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2019/03/17

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(32) 「守札ヲ配ル職業」(2)

 

《原文》

 【土御門家】此等ノ配札者ハ昔ハ悉ク陰陽師ヨリ分レ出デタリシモノヽ如ク、後世マデモ其多數ハ陰陽道ノ總管長タル土御門家ノ支配スル所ナリキ。【梓巫】例ノ猿牽職ノ如キモ亦梓巫(アヅサミコ)ヤ萬歳師ナドト共ニ、正シク其中ノ一種ナリ。此徒ハ何レモ自分ノ持場々々アリテ、祈禱ヲシタル札ヲ配布シテアルク外ニ、宗教家ニモ似合ハズ舞ヲ舞ヒ歌ヲ歌ヒテ家々ヲ巡ルガ常ノ業體ナリシナリ。【竃拂】後世歌舞ト配札トガ次第ニ各一方ニ分ルヽコトヽナリタレドモ、猶竃拂ト云フ巫女ノ如キハ近キ頃マデ民家ニ札ヲ配リニ來リ、且ツ竃ノ前ニ於テ鈴ヲ振リ舞ヲ舞ヘリ。梓神子家職ニ關スル安永二年ノ田村八太夫掟書ニハ、珠數占(ジユズウラナヒ)相勤ムべキ事、繪馬配ルべキ事ナドトアリ〔祠曹雜識三十六〕。寺社方ニ勤務シタル稻葉丹後守ノ手控ニハ、同ジク梓女ノ家職トシテ、繪馬ト申シテ猿馬ヲ牽キ候繪ヲ正月配リ候事トアリ〔寺社捷徑〕。之ニ由リテ思フニ、右ノ猿牽職ノ輩モ以前ハ厩ノ守護ノ札ヲ配リ居タリシ者ナルべシ。備後ノ福山領ニテハ以前ハ正月ニ猿牽猿ヲ負ヒテ農家ニ來ル。【鹽】或ハ馬屋ノ祈禱トテ猿ヲ連レ參リ、鹽ヲ振リ何カ唱ヘテ猿ヲ牽ク人ノ畫ヲ貼附ク。猿牽ハ頭アリ。今ノ蘆品郡有磨村大字有地ニ居住セリ。此者藩主ノ馬ノ祈禱ヲスルニ、正五九月帶劍袴ニテ厩へ罷リ出デ、幣四本馬ノ繪四枚差シ上ゲ何カ唱ヘゴトヲ爲セシトナリ〔風俗問狀答書一〕。蓋シ猿ガ御幣ヲ擔ギテ片手ニ馬ノ綱ヲ曳ク所ノ繪紙ノ如キハ、元ハ皆此者ノ手ヨリ貰ヒ受ケテ之ヲ厩ノ口ニ貼リシモノナラン。古代ノ板繪ハ無造作ニ粗末ナル者多シ。【山王】今若シ武藏西多摩郡西秋留(ニシアキル)村大字引田ノ山王社ノ天正十七年ノ繪馬ノ如ク、御幣ヲ手ニセザル猿ガ馬ヲ曳ク繪札ノ古キモノアリキトセバ、河童駒引ノ傳ノ如キハ之ヲ發生セシムルコト極メテ容易ナリシナルべシ。卽チ馬ガ急病ノ爲ニ騰リ狂フ處ヲ猿ガ取鎭メントシテ居ルモノカ、ハタ又猿ニ似タル獸ガ馬ヲ捕ヘ殺サントスルヲ馬驚キテ之ニ抵抗セントスルノ圖ナルカ、由來ヲ忘却シタル者ニハ一見シテ之ヲ判別スルコト容易ナラズ。或ハ猿ノ形ガ甚ダ小サクシテ如何ニモ力無ゲニ見エ、且ツ馬ノ方ニ向ヒテ垂レ下ルヤウニシテ居ルヲ見テ、此ハ是レ怪物敗北ノ樣ヲ描キタル歷史畫ナルべシト速斷セシ者無キヲ保セザルナリ。【猿ト河童】而シテ猿ハ河童ノ敵ナリト云フ一、又ハ紀州田邊邊ニ於テ猿ト河童トハ兄弟分ナリト云ヒ、猿河童ヲ見レバ急ニ水中ニ飛入ラントスルガ故ニ、猿牽ハ何レモ川ヲ渡ルコトヲ非常ニ忌ムト云フノ如キ〔南方熊楠氏報〕、亦此繪札ヲ猿牽ガ配リシカト想像セシムべキ一材料ナリ。又多クノ厩ノ守札ノ中ニハ、駒曳ノ外ニ鶺鴒ヲ蹈マヘタル馬櫪神ノ像モアレバ、或ハ單ニ勝善經ナドノ呪文ノミヲ書シタルモアリテ、此ダニ貼置ケバ牛馬ノ災難ハ決シテ無シト信ゼシコトガ、終ニハ此札ヲ以テ河童降參ノ怠狀ノ如ク言傳フル原因ト爲リシモノカ。【手形ハ守札】長州椿鄕ノ河童ノ手形ノ如キモ、之ヲ板行シテ希望者ニ頒チタリト云フ以上ハ、恐クハ亦右ノ配札ノ一種ニシテ、此等猿屋ノ手ニ由ツテ馬持百姓ノ家ニ配布セラレシモノナルベシ。長門又ハ周防ノ山村ニハ、猿牽ガ猿ヲ調教訓練スル猿ノ學校ノ如キモノアリ。入學者ハ多ク九州方面ヨリ來ルトノコトナリ〔石黑忠篤氏報〕。兎ニ角所謂「エンコウ」ト緣故ノ淺キ地方ニ非ザルコトハ確カナリ。

 

Hikitasannousyaema

      武州引田山王社古繪馬

       新編武藏風土記稿ヨリ

 

[やぶちゃん注:絵馬の図は黒の塗り潰しであるから、今回は晴れて底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をダウン・ロードしてトリミングと補正をかけ、汚損と思われる箇所を徹底的に清拭して使用した。以下、同絵馬に就いての詳細キャプション。署名と花押は底本ではずっと下方になる。]

 

 竪八寸五分。橫六寸。畫樣猿ノ馬ヲ曳キタルモノナリ。繪馬ノ裏面ニ。

武州多西引田村。當領主日奉之朝臣。平山右衞門大夫也。此家中令知行當所内、有山王權現。古跡中年久者也。忝信心得心。過去因現在未來業。今歳天正十七己丑。奉再興新殿一宇。次自男號角藏者。十七歳而刻之。奉寄進當社也。仍而如件。

     甲州鶴郡鶴川祖生  志村肥前守

       所願成就皆令滿足  影元(押)

          引田眞照寺

 

《訓読》

 【土御門家(つちみかどけ)】此等の配札者は、昔は悉く陰陽師(おんやうじ)より分れ出でたりしものゝごとく、後世までも其の多數は、陰陽道の總管長たる土御門家の支配する所なりき。【梓巫(あづさみこ)】例の猿牽職のごときも亦、梓巫(あづさみこ)や萬歳師(まんざいし)などと共に、正(まさ)しく其の中の一種なり。此の徒は何れも自分の持場々々ありて、祈禱をしたる札を配布してあるく外に、宗教家にも似合はず、舞を舞ひ、歌を歌ひて、家々を巡るが常の業體(げふてい)[やぶちゃん注:有様。所行(しょぎょう)。「げふたい(ぎょうたい)」と読んでもよい。]なりしなり。【竃拂(かまどはらひ)】後世、歌舞と配札とが次第に各一方に分るゝことゝなりたれども、猶ほ、「竃拂」と云ふ巫女のごときは、近き頃まで、民家に札を配りに來たり、且つ、竃の前に於いて、鈴を振り、舞を舞へり。梓神子(あづさみこ)家職(かしよく)に關する安永二年[やぶちゃん注:一七七三年。]の田村八太夫掟書(おきてがき)には、『珠數占(じゆずうらなひ)相(あひ)勤むべき事、繪馬配るべき事』などとあり〔「祠曹雜識(しさうざつしき)」三十六〕。寺社方に勤務したる稻葉丹後守の手控(てびかへ)には、同じく梓女(あづさめ)の家職として、『繪馬と申して猿馬を牽き候ふ繪を正月配り候ふ事』とあり〔「寺社捷徑(じしやせふけい)」〕。之れに由りて思ふに、右の猿牽職の輩(やから)も、以前は厩の守護の札を配り居たりし者なるべし。備後の福山領にては、以前は、正月に、猿牽、猿を負ひて農家に來たる。【鹽】或いは馬屋の祈禱とて猿を連れ參り、鹽を振り、何か唱へて、猿を牽く人の畫(ゑ)を貼り附く。猿牽は頭(かしら)あり。今の蘆品(あしな)郡有磨(ありま)村大字有地(あるぢ)に居住せり。此の者、藩主の馬の祈禱をするに、正・五・九月、帶劍・袴にて厩へ罷り出で、幣(ぬさ)四本・馬の繪四枚、差し上げ、何か唱へごとを爲せしとなり〔「風俗問狀答書」一〕。蓋し、猿が御幣を擔(かつ)ぎて片手に馬の綱を曳く所の繪紙(ゑがみ)のごときは、元は皆、此の者の手より、貰ひ受けて、之れを厩の口に貼りしものならん。古代の板繪(いたゑ)は無造作に粗末なる者、多し。【山王】今、若(も)し、武藏西多摩郡西秋留(にしあきる)村大字引田(ひきだ)の山王社の天正十七年[やぶちゃん注:グレゴリオ暦一五八九年。]の繪馬のごとく、御幣を手にせざる猿が馬を曳く繪札の古きものありきとせば、河童駒引の傳のごときは之れを發生せしむること極めて容易なりしなるべし。卽ち、馬が急病の爲に騰(たけ)り狂ふ處を猿が取り鎭めんとして居るものか、はた又、猿に似たる獸が馬を捕へ殺さんとするを、馬、驚きて、之れに抵抗せんとするの圖なるか、由來を忘却したる者には、一見して之れを判別すること容易ならず。或いは、猿の形が甚だ小さくして如何にも力無げに見え、且つ、馬の方に向ひて垂れ下(さが)るやうにして居るを見て、此れは是れ、怪物敗北の樣を描きたる歷史畫なるべし、と速斷せし者無きを保せざるなり[やぶちゃん注:そういう早合点をした者が決して居なかったという断言は保証の限りではない。]。【猿と河童】而して猿は河童の敵なりと云ふ一、又は、紀州田邊(たなべ)邊(あたり)に於いて、猿と河童とは兄弟分なりと云ひ、猿、河童を見れば急に水中に飛び入らんとするが故に、猿牽は何れも川を渡ることを非常に忌むと云ふのごとき〔南方熊楠氏報〕、亦、此の繪札を猿牽が配りしかと想像せしむべき一材料なり。又、多くの厩の守札の中には、駒曳の外に鶺鴒(せきれい)を蹈(ふ)まへたる馬櫪神(ばれきじん)の像もあれば、或いは單に、「勝善經」などの呪文のみを書したるもありて、此れだに貼り置けば、牛馬の災難は決して無しと信ぜしことが、終(つひ)には此の札を以つて河童降參の怠狀(たいじやう)のごとく言ひ傳ふる原因と爲りしものか。【手形は守札】長州椿鄕(つばきがう)の河童の手形のごときも、之れを板行して希望者に頒ちたりと云ふ以上は、恐らくは亦、右の配札の一種にして、此等猿屋の手に由つて馬持百姓の家に配布せられしものなるべし。長門又は周防の山村には、猿牽が猿を調教訓練する「猿の學校」のごときもの、あり。入學者は、多く九州方面より來たるとのことなり〔石黑忠篤氏報〕。兎に角、所謂「エンコウ」と緣故の淺き地方に非ざることは確かなり。

   武州引田山王社古繪馬

  (「新編武藏風土記稿」より)

[やぶちゃん注:詳細キャプションは訓点が一切ないので自然流で読んだので保証の限りではない。また、句読点の一部を変えた。「某(それがし)」は志村景元である。]

 竪八寸五分、橫六寸。畫樣(ゑやう)、猿の馬を曳きたるものなり。繪馬の裏面に、

武州多西(たさい)引田(ひきだ)村、當領主日奉(ひまつり)の朝臣(あそん)平山右衞門大夫なり。此の家中の某(それがし)、當所の内を知行せしむに、山王權現、有り、古跡にして中し、年(とし)久しき者なり。忝(かたじけな)くも某(それがし)、心得て信心す。過去の因(いん)は現在・未來の業(ごふ)たり。今歳(ことし)天正十七己丑(つちのとうし/キチユウ)。再興して新殿一宇を奉る。次いで、某(それがし)自男[やぶちゃん注:「自(みづか)らの男(を)」で息子の意か、或いは「次男」の意か。])角藏と號せし者十七歳、之れを刻し、當社に寄進奉るものなり。仍(よ)つて件(くだん)のごとし

 甲州鶴郡鶴川祖生(そふ)  志村肥前守

   所願成就 皆 滿足せしむ  影元(押)

          引田(ひきだ)眞照寺

[やぶちゃん注:「陰陽道の總管長たる土御門家」平安時代以来、天文・陰陽両道で朝廷に仕えた家系。左大臣阿倍倉梯麻呂(くらはしまろ)の子孫安倍晴明が大膳大夫・天文博士となって以来、子孫代々その業を伝え、天変地異あるごとに朝廷・幕府に警告した。戦国時代に勘解由小路在富(かげゆこうじありとみ)が死んで暦術家が絶えた際、詔(みことのり)により、土御門有修(ありなが)は天文・暦術博士を兼ね、以後、同家は両博士を兼ねることとなった。子孫相次いで明治に至り、華族に列し、子爵を授けられている(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「梓巫(あづさみこ)」関東地方から東北地方にかけて分布する巫女(みこ)の名称。梓弓は古代より霊を招くために使われた巫具(ふぐ)で、これを用いて「カミオロシ」(神降ろし)・「ホトケオロシ」(仏降ろし)をすることから、「梓巫女」の名が起った。能の「葵上」には「照日(てるひ)」と呼ばれる巫女が梓弓の弦を弾いて口寄せする謡(うたい)がある。津軽地方の「イタコ」は先に示した「いらたか念珠」を繰ったり、弓の弦を棒で叩いてトランス状態になり、また。陸前地方の巫女である「オカミン」たちは「インキン」と称する鉦(かね)を鳴らしながら、入神する(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「萬歳師(まんざいし)」万歳(まんざい)のこと。正月、家毎に回って祝言をの述べ、歌い舞い、祝儀を請う門付(かどづ)け芸の一種。形式は時代と土地で異なるが、普通、風折烏帽子(かざおりえぼし)に素襖(すおう)を着た「太夫」と、頭巾を被り、鼓を持つ才蔵とが一組になり、家毎に祝言を上げ、滑稽な掛け合いを成し、太夫が舞い、才蔵が鼓を打つ。古く鎌倉・室町時代に既に陰陽師支配下の「散所(さんじょ)」(古代末期から中世にかけて、貴族や社寺に隷属して労務を提供する代わりに、年貢を免除された人々の居住地及びその住民の称。鎌倉中期以降は広義に浮浪生活者などをかく呼ぶようになり、賤民視されるに至った。中世末から近世にかけては卜占(ぼくせん)や遊芸を生業とする者もそこから現れたりした)・「声聞師(しょうもじ)」(中世に於いて卜占を本業としつつ、各種の経読や曲舞(くせまい)などをも生業とした芸能民。門付けの芸で諸国を渡り歩いたことから、江戸時代には賤視の度を深めた)などの賤民の行う「千秋(せんず)万歳」があったが、近世になって「三河万歳」や「大和万歳」その外、各地に同類の門付け芸を行う集団が生じた。明治以後は次第に衰えたが、今日でも三河や知多の万歳は正月に諸方に出掛け、また、河内・尾張など各地の万歳も残っている(以上は主文を平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。

「竃拂(かまどはらひ)」「竈祓」が本義で「かまはらひ」「かまばらひ」「かまはらへ」「かまつぱらい」とも呼んだ。歳末や各月の晦日(みそか)などに巫女(みこ)体(てい)の者や「俄か山伏」などが来て、竈を清拭して祈祷を行い、注連縄を張って祭りを行った巫女。「かままつり」「竈注連(かましめ)」「荒神祓(こうじんばらい)」も同じ。

「珠數占(じゆずうらなひ)」「数珠(じゅず)占い」「念珠占い」などとも呼ばれる、数珠を用いた占い。嘗ては修験者(或いはそう称した者)や密教系の僧たちは盛んにこれを行ったらしい。

「寺社方に勤務したる稻葉丹後守」老中で相模小田原藩三代藩主・越後高田藩主・下総佐倉藩初代藩主であった稲葉正往(寛永一七(一六四〇)年~享保元(一七一六)年)か。彼は従五位下丹後守であったことがあり、天和元(一六八一)年四月に奏者番兼寺社奉行に就任している。但し、昇進が速く、同年十一月には京都所司代に転任しているので、七ヶ月と在任期間が短い。彼ではないのかも知れない。

「備後の福山領」備後福山藩。備後国(現在の広島県東部)南部と備中国南西部周辺を領有し、藩庁は福山城(現在の広島福山市内(グーグル・マップ・データ))。

「蘆品(あしな)郡有磨(ありま)村大字有地(あるぢ)」現在の広島県福山市芦田町には上有地(かみあるじ)下有地があるので、この周辺であろう(グーグル・マップ・データ)。「ちく文庫」版は「有地」にルビしないが、「あるじ」とすんなり読める人はそう多くはないと思うがなぁ?

「武藏西多摩郡西秋留(にしあきる)村大字引田(ひきだ)の山王社」現在の東京都あきる野市引田に、後の駒引絵馬の詳細キャプションに出る「眞照寺」が現存する(グーグル・マップ・データ)。真言宗引田山(ひきだざん)真照寺である。山王神社は確認出来ないが、恐らくは神仏習合当時のこの山王社の別当寺がこの真照寺であったものと推定される。同寺周辺の引田地区には六つもの神社・小祠を現認出来るので、これらの孰れかと思われるが、特定出来ない(何となく、距離的には東直近の熊野神社・御嶽神社辺りかなぁという感じはした)。しかし、執拗に検索を掛けた結果、「あきる野市教育委員会」発行の『郷土あれこれ』第二十八号(平成二八(二〇一六)年九月一日発行)のこちら(PDF)の齋藤慎一氏の記事によって、この絵馬(紙製の絵馬を刷るための板木として使用されたもので、柳田國男が挿絵として載せているのも摺られたものである)が現存し、現在はこの真照寺が所蔵していることが判った(この記事はこの「猿曳駒(さるひきこま)絵馬」が市指定文化財となったことを告げてもおり、本絵馬の時代背景を踏まえた細かな解説が示されている貴重な記録である。本書の本部分の欠くべからざる貴重な資料として要保存である)。しかも、この絵馬、東京都内に現存する最古の絵馬なのである!(記事参照) 裏の陰刻部についても解説が載り、平山右衛門大夫は平山直重かとされておられる。もしそうだとすると、彼はこの翌年に亡くなっている。天正一八(一五九〇)年、後北条氏に従ったここの一党(後注「日奉」参照)であった平山氏であったが、調べて見たところ、父平山氏重とこの嫡子直重は、翌年の檜原城での戦いの後、千足の地で討ち死にしたとされているからである。記事でも『絵馬奉納の翌年』の七月五日に『平山右衛門大夫の属した後北条氏は豊臣秀吉に幸福、振ら山右衛門大夫直重も』、『早く』、六月二十三日の『八王子城落城と共に討死したことで』あろうとし、さらに『天正頃の後北条氏軍役の規定で、志村家の負担する軍勢では騎馬で甲冑(かっちゅう)姿の武者は』五『騎程度で』あったから、『そのうちの』一騎であったろう数え十八『歳の志村角蔵の最後も討死であったと想像』されると述べられた上で、『しかし、その前年、角蔵が武家』好み『の見事な馬を』彫った、この『権現に納めた素朴な猿曳駒の絵馬は』、この『村々の人々の豊饒(ほうじょう)を祈るための神前へのささげものとして多くの紙絵馬を刷りだす版木として大切にされ』、永らく『伝えられることとなったので』あると結んでおられれる。この志村は土着豪族ではなく、ここにある通り、元は甲斐国「鶴郡鶴川祖生」の武士で、平山氏の配下として、別の国衆でありながら、ここに知行地を貰っていたのである。さても私もこの十七で散った少年志村角蔵のことが気になっていたのである。この齋藤氏の最後の一言に私はとてもしみじみとしたのである。

「紀州田邊(たなべ)邊(あたり)に於いて、猿と河童とは兄弟分なりと云ひ、猿、河童を見れば急に水中に飛び入らんとするが故に、猿牽は何れも川を渡ることを非常に忌むと云ふのごとき〔南方熊楠氏報〕」南方熊楠と柳田國男の往復書簡集を縦覧したが、今のところ見出せない。発見し次第、追記する。

「鶺鴒(せきれい)を蹈(ふ)まへたる馬櫪神(ばれきじん)の像」図を含めて既注

「勝善經」既出既注

「怠狀(たいじやう)」既出既注であるが、再掲しておくと、古くは、平安後期から鎌倉時代にかけて罪人に提出させた謝罪状。「過状(かじょう)」とも言った。後に、自分の過失を詫びる旨を書いて人に渡す文書を指すようになった。「詫び状」。「謝り証文」。

「長州椿鄕(つばきがう)」既出既注

『長門又は周防の山村には、猿牽が猿を調教訓練する「猿の學校」のごときもの、あり』流石に、もうないでしょう?

「日奉(ひまつり)」所謂、「武蔵七党」の一つで、武蔵守日奉(ひまつりの)宗頼(生没年未詳:承平元(九三一)年に京より武蔵守として下向し国府(府中)で政務に当たり、任期満了の後も帰郷せずに土着したともされる)を祖とすることから、「日奉党(ひまつりとう)」とも、また「西党(にしとう)」とも呼ばれる、平安から戦国期にかけて武蔵国西部の多摩川流域を地盤とした武士団の呼称。この一族には「一ノ谷の戦い」で熊谷直実とともに一ノ谷奥の平家軍に突入し、勝利の契機を作ったことで知られる平山季重がおり、ここに出る「平山右衞門大夫」(直重)は彼の直系である。

「甲州鶴郡鶴川祖生(そふ)」不詳。鶴川という川なら、山梨県北都留郡小菅村及び上野原市を流れるが(グーグル・マップ・データ)、この辺りか。「そふ」は現行の地名で「そお」があることからの当て読みに過ぎない。違う読みかも知れない。

「志村肥前守影元」不詳。

「所願成就 皆 滿足せしむ」「引田眞照寺」先の齋藤氏の解説によれば、これらの文字は刻されたその『配置が不自然で』、『それまでの文字と彫り』・『書体も異なり』、これは『山王権現の別当として真照寺が板木(はんぎ)絵馬を管理する(紙絵馬を刷る)用に成った年代の追刻(ついこく)』であると説明されておられる。とすれば、「所願成就皆令滿足」は言祝ぎのマークに過ぎないから、訓読せずに音読(現代仮名遣「しょがんじょうじゅかいれいまんぞく」)すればよいのかも知れぬ。

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