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2019/03/11

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(29) 「猿舞由緖」(1)

 

《原文》

猿舞由緖  【猿牽】猿ヲ厩ニ繋グノ風習ニ次ギテ、第二ニ考察スべキハ猿牽卽チ厩ニ來テ猿ヲ舞ハシムル職業ノ事ナリ。今日ニ於テハ猿牽ハ將ニ猿芝居ニ進化セントスルノ觀アレドモ、其本來ノ役目ハ實ニ厩馬安全ノ祈禱ニ外ナラザリシナリ。每年正月三日ノ伊勢兩大神宮ノ猿ノ舞、同ジク禁裏ノ御物始ノ三番ハ、何レノ世ヨリ始マリシカハ知ラズ、兎ニ角猿飼ノ徒ノ眉目トスル所ナリキ〔遠碧軒記上〕。但シ此ニハ厩ノ祈禱ヲ目的トセシコトハ見エザレドモ、其他ノ場合ニハ常ニ武家百姓ノ厩ニ來テ舞ヒシナリ。【猿屋町】德川將軍家ノ出入ノ猿屋ハ淺草猿屋町ニ住セシ瀧口長太夫ナリ。天正十八年入部ノ節ヨリノ由緖アリテ幾度ト無ク城内ニ出頭シテ馬ノ病ヲ祈禱セシ猿屋ナリ。常ノ年ニモ正五九月ノ三度ヅツ大小ノ武家ヲ廻リテ猿ヲ舞ハシム〔彈左衞門書上〕。【厩師】駿府靜岡ニ於テモ猿屋町ト云フ處ニ猿屋惣左衞門ト云フ今川家以來ノ厩師居住セリ〔駿國雜志七〕。【小山氏】紀州ニテハ海草郡貴志村大字梅原ノ大歳神社ノ南ニ猿舞師ノ有名ナル者住ス〔紀伊國續風土記〕。家ノ名ヲ小山ト云フ。單ニ和歌山ノ城下ニ出ヅルノミナラズ、廣ク上方地方ニ於ケル猿引ノ本山タリ。近江犬上郡高宮村ノ猿引式部ハ本名ハ小山右京、彦根井伊家ノ代々ノ猿屋ナリ。藩祖ニ隨伴シテ上野ヨリ來タルト云フ。最初今村小兵衞ノ下ニ附キテ其長屋ニ住ミ、後ニ高宮ニハ移リシナリ。例年正月ノ三日ニハ井伊家御厩ノ祈禱ヲ勤メ、次ニ今村氏ニ行キソレヨリ諸家中ヲ廻ル。【猿能】神武官ヨリ特ニ鳥帽子白丁ヲ許サレ、正月五日禁廷ノ猿能ニハ猿引ノ惣司武井兵庫頭ヲ助ケ五人ノ役者ノ一人タリ。高宮ノ小山右京ハ笛、尾州淸須ノ小山左京ハ太鼓ノ役ナリ云々〔淡海木間攫二〕。【猿屋部落】加賀金澤ノ厩ノ祈禱ハ、越中射水郡二上村ノ山町ト云フ部落ヨリ出ル猿舞之ヲ勤ム。每年正五九月ノ三度先ヅ前田家ノ厩ニ於テ猿ヲ舞ハシメ、ソレヨリ家中村々へモ廻ル。其猿屋ノ名前ハ昔ヨリ七ト呼べリ〔越ノ下草下〕。上杉家ノ猿牽ハ米澤市猿ケ町ニ住スル高田彦兵衞外四人ノ者ナリキ。家祿トシテ御藏米二俵ヅツヲ下サレ、春ハ城へ出デテ御厩ヲ祝ヒ、次ニ御大家ヲ廻リ、町方ニテハ寺島半七郞、在方ニテハ馬持百姓ノ家々ヲ廻リタリ〔米府鹿子四〕。此等ノ由緖アル猿牽ドモハ其後如何ニ成リシヤラン。貴志ノ小山甚兵衞氏ノ末裔ノ如キハ、今モ立派ナル役人ナレドモ、家ノ歷史ハ夙ニ忘却シ了ルト云ヘリ。其他ノ地方ニ至リテハ思フニ一層激烈ナル變遷ヲ經タルナルべシ。

 

《訓読》

猿舞由緖  【猿牽】猿を厩に繋ぐの風習に次ぎて、第二に考察すべきは、猿牽、卽ち、厩に來りて猿を舞はしむる職業の事なり。今日に於いては、猿牽は將に猿芝居に進化せんとするの觀あれども、其の本來の役目は、實に厩馬安全の祈禱に外ならざりしなり。每年正月三日の伊勢兩大神宮の猿の舞、同じく禁裏の御物始(おものはじめ)の三番は、何れの世より始まりしかは知らず、兎に角、猿飼ひの徒の眉目(びもく)[やぶちゃん注:誉れ。名誉。]とする所なりき〔「遠碧軒記(ゑんぺきけんき)」上〕。但し、此(ここ)には厩の祈禱を目的とせしことは見えざれども、其の他の場合には、常に武家百姓の厩に來りて舞ひしなり。【猿屋町】德川將軍家の出入りの猿屋は淺草猿屋町に住せし瀧口長太夫なり。天正十八年[やぶちゃん注:一五九〇年。]入部の節よりの由緖ありて、幾度と無く、城内に出頭して、馬の病ひを祈禱せし猿屋なり。常の年にも、正・五・九月の三度づつ、大小の武家を廻りて、猿を舞はしむ〔「彈左衞門書上」〕。【厩師】駿府靜岡に於いても猿屋町と云ふ處に猿屋惣左衞門と云ふ、今川家以來の厩師、居住せり〔「駿國雜志」七〕。【小山氏】紀州にては、海草(かいさう)郡貴志(きし)村大字梅原の大歳(おほとし)神社の南に、猿舞師の有名なる者、住す〔「紀伊國續風土記」〕。家の名を小山と云ふ。單に和歌山の城下に出づるのみならず、廣く上方地方に於ける猿引の本山たり。近江犬上(いぬかみ)郡高宮村の猿引式部は本名は小山右京、彦根井伊家の代々の猿屋なり。藩祖に隨伴して上野(かうづけ)より來たると云ふ。最初、今村小兵衞の下に附きて、其の長屋に住み、後に高宮には移りしなり。例年正月の三日には井伊家御厩の祈禱を勤め、次に今村氏に行き、それより諸家中を廻る。【猿能】神武官より、特に鳥帽子・白丁(はくちやう)を許され、正月五日、禁廷の猿能には猿引の惣司(さうじ)武井兵庫頭(ひやうごのかみ)を助け、五人の役者の一人たり。高宮の小山右京は笛、尾州淸須(きよす)の小山左京は太鼓の役なり云々〔「淡海木間攫(あふみこまざらへ)」二〕。【猿屋部落】加賀金澤の厩の祈禱は、越中射水(いみづ)郡二上(ふたがみ)村の山町と云ふ部落より出づる猿舞、之れを勤む。每年、正・五・九月の三度、先づ、前田家の厩に於いて猿を舞はしめ、それより、家中・村々へも廻る。其の猿屋の名前は、昔より、「七」と呼べり〔「越の下草」下〕。上杉家の猿牽は米澤市猿ケ町に住する高田彦兵衞外四人の者なりき。家祿として御藏米二俵づつを下され、春は城へ出でて御厩を祝ひ、次に御大家を廻り、町方にては、寺島半七郞、在方にては馬持百姓の家々を廻りたり〔「米府鹿子」四〕。此等の由緖ある猿牽どもは、其の後。如何に成りしやらん。貴志の小山甚兵衞氏の末裔のごときは、今も立派なる役人なれども、「家の歷史は夙(つと)に忘却し了(をは)る」と云へり。其の他の地方に至りては、思ふに、一層、激烈なる變遷を經たるなるべし。

[やぶちゃん注:我々はこの文章を読む時、ここに記された猿牽きに従事した人々が、社会的に差別されていた事実を見落とさずに読まねばならないし、そうした批判的観点以外の興味で読むことは厳に慎まねばならないことを言い添えておく。

「淺草猿屋町」現在の台東区浅草橋二・三丁目附近(グーグル・マップ・データ)。サイト「江戸町巡り」の「浅草猿屋町」に詳しい。『往古は豊島郡峡田領鳥越村のうちで』、寛文七(一六六七)年に『町屋となった。「往古武州豊島郡峡田領鳥越村と申候由にて、寛文七庚午年中町屋に被仰付候処、如何の訳にて猿屋町と相唱候哉相知不申候。尤土地にて申伝候には、越後國猿屋村より罷越候者にて、猿屋加賀美太夫と申舞太夫にても御座候哉、右の者往古当所に住居罷在候由、其後町屋に被仰付候ても里俗に猿屋と相唱、自然町名相成候由」』とあり、『町名の由来には』二『説あって、越後猿屋村から出て来た猿屋加賀美太夫が住んでいたから』『とも、猿引き(猿回し)が多く住んでいたから』(「江戸志」)『ともいわれる』とあり、現存する『加賀美稲荷は』その『加賀美太夫に由来』するともある。

「彈左衞門書上」「彈左衞門」は江戸時代の被差別民であった穢多・非人身分の頭領で、江戸幕府から関八州(水戸藩・喜連川藩・日光神領などを除く)と伊豆全域及び甲斐都留郡・駿河駿東郡・陸奥白川郡・三河設楽郡の一部の被差別民を総て統轄する権限を与えられ、触頭(ふれがしら)と称し、全国の被差別民に号令を下す権限をも与えられていた人物が代々名乗った通称である。幕府は「穢多頭(えたがしら)」と呼んだが、自らは代々「長吏頭(ちょうりがしら)矢野弾左衛門」と称した。また、浅草を本拠としていたため、「浅草弾左衛門」とも呼ばれた。私の大学時代の先輩(現在では関東でも知られた神社の神主である)は彼をよく研究しておられた。

「海草(かいさう)郡貴志(きし)村大字梅原の大歳(おほとし)神社」これは現在の和歌山市梅原にある(おおし)神社であろう(グーグル・マップ・データ)。和歌山城の紀の川を隔てた北西である。

「近江犬上(いぬかみ)郡高宮村」現在の彦根市高宮町(グーグル・マップ・データ)。

「彦根井伊家の代々の猿屋なり。藩祖に隨伴して上野(かうづけ)より來たると云ふ」慶長五(一六〇〇)年、当時、徳川四天王の一人とされ、上野(こうずけ)高崎城主であった井伊直政は、「関ヶ原の戦い」の戦功により、十八万石に加増された上、故石田三成の居城であった佐和山城に入封、佐和山藩を立藩している。

「白丁(はくちやう)」「はくてい」とも読む。下級武士の着用する狩衣の一種。白の布子張りであったので「白張」とも書いた。また、律令制の諸官司・神社・などに配属されて雑務を行う無位無官の者や、諸家の傘持・沓持・口取などの仕丁(しちょう:平安以降、貴族の家などで雑役に従事した下男)がこれを着たところから、彼らを指して、かく呼称もした。白丁から官途に就いても、主典(さかん)級で頭打ちであった。

「越中射水(いみづ)郡二上(ふたがみ)村の山町」現在の富山県高岡市二上谷内(やち)にある二上射水神社附近(グーグル・マップ・データ)。因みに、その地図の右上に伏木矢田新町という地名が見えるであろう。ここが私が昔、住んでいた場所である。

「米澤市猿ケ町」不詳。

「町方にては、寺島半七郞、在方にては馬持百姓の家々を廻りたり」ここ在方を廻った人名が脱落している感じがする。]

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