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2019/03/07

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(27) 「馬櫪神ト馬步神」(1)

 

《原文》

馬櫪神ト馬步神  猿ヲ厩ノ守護トスル風習ハ起原ノ最モ古キモノナリ。我々ノ同胞ハ猿曳駒ノ繪札ヲ厩ノ軒ニ貼附スル以前、實物ノ猿ヲ畜舍ニ繫グヲ以テ有效ナル家畜保護ノ手段ト認メタリキ。此慣習ハ支那ニモアレバ暹羅ニモ存シ、佛經結集時代ノ天竺ニモ亦行ハレタリト云フ〔南方熊楠氏報〕。馬ヲ大事ニセシ武家時代、馬經ヤ安驥集ノ類ヲ片端ヨリ飜譯セシ時代ニ、此モ亦支那モシクハ朝鮮ヲ經テ我邦ニ輪入シタル迷信ナリト言ヒ得ザルニハ非ザルモ、日本ノ厩ノ猿モ決シテ新シキ外國ノ模倣トハ認ムべカラズ。讃州高松ノ某氏ニ傳ヘタル古キ馬ノ口籠ノ金物ノ彫刻ニ、猿ノ首ニ繩ヲ附ケテ柱ニ繋ギタル所ヲ表ハセルモノアリ〔集古十種馬具三〕。【猿ノ舞】昔足利家ノ先祖左馬入道義氏朝臣ハ、美作國ヨリ舞ノ巧ミナル一頭ノ猿ヲ求メ得テ之ヲ將軍ニ獻上ス。顯文紗(ケンモンサ)ノ直垂小袴ニ鞘卷ヲ差シ烏帽子ヲ着テ、鼓ノ調子ニ合セテ面白ク舞ヒ、舞終リテハ必ズ纏頭ヲ乞ヒケリ。件ノ猿ヲ能登守光村預カリテ厩ノ前ニ繋ギ飼ヒケルニ、如何シタリケン馬ニ背中ヲ嚙マレ、其後舞フコトセザリケレバ皆人念無キコトニ思ヘリト云フ〔古今著聞集二十〕。今ヨリ七百年バカリ前ノ事實ナリ。同ジ頃流行セシ郢曲(エイキヨク)ノ章句ニモ亦一ノ例證アリ。曰ク

[やぶちゃん注:以下の引用は底本では全体が二字下げ。]

 

御厩(ミマヤ)ノ隅ナル飼猿ハ、キヅナ離レテサゾ遊ブ、木ニ登リ、常磐ノ山ナル楢柴ハ、風ノ吹クニゾチリトロ搖ギテウラガヘル〔梁塵祕抄二〕

 

《訓読》

馬櫪神(ばれきじん)と馬步神(ばほじん)  猿を厩の守護とする風習は起原の最も古きものなり。我々の同胞は「猿曳駒」の繪札を厩の軒に貼附(てんぷ)する以前、實物の猿を畜舍に繫ぐを以つて、有效なる家畜保護の手段と認めたりき。此の慣習は支那にもあれば、暹羅(シヤム)にも存し、佛經結集時代の天竺にも亦、行はれたりと云ふ〔南方熊楠氏報〕。馬を大事にせし武家時代、「馬經(ばけい)」や「安驥集(あんきしふ)」の類を片端より飜譯せし時代に、此れも亦、「支那もしくは朝鮮を經て、我が邦(くに)に輪入したる迷信なり」と言ひ得ざるには非ざるも、日本の厩の猿も、決して新しき外國の模倣とは認むべからず。讃州高松の某氏に傳へたる古き馬の口籠(くちかご)の金物(かなもの)の彫刻に、猿の首に繩を附けて柱に繋ぎたる所を表はせるもの、あり〔「集古十種馬具」三〕。【猿の舞(まひ)】昔、足利家の先祖左馬入道義氏朝臣(さまのにゆうだうよしうぢあそん)は、美作國(みまさかのくに)[やぶちゃん注:現在の岡山県東北部。]より舞ひの巧みなる一頭の猿を求め得て、之れを將軍[やぶちゃん注:鎌倉幕府五代将軍藤原頼嗣。後注参照。]に獻上す。顯文紗(けんもんさ)の直垂(ひたたれ)・小袴(こばかま)に、鞘卷(さやまき)を差し、烏帽子(えぼし)を着て、鼓(つづみ)の調子に合はせて、面白く舞ひ、舞ひ終りては、必ず、纏頭(てんとう)[やぶちゃん注:「てんどう」とも読む。歌舞・演芸をした者に対して褒美として衣類・金銭などの品物を与えること。また、その品物。本来は、それとして衣類を受けた際に、それを頭に纏ったことに由来する。被(かず)け物(もの)。]を乞ひけり。件(くだん)の猿を、能登守光村、預かりて、厩の前に繋ぎ飼ひけるに、如何(いかが)したりけん、馬に背中を嚙まれ、其の後、舞ふことせざりければ、皆人(みなひと)、念無(ねんな)きことに思へりと云ふ〔「古今著聞集」二十〕。今より七百年ばかり前の事實なり。同じ頃、流行せし郢曲(えいきよく)の章句にも亦、一つの例證あり。曰はく、

[やぶちゃん注:訓読では歌詞に合わせて字空けと改行を施し(これはブラウザでの不具合を避けるためである)、逆に読点は除去した。新潮日本古典集成版「梁塵秘抄」を用いて校合し、平仮名の一部を漢字としたり、表記の一部を変更もした。

 

 御厩(みまや)の隅なる飼猿(かひざる)は

 絆(きづな)離れて

 さぞ遊ぶ

 木に登り

 常磐(ときは)の山なる楢柴(ならしば)は

 風の吹くにぞ

 ちうとろ搖(ゆ)るぎて裏返(うらがへ)る

 〔「梁塵祕抄」二〕

 

[やぶちゃん注:「馬櫪神(ばれきじん)」馬の守護神。両手に剣を持ち、両足で猿と鶺鴒(尾を上下に振ることでお馴染みの私の好きな鳥、スズメ目スズメ亜目セキレイ科セキレイ属 Motacilla・イワミセキレイ属 Dendronanthus に属するセキレイ類。本邦で普通に見られるセキレイはセキレイ属セグロセキレイMotacilla grandis(固有種)・セキレイ属タイリクハクセキレイ亜種ハクセキレイ Motacilla alba lugens・キセキレイMotacilla cinerea の三種)を踏まえている像として描かれる。「北斎漫画」の馬術の項の最初に「馬櫪尊神」が描かれている(以下のネットで拾った画像を参照されたい。ここでは四本の手を持つ神として描かれ、猿と鶺鴒は手に持っている。この神像の様態は柳田國男も次段で述べている)。サイト「国際水月塾武術協会」の『馬術の神 「馬櫪尊神」』によれば、『中国から伝播した神で、両剣で馬を守り、猿とセキレイがその使者』であるとし、『セキレイは馬を刺す害虫であるブヨなどを食べてくれる』ことから、また、『馬の「午」は』五行では『火を表』わすのに対し、『猿の「申」は水を表していて、荒馬を鎮めるという意味や、火事から厩舎を守るという意味がある』とする。また『猿は帝釈天の使者という説があり、中国では悪魔退散の意味から崇められていた』ともある。

Barekisonjin

「馬步神(ばほじん)」個人サイト「Eastasian in peninsula.「馬(4) 馬神崇拝」によれば、『馬神又は馬祖という神がいる。馬祖は馬の祖先であるが、これは人間の祖先崇拝を馬にも適応したもので、祖先崇拝と動物崇拝が融合したものである。『詩経』「小雅・吉日」に「既伯既』禱『」とあるが、「伯」は「馬祖」という』。『文献の記載を見ると周代には既に馬祖崇拝の習俗は存在していた。『周礼』「夏官・校人」によると、「春、馬祖を祭る」とある。それ以外にも周天子の狩や遠征で馬が使用される時には先に馬祖に対する祭祀を行った。馬祖以外にも先牧・馬社・馬歩などの馬に関係のある神を定期的に祭祀することがあった』。『「先牧神」は馬の飼育を始めた者である。「馬社神」は馬に乗り始めた者。「馬歩神」は馬に害をなす神である。先牧・馬社二神は人類のために馬を飼いならし、乗馬を生み出した神なので』、『人々はその恩に感謝してそれを祀る。馬歩神は馬の災厄を司る神なので』、『人々はこれを祭祀して、馬が災厄から免れるようにし、その繁栄を願うのである』。『周代以降歴代の官府はほとんど常に馬神を祭祀する制度を維持してきた。『隋書』「礼儀制」によると』、『仲春は馬祖、仲夏は先牧、中秋は馬社、仲冬は馬歩を祭っていたという。これは『周礼』とも同じである。唐代も馬祖祭祀は行われていたし、それは明清代まで衰えることなく続いた』とあるので、この神は本邦の御霊信仰のような疫病神・鬼神を崇めて鎮めることで限定固有の災厄を防禦する方式で神となったものであることが判る。

『「猿曳駒」の繪札』前回示した生石子神社の守り札のようなもの。

「暹羅(シヤム)」タイ王国の旧名「サヤーム」の漢音写。

「南方熊楠氏報」書簡は今のところ確認出来ないが、後の大正七(一九一八)年『太陽』初出の「十二支考 馬に関する民俗と伝説」の「八 民俗(2)」の終りに、『虎鈐経(こけんけい)』巻一〇に、猴を馬坊内に養(か)えば、患を辟(さ)け疥(かい)を去るとありて、和漢インドみな厩に猴を置く。『菩提場経』に馬頭尊の鼻を猿猴のごとく作る。猴が躁(さわ)ぐと馬用心して気が張る故健やかだと聞いたが、馬の毛中の寄生虫を捫(ひね)る等の益もあらんか。また上述乾闥婆部の賤民[やぶちゃん注:「カンダールヴァ部」と読む。本来はインド神話でインドラ(帝釈天)に仕える半神半獣の奏楽神団を指すが、ここは特異的に実在したそうした演奏と大道藝を見せた下級集団を指しているようである。]など馬と猴に芸をさせた都合上この二獣を一所に置いた遺風でもあろう。一八二一年シャムに往った英国使節クローフォードは、シャム王の白象厩(べや)に二猴をも飼えるを見問うて象の病難除よけのためと知った由』とある。また、寺島良安が「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の「獼猴(さる/ましら)」で明の李時珍の「本草綱目」を引き、『厩の中に母猴〔(ははざる)〕を畜(か)へば、能く馬の病を辟〔(さ)〕く。故に馬留と名づく』とするのに、リンク先で私は相応の注を附しているので、参照されたい。

「馬經(ばけい)」「新刻針醫參補馬經大全」であろう。全四巻。明代に書かれた馬医書らしい。

「安驥集(あんきしふ)」唐代に作られた「司牧療馬安驥集(しぼくりょうばあんきしゅう)」(全七巻・附一巻・六冊)という馬医書。「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 馬(むま)(ウマ)」の私の『張穆仲〔(ちやうぼくちう)〕が「安驥集〔(あんきしふ)〕」』の注とそのリンク先を参照されたい

「口籠(くちかご)」厩舎用具の一つ。馬の口に装着させる摂餌抑制を目的とした籠のこと。古くは竹製であったが、現在は金網製で、寝藁(ねわら)を食べたりする、採食の異常を示す馬に使う。食いのいい馬が定量以上の飼葉(かいば)を食うのを制限するために使う場合もある(JRA公式サイト内の「競馬用語辞典」に拠った)。その「集古十種馬具」(松平定信編)の「猿の首に繩を附けて柱に繋ぎたる所を表はせる」「金物(かなもの)の彫刻」というのは、これ(国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像)装飾性が非常に高いものであることが判る。高松家臣蔵の口籠圖とあるから、嘗ての藩主乗馬用の馬のそれででもあったものであろうか。

「左馬入道義氏朝臣」足利家三代目当主であった足利義氏(文治五(一一八九)年~建長六(一二五五)年)。ウィキの「足利義氏」によれば、『足利義兼の三男。母は北条時政の娘時子』。『三男ながら、正室の北条氏の所生であったため』、『家督を継』いだ。『そのため』、『終生』、『北条氏とは懇意であり、要職には就かなかったものの、和田合戦や承久の乱など、重要な局面において北条義時・泰時父子をよく補佐し、晩年は幕府の長老としてその覇業達成に貢献した。自身の正室にも泰時の娘を迎えており、家督もその子である泰氏に譲っている』。『承久の乱で京(京都府京都市)と鎌倉(神奈川県鎌倉市)の間の東海道の三河国守護職を得て、日本の東西交流を牛耳る立場を獲得した。後に子孫の尊氏が京の六波羅探題を落とした』際、『関東から鎌倉幕府勢が海道を上洛するのを足利家が三河国で阻止できたのも』、この遠い所縁があったことによる。『三河国では源頼政の孫大河内顕綱などを家臣に入れ』、『勢力を拡大し、庶長子の長氏を幡豆郡吉良荘(現在の愛知県西尾市)に住ませて足利氏の分家吉良氏(後に今川氏が分家)を誕生させた』。『三河守護職、陸奥守、武蔵守などを歴任し』た。

「將軍」後注で示すが、これは寛元三(一二四五)年の出来事で、前年に父で第四代鎌倉幕府将軍藤原頼経の譲りによって、彼は僅か六歳で第五代将軍に就任していたのである。

「顯文紗(けんもんさ)」様々な織り出してあるある布地。

「鞘卷(さやまき)」刀の鞘に葛藤(つづらふじ)の蔓などを巻きつけたものを指すが、中世にはその形の刻み目をつけた漆塗りとなっていた。

「能登守光村」幕府御家人で評定衆ともなった三浦光村(元久元(一二〇五)年~宝治元(一二四七)年)は三浦義村四男。ウィキの「三浦光村」によれば、『幼少時代は僧侶にすべく鶴岡八幡宮に預けられ、公暁の門弟となるが、後に実家である三浦氏に呼び戻されたようである』。「吾妻鏡」での光村の初見は建保六(一二一八)年九月であるが、『将軍御所での和歌会の最中に鶴岡八幡宮で乱闘騒ぎを起こして出仕を停止させられた』という不名誉な『記事である。この段階では幼名の「駒若丸」を名乗っており、この後に元服して光村と改名した。「光」の字は烏帽子親子関係を結んだ名越光時から偏諱を受けたものとされている』。貞応二(一二二三)年には『北条重時・結城朝広とともに新将軍・三寅(後の九条頼経)の近習に任じられる。以後』、二十年の長きに渡って『頼経の側近として仕え』、寛元二(一二四四)年に『頼経が息子頼嗣に将軍職を譲ると、光村はこれを補佐する意図を以って鎌倉幕府評定衆の一人に加えられた。光村は武芸に秀でると共に管弦に優れ、藤原孝時から伝授を受けた琵琶の名手であった』。既に見てきた通り、第三代『執権北条泰時が死去すると、幕府は執権北条氏派と将軍派に分裂して対立を続け』、寛元四(一二四六)年に『将軍九条頼経を擁する名越光時ら一部評定衆による』第五代『執権北条時頼排除計画が発覚する』(還元の政変)。『この計画には光時の烏帽子子である光村も加担していたが、時頼は北条氏と三浦氏の全面衝突を避けたいと言う思惑から、光村の問題は不問に付し』、『京に護送される頼経の警護を命じた』。ここでも「吾妻鏡」から引くように、『光村は鎌倉に戻る際に頼経の前で涙を流し、「相構へて今一度鎌倉中に入れ奉らんと欲す」と語り、頼経の鎌倉復帰を誓ったという』。『また、この時に頼経の父で朝廷の実力者である九条道家と通じたとする見方もある。光村は道家を後ろ盾とした反北条・将軍派の勢力をまとめる急先鋒として、北条氏に危険視されていた』。翌宝治元(一二四七)年五月二十八日、妖しくも『頼経が建立した鎌倉五大明王院』を殊更に尊崇厚遇したとあって、「吾妻鏡」の同日の条からは、『これが世を乱す源になったとされ』、同年六月、『ついに鎌倉で三浦一族と北条氏一派との武力衝突が起こると、光村は先頭に立って奮戦し、兄泰村に決起を促すが、泰村は最後まで戦う意志を示さず』、『時頼と共に和平の道を探り続けた。だが総領泰村の決起がないまま』、『安達氏を中心とする北条執権方の急襲を受けた三浦氏側は幕府軍に敗れ、残兵は源頼朝の墓所・法華堂に立て籠もった。光村は「九条頼経殿が将軍の時、その父九条道家殿が内々に北条を倒して兄泰村殿を執権にすると約束していたのに、泰村殿が猶予したために今の敗北となり、愛子と別れる事になったばかりか、当家が滅ぶに至り、後悔あまりある」と悔やんだとされている。光村は兄の不甲斐なさを悔やみ、三浦家の滅亡と妻子との別れを嘆きながら、最後まで意地を見せ、敵方に自分と判別させないように自らの顔中を刀で削り切り刻んだのち、一族と共に自害した(宝治合戦)』。

『「古今著聞集」二十』「古今著聞集」の「巻第二十 魚虫禽獣」の次の条(新潮日本古典集成を参考にした)。

   *

   足利左馬入道義氏の飼ひ猿、能く舞ひて纏頭を乞ふ事

 足利左馬の入道義氏朝臣、美作國より、猿をまうけたりけり。その猿、えもいはず、舞ひけり。入道、將軍の見參に入れたりければ、前(さき)の能登守光村に鼓(つづみ)うたせられて、舞はせられけるに、まことに其の興ありてふしぎなりけり。けんもさの直垂・小袴に、さはらまきさせて[やぶちゃん注:この伝本はこれであるが、「小腹巻」のことか。簡易の腹を蔽う鎧である。版本では柳田の示した「さやまき」である。シチュエーションとしては、ミニチュアの鞘巻の方がいい。]、烏帽子をせさせたりけり。はじめはのどかに舞ひて、末(すゑ)ざまには、せめふせければ、上下、めをおどろかして興じけり。舞ひはてては、必ず、纏頭をこひけり。とらせぬかぎりは、いかにも[やぶちゃん注:どうしても。]いでざりければ、興あることにて、舞はせては、かならず、纏頭をとらせけり。件の猿、やがて、光村あづかりて飼ひけるを、馬屋の前につなぎたりけるに、いががしたりけん、馬に背中をくはれたりけり。そののち、舞ふこともせざりければ、念なきこと、かぎりなし。

   *

これは実は「吾妻鏡」にも載っているのである。寛元三(一二四五)年四月二十一日の条である。

   *

廿一日乙酉。天晴。左馬頭入道正義自美作國領所稱將來之由。獻猿於御所。彼猿舞蹈如人倫。大殿幷將軍家召覽于御前。爲希有事之旨。及御沙汰。教隆云。是匪直也事歟。

やぶちゃんの書き下し文

二十一日乙酉。天、晴る。左馬頭入道正義(まさよし)[やぶちゃん注:義氏の法名。]、美作國の領所より將來の由を稱し、猿を御所に獻ず。彼(か)の猿の舞蹈は人倫のごとし。大殿[やぶちゃん注:頼経。]幷びに將軍家御前に召覽(しやうらん)す。希有(けう)の事たるの旨、御沙汰に及ぶ。教隆[やぶちゃん注:清原教隆。]、云はく、「是れ、直(ただ)なる事に匪(あらざ)るか」と。

    *

当時の正義(義氏)の美作国内の領所は垪和郷(はがごう)で、これは現在の岡山県久米郡美咲町ちょう)中垪和(が)附近と推定される(グーグル・マップ・データ)。清原教隆(正治元(一一九九)年~文永二(一二六五)年)は幕府抱えの儒者。清原頼業(よりなり)の孫で家学の明経(みょうぎょう)道を継ぎ、幕府に仕え、将軍頼嗣及び次代の宗尊親王の侍講となっている。金沢実時を導き、実時の金沢文庫創設に影響を与えた。晩年、京都に帰り、大外記となった。

「今より七百年ばかり前の事實なり」本書は大正三(一九一四)年刊であるから、六百六十九年前。

「郢曲(えいきよく)」平安時代から鎌倉時代にかけての日本の宮廷音楽の内で、「歌いもの」に属するものの総称。語源は春秋戦国時代の楚の首都郢で歌唱されたという卑俗な歌謡に由来する。

「梁塵祕抄」以下は「梁塵秘抄」の「巻第二」に載る一首。新潮日本古典集成版の頭注を参考にして注する。

「御厩(みまや)」「みうまや」の約。

「絆(きづな)」猿を繋ぎ止めておく綱。

「さぞ遊ぶ」「あんな風に、まあ! 遊ぶこと!」。

「常磐(ときは)」新潮日本古典集成版の頭注は『地名か』とする。

「楢柴(ならしば)」楢(ブナ目ブナ科コナラ属 Quercus の総称であるが、その中でも主要な種とされるのあミズナラ Quercus crispula)の木の枝。

「ちうとろ」ひらりひらりと。

「搖(ゆ)るぎて裏返(うらがへ)る」これは思うに、猿がトンボを打つことを言っているのであろう。]

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