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2019/03/20

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(38) 「河童の神異」(4)

《原文》

 【水神】水神ト河童トハ假ニ一步ヲ退キテ最初ヨリ別物ナリトスルモ、少ナクモ牛馬ノ災ヲ避クル爲ニ水神ニ祈禱スルノ風習ノ弘ク行ハレシ事ノミハ事實ナリ。每年春ノ初又ハ夏ノ終ナドニ、牛馬ヲ引キテ川ニ入レ又ハ川原ニ於テ一日遊バシムルコトハ、其一年中ノ災ヲ攘フ爲ナリト信ゼラレ、農家ハ嚴重ニ此行事ヲ勤メタリ。馬少ナキ長門ニテハ牛ニ就キテ盛ニ此事アリ。【牛ノ正月】初春ニ行ハルヽヲ牛ノ正月又ハ牛ノ年越ト云フ。牛祭ト稱シテ二月ニ入リテ此式ヲ舉グル村方アリ。牛神樂又ハ牛申シトモ名ヅケタリ。【牛ノ禁忌】五月五日ト六月晦日ト兩日牛ヲ使ハザル村ハ最モ多シ。【ヒサゴ】大津郡俵山、美禰郡岩永、共和村大字靑景等ニ於テハ、端午以後八朔マデ他鄕ノ牛ノ村ニ入ルコトヲ禁ジ、之ヲ犯シタル者ハ瓢簞ヲ頭ニ被ラセ牛ニ乘セテ村ヲ追放ス。又婦人ヲシテ牛ヲ使ハシメモシクハ農具ヲ掛ケタルマヽ牛ニ川ヲ渡ラシムルコトモ嚴禁ナリ。此等ノ禁條ハ農業ノ爲不利益ナリトテ、俵山ニテハ天明四年ニ畔頭(クロガシラ)等ノ連判ヲ以テ之ヲ廢シタリシモ、尚且ツ人民ノ不安ヲ如何トモスル能ハズ、四十年ノ後再ビ前ヨリモ一層八釜シキ禁止ヲ申合セタリ。此等ノ村々ニテハ六月末日ノ牛ノ休ミヲ夏越(ナコシ)ト云フ。【柱松】所謂柱松ノ行事モ夏越ト關係アリ、之ヲ行ハザレバ牛ノ病難アリト信ゼラレ、此ヲ又牛燈ト稱ス。美禰郡赤鄕村大字赤ニテハ、六月晦日ヲ夏越ト唱ヘ、軒別牛馬ヲ山野ニ繋ギ休息仕ラセ候。同郡眞長田(マナガタ)村大字長田ナドニテハ、此日牛馬ヲ川へ連レ行キ一日休息セシメ候云々。【牛ノ祇園】阿武郡大井村ニテハ六月十五日ヲ牛ノ祇園ト稱シ、村民牛ヲ洗ヒテ地下(ヂゲ)ノ小社へ參詣仕リ、半日一日休息セシメ候ナド、何レモ村村ノ書上ニ見ヘタリ〔以上長門風土記〕。【牛ノ藪入】大阪附近ノ田舍ニテハ五月五日ヲ牛ノ藪入ト云フ。【鞍】例年此日ハ梅田堤へ近在ノ飼牛ニ新シキ鞍ヲ置キ、肩ニ色々ノ花ヲ結ビ附ケテ、朝ノ五ツ時ヨリ一時バカリ此邊ノ野ニ放チ、ヤガテ牛ノ心ノマヽニ家路ニ還ル。農民粽ヲ數多持來リテ見物ノ人ニ之ヲ蒔散ラス。【疱瘡】之ヲ得テ歸レバ小兒ノ疱瘡輕シトテ爭ヒテ拾ヒ取ル〔攝陽落穗集二〕。是レ今ヨリ百年バカリ前迄ノ風習ナリ。【牛カケ】或ハ又之ヲ「牛カケ」トモ謂フ〔攝陽見聞筆拍子三〕。紀州奧熊野ニ行ハルヽ「牛カケ」ハ、普通田植ノ後ニ田地ノ一部ヲ區劃シテ之ヲ行フ。其有樣餘程競馬ナドノ興行物ニ近クナレリ〔鄕土硏究一ノ五號川口氏〕。端午ノ日ノ競馬ハ必ズシモ賀茂社ノ模倣ノミニハ非ザルべシ。現在ハ如何ニモアレ、其最初ノ動機ハ亦此邊ニ存スルニハ非ザルカ。【洗馬】之ニ由リテ思フニ全國ニ數多キ洗馬(セバ)又ハ馬洗淵ナド云フ地名ハ、昔某ト云フ武人ガ愛馬ヲ洗ヒタル古跡ナドト說明スルモ、恐クハ皆信仰ノ根ヲ絕ヤシタル馬ノ神ノ舊祭場ニシテ、曾テハ例年ノ或日馬ヲ此地ニ曳キ來リ之ヲ洗ヒテ祈禱ヲ爲セシヨリ起リシナルべシ。彼ノ陸中ノ「牛クヽリ淵」ノ如キモ、牛ヲ繋ギ置キシ水邊ノ地ト解スルコトヲ得。【牛首】牛首ハ卽チ牛絞(ウシクビリ)ノ轉靴ニシテ、「クビル」トハ繋グト云フ方言ナラン。牛クビリ淵ト云フ地名モ亦多シ。多クノ牛池駒ケ池ノ類モ、此ノ如ク說明スルトキハ其傳說ノ全然夢語リニ非ザルコトヲ知リ得べキナリ。

《訓読》

 【水神】水神と河童とは、假に一步を退きて、最初より別物なりとするも、少なくも、牛馬の災ひを避くる爲に水神に祈禱するの風習の、弘く行はれし事のみは事實なり。每年春の初め又は夏の終りなどに、牛馬を引きて、川に入れ、又は、川原に於いて一日遊ばしむることは、其の一年中の災ひを攘(はら)ふ爲なりと信ぜられ、農家は嚴重に此の行事を勤めたり。馬少なき長門にては、牛に就きて盛んに此の事あり。【牛の正月】初春に行はるゝを「牛の正月」又は「牛の年越」と云ふ。「牛祭」と稱して、二月に入りて此の式を舉ぐる村方あり。「牛神樂」又は「牛申し」とも名づけたり。【牛の禁忌】五月五日と六月晦日(みそか)と、兩日、牛を使はざる村は、最も多し。【ひさご】大津郡俵山、美禰(みね)郡岩永、共和村大字靑景等に於いては、端午以後、八朔(はつさく)まで、他鄕の牛の村に入ることを禁じ、之れを犯したる者は、瓢簞を頭に被らせ、牛に乘せて、村を追放す。又、婦人をして牛を使はしめ、もしくは農具を掛けたるまゝ、牛に川を渡らしむることも、嚴禁なり。「此等の禁條は農業の爲、不利益なり」とて、俵山にては、天明四年[やぶちゃん注:一七八四年。「天明の大飢饉」は天明二年から八年までであるから、この仕儀は理解出来る。]に畔頭(くろがしら)[やぶちゃん注:長州藩に於ける庄屋の補佐役の呼称。]等の連判を以つて、之れを廢したりしも、尚ほ且つ、人民の不安を如何ともする能はず、四十年の後[やぶちゃん注:単純加算なら文政七(一八二四)年。]、再び、前よりも一層八釜(やかま)しき禁止を申し合せたり。此等の村々のては、六月末日の牛の休みを「夏越(なこし)」と云ふ。【柱松】所謂、「柱松(はしらまつ)」の行事も「夏越」と關係あり、之れを行はざれば、牛の病難(びやうなん)ありと信ぜられ、此れを又、「牛燈」と稱す。美禰郡赤鄕村大字赤にては、六月晦日を「夏越」と唱へ、『軒別(けんべつ)[やぶちゃん注:一軒ごと、それぞれの農家が総て各個に行うこと。]、牛馬を山野に繋ぎ、休息仕らせ候』。同郡眞長田(まながた)村大字長田などにては、『此の日、牛馬を川へ連れ行き、一日(いちじつ)休息せしめ候』云々。【牛の祇園】阿武郡大井村にては、六月十五日を「牛の祇園」と稱し、『村民、牛を洗ひて、地下(ぢげ)の小社へ參詣仕(つかまつ)り、半日・一日休息せしめ候』など、何れも、村村の書上に見へたり〔以上、「長門風土記」〕。【牛の藪入】大阪附近の田舍にては、五月五日を「牛の藪入」と云ふ。【鞍】例年、此の日は、梅田堤へ、近在の飼牛に新しき鞍を置き、肩に色々の花を結び附けて、朝の五ツ時[やぶちゃん注:不定時法で午前七時前。]より一時(いつとき)[やぶちゃん注:現在の二時間相当。]ばかり、此の邊りの野に放ち、やがて牛の心のまゝに家路に還る。農民、粽(ちまき)を數多(あまた)持ち來たりて、見物の人に之れを蒔き散らす。【疱瘡】之れを得て歸れば、小兒の疱瘡[やぶちゃん注:天然痘。]輕しとて、爭ひて拾ひ取る〔「攝陽落穗集」二〕。是れ、今より百年ばかり前までの風習なり。【牛かけ】或いは又、之れを「牛かけ」[やぶちゃん注:「牛驅(うしか)け」。]とも謂ふ〔「攝陽見聞筆拍子」三〕。紀州奧熊野に行はるゝ「牛かけ」は、普通、田植えの後に、田地の一部を區劃して、之れを行ふ。其の有樣、餘程、競馬などの興行物に近くなれり〔『鄕土硏究』一ノ五號、川口氏〕。端午の日の競馬は、必ずしも賀茂社の模倣のみには非ざるべし。現在は如何にもあれ、其の最初の動機は亦、此の邊りに存するには非ざるか。【洗馬】之れに由りて思ふに、全國に數多き「洗馬(せば)」又は「馬洗淵(うまあらひぶち)」など云ふ地名は、昔、某(なにがし)と云ふ武人が愛馬を洗ひたる古跡などと說明するも、恐らくは皆、信仰の根を絕やしたる、馬の神の舊祭場(さいじやう)にして、曾ては例年の或る日、馬を此の地に曳き來たり、之れを洗ひて、祈禱を爲せしより起りしなるべし。彼の陸中の「牛くゝり淵」のごときも、牛を繋ぎ置きし水邊の地と解することを得。【牛首】牛首は、卽ち、「牛絞(うしくびり)」の轉靴にして、「くびる」とは「繋ぐ」と云ふ方言ならん。「牛くびり淵」と云ふ地名も亦、多し。多くの「牛池」・「駒ケ池」の類ひも、此(か)くのごとく說明するときは、其の傳說の、全然、夢語りに非ざることを知り得べきなり。

[やぶちゃん注:「大津郡俵山」現在の山口県長門市俵山(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「美禰(みね)郡岩永」現在の山口県美祢市秋芳町岩永本郷及びその周辺

「共和村大字靑景」現在の秋吉台北西部分を含む山口県美祢市秋芳町青景

「八朔(はつさく)」旧暦八月朔日(ついたち)ので当日に行われた行事の名でもある。「田の実節供」とも称し、農家では豊作を祈って稲の穂出しや穂掛けを行う。一般には「憑(たの)む」の意味でこの日に「八朔の贈答」を行った。本来は、中世、武家で行われたものが民間に広まったもので、贈答には元は新米を用いた。また、近畿一帯では「八朔休み」と称し、この日から昼寝をやめて、夜なべ仕事が始まった(平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。

「瓢簞を頭に被らせ、牛に乘せて、村を追放す」無論、この「牛」はその他鄕から侵入した邪気(疾患:家畜の伝染病を考えれば、これはかなり腑に落ちる禁忌であるとも言える)を持っていると考えられた牛であろう。これは「虫送り」などと同じシステムとして理解可能であるが、問題は「瓢簞を頭に被らせ」るという仕儀である。瓢簞は中が空洞であることから、異界へ通底する呪具として原始社会ではしばしば用いられるもので、しかもシャーマンや邪神や魔魅(まび)に仮装する仮面の素材としても知られることから、ここではその禁忌を侵した者を運命共同体を危うくした存在としてスポイルするための仕儀、則ち、異邦人として「追放」することの呪的アイテムなのだと私は解釈する。仮面を被って村を追放されるだけでもよしとすべきである。より古い時代には恐らく殺されていたはずだから。

「夏越(なこし)」ここに限らず、全国的に行われてきた旧暦六月三十日の祓いの祭事。「名越」とも書き、「水無月の大祓い」と称して、古くから宮中を始め、民間においても忌み日として祓いの行事が行われた。この日、「輪くぐり」といって、氏神の社前に設けた大きな茅(ち)の輪をくぐって災厄を祓う儀式が一般的には知られる。宮廷においても故実として清涼殿で行われたことは「御湯殿上日記(おゆどののうえにっき)」などで確認出来る。神社からは氏子の家に紙人形(かみひとがた)を配布し、それに氏名・年齢を記して、御宮に持参して祓って貰う形式をとることが多い。この時期は農家にとって稲作や麦作などに虫害・風害などを警戒する大事な時に当たることから、他にも多様な祓いの行事が行われている。藁人形を作り、太刀を持たせて水に流す地方もあり、小麦饅頭や団子を作って農仕事は休む。中国地方から北九州にかけて海辺の地方では、海に入って禊をし、牛馬をも海に入れて休ませたりした。長崎県壱岐島では「イミ」と称し、斎忌を厳重に守る。一方で、熊本県天草諸島では、この日だけは河童が出ないと言い伝えて自由に海に入って泳ぐという(以上は主文を小学館「日本大百科全書」に拠ったが、最後の個所は別史料で天草諸島を確認した)。

「柱松(はしらまつ)」主に西日本周辺と信州周辺で七夕や盆に行われる儀式。竹や柴草で太く高い柱を作って立て、頂上に幣(ぬさ)や榊(さかき)を挿し、これに下から火を投げ上げて点火し、その様子から秋の収穫の吉凶を占う呪的な行事であった。別名「柱松明」「投げ松明」「上げ松明」などとも呼ばれる。

「牛燈」読みは「ぎうとう」か。盆行事に関わる学術論文の中に登場するのを確認は出来たが、ルビが振られておらず、当該行事の解説もなかったので、よく判らぬ。

「美禰郡赤鄕村大字赤」現在の山口県美祢市美東町(みとうちょう)赤(あか)

「同郡眞長田(まながた)村大字長田」山口県美祢市美東町真名周辺と思われる。

「阿武郡大井村」山口県萩市大井と思われる。

「梅田堤」近松門左衛門の名作「曽根崎心中」で、お初と徳兵衛が道行した場所として知られる梅田堤は、古くからの墓地として有名であった「梅田墓」に通じ、現在のJR大阪駅附近に相当する。

「今より百年ばかり前」本「山島民譚集」初版は大正三(一九一四)年七月刊であるから、機械的計算では文化一一(一八一四)年前後となる。

「賀茂社の模倣」滋賀県近江八幡市の賀茂神社で行われる神事「足伏走馬(あしふせそうめ)」の真似という謂い。同神社は奈良時代の天平八(七三六)年に聖武天皇によって創建されたもので、ウィキの「賀茂神社(近江八幡市)」によれば、『白村江の戦いの後、天智天皇が「これからは騎乗技術の発展と馬匹の繁殖が大事」と考え、賀茂神社の地に国営牧場を造った』ことから、馬との関係が深く、今も『「馬の聖地」として崇敬が寄せられ』ている。『創建時より、御料地「御猟野(みかりの)」として、猟や競馬が行われていた。さらに、平安時代に始められた京都上賀茂神社の競馬会神事を』、『後白河上皇の意により』、『当地でも継承し』ている。『例祭賀茂祭では、およそ』四百メートル『の直線の馬場を用いて』、七『頭の馬により』、二『頭ずつ 』七『回の競走を行い、上賀茂神社の競馬会に参加する馬を決する神事「足伏走馬』」『が行われる』とある。]

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