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2019/03/31

原民喜 夜景

 

[やぶちゃん注:昭和一四(一九三九)年五月号『三田文學』初出。

 底本は一九七八年青土社刊原民喜全集「Ⅰ」を用いたが(底本では「拾遺作品集Ⅰ」のパートに配してある)、以上の書誌データや歴史的仮名遣表記で拗音・促音表記がないという事実及び原民喜の幾つかの自筆原稿を独自に電子化してきた私の経験に照らして(彼は戦後の作品でも原稿では歴史的仮名遣と正字体を概ね用いている)、漢字を概ね恣意的に正字化することが、原民喜自身の原稿原型に総体としてより近づくと考え、今までの私のカテゴリ「原民喜」のポリシー通り、そのように恣意的に処理した。

 因みに、本篇は現在、ネット上では公開されていないものと思われる。

 それにしても――このブラック・ユーモアの幻想譚は、後の、驚くべき忌まわしいカタストロフの予言の書となっているではないか!?!

【2019年3月31日公開 藪野直史】]

 

 夜 景

 

 深夜の街の上には、南風が煽り出す眞綿のやうな白い薄雲が、三日月の光に照らされてふわふわと動いてゐた。塀から突出たポプラの枯木が、淡い影を落してゐる往來を、輕い塵が街燈の下へ流されてゐた。街燈の燈は睦むたさうに微かな瞬をした。その、ひよろひよろの柱を、小さな蜘蛛が這ひ登つて行つた。蜘蛛が這ひ登つて行く柱の裏側には、糸屑のやうな蟲が弱々しげにぢつと留まつてゐた。遠くの方で猫の妖しげな呼聲が聞えた。もつと遠くの方では犬の狂ほしげな聲が、時々休止をおいては續いてゐた。

 しかし、今耳を澄すと、誰か人間の跫音がこちらへ近づいて來る。草履を穿いてゐる人間らしいのだが、どうも陀しげな跫音だ。と思ふうちに、その人間の姿は向の角から現れた。そして今度は何か決然たる調子に跫音が變つた。ポプラの影の突出たコンクリートの塀の處まで來ると、彼はちよつと頭を上にあげて頤で、塀の高さを見計つてゐた。が、やがて事もなげにするすると身を飜へして、巧みに塀に登つて行つた。泥棒らしくもない細つそりした優男なのだが、到頭、塀のてつぺんに腰を下したかと思ふと、どうしたものかそれからさきは身動きをしなくなつてしまつた。もう向側へ飛降りさへすればよささうなものを、急に安心でもしたのか悠々と兩足を塀のてつぺんに掛けたまま動かないのである。ところが更に奇妙なのは、さうしてゐるうちに、塀の上の泥棒は微かに鼾をかき出した。その鼾ほ始めは靜かに絃を搖さぶるやうな響であつたのが、忽ち熟睡へ陷つたのか、轟然たる砲聲の如くあたりに鳴渡つた。その時には、しかし、もう四方八方から鳴渡つて來る家々の鼾の渦卷のために、泥棒の鼾も卷込まれてしまつた。今、鼾といふ鼾、屋根といふ屋根が、この街に棲む人間達の吐く物凄い鼾によつて搖れ出してゐた。

 そして、泥棒が熟睡してゐる塀から三〇米と離れてゐない角の交番でも、そこでも、四角な小さな建物が一人の巡査の發する鼾によつて滿たされてゐた。交番の硝子窓は四方八方から響いて來る鼾のために、メリメリと壞れさうになつてゐた。ここのテーブルに打伏せてゐるお巡りさんは、さつきまでは頻りに大きな帳面を繰つてペンで何事かを書入れてゐたのだつたが、不意と趾の方からこみ上げて來るあくびをした拍子に、まるで頤がもげさうな大あくびになつてしまひ、それからさきは、どうにもかうにも、不可抗力の魔睡に襲はれてしまつた。

 交番から東の方へ一直線の道路が停車場へ走つてゐたが、途中にコンクリートの橋が架けられてゐた。その橋の中程では、ダツトサンが一臺、橋の欄杆に衝突したまま留まつてゐた。運轉臺には若い男が手袋を嵌めた兩手をだらりとハンドルの上に投出して、圓い肩を波打たせながら鼾をかいてゐた。その鼾を叱陀するやうに、坐席の方からはもつとすさまじい鼾が發せられてゐた。鼻の尖つた、尖鋭な顎をした醫者が、端然として坐席に於いて熟睡してゐるのだつた。彼は急病人のために呼起されてさつき家を出た時から、うつらうつらし勝ちであつたので、睡氣を覺ますために端然とした姿勢で腰掛けてゐたのであるが、自動車が橋の手前まで來かかつた頃どうやら運轉が怪しげになつたと意識するうちにも、何時の間にか氣分は朦朧となつてしまつたので、ここで欄杆に衝突してゐるのを知つてゐなかつた。ダツトサンから發する二人の鼾は互に應呼して物凄かつたが、しかし外部の鼾に比べればものの數ではなかつた。今、橋の下を流れてゐる水は、兩岸の家々から洩れ出した鼾を湛へて、それはまるで洪水のやうに轟々と橋桁に突當つて渦を卷いた。また橋の上を通過する鼾の大群は、押合へしあひして橋から墜ちると、一種異樣な悲鳴をあげてゐた。

 橋の上をうまく乘越した鼾の群は一直線に停車場の廣場の方へ走つて行つた。そこには旅客を待ちうけてゐた自動車の一列が、てんでに好きな恰好をして、鼾を發散してゐるのだつた。驛の白堊の二階建の外壁に嵌められてゐる時計のダイアルの燈も、それらの鼾の溫氣のためにか茫と霞んで魘れてゐた[やぶちゃん注:「うなされてゐた」。]。そして驛の建物の内部は、天井が高くて音響がよくとほるために、ここでは鼾どもが自在に飛廻つてゐるのだつた。次々に壁を這登る鼾は天井にとどくと電燈の下をぐるぐる駈づり廻り、天井は絕えず雷鳴のやうな響を發した。改札口の方に吊されてゐる黑板の時間表は、それにも鼾が絡みつくために、今は白い文字が飴のやうにだらりと溶けてしまつてゐた。その下では一人の驛員が立つたまま熟睡してゐた。餘程最後まで魔睡と爭つたものらしく、彼の指は自分の瞼を摘んであけようとしてゐるのだつた。

 待合室の中央の大テーブルにはトランクや行李が積まれてゐたが、それらの間に頭を投出して、いろんな人物の姿態があつた。赤い鞣革の大きなトランクを大切さうに兩肘で庇ひながら[やぶちゃん注:「かばひながら」。]熟睡してゐるのは、肥滿した紳士だが、常にいい場所を獨占し、一秒と雖も自分の權利を主張することを怠らない、大變逞しい人格の持主らしかつた。その紳士のチヨツキのポケツトから金時計がぶら下つてゐるのに、さつきまで氣を奪られてゐた人相のよくないハンチングの男も、その男ときたら、まるで今は鐵槌で首を捻られてゐるやうな哀れな恰好で熟睡してゐた。口紅を圓く塗つた若い女は、鼻を天井の方へ向けてのびのびと睡つてゐたが、その隣にゐる母親らしい女は、萎れた夕顏の花のやうな顏であつた。二人は手と手を握り合つてゐるところをみると、娘の方が母親に甘え、母親が多少それをもてあました折、魔術に陷つたものらしかつた。この親子と向ひ合つたところに、眼鏡をかけた神經質さうな男が一人忙しさうに腕組して睡つてゐた。見たところ失業者でもなささうだが、さりとて歲もあんまり老けてはゐないのに、生活に疲れはてたやうな顏附をしてゐるのはあらそはれなかつた。そのほか、景氣のよささうな商人や、無意味にハリキルことを好むらしい若い三人づれの會社員や、神信心に凝りすぎて多少氣が變になつてゐる學生など、どれもこれも、今は正體もなく睡らされてゐた。

 全體として、それらの人間の寢顏は、黃色な深夜の電燈の下で、陶器のやうに佗しかつた。けれども、彼等の放つ鼾は、彼等とはまるで別個の存在のやうに、てんでにすさまじく活躍してゐた。それはまるで喧嘩のやうであつた。赤い揉革のトランクの肥滿した紳士の鼾がガガアと突進すると、圓く口紅を塗つた若い娘の鼾がキキとこれと衝突した。かと思ふと、三人づれの會社員の三種三樣の鼾の如きは、機關銃の音に似てしまつて、終に周圍を壓倒した。

 この華やかな待合室にひきくらべて、そこの窓口から向に見えるところの線路の方は、いささか見おとりする風景であつた。幾條もの軌道が闇の地面を匐つてゐて、電燈がしよんぼりと點在してゐた。一番近くの線路の上に、一人の驛員が懷中電燈を持つたまま、栗石[やぶちゃん注:「くりいし」。鉄道の床部分に用いる小石。]の上に蹲つてゐた。懷中電燈の明りは彼の靑い上着のポケツトの邊を照明してゐた。ところが今、彼の全身にパツと強烈な光線の洪水が襲つた。と見るや否や、何か黑い塊りが彼の上を通過し、やがていくつもの窓のある箱が次々に見え出した。そして、その列車はどうしたものか、そこの驛には留まらうとしないで、矢のやうな速力で素通りしてしまつた。その上、不思議なことには列車が素通りして暫くたつてから後始めて、線路の上に轟然たる鼾の大群が反響して來た。忽ち鼾は線路の上空に龍卷を生じ、さつき通過した列車の乘客達の殘して行つた鼾は、一頻り荒れ狂つた。鼾と鼾の摩擦する度に發する音は無數の蛙の啼聲のやうに、せつぱつまつて物狂ほしさうだつたが、やがて騷ぎは一つ減り一つ減り終に雨滴のやうに杜絕え勝ちになつて、何時ともなしに飮んでしまつた。すると線路の上は闇と靜寂が領した。[やぶちゃん注:このシークエンスは原民喜の最期の映像と異様に重なる。民喜はこの十二年後の昭和二六(一九五一)年三月十三日、吉祥寺・西荻窪間の鉄路に身を横たえ、鉄道自殺を遂げた。同日午後十一時三十一分のことであった。]

 しかし街の方では今、鼾は增々たけなはになつて行くばかりだつた。屋根も道路も電信柱も、人々の發する鼾によつて、ぐらぐらと煮えくり返つてゐた。つまり街全體が今は大きな鼾の坩堝の底に投げやられた相(かたち)であつた。一番物凄いのは街の中央にある練兵場だつた。そこにはすぐ脇に兵營があつたが、兵舍の屋根は巨大な馬の胴腹のやうに、ふわりふわりと伸縮してゐた。練兵場の一角にある紀念碑の邊には、市民の鼾が押寄せて來て、もう立錐の地もない程であつた。鼾はてんでに紀念碑の石のてつぺんへ登つたり、松の木の枝に引懸つたりしてゐた。

 練兵場の砂原では、濠々として砂塵が渦卷いた。立昇るその砂塵の底では、喇叭や馬の嘶きや、大砲の炸裂する音、劍銃のかち合ふ響に混つて、ワワワワと突貫の聲が聞えた。そして、砂塵は增々大きく、いよいよ濃くなつて、練兵場の上の空に擴がつて行つた。遠くから見ると、それは眞白な大入道の顏に似てゐた。

 そして街全體の吐く鼾のために、溫度は刻々に高騰して行つた。そのためにであらうか、羽蟲や蛾が何處からともなしに現れて來ると、見る見るうちに數を增し、辻から辻へ眞白な流れとなつて擴がつて行つた。それらの群は鼾の大群のために追捲られて、苦しまぎれに卵を産むので、アスフアルトの道路は粉雪のやうに白くなつた。街が茹つて來るに隨つて、鼾はいよいよ金屬的な音響となり、それは救ひを求めてゐる悲鳴や、癲癇のあまり發する咆哮と化してゐた。[やぶちゃん注:このシークエンスも驚くほど、六年後に広島を襲う原爆の地獄絵を予感させているではないか! ロケーションは示されていないものの、「練兵場」とは明らかに、原民喜の作品群に馴染みの場所として登場する、広島の陸軍西練兵場(現在の広島市民病院や広島県庁から東の八丁堀京口門公園・広島YMCA附近までの一帯を占めていた)に違いないからである。]

 

 しかし、この切羽語つた鼾の大群のなかにも、やはり氣の輕い、いたづら好きな連中がゐることはゐた。彼等は自分達が單なる鼾である分限をも忘れて、あべこべに睡つてゐる人間を一つ調弄つてやらう[やぶちゃん注:「からかつてやらう」。]と相談し始め、その揚句、四五の輕卒なる鼾どもは、あらうことか、片目の新一の家へ飛込んだのである。

 鼾どもは新一の枕頭をとりまいて、新一の耳をビリビリ引張つたり、塞いでゐる方の目の上を撫でてみたりしたが、新一も今は岩のやうに堅固な睡りをつづけてゐた。そのうちに身輕な鼾は新一の鼻の腔へ潛り込んで、そのなかでサクラ音頭を踊り出した。到頭、新一は口をひらいて、ハックショイ! と一喝した。それに誘はれて嚏[やぶちゃん注:「くしやみ」。]はたてつづけに放たれた。新一はギロリと片目を開いて、闇のなかに坐り直つた。まるで自分が何處に居るのやら、今何時頃なのやら、一切がわからなくなるほど轟々たる音響であつた。

 新一はたつた今、塞いでゐる方の眼が遠かにパツと開く夢をみてゐたのだが、どうも氣持が浮々して、これはほんとにさうなつたのではないかと思はれた。そこで電燈をつけて、柱の方の鏡に自分の顏を持つて行つた。そして慇懃な表情で、恐る恐る鏡のなかの自分を覗いた。すると忽ち、耳許にワイワイワイと猛烈な嘲笑が襲つて來た。新一はびつくりして、部屋の中央に立ちはだかつた。依然としてワイワイワイと嘲笑は煩さく[やぶちゃん注:「うるさく」。]聞えて來た。

「默れ!」と新一は咽喉から血走る聲を發した。けれども、さつきからひきつづいてゐる何者ともわからぬ喚きは一向に歇まなかつた。それは、すぐ隣の襖越しに聞えて來るかと思へば、また屋根の上や床の下からも洩れて來るのであつた。この正體の解らない音響は到頭、新一を滅茶苦茶に苛々させた。

「どうしようつてのだ!」と、新一は天井に對つて[やぶちゃん注:「むかつて」。]呶鳴つてみた。と、音響は今、ドカンドカンドカンと攻擊して來た。「ああ、耳がもげる」と、新一は悲鳴をあげて、兩手で耳朶を塞いでしまつた[やぶちゃん注:「耳朶」は「みみたぶ」(音なら「じだ」)であるが、ここは二字で「みみ」と当て訓していると読む。]。

 暫くして、もう止んだかしらと、恐る恐る耳にあてた掌を緩めてみると、忽ちザザザザと響は大海原の波のやうに搖れてゐるのだつた。新一はぼんやり向の襖に目を留めてゐたが、ふと氣がつくと、襖紙の破れて新聞紙のはみ出してゐる部分が、不思議なことに風船玉のやうに脹らんだり縮んだりしてゐるのだつた。こいつだな、と新一は音の發源地を發見したやうに前へ乘出して、その新聞紙へ指を突込んでみた。すると、忽ち小さな旋風が新一の指に突當つて、それと同時にガガガガ……と雜音が突擊して來た。新一はあわてて、そこの襖を開放つた。

 隣室には新一の母が睡つてゐたが、年寄つた母親は何の異狀もなく今も睡つてゐた。しかし、この大騷動のなかで睡つてゐられるのはどうも合點がゆかなかつた。その時、何だか生溫かい響が新一の足許へやつて來た。それはどうやら母の鼻から出たものらしいのであつた。

「お母さん、お母さん」と新一は母の寢顏に呼掛けてみた。すると、また烈しい音響がゴロゴロと生じた。新一はびつくりして壁の方へ身を寄せた。どうしてもこれは母を起さなければいけなかつた。

「お母さん、どうしたのです」と新一は母の肩に手をかけて搖さぶつてみた。けれども母は何の反應もみせなかつた。その癖音響ばかりは新一の頭上でパリパリと火花を發した。新一は段々手荒く母の瘦せた肩を小突いて行つた。

「起きて下さい、起きて」と、口調とともに怒りがこみ上げて來た。母はまるで新一を嬲りものにするやうに目を閉ぢてゐた。

「何故、起きないのだ」と新一はとうとう母の肩に鐵拳を加へた。「こいつめ、こいつめ、誰が、俺を片輪者にしたのだ」と、新一は片方の目からパラパラと淚を落しながら、亂打を續けて行つた。それでも母は眞白な顏で睡つてゐた。「これでもか、これでもか」と新一は母の肩に馬乘りになつて、無我夢中で母の頭を撲りつづけた。

 そのうちに草臥れて、暫く手を休めようとすると、その時になつて、ハツと新一は大變なことをしでかしてゐるのに氣づいた。今、轟々と咆哮する嵐の底から、「やつたな!」といふ聲が聞えた。新一はそれが死んだ父親の聲に似てゐるので、びつくりして、ガタガタと戰き出した。「違ふ、違ふ、違ふよ」と新一は必死の聲をあげて辯解しようとした。それから、ぐるぐると母のまはりを步いてゐたが、恐る恐る母の顏を覗くと、新一は母の胸許に手をやつて、そつと心臟の上を探つてみた。心臟はまだ溫かく、ドキドキと動いてゐた。それで新一は急に嬉しくなつた。

「とんでもない心配させて」と、新一は睡つてゐる母にむかつて苦情を云つた。ワハハハハと若々しい笑聲が新一の耳にはいつた。それは母の鼾にちがひなかつた。新一はこの強情な鼾には呆れ返つて、もうものが云へなかつた。

 この時玄關の方に何かどかりと重いものがぶつかる音響とともに、けたたましい犬の啼聲や、馬の嘶きや、鳥の叫びが一時に家のまはりを取卷いた。して、玄關の硝子戶はガタガタと搖れ、「開けろ! 開けろ! 開けろ!」と、一齊に人々が叫んでゐるのであつた。新一は遠かに怕くなつて、寢床のなかに潛り込んで、頭からすつぽり夜具を被つてしまつた。しかし、外の騷ぎはいよいよ大きくなつた。玄關の戶や雨戶は人々の手に手に亂打され、時々ワーワーと歡聲があがつた。

「開けろ! 開けろ! 開けろ!」と、今度は誰か一人の代表者が呶鳴つた。「開けなきや壞してはいるぞ!」と他の人が云つた。「火事だ、火事だ、火事だ」と彌次馬らしい聲もした。「出ておいでよ、新ちやん」と馴々しげに呼ぶ女の聲もあつた。はじめ新一はビクビクしてそれらの聲を聞いてゐたが、段々度胸が据つて來た。いい加減なことを云つて冷やかしてるな、と新一は却つて腹立たしくなつた。何だい、畜生、と新一は遂に起上つて、玄關の戶を開けた。

 すると、新一の顏をめがけて、澤山の羽蟲がむんと飛掛つて來た。新一は兩手でそれを拂ひ退けながら、あたりを見廻したが、人間は愚か猫の子一匹もゐなかつた。しかも、さつきから耳に馴れてゐる、ギヤギヤギヤといふ不可解な叫びは一層たけなはに續いてゐた。ふと、屋根の彼方の空を眺めると、恰度練兵場の上あたりに、大きな大入道の顏がにたにた笑つてゐた。

 ハハハハと新一は不意に大聲で笑つてみた。しかし大入道は消えなかつた。そこで大入道の方へむかつて拳固を擬し、「これでもかつ!」と呶鳴つてみた。すると大入道は眼玉をぐるぐる動かして急に怖氣づいたやうな顏に變つた。「それみろ」と新一は得意さうに呟いたが、その時また目の前を羽蟲がうるさく衝當つて來た。新一はあわてて片目を庇つた。と、今、新一のすぐ頭上を何か飛行機のやうな唸り聲がぐわんと通過して行つた。見ると、隣の塀の上に誰か腰掛けてゐて、唸りはそこから發してゐるのだつた。

「おーい、おーい」新一は塀を見上げてその男に聲を掛けてみた。が、相手は身動もせず頻りに爆音を發してゐる。

「君は誰だ、泥棒かい」と、新一は不審に耐へず猶も塀の男を凝視してゐた。

 そのうちに暫くすると、何か白い膜のやうなものが、その男の身體全體を包んでしまつた。と、思ふと、その膜はふわりと男の身體から離れて、路上に降りてゐた。

「えへん、君は誰だい」と、いま白い膜が落ちたところに入替つて正服の巡査が立つてゐた。新一はちよつとびつくりしたが、直ぐ氣をとりなほして、

「馬鹿にするな……」と呶鳴りつけた。すると、巡査はキヨトンとして鬚を捻つてゐたが、とうとう指で口鬚を捩ぎとると[やぶちゃん注:「もぎとると」と訓じていよう。]今度は新一の方へ手を差伸べて、

「御面倒さまです、切符を拜見させて戴きます」と、車掌になつて調弄つて來た。

「切符なんかない」と新一はそつぽを向いて相手にしなかつた。すると、相手は急に無賴漢の姿に變つて腕組みした。

「やいやいやい、一つ目小僧、面白くもねえ面しやがつて!」と、相手は凄さうな聲で新一に迫つて來た。

「やるか!」と、新一はさう叫ぶや否や、塀のところにある大きなポプラの枯木を片手でひつこ拔いた。新一は身の丈數倍もある枯木を輕々と縱橫振廻した。もう相手はすつかり氣を吞まれてしまつたらしく、パタパタ羽擊きながら路上を逃惑つた。

 新一が相手の頭上目掛けてポプラの枯木をパツと叩き据ゑると、その怪物はすーつすーつと空氣枕のやうに息が拔けて縮まり始めたが、やがてコトリと小さな響とともに路上に轉がつて落ちたのは、蝸牛であつた。しかし、猛りたつた新一はそれを眺めても氣は收まらなかつた。足で蹈拉かうか[やぶちゃん注:「ふみしだかうか」。]と思つたが、ふと、向の露次にある塵芥車を片手で引寄せると、箱の蓋を開けて、そのなかに蝸牛を放り込んでしまつた。それから彼は片手で大きな荷車を牽き、片手でポプラの枯木を背負ひながら、大きな地響をたてて進んで行つた。

 すると向の角から市會議員の松村氏がやつて來た。新一の親類にあたる男だつたので、選擧の時には彼が極力應援してやつたのだが、相手は當選してしまふと、もう新一なんかには見向もしてくれなかつた。ところが今は何の風の吹き廻しか、松村氏は大變にこにこと笑ひながら遠くから新一の方へ近寄つて來る。どうも樣子が變だと、新一が疑つてゐると、はたして相手の步き振りはまるで女のやうになつてしまつた。そして、顏もそつくり今は女だつた。その奇妙な女は一生懸命しなを作つて、厚釜しさを押包んでゐる。何が面白くて松村氏は今やこんな女になりはてたのか、新一は啞然として立疎んでゐた。すると相手は得々として、新一の傍までやつて來ると、

「お兄さま」と、甘つたれた聲を放つた。

「馬鹿にするな」と、新一は片手の枯木を大上段に振落した。ポプラの枯木で叩き伏せられた女は暫くは、じたばたやりながら、種々雜多の罵詈雜言を世にも恐しい早口で喚き立ててゐたが、やがて、おとなしくなつたと思ふと、其處にはまた蝸牛が轉つてゐた。新一はそれを拾ひあげると、塵芥車の箱に放り込んだ。

 それから再び片手で荷車を引き、片手で枯木を背負つた姿勢にかへると、もう目の前には新たな怪物が現れかけてゐた。新一は片目にちよつと笑みを浮べて相手を眺めた。隣の家の若い娘が拔足差足でこちらを覘つてゐるのであつた。娘はハンチングなんか目深にかむつて、刺客めいた上衣を着てゐる。と、いよいよ機會は到來したやうに眉をピクリと釣上げたかと思ふと、後に隱し持つたピストルを新一にむけて擬したのである。新一は娘の思ひあがつた恰好がをかしくて、にこにこ笑つてゐたが、娘はそれでも眞劍だつた。忽ちピストルの彈丸は新一の方へ飛來したと見るより、それは一匹の蝸牛と化し、娘の姿はもう吹消されてゐた。新一は樂々とその蝸牛を掌に取上げた。

「暫く待つた」と屋根の上で聲がした。見上げると、そこには街でよく出喰はす乞食の躄(ゐざり)が、兩脚でピンと瓦をふんまへて、大きな梯子を振上げながら新一に挑み掛らうとしてゐた。

「相手にとつて不足はあるまい」と乞食は勝手に決めてしまふと、梯子を薙刀のやうに構へた。新一がづしんと枯木で打込んで行くと、梯子はミシミシと音をたてて折れさうになつた。「龍虎相搏つ」と乞食はのん氣なことを喋つてゐる。新一はこいつも早く蝸牛にしてしまひたいので、猛然とポプラの鉾先で相手の胸許を突刺した。

「遺憾千萬」と乞食は目を白黑させながら、まだそんなことを喋つてゐたが、終にころりと屋根から墜落すると、もう小さな蝸牛になつてゐた。

 新一がそれを拾つて箱に投入れるや否や、もう彼の前には別の相手が現れてゐた。今、蹄の音もかつかつと白い駿馬に跨りながら彼の方へ驀進して來るのは、金光教教會の裏に棲んでゐる盲者の按摩だつた。盲者はかつと兩眼を見開いてゐて、偉風堂々と帽子には雞の羽根を著けてゐるので、これは屈強な敵のやうに思へ、新一は何故とも知れず無性に腹が煮えくり返つた。

「目をつむれ、目を、卑怯だぞ」と、新一は大聲で叫んだ。

「默れ、新一、さあどうだ」と、相手はバツと外套を脫捨てると、細長い劔を夢中で振廻した。しかし、どうしたはずみか、やがて相手の劔はポキリと折れてしまつた。すると、按摩は「おやつ」と呟いて、不審さうに折れた劔に見入つてしまつた。そのうちに鞍上の主人が弱つたためか、馬は見るまに四本の脚がぐにやりとなり、長い首をだらりと垂れて、馬はぺつたりと路上に坐つてしまつた。新一は難なく相手を蝸牛にしてしまつた。

 片手に抱へ持つポプラを路上に下して、新一が一息ついてゐると、今、彼方から水母のやうな塊りがふわりふわり[やぶちゃん注:ママ。]と飛んで來るのだつた。それはたしか、新一の姪の高子がこの間産んだ赤ん坊にちがひなかつた。新一ははたと困惑の表情で相手を睥んだ[やぶちゃん注:「にらんだ」。]。しかし、この半透明な怪物は新一の顏の前まで來ると、オワア、オワア、オワアと奇聲をあげて煩さかつた。新一は片手で相手を拂ひ退けようとしたが、赤ん坊は新一の肩の上に留まつてしまつて、頻りにオワア、オワアと喚きつづけた。

「やかましいぞ」と、突然新一は兩肩を震はせて、地蹈鞴[やぶちゃん注:「ぢたたら」「ぢただら」「ぢだたら」と読むが、これで「ぢたんだ」と当て訓しているかも知れない。]を踏んだ。と、赤ん坊は猫のやうに新一の肩から滑り降りると、今度は荷車の上に留まつてミヤオミヤオ、ミヤオと啼き出した。新一は荷車を搖すつて、赤ん坊を振落したが、相手はまだ逃げ出さうともしないで路上に蟒局[やぶちゃん注:「とぐろ。]を卷いてしまつた。そして今度はコケコツコオと雞の啼き聲を發した。

「馬鹿にするな」と、とうとう[やぶちゃん注:ママ。]新一の怒りは爆發して、ポプラの枯木をむんずと振上げた。すると相手はすーつと靑白い光を放つて飛立つたかと思ふと、振上げたポプラの枝に留まつてしまつた。

「えツ、いまいましい」と、新一はポプラの木を自棄に[やぶちゃん注:「やけに」。]振り動かせたが[やぶちゃん注:ママ。]、ポプラの梢にゐる相手は今は螢に化けてしまつてゐた。新一が暫く口惜しさを我慢して、手を休めてゐると、梢にゐる赤ん坊はジジジジジと蟬の啼聲を放ち出した。それでも新一は今は相手に油斷さすために素知らぬ顏をしてゐた。蟬は新一をじらすやうに、いよいよ調子づいて啼きつづけた。新一は突然飛上つて、梢の蟬を掌で押へつけた。掌に捕へた蟬はまるで茹卵のやうに熱かつた。新一はもう少しでびつくりして放すところだつたが、顏を顰めてぐつと掌で握り潰した。急に掌のなかの物體が冷たくなつたと氣づいた時、それはやはり蝸牛にされてゐた。

 しかし、新一が赤ん坊との戰爭で夢中になつてゐる隙に、他の強敵が今のそのそと彼の方へ匐つて來てゐた。新一はビクリとして今度は少し靑ざめてしまつた。山ほどもある大きさの蜘蛛が、無數の足を擴げて、今刻々と新一の方へ接近して來る。あんなに巨大な腹をしてゐるのは、子持蜘蛛にちがひなかつたが、何よりも困つたことには、新一は生れつき蜘蛛が怖かつたのである。暫く息苦しい睥み合ひを續けてゐたが、怖さに堪へかねて、今はキヤツと叫ぶと同時に、無我夢中で枯木を叩きつけた。と、簡單に手應へはあつたのか、蜘蛛はぐらぐらと山嶽の崩れ落ちるやうな音響とともに消え失せてしまつた。そして路上は見渡すかぎり蝸牛の群で滿たされてゐた。殘念なことに、その時、新一の姿はもうなかつた。

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