騊駼と言い青色であった」『と注釈を残しています。両方の解釈を結び付けてしまったわけです。これは郭璞自身が強引に解釈したのか、郭璞が注釈を行う以前より』、「山海経」の『騊駼と言う怪物は』、『実は青い馬のことであると言う論調があり、それに従って郭璞が注釈を行っただけなのか』は『今となっては判りません』。『現在では騊駼は北方産の馬とされています。この北方はどのあたりを指すかと言うと』、「史記」の、『匈奴が乗る動物が騊駼である、との記載に従えば』、『甘州内であったと推測されます。匈奴自体はモンゴルから中央アジアにかけて存在した遊牧民族の総称です』。『また、古書にある海外とは陸続きでも中国(中原)以外の場所で友好関係にあった国を指しています。騊駼という名は』「山海経」の「海外北経」に『記載されており、当時の中原の北にあった匈奴産の馬を指していたのではないかと考えられます。これらの関連性により』、『多くの人が現在の蒙古馬は騊駼馬の子孫なのではないかと考えています』とあり、ここでも甘粛の地名が登場し、ブログ主も「騊駼」は多くの人々が蒙古馬(モウコウマ・モウコノウマ)の原種ではないかと言っているという事実が示されており、良安が「本草綱目」のこの部分を敢えて載せたことは、少なくとも、既にそうした認識(モウコノウマこそ野生の馬の原種の一つであるという考え方)があったことと親和性を示していると言えるのではないか? お判りとは思うが、良安の「本草綱目」の引用はかなり恣意的な抜粋なので、この良安のそれ(原文は「山海経」から)に私はよくぞ引いて呉れたと快哉を叫びたいぐらいの気がしているのである。

「麂(こびと〔じか)〕」中形の鹿で、ヨーロッパ・中国・中近東と分布域が広い(本邦には棲息しない)、鯨偶蹄目反芻亜目シカ科オジロジカ亜科ノロジカ属ノロ Capreolus capreolus(「ノル」「ノロジカ」とも呼ぶ)であろう。地域によりいくつかの亜種があるが、大きく次の三亜種に分けられる。ヨーロッパノロ Capreolus capreolus capreolus は、ヨーロッパから中近東にかけて分布し、肩高六十~六十八センチメートル。マンシュウノロ Capreolus capreolus bedfordi は、肩高六十五~七十八センチメートル、夏毛と冬毛の色彩的差異があまりない。中国・朝鮮半島などに分布する。オオノロCapreolus capreolus pygargusは、三亜種中、最大で、肩高七十~九十センチメートルあり、アルタイ・アムール地方に産する。毛色は夏毛は赤黄色、冬毛は灰褐色。晩春から初夏にかけて。、成獣の♂はテリトリーを作り、七月下旬から八月上旬の発情期に入ると、♂は♀を追い、二頭は「ノロの輪」と呼ばれる円を描くように走る。妊娠期間は九ヶ月半にもなる場合があり、受精卵の着床遅延が認められている。出産期は五~六月、一産に通常は二子、時に三子、稀に四子を産む。寿命は十五年ほど。ここまでは小学館「日本大百科全書」によった。大修館書店「廣漢和辭典」では「オオノロ」とするのであるが、現行の分布域と、良安が「こびと」とルビするところからは、上記のマンシュウノロの方が相応しい。

中高時代の故郷へ旅した

この時期、毎年、友人らと旅をしている。
今回は、新湊・氷見・富山であった。
企画は友人任せだが、この場所は私が中高時代を過ごした地である。
高岡からは派手な「ドラえもんトラム」に乗って、新湊へ(帰りには立川志の輔が停車駅を解説していたけれど、土地の人にはちと喧しかろうに)。新湊は海王丸が係留され、橋尽くしの観光船が巡り、一大テーマ・パークに変貌していた。氷見線には「忍者ハットリくん」列車が走り(それは停止車体を見かけただけだが、帰りは新高岡まで「べるもんた」に載り、珍しい車体の路線移動を体験した。昔は最終車両の接続部はドアも何もなく、私はそこから去りゆくレールの風景を見るのを好んだものだった)、氷見の商店街には藤子不二雄Aのモニュメントが至るところに林立していた(これもセンサー対応で人が通るたびに自己紹介をするのには閉口した)。海岸線が大幅に埋め立てられて、唐島(からしま)が陸に繋がりそうになり、日本一という道の駅風の「ひみ番屋街」が観光客を誘って、いや、まさに「桑田変じて」の逆を行っていた。
友人らと一緒であるし、一泊で、個人で行動することは出来ないので、私が六年間を過ごした伏木の町は、車窓から垣間見ただけだったけれど、中学の同級生が自転車で下ってきて交通事故で亡くなった坂道が見えた……惨めな失恋の憂愁を慰めてくれた国分浜も……如意が丘に建つ母校伏木高校も……深夜にこっそり訪ねて、家人に見つからぬように窓から入れて貰った友人の家も、皆、そのままに……蟹突きをしていてクサフグに腰を噛まれた雨晴……友人とキャンプした島尾の海岸……当時の恋人とデートして歩んだ氷見の町並み……何もかもが、波状的に胸を打った。
私の青春の故郷は確かに――あの高岡の伏木――だった。
・父が両端の橋柱のデザイン(合掌の形)した高岡の鳳鳴橋を見に行きたかったが、時間がなかった。されば、グーグル・ストリート・ビューからトリミング画像を貼っておく。最後のものは橋竣工式典の際にデザイン者として招待された折りの父の写真である。

Houmeibasi01

Houmeibasi02

Houmeibasi03

Houmeibasi04

Houeibasisyunkou

2019/03/22

隨分御機嫌よう

明日早朝より友人らと懷かしき場所に旅に出づれば暫く御機嫌よう 心朽窩主人

國木田獨步 俳句(二句)



冠掛けて菊千本の主かな    獨步



眼鏡かけて我に髯なき恨哉   獨步



[やぶちゃん注:以上の二句は、学研の「國木田獨步全集」增訂版(全十卷+別卷)の「第十卷」(昭和五三(一九七八)三月刊)に別刷の投げ込み冊子で挿入されてある全十六ページから成る「学習研究社版 國木田獨步全集第十卷 補遺 追加」(発行者署名は『学習研究社 国木田独歩全集編纂委員会事務局』(新字はママ))の「ⅹⅰ」ページ(全集追加ノンブル『追619』)に『句』として、載る俳句である。同全集本文には俳句パートは存在しない。但し、同全集「第九卷」の解題で日記・書簡中の短歌・俳句が抽出再録されているので、後にそこから俳句を抜き出して電子化することとする。前者「冠掛けて菊千本の主かな」は、明治三五(一九〇二)年九月二十九日発行の雑誌『太平洋』に、後者「眼鏡かけて我に髯なき恨哉」は同年十二月十五日発行の同じ『太平洋』に掲載されたものである。國木田獨步満三十一歳の折りの句である。國木田獨步は前年明治三十四年三月に作品集「武藏野」を発表していたが、同作品集はその当時の文壇では評価されなかった。しかし、その年末に「牛肉と馬鈴薯」(十一月『小天地』)、この年には「鎌倉夫人」(十・十一月『太平洋』)・「酒中日記」(十一月『文藝界』)を書き、翌明治三十六年に「運命論者」(三月『山比古』・「正直者」(十月『新著文藝』)を発表するに及んで、自然主義の先駆者となった(但し、この時に至っても、文壇は未だ紅・露(尾崎紅葉と幸田露伴)全盛期で、國木田獨步はとてものことに文学で生計を立てられるような状態にはなかった)。因みに、この雑誌『太平洋』というのは週刊誌で、盟友田山花袋が編集していた(この明治三十五年に編集主任に就任)。花袋はまさしくこの年の五月に、本邦に於けるゾライズムの代表作ともされる名篇「重右衛門の最後」を新声社の月刊新作叢誌『アカツキ』の第五編として発表し、小説家としてのデビューを飾っていた。]

友情消ゆ 國木田獨步



  友情消ゆ



貧しきを泣かむや

 名無きを泣かむや

少年の春の經過を泣かず

落々たる雄心の消磨を泣かず

 殘灯に對して默坐す

冷かなる淚一滴

 蒼顏をつたはるは

世にも深かりし友情の

 餘りはかなく

 消えたれば



[やぶちゃん注:「獨步遺文」より。本篇を以って底本の「詩」パートは総てを終わっている。]

破壞 國木田獨步



  破  壞



破壞は悲し

 尤も悲し

愛の破壞は

 これを感ずる

われ人里に深からば

 人の淚は

 更に淸きを



[やぶちゃん注:「獨步遺文」より。]

高峯の雲よ 國木田獨步



  高峯の雲よ



高峰の雲よ心あらば

乘せてもて行き此我を

大海原のたゞ中の

人なき島に送れかし

斯くて此身は浮世より

消え失すとても此我は

天地(あめつち)廣き間にて

人とし生きむ、しばしだに



[やぶちゃん注:「高峯」「高峰」の混在使用はママ。孰れも「たかね」と訓じておく。確定資料では無論ないが、死後の出版の「獨步詩集」(大正二(一九一三)年東雲堂書店刊)では本文の「高峰」に「たかね」とルビを振っている(但し、同詩集の標題は「高峰の雲よ」である)。「獨步遺文」より。]

都少女 國木田獨步



  都 少 女



都少女よ春風に

花の振袖きそふとも

甲斐ぞ無からむ塵深き

街の色の朝夕に

なれが心を染めぬかば



[やぶちゃん注:「獨步遺文」より。]

菫 國木田獨步



  



野邊の小路に噴き出でし

菫の花は今日もまた

君がかざしとなりにけり



胸の思を如何にせむ

歌ひてもらす術もがな

君が奏づる琴の音の

調に合はす由もがな



暫時は君の聞けよかし

菫羨むわが歌を



[やぶちゃん注:「獨步遺文」より。]

菫 國木田獨步



  



春の霞に誘はれて

おぼつかなくも咲き出でし

菫の花よ心あらば

たゞよそながら告げよかし

汝(な)れがやさしき色めでゝ

摘みてかざして歸りにし

少女や今日も來りなば

「君をば戀ふる人あり」と



[やぶちゃん注:「獨步遺文」より。]

大連灣 國木田獨步



  大 連 灣


茫々夢の如し、憶ふ彼日

悠々日月轉ず、憶ふ彼夜

大連灣今如何

旅順口頭猛鷲旗樹つ



艦隊一條長く

指すや大連灣

秋光波に溶け

高し黃海の天



陸兵背を衝くの日

戰艦前を扼するの約

海陸の計空しく

敵に勇卒無し



見よや和尚島

翩翻たり日章旗

笑聲起る、敵を笑ふなり

歡聲湧く、我を祝ふなり



茫々夢の如し、憶ふ彼の日

悠々日月轉ず、憶ふ彼の夜

大連灣今如何

和尚山頭猛鷲旗樹つ



大同の江の夕まぐれ

花園口のあけの星

夕は燈火を滅し

曉に敵地を窺ふ



咄嗟上陸す三萬の軍

劔光日に映ず遼東の野

風無し、波無し、敵影無し



淸國英をあつむ旅順口

想ふ黃海の殘艦潛むと

黃金山白煙咄として起る

艦側白浪聳つ

空を劈くの霹靂

艦上快哉を叫ぶ



艦を旋らす大連湾

報あり放順落つと



[やぶちゃん注:「獨步遺文」より。國木田獨步(当時、二十三歳)が『國民新聞社』の日本海軍従軍記者として明治二七(一八九四)年十月十九日に大同江(だいどうこう/テドンガン:現在の朝鮮民主主義人民共和国北西部を流れる川)で軍艦千代田に乗艦、以後、大連湾で転戦・勝利した体験を回顧したものである(翌明治二十八年五月五日に呉へ帰還。その間、獨步は、弟収二に宛てるという形式の戦況ルポルタージュ「愛弟通信」を連載、一躍、有名となった。因みに、既に電子化した、現行、最も古い初出である「頭巾二つ 於千代田艦」が詠ぜられたのは、この従軍から帰った七ヶ月後であった)が、創作年代は不詳

「猛鷲旗」「あらわしき」か。海軍の旭日旗のことか。当初、Z旗かとも思ったが、Z旗が海軍に於いて特別な意味(所謂、言うところの「皇國ノ興廢此一戦ニ在リ、各員一層奮勵努力セヨ」)を持って意識されるようになるのは後の日露戦争中の、明治三四(一九〇五)年五月の「日本海海戦」での旗艦「三笠」での掲揚を嚆矢とするので違うと思われる。

「陸兵背を衝くの日」上陸した兵軍がすっくと立って順調に進軍するその日のさまの意か。

「戰艦前を扼するの約」戦艦は湾の中でどっしりと場を占めて、湾を閉塞するという任務をしっかりと守っているさまの意か。

「海陸の計空しく」日本軍が海軍・陸軍ともに相応に準備万端の戦略を以って立ち向かったにも拘らず。「敵に勇卒無」ければ、それが無駄になった、という謂いであろうか。

「和尚島」「をしやうじま」と訓じておく。現在の大連湾湾奧にある大連市甘井子区和尚島(グーグル・マップ・データ)。大和尚山がある。

「花園口」「くわゑんこう」音読みしておく。大連湾の東北約百キロメートルの黄海に面した町。遼寧省大連市荘河市花園口(グーグル・マップ・データ)。日清戦争で日本軍が最初に上陸した地点として知られる(後の日露戦争でも日本軍は同じくここから上陸している)。個人ブログ「HBD in Liaodong Peninsula」の「花園口―日清戦争での日本軍上陸の地」の写真を見ると、恐ろしく遠浅の海が広がっている。以下に今や、まず読まれることのない「愛弟通信」の、「上陸地の光景」の全文を全集から引用する。但し、読み(総ルビではない)は一部に留めた。

   *

       上陸地の光景

愛弟、吾れ已に上陸したり。軍兵上陸の模樣を語る前に、御身をして先づ上陸地の槪況を知らしめんと欲す。

海岸一帶は、艦上より眺めたる如く、凡て斷崕(だんがい)なり。所々入澳(にふいく)[やぶちゃん注:入り江。]ありて自から濱をなす。艦上より平蕪(へいぶ)の曠原(くわうげん)と見しは、總て大耕作地にして、滿目茫々、殆ど玉蜀黍(たうもろこし)の刈株(かりかぶ)のみなりし。樹木甚だ少し、少なしと雖も其丈は高し。數珠の高樹、丘陵の斜傾(しやけい)せる邊(あたり)に樹ち、其の木陰(こかげ)に農家二三の小村を作る。首(かしら)をたれ尾をふり、悠々然(いういうぜん)と步み居るは牛と驢馬(うさぎうま)なり。壁を以て圍まれたる庭の隅々に集りたるは雞(にはとり)なり、耕作地の畦(あぜ)を、無頓着(むとんぢやく)に鼻の先にて突きつゝあるは豕(ぶた)なり。吾等の近づくを見て、聲を限りに吠へつくは例の犬、少しも變りなし。平陵急に裂けて泉をなす處、家鴨(あひる)群(むれ)をなせり。地質は乾砂(かんさ)と赤土(あかつち)とを混和したるものらしく見へ、雨の日など泥濘(でいねい)にして步み難きを推し得べく、近日の晴天は土を灰の如くならしめ、荷車の轍(わだち)の跡、遠くうねりて丘の頂(いたゞき)を過ぎ、樹木の下を橫ぎり、何れの村にか通ふめり。

小丘の半腹(はんぷく)、海に面して突如と立つものは、一種異樣の寺院なり。周圍一木なく、平野に裸出して、夕陽(ゆうよう)を橫領し顏(がほ)なるは他見(よそめ)だけに羨やまし。住まば三日もたまらざる可し。

海岸總て遠淺にて干潮の際は沼をなし、断崕の突出せるものは、岩骨(がんこつ)直立して壁をなす。東南の風若(も)し激(げき)せば、滿潮の時必ず怒濤の咆哮(はうこう)すべきを推するに難からず。

此の地を花園口と云ふ。蓋し花園河の口に當ればなりと土人謂へり。花園河何處にかある、あたりには見へざりき。

潮(しほ)退(ひ)きたる跡に鴫(しぎ)群がれるを見て、獵銃を携へざりしを悔むは艦長なり。崕角(がいかく)[やぶちゃん注:崖の端或いはその下。]に息(いこ)ふ兵士、坂を上ぼりゆく一隊、今しもボートをこぎ着けたる一組、見渡す限り際限なき蒼海(さうかい)、沖に繫がる無數の大船、點々相連なる通船(かよひせん)[やぶちゃん注:上陸用舟艇。]、潮(うしほ)にぬれたる岩礁、丘上に飜る旗、此等の光景に茫然たる吾は、實に米僊氏なきをうらみたり。[やぶちゃん注:「米僊氏」明治期の画家で画報記者であった久保田米僊(べいせん 嘉永五(一八五二)年~明治三九(一九〇六)年)。京都生まれ。名は寛。慶応三(一八六七)年に鈴木百年に師事し、維新後、京都画壇の興隆を目指して、明治一一(一八七八)年に画学校の設立を建議した。師風を継ぐ雄渾な画風で知られ、内国絵画共進会・内国勧業博覧会で受賞を重ねた。また一八九〇(明治二二)年のパリ万博で金賞を受賞し、渡仏して『京都日報』に寄稿、明治二十四年には上京し、『国民新聞社』に入社し(則ち、独歩入社の三年前で彼の先輩に当たるのである。年齢は獨步より十九歳上)、一八九三(明治二六)年のシカゴ万博や、翌年の日清戦争従軍の記事を報じた(但し、獨步とは行動をともにしてはいない)。「米僊漫遊画譜」「米僊画談」などの著書があるが、明治三三(一九〇〇)年に失明、以後は俳句や評論活動を行った。]

吾等の千代田艦を發したるは、午前八時なり。上陸地に到着したるは九時半を過ぎたり。而して歸艦したるは殆ど午後二時なりとす。陸上に在ること三時間計り。

   *

「黃金山」大連湾の約五十キロメートル弱南西にある旅順の非常に狭い湾口の、北の岬のピーク、現在の大連市旅順口区黄金山。砲台があった。かなり長いが、この最後の二連に圧縮された事実を確認するために、「愛弟通信」の「艦隊の旅順攻擊」の全文を全集から引用する(前と同じ仕儀とした。一部、改行の有無の判別し難い部分があったが、国立国会図書館デジタルコレクションの単行本「愛弟通信」(明四一(一九〇八)年十二月左久良書房刊)で校合した。但し、同単行本は遙かに改行を施してあり、底本全集とは異同がある)。特に関連の強い箇所を太字で示した

   *

     艦隊の旅順攻擊

       千代田艦にて

愛弟

吾第二軍の花園口に上陸したる以來殆ど一ケ月、玆に愈〻旅順口の大攻擊となりけり。二十一日こそ海陸總掛りの當日なりければ、吾も今度こそは愈〻海軍の方にも多少の抵抗を受け、少しは目覺ましき戰もあることならんと、前以て大に樂しみ居たり。

二十一日午前一時、吾が艦隊大連灣を發す。大連灣に居殘りたるは第三遊擊隊のみ。此の居殘る軍艦こそ氣の毒の至りなれ。

先づ本隊には松島、千代田、嚴島、橋立第一遊擊隊には吉野、高千穗、秋津洲、浪速、第二遊擊隊には扶桑、比叡、金剛、高雄、第四遊擊隊には筑紫、赤城、大島、摩耶、愛宕、鳥海、之れに加ふるに水雷艇九艘を以てす。而して特務艦なる八重山は、前日已に威海衞偵察のため先達したり。[やぶちゃん注:「威海衞」(いかいゑい)は現在の山東省最東部に位置する威海市。渤海の湾口の南の遼東半島端に当たる。]

是より先き陸軍にては、已に旅順方面に向て進擊し、敵軍の全く旅順港内に退却する迄に、我が軍に士官三名、下士十四名、兵卒三十二名の死傷を生じたる程の戰ありしなり。其の砲聲の大連灣に聞こへたることは前信申上げたる如くなり。

されば二十一日の戰こそ、旅順口の運命の決する所、敵は所謂る袋の中の鼠、如何に臆病風に吹きまくられたる支那兵と雖も、死もの狂ひに戰ふ可ければ、戰(いくさ)は必ず猛烈なるべしとは兼て待設(まちまう)けし所なりき。昨日の事今日より顧みれば、夢見し如くにて昨日の事とも思はれず。已に十年の昔しの樣なる心地す。

午前一時、我が艦隊が大連灣を出で行きし光景は、定めて壯觀なりしならんも、余は猶ほ熟睡のうちに在りし。

突然呼び起すものあり。藤木少尉なり。戰(たゝかひ)は已に始まれりといひ捨てゝ去りぬ。サテは寢過したるかと、衣も匇々に着更へて甲板に躍り出たるに、夜は未だ明けざりけり。

艦隊は今しも旅順口の前面、數哩のあたりを通過しつゝあるなり。則ち右舷に旅順の山艦を見つゝ進むなり。遙かに明滅するものは何ぞやと問ひしに、是れ金州半島の極端、老鐡山の一角に立つ燈臺の光なりき。[やぶちゃん注:この南端附近か(グーグル・マップ・データ)。]

第四遊擊隊は已に砲擊を始め居たり。砲臺より放つ大砲の彈丸やゝもすれは、吾が軍艦の船體近く落つるを見たり。東天の金雲(きんうん)次第に其の色あせると共に、夜は全く明けなんとす。

陸上盛んに砲聲を聞く、南軍已に接したるなり。亙砲を連發するが如くなるは、砲戰の猛烈なるを推し得べし。吾が艦隊は只だ此等の光景を眺めつゝ、旅順口の前面を一直線に進みゆく。

八重山艦威海衞より歸り來り報じて曰く、港内の模樣前日の如く、敵艦出で來る樣子なしと。支那艦隊は旅順口を見殺しにせんとす。

旗艦已に老鐡山の沖合に來るや、左轉して再び旅順の前面を通過せんとす。

かくて我等は再び旅順の前面に來り、多少其の模樣を觀察し得たり。陸上の砲擊斷續す。惜ひ哉、艦隊は砲臺よりの砲擊を避け、常に遠隔離に在りて望觀すること故、望遠鏡を以てするも、猶は十分に陸上の事條(じぜう)を見る能はざりき。

旗艦更らに方向を轉換して、三度(みた)び旅順の前面を通過せんとす。

旗艦命(めい)を下して、水雷艇をして諸艦の左側に來らしむ、見る見る水雷艇矢の如く馳せて艦と艦との間を通過せり。暫時にして其の隊形を整へ、常に砲臺より諸艦を蔭にして進む。

不思議にも海岸砲臺よりは、一發も艦隊に向て砲發せざる也。思ふに全力を背面防禦にあつめしならん。吾が陸軍の苦戰思ふ可し。

旗艦此の度は、方向を左側に轉換せずして、少しく右に折れ、直ちに老鐡山を右舷に、鳩灣の方を指して遙かに旅順の側面に進む。[やぶちゃん注:「鳩湾」後の日露戦争のウィキの「旅順攻囲戦」にある当時の地図によって、旅順から南の老鐡山を廻り込んで、渤海側に入った最初の東に貫入した半島南西部の湾であることが判る。]

忽ち前程に煤煙を認めたり。之れ滊船(きせん)なり。旗艦命じて、第一遊擊隊、則ち吉野以下をして、急に之を檢察せしむ。命を受けて第一遊擊隊は直に列を出で急馳(きふち)して、本隊以下の前程に突進せるを見たり。

彼の滊船は小蒸滊なりき。鳩灣に逃げ込みしかば、水淺くして大艦窮追(きゆうつゐ)するを得ず、吉野乃(すなは)ち旗艦に水雷艇を以て捕獲すべきを請ふ。吉野を以て鷲(わし)に比すべくば水雷艇は實に鷹なり。

小鷹號以下の水雷艇數艘、籔林(そうりん)にひそみたる雀を捕ふる如くに、苦もなく鳩灣の奧にかくれたる彼の小蒸規を捕へたり。小蒸滊は不思議にも英船なりき。不思議にも、實(じつ)に不思議にも。[やぶちゃん注:この時に先立つこと、僅か三ヶ月前の明治二七(一八九四)年七月十六日に「日英通商航海条約」が締結されており、大英帝国は日清戦争に対して中立の立場を示していた。]

小蒸滊名を金龍といふ、蓋し大沽あたりの曳船(ひきふね)なり。旗艦忽ち之を放ちやりぬ。雀は喜ばしげに逃げ去りぬ。始終吾が艦隊に附隨して見物してありし、英國軍艦ポーポイズは『感謝す』の旗信をなして、小蒸滊の跡を追ひたり。吾れ何となく狂言を見る心地せりき。其の小蒸滊何の恐るゝ所ありて鳩灣に逃げ込みしか、逃げ込みしに非ずとせば何の用ありて鳩灣に入(い)りしか、而して斯(かゝ)る疑惑を被り易き老を放ちたるに際し、不思議にも英の軍艦は感謝せり。是れ吾れの見擊(けんげき)したる事實なり。[やぶちゃん注:「大沽」(たいこ)は現在の渤海湾奥西の天津市浜海新区(旧塘沽(とうこ)区)内の地名。天津から海河に沿って南東に下った河口地域。ここ(グーグル・マップ・データ)。「英國軍艦ポーポイズ」大英帝国の十二門の軍艦「ポーパス」(Porpoise:意味は「イルカ」或いは「ネズミイルカ」(哺乳綱獣亜綱鯨偶蹄目ハクジラ亜目マイルカ上科ネズミイルカ科 Phocoenidae)を指す)。]

鳩灣の口まで入り込みたるは乃ち吾が千代田號なり。千代田尚ほ本隊の列に在る時、鳩灣の右岸なる丘上(きうじやう)に、烏の如く集り、蟻の如く動く者を見る。忽ち丘上に現はれ、忽ち背後にかくる。散じては集り、集りては散ず。よくよく見れば支那兵なり。

旗艦、千代田に命あり、丘上のもの若し支那兵ならば、進みて砲擊せよと。是に於て千代田は列を出でゝ、鳩灣近く進みゆきぬ。

先づ丘上に向て二發を放つ。憫(あはれ)む可し支那兵、已に吾が陸軍の追ひまくる所となり、袋底(たいてい)全く遁れ出づる所もなくして[やぶちゃん注:「袋底」は不詳。「囊底」(なうてい(のうてい))と同じだとして、深く隠れ逃げ込むところが最早ないことを強調しているものとは思われる。]、僅かに此の丘上に落ちのびたりと思へば、忽ち海面より巨丸頭上に飛び來りて破裂す。見よ、蛛(くも)の子を散らす如しとは此の事なり。十二サンチ砲の榴彈彼等の眞上に破裂せしよと見る間に、今まで集りたる一群、パツト散り亂れて山腹指してサツト駈け下り、谷の如く凹みたる處にひれ伏す。進退維(これ)谷(きはま)るとは是より出でしならめなど笑(わらつ[やぶちゃん注:ママ。])て許す。これも一時の興とは言へ、敵ながら氣の毒の思ひありたり。[やぶちゃん注:「榴彈」榴弾砲の弾。榴弾砲は十七世紀頃に一般化した火砲で、平射で長距離を狙う「カノン砲」と、曲射で近距離を狙う「臼砲(きゅうほう)」の中間型の砲種として、火砲の基本的な型の一つとなった。本来の榴弾砲は、臼砲と同様に、援護物後方の目標を攻撃し、また、砲台や軍艦甲板を上方から破壊するのが目的であるが、臼砲よりも弾速や射程が勝っている。近代以後,口径十センチメートル内外の野戦榴弾砲が戦場で重宝がられるようになり、日本の後の旧陸軍では重・軽の二種を用い、軽榴弾砲は口径 十センチメートル、最大射程一万メートル、重榴弾砲は口径十五センチメートルで最大射程は一万五千メートルであった(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。但し、ここでは巡洋艦「千代田」の主砲であったアームストロング十二センチ(四十口径)単装速射砲の打ち出したものである。]

なほ進みて、灣内の陸上に向て二發を放ちぬ。

左岸の丘上に隊伍嚴然として整列せる者を見出しぬ。まぎれもなき吾が皇軍の一部なりき。ズボンは赤く胸には黃條(わうじやう)をかけたり。之れ騎兵に非ずや。皆な馬より下りて息(いこ)ふものゝ如し。山頂に馬を立つる一騎あり。視點(してん)何處をか指すぞ。列をはなれて集まる數人(すにん)あり。議する事何ぞ。

千代田列(れつ)に歸り、艦隊又旅順口の前面に向て航す。日已に西に傾く。

海面を拔くこと一千五百尺の老鐡山、半ばは密雲(むつうん)の閉ざす處となりぬ。遙かに旅順の丘を見渡すに黑雲(こくうん)低く垂れて、光景極めてものすごし。[やぶちゃん注:「一千五百尺」四百五十四・五四メートル。ある学術論文のデータでは、現在の正式な老鉄山の標高は四百六十五・六メートルである。]

陸戰の模樣如何と心配し乍ら進みゆくうち、一信を得たり。旅順右側の砲臺は已に吾軍の占領する處となりたりとの事、先づは一安心と思ふ間もなく、突然左側海岸砲臺の一個より、吾が艦隊に向て射擊をはじめたり。

第一に落下したる彈丸は、橋立、嚴島の艦側百間(?)計り[やぶちゃん注:凡そ百八十二メートル。]の處に落ち、潮水(てうすゐ)直立して空中にはね上る事數丈もあらんかと思はれ、其の勢の猛烈なること、嘗て陸上にて想像せしが如き者に非ず。一發又一發遠く落ち近く墮(お)つ。

砲臺より白煙起りし時は、則ち發砲せし時なり。今か今かと思ひつゝ、何處(いづこ)に落つるぞと、見廻はすうち、一秒もいや長く感じて、やゝ暫くして轟然と海中に落つ。彈丸海中に落つるや否や、砲聲遠雷の如く響き、彈丸の空をきる音、雲も亦振動するかと思はるゝ程の、一種魂の底に沁み渡るが如き響を以て來る。白煙バツと發し、彈丸落下するまで、今か今かと待つ時など、餃り氣味のよきものに非ず。

玆に可笑(をか)しかりしは、彼の英國軍艦ポーポイズが何心なく、砲臺のもとを通過せんとしたる時、支那兵已に非常に狼狽したるならめ、忽ち英艦に向て發砲したり。二丸船尾近く海水に落ちぬ。ポーポイズ先生の驚きは如何、全速力を以て沖合に向け馳逃(はせに)げたり。

砲臺より頻りに擊ちたれども、幸にして一發も達せず、吾が艦隊よりは一發も應戰せずして悠々然と通過したり。

日は暮れなんとす。風雲益〻慘憺(さんたん)を加ふ。見る! 旅順の入口より滊船走り出でたり。水雷艇は波を蹶(けつ)て驀地(まつしぐら)に追かけたり。後(のち)の報告に曰く、滊船自から陸に乘り揚げたりと。

更らに一信を得、曰く吾が陸軍已に背面防禦の一部を破りたり、今夜か明朝のうち海岸砲臺に迫まる筈なれば、艦隊よりの射擊は停止せられたし云々。

顧みれば旅順海岸の連山、今や全く雲の底に埋(うづ)まりぬ。雨や降る、雪や來る、風や襲ふ、何か無くては叶ふまじき光景なり。天も亦昏(くら)し、艦上に默(もく)して立つ人をして、愴然として淚あらしむ。

今夜此の如く漫航し、明朝再び旅順に歸るべし、陸戰の結果を見るぞ樂しみなる、など語りて吾れ早く寢(ね)たり。

烈風果して襲ひ來りぬ。艦隊列を解き、思ひ思ひに大連灣指して一先づ引き揚げたるは今朝(こんてう)なり。

   *

「報あり放順落つと」ウィキの「日清戦争」によれば、同年九月二十一日、「黄海海戦」『勝利の報に接した大本営は』『旅順半島攻略戦を実施できると判断し、第二軍の編成に着手した』。『その後、まず第一師団と混成第十二旅団(第六師団の半分)を上陸させ(海上輸送量の上限)、次に旅順要塞の規模などを偵察してから第二師団の出動を判断することにした』。十月八日、『「第一軍と互いに気脈を通し、連合艦隊と相協力し、旅順半島を占領すること」を第二軍に命じ』、二十一『日、第二軍は、海軍と調整した結果、上陸地点を金州城の東・約』百キロメートル『の花園口に決定した』。『第一軍が鴨緑江を渡河して清の領土に入った』二十四日、『第二軍は、第一師団の第一波を花園口に上陸させた。その後、良港を求め、西に』三十キロメートル『離れた港で糧食・弾薬を揚陸』、十一月六日、『第一師団が金州城の攻略に成功』、十四日には、『第二軍』が『金州城の西南』五十キロメートルの『旅順を目指して前進』を開始し、十八日には『偵察部隊等が遭遇戦を行った』。十一月二十一日、『総攻撃をかけると』、『清軍の士気などが低いこともあり』(約一万二千人の清の兵士の内、約九千人が新規募集兵であった)、翌二十二日までに『堅固な旅順要塞を占領した。両軍の損害は、日本軍が戦死』者四十名、戦傷者二百四十一名、行方不明七名に『対し、清軍』の戦死者は四千五百名(内、金州(大連)及び金州から旅順までの戦闘で約二千名)で、捕虜は六百人であったとある。]

2019/03/21

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(39) 「河童の神異」(5)

《原文》

 所謂夏越祭又ハ牛ノ藪入ノ趣旨ハ多クハ牛馬ノ疫病ヲ防グ爲ナリト云フモ、又異ナリタル口碑ノ存スルアリ。例ヘバ備後ノ福山附近ニテハ、七月七日ニ牛馬ヲ海川ニ引入レテ置ケバ、年中河童ノ災難ニ遭フコト無シト信ゼラレタリ〔風俗問狀答書〕。【野牧】【河童ノ祭】曾テ河童ガ馬ヲ引込マントシテ失敗セシ古跡、土佐長岡郡ノ下田ナドニテハ、每年六月十五日ニ家々ノ馬ヲ川端ニ引出シ、長キ綱ヲ以テ之ヲ杭ニ繫ギ置クヲ野牧ト稱シ、此ノ日ハ又河童ノ祭ヲ營ム〔土州淵岳志〕。遭難當時ヲ記念スル爲ニ年々同ジ作法ヲ繰返スモノカ、但シハ又斯ル慣習アル爲ニ此傳說ヲ發生セシモノカ、之ヲ判斷セザルべカラザルハ我々ナリ。思フニ猿ノ水中ニ住ムニ至リシモ、段々ノ順序ヲ考ヘテ見レバ必ズシモ非常ニ不自然ニハ非ズ。川ノ流ノ淵ヲ爲ス場處ヲ諸國ニテハ多クハ釜ト云フ。【竃ノ祭】釜ハ英語ノ「ポツト」ナドトハ別ニテ、周圍ヲ巖石ニテ圍ハレ一方ニノミ開ケルサマ、ホボ竃ノ形ニ似テ居ルガ爲ノ名ナルガ如ク、昔ヨリ之ヲ竃ノ神ノ祭場ニ用ヰタリシガ如シ。陸上ニテモ岩ノ形ノ竈ニ似タル處ヲ崇敬シタル例ハ多シ。巫女ノ宗教ニ於テハ生命ノ根原トシテ食物調製ノ爲ニ用ヰラルヽ竃其物ヲ祭ル風アリキ。貴人大家ナラバ家々ノ竃ニ就キテ其祭ヲ營ミシナランモ、一村一鄕合同ノ竃祭ニハ、天然ノ地形ノ竈ニ似タル處、卽チ前ニ屢擧ゲタルガ如キ川々ノ淵、又ハ山中ノ岩組ノ中凹ナル處ナドヲ其祭場ニ選定セシモノナラン。【馬ト竃】而シテ竃ノ神ト馬トハ夙クヨリ深キ關係アリキ。此ハ馬ノ蹄ノ痕ガ昔ノ時代ノ竈ノ形ト似テ居タリシ爲カ、或ハ又竈ハ火ノ神ナルガ故ニ午ニ相當スル馬ヲ以テ其ノ象徵トシタルモノカ、未ダ充分ニ其理由ヲ知ル能ハザルモ、兎ニ角二者ノ關係アリシコトノミハ疑無シ。馬ノ鞋ヲ作リテ初春每ニ之ヲ竃ノ神ニ供ヘ、馬ノ繪札ヲ竃ノ傍ニ貼附ケ、或ハ又生レシバカリノ馬ノ子ヲ曳キテ竈ノ神ヲ拜マシムルガ如キ風習ノ、今モ各地ニ行ハルヽモノ甚ダ多シ。牛ニ就キテモ之ニ似タル例アリ。例ヘバ羽後北秋田郡阿仁合(アニアヒ)町ニテハ、十二月二十八日ニ竈ノ神ノ祭アリ。宮ノ神主ハ一枚ノ紙ニ三十六ノ牛ヲ印刷シタルモノヲ家每ニ配リタリ。昔伊勢ニテ三十六頭ノ牛物ヲ運ビテ功アリ。【飯盛】御炊(ミカンキ)ノ神氷沼道主(ヒヌマノミチヌシ)、三十六ノ「ヘツヒ」ノ神ヲ率ヰテ朝夕ノ大御食(オホミケ)ヲ炊キ供フト云フ故事ニ基クカト云ヘリ〔眞澄遊覽記二十三〕。但シ其故事何ニ見ユルカヲ知ラズ。此等ノ關係ヨリ察スレバ、竃ノ神ノ祭場ガ同時ニモシクハ時代ヲ經テ、牛馬ノ神ノ祭場トナルコト無シト云フべカラズ。而シテ所謂河童ガ牛馬ノ神トシテ常ニ水邊ノ祭場ニ居住スト考ヘシモ亦自然ノ推測ト謂フべキナリ。但シ氣紛レニ人間ノ子供ニ迄モ手ヲ出セシガ爲ニ、其正體ガ甚シク不明ト爲リ、此ノ如ク後世ノ硏究者ニ手數ヲ掛クルニ至リシナリ。

《訓読》

 所謂、「夏越祭」又は「牛の藪入り」の趣旨は、多くは牛馬の疫病を防ぐ爲なりと云ふも、又、異(こと)なりたる口碑の存するあり。例へば、備後の福山附近にては、七月七日に牛馬を海川(うみかは)に引き入れて置けば、年中、河童の災難に遭ふこと無しと信ぜられたり〔「風俗問狀答書(ふうぞくとひじやうこたへ)」〕。【野牧(のまき)】【河童の祭】曾つて河童が馬を引き込まんとして失敗せし古跡、土佐長岡郡の下田などにては、每年六月十五日に家々の馬を川端に引き出だし、長き綱を以つて之れを杭(くひ)に繫ぎ置くを「野牧」と稱し、此の日は又、河童の祭を營む〔「土州淵岳志」〕。遭難當時を記念する爲に年々同じ作法を繰り返すものか、但しは、又、斯かる慣習ある爲に此の傳說を發生せしものか、之れを判斷せざるべからざるは、我々なり。思ふに、猿の水中に住むに至りしも、段々の順序を考へて見れば、必ずしも非常に不自然には非ず。川の流れの淵を爲す場處を諸國にては多くは「釜(かま)」と云ふ。【竃(かまど)の祭】釜は英語の「ポツト」[やぶちゃん注:pot。]などとは別にて、周圍を巖石にて圍はれ。一方にのみ開けるさま、ほぼ竃の形に似て居るが爲の名なるがごとく、昔より之れを竃の神の祭場に用ゐたりしがごとし。陸上にても、岩の形の竈に似たる處を崇敬したる例は多し。巫女(ふぢよ)の宗教に於ては生命の根原として食物調製の爲に用ゐらるゝ竃其の物を祭る風ありき。貴人大家ならば家々の竃に就きて其の祭を營みしならんも、一村一鄕合同の竃祭には、天然の地形の竈に似たる處、卽ち、前に屢々擧げたるがごとき川々の淵、又は、山中の岩組みの中凹(なかくぼ)なる處などを、其の祭場に選定せしものならん。【馬と竃】而して竃の神と馬とは夙(はや)くより深き關係ありき。此れは、馬の蹄(ひづめ)の痕(あと)が昔の時代の竈の形と似て居たりし爲か、或いは又、竈は「火」の神なるが故に「午(うま)」に相當する「馬」を以つて其の象徵としたるものか、未だ充分に其の理由を知る能はざるも、兎に角、二者の關係ありしことのみは疑ひ無し。馬の鞋(わらぢ)を作りて、初春每に之これを竃の神に供へ、馬の繪札を竃の傍らに貼り附け、或いは又、生れしばかりの馬の子を曳きて、竈の神を拜ましむるがごとき風習の、今も各地に行はるゝもの甚だ多し。牛に就きても之れに似たる例あり。例へば、羽後北秋田郡阿仁合(あにあひ)町にては、十二月二十八日に竈の神の祭あり。宮の神主は、一枚の紙に三十六の牛を印刷したるものを家每に配りたり。昔、伊勢にて三十六頭の牛、物を運びて功あり。【飯盛(いひもり)】御炊(みかしき)の神氷沼道主(ひぬまのみちぬし)、三十六の「へつひ」[やぶちゃん注:「竃(へつつい(へっつい)」。「かまど」の主に関西での呼称。]の神を率ゐて、朝夕の大御食(おほみけ)を炊き供ふと云ふ故事に基づくかと云へり〔「眞澄遊覽記」二十三〕。但し、其の故事、何に見ゆるかを知らず。此等の關係より察すれば、竃の神の祭場が同時に、もしくは、時代を經て、牛馬の神の祭場となること、無しと云ふべからず。而して、所謂、河童が牛馬の神として常に水邊の祭場に居住すと考へしも亦、自然の推測と謂ふべきなり。但し、氣紛(きまぐ)れに人間の子供にまでも手を出だせしが爲に、其の正體が甚しく不明と爲り、此くのごとく、後世の硏究者に手數を掛くるに至りしなり。

[やぶちゃん注:「備後の福山附近にては、七月七日に牛馬を海川(うみかは)に引き入れて置けば、年中、河童の災難に遭ふこと無しと信ぜられたり〔「風俗問狀答書(ふうぞくとひじやうこたへ)」〕」「備後の福山」現在の広島県福山市(グーグル・マップ・データ)。たまたまこの引用書の読みを確認するために調べたところが、国立国会図書館デジタルコレクションの画像で当該ページを調べ得た。ところが、その「備後浦崎村風俗問狀答」パートの「七月」の「七日星祭の事」には、

   *

牛を海へ追行、汐をかけ洗申候。

   *

あるだけで、そうし「て置けば、年中、河童の災難に遭ふこと無しと信ぜられたり」という記載はどこにも、ないのだ! 危うく、柳田國男に騙されるところだった! 不愉快!!!

「土佐長岡郡の下田」今回、地名変遷を順に辿ってゆくと、ここは現在の高知県南国(なんごく)市稲生(いなぶ)地区内(グーグル・マップ・データ)にあったことが判明した。しかもこの地図、見覚えがあると思ったら、「馬ニ惡戲シテ失敗シタル河童」(3)」で既注であった。そこに出る「河童の祭」の注を再掲する。そこには確かに河童を祀った「河泊(かはく)神社」が現存するのである。サイト「Web高知」の「稲生のエンコウ祭―河泊様―」の解説によれば、旧暦六月十二日に「エンコウ祭り」が今も行われている。位置は同サイトの別ページで、ここ。判り難い方のために。正規のグーグル・マップ・データのこの中央辺りである。サイト「日本伝承大鑑」の「河泊神社」によれば、『この神社の来歴は未詳であるが、かつてこの地にあった円福寺の境内に漂須部(ひょうすべ)明神という社があり、それが改称されて存続したのではないかとも考えられる』(「ひょうすべ」『も河童の異称である)』。『毎年』七『月に河泊祭りがおこなわれており、地元の人も「河泊様(かあくさま)」と呼んで崇敬しているという。祭りでは、近くの小学生による奉納相撲がおこなわれ』る、とある。そこで私は『但し、ここで柳田が言っている「下田」村で行われていたという「河童の祭」と同一のものかどうかは定かではない』としたが、ここの記載から間違いないことが確定したと言ってよい。但し、現在、その祭事は「六月十五日」ではなく、旧暦「六月十二日」である。これは柳田國男が誤ったものかどうかは、「土州淵岳志」を見られないので判らぬ

「巫女(ふぢよ)の宗教に於ては生命の根原として食物調製の爲に用ゐらるゝ竃其の物を祭る風ありき」私は思うに、竈が祀られる真の意味は形が食物を調製するからではなく、竈の形が子宮を連想させるからであると考える。いや、食物絡みでもいい。そもそもが保食神(うけもちひのかみ)はその「火登(ほと)」(陰部)から麦・大豆・小豆を生んでいるのだから。南方熊楠先生なら、私のこの物言いに、ニッコリ笑って頷いて戴けるものと存ずる。

『竈は「火」の神なるが故に「午(うま)」に相當する「馬」を以つて其の象徵としたるものか』五行思想で「火(か)」は方位で南=「午」である。しかしどうも、説得力に欠く謂いである。

「羽後北秋田郡阿仁合(あにあひ)町」現在の秋田県北秋田市阿仁地区(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。幾つかの神社を認めるが、果たして現在も「十二月二十八日に竈の神の祭」があり、「宮の神主」か「一枚の紙に三十六の牛を印刷した」「ものを家每に配」っているかどうかは確認出来なかった。郷土史研究家の御教授を乞うものである。ただ当地には「阿仁郷土文化保存伝承館」(北秋田市阿仁銀山下新町)なるものがあるので、ここに行けば、或いは判るかも知れぬ。

「伊勢にて三十六頭の牛、物を運びて功あり」不詳。識者の御教授を乞う。

「飯盛(いひもり)」以下の文章から、テキトーに訓じた。

「御炊(みかしき)の神氷沼道主(ひぬまのみちぬし)」「御炊」は辞書的には「内膳司の官人。また、一般に貴人の食事の準備をする者」或いは「貴人の食事を調える場所」の意であるが、ここは厨房の神ということらしい。「氷沼道主」というのはよく判らぬが、ある記載(複数)には「粟御子神」「粟嶋坐神乎多乃御子(あはしまにますかみをたのみこ)」の子孫とあるが、これらの神がまた、その人らの解説を読んでも、どんな神なのか一向に判らぬ。お手上げ。まあ、柳田國男自身が「其の故事、何に見ゆるかを知らず」と言っているんだから、しゃあないか。

「大御食(おほみけ)」天皇の食べる食物。「大御饗(おほみあへ)」に同じ(「おほみ」は接頭語)。]

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 野豬(ゐのしし) (イノシシ)

Inosisi



ゐのしゝ

野豬

     【和名久佐

      井奈岐

      俗云井乃

      之々】

本綱野豬有深山形如豬但腹小脚長毛色褐或黃作羣

行牙出口外如象牙其肉有至二三百斤者能與虎闘或

云能掠松脂曳沙石塗身以禦矢也最害田稼亦啖蛇虺

獵人惟敢射最後者若射中前者則散走傷人

肉【甘平】 治癲癇補肌膚益五臟【青蹄者不可食忌巴豆】其肉赤如馬

 肉食之勝家豬牝者肉更美

                  爲家

 新六はた山の尾上つゝきのたかゝやにふすゐありとや人とよむらん

△按野豬怒則背毛起如針頸短不能顧左右觸牙者無

 不摧破如爲獵人被傷去時人詈謂汝卑怯者蓋還乎

 則大忿怒直還進對合與人决勝負故譬之猛勇士惟

 突傷鼻及腋則斃

――――――――――――――――――――――

嬾婦獸 出嶺南似山豬而小善害田禾惟以機軸紡織

 之噐置田所則不復近也

ゐのしゝ

野豬

     【和名、「久佐井奈岐〔(くさゐなき)〕」。

      俗に云ふ、「井乃之々」。】

「本綱」、野豬は深山に有り。形、豬〔(ぶた)〕のごとく、但〔(ただ)〕、腹、小さく、脚、長く、毛の色、褐、或いは、黃。羣行を作〔(な)〕す[やぶちゃん注:群れを成して行動する。]。牙、口の外に出でて、象の牙のごとし。其の肉、二、三百斤[やぶちゃん注:明代の一斤は五百九十六・八二グラムであるから、百十九キロ強から百七十九キログラムに当たる。実際のイノシシの成体個体としては正当な数値である。後注の下線太字部参照。]に至る者、有り。能く虎と闘ふ。或いは云ふ、能く松脂〔(まつやに)〕を掠〔(りやく)〕して[やぶちゃん注:擦り採って。]、沙石に曳き、身に塗りて、以つて矢を禦ぐ〔と〕。最も田稼〔(でんか)〕[やぶちゃん注:田畑の作物の総称。]を害し、亦、蛇・虺〔(まむし)〕を啖(くら)ふ。獵人、惟だ、敢へて〔群れの〕最も後〔(しり)〕への者を射る。若〔(も)〕し、射て、前の者に中〔(あた)〕るときは、則ち、散走して人を傷つくる。

肉【甘、平。】 癲癇を治し、肌膚を補し、五臟に益あり【青〔き〕蹄〔(ひづめ)〕の者〔は〕食ふべからず。巴豆〔(はづ)〕を忌む。】。其の肉、赤く、馬の肉ごとし。之〔れを〕食〔ふに〕、家-豬(ぶた)に勝れり。牝(め)は、肉、更に美なり。

                  爲家

 「新六」

   はた山の尾〔(を)の〕上〔(へ)〕つゞきのたかゝやに

      ふすゐありとや人とよむらん

△按ずるに、野豬(ゐのしゝ)、怒れば、則ち、背の毛、起ちて針のごとし。頸、短く、左右を顧みること能はず。牙に觸るる者、摧(くじ)き破(わ)らざるといふこと無し。如〔(も)〕し、獵人(かりうど)の爲に傷(きづ)ゝけられて去る時、人[やぶちゃん注:その猟人。]、詈(のゝし)りて「汝、卑怯(ひきよ〔う〕)者、蓋〔(なん)〕ぞ還(かへ)さざるや」〔と言へば〕、則ち、大きに忿-怒(いか)りて、直ちに還り、進んで對し、合〔(がつ)〕して、人と勝負を决す。故に、之れを「猛き勇士」に譬〔(たと)〕ふ。惟だ〔し〕、鼻及び腋〔(わき)〕を突き傷つくれば、則ち、斃〔(へい)〕す[やぶちゃん注:斃(たお)れ死す。]。

――――――――――――――――――――――

嬾婦獸〔(らんぷじう)〕 嶺南に出づ。山豬(ゐのしゝ)に似て、小さく、善く田〔の〕禾〔(いね)〕を害す。惟だ〔し〕、機軸(はたをり)・紡織の噐〔(き)〕を以つて田の所に置かば、則ち、復た〔とは〕近かづかざるなり。

[やぶちゃん注:本邦の本土(北海道を除く)産は哺乳綱鯨偶蹄目イノシシ亜目イノシシ科イノシシ属イノシシ亜種ニホンイノシシ Sus scrofa leucomystax。他に亜種リュウキュウイノシシ Sus scrofa riukiuanus が南西諸島(奄美大島及び琉球諸島の一部(沖縄島・石垣島・西表島等)に分布する(以下に引用するように八重山諸島の群を別亜種として三亜種とする主張や、これらは亜種ではない同属のタイプ種とは別種とする説もある)。ウィキの「イノシシ」を引く。良安も述べている通り、『「猪突猛進」という成句がある』ように、『突進力が強い半面、犬と同じくらい鼻が敏感で、神経質な動物でもある。本種の家畜化がブタである』。『学名は「Sus scrofa」であり、リンネによる命名である。ウシやウマなど他の家畜の学名では野生種より前に家畜種に命名されている例が多々あり、先取権の点から問題となった(審議会の強権により解決された)が、イノシシとブタの間ではそのような問題は起きなかった。古い大和言葉では「ヰ(イ)」と呼んだ。イノシシは「ヰ(猪)のシシ(肉)」が語源であり、シシは大和言葉で「肉」を意味する(「ニク」は音読みの呉音)。現代中国語では、「猪(豬)」の漢字は主にブタの意味で用いられており、イノシシは「野猪(豬)」と呼んで区別する。』。『元来はアジアやヨーロッパなどを中心に生息していた。人間によってイノシシまたはその家畜化されたブタが再野生化したものがアメリカ大陸やオーストラリア大陸などにも放され、爆発的に生息域を広げることになった。分布地域によって個体に大きな差があり、米国アラバマ州では体長約』二・八メートル、体重約四百七十キログラムにも達する『巨大なイノシシが過去には仕留められている。中国東北部のイノシシも体重』三百キログラム以上に達する個体も『ある。日本には北海道を除いてニホンイノシシとリュウキュウイノシシの』二『亜種』乃至『八重山諸島のグループをさらに分けた』三『亜種が分布する。いずれもイノシシの亜種ではなく、別種として分類すべきとの議論もなされている』。なお、ニホンイノシシの場合は性的二型で、よりも小さく、体長はで百十~百七十センチメートル、で百~百五十センチメートル、肩高は六十~九十センチメートル、尾長は三十~四十センチメートル、体重は八十~百九十キログラム(岐阜市で約二百二十キログラムもの個体が捕獲されたことがある)『古くから狩猟の対象とされてきた動物の一つであるが、非常に神経質で警戒心の強い動物である。普段より見慣れないものなどを見かけると、それをできるだけ避けようとする習性がある』。『非常に突進力が強く、ねぐらなどに不用意に接近した人間を襲うケースも多い』。イノシシの成獣個体は七十キログラムか、それ以上の体重を有し、さらに、時速四十五キロメートルで走ることも『可能であり、イノシシの全力の突撃を受けると、大人でも跳ね飛ばされて大けがを負う危険がある。オスの場合には牙も生えているため、たとえ立ち止まっている場合でも』、『オスの場合は鼻先をしゃくり上げるようにして牙を用いた攻撃を行う。オスの牙は非常に鋭く、訓練された猟犬であっても』、『縫合が必要な大きな裂傷や深い刺傷を負う場合があり、作業服程度の厚さの布も容易に切り裂いてしまうという』。『この牙による攻撃は』、丁度、『成人の太ももの高さに当たるため、人間が攻撃された場合、大腿動脈を破られて失血死するケースが多く、非常に危険である』。『メスは牙が短い為、牙を直接用いた攻撃をする事は少ないが、代わりに大きな顎で噛み付く場合がある。メスであっても』、『小動物の四肢の骨程度であれば』、『噛み砕く程の力がある』(イノシシだけではない。私は二十数年前、養豚場のブタが、飼い主の老婦人の臀部に噛みつき、同人が出血性ショックで亡くなった事件を知っている)。『多くの匂いに誘引性を示し、ダニ等の外部寄生虫を落としたり』、『体温を調節したりするために、よく泥浴』『・水浴を行う。泥浴・水浴後には体を木に擦りつける行動も度々観察される』(本文の「松脂」云々の記載はそれを誤認したものであろう。そのように意識的に汚した体表毛は時に硬く固まって鎧のような効果も持つように思われる)。『特にイノシシが泥浴を行う場所は「沼田場(ヌタバ)」と呼ばれ、イノシシが横になり転がりながら全身に泥を塗る様子から、苦しみあがくという意味のぬたうちまわる(のたうちまわる)という言葉が生まれた』。『生息域は低山帯から平地にかけての雑草が繁茂する森林から草原であり、水場が近い場所を好む。食性は基本的に山林に生えている植物の根や地下茎(芋など。冬場は葛根も食べる)、果実(ドングリなど)、タケノコ、キノコなどを食べる、草食に非常に偏った雑食性(植物質:動物質≒9:1)である。芋類は嗅覚で嗅ぎ付け、吻と牙で掘り起こして食べる。動物質は季節の変化に応じて昆虫類、ミミズ、サワガニ、ヘビなどを食べる。食味が良く簡単に手に入れられる農作物を求めて』、『人家近辺にも出没することがある。穀物も採餌対象であり、田畑で実った稲』『やトウモロコシも食害に遭う。鳥類やアカシカなど小型哺乳類なども採餌し、死骸が落ちていた時に食餌する。基本的には昼行性で日中に採餌のため徘徊し、人間活動による二次的な習性で夜行性も示す』。『野生下での寿命は長くて』十『年であり、一年半で性成熟に達する。幼少期にはシマウリ(縞瓜)に似た縞模様の体毛が体に沿って縦に生えており、成体よりも薄く黄褐色をしている。イノシシの幼少期は天敵が多く、この縞模様は春の木漏れ日の下では保護色を成す。その姿かたちからウリ坊(ウリン坊とも言う)、うりんこ、うりっことも呼ばれ、この縞模様は授乳期を過ぎた生後約』四『か月程度で消える』。『繁殖期は』十二『月頃から約』二『か月間続く。繁殖期の雄は食欲を減退させ、発情した雌を捜して活発に徘徊する。発情雌に出会うと、その雌に寄り添って他の雄を近づけまいとし、最終的にはより体の大きな強い雄が雌を獲得する。雌の発情は約』三『日で終わり、交尾を終えた雄は次の発情雌を捜して再び移動していく。強い雄は複数の雌を獲得できるため、イノシシの婚姻システムは一種の一夫多妻であるとも言える。雄は長い繁殖期間中ほとんど餌を摂らずに奔走するため、春が来る頃にはかなりやせ細る』。『巣は窪地に落ち葉などを敷いて作り、出産前や冬期には枯枝などで屋根のある巣を作る。通常』四『月から』五『月頃に年』一『回、平均』四・五『頭ほどの子を出産する。秋にも出産することがあるが、春の繁殖に失敗した個体によるものが多い。妊娠期間は約』四『か月。雄は単独で行動するが』、『雌はひと腹の子と共に暮らし、定住性が高い。子を持たない数頭の雌がグループを形成することもある』。『短い脚と寸胴に似た体形に見合わない優れた運動能力を持ち、最高では人間の短距離走世界記録保持者』(百メートルを約九秒台後半から十秒で走り、時速は三十六キロメートル強に相当する)『をも凌ぐ約』時速四十五キロメートルの『速さで走ることが可能である。農研機構近畿中国四国農業研究センターの実験によると』、七十キログラムの成獣が一メートル二十一センチメートルの『高さのバーを』、『助走もなしに跳び越えることができた』という。但し、『立体感のあるものは苦手で、斜めに立てられた柵は越えることができない』。『扁平になった鼻の力(実際には首~上肢の力)はかなり強く、雄で』七十キログラム『以上、雌でも』五十~六十キログラム『もある石を動かすことができる』。『基本的には水を嫌い泳ぐことはないが、追い立てられたりして止むを得ず泳ぐこともある。犬かきで時速』四キロメートル『程度を出せ』、三十キロメートルの距離を『泳ぐことも不可能ではないという』。『瀬戸内海では島の間を渡る猪がたびたび目撃されている』。『積極的に前進することや向こう見ずに進むことを「猪突猛進」といい、これはイノシシが真っすぐにしか進めないところからきていると言われている。実際のイノシシは他の動物と同様前進している際、目の前に危険が迫った時や危険物を発見した時は急停止するなどして方向転換することができ、真っすぐにしか進めないという認識は誤りである』。『大型肉食動物(トラ、ライオン、ヒョウ、オオカミ、クマ、ワニ、大蛇など)とイノシシの生息地が被る際には、主に幼獣を含む中小の個体が他の有蹄類と同様に捕食対象となる。逆に大型の個体では撃退はおろか返り討ちにするケースも見られる。なお、それらが生息していない地域や、過去には生息していたが』、『現在では絶滅している地域では、成獣を殺害・捕食する大型動物は人間以外にはほぼ存在しない。そうした地域では野犬やカラス、キツネや大型の猛禽類等が幼獣を捕食する程度である』。『縄文時代にはシカとともに主要な狩猟対象獣であった。北海道や離島からも骨が出土し、これらの島には人為的に持ち込まれたと考えられている』。『山梨県北杜市大泉町の金生』(きんせい)『遺跡は八ヶ岳南麓に立地する縄文時代後期の遺跡で、配石遺構が出土したことが知られる。金生遺跡からは焼けたイノシシ幼獣の下顎骨がまとまって出土しており、馴化して飼養状態において、食用に間引いていたとも考えられている』。『イノシシは多産であることから、縄文時代には豊穣の象徴として、縄文時代の精神世界においても重視されていたとされ、土器文様としてイノシシ装飾が見られる。金生遺跡の焼骨も何らかの祭祀に関わる遺物であると考えられている』。『日本で獣肉食が表向き禁忌とされた時代も、山間部などでは「山鯨(やまくじら)」(肉の食感が鯨肉に似ているため)と称して食されていた。「薬喰い」の別名からもわかるように、滋養強壮の食材とされていた。「獅子に牡丹」という成句から、獅子を猪に置き換えて牡丹肉(ぼたんにく)とも呼ばれる』『イノシシ肉の鍋料理を「ぼたん鍋」と称する』とある(引用に際しては、いくつかの項を省略している)。

「久佐井奈岐〔(くさゐなき)〕」小学館「日本国語大辞典」によれば、イノシシの古名とし、本邦初の漢和薬名辞書とされる「本草和名(ほんぞうわみょう)」(全二巻。深根輔仁(ふかねすけひと)著。延喜一八(九一八)年頃の成立。本草約千二十五種の漢名に別名・出典・音注・産地を附し、万葉仮名で和名を注記してある)に、『野猪黃 和名久佐爲奈岐』とし、「今昔物語集」巻第二十の、私の偏愛する一篇「愛宕護山聖人被謀野猪語第十三」(愛宕護(あたご)の山の聖人、野猪(くさゐなぎ)に謀(たまか)れたる語(こと)第十三)の文中の例を引く(前にも「象」で紹介したが、私の『柴田宵曲 續妖異博物館 「佛と魔」(その3) 附小泉八雲Common Sense原文+田部隆次譯』で全文を電子化してある)。語源説には、最初に『クサヰノキ(草猪黄)の義か。クサイは、ブタ(家猪)に対してヰノシシ(野猪)をいう語。キ(黄)は脳の意。脳を薬用にするところから〔大言海〕』を挙げ、次に『クサナギ(草坐長)の義〔日本語原学=林甕臣〕』とする。

「田稼」「稼」は本来、「穀物を植える」(熟語の「稼穡(かしょく)」は「穀物の植え付け」と「穫(と)り入れ」、「種蒔き」と「収穫」の意で、転じて「農業」の意とする)や「穫り入れた穀物」(熟語の「禾稼(かか)」は「禾」が「穀類の総称」、「稼」は「実った穀物」の意で穀物・穀類)の意なのであり、そこから「働く・かせぐ」の意に転じたのである。

「虺〔(まむし)〕」「蝮」で、爬虫綱有鱗目ヘビ亜目クサリヘビ科マムシ亜科マムシ属 Gloydius のマムシ類。

「巴豆〔(はづ)〕」常緑小高木であるキントラノオ目トウダイグサ科ハズ亜科ハズ連ハズ属ハズ Croton tigliumウィキの「ハズ」によれば、『種子から取れる油はハズ油(クロトン油』(本種の英名 Croton に基づく)『)と呼ばれ、属名のついたクロトン酸のほか、オレイン酸・パルミチン酸・チグリン酸・ホルボールなどのエステルを含む。ハズ油は皮膚に』附着するだけで、『炎症を起こす』。『巴豆は』中国古代の本草書「神農本草経下品」や医書「金匱要略(きんきようりゃく)」に『掲載されている漢方薬であり、強力な峻下作用』(下剤の中でも作用の強いものを峻下剤と呼ぶ)『がある。走馬湯・紫円・備急円などの成分としても処方される』が、『日本では毒薬または劇薬に指定』『されているため、通常は使用されない』とある。

「爲家」「新六」「はた山の尾〔(を)の〕上〔(へ)〕つゞきのたかゝやにふすゐありとや人とよむらん」藤原定家の子藤原為家の「新撰六帖題和歌集」(「新撰和歌六帖」とも呼ぶ。六巻。藤原家良(衣笠家良:いえよし)・為家・知家・信実・光俊の五人が、仁治四・寛元元(一二四三)年から翌年頃にかけて詠まれた和歌二千六百三十五首を収めた、類題和歌集。奇矯で特異な歌風を特徴とする)の「第六 草」の載る。「日文研」の「和歌データベース」で校合済み。「畑山(山裾の畑)の尾の上續きの(山頂から続いている尾根)高萱に(背の高い草の生い茂ったところに)伏す(或いは臥す)猪ありとや人響(とよ)むらん(人々が大声を上げて騒いでいるようだ)」の意であろう。

「汝、卑怯(ひきよ〔う〕)者、蓋〔(なん)〕ぞ還(かへ)さざるや」「お前! 卑怯者め! どうして戻って来ないんだ?!」。

「進んで對し、合〔(がつ)〕して」自(みずか)ら真っ直ぐに進み出て、その狩人に対面し、ガチで組み合って。

「嬾婦獸〔(らんぷじう)〕」不詳。イノシシ属の一種ではあろうか? 「嬾婦」は中国語で「怠け者の女・無精な女」の意であり、それが以下の機織り(これは洋の東西を問わず、女性の大事な(古くは神聖な)仕事であった)の織機を置くと来なくなるというのと親和性があり、古伝承でそうした婦人が猪に変じたものと言うのであろうか「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蟋蟀(こほろぎ)」には、

   *

俚語〔(りご)〕に『趨織(こほろぎ)鳴けば、嬾婦〔(らんぷ〕驚く』と言へること、有り。

   *

とあり、また、私の『栗本丹洲自筆「翻車考」藪野直史電子化注(10) 考証第二部』の中に、

   *

「寧波府志」云はく、『江豚、形、猪に似る。一名「大白」。其の身、脂(あぶら)多く、以つて紡績せるを照らせども、則ち、昏(くら)く、賭博を照らして、則ち、明(めい)たり。舊傳に嬾婦(らんぷ)の所化(しよけ)[やぶちゃん注:化け物に変化(へんげ)すること。]せると』と。

   *

とあったのを思い出したのだ。私の考証過程はそちらをじっくりと見て戴きたいが、なにより、そこの「江豚」の文字と「形、猪に似る」に着目して貰いたいのである。「江豚」は結果して私は哺乳綱鯨偶蹄目ハクジラ亜目マイルカ上科ネズミイルカ科スナメリ属スナメリ Neophocaena phocaenoides に比定同定した。無論、この「嬾婦獸〔(らんぷじう)〕」の記事では「善く田〔の〕禾〔(いね)〕を害す」と言っているのであるから、スナメリとは、一見、思えないようでもあるのだが、現在、長江には完全な淡水に棲息するスナメリの個体群がいることが判っており、彼らが水路を伝って水深のある水田に侵入して、稲を食害するかどうかは別としても、田を荒すことは十分に考えられる。また、上記引用の「寧波」や「長江」は「嶺南」ではないものの、嶺南の沿岸地帯にもスナメリは棲息するのである(ウィキの「スナメリ」分布図を見よ)。これは私の推理に過ぎないであるが、この「嬾婦」(「本草綱目」の「野豬」の「集解」の終りに出る)は、或いは、例えば「形、猪に似る」というのを陸の獣と勘違いしたものではあるまいかとも考えているのである。

「嶺南」中国南部の南嶺山脈よりも南の地方の広域総称。現在の広東省・広西チワン族自治区・海南省の全域と、湖南省・江西省の一部に相当する(部分的には「華南」と重なっている)。参照したウィキの「嶺南」地図(キャプションに『華南/嶺南の諸都市。なお』、『福建省(かつての閩)は、多くの場合』、『嶺南には含まれない』ともある)。]

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 ※牛(もうぎう) (前と同じくヤク)



Mugyuu


もうぎう  犣牛◦犏牛

※牛【音毛】

マ◦ウ ニウ

[やぶちゃん注:「※」=「牜」+(「旄」-「方」)。「◦」は単に字が詰まったので、繋がっていないことを示すための記号。]

本綱※牛乃野牛也人多畜養之狀如水牛體長多力能

載重迅行如飛性至粗梗髀膝尾背胡下皆有黒毛長尺

許其尾最長大如斗亦自愛護草木鈎之則止而不動今

人以爲纓帽毛雜白色者以茜染紅色

三才圖會云天子車在纛以※牛尾爲之

△按野牛自中華來於肥州長崎偶有之不蕃息

もうぎう  犣牛〔(れふぎう)〕

      犏牛〔(へんぎう)〕

※牛【音、「毛」。】

ウ ニウ

[やぶちゃん注:「※」=「牜」+(「旄」-「方」)。なお、「れふぎう」は現代仮名遣「りょうぎゅう」。]

「本綱」、※牛は、乃〔(すなは)〕ち、野牛なり。人、多く之れを畜養す。狀、水牛のごとく、體、長し。多力にして能く重きを載す。迅〔(はや)〕く行くこと、飛ぶがごとし。性、至つて粗梗〔(そかう)〕なり。髀〔(もも)〕・膝・尾・背・胡〔(こ)の〕下〔(した)〕に、皆、黒毛有り、長さ、尺許り。其の尾〔は中でも〕最も長大にして、斗〔(ひしやく)〕のごとく、亦、自〔(みづか)〕ら〔も〕愛護す。草木、之れに鈎(かゝ)るときは、則ち、止〔まり〕て動かず。今の人、以つて纓帽〔(えいぼう)〕と爲す。毛、雜白色の者を、茜〔(あかね)〕を以つて紅色に染む。

「三才圖會」に云はく、『天子の車に纛(たう)在り。※牛の尾を以つて之れを爲る』〔と〕。

△按ずるに、野牛、中華より肥州長崎に來たる。偶々〔(たまたま)〕、之れ、有〔れども〕、蕃息せず[やぶちゃん注:本邦では繁殖させることが出来ない。]。

[やぶちゃん注:「※牛」の「」は「犛」と同じで繁体字「氂」と同字であり、「本草綱目」の時珍も、実物を知っているらしい良安も、単に「野牛」に言い換えてしまっており、記載内容も前項の「犛牛(らいぎう)(ヤク)」と酷似するから、同じくウシ目ウシ亜目ウシ科ウシ亜科ウシ属ヤク(野生種の学名は Bos mutus。家畜化された種としての学名はBos grunniensなのだ。思うに、いろいろな字で古代から記されたことから、後代、これらが類似する別種として誤認されたものであろう。或いは、前項に、「※は小さく、犛は大なり」とあることから、「※」はヤクの♀、「犛」は♂を別種と誤認したとも思われ、或いは、各地のヤクの個体変異を別種としたともとれなくもない。

「粗梗〔(そかう)〕」荒々しく強い。

「髀」腿(もも)。

「胡〔(こ)〕」牛などの顎の下の垂れ下がった肉を指す語。東洋文庫訳では『えぶくろ』とルビするが、これでは胃の意味になり、私は不適切と思う。

「斗〔(ひしやく)〕」柄杓。

「鈎(かゝ)るときは」引っ掛かった際には。

「止〔まり〕て動かず」毮ㇾたりして傷つくことを恐れて動かないのである。

「纓帽〔(えいぼう)〕」前項に既注であるが、再掲すると、頂きから赤い房を垂らした官人の式帽を指す。

「雜白色」白を基調として雑色の混じるもの。

「茜〔(あかね)〕」キク亜綱アカネ目アカネ科アカネ属アカネ Rubia argyi。但し、ウィキの「アカネ」によれば、和名は「赤根」で『根を煮出した汁』を本邦でも古く『上代から赤色の染料として用い』『ていた』が、『日本茜を使って鮮やかな赤色を染める技術は室町時代に一時』、『途絶えた』とある。

『「三才圖會」に云はく……』同書「儀制三巻」の「皁纛」。ここに図(左頁)、ここ(左頁)に解説が載る(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)。

「纛(たう)」(現代仮名遣「とう」)旗棹の上端に附ける、ヤクの毛を束ねて垂らした、威儀の飾り。これに旗を附けて「纛の旗」と称する。前の「三才図会」の図を参照されたい。

「偶々〔(たまたま)〕、之れ、有〔れども〕」「たまに見かけることがあるけれども」。しかし、高地高原性のヤクを果たして日本に連れて来たことがあるのかどうか、甚だ疑問ではある。何か別の種のウシ類を誤認したものではあるまいか?

「蕃息せず」「本邦では結局、繁殖させることが出来ないでいる」の意。当たり前田のクラッカーだっつうの!

告天子 國木田獨步



  告 天 子



身をば心に任せつゝ

心を天にまかせつゝ

花野のかげの塒をば

あけの眞珠の星に立つ



[やぶちゃん注:同じく「獨步遺文」より。

「告天子」とは雲雀、スズメ目スズメ亜目ヒバリ科ヒバリ属ヒバリ Alauda arvensis の異名(漢異名由来)で、通常は「かうてんし(こうてんし)」と読むのが一般的である。但し、ここはこれで「ひばり」と素直に私は読みたい。個人的に種としてのヒバリが好きだし、その「ひばり」の響きも好きだからである。本邦には亜種ヒバリAlauda arvensis japonica が周年生息(留鳥)し(北部個体群や積雪地帯に分布する個体群は、冬季になると、南下する)、他に亜種カラフトチュウヒバリ Alauda arvensis lonnbergi や亜種オオヒバリ Alauda arvensis pekinensis が、冬季に越冬のために本州以南へ飛来(冬鳥)もする。詳しくは私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 鷚(ひばり)(ヒバリ)」を参照されたい。

「塒」老婆心乍ら、「ねぐら」と読む。]

亡き友 國木田獨步



  亡 き 友



墓を隔てし君なれば

我世の樣や見えざらん

天にまします君なれば

此世の今を挑むらん

我に理想の光無く

國に正義の響絕え

雨濛々の夕まぐれ

ひとへに君を思ふ哉



[やぶちゃん注:同じく「獨步遺文」より。「國に正義の響絕え」……これはまさに――今現在そのものである――]

近頃逝きし友を思ひて 國木田獨步



  近頃逝きし友を思ひて



君は已に此世を去りて

靜かなる處に行き給ひぬ

吾は今猶前途の夢に迷ふ



前途! 前途! 何處とかある

靈なる君の聲を揚げて

吾を夢よりさませかし



君と吾とは友なりき

吾は君をいつくしみき

然り、愛したりと思ひ居たり



君逝きて、吾一度泣きぬ

今は如何に、あゝ今は如何に

君逝きてまだ一月を經ず



吾が心すでに君を忘れんとす

吾また君を思はざらんとす

天も地も不思議の命も



君と別れし刹那こそ

いと怪しくも思ひしが

今ははや何の不思議も消えにけり

靈なる君よ

迷冥にあらん吾が友よ

夜更けて願かくか吾が界を訪へ



吾君に會はんと

昨夜芝公園にと行きぬ

人行き絕えし森のなか

古き建物いや凄き

ものゝあやめも見えぬ處

靜に苔むす石に腰かけ

暗に向ひて君を呼びぬ

友よ、されど聲は無かりけり

身の毛のよだつのみなりき



君がゆきし其のあとは

雨のみ降り日も暗く

我が心いとむすぼれしが

そはたゞ濁れる血のせきしのみ



世に在ると世に亡きと

何の隔のある事ぞ

君よ、迷冥にあらん君よ

希くほとこしへの情をつゞくれ

吾をして何時までも君を

忘れしむる勿れ



如何に前途の夢にあくがるゝ時も

如何に人のてだてに湧き立つ時も

如何に人のことばに□□時も

如何に世の樣を嘆く時も

如何に戀の幻になやむ時も

君よたゞに吾にのりて

此の世の不思議を說けよかし

命の不思議を說けよかし

天地の不思議を說けよかし

以て吾を眞面目ならしめ



いぎ去らば  今夜は

君と語らん、暗き森の

  君と語らん



[やぶちゃん注:同じく「獨步遺文」より。

「迷冥」は見慣れぬ熟語であるが、「めいめい」と読んでおき(國木田獨步はクリスチャンであるから「めいみやう(めいみょう)」と敢えて読む必要はないと思う)、「迷」は単に冥界の非常な「冥」(くら)さの、迷うほどにいや深いことを強調する接頭語と採ればよいと私は思う。

「君よたゞに吾にのりて」の「のりて」は、老婆心乍ら、「告(宣)(の)りて」で「告げて」の意。]

再會 國木田獨步



  再  會



この世にまた

  君と遇ふことあらんとも

      思はざりしに

忘れねばこそ面影の

      早くも君を見つけぬる哉

浮世の巷に遇ひ見れば

  君はをさな子背に負ひて

      よき母親となられたり

君と別れてはや四とせ

      四とせが間

世のうきふしに遇ふ每に

      別れし君を思ひ出でける

我は昔にかはらねど

      君は母御となりにけり

そのをさな子を背に負ひて

  玉川の淸きほとり

      そのふる里に歸り行け

われは都に

      別れし君を思ひつゝ

世のうきふしに

     浮世のちまたにさすらはん

この世にまた

     君と遇ふことあらんかも



[やぶちゃん注:國木田獨步の明治四一(一九〇八)年六月二十三日の逝去から三年後、友人沼波瓊音(ぬなみけいおん)が編した「獨步遺文」(明治四四(一九一一)年十月日高有倫堂刊)所収。]

五月雨 國木田獨步


  五 月 雨


降(ふ)りみ降(ふ)らずみ五月雨(さつきあめ)

 晴(は)れなんとして我(わが)むねほ

君(きみ)が言葉(ことば)に曇(くも)りけり

 やがてはぬるゝ我(わが)たもと



[やぶちゃん注:明治四一(一九〇八)年六月二十三日の國木田獨步逝去から五ヶ月後の明治四一(一九〇八)年十一月十九日附『讀賣新聞』に「故國木田獨步」の名で掲載された詩篇。]

暮鐘 國木田獨步



  暮  鐘


わが夕暮(ゆふぐれ)を悲(かな)しみて

  鐘(かね)こそ響(ひび)け野末(のずゑ)なる

君(きみ)住(す)む岡(をか)の彼方(かなた)より

  鐘(かね)こそ響(ひび)け夕暮(ゆふぐれ)の。



[やぶちゃん注:明治四一(一九〇八)年六月二十三日の國木田獨步逝去から五ヶ月後の明治四一(一九〇八)年十一月十九日附『讀賣新聞』に「故國木田獨步」の名で掲載された詩篇。]

うれしき祈禱 國木田獨步


  うれしき祈禱



朝(あさ)な朝な

  われにうれしきいのりあり

祈(いの)りにいはく鳴呼(あゝ)吾(わ)が神(かみ)!

  『彼女(かのぢよ)に安(やす)きを給(たま)へかし』

アヽ此(この)祈り

  いかにうれしきいのりぞや。

人(ひと)なき室(へや)に淚(なみだ)と共(とも)に祈(いの)るなり

  『彼女(かのぢよ)の上(うへ)を守(まも)れかし』



[やぶちゃん注:五行目の「祈り」にルビがないのはママ。以下に電子化するのは、底本の「詩」パートの「遺稿」パートより。既に記した通り、國木田獨步は明治四一(一九〇八)年六月二十三日、午後八時四〇分、入院していた茅ヶ崎市南湖院にて肺結核のため(最初の兆候は既に明治三十九年末にあった)、満三十六歳と十ヶ月逝去した。本篇以下の三篇(後の「暮鐘」と「五月雨」)は、その五ヶ月後の明治四一(一九〇八)年十一月十九日附『讀賣新聞』に「故國木田獨步」の名で掲載された詩篇である。本篇は後の「獨步遺文」の中に「嬉しき祈」という標題で所収されているが、それは大きな異同があるので、以下に示す。

   *


 

 うれしき祈


 

朝(あさ)な朝な夕な夕な

我にうれしき祈りあり

祈りに曰く、あゝ吾神!

彼女の上を守れかし!

われを見捨てし彼女の上に

肉にも靈(たま)にも安きを賜へ

あゝ此祈!

いかにうれしき祈りぞや

人なき室にたゞ一人

淚と共に祈るなり!

 

   *

言わずもがなであるが、これによって本篇の「彼女」が前妻佐々城信子であろうことは推察される。但し、それ以前、獨步二十歳前後に、石崎トミとの悲恋(トミの両親が独歩があまりにも熱心なクリスチャンであったことに反対した故ともされる)があり、彼女もそこに含まれるものと考える方がより正しいと私は思っている。なお、後の「暮鐘」と「五月雨」の二篇は「獨步遺文」には所収されていない。]

2019/03/20

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(38) 「河童の神異」(4)

《原文》

 【水神】水神ト河童トハ假ニ一步ヲ退キテ最初ヨリ別物ナリトスルモ、少ナクモ牛馬ノ災ヲ避クル爲ニ水神ニ祈禱スルノ風習ノ弘ク行ハレシ事ノミハ事實ナリ。每年春ノ初又ハ夏ノ終ナドニ、牛馬ヲ引キテ川ニ入レ又ハ川原ニ於テ一日遊バシムルコトハ、其一年中ノ災ヲ攘フ爲ナリト信ゼラレ、農家ハ嚴重ニ此行事ヲ勤メタリ。馬少ナキ長門ニテハ牛ニ就キテ盛ニ此事アリ。【牛ノ正月】初春ニ行ハルヽヲ牛ノ正月又ハ牛ノ年越ト云フ。牛祭ト稱シテ二月ニ入リテ此式ヲ舉グル村方アリ。牛神樂又ハ牛申シトモ名ヅケタリ。【牛ノ禁忌】五月五日ト六月晦日ト兩日牛ヲ使ハザル村ハ最モ多シ。【ヒサゴ】大津郡俵山、美禰郡岩永、共和村大字靑景等ニ於テハ、端午以後八朔マデ他鄕ノ牛ノ村ニ入ルコトヲ禁ジ、之ヲ犯シタル者ハ瓢簞ヲ頭ニ被ラセ牛ニ乘セテ村ヲ追放ス。又婦人ヲシテ牛ヲ使ハシメモシクハ農具ヲ掛ケタルマヽ牛ニ川ヲ渡ラシムルコトモ嚴禁ナリ。此等ノ禁條ハ農業ノ爲不利益ナリトテ、俵山ニテハ天明四年ニ畔頭(クロガシラ)等ノ連判ヲ以テ之ヲ廢シタリシモ、尚且ツ人民ノ不安ヲ如何トモスル能ハズ、四十年ノ後再ビ前ヨリモ一層八釜シキ禁止ヲ申合セタリ。此等ノ村々ニテハ六月末日ノ牛ノ休ミヲ夏越(ナコシ)ト云フ。【柱松】所謂柱松ノ行事モ夏越ト關係アリ、之ヲ行ハザレバ牛ノ病難アリト信ゼラレ、此ヲ又牛燈ト稱ス。美禰郡赤鄕村大字赤ニテハ、六月晦日ヲ夏越ト唱ヘ、軒別牛馬ヲ山野ニ繋ギ休息仕ラセ候。同郡眞長田(マナガタ)村大字長田ナドニテハ、此日牛馬ヲ川へ連レ行キ一日休息セシメ候云々。【牛ノ祇園】阿武郡大井村ニテハ六月十五日ヲ牛ノ祇園ト稱シ、村民牛ヲ洗ヒテ地下(ヂゲ)ノ小社へ參詣仕リ、半日一日休息セシメ候ナド、何レモ村村ノ書上ニ見ヘタリ〔以上長門風土記〕。【牛ノ藪入】大阪附近ノ田舍ニテハ五月五日ヲ牛ノ藪入ト云フ。【鞍】例年此日ハ梅田堤へ近在ノ飼牛ニ新シキ鞍ヲ置キ、肩ニ色々ノ花ヲ結ビ附ケテ、朝ノ五ツ時ヨリ一時バカリ此邊ノ野ニ放チ、ヤガテ牛ノ心ノマヽニ家路ニ還ル。農民粽ヲ數多持來リテ見物ノ人ニ之ヲ蒔散ラス。【疱瘡】之ヲ得テ歸レバ小兒ノ疱瘡輕シトテ爭ヒテ拾ヒ取ル〔攝陽落穗集二〕。是レ今ヨリ百年バカリ前迄ノ風習ナリ。【牛カケ】或ハ又之ヲ「牛カケ」トモ謂フ〔攝陽見聞筆拍子三〕。紀州奧熊野ニ行ハルヽ「牛カケ」ハ、普通田植ノ後ニ田地ノ一部ヲ區劃シテ之ヲ行フ。其有樣餘程競馬ナドノ興行物ニ近クナレリ〔鄕土硏究一ノ五號川口氏〕。端午ノ日ノ競馬ハ必ズシモ賀茂社ノ模倣ノミニハ非ザルべシ。現在ハ如何ニモアレ、其最初ノ動機ハ亦此邊ニ存スルニハ非ザルカ。【洗馬】之ニ由リテ思フニ全國ニ數多キ洗馬(セバ)又ハ馬洗淵ナド云フ地名ハ、昔某ト云フ武人ガ愛馬ヲ洗ヒタル古跡ナドト說明スルモ、恐クハ皆信仰ノ根ヲ絕ヤシタル馬ノ神ノ舊祭場ニシテ、曾テハ例年ノ或日馬ヲ此地ニ曳キ來リ之ヲ洗ヒテ祈禱ヲ爲セシヨリ起リシナルべシ。彼ノ陸中ノ「牛クヽリ淵」ノ如キモ、牛ヲ繋ギ置キシ水邊ノ地ト解スルコトヲ得。【牛首】牛首ハ卽チ牛絞(ウシクビリ)ノ轉靴ニシテ、「クビル」トハ繋グト云フ方言ナラン。牛クビリ淵ト云フ地名モ亦多シ。多クノ牛池駒ケ池ノ類モ、此ノ如ク說明スルトキハ其傳說ノ全然夢語リニ非ザルコトヲ知リ得べキナリ。

《訓読》

 【水神】水神と河童とは、假に一步を退きて、最初より別物なりとするも、少なくも、牛馬の災ひを避くる爲に水神に祈禱するの風習の、弘く行はれし事のみは事實なり。每年春の初め又は夏の終りなどに、牛馬を引きて、川に入れ、又は、川原に於いて一日遊ばしむることは、其の一年中の災ひを攘(はら)ふ爲なりと信ぜられ、農家は嚴重に此の行事を勤めたり。馬少なき長門にては、牛に就きて盛んに此の事あり。【牛の正月】初春に行はるゝを「牛の正月」又は「牛の年越」と云ふ。「牛祭」と稱して、二月に入りて此の式を舉ぐる村方あり。「牛神樂」又は「牛申し」とも名づけたり。【牛の禁忌】五月五日と六月晦日(みそか)と、兩日、牛を使はざる村は、最も多し。【ひさご】大津郡俵山、美禰(みね)郡岩永、共和村大字靑景等に於いては、端午以後、八朔(はつさく)まで、他鄕の牛の村に入ることを禁じ、之れを犯したる者は、瓢簞を頭に被らせ、牛に乘せて、村を追放す。又、婦人をして牛を使はしめ、もしくは農具を掛けたるまゝ、牛に川を渡らしむることも、嚴禁なり。「此等の禁條は農業の爲、不利益なり」とて、俵山にては、天明四年[やぶちゃん注:一七八四年。「天明の大飢饉」は天明二年から八年までであるから、この仕儀は理解出来る。]に畔頭(くろがしら)[やぶちゃん注:長州藩に於ける庄屋の補佐役の呼称。]等の連判を以つて、之れを廢したりしも、尚ほ且つ、人民の不安を如何ともする能はず、四十年の後[やぶちゃん注:単純加算なら文政七(一八二四)年。]、再び、前よりも一層八釜(やかま)しき禁止を申し合せたり。此等の村々のては、六月末日の牛の休みを「夏越(なこし)」と云ふ。【柱松】所謂、「柱松(はしらまつ)」の行事も「夏越」と關係あり、之れを行はざれば、牛の病難(びやうなん)ありと信ぜられ、此れを又、「牛燈」と稱す。美禰郡赤鄕村大字赤にては、六月晦日を「夏越」と唱へ、『軒別(けんべつ)[やぶちゃん注:一軒ごと、それぞれの農家が総て各個に行うこと。]、牛馬を山野に繋ぎ、休息仕らせ候』。同郡眞長田(まながた)村大字長田などにては、『此の日、牛馬を川へ連れ行き、一日(いちじつ)休息せしめ候』云々。【牛の祇園】阿武郡大井村にては、六月十五日を「牛の祇園」と稱し、『村民、牛を洗ひて、地下(ぢげ)の小社へ參詣仕(つかまつ)り、半日・一日休息せしめ候』など、何れも、村村の書上に見へたり〔以上、「長門風土記」〕。【牛の藪入】大阪附近の田舍にては、五月五日を「牛の藪入」と云ふ。【鞍】例年、此の日は、梅田堤へ、近在の飼牛に新しき鞍を置き、肩に色々の花を結び附けて、朝の五ツ時[やぶちゃん注:不定時法で午前七時前。]より一時(いつとき)[やぶちゃん注:現在の二時間相当。]ばかり、此の邊りの野に放ち、やがて牛の心のまゝに家路に還る。農民、粽(ちまき)を數多(あまた)持ち來たりて、見物の人に之れを蒔き散らす。【疱瘡】之れを得て歸れば、小兒の疱瘡[やぶちゃん注:天然痘。]輕しとて、爭ひて拾ひ取る〔「攝陽落穗集」二〕。是れ、今より百年ばかり前までの風習なり。【牛かけ】或いは又、之れを「牛かけ」[やぶちゃん注:「牛驅(うしか)け」。]とも謂ふ〔「攝陽見聞筆拍子」三〕。紀州奧熊野に行はるゝ「牛かけ」は、普通、田植えの後に、田地の一部を區劃して、之れを行ふ。其の有樣、餘程、競馬などの興行物に近くなれり〔『鄕土硏究』一ノ五號、川口氏〕。端午の日の競馬は、必ずしも賀茂社の模倣のみには非ざるべし。現在は如何にもあれ、其の最初の動機は亦、此の邊りに存するには非ざるか。【洗馬】之れに由りて思ふに、全國に數多き「洗馬(せば)」又は「馬洗淵(うまあらひぶち)」など云ふ地名は、昔、某(なにがし)と云ふ武人が愛馬を洗ひたる古跡などと說明するも、恐らくは皆、信仰の根を絕やしたる、馬の神の舊祭場(さいじやう)にして、曾ては例年の或る日、馬を此の地に曳き來たり、之れを洗ひて、祈禱を爲せしより起りしなるべし。彼の陸中の「牛くゝり淵」のごときも、牛を繋ぎ置きし水邊の地と解することを得。【牛首】牛首は、卽ち、「牛絞(うしくびり)」の轉靴にして、「くびる」とは「繋ぐ」と云ふ方言ならん。「牛くびり淵」と云ふ地名も亦、多し。多くの「牛池」・「駒ケ池」の類ひも、此(か)くのごとく說明するときは、其の傳說の、全然、夢語りに非ざることを知り得べきなり。

[やぶちゃん注:「大津郡俵山」現在の山口県長門市俵山(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「美禰(みね)郡岩永」現在の山口県美祢市秋芳町岩永本郷及びその周辺

「共和村大字靑景」現在の秋吉台北西部分を含む山口県美祢市秋芳町青景

「八朔(はつさく)」旧暦八月朔日(ついたち)ので当日に行われた行事の名でもある。「田の実節供」とも称し、農家では豊作を祈って稲の穂出しや穂掛けを行う。一般には「憑(たの)む」の意味でこの日に「八朔の贈答」を行った。本来は、中世、武家で行われたものが民間に広まったもので、贈答には元は新米を用いた。また、近畿一帯では「八朔休み」と称し、この日から昼寝をやめて、夜なべ仕事が始まった(平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。

「瓢簞を頭に被らせ、牛に乘せて、村を追放す」無論、この「牛」はその他鄕から侵入した邪気(疾患:家畜の伝染病を考えれば、これはかなり腑に落ちる禁忌であるとも言える)を持っていると考えられた牛であろう。これは「虫送り」などと同じシステムとして理解可能であるが、問題は「瓢簞を頭に被らせ」るという仕儀である。瓢簞は中が空洞であることから、異界へ通底する呪具として原始社会ではしばしば用いられるもので、しかもシャーマンや邪神や魔魅(まび)に仮装する仮面の素材としても知られることから、ここではその禁忌を侵した者を運命共同体を危うくした存在としてスポイルするための仕儀、則ち、異邦人として「追放」することの呪的アイテムなのだと私は解釈する。仮面を被って村を追放されるだけでもよしとすべきである。より古い時代には恐らく殺されていたはずだから。

「夏越(なこし)」ここに限らず、全国的に行われてきた旧暦六月三十日の祓いの祭事。「名越」とも書き、「水無月の大祓い」と称して、古くから宮中を始め、民間においても忌み日として祓いの行事が行われた。この日、「輪くぐり」といって、氏神の社前に設けた大きな茅(ち)の輪をくぐって災厄を祓う儀式が一般的には知られる。宮廷においても故実として清涼殿で行われたことは「御湯殿上日記(おゆどののうえにっき)」などで確認出来る。神社からは氏子の家に紙人形(かみひとがた)を配布し、それに氏名・年齢を記して、御宮に持参して祓って貰う形式をとることが多い。この時期は農家にとって稲作や麦作などに虫害・風害などを警戒する大事な時に当たることから、他にも多様な祓いの行事が行われている。藁人形を作り、太刀を持たせて水に流す地方もあり、小麦饅頭や団子を作って農仕事は休む。中国地方から北九州にかけて海辺の地方では、海に入って禊をし、牛馬をも海に入れて休ませたりした。長崎県壱岐島では「イミ」と称し、斎忌を厳重に守る。一方で、熊本県天草諸島では、この日だけは河童が出ないと言い伝えて自由に海に入って泳ぐという(以上は主文を小学館「日本大百科全書」に拠ったが、最後の個所は別史料で天草諸島を確認した)。

「柱松(はしらまつ)」主に西日本周辺と信州周辺で七夕や盆に行われる儀式。竹や柴草で太く高い柱を作って立て、頂上に幣(ぬさ)や榊(さかき)を挿し、これに下から火を投げ上げて点火し、その様子から秋の収穫の吉凶を占う呪的な行事であった。別名「柱松明」「投げ松明」「上げ松明」などとも呼ばれる。

「牛燈」読みは「ぎうとう」か。盆行事に関わる学術論文の中に登場するのを確認は出来たが、ルビが振られておらず、当該行事の解説もなかったので、よく判らぬ。

「美禰郡赤鄕村大字赤」現在の山口県美祢市美東町(みとうちょう)赤(あか)

「同郡眞長田(まながた)村大字長田」山口県美祢市美東町真名周辺と思われる。

「阿武郡大井村」山口県萩市大井と思われる。

「梅田堤」近松門左衛門の名作「曽根崎心中」で、お初と徳兵衛が道行した場所として知られる梅田堤は、古くからの墓地として有名であった「梅田墓」に通じ、現在のJR大阪駅附近に相当する。

「今より百年ばかり前」本「山島民譚集」初版は大正三(一九一四)年七月刊であるから、機械的計算では文化一一(一八一四)年前後となる。

「賀茂社の模倣」滋賀県近江八幡市の賀茂神社で行われる神事「足伏走馬(あしふせそうめ)」の真似という謂い。同神社は奈良時代の天平八(七三六)年に聖武天皇によって創建されたもので、ウィキの「賀茂神社(近江八幡市)」によれば、『白村江の戦いの後、天智天皇が「これからは騎乗技術の発展と馬匹の繁殖が大事」と考え、賀茂神社の地に国営牧場を造った』ことから、馬との関係が深く、今も『「馬の聖地」として崇敬が寄せられ』ている。『創建時より、御料地「御猟野(みかりの)」として、猟や競馬が行われていた。さらに、平安時代に始められた京都上賀茂神社の競馬会神事を』、『後白河上皇の意により』、『当地でも継承し』ている。『例祭賀茂祭では、およそ』四百メートル『の直線の馬場を用いて』、七『頭の馬により』、二『頭ずつ 』七『回の競走を行い、上賀茂神社の競馬会に参加する馬を決する神事「足伏走馬』」『が行われる』とある。]

このココログの昨日のブログ・メンテナンスは完全な失敗・最悪・最低である

とりあえず國木田獨步の詩をニフティのブログに公開してみたが、どうやってみても最初、空行をまるで感知せず、それを均衡させるのに非常な労力と神経を使い、結局、投稿するだけで今までの3~4倍時間がかかった。甚だ不愉快である。昔の方が、数十倍よかった。使用可能な旧字や異体字も大幅に減衰している。例えば、「廻」の字の「回」が「囘」となっている字体は、嘗つて使えなかったのが、何年も前に使用出来るようになっていたものが、また使えなくなった。過去の電子化では多量に使用している。どうにもならない。旧字体・異体字は無数に使用しており、いちいち調べ得ないので、ひょいと「?」となっている部分を見つけた方は、どうかご連絡戴きたい。表記を変えて読めるようにする。

冬の山家 國木田獨步

 
 
  冬 の 山 家
 

眞柴たく山家の民
甘薯(いも)ふかす夕(ゆふべ)のまとゐ
まつ少女(をとめ)またるゝ者は
みづ淸き村のわかもの


「君と別れて松原ゆけば
鳥も通はぬ八丈ケ島へ」
ありふれ歌のかずかず
つきぬまに夜は更(ふけ)にけり


月出ぬ東の小まど
松風を影にうつして
「歸りなん今宵は家に」
「明日(あす)の夜も來(きた)りて唄(うた)へ」


家のもの床に入りしも
少女(をとめ)のみ眠がてにす
山路ゆき月にうかれて
わかものゝ唄ふ聲さゆ


かつがつに遠ざかりゆく
彼人(かのひと)の聲たえだえに
ほゝゑみて少女(をとめ)眠りぬ
まどかなり此夜(このよ)の夢も
 
 
[やぶちゃん注:初出は明治三二(一八九九)年十一月五日『活文壇』。死後の出版の「獨步遺文」所収のそれはかなり有意に異同がある。以下に示す。
   *
 
 
 冬 の 山 家

  
眞柴焚く山家の民
芋ふかす夕の圓居
今夕また彼の唄聞かん
いかなれば彼人遲き
待つ少女待たるゝ人は
水淸き村の若者


「君と別れて松原行けば
松の露やら淚やら」
「咲いた櫻になぜ駒繫ぐ
駒が勇めば花が散る」


ありふれし歌の數々
盡きぬ間に夜は更けにけり
月出でぬ東の小窓
松風を影にうつして


「歸りなん今宵は宿に」
「明日の夜も來りて歌へ」
家の者床に入りしも
少女のみ眠りがてにす


山路ゆき月に浮かれて
若者の歌ふ聳冴ゆ
かつかつに遠ざかり行く
彼人の聲絕え絕えに


ほゝ笑みて少女眠りぬ
まどかなり今夜の夢も


   *
第五連の二行目「若者の歌ふ聳冴ゆ」はママ。「聳」は「聲」の誤植であろう。]

少女の歌 / 老女の歌  國木田獨步



  少 女 の 歌

春あけぼのゝ閑かなる
夢十七年の歲たちて
今はた夢む此のゆめの
ふかき心を知るや花



[やぶちゃん注:初出は明治三一(一八九八)年七月一日『反省雜誌』。これは一緒に同誌に発表された次の「老女の歌」と対で読むべきであろうから、セットで出す。



  老 女 の 歌

夕べ夕べの鐘の數
かぞへ浮世の一夢さめて
今はた夢む此のゆめの
ふかき心を知るや星

 
 


かぐや姫 國木田獨步




  か ぐ や 姫


   そ の 一

今はむかし
ちとせのむかし幾百の
むかしなりけむ竹とりの
翁といふがすみにけり
みやこに近き村はづれ
さびしき野邊にさびしくも
翁と媼とくらしけり
野山に翁竹をとり
媼は家に絲ひきて
絲よりほそき煙たて
ながの月日を送りけり
むかしも今の夕日かげ
むかしの山に沈みはて
あかねにそまる西のそら
東の森の月白し
翁は獨り竹おひて
野みちたどりて歸りゆく
暮れゆく空をながめては
愚痴と知りつゝくりかへす
老のくりこと「貧しとて
何かなげかむ悲しきは
さびしきものはなしとかや
きゝしにまさる身の上の
淋びしさはげに冬の夜半」

更けてもかせぐ老の身の
媼は今宵も絲ひきつ
翁は籠あむ手をやめて
をりをり燈火かきたてつ
かすかに燃ゆるゐろり火の
あかき光はほのぐらく
媼の眼には淚あり
翁は頭うちふりて
「わが子にあらぬもらひ子は
可愛ゆくあれど他の子の
わが子にあらぬかなしみは
人の力のまゝならじ
人のこゝろのまゝならず」
あはれにひゞく絲ぐるま
さびしくてらす燈火は
老ひの心にしみにけむ
「げにまゝならじ世の中も
和子だにあらば二十八
嫁さへ今はあるべきに」
夜三更の月澄みつ
霜さえざえの野中なる
參媼のひとつやの
さびしくもまた哀れなり


   そ の 二

朝ぼらけ
翁わが家をたちいでゝ
いつもの山をこゝろざし
霜ふみ分けてたどりゆく
むかしも今の朝日かげ
今もむかしの鳥の聲
翁がうたふ聲遠く
近き山路をたどりゆく
わらべもいつしか翁なり
翁もかつてわらべなり
谷の小川の水せきつ
小川の淵を瀨にかへつ
まゝならぬ世と知らずして
夏の日樂しく遊びせり
あはれ昔の水の音
昔を今とむせびつゝ
翁の胸のみさわぐめり
翁小藪にわけ入りて
彼これ竹をゑらみつゝ
小暗き奧をうかゞへば
ひともと光る竹ありて
あたりまばゆく照らす見ゆ
翁不思議とちかよりつ
しばし見とれてゐたりけり
みるみる翁わかゞへり
しわみし顏のつやまさり
あづさの弓の腰のびて
散りにし花のかへりざき
翁我身をうち忘れ
躍る心をおさへつゝ
光る竹をばきりとりぬ
竹の節よりふしぎにも
星ともまがふうるはしき
赤兒うまれぬかくやくの
光あたりを照らしけり
翁かひあげうれしさの
淚にくれし日もくれて
媼翁の老の身の
望の光あらはれぬ


   そ の 三

笑ふこゑ
絲ひく音の其外に
さびしき家に響きそめ
絲ひく歌のそのほかに
やさしきうたぞ聞かれける
やさしきうたの其外に
可愛ゆき泣聲もれきこゆ
木かげ小暗き夕まぐれ
夕月仰ぐ翁あり
骨たくましき其かひな
やさしく組みつそが中に
可愛ゆき赤兒かひ入れつ
かなたこなたとゆきゝして
やさしき守うたうたひける
翁のもりのそのひまに
媼はかまどたきつけつ
たのしき夕べほのぐらく
靑き煙のいういうと
大空高くたちのぼり
速くなびきて村里の
田園今は暮れむとす

[やぶちゃん注:初出は明治三一(一八九八)年六月一日『反省雜誌』。國木田獨步の日記「欺かざるの記」には、例えば、明治二十七年五月九日の条に、
『今朝「竹取物語」の新體詩其一を作る』
とあり、また、同年同月十八日には、
『昨日「竹取物語」の第三の一節を作る』
さらに、同年六月四日、
『今夜「たけとり」の一節をものす』
とあって、これはまさに本篇の草稿であったものと思われる(底本解題もそう推定している)。
 さて、しかし、同解題で筆者中島健藏は本篇を、『未完』とする。しかし、そうだろうか?
 確かに、続きが読みたくなるほど心地よいし、御門とのやりとりから月の使者の来訪と永遠の別れ・富士に久遠に立つ烟まで詠んでほしいという思いはある。しかし、卑劣な五人のお馬鹿な貴公子のパートではきっと私は飽きるだろう。それでもその後を待ち焦がれるだろうが、そこには飽きた貴公子パートの瑕疵が纏わって、それはまた、最後まで拭えぬだろう(たとえ後半が素晴らしくても、である。そもそも私は「かくや姫の物語」(清音がよい)はどうも前半の貴公子失敗談連作部と、後半での雰囲気とが(特に姫のイメージが)異様に異なっているのが激しく気になっている。違った話をカップリングしたのではないとさえ思うのである)。
 とすれば、私は、これで、國木田獨步の「かぐや姫」は終わっていてよいのだと思う。これはこれで、完結してこそ、美しい。
 あなたが詩人で、この後に続けて詩韻やイメージを真似て幾らも書けるとのたもうなら、どうぞ、お好きにやればいい。私は社交辞令で褒めるかも知れぬ。しかし、きっとあなたは、作り終えて、必ず後悔することを請け合おう。
「三更」一夜を「初更(甲夜)」・「二更(乙夜(いつや))」・「三更(丙夜)」・「四更(丁夜)」・「五更(戊夜(ぼや))」に五等分した五更の第三で、凡そ現在の午後十一時又は午前零時からの二時間を指す。所謂、「子(ね)の刻」相当。
「いういう」「悠々」。]

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 犛牛(らいぎう) (ヤク)

Raigyu


らいぎう 毛犀 牧牛
      竹牛 犘牛
      貓牛 犨牛
犛牛
      犛【毛俚來三音】
本綱犛牛【※1牛之屬】野牛也居深山中狀及毛尾俱同※1牛但
[やぶちゃん注:「※1」=「牜」+(「旄」-「方」)。]
※1小而犛大有重千斤者其體多長毛其尾可爲旌旄纓
帽之用身角如犀故曰毛犀角甚長而黃黒相間以僞犀
角卒莫能辯也角之花班皆類山犀而無粟紋其理似竹
不甚爲奇蓋犛之角勝于※1而※1之毛尾勝于犛
犩牛 如牛而大肉重數千斤又名虁牛
※2牛 色青黃與蛇同穴性嗜鹽人褁手塗鹽取之其角
 如玉可爲噐
[やぶちゃん注:「※2」=(上)「魏」+(下)「牛」。]
海牛 形似牛鼉脚鮎毛其皮甚軟脂可燃燈一名潜牛
山牛 狀如牛角有枝如鹿茸
月支牛 出大月氏國今日割取肉明日其創卽復合也
 【以上五種亦野牛之類也】

 

 

らいぎう 毛犀 牧牛
      竹牛 犘牛〔(ばぎう)〕
      貓牛〔(びやうぎう)〕
      犨牛〔(しうぎう)〕
犛牛
      犛は【毛〔(マウ)〕・俚〔(リ)〕・
      來〔(ライ)〕の三音〔たり〕。】
「本綱」、犛牛は【※1牛〔(やく)〕の屬。】野牛なり。深山の中に居り、狀及び毛・尾、俱に※1牛に同じ。但し、※1は小さく、犛は大なり。重さ、千斤[やぶちゃん注:明代の一斤は五百九十六・八二グラムであるから、五百九十七キログラム弱とあるが、あり得ない。中国得意の誇張表現。後に出る架空の巨牛「犩牛」の数値である。]の者〔も〕有り。其の體、長毛多く、其の尾、旌旄〔せいぼう〕[やぶちゃん注:旗竿の先に「旄」というヤクの毛の旗飾りを附け、これに鳥の羽などを垂らした旗。天子が士気を鼓舞するのに用いたり、皇帝から将軍や使節に任命の印章として与えられた旗。]・纓帽〔(えいぼう)〕[やぶちゃん注:頂きから赤い房を垂らした官人の式帽。]の用と爲すべし。身・角、犀のごとし。故に「毛犀」と曰ふ。角、甚だ長くして、黃・黒、相ひ間(まじ)はる。以つて犀角を僞はる。卒(つい[やぶちゃん注:ママ。])に能く辯ずること莫し[やぶちゃん注:本物と偽物を見分けることは出来ない。]。角の花〔の〕班〔(まだら)も〕、皆、山犀に類して、粟〔のごとき〕紋、無し。其の理(きめ)、竹に似て、甚だ奇なりと〔は〕爲さず。蓋し、犛の角、※1より勝れり。※1の毛尾は犛より勝れり。[やぶちゃん注:「※1」=「牜」+(「旄」-「方」)。]
犩牛(き〔ぎう〕) 牛のごとくにして大〔(だい)〕なり。肉の重さ、數千斤。又、「虁牛」と名づく。
※2牛〔(だうぎう)〕 色、青黃なり。蛇と穴を同〔じう〕す。性、鹽を嗜〔(この)〕む。人、手を褁〔(つつ)み〕て鹽を塗りて、之れを取る。其の角、玉のごとく、噐〔(うつは)〕と爲すべし。[やぶちゃん注:「※2」=(上)「魏」+(下)「牛」。]
海牛 形、牛に似、鼉〔(わに)〕の脚、鮎〔(まなづ)〕の毛。其の皮、甚だ軟〔か〕なり。脂、燈〔(ともし)〕に燃すべし。一名、「潜牛」。
山牛 狀、牛のごとく、角に枝有りて、鹿茸〔(ろくじよう)〕[やぶちゃん注:鹿の袋角(ふくろづの)。]のごとし。
月支牛 大月氏國に出づ。今日、割〔(さ)き〕て肉を取るに、明くる日〔には〕其の創(きず)、卽ち、復(い)ゑ[やぶちゃん注:ママ。「愈え」と同義。]合ふなり[やぶちゃん注:翌日には肉を取った部分の傷は忽ちのうちに癒合していて、元通りに治っている。]【以上の五種も亦、野牛の類ひなり。】。
[やぶちゃん注:ウシ目ウシ亜目ウシ科ウシ亜科ウシ属ヤク。野生種の学名は Bos mutus。家畜化された種としての学名はBos grunniensウィキの「ヤク」を引く。『インド北西部、中華人民共和国(甘粛省、チベット自治区)、パキスタン北東部に自然分布』する。体長は♂で二メートル八十~三メートル二十五センチメートル、♀で二メートル~二メートル二十センチメートル。尾長は♂で八十センチメートルから一メートル、♀で六十~七十五センチメートル。肩高は♂で一メートル七十センチメートルから二メートル、♀で一メートル五十~一メートル六十センチメートル。体重は♂で八百グラムから一キログラム、♀で三百二十五~三百六十キログラム。『高地に適応しており、体表は蹄の辺りまで達する黒く長い毛に覆われている』。『換毛はしないため、暑さには弱い。肩は瘤状に隆起する』。『鳴き声はウシのような「モー」ではなく、低いうなり声である』。『基部から外側上方、前方に向かい、先端が内側上方へ向かう角がある』。『最大角長』は九十二『センチメートル』に達する。『四肢は短く』、『頑丈』。『標高』四千から六千『メートルにある草原、ツンドラ、岩場などに生息する』。八~九『月は万年雪がある場所に移動し、冬季になると』、『標高の低い場所にある水場へ移動する』。『高地に生息するため、同じサイズの牛と比較すると』、『心臓は約』一・四『倍、肺は約』二『倍の大きさを有している。食性は植物食で、草、地衣類などを食べる』。『妊娠期間は約』二百五十八日で、六月に、一回に一頭の『幼獣を産む』。『生後』六~八『年で性成熟し、寿命は』二十五『年と考えられている』。『野生個体は食用の乱獲などにより生息数は激減して』おり、中国では『法的に保護の対象とされている』、一九六四年に『おける生息数は』三千から八千『頭と推定されている』。二千『年前から家畜化したとされる』、一九九三『年における家畜個体数は』千三百七十万『頭と推定されている』。殆どの『ヤクが家畜として、荷役用、乗用(特に渡河に有用)、毛皮用、乳用、食肉用に使われている。中』『国ではチベット自治区のほか、青海省、四川省、雲南省でも多数飼育されている』。『「ヤク」の語はチベット語』の「g-yag」(発音)『 に由来するが、チベット語では雄のヤクだけを指す言葉で、メスはディという』。『チベットやブータンでは、ヤクの乳から取ったギー』『であるヤクバターを灯明に用いたり、塩とともに黒茶を固めた磚茶(団茶)』『を削って煮出し入れ、チベット語ではジャ、ブータンではスージャと呼ばれるバター茶として飲まれている。また、チーズも作られている』。『食肉用としても重要な動物であり、脂肪が少ないうえに赤身が多く味も良いため、中国では比較的高値で取引されている。糞は乾かし、燃料として用いられる』。『体毛は衣類などの編み物や、テントやロープなどに利用される』。『ヤクの尾毛は日本では兜や槍につける装飾品として武士階級に愛好され、尾毛をあしらった兜は輸入先の国名を採って「唐の頭(からのかしら)」と呼ばれた。特に徳川家康が「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」と詠われたほど好んだため、江戸時代に入って鎖国が行われてからも』、『清経由で定期的な輸入が行われていた』。『幕末、新政府軍が江戸城を接収した際に、収蔵されていたヤクの尾毛が軍帽として使われ、黒毛のものを黒熊(こぐま)、白毛のものを白熊(はぐま)、赤毛のものを赤熊(しゃぐま)と呼んだ』。『これらの他に、歌舞伎で用いる鏡獅子のかつら』『や、仏教僧が用いる払子にもヤクの尾毛が使用されている』とある。

 

「犩牛(き〔ぎう〕)」「肉の重さ、數千斤」からまともに考える気にならない。悪しからず。そもそも異名として出す「虁」は中国神話上の龍の一種、或いは牛に似たような一本足の妖獣、或いは妖怪の名である。ウィキの「虁(中国神話)」によれば(そこにある「山海経」のトンデモ絵図をリンクさせておく)、古い伝承では『音楽と深い関係にあるとされた。夔についての伝承は時代や地域によって大きく異なっている』。『元は殷代に信仰された神で、夔龍とも呼ばれる龍神の一種であった。一本足の龍の姿で表され、その姿は鳳と共に夔鳳鏡といった銅鏡等に刻まれた。鳳が熱帯モンスーンを神格化した降雨の神であった様に、夔龍もまた降雨に関わる自然神だったと考えられており、後述の『山海経』にて風雨を招くとされるのもその名残と思われる。後に一本足の牛の姿で表されたのも』、『牛が請雨のために龍神に捧げられた犠牲獣であったためとされている。一本足は天から地上へ落ちる一本の雷を表すともいわれる』。『『山海経』第十四「大荒東経」によれば、夔は東海の流波山頂上にいる動物である。その姿は牛のようだが角はなく、脚は一つしかない。体色は蒼である。水に出入りすると必ず風雨をともない、光は日月のように強く、声は雷のようである。黄帝は夔を捕らえてその皮から太鼓をつくった。この太鼓を雷獣の骨で叩くと、その音は五百里にまで響き渡ったという。『繹史』巻五に引用されている『黄帝内伝』によれば、この太鼓は黄帝が蚩尤と戦ったときに使われたものだという。また『山海経広注』に引用されている『広成子伝』によると蚩尤が暴れるのをとめたのは夔ではなく同音の軌牛であったという』。『夔は『説文解字』第五篇下における解説では「竜のような姿をしていて角がある」とされている。また『法苑珠林』に引用されている『白沢図』によれば「鼓のようで、一本足である」という』。『『国語』「魯語」に三国時代の韋昭が付した注によると、夔は一本足であり、越人はこれを山繰と呼び、人の顔、猿の体で人語を解する動物であるという。『史記』「孔子世家」では夔は木石の怪であるとされ、魍魎と同一視されている。同様の記述が『抱朴子』「登渉篇」にもある』。『『書経』「舜典」では、夔は舜帝の配下である人間で、帝によって音楽を司るように命じられた。夔は「私が石を高く低く打てば百獣がそれに従って舞うことでしょう」と言ったという』。『『韓非子』「外儲説左下」第三十三では、夔が一本足であるかどうかについての議論が行われている。このことを問われた孔子は「夔は一本足ではない。夔は性格が悪く人々は何も喜ばなかったが、誰からも害されることはなかった。なぜなら正直だったからである。この一つで足りる、だから一足というのである」。または「夔は何の才能もなかったが、音楽の才能だけは突出していた。そのため堯帝が『夔は一で足りる』と言った」と答えたという』。『山梨県笛吹市春日居町鎮目に鎮座する山梨岡神社には、一本脚の神像が伝わっており、「山海経」に登場する夔(キ)の像として信仰を受けている』。十年に一度(現在では七年に一度)四月四日に『開帳され、雷除け・魔除けの神として信仰されている』。「虁」『神像に関する記録は、荻生徂徠』『の『峡中紀行』が初出とされる。甲府藩主・柳沢吉保の家臣である荻生徂徠は』宝永三(一七〇六)年に『吉保の命により甲斐を遊歴し、山梨岡神社にも足を運んでいる。この時、徂徠が山梨岡神社に伝来していた木像を』「虁」『に比定し、以来』、「虁」『神としての信仰が広まったと考えられている』「虁」『神の来由を記した中村和泉守』の「鎮目村山梨岡神社虁神来由記」(慶応二(一八六六)年)・『山梨県立博物館所蔵)によれば、江戸後期には』「虁」『神像に関して、天正年間に織田信長軍が山梨岡神社に乱入した際に疫病によって祟ったというような霊験譚が成立している』虁『神信仰は江戸後期の社会不穏から生じた妖怪ブームにも乗じて広まったと考えられており』、虁『神の神札が大量に流通し、江戸城大奥へも献上されている』。『明治初期には山中共古『甲斐の落葉』において紹介され』ているものの、そこでは「虁」神像として『欠損した狛犬の像が』示されており、それが『「山海経」の「』虁『」と結びつけられたものであると考えられている』。『また、山梨県では山の神に対する信仰や雨乞い習俗、雷信仰などの山に関する信仰、神体が一本脚であるという伝承がある道祖神信仰が広く存在し』虁『神信仰が受け入れられる背景にもなっていたと考えられている』。『このほか、『古事記』に出てくる一本足(という読みもある)の神久延毘古の「クエ」という音は、夔の古代中国での発音kueiと似ており、関連がある可能性がある』とする説もあり、『また』、『水木しげるは、日本の一本足の妖怪「一本だたら」「山爺(やまちち)」と夔の類似性を指摘している』とある。

「※2牛〔(だうぎう)〕」(「※2」=(上)「魏」+(下)「牛」)不詳。蛇と共生する牛難なんていないだろ! 但し、牛や犀が実際に塩を好むことはよく知られている。

「海牛」「牛に似」て、「鼉〔(わに)〕」(脊椎動物亜門四肢動物上綱爬虫綱双弓亜綱主竜型下綱ワニ形上目ワニ目 Crocodilia の爬虫類のワニ類)の脚を持ち、「鮎〔(まなづ)〕の毛」(中国では「鮎」はアユではなく、条鰭綱新鰭亜綱骨鰾上目ナマズ目ナマズ科ナマズ属ナマズ Silurus asotus を指すことは、禅の公案図「瓢鮎図」等でとみに知られる。この「毛」はナマズの鬚(ひげ)のことであろう)、則ち、頭部にヒゲを持つこと、「其の皮」は「甚だ軟」らかであり、その肉から「脂」を搾ることができ、それが「燈」火を「燃」やすのに利用できるという各点から、これはもう、海棲哺乳類のアフリカ獣上目海牛(ジュゴン)目Sirenia のジュゴン科 Dugongidae・マナティー科 Trichechidae のカイギュウ(海牛)類と採ってよい。時珍の知識の中には、或いは、近代に人間が肉と脂肪と皮革を手に入れるために絶滅させてしまった寒冷適応型のカイギュウ類の最後の生き残り(北太平洋のベーリング海に棲息していた)であったジュゴン科ステラーカイギュウ亜科†Hydrodamalinae ステラーカイギュウ属ステラーカイギュウ Hydrodamalis gigas も含まれていると見るべきである。属ステラーカイギュウは体長七メートルを超え、一説には最大八・五メートルに達し、体重は五~十二トンあったとも言われている巨大海獣である。我々の愚かな行為(またしてもジュゴンの滅亡劇が今現に沖縄で起こりつつある)を忘れないためにも、ステラーダイカイギュウについては、南方熊楠「人魚の話」附やぶちゃん注の私の注13を是非お読み頂きたい。

「山牛」調べる気にならない。何故かって? 「説文解字」の「巻十一」のここ(中文サイト「中國哲學書電子化計劃」)を御覧な、この「山牛」に似ている動物というのは、ほうれ、前に出た聖獣「獬豸(かいち)」だ、「山牛」で野生のウシの原種だなんて安易にやらかしたら、そこに異常な皮膚や骨増殖の起こった疾患動物が一角獣の実在を証明することになるなんていう異常変態博物学は私個人の妄想の中なら至極楽しいが、こうした注でまともにやらかす内容ではないからだよ。

「月支牛」産する「大月氏國」とは匈奴に追われて西遷してバクトリア(大夏(たいか)中央アジアの現在のアフガニスタン北部にあった国。トゥハーリスターン或いはトハラ)を支配した月氏(秦から漢代にかけて中央アジアで活躍したイラン系遊牧民族)の根拠地(後にアフガニスタン及び北インドに支配を拡大したクシャン朝をも、中国では「大月氏」と呼んだ)で実在するのであるから、この牛は実在する特定の種(或いは品種)に比定出来そうだが、判らぬ。一つ浮かんだのは、そのインドや東南アジアに分布するウシ亜科ウシ属ガウル Bos gaurus ではあったが、積極的に比定する気にはならない。速攻、傷が治るなんていうおいしい話は眉唾だからね。]

 

フォントについて

今まで欧文(人名・原書名・学名等)に於いてローマンを使用したり、本邦の詩集等の正規表現版では明朝を使用してきたが、ブログのメンテナンスによってそれが出来なくなったため(或いは可能なのかも知れぬが、私には出来ない)、以降は、総てゴシックのそれとなる。非常に不愉快であるが、仕方がない。

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(37) 「河童の神異」(3)

《原文》

 河童ノ社會上ノ地位ト云フべキモノニモ地方的ニ餘程ノ高下アリ。東北ノ河童ハ槪シテ普通ノ獸類以下ニ取扱ハル。化ケルトハ言ヒテモ狐ナドニ比ブレバ遙カニ拙劣未熟ナリ。之ニ反シテ西部日本ニ向フニ從ヒテ、次第ニ其神異的分子ヲ增加スルガ如シ。【河童人ニ憑ク】二三ノ地方ニ於テハ河童ハ犬神「ヲサキ」又ハ「トウビヤウ」ナドノ如ク自在ニ人ニ憑キ、頗ル馬ノ因緣ヲ離レテ人間ノミヲ目ノ敵トスル風アリ。土佐ニテハ婚姻ノ相談ナドハ決シテ之ヲ河童ニ聞カシムべカラズ。若シ不注意ニシテ彼等ノ立聞キスル所トナレバ、必ズ嫁入婿入ニ化ケ來タリテ人ヲ迷ハス。故ニ一般ニ密談ヲスルニハ先ヅ弓弦ヲ鳴ラシテ此徒ヲ退散セシムべキナリ〔土陽陰見記錄下〕。【カウゴ石】肥後ノ葦北郡ナドニハ、他國ノ天狗話ノ多クヲ以テ、「カゴ」卽チ河童ノ所爲ニ歸セリ〔日本周遊記談〕。肥前五島ノ富江ニハ河童ノ築キタリト云フ城ノ城壁今モ存在スト云フ〔同上〕。又西國ニテ川ニ火トボリ芥ナドヲ燒クガ如キアリ。船近ヅクコト三四尺ニナリテ消エ、漕ギ過グレバ又元ノ如シ。之ヲ「川ワラフ」[やぶちゃん注:原典のママ。「ちくま文庫」版全集は『川ワロウ』とする。則、これを「川ワラウ」の誤植と断じているわけである。「觀惠交話」を確認出来ないので、ママとしておく。]ノ仕業ナリト云フ〔觀惠交話下〕。卽チ不知火モ亦河童ノ力ニ出ヅトスルナリ。加藤淸正ニ二字ヲ奉リタル河童ノ頭目九千坊ノ如キモ、亦恐クハ一城ノ主ナルべシ。人間ノ武家ガ迫(サコ)每ニ割據シテアリシ時代ニ、河童ノ方面ニハ既ニ或程度迄ノ中央集權行ハレ、此ノ如キ大酋長ヲ推戴シテアリシナリ。

《訓読》

 河童の社會上の地位と云ふべきものにも、地方的に餘程の高下(かうげ)あり。東北の河童は、槪して普通の獸類以下に取り扱はる。化けるとは言ひても、狐などに比ぶれば遙かに拙劣未熟なり。之れに反して、西部日本に向ふに從ひて、次第に其の神異的分子を增加するがごとし。【河童人に憑く】二、三の地方に於いては、河童は「犬神」・「ヲサキ」、又は「トウビヤウ」などのごとく、自在に人に憑き、頗る馬の因緣を離れて、人間のみを目の敵(かたき)とする風あり。土佐にては、婚姻の相談などは、決して之れを河童に聞かしむべからず、若し不注意にして彼等の立ち聞きする所となれば、必ず嫁入り婿入りに化(ば)け來たりて人を迷はす。故に一般に密談をするには、先づ、弓弦(ゆづる)を鳴らして此の徒を退散せしむべきなり〔「土陽陰見記錄」下〕。【かうご石】肥後の葦北郡などには、他國の天狗話の多くを以つて、「カゴ」、卽ち、河童の所爲に歸せり〔「日本周遊記談」〕。肥前五島の富江には、河童の築きたりと云ふ城の城壁、今も存在すと云ふ〔同上〕。又、西國にて、川に火とぼり、芥(あくた)などを燒くがごときあり。船近づくこと、三、四尺になりて消え、漕ぎ過ぐれば、又、元のごとし。之れを「川ワラフ」の仕業なりと云ふ〔「觀惠交話」下〕。卽ち、不知火(しらぬひ)も亦、河童の力に出づとするなり。加藤淸正に二字を奉りたる河童の頭目九千坊のごときも、亦、恐らくは一城の主(あるじ)なるべし。人間の武家が迫(さこ)每に割據してありし時代に、河童の方面には、既に或る程度までの中央集權、行はれ、此くのごとき大酋長を推戴してありしなり。

[やぶちゃん注:「犬神」私の「古今百物語評判卷之一 第七 大神、四國にある事」の私の注を参照されたい。

「ヲサキ」「オサキ狐」のこと。私の「反古のうらがき 卷之一 尾崎狐 第一」の本文及び注を参照されたい。

「トウビヤウ」先行する『「河童駒引」(25)「川牛」(5)』の私の『「トンボ」又は「トウビヤウ」と云ふ蛇のごとき』の注(ウィキの「トウビョウ」からの引用)を参照されたい。

「土陽陰見記錄」「土陽陰見記談」が正しい(書誌データ不詳)。当該記載は珍しく「国文学研究資料館」の画像データ・ベースの接続がいいので、発見出来た。ここである。

「【かうご石】肥後の葦北郡などには、他國の天狗話の多くを以て、「カゴ」、卽ち、河童の所爲に歸せり」「肥前五島の富江には、河童の築きたりと云ふ城の城壁、今も存在すと云ふ」この個所は、柳田國男にして、この頭書は、誤認を惹起させる配慮に欠くものと私は思う。「日本周遊記談」(書誌不詳)に当たることが出来ないので何とも言えないが、「かうご石」とは、「カゴ」=「カハゴ」=「川子」=「河童」所以の「石」の意ではなく、「かうごいし」(「神籠石」「皮籠石」「交合石」「皇后石」などの当て字が成され、現代仮名遣「こうごいし」と呼ばれている、主に九州地方から瀬戸内地方の山等に見られる、石垣で区画した謎の列石遺跡の総称である。その殆どは造成年代も理由も全く不明で、何らかの祭祀遺跡とも、古代の山城の跡とも議論されている不詳の人工石積みを指すものである。詳しくはウィキの「神籠石」を読まれたい。

「肥前五島の富江には、河童の築きたりと云ふ城の城壁、今も存在すと云ふ」個人のページと思われる「島の暮らしって?長崎県五島の暮らし(伝説と民話)」に(下線太字やぶちゃん)、「大円寺の河童伝説」があり(大円寺は長崎県五島市大円寺町に現存する曹洞宗広巌山大円寺。戦国時代の大永年間(一五二一年~一五二八年)に宇久(五島)盛定がこの地にあった庵を寺に改めて大円寺と号したのに始まると伝えられ、その後、五島地方における曹洞宗を統括する「録司」の任に当たり、肥前国福江藩(五島藩)の藩主となった五島氏の菩提寺となった、とウィキの「大円寺(五島市)」にある。ここ(グーグル・マップ・データ)。以下に出る「水神社」とは、同地図の大円寺の東北直近の河畔にある「水神宮」のことと思われる)、そこには、『大円寺川畔の水神社は、消防の神として昔から有名である。河童を祭った珍しい神社で、前面の深渕には河童の大将が住んでいると言い伝えられ』ており、享保八(一七二三)年二月十六日、『江戸麻生六本木の五島家上屋敷が類焼した。そこで、時の藩主第』二十六『代盛住は、火の用心のためにとこの神社の分社を同屋敷内に建て奉祀した。その後、隣屋敷である小田原藩主大久保家に火災が起こり、まさに五島邸に燃えうつろうとした時、突然五島邸より大勢の消防手が現われまたたくまに火を消し止めたという。その消防手は人間でなく、水神社の河童であったことが江戸市中の大評判となり、参拝者が多かった。福江市の二番町で安政』五(一八五八)年七月十六日に『大火があり、町内の大部分を消失し、その前後も火災が多かった。そこで水神社の祭りを毎年行うことにした。また』、『新一番町も旧藩時代は火災が多かったので、町内に水神社を分祀した。その後災難は絶えたという』とあり、さらに興味深い叙述として、「伝説・勘次ケ城(富江町)」があり(ここ(グーグル・マップ・データ))、そちらには、『今から約』百五十『年前、富江の大工だった勘次は藩命で新船を建造中、突然』、『姿をくらませた。捜索すると』、『玉之浦村小川の海岸で発狂しているのを見つけ、連れ戻したが、それから間もなく』、『山崎の石の城跡に住むようになった』。『勘次の発狂は、山崎の海岸で難破した唐人船を襲い、銀』六貫目(二十二・五キログラム)の『入った金箱を奪った崇りだと言われ、狂った勘次は』「六貫目様、六貫目様」と』、『ぶつぶつつぶやきながら歩くので、村人は彼のあだ名を』「六貫目様」と『呼んでいた』。『勘次はクブキ(かますのこと)を背負い』、『村を廻って食物を乞い、米飯を与えてくれた家には、その謝礼に水の漏らない一升枡を作って贈り、イモをくれた家には水の漏る枡を置いて帰った』。『村人が城を造った人の名を聞くと、必ず「自分がカッパと一緒に築いた」と答えるので』、「勘次ケ城」の『名がついたという』。『もちろん、この城は勘次ひとりで造れるものではなく、その築城法が大陸風の海域を思わせることや』、『付近の出土品、隣接地の多数の人骨の埋葬などから、和冦の出城であろうと言われている。城の構造は』十五間(二十七・二七メートル)に二十二間(約四十メートル)の『長方形で』、『外壁の高さは』一丈二尺(三メートル六十三センチメートル)、『入り口は』一ヶ所しかなく、その幅は二尺(六十一センチメートル弱)あった。これが「觀惠交話」(書誌不詳。ある記載には二百年前の古書とあるので、寛政(一七八九年~一八〇一年)前後成立か)の言うそれであろう。なお、同書は、河童の一種についてのウィキの「セコ」に出る。既に『「河童駒引」(17)「河童ニ異名多シ」(3)』で引用済みである。

「加藤淸正に二字を奉りたる河童の頭目九千坊」清正と九千坊の話は既出であるが、「加藤淸正に二字を奉りたる」という部分は意味不明。識者の御教授を乞う。


《原文》

 【水神】河童ノ威風ノ最モ行ハレ居タル南部九州ニ於テハ、水神ト云ヘバ卽チ河童ノコトナリ。田畠收穫ノ季節ニハ地面ノ西ノ方ヲ一鎌ダケ刈殘シ、之ヲ其水神ニ供フル慣習アリキ〔笈挨隨筆一〕。肥後ノ北部ニ在リテハ、河童ヲ水邊ニ祭レドモ水神ハ河童ニ非ズ。每年ノ夏畠ノ初物ヲ串ニ挿シテ溝川ノ堤ナドニ立テヽ置ク〔高木敏雄氏談〕。此モ亦水神ノ信仰ニ基クモノナレドモ、此ハ寧ロ河童ニ對抗スべキ勢力トシテ之ヲ祭ルガ如シ。【鐵ノ忌】但シ河童モ水ノ神モ共ニ鐵類ヲ忌ミ、水神ノ供物ト河童ノ供物トノヨク相似タルヲ見レバ、本來一ツノ神ノ善惡兩面ガ雙方ニ對立分化シタルモノト解スルモ必ズシモ不自然ナラズ。【植物ノ忌】河童ハ又角豆ヲ嫌フ。近江ニテハ村童角豆ヲ袋ニ入レテ腰ニ下ゲ、河童ノ害ヲ防グ守トス。河童來リテ相撲ヲ取ラント云フトキ、我ハ角豆飯(ササゲメシ)ヲ食ヒタリト云ヘバ閉口シテ去ル〔土陽陰見記錄下〕。【瓠】河童ハ又瓢簞ヲ甚シク嫌フ。仍テ之ヲ食ヒテ川ヲ涉ルトキハ害無シト云ヘリ〔越後名寄十八〕。又同ジ國ニテ川々ノ渡シ守壺蘆(ユフガホ)ト胡麻トヲ作ラザルハ古クヨリノ習慣ナリ。其仔細ハ川ニ潛ム河童ドモ壺蘆ノ若キト胡麻ノ若葉トヲイタク忌ムト傳フル故ニ、之ヲ作ラズシテ舟ニ乘ル人ノ安全ヲ祈ルナリ〔越後風俗志七〕。之ニ由リテ思フニ、大昔笠臣(カサノオミ[やぶちゃん注:底本は「カノオミ」であるが、これは諸記載から「サ」の脱字と断じ、特異的に訂した。「ちくま文庫」版全集も「カサノオミ」である。])ノ祖ガ川島川ノ虬ヲ試ミタリシ三ノ全キ瓠(ヒサゴ)、或ハ河内ノ人茨田連衫子(マンダノムラジコロモノコ)ガ河伯(カハノカミ)ヲ欺キ得タル兩個ノ瓠ナル者ハ〔仁德紀〕、共ニ後世ノ河童ガ避ケ且ツ忌ミタル壺蘆ノ瓜ナルコト大凡其疑無キニ近シ。河童ハ又麻ヲ忌ム。或人河童ヲ捕ヘ之ヲ斬レドモ通ラズ、麻穰(アサガラ)ヲ削リテ刺セバヨク通リタリ。又樒(シキミ)ノ香ヲ惡ムトモ云フ說アリ。或ハ法師ノ言ヒ始メシ言ナランカ。【胡瓜】河童ノ愛スル物ハ胡瓜ナリ。胡瓜アル畠ニハ多ク來ル。胡瓜ヲ食ヒテ川ヲ渡ル人往々ニシテ河童ニ取ラルヽコトアリ。關東ニテハ六月朔日ニ胡瓜ヲ川ニ流シテ河童ノ害ヲ攘ヒ得べシト信ズル者アリ〔竹抓子四〕。【祇園】此ハ恐クハ祇園ノ神ノ胡瓜ト何等カノ關係アルべシ。自分等ノ鄕里ニテハ祇園ノ夏祭ニハ胡瓜ヲ川ニ流シテ其神ニ捧ゲ、ソレヨリ後ハ中ニ蛇ガ居ルナドト稱シテ決シテ胡瓜ヲ食ハズ。【水天宮】此神ハ西京ノ本社ニ於テハ水ノ神トハ言ハザレドモ、田舍ニテハ此意味ヲ以テ祀ル處モアルナリ。今日ノ東京ニテハ水難除ノ守札ハ殆ド水天宮ノ一手專賣ナルガ、蠣殼町ノ流行神ガ東上シタルハ決シテ古キコトニ非ズ。有馬家ノ舊領久留米ヨリ芝ノ屋敷内ニ勸請シタルハ實ニ文化ノ某年ニ在リ。此神ノ守札ヲ碇ニ附ケテ水中ヲ探レバ、水ニ落チタル物必ズ綱ニ掛リテ揚ル外ニ、産ニ臨ミタル婦人之ヲ戴ケバ直チニ安産スナドトモ噂セラレキ〔寶曆現來集七〕。此神樣モ亦些シク風變リナリ。【隱レ里】鄕里ノ筑後ニ於テハ元ハ尼御前社ト稱セラレ、城下ヨリ四里ホドノ上流ニ九十瀨川(コセガハ)ト云フ處ノ水神ト夫婦[やぶちゃん注:底本は「夫插」であるが、私はこれでは読めないので、「ちくま文庫」版全集で訂した。]ノ神ナリトモ云ヒ、或ハ又九十瀨入道ハ卽チ平相國淸盛ニシテ尼御前ハ二位尼ナリトモ傳ヘラレ、此地方ニ分布スル平家隱里ノ傳說ト因緣ヲ結ビ附ケラレタリ〔筑後志下〕。今ノ久留米ノ本社ニ於テハ祭神ハ三座ナリ。中央ハ二位尼安德天皇ヲ抱キマツル像、一體ハ女院ニシテ他ノ一體ハ戎衣ヲ著ケタル平知盛ナリ。【水難除】而モ此尼御前ノ靈驗ハ弘ク水難ヲ救フニ在ルノミナラズ、殊ニ河童ニ對シテ有力ナル守札ヲ出スハ奇ト謂フべシ〔校訂筑後志〕。但シ此札ハ專ラ人間ノ腰ニ佩ビシムべキモノニシテ、牛馬ノ爲ニハ寧ロ冷淡ナルガ如クナレド、是レ恐クハ牛馬ノ多カラザル都會地ノ神ト爲リテ後ノ變遷ナルべシ。【釜神】同ジ筑後ノ中ニテモ、八女郡光友村大字田形ノ釜屋神、卽チ矢部川南岸ノ淵ニ臨ミテ構ヘラレタル水神ノ社ノ如キハ、農民ヲ相手ニ盛ニ牛馬安全ノ護符ヲ出シ、多クノ修驗者ハ其札ヲ持チテ村々ヲ廻リ、一匹一升ノ施米ヲ受ケツヽ、牛馬病難ト河童トノ防衞ヲ以テ任務トスル、神ノ德ヲ宣傳シツヽアリシナリ〔筑後地鑑下〕。


《訓読》

 【水神】河童の威風の最も行はれ居たる南部九州に於いては、水神と云へば、卽ち、河童のことなり。田畠收穫の季節には、地面の西の方を一鎌だけ刈殘し、之れを、其の水神に供ふる慣習ありき〔「笈挨(きふあい)隨筆」一〕。肥後の北部に在りては、河童を水邊に祭れども、水神は河童に非ず。每年の夏、畠の初物を串に挿して、溝川の堤などに立てゝ置く〔高木敏雄氏談〕。此れも亦、水神の信仰に基づくものなれども、此れは寧ろ、河童に對抗すべき勢力として、之れを祭るがごとし。【鐵(てつ)の忌(いみ)】但し、河童も水の神も共に鐵類を忌み、水神の供物と河童の供物との、よく相ひ似たるを見れば、本來、一つの神の、善惡兩面が雙方に對立分化したるものと解するも、必ずしも不自然ならず。【植物の忌】河童は又、角豆(ささげ)を嫌ふ。近江にては、村童、角豆を袋に入れて腰に下げ、河童の害を防ぐ守(まも)りとす。河童、來たりて「相撲を取らん」と云ふとき、「我は角豆飯(ささげめし)を食ひたり」と云へば、閉口して去る〔「土陽陰見記錄」下〕。【瓠(ひさご)】河童は又、瓢簞(へうたん)を甚しく嫌ふ。仍(よつ)て之れを食ひて川を涉るときは害無し、と云へり〔「越後名寄(えちごなよせ)」十八〕。又、同じ國にて、川々の渡し守、壺蘆(ゆふがほ)と胡麻(ごま)とを作らざるは、古くよりの習慣なり。其の仔細は川に潛む河童ども、壺蘆のごときと、胡麻の若葉とを、いたく忌む、と傳ふる故に、之れを作らずして、舟に乘る人の安全を祈るなり〔「越後風俗志」七〕。之れに由りて思ふに、大昔、笠臣(かさのおみ)の祖が川島川の虬(みづち)を試みたりし三つの全(まつた)き瓠(ひさご)、或いは、河内の人、茨田連衫子(まんだのむらじころものこ)が河伯(かはのかみ)を欺き得たる、兩個の瓠(ひさご)なる者は〔「仁德紀」〕、共に後世の河童が避け、且つ、忌みたる壺蘆(のゆふがほ)の瓜(うり)なること、大凡(おほよそ)、其の疑ひ、無きに近し。河童は又、麻(あさ)を忌む。或る人、河童を捕へ、之れを斬れども、通らず、麻穰(あさがら)を削りて刺せば、よく通りたり。又、樒(しきみ)の香(か)を惡(にく)むとも云ふ說あり。或いは法師の言ひ始めし言(げん)ならんか。【胡瓜】河童の愛する物は胡瓜なり。胡瓜ある畠には多く來たる。胡瓜を食ひて川を渡る人、往々にして河童に取らるゝことあり。關東にては、六月朔日(つひたち)に胡瓜を川に流して、河童の害を攘(はら)ひ得べしと信ずる者あり〔「竹抓子(たけさうし)」四〕。【祇園】此れは、恐らくは、祇園の神の胡瓜と何等かの關係あるべし。自分等の鄕里にては、祇園の夏祭りには、胡瓜を川に流して其の神に捧げ、それより後は中に蛇が居るなどと稱して、決して胡瓜を食はず。【水天宮】此の神は西京の本社に於いては水の神とは言はざれども、田舍にては此の意味を以つて祀る處もあるなり。今日の東京にては、水難除けの守札(まもりふだ)は殆ど水天宮の一手專賣なるが、蠣殼町(かきがらちやう)の流行神(はやりがみ)が東上したるは決して古きことに非ず。有馬家の舊領久留米より、芝の屋敷内に勸請したるは、實に文化[やぶちゃん注:一八〇四年~一八一八年。]の某年に在り[やぶちゃん注:誤り。後で引用するように文政元(一八一八)年九月。]。此の神の守札を碇(いかり)に附けて水中を探れば、水に落ちたる物、必ず、綱に掛りて揚る外に、産に臨みたる婦人、之れを戴けば、直ちに安産すなどとも噂せられき〔「寶曆現來集」七〕。此の神樣も亦、些(すこ)しく風變りなり。【隱れ里】鄕里の筑後に於いては、元は尼御前社(あまごぜしや)と稱せられ、城下より四里ほどの上流に九十瀨川(こせがは)と云ふ處の水神と夫婦(めをと)の神なりとも云ひ、或いは又、「九十瀨入道(こせにゆうだう)」は、卽ち、平相國淸盛にして尼御前は二位尼なりとも傳へられ、此の地方に分布する「平家隱れ里」の傳說と因緣を結び附けられたり〔「筑後志」下〕。今の久留米の本社に於いては、祭神は三座なり。中央は、二位尼、安德天皇を抱(いだ)きまつる像、一體は女院(にようゐん)にして、他の一體は戎衣(じゆうい)[やぶちゃん注:武士が戦場で身につける武具。甲冑。具足。]を著けたる平知盛なり。【水難除】而も、此の尼御前の靈驗は、弘く水難を救ふに在るのみならず、殊に河童に對して有力なる守札を出だすは、奇と謂ふべし〔「校訂筑後志」〕。但し、此の札は、專ら、人間の腰に佩(お)びしむべきものにして、牛馬の爲には、寧ろ、冷淡なるがごとくなれど、是れ、恐らくは、牛馬の多からざる都會地の神と爲りて後の變遷なるべし。【釜神】同じ筑後の中(うち)にても、八女(やめ)郡光友(みつとも)村大字田形(たがた)の釜屋神、卽ち、矢部川南岸の淵に臨みて構へられたる水神の社のごときは、農民を相手に盛んに牛馬安全の護符を出だし、多くの修驗者は其の札を持ちて、村々を廻り、一匹一升の施米を受けつゝ、牛馬病難と河童との防衞を以つて任務とする、神の德を宣傳しつゝありしなり〔「筑後地鑑(ちくごちかん)」下〕。

[やぶちゃん注:『田畠收穫の季節には、地面の西の方を一鎌だけ刈殘し、之れを、其の水神に供ふる慣習ありき〔「笈挨(きふあい)隨筆」一〕』は『「河童駒引」(18)「河童ト猿ト」(1)』で同書の同記載の載る「水虎」の全文を電子化済み。そこに、『日薩[やぶちゃん注:日向国と薩摩国。]の間にては水神と號して誠に恐る。田畑の實入(みいり)たる時、刈取(かりとる)るに、初(はじめ)に一かま[やぶちゃん注:刈った一鎌分。]ばかり除置(のけおき)、是を水神に奉るといふ』とある。

「角豆(ささげ)」マメ目マメ科ササゲ(大角豆)属ササゲ亜属ササゲ Vigna unguiculata。一年草。若い莢や熟した種子を食用とするほか、茎葉を家畜の飼料とし、緑肥ともする。品種によって蔓性、半蔓性、矮性などがあり、蔓性品種は茎の長さが二~四メートルになるが、矮性種は三十~四十センチメートルに留まる。葉は互生し、三小葉からなる複葉で、葉柄は長い。夏、葉の付け根から花柄を出し、白色又は淡紫色の蝶形花(ちょうけいか)を数個つける。果実は豆果で、中に種子(豆)が一列に並んで入っている。種子はアズキに似るものから、大形で扁平にして角張るものまで、種々あり、色は赤・白・黒・褐色・斑紋様など多様である。日本では近縁種の品種ヤッコササゲ(Vigna unguiculata subsp. cylindrica)とジュウロクササゲ(Vigna unguiculata subsp. sesquipedalis)も栽培され、ともに栽培上はササゲの仲間として扱われる。ヤッコササゲは矮性で、莢は長さ十二~二十センチメートル、物を捧げる手のように上を向いてつく特徴が顕著である(和名の由来はそれともされるが、他にも、莢を牙に見立てて「細々牙(ささげ)」と言ったという説、豆の端が少しばかり(「ささ」)角張っている(「とげ」か)ことに由来するなど諸説がある)。ジュウロクササゲはつる性で、茎は二~三メートル、莢は長く垂れ下がり、一メートルを超す品種もある。ササゲの仲間は全般に寒さには弱いが、乾燥に強く、土地を選ばず、比較的、容易に栽培出来る。原産地はアフリカで、古代にインドや東南アジア各地に広まった。日本へは九世紀以前に中国から伝来したと考えられている。ササゲの栄養成分や無機質・ビタミン類などの含有量は同属のアズキ(ササゲ属アズキ Vigna angularis)によく似ており、煮豆や餡・味噌原料とし、また、煮崩れしないので、アズキ(アズキは煮崩れし易い)の代わりに赤飯をつくるのにもよく用いられる。若い莢は、茹でて和え物にしたり、炒め物・汁の実・天ぷらなどにする(以上は主文を小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「角豆飯(ささげめし)」ササゲを小豆代わりにした赤飯。

「瓠(ひさご)」「瓢簞(へうたん)」スミレ目ウリ科ユウガオ属ユウガオ変種ヒョウタン Lagenaria siceraria var. gourda

「壺蘆(ゆふがほ)」ユウガオ属ユウガオ変種ユウガオ Lagenaria siceraria var. hispida

「胡麻(ごま)」シソ目ゴマ科ゴマ属ゴマ Sesamum indicum

「之れを作らずして、舟に乘る人の安全を祈るなり」河童の忌む作物を片手間に栽培すれば、河童はそれを憎んで、彼の生業である舟を襲うからである。

「笠臣(かさのおみ)」講談社「日本人名大辞典」の「笠県守(かさのあがたもり)」には『「日本書紀」にみえる豪族』で、『笠氏の祖。仁徳』天皇六十七年(機械換算で西暦三七八年)に『吉備』『の川嶋河(岡山県の高梁川』(たかはしがわ:ここ(グーグル・マップ・データ)『か)にいる大虬』(みつち:蛇或いは竜)『が民衆をくるしめたため』、『きり殺したという』とある。Open GadaiWikiの「県守」によれば、『笠臣の祖。勇猛果敢で力が強い。仁徳帝朝、吉備中国の川島河に大きな虯』(みづち)『がいて民を苦しめていた。県守は、三つの瓠を用意して淵に臨んで「汝に告げる。今、ここで三つの瓠を河に投げ込む。もし汝が瓠を沈めることができたら』、『汝を許す。沈めることができなかったら』、『汝を殺す。」と言った。すると、大虯は鹿に化けて八方手を尽くし』たが、『瓠を沈めなかった。県守は剣を抜』き、『河に飛』び『込んで』、『大虯を斬り殺した。さらに小虯を求め』、怖しくて』『水底の岩穴に隠れてい』た『小虯を探し出して殺した。そのとき、河の水はすべて血に変わった。それでそこを名付けて「県守淵」という』とある。以上は「日本書紀」の仁徳六十七年の以下の記載に基づく。

   *

是歲、於吉備中國川嶋河派、有大虬、令苦人。時路人、觸其處而行、必被其毒、以多死亡。於是、笠臣祖縣守、爲人勇捍而强力、臨派淵、以三全瓠投水曰、「汝屢吐毒令苦路人、余殺汝虬。汝沈是瓠則余避之、不能沈者仍斬汝身。」。時、水虬化鹿、以引入瓠、瓠不沈、卽舉劒入水斬虬。更求虬之黨類、乃諸虬族、滿淵底之岫穴。悉斬之、河水變血、故號其水曰縣守淵也。當此時、妖氣稍動、叛者一二始起。於是天皇、夙興夜寐、輕賦薄斂、以寛民萌、布德施惠、以振困窮、弔死問疾、以養孤孀。是以、政令流行、天下太平、廿餘年無事矣。

   *

なお、史実的系譜上では笠氏は古代日本の吉備国(岡山県)の豪族吉備氏(きびうじ)から七世紀以降に分派した一氏族で、ウィキの「吉備氏」によれば、分派した彼らは姓(かばね)としては「臣(おみ)」または「朝臣(あそみ)」を称し、『多くは国造や郡司などの在地の有力豪族』となったが、『中央貴族として立身した者も少なくな』く、例えば、飛鳥時代の官人吉備笠垂(きびのかさのしだる)は古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ ?~大化元(六四五)年:舒明天皇第一皇子)の『反乱を告発して名を上げ』たとある(但し、ウィキの「古人大兄皇子」によれば、古人大兄皇子は「乙巳の変(いっしのへん:彼の異母弟中大兄皇子(後の天智天皇)・中臣鎌子(藤原鎌足)らが蘇我入鹿を暗殺して蘇我本宗家を滅ぼした政変)」で後ろ盾であった曽我氏を失ってからは、皇極天皇退位後、皇位に就くことを勧められたものの、それを断り、出家して吉野へ隠退していた。しかし、この笠垂が古人大兄皇子の謀反の企てを密告し、中大兄皇子によって攻め殺されたもので、実際には『謀反を企てていたかどうかは不明である』ともある)。

「茨田連衫子(まんだのむらじころものこ)」(生没年不詳:「まむた」とも)は日本古代の河内国の豪族で、姓は連。ウィキの「茨田連衫子」によれば、「新撰姓氏録」の『「右京皇別」によると、茨田連氏は「多朝臣同祖」とあり、「神八井耳命男彦八井耳命之後也」とある。茨田』の屯倉(みやけ)(河内国に設置された大和朝廷の直轄地)の『管掌を行ったので、この氏名がある』。「日本書紀」巻第十一によると、仁徳天皇十一年(機械換算で三二三年)、『日本最初の大規模な土木工事である茨田堤の築造の際』、

両處(ふたところ)の築(つ)かば、乃(すなは)ち、壞(くづ)れて塞(ふさ)ぎ難き有り。

『(築いてもまた壊れ、防ぎにくい所が二カ所あった)』。その時、『天皇は夢を見』、そこに『神が現れて』、

武藏人(むさしひと)強頸(こはくび)河内人(かふち)茨田連(まむたのむらじ)衫子(ころものこ)二人を以(も)て河伯(かはのかみ)に祭らば、必ず塞(ふさ)ぐこと獲(え)てむ。

『とおっしゃられた。そこで』、『この二名を捜して人身御供にした』。『強頸は泣き悲しんで水に入って死んだが、衫子は、

全(おふし)匏(ひさご)兩個(ふたつ)

『を取って、川の中に投げ入れ』、誓約(うけい)『をした』。

河神、祟(たた)りて、吾(やつかれ)を以て幣(まひ)とせり。是(ここ)を以て、今吾來(きた)れり。必ず我(やつかれ)を得むと欲(おも)はば、是(こ)の匏(ひさこ)を沈めてな泛(うかば)せそ。則ち、吾、眞(まこと)の神と知りて、親(みづか)ら水の中に入らむ。若し、匏を沈むることを得ずは、自(おのづか)らに僞(いつは)りの神と知らむ。何(いかに)ぞ吾が身を亡(ほろぼ)さむ。

『(河神がたたるので、私が生け贄にされることになった。自分を必ず得たいのなら、このヒサゴを沈めて浮かばないようにせよ、そうすれば自分も本当の神意と知って水の中に入りましょう。もしヒサゴを沈められないのなら、無駄にわが身を亡ぼすことはない)』、と『言った途端、つむじ風がにわかに起こり、匏を引いて水中に沈めたが、匏は波の上に転がるだけで沈まなかった。風に流されて遠くへ行ってしまった』。『かくして衫子は死ななかったが、堤は完成した。これは衫子の才量によって命が助かったのである。時の人はこれを強頸断間・衫子断間と呼んだ』とある。『前者は大阪市旭区千林町、後者は寝屋川市太間に比定されている』。『これと同様の物語が仁徳天皇』六十七『年にある。吉備中国(きびのみちのなかのくに)の川嶋河の川俣に、大虬(みずち=大蛇・竜)が住んでおり、毒気で人々を苦しめていた。笠臣の始祖の県守(あがたもり)は勇敢で力が強く、淵に「三(みつ)の全瓠(おふしひさこ)」を投げ入れ、「お前がこの瓠を沈められるのなら、私が避ろう。できなければ』、『お前の体を斬るだろう」と言った。みずちは鹿に化けて瓠を沈めようとしたが、沈まずに、県守は剣を抜いて水中にはいり、みずちとその仲間を斬り殺した。この淵を県守淵と言う。この時妖気に当てられて、叛く者が一二名いたという』(前掲であるが、引いておいた)。『茨田連一族は』、「日本書紀」巻第二十九に『よると、八色の姓制定により』、天武天皇一三(六八四)年十二月に『宿禰の姓を与えられている』。『この説話の末尾には』、

是歲(ことし)、新羅人(しらきひと)朝貢(みつきたてまつ)る。則ち、是の役(えたち)に勞(つか)ふ。

『とあり』、五『世紀代から本格化する大土木工事の技術や知識が渡来人集団によるものであることは明らかであり、その技術革新への自信が自然の脅威への挑戦・克服へと繋がっていることを、衫子の行動自身が指し示している』。『そこには』、『それまでの農民の利益を代表してきた共同体の機能の存続・維持を求めてきた「迷信」への克服が現れている。農耕具の進歩(U字形鍬・曲刃の鎌など)、武具における革綴短甲から鋲留短甲への革新・発展、須恵器生産の開始、騎馬の風習なども大いに関係している』とある(「日本書紀」原文の漢字表記を正字に改め、一部に句読点を追加して打った)。「日本書紀」の原文は以下(【 】は割注)。

   *

冬十月、掘宮北之郊原、引南水以入西海、因以號其水曰堀江。又將防北河之澇、以築茨田堤、是時、有兩處之築而乃壞之難塞、時天皇夢、有神誨之曰、「武藏人强頸・河内人茨田連衫子【衫子、此云莒呂母能古】二人、以祭於河伯、必獲塞。」。則覓二人而得之、因以、禱于河神。爰强頸、泣悲之沒水而死、乃其堤成焉。唯衫子、取全匏兩箇、臨于難塞水、乃取兩箇匏、投於水中、請之曰、「河神、崇之以吾爲幣。是以、今吾來也。必欲得我者、沈是匏而不令泛。則吾知眞神、親入水中。若不得沈匏者、自知僞神。何徒亡吾身。」。於是、飄風忽起、引匏沒水、匏轉浪上而不沈、則潝々汎以遠流。是以衫子、雖不死而其堤且成也。是、因衫子之幹、其身非亡耳。故時人、號其兩處曰强頸斷間・衫子斷間也。是歲、新羅人朝貢、則勞於是役。

   *

「河伯(かはのかみ)」この漢字表記は気になる。明らかに中国由来の川の神だからである。


「麻穰(あさがら)」削るとあるからには、落葉小高木のツツジ目エゴノキ科アサガラ属アサガラ Pterostyrax corymbosus か。樹皮はコルク質が発達し、浅く裂け易く、材も非常に割れ易い。但し、河童がこれに刺されてしまうのは、和名の「麻殻」の「麻」絡みであるからに過ぎまい。河童が鉄や麻を嫌う意味はよく判らぬ(五行の相剋でもない)。ピンとくる説明にも巡り遇わぬが、ここに一つ、sunekotanpako氏の『スネコタンパコの「夏炉冬扇」物語』の「続・河童と渋江氏」にかなり変わった解釈が示されてはある。それに賛同するわけではないが、一つの見解としてはかなり面白い。

「樒(しきみ)」アウストロバイレヤ目 Austrobaileyalesマツブサ科シキミ属シキミ Illicium anisatumウィキの「シキミ」によれば、シキミは『俗にハナノキ・ハナシバ・コウシバ・仏前草と』も言い、『空海が青蓮華の代用として密教の修法に使った。青蓮花は天竺の無熱池にあるとされ、その花に似ているので仏前の供養用に使われた』とある。なお、仏前供養でお馴染みな割には、あまり知られていないと思うので引用しておくと、シキミは『花や葉、実、さらに根から茎にいたるまでの全てが毒成分を含む。特に、種子に』猛毒の神経毒であるアニサチン(anisatin)『などの有毒物質を含み、特に果実に多く、食用すると』、『死亡する可能性がある程度に有毒である』。『実際』に『事故が多いため、シキミの実は植物としては唯一、毒物及び劇物取締法により劇物に指定』『されている』ことは知っておいてよい。

「胡瓜」ウリ目ウリ科キュウリ属キュウリ Cucumis sativusウィキの「河童」には、『キュウリを好むのは、河童が水神の零落した姿であり、キュウリは初』実(な)り『の野菜として』、『水神信仰の供え物に欠かせなかったことに由来するといわれる』とある。柳田國男の論展開と一致するし、これは判り易く、プラグマティクで腑にも落ちる。

「攘(はら)ひ」「拂」「祓」に通ず。

「祇園の神」ウィキの「祇園信仰」によれば、それは『牛頭天王・スサノオに対する神仏習合の信仰で』、『明治の神仏分離以降は、スサノオを祭神とする神道の信仰となっている。京都の八坂神社もしくは兵庫県の広峯神社を総本社とする』。『牛頭天王は元々は仏教的な陰陽道の神で、一般的には祇園精舎の守護神とされ』、「簠簋(ほき)内伝」(安倍晴明が編纂したと伝承される占術書「三国相伝陰陽輨轄簠簋内伝金烏玉兎集(さんごくそうでんいんようかんかつほきないでんきんうぎょくとしゅう)」の略称)の『記述が著名である。中国で道教の影響を受け、日本ではさらに神道の神であるスサノオと習合した。これは牛頭天王もスサノオも行疫神(疫病をはやらせる神)とされていたためである。本地仏は薬師如来とされた』。『平安時代に成立した御霊信仰を背景に、行疫神を慰め和ませることで疫病を防ごうとしたのが祇園信仰の原形である。その祭礼を「祇園御霊会(御霊会)」といい』、十『世紀後半に京の市民によって祇園社(現在の八坂神社)で行われるようになった。祇園御霊会は祇園社の』六『月の例祭として定着し』、天延三(九七五)年には、『朝廷の奉幣を受ける祭となった。この祭が後の祇園祭となる。山車や山鉾は行疫神を楽しませるための出し物であり、また、行疫神の厄を分散させるという意味もある。中世までには祇園信仰が全国に広まり、牛頭天王を祀る祇園社あるいは牛頭天王社が作られ、祭列として御霊会(あるいは天王祭)が行われるようになった』。『明治の神仏分離令で、神社での仏式の行事が禁止され、また、祭神の名や社名に「牛頭天王」「祇園」のような仏教語を使用することが禁止されたことから、祇園社・牛頭天王社はスサノオを祀る神社となり、社名を改称した。総本社である京都の祇園社は、鎮座地の地名から八坂神社とされた。その他の神社では、京都にならった八坂神社のほか、祭神の名前から素盞嗚神社・素戔嗚神社、かつての社名から祇園神社、また地名を冠したものや牛頭天王を祀る以前の旧社名などに改称した』。『牛頭天王・スサノオに対する信仰のうち、津島神社(愛知県津島市)を中心に東海地方に広まった信仰を津島信仰(つしましんこう)と呼ぶ』とある。牛頭天王と素戔嗚命(すさのおのみこと)と水神と河童を芋蔓式の誤魔化しではなく、多重多層的に結びつけるものが示されないと私のような偏屈者には、まだまだ納得が行かない。

「それより後は中に蛇が居るなどと稱して、決して胡瓜を食はず」祇園祭の期間は、胡瓜を食べないという習慣は全国的に残っている。これは一般には祇園神社の紋が「五瓜(ごか)紋」ウィキの「木瓜(もっこう)紋」の当該紋の画像)が胡瓜の輪切りに似ていることに由来するとされる。他にも、平将門の紋である「九曜星」がやはり似ていることから、千葉県などで胡瓜を食べない地区があることは大学時分に聴いたことがある。

「水天宮」「蠣殼町(かきがらちやう)の流行神(はやりがみ)」「鄕里の筑後に於いては、元は尼御前社(あまごぜしや)と稱せられ、城下より四里ほどの上流に九十瀨川(こせがは)と云ふ處の水神と夫婦(めをと)の神なり」東京都中央区日本橋蛎殻町にある水天宮(グーグル・マップ・データ)は、福岡県久留米市にある久留米水天宮の分社。ウィキの「水天宮(東京都中央区)」によれば、『久留米の水天宮は久留米藩歴代藩主(有馬家)により崇敬されていたが』、文政元(一八一八)年九月、第九代『藩主有馬頼徳が江戸・三田の久留米藩江戸上屋敷に分霊を勧請した。これが江戸の水天宮の始まりである。藩邸内にあったため』、『一般人の参拝が難しかったが、江戸でも信仰者の多い水天宮への一般参拝の許可を求める伺書を幕府へ提出、幕府のこうした事例は関与しないとの見解を得た上で、同年から毎月』五『の日に一般開放された。その人気ぶりは「情け有馬の水天宮」という地口も生まれたほどであった。有馬家の会計記録には「水天宮金」という賽銭や奉納物、お札などの販売物の売上項目があり、その金額は安政年間の記録で年間』二千『両に上り、財政難であえぐ久留米藩にとって貴重な副収入だった』。明治四(一八七一)年に『有馬家屋敷が移転することになり、それとともに赤坂に遷座したが』翌明治5年、『有馬家中屋敷(近隣の中央区立有馬小学校に名前と痕跡が残る)のあった現在の日本橋蛎殻町二丁目に移転した』。『有馬家との縁は続いており』、二〇一六年『現在の宮司有馬頼央は、有馬家の第』十七『代当主』だそうである。さて、本家の現在は福岡県久留米市瀬下町(せのしたまち)にある水天宮(グーグル・マップ・データ)もウィキの「水天宮(久留米市)」から引く。『天御中主神・安徳天皇・高倉平中宮(建礼門院、平徳子)・二位の尼(平時子)を祀る』。『社伝によれば』、寿永四(一一八五)年、『高倉平中宮に仕え』、『壇ノ浦の戦いで生き延びた按察使』(あぜち)『の局伊勢が千歳川』(現在の筑後川)『のほとりの鷺野ヶ原に逃れて来て、建久年間』(一一九〇年~一一九九年)『に安徳天皇と平家一門の霊を祀る祠を建てたのに始まる。伊勢は剃髪して名を千代と改め、里々に請われて加持祈祷を行ったことから、当初は尼御前神社と呼ばれた』(調べてみると、このプレ水天宮である尼御前神社はその後、筑後川下流の氾濫原を流されては再建し、転々と場所を移っていたらしい。但し、さらに調べるに、最初の位置候補として現在の水天宮の対岸(北)の佐賀県鳥栖(とす)市下野町(しものまち)(地図を拡大すると、同地区内にも「水天宮」が現認出来る)内に「鷺ケ鼻」という地名が残るという(ビッグツリー氏のサイト「ぶらり寺社めぐり」の久留米の「水天宮」の記載内)。また、ずっと上流であるが、福岡県うきは市浮羽町妹川周辺(以上総てグーグル・マップ・データ)もこの伝承と絡んでいるらしいことも判った(後の引用参照))。『そのころ、中納言平知盛の孫の平右忠が肥後国から千代を訪れ、その後嗣とした。これが現在まで続く社家・真木家の祖先である』。『慶長年間』(一三一一年~一三一二年)『に久留米市新町に遷り』、慶安三(一六五〇)年、『久留米藩第』二『代藩主有馬忠頼によって現在地に社殿が整えられ遷座したのが』、『現在総本宮である久留米水天宮で』、『その後も歴代藩主により崇敬されたが、特に第』九『代藩主頼徳』が以上の通り、『久留米藩江戸屋敷に分霊を勧請し』ている。

「九十瀨入道(こせにゆうだう)」(「ちくま文庫」版全集は前の九十瀬川にもこれにもルビを振らないが、これを「こせ」と読める人はそう多くはない。ルビを振らないのは、これ、不親切極まりないと私は思う)多くは平清盛が化した河童の頭目とするが、個人(女性)サイトの「のりちゃんず」の「巨勢山口神社」(この神社は奈良県御所市古瀬宮ノ谷にある)の解説の下方に、サイト主宛てに豪族「巨勢(こせ)氏」と「九十瀬入道」についての、メールで受けたとする情報が示されてあり、

   《引用開始》

「福岡県浮羽郡田主丸町の九十瀬入道についてですが、別名を巨瀬入道といいますが、田主丸町歴史研究家によれば、古代豪族の巨勢氏からではなく、同地方にある巨瀬川の「巨瀬」を取って名乗ったということです。例えば、『源氏の一部のものが、足利という土地を領するようになり、その後、足利を名乗るようになった』というように、中世の武士は、本貫地とする地名を氏としていますが、平氏の残党である武士が巨瀬川付近に住むようになって、自ら巨瀬と名乗ったのではないかと思います。なお、田主丸町史によれば、この九十瀬入道は、物語である旨、記載されています。」

「九十瀬入道については、福岡県浮羽郡浮羽町大字妹川(江戸時代まで、妹川村と呼ばれていました。)にある大山祇神社内にある御神体の敷板にも、次のことが書かれています。『妹川村地方は昔巨勢氏の領地であった。この巨勢氏の同族である妹川朝臣が開墾したので、この地を高西(こせ)の妹川という。巨勢大夫人は白鳳年中(五三八年~七一〇年)勅命により賊を討ったが敗れたため罪を蒙った。その子孫である蟻(あり)は僧となり諸国を修行し、先祖の遣蹟を慕ってこの地に来り住んだ。天宝壬寅春村民のために山神をまつって、田園の守護神として崇めさせ、樋を設けて濯漑の便をはかることなどを教えた。爾来鳥獣の害、早魃の憂いもなく五穀豊穣、居民は益々さかえた。蟻入道は後年自ら九十瀬入道(こせにゅうどう)ととなえたが、ある日山に入ったままとうとう帰らなかった。

村民は、敬慕のあまり滝のそばに小伺を立てて蟻権現とあがめた。これがいわゆる九十瀬水神である。』(原文は漢文)

大山祇神社については、壇ノ浦の敗戦後、平家の将卒は、九州にある巨瀬川を上って福岡県浮羽郡浮羽町大字妹川の樫ケ平に至り、同地にある大山祇神社を祭って戦勝の再興を祈願したそうです。九十瀬入道については、浮羽町史等が、平清盛や平家関係の人物である旨記載しておりますが、田主丸町史には、道君氏の15世及麿(ちかまろ)の捨い子であり、後に石垣山観音寺の中興の祖となる金光坊然廓(ねんかく、童子のころ現若(ありわか)と名付けられたそうです。)伝説の影響下で構成されたものではなかっただろうか、と記載しており、この九十瀬入道が、実在の人物であったかどうかには、未だ分かりません。今後も調査を続けようとおもいます。

なお、巨瀬川は巨勢川とも書きますが、巨勢川という川の名は巨勢氏から来ているそうです。何かの本で読んだのですが、福岡県には、筑後川があり、灌漑用水のため、巨勢氏が筑後川から支流を開いたので、巨勢川と呼んだそうです。」

   《引用終了》

とある。う~ん、なかなか奥が深そう!!!

「女院(にようゐん)」高倉天皇の皇后(中宮)で安徳天皇の母である建礼門院徳子。

「釜神」竈神に同じ。なお、調べているうちに、『各市町村史()、郷土史、書籍等から抜粋の釜神関係記事』と副題する「工房釜神 【釜神の伝説 言い伝え 習俗】」というマニアックな竈神ページを発見! ともかく凄い! 必読・要保存!!!

「八女(やめ)郡光友(みつとも)村大字田形(たがた)の釜屋神、卽ち、矢部川南岸の淵に臨みて構へられたる水神の社」福岡県八女市立花町田形にある釜屋神社(グーグル・マップ・データ)。事代主氏の「事代主のブログ」の「釜屋神社(立花)」によれば、祭神は罔象女命(みつはのめのみこと)・瀬織津媛命(せおりつひめのみこと)大日孁貴(おほひるめのむち)で、社殿に掲げられた「釜屋神社縁起」に(写真有り。事代主氏の電子化されたものを、そのまま引用させて貰う。

   《引用開始》

それここに筑後国上妻郡釜屋大明神は人皇五十代桓武天皇の御宇延暦年中この地に跡を祭りたもうてより多年の星霜を経て社頭も漸く頽敗しぬ。

然るに平治の頃薩摩国根占の城主大蔵大輔助能公綸命を蒙りて黒木の庄猫尾の城主に封ぜらる。ある時助能公霊夢によりて、嘉應年中この社頭を再興し給ひ尊信淺からず、則ち累世祈願の地と仰ぎ給う。

物換り星移り数十代を経て天正十二年甲申黒木兵庫頭家永公に至りて、猫尾落城、社頭も己に破却し候。その後慶長十一年田中吉政公尊敬ましまし神領を寄附し給ひ再び盛栄の霊地となれり、元和七年の春竹中寀女正公また神領御免の地を給う。同年の冬大守宗茂公御尊信の旨を以て猶また倍加の地を寄附し給ふ。

之に依りて神威日を追ふて輝き神徳年を経て厚し誠に国土安全五穀豊饒万民快楽の霊地となれり。今ここに宝暦十年辰三月旧例によりて瑞戸をひらき奉り貴餞の拝礼を乞う神奧奇跡の影を移すがごとく、その徳豈空しからんや(由緒板より)

   《引用終了》

以下、事代主氏の解説。『これによると』、『この神社は、桓武天皇の時代』(七一六年前後)『の創建のようで、平治の頃』(保元四年四月二十日(ユリウス暦一一五九年五月九日)~平治二年一月十日(同一一六〇年二月十八日))、『黒木の猫尾城主となった大蔵大輔助能が社殿を再興したとなっています』。『そして天正十二年』(一五八四年)に『黒木兵庫頭家永公』の『頃、猫尾』は『落城』し、後の元和七(一六二一)年『の春』、『竹中寀女』(采女(うねめ)であろう)『正』(しょう)、『公に許しを得て』、『同年の冬』、『大守宗茂公によって更に倍加の土地(神領)の寄附を賜ったとあります』。ブログ主は最後に『ここはいかにも水と河の神の社と云う雰囲気です』と述べておられる。添えられた写真とともに見られたい。確かに。いい感じ!]

2019/03/18

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(36) 「河童の神異」(2)

 

《原文》

 事玆ニ及ビテハ河童ハ到底動物學上ノ問題ニ非ザルナリ。草木言問フ神代ナラバイザ知ラズ、今時河童ガ人間ト會話ヲ爲シ、モシクハ人ヲ欺キ、或ハソコニ居リナガラ姿ヲ見セズナドト云フガ如キ、是レ所謂靈異ニ非ズシテ何ゾヤナリ。【人ヲ化カス動物】我々祖父母ノ頃マデハ、狐狸貉ノ類ハ獸ニシテ兼ネテ人ヲ魅スルノ力アルコトヲ許サレタリシモ、仔細ニ考慮ヲ加フレバ、此ハ他ノ一面ニ動物ヲ神ニ齋クダケノ覺悟アリテ始メテ現ハレ來ルべキ思想ナリ。木ノ神モ蟲ノ神モ皆同ジコトニテ、拜スレバコソ祟ルト云フコトモアルナレ。語ヲ換ヘテ申サバ、惡ノ力モ世ノ進ムト共ニ漸ク衰ヘ行クべキモノナリ。此古風ナル信仰ノ斷シテヨリ後ハ、傳ノミガ其跡ニ取殘サレテ只ノ小トシテ存在シ、假令最初ニ之ヲ語リシ人ハ如何ニ眞面目ナリキトスルモ、後世ニ於テハ單ニ興味ノミヲ以テ之ヲ語リ傳ヘ、又興味ヲ以テ自由勝手ニ之ヲ變形シ行クコトモ無シトハ云フべカラズ。故ニ諸國ノ澤山ノ河童談ヲ比較硏究スルニ非ザレバ、何ノ爲ニ斯ル話ガ發生シタルカヲ理解スルコト能ハザルハ當然ノ事ナリトス。

 

《訓読》

 事、玆(ここ)に及びては、河童は、到底、動物學上の問題に非ざるなり。草木(くさき)言問(こととふ)ふ神代(かみよ)ならばいざ知らず、今時、河童が人間と會話を爲し、もしくは人を欺き、或いは、そこに居(を)りながら、姿を見せずなどと云ふがごとき、是れ、所謂、靈異(りやうい)に非ずして何ぞやなり。【人を化かす動物】我々祖父母の頃までは、狐・狸・貉(むじな)の類は獸にして兼ねて人を魅(み)するの力あることを許されたりしも、仔細に考慮を加ふれば、此れは他の一面に動物を神に齋(いつ)くだけの覺悟ありて、始めて現はれ來あるべき思想なり。木の神も、蟲の神も、皆、同じことにて、拜すればこそ、祟ると云ふこともあるなれ。語を換へて申さば、惡の力も世の進むと共に漸く衰へ行くべきものなり。此の古風なる信仰の斷してより後は、傳のみが其の跡に取り殘されて只だの小として存在し、假令(たとひ)最初に之れを語りし人は如何に眞面目なりきとするも、後世に於いては單に興味のみを以つて之れを語り傳へ、又、興味を以つて自由勝手に之れを變形し行くことも無しとは云ふべからず。故に諸國の澤山の河童談を比較硏究するに非ざれば、何の爲に斯(かか)る話が發生したるかを理解すること能はざるは、當然の事なりとす。

[やぶちゃん注:「狐」脊椎動物亜門哺乳綱食肉目イヌ科キツネ属アカギツネ亜種ホンドギツネ Vulpes vulpes japonica

「狸」イヌ科タヌキ属タヌキ亜種ホンドダヌキNyctereutes procyonoides viverrinus

「貉」「狐」「狸」と差別化する場合は、食肉目イヌ型亜目クマ下目イタチ小目イタチ上科イタチ科アナグマ属ニホンアナグマ Meles anakuma を指す。食肉目ネコ型亜目ジャコウネコ科パームシベット亜科ハクビシン属ハクビシン Paguma larvata を「貉」に含める識者も多いが、私はハクビシンは近代以降の人為的外来侵入種と捉えており、ここでの「むじな」には含めて考えない。

「齋(いつ)く」大切に神的存在として祀る。]

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(35) 「河童の神異」(1)

 

《原文》

河童ノ神異  サテ立チ戾リテ愈河童傳ノ結末ヲ附ケント欲ス。猿ハ既ニ厩馬ノ保護者ナリトスレバ、假令每囘ノ計畫ハ失敗ニ終リタリトハ言ヘ、常ニ馬ノ害敵ヲ以テ自ラ任ズル河童ヲ指ザシテ、猿ヨリ變形シタルモノナリト斷定スルハ無理ナルニ似タリ。【善神惡神】併シナガラ日本ニハ限ラズ、多クノ國ノ民間ノ神樣ニハ佛樣ト違ヒテ往々ニシテ善惡ノ二面アリ。而モ人ノ生活ト最モ多ク交涉スルハ、神ノ本來ノ親切ニハアラデ其時々ノ憤怒ノ威力ナリ。此性癖ノ殊ニ顯著ナルガ恐ラクハ所謂枉津日(マガツヒ)ノ神ニシテ、人ハ其兇害ヲ輕減セラレンガ爲ニ村ニ夥シク其祠ヲ齋ヒ、言ハヾ惡神ノ消極的保護ヲ仰ギシナリ。思慮淺キ者ノ考ヘニテハ、善神ニハ何ノ祈願ヲ掛ケズトモ當然ノ恩惠ヲ期スルコトヲ得べシ、之ニ反シテ惡神ノ方ハ早ク手ヲ廻シテ置カザレバ何ヲシタマフカ分ラズ。故ニ常ニ其御機嫌ヲ取リテ良キ程ニ他ノ方面ニ注意ヲ轉ゼシムルノ算段ヲスルナリ。【神送リ】其神ニシテ移動性ノ神ナラバ鉦鼓歌舞ヲ以テ之ヲ村ノ境マデ送リ出シ、若シ又土著ノ神ナラバ無慈悲ノ地頭ヲ戴キシ時ト同ジ格ニテ、最モ謹愼シテ年々ノ祭ヲ勤メ、聊カニテモ其怒ヲ起サズ其思遣リ無キ神罰ヲ蒙ラザルコトニ熱心ス。要スルニ憤ヲ抑ヘ恨ミヲ寬恕スルコトモ亦大ナル神德卽チ人間ノ懇請スべキ神ノ好意ナリ。此故ニ假ニ馬ノ神ノ特質ニ中世何等ノ變遷無カリキトスルモ、猶河童駒引ノ傳ヲ發生セシムルニ些シモ差支ヘ無シ。【客神】殊ニ所謂猿神ノ如キハ勿論神代ノ最初ヨリノ我神ニ非ズ。イヅレノ時代ニカ入リ來リシ客神ノ一種ニシテ、十分ニ氣心ノ知レヌ神ナリ。從ツテ我々ノ祖先ガ如何ニ其信仰ヲ受傳ヘタリシカハ、到底想像ノ外ニ在リ。【荒神】或ハ油斷ノナラヌ荒神ナルガ爲ニ、一應ハ其護符ヲ有難ク頂戴シタルモ、内心ノ不服ヲ自制スルコト能ハズシテ、寧ロ詫證文ノ誤解ヲ歡迎シ且ツ其詮議ニ手ヲ盡シ、モシクハ又其力量ノ必ズシモ怖ルヽニ足ラザルヲ感ズルヤ、頻リニ某地ニ於ケル「ヒヤウスヘ」ノ約束ヲ云々シテ、旗鼓堂々ト之ニ對シテ戰ヲ宣シタルモノナリトモ見ルコトヲ得べシ。

 

《訓読》

河童の神異  さて、立ち戾りて愈々(いよいよ)河童傳の結末を附けんと欲す。猿は既に厩馬の保護者なりとすれば、假令(たとひ)、每囘の計畫は失敗に終りたりとは言へ、常に馬の害敵を以つて自ら任ずる河童を指(ゆび)ざして、猿より變形したるものなりと斷定するは無理なるに似たり。【善神惡神】併しながら、日本には限らず、多くの國の民間の神樣には、佛樣と違ひて、往々にして善惡の二面あり。而も人の生活と最も多く交涉するは、神の本來の親切にはあらで、其の時々の憤怒の威力なり。此の性癖の殊に顯著なるが、恐らくは、所謂、「枉津日(まがつひ)の神」にして、人は其の兇害(きようがい)を輕減せられんが爲に、村に夥(おびただ)しく其の祠を齋(いは)ひ、言はゞ、惡神の消極的保護を仰ぎしなり。思慮淺き者の考へにては、善神には何の祈願を掛けずとも、當然の恩惠を期(き)することを得べし、之れに反して、惡神の方は、早く手を廻して置かざれば、何をしたまふか、分らず。故に常に其の御機嫌を取りて、良き程に他の方面に注意を轉ぜしむるの算段をするなり。【神送り】其の神にして移動性の神ならば、鉦鼓歌舞(しやうこかぶ)を以つて之れを村の境まで送り出し、若(も)し又、土著(どちやく)の神ならば、無慈悲の地頭を戴きし時と同じ格にて、最も謹愼して、年々の祭りを勤め、聊(いささ)かにても其の怒を起さず、其の思ひ遣り無き神罰を蒙らざることに、熱心す。要するに憤りを抑へ、恨みを寬恕することも亦、大なる神德、卽ち、人間の懇請すべき神の好意なり。此の故に、假に馬の神の特質に、中世、何等の變遷無かりきとするも、猶ほ、河童駒引の傳を發生せしむるに些(すこ)しも差し支へ無し。【客神(まらうどがみ)】殊に、所謂、「猿神(さるがみ)」のごときは、勿論、神代(かみよ)の最初よりの我が神に非ず。いづれの時代にか入り來たりし客神の一種にして、十分に氣心(きごころ)の知れぬ神なり。從つて、我々の祖先が、如何に其の信仰を受け傳へたりしかは、到底、想像の外に在り。【荒神】或いは、油斷のならぬ荒神なるが爲に、一應は其の護符を有難く頂戴したるも、内心の不服を自制すること能はずして、寧ろ、詫證文の誤解を歡迎し、且つ、其の詮議に手を盡し、もしくは又、其の力量の必ずしも怖るゝに足らざるを感ずるや、頻りに某地に於ける「ヒヤウスヘ」の約束を云々して、旗鼓堂々(きこだうだう)と、之れに對して戰ひを宣したるものなり、とも見ることを得べし。

[やぶちゃん注:「枉津日(まがつひ)の神」ウィキの「禍津日神によれば、「古事記」に基づくなら、伊耶那岐(いさなき)の『禊ぎによって生まれた神々』を指し、『禍(マガ)は災厄、ツは「の」、ヒは神霊の意味であるので、マガツヒは災厄の神という意』となる。「神産み」で、黄泉から帰還した伊耶那岐『が禊を行って黄泉の穢れを祓ったときに生まれた神で』、「古事記」では「八十禍津日神(やそまがつひのかみ)」と「大禍津日神(おほまがつひのかみ)」の二神とし、「日本書紀」第五段第六の一書に於いては、「八十枉津日神(やそまがつひのかみ)」と「枉津日神(まがつひのかみ)」とする。『これらの神は黄泉の穢れから生まれた神で、災厄を司る神とされている』。『神話では、禍津日神が生まれた後、その禍を直すために』、「直毘神(なおびのかみ)」二柱と「伊豆能売(いづのめ)」が生まれあとする。柳田國男が言うように後には、『この神を祀ることで』、『災厄から逃れられると考えられるようになり、厄除けの守護神として信仰されるようになった』。『この場合、直毘神が一緒に祀られていることが多い』とある。『本居宣長は、禍津日神を悪神だと考えた』。『宣長によると禍津日神は人生における不合理さをもたらす原因だという』。『この世の中において、人の禍福は必ずしも合理的に人々にもたらされず、誠実に生きている人間が必ずしも幸福を享受し得ないのは、禍津日神の仕業だとした』。『「禍津日神の御心のあらびはしも、せむすべなく、いとも悲しきわざにぞありける」』(「直毘霊(なおびのたま)」)『と述べている』。『一方、平田篤胤は禍津日神を善神だとし』、『篤胤によると、禍津日神は須佐之男命の荒魂であるという』。『全ての人間は、その心に禍津日神の分霊と直毘神(篤胤は天照大神の和魂』(にぎみたま)『としている)の分霊を授かっているのだという』。『人間が悪やケガレに直面したとき、それらに対して怒り、憎しみ、荒々しく反応するのは、自らの心の中に禍津日神の分霊の働きによるものだとした』。『つまり、悪を悪だと判断する人の心の働きを司る神だというのである』。『また』、『その怒りは直毘神の分霊の働きにより、やがて鎮められるとした』とある。

「旗鼓堂々」通常は、「旗鼓」は「軍旗」と先陣を飾る「太鼓」で、「軍隊が整然として勢いや威厳のあるさま」であるが、そこから転じて、一般に人々が隊列をなして行進するさまなどの形容にも用いる(別に「文筆の勢いの盛んなさま」にも用いる)。]

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(34) 「靱猿根原」(2)

 

 

《原文》

 同ジ野大坪ノ記錄ノ中ニ又左ノ如キ一節アリ。曰ク鎌倉殿ヨリ頂戴セシ証文士ノ免許狀ハ扇子ノ面ニ認メテアリキ。【骨足ラズ】然ルニ不幸ニモ其扇ノ骨ガ一本損ジテアリシ爲ニ、且ツハ自分等ガ品格ヲ重ンジテ近村ノ農民トノ交際ヲ避ケタリシ爲ニ、世ニハ誤リテ野宇津保證文士ハ骨一本足ラズト唱ヘテ此部落ヲ輕蔑擯斥シ、サモサモ賤民ニテモアルカノ如キ取扱ヲ受ケ來リシハ殘念ノ事ナリトアリ。此記事ヲ裏面ヨリ觀レバ、當ト不當トハ別問題トシテ、世間ニテハ此仲間ヲ目シテ、所謂骨ノ一枚不足セル種族ト爲セシ事實ハ明カナリ。萬歳ト「シヨモジ」ト同類ナルコトモ之ニ由リテ知ルコトヲ得タリ。「シヨモジ」ハ普通ニハ唱門師ト書キテ、二百年ホド以前迄京都及ビ其近國ニ居住セシ特殊ノ部落ナリ。塵添壒囊抄卷十三ニモ、家々ノ門ニ立チ金鼓(キンコ)ヲ打チ妙憧ノ本誓ヲ唱ヘ阿彌陀經ヲ誦スル者ナレバ門ニ唱フト書クべキナリトアリテ、今ハ多ク之ニ從ヘリト雖、其名稱ノ由來ハ峯相記ナドニ「闇證ノ禪師誦文ノ法師」ナドトアル誦文師ナランカト思ハル。【ヒジリ】卽チ經文ヲ暗誦スルモ、學問ナクシテ一宗ノ趣ヲ解セザル身分低キ「ヒジリ」ノコトナルべシ。此モ亦夙クヨリ陰陽家ノ支配ノ下ニ立チ、正月ノ左義長又ハ土用ノ水合ノ折ニハ、宮廷ノ御階近クマデモ罷出デタリシト云ヘリ〔和訓栞〕。【ハカセ】【ヰンナイ】而シテ其子孫ト云フ者今ハ何レノ地方ニモ殘存セザルハ、多分「ハカセ」トカ、「ヰンナイ」トカ、「シユク」トカノ別種ノ名稱ヲ以テ呼バレタル結果ニシテ、此ト共通ナル業ヲ營ミ乃至ハ唱門師ノ一類ナリト稱セラルヽ者ハ近キ頃マデ多ク存セシナリ。此等ノ輩ハ何レモ未ダ厩ノ祈禱ニ關係セシ證據ヲ見出サザレドモ、越前ノ宇津保舞ノ故事ヲ考ヘ合ストキハ、猿ガ馬ヲ曳ケル繪札ナドヲ配リシ者ハ、必ズシモ專門ノ猿屋ノミニハ限ラザリシヤモ知リ難シ。【エビス願人】カノ梓神子ノー派ガ此札ヲ持チテアルキシ外ニ、關東ニテハ神馬ノ守札ハ舞太夫モ「エビス願人(ぐわんにん)」モ亦之ヲ配リタリシナリ。サレバ所謂駒引錢ノ中ニ神主又ハ農夫體ノ者ガ口綱ヲ取居ルモノノ如キハ、必ズシモ沐猴ノ冠シタル者ニハ非ズシテ、右ノ證文士一輩ノ在野巫祝ノ生活ヲ寫セシモノトモ見ルコトヲ得べキナリ。

 

《訓読》

 同じ野大坪の記錄の中に、又、ひだりのごとき一節あり。曰く、鎌倉殿[やぶちゃん注:源頼朝。]より頂戴せし証文士の免許狀は扇子(せんす)の面に認めてありき。【骨足らず】然るに、不幸にも、其の扇の骨が、一本、損じてありし爲に、且つは、自分等が品格を重んじて、近村の農民との交際を避けたりし爲に、世には誤りて、「野宇津保證文士(のうつぼしやうもんし)は骨一本足らず」と唱へて、此の部落を輕蔑・擯斥し、さもさも賤民にてもあるかのごとき取り扱ひを受け來たりしは殘念の事なり、とあり。此の記事を裏面より觀れば、當(たう)と不當(ふたう)とは別問題として、世間にては、此の仲間を目して、所謂、「骨の一枚不足せる種族」と爲せし事實は明かなり。萬歳(まんざい)と「シヨモジ」と同類なることも、之れに由りて知ることを得たり。【唱門師】「シヨモジ」は普通には「唱門師」と書きて、二百年ほど以前まで、京都及び其の近國に居住せし特殊の部落なり[やぶちゃん注:「部落民」の脱字か。]。「塵添壒囊抄(じんてんあいなうしやう)」卷十三にも、家々の門(かど)に立ち、金鼓(きんこ)を打ち、妙憧(しやうしよう)[やぶちゃん注:「地藏」の別漢訳表記。]の本誓(ほんぜい)[やぶちゃん注:仏・菩薩が立てた衆生済度の誓願。本願。]を唱へ、「阿彌陀經」を誦(じゆ)する者なれば、「門に唱ふ」と書くべきなりとありて、今は多く之に從へりと雖も、其の名稱の由來は、「峯相記(みねあひき)」などに「闇證(あんしよう)の禪師」「誦文(しようもん)の法師」などとある「誦文師」ならんかと思はる。【ひじり】卽ち、經文を暗誦するも、學問なくして一宗の趣きを解せざる、身分低き「ひじり」のことなるべし。此れも亦、夙(はや)くより、陰陽家の支配の下(した)に立ち、正月の「左義長(さぎちやう)」又は土用の「水合(みづあはせ)」の折りには、宮廷の御階(おんきざはし)近くまでも罷(まか)り出でたりしと云へり〔「和訓栞」〕。【はかせ】【ゐんない】而して、其の子孫と云ふ者、今は何れの地方にも殘存せざるは、多分「はかせ」とか、「ゐんない」とか、「しゆく」とかの別種の名稱を以つて呼ばれたる結果にして、此れと共通なる業を營み、乃至(ないし)は「唱門師」の一類なりと稱せらるゝ者は、近き頃まで、多く存せしなり。此等の輩は何れも未だ厩の祈禱に關係せし證據を見出さざれども、越前の宇津保舞の故事を考へ合すときは、猿が馬を曳ける繪札などを配りし者は、必ずしも專門の猿屋のみには限らざりしやも知り難し。【えびす願人】かの梓神子(あづさみこ)の一派が此の札を持ちてあるきし外に、關東にては神馬の守札は舞太夫も「えびす願人(ぐわんにん)」も亦、之れを配りたりしなり。されば、所謂、「駒引錢」の中に、神主又は農夫體(てい)の者が口綱を取り居(を)るもののごときは、必ずしも、沐猴の冠(かんむり)したる者には非ずして、右の證文士一輩の在野(ざいや)巫祝の生活を寫せしものとも見ることを得べきなり。

[やぶちゃん注:「唱門師」既出既注。頭書も二度目。

「塵添壒囊抄(じんてんあいなうしやう)」室町末期に編纂された類書。全二十巻。天文元(一五三二)年の序に編者の僧某が記しているように、既に流布されていた「壒囊鈔」の巻々に「塵袋(ちりぶくろ)」から選択した二百一項を本文のまま配し添え、計七百三十七項を再編集したもの。中世的な学殖を以って仏教・世俗に亙る故事の説明がなされており、中世の学芸・風俗・言語の趣を知るべき直接の資料として貴重である(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「峯相記(みねあひき)」中世(鎌倉末期から南北朝にかけて)の播磨国地誌。作者は不明だが、正平三/貞和四(一三四八)年に播磨国の峯相山(ほうそうざん)鶏足(けいそく)寺(現在の兵庫県姫路市内にあったが、天正六(一五七八)年、中国攻めの羽柴秀吉に抵抗したため、全山焼き討ちに遇って廃寺となった)に参詣した旅の僧が、同寺の僧から聞き書きをした、という形式で記述されている。鎌倉・南北朝期の社会を知るうえで貴重な史料で、中でも柿色の帷子を着て、笠を被り。面を覆い,飛礫(つぶて)などの独特の武器を使用して奔放な活動をした、と描かれる播磨国の悪党についての記述は有名。兵庫県太子町の斑鳩寺に、永正八(一五一一)年に写された最古の写本が残る(平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。

『正月の「左義長(さぎちやう)」』小正月を中心に各地で行われる火祭り。正月の松飾りを各戸から集めて、十四日の晩方乃至は十五日の朝にそれを焼くのが一般的な習わしである。社寺の境内、道祖神の近く、河原などで行われる。「ドンドヤキ」「サイトウ」「ホッケンギョ」など、土地によって様々に呼ばれており、現在でも広く行われている。「サギチョウ」というのは、すでに平安時代の文書に「三毬打」または「三毬杖」としてみられるが、三本の竹や棒を結わえて三脚に立てたことに由来すると言われている。元は、火の上に三脚を立て、そこで食物を調理したものと考えられている。今も所によってはその火で餅などを焼いて食すことがあるが、或いはその名残かもしれない。いずれにしても、木や竹を柱とし、その周りに松飾りを積み上げるものや、木や藁で小屋を作って、子供たちがその中で飲食をしてから、火を放つものなど、多様である。関東地方や中部地方の一部では道祖神の祭りと習合しており、燃えている中に道祖神の石像を投げ込む事例もある。長野県地方の「サンクロウヤキ」は松飾りとともに、「サンクロウ」という木の人形を燃やす。また九州地方では「オニビ」と呼ばれ、七日に行われている。多くの土地では、その火にあたると丈夫になるとか、その火で焼いた餅を食べると病気をしない、などという火の信仰が伝承されており、また、中心の木を二方向から引っ張ったり、或いは、それらが燃えながら倒れた方向によってその年の作柄を占うという、年占(としうら)的な意味を持つようなケースも認められるという(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

『土用の「水合(みづあはせ)」』陰陽道の呪術の一つで、毎年夏の土用(立秋直前)の入りの日に行なった祓(はらえ)。

「はかせ」辞書では見出せないが、「博士」で、対概念を示す語で敢えて呼ぶ賤称であろう。

「ゐんない」「院内」。小学館「日本国語大辞典」の「院内」の③に、『特殊民の一つ。前身は祈祷また、遊芸を業としたが、土御門家や興福寺その他の社寺の支配に属するものがあったところからいう。近畿から中部地方に広く分布し、地名に残るものも多い』とある。

「しゆく」既出既注の「夙」であろう。

「梓神子(あづさみこ)」既出既注。リンク先の「梓巫(あづさみこ)」の注参照。

「舞太夫」神事舞太夫を起原とした幸若舞太夫や女猿楽の舞太夫、更に零落した大道芸の舞いを生業とした人々を指すのであろう。

「えびす願人」「えびす」の絵像を頒布した末端的宗教者。既出既注の「エビス」も参照されたい。]

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(33) 「靱猿根原」(1)

 

《原文》

靱猿根原  厩ノ祈禱ニ關係スル巫祝ノ中ニ、今一種ノ部類アリ。【萬歳師】ソハ今日モ隨分數多キ春ノ初ノ萬師ナリ。河童ノ手形ト誤ラレタル牛馬安全ノ守護札ヲ民家ニ配リシハ或ハ此輩ノ所業ナリトモ想像スルコトヲ得。而シテ此ニモ亦少々ナガラ猿ノ因緣ハアルナリ。【靱猿】能ノ狂言ニ「靱猿」ト云フ一曲アリ。アル我儘ナル大名、猿牽ノ猿ヲ見テ靱ニ張リタケレバ其皮ヲ呉レヨト言フ。猿牽ハ驚キテ色々ト詫言ヲ爲シ辛ウジテ勘辨シテ貰ヒ、其禮ニ猿ヲ舞ハスト云フ趣向ナリ。此狂言ノ猿屋モ腰ニ御幣ヲ挿シタリ。歌ノ文句ニハ厩ヲ譽メ馬ヲ祝スル語多シ。狂言ハ必ズシモ有力ナル史料ト認ムル能ハザルモ、之ヲ見レバ靱舞ノ根原ハ此時ノ猿ノ皮事件ニ在ルガ如クモ考ヘラル。然ルニ右ノ「ウツボ」ノ舞ナルモノハ、實ハ古クヨリ存在セシ厩祈禱ノ爲ノ宗教上ノ舞ナリシナリ。【野大坪】越前今立郡味間野(アヂマノ)村ノ野大坪(ノオツボ[やぶちゃん注:ママ。])及ビ上大坪ノ二大字ハ、所謂越前萬歳ノ鄕里ナルガ、此地ノ住民ガ自ラ記錄シタル由緖書ヲ檢スルニ、地名ノ大坪ハ卽チ右ノ宇津保舞ノ「ウツボ」ニ同ジ。彼等ノ先祖河内首(カハチノオビト)某ナル者ハモト朝廷ノ馬飼部ナリキ。或時皇子御寵愛ノ馬物ニ驚キテ、秣モ食ハズ病附キシヲ、此者其馬ノ前ニ進ミテ宇津保ノ舞ヲ舞ヒシカバ、忽チニシテ氣力ヲ恢復シ一命ヲ取留メタリ。ソレヨリ吉例トナリテ御厩ノ祈禱役ヲ命ゼラレ、野宇津保萬歳ノ稱號ヲ賜ハル。【唱門師】其後賴朝公ノ將軍時代ニハ鎌倉ニ召サレ、正月御初乘ノ式ニ祝言ノ禱ヲセシ功ヲ以テ、證文士ト云フ位ヲ授ケ且ツ萬歳樂ヲ舞フコトヲ許サル云々〔今立郡誌〕。此宇津保ノ舞ハ人ガ舞フモノニテ、猿トハ關係無キガ如クナレドモ、彼等ガ其家ノ神トシテ天鈿女命卽チ世ニ猿田彦神ノ妻トモ謂ヒ又猿女君(サルメノキミ)ノ祖先トモ謂フ女神ヲ祀リテアルコトハ頗ル注意ニ値セリ。此徒ノ厩ノ舞ガ何故ニ古クヨリ宇津保ト稱セシカハ誠ニ決シ難キ問題ナリ。試ミニ僅カナル手掛リニ由リテ想像ノヲ立テンニ、靱ニ猿ノ皮ヲ張ルコトハ決シテ狂言ノ大名ノ思附ニ非ズ。【猿皮靱】既ニ源平盛衰記ノ中ニモ猿ノ皮ノ靱ト云フコト見エタリ。而シテ猿ニハ限ラヌコトナレドモ、總テ靱ニ毛皮ヲ掛ケタルヲ名ヅケテ騎馬靱ト云ヒ、其他ノモノヲ大和靱ト云ヘバ〔武家名目抄〕、馬ニ騎ル武士ハ特ニ猿ノ皮ヲ掛ケタル靱ヲ携ヘテ馬ノ守護ト爲シ、馬ノ病ナドノ折ニモ自然ニ之ヲ用ヰテ舞フコトトナリシヨリ、其舞ヲモ「ウツボ」ト名ヅケシモノナランカ。

 

《訓読》

靱猿根原(うつぼざるこんげん)  厩の祈禱に關係する巫祝(ふしゆく)の中(うち)に、今一種の部類あり。【萬歳師】そは、今日も隨分數多き春の初めの萬師(まんざいし)なり。「河童の手形」と誤られたる牛馬安全の守護札を民家に配りしは、或いは、此の輩の所業なりとも想像することを得。而して此(ここ)にも亦、少々ながら、猿の因緣はあるなり。【靱猿】能の狂言に「靱猿」と云ふ一曲あり。ある我儘なる大名、猿牽の猿を見て靱に張りたければ、「其の皮を呉れよ」と言ふ。猿牽は驚きて、色々と詫言(わびごと)を爲し、辛(から)うじて勘辨して貰ひ、其の禮に猿を舞はすと云ふ趣向なり。此の狂言の猿屋も腰に御幣を挿したり。歌の文句には、厩を譽め、馬を祝する語、多し。狂言は必ずしも有力なる史料と認むる能はざるも、之れを見れば、靱舞(うつぼまひ)の根原は、此の時の「猿の皮事件」に在るがごとくも考へらる。然るに、右の『「ウツボ」の舞』なるものは、實は、古くより存在せし厩祈禱の爲の宗教上の舞なりしなり。【野大坪】越前今立郡味間野(あぢまの)村の野大坪(のおつぼ)及び上大坪の二大字(おほあざ)は、所謂、「越前萬歳」の鄕里なるが、此の地の住民が自ら記錄したる由緖書を檢(けみ)するに、地名の「大坪」は、卽ち、右の「宇津保舞」の「ウツボ」に同じ。彼等の先祖河内首(かはちのおびと)某(なにがし)なる者は、もと、朝廷の馬飼部(うまかひべ)なりき。或る時、皇子(みこ)御寵愛の馬、物に驚きて、秣(まぐさ)も食はず、病み附きしを、此の者、其の馬の前に進みて、「宇津保の舞」を舞ひしかば、忽ちにして氣力を恢復し、一命を取り留めたり。それより吉例となりて御厩の祈禱役を命ぜられ、「野宇津保萬歳」の稱號を賜はる。【唱門師】其の後、賴朝公の將軍時代には、鎌倉に召され、正月御初乘(おはつのり)の式に祝言の禱(いのり)をせし功を以つて、「證文士」と云ふ位(くらゐ)を授け、且つ、「萬歳樂」を舞ふことを許さる云々〔「今立郡誌」〕。此の「宇津保の舞」は人が舞ふものにて、猿とは關係無きがごとくなれども、彼等が其の家の神として、天鈿女命(あめのうづめのみこと)、卽ち、世に猿田彦神(さるたひこのかみ)の妻とも謂ひ、又、猿女君(さるめのきみ)の祖先とも謂ふ女神を祀りてあることは、頗る注意に値(あたひ)せり。此の徒の厩の舞が、何故に古くより「宇津保」と稱せしかは、誠に決し難き問題なり。試みに、僅かなる手掛りに由りて想像のを立てんに、靱に猿の皮を張ることは、決して、狂言の大名の思ひ附きに非ず。【猿皮靱(さるかはうつぼ)】既に「源平盛衰記」の中にも「猿の皮の靱」と云ふこと見えたり。而して、猿には限らぬことなれども、總て靱に毛皮を掛けたるを名づけて「騎馬靱(きばうつぼ)」と云ひ、其の他のものを「大和靱(やまとうつぼ)」と云へば〔「武家名目抄」〕、馬に騎(の)る武士は、特に猿の皮を掛けたる靱を携へて馬の守護と爲し、馬の病ひなどの折りにも、自然に之れを用ゐて舞ふこととなりしより、其の舞をも「ウツボ」と名づけしものならんか。

[やぶちゃん注:「靱(うつぼ)」正しくは「靫」「空穗」で(この「靱や「靭」は誤用〕、矢を携帯するための筒状の容器の称。竹などを編んで毛皮を張ったもの、練り革に漆をかけたものなどがあり、右腰に装着する。矢羽を傷めたり、篦(の:矢の竹の部分。矢柄(やがら))が狂ったりするのを防ぐことが主目的である。

「萬師(まんざいし)」既出既注

能の狂言に「靱猿」と云ふ一曲あり』大名狂言の一つで、狂言の世界では「猿(「靭猿」の猿役)に始まり、狐(「釣狐」の狐役)に終わる」とも言われ、狂言師を目指す子弟が本作の猿役で幼少時に初めて舞台に立つ演目としても知られている。大名が太郎冠者を連れて狩りに出かける途中、猿引きが連れている毛並みの良い猿を見かけて、「靱の皮にしたいから猿を譲れ」という。猿引きが断ると、大名は弓矢で脅し、無理に承知させる。猿引きが猿を殺そうと杖を振り上げると、無邪気な猿は、その杖を取って舟の櫓を漕ぐ真似をするので、猿引きは憐れを催し、手が下せない。大名も無心な猿の姿に心打たれ、命を助けてやる。猿引は喜んで、猿歌を歌い、猿に舞わせる。大名も上機嫌で猿に戯れて舞う真似をした上、扇・刀・衣服を褒美として与える、という筋。国立国会図書館デジタルコレクションの画像の「和泉流狂言大成全篇が読める(シノプシス部分は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「越前今立郡味間野(あぢまの)村の野大坪(のおつぼ)及び上大坪」これは現在の福井県越前市味真野町(あちょう)及びその東南で接する越前市上大坪みおぼ)(グーグル・マップ・データ)に当たる。柳田國男のルビは「ノオツボ」であるが、これは確かに「のおほつぼ」と読んだ場合、「ほ」が脱音される可能性があり、ルビの配置から見ても、かつては「のおつぼ」と読まれていたか、或いはそう発音では聴こえた可能性を排除出来ない。

「越前萬歳」小学館「日本大百科全書」によれば、『福井県越前』『市野大坪(のおおつぼ)に伝承する万歳。野大坪万歳ともよばれる。江戸時代は毎年元旦』『に越前の福井、鯖江(さばえ)、加賀(石川県)の金沢、大聖寺(だいしょうじ)などの藩城に登城していたという。越前には継体』『天皇にまつわる伝承が多く、万歳も例外でないが、不詳である。ただ』、『野大坪は靭舞(うつぼまい)に関する名称とされ、古い来歴をもつものだろう。太夫(たゆう)と才蔵各』一『人ずつの「ことぶき万歳」「扇づくし」、才蔵が複数の「三番叟(さんばそう)」「木やり万歳」「さいとり万歳」、両方とも複数の「舞込お家万歳」などがある。太夫は侍烏帽子(さむらいえぼし)、舞鶴(まいづる)の素袍(すおう)、手に扇、才蔵は大黒頭巾』、『着付』、『袴』、『手に万歳太鼓が基本だが、曲によって叺(かます)帽子、蝶々薙刀(ちょうちょうなぎなた)帽子をかぶる。舞、しぐさ、語りとも早いテンポで軽快である』とある。You Tube 早川真「2016全国万歳フェスティバルin安城 越前万歳で動画が見られる。

「河内首(かはちのおびと)某(なにがし)」yusakuブログ「yusakuの「5世紀の渡来人と首おびと)」に、『神功皇后の新羅征伐の時代より、日本と朝鮮半島との交流が盛んとなり、その後』、五『世紀に入って、半島の百済や新羅からの渡来人も急増した様である。この多くは不安定な国からの脱出であったと思』われる『が、一部はその技術が認められ、渡来を望まれた人々もいた』。『この様な人は、職種により』、『集団で渡来し、場所を与えられ(河内が多かった様だ)、その頭目には首(おびと)の称号が与えられた』。『首とは臣(おみ)とか連(むらじ)等より低い地位の氏に与えられたものであるが、渡来人には職掌名+首として氏に与えられた。応神天皇の時代、学者として百済より、王仁(わに)が招聘され、書首(ふみのおびと)と呼ばれ』、『他に鍛冶首や馬飼首等ある』とされ、続く継体天皇と馬飼首によれば、『継体天皇、当時は男大迹王(おほどのおう)が大和の豪族である大伴金村大連等に天皇となることを乞われても、直ちに首を振ることなく、たまたま知り合いであった、河内の馬飼首荒籠』(うまかいのあらこ)『に相談し、その話を受ける様勧められ、即位を決心した経過が』「日本書紀」に『述べられている』。『さて馬飼首とはどの様な人であったかを考えると、首とは職掌名を冠して賜る姓で、主として渡来人に付けられたものであるが、馬飼とは馬を飼育・調教する職種であった。こう書けば、今では大した職にみえないが、当時馬術は中国や朝鮮半島で軍備として、急速に発展してきたので、日本でも取り入れるべく、応神天皇の時代、貢物の一部として、馬や、それを育てる飼部(みまかい)が献上された、その中から馬飼首が誕生したと考えられる。現代風に言えばミサイルを操作するハイテクの技術屋集団の長であったのである。当然』、『この技術を通じて、大きな攻撃能力を有していたと考えられる』。『男大迹王が荒籠に頼んだのは、大和に入っても身の安全のための協力を求めたものであらう、この保証が得られたので、決心したと考えられる。それでも尚』、『警戒し、即位した場所が奈良でなく、大阪の樟葉(今の枚方市楠葉)で河内の地を選んだのであらう』とある。

「唱門師」「證文士」小学館「日本大百科全書」の「唱門師(しょうもんし)」によれば、『唱聞師、声聞師、唱文師、聖文師とも書き、「しょうもんじ」「しょもじ」ともいう。中世から名が現れ、民衆の門口に立って金鼓(きんこ)を打ち、経文や寿詞を唱える芸能の一種で、施しを乞』『うた。大和』『の興福寺に所属する唱門師はとくに知られ、清掃などで奉仕したが、一座を結成し、卜占』、『読経、曲舞(くせまい)などを行い、猿楽』『などの芸能を支配する権利を得ていた。近世の京都では大黒(だいこく)ともよばれ、皇居の門で元旦』『に毘沙門』『経を訓読して玉体の安穏を祈った。中世から近世初期にかけて毎年正月に宮中に出入りして千秋万歳(せんずまんざい)を奏したのも唱門師たちであった。京都のほか、近江』『や河内』『など各地に存在し、近世の大道芸人の先駆をなした』とある。

「賴朝公の將軍時代」頼朝の征夷大将軍宣下は建久三(一一九二)年三月十三日で、在位のまま建久一〇(一一九九)年一月十三日(満五十一歳)で急死しているから、事実とすれば、この閉区間の七年間のどこかとなる。

「天鈿女命(あめのうづめのみこと)」「猿田彦神(さるたひこのかみ)の妻」「猿女君(さるめのきみ)の祖先とも謂ふ女神」「岩戸隠れ」のストリップで特に知られる芸能の女神であり、日本最古の踊り子とされる。「天鈿女命」は「日本書紀」の表記で、「古事記」では「天宇受賣命」。参照したウィキの「アメノウズメによれば、『岩戸隠れで天照大御神が天岩戸に隠れて世界が暗闇になったとき、神々は大いに困り、天の安河に集まって会議をした。思金神の発案により、岩戸の前で様々な儀式を行った』その決め手となったのが、彼女のそれで、「古事記」では、『「槽伏(うけふ)せて踏み轟こし、神懸かりして胸乳かきいで裳緒(もひも)を陰(ほと=女陰)に押し垂れき。」 つまり、 アメノウズメがうつぶせにした槽(うけ 特殊な桶)の上に乗り、背をそり胸乳をあらわにし、裳の紐を股に押したれて、女陰をあらわにして、低く腰を落して足を踏みとどろかし(』「日本書紀」では『千草を巻いた矛を、「古事記」では『笹葉を振り)、力強くエロティックな動作で踊って、八百万の神々を大笑いさせた。その「笑ひえらぐ」様を不審に思い、戸を少し開けた天照大神に「あなたより尊い神が生まれた」とウズメは言って、天手力雄神』(たぢからのをのかみ)『に引き出して貰って、再び世界に光が戻った』。また、『天孫降臨の際、邇邇芸命(ににぎ)が天降ろうとすると、高天原から葦原中国までを照らす神がいた。アメノウズメは天照大御神と高木神に、「手弱女だが顔を合わせても気後れしない(面勝つ)からあなたが問いなさい」と言われた。この時のアメノウズメは』、「日本書紀」によれば、『「その胸乳をあらわにかきいでて、裳帯(もひも)を臍(ほそ=ヘソ)の下におしたれて、あざわらひて向きて立つ。」』たとする。『つまり、乳房をあらわにし、裳の紐を臍の下まで押したれて、あざわらいながら向かって言った』のであった。『その後』、その神の『名を問い質すと』、彼は『国津神の猿田毘古神と名乗り、道案内をするために迎えに来たと言った』とある。『アメノウズメは天児屋命(あめのこやね)、布刀玉命(ふとだま)、玉祖命(たまのおや)、伊斯許理度売命(いしこりどめ)と共に五伴緒の一柱として』、『ニニギに随伴して天降りした。アメノウズメは猿田毘古神の名を明かしたことから』、『その名を負って仕えることになり、猿女君の祖神となった。一説には猿田毘古神の妻となったとされる』ことで、柳田國男が挙げた異名は総て説明される。『白川静は』「字訓」で、『「神と笑ひゑらぐ」巫女の神格化である。「神々を和ませ 神の手較ぶ(真似する)」神事の零落したものが、現在の芸能であり、折口信夫によれば、滑稽な技芸である猿楽(さるがく 能や狂言の祖)は、猿女のヲコのわざと一脈通じるという(上世日本の文学 天細女命)』。「巫女考」で『芝居の狂人が持つ竹の枝を「ウズメの持つ」笹葉が落ちたものとする柳田國男の説を享けた折口信夫は、手草』(たくさ:歌ったり舞ったりする際に手に持つもの。神楽の採り物としての笹などを指す)『を「神である」物忌みを表す標とし、「マナを招く」採り物とは別であるとした』。『谷川健一が、笑いと狂気という、「人間の原始的情念」の一環が噴出したものとしてあげ』ており(「狂笑の論理」)、『天の岩戸の前における「巧みに俳優をなす」彼女の行為は、神への祭礼、特に古代のシャーマン(巫)が行ったとされる神託の祭事にその原形を見ることができ』、『いわば』、『アメノウズメの逸話は古代の巫女たちが神と共に「笑ひゑらぐ」姿を今に伝えるものである』と言えよう。折口信夫は「上世日本の文学」で、『カミアソビは「たまふり」の儀礼であり、岩戸で行なったウズメの所作は「マナ(外来魂)を集め、神に附ける」古代の行為である』とし、さらに、『死者の魂を呼ぶ儀礼が遊びであるため、「岩屋戸の神楽は、天照大神が亡くなったため興った」という説は再考すべきだと言っているが、少なくとも』「延喜式」では、『宮廷で行われた古代の鎮魂祭において、巫女たちが「槽ふし」』の『激しい踊りを大王家の祖神へ奉納する儀礼に猿女も参加したことが記されている』。また、彼女の伝承で海産無脊椎動物フリークの私が好きな一つが、以下で、『アメノウズメは大小の魚を集めて天孫(邇邇芸命)に仕えるかどうか尋ねた。みな「仕える」と答えた中でナマコだけが何も答えなかったので、アメノウズメはその口を小刀で裂いてしまった。それでナマコの口は裂けているのである』という話である。]

すみれの花 國木田獨步

 

  すみれの花

 

うれしき夢を去年の春

見はてし朝のかなしみを

君が誠の淚もて

そゝぎし花を力にて

ゆふべ僅にしのびにき

 

かの花今はいかにせし

君が送りて慰めし

すみれの花はいかにせし

とてもはかなき戀ゆへに

慰めかねて枯れにしか

 

[やぶちゃん注:「ゆへに」はママ。初出は明治三一(一八九八)年二月十日発行の『國民之友』。この詩篇も没後の「獨步遺文」に「相馬良子に送りて近頃音信無きを恨む」という詩篇が載り、それは本篇の異稿と考えられる。この「相馬良子」とは相馬黒光(そうまこっこう 明治九(一八七六)年~昭和三〇(一九五五)年:國木田獨步より五歳歳下)のことで、ウィキの「相馬黒光によれば、彼女は『夫の相馬愛蔵とともに新宿中村屋を起こした実業家、社会事業家で』『旧姓は星、本名は良(りょう)』である。『明治女学校在学中』(明治三〇(一八九七)年同校卒業)『に島崎藤村の授業を受け、また従妹の佐々城信子を通じて』、『国木田独歩とも交わり、文学への視野を広げた。「黒光」の号は、恩師の明治女学校教頭から与えられたペンネームで、良の性格の激しさから「溢れる才気を少し黒で隠しなさい」という意味でつけられたものと言われている』とある。また、國木田獨步の日記「欺かざるの記」の明治二九(一八九六)年四月三十日の条に本篇の背景と思われる内容が記されてある。この情報は底本解題に拠ったが、引用は底本全集の第七巻の「欺かざるの記」の当該条を用いて(やや長い)、同日分全文を以下に引くこととする。当時の獨步(満二十四歳)の内奥の苦悩がひしひしと伝わってくるものである。区分ダッシュは底本よりも引き上げてある。下線はママで、太字は底本では傍点「ヽ」。

   *

三十日。

 吾を光と強と柔和と勇氣と忍耐と、眞理と理想との器となせと自から言ふ。

 然り。されど、吾が信子を戀ふる心いとゞ深く、彼の女なければ此の世に倦み疲るゝ心地す。

 彼の女の遂に吾を見捨てたる今日。寒風一陣、心頭に吹き入りて、めぐりじて吾をなやます。吾が心、色と光とのぞみとを見ず。

信子、信子、汝と吾とは同じ東京市中の僅に里餘の地にすみ乍ら、汝の心、いかにしてかくも我より遠ざかりつるぞ。

今更ら言ふもせんなし。せんなきが故に苦し。苦しきが故に此の世うしつらし。

鳴呼、戀てふものゝ苦しきかな。冷めし戀の夢を逐ふ苦み、何にかたとへん。

永久にわれ信子を愛す。吾が心に信子益〻戀し。

彼の女は最早、戀の墓か。然らば吾れ其の中に埋められん。

 ―――――――――――――――――――

此の世の事に思ひなやむ吾が心。

曰く、何を爲す可き。曰く、如何にして身を立てん。曰く、われは貧し。曰く、無學なり。日く、愚者にして怠慢者なり。曰く、文學者詩人たらんか。曰く、政治家たらんか。曰く、傳導者たらんか。曰く、凡て吾が長所に非ず。曰く、われは一個狂漢、望者、呪はれし者なり。

思ひなやむ心の苦しさ。

永しへに此の地上に長らふるものゝ如くにもだえ苦しむ。

少壯の時は去らん。忽ち老い、忽ち死すべし。生已にはかなく、其のはかなきつかの間の生すら此くの如くに苦し。

さりとて自殺もえせず。自殺は罪と思へば死の後のおそろしきかな。生已に苦しく、死もまた恐ろし。

生は苦惱、死は恐怖、此の身は地獄の中央に立つ。火焰なき、劒鎗なき、熱湯なき、何もなき荒野の如き地獄の苦しくもあるかな。

今の苦惱を逗子に於ける愛樂に比べ來れば、われは高山の頂より深谷窟底に投げこまれしが如し。[やぶちゃん注:底本では、ここが行末になっている。文の流れから以下改行と採った。]

されど友義!

今日に當りてせめてもの心の避難所は、友義のあたゝかき情にぞある。

吾をせむるもの左の如し。

愛の破壞、貧困、無職業、自暴自棄、天地悲觀。

右の五個、此の一つだにあらば人は苦しきものを、此の五個相結んで吾を攻む。

信子の離婚は吾が愛を破りて無窮の悲痛を與へ、老父母を憂へしむる貧困は殆んど胸塞ぐの思あらしめ、自信消え自から自己を呪ふに至りて殆んど何の希望もなく、これに加ふるに神の愛を感じ永生を感ずる能はざる無信仰は實に此の天地を暗き世界と化せしむ。

此の五個のもの、未だ十分其の力を逞ふせずと雖も、尚ほ且つ吾を苦しむるに十二分の力あり。

されど吾、此の五個を征服せずんは止まじ。

吾あに何時までか自暴自棄するものならんや。吾あに遂に神の愛を感ぜざらんや。吾あに業なくして止まんや。吾あに貧に苦むものならんや。貧しき他の人を見て憐れめ。自家の富を願ふものならんや。

たゞ愛、信子の愛、壞れしを如何せん。忍びて丈夫(ますらを)の如くに立たんのみ。

 ―――――――――――――――――――

ヨブ記を讀み了はる。

 ―――――――――――――――――――

午前早朝星良子孃を訪ふて事の永次第を語りぬ。

孃泣く。

二十九日に送りたる吾が書狀を讀みて良子孃泣きぬる由、傍に在りし友、孃を促して九段坂下の花園に到り、孃わがためにすみれを求めて歸り、これを吾におくらんと思ひ居りし由を語りぬ。餘其の好意を謝し、自ら其のすみれを携へて歸宅し、今机上在り。

   *

以下、改題に掲げられた「獨步遺文」の異稿を示す。

   *

 

 相馬良子に送りて近頃音信無きを恨む

 

菫の花は如何にせし

君が送りて慰めし

かの花今は如何にせし

 

嬉しき夢を去年の春

見果てし朝の悲を

君が誠の淚もて

濺ぎし花を力にて

夕べ僅にしのびにき

 

かの花今はいかにせし

とてもはかなき我なれば

我を見捨てゝ枯れにしか

 

   *]

わかれ 國木田獨步

 

  わ か れ

 

今日を限りの別れとは

夢知らざりき、夢にのみ

行末の日を樂しみし

我世もゆめとなりにけり

 

目もはるかなる野末見よ

遠山かすむ彼方には

人住む里も多からむ

其里戀ひし、君が行く

 

十とせの後の冬の夜に

君が門の、たゝかむをり

せめては内に入れたまへ

こしかたの夢かたるべし

 

君は彼日を語りいで

われは彼夜を忍ぶべし

梢をわたる風の音は

かたみの淚さそひつゝ

 

もゝとせの後、秋の夜半

月冷やかにかげ澄みて

君が塚石てらすべし

蟲の音しげき山里に

 

わが墓いつか苔むして

文字さだかにも讀めぬ日は

誰か知るべき、君とわれ

住て此世に逢ひし事を

 

逢ては別れ、別れては

東に西に埋れゆく

(千世の昔の神世より)

はかなき人の多からめ

 

斯くて恨の盡きはせじ

かくて此世は昔より

戀のかばねを冬枯の

あらしにさらす墓ならめ

 

小川谷川、すえ終に

大海原に注げども

人の情のなみだ川

湛えてくまん時ぞなき

 

[やぶちゃん注:初出は明治三一(一八九八)年二月十日発行の『國民之友』。この詩篇、没後の「獨步遺文」の「別れ」という詩篇が載り、それは本篇の異稿と考えられる。但し、この異稿は複雑で、まず、異稿も本篇と同じく一連四行の全九連から成るものの、そちらでは本篇の最終第九連目の詩句は存在せず、それは、

   *

 

 淚  川

 

小川谷川末終に

大海原に注げども

人の情の淚川

湛へて汲まむ時ぞ無き

 

   *

となっている(解題では以下の異稿の後に続くようにこの「淚川」は示されているが、果たして事実そうなのかどうかは、原本に当たれぬので不明である)。底本解題に異稿全体も示されてあるので、それを以下に示す。

   *

 

 別  れ

 

今日を限りの別れとは

夢知らざりき夢にのみ

君に遇瀨を樂しみし

我世も夢となりにけり

 

目もはるかなる野末見よ

遠山霞む彼方には

人住む里も多からん

其里戀ひし君が行く

 

人の世古き昔より

逢うては別れ別れては

また逢ふこともあらなくに

別れし人も多からめ

 

の後の冬の夜に

君が門の叩かみ折

せめては内に入れ給へ

越し方の日を語るべし

 

君は彼日を語り出で

我は彼夜を忍ぶべし

梢をわたる風の音は

かたみの淚さそひつゝ

 

後の秋の夜の

月は木の間を迷ふにも

君がおくつき照らすべし

蟲の音しげき山里に

 

吾が墓いつか苔むして

文字さだかにも讀めぬ日は

誰か知るべき君と吾

住みて此世に逢ひし事を

 

逢ては別れ別れては

東に西に埋れ行く

千代の昔の神世より

はかなき人の多からめ

 

逢ふは束の間別れこそ

はてなき恨み此世こそ

戀の屍と冬枯の

あらしに曝す墓ならむ

 

   *

第三連の「逢うて」はママである。]

花袋君の「わが跡」を讀みて 國木田獨步

 

  花袋君の「わが跡」を讀みて

 

ゆふ日さびしき砂の上に

のこせし君が足あとは

とこしへの波、音もなく

みちしほ夜半の

夜半のみちしほ搔きけさむ

 

うらみそ君よ、人の世に

きざみし人の足あとの

人の足あといつまでか

あゝ幾とせかのこるべき

 

なぐさめ兼ねて、一人して

狂ひあるきそ、此世をば

伊勢の濱荻をりしきて

眠れ荒磯、あらいそ千鳥

君がうれしき友ならむ

 

狂へばとて泣けばとて

誰れか可笑しとわらふべき

吹く潮風に身をまかし

仰げ月影、月かげ仰ぎ

夢に常世の春をみよ

 

[やぶちゃん注:初出は明治三一(一八九八)年二月十日発行の『國民之友』で、以下の「わかれ」「すみれの花」とともに三篇一緒に発表している。署名は江聲樓主人。ここで國木田獨步が素材とした田山花袋作「わが跡」というのは、先に示した國木田獨步も十五篇を載せている、明治三一(一八九七)年一月增子屋(ますこや)書店刊の、石橋哲次郎(愚仙)編になる詞華集「新體詩集 山高水長」の田山花袋のパートに載る「わが跡」のことである。後に本邦の自然主義小説のチャンピオンとなる田山花袋(明治四(一八七二)年~昭和五(一九三〇)年:本名は録弥(ろくや)。群馬県(当時は栃木県)生まれ)とは、先行する前年の同じ石橋編の詞華集「抒情詩」刊行の一年前の明治二九(一八九六)年、國木田獨步は渋谷村(現在の東京都渋谷区渋谷駅近く)に居を構え、作家活動の本格再始動に入るや、同年年末の十一月十六日に田山花袋と松岡国男(後の柳田國男)の訪問を受けて以来、親しく交わっていた(これも既に述べたが、この花袋も國男もやはり詞華集『抒情詩』に詩を載せた「詩人」であったのである)当該詩篇を、既に「国文学研究資料館」の「近代書誌・近代画像データベース」の「高知市民図書館近森文庫所蔵」版視認し、以下に電子化しておく。

   *

 

 わ が 跡

 

一ツ見えつる帆のかげも

いつしか遠くなり行きて

立つはしら波寄るは潮

秋のゆふべのうらさびし

 

いそ山越えて見かへれば

過ぎて來にけるわが跡は

ひと筋ながくのこるなり

夕日さびしき砂の上に

 

あはれはかなきその跡を

誰かは知らんわび人の

なぐさめかねて一人して

狂ひありきしあとなりと

 

   *

因みに、私はこの田山花袋のそれ、國木田獨步のそれを一読するや、直ちに私の偏愛する後の國木田獨步の小説「運命論者」(明治三六(一九〇三)年発表)を思い出した。

「伊勢の濱荻」諺「難波(なにわ)の葦(あし)は伊勢の浜荻」(難波で「葦」と呼ぶ草を、伊勢では「浜荻」と呼ぶように、物の名・風俗・習慣などは土地によって違うことの喩え)を利かしたもので、さればこそ、この「濱荻」は磯に生える荻(単子葉植物綱イネ目イネ科ススキ属オギ Miscanthus sacchariflorus)を指すのではなく、同イネ科Poaceae の「葦」(=「蘆」=「葭」)、ダンチク(暖竹)亜科ヨシ属ヨシ Phragmites australis を指す。

「あらいそ千鳥」「千鳥」(ちどり)は狭義には鳥綱チドリ目チドリ亜目チドリ科 Charadriidae の多数種群の総称であるが、それに似た種群も含め、さらには広汎に「沢山の鳥」という意味でも万葉以来、用いられてはきた。敢えてここで狭義の例を示すなら、本邦では「チドリ」と総称される種は十一種いるが、その中で本邦内で繁殖する五種の内、海岸附近で観察されることが多いのはチドリ科チドリ属シロチドリ Charadrius alexandrinus・チドリ属コチドリ Charadrius dubius などである(チドリ科タゲリ属ケリ Vanellus cinereus・タゲリ属タゲリ Vanellus vanellus もいるが、彼らは概ね干潟で、「あらいそ」、岩礁性海岸では見かけないこと、彼らの和名に「チドリ」が附かぬことから除外し、残る繁殖種であるチドリ属イカルチドリ Charadrius placidus は海岸で見られることは稀れとあるのでこれも除いた)。]

2019/03/17

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 一角(うんかふる/はあた:犀角) (海獣イッカクの角)

 

Unikauru

 

うんかふる 巴阿多

はあた   宇無加布留【共蠻語也】

一角

      疑此稱犀之

      通天者乎

 

△按宇無加布留俗用一角二字阿蘭陀市舶偶來而爲

 官物尋常難得其長六七尺周三四寸色似象牙而微

 黃外靣有筋畾畾如竿麩至末一二尺細尖而筋亦無

 之微曲斜也内有空穴其穴徑四分許價最貴故以白

 犀角充之其白犀角從交趾來【近年是亦希也】其色白不潤長

 者尺餘破之如竹有禾理外靣無筋見其全躰則大異

 矣

――――――――――――――――――――――

辟塵犀爲簪梳帶胯塵不近身 辟寒犀夏月能淸暑氣

辟寒犀其色如金冬月暖氣襲人 蠲忿犀爲帶令人蠲

去忿怒此皆希世之珍

 

 

うんかふる 巴阿多

はあた   宇無加布留【共に蠻語なり。】

一角

      疑〔ふらく〕は、此れ、犀の

      通天と稱する者か。

 

△按ずるに、宇無加布留〔(ウンカフル)〕、俗に「一角」の二字を用ふ。阿蘭陀の市舶〔(しはく)〕[やぶちゃん注:交易船。]、偶(〔たま〕たま)來りて官物[やぶちゃん注:幕府への公納品。]と爲す。尋常〔には〕得難し。其の長〔(た)〕け、六、七尺。周〔(めぐ)〕り三、四寸。色、象牙に似て微〔かに〕黃。外靣、筋〔(すぢ)〕有り、畾畾〔(るいるい)〕[やぶちゃん注:「累々」に同じ。]として、竿麩(さをふ)[やぶちゃん注:棒麩と同義でとっておく。]のごとし。末、一、二尺に至りて細く尖り、筋も亦、之れ無し。微かに曲〔りて〕斜〔めとなる〕なり。内に、空穴、有り、穴〔の〕徑〔(わた)り〕四分[やぶちゃん注:一センチ二ミリメートル。]許り。價ひ、最も貴〔(たか)〕し[やぶちゃん注:非常に高額である。]。故に白犀〔(しろさい)〕の角を以つて、之れに充(あ)つ。其の白犀の角は交趾(カウチ)[やぶちゃん注:ベトナム北部。]より來たる【近年、是れ亦、希れなり。】。其の色、白くして潤〔(うるほ)〕はず。長き者〔は〕尺餘り。之れを破れば、竹のごとき禾理(のぎめ)[やぶちゃん注:節理構造。]有り。外靣、筋無く、其の全躰を見れば、則ち、大きに異なり[やぶちゃん注:少し離れて全体を見た時と、このように割り裂いた場合に観察される様態は大いに異なっているのである。]。

――――――――――――――――――――――

「辟塵犀〔(へきじんさい)〕」は簪-梳〔(かんざし)〕帶-胯〔(おびどめ)〕と爲す。塵、身に近づかず。 「辟寒犀」は、夏月、能く暑氣を淸め、「辟寒犀」は、其の色、金のごとく、冬の月、暖氣、人を襲〔(つつ)〕む[やぶちゃん注:自然に温める。]。 「蠲忿犀〔(しよくふんさい)〕」は帶と爲〔さば、〕人をして忿怒〔(ふんぬ)〕を蠲-去(さ)らしむ。此れ、皆、希世の珍なり[やぶちゃん注:世にも稀なものの中のまたまた珍品というべきものである。]。

[やぶちゃん注:前項の「犀」(サイ)(哺乳綱奇蹄目有角亜目 Rhinocerotoidea 上科サイ科サイ属(タイプ属)Rhinoceros)の角は中実角(ちゆうじつづの)で、サイ類に見られる、中に空洞も骨質の芯もない角で、毛状の繊維(毛ではない)が固まって出来ており、絶えず成長するタイプのものであるから、ここで角の中に穴があると言っている以上、それはサイの角ではない外来語とする「うにかふる」「宇無加布留〔(ウンカフル)〕」はポルトガル呉の「ウニコール」(unicorne)で、これは原義は西洋の想像上の動物である一角獣(ユニコーン:ドイツ語:Einhorn/フランス語:licorne:角を持つ馬に似た姿で描かれることが多く、伝承は聖書に溯り、最強の動物で捕らえ難いが、処女(=聖母マリア)には馴れ親しむ。則ち、ユニコーンをイエス・キリストに見立てるキリスト教的寓意譚もある)であるが、実際のその正体は海棲哺乳類であるイッカク(鯨偶蹄目イッカク科イッカク属イッカク Monodon monoceros:一属一種)のの牙である。ウィキの「イッカク」によれば、体長はで約四・七メートル、雌で約四・二メートルに達し、の体重は一・五トンにも『達することがあるが』、は一トンに『満たない。胸びれは短く、成体では先端が上方に反る』。『また、背びれは持たない。尾びれは扇形で、中央に顕著な切れ込みがある』。『身体の大部分は青白い地に茶色の斑点模様であるが、首、頭部、胸びれや尾びれの縁などは黒い。年長の個体の模様は若い個体よりも明るい。老齢の個体はほぼ真っ白になるため、角が確認出来なかった場合などに』同じイッカク科Monodontidae であるシロイルカ(鯨偶蹄目 Whippomorpha 亜目 Cetacea 下目ハクジラ小目イッカク科シロイルカ属シロイルカ Delphinapterus leucas)『と誤認される事もある』。『イッカクの雄の特徴は』一『本の非常に長い牙で』、『この牙は歯が変形したものである。イッカクの歯は上顎に』二『本の切歯があるのみであるが、雄では左側の切歯が長く伸びて牙となる。牙には左ねじ方向の螺旋状の溝がある。その大半が中空で、脆い。先端はつやのある白』で、『体長が最大で』四・七メートル『程度であるのに対し』、『牙の長さは』三メートル、『重さは最大』で十キログラム『に達することもある。通常牙は一本であるが』、五百『頭に』一『頭程度の割合で』二『本有する個体も存在する。この場合、もう一本の角は左側より短いが、同様に左ねじ方向の螺旋状である。また雌は通常、牙を持たないが、約』十五%『程度の確率で』一・二メートル『ほどの華奢な牙が生える。また、野生においては一例、二本の牙を持つ雌が確認されている』。『牙の役割については多くの議論が交わされてきた。以前』『は棲息地である北極海を被う氷に穴を開けるために発達しているという説や反響定位(エコーロケーション)のための器官であるという説、この牙で獲物を気絶させ』、『捕食する説などがあった』が、『最近』『では牙の電子顕微鏡検査によって内側から外へ向かう神経系の集合体と判明し、高度な感覚器として知られるようになった。この牙を高く空中に掲げることにより』、『気圧や温度の変化を敏感に知ることがイッカクの生存環境を保つ手段となっている。 また、大きな牙を持つ雄は雌を魅了することができるようである。ゾウの牙と同様に、イッカクの牙は一旦折れてしまったら』、『再び伸びることはない』。『イッカクは俊敏で活動的な哺乳類であり、主な食料はタラの類の魚である。しかしながら、ある海域では餌としてイカを食べることに適応している。イッカクは』五『頭から』十『頭程度の群を作る。夏の間、いくつかの群が一緒に行動し』、『同じ海岸へ集まることがある。繁殖期には雄同士が牙を使って争う。ただし、この争いは角を使って傷つけ合う戦いではなく』、『互いの角の長さや持ち上げた角度で優劣を決める戦いであるということが近年』、『分かってきた。この争いにより勝った雄は』、『雌を多数従えたハーレムと呼ばれる繁殖集団を形成する』。『イッカクは潜水が得意で』、『典型的な潜水は』毎秒二メートル『程度の速度で』八『分から』十『分間下降して』一千メートル『程度の深海に達し、数分間過ごした後、海面に戻る』千百六十四メートル『まで潜水した記録がある。通常の潜水時間は』二十『分間程度であるが』二十五『分間潜水したという記録も例外的にある』。『イッカクが見られる海域は北極海の北緯』七十『度以北、大西洋側とロシア側である。多くはハドソン湾北部、ハドソン海峡、バフィン湾、グリーンランド東沖、グリーンランド北端から東経』百七十『度あたりの東ロシアにかけての帯状の海域(スヴァールバル諸島、ゼムリャフランツァヨシファ、セヴェルナヤ・ゼムリャ諸島など)などで見られる。目撃例の最北端はゼムリャフランツァヨシファの北、北緯』八十五『度で、北緯』七十『度以南で観察されることは稀である』。『大多数の個体が棲息している海域は、カナダの北やグリーンランドの西のフィヨルドや入り江であると推測されている。航空機を用いた上空からの調査により、生息数は約』四『万頭程度であるという結果が報告されている。上空からは視認できない深度の海中にいたであろう個体数を加算すると、全生息数は』五『万頭を超えると推測される』。『イッカクは回遊』し、『夏の間は海岸近くの海域に移動する。冬が近づき海の凍結が始まると、海岸から離れて浮氷に覆われた海域に移動する。春になり浮氷の裂け目が広がる季節になると、再び海岸に近くに戻ってくる』。『イッカクの主な捕食者はホッキョクグマとシャチである』。『イッカクの棲む海域はヨーロッパの人々にとってはあまりにも北であったため』、十九『世紀までは伝説の動物だった。イヌイットとの交易を通してのみ、イッカクの存在が伝わっていた。イヌイットの間では』、『ある女性が銛にしがみついたまま海に引きずり込まれ、その後、女性はシロイルカにくるまれ、銛は牙となって、それがイッカクとなったという伝説が伝わっている』。以下、角についての記載。『ユニコーン(額に一本の角の生えた馬の姿を持つ伝説上の生物)の角は解毒作用があると考えられたため、中世ヨーロッパではユニコーンの角と偽ってイッカクの角が多数売買された』。『江戸時代の日本にもオランダ商人を通じてイッカクの角はもたらされた。当時の百科事典である』本書「和漢三才図会」にも『イッカクが』かく『紹介されて』おり、後の博物学的文人であった木村蒹葭堂(けんかどう 元文元年(一七三六)年~享和二(一八〇二)年)『の著した「一角纂考」という書物には、鎖国の中で』ありながら、『木村自身が調べあげたイッカクの生態や、ユニコーンなどの西洋の伝説と共に、実際の詳細な骨格や、珍しい』二『本の牙を持つイッカクのことも紹介されている』。『漢方薬の材料としてもイッカクの角は使われ、研究者が標本として、漢方薬店で見つけたイッカクの角を購入した事もある』とある。なお、イカックの角については、サイト根付て」の「ウニコールとセイウチの見分け方が画像もあり、非常によい。それによれば、『ウニコールは、象牙や黄楊よりも大変貴重で、江戸時代には毒消しや難病の漢方薬として同じ重さの金以上の価格で取り引きされていました。そのような薬を根付として携帯することで、同時に薬を携帯するという一石二鳥の意味もあったようです』『ヨーロッパにおいても、ユニコーン伝説を元にして、北洋の船乗り達が持ち帰った一角鯨の角は、貴重品として王侯貴族に献上されたようです。現在でも欧米のオークションで一角鯨の角は、置物や美術品として高値で取り引きされています』とし、リンク先に写真で示された二・五メートルのもので約百万円の値がついているとある。『ウニコールの最大の特徴は、表面にあるその左まき螺旋状のひだ模様です。ウニコールをまねたフェイク根付には、このひだ模様を巧みに真似たものがありますが、その味のある独特の模様は人工的に彫刻して再現することは困難です。簡単に見破れます。よって、江戸時代の根付師には、材質がウニコールであることを証明するため、このひだ模様を意匠の中にわざと一部分残して彫刻した者もいます』とある。必見!

 

「巴阿多」語源不詳であるが、仏典の漢訳的雰囲気はある。

「通天」前項参照。

「周〔(めぐ)〕り」角の円周。

「白犀〔(しろさい)〕」文字通り受け取ってしまうと、シロサイ属シロサイ Ceratotherium simum となるが、シロサイはアフリカ大陸の東部と南部にしか分布しないので、「交趾(カウチ)[やぶちゃん注:ベトナム北部。]より來たる」もので、鎖国当時の本邦にその角が齎された可能性はゼロに近いと思われ、何より、中実角の問題があるから、シロサイではあり得ず、やはりイカックのそれであろう。

「辟塵犀〔(へきじんさい)〕」中文サイトを見るに、ここは唐の劉恂(りゅうじゅん)の「嶺表録異」の注からの「本草綱目」への引用。

「帶-胯〔(おびどめ)〕」東洋文庫訳は『おびがね』とルビする。

「辟寒犀」ここは五代の王仁裕 (八八〇年~九五六年) の「開元天宝遺事」からの「本草綱目」への引用。

「蠲忿犀〔(しよくふんさい)〕」中文サイトを見るに、唐の蘇鶚(そがく)の「杜陽雜編」からの「本草綱目」の引用。「蠲」には中国語の古語で「免除する」の意がある。]

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(32) 「守札ヲ配ル職業」(2)

 

《原文》

 【土御門家】此等ノ配札者ハ昔ハ悉ク陰陽師ヨリ分レ出デタリシモノヽ如ク、後世マデモ其多數ハ陰陽道ノ總管長タル土御門家ノ支配スル所ナリキ。【梓巫】例ノ猿牽職ノ如キモ亦梓巫(アヅサミコ)ヤ萬歳師ナドト共ニ、正シク其中ノ一種ナリ。此徒ハ何レモ自分ノ持場々々アリテ、祈禱ヲシタル札ヲ配布シテアルク外ニ、宗教家ニモ似合ハズ舞ヲ舞ヒ歌ヲ歌ヒテ家々ヲ巡ルガ常ノ業體ナリシナリ。【竃拂】後世歌舞ト配札トガ次第ニ各一方ニ分ルヽコトヽナリタレドモ、猶竃拂ト云フ巫女ノ如キハ近キ頃マデ民家ニ札ヲ配リニ來リ、且ツ竃ノ前ニ於テ鈴ヲ振リ舞ヲ舞ヘリ。梓神子家職ニ關スル安永二年ノ田村八太夫掟書ニハ、珠數占(ジユズウラナヒ)相勤ムべキ事、繪馬配ルべキ事ナドトアリ〔祠曹雜識三十六〕。寺社方ニ勤務シタル稻葉丹後守ノ手控ニハ、同ジク梓女ノ家職トシテ、繪馬ト申シテ猿馬ヲ牽キ候繪ヲ正月配リ候事トアリ〔寺社捷徑〕。之ニ由リテ思フニ、右ノ猿牽職ノ輩モ以前ハ厩ノ守護ノ札ヲ配リ居タリシ者ナルべシ。備後ノ福山領ニテハ以前ハ正月ニ猿牽猿ヲ負ヒテ農家ニ來ル。【鹽】或ハ馬屋ノ祈禱トテ猿ヲ連レ參リ、鹽ヲ振リ何カ唱ヘテ猿ヲ牽ク人ノ畫ヲ貼附ク。猿牽ハ頭アリ。今ノ蘆品郡有磨村大字有地ニ居住セリ。此者藩主ノ馬ノ祈禱ヲスルニ、正五九月帶劍袴ニテ厩へ罷リ出デ、幣四本馬ノ繪四枚差シ上ゲ何カ唱ヘゴトヲ爲セシトナリ〔風俗問狀答書一〕。蓋シ猿ガ御幣ヲ擔ギテ片手ニ馬ノ綱ヲ曳ク所ノ繪紙ノ如キハ、元ハ皆此者ノ手ヨリ貰ヒ受ケテ之ヲ厩ノ口ニ貼リシモノナラン。古代ノ板繪ハ無造作ニ粗末ナル者多シ。【山王】今若シ武藏西多摩郡西秋留(ニシアキル)村大字引田ノ山王社ノ天正十七年ノ繪馬ノ如ク、御幣ヲ手ニセザル猿ガ馬ヲ曳ク繪札ノ古キモノアリキトセバ、河童駒引ノ傳ノ如キハ之ヲ發生セシムルコト極メテ容易ナリシナルべシ。卽チ馬ガ急病ノ爲ニ騰リ狂フ處ヲ猿ガ取鎭メントシテ居ルモノカ、ハタ又猿ニ似タル獸ガ馬ヲ捕ヘ殺サントスルヲ馬驚キテ之ニ抵抗セントスルノ圖ナルカ、由來ヲ忘却シタル者ニハ一見シテ之ヲ判別スルコト容易ナラズ。或ハ猿ノ形ガ甚ダ小サクシテ如何ニモ力無ゲニ見エ、且ツ馬ノ方ニ向ヒテ垂レ下ルヤウニシテ居ルヲ見テ、此ハ是レ怪物敗北ノ樣ヲ描キタル歷史畫ナルべシト速斷セシ者無キヲ保セザルナリ。【猿ト河童】而シテ猿ハ河童ノ敵ナリト云フ一、又ハ紀州田邊邊ニ於テ猿ト河童トハ兄弟分ナリト云ヒ、猿河童ヲ見レバ急ニ水中ニ飛入ラントスルガ故ニ、猿牽ハ何レモ川ヲ渡ルコトヲ非常ニ忌ムト云フノ如キ〔南方熊楠氏報〕、亦此繪札ヲ猿牽ガ配リシカト想像セシムべキ一材料ナリ。又多クノ厩ノ守札ノ中ニハ、駒曳ノ外ニ鶺鴒ヲ蹈マヘタル馬櫪神ノ像モアレバ、或ハ單ニ勝善經ナドノ呪文ノミヲ書シタルモアリテ、此ダニ貼置ケバ牛馬ノ災難ハ決シテ無シト信ゼシコトガ、終ニハ此札ヲ以テ河童降參ノ怠狀ノ如ク言傳フル原因ト爲リシモノカ。【手形ハ守札】長州椿鄕ノ河童ノ手形ノ如キモ、之ヲ板行シテ希望者ニ頒チタリト云フ以上ハ、恐クハ亦右ノ配札ノ一種ニシテ、此等猿屋ノ手ニ由ツテ馬持百姓ノ家ニ配布セラレシモノナルベシ。長門又ハ周防ノ山村ニハ、猿牽ガ猿ヲ調教訓練スル猿ノ學校ノ如キモノアリ。入學者ハ多ク九州方面ヨリ來ルトノコトナリ〔石黑忠篤氏報〕。兎ニ角所謂「エンコウ」ト緣故ノ淺キ地方ニ非ザルコトハ確カナリ。

 

Hikitasannousyaema

      武州引田山王社古繪馬

       新編武藏風土記稿ヨリ

 

[やぶちゃん注:絵馬の図は黒の塗り潰しであるから、今回は晴れて底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をダウン・ロードしてトリミングと補正をかけ、汚損と思われる箇所を徹底的に清拭して使用した。以下、同絵馬に就いての詳細キャプション。署名と花押は底本ではずっと下方になる。]

 

 竪八寸五分。橫六寸。畫樣猿ノ馬ヲ曳キタルモノナリ。繪馬ノ裏面ニ。

武州多西引田村。當領主日奉之朝臣。平山右衞門大夫也。此家中令知行當所内、有山王權現。古跡中年久者也。忝信心得心。過去因現在未來業。今歳天正十七己丑。奉再興新殿一宇。次自男號角藏者。十七歳而刻之。奉寄進當社也。仍而如件。

     甲州鶴郡鶴川祖生  志村肥前守

       所願成就皆令滿足  影元(押)

          引田眞照寺

 

《訓読》

 【土御門家(つちみかどけ)】此等の配札者は、昔は悉く陰陽師(おんやうじ)より分れ出でたりしものゝごとく、後世までも其の多數は、陰陽道の總管長たる土御門家の支配する所なりき。【梓巫(あづさみこ)】例の猿牽職のごときも亦、梓巫(あづさみこ)や萬歳師(まんざいし)などと共に、正(まさ)しく其の中の一種なり。此の徒は何れも自分の持場々々ありて、祈禱をしたる札を配布してあるく外に、宗教家にも似合はず、舞を舞ひ、歌を歌ひて、家々を巡るが常の業體(げふてい)[やぶちゃん注:有様。所行(しょぎょう)。「げふたい(ぎょうたい)」と読んでもよい。]なりしなり。【竃拂(かまどはらひ)】後世、歌舞と配札とが次第に各一方に分るゝことゝなりたれども、猶ほ、「竃拂」と云ふ巫女のごときは、近き頃まで、民家に札を配りに來たり、且つ、竃の前に於いて、鈴を振り、舞を舞へり。梓神子(あづさみこ)家職(かしよく)に關する安永二年[やぶちゃん注:一七七三年。]の田村八太夫掟書(おきてがき)には、『珠數占(じゆずうらなひ)相(あひ)勤むべき事、繪馬配るべき事』などとあり〔「祠曹雜識(しさうざつしき)」三十六〕。寺社方に勤務したる稻葉丹後守の手控(てびかへ)には、同じく梓女(あづさめ)の家職として、『繪馬と申して猿馬を牽き候ふ繪を正月配り候ふ事』とあり〔「寺社捷徑(じしやせふけい)」〕。之れに由りて思ふに、右の猿牽職の輩(やから)も、以前は厩の守護の札を配り居たりし者なるべし。備後の福山領にては、以前は、正月に、猿牽、猿を負ひて農家に來たる。【鹽】或いは馬屋の祈禱とて猿を連れ參り、鹽を振り、何か唱へて、猿を牽く人の畫(ゑ)を貼り附く。猿牽は頭(かしら)あり。今の蘆品(あしな)郡有磨(ありま)村大字有地(あるぢ)に居住せり。此の者、藩主の馬の祈禱をするに、正・五・九月、帶劍・袴にて厩へ罷り出で、幣(ぬさ)四本・馬の繪四枚、差し上げ、何か唱へごとを爲せしとなり〔「風俗問狀答書」一〕。蓋し、猿が御幣を擔(かつ)ぎて片手に馬の綱を曳く所の繪紙(ゑがみ)のごときは、元は皆、此の者の手より、貰ひ受けて、之れを厩の口に貼りしものならん。古代の板繪(いたゑ)は無造作に粗末なる者、多し。【山王】今、若(も)し、武藏西多摩郡西秋留(にしあきる)村大字引田(ひきだ)の山王社の天正十七年[やぶちゃん注:グレゴリオ暦一五八九年。]の繪馬のごとく、御幣を手にせざる猿が馬を曳く繪札の古きものありきとせば、河童駒引の傳のごときは之れを發生せしむること極めて容易なりしなるべし。卽ち、馬が急病の爲に騰(たけ)り狂ふ處を猿が取り鎭めんとして居るものか、はた又、猿に似たる獸が馬を捕へ殺さんとするを、馬、驚きて、之れに抵抗せんとするの圖なるか、由來を忘却したる者には、一見して之れを判別すること容易ならず。或いは、猿の形が甚だ小さくして如何にも力無げに見え、且つ、馬の方に向ひて垂れ下(さが)るやうにして居るを見て、此れは是れ、怪物敗北の樣を描きたる歷史畫なるべし、と速斷せし者無きを保せざるなり[やぶちゃん注:そういう早合点をした者が決して居なかったという断言は保証の限りではない。]。【猿と河童】而して猿は河童の敵なりと云ふ一、又は、紀州田邊(たなべ)邊(あたり)に於いて、猿と河童とは兄弟分なりと云ひ、猿、河童を見れば急に水中に飛び入らんとするが故に、猿牽は何れも川を渡ることを非常に忌むと云ふのごとき〔南方熊楠氏報〕、亦、此の繪札を猿牽が配りしかと想像せしむべき一材料なり。又、多くの厩の守札の中には、駒曳の外に鶺鴒(せきれい)を蹈(ふ)まへたる馬櫪神(ばれきじん)の像もあれば、或いは單に、「勝善經」などの呪文のみを書したるもありて、此れだに貼り置けば、牛馬の災難は決して無しと信ぜしことが、終(つひ)には此の札を以つて河童降參の怠狀(たいじやう)のごとく言ひ傳ふる原因と爲りしものか。【手形は守札】長州椿鄕(つばきがう)の河童の手形のごときも、之れを板行して希望者に頒ちたりと云ふ以上は、恐らくは亦、右の配札の一種にして、此等猿屋の手に由つて馬持百姓の家に配布せられしものなるべし。長門又は周防の山村には、猿牽が猿を調教訓練する「猿の學校」のごときもの、あり。入學者は、多く九州方面より來たるとのことなり〔石黑忠篤氏報〕。兎に角、所謂「エンコウ」と緣故の淺き地方に非ざることは確かなり。

   武州引田山王社古繪馬

  (「新編武藏風土記稿」より)

[やぶちゃん注:詳細キャプションは訓点が一切ないので自然流で読んだので保証の限りではない。また、句読点の一部を変えた。「某(それがし)」は志村景元である。]

 竪八寸五分、橫六寸。畫樣(ゑやう)、猿の馬を曳きたるものなり。繪馬の裏面に、

武州多西(たさい)引田(ひきだ)村、當領主日奉(ひまつり)の朝臣(あそん)平山右衞門大夫なり。此の家中の某(それがし)、當所の内を知行せしむに、山王權現、有り、古跡にして中し、年(とし)久しき者なり。忝(かたじけな)くも某(それがし)、心得て信心す。過去の因(いん)は現在・未來の業(ごふ)たり。今歳(ことし)天正十七己丑(つちのとうし/キチユウ)。再興して新殿一宇を奉る。次いで、某(それがし)自男[やぶちゃん注:「自(みづか)らの男(を)」で息子の意か、或いは「次男」の意か。])角藏と號せし者十七歳、之れを刻し、當社に寄進奉るものなり。仍(よ)つて件(くだん)のごとし

 甲州鶴郡鶴川祖生(そふ)  志村肥前守

   所願成就 皆 滿足せしむ  影元(押)

          引田(ひきだ)眞照寺

[やぶちゃん注:「陰陽道の總管長たる土御門家」平安時代以来、天文・陰陽両道で朝廷に仕えた家系。左大臣阿倍倉梯麻呂(くらはしまろ)の子孫安倍晴明が大膳大夫・天文博士となって以来、子孫代々その業を伝え、天変地異あるごとに朝廷・幕府に警告した。戦国時代に勘解由小路在富(かげゆこうじありとみ)が死んで暦術家が絶えた際、詔(みことのり)により、土御門有修(ありなが)は天文・暦術博士を兼ね、以後、同家は両博士を兼ねることとなった。子孫相次いで明治に至り、華族に列し、子爵を授けられている(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「梓巫(あづさみこ)」関東地方から東北地方にかけて分布する巫女(みこ)の名称。梓弓は古代より霊を招くために使われた巫具(ふぐ)で、これを用いて「カミオロシ」(神降ろし)・「ホトケオロシ」(仏降ろし)をすることから、「梓巫女」の名が起った。能の「葵上」には「照日(てるひ)」と呼ばれる巫女が梓弓の弦を弾いて口寄せする謡(うたい)がある。津軽地方の「イタコ」は先に示した「いらたか念珠」を繰ったり、弓の弦を棒で叩いてトランス状態になり、また。陸前地方の巫女である「オカミン」たちは「インキン」と称する鉦(かね)を鳴らしながら、入神する(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「萬歳師(まんざいし)」万歳(まんざい)のこと。正月、家毎に回って祝言をの述べ、歌い舞い、祝儀を請う門付(かどづ)け芸の一種。形式は時代と土地で異なるが、普通、風折烏帽子(かざおりえぼし)に素襖(すおう)を着た「太夫」と、頭巾を被り、鼓を持つ才蔵とが一組になり、家毎に祝言を上げ、滑稽な掛け合いを成し、太夫が舞い、才蔵が鼓を打つ。古く鎌倉・室町時代に既に陰陽師支配下の「散所(さんじょ)」(古代末期から中世にかけて、貴族や社寺に隷属して労務を提供する代わりに、年貢を免除された人々の居住地及びその住民の称。鎌倉中期以降は広義に浮浪生活者などをかく呼ぶようになり、賤民視されるに至った。中世末から近世にかけては卜占(ぼくせん)や遊芸を生業とする者もそこから現れたりした)・「声聞師(しょうもじ)」(中世に於いて卜占を本業としつつ、各種の経読や曲舞(くせまい)などをも生業とした芸能民。門付けの芸で諸国を渡り歩いたことから、江戸時代には賤視の度を深めた)などの賤民の行う「千秋(せんず)万歳」があったが、近世になって「三河万歳」や「大和万歳」その外、各地に同類の門付け芸を行う集団が生じた。明治以後は次第に衰えたが、今日でも三河や知多の万歳は正月に諸方に出掛け、また、河内・尾張など各地の万歳も残っている(以上は主文を平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。

「竃拂(かまどはらひ)」「竈祓」が本義で「かまはらひ」「かまばらひ」「かまはらへ」「かまつぱらい」とも呼んだ。歳末や各月の晦日(みそか)などに巫女(みこ)体(てい)の者や「俄か山伏」などが来て、竈を清拭して祈祷を行い、注連縄を張って祭りを行った巫女。「かままつり」「竈注連(かましめ)」「荒神祓(こうじんばらい)」も同じ。

「珠數占(じゆずうらなひ)」「数珠(じゅず)占い」「念珠占い」などとも呼ばれる、数珠を用いた占い。嘗ては修験者(或いはそう称した者)や密教系の僧たちは盛んにこれを行ったらしい。

「寺社方に勤務したる稻葉丹後守」老中で相模小田原藩三代藩主・越後高田藩主・下総佐倉藩初代藩主であった稲葉正往(寛永一七(一六四〇)年~享保元(一七一六)年)か。彼は従五位下丹後守であったことがあり、天和元(一六八一)年四月に奏者番兼寺社奉行に就任している。但し、昇進が速く、同年十一月には京都所司代に転任しているので、七ヶ月と在任期間が短い。彼ではないのかも知れない。

「備後の福山領」備後福山藩。備後国(現在の広島県東部)南部と備中国南西部周辺を領有し、藩庁は福山城(現在の広島福山市内(グーグル・マップ・データ))。

「蘆品(あしな)郡有磨(ありま)村大字有地(あるぢ)」現在の広島県福山市芦田町には上有地(かみあるじ)下有地があるので、この周辺であろう(グーグル・マップ・データ)。「ちく文庫」版は「有地」にルビしないが、「あるじ」とすんなり読める人はそう多くはないと思うがなぁ?

「武藏西多摩郡西秋留(にしあきる)村大字引田(ひきだ)の山王社」現在の東京都あきる野市引田に、後の駒引絵馬の詳細キャプションに出る「眞照寺」が現存する(グーグル・マップ・データ)。真言宗引田山(ひきだざん)真照寺である。山王神社は確認出来ないが、恐らくは神仏習合当時のこの山王社の別当寺がこの真照寺であったものと推定される。同寺周辺の引田地区には六つもの神社・小祠を現認出来るので、これらの孰れかと思われるが、特定出来ない(何となく、距離的には東直近の熊野神社・御嶽神社辺りかなぁという感じはした)。しかし、執拗に検索を掛けた結果、「あきる野市教育委員会」発行の『郷土あれこれ』第二十八号(平成二八(二〇一六)年九月一日発行)のこちら(PDF)の齋藤慎一氏の記事によって、この絵馬(紙製の絵馬を刷るための板木として使用されたもので、柳田國男が挿絵として載せているのも摺られたものである)が現存し、現在はこの真照寺が所蔵していることが判った(この記事はこの「猿曳駒(さるひきこま)絵馬」が市指定文化財となったことを告げてもおり、本絵馬の時代背景を踏まえた細かな解説が示されている貴重な記録である。本書の本部分の欠くべからざる貴重な資料として要保存である)。しかも、この絵馬、東京都内に現存する最古の絵馬なのである!(記事参照) 裏の陰刻部についても解説が載り、平山右衛門大夫は平山直重かとされておられる。もしそうだとすると、彼はこの翌年に亡くなっている。天正一八(一五九〇)年、後北条氏に従ったここの一党(後注「日奉」参照)であった平山氏であったが、調べて見たところ、父平山氏重とこの嫡子直重は、翌年の檜原城での戦いの後、千足の地で討ち死にしたとされているからである。記事でも『絵馬奉納の翌年』の七月五日に『平山右衛門大夫の属した後北条氏は豊臣秀吉に幸福、振ら山右衛門大夫直重も』、『早く』、六月二十三日の『八王子城落城と共に討死したことで』あろうとし、さらに『天正頃の後北条氏軍役の規定で、志村家の負担する軍勢では騎馬で甲冑(かっちゅう)姿の武者は』五『騎程度で』あったから、『そのうちの』一騎であったろう数え十八『歳の志村角蔵の最後も討死であったと想像』されると述べられた上で、『しかし、その前年、角蔵が武家』好み『の見事な馬を』彫った、この『権現に納めた素朴な猿曳駒の絵馬は』、この『村々の人々の豊饒(ほうじょう)を祈るための神前へのささげものとして多くの紙絵馬を刷りだす版木として大切にされ』、永らく『伝えられることとなったので』あると結んでおられれる。この志村は土着豪族ではなく、ここにある通り、元は甲斐国「鶴郡鶴川祖生」の武士で、平山氏の配下として、別の国衆でありながら、ここに知行地を貰っていたのである。さても私もこの十七で散った少年志村角蔵のことが気になっていたのである。この齋藤氏の最後の一言に私はとてもしみじみとしたのである。

「紀州田邊(たなべ)邊(あたり)に於いて、猿と河童とは兄弟分なりと云ひ、猿、河童を見れば急に水中に飛び入らんとするが故に、猿牽は何れも川を渡ることを非常に忌むと云ふのごとき〔南方熊楠氏報〕」南方熊楠と柳田國男の往復書簡集を縦覧したが、今のところ見出せない。発見し次第、追記する。

「鶺鴒(せきれい)を蹈(ふ)まへたる馬櫪神(ばれきじん)の像」図を含めて既注

「勝善經」既出既注

「怠狀(たいじやう)」既出既注であるが、再掲しておくと、古くは、平安後期から鎌倉時代にかけて罪人に提出させた謝罪状。「過状(かじょう)」とも言った。後に、自分の過失を詫びる旨を書いて人に渡す文書を指すようになった。「詫び状」。「謝り証文」。

「長州椿鄕(つばきがう)」既出既注

『長門又は周防の山村には、猿牽が猿を調教訓練する「猿の學校」のごときもの、あり』流石に、もうないでしょう?

「日奉(ひまつり)」所謂、「武蔵七党」の一つで、武蔵守日奉(ひまつりの)宗頼(生没年未詳:承平元(九三一)年に京より武蔵守として下向し国府(府中)で政務に当たり、任期満了の後も帰郷せずに土着したともされる)を祖とすることから、「日奉党(ひまつりとう)」とも、また「西党(にしとう)」とも呼ばれる、平安から戦国期にかけて武蔵国西部の多摩川流域を地盤とした武士団の呼称。この一族には「一ノ谷の戦い」で熊谷直実とともに一ノ谷奥の平家軍に突入し、勝利の契機を作ったことで知られる平山季重がおり、ここに出る「平山右衞門大夫」(直重)は彼の直系である。

「甲州鶴郡鶴川祖生(そふ)」不詳。鶴川という川なら、山梨県北都留郡小菅村及び上野原市を流れるが(グーグル・マップ・データ)、この辺りか。「そふ」は現行の地名で「そお」があることからの当て読みに過ぎない。違う読みかも知れない。

「志村肥前守影元」不詳。

「所願成就 皆 滿足せしむ」「引田眞照寺」先の齋藤氏の解説によれば、これらの文字は刻されたその『配置が不自然で』、『それまでの文字と彫り』・『書体も異なり』、これは『山王権現の別当として真照寺が板木(はんぎ)絵馬を管理する(紙絵馬を刷る)用に成った年代の追刻(ついこく)』であると説明されておられる。とすれば、「所願成就皆令滿足」は言祝ぎのマークに過ぎないから、訓読せずに音読(現代仮名遣「しょがんじょうじゅかいれいまんぞく」)すればよいのかも知れぬ。

雜吟『若し忍ばず、われゆかば』 國木田獨步

 

雜吟『若し忍ばず、われゆかば』

 

君し忍ばず、われゆかば、

深き契も、あだならん。

 

曇るを月のならひとは、

まつ心なき、恨なり。

 

夕は歌に音を泣きて、

あしたは神に祈れかし。

 

淺くなくみそ情(なさけ)をば、

底のましみづいや深し。

 

千里くまなき月かげは、

君が面わをてらすべし。

 

星さゆる夜の秋風は、

わが高どのゝ淚かな。

 

ますらをのこは世にかたん、

淸き少女は戀になけ。

 

忍ぶは君が誠にて、

いさむはわれの誇なり。

 

[やぶちゃん注:標題は底本編者によるもので、総標題に一行目を添えたもので、本篇は無題。初出は明治三〇(一八九七)年十二月十日発行の『國民之友』。なお、本篇は底本解題によれば、昭和六(一九三一)年改造社刊の「現代日本文學全集」第十五篇「國木田獨步集」の口絵にある写真版の下方の毛筆原稿「わきもこにまいらす歌」(「まいらす」はママ)の異稿であるとある。末尾クレジット(後掲)から見て、これが原初期稿であったと考えてよいであろう。幸い、国立国会図書館デジタルコレクションの画像に当該書籍があったので、画像でダウン・ロードし、トリミングして以下に示し、それをもとに当該異稿詩篇も電子化しておく。

Wakimokonimairasuuta

   *

 

 わきもこにまいらす歌

 

君し忍ばず、われゆかば、

深きちぎりも、あだならん。

曇(くも)るを月のならひとは、

待(ま)つ心なき、恨みなり。

 

ゆふべは歌に音(ね)を泣(な)きて、

あしたは神に祈れかし。

淺(あさ)くな掬(く)みそ、情(なさけ)をば、

底(そこ)の眞清水(ましみづ)いや深し。

 

千里(ちさと)くまなき月影は、

君がおもわを照らすべし。

星さゆる夜(よ)の秋風は、

わが高殿(たかどの)の淚かな。

 

ますらをのこは世にかたん。

清き少女(をとめ)は戀になけ。

忍ぶは君が誠にて、

勇(いさ)むはわれの誇(ほこり)なり。

 

   *

詩の後に、

   *

卅年十一月九日午前三時半

彼人の心をあはれと泣きてこの

詩を作りはげます。

   *

という添書きがある。]

雜吟『木の葉かたよる音さえて』 國木田獨步

 

雜吟『木の葉かたよる音さえて』

 

木の葉かたよる音さえて、

わが夜靜になりにけり。

文よむ窓の月すみて、

もの思ふ夜ぞふけにける。

 

[やぶちゃん注:標題は底本編者によるもので、総標題に一行目を添えたもので、本篇は無題。初出は明治三〇(一八九七)年十二月十日発行の『國民之友』。]

雜吟『戀こそ夢なれ』 國木田獨步

 

雜吟『戀こそ夢なれ』

 

懸こそ夢なれ。

夢こそ世なれ。

行末を、

たゞよふ雲にまかさばや。

利根の川岸、花さかん。

阿蘇の山もと、三日月の、

影をあはれと泣く人に、

己が旅衣ぬはさばや。

 

[やぶちゃん注:標題は底本編者によるもので、総標題に一行目を添えたもので、本篇は無題。初出は明治三〇(一八九七)年十二月十日発行の『國民之友』。]

雜吟『戀こそ夢なれ行末は』(――に送らんとて作り遂に送らざる歌) 國木田獨步

 

雜吟『戀こそ夢なれ行末は』(――に送らんとて作り遂に送らざる歌)

 

戀こそ夢なれ行末は

淚の川に身をうかべ

浮世の波にたゞよはん

今の別れの悲しさを

歌ひ盡さん調なし

たゞすこやかに在せ君

たゞすこやかに在せ君

 

はてなき海の千里の波に

谷又谷の岩淵の淵に

萬代かけて月澄みつ

千代の昔の人ゆきぬ

 

峰の白雪峰より峰に

底の眞珠の珠より珠に

萬代かけて月澄みつ

千代の昔の人ゆきぬ

 

月の光に誘はれて

奧津城訪はん林の奧の

月の光に誘はれて

賤の男訪はん深澤の岸の

我が身昔の我ならず

月し昔の色澄めり

をさなき時を思ふ哉

去年の今夜を思ふ哉

 

あしたの雲の花やかに

夕の時雨しめやかに

君と語りし年も暮れて

今夕ばかりとなりにけり

 

忘れそ君よ彼の夜をば

其夜は殊に月澄みて

君が面わは輝きて

我が血靜に脈打ちぬ

 

[やぶちゃん注:標題は底本編者によるもので、総標題に一行目を添えたもので、本篇は無題。初出は明治三〇(一八九七)年十二月十日発行の『國民之友』であるが、底本は全五篇連作の内、本篇のみ、獨步の死後に出された「獨步遺文」所収のものを底本としていて、添書き「――に送らんとて作り遂に送らざる歌」はそれによるものかと思われる(則い、この添書きは初出にはないものと思われ、以下の通り、「獨步遺文」所収の第一連部分のみである)。以下に、解題に示された初出形を示す。

   *

 

戀こそ夢なれ、行末は、

淚の川に身をうかべ、

浮世の波にたゞよはん

今の別れの哀しさを、

かたりつくさん言葉なし。

たゞすこやかにいませ君、

たゞすこやかにいませ君。

 

   *

なお、底本解題によると、第二連二行の「谷又谷の岩淵の淵に」は國木田獨步の詩篇を載せる流布本によっては「谷又谷の岩間の淵に」となっているともある。]

雜吟『小萩が岡よ、秋風よ』 國木田獨步

 

雜吟『小萩が岡よ、秋風よ』

 

小萩が岡よ、秋風よ、

故鄕戀し、路遠し。

都のちまた降る雨に、

ゆきかふ人のあとえて、

こみぞ流るゝ水の色に、

亡せにし友を懷ふかな。

小萩が岡よ、故鄕よ、

都のちまたさすらひて、

われいつまでかあくがれん。

 

[やぶちゃん注:標題は底本編者によるもので、総標題に一行目を添えたもので、本篇は無題。初出は明治三〇(一八九七)年十二月十日発行の『國民之友』で、この後の、頭に同様の「雜吟」と附した無題の四篇とともに全五篇が纏めて同日の同誌に掲載されている。署名は「江聲樓主人」。

 「故鄕」の「小萩が岡」は不明。ウィキの「国木田独歩(二重鍵括弧はそれであるが、記載に問題があり過ぎるので、全集年譜で補整した)等によれば、國木田獨步の出生地(狭義の故郷)は下総国(千葉)の銚子であるが、満三歳で母と上京しており、ここではないと思われる。國木田獨步は明治四(一八七一)年八月三十日、『国木田貞臣』・(通称、専八。文政一三(一八三〇)年生)と淡路まん(天保一四(一八四四)年生。彼女は同年陰暦十二月二十七日生まれで、新暦では一八四三年は終わっている)の『子として、千葉県銚子に生まれた。父・専八は、旧龍野藩士で榎本武揚討伐後に銚子沖で避難し、吉野屋という旅籠でしばらく療養していた。そこで奉公していた、まんという女性と知りあい、独歩が生まれた。この時、『専八は国元に妻子を残しており、まんも離縁した米穀商の雅治(次)郎』(全集年譜では「亡夫」とあり、父専八の戸籍簿では「權次郎」である)『との間にできた連れ子がいたとされる。独歩は、戸籍上は雅治郎の子となっているが、その他の資料から判断して、父は専八であるらしい』。明治七(一八七四)年七月に専八は一足先に単身上京、翌八月以降に、まんも『独歩を伴い上京し、東京下谷徒士町脇坂旧藩邸内に一家を構えた』(専八は明治九(一八七六)年五月に国元の妻とくと『正式に離婚が成立している』(ウィキがそれを一八九九年とするのは誤り)。翌明治八年六月、『専八は司法省の役人となり、中国地方各地を転任したため、独歩は』五『歳から』十六『歳まで山口、萩、広島、岩国などに住んだ』。『自らの出生の秘密について思い悩み、性格形成に大きく影響したとみられる。錦見小学校簡易学科、山口今道小学校を経て、山口中学校に入学』(入学と同時に寄宿舎に入った)、『同級の今井忠治』(今井は明治一九(一八八六)年十月退校願を提出し許可されている)『と親交を結んだ』。明治二〇(一八八七)年、『学制改革のために』規則上、上級学校を目指すには編入が非常に上手くない状態となってしまうため、『退学すると、父の反対を受けたものの』、『今井の勧めで上京』し、『翌年』五月『に東京専門学校(現在の早稲田大学)英語普通科に入学し』ている。これらから「故鄕」というのは、萩か山口ではないかとは取り敢えず踏むけれども、「小萩が岡」は固有名詞ではないらしく、検索してもヒットしない。お手上げ。識者の御教授を乞う。

2019/03/16

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 犀(さい) (サイ)

 

Sai

 

さい    朅伽【梵書】

      兕犀【牝也一名沙犀】

【音西】

 

本綱犀狀似水牛豬首大腹卑脚其脚似象有三蹄黒色

舌上有刺皮上毎一孔生三毛如豕有山犀水犀兕犀三

種又有毛犀似之【毛犀乃旄牛也】

山犀居山林人多得之水犀出入水中最難得並有二角

一有鼻一有額鼻角長而額角短水犀皮有珠甲【山犀皮無珠甲】

兕犀【一名沙犀】卽犀之牸者止有一角在頂文理細膩班白分

明不可入藥蓋牯角文大而牸角文細也【郭璞謂犀有三角者訛也】其

紋如魚子形謂之粟紋紋中有眼謂之粟眼黒中有黃花

者爲正透黃中有黒花者爲倒透花中復有花者爲重透

並名通犀乃上品也花如椒豆班者次之烏犀純黒無花

者爲下品

犀角【苦酸鹹寒】足陽明藥解一切諸毒中毒箭以犀角刺瘡

 中立愈犀角置穴狐不敢歸【辟一切邪鬼也可知】癰疽化膿作水

 治吐血衂血下血及痘惡症

 犀角有黒白二種以黒者爲勝角尖又勝【鹿取茸犀取尖】凡犀

 角鋸成當以薄紙裹于懷中蒸燥乗熱搗之應手如粉

 【故謂翡翠屑金人氣粉犀是也】

天卽腦上之角經千歳長且鋭白星徹端能出氣通

 天則通神破水入水水開三尺置屋上烏鳥不敢集夜

 視有光夜露不濡入藥至神騐

                  寂蓮

  夫木うき身にはさいの生角えてしかな袖の泪もとをさかるやと

[やぶちゃん注:「とをさかる」(遠ざかる)はママ。]

按犀角從暹羅柬埔寨多將來凡長一尺四五寸其蛻

 角者不佳俗謂之野晒【目利人能辨之】

 

 

さい    朅伽〔(けつが)〕【梵書。】

      兕犀〔(じ(し)さい)〕

      【牝なり。一名、「沙犀」。】

【音、「西」。】

 

「本綱」、犀は、狀、水牛に似て、豬〔(ぶた)〕の首、大きなる腹、卑〔(みぢか)〕き脚〔なり〕。其の脚、象に似て、三つの蹄、有り、黒色。舌の上に刺(はり)有り。皮の上、毎〔(まい)〕一孔〔に〕、三〔つの〕毛、生ず。〔それ、〕豕〔(ぶた)〕のごとし。山犀・水犀・兕犀〔(じさい)〕の三種、有り。又、毛犀、有り〔て〕之れに似たり【毛犀は乃〔(すなは)ち〕旄牛〔(ぼうぎう)〕なり。】。

山犀は山林に居〔(を)り〕、人、多く、之れを得。水犀は水中を出入して、最も得難し。並びに[やぶちゃん注:孰れも。]、二つの角、有り、一つは鼻に有り、一つは額に有り。鼻の角(つの)は長くして、額の角は短し。水犀の皮には珠甲〔(しゆこう)〕有り【山犀の皮には珠甲無し。】。

兕犀〔(じさい)〕【一名、「沙犀」。】卽ち、犀の牸(め)[やぶちゃん注:。]なる者〔にして〕止(た)ゞ一角有り。頂きに在りて、文理〔(もんり)〕細〔(こま)かに〕して膩〔(なめら)か〕、班〔(まだら)たる〕[やぶちゃん注:「班」はママ。良安の誤った書き癖である。]白、分明にして、〔これ、〕藥に入るべからず。蓋し、牯(を)[やぶちゃん注:。]の角は文〔(もん)〕大にして、牸(め)の角は、文、細かなり【郭璞〔(かくはく)〕、謂はく、『犀に三つの角有り』とは、訛〔(あやまり)〕なり。】其の紋、魚の子の形のごとく、之れを「粟紋〔(ぞくもん)〕」と謂ふ。紋の中、眼、有り。之れを「粟眼〔(ぞくがん)〕」と謂ふ。黒き中〔に〕黃〔なる〕花有る者を「正透〔(しやうとう)〕」と爲し、黃なる中に黒〔き〕花有る者うぃ「倒透〔(たうとう)〕」と爲す。花の中に復た花有る者を「重透〔(ぢゆうとう)〕」と爲す。並びに[やぶちゃん注:以上の総てを。]「通犀〔(つうさい)〕」と名づく。乃〔(すなは)〕ち、上品なり。花、椒豆〔(しやうたう)〕[やぶちゃん注:山椒の実の粒。]のごとき班〔(まだら)〕なる者は、之れ〔ら〕に次ぐ。「烏犀(うさい)」は純黒にして花無し。〔その〕者、下品と爲す。

犀角〔(さいかく)〕【苦、酸、鹹。寒】足の陽明の藥〔にして〕一切の諸毒を解す。毒の箭〔(や)〕に中〔(あた)〕れば、以つて犀角を瘡〔(きず)〕の中に刺せば、立ちどころに愈ゆ。犀の角を穴に置〔かば〕、狐、敢へて歸らず【一切の邪鬼を辟〔(さ)く〕ることや、知るべし。】癰疽〔(ようそ)〕[やぶちゃん注:悪性の腫れ物。「癰」は浅く大きいもの、「疽」は深く見た目は小さく狭いものを指す。]の膿みを化して水と作〔(な)〕す。吐血・衂血〔(はなぢ)〕・下血及び痘[やぶちゃん注:疱瘡。天然痘。]の惡症[やぶちゃん注:症状が重症化したもの。]を治す。

犀角に、黒・白の二種有り。黒き者を以つて勝〔(すぐ)〕れりと爲す。角の尖り、又、〔黑きは〕勝れり【鹿は茸〔(じよう)〕[やぶちゃん注:嚢角(ふくろづの)。若角のこと。]を取り、犀は尖れるを取る。】。凡そ、犀角、鋸〔(のこ)のごとく〕成〔れば〕、當に薄紙〔(うすがみ)〕を以つて懷中に裹(つゝ)み、〔人肌の溫(ぬく)みを以つて〕蒸し、燥〔(かは)〕かし、熱〔する〕に乗じて、之れを搗くべし。手に應じて、粉〔(こな)〕のごとし【故に『翡翠は金を屑にし、人の氣は犀を粉〔に〕す』と〔は〕是れなり。】。

通天〔(つてん)〕は、卽ち、腦の上の角〔なり〕。千歳を經(へ)て、長く、且つ、鋭(とが)る。白〔き〕星、端に徹(とを)り[やぶちゃん注:ママ。]、能く氣〔(き)〕を出だす。「通天」は、則ち、神に通ず。水を破る。水に入れば、水、開くこと、三尺といふなり[やぶちゃん注:水の入れようとすると、犀角から水は九十三センチ三ミリメートル(明代のそれで換算)も自然に退(しりぞ)き、また、水面が窪んでそこに空間が開くと言われている。]。屋の上に置〔かば〕、烏・鳥、敢へて集らず。夜、視〔れば〕、光、有り。夜の露に濡(ぬ)れず。藥に入るるに、至つて、神騐〔(しんげん)〕あり[やぶちゃん注:「騐」は「驗」の異体字。]。

                  寂蓮

  「夫木」

    うき身にはさいの生角〔(いきつの)〕えてしがな

       袖の泪〔(なみだ)〕もとをざかるやと

按ずるに、犀角は暹羅(シヤム)[やぶちゃん注:現在のタイ王国の前身。]・柬埔寨(カボヂヤ)[やぶちゃん注:現在のカンボジア王国の前身。]より、多く將(も)ち來たる。凡そ、長さ一尺四、五寸[やぶちゃん注:五十四~五十七センチメートル。]。其の蛻〔(ぬ)け落ちたる〕角は、佳ならず、俗に之れを「野晒(〔の〕ざらし)」と謂ふ【目〔の〕利の人、能く之れを辨ず。[やぶちゃん注:目のよく利く人はこれ(「野晒し」でないかどうか)を一目で弁別することが出来る。落語見たような謂いじゃげな。]】。

[やぶちゃん注:哺乳綱奇蹄目有角亜目 Rhinocerotoidea 上科サイ科サイ属(タイプ属)Rhinoceros で、現生種は、

インドサイ属インドサイ Rhinoceros unicornis(インド北部からネパール南部)

インドサイ属ジャワサイ Rhinoceros sondaicus(インドネシアのジャワ島西部)

シロサイ属シロサイ Ceratotherium simum(アフリカ大陸の東部と南部)

スマトラサイ属スマトラサイ Dicerorhinus sumatrensis(インドネシア(スマトラ島・ボルネオ島)・マレーシア・ミャンマー。カンボジア・ベトナムに分布する可能性もある)

クロサイ属クロサイ Diceros bicornis(アフリカ大陸の東部と南部)

の五種である。ウィキの「サイ」を引く。『かつてサイ科の属する奇蹄目は、始新世から漸新世にかけて繁栄し』、二百四十『属と多様性を誇った。サイの祖先たちは、ほぼ全ての地域(可住域)に分布し』ていた。『特に漸新世には陸上哺乳類史上最大の種(パラケラテリウム』(サイ上科ヒラコドン科インドリコテリウム亜科パラケラテリウム属 Paraceratherium)『)が現れるなど、繁栄を極めた。しかし』、『中新世以降は地球の寒冷化によって多くの種が絶滅し、またウシ亜目などの反芻類の進化に押されて衰退し』、『更には人間の狩猟と乱獲、開発によって、現在の分布になったと考えられ』ている。シロサイは体長三メートル七十~四メートル、体重二千三百キログラム(最大で三千六百キログラムという記録があるという)。『現生種ではインドサイ・シロサイはオスがメスよりも大型になるが、他種は雌雄であまり大きさは変わらない』。『皮膚は非常に分厚く硬質で』、一・五~五センチメートルの『厚みを持ち、格子構造になったコラーゲンが層をなしている。皮膚はあらゆる動物の中でも最硬といわれ、肉食獣の爪や牙を容易には通さない。インドサイ等は、だぶついた硬い皮膚が特徴的で、体全体が鎧で覆われているように見える。体色は灰色をしている種が多いが、サイは泥浴びを好み、水飲み場などでよくこれを行うので、土壌の色で茶色などを帯びたように見えることもある。スマトラサイを除き』、『体毛がない。しかし』、『耳介の外縁や睫毛、尾の先端に毛を残している。幼獣は成獣より毛深く、成熟するにつれて体毛が薄くなる。スマトラサイは耳介も含めて全身が粗く長い茶褐色の体毛で被われているものの、野生種では泥にまみれるか、抜け落ち、あまり目立たない』。『非常に大きな頭蓋骨は、前後に長く、後頭骨が立ち上がっている。鼻骨は大きく前か上にせり出し、前上顎骨よりも前に飛び出る。角が接合する部分は、鼻骨の表面がカリフラワー状に荒れている。頭部に』一『本(インドサイ属)または』二『本(クロサイ・シロサイ・スマトラサイ)の角がある』。『ラテン語の呼称および英名のrhinocerosはこの角に由来し』、『古代ギリシャ語で鼻を指すrhisと』、『角を指すcerasを組み合わせたものとされる』。『スマトラサイでは後方の角が瘤状にすぎない個体もいたり』、『ジャワサイのメスには角のない個体もいる』。『角はケラチンの繊維質の集合体で、骨質の芯はない(中実角)』(ちゆうじつづの:サイ類に見られる、中に空洞も骨質の芯もない角で、毛状の繊維(毛ではない)が固まって出来ており、絶えず成長するタイプの角を指す。次項は「一角(うんかふる/はあた)」で犀の角とするが、実はそれはどうも犀の角ではない。そちらでまた考証する)。『何らかの要因により角がなくなっても、再び新しい角が伸びる』。『シロサイやクロサイでは最大』一・五メートル『にもなる』。『サイの角は肉食動物に抵抗するときなどに使われる。オスのほうがメスより角が大きい。目は小さく、視力は非常に弱い。シロサイは』三十メートル『も離れると』、『動かないものは判別できない』。但し、『嗅覚は非常に発達』しており、また、『聴覚も発達し、耳介は様々な方向へ向け動かすことができる』。『脳は哺乳類の中では比較的小さい』(四百〜六百グラム)。『後腸をもつ後腸発酵草食動物で、必要とあらば』、『樹皮のような硬い植物繊維質も食料源とすることができる。単胃であるため』、摂餌が『頻繁で、反芻しない。体は硬い皮膚に覆われているが』、『口先はやわらかく、感覚に優れている。口先の形状は種によって異なり、種によって食性が微妙に違うことを示している』という。『吻端はシロサイを除いて尖る』。『インドサイやクロサイは上唇の先端がよく動き、木の枝などを引き寄せることができ』、『シロサイは頭部が長くて唇が幅広く、丈が短い草本を一度に広い範囲で食べることに適している』。二十四から三十四本の『歯を持ち、小臼歯と大臼歯ですり潰す』。『アジアのサイの下顎切歯を除けば、犬歯および切歯は痕跡的である。これは突進時の衝撃への適応と考えられている』。『アフリカのサイ』二『種は前歯を持たず』、『その代わりに口先(吻)で餌を挟み取る。四肢は短く頑丈で、指趾は』三本である。『乳頭は後肢の基部にあり、乳頭数は』二『個』。『精巣は陰嚢内に下降』せず、『陰茎は後方を向き、雌雄共に後方に向かって尿をする』。『出産直後の幼獣はやや小型で、体重で比較すると母親の約』四%『(インドサイ・シロサイ約』六十五『キログラム、クロサイ約』四十『キログラム)しかない』。『草原や森林、熱帯雨林、湿地に生息する。スマトラサイとジャワサイは、特に河川や沼の周辺に好んで生息する。サイは夜行性あるいは薄明薄暮性である。母親とその幼獣を除けば』、『主に基本的に単独で生活するが、シロサイは若獣が連れ添ったり』、『幼獣がいないメスで』、六、七『頭の群れを形成することもあり』、『大規模な群れを形成することもある』。『短期間であれば』、『日陰や水浴びなどの際に集合することもある』。『雄は通常、縄張りを持ち、尿や糞、足跡(スマトラサイ)などでマーキング』し、その『一生のほとんどを自分のなわばりの中で暮らす』。『縄張りの大きさは』、二〜百平方キロメートルとさまざまで、しかも『縄張りは厳密ではなく、繁殖期以外は他者の侵犯を見逃したり、縄張りが重なりあう。食料事情や繁殖の為に、縄張りの大きさも変動する。昼間は木陰で休む、水場で水を飲む、水浴びや泥浴びをして体温調節したりする。水浴びや泥浴びを好み、前者は体温の上昇・後者は虫を避ける(皮膚は分厚いが表皮は薄くすぐ下に血管が通っているため)効果があると考えられている。薄明時や夕方に食物を摂取する』。『食性は植物食』で、『近くに水場があれば毎日水を飲むが、アフリカ大陸に分布する種は』四、五日は『水場へ行かないこともある』。『また、塩やミネラルを摂取することが重要で、塩を舐める』行動をとり、『スマトラサイやジャワサイは塩分を摂るために海水を飲むことがある』という。『クロサイやインドサイは最高時速』五十五キロメートル『で走ると言われる』。『硬い皮膚と大きな体躯を持つことで、肉食獣に襲われて捕食されることはあまり多くない』が、『幼獣はその限りではない』。『オス同士ではクロサイとシロサイは前方の角を、他種は下顎の牙状の歯を使い激しく争う。妊娠期間』十五~十八ヶ月。『種によってまちまちだが、オスは約』八~十『歳で性的に成熟し、メスは』五~七『歳で成熟する。飼育下での寿命は』三十五~五十『年、野生では』二十五~四十『年程度と言われている』。『角は』現在でも『工芸品』や『ジャンビーヤと呼ばれる中東の短剣の柄、漢方薬の犀角、その他の伝統医学の材料として珍重されている』が、時珍が記すような犀角に薬としての特別な効用があるとは私には思われない。以下、「文化への影響」の項。『サイは古代から人類と関係を持っていたと考えられている。現存する人類最古の絵画であるフランスのショーヴェ洞窟壁画にもサイ』『は描かれており、これは』一~三『万年前のものである』。一五一五年、アルブレヒト・デューラー(Albrecht Dürer 一四七一年~一五二八年)は『サイがリスボンに輸入された時の様子を描いた無名の画家のスケッチを元にして、有名な犀の木版画を創作した。デューラーは実物を見ることができ』なかったようであるが、『描写はいくぶん不正確』なものの、『この木版画は「動物を描写した作品のうち、これほど芸術分野に多大な影響を与えたものはおそらく存在しない」とまでいわれている作品でもある』。この犀の図は『西洋において何度も参照され、絵画や彫刻に影響を与え』、本邦『にも伝わり、谷文晁がそれを模写をした』「犀図」を残してもいるリンク元の有名なその図。このサイは長旅のために重い皮膚病に罹っていたと考えられており、体表のそれは実は誇張ではなく、そうした病変を正確に写しとっているのだとも言われる。私は統合後のドイツの旧東ドイツで本原画を見た)。『ビルマ、インド、マレーシアでは、サイが火を潰すとする伝説がある。神話のサイは badak api (マレー語) の名称で呼ばれ、badakは犀、apiは火を意味する。森林の中で火が燃え広がるとサイが現れ、それを踏み消すとされる』。但し、『この事実が確認されたことはない』。『日本や中国』『では、水犀(みずさい)と呼ばれる動物が絵画などに見られる。頭には角、背中に甲羅、足には蹄を持つと』もされるらしいが、『平安末期の国宝鳥獣人物戯画の乙巻には、虎・象・獅子・麒麟・竜といった海外の動物や架空の動物とともに水犀が描かれている。江戸末期の北斎漫画にも水犀が描かれて』おり、『日光東照宮の拝殿東面、妻虹梁下にも水犀(通天犀とも)が彫刻されている』とある。

 

「朅伽〔(けつが)〕」サンスクリット語からの漢音写であろうが、「朅」には中国語の古語で「行く」或いは「勇敢で堂々としている」の意があるので、サイに相応しい気はする。

「兕犀〔(じ(し)さい)〕」「兕(じ)」は水牛に似た一角獣で、「山海経」に記載されている想像上の動物。中国では古くから国外から「犀角」を薬として輸入していたが、角の部分だけで本物の見たことがある人は少なく、また「犀角」は偽物が水牛の角による代用品であったりしたケースも多く、それを誤魔化した由来が幻獣の「兕」のイメージと合ってしまったものででもあろう。従って後に出る「山犀」・「水犀」・「兕犀」の種別も、博物学的に正しい実在種の記載とは思われない。但し、次注参照。

「毛犀」「旄牛〔(ぼうぎう)〕」これは哺乳綱ウシ目ウシ亜目ウシ科ウシ亜科ウシ属ヤク Bos grunniens である。ウィキの「ヤク」によれば、二千年前から家畜化されたとされる。インド北西部・中国(甘粛省・チベット自治区)・パキスタン北東部に自然分布する。『「ヤク」の語はチベット語』『に由来するが、チベット語では雄のヤクだけを指す言葉で、メスはディという』。『チベットやブータンでは、ヤクの乳から取ったギー』『であるヤク』・『バターを灯明に用いたり、塩とともに黒茶を固めた磚茶(団茶)』『を削って煮出し入れ、チベット語ではジャ、ブータンではスージャと呼ばれるバター茶として飲まれている。また、チーズも作られている』。『食肉用としても重要な動物であり、脂肪が少な』く、『赤身が多く味も良いため、中国では比較的高値で取引されている。糞は乾かし、燃料として用いられる』。『体毛は衣類などの編み物や、テントやロープなどに利用される』。『ヤクの尾毛は日本では兜や槍につける装飾品として武士階級に愛好され、尾毛をあしらった兜は輸入先の国名を採って「唐の頭(からのかしら)」と呼ばれた。特に徳川家康が「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」と詠われたほど好んだため、江戸時代に入って鎖国が行われてからも』、『清経由で定期的な輸入が行われていた』という。『幕末、新政府軍が江戸城を接収した際に、収蔵されていたヤクの尾毛が軍帽として使われ、黒毛のものを黒熊(こぐま)、白毛のものを白熊(はぐま)、赤毛のものを赤熊(しゃぐま)と呼んだ』。『これらの他に、歌舞伎で用いる鏡獅子のかつら』『や、仏教僧が用いる払子にもヤクの尾毛が使用されている』。体長はで二百八十~三百二十五センチメートル、で二百~二百二十センチメートルで、体重はで八百キログラムから一トン、で三百二十五~三百六十キログラム。『高地に適応しており、体表は蹄の辺りまで達する黒く長い毛に覆われて』おり、『換毛はしないため、暑さには弱い。肩は瘤状に隆起する』。『鳴き声はウシのような「モー」ではなく、低いうなり声である』という。『基部から外側上方、前方に向かい、先端が内側上方へ向かう角があ』って、最大角長九十二センチメートルに達し、『四肢は短く』、『頑丈』。標高四千~六千メートルに『ある草原、ツンドラ、岩場などに生息』し、八~九月は『万年雪がある場所に移動し』ており、『冬季になると』、『標高の低い場所にある水場へ移動する』。『高地に生息するため、同じサイズの牛と比較すると心臓は約』一・四』『倍、肺は約』二『倍の大きさを有している。食性は植物食で、草、地衣類などを食べる』。『妊娠期間は約』二百五十八日で、六月に、一回に一頭の『幼獣を産む』。『生後』六~八年で『性成熟し、寿命は』二十五年ほどと『考えられている』とある。三つ後の独立項に出る。

「珠甲〔(しゆこう)〕」粒立った粒状の非常に硬い突起があるということであろう。

「郭璞、謂はく、『犀に三つの角有り』とは、訛〔(あやまり)〕なり」東洋文庫訳割注に「爾雅注疏」を出典とし、「爾雅注疏」は同書の書名注に、『十一巻、晉の郭璞』『注、北宋の刑昺(けいへい)疏。『爾雅』の注釈書。大変すぐれたもので、後世の人々から注疏の手本とされている』とある。

「魚の子」東洋文庫訳は「魚子」とし、それに『ななこ』とルビを振る。小学館「日本大百科全書」の「魚々子(ななこ)」に、『金工技法の一つ。魚子とも書く。切っ先の刃が小円となった鏨(たがね)を打ち込み、金属の表面に細かい粟粒』を撒いた『ようにみせる技法。隣接して』、『密に打たれたさまが、あたかも魚の卵を』撒き『散らしたようにみえるところから』、『この名がある。普通は文様部以外の地の部分に打たれ』、『日本には中国から伝播』『したと考えられるが』、正倉院文書に『「魚々子打工」とみえるところから、奈良時代にはすでに専門工がいたことが知られ、正倉院には当時使用された魚々子鏨が伝存している。遺品の古い例としては』、天智天皇七(六六八)年『創建の滋賀』の『崇福寺塔心礎出土の鉄鏡や』、その後の』奈良の長谷寺の銅板の「法華説相図」に見られるとあり、『奈良時代から平安時代までは概して魚々子の打ち方は不』揃い『のものが多いが、時代が下るとともに整然と打たれるようになり、江戸時代には「互(ぐ)の目魚々子」とか「大名縞(しま)魚々子」といった変わり打ちも出現した』とあるが、原典字体に「魚の子」とあり、これを「ななこ」と読むことは、原典訓読のルールから外れるものであり、時珍の謂いは、文字通りの魚卵の謂いであることは間違いないと私は思う。

「寂蓮」「夫木」「うき身にはさいの生角〔(いきつの)〕えてしがな袖の泪〔(なみだ)〕もとをざかるやと」「国文研」の和歌データベースの「夫木和歌抄」の「巻二十七 雑九」に、

 うきみにはさいのいきつのえてしかなそてのなみたもとほさかるやと

とある。]

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(31) 「守札ヲ配ル職業」(1)

 

《原文》

守札ヲ配ル職業  維新以前ニハ右ノ甲州ノ猿牽ト同樣ニ、半僧半俗トモ謂フべキ生活ヲ營ム一種ノ階級ノ人民頗ル多カリキ。【鉦打ノ類】關東ニテハ鉦打(カネウチ)又ハ磬叩(キンタヽキ)ト云ヒ、西國ニテハ茶筅又ハ鉢屋ナドヽ云フ者モ皆此類ニ數フべシ。其他「エビス」ト云ヒ、「ソキ」ト云ヒ、「