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2019/03/15

頭巾二つ 於千代田艦 國木田獨步

 

  頭 巾 二 つ   於千代田艦

 

 吾(わ)が艦隊(かんたい)、黃海(くわうかい)の最北(さいほく)にかゝりて、第二軍(ぐん)の上陸(じやうりく)を護衞(ごゑい)しつゝある時、たまたま千代田艦長(いよだかんちやう)内田(うちだ)正敏君の夫人(ふじん)より一個の荷物(にもつ)、良人の(りやうじん)もとに到着(たいちやく)したり。靑木と稱する艦長(かんちやう)ボーイ、艦長室(かんちやうしつ)にて艦長の目前(めのまへ)に此の荷物(にもつ)をときぬ。吾(われ)傍(かたはら)に在りて之を見(み)たり。防寒用(ばうかんよう)の頭巾(づきん)一個荷物(にもつ)のうちより出でぬ。已にして又た一個(いつこ)出でぬ。一個は夫人(ふじん)殊(こと)に艦長ボーイに贈(おく)られたる也。艦長ボーイ年の頃は十五六、常にまめまめ敷(しく)艦長(かんちやう)に仕(つか)ゆ。吾れひそかに夫人の優(やさ)しき心(こゝろ)をくみて此の歌(うた)を作(つく)る。

 

吾(わ)が夫(つま)は

遠(とほ)き波路(なみぢ)を、  ゆきゝして、

勇者(つはもの)どもと、     もろともに、

勇者(つはもの)どもの、     かしらして、

御國(みくに)のためと、     はげみます、

懷(おも)ふや速(はや)き、   夫(つま)の身(み)の上(うへ)。

 

北(きた)の海(うみ)

吹(ふ)きすさぶなる、      潮風(しほかぜ)を、

如何(いか)にわが夫(つま)、  しのぎ給(たま)ふらむ

思(おも)へばいとゞ、      すきまもる

都(みやこ)の風も        身(み)にぞしむ。

 

いくさ人(びと)とは、      言(い)いながら、

さぞや不自由(ふじいう)に、   いますらん。

遠(とほ)きうみ山(やま)、   へだつれば、

朝(あさ)な夕(ゆふ)なの    かしづきも

思(おも)ふにまかせぬ、     女子(をなご)の身(み)、

たのむは夫(つま)の       傍(かたは)らに

はべると聞(き)きし       童(わらべ)のみ

 

生(い)くるも夫(つま)と    もろともに、

死(し)するも同(おな)じ、   波(なみ)のそこ、

哀(あは)れの童(わらべ)、   なつかしや。

 

夫(つま)思(おも)ふ

吾(わ)れさへあるに、      いかならむ、

童(わらべ)が母(はゝ)の、   心根(こゝろね)は、

ともに女子(をなご)の、     身(み)にしあれば、

思(おも)ふこゝろの       變(かは)らめや。

妻(つま)の心(こゝろ)の、   深(ふか)ければ

母(かゝ)の心(こゝろ)ぞ    いや深(ふか)き。

 

此(こ)の頭巾(づきん)、

夫(つま)に送(おく)らん    其(そ)のつてに、

童(わらべ)がためと、      今(いま)一(ひと)つ、

同(な)じ包(つゝ)みに、    封(ふう)じたり。

 

たまを霰(あられ)の、      艦(ふね)のうへ。

霰(あられ)をたまの、      北(きた)のうみ。

氷(こほ)るしぶきの、      そのなかに、

夫(つま)も童(わらべ)も    もろともに、

たゞ安(やす)かれと       祈(いの)るなり。

 

【★ルビ排除正規本文字配版】

 

 頭 巾 二 つ   於千代田艦

 

 吾が艦隊、黃海の最北にかゝりて、第二軍の上陸を護衞しつゝある時、たまたま千代田艦長内田正敏君の夫人より一個の荷物、良人のもとに到着したり。靑木と稱する艦長ボーイ、艦長室にて艦長の目前に此の荷物をときぬ。吾傍に在りて之を見たり。防寒用の頭巾一個荷物のうちより出でぬ。已にして又た一個出でぬ。一個は夫人殊に艦長ボーイに贈られたる也。艦長ボーイ年の頃は十五六、常にまめまめ敷艦長に仕ゆ。吾れひそかに夫人の優しき心をくみて此の歌を作る。

 

吾が夫は

遠き波路を、    ゆきゝして、

勇者どもと、    もろともに、

勇者どもの、    かしらして、

御國のためと、   はげみます、

懷ふや速き、    夫の身の上。

 

北の海

吹きすさぶなる、  潮風を、

如何にわが夫、   しのぎ給ふらむ

思へばいとゞ、   すきまもる

都の風も      身にぞしむ。

 

いくさ人とは、   言いながら、

さぞや不自由に、  いますらん。

遠きうみ山、    へだつれば、

朝な夕なの     かしづきも

思ふにまかせぬ、  女子の身、

たのむは夫の    傍らに

はべると聞きし   童のみ

 

生くるも夫と    もろともに、

死するも同じ、   波のそこ、

哀れの童、     なつかしや。

 

夫思ふ

吾れさへあるに、  いかならむ、

童が母の、     心根は、

ともに女子の、   身にしあれば、

思ふこゝろの    變らめや。

妻の心の、     深ければ

母の心ぞ      いや深き。

 

此の頭巾、

夫に送らん     其のつてに、

童がためと、    今一つ、

同じ包みに、    封じたり。

 

たまを霰の、    艦のうへ。

霰をたまの、    北のうみ。

氷るしぶきの、   そのなかに、

夫も童も      もろともに、

たゞ安かれと    祈るなり。

 

 

[やぶちゃん注:冒頭の詞書は底本では全体が詩篇本文ポイントで二字下げとなっているが、ブラウザの不具合を考えて引き上げた。詩本篇では、一行で上下に分割されてある箇所は、底本では総て、下の文字列がインデントされてある。ルビではなく、読みを添えているため、やはりブラウザの不具合を最小限とするため、その字間を第二行目で下方詩句を違和感のないぎりぎり二字下げ開始にした、その位置に後を合わせざるを得なかった。そこで、後にルビを排除して正規表現形式とした原型に近いものを特異的に示した。また、第三連一行目の「言(い)いながら」はママである。

 ここより底本の「拾遺」パートに入り、時制が戻る本詩篇の発表は明治二七(一八九四)年十一月二十五日発行の『家庭雜誌』で、署名は「國木田哲夫」。現在知られている國木田獨步の詩篇の内、生前に公開され、且つその初出が判明している詩篇としては、最も古い詩篇(但し、年譜で見ると、後の新体詩「竹取物語」等の創作開始時期は本詩篇の発表より遙かに先立つし、その間にも前掲の「獨步吟」詩篇群の草稿創作を行っているので、単に発表時制が最古であるだけであり、これが彼の詩の出発点であったわけではさらさらないので注意されたいである。この年、國木田獨步(当時、二十三歳)は九月中旬に『國民新聞社』に入社していたが、早くもその半月後の十月一日、日清戦争に海軍従軍記者の話を受けて快諾、同十三日新橋を出、広島・佐世保を経て、同十九日夕刻、大同江(だいどうこう/テドンガン:現在の朝鮮民主主義人民共和国北西部を流れる川)で軍艦千代田に乗艦、以後、同艦は大連湾での転戦から翌明治二十八年五月五日の呉への帰還までの間(但し、途中で数日、同艦は長崎にドッグ入りで戻ったりはしている)、弟収二に宛てた文体の戦況ルポルタージュ「愛弟通信」(没年の十二月に纏められて発行されたものが国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像で全篇読める)をとして発表し、『國民新聞』の記者「國木田哲夫」として一躍、有名となったのであった。なお、従軍中の「千代田」から、友人で文学仲間の新聞記者田村三治(さんじ:この獨步出発の直前である七月七日中央新聞社に入社し、後に主筆となった)に当てた彼の書簡(十一月十四日附)を国立国会図書館デジタルコレクションの画像で読むことが出来る。

 彼が乗艦した、巡洋艦「千代田」は日本海軍がイギリスに発注建造されたもので、命名は明治二一(一八八八)年九月で、日本に回航され、横須賀に到着したのは明治二十四年四月。日清戦争では黄海海戦や大連・旅順・威海衛・澎湖島攻略作戦などに参加、後の日露戦争では仁川沖海戦・旅順攻略作戦・日本海海戦・樺太作戦などに参加した。第一次世界大戦では青島攻略戦に参加し、後にマニラへ派遣され、中国沿岸水域の警備に従事、大正八(一九一九)年から翌年にかけて呉工廠で潜水母艦に改造され、海防艦から水雷母艦に類別変更され、翌年、軍艦籍から除籍されて潜水艦母艇となった。大正一三(一九二四)年十二月、除籍されて雑役船に編入、練習船に指定されて海軍兵学校附属となったが、昭和二(一九二七)年二月に廃船となり、撃沈処分が下され、同年八月三日午後、豊後水道沖合で空母鳳翔航空隊及び水上機母艦能登呂航空隊の爆撃演習の標的艦として沈没している。以上はウィキの「千代田防護巡洋艦に拠ったが、獨步乗艦当時の本篇に出る艦長は内田正敏大佐(嘉永四(一八五一)年~大正一一(一九二二)年)であった(彼の経歴はウィキの「内田正敏を参照されたい)。

 第一連五行目のの「はげみます、」の「ます」は古語「坐(座)す」で「あり・をり」の尊敬語であって、口語の丁寧語表現ではないので、若い方は誤読されぬように。]

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